雨が降っている。
分厚く、灰色を通り越して“黒い”雲に覆われた空から落ちてくるのは、覗き込めばその向こうも透かし見ることができそうな程に透明な水滴。自然が備える循環機構――どこの神様が決めたかは分からないが確かに存在する繰り返しの中の一つ。
その繰り返しの中で、彼女の存在はちっぽけなもの。地面に落ちるはずの雨を、邪魔する物がない空中で顔、肢体、服――小さな身体全体で受け止めている。“バケツをひっくり返したような”という言葉が良く似合う雨の中でそんなことをしているものだから、当然彼女の全身は濡れ鼠より酷いものになっている。体温という概念が彼女の身体にあるのなら、風邪どころかとうに死亡してもおかしくないレベルまで低下しているだろう。
だが彼女は妖怪だからそんなことは気にしない。
それでも……妖怪の身体といっても完全無欠で無敵な存在という訳ではないし、服だって後で洗濯する必要がある。そういう手間を考えれば、いくら自由奔放な妖精や妖怪であっても好き好んで雨に打たれる輩はそうそう居ない。
しかし彼女は、せっかく胸に抱えている傘を差すこともせずに雨の前に全身を曝け出している。
冷たい雨が降る。冷たい雨が全身に当たる。彼女の下に誰かが居れば、彼女に降りかかった分の雨はその“誰か”には降りかからない。
それは傘だ。種類が違えば遮る物も違うが、本質は変わらない。降り注ぐ何かを、自らの下に居る“誰か”に降りかからないように遮る役目。
だから彼女はこうやって雨に打たれる。彼女がただの傘で居られた時のことを、文字通り全身で思い出せると思っているから。
だから彼女は、
「あぁ――」
雨が――
雨は差別をしない。
人間でも、妖怪でも、神でも、有機物でも無機物でも、遮る何かを持たぬ全てのモノに差別なく降りかかる。
だから二人の神と一人の風祝兼現人神が住まうこの守矢神社――現在は二柱が出かけており風祝しか居ないが――にも、雨は容赦なく降り注いでいた。ポツポツとかバタバタとかそんな優しいものではない、ヒソヒソ声であれば遮られてもおかしくないほどの雨音が屋根から響いてきている。さながらショットガンの連射でも受けているかのような音だ。
幸いにして――外の世界からほぼそのまま転移させ、さらに彼女達がこちらに来てから知り合いになった河童にいろいろ無理を言ってあちこち改修してもらった神社とそこから連なるこの住まいは、そんじょそこらの雨風程度でどうにかなるような華奢な構えではない。また、朝から雲行きが怪しかったこともあって最低限の備えは終わっている。つまり、どこかの神社のように盥を持って走り回る必要も洗濯物を慌てて取りこむことも無い。
だからやることがない、守矢神社の風祝であり現人神でもある彼女――東風谷早苗は、服も着替えずに自室のベッドに寝転がり、ただただ天井を見つめてぼぉっとしていた。この天気に腋の開いた巫女服は肌寒さを感じさせるが、それすら気にしていない。
ここに、彼女が仕える神のどちらかが居れば行儀が悪いと叱りつけるだろうし彼女もそれは自覚しているのだが、今はどちらもこの神社には居ない。そういう状況でも気を抜いてはいけないとするのが本来の教えだが、風祝や現人神である前に人間である早苗は時に狡賢く“休み”を取る。いつもいつも気を張っている訳にもいかない。
彼女ら“三人”(?)以外に普段は誰も居ないこの神社で、だから早苗は気だるい感覚に身を任せて寝転がっている。
その気だるさの原因は、彼女が見つめる天井より更に上――降り注ぐ水滴。
「……雨、ですよね。それもとびっきりの」
現状の再確認。
誰も居ないのだから意味は無いがつい声に出してしまう。それでも彼女が出した声が少し張り上がったのは、けたたましい雨音の所為だろう。独り言も満足に呟けない煩わしさも手伝って、早苗はつい溜め息を吐いてしまう。その溜め息ですら、自分の耳に届くかも怪しい。
そもそも、雨が降る中で憂鬱にならない者はそうそう居ないだろう。小さな子供であれば外で遊べないことを嘆き、子供と違ってそれでも外に出なければならない用事を持つ大人であれば、自らの身体を濡らす雨か傘を差さねばならぬ煩わしさに悪態の一つでも吐きたくなるというものだ。
しかし、雨が降ることに喜びを――そして多大な感謝を抱く者も数多い。どころか煩わしさを感じながらも別の面で感謝を感じる人間も居る。
当然だろう、時に“それ”が『恵みの雨』と呼称されるのは誇張でも何でもなく、大自然と共に生きる人間にとってそれはまさに『恵み』だからだ。だから幻想郷の人間は、多少の憂鬱さを感じながらも雨が降ることに感謝の念を忘れはしない。
そんなことは――そういった感謝の念が殆ど忘れ去られてしまい、『神様』も存在し辛くなった外の世界からこちら、『幻想郷』に移ってきた早苗自身が一番良く分かっている……はずなのだが。
(でも、なぁ……)
声に出すのも億劫になって心の中で呟きながら、早苗は首だけで横を向く。ベッドの脇の机の上に、いくつかの写真立てが置いてあった。その中の一枚、“向こう”で撮った写真が早苗の目に留まる。“こちら”に来た頃であればそれだけで胸の奥が締め付けられそうになったものだが、今は彼女も慣れてしまった。
少し前まで、彼女はこの文字通り魑魅魍魎跋扈する幻想郷ではなく外の世界に居た。科学が発達し神への信仰が薄れた外の世界、そこで消滅の危機に陥った神は自らの神社と風祝を連れ、最後の楽園へと移住した。
そんな外の世界でも――いや、そんな外の世界だったからこそ、彼女はそういった自然への感謝や畏怖を忘れず、また外の世界よりも自然溢れる幻想郷ではこれまで以上に雨が重要であったからなおその理解は深まった、のだが。
(うぅん…………)
矛盾する感情、想い、考え。
自らが抱えるそれを理解できない早苗の視線はふよふよと彷徨い、別の写真立てからまた別の写真立てへと移動する。基本的に科学技術の面では外の世界より大幅に遅れている幻想郷だが、天狗や河童の協力もあって写真を撮ることに不便はなく自然と机の上は『ムー』さながらの様相を呈している。
それら一枚一枚が早苗の軌跡であり、大切な思い出。
(いろいろと大変、だったなぁ……)
まるで答えを探すかのように、写真一枚一枚と共に記憶が呼び起こされる。
河童や天狗、麓の巫女や魔法使いが集った宴会を写した写真。幻想郷に来て初めて彼女が体験した――いや、ほとんど彼女“達”が“起こした”異変。仕える神の悪乗りや経験不足から来るガチガチの緊張で麓の神社に喧嘩を売る以上の悪さをしてしまったという、これで全てが終わった後の宴会というどんちゃん騒ぎでもなければ閲覧不可の黒歴史になりそうな思い出、その宴会を写した一枚――外の世界では未成年の飲酒が許されていなかったこともあって慣れない酒に、勧められるがままに手を出した結果として小規模な黒歴史が乱立してしまったが、彼女にとっては楽しい思い出だ。
その横の写真には動物型の妖怪が多数。こちらは彼女が直接関わった訳ではないが、これまた彼女が仕える神が悪巧みした結果の『異変』。しかも間の悪いことに、この時の早苗は多少の慣れからくる傲慢さを身につけてしまい、思い出すだけで動悸が激しくなり顔面に血液が集まってしまうような思い出――その後、謝罪に立ち寄った地底の屋敷で可愛らしいペットに囲まれてご満悦だったから、プラスマイナスで言えばプラスだったが。
そしてその横、曲がりなりにも『寺』に住まう者とは思えないほど派手な服装と髪色をした女性と、そんな彼女に抱きついている妖怪の面々が写る写真――のもう一つ横の写真。
早苗にとって、仕える二柱とはまた違う意味で“大切”な存在が写る写真。
「…………」
写っているのは可愛らしい女の子なのだが、その顔の殆どは全体的に紫色な上にどういう仕組みか大きな舌が飛び出した『傘』に隠れてしまっている――“彼女の”傘だ。写真に撮られると魂が抜けると信じていたからという訳ではなく、単にカメラのフラッシュに驚いて素晴らしい反射神経でパッと傘を掲げただけだ。
人を驚かすことを信条とする妖怪がこんなことでどうする、と早苗が彼女をからかったのはその写真を撮った直後のこと。彼女はそのからかいに対して真っ赤な顔で頬を膨らませて抗議してきたが、その様子は恐ろしいとかおどろおどろしいとかいった類ではなく、単に“可愛い”だけだった。これでは本人の使命――他者を驚かせる――も前途多難だろう、そんな感想もつい口に出したら「前にも言われた……」と本気になって凹んでしまい、早苗が何とか慰めたことは記憶に新しい。
そんな彼女と早苗との出会いと顛末を恥ずかしい黒歴史か大事な思い出、どちらに分類すべきか――それは彼女にとって生涯の悩みの種となるかもしれない。
視線を戻して横の写真、抱きつかれている女性の包容力のある笑みを見て、早苗の記憶は遡る。
全ては、とある寺の面々がその女性を“復活”させる際に起こした騒動の最中に起きたこと。
空に浮かんだ船を追いかける道中で出会った妖怪――多々良小傘。
彼女は、忘れ去られた唐傘が誰にも拾われずに長い年月を経て変化した妖怪。
早苗と出会った時も、彼女は紫色に一つ目と舌がくっついたよくよく目を引く傘を持っていたが、それよりも早苗が後々まで印象に残していたのは左右で色が違うその宝石のような瞳と、まるで雨粒のように透き通る水色の髪だった。
幻想郷に来てからというもの(往々にして文字通り)人間離れした麗しい容姿の持ち主を見慣れてきた早苗だったが、『小傘』という存在に抱く感情はそれとは違っていた。
自らの境遇故か妖怪の性か、どこか憂いを感じさせる雰囲気ながらしかし外見相応にその顔は“可愛らしく”、早苗の心をくすぐりきってなお余りある容姿を彼女は持っていた。
しかし、早苗がそのとても大事な印象を思い出したのは異変が解決した後の夜――ベッドで一人、寝転がっての反省会という名の黒歴史掘り返しに悶え苦しんでいた時だった。
奇妙な物を持っている者が居ればまず第一印象としてその物体が目に留まり、その者の容姿には気づかずじまいか、気づいたとしてもずっと後……早苗はそれを地でやってしまったのだ。
その結果、小傘との会話で飛び出してきてしまったのは――
「私が友達からそんな傘を渡されたら、断って雨に濡れて帰るかな~なんて」
「そんな古くて茄子みたいな傘、誰も差さないと思いますけど」
よりにもよって……拾われなかった忘れ傘が変化した妖怪に対しての言葉――まさに『さでずむ』。
断っておくと早苗は別にサディスティックでも性格が悪い訳でもない。ただほんのちょっとだけ、ほんのちょっとだけ彼女は調子に乗る性格だった。それもかなりタイミングの悪いところで。
そもそも弾幕ごっこ、特に異変の際のそれはお互い興奮していることもあり、売り言葉に買い言葉というのは珍しくない――と、悩んで悩んで悩み続けて宴会でも悩み続けてアルコールも手伝ってつい罪悪感を吐露した相手……人間の巫女と魔法使いに慰められたのだが、そんな二人は興味本位で「早苗はどんなことを言ったのか」を尋ねてしまい、酔った勢いもあってつい臨場感二〇〇%増しで早苗が再現した結果――ちょっと引かれてしまった。これは問答無用で黒歴史。
ただ、微妙に距離を取りながらも言った二人の言葉が早苗にとって、そして小傘にとっても転機であった。
「まぁその程度で悩むなんて馬鹿馬鹿しいけど……そんなに気になるんなら、謝りに行けばいいじゃない」
「そうだぜそうだぜ、あんまり眉寄せてると皺々になっちゃうぞ。こいつみたいに」
「じゃかぁしい」
「いてっ」
普段の早苗なら「そう簡単に行けば苦労しませんよ」と何かを諦めたような大人ぶった態度で返していただろうが、その時の彼女は酔いと気分の高揚が手伝ってすっかり常識を捨て去ってしまっていた。
具体的に言うと――調子に乗っていた。
「そうですよね~謝りに行けばいいんですよね~」
言った二人が引きそうなくらいに“ニヘラ”な笑みを浮かべた早苗は、おぼつく足も気にせずに――驚かすためのターゲットが多いということもあって――ほぼ確実に宴会に参加しているであろう小傘を探しに二人の元を離れて行った。その笑顔とふらつき具合がやけに気になる二人であったが、酒の席でそんな悩みも馬鹿らしいとばかりにまた杯を空けていた。
そして早苗は小傘を探すのだが……居ない。
こういう時に限って見当たらない。
異変もあって知り合ったあの寺の面々と呑んでいるのかと思った早苗だったが、そこに居たのはやけにハイテンションで酒――いや、般若湯を呑む僧侶とグロッキー気味な取り巻きの面々だけだった。
ならばと順繰りにそれぞれのグループの周りを彷徨い続け、見知ったオッドアイかあの目を引く傘でも見当たらないかと早苗は目を走らせるが、普段であれば頼まれなくても人を驚かそうとあちらから現れてくるような存在が、今夜ばかりは影も形もない。
鴨が葱と土鍋と箸まで背負って歩いているのに誰も現れない――酔った頭でそんなことを考えながら、彼女は周囲に目を走らせながら宴会場を歩き回る。意識を集中させ、何者おも見落とさないように注意しながら。
「…………はぁ」
酒も飲まずにそんなことをやっていたものだから――必然的に、彼女の原動力の一つとなっていた酔いもすぐに醒めてしまった。
そうすると顔を出してくるのは罪悪感と捨てたはずの常識で、自然と彼女の足取りは鈍くなる。
会ったところでどう謝ればいいのだろう。どう謝れば許してくれるだろう。そもそも向こうは気にしているのだろうか。気にしていなければ滑稽であるし、気にしていれば顔も合わせたくないかもしれない。
思い返してみれば彼女の言葉はアイデンティティの否定――配役を変えれば、早苗の風祝としての人生を否定し、侮辱することと相違ない。
そういうことが嫌だったから――彼女はこちらに逃げてきたのではないのか?
「あぁ……ほんとうに、“馬鹿馬鹿しい”…………」
自分がされて嫌なことを、人にはしないようにしましょう――ずっと昔に誰かに言われたその言葉が、唐突に彼女の心に浮かんだ。
喧騒の輪から少し離れたその場所で、彼女の足はピタリと止まる。ぐっと唇を噛み締めて、こみ上げてきそうになるものを抑える。それでも何かが零れ落ちてしまいそうになって、彼女は空を見上げた。
外の世界ではなかなかお眼にかかることができず、こちらに来た時の夜は子供のようにはしゃいでいた幻想郷の星空は、今は見えない。これで溢れた涙で滲んで――というなら誌的だったかもしれないが、今はただ分厚い雲が空を覆っているだけだ。
もう何かいろいろなことがどうでもよくなって、今だけはせめて酒に溺れたくて、早苗はそんな黒い空から目を逸らそうとして――見つけた。
「ぁ…………」
ぽつんと離れた空の下で、何故か空を見上げている小傘の姿。人工の明かりが少ない幻想郷ではその姿を確認することは難しかったが、何故か早苗にははっきりとその姿が見えた。
こんなところで奇跡の無駄遣いか――そんなことを考えながら、早苗は同時に疑問に思う。小傘は何故、空を見上げているのだろう、と。
そんな疑問に答えるように、見上げる彼女の顔に一滴の水が空から落ちてきた。
雨。
風が吹こうと弾幕が飛ぼうと宴会をしていそうな幻想郷の面々ではあるが、さすがに雨に降られてはかなわないので基本的に天気の良い日を選ぶ。だからといって宴会の日がいつも晴天であるはずもない。天気が崩れやすい日だってあるし、いきなり雨が降り出すことだってある。
しかしその程度で彼女達が宴会を諦めるはずもない。
面々も慣れたもの、本降りになる前に巫女や魔法使い、隙間妖怪その他多数が幾重にも張り巡らした結界や結界に準じたものが神社を覆う。その術式が終わるや否や一滴、また一滴と段々と感覚が狭まり、最後にはもう雨粒を数えていられないほどの土砂降りになった。天然の『弾幕』――それら全てがはりめぐさられたばかりの『壁』に当たって跳ね返る。
そんな雨ですら肴にして、彼女らは酒を酌み交わしている。飲んだくれの集いは、例え終末的状況であろうと酒を飲み交わしながら迎える――そんなことを思わせる。
「…………」
ただ早苗には、それよりも神社から離れた場所――もちろん『壁』の外――で空を見上げる彼女の姿が気になった。
どうして気になったのだろうか。すぐには分からなかったが、少し考えて彼女は自分の中で納得する理由を見つけた。
いつも大事に抱えているその傘を、小傘は差していなかったのだ。
それが気になったからこそ、次の瞬間には彼女は飛んでいた――のかもしれない。
奇跡の力を“有効的に”利用して自身の体の周囲に小規模な結界を張り巡らしつつ、『壁』は請わないようにすり抜けて、夜の闇に飛び込んでいく。結界で除けてもなおはっきりと自覚できるほど雨は強い。物理的には遮断できているはずなのに、気圧されそうになってしまう。
だからそんな力も無いはずなのに空に浮かんでいる彼女のことが気にかかって、早苗は飛翔速度を更に上げる。自らが空を飛ぶイメージを意識して強め腹に力を込めれば、自然と速度は上がる。こちらに来てから何度も行ってきたことだ。
雨のカーテンの中を、ただ一直線に飛び続ける。そうして飛んでいれば、あっという間に彼女の居場所へ辿り着く。そこで彼女は飛ぶことを止め、ふわりと空中で静止する。
空に並んで浮かぶ二人の少女。遮蔽物もなく、神社の喧騒から離れ、時刻は夜。
せっかくその胸に抱きかかえるようにして持っている傘を差すこともせず、小傘はただ俯くようにしていた。空を見上げていたのならまだその表情から推し量ることもできたかもしれない――だが彼女は見下ろしている。自然と早苗が辿った視線の先には、誰も何も居ないのに、まるでそこに何かが、誰かが居るかのように。
自分達二人以外には誰も居ないような錯覚すら感じる世界の中で、早苗はまだ気づいている様子のない彼女に声をかけた。
「小傘……さん?」
できるだけ静かに、相手を刺激しないように――自らがそうした意味も考えずに早苗は小さく声を掛ける。
だが、それが小傘にもたらした衝撃は大きかったようだ。
少なくとも、傍から見ていて分かる程には。
「ひゃいっ!?」
それは言うなれば、誰かを驚かそうと曲がり角の陰で心待ちしている子供の背後から声をかけたような反応――まず瞬間的に身を竦ませて、直後飛び跳ねるように空中で器用につんのめり、慌てながらもバランスを持ち直して起き上がる。
そんな反応を見せられて早苗は手を差し出すべきかどうか悩んでいたのだが、その思考が纏まるより早く小傘は早苗の方へ顔を向けた――まるで背後の幽霊から声をかけられたかのように恐る恐る、慎重に。
「ぁっ……」
そしてようやく自らを驚かせた存在の正体を知った小傘は、そんな溜め息とも取れる小さな声を出して、顔にはとても複雑な表情を浮かべていた。だが、今の早苗にはそこに込められた感情が良く理解できた。何よりも大きいのは驚きで、その次が不安、そして僅かな――痛み。
その“痛み”の原因が何であるかは、考えるまでもなく悟ることができた。だから早苗は、声をかけたままで止まってしまった。自分から声を掛けたくせに、次の言葉が出てこない。
そして運悪く――それとも当然か――この状況でそんな早苗の心境を悟ることなどできなかった小傘は、その沈黙を自らへの非難と受け取ってしまう。
「……わ、わわ私は別に何もしてないよ? 邪魔もしてないし誰かが驚かせようともしてない、傘が傘らしく雨にうたれてるだけで退治されるようなことは、何も――してないよ」
しどろもどろな、明らかに動揺している口ぶりで小傘は捲くし立てる。それは目の前の早苗に向けた言葉というより、自らが持つ恐怖に対して叫んでいるようだった。それを示すように、今の彼女は早苗を見もせずにぎゅっと目を閉じて、まるで風雨にもぎ取られまいとするように傘をしっかりと握りしめている。雨は降っていても、風など吹いていないというのに。
それとも早苗が風だとでもいうのだろうか。
こんな状況でなければ早苗はその口調のおかしさを指摘して、それをネタに笑っていたかもしれない――いや、確実に“していた”。
「そのキャラ作ってるでしょ?」
その時の小傘は――
「まぁ作ってなくても化け傘は時代遅れですけど」
――どんな表情を浮かべていた?
彼女は何も言えなかった。
本当に自分の罪を自覚した人間は何も言うことができなくなると、早苗はようやく知ることができた。
自分はどれだけのことを言ってしまったのか――今の小傘の反応を見て、彼女はようやく、本当の意味でそれを理解したのだ。先程まで感じていた、身勝手な罪悪感などとうにどこかへと吹き飛んでしまった。今の彼女にのしかかっているのは重く苦しい何か。『罪悪感』と形容することすら憚れる重圧。
それら全ての原因は――東風谷早苗にある。
その事実が、彼女の心を打ち抜いた。
どう謝ればいいか、どう謝れば許してくれるか、そんな甘い考えが粉々に崩れ去る。頭の中が真っ白になって、論理的な思考ができなくなる。
「だ、だからっ、私なんて放っておいて! ただ忘れ去られるだけなんだから!」
それでも小傘は言葉を紡ぐ、叫び続ける。それはもう早苗に向けられた様子すらなく、ただの自傷として彼女自身を傷つけていく。体を流れる雨の筋が、まるで流れ出す血のようだった。
「忘れ去られて、妖怪になって、誰かを驚かせなければ生きていけなくて、それでも全然うまくいかなくて、驚かせるどころか笑われて!」
それは発露だった。これまで溜め込んできた数々の感情――早苗に投げかけられた言葉に対する想いも入っていた――それらが、早苗の真っ白な頭の中に飛び込んできて、埋め尽くしていく。
「でも――でも、私は生きていて! これでも私は生きていて! 元の傘からかけ離れていても生きていて!」
傘を差しもせずに土砂降りの雨の中に浮かんでいるのだから、当然小傘の体も服も顔もびしょ濡れになっている。
奇跡の力で髪一本濡らさず静かに浮かんでいる少女と、体中を濡らしながら喚き叫んでいる少女――しかしその外見とは違って、この場で打ちのめされているのは早苗だ。声の一つも出せずにいるのは早苗だ。
それでも、そんな真っ白な頭でも、
「時代遅れでも迷惑でも――これが私なの!」
言わなければならないと、頭の中で浮かんだ言葉が――
「だから、だから――」
「――ごめんなさい!」
「……ぇ」
それは唐突な謝罪――例え目の前から早苗が消えていたとしても知らず叫び続け、いずれ雨音も結界をも突き抜けて喧騒の中に居る人妖達の耳にも届かんとばかりに張り上げる声を遮り、留めさせるだけの声音と真剣さ、そして切実さを含んだ謝罪だった。
「…………ふぇ? え、え?」
そうして驚いた拍子に目を開けた小傘の前で、早苗が深々と小傘に向かって頭を垂れている。
その姿勢と先ほどの言葉で、それが謝罪だとようやく小傘は理解した。だが“どうして謝罪されているのか”というところまでは理解できなかった。謝罪が欲しかった訳でもなく、ましてや謝罪されるとすら思っていなかった。ただあの時のように“される”という恐怖しかなかった。
なのに今は逆転して、早苗が喚いている。
先程までの小傘より更に支離滅裂な言葉で喚いている。
「私調子に乗ってたんです。向こうでいろいろあってこっちに来た時は散々な結果にあって、その次は訳の分からないところで勝手に話が進んでて、ようやく異変解決に向かえる時にはもう慣れたなんて思ってたんです――あぁ考えてみれば慣れてるどころか初めてだった! そんなんだから私は落ち着きが無いとかもっと周囲を落ち着いて見回しなさいとか先生に言われてたんです、だから私は調子乗りなんです! …………あぁこれじゃ単なる言い訳だ、調子乗るどころか性格も悪いんです、あの時も後々考えてみれば「瞳が綺麗だな」とか「髪がサラサラしてそう」とかそういう感想もあったはずなのに、酷いことばかり言っちゃったんです! 目の前に綺麗で可愛い女の娘が居るのに、その娘を傷つけるようなこと言っちゃったんです! どんな人間でも妖怪でも、どんな生き方でも否定しちゃいけないなんて、私――私、分かってたはずなのに! 分かってたはずなのに分かってなかった! それが嫌だったのに、そんな私が嫌なことを自分でしてたんです! ごめんなさい、謝って済むことじゃないですけれどごめんなさい! だから――」
バッと顔を上げ、大きく息を吸い込んで彼女は叫んだ。
「本当にすみませんでした! 友達からの付き合いでお願いします!」
そしてそのままの勢いでまた頭を下げる。目をぎゅっと閉じ、体の前で震える手を組んで、ただ相手の答えを待つ。ただ思い浮かべた心のままに言葉を紡いだ今の彼女の頭には、何も残っていない。
数秒か、それとも数分か、早苗には判別できない沈黙。それは罪人に罪を思い起こさせるには充分すぎる時間。判決を待つ被告人も、裁判長の言葉と言葉の僅かな間にこれを感じているのだろうか。
そんなことを考えるほど冷静になった頭で、早苗はふと気づく。
(……あ、あれ?)
行われるのは赦しか断罪か、それとも別の何かか――そうどこかで覚悟していたはずなのに、何かおかしい。具体的には空気が、雰囲気がおかしい。
小賢しい謝り方も小手先のご機嫌取りもなく、ただ思ったことをそのまま口に出して、後は小傘がそれをどう受け止めるか、自分に何を言ってくるか、してくるか、それに任せよう――そう考えて、いや本能的に思って述べた謝罪の言葉なのに、何かが彼女の心に引っ掛かる。
彼女は考える――何か、何か締め括りの言葉を間違えはしなかったか? 途中で何と言った? これではまるで……あぁ、何か――またとんでもないことをやらかしてしまったのではないか。通信簿に書かれていた「落ち着きを無くさないようにしましょう」はまだまだ健在だった。
「そ、それって――」
早苗の疑念を確信へと変えたのは、“何故か恥ずかしげに囁くように搾り出された”小傘の言葉。
「さ、最終目標はもしかして結婚で――まさかぷ、ぷ、ぷろぽーず、ってやつ?」
「――なっ!?」
ボンッと音がする程の勢いで早苗が赤面する。
上手く言葉を紡ぐことができなかったから頭の中に思い浮かんだごちゃごちゃを全て言葉に出したらこれだよ! ――そう考えながら早苗は慌てて顔を上げて、
「……くっ、ふふっ」
「へ?」
「ふふっ、ふふふふっ」
「…………」
「ふふっ、あはははははははっ! その顔いい! すっごいい! ねぇどんな気持ちねぇどんな気持ち? 驚かされてどんな気持ち?」
視線の先で小傘が心から可笑しそうに笑っているのを見て固まった。
「驚いたよね? 今すっごく驚いたよね? ねぇどんな気持ち妖怪に驚かされてどんな気持ち? あーお腹一杯、今日はもう何も食べなくていいや。これだけお腹膨れたの初め――じゃなくて久しぶり……うん久しぶり! きっと数日……うん、数日! 一週間でも二週間でもそれ以上でも数日! あー、これで私も成仏できる、今なら天にも昇れるかも」
限界だった。
「ふふっ、ふふふっ」
思わず漏らした笑い声に、ピクリと小傘が凍りつく。
「――あ? …………いやごめんなさい、驚かせるつもりはなかったんですただの偶然なんですでもこれが私の食事なんです堪忍してくださいほんとは数日どころの話じゃないんですほんとすみませんすみません退治しないでしないでしないでしないで」
「退治なんてしませんよ……ふふっ、あははっ、あーおかし」
「……大丈夫?」
「はっ、ふぅ……大丈夫ですよ、えぇ私は大丈夫ですよ……ふふふっ」
早苗の変遷振りに戸惑う小傘と、そんな小傘を見て涙が出そうなほどに笑う早苗。
それが――二人の始まりだった。
「では改めまして、東風谷早苗です。守矢神社の風祝です……その、この間は申し訳ありませんでした。ごめんなさい」
「いいよいいよ、さっきも謝ってくれたし、それにお腹一杯にもしてくれた。私は多々良小傘、よろしくね」
一際高く響いた雨音にはっと意識が現実へと戻る。
ずっと記憶の海を彷徨っていたからか、それとも日頃の疲れが出てうとうととしてしまったのか、気だるい感触が早苗の身体を覆っていた。
「ふ、ぅあぁ……」
後者だったのか、口から漏れる欠伸を慌てて片手で抑えつつ、早苗はゆっくりベッドから起き上がる。それでもまだ立つことはできず、ベッドの端に腰掛けるような姿勢になった。
窓の外を見ると、雨はその勢いを緩めることなく降りつづけていた。むしろ勢いが強まっているような気すらすると、どこか霞みがかった頭の中で彼女は思う。
これだけの雨なら人里の傘屋が繁盛しているかもしれない。雨に降られて帰るに帰れなくなった客が懐具合と相談しているかもしれない。それをしない者は雨の中をただ待ち続けるか降られて帰るかを考えているかもしれない。森の妖怪は木陰にでも入り、山の妖怪は洞窟にでも避難して、そして彼女は――
取り留めの無い思考が行き着く先が見えず、五里霧中。
「あぁ、もう……」
意識が淀んでいる所為かどうでもいいことばかり考える自分の頭を、両掌で頬を同時に叩くことではっきりとさせて早苗はようやく覚醒する。頭の中に浮かんでいた限りなく現実に近い妄想はどこかへ消え、先程まで浮かべていた過去の記憶も巻き添えで吹き飛ばされる。
そうなると気になってくるのは過去のことではなく現在。いくら過去に想いを馳せようと未来を空想しようと、人は今を生きていくことしかできないのだから――そんな大仰しいことを考えながら早苗はこれからどうしようか考える。
具体的には今日の晩御飯の献立である。
二柱が不在ということもあって家には早苗一人だけ。普段は早苗が作ることが多い晩御飯であるから料理に問題はないがいつも献立をあれこれ考える苦労を背負っているので、いざこういう場合になってしまうとさて何を作ろうかという段階で呆けてしまう。あまりよろしくないが簡単に済ませてしまおうか、なんて悪魔――風祝なのに、というか浮かんだ悪魔が紅い幼女だった――が囁きかけてくる。
そんな悪魔に全面降伏、残り物にほんの少し手を加えそれをオカズにご飯に漬物と簡単な味噌汁でも添えて――長い思案を必要とせず献立はあっさりと決まった。
さてそれを作るのにどれだけの時間がかかるか――それを考えようとして早苗は、今が何時であるか解らないことに気づいた。
「えっと、時間は……」
自然と窓の外に目がいったが空を覆う雨雲の所為で陽の具合から時刻を察することができず、うとうとしていたこともあって体内時計及び腹時計も不明瞭。こんなことで奇跡の力を使うなんて勿体無いし、と早苗は部屋に置いてある時計に目をやった。
空は全くそんな様子を見せないが、時刻は夕方を少し過ぎた辺りだった。
「結構いい時間ですね……疲れていたんでしょうか」
今は誰も咎める者が居ないのだが、それでも罰が悪そうに頬を掻く早苗。体調の自己管理は神に仕える身として最低限のことなのだが、どこか甘いところもあるのでこういうところでボロが見え隠れする。
これではいけないなぁと反省しつつ、簡単に済ませるとはいえ晩御飯の支度も必要なので彼女はベッドから立ち上がり、扉に向かって歩く。
そして扉に手をかけたところで、ふっと彼女は振り返った。特に何かを感じたという訳でもないのに顔を巡らせた彼女の視線は、窓の外のある一点を見つめている。雨水が窓ガラスを伝い流れ落ち、降り注ぐ雨と陽を遮る雲が更に視界を悪くしているというのに、
彼女はその先に確かに水色を見た――気がした。
いつかのように彼女は――多々良小傘は、雨に降られていた。
何も遮る物が無い空の下、眼下の木々や湖畔の紅い館すら飛び越す高さにポツンと一人で浮かんでいた。いつもと同じように、紫色の傘を胸に抱きかかえて――だが差してはいない。
彼女は『傘』が変化した妖怪であるが、雨を遮るような都合の良い能力は持ち合わせていない。当然身体も服も傘も、そして水色の髪も濡れている。今の彼女の服を絞れば雑巾以上に水が滴り落ちるだろう。
人間とは違って肉体よりも精神に依る面が大きい妖怪ではあるが、このようにずぶ濡れの状態で居て何ら支障が無いという訳でもない。人間よりは頑丈だがそれは比較の話、妖怪だって風邪は引くし一部の例外を除いて肉体の損傷で死ぬことさえある。故に殆どの妖怪は人間と同じように自らの住処に引き篭もるか、何かしらの用事なりがあってぶつくさ言いながら傘を差したり合羽を着こんで外へ出るか能力を無駄遣いするか、だ。小傘のように持っている傘も差さずに雨に降られている物好きは数えるほども居ない。
だからその疑問は当然のものだろう。
「どうしてこんなところで、雨に降られているんですか?」
“つい先程まで”一人で空に浮かんでいた小傘は背後から投げ掛けられたその疑問にビクリと身体を震わせて――数秒後、目と口を大きく開いて驚いたような、それでいて嬉しそうな笑顔で彼女は振り返った。
「わ、驚いたぁ~。人を驚かせる才能があるんじゃない? 巫女さんより妖怪の方が向いてない?」
その表情と言葉――わざとらしすぎた。
思わず出そうになった「そのキャラ作ってるでしょ」という言葉を危ういところで飲み込んで、彼女は皮肉を混ぜて返答する。
「こんな雨の中、傘も差さずに空で浮かんでいる妖怪さんほどじゃありませんけどね。それと私は巫女ではなく風祝です」
その笑顔が向けられた先に居たのは苦笑を浮かべた――早苗。服装はそのままで、靴は履いているがここまで空を飛んできたのかいささかも汚れていない。ただ、傘や雨具の類は持っていないようだ。
それでいて彼女の服も身体も毛筋一つも濡れていないが、何となく予想がついたので小傘はそこには触れないことにした。ただ抱えていた傘を押し出すようにして、早苗の方にやる。
「そういう早苗だって傘、持ってないじゃん。貸してあげようか?」
「ありがとうざいます、でも――」
紫色の傘を差し出してくる手を丁重に押し留めて早苗は叫ぶ。
「大丈夫です、奇跡の力を使えばこの程度の雨! 何ともありません! 今なら守矢神社を信仰することで大雨の日も傘要らず! さらに分社の購入もされるのでしたら大雨大水台風の日も家内安全家万全! どうですこの機会に?」
小傘の予想通りだった。むしろ早苗の方から言及してきた。それと露骨に勧誘してきた。ついでに何故か妙なポーズをつけていた。何故だか小傘は目を逸らしたくなった。
しかし早苗本人の気概はどうあれ、事実として彼女の体は濡れていない。どころか『奇跡』の対象範囲を広げたのか、先程まで小傘の身体に当たっていた雨が今は見えない傘に遮られるように彼女の頭上で跳ね返っている。
御礼と畏怖を込めて小傘は口に出した。
「ご都ご――じゃなくて便利だね奇跡って」
「何か言いかけました?」
「ううん、何も。なんでもないよ」
「そう、ですか……?」
ほんの少し本音が漏れかけた。慌てて顔の前で両手を振りながら小傘は誤魔化す――ついでに傘も振り回される。そんな彼女に訝しげな視線を送る早苗だったが、今はそれよりも気になることがあったようだ。小傘の体を爪先から頭のてっぺんまで三往復ぐらい視線を動かし、呆れたような声を出す。
「……それよりも小傘さん、傘も差さないでこんなところに居て大丈夫ですか? もうだいぶ濡れちゃってますよ」
呆れているがその声と表情は少し切なそうで、小傘は自分が早苗に心配をかけてしまったことを知る。その要らぬ心配を払拭させるために、彼女は明るい声と笑顔でその疑問に答えた。
「大丈夫だよ、私は妖怪だし。それに元々『傘』だもん――だから『雨』は大好き、『雨』に降られるのも大好き」
「あ…………そういえば、そうでしたね」
早苗は納得したような腑に落ちないような複雑な表情を見せる。『傘』が化けた存在が雨の日に傘を差さずに外へ出るのは理屈としてはおかしくないが、小傘の姿はオッドアイやその髪を除けばどこにでもいる可愛い少女にしか見えず、辛うじて彼女が元は『傘』である存在だと思わせるのは彼女が手に持つ紫色の傘だけなのだから、彼女のことを良く知っていても早苗の反応は仕方ないだろう。
それでも一応は納得した様子を見せる早苗に、今度は小傘が逆に質問する。
「早苗は雨、嫌いなの?」
偶然か必然か、先程も考えていたことを小傘に聞かれて早苗は考え込むように唸る。
そして先程と同じような結論に至る。
「う~ん、そんなこともないんですけれど。でも、これだけ雨が降ると奇跡の力で雨雲を吹き飛ばしたくはなりますね。雨に限らずこう、天気が淀んでいると太陽が恋しくなりそうです」
その言葉に目に見えて小傘が焦り出した。相手が他の人間や妖怪であれば戯言と取ることもできるが、奇跡を操る現人神となると本気でやりかねない――そこから来る焦りだ。
「ちょ、ちょっと止めてよ早苗ぇ、せっかくの雨なんだから……あ」
しかし逆にその力の有効活用を思いついたようで、今度はやけに目をキラキラと輝かせながら早苗に詰め寄ってくる。思わず顔をのけぞらせる早苗に限界まで近づいて、彼女は邪気の無い笑顔で言い放った。
「その力でもっと雨降らせるとかできない? できれば一週間、一ヶ月、うぅんそれ以上!」
「箱舟は勘弁してください」
どうせ奇跡の力を使うならば――といった風な小傘の提案を早苗はニッコリ笑って拒否する。四十日四十夜も降り続ければ恵みの雨が滅びの雨になりかねない。
しかし小傘は首を傾げるだけだった。
「なにそれ?」
「いえ、なんでもありません」
通じなかった宗教ネタはあっさり切り捨てて、さてどうしようかと早苗は思案する。
と――丁度いい具合(?)に腹の虫が鳴った……早苗の。
「ぁ……」
思わず片手でお腹を抑える行動に走った彼女を指差して、小傘がやいやいとはやし立てる
「あー、早苗のお腹が鳴った鳴った、良い音したね」
「こ、小傘さん……!」
あはははは、と笑う小傘と顔を真っ赤にする早苗。
と、また一つ鳴った腹の虫――今度は先程とは音色が違う。
「…………」
「…………」
今回、顔を赤くしたのは小傘の方だった。それは純粋な空腹からか、それとも早苗のそれが伝染したのか。
これ以上に距離を離せばお互いの声すら聴こえない中で、奇妙な静寂が二人を包み込む。
降り注ぐ雨は弱まる気配を見せず、時刻も時刻ということで他に人や妖怪、動物の気配すら見受けられない。そんな中で空に浮かんでいる二人――それも片方は全く雨に濡れていない――はとても奇妙な存在だった。
その状況に耐えられなくなったということもあるが、名案を思いついた早苗が口を開いた。
「……家、来ます?」
「いいの?」
小傘にとってもそれは名案だったのか目を輝かせて――しかしすぐに不安げな色が見え隠れする。妖怪としては珍しい方かもしれないが、人を驚かせるという使命(?)を持っている癖に彼女は図々しさのような“この幻想郷で生きていくのに必須”の能力(?)を持ち合わせていない。。
そこを突っつくのも面白そうだが今は自重しようと考えて、早苗は小傘の不安を打ち消す。
「大丈夫ですよ、今日は神奈子様も諏訪子様も居られないんです。それに晩御飯も簡単に済ませようと思っていたところなんですが、小傘さんが手伝ってくれるなら一品どころか二品追加も良さそうですね。それに今夜は冷えそうなので、丁度良かったところです」
「……えっと、早苗? “今夜は冷えそう”ってことはその、つまり…………」
「はい、泊まっていきませんか?」
先ほどの沈黙の間に赤みが引いていたはずの小傘の頬に、また色が差す。落ち着かない視線があちこちに移動し、拠り所の無い両手がわちゃわちゃと振り回される――ついでに傘も。
実のところ早苗が『お泊り』に小傘を誘うのはこれが初めてではない。むしろ一般的な「親しい友人」以上の頻度で行われることもあって、既に守矢神社には小傘用のパジャマや着替えどころか歯ブラシが用意されているほどだ。
それなのに小傘は毎回このような態度を取る。使うベッドが一つであることは関係ない、多分。
人間より強いはずの妖怪の、それも可愛らしい妖怪の初々しい仕草は同性の早苗からしてもいろいろとこみ上げてくるものを感じずにはいられない。あと一分でもこれが続けば奇跡パワーの無駄遣いで寝室へダブルで直行しかねない。
そんな早苗の邪心を感じ取ったのか、十数秒程で小傘は落ち着いて早苗に向き直った。
「よ、よよよ……」
「よ?」
「よ――よろしくお願いします!」
いろいろと勘違いしていた。というよりいろいろな勘違いを早苗にさせていた。
「え、あ…………は、はい! じゃあ行きましょうか!」
慌てたように早苗は小傘の手を掴み取り、引っ張るようにして飛んでいく。
小傘以上に赤くなった顔を見られないようにして。
目の前には自分よりも少し背丈の小さい少女の――うなじ。綺麗な水色の髪がさらりと下りて目に眩しい。そんな小傘の体は、足を伸ばして湯船に入る早苗の腿の上辺りに落ち着いている――抱っこに近い体勢だ。
そもそも大した用意をしていないのだから人手が一人増えようとさして品揃えに変わりは無く、しかし一人で準備を済ませ、食べ、後片付けをするよりは速く、そして格段に楽しい夕食も終わり、二人は一緒に“一人で入るには広いが二人で入るには少し狭いお風呂”に入っていた。
決して、早苗に疚しい動機があった訳ではない。
(う、うぅ……)
――多分。
奇跡の力の無駄遣いで共に体を乾かしその後夕食を取った二人だったが、気分的に熱々のお湯に入りたかった――それが風呂に入る理由。
そして、片方ずつ風呂に入るとなると必然的に待たされることになるし、節約のためにも一回で済ませた方がいい――それが二人で入る理由。
(こがさ、さん……)
だから「風呂に二人で入る」という行為に疚しい動機なんてこれっぽっちもない。気分と衛生面、そして経済性と合理性を併せて考えたこの上ないほどに健全な動機。
(すっごい――)
さりとて『破滅への道は善意で舗装されている』、健全な動機からの行為によって生まれる心情が必ずしも健全とは限らず――
(すべすべ♪)
早苗の手は小傘の体を余すところなく(?)撫で回していた。肩や首筋、背中までならまだしもきわどいところでは太腿の内側辺りまで――手を伸ばそうとして、しばし逡巡してから諦めるのもご愛嬌。
誤解なきように書いておくと、あくまでこれは『スキンシップ』。二人で入るには狭い湯船に二人が浸かれば体が触れ合うのは当然であり、また友人、それも女の子同士ということもあればそういう行為が行われるのも不自然ではない。決して不自然ではない。多分不自然ではない。
それを示すように、小傘の方もその行為を拒んではいない。それどころか気持ちよさそうに、顔を上げて目を閉じ、行儀悪く口を開けて吐息を漏らしている。
「……ふぁぁ……」
誤解なきように書いておくと小傘の吐息の大半は、熱いお風呂に肩まで浸かっている気持ち良さだ。
それでも漏らされた吐息をつい勘違いしてしまい、早苗の手がびくりと揺れ動いて――あわや表では大惨事な場所に手が触れそうになる。
(――はっ!? 危ない危ない……)
常識を完全に棄てきってはいない早苗は、危ういところで大避け。この状況ではグレイズもアウトだ、掠っている的な意味で。
そもそも早苗がこのような行為に走っている原因の大半は小傘にあった――と書くと誇張があるかもしれないが、早苗にとってそれは紛れもない事実。
何せ目の前で気持ちよさそうに自らの腿の上に座り込んでいるのは、外で見かけてショーウィンドウの前で眺め続けたどんな人形よりも、背伸びをして買った自分にはとても似合わないような化粧や服装に身を包んだ雑誌のモデルよりも、自分が見知ったどんな存在よりも可愛らしいオッドアイの少女。
普通の少女らしく可愛いモノが大好きな早苗としては、こんな逸材を目の前にして我慢していられるような常識はむしろ捨て去りたかった。それ以前に体勢的に体が触れているのだから、今更手の一本や二本どうということは――そこにはまごうことなき駄目人間の発想があった。
更にそんな可愛らしい少女の正体は『妖怪』であり、本来なら『風祝』である早苗とは相容れない存在、ましてや二人の出会い方を考えれば尚更相容れていることがまさしく『奇跡』。そんな二人が今や文字通りの『裸の付き合い』。そんな状況が生み出す背徳感も、早苗の腕を進めこそすれ押し留めはしない。
と、早苗の胸に小傘の背中が当たる。早苗が近づいたのではない、小傘の方からだ。
「っ!?」
「ふぅ~」
早苗の動揺も知らず、小傘は気持ちよさそうに早苗に身を預けている。無意識に楽な体勢を求めているのか少し体が揺れ動き、しっくり来たのか動きが止まって――その頃には早苗の頭も冷静さを取り戻していた。
(…………何をやってるんでしょうか、私は……)
状況に対して子供のようにはしゃいでろくろく体も洗わずに熱々の湯船に飛び込んだから頭が茹だっていたのだろうか――そんな微妙に責任転嫁とも取れることを考えながら、早苗は身を預けてきた体を支えるように、小傘の体に腕を回して抱き寄せた。小傘は吐息を漏らしながら、しかしその行為にも抵抗はしなかった。
「うひゃっ!?」
それをいいことに早苗がうなじに顔を埋めたら、さすがに声を上げて体を離そうと抵抗したが。
「ちょ、ちょっと早苗!? 人が甘やかしてればなに調子に乗ってるの!?」
「――って思いっきり掌で踊らされてた私!?」
驚愕と羞恥心と絶望からさっと頭が冷えた早苗は、しかし楽しそうに声を上げて笑いながら自身のお腹をさする小傘の態度に、謀られたことを悟った。
「あ、早苗が驚いた。うーん、やっぱり早苗と居るとお腹が膨れるなぁ」
「むぅぅ…………えいっ、ミラクル☆ハンド!」
「ひゃいっ!? ひ、人を驚かせる妖怪を驚かせるなんて……! 鬼、悪魔!」
「残念私はこれでも現人神です、だから妖怪を驚かせるのは私の役目です!」
「それいろいろとおかしいからっ!」
わーきゃーわーきゃーと黄色い悲鳴が浴室に木霊し、二人が暴れて飛沫が壁に飛び散る。
数分後。
「はぁっ、はぁっっ、はあぁぁ……い、一時休戦と、いきませんか?」
「……さ、さんせーい…………」
「熱々の風呂に入る」という行為はそれだけでもかなりの体力を消耗するのに、浴槽の中で暴れたらどうなるか――それを二人は見事に体現していた。
具体的には体も顔も、ついでに頭の中まで真っ赤な茹蛸。現人神であろうと妖怪であろうとこの摂理からは逃げられなかったようだ。
それだけ暴れても結局「早苗の膝の上に小傘」という体勢だけは崩れなかったので、早苗は暴れた分ずれたところを直して無理な姿勢にならないようにし、小傘が座りやすいようにもする。小傘の方もおとなしく早苗の負担にならないように座りなおす。
先ほどまで騒いでいた反動か妙な静寂が浴室に溢れ、逆に外からの音が二人の耳に届く――それは未だ降り止まぬ雨の音だった。
お湯は冷めていないし体も熱を持っていたが、その雨音を聞いているとなにか寒々しさを感じるので、早苗は先ほどのように小傘の体をぎゅっと後ろから抱きしめた。今度はそれ以上のことをしなかったからか、それとも早苗と同じ考えを持っていたからか、小傘は抵抗しない。
そうやっていると撫で回していた時よりも余計に相手の感触が伝わってくるのだから、皮肉な話だ。
(やっぱり……“女の子”なんだなぁ……)
少しのぼせた早苗の頭にそんな考えが浮かぶ。
そもそも彼女は現人神とはいえ普通の人間。外の世界でも比較的には普通の生活を営んでいた彼女にとって、『妖怪』というのはあまりにも未知な存在だった。小傘が化け傘であることを知った時も、実は本体はあの傘の方ではないのか、可愛らしい外見だと思ったら実は骨組みと紙でできているんじゃないか、そんなことばかりを考えていた。
それがこうして肌を触れ合わせてみると普通の女の子なものでいささか拍子抜けしたことを、早苗は否定できない。いや、普通の女の子どころか外の世界でそこらを闊歩している女の子よりよっぽど女の子らしい――なんて感想を抱いたりもした。
お肌の手入れなんてしている様子もないのにどこにもシミ一つなく、乾いている部分なんてありはしない。適度な弾力があってすべすべとしていて……これで自分より長生きしているなんて、早苗にはとても信じられなかった。いっそ妖怪になってみようかななんて考えが浮かんだほどだ。どこかの僧侶の二の舞だとか言ってはいけない。
「小傘さんのからだ…………いいなぁ」
「っ!?」
膝の上に載っている体が急にびくりと震え、それではっと我を取り戻した早苗は自分が何を口走ったのかに気づいた。肩口から覗き込むようにして小傘の顔を窺うと、水分を湛えた綺麗な瞳が震えている。
それもまた可愛らしくて――と暴走する前に早苗の罪悪感が奇跡的に打ち勝った。相手に見えるはずもないのに、顔の前で両手を動かしての必死の弁明。
「――い、いやそういう意味じゃないですよ!! そういう意味じゃないですからね! 大事なことだから二回言ったって訳じゃなくて、あ、いや大事なことなんですけれど、その…………」
喋れば喋るほどに墓穴を掘り進めていっているような気がして、早苗の言葉は尻すぼみになって途切れる。さすがにそんな尻切れトンボでは居心地が悪かったのか、小傘は顔だけで振り返って早苗に聞く。
「……なに?」
その瞳があまりにも真っ直ぐで、ついつい早苗は即答してしまう。
「いや、小傘さんって良い体してるんだなぁ、と……ってだからそういう意味じゃないですからね! じゅ、純粋に褒めてるんです」
「……? あ、ありがと……別に普通の体だと思うんだけどなぁ」
またしても墓穴が深くなるところだったが、幸いにも早苗の言葉をそのまま受け取ったようだ。心の中で安堵した早苗は、これ以上この話を続けてもいいことはないと判断する。
さりとて沈黙も気まずい。ならば話題を変えるという意味でも、と思って早苗は気になっていたことを質問した。
「でも、そんな体であんな雨の中に居てほんとよく平気でしたね。見たところも触ったところも、あまり人間と変わりないんですが」
しかしその言葉をどう受け取ったのか、小傘の顔に縦線がいくつか入る。あれ、と思って自分の発言を思い返す早苗だが、別にまずい発言は無かったはずだと訝しがる。そんな早苗を恨めしそうに見つめて小傘は答える。
「さっきも言ったけど私はこれでも『妖怪』で『傘』だもん、早苗からはそんな風に見えなくても……私は、奇跡とかなんとか言って雨にも降られない人間の方がよっぽど変わってると思うけどね」
「言ってくれますね、このこの」
ただ返答の途中で気を取り直したのか、その顔に笑顔が戻った。まだ気になってはいたが相手が笑顔になってくれたので、早苗も笑顔で返す。
すべすべの肌を持っていても、若いはずの早苗が嫉妬するような体を持っていても小傘はやはり『妖怪』であり、骨組みと紙でできていなくとも『傘』なのだ。
そう思ってみると何故か、膝の上に確かに感じる重みが空虚な物に思えてきて……早苗はもう一度、存在を確かめるようにぎゅっと抱きしめる。
「ん? どうしたの?」
「いえ、なんでもありません」
そうしてみるとやはり目の前の彼女は――確かに存在する。可愛らしい顔、羨ましい体、透き通るような綺麗な声。視覚、触覚、聴覚で確かに彼女を感じ取れる。
ふと考える。自分が持っている傘がこんな少女だと分かっていれば、誰かは傘を棄てなかったのだろうかと。それともこんな少女になると分かってしまえば、余計に傘を棄ててしまうのだろうか。
(もし……自分なら?)
小傘の生い立ちを知り、小傘のことを知っている早苗だからこそ……そのどうでもいい疑問の答えは分からなかった。
結局大して話は続かず、また会話のない時間が訪れる。体温と湯の温度差が少なくなってきたように感じながら、特に何も――スキンシップもちょっとしたおふざけも――することなく、ただ身を寄せ合って湯船に浸かる。
そんな時間が数分かそれ以上は続いていたから、その質問は早苗にとっていささか唐突なものだった。
「そういえばさ……なんで早苗は雨、嫌いなの?」
ポツリと発せられた問いかけはやけに静かで、それなのに風呂場の中ではやけに響く。
耳に入って脳が認識したその質問に、早苗は答えを述べる・探す以前に、まず「なんで今更その質問を」と感じた。しかしすぐに思い直す、自分が先ほどした質問も『雨』に関係することであり、まだ『雨』は降り止むことなく屋根を叩き続け、目の前の元は『傘』の妖怪と共に早苗が風呂に入っているそもそもの原因も『雨』なのだから、何も不思議なことはない。
ただ、一つだけ説明できないことがある……だから早苗は逆に質問をした。
「なんで……私が雨、嫌いだと思ったんです? さっきは好きとも嫌いとも言わなかったのに」
「だって早苗、私のところに飛んできた時――すごい、嫌そうな、顔してたから」
特に何の意味もない質問かもしれないと頭のどこかで考えていた早苗に、しかし返された答えは予想外で余計に頭を悩ませるものだった。
小傘の言葉に自分が今日、彼女と出会った時のことを早苗は思い返す。だが相手がどんな格好だったか、自分達はどういう会話をしたのか、そういう自分で“見て聞いた”ことは覚えているのだが、自らの細かな表情という普段から意識していないと思い出すこともできないものはどうしようもない。
それでも小傘が言っているのだから、自分は“嫌そうな顔”をしていたのだろう――ひとまず早苗はそう仮定づけることにする。もしかするとまた自分を驚かせるための罠かもしれないという考えもあるが、腕の中にある小さな体の熱がそれを否定していた。
(非論理的、ですね……)
そう思いながらもその仮定で考えてみるが……やはり早苗にはその時の表情を思い出せず、自然その表情を浮かべた感情も分からなかった。
だから思い当たることを答える。
「そう、ですね……やっぱり雨は、嫌いではないんですよ。恵みの雨、救いの雨。時に人々を助け、時に人々を脅かす存在。雨がなければ人間は、自然は生きていけません。雨は大事だと、私は考えています。でも――」
「でも?」
「――好きでもないんですよ。なんで好きじゃないのか……いえ、こちらに来てから好きでなくなったのかもしれないんですけれど、その理由が分からないんです。雨が大事だということは、はっきりと分かっているのに……」
返答とも逡巡ともつかないその曖昧な答えに、何故か小傘は嬉しそうにしていた。首だけで振り返って早苗に笑いかけ、楽しそうに言葉を紡ぐ。
「それって矛盾、って言うんだよね。私は雨が大好きだよ、『傘』だし。いつまでも降り続けてほしいなぁ」
心の底からそれを望んでいるような言葉に、今までの疑問がすっ飛んで嗜虐心がむくむくと湧き出てくるのを早苗は実感した。
ニヤリとした笑みを浮かべて、意趣返しとばかりに早苗も“蒸し返す”。
「“四十日四十夜、雨は降り続けた”。そして世界は水で満たされて、みんな水の底に沈んじゃって、雨を楽しいと感じることもできなくなるんですね」
その言葉に小傘の頬がぷくりと膨れる。それが可愛らしくてつい苛めたくなるんだと分かっているんだろうかというお節介と、やっぱり全部分かっててやってるんじゃないかという空恐ろしさが同居する。
「せっかくの夢なのに、水をささないでよ」
「雨だけに」
「うまくない」
ニヤニヤしている早苗と、膨れっ面の小傘。
でもいつまでもそんな表情を保っていられないからどちらともなく表情を戻し――そしてお互いに笑い合った。
四十日四十夜降り続けた雨も最後には止んだことを、早苗は言わなかった。
「そういえば、早苗の家に初めて泊まった時はほんとに驚いたぁ……パジャマのサイズがぴったりで」
風呂から上がり体を拭いて、早苗が用意した緑色のパジャマに着替えてベッドの布団の中に入り込んだ小傘は、懐かしむようにそんなことを言った。
部屋の電気をパチリと消して、小傘が入った布団の中に自分も潜り込みながら、早苗もその時のことを思い出していた。
初めてのお泊りの日――お互いにぎこちないながらもちょっとした切っ掛けで話は弾み、今日と同じように二人で風呂に入って、そして風呂から入って用意しておいたパジャマを出し、それに着替えた時――小傘の顔が凍りついた。
早苗が用意したパジャマはズボンの裾が垂れ下がることも服の袖が長すぎることも、胸や腰、腹回りがきつすぎることもぶかぶかでもない、“小傘の体にぴったりのサイズ”だったのだ。
一歩、早苗から後退りしながら彼女は呟いた――「ストーカー?」と。
あの時の今にも涙が流れ落ちそうな表情は、どこかそそるものを感じさせながらもグサリと来た――と早苗は後に述懐している。
小傘の背中に抱きつくように身を寄せて、早苗も懐かしむような口調で言う。
「あの時は一騒動でしたよ、小傘さんが私のことをストーカー呼ばわりして」
「ぅ……だって、背丈からスリーサイズまでぴったりなパジャマだったんだもん」
責めるような口調ではなかったが、小傘にも早とちりしたという負い目はあるのか言い訳がましい口調になってしまう。しかしそもそも誤解の原因は早苗なのだが、当の本人は悪びれもせずにその時の答えを繰り返した。
「奇跡の力です」
「……ほんっとにごつ――無駄遣いだよね」
呆れたように小傘が口を閉じて、早苗も続ける話題が無くて、自然と二人で押し黙る。
雨と風が窓を叩いているが、それが余計な雑音を掻き消してくれるのか、部屋の中は静かだった。
暗闇の中、少女が二人。
布団の中に二人分の体温、故に肌寒いと感じることもなかったが、その温もりを逃さんとするかのように早苗は抱きつく力を強め、小傘もそれを受け入れる。
すぐに、二人分の寝息が響き始めた。
そうしていつの間にか、小傘は早苗の腕の中から消えていた。
もう何も見えない。
太陽が完全に沈んでしまい、月も星も雲に隠れてしまって人々は皆、寝静まっている。故に天然人工問わず照明はなく、小傘の体はほぼ完全に闇に隠れていた。
ただ、パジャマの緑だけが闇の中に浮いていた。
「…………」
傘は差していない。それどころか持ってすらいない。靴も履かず何も持たず、ただ小傘は闇の空に浮かんでいた。
風雨は弱まるところを知らず、小傘の体はびしょ濡れになっている。服の枚数が違うから、夕方の時よりもその濡れ方は酷い。
「…………」
なのに彼女は俯くこともなく、空を見上げている。
その左右で色が違う双眸を濡らしながら、どこをなにをといわずただ見上げている。
そんな彼女の体に、軽い衝撃。
「――――っ」
痛くはない。“この空の中を飛んできた誰かが、目当ての人物を見つけ、抱きついてきたような”衝撃だったから。
苦しくはない。体に回された両腕は、とても優しく小傘を抱きしめているから。
ただ痛い――罪悪感で、心が痛い。締め付けられるように痛い。
「……ごめん、なさい」
「何が、です? ちなみに逃げた“温もり”に関してはこうして抱きつかせてもらってるのでチャラとします」
それでも小傘の呟いた謝罪に、抱き締めていた彼女――早苗は、咎めるような声音を一切出さずに、むしろどこか茶化すような雰囲気まで出して尋ね返していた。
予想していた叱責も罵倒もなく、むしろ自分を心配しているかのようなその口調に頭の中が真っ白になる。せめて一言でも叱ってくれれば、声音の中に叱責でも混じっていれば、それならば楽になれたのかもしれないのに――そう考えながらも、それが甘えでしかないことに小傘は薄々気づいていた。
だから、口ごもりながらも答える。
「パジャマ……濡らしちゃった」
「……そんなことなら構いませんよ、洗濯すればいいだけです。それで――それが、小傘さんが私に謝りたいこと、なんですか?」
やはり責めるような口調ではない。だがそれは先程よりも淡々としていて、それが小傘にとってはこの上ない責め苦のように感じられた。
そして、確かに“小傘が本当に謝りたいこと”はそうではなかった。
それを吐露することはとても胸を締め付けられることで、でもそれよりもこの温もりが離れていくことが嫌で――心の底から押し出すようにして、小傘は言った。
「勝手に抜け出して――ごめんなさい」
「……はい、よろしい」
その謝罪に、早苗はニッコリと笑った――小傘からは表情が確認できないが、その声はやはり笑っていたから、簡単に想像することができた。若干だが震え混じりの、しかし嘘が混じらない声音。
そこで小傘は気づいた。自らの体に回された早苗の腕が、自分と同じように雨に濡れていることに。
「奇跡……使わないの?」
「たまには雨に降られたくなる時もありますから、現人神ですもの」
「……いみわかんない」
「――ふふっ、私もです」
寒いはずなのに、冷たいはずなのに、『現人神』といっても所詮は人間なのに、早苗は自分から進んで雨に降られている。それが小傘には理解できない。声にも震えが出ているのなら、いますぐに神社に帰って体を暖めさせなければならない。それなのに、早苗本人は平気な風をしている。小傘がこんなに心配しているというのに――
そこまで考えて、早苗もきっとそう思っていたということに彼女は気づいた。
どれだけ本人が平気な風をしていようと、目の前で土砂降りの雨に降られる存在を放っておけるはずがない……あの宴会の時、そして今日の出会い。
早苗が怒っていたのも正確には“勝手に出て行ったこと”ではなく――“心配をかけたこと”。
自分がしてきたことの意味を知って、小傘は呆然とする。自分を取り巻く環境の変化を知って、何も考えられなくなる。
それは“ずっと求めていた存在が現れたという喜び”。“また裏切られるのではないか”という葛藤。
そんな風に小傘の心を掻き回している存在は、寒いのか心細いのか抱き締める力を更に強めて、誰ともなしに語り始めた。
「私、本当は雨、嫌いじゃないんですよ。むしろ、あちらと違って自然豊かなこちらに来てから、余計に好きになりました」
「………………」
それはこの状況とは無関係に思える吐露。しかし今の小傘は、それが何を意味するか知っている、分かってしまっている。だから無言で返すしかない。
それを責めもせずに、早苗は懐かしそうに語る。語りきれない想い出を凝縮して、短い言葉に感情として乗せる。
「それでいろいろあって、いろんな人と出会って、小傘さんとも出会って――それから、ですね。雨の日が嫌いになったのは」
予想できた流れ、それに耐え切れなくなってつい、小傘は言ってしまった。
「それって、私の所為かな」
「そうかも、しれませんね」
早苗も否定しない。事実、その通りなのだから。
あの日、今夜のように雨の中を小傘の元へ飛んだ本当の理由を思い出しながら、早苗は言った。
「どれだけ好きな物でも、大事な人が嫌いなら自分も同じように嫌いになってしまうことがあります。雨の中、“あんなに痛々しい”笑顔を見せられたら、誰だって嫌いになってしまうかもしれません。ねぇ、小傘さん」
早苗も分かっているのに、それでも言葉に出して問いかける。
「貴女は本当に――雨が好きなんですか?」
それこそが、小傘に対する罰であるかのように。
「……当然だよ。私は『傘』、私が“使われる”『雨』が嫌いな訳、ないじゃん」
そうやってさも当然そうに語りながら、しかし小傘の声は寒さ以外の理由で震えていた。
小傘という『傘』は、基本的に雨の日に使うことを前提とした『傘』だ。そんな存在にとって、『雨』はもはや好きや嫌いという感情では語りきれない現象だろう。
もちろん小傘もそれは同様だった。
「私が『傘』として雨を浴びていた記憶はない、でも私は確かに雨を浴びていた。雨の日に、雨が降りそうな日に、持ち出されて持っていかれて、降り出した雨で持ち主の体を濡らさないようにして使われる……もちろんそれ以外の時にも持ち出されることはあった。でも私が一番“感じていた”のはきっと――『雨水』。だからそれが私なの、私はそのために居るの、そのために――“居た”の」
傘。
持ち主のために雨水を遮り、代わりとなってその身を濡らす道具。
雨水を遮ること、それが彼女の存在価値だった。
「でも、私は棄てられた」
そう――“だった”。
「棄てられた、忘れられた。気に入られてなかったのかもしれない、どこかが壊れて棄てられたのかもしれない。それとも――雨に備えて持ち出した先で、雨が降らずに忘れ去られたのかもしれない」
時を遡る力も、記憶にも残っていない自らの過去を穿り返す力も持たない彼女だから、真相はもう分からない。
自分が棄てられた理由が、自分が悪いのか、持ち主が悪いのか、誰も悪くないのか、それとも何もかもが悪いのか――小傘には分からない。
だが――
「でも私は――『傘』なの、『傘』だったの」
彼女が『傘』であったこと、その過去だけは変わらない、変えられない。
「だから雨の日になったら使ってもらえるって思ってた。誰にも見られない道端で、風に吹き飛ばされた先の畑の中で、ボロボロになりながら流された川底で、私はそう信じていた。そんな記憶なんて無いけど、絶対そう信じてた」
その言葉は矛盾しているようで、しかし小傘にとってはそうではない。
何故なら――意識を持ってもその思いが消えることはなかったのだから。
「だから雨が降り続けていれば、思い出してくれるかもしれない、拾い直してくれるかもしれない。色が気に入らなかったなら塗り替えて、壊れていたのなら修理して、忘れていたのなら思い出して――そのために、私は“雨の中に居なければならない”」
彼女の顔は、早苗が見た笑顔よりも痛々しい。夢見がちに希望を語りながら、それでいて心の底で現実を理解しているがための葛藤。それが全て表情に表れて、小傘の顔は雨と涙でぐしゃぐしゃになっていた。
「だから、私は――『雨』が好きなの。好きでないといけないの。そうじゃなきゃ……私は、なんなの?」
きっと、それを一言で言い表せば『矛盾』。
その決意はあまりにも寒々しく、それでいて小傘の根本に関わるとても重くて堅固なもの。他人が彼女のそれを推し量るなど、ましてやその想いに土足で入り込んで踏みにじるなど、到底許されるはずがない。
それでも、こんな時こそそんな常識を捨て去って、言わなければならない――早苗はそう思った。そう思ったら、自然と口から言葉が飛び出していた。
「私は、私には」
「…………」
顔を伏せる小傘は――無言。それを続きを促すものだと前向きに解釈して、早苗は言う。
「私には、小傘さんの持ち主を探してあげることはできません。雨を降り続かせることもできません。小傘さんの――『傘』の持ち主になってあげることも、できません」
「奇跡なんていっても、できないことばっかりだね」
責めるでもないその言葉に、早苗は頷く。
「そうなんです、これでも『人間』ですから。だから小傘さんの望みを、叶えてあげることができません。でも、小傘さんが雨が“好き”で、雨に降られることを望むならば――」
今度は、あの時とは違う。
否定しない。彼女の生き方を否定はしない。
「――迎えに行きます、私は雨が降る度に貴女を迎えに来ます」
ただその先を作るだけ。
「どんなに遠く離れていても、どれだけ時間がかかっても、どれだけ酷い雨の中でも――奇跡でも何でも使って、迎えに行きます。気が済むまで一緒に雨に降られて、それでまた家に呼んで、服と身体を乾かして、ご飯を食べて、お風呂に入って、一緒に寝るんです。今度は絶対に離しません」
「…………」
出会いは最悪、その後も順調とは言いがたく、お互いのことなんて分かり合っているかも怪しく、今も二人で雨に降られている。
『幻想』郷なんて名前がついていても、素晴らしい出会いから楽しい時を過ごして思いを通じ合わせて最高のエンディングを迎える――そんな奇跡のような幻想は無かった。
「私にはそれくらいしかできません。きっと慰めにもなりません。でも、」
だから早苗は、『現人神』ではなく『早苗』としてできることを口にする。
「“私は”貴女と一緒に過ごします、過ごしたいんです――それに二人きりでなら、こうやって雨に降られるのも、悪くありません」
静寂。
雨音はうるさく、しかし二人の間には静けさがあって。
伏せていた顔を上げて早苗の方を向いた小傘の顔は――笑っていた。
「それって…………プロポーズ?」
「――んなっ!?」
既視感を感じさせる流れにデジャヴを感じる反応をして――でも、小傘の顔はあの時よりも綺麗な笑顔だった。
「冗談だよ、冗談。驚いた? 驚いたでしょ驚いたでしょ、ねぇねぇどんな気持ち? あー、おかし。ほんとに、おかし、いんだから、早苗は」
そう笑いながら、小傘は体ごと向き直って早苗に抱きつき返す。
胸元に顔を埋めて、本当におかしそうに笑いながら――泣いていた。
早苗は、何も言わず抱き締める力を強める。まるで降り注ぐ雨から彼女を護るように。
「でも……なんで、こんなに、あったかいんだろうね……」
その言葉だけは、やけに早苗の耳に響いてきた。
帰宅後。
合理的精神はどこへやら、二度目のお風呂に浸かる二人――今度は向かい合うようにして。
多少窮屈でも、今は二人ともそうしていたかった。
「ねー、早苗」
「なんですか?」
あの時のようなものではない柔らかい笑顔を見せられてついついだらしのない表情になりながら、早苗は先を促す。
促されて、小傘は少し悩みながらも――しかしはっきりと言った。
「私、やっぱり雨が好き」
「…………」
思うところが無かった訳ではない。
ただその言葉があまりにもはっきりと、まっすぐで――そして小傘の表情がやっぱり笑顔で、次に言われた言葉で自分もさらに笑顔になってしまったから、そんな考えは早苗の中から消えてしまった。
「だって雨が降ったら、早苗が迎えに来てくれるんでしょう?」
“人を驚かせる能力”ではなく“人を恥ずかしがらせる能力”に変えた方がいいんじゃないか――そう思いながら、しかし早苗の口は自然とこう返していた。
「そうですね、小傘さんを迎えに行けるなら私も雨が好きになれそうです。こうやって二人でお風呂に入って、二人で寝ることができますから」
あっという間に真っ赤な茹蛸二つ。そして始まる既視感溢れる言い争い。
いつの間にか、雨は止んでいた。
素晴らしいです。
早苗さんの調子のり属性と現代人で現人神という性質が上手くお話の中に組み込まれていて
楽しく読めました。
自分が読んだ小傘ものの中でもすごく良い小傘ものの一つだ。
そんな新しい発見をした気分と、二人の心の機微が伝わってくる文章のおかげで、とても面白く読むことが出来ました。
作中の"わちゃわちゃ"という表現が大好きです。
この作品の早苗さんも、大好きです。