鍵山雛が行方不明になった。
「ほわあああああああああ!! えらいこっちゃああああああああああああ!!」
両の拳を胸の前で軽く握り、腰を基点にやや前傾姿勢を取りながら、きゅっと目蓋を閉じて椛は叫んだ。
文は畳に寝転んだまま、口の中の飴玉をかろかろと右に左に弄びつつ、これを完全に黙殺した。
椛は動かない。
文も動かない。
ただ宙ぶらりんな午後のけだるく淀んだ空気を、椛の突き出たお尻の上でぱたぱたと揺れる尻尾が撹拌している。
やがて目を開き、首だけをわずかに動かして文の様子を確認した椛は、再び顔の向きを正面へと戻し、叫んだ。
「ほわあああああああああ!! えらいこっちゃああああああああああああ!!」
「やめてください、椛」
文は苦虫を噛み潰したような顔で飴玉を噛み潰した。
ばりばりとこぼれる凶悪な音が、天狗の強靭な顎と健康な歯を示していた。
「いったい何の真似だと言うんです」
「嫌だなあ、文さん。真似だなんて。これは私の正真正銘オリジナルな台詞とポージングですよ。三日三晩、寝ずに考えたんですから」
椛は再び首だけを文の方へ向け、些か得意気に言った。
天を指す尻尾はさらに勢い良くぶいんぶいんと振られる。
「そんな下らない事を三日三晩も考えた上、完成したクオリティがそれですか。大切な何かをあきらめた方がいいのではないですか。主に、生きる事とか」
おもむろに文は上体を起こし、荒れ狂う椛の尻尾を電光石火の速度で掴んだ。
稲妻に打たれたかのように、椛の身体がびくんっ、と宙に跳ねた。
「きゃふううぅっっ!!? し、尻尾はらめえええぇぇぇ…!!」
身をくねらせながら躍り上がった椛は、しかし静かに両の足で地に降り立ち、ゆっくりと振り返った。
「…と は な ら な い」
とっておきのニヤニヤ笑いを顔に貼り付けたまま、椛は天井と畳の間を三往復した。
遅れて、拳が顎を捉えた衝撃音と、爆風が広がった。
その威力に、四畳半の中心の正方形を残して畳が全て裏返り、埃と、虫の死骸と、へそくりの紙幣が舞い散る。
驚嘆すべきは、文の家の天井と床の耐久力。
「どうしたんです、椛? すっかりキャラが崩壊してしまっているではないですか。ただでさえキャラ立ちしていないのに、先輩として私は非常に心配しています」
高下駄で椛の頭を踏みつけつつ、文は深刻な面持ちで語りかけた。
「そうですよ、キャラです! そのキャラが問題なんですよっ! 私みたいな、立ち絵も、スペカすらも無い中ボスキャラは、常に自らのキャラクターの限界に挑み続けなければならないんですっ!! 文さんみたいに、太ももくらい露出しておいて、あやややや、とか言ってりゃいいだけの人とは違うんですっっ!!!」
涙ながらに切々と訴える椛の顔は、大半が畳の中に没して最早見る事も叶わない。
「それはそれは、有象無象共の涙ぐましい努力などとんと気付かず、申し訳ありませんでした。ですが椛、そのキャラクターの方向性はやめた方がいいと思いますよ。いいですか、真面目で実直、少しおっちょこちょいの下っ端キャラで、文さんにいじめられて涙目になりながら実はちょっぴり悦んでしまう。嫌よ嫌よも好きの内、なツンデレボーイッシュ犬耳っ娘こそが犬走椛なのです。異論は認めません」
「そんな若干文さんの個人的趣味が含まれたキャラクター像に縛られるのはもう嫌なんです!」
くぐもった悲痛な叫びが、畳の中から聞こえる。
「しかし世間の需要はどうです? そういったキャラクター付けがあってこそ、貴女はそこそこの人気を維持していられるのではないですか? 後付けの二次設定を取り払った貴女なんて、せいぜい毛の生えた毛玉程度じゃないですか」
文の高下駄の歯はすっかり土間部分に根元まで埋まり、あたかも草履を履いているかのように見える。
「それでもっ! 私はっ! 自由と独立を欲するっ!! 加えて、光と酸素もっ!! 苦しい!! 死ぬ!!」
文が足首をつかんで思い切り引っ張ると、すぽん、と勢い良く飛び出た椛は再び天井と床を三往復した。
裏返った畳達が綺麗に元通りに返るかと思いきや、一枚だけ一回転して裏のままで残ってしまった。残念。
床にくずおれてひとしきり咳き込んでいた椛は、やがてよろよろと立ち上がると、頬を膨らませながら言った。
「もう、文りんったらぁ! おイタが過ぎるゾ☆」
(くっ…! この椛…っ! 今日の椛は――相当ウザい…っ!)
文は戦慄した。
額から流れ落ちる冷や汗を拭いつつ、素早く計算を巡らす。
ターゲットには可及的速やかにここからお帰り願いたいが、切り出し方を誤れば被害は拡大する一方だ。
「用が無いなら帰ってもらえます?」
自らの言霊の神速具合に文は天を仰いだ。
直球ど真ん中いってもうとるやんけ。
「だからぁ、用ならあるんだってばぁ。最初から言ってるでしょ? えらいこっちゃって。今日は、記事のネタを持ってきてあげたんだゾ☆」
だゾ☆、のところで椛の人差し指が文の鼻めがけてずずいと伸びる。
スウェーを駆使して必死で回避する文。紙一重だった。
「わかりました。話を聞きましょう。その代わり、キャラを出来るだけニュートラル方向へシフトチェンジして頂けませんか」
「心得た」
その返答自体若干怪しくないか、と思いつつ、気を取り直して座る。
椛も文の傍らに腰を下ろした。
「さて、文さん。厄神様が行方不明になったのはご存知ですよね?」
「そりゃあ知ってますよ。散々色々な新聞でも取り上げられましたしね。今さら、ニュースとしては何の価値もありませんよ」
文は不愉快そうに鼻を鳴らした。
鍵山雛が行方不明になった、とのニュースは天狗の大手の新聞の内の一紙が最初に取り上げ、瞬く間に様々なメディアへと伝播した。
しかし、未だその消息は不明のままであり、そもそもいつ頃から姿を消していたのかも定かではなかった。
幻想郷においては、誰がどこで何をしているかなんていちいち誰も気にしない為である。
話によると、『あれ、そういえば最近厄神様見なくね?』というとある天狗の一言がスクープのきっかけとなったそうだ。
日刊ではない零細紙の文々。新聞は常々スクープ記事では大手に遅れを取る事がほとんどだったが、今回については十分スクープ第一号を取れるチャンスがあったという事になる。
それが、文を非常に悔しがらせた。
雛のニュースを耳にする度に舌打ちをし、悪態をつく日々。
雛たん悪くないのに。マジかわいそう。
「しかし文さん。まだ雛さんは見つかっていないんですから、見つければ特大スクープって事になりますよね」
「まあ、なりますね。でも、何か心当たりがあるんですか?」
これだけ大々的に報道され、捜索が続けられているのに何一つ事件は進展を見せていないのだ。
今さら、そこまでの有力情報が椛の所に転がり込んで来るとはにわかには信じ難かった。
「実は、雛さんの自宅は全く捜査されていないらしいんです」
「え? そうなんですか? 何故です?」
「ばっちいから」
ごん、と文は畳に額を打ち付けた。
やる気無さ過ぎだろう、捜索班。そもそも誰が捜索してんだ。
「白狼天狗隊が」
てめえか。
「というわけでチャンスですよ、文さん。ばっちいのを我慢すれば重大な手がかりが手に入るかも知れませんよ」
「しかし厄まみれの雛さんの自宅に入るのは確かに少々危険が伴いますね。どうしたものか」
「神社へ頼んで厄祓いしてもらったらいいんじゃないですか」
「それだわ。椛偉い。ご褒美に頭を撫でてあげるわ」
「ありがたき幸せ」
~二時間後~
「うん。撫で過ぎてハゲましたね」
「うおおおおおおおい! 何してくれてんだよアンタアアア!!」
二時間大人しく撫でられ続けたお前に非は無いのか、と小一時間問い詰めたい。
~小一時間後~
「さて、エライ人のお説教も済んだ事ですし早速出発しますか」
「まずは神社ですね」
文と椛は真っ直ぐに守矢神社へと向かった。
他に選択肢は無かった。
「こんにちわー」
二人が鳥居をくぐると、早苗が境内の掃除をしているのに丁度出くわした。
「あら、文さんに…」
早苗はそう言いかけ、椛の方を見てほうきを動かす手を止めた。
(おいおい、今さら名前出て来ないネタかよ…)と文はうんざりした。
「犬走様! いつも大変お世話になっております!」
(えー…予想外の展開)と文はどっちにしろうんざりした。
「本日はどういったご用件でしょうか?」
妙に愛想の良い早苗。おでこのテカり具合も三割増しである。
「実はかくかくしかじかで…」
~少女説明中~
「かしこまりました。厄神様も心配ですし、私にお手伝いできる事ならば喜んで」
揉み手をしつつ二つ返事の早苗。いったいどれ程の借りが椛にあるというのか。
「では早速出発しましょう」
「ああ~、申し訳ありませんがちょっとだけお待ち頂けますか? 実は神奈子様も諏訪子様も今お出かけされてて、神社が留守になってしまうんです。もう間もなく帰って来られると思いますので」
「ふむ、仕方ないですね」
「お待ちになる間、お参りなどいかがですか」
く、この商売上手め。
しかし頼み事をするのだから無碍には出来ない。
文が賽銭箱の前に立つと、早苗から機械音声が流れ出した。
『いらっしゃいませ。
ご参拝ありがとうございます。
射命丸 文 様の信仰ポイントは、 45ポイントです。
あと 5ポイントでレベル 1神徳が授けられます。』
「椛ーっ! 椛ぃーっっ!!」
「どうしました? 文さん」
「何コレ! 何なのコレ!!」
『ピピー。お賽銭を入れてください。』
「ああ、守矢神社さん、ちょっと前に信仰と神徳の関係が不明瞭だって一部の信者から訴訟起こされたらしくて。それで、信仰のデジタル化を導入したみたいですよ」
「怖いよ! 現代社会怖い!!」
『ピピー。お賽銭を入れてください。』
「ちなみに1円=1信仰ポイントですから。文さん、全然お参りしてないんだなあ。駄目ですよ、こまめに参拝しないと。つまり、この場合、5円お賽銭を入れればレベル1の神徳が授けられるわけですね。まあ、レベル1の神徳ですからそんなに過度の期待は抱かない方がいいですよ」
『ピピー。お賽銭を入れてください。』
「うるさい! アラームうるさい!!」
早苗から鳴り響く電子音と音声に催促されるままに、文は小銭入れから5円玉を取り出して賽銭箱に放った。
『柏手を打ってください』
「うっさいわ!指図すんな!」
『礼をしてください』
「これもうアカン。マジ気が狂う。マジ気が狂う」
『ピピー。礼の角度が浅すぎます。もう一度やり直してください。』
「うおわあああああああああああああああ!!!」
文が本気で早苗に殴りかかろうとしたので椛は必死で止めた。
まさしく寸止めであったが、早苗は瞬きすらしなかった。というか、さっきからずっとしてない。ドライアイが心配だ。
どうにかこうにか気を落ち着けて、深々と礼をする文。
気を落ち着けるまでに六回程幻想を風靡した。流石に息も切れる。
その間、早苗は警告音を鳴らし続けていた。
『デンデロリロリロリローン。
おめでとうございます。
射命丸 文 様の信仰ポイントが、 50ポイントに達しました。
射命丸 文 様に、レベル 1神徳が授けられます。』
安っぽい電子音のファンファーレと共に、早苗は文にレベル1神徳を告げる。
『レベル 1神徳によって、 射命丸 文 様の新聞の定期購読者が 10%増加します。
おめでとうございます。』
「わあ、すごいじゃないですか文さん! レベル1神徳なのに10%も増加するなんて!」
「…質問です。小数点以下の取り扱いはどうなるのでしょうか」
『切り捨てです。』
文は、がっくりとその場に膝をついた。
『ご利用、ありがとうございました。
またのご参拝をお待ちしております。』
沈黙が場を支配した。
椛は、文にかけるべき言葉が見つからなかった。
唇を噛み締めて、ただただ、文の側で立ち尽くしていた。
「はい、続きまして犬走様。本日も参拝して行かれますか?」
「うん、するするー♪ ああ、ちょっと文さんどいてもらえますか」
うずくまった文を足で脇に押しやる椛。
『いらっしゃいませ。
ご参拝ありがとうございます。
犬走 椛 様の信仰ポイントは、74843000ポイントです。
あと157000ポイントでレベル25神徳が授けられます。』
「待て待て待て待て待て待て待て待て待て」
「またそうやって私を犬扱いするんですか? 待てなんてしませんよ」
「おかしいおかしい。信仰ポイントおかしい」
「私は文さんと違ってコツコツお参りに来てるんですよ」
「そういう問題じゃありません。どこからそんな大金を捻出してるんですか」
「主に賭け将棋です」
「汚っ! 思いの外汚い金だよ!!」
「神徳を将棋の勝敗や上層部への工作に回しながら、少しずつ事業を拡大して来ましたからね」
「悪魔だ! 本物の悪魔がいたよ!! っつうかこれだけVIPだと早苗も催促のアラーム鳴らさないんだな! 利益主義怖い!!」
「さて、157000ポイントか。面倒だから一束突っ込んでおこう」
椛は無造作に袂から帯付きの札束を取り出すと、賽銭箱に放った。
ずしゃり、と重たい音がした。
「私、もう椛の事が何も分かりません…」
文ははらはらと落涙した。あの頃の可愛かった椛は、もうどこにもいないのだ。
そんなあの頃は、文の頭の中にしか無かったが。
『デンデロリロリロリローン。
おめでとうございます。
犬走 椛 様の信仰ポイントが、75000000ポイントに達しました。
犬走 椛 様に、レベル25神徳が授けられます。
レベル25神徳によって、 犬走 椛 様に次回作への出演権と、スペルカード2枚が贈与されます。
おめでとうございます。
ご利用、ありがとうございました。
またのご参拝をお待ちしております。』
「いよっしゃきたあああああああああああああああああああああああああ!!!! スペカ! 悲願のスペカ!!」
「ああ、椛も次回作に出られるんですね。私も嬉しいですよ」
「あれ、文さんも出るんですか?何面ボスですか? 私はやっぱり中ボスだろうなあ~。出来れば文さんの面の中ボスがいいな~、なんて」
「ああー、すみません椛。私は自機ですよ」
「え」
「私は自機なんで、椛と一緒にお仕事は出来ないんですよ。どっちかというと、椛をやっつけちゃう感じですね」
「……」
何か、気まずい感じになった。
無理もない。
かたや、7500万を費やしてスペカ2枚立ち絵無しのチョイ役。
かたや、何もしないで幾度目かの自機。
急激に冷え込む守矢神社の境内に、あやもみ派最大の危機の気配が滲む。
「はー、目が乾きますねえ。…あれ、何ですかこの空気」
早苗が現世に復帰すると、そこは雪国だった。
掌の上に、ひらりと舞い降りる白い白い雪。
「わー、綺麗…」
早苗はうっとりと目を閉じる。
そして、ゆっくりと開けてみる。
駄目だった。状況は全然改善されてなかった。
すっごい空気ギクシャクしちゃってる。
(早く神奈子様と諏訪子様が帰ってこないかしら…!)
風祝の祈りは天に届いた。
「ねぇねぇ神奈子ぉ~、ホントにこんなにいっぱい買ってくれて良かったのぉ~?」
「ハハハハ、愛する諏訪子の為ならノー・プロブレムさ。最近賽銭もばかばか入って儲かりまくってるしな。それにしてもその帽子、似合ってるな。今日の諏訪子は、豊葦原瑞穂国始まって以来の可愛さだ」
「いやぁ~ん☆ ケロたん、は・ず・か・し・い!」
風祝は吐血した。
空から降臨する神奈子。
神奈子に肩車された諏訪子の満面の笑み。
そして、二柱は異常な量の買い物袋をぶら下げていた。
諏訪子の頭の上の例の面妖な帽子には、どこかで見たようなLとVを組み合わせたロゴマークが入っていた。
オーダーメイドか。オーダーメイドなのか。
「やっべ、諏訪子、客いるわ」
「マジ? やっば」
一瞬にして荷物と諏訪子が消えた。
神奈子は溢れんばかりのカリスマを湛えつつ、文と椛の前に降り立った。
「守矢神社へようこそ。今日は何用かな?」
「おたくの脇巫女(グリーン)をお借りしたいんですが」
文は完全な無表情でそう告げた。
「構わないよ。何年でもどうぞ」
神奈子は究極のアルカイックスマイルで答えた。まさかの一人神仏習合。
こうして、早苗は荷馬車に揺られて守矢神社を後にした。
雨降って地固まる。
今や、文と椛の結束は前にも増して強いものとなっていた。
文と椛は、きつく誓い合ったという。
今回のヤマが一段落したら、守矢神社マジぶっ潰す。
一行はようやく鍵山雛の家までたどり着いた。
木立に囲まれた湖畔に佇む、明るいブラウンを基調とした木造の小ぢんまりとした一軒家は、持ち主の人となりを感じさせた。
家をぐるりと取り囲むように広い花壇があり、そこには様々な花々が、しおっしおに萎れていた。
「こりゃ厄いわぁ…」
主が不在の邸宅は、見るからにどんよりと暗い気が立ち込めていた。
これだけの厄を自らの内に漏れ出ないように抑え込むというのは、並大抵の事ではないのだろう。
厄神様、恐るべし。
「それじゃあ先生、お願いします!」
早苗が厄を祓い始める。
祓い終わった。
「え、早! 本当に大丈夫なんですか?」
「ええ、厄は全て綺麗に祓いましたよ」
やっぱり、厄神様、大した事無いかも知んない。
「それではいよいよ、雛さんのご自宅拝見と参りましょうか」
思わずパパラッチ根性が顔を出す文だが、それもいたし方あるまい。
前人未到の秘境、厄神様のお宅、本邦初公開である。
早苗を先頭にして玄関をくぐる。
正面の壁に肖像画。雛の。ナルシストか。
右下にはサイン。Hina、と読める。自画像だ。うめえ。サインも無駄にうめえ。ナルシスト確定。
思わず写真に収める。
三和土には靴は出ていなかった。
下駄箱を開けてみると、同じブーツがずらり。
椛に匂いを嗅がせて追跡させようと試みる。
思いっきり殴られた。
ダイニングキッチン。
綺麗に整理整頓されていて、洗い物も無い。
「これだけ片付いているという事は、突発的な事件に巻き込まれたというよりは、計画的に失踪した可能性が高いですね」
椛の指摘に頷きつつ、慎重に冷蔵庫を開ける文。
一段目、ボンレスハム。
二段目、ロースハム。
三段目、生ハム。
文は沈痛な面持ちで首を横に振り、写真を撮ってから無言で扉を静かに閉めた。
洗面所・浴室。
洗濯物も一切残っていなかった。
「もうここには見るべき物はありません」
文はきっぱりと言い放った。
トイレ。
何も言わない内から椛と早苗に殴られる。断念。
寝室。
何か手がかりが残っているとすれば、当然ここにある可能性が高い。
一行は慎重に室内へと入った。
やはり綺麗に片付いている。
本棚に収められた本も右から背の高い順に並べられていて、几帳面さがうかがえた。
経済に関する本と、ハムに関する本が大部分を占めていた。鍵山雛よ、どこへ行く。と言うか、どこへ行った。
机の上には、写真立てが飾られていた。
にとりと、二人で撮った写真だった。
微妙に間隔を空けて、並んで立っている。
弾けるような笑顔のにとりと、恥ずかしげに微笑む雛の対比が印象的だった。
「ああ、これ随分と昔に私が撮った写真です。覚えてますよ…」
懐かしげに目を細める文に、早苗が訊ねる。
「雛さんは、にとりさんと仲が良いんですか?」
「というか、にとりさんが一方的に雛さんを好いていた様に見えましたがね。まあ、厄神をそうやって慕ってくれる人も多くは無いのでしょうから、雛さんにとっても大事な存在だったのかも知れませんね」
「そうかあ。後でにとりの所にも行ってみましょうか。何か知ってることがあるかも知れない」
「ああ、椛もにとりさんと仲が良かったんでしたね」
「あ。これ、雛さんの日記じゃないですか?」
早苗の声に、文と椛も早苗の手の中のノートを覗き込む。
ノートの表紙には、デフォルメされた雛の絵が書いてあり、フキダシで「ゼッタイ見ちゃダメ!」と書いてあった。うわー。
「他人様の日記を覗くなど全くもって心苦しいばかりですが、捜索の為、やむを得ず、拝見させて頂くとしましょう」
弾む声で文が早苗に頁をめくるよう促す。
「文さん、口元が緩んでますよ。不謹慎だなあ」
生真面目な顔つきで口をへの字に結んだ椛の尻尾は、しかしぐるぐると円を描くように激しく振れていた。
「どんな乙女の秘密が書いてあるんでしょうねえ。ふひひ。それではご開帳~」
意外と早苗が一番下種だった。
早苗(下種)はノートの適当な頁を開いた。記述は日付と本文だけの、極めてシンプルなスタイルであった。
○月×日
森で大きな白い鳥を見つけた。
羽が折れて、飛べない様子だった。
そっと近づいて、傷口を診る。
もう、助からない事がわかった。
私には何も出来なかった。
ただ、最期まで傍にいて、ただ、見ていた。
一頭狐が現れたけど、私を見つめた後、諦めて去っていった。
どうせ助からない命なら、自然の食物連鎖へと返してあげれば良かったのに。
全部私の単なるエゴ。分かっていたけど、そうせずにはいられなかった。
亡骸は、布で包んで、川に流した。
家に帰って、ベッドに入って、泣いた。
「……」
「……」
「……」
○月△日
散歩していたら、仔犬の兄弟が原っぱで遊んでいた。
コロコロとした、本当に可愛い子犬達だった。
しばらく立ち止まって眺めていた。
すると人懐こい様子でこちらに駆け寄ってくるので、慌てて逃げた。
「私は穢いから、こっちへ来ちゃだめよ!」って叱りながら逃げたけれど、どんどんついて来るので困ってしまった。
しばらく追いかけっこをしたが、途中で飛んで逃げればいい事に気付いたので、そうした。
それにしても、可愛い仔犬達だった。
もし叶うならば、私だって頭を撫でたり、一緒に遊んだりしてみたかった。
仔犬を抱っこするって、どんな感じなんだろう?
「……」
「……」
「なんか、もう、さっさと一番最後の頁を見ましょうか…」
一行は自らを苛む羞恥から目を逸らしつつどんどんと頁をめくって行くと、日記はおよそ三週間程前の日付で止まっていた。
最後の日記は、たった二行だけだった。
△月×日
海を見に行きたい。
全てが還る、海へ。
「これって…雛さんは、海を見に出かけたって事でしょうか」
「幻想郷に海はありませんよ」
「すると…外の世界へ行ったという事ですかね?」
では、どうやって?
謎は深まるばかりだった。
その後もしばらく捜索を続けてみたが、手がかりになりそうな物は何も見つからなかった。
見つかった物と言えば、本棚の裏から一枚、辞書とそのケースの間から一枚、ベッドの下から三枚、ハムが出て来たっきり。
なお、出て来たハムはスタッフが美味しく頂きました。マジこれうめえ。
一行は玄関の扉を静かに閉め、雛家を後にした。
「仕方ないですね。とりあえずにとりさんの所へ行ってみましょうか」
「そうですね」
文と椛はにとりに聞き込み調査をかける事にした。
「では、私はここで失礼しますね。雛さんが無事見つかるよう、お祈りしています」
「ああ、ご苦労様でした」
早苗が離脱した。二柱の為に夕食の準備をしなければならない、と焦って飛んで行く。巫女の割に気苦労が多い人だ、と文は思った。
しかしそもそも早苗は巫女ではなく風祝である為、気苦労が多かろうが不思議は無かった。
巫女は気楽な稼業である、という前提条件の方については、どこからも異論は出なかった。
陽の傾き始めた幻想郷の空を、二人の天狗は連れ立って飛ぶ。
眼下で徐々に茜色に染まってゆく幻想の箱庭は、例えようも無く美しかった。
何万回見ようとも、色褪せないその美しさを、だからこそ文はフィルムに納めようとは思わない。
この世界のどこかに、今も鍵山雛はいるのだろうか。
何をしているのだろうか。
何を思っているのだろうか。
「文さん」
傍らを飛ぶ椛が、軽く頷きながら静かに文に語りかけた。
「にとりの家、めっちゃ通り過ぎてます」
「はよ言え!」
にとりの家の前に降り立った二人は、すぐさま異常に気が付いた。
既に周囲は大分暗くなっているのに、明かりが灯っていない。
しかし、玄関の戸は大きく開け放たれていたのである。
「にとり!」
友人の身を案じて家の中へと駆け込む椛。文もそれに続く。
まさか、にとりまで失踪してしまったとでも言うのか。
祈りにも似た焦燥と不安に胸を焦がしながら、にとりの姿を探す。
いない。
いない!
「残るはこの研究室だけですね」
研究室の扉には「立入禁止!! 勝手に入って、死んだり、なんか変な風になっても知らないよ にとり」という禍々しいフォントの警告文が貼ってあった。
青ざめた顔で息を切らした椛を宥めつつ、文はゆっくりと重い扉を開いた。
「――!!」
暗い室内、ガラクタが散乱しているその床に、にとりは倒れていた。
「にとり!どうしたんだ!?」
蹴躓いてあれやこれやを吹っ飛ばしつつ、椛はにとりの傍に駆け寄った。
「にとり! 大丈夫? 何があったの!?」
「う、うぅ…」
幸い、にとりの意識はすぐに回復したようだ。
「明かりを点けますよ」
文は入り口の脇にあった電灯のスイッチを入れた。
そして、文と椛は絶句した。
「こ、これは――――」
壁一面に張り巡らされた、鍵山雛のポスター、写真、絵。
隙間が無い。全く無い。等身大に引き伸ばした巨大ポスターもある。
天井にも貼ってある。ベッドの真上に貼ってある絵は、軽くあられもない姿になっちゃってる。
棚があった。大小のフィギュア、ざっと数百点。
とにかく、厄神様まみれ。ありえない数の厄神様に見つめられてる。切ない瞳で。
こっちを見てない厄神様もいっぱいいる。そりゃそうだよね、アングルが盗撮だもん。
「き、」
舌が強張り、喉が震えて声が出ない。
相当な齢を経て、それなりに幻想郷の古参を自負する文が、はじめて覚える恐怖。
「きめえええええええええええええええええええ!!!!」
どう考えても超絶にストーカーだった。
にとりを締め上げ、遠巻きに尋問すると、雛が行方不明になってから心配で心配で食事も水分も喉を通らず、結果ぶっ倒れたとの事。
発言の合間合間に「雛たん大丈夫かな」「雛たんお腹空いてないかな」「雛たんが寂しくて泣いてたらどうしよう」等とちょいちょいはさむので、会話は著しく面倒だった。
「私達は貴女の大事な雛さんを捜索しているんですよ。何かご存知の事があったら協力してもらえませんかね」
「そりゃもちろん協力させてもらうよ、雛たんの為ならね、いや間違えた可愛い雛たんの為ならね、まあ可愛いといっても普通の可愛いじゃなくて宇宙一可愛いっていう可愛いだけど。悪いけど。うん」
文は生理的嫌悪感に耐えられず、ぶるりと身を震わせた。
(ちょっと。椛の友人だからと言ってここまでの変態だなんて聞いてませんよ…!)
(いや、私もはじめて知りましたよ! いや、というかむしろ友人じゃないっていうか、この人初対面です。ハイ)
(ホントお前ってそういう奴だよ…!)
一瞬のアイコンタクトで意見を交換する。
結果、必要な事だけ聞いて一刻も早く退散すべきだという方針が固まった。
「さ、さてにとりさん。貴女が最後に雛さんを見かけたのはいつですかね?」
「うーん、三週間くらい前の△月×日の、午後3時28分15秒から31分22秒くらいにかけてじゃないかなあ、曖昧で申し訳ないけど」
(△月×日って、雛さんの日記の最後の日付ですね)
(…あり得んキモさですが、情報源としては優秀かもしれません)
ストーカーであるが故に、雛の失踪する前の最終目撃者である可能性も高い。
「なるほどなるほど。どちらで目撃されたんですか?」
「わたしの家の前だよ。わたしがテラスで胡瓜をかじってたら、ほら、そこの窓から木が見えるでしょ? ほら、あの木とあの木ね、その間からこっちの方に向かって歩いてきたんだよ。『おーい、にとりーん』って手を振りながらね。いや、ちょっと違うな、もっとこう、『お~ぅい、にとりぃ~ん』いやいやこんなに媚びた感じじゃなくてもっとナチュラルな可憐さが、ん、んんっ(咳払い)『おおーぃ、にと』違う、違うわもっと瑞々しい感じだったもぎたての胡瓜のような、ま~ま~(発声練習)『おぉーい』くそっ今日は調子が悪いないつもはもっとうまく『お』」
「いえにとりさん、結構です。凄く伝わりましたよ。いやホント」
いたたまれずに椛の尻尾の毛を毟りつつ、文は必死で愛想笑いを浮かべた。椛は虚ろな視線を空中にさまよわせ、時折びくりと痙攣するのみであった。
「そうかい? まあ、本物の雛たんの可愛さの百万分の一でも再現出来れば言う事無いけどね、おっと今のは流石におこがまし過ぎたかな? ねえ? あははは」
「あははは。あは。で、その後は?」
「わたしも挨拶を返そうとしたんだけどね、ちょっと盛大に鼻血が噴き出ちゃったもんだから、左手で鼻を押さえつつ右手を振り返したよ。通りがかりだったみたいで、雛たんはそのままわたしの家の前の坂を下っていったんだ。回りながら。くるくる~って。っていうか、自分で口で言ってた。『くるくる~』って。ぬほっ、テラモエス!! ヤバス!! ひ、ひ、ひなあああああああっっしゅ!!」
親切にもにとりが当時の再現とばかりに鼻からヴォルケイノしてくれたので、文は顔に降りかかる赤い煩悩を団扇で防がねばならなかった。
「あやや、よくわかりました。ではこちらの坂を下っていけば雛さんの足跡を辿れそうですね」
顔が引き攣り過ぎてキュービズムな様相を呈しつつある文に対し、にとりは言った。
「いや、もっと正確に到達地点を割り出すことが出来るよ」
「と言いますと?」
「雛たんは回転している間は等速直線運動となるんだ。まあ、坂を下っている間は等加速度運動になるわけだがね。従って、初速と運動の方向、それに雛たんの質量を用いて科学的に解を導き出すことが可能ってわけさ」
「なるほど、さすがサイエンティストは違いますね」
「なに、大したことじゃないさ。科学なんて雛たんを愛でる片手間に遊びでやってるだけだからね」
「ははあ…そうですか…」
にとりは手近にあったメモ用紙に何やらガリガリと数式を書き付け始めた。
「ほら、見て。これが初速でしょ? で、これが運動の方向ね。で、ご存知の通り雛たんの質量が服飾込みで41.2271kgなわけだから…」
文は、適当に相槌を打ちつつ、厄神様は痩せ過ぎじゃないかと心配していた。
「…、で、これを微補正しなきゃいけないわけよ。雛たんがお昼に食べたのがハムを挟んだサンドイッチと紅茶で計412.6gで、その後おてあら」
「もうそこはいいですよ! てかなんでそこまで知ってんだよ! やり過ぎだろアンタ!!」
雛の行き先を聞いた後、文と椛はにとりをなますにした。
なお、なますにされたにとりは胡瓜と和えて、スタッフが美味しく頂きました。マジこれうめえ。
「疲れましたね」
すっかり陽も落ちて、夜の帳の中を飛んで行く。
身を切る風は冷たく、人外の輩共が蠢き始める不穏な気配が漂う。
疲労の色は隠せない。
特ににとり邸で被った精神的ダメージは深刻に二人を蝕んでいた。
「全くですよ。でも、どうにか雛さんの行方を突き止められそうな所まで来ました」
にとりからせしめた地図に記された、雛の最終到達地点は、三方を崖に囲まれた袋小路となっている。
にとりの計算によれば、雛はかなりのスピードでその崖に激突しているはずである。
曲がりなりにも神様なのだから命に別状は無いだろうが、そこで何かがあったのかも知れない。
文達はジャーナリスト根性でもって身を鞭打って目的地へと急いだ。
件の場所は、寂れた公園のようだった。
錆の浮いた遊具達。申し訳程度に設けられた砂場。4つ並んだブランコの一番右は、座る部分の板が外れていた。
地面の雑草は伸び放題だし、全般に、打ち捨てられた、との形容がしっくり来る。
こうして宵闇の中眺めると、侘しさを超えて不気味ですらあった。
とはいえ、周囲をこうも背の高い崖に囲まれては、昼といえどその有様が推し量れようというものだ。
「淋しいところですね…」
手に息を吐きかけ、しきりにこすり合わせながら椛が呟いた。
実際、気温もかなり冷え込んできている。
「さっさと現場検証にかかりましょうか。長居は無用です」
寒さと暗さは捜索活動においては最大の支障となる。
疲労の蓄積も含め、時間が経てば経つほど状況は悪化するばかりだ。
ともすれば冷え込みそうなモチベーションに、必死で火を点ける。
「あれ、文さん。何か聞こえませんか」
「…?」
椛は文より視覚も嗅覚も聴覚も優れている。
ちなみに味覚はどっこいどっこいである。触覚は、多分椛の方が敏感。
ともあれ、文はそう言われて注意深く耳を澄ます。
「…確かに何か聞こえますね」
「どうやら、女性の話し声のようです。崖の上に誰かいるみたいですよ」
椛はぴこぴこと耳を動かしつつ、上の方を見上げている。
「行ってみましょうか」
文と椛は、崖の上からは死角となる壁面沿いを、上の様子を窺いながらゆっくりと上昇していった。
「そうやってお姉ちゃんはまた私を騙すのね!」
「私がいつ貴女を騙したと言うの? 愛しい、愛しい貴女を」
「その言葉が既に嘘じゃない! 馬鹿にしないで!」
「ああ私の可愛い穣子、そんなに怒らないで。折角の美貌が台無しよ」
「戯れに近づかないで! 私に触れないで!」
「穣子。私達、姉妹なのよ。大事な大事な私の妹に、どうして触れずにいられるというのかしら?」
「やめて!! …結局、私はお姉ちゃんを拒めないって、知ってるくせに! 卑怯よ…」
「さあ泣き止んで。笑ってちょうだい、私の穣子。こうしていると、暖かいでしょう?」
「どうして、いつもいつもお姉ちゃんは優しい振りで私を傷付けるの? わからないわ、もう何もわからない…」
「大丈夫よ。私の腕の中で全てを忘れてしまいなさい」
「お姉ちゃん…お姉ちゃん…」
「穣子、私の穣子。私の可愛い妹は、とても甘くていい匂いがするわね」
「やめて…くすぐったいわ」
「可愛いわ。食べちゃいたいくらい可愛い」
「…お姉ちゃん?」
「ダメ。我慢の限界だわ。食べちゃう」
「痛ったぁっっ!! かじった!! やっぱり騙したのね!! 弄んだのね!! 最低!!」
「だってぇ~、お腹が空いたし、穣子ったら美味しそうな匂いがするんだもの」
「やっぱり私の事なんてただのデカい焼き芋くらいにしか思ってないんじゃない!! お姉ちゃんなんか大っっ嫌い!!!」
(面倒臭ぇ…)
(面倒臭ぇですが、行くしかないでしょう)
(じゃあ、お先にどうぞ)
(いやお前が行けよ)
痴話喧嘩に勤しむ二人の足元直下の岩肌にひたりと身を寄せたまま、目配せし合う文と椛。
結局、僅かに眼力(めぢから)で劣った椛が先に崖の上に躍り上がった。
「はいお二人さん、そこまで。仲良くね、仲良く」
「あ、もみもみだ」
「なな、何よ! いきなり横からひょっこり入って来ないでよ!」
「もみもみも穣子食べる?」
「食べませんよ。穣子さん、落ち着いて。静葉さんは落ち着き過ぎです。もう少し妹さんを省みてあげて下さい」
「あんたに何がわかるって言うのよ!」
「むしろもみもみを食べちゃおうかしら」
「あははははー…」
約5分後、場が沈静化したのを見計らって文が3人の前に飛び上がった時には、椛の口からよだれとか魂とかがいっぱい漏れ出ていた。
ただでさえ精神的なダメージを抱えたままの身であった。理不尽な愛憎劇に巻き込まれたのがとどめとなったのだろう。
文はしばし目をつむり、黙祷を捧げた。
椛、貴女の犠牲は無駄にはしません。必ずや雛さんを見つけ出してみせます。どうか、憂い無く、安らかに。
「で、何か用ですか?」
いつの間にか仲睦まじく手なんか繋いぢゃったりしてる秋姉妹。
先ほどの安い茶番もただのルーティンなのだろう。
「実は私たち、鍵山雛さんの行方を捜しておりまして。雛さんは△月×日に最後に目撃されてから、この辺りに来たはずなんです。お二人は何かご存知ではないですか?」
「ああ、雛ちゃんの行方なら知ってますよ」
「え」
まさかの衝撃発言に驚愕のあまりペンを取り落としそうになる文。
「し、知ってるんですか? 何で今まで誰にも言わなかったんですか?これだけ騒ぎになっているのに」
「だって、誰も私達のところへ聞きに来なかったんだもの」
「ああ…」
文は深く納得し、それが故に沈黙せざるを得なかった。
その納得具合に姉妹は若干傷付いた表情を見せたが、最早慣れたのだろう、リアクションはなかった。
「それどころか、わざわざ天狗の駐在所まで行ったのよ?」
事件を知った姉妹が駐在所へ出かけたところ、詰めていた天狗は二人の顔も見ないで「あー、はいはい、うん、それでー」と適当に調書を取り、「はい、ここに名前と住所を書いてねー」と用紙を渡しながら冷凍のうどんをコンロにかけ、静葉が記入して返した用紙を見ながら「秋さん?季節外れな名前だねー、ははっ。それじゃあご苦労さん。何かあったら連絡しますからね」と言って二人を追い出すように帰したという。
ちらりと振り返ってみると、調書は早速鍋敷にされていた。
「心中、お察しします…」
かろうじて命を繋ぎ止めていた椛が傍らで滂沱の涙を流すのを見やりながら、文はこの話題が続くのは何かとまずいと慌てる。
「そ、それで、雛さんの行方は?」
行方というか…と言いながら姉妹神は顔を見合わせた。
そして、穣子はおもむろに星空へと手を伸ばした。ぴん、と突き立った人差し指は、遥か空の彼方を雄々しく示していた。
「飛んでっちゃった。すぽーんって。あっちの方」
『と、飛んでっちゃった!?』
声を揃えて仰天して見せた文と椛であったが、良く考えれば別に厄神様が飛ぶ事に何の不思議もない。
はぁ~、とため息をついて帰り支度を始める。所詮秋姉妹か、等と失礼かつ不当極まりない文句を漏らしつつ。
ここが自分達の存在証明の正念場と見てとった静葉と穣子は、必死で飛び去ろうとする文達を引き止めようとその足首と尻尾を掴み、地面に叩きつけた。
「意外と武闘派なんですね…」
一日の大半を痴話喧嘩で過ごす生活の中で培われた隆々たる上腕二頭筋を見せ付ける穣子に、文は恨みがましい目を向けつつも賞賛の言葉を口にせざるを得ない。
静葉に捕まった椛は、その体の大半が地面の中に没していた。今日は何かと埋まる日だが、永い天狗の生涯においてはそんな日もあるのだろう。
「ただ飛んでったってだけじゃないんだってば。すぽーんってぶっ飛んで行ったんだから。ホントに音がしたもん、すぽーんって」
三流新聞と言えど、一面を飾るチャンスである。
穣子は必死の形相で自らの持つ情報の有用性を訴えた。
「ほほう。つまり、自らの意思で飛行していったという意味ではなく、飛んでいってしまった、という事ですか」
「そそそそ。あのね…」
穣子が身振り手振りを加えて説明するところによると、こういうことらしい。
その日も、この崖の上で秋姉妹は喧嘩をしていた。
痴情の縺れから、姉を突き飛ばす妹。
姉は、崖から落下した。
崖下に突如突っ込んできた、回転しながら超高速で驀進する厄神様。
古ぼけたシーソー。
下がっていたシーソー左端に厄神様が到達した瞬間に、右端目がけて落下した姉。
がっちゃん、すぽーん。
鍵山雛は、流れ星になった。
「嘘くせえええええええええ! 何その無駄に神々しいピタゴラ○イッチ!!」
「ホントだってば!! それですぽーんって崖を飛び越えて、私の頭を凄い勢いでグレイズしてあっちの方に飛んで行っちゃったんだから!!」
背後の夜空をびっし、びっし、と何度も指差す穣子。
脇では地中に埋まった椛の、静葉による必死の救助活動が続けられていた。「おーい穣子ちゃん、お芋掘りみたいで楽しいわよ~」とふさふさ尻尾を引っ張りながら救助隊員。
「どうにも信憑性に欠けますね…」
「むきーっ! 嘘じゃないもん!! 飛んでいった時に空できらーん、って光ったとこまで見たんだから!!」
「はい信憑性ゼロになりましたー」
そんなお約束があるものか。文は開いていた文花帖をぱたんと閉じた。
目立ちたいが為に偽りの目撃証言を述べるような輩は今までにも多数見てきた。
こいつは間違いなくクロだ。私の新聞記者としての勘がそう告げている。しかも秋姉妹だし。動機ありまくりだし。
振り出しに戻る、か。
「いやー、それ間違いなくいっちゃってますねー」
突然、この場にいる誰の物でもない声がした。
「すぽーんって音がして、きらーんって光ったって事は、もう間違いないっすわー」
声の主は、妖怪の賢者にして結界の管理者、隙間に潜む大妖こと八雲紫であった。
紫は、地中に埋まった椛の尻と地面のごくわずかなスキマから、上半身をにゅるりと現していた。
そして、ものっそい眠そうであった。
「紫さん、流石にもう少し現れる場所を考えましょうよ…」
「いやー、これ物理的にこうなってるからー。ここで冬眠してたらー、このわんわん天狗がいきなりもぐり込んで来るしー」
スキマ妖怪が冬眠するのは有名な話だが、まさか地中で冬眠するとは思わなかった。
というか、もうこれがスクープでよくね。雛の失踪とかより全然びっくりだわ。
文はばしりばしりと写真を撮る。明滅するストロボに眩しそうに顔を顰める紫。
「というか、今そこの地中ってどうなってるんですかね」
「わんわんちゃんならー、私のもうちょっと口に出しては言えない様な所にお鼻突っ込んでますけどー」
「撮りたい! 地中撮りたい!!」
その頃、椛は地中で静かに絶命していた。窒息死であった。
別に靴下の匂いがどうとか、そういうんじゃなくて。単純に酸素の欠乏で。多分。
「で、何の話でしたっけ」
「雛ちゃんが飛んで行っちゃった話!!」
すっかり満足した文は危うく帰るところだったが、秋姉妹の涙ながらの嘆願により話は本筋に戻った。
「あー、それねー。厄神ちゃん、間違いなくいっちゃってますわー」
「いっちゃってるとは?」
「外。博麗大結界とか、越えちゃってますねー」
「え、マジですか!?」
本当に鍵山雛は外の世界に旅立っていたというのか。
「すぽーんって音したんでしょー? じゃあいっちゃってますわー」
「そうなんですか?」
「きらーんって光るのはねー、結界と干渉した時にエネルギーが放射されるからなんすわー。だから、も、これ100パーいっちゃってますねー」
外界と幻想郷を隔てる、二重の強固な結界。
それを越えて外の世界に行くことが出来るのは、紫のような特殊な力を持つ妖怪か、博麗の巫女に送り出してもらった者だけ。
…だったんじゃねーのかよ。
「ま、たまにはそーゆうこともあるんじゃないすかねー。結界なんて、適当なもんでしょー」
「管理者の貴女がそういう発言していいんですかね…」
とりあえず、雛は外の世界に旅立っていった、という事だ。
そして、文は、何となくもうそれを記事にするつもりは無かった。
秋姉妹は、ほら、ホントだったでしょ、と言い残して連れ立って帰って行った。
紫は大きな欠伸をした後、椛を文に放り投げて寄こし、再び地中へと消えた。
嘘のように辺りは静まり、今更ながらに夜の闇の深さに気付く。
文は椛の亡骸をかき抱いたまま、遥かに広がる夜空を仰いだ。
雲一つ無い空に散りばめられた星々の輝きは、美しくも冷たく、文の心の中に小さな空洞を開けた。
「寒いですね、椛…」
呟いて、椛の体をより強く抱き締めた。
この夜空はどこまでも広がっているのだろうか。
今、雛も、どこかでこの夜空を見上げているのだろうか。
何をしているのだろうか。何を思っているのだろうか。
もし、再び会うことがあるのならば、インタビューをしてみよう。
聞きたい事は山ほどあるけれど、最初の質問は決まっている。
結界によって隔てられた楽園は、それでも間違いなく外界とつながっているのだ。
東の方の地平線近くに、それほど明るくなく慎ましく瞬く星を見た。
我知らず、文はその星に語りかけていた。
「海は、綺麗ですか」
「って待てやコラー!! 人殺しといて何微妙にイイ話な感じにまとめようとしてんですかっつーの!! 全っ然まとめ切れてないから!まとめ切れてないからぁー!!」
腕の中でばたばたと暴れ始める椛。文は舌打ちをして椛を地面にうち捨てた。
満身創痍の白狼天狗は、下から文を三白眼でねめつけた。
「アンタについて来てホント散々な目にあったよ!」
「はあぁ!? ネタがあるからって誘ったのは椛でしょ!?」
「うっさいわ! このハゲどうしてくれんの!!」
そうでした。
「ハゲくらいあった方がキャラが立っていいでしょうよ!」
「それも若干にとりとカブってんだよ! つーかそのキャラだよ! のうのうと自機とかふざけんな! 私の7500万返せ!!」
「そんなの貴女の自業自得でしょうが! そもそも持って生まれたキャラとしての格が違うんですよ!」
「あーっ! 言っちゃった! 言っちゃいけないこと言っちゃったよ! ひどいんだ! ひどいんだー!! わーん!!」
「泣くな! いや、むしろ鳴け! わーん、わんわん、ってね!」
「次回作で絶対噛み付いてやるう!!」
「けちょんけちょんにのしたるわ!!」
『もういいです、絶交です!!!』
こうして、ダブルスポイラーでお二人さんは仲が悪くなりましたとさ。
めでたしめでたし。
東京は新宿上空を、ゆっくりと回転しながら鍵山雛が渡る。
コンクリートジャングルを忙しなく闊歩する人々の群れの、誰一人として上空のゴスロリ少女に気付く事は無い。
煌々と光を放つ街、夜空に星は見えなかった。
鍵山雛は、孤独だった。
海を見たくなった。
海には、全てが還る。
流されていった数え切れない流し雛達も。
そこに宿った厄も。
水も。
生命も。
全てが還る。
見なくては、そう雛は思った。
受け取った厄を、そしてそれを託した流し雛達の行く末を。最期まで。
そうすべきだと、己の心が告げるのだ。
集めた厄を誰かに渡して、流して、はいおしまい。
そんな自らのありように疑問を持つ日が来るのは、そもそも時間の問題だったのかも知れない。
そうして、雛は出かけた。
おばあちゃん家に行こうと思って出かければ、おばあちゃん家に着く。
人参を買いに行こうと思って出かければ、八百屋に着く。
だから、海を見に行こうと思って出かければ、海に着く。
そう、雛は思ったのだ。
海は遠かった。
まばゆい光に意識を失った。
最初に感じたのは、いとおしく、物悲しく、懐かしい感触。
厄だ。
忌み嫌われて行く宛の無い、ドロドロとしたそれらは、きっと困っているのだと雛はいつも思っている。
自分達にふさわしい場所が世界のどこにも無くて、困っている。
だから、雛はそれらを抱いてやる。
自分にしか抱けないのだから、抱く。
生暖かく、粘つくそれらを、抱きしめる。
おいで、おいで。
ここにいてもいいのよ。
厄が集まってくる。
どんどんどんどん集まってくる。
どんどんどんどん、どんどんどんどん。
莫大な量の厄が。
雛はそこではっきりと覚醒した。
おかしい。尋常ではない量の厄が渦巻いている。
日本は病んでいた。
政治、経済の停滞は著しく、高齢化が進み社会の活力は乏しい。
経済格差は広がり続け、人口の都市集中と縁辺地域の過疎化が進んだ。
治安は徐々に悪化し、教育は破綻し、外憂に怯える。
どうしようもない閉塞感が、日本を覆っていた。
人々は、皆疲弊していた。
これほど豊かになった現代社会にあって、日の出ずる国は今や斜陽を迎えていたのである。
それは、厄だった。
日本全体を覆う、途方も無い厄。
いつしか信仰を忘れ、畏れを忘れ、厄を忘れたこの国。
そうして溜まりに溜まった厄が、国を殺そうとしていた。
正義感とか、使命感は無かった。
ただ、そこに厄があるなら、私は。
雛はゆっくりと廻り始めた。
雛のイメージでは、厄とは非常に粘度の強いゲル状のモノである。
それを、回転する事によって巻き取っていく。
廻る、廻る。
次々と厄を身の内に溜め込んでいく。
果てしない作業の終わりは見えなかった。
幻想郷を飛び出して外界の厄に捕まった雛は、いわばゲルで満たされた水槽に放り込まれたようなものである。
全く身動きが取れない。
動く為には、回転して周囲のゲルを巻き取りながら少しずつ進むしかない。
しかし、巻き取られたゲルはどんどん集積し、回転の抵抗が増していく。
もう少しわかりやすく例えるとこうだ。
貴方は巨大な棒を持って、さらに巨大なボウルに入ったねるねる○るねの中に突き立てている。
棒を前後左右に動かそうとしても、もったりとしたねるねる○るねの頑強な抵抗にあって叶わない。
おわかりだろう。棒を回転させながら、少しずつねるねる○るねをかき回すしかないのだ。
しかし、練られたねるねる○るねはどんどん棒にまとわりつく。いずれ、引き抜くことも不可能なほどに。
そう、貴方はボウルの中のねるねる○るねを全て練り切らなければ、『うまい!テーレッテレー』する事が出来ないのである。
雛の置かれた状況を、ご理解頂けた事と思う。
そもそも厄を集めなければ、廻らなければ、雛はどこにも行けなかった。
次第に雛の周りで抵抗を増す厄。
廻って、廻って、廻り続ける。
ひたすらに、孤独な戦いは続いた。
額に浮かんだ汗がやがて滴るのを感じながら、雛は呟いた。
海は、どこかしら。
ぐるりぐるりと渦を巻きながら、そうまさしく台風のように、雛は日本上空を横断していく。
方向の制御などまるで出来なかった。ただただ、必死で廻り、厄を溜め続ける。
長野周辺に発生した雛台風は、そのまま進路を南東にとって、時速約300mの速度でじりじりと進んだ。
真逆の方向に進めば、すぐに日本海が見えたはずだった。
厄を取り込み続けて勢力を拡大していく雛台風。
そうして、3週間余りも雛は廻り続けた。
食事も睡眠も取らず、ひたすらに廻り、進み続けた。
疲労は極限に達している。
しかし、溜め込んだ厄を暴発させる訳にはいかない。神経は常に鋭く張り巡らせておく必要があった。
そうやって、雛は新宿上空までやって来た。
じりじりと廻り、じりじりと進む雛。
この国が溜めてきたツケを、今その一身に受けて。
苦悶の表情。周囲を見渡す余裕は無い。
地上の人々も雛には気付かない。
幻想郷を飛び出してさえ、そこには結界があるかのようだった。
がくん、と雛の回転が止まった。
もう、限界なのか。
いや、違う。
雛のリボンが、東京都庁第一本庁舎北棟の32階、職員食堂がある辺りの外壁に引っかかってしまったのだ。
疲労の余り、かなり高度が下がって来てしまっていたらしい。
夜も遅い為、中から目撃されることは無かったが。
引っかかったリボンが全く外れない。
雛はすっかり困ってしまってリボンをぐいぐいと引っ張ってみるが埒が明かない。
にっちもさっちもルイ・アームストロングである。
これはもう仕方が無い。
雛は覚悟を決めた。
今まで一度も試したことは無かったが、他に残された術は無い。
雛はすぅ、と息を吸い込み、
逆回転した。
途端、地球の地軸が逆回転し始めた。
徐々に自転を停止し、逆回転し始めるのではなく。
1、2の3で、きっかりと。
時速1700kmでぶんぶん回っていた世界は瞬間的に逆方向に時速1700kmで回り始めた。
時速3400km分の運動エネルギーが、地表の隆起物を直撃。
プレートは大暴れし、火山が噴火するわ大陸が沈下するわ隆起するわ、もうマグニチュード12ぐらいの騒ぎ。
地球、亀裂走りまくり。
一日に三度鳴らされる厳かな教会の鐘の音を、二千年分一度に鳴らしたような、この世の終わりの音が轟いた。
単細胞生物のようにぼこぼこと球状を歪ませた後、地球の出っ張っていた部分は全て平らになって、世界はあまねく海の中に没した。
元、新宿上空で。
西から昇る朝日を眺める鍵山雛。
見渡す限りの大海原が、赤く染まっている。
全ては、海に還った。厄も。
広い、広い広い、広い広い広い海。どこまでも海。
身軽になった雛は、ふわふわと宙に浮かんで、ただ、ぽつりと呟いた。
「ああ、海が綺麗だわ」
いや、途中まではなかなか面白いギャグだと思ったから70点くらい入れとくつもりだったんだ。
でもラストでリアルに「ええええええええ!」って言ってしまった。
それで迷ったけどそんなん言ってしまったからにはもうこれ100点しかなくね?っていうのが結論だった。
まあ何が言いたいかというと、これはひどい。
しっかしなんつー壮大な前振りなんだ。射命丸さん達にどんなコメントしようか考えながら読み進めていたけど
ラストで全て吹っ飛んだ。雛台風とはまさに言い得て妙。
話の流れ的に月まで行って静かの海にでも軟着陸、くらいは予想していたけどそんなチャチなもんじゃなかった。
東京都知事を凌駕するほど目をパチクリさせたぜ。
雛は本当に回転しながら飛んでいますが。
10点か100点しか入れようがない。
最悪の気分だ。
「それも若干にとりとカブってんだよ!」
にとりに謝れw
ラストのシュール成分が激しすぎて完全な混沌とはなりきれてない気がしたので、10点差し引いて。
うん。最後のカタストロフのせいでしばらくポカーンとしてましたw
100点?
じゃねぇよ!