こんこん。
上品で丁寧なノックの音が部屋の中に響く。
たった、たったそれだけのことなのに、心臓が高鳴る。ノックに応えるように大きく揺れ動く。
無意識に、右手が心臓の辺りを掴む。
小さく息を吸う。
右手も不自然ではない位置に下ろす。
胸の中で大きく動く物があるけど、それは意識に入れないようにする。
「……いいよ。入ってきても」
そうして、普段通りの私を作り出して扉の向こう側へと声をかける。
いつものこと。
だから、平然な振りをすることには慣れていた。いつでも平然な振りをすることができるようになっていた。
そうしなければいけない。
そうすることができるようにならなければならなかった。
なぜなら、私が胸を高鳴らせてしまっているのは――
「こんばんは、フラン」
――私の、お姉様、なのだから。
◆
「今日は、咲夜が林檎をたくさん買ってきてくれたから、アップルパイを焼いてみたわ」
見惚れてしまうくらいに魅力的な笑顔を浮かべながら、ワゴンに乗っていた大皿をテーブルの上に置く。その上には、焼きたてなのか、かすかに湯気を揺らす蜜色のアップルパイが乗っている。
ゆらゆらと甘い香りが広がる。甘い甘い、けどそれだけではなく自然な優しい香りが混じっている。
単調ではない。いくらでも楽しんでいられそうだ。
私が出来映えに惚れ惚れとしている間に、お姉様は大皿の周りに二枚のお皿を並べる。テーブルとお皿の触れ合う音は聞こえてこない。聞こえてくるのは、お姉様の着ている洋服同士がこすれる音だけだ。
お姉様は、とても手際がよく丁寧なのだ。
洗練された動きに、つい見惚れてしまう。
お皿を並べ終えると、ワゴンのところへと戻る。今度はナイフを手に取り、大皿に乗ったアップルパイを切り分け始める。
二等分、四等分。さくり、さくりとパイの美味しさが音として伝わってくる。切った部分からパイ生地がぽろぽろと落ちて、リンゴの甘煮の上にまぶされる。
更にナイフが二度入り、八等分となる。
それから、アップルパイの下へとナイフを滑り込ませ持ち上げる。断面から、シロップが流れ出て大皿の上にぽたぽたと落ちている。甘い物が好きな私のためにうんと甘くしてくれているのだ。
それを、お皿へと乗せる。その動作もとても丁寧で、音は立たない。
「いつもどおり、とっても美味しそうだね」
私の前に置かれたとき、自然とそう言っていた。
毎回のようにこう言っているような気がするけど、何度言ったって足りない。私は、何度だってお姉様を賞賛したい。
「それはそうよ。フランの為に美味しくなるように作ったんだから」
その言葉に、意識を奪われてしまう。
私のためという言葉が、どうしようもないくらいに嬉しい。そこに私の望む感情が一切込められていないのだとわかっていても、関係なくどきどきとしてくる。
「そっか、ありがと」
笑みを浮かべながらお礼を言う。
言いたいことは色々あるけど、あんまり喋りすぎると何を口走ってしまうかわからない。
まあ、私はどちらかというと喋るときは考えすぎるくらいだから、失言をするようなことはないと思う。けど、会話の途中で妙な間を生み出してしまう可能性は大いにある。
だから、私の内から溢れてきそうになっている感情は押さえ込む。長い間この感情と付き合っているから、最初の頃に比べればずいぶんと御しやすくなってきた。
この感情に気づいたばかりの頃は、お姉様の顔を見ながら話す余裕もなかった。あの頃の私をお姉様はどういうふうに見ていたんだろうか。余裕のなかった私が見た限りでは不審には思われてなかったと思う。そんな主観に信憑性があるかと聞かれれば、ないと断言することができるけど。
実際にどうだったのか気になる。けど、聞くことはできない。どうやって聞き出せばいいからわからない。
私の感情を隠しながら上手く説明できる自信がないのだ。
「別に、お礼なんていいわよ。貴女に喜んで欲しくて作ったんだもの。言葉よりは、嬉しそうに食べてくれる姿を見せてくれれば十分だわ」
なんでもないことのように言って、またワゴンの方へと戻っていく。
私にとって、お姉様の一言一言は強烈すぎる。それだけ、お姉様が私のことを愛してくれているという証なんだけど、いかんせん何度も言われていると耐えられなくなってしまいそうだ。
お姉様がこちらに背を向けている間に、胸に手を当て息を吸う。そうして、少しでも気持ちを落ち着けようとする。
ワゴンの傍へと戻ったお姉様は、ティーポットから紅茶を注ぎ始める。私の心の揺れには気づいていないようだ。
頬杖をついてお姉様の姿を眺める。さっきの一息で心は落ち着きを取り戻している。
お姉様が紅茶を注ぐ姿はとても様になっている。内にある気品が滲み出てきているようだ。とても遠い存在のように思える。
けど、誰よりも近しい存在であることをわかっているから、不安にはならない。そんな雰囲気を醸し出せるお姉様への尊敬の念が高まるだけだ。
ずっと、いつまでも眺めていられそうだ。
静かな部屋の中に響くのは紅茶がカップへと注がれていく音だけ。耳朶が心地よく揺らされる。
私にとっての至高の穏やかさがここにある。ほわりとした幸せが、胸の中に広がっている。
「……よくよく考えてみると、さっきのは自惚れすぎだったかしらね。まあ、気にせず食べてちょうだい。美味しくなかったら、今度は美味しくできるように頑張るから」
カップに紅茶を注ぎ終わった頃、少し気恥ずかしそうに言う。
そういう態度を取らなくてもいいのにと思う。私がお姉様の作った物を食べて嬉しくならないなんてことがあるだろうか。いや、そんなことは決してない。
だというのに、少々自信がなさそうにしているお姉様が少し許せない。自信に溢れているお姉様を見ていたいわけではないけど、自分自身を過小評価している姿は見たくない。私が、一番誰よりもお姉様のことを評価しているから。
「自惚れなんてことはないよ! お姉様が今まで作ってくれたお菓子はとっても美味しかった。だから、今回も絶対に美味しいよ!」
だから、テーブルに手を突いて立ち上がり力説した。当然、お皿の置いてある部分は避けて、アップルパイをひっくり返してしまわないように配慮した。
「ありがとう。そう言ってくれて嬉しいわ」
ふわりと微笑みを浮かべてくれた。
いつまでも見ていたい綺麗な表情だった。
「でも、はしたないから、大人しく座りなさいな」
けど、すぐにそれは苦笑へと変わった。子供をたしなめる母親のようだ。実際の母親はそんなことしてくれなかったけど、本から寄り集めた印象からそう思う。
「はーい」
十分に見ていられなかったことに不満を抱きながらも、言われたとおりに座る。
今はしっかりと見ていることができなかった。だけど、私がお姉様の作ったアップルパイを食べれば、私の見たい表情に近いものを浮かべてくれるだろう。
私がお姉様の作った物を食べて喜ぶの確定事項であり、お姉様もきっとそんな私の様子を感じ取ってくれる。そうすれば、きっとお姉様も喜んでくれるだろう。今までの経験から、そう思う。
お姉様の反応がとても楽しみになってきた。とくとくと、心臓が高鳴っているのがわかる。
「なんだか、最近は自己主張が激しくなってきたわね。まあ、成長したその結果だというなら嬉しい限りだわ」
紅茶の入ったティーカップをそれぞれの前に置きながら言う。私の前に紅茶を置くときに嬉しそうな笑顔が間近にあって、すごくどきどきとした。
「そんなことないよ。私は、謙虚すぎるお姉様のことが許せないだけ。成長なんてしてないよ」
私は、今も昔もお姉様のことに関して以外は、あれこれと言えない。それは、私が何も変わらず、何も知らないままだからだろう。
いや、正確には変わってる。お姉様への想いが変容し、大きくなって、時々溢れてきている。その一つの形がさっきのような力説だ。
ある意味では成長している。けど、それはお姉様の望んでいる成長とは全く異なっている。
「へえ、そんなことを思ってたのね。けど、それを言うなら貴女だって謙虚すぎやしないかしら? つい最近まで、怯えて全然外に出ようとしてなかったのに、今では一人でも外に出られるようになってるじゃない。これは、成長とは言えないのかしら?」
お茶会の準備が終わり、お姉様が私の向かい側に座る。意志の強そうな紅い瞳が、こちらをまっすぐに見据えている。私を見てくれている。
恥ずかしさに目をそらしそうになってしまうけど、それに耐えてじっと見つめ返す。せっかくこっちを見てくれているのに、目をそらすなんてもったいない。
「それは、成り行きみたいなものだよ。いろいろあって、そのまま習慣付いちゃっただけ」
お姉様への気持ちが抑えれなくて館の中に居づらかった。
どこかに逃げようにも私はこの館しか知らなかった。
そんなとき、図書館を訪れていたお節介が、気分転換と称して私を無理矢理外へと連れ出した。私の気持ちには気づいてなかったと思う。
そうして連れ出されたのがきっかけで、私は外を知って、外の怖さを払拭した。そのまま、外は私の逃げ場所となった。
けど、今はある程度気持ちも整理させて、平然な振りをしていられるようになった。にも関わらず、外に出続けているのは、お姉様との話題を探すためだ。
再びお姉様と向き合って話ができるようになったとき、主に話していたのは私だった。久しぶりに面と向かって話ができることが嬉しかったというのもあるけど、何より外に出ることによって話したいことがいっぱい積もっていたのだ。それに、お姉様が私の話を嬉しそうに聞いてくれていることも私の口を軽くした。
それ以来、私にとっての外へ出かける行為は、お姉様との話の種を見つけてくる行為となったのだ。
だから、お姉様への気持ちの扱い方が変わっただけで、やっぱりお姉様の言う成長というものはしてない。
「外に出るだけでも、十分成長につながるわよ。私の前にいるフランしか見たことがないから、あまり大したことは言えないけど、以前よりもずっと明るくなってると思うわよ。だから、貴女が気が付いていないところで成長してるところもあるんじゃないかしら? そういうものを探しながら行動するというのも面白いかもしれないわよ」
そうなんだろうか。どこかが成長してきているという実感は何一つないのに?
そもそも、自分自身の成長というものに興味がない。だから、それを探してみようという気も起きない。
「お姉様が私の成長した部分を探してみてよ。お姉様は、誰よりも私のことを知ってるから、見つけるのも簡単なんじゃないかな?」
それに、こう言えばお姉様は私のことをもっと見てくれるかもしれない。
「私が? まあ、別にいいけど。でも、貴女、単に面倒くさがってるだけなんじゃないかしら?」
胡乱な瞳でこちらを見てくる。
確かにお姉様の言うとおりだ。だから、怯むことはない。このまま開き直る。
「うん。だって、私自身の成長になんて興味ないから。でも、お姉様は興味を持ってくれてるんでしょ? だったら、お姉様なら細かいところにも気づいてくれるかなって」
本音はお姉様にもっともっと見て欲しい。
ただこれだけだ。お姉様が私の成長に気づいてくれようと気づいてくれまいと関係はない。その紅い瞳に私を映してくれさえすれば満足だ。
「やっぱり貴女変わってきてるわ。昔はここまで図々しくなかったもの」
お姉様が呆れたような表情を浮かべる。けど、どこか嬉しそうだ。
私は、図々しくなってるんだろうか。こちらもやっぱり自覚は全くない。
けど、もしかしたら、気持ちを整理したときにお姉様への遠慮もどこかにやってしまったのかもしれない。少なくとも開き直るのは少し得意になっている気がする。
でも、そんなことはどうでもいい。今は、私よりももっとずっと大切なことがある。
「そうかな? そんなことよりも、早く始めようよ。せっかくのアップルパイと紅茶が冷めちゃうよ」
既に、アップルパイからは湯気が消えてしまっている。このまま放っておけば、パイ生地がしっけて美味しくなくなってしまうだろう。
それは、ゆゆしき事態だ。少々お姉様との会話に集中しすぎていた。けど、悔いはない。お姉様と話をすることもまた、私の楽しみなのだから。
「それもそうね。じゃあ、美味しい間に召し上がってちょうだい」
「うん。いただきますっ」
心を躍らせながら、フォークを手に取った。
◆
口の中に入れたアップルパイの欠片を噛む。
まず、パイ生地のさくさくとした食感。まだ、最高に美味しいときを逃していなかったようだ。
噛んだ部分からは、温かくあまぁいシロップがじわりとこぼれる。口の中に甘さが広がっていく。幸せ度がぐんぐんと上昇してきている。
そして、リンゴのしゃくしゃくとした食感。甘いシロップの中では、甘煮にされたリンゴもどこか甘酸っぱく、いいアクセントとなっている。
そこで、幸せの絶頂が訪れる。自然と頬が緩んでくる。
対面のお姉様へと視線を向けてみると、顔に嬉しそうな色を滲ませているのが見えた。
そんな表情に私の心臓がとくとくと高鳴る。私の見たかった表情を浮かべてくれたことが嬉しくて、心が弾んでくる。
最後の最後まで味を楽しんで飲み込む。シロップの甘さはすーっと消えて、後まで残らない。
だから、すぐに口を開くことができた。
「すっ……ごく美味しいよ!」
心の弾みをそのままに、率直な感想を口にする。感情が縦横無尽にはねていて、内側にはまだまだ色々とあるのにうまく言葉にできなくなっていたのだ。
それでも、私は平然という名の皮だけは被り続けている。
「そこまで喜んでくれて何よりだわ」
本当にお姉様は嬉しそうにしている。それだけ、私のことを想って作ってくれたんだろうと想像することができる。
その想いが私のものと同じならよかったのにと、ちらりと思ってしまう。
けど、考えるだけ無駄だ。お姉様の想いの強さがどれだけ強いのか私はよく知っている。
だからこそ、私は開き直ると決めたのだ。
お姉様の前なのに、少し暗い気持ちになりかけている。
こんなことではいけないと、お姉様の美味しい美味しいアップルパイをもう一度口へと運ぶ。
甘い幸せで、暗い気持ちを押し流した。
◆
「ごちそうさま」
フォークを空っぽのお皿の上に置いて、両手を合わせる。私たちが生まれたところではこんなことはしないけど、色々とある意味の中でも作ってくれた人への感謝を表すというのが気に入っていた。
こんなにも美味しい物を作ってくれたお姉様への感謝は、言葉だけではとても足りない。
「相変わらず、甘い物だけはたくさん食べるわよね」
八切れあったうちの六切れは私が食べさせてもらった。お腹いっぱいに幸せが詰め込まれているような気がする。
もともととっても美味しい上に、私の感情というトッピングを勝手に加えているから、どんな物よりも美味しくて、どんな物よりもたくさん食べることができるのだ。
「うん、お姉様の作ったお菓子が大好きだから」
もはや、大好きという言葉でも表し切れないような状態だ。けど、私の知っている言葉で一番近くてわかりやすいのは、大好きだった。
たぶん、しっかりと表そうと思ったら、夜が終わってしまうかもしれない。
「咲夜が作ったものとそんなに変わらないと思うけどねぇ」
咲夜へと料理の仕方を教えたのはお姉様だ。それなら、二人の料理が似るのも当然のことだ。
けど、二人が同一人物ではないのだから違いは当然ある。その違いはよくわからないけど、これがお姉様の作ったものだというのは、なんとなくわかる。
それは、私の想いが強いだとかそういうことだけではない。お姉様が作ったものと咲夜が作った物が混ざっていたとしてもわかるのだ。
もしかしたら、長い間お姉様の作った料理ばかりを食べていたから、舌が完璧に覚えているのかもしれない。本当にそうだとしたら、お姉様に染められているという感じがして嬉しい。
「ううん、違うよ。言葉でどうこうとは言えないけど、確かに違いはあるよ」
「……まあ、貴女が言うならそうなのかもしれないわね」
お姉様が少しだけ悲しそうな表情を浮かべる。
たぶん、ずっと地下室にいたせいで、私がお姉様の料理しか食べることができなかったことを勝手に自分が悪いと思っているのだろう。そうして、自責の念にでもかられているのかもしれない。
お姉様はいつだってそうだ。私のことに関しては、お姉様は何も悪くないのに自分が悪いみたいに言う。
私を閉じ込めたのは両親だし、両親がいなくなっても部屋から出られなかったのは、私が力を上手く制御できなかったからだ。力を制御できるようになってからも部屋から出なかったのは、私がひどく臆病だったからだ。
お姉様には何一つ非はない。むしろ、ずっとずっと私を外に出そうと努力してくれていた。だから、そうやって悲しげな表情を浮かべてほしくなかった。
でも、最近はそんな悲しげな表情も少しずつ薄まってきている。私が何度も何度もそのことを訴えたからかもしれないし、私が外に出るようになったからかもしれない。
なんにしろ、今お姉様が悲しげな表情を浮かべてしまうのは今までの名残なんだと思う。しばらくすれば浮かべなくなるだろう。
だから、私は何も言わない。
「フラン、口についてるわよ」
暗い表情が引っ込んだかと思うと、不意にそんなことを言われた。
「え? ……あ、ほんとだ」
反射的に人差し指で口を拭う。そうすると、指先にパイ生地の破片がくっついていた。
このままどこかで拭い去ってしまうのももったいない。だから、指先をくわえて舐め取った。シロップも一緒に付いていたのか、ほのかに甘い。
「こらこら、何をやってるのよ」
再びお姉様にたしなめられてしまう。
お姉様は結構作法にうるさいところがある。けど、それを煩わしいと思ったことはない。むしろ、できれば守るようにしている。今回のように、どうしても譲れない場合は別として。
「だって、せっかくお姉様が作ってくれたのに、もったいないと思わない?」
立ち上がったお姉様が、ワゴンから真っ白なナプキンを取ってこちらに向かってくる。
これからされることに期待を抱いて、少しばかり心臓の鼓動が速まってくる。怪しまれない程度に小さく深呼吸をして、気持ちをなだめる。
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、そんなことをするのは品がないと思うわ。口、拭いてあげるから動かないでちょうだい」
そもそも、緊張のせいで動くことができない。
動いたら動揺が表に出てしまうんじゃないだろうかと思って、下手に動けない。
「ん」
なんとか微かに頷くと、お姉様の手が頬に触れた。手のひらから伝わってくる温もりが私を完全に縛り付ける。心臓が全身へと、特に顔の辺りに無駄に血液を送り出そうとしている。
顔は赤くなってないだろうかなんて心配をしながらも、心地よさを感じてどこか安らいでくる。
ナプキンが唇に触れる。さらりとした感触がわかるほどに優しく拭われる。
そして、薄い布越しにお姉様の指の触感も伝わってくる。もしもそれが直接口に触れていたらなんていう想像をして、頭が茹だってきそうになる。
けど、私の想像が実現することはなく、お姉様の手は、指は離れてしまう。
少しでもお姉様を近く、とても近く感じられたから大満足だ。頬が緩まないよう我慢するのが大変なくらい。
そう思っていると、今度はナプキンで右手を、先ほど口元を拭い去った人差し指のある方を覆われる。お姉様は私の横で膝立ちをしている。
丁寧に私の指を拭いてくれている。そんなお姉様の銀に青をまぶしたような髪が目の前にある。
その髪に触れたいという欲求が芽生えてくる。けど、それをぐっとこらえる。代わりに、手を包んでいる温もりから幸せを感じようとそちらに意識を集中する。
「はい、おしまい。これからは同じようなことするんじゃないわよ」
立ち上がって、お姉様は離れてしまう。けど、代わりにお姉様の顔が視界に映る。
浮かべているのは、聞き分けのない子供を見る母親のような表情だ。
「お姉様が美味しい物を作ってくれる限りは無理だよ」
お姉様が作ってくれた物を食べないなんて許されざることだ。そんなことをする人は、断罪されるべきだ。当然、お姉様はその対象からは除外だけど。
「じゃあ、口に付けないように気を付けて食べることね」
ちょっとだけ呆れたような表情を浮かべている。
「難しそうだけど、気にはしてみる」
とは言ったものの、食べているときは食べることに集中しているから、まず気にするなんてことは無理だろう。
それに、口に何か物がつけば先ほどのように拭ってもらえる。そんな機会をなくすようなことはしたくない。だから、お姉様への返事は形だけのような物だった。
「本当にそうする気はあるのかしら?」
ずい、と顔を寄せられた。不意打ちに気が動転しかける。
視界に映るのはお姉様の顔だけ。紅の瞳には胡乱の色が浮かんでいる。私が形だけ返事をしたと言うことは見抜かれてしまっているようだ。
何か適当なことを言い返そうと思うけど、心の準備をしていなかったから、身体が全く言うことを聞いてくれない。
どくどくと強く速い拍動が聞こえてくる。お姉様の耳にまでその音が届いてしまうんじゃないだろうかと思うと、それは余計にひどくなる。
しばらく沈黙の時間が続いてしまうんじゃないだろうかと思うと、気が遠くなってくる。少しの間でもいいから、お姉様が離れてくれないと、気持ちを落ち着かせられそうにはない。
「まあ、いいけど。その気にならないなら、その気になるまで言ってあげればいいことだし」
不意に、お姉様が私から離れた。そのことに内心ほっと息をつく。高鳴りすぎていた心臓が、少しばかり痛い。
このままテーブルに突っ伏してしまいたいような気分だったけど、お姉様がいるからそうすることはできない。
なんとしてでもお姉様に、不信感を抱かせるわけにはいかないのだ。
「……ねえ、お姉様って、どうしてそんなに、作法にうるさいの?」
ずっと黙っているのも変かもしれないと思ってそう聞く。今まで一度も聞いたことはないけど、それは気になったことがないからとかではなく、なんとなくその答えが予測できていたからだ。
「フランが外に出ても恥をかかないようにね。貴女の性格なら、一度失敗しちゃうと、また外に出ることができなくなりそうだし」
ほら、思った通りだった。
◆
「じゃあ、フラン。おやすみなさい」
「うん、おやすみなさい。お姉様」
時計が深夜を告げた頃、お姉様はお茶会の片づけをすませて、私の部屋から出ていった。
扉が閉まった瞬間、全身から力が抜けて、その場に座り込んでしまう。平然さを装うというのは、精神的にかなり疲れるのだ。特に今日のように不意打ちがあった場合は、大抵こうして気を抜いた瞬間に崩れ落ちてしまう。
けど、お姉様との距離をできるだけ縮めておくためにはこうしなければいけない。
お姉様にとって、私は妹であり娘のような存在だ。お姉様自身にそう言われたわけではないけど、言動から伝わってくるのだ。私をそういうふうに思っているのだと。
けど、私の内にある感情は、お姉様の抱いている想いとは決して相入れない。
私がこの気持ちを伝えれば、いや、お姉様が私の気持ちに気づいてしまえば今の関係は壊れる。それだけならまだしも、そのままお姉様も私もお互いに距離を取ってしまうだろう。まず、お姉様が私への接し方がわからなくなって、次第に私もお姉様への接し方がわからなくなる。
だから、このままでいいのだ。
それに、幸いにもお姉様が一番愛しているのは私だ。
本当に欲している物とは色が違うけど、十分すぎるくらいだ。
例え、私の想いが叶わずとも、お姉様が私を一番だと想ってくれている限り、幸せな気持ちを抱いていられる。
それだけで、私は満たされる。
Fin
>お姉様の作った物を食べて喜ぶの確定事項
↑たぶん「は」が抜けてます
片っぽは咲夜かな?
良かったです。またお願いします。