注意:この話は作者の紅魔館関係の過去作品の設定を引き継いでおります。
柔らかな日差し降り注ぐ、雲一つない快晴の青空は見る物に心地よさを与えてくれる。
時期は二月。あれほどに猛威をふるった冷気は和らいで、心なしか春の気配が満ち始めている。
そんな中、門前ではそれらを台無しにする言い争いが起こっていた。
困り果てた様子で眉を下げる美鈴。
逆に眉を吊り上げるフランドール。
「どうしても駄目なの?」
「申し訳ありません」
「お姉さまも、パチュリーも皆、呼んでくれるよ?」
「ですが、立場と言うものがありまして」
一向に首を縦に振らない美鈴にフランドールは不機嫌の極みだ。
「立場って何さ」
「お嬢様は妹様の姉妹ですし、パチュリー様はそのご友人です。
なので、いわば姉が妹を名前で呼んでも、友人を名前で呼んでも問題は無いでしょう」
「うん」
「ですが、私はお嬢様の配下でして……でしたら妹様にとっても配下と成ります」
フランドールはじぃっと窺うように美鈴を見ている。
不満たらたらで、どのような言葉を操っても納得する雰囲気はなかった。
「ですから、流石に名前で呼び捨てるのは示しが付かないのです……」
「……咲夜は名前で呼んでるのに……」
「え?」
「な、なんでもない、とにかく私はね……」
フランドールにとって、美鈴はいつもならば物分かりの良い大概の事を聞いてくれる存在だ。
だが、今回の件は美鈴にとっても譲れないものであるらしい。
拒絶に慣れていないフランドールにとってそれは納得できないことであり、此方も譲れないものであった。
「二人きりの時だけはフランって呼んで欲しいだけなのに」
フランドールはぶぅーと頬を膨らませて不満を吐きだす。
事の始まりは冬の事。
フランドールが美鈴に告白をした。
娘としてではなく、一人の吸血鬼として愛していると。
だけど美鈴にとってはフランドールは娘同然だった。
なので割り切るために時間が欲しいと返事を返して……。
それ故に心変わりを待つつもりだったフランドールは、しかし我慢できずに美鈴に苦しい心象を告げたのが先日の事。
静かに雪の舞い降るあの晩に、美鈴も少しずつ変わり始めていると知って、そしてもう一つ分かった事がある。
美鈴自身が押しに弱いとひょんなことから理解して、それからフランドールは変わった。
事あるごとに纏わりついて愛している事を囁くようになり、さりげなくキスをねだる様になった。
美鈴の方も押しに弱いと言う性格に加えて、ぐいぐい攻め込んでくるフランドールへの戸惑いからかほぼされるがままで。
どちらかと言うと、フランドールの方が美鈴へとのめり込んでいく、そのような状況へと変わって行った。
のめり込んでいき、親しくなるにつれて特別な何かが欲しくなるのはだれでも同じこと。
だからこそ、フランドールは美鈴にそれを望んだのだ。
「どうしても名前で呼んでくれないの?」
名前で呼んで欲しい。フランドールにとって、美鈴は特別な存在。
それだからこそ、立場に関係なく親しみを込めて自分を呼んで欲しいと。
そういう風に考えが至る事はごく自然な事であった。
「申し訳ありません」
だが、結果はこれだ。
言葉は平行線をたどり、未だに終着は見えずに。
美鈴が二つ返事で了承してくれると信じていたフランドールにとってはもう、半ば意地にもなりかけていて。
また、美鈴の方もなによりも忠義を重んじるが為にそれは譲れないものであったのだ。
「むぅ……」
一旦言葉を止めてフランドールは考える。
このまま言葉をぶつけていても何も進展しないという事は本当は理解していた。
だが、このままではいけない。明日の計画が台無しになってしまう。
明日はバレンタインデー。
好きな者に対して、好意と共にチョコレートを贈る日だ。
閉ざされた幻想郷では馴染みの無い行事。
そもそも、チョコレート自体が幻想郷にはほとんど存在しないし、風習も入ってきていない。
だが、フランドールは外の習慣のそれをしっかりと覚えていた。
美鈴の為にと、姉や魔女にお願いして何とかチョコレートを用意したのだ。
名前を呼び合いながら食べさせっこするという、そんなささやかな目的の為に。
「どうしよう……」
ターンするように美鈴に背を向けてフランドールは熟考に入る。
この、意固地な美鈴に名前を呼ばせるための方法は無いものかと。
チョコレート、二人で食べたならとてもおいしいだろう。
名前を呼び合って、お互いに食べさせあって……出来れば良い雰囲気になって……。
美鈴は押しに弱いし、雰囲気にも弱そう、だからその時はと考えていたのに……。
そこまで考えてフランドールはふと悟る。
美鈴に名前で呼ばせる方法、もし無理でも悔いの残らない方法。
「美鈴~♪」
急に声のトーンを上げて振り向いたフランドールに美鈴は戸惑いのままの様子を見せる。
「あのね、考えついちゃった」
「は、はい」
「明日はバレンタインデーだよ、覚えてる?」
「……そういえばそうでしたね」
言われて思い出したかのように美鈴ふむっと息を吐く。
「私、美鈴にチョコを用意していたんだよ」
「それは……ありがとうございます」
「それでね、勝負しよう?」
「勝負」
にやりと笑ってフランドールが告げた。
「私のチョコを美鈴が食べ切れたら名前で呼ぶのは勘弁してあげる」
「それだけで良いのですか?」
「うん、ただ、細工はするけどね」
どんな無理難題を吹っ掛けられるかと身構えていた美鈴が少々意外そうに首を傾げる。
「そして、食べきれなかったら名前で呼んでもらうよ?」
「ふむ……」
先ほどの議論は平行線。
美鈴は考える。
この提案は、フランドールの譲歩案なのかもしれないと。
意地故に引くに引けなくなった彼女の落とし所の提案かもしれないと。
「分かりました、お受けしましょう」
「うん、二言は無いね?」
「はい」
それに、もし本気で勝負を挑んできたとしても美鈴には充分に勝機があった。
美鈴は……誰にも言っていないがかなりの味覚耐性を容している。
過去に生き残るために何でも口に入れたその賜物だ。
どんなに辛くとも、どんなに苦くとも、何を仕込んでいても問題なく食べきる自信があった。
「楽しみにしていてね!」
返事に納得したのかフランドールが微笑んだ。
それから準備があるからと飛び去って、残された美鈴は一人安堵のため息をついたのだ。
☆☆☆☆
午前中の庭仕事を終えて美鈴は部屋で一息ついていた。
軽くシャワーで汗を流して、午後の門番業務までの自由時間を堪能する。
美鈴はふと昨日の事を思い出す。
フランドールとの勝負の約束。
(私のチョコを美鈴が食べ切れたら名前で呼ぶのは勘弁してあげる)
さて、どのようなチョコが来るのかと考える。
辛いのだろうか、苦いのだろうか、はたまた意外な何かが入っているのか。
ともあれ、フランドールはどういうつもりなのか、それが問題だ。
落とし所として勝負を挑んだのか、何か勝算があっての事のなのか。
美鈴はいままでずっとスカーレット姉妹の親代わりとして過ごしてきた。
かつて愛したあの方の、最後の頼みに従い守り導いてきた。
姉であるレミリアの方はずっと傍におり、実の娘の様に接してきた。
だが、考えてみればフランドールの方はずっと引き篭もっていた故に。
共に過ごした日々は多いけれど、本人として向き合った期間は僅かなのだ。
だからこそ、分からない。
レミリアの場合は五百年の間、傍に控えていた故に何となく考えが分かる。
何を求めているのか、どの様な気分なのか、長年の経験から自然と理解が浮かぶ。
一方、フランドールの方は分からない。その経験が無いのだ。
素直な良い子かと思ったら、時に強引で驚くほどに意固地になる。
子供の様に無邪気に甘えて来たと思ったら、不意に妖艶になったりする。
レミリアの場合は過去の出来事故に、あまり美鈴を困らせる様な行動はしなかった。
だが、フランドールは……最近目覚めたばかりの彼女は全てを知りたがるからこそ逆に奔放なのだ。
そして美鈴が、そんなフランドールに対しての関係に戸惑いを見せているからこそ、向こうは美鈴を親代わりとして見れない事が明確だった。
でなければ愛していると告白などはしてこないはずだ。
その想いに対して、美鈴自身がどうすればよいのか未だに図りかねていた。
善処をすると言ったものの、何処まで心を開いて良いのか分からない。
美鈴の心の中の何かが、躊躇いと戸惑いを持って惑うのだ。
フランドールはその戸惑いを突いて無遠慮に美鈴の心に入り込んでくる。
どうしようもないほど純粋で、ただ本能に近いほどの好意を持ってして。
このまま押し切られたらどうなるのか……それを美鈴は理解していた。
恋という感情。これは人間や妖怪で言うのなら、身も蓋も無く言うのであれば子孫を残すためだ。
だけど、子を生さぬ吸血鬼が求める恋とは……相手に求めるのはそれは、永遠だ。
吸血鬼には子を生す事はできずとも同族を増やす力がある。
最終的にフランドールが望むのはそれだ。
分かるのだ、それはかつて吸血鬼の寵愛を受けた事のある美鈴だからこそ。
美鈴自身、あの方が滅びる事が無ければ今頃はきっと妖怪ではなかっただろうから。
「参ったわね……」
ベッドに身を投げ出して美鈴は天井を見上げた。
分からないのだ。
自分の考えが分からない。
フランドールとそういう関係になってしまいたいのか、それとも拒みたいのか。
美鈴はともかく、明確な好意に対して弱い。躊躇いなしに押し込んでくる想いに弱い。
そして、フランドールはまさにそのタイプであったらしいのだ。
今までは、そう、あの方の最後の頼みに従っていた時は大丈夫だった。心の中に確固たる人がいたからだ。
死別してなお、美鈴の心の大半を占めていた存在があったからこそ、誰かに、どんなに言い寄られても心動く事は無かった。
だが、いまは……もう、薄れてきている。
決して忘れてしまった訳ではない、だが今の美鈴は遠い昔の約束の為でなく、皆の為に生きると決めていた。
だからこそ、現金な物だがあの方の存在は薄れて、隙間があいて、そこにフランドールは入り込もうとして……。
「どうしよ……」
このままだときっと押し切られる。
戸惑っているこの状況が一番いけないのだ。
吹けば揺れる様に儚い状態。
フランと呼んでと、彼女は言った。
それを拒んだのは何も、身分や立場からでは無い。
フランと呼んでしまえば、もう自分の中で決定的な何かが崩れてしまう可能性が否定できないからだ。
いままで必死で保ってきた、母親の仮面が崩れてしまいそうで……でもどこかそれを望んでいる様な自分が居る様な気がして。
一番まずいのは、最近のフランドールに対する感情を変化させつつある……自分だ。
好意を向けられて嬉しいと、そう変化してきている。
だが、思う反面、心の中の五百年の何かが邪魔をもする。
はっきり気持ちの整理を付けられれば、割り切れれば早いのだがそれもできない。
結局、自分ですべてを決めなくてはいけない事は分かっているのだが。
「美鈴~?」
こんこんとノックの音と呼びかけに、美鈴は意識を現実へと引き戻す。
ベッドから降りて、訪ねて来たフランドールを迎えるべくドアへと向かう。
「勝負に来たよ」
ドアの向こう。
無邪気に笑うフランドールは手ぶらで、それでもチョコレートの甘い匂いが美鈴の鼻を擽った。
美鈴はとりあえず笑顔で迎えて、フランドールを部屋へと招き入れる。
「とりあえず、お茶でも飲みましょか」
何をするにしてもまずは落ち着く事。
何時もの様に甘いミルクティーを淹れるべく茶器を手にしようとして。
「ううん、勝負が先だよ」
と、フランドールが言った。
美鈴は首を傾げる。
見た感じフランドールは手ぶらだ。
どこかにチョコを隠し持っている様子はないし、そんな必要も無いはずだ。
「分かりました、ですが、私が食べるチョコは……」
「まだ分からない?」
にぃっとフランドールが笑みを見せる。
美鈴は戸惑を浮かべてフランドールを観察する。
爪先から頭まで。普段と変わらない。
だが先ほど確かにチョコの匂いはしたのが。
愉快そうな笑みのままフランドールは、己の指を口元にあてる。
そこで初めて美鈴は気が付いた。
「まさか……」
「うん♪」
フランドールの指が指し示す先。
それは可憐な、淡い朱に色付いたその唇。
「いちごチョコだよ」
とフランドールが目を細める。
艶っぽい、と表現するのが正しいか。
幼い容姿に、それでも妖しい微笑を張り付けて。
見るもの全てを魅了すべく、むせ返るほどに甘い雰囲気を漂わせて。
僅かに開いた己の唇を指先で軽くなぞる。
「勝負……しよう?」
そのまま美鈴の下へと飛翔。
彼女の胸元に手を添えて、顎をやや上向きにまっすぐ彼女を見つめる。
「食べて欲しいな」
心の中まで響くような、甘い囁き声。
淡い朱が浮かぶ唇。
やや唇を浮かせて、フランドールは美鈴を待つ。
「……わ、私は」
戸惑った様な声。
珍しい事に美鈴が狼狽していた。
美鈴自身、経験が無い訳ではない。
むしろどちらかと言うと押しに弱い傾向から、惚れっぽい故に少なくは無い物だった。
あの方亡き後も、心こそ動かぬものの、実は多少の出来事はあったのだ。
だけど、これは違った。
美鈴が相手にしてきたのは全て男性だったのだ。
これは初めての経験。しかも外見だけなら幼い少女。
それが、アンバランスに、大人の気配を持って迫ってくるなどと言う経験は美鈴には無かった。
見つめる紅い瞳には魔性が宿る。
すべてを魅惑する、ヴァンパイアチャーム。
意識してか、無意識か、フランドールはその特性をいかんなく発揮して美鈴へと呪縛を掛ける。
そう、呪縛だ。確信犯的な、全てを分かった上で挑んだ勝負。
勝負に勝てば名前で呼んでもらえる。
負けても、美鈴と深いキスが出来る。
唇に塗られたチョコは軽い合わせでは拭いされるものではない。
「美鈴……私、キスして欲しい。いつも私がするほうでしょう。
でも、本当は好きな人からして欲しいの、食べつくして欲しい」
ひやりとした冷たい両手が美鈴の頬へと添えられる。
目の前の紅い瞳。何事も逆らう事を許さない支配者の瞳。
遠い昔に、一度魅入られた事のあるそれに美鈴は覚えがあった。
抵抗も何もない。その概念すら奪ってしまう程の圧倒的な力、
それに対して心に戸惑いのある美鈴が、ましてや妖怪として力の弱い美鈴が逆らえるはずがなかった。
「い、妹さ……んぅ……」
「ん……」
導かれるままに美鈴の顔が引き寄せられて、そのまま、静かに重なって……
☆☆☆☆
ベッドに足を投げ出して座るフランドールはやはり不機嫌。
一方、その端に身を小さくして座る美鈴は頭を抱えていた。
「私の勝ちだよ」
フランドールが言った。
それから先ほどの妖艶な雰囲気はどこへやら、まるっきり子供の様子で足をばたつかせる。
危なかったと美鈴はこっそりと溜息を吐く。
先ほどは冗談抜きでフランドールに魅入られていた。
まさか、魅了の呪まで駆使してくるとは思わずに、完全に不意をつかれていた。
数度のキスはした。でもそれだけ。
それ以上の行為に及ぶ寸前に、なんとか踏みとどまれた。
遠い昔の経験ゆえに魅了されていると気が付けたのが幸いだった。
心の抵抗を総動員してなんとか顔を離すとフランドールは恍惚とした表情を浮かべていて。
、それが少しずつ不機嫌に変わるのはさして時間はかからなかった。
「名前で呼んでよ~」
足をバタバタ。
「え、えっとですね……」
困惑のまま美鈴は言葉を探す。
勝負には負けた。
ならば約束通りに名前で呼ばねばならない。
だがそこまで割り切れてなどいなかった。
だから誤魔化す様に言葉を紡いだ。
「流石に、魅了の呪まで使うのはいかがかと……」
いまの美鈴にとって最大の脅威はそれだった。
平時であれば、フランドールの唇のチョコをなめとることくらいはたやすい。
少々行き過ぎな感もあるが、親愛のスキンシップとして自分を誤魔化すこともできる。
だが、魅了を掛けられた状態ではそうもいかない。
間違いなく洒落にならない状態まで求めてしまう事になる。
「魅了?」
きょとんとした表情でフランドールが首を傾げる。
「はい……」
ああ、分かっていなかったかと美鈴は眉を下げる。
どうやら恐ろしい事に無意識だったのだ。
吸血鬼が秘める能力の内の一つ、魅了の呪。
そのまま、相手を強制的に自分の虜にしてしまうもの。
まさに支配者たる吸血鬼の特製そのものである。
姉であるレミリアも持っていたが、此方は才能が無かったのかごく弱い物でかけられても体がむず痒くなるだけだったのだ。
だが、フランドールは違った。油断していたとはいえまさか一気に心まで持って行かれるとは流石に思わなかったのだ。
「私、美鈴に魅了を掛けていたの?」
フランドールに理解の色が浮かぶ。
なにやら考え込むようにしばし沈黙。
だが、すぐに思い出したように美鈴へと視線を向ける。
「だから、さっきは慌てて私から離れたの?」
「はい、それ以上の事を求めてしまいそうでしたので……」
「なるほど……」
美鈴の言葉に、フランドールはにぃーと口を三日月にゆがめる。
「でも、私の勝ちは勝ちだよ。名前で呼んで欲しいな、それとも……」
それから、再び妖しい雰囲気を纏って己の指で唇をなぞた。
「もう一回、挑戦してみる?」
と、そんな事を囁いた。
失敗したと、美鈴が思い至った時は既に遅い。
フランドールは美鈴が思うよりもずっと狡猾だったのだ。
前門のキス、後門の名前。
キスに挑戦しなおすとした場合、フランドールは容赦なく魅了を掛けるだろう。
それこそ、己の体の危険を顧みずに……むしろそれすら利用しそうな雰囲気が漂っていた。
そして、挑戦しなければ名前で呼ばなくてはいけない。
事実八方ふさがりだ。
そもそも、軽い気持ちで勝負を受けた美鈴が迂闊だったと言わざるを得ない。
初めから、全てはフランドールの掌の上。
容赦なく、美鈴の弱点を突いて逃げ道をふさいだ。
美鈴の弱点……身内に対しては甘い事。
本当に必要な事ならば厳しく接するも、それ以外であれば随分と判断基準が甘くなる。
フランドールなら大したことはしないだろうと思う心を見事に突かれてしまったのだ。
「分かりました……」
そう理解した美鈴は、ついに敗北を認めた。
苦しい言の葉の下に彼女は紡ぐ。
「名前を呼びます」
「うん!」
フランドールが心底、嬉しそうに美鈴の元へと寄る。
キラキラと瞳を輝かせて無邪気に期待の視線を向けた。
「………」
「はやく呼んで!」
「わかりました、では……」
美鈴が覚悟を決めたように彼女の名前を呼んだ。
「フラン……様……」
フランドールは不満そうに眉根を下げる。
「様はいらないよ」
確かに、名前は呼んだ。
だが、どうしても呼び捨てにすることが美鈴にはできない。
勝負は勝負。
約束をたがえる訳にはいかない。
だが、美鈴は思う。
これは公平ではないのではないかと。
向こうが美鈴の弱点を突くなら、此方も好ましい事ではないが、フランドールの弱みに付け込ませてもらおうと。
苦しいが、フランドールに人生経験で勝る美鈴にはまだ誤魔化す手段があった。
ぶうっと頬を膨らませるフランドールに不意に顔を寄せる。
「え?」
それから唇を一嘗め。
甘い、蕩けるほどに甘い味覚が美鈴の舌を刺激する。
「ふぇ……」
フランドールが口元を押さえ、顔を赤くする。
案外に初心な反応に美鈴は意外な面持ちを浮かべる。
もしかしたら不意打ちに弱いのかもしれないと、美鈴は考える。
「不意打ちとか、卑怯だよ」
「すいません、ですが、これでチョコは大分嘗めとりましたよね」
「むぅ……」
不満そうに呻くフランドール。
だが、顔の赤みは取れずに口元は抑えたまま。
「どうか、妥協していただけないでしょうか」
美鈴はフランドールへと懇願する。
僅かに頬に朱を乗せて、照れたように。
「フラン様。実は私もいっぱいいっぱいで……」
窺うようにフランドールが美鈴を見る。
美鈴の弱った様なその表情を見て仕方なしといった風に息を吐いた。
「分かったよ、"フラン様"で許してあげる」
「ありがとうございます」
「あんまりしつこくして、美鈴に嫌われちゃったら元も子もないものね」
フランドールの弱点。
それは、そのまま美鈴に惚れた弱み。
それがどれほどに効果を発揮するのか自身の体験から美鈴は知っていた。
魅了の使えぬ状況であればチョコを嘗め取るのはたやすい。
故に応じるふりをして不意を突いて、それから懇願する。
一応、逆転で美鈴の勝利となる訳で……
そしてお互いが納得できる条件を提示する。
美鈴の事が好きであるフランドールならば、妥協してくれると予想して。
そして、目論見通りそれは成功する。
なんとか呼び捨ては免れて美鈴は安堵した。
「でも、なんだか悔しいから」
そう言ってフランドールは美鈴へと抱きついた。
「門番に行くまで、甘えさせてもらうの。
妥協してあげたのだから、それくらいはいいでしょう?」
そうやって何時もの様に首筋へと甘噛みを開始する。
「了解しました」
と、そう返事をしてフランドールを抱きしめて。
この強引さは誰にに似たのだろうと天井を仰いで……思い至る。
あの方だと……間違いなくそれが遺伝している。
それならば、かつてなすすべ無かった美鈴にとっては天敵であると。
その事を理解して、美鈴はこれからの未来への困難さを浮かべて……。
重くて長い、でもどこか切ない様な、そんな溜息をついた。
-終-
だが、コーヒーが甘くなりすぎて飲めなくなったぜ。
なんか過去作品も読み返したくなってきた。一丁読んできます