Coolier - 新生・東方創想話

フランドール・スカーレットの旅行記 前

2011/02/19 00:38:48
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 私、紅 美鈴とフランドール様の関係、それはこれ以上無く明瞭なものだ。
 館の門番と、館の主の妹様。
 それが私達の関係の全てを表している。私達のことをまったく知らない誰かであっても、それでなんとなく私達の関係を推測できるのではないだろうか。
 フランドール様の気が向けば、または私がお誘いしてフランドール様が了承してくれれば、一緒にどこかに出かける。もちろん道行く私達の関係は、門番と、妹様だ。私は門番な道連れとしてフランドール様と一緒にどこかに行くのが楽しいし、たまにお誘いしてくれるのだから、フランドール様も、まあ、つまらなくはないのだろうと思う。嬉しいことだ。
 さて、しかし、私がフランドール様と仲良くなったのは最近のことだ。それまでの私達の関係は、館の門番と、館の地下に在る人だった。
 居る、ではなく、在る。
 フランドール様から見ればおそらく私は、『在るモノ』という認識だっただろう。それくらい、私達は無関係だった。
 だから、最初の頃は一緒にお出かけするたびに、フランドール様の様々に驚かされた。
 例えば。
 あれは、よく晴れた午後の穏やかな日和の中、とある川に沿ってお散歩していたときのことだ。
「ふーん。名も無い川の割には、綺麗ね」
「でしょう?隠しスポットってやつですよ」
「ふーん」
 隠しスポットと言うだけあって、ここらへんに人気は皆無だった。二人きりで生命の脈動のような川の流れを見ながら歩くのは、心地よかった。
 隣を歩くフランドール様の温もりに安らぎを感じながらぼんやりと川を眺め歩いていると、きらりと光るそれに気付いた。
「ん」
 思わず、立ち止まる。
「どうしたの?」
「いえ、あそこにある石が綺麗だなって」
 指差した先には、紅い美しい石があった。驚くほど透明で、下にある石が透き通って見えるほどだった。
「あら、綺麗ね。何かしら、あれ?」
「さあ。……なんだか、フランドール様の羽みたいですね」
 フランドール様は自分の羽を見て、ふんと鼻を鳴らした。照れてるのかな?
「ふーん。……気になるわね」
 そう言って、フランドール様は川に入っていった。
「…………え?」
 数瞬経って、気付き、驚く。
 あれ?フランドール様は、川に入って大丈夫なのか?
 川の深さはフランドール様の膝より少し上くらいだが、しかし、フランドール様は吸血鬼。吸血鬼は流水が苦手なはずだ。
 でも、ああ、そうか。フランドール様は様々な魔法が使えるのだ。その魔法力は、吸血鬼の弱点をも無効化できるのか、と感心している私の目の前で、フランドール様はきらきら輝く水面にゆっくりと沈んでいった。
「フランドール様!?」
 慌てて、辛うじて水面から出ている左手に駆け寄る。引き上げると、フランドール様は完全にぐったりグロッキー状態になっていた。とりあえず、人間には有効な処置を片っ端から試していく。
「な、なんで……」
 虚ろな瞳でそう呟くフランドール様。どの処置が効いたのかは分からないが、少しは、喋れるくらいには楽になったようだった。
「……フランドール様。吸血鬼は、流れる水が弱点なのです」
「……な……なにそれ……意味分かんないわよ…………」
 まあそれは多分、関連付けとか、誤魔化しとか、そういう類いのものなんだろうな。
 結局その日は彼女を背負い急いで館に帰り、パチュリー様の治療を受けた。
 まあ、仕方ないだろう。箱入り娘どころか夢に籠ってたような彼女だ、自分を囲う常識を知らなくとも無理は無い。
 このように、フランドール様の無知に驚かされることが間々あった。まるで好奇心に釣られ炎に手を突っ込む幼子のように危険を認識できないことがあったし、生物であれば自然に知ることになるような理を知らないこともあった。
 さて、そのような無知にも驚かされるのだが、しかしそれ以上に、フランドール様の感性に驚かされることのほうが多い。その暴力性からは想像もつかないほどの繊細な感性を、彼女は持っているのだ。
「分かったふりをしているだけよ。どこかの姉と同じようにね」
 フランドール様はそう言うけれど、しかし彼女の感性に感心させられることは多々あった。
 そして、彼女の行動にも驚かされる。……いや、これは説明不要か。
 とまあ、つまり私達は驚きの数だけ仲良くなったし、フランドール様は驚きの数だけ現実の世界を自分の世界に収めたということだ。彼女はもう、箱入り娘ではあっても、夢入り娘ではない。それが良い事かどうかなんて分からないけれど、私はそう在ってくれて嬉しい。エゴだ。
 そして私は今日も館の門を守りながら、いい天気だし、今日は私からお散歩のお誘いをしてみようかな、なんて考えているわけだ。普段厳しいお嬢様も、自分の妹の事となると、幾分態度が柔らかくなる。あんなでも実は妹煩悩なのだ。
 それにしても、今日は本当に良い天気だ。
 …………。



「美鈴」
「あ、はい?ああ、咲夜さん。どうしたのです?」
「いつからそうしてたのよ」
「はい?そうしてた、とは?」
「いつから寝てたんだって言ってるの」
「え。寝てました?私」
「それはもう見た目ぐっすりと」
「んー、そんなに?三点リーダー四個分くらいはうつらうつらとしてたかもしれませんが」
「なにわけ分かんないこと言ってるの。……お嬢様がお呼びよ」
「え。……なんだろう?」
 なんだか、嫌な予感がした。



『出発』

 レミリア・スカーレットは、苦い顔でカップの中の液体を見下ろした。
「……咲夜」
「はい」
「これは?」
「メイド長特性、七草の紅茶でございます」
 紅魔館のメイド長、十六夜 咲夜は澄まし顔で答えた。
「あのね咲夜、こういうのはこれっきりにして」
「お気に召しませんでしたか?」
「召さないわよ。自分で飲んでみたの?」
「私は普段から質素な食事を口にしているので」
「あっそ。まったく……」
 文句を言いながらも、大量の砂糖を加えてそれを飲む。
「うえ」
 レミリアが舌を出したそのとき、彼女の妹、フランドール・スカーレットが部屋に入ってきた。
「あら、妹様」
 フランドールが自分から食堂に来るのは珍しかった。咲夜はちょっと驚いたが、すぐに妹君に椅子を勧めた。
「いえ、結構よ」
 しかしフランドールはそれを断わり、姉の不可思議な飲み物を不可思議な表情で見詰めた。
「七草の紅茶です。いかがですか?」
「いいわ、いらない。それより、日傘を用意してくれる?」
「はい」
 そう答えたときには、咲夜はすでに消えていた。
「……また門番と出掛けるのか」
 ぼそりと、呟くようにレミリアは言った。フランドールは肩を竦める。
「まあ、お出掛けね」
「ふーん」
「なに?ご不満?」
「……不満といえば、不満だわ。あなたが門番に影響されないか心配ではある。頼むからそれはやめて頂戴」
「ふん。……あの門番、最初とキャラが違うんだけど。外だと最初のキャラのままなんだけど、館の中だったり二人きりだったりすると」
「それは諦めなさい。館の中だったり二人きりだったりのほうが本性よ。あれの皮はね、嘘でできてるの」
「あ、そ」
 フランドールはまた肩を竦めたが、しかし門番に対して不満がある様子ではなかった。
「お待たせしました」
 突然、咲夜が空間から出現した。その手には、一本の日傘。
 フランドールは礼を言ってそれを受け取り、くるりと姉に背を向けた。
「行ってらっしゃい」
 姉の独り言のような呟きに。
「行ってきます」
 妹も、独り言のように呟いた。そんな姉妹の様子に、咲夜は笑った。



 それから一時間後。
 咲夜はいつも通り、館を掃除して回っていたのだが。
「あれ?」
 吸血鬼の館には相応しくない、大きく切り取られた窓からちらりと外を見て、それに気付き、足を止めた。
「…………あれ?」
 咲夜は紅魔館の門番、紅 美鈴を見詰め、首を傾げた。



「お嬢様」
 普通の紅茶で口直ししているレミリアに、咲夜は別段取り乱した様子も無く、いつも通り淡々と報告した。
「なに?」
「美鈴いますけど」
「……………………」
 レミリアはカップに口を付けたまま硬直し、
「門番を呼んできなさい」
 鋭くそう言った。
「はい」
 咲夜は返事をすると、跡型も無く消えた。



 そして、話は冒頭に繋がる。
「おいてめえ、寝てたそうだな」
 額に青筋を浮かべ、いまにもはち切れんばかりの口調で問い詰めるレミリアに、美鈴は肩を竦めた。
「精神集中してただけですって。それに、誰かが門を通ったなら分かりますよ」
「…………」
 そのような能力に関しては信用しているのだろう。レミリアは黙った。
「……裏から出たのか。くそ。……咲夜、門番」
「はい」「はい」
「死力でフランを探しなさい。見つけ次第、連れ戻すこと」
「分かりました」「了解」
 言って、レミリアに背を向ける二人。
 独り残った食堂で、レミリアは重いため息を吐いた。



 フランドールが出発してから、一時間以上経っている。探すなら早くした方が良い。
「さて、どこから探すか」
 腰に手を当て辺りを見渡す咲夜に、美鈴は緊張感の欠片も無い軽い調子で言った。
「咲夜さん」
「なに?」
「これからちょっと、デートしません?」
「………………」
 じっと、顰め面で美鈴を睨む咲夜。しかし美鈴は気にせず微笑み続ける。
「……はぁ」
 ため息を吐く咲夜。
「妹様は、門から出たのね?」
『それに、誰かが門を通ったなら分かりますよ』
 一言も、誰も門を通っていないとは言ってはいなかった。
 一言も、フランドールが門から出ていないなんて言ってはいない。
 つまり。
「深夜までには帰ってくるって」
「……紅魔館の門限は午前零時までよ」
「それまでには帰ってきますよ。たぶん」
 咲夜はもう一度ため息を吐き、美鈴に背を向けた。
「お生憎様、私はその程度には真面目なのよ」
「でもさ」
 すたすたと歩き去ろうとする咲夜の背に、美鈴は問い掛ける。
「見つけて、それでどうするの?」
「…………」
「マジバトルでもする気?」
「…………………………………………」
 咲夜は立ち止まり、像のように固まったまましばらくの間悩み、
 そして。
「……博麗神社で暇潰しでもしようか」
「そうしよう」
「帰ったらお嬢様に怒られる……」
 ぼやきながら咲夜は振り向き、そして二人は博麗神社にのろのろと歩いていくことにしたのだった。



 その頃、フランドールも日傘を差しながら、てくてくとどこかの道を歩いていた。
 べつに何か目的があるわけじゃなかった。ただ、なんとなく一人で出歩きたかっただけだ。まあ、たまにはこういうのもいいだろう。
 だから、別段どこか行きたいところがあるわけじゃなかった。適当に彷徨うとしよう。
 辺りを見回すと、丁度良い大きさの木の棒があった。地面に垂直に立て掛け、手を離す。
 棒は、今の自分から見て右方向に倒れた。ふむ。確かあっちは……。



『妖怪の山』

 山は、若々しさに溢れていた。
 萌える、という表現がぴたりと当て嵌まる。木々は力強く、しかし柔らかに葉を茂らせ、草は艶やかに堂々と伸びる。花は静かにまたは派手やかに、どちらにしても誇るように咲き誇る。そして、隆々とした生命力を思わせる川の流れ。
 感嘆、とは思わないけれど、良いな、とは思う。
 山は、時の流れが明確に現れる。春は息吹、夏は躍動、秋は色香、冬は静寂。これは、外に出てから知ったことだ。
 川に沿って歩いていると、視線を感じた。そちらに顔を向けてみると、河童が木の陰に隠れていた。無視して、進む。
 ああ、そういえば、と今更気付き、顔を顰める。そういえば、ここにはうざったいあの種族が蔓延っている。



「あややややややや」
 来た。
 妖怪の山の、中腹辺りだろうか。そこで、それはやって来た。やって来なくてもいいのに、やって来る。
 顔を空に向けると、天狗がこちらを見下ろしていた。驚きの表情を顔面に張り付けた、嫌な顔だった。あの門番とは異質の嘘で、気分が悪い。
「これはこれは。なんと、紅魔館の妹君じゃあないですか」
 白々しくそう言う彼女に、無感情な声を向ける。
「あなた一人なの?」
「はい、そうですよー。いやー、参っちゃいますよ。上から出動命令があるから何かと思えば、紅魔館の妹君!いやあ、あなたとの繋がりは極薄なんですけどね、上は聞く耳持たない。嫌になっちゃいます」
「上、ね。私は何も迷惑なんてかけてないでしょ?無視して頂戴」
「しかしですねぇ、ここは我らの領域なのですよ」
「我らの領域、ね」
 失笑する。どこか傲然に構え宙に浮かぶ彼女の後ろに、影が見えた。気味の悪い、影だ。それは組織だとか、階級社会だとか、義務だとか、使命だとか、そんな気持ちの悪い諸々が具現化したものかもしれない。
 渋滞だ。
 直感的に、そう思った。噂で聞いた、人間が作った動く鉄の箱の行列を思い浮かべる。べつにそれに加わらなくてもいいのに、それがさも命運であるかのようにそれに加わる。そういうふうに世界ができていると思い込んでいる。
 べつにそれが愚かだとか、間違いだとは思わない。渋滞の中で、そのゆっくりとした時間を何らかの方法で楽しめれば、それは充実しているのだろう。中には思うだけで考えもせず、結果ただ苦しんでいるだけという者も多いだろうけれど。
 ただ、妖怪である彼ら彼女らが人間の真似事をするのはやめてほしかった。出来の悪い模倣ほど見ていて苛々するものはない。見様見真似のそれを振り回している様は、酷く稚拙だ。見ていて悲しくなってくる。
「じゃあその“我ら”さんに、お邪魔しますと伝えておいて」
「しかし“我ら”さんは、どうやらそれを許さないそうです。きっと、お邪魔するなと言いたいのでしょう」
「失礼しますと伝えて」
 彼女は、仕方ない人だ、とでも言いたげな表情でため息を吐いた。
「なにかこの山に用があるのですか?要件によっては、許可が出るかもしれません」
「許可、ねえ。誰が出すの?その許可とやらを」
「“我ら”さん、ですよ。具体的には大天狗様です」
「ふうん。というか、なんでそんなに他所者を山に入れたくないのよ。縄張り意識っていうのは分かるけど、妖怪が、人間が存在しないところでこんなに広く縄張りを張る理由は何?」
「それは……」
 彼女は顎に人差し指を当て少し考え、
「そういうものだから、でしょう」
 そう答えた。
「…………ああ……」
 その答えに、納得し、一人頷く。彼女が「どうしたのです?」と尋ねてきたが、無視する。そうか。彼ら彼女らが決定的に稚拙に見える理由、真似事の真似事たる所以が、なんとなく分かったような気がした。
 信号が無いのだ。
 その存在を認識することさえ忘れてしまう程の大きさを持った、不可視の、しかし歴然とした大きな力が、この山には無いのだ。一番大事なところが欠けている。まあ、幻想郷にはそのような力が存在しないから仕方なくはあるのだけれど。
 信号が無い広い一本道なのに、何故か道の真ん中に列になり、渋滞を作っている。その様子は、なるほど滑稽だ。模倣の結果がそれとは、見ていて悲しくもなる。
 では、なぜ彼ら彼女らは好き好んで渋滞を作るのだろう?それは、簡単に想像できる。
 暇なのだ。
 ここの妖怪は誰しも――いやそれはここにいる妖怪、もっと言うと妖怪に限らず――暇をつぶすのに必死なのだ。人間を真似た遊戯で暇を潰しているようにしか見えない。千年ほども生きて、やることがままごとのような遊戯。やってる本人達は楽しいのかもしれないし真剣かもしれないけれど、傍から見ると失意というか、自然に顰め面になってしまうような不快さがある。しかも、その遊戯のような組織の力を振りかざし、嘲笑に似た冷笑のように文字通りお山の大将を気取っているのだから、迷惑だ。その力が不可視でないだけに、ぶっ壊したくなる。
「それで、妹君。今日はどのような理由でこの山に来られたのですか?」
「それは、山頂の――」
 山頂の神社に参拝に行くためだ、と言おうと思ったけれど、途中で面倒くさくなった。荒事を起こす意味は無いので、素直に許可を貰って参拝に行こうと思っていたのだが、気が変わる。
 彼女に向かって、弾幕を放つ。
「――――!」
 しかし彼女はそれを、どこぞのメイドのように瞬間移動したと錯覚させられるような速度で、紙一重でかわした。面倒だ。
「……いきなり、何をするのですか」
「いえ、何でもないわ」
「何でもありますよ。妹君、よく考えてください。ここで荒事を起こしても、いいことなんて一つもありませんよ。くだらないと思われるかもしれませんが、形式だけでもこちらが許可を出せば穏便にこの場は収まるのです。まあ、どうしてもというのなら相手になりますが」
 どうしようかと一瞬考えたが、そんなことを考えること自体が面倒くさくなった。
 ポケットを探り、彼女に向かってそれを投げる。
「おっと」
 彼女は結構な速度で投げたそれを難なくキャッチして、手を開きそれを見る。
「……コイン一枚?」
「それで許して頂戴」
「これで何をしろと。どちらの意味でも」
「一プレイ一枚よ。コンテニューはできない」
「……やっぱり、それくらいの緊張が無くちゃ、面白くないですよね」
 言って、私にコインを投げ返し、にやりと笑って構えを取る彼女。乗りもノリノリ、超乗り気だった。なんだかんだ言って、暇だったのだろう。
「ふむ、悪魔の妹の狂気の弾幕、興味があります。見事このカメラに収め、狂気を二次元の立体として現像してみせましょう」
 それにしたってこの天狗、乗り気過ぎだ。温度差が凄まじい。
「それから、一つ忠告してあげるわ」
 そんな彼女に、私は別段テンションを上げないままに、言う。
「なんですか?」
「ゲームは気付いたら始まっていることがあるから、注意すること」
 そして、“彼女の前に在る私”は、紅い霧になって消えた。
「!」
 彼女は気付き、目線だけで後ろに振り向く。
 そこには、彼女に向かって今まさに弾幕を放とうとする私がいた。
 引き金を零距離で極限まで絞られたようなものだ。祈りの間すら与えられない。だがしかし。
 神速。
 彼女のその刹那の行動は、なんの根拠も無いその抽象を身に心に焼き付けるようだった。
 何をしたのか分からない。多分、放たれた弾幕を避けざまに、突風に乗せた弾幕を放ってきたのだろう。衝撃が、その体に響き反響した。
 彼女はくるりと後回して私と距離を取った。
「まったく、不意打ちなんて美しくないですよ。弾幕的じゃないです」
 弾幕的とはどのようなことを言うのかは分からないが、彼女はため息を吐いてそう言った。
「やれやれ、いつから霧の分身を作っていたのやら。せっかくなんですから、なにか美しいモノを見せてくださいよ。そんなんじゃ、カメラに収める価値がありません」
「収める暇があるといいけれど」
 彼女の真後ろで、そんな心配をしてみた。
「え」
 呆けた顔で振り返った彼女の胴体を、紅い霧から戻った私が放った、紅蓮に輝く剣が一閃した。
 禁忌『レーヴァテイン』
 零距離。
 彼女は呻き声すら洩らさずに地に墜落した。



「ちゃんと撮れた?」
 血塗れの彼女は、何故か傷付いた鴉にそっくりだった。
 彼女の傍にしゃがみ尋ねると、気だるげな弱弱しい声が帰ってきた。
「……弾幕的じゃないです」
「ごめんなさい、今はあなたと遊ぶ気分じゃないの」
「振られた……。……あれは、あの弾幕を放つ分身は、魔法ですか?」
「そうよ。私は魔法少女なの」
「吸血鬼で魔法少女……。ふむ、確か新聞の端らへんに漫画なんかを描いてる同業者がいたっけな……。私もちょっとそれを真似てみようかな……。漫画の主人公は、吸血鬼で魔法少女……。これは流行る……」
 うなされるようにぶつぶつと呟く彼女。思わず感心してしまうようなパパラッチ魂だった。
「でも、そんな凝った設定を使っちゃうと、新聞の端じゃ収まり切らなくなるわよ?」
「ふむ、確かに。うーん、いいアイディアだと思ったのですが……」
「いっそ漫画誌にしちゃえば?」
「それはできません。私は文屋、幻想郷の古今東西駆け巡るジャーナリストなのです」
「ジャーナリスト、ねえ。ジャーナリズムってどういう意味?」
「首どころか全身突っ込むイカした奴って意味です」
「ふーん。首だけで走り回ってるって意味かと思ってた。それと、ジャーナリストは新聞社に記事を提供する人のことよ」
「え、そうなの?」
 雑談はこのくらいにしておいて、先に進むことにする。
 仰向けに大の字に倒れた彼女の右手に、コインを握らせる。その手を一回握って、立ち上がる。
「あなたで適当に理由を考えてなんとかしといて。私は行くわ」
「……コンテニューはできないのではなかったのですか?」
「それは、コンテニューじゃなくてリプレイ料金」
「リプレイにお金を取るなんて、流行りませんよ、そのゲーム」
「やりたくなかったらやらなくていいわ。まあ、そのときの気分次第ではちゃんとした弾幕が見れるかもしれないわね」
「バグゲーじゃないですか」
「制作者がデバック無しに出品したのよ」
「適当なんだか、自信家なんだか……」
 彼女に背を向け、歩き出す。
 途中ちらと後ろを振り向いてみると、彼女は倒れたままコインをしげしげと眺めていた。
 残念ながら、コインチョコではないのだ。

 しばらく歩いていくと、本格的に道が険しくなり始めた。ここを歩いて行くのは面倒だ。飛んで行くことにする。
 そこで、ふと、気付いた。
 あの天狗の彼女は、誰だ?



『守矢神社』

 境内は掃除が行き届いていて、綺麗だった。
 神社というのはどこだって、何故か空気が澄んでいるような錯覚がある。まあ、私はこの神社とあと一つの寂れた神社しか知らないのだが。
「教会、境界、教誨」
 なんとなく、呟いてみた。
 ふむ、しかし、人気は無いはずなのに、この神社はもう一つの神社と違い、寂れているという印象は無い。何故だろう。信仰の差か?
「あら、貴方は確か……」
 拝殿近くで、巫女が岩に腰掛けお茶を飲んでいた。巫女にお茶が妙に似合うのは何故だろう、とどうでもいいことを考える。
「いつだか、紅い髪の妖怪の女性と来た方ですよね」
「ええ。フランドール。フランドール・スカーレット」
 私が名乗ると、彼女は慌ただしく立ち上がった。
「あ、私は、東風谷 早苗です。よろしく」
「そう。よろしく」
 よろしくとは言ったが、今は彼女とよろしくする気は無い。先へ進むことにする。
「あ、待ってください」
 しかし、彼女は歩き出した私を追ってきた。
「なに?」
「この神社にはおみくじ、絵馬やお守りもあるのです。絵馬は干支のイラストが入ったものや、山、雲などのイラストが入ったものまでとりどり、お守りは開運厄除け、力石御守、家内安全、商業繁盛、旅行安全、縁結び、学業成就、交通安全に合格必勝まで様々を取り揃えています」
 並んで歩きながら、すらすらと力説する彼女。あ、そうですか。
「ちなみに、それは売れてるの?」
「それはもう」
「俗ね」
「俗と神事は別の位置に存在しているのです」
「あ、そう」
「で、どうでしょう?」
「じゃあ、旅行安全と絵馬を一つ。絵馬の柄は適当でいいわ」
「毎度どうもー」
 それはもう素敵な笑みを浮かべ、懐からお守りと絵馬を取り出す巫女。
「常時携帯って」
「俗と神事は別の位置に存在しているのです」
「あ、そう」
 料金と引き換えに、お守りと絵馬を貰う。絵馬は雲を描いたものだった。絵馬と一緒に、ペンも渡される。普通、こういうのは願いを書くようなことはしないのでは?と思ったが、まあいいや。
「ふむ」
 さて、なにを書こうか。
 少し迷ったが、いま思っていることを描いてみた。
「はい」
 彼女に絵馬を渡す。巫女が願いを見るようなことはしないだろうが、私はあえて願いのほうを表にして渡した。
「……これは」
 それを受け取った彼女は、微妙な表情になった。
「ご飯、ですか」
 絵馬には、おにぎりや卵焼きなどの食べ物が描かれていた。お腹が空いたのだ。
「ていうか、絵、上手い……」
「ありがとう。……願い、叶うかな?」
 そう呟くと、彼女はさらに微妙な表情になった。
「まあ、期待はしてないけれど、でも叶うと良いな」
「ちょっと待っててください」
 そう言い残して、彼女はどこかに駆けていった。
 その間に、参拝を済ますことにする。コインを一枚投げ入れ、特に何を願うでもなく静かにそこに佇む。
「お待たせしました」
 十数分後、彼女は駆け足で戻ってきた。その手には弁当箱。私は寄り掛かっていた木から体を離し、巫女に歩み寄る。
「おにぎりは具無しと佃煮と梅干しと茄子の浅漬け。あとは卵焼きと春巻きと野菜と川魚の塩焼きと兎の肉。春巻きは昨日作ったものですが、問題無いでしょう」
「随分と豪華ね。凄いわ、ここの御利益は本物ね」
「でしょう?沢山宣伝してきてくださいね」
 弁当箱を受け取り、礼を言う。ふむ、良い重みだ。私は小食だけれど、これは全部食べられそうだ。
 しかし。
「でも、一つだけこのお弁当には足りないものがあるわ」
「え?なんでしょう?」
 首を傾げる彼女に、一歩近付く。
 そして、彼女をじっと見上げて、言う。
「人間の、血」
「…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
 ………………………………………ああ、はいはい。成る程、吸血鬼ですか。ふーん…………」
 辺りを見渡す彼女。もちろん、ここには彼女と私しかいない。
「……私ですか」
「うん」
「え、ええぇええぇえー…………」
 物凄く微妙な表情になる彼女。
「え、いや、だって、私、吸血鬼になんてなりたくないですし……」
「私は小食だから、吸血鬼にはならないわ」
「いや、でも」
「さっきの絵馬」
「え?」
 彼女は首を傾げ訝しげな表情で、さっき私が渡した絵馬を懐から取り出す。
「右下、右下」
 私がそう言うと、彼女は漫画なら口がぐにゃぐにゃになっているような苦笑いを浮かべた。
 絵馬の右下には小さく『人間の血液が欲しい』と書いてあった。
「お、大きく書いておいてくれないと神様も分かりません!」
「私は知ってるわ。ここの神社の御利益は本物なのよ。一度救った者を地に叩き落とすようなこともしないってことも、私は知ってるわ。何故なら、宣伝でそう聞いたから」
「………………う、ううぅうー」
 彼女は嘆くように唸り、その場に突っ伏した。
「……………………分かりましたよぅ……」
「ありがとう。信じてたわ」
「……どうすればいいんですか?」
「まず、そこに座って。そう」
 石畳に正座する彼女に、抱き付くように覆い被さる。彼女の鼓動を感じ取ることができる。温かかった。
「エ、エロい……」
 彼女は何か言ったが、意味は分からなかった。
「い、痛くしないでくださいね。って、エロい……」
「実は私、直接吸血するのは初めてなのよね」
「え、えぇええ!?ちょ、ちょっとまってくだぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
 彼女の首筋に、がぶりと噛み付いた。血が勢いよく溢れ出してくる。温かくて、普通の血より美味しい。新鮮だからか、それとも巫女だからだろうか?
「痛い!思ってたより痛い!なんか普通に痛い!ちょ、も、もういいでしょ?そ、それ以上はやめて――ってエロい――っていだあああああああああああああああああああああ!!」



 帰るときは、手を振って見送ってくれた。もう来んなという表情だったが、ふむ、気が向いたらまた来ようかな。コイン三枚であの血が吸えるのなら、天狗共のことを含めても、来る価値は十分にある。
 さて、次はどこに行こうか。抱えた弁当箱を見下ろして、考える。静かなところがいいな、と思った。さっきは絶叫だったし、今度は静けさだ。
 静けさといえば、あそこかな。



『三途の川』

 とても良い静けさだった。
 呼吸の音が全く聞こえない。脈動の気配が全く無い。草木も大地も空も太陽も皆が皆、眠るように死んでいるようだった。静まり返ったその空間は、とても心地が良かった。家を建てるのなら、こういうところが良い。
 思いがけず素敵だったその地を上機嫌で歩いていたが、しかし不都合なことに、そこには先客がいた。ノイズが混じったかのような不快感があり舌打ちが出たが、なんとなくその先客に歩み寄ってみることにする。
 丁度お弁当を食べるにはもってこいな、柔らかな草が生えたゆるやかな斜面になっている所だった。そこに、彼女は座っていた。
「おや、こんなところに客人とは珍しい。……あれ?確かあんたは……」
 こちらを振り向き驚いた表情を浮かべている彼女の脇には、大鎌が地面に突き刺さっていた。まるで魂でも狩るような、大鎌だ。
 死神。
 死の、神。それとも死んでいる神という意味だろうか。というか、死神は神に分類されるのだろうか?
 しかし、神のような力を持っていそうではある。いったいそれはどれ程の力なのだろうか?気になったから、試しに彼女の内臓を握りつぶしてみた。
「ぐほぅあッ!?」
 私が右手をきゅっと握ると、彼女は奇妙な呻き声を上げて口から血を吐き出した。
「あれ?普通だ」
「な、何さ!?あんただよね、いまの!」
 げほげほと咳き込みながら怒鳴る彼女。
「ごめんなさい」
「ちゃんとごめんなさいが言えるのが偉いなんて思わないよ!なんであたい、いま内蔵破壊されかけたの?」
「私は最近、手加減を覚えたの。その手加減に、ごめんなさいという謝罪の誠意を込めたわ」
「謝罪の誠意が前提の悪意はただの悪だよ!」
「でもね、この世界に悪なんてものが存在するのかしら?悪と見られるものはあっても、悪という存在があったとしても、この世界には正義しか有り得ない気がするのだけれど」
「あんたの今の行動のどこに正義があったっていうのさ!?」
「それでも悪は、有り得ない」
「ごめんなさいなんて絶対思ってないだろ!」
 ったく、とぼやき、死神はまた咳き込んだ。なんとなく、彼女の隣に座る。
「……あんたは確か、紅魔館の吸血鬼の妹だね?」
「フランドール。フランドール・スカーレット」
「そう。私は小野塚 小町だよ」
「死神?」
「そう。といっても、私はただの水先案内人だけどね」
「ああ、成る程」
 そういえば、ここは三途の川付近だったか。やけに冷え込むと思った。
「で、妹さんはどこに行くつもりだったの?」
「彼岸」
「……またなんで?」
「彼岸でお弁当を食べようと思って」
「……悪いこと言わないからここで食べな。彼岸なんて、好き好んで行く所じゃないよ」
「なんで?」
「映姫様っていう閻魔様に、お弁当を食べてる最中ずっと説教をくらうから」
「わぁ嫌だ」
 いらいらしてぶっ壊してしまうかもしれない。
「だろ?だからここで食いなよ」
「ふむ」
 まあ、いいか。ここも十分素敵な場所だし。
 弁当箱の包みを開き、蓋を開ける。良い匂いがふわっと広がった。
「あ、いいなぁ。超豪華じゃないか」
 死神がよだれを垂らしそうな顔で弁当箱を覗いた。
「いいでしょ。山の上の神社に行って、絵馬に『お弁当が欲しい』と書くと貰えるのよ」
「へぇ、そんな裏技みたいなものがあるのか。絵馬っていくら?」
「コイン三枚」
「お買い得じゃないか。今度暇があったら行ってみようかな」
 割り箸を割り、川魚の塩焼きを一口食べてみる。うん、美味しい。塩加減が絶妙だった。思わず笑んでしまう。
「……ほんと美味しそうだな」
「あげないわよ」
「いいじゃん、一つくらい。春巻き頂戴、春巻き」
 春巻きを食べてみる。その溢れ出した旨みも素晴らしかったが、なにより脂っこくないことに驚いた。べたつく感じが全然しない。どうやったのだろう?奇跡か?
「……美味しそうに食うよな。そうだ、お酒と交換しようじゃないか」
「この世の七不可思議の一つが、酒が美味しいと感じる舌」
「うーん、酒はなんというか、味だけを愉しむものじゃないと思う。なんというか、なんだろなぁ」
「でも、日本酒はなかなか好きよ。それ以外は嫌いだけど」
「お、そいつはいい。いま持ってる酒がちょうど日本酒だよ」
 彼女は機嫌良さげにそう言って、懐から酒瓶と徳利と、御猪口を二つ取り出す。
「……つかぬことをお聞きするけど、いまあなた職務中じゃないの?」
「如何に職務の間に休息を取るか。仕事と休息のオンオフ、それが充実のコツなのさ。休息を休息とするための業、それが仕事の一面だと私は考える」
「なんかそれ、同じような台詞をどこかで聞いたわ……」
 まあ、あれは休息の間にすら職務をこなすことが無いのだが。
「違いますよ。休息ついでに仕事をこなしているんです」
 そんな幻聴が聞こえた気がした。
「ん?どうした?」
「いえ、なんでも。そうね、じゃあ川魚の塩焼き以外のおかずを一つずつと、おにぎりを一つあげるわ」
「お、やった!」
 彼女は子供のように喜び、春巻きを手でつかみ嬉しそうに一口食べた。そんなに春巻きが食べたかったのか。
「あ、美味しい。なんだ、神の御利益よりよほど素晴らしいじゃないか」
「そうね。死よりも素敵」
「だよね。ふむ、明日あたり行ってみようかな、その神社に」
 どんだけ春巻きが好きなのだ。
「お酒は食後に頂くわ」
「ん。おお、兎の肉も美味しいな。普通のよりコクがある気がする」
「あらほんと。卵焼きも美味しい」
「あ、お米も美味しいな。なんだなんだ、魔法でも使ったのか?って、すっぱ!」
 梅干しは好きじゃないから彼女にあげたのだった。顔を顰める彼女をちらと見て、笑った。



 酒の温かみを体内で遊ばせながら、辺りの静けさを愉しむ。本当にここの静けさは素敵だ。これからちょくちょく来るのもいいかもしれない。
「山には人前に姿を現す神がいるんだろ?」
 しばらくして、彼女が静けさを震わせた。
「そうみたいね。私は会ったことないけど」
「お酒も持っていこうかな。特別なお弁当を作ってくれるかもしれない。春巻きが入ってるといいんだけど」
「……春巻き、好きなの?」
「うん。そのままでも好きだし、辛口のお酒と信じられないくらい合うんだよ。ふむ、山の神様と酒を愉しむのもいいかな。映姫様になに言われるか分からないけど」
「何故かお酒って、神様を連想するわよね。なんでだろ?」
「ん?ああ、それはな、本質が夢に近付く程に、人は神に近付くからだよ」
 彼女はこくりと酒を飲み、遠くに目をやりながら言った。
「ふうん?神は夢にこそ現れるってこと?それとも、神は夢のようだっていう意味?」
「いや、それが、そのどちらでもないんだよ」
 彼女は可笑しげに微笑み、間を楽しむように口の中で酒を遊ばせた。
「この言葉の意味はな、神にお近付きになれるって意味ではなくて、人が神に成るって意味の“近付く”なんだ」
「はあん?酔っ払いは神だって?」
「ただし、神に成るっていうのはそういう意味合いだというだけであって、実際に神に成ることは、当たり前だが無い。神に近付き過ぎた者は、廃人だ」
「成る程」
「さて、ここで面白い仮定なんだがな」
 彼女はまるで悪戯小僧のようににやりと笑い、御猪口の中の酒を揺らした。
「そうだとするのなら、神に人間のような意思があるのはおかしくないか?人間のような思考を持っている――それは知能という意味では無くてだ――のは、おかしくないか?神であるはずのモノが酒に揺れるのは、おかしい」
「…………彼ら彼女らは、夢の果ての成れの果てだって?」
「頭の回転が速くて重畳」
 彼女は頷いた。
「ま、これはあたいのただの仮定だけれどね。でも、そういうことがあってもおかしくないと思わないか?八百万の神。ふふ、たった八百万だ。在り得なくは無い」
「まあ、想像するのは自由だしね。でも、そうだとするなら、彼ら彼女らは何をしたかったのかしらね」
「さあね。想像付かないよ、神の考えなんて」
「でも、夢の果てに立っているのに、人間のような意思があるのね。彼ら彼女らは」
「そう、そこなんだ」
 彼女はぴっと人差し指を立て、歌うように言った。
「何が彼ら彼女らを、彼ら彼女らたらしめるのか?」
 廃人と神の違いは何なのか?
 神に在って人間に無いモノとは何なのか?
 意思とは何なのか?
 自我とは何なのか?
 精神は肉体に宿るのか?心に宿るとしたら、心の構造とはどうなっているのか?
 心とは何だ?
 夢に心が宿るのは何故だ?
「考えてみると、面白いだろう?」
「……まあ、少しは、ね」
 彼女から目を反らし、酒を口に含みながら、考える。
 狂気とは何だ?
 夢の欠片か?
 酒を飲み込む。体に温かみが広がる。そのじわりとした温かみが、夢と現実との境界なのかもしれない。



 それが聞こえてきたのは、死んだような静けさに夢を映し始めたときだった。
 不自然に響く、高い澄んだ声が微かに聞こえてきた。
「ひとつ積んでは父のため。ふたつ積んでは母のため。みっつ積んでは故郷の、兄弟わが身と回向して……」
「……これは?」
「ああ、これは」
 彼女は困ったような苦笑を浮かべた。
「勘違いしてる子供の歌だよ」
「勘違い?」
「この歌は知ってるかい?」
 ひとつ積んでは父のため。ふたつ積んでは母のため……。感情を込めず、彼女は口ずさんだ。
「知らないわ」
「これはね、先立った子が親より先に死んだことへの不幸を、塚を作ることで償おうとする歌だよ。私はそう解釈してる」
「ふうん。でも、勘違いって?」
「うん。あの子はね、ああやって父と母と兄弟の安息を祈ってるんだよ」
「自分が死んだ不幸を嘆くのではなくて?」
「そう。有名な歌だからね、そういう勘違いも仕方ないかもね。やれやれ、やっと最近、同じように河原で石を積んでいる子供が彼岸に渡ったというのに……」
「祈ってる。神に?」
「多分ね」
 彼女は冷たい空を見上げ、重いため息を吐いた。鬱々としたため息が、埃のように降ってくる。
「貧困か、災厄か、なんだろうね。ああやって、神に願ってるんだ」
「神ね」
「神は人を救わない」
 断言するように、大きな声ではないが強く、彼女は言った。
「何故神は人を救うなんていう発想が生まれるのかは知らないけれど、たとえ神が人の前に現れたとしても、神は人を救わない。救えないんだ」
「救えない」
 彼女の言葉を繰り返し、それを思考の空に転がしてみる。
「イエス・キリストを知ってるかい?」
 彼女は唐突に、そのあまりにも有名な現人神の名を上げた。
「知ってるわ」
「彼は神だ。それは、たとえ彼が人間の領域に在ったとしても、どうしようもなく否定できないことだ。人間の領域に在ろうと、神のステージに立っているのだから」
「成る程」
 確かに、否定できない。
「彼は教えを説いた。その教えは、誰かを救うかもしれない。また、その教えを心とする誰かが、誰かを救うかもしれない。だけれどね、イエス・キリストが誰かを直接救うことはできないんだ」
「…………成る程」
 何故か?
 それは、イエス・キリストは目の前にいないから。
「イエス・キリストは彼ら彼女らの前に現れた。だけれど、祈る彼ら彼女らを直接救うことはできない。『神よ、何故私を救ってくれないのです!?一日千回の祈りを貴方に捧げているのに!』」
 突然上げた怒鳴るような大声は、漂う冷気に飲まれて消えた。
「……もどかしいよ。あたいが見てるのは、見てきたのは、結果なんだ。なんでそんなことが分からないんだって、本当に、もどかしい。映姫様も、結果を数え切れないほど見てきたし、今も見ている。そして、それから得た最善を、皆に教えようと説教する。権力を見せ札として使ってだって。だけれど、誰もがそれに耳を貸さない。もどかしいはずなんだ、あの人も」
 ぎゅっと、拳を握りしめる彼女。その拳を見下ろしながら、独り言のように言葉を地に落とす。
「違うんだ。神っていうのは、そういうことのために在るんじゃあないんだ。祈りっていうのは、そういう意味じゃあないんだ……」
 そう呟く彼女の言葉は、それこそ祈りのようだった。
フランドール・スカーレットの旅行記 後
に続く。
識見
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コメント



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2.100奇声を発する程度の能力削除
後編読んで来ます
10.100名前が無い程度の能力削除
めっちゃおもしろかったです
これでシリーズ物がみたいですね。
19.100名前が無い程度の能力削除
なんか不思議な感じ
話しとキャラに独特な魅力を感じる
27.100名前が無い程度の能力削除
やべえ、すごく面白かった。
32.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです。
50.100名前が無い程度の能力削除
むちゃくちゃ面白かったです。
54.100ssを読む程度の能力削除
最高
フランが可愛いね
フラアリも好きだZE