その日は、酷い雨だった。
黒雲に覆われた空は深淵を世界に落とし、輝きを奪われた星や月が大粒の涙を地上に落とす。この季節を忘れて欲しくないと、そう大地に訴えるように……
もし詩人でもいれば、このように大袈裟に謳うだろうか。
しかしながら、大きな屋敷の中で筆を走らせていた少女は誇張や揶揄など専門外であった。史実をそのまま綴るだけ、それが職務であり使命だ。
「酷い雨、今までで一番……」
梅雨がもうすぐ終わるというのに、この雨量はなんなのか。
毎年恒例の出来事なのだが、一年経てば普通の人は覚えていない。けれど、黒髪の少女は覚えている。自分が生まれてきてから、一番酷い雨だと確信できる。
年相応の子供であるなら、次の日の話題程度にしかならない事象が彼女には特別だった
季節の変わりを告げる雨、その言葉ですら別の意味を持つ。
「また、一つ……年が重なるのですね」
筆を置き、胸に軽く手を置いた。
まだ動いてくれている心臓に、頑張ってと願いを掛けて立ち上がる。
体が動く限り書を綴るのが使命と知りながらも、もう少しこの雨をみていたかったからだ。
使用人に開け放つように命じた障子の先では、粒の大きさが目でわかるほどの雨が続いている。
今日出歩こうとするなら、空からだけでなく地面も気を付けねばならないだろう。
庭に落ちた雨粒の跳ね上がりが膝の高さまで到達しているように見える。
そんな激しい雨の中で外出しようと思う人はまずいないはずだ。
いるとすれば、何でも記事にしたがる物好きな天狗くらいだろう。
そう考えてしまうと、少しだけ好奇心が溢れてくる。
「傘をお願いします」
無茶を言うなと、使用人が一斉に止めてくる。
それでも無理を通して少女は玄関まで移動した。
子供心とでもいうべきだろうか。
どれほど酷く降っているのか試そうとわくわくしながら一歩足を踏み出した途端、後悔した。
ほんの一瞬だ。
傘を差していても着物の膝までずぶ濡れになってしまった。
いきなり心が折られそうになってしまったが、ここで引き返せば笑い者になるだけ。少女は多少意地になって稗田と書かれた門を出る。
一歩、二歩……
「やめよう……」
冷たさが必要のない冷静さを思い出させた。
時間も時間だし、このひどい天気だ。明かりがついている家はまばらで、もちろん人影なんてない。
左側の通りなんて特に顕著で、酒場の明かりだけがもの悲しげに光っている。
人の話し声も簡単に飲み込んでしまうほどの雨音の中でお客がいるのかすらわからない。
けれど……
「人……?」
ゆっくりと動くものは、確かにソコにいた。
遠目でも長身とわかる、女性だろうか。
信じられないことに傘も差さずにその身を晒して、居酒屋の前で顎に手を当てている。
まさか入ろうというのだろうか。
間違いなく濡れているに違いない衣服で、男の溜まり場である店の中へ入ろうというのか。どこの誰だか定かではないが、そんな獣の檻に野ウサギが入っていくのは危険過ぎる。
少女は着物の裾が濡れるのを気にせずに走り出し、
「――!」
「?」
叫んだが、雨に掻き消された。
気付いてくれたようだが、なんだか気まずそうに頬を掻いている。
「――!」
そんなところにいては風邪をひく。
一度私の家に立ち寄ってはいかがでしょう。
さらに近付いて声を掛けるが、まだ気付いてくれない。
しかし、稗田の家名は伊達ではなかった。
女性は少女が何者か気付いたようで、ぽんっと雨の中で手を叩き。
「はい、到着」
「え?」
乾いた衣服の感触が少女の頬にいきなり生まれた。
そして、なんだか柔らかい物質が二つ。
少女がむっとするほど、嫌味な膨らみが目の前にある。
続けて、自分が居酒屋の中に移動させられたと気付くのには多少の時間を要した。
「いやぁ、丁度良かった。今日なら四季様にばれないと思ったんだけど、誰も居酒屋に居なくてどうしようかと思ってたんだよ。しかし、あんたがそんな酒好きだなんてね、いやぁ、新しい発見だ♪」
「……違います! 私は、あなたが濡れていると思って心配しただけですよ、小野塚小町さん。またさぼりですか」
「今日は定時でさようなら、さ♪ 残業なんてしったこっちゃないしねぇ~、こんな雨ばっかの季節は飲まないとやってられないよ」
溜めた知識が役に立つ瞬間。
小さな手掛かりで、結論を導き出す。
それは少女にとって甘美な時間ではあった。
女性の顔を見ずに相手を予測して、密かな愉悦に浸る。
「今の不自然な入店も、雨に濡れない現象も……能力を無駄に使いすぎているのでは?」
「あぁん、固いこと言わないでさ。ほら、飲もうよ。貸し切りなんて久しぶりだ」
雨との距離をいじり、服に濡れないように調整。
そして、少女に知られない速度で一緒に店内へ移動。
それが一体どれほどの労力で行われるのか人間である少女にはわからない。
わかっているのは、度肝を抜かした店主の顔と。
羨ましいほどの美貌を持つ怠惰な妖怪が、その場を支配していると言うこと。
そして酒に強くない少女に対し、対面に腰掛けた小町が注ごうとしていること。
しかも物凄く嬉しそうに。
「私はまだ、お酒に対する耐性が未熟な者で」
「じゃあ、練習しよう」
「……ですから、苦手で」
「苦手を克服して、前へ進むのが人間、だろぅ?」
なんと図々しく、適当な女性だろう。
小町とあまり話したことのない少女は、苛立ちを覚えながら席につくと。イライラに任せて酒をあおった。
「そうです! そのとおりです! 私は人間が前へ進むために過去を取りまとめているのですから!」
「お、っと。調子が出てきたじゃないのさ。若い奴は元気が有り余ってるのが丁度いいねっ。ほらほら、もうちょっとお姉さんの世間話に付き合ってくれないかなぁ」
適当で、だらしなくて、さぼり魔。
人生の反面教師的な女性が目の前にいる。
そもそも少女はこんなことをしている場合ではないのだ。
だからさっさと、この場を引き上げて帰らないといけない。
いけないのだが……
「……いいでしょう。あなたが泣いて謝るまで、この空間を歴史一色で染め上げてご覧に入れます」
お酒の勢いもあったのかもしれない。
その退廃的な小町の外見に、魅せられただけ。
そう言ってしまえば、それまでなのだが。
「上等、さあ、かかっておいで♪」
稗田阿求は、小町に憧れた。
彼女の自由さが、眩しかった。
「いっ……!」
起き上がろうとして、その動作を諦めたくなる。
そんな頭痛に襲われたのは、雀の歌声が聞こえる朝だった。
阿求は芋虫の如く布団から這い出し、馬鹿の一つ覚えで輝く太陽を睨んだ。
酷く気分が悪い、枕の側に置かれた服に袖を通すまで何度肌襦袢のまま一日を過ごそうと思ったことだろう。
「あ、起きたね。おはよう」
「……おはようございます」
なんだか、不躾な態度の使用人が側にいたが、今朝だけはその方がありがたい。
丁寧に受け答えができるほど、阿求自身に余裕がなかったからだ。
大鎌を持って胡座をかく使用人の相手なんて、
「……こ、こまちさっっっ!? ぁぁぁぁ……」
「何自爆してるんだい? そっちの気でもある?」
「だ、誰がそのよぉぉぅぅなぁぁ……」
「ほらほら、怒ったら損だよ~、起きたらまず水を飲む」
叫ぼうとして、頭痛に妨害されること二回。
もう、今日はダメだと半分諦めて、阿求は小町から水を受けとった。
「お仕事は、どうなさったのですか……」
精一杯の反撃が、水を飲み干してからのこの一言だけ。
布団を畳む気力もなく、敷き布団の上に腰を下ろして深呼吸を繰り返す。
「……休み♪」
「何ですか、今の間は……」
「いやぁ、最近仕事頑張りすぎて、代休が溜まりまくってるんだよね。だからほら、自主的休暇」
「さぼりじゃないですか……、お願いですから私を巻き込まないでくださいね」
冗談に聞こえるかも知れないが、冗談ではない。
今、普通の声を発しただけで、頭痛が後から後からやってくるのに、この状況で四季映姫の長い説教を効かされようものなら、彼女の命運は尽きたも同じ。
そのまま小町が魂を持ち帰ってしまうに違いない。
「まったく、可愛げのないお子様だこと」
「そのお子様に無理矢理酒を飲ませたのはどこの愚か者でしょう?」
「えー、こまちわかんなぁ~い♪」
「……わかりました、四季映姫様にはこちらから手紙を」
「ははぁ~! 神様仏様、阿求様!」
死神が神様と言いながら土下座する。
冷静に見たらなんとシュールな光景であろう。
ふざけているのか、それともこれが本当の小町なのか。
ずっと楽しそうに見つめるその視線を受けて、阿求は段々むず痒くなっていく。
大人である小町がどうしてここまで、醜態を晒すことができるのか。それがどうしても理解できないのに、小町だから仕方ないという不思議な感覚に襲われた。
そして彼女をじっと見つめ返して、足の上に乗った大鎌にやっと気が付く。
「……何か、お仕事ですか?」
「いや~、護身用、かな。あたいみたいなうら若き乙女が人里を出歩くと、声を掛けてくる男が多すぎてね。で、これがあると、大抵避けてくれるからね。らくちんらくちん」
「確かに、側を歩いているだけで昇天させられたりしたら笑えない冗談です」
「大丈夫だよ、首と体がさよならする程度だから」
「人間だと大惨事です」
阿求が律儀に返すと、小町は嬉しそうに額を右の手の平で叩いた。
一本取られた、ってところだろうか。
「そいつは困るね。死ぬ人間が多くなったらあたいの仕事が増えるじゃないか」
「仕事が増えたらお給金もあがるのでは?」
「いやいや、船頭は毎日決まったお給料だから、頑張らない方がお得だろう? 魂を集める方は出来高も関係あるけど」
それ以前に何故この大鎌を持った小町を室内に招き入れたのかが、疑問である。
そもそも居酒屋から帰った記憶がない。
思考回路を総動員しても、小町に歴史を語っていた記憶しかない。
十中八九小町が運んだことに間違いはない、阿求が礼を言うべき立場なのだろう。
なので、仕方なく、
「昨日の夜はありがとうございました。ここまで連れて来ていただいたようで」
「よしとくれよ、あたいは礼を言われることなんて何もしてない。晩酌に付き合ってもらってこっちこそありがたかったよ。新しい妹が出来たみたいだったから新鮮だったかな。意地っ張りで、堅物なのが玉に傷だけど」
「不出来な姉を持つ妹というのは、こんな憂鬱な気分なのでしょうね」
「どこぞの吸血鬼の妹が言いそうだ」
へくちっ、と、赤い館の当主がくしゃみをする映像を思い浮かべた阿求は、たまらず小さく息を吐きくすり、と笑う。
すると、小町が何故か拍手しだした。
何がそんなに珍しいのか、目を丸くして。
「おぉ、凄い凄い、そんな風に笑えるんだねぇ!」
「……馬鹿にしてますね? してるでしょう?」
「いやいや、愛想笑いとか、物知りだぞ~どうだ~、っていうのは見せてもらったけどね。なかなかどうして可愛いもんだ」
「……そ、そんな世辞が通るとでも」
「昨日、お姫様抱っこしてあげたときの寝顔も可愛かったけど」
「お姫様……抱っこ?」
阿求の動きがピタリと止まり、ぎぎぎ、と壊れたブリキ人形を思わせる動きで顔を上げる。それを正面から受け止める小町からは屈託のない笑みが溢れていて……
見る見るうちに赤くなっていく阿求の顔からは、今にも湯気が発射されそうだった。
そうなると冷静さの欠片すら、おかっぱ頭から吹き飛んでいくわけで。
「な、なんと破廉恥なこっ! っっとぉぉぉ……」
大声を出そうとしたのが運の尽き、布団の上で身悶えることになってしまい。
「ほらほら、辛い時はゆっくり横にならないとね」
「――っ!」
追撃の『強制的に膝枕』によって、阿求の命は風前の灯であった。
稗田家の当主、歴史を綴る役割を得たものは例外なく短命で、転生を繰り返す。大人たちが話題にしたがらないだけで、それは周知の事実である。
「……ああ、なんていうことなの」
「おいたわしや……あの若さで……」
それが今、この人里の大通りで何に関係しているかといえば……
「すいません、離れて歩いてくれませんか?」
「うわー、妖怪差別?」
「違いますっ! 死神であるあなたが側にいると、いらぬ誤解を受けるんです! って、いたたた……」
家の中にいても絶対に仕事にならない。
そう確信した阿求は、気分転換に出かけることにした。外の風に当たれば二日酔いの不快感も改善されるだろうと、淡い期待を寄せて、しかし……いらぬおまけがいつまでも付いてくるわけだ。
そのせいで、人里の大人から憐れみの声の嵐を受けてしまい。精神的にどんどん追い詰められていく。朝からこれでは今日一日は人生最悪の日になりかねない。
二つの意味で痛む頭を抑えて当てもなく歩けば、足は自然と大人の少ないほうへと進み続けていき……
「ああ、そうか。阿求も勉強する時間だったか」
「本気で怒りますよ?」
「ははは、冗談だって」
いつのまにやら歴史繋がりで交流のある寺子屋に到着してしまっていた。
体は子供だが、阿求にとってこの場所は知識を教材として提供する場所であり、先生に近い立場であった。
「おはようございます。慧音さん。今日は朝からですか?」
「今日は満月の前の日だからね。早めに切り上げて目一杯遊んでもらった方が子供たちのためになる。と、すまない。挨拶が送れた。おはよう、二人とも、珍しい組み合わせじゃないか」
「おかげさまで気苦労が絶えません」
「あたいは楽しませてもらってるけどね、おはよう、先生」
玄関前に慧音が立っているということは、もうすぐ子供たちが集まる時間と推測できる。そのため、長居してはまずいと阿求は立ち去ろうとした。
しかし、悲しいかな……
「じゃあ、授業風景を覗いていってもいいかい?」
本日の主導権は完全に小町側にあるようだ。
慧音はどうしたものかと、腕を組み、
「阿求が一緒に立ち会うなら……」
「よし、やったね阿求!」
「もう好きにしてください……」
結局、午前中はみっちり自主的な授業参観に費やした。
知っている知識を再度他人から聞かされるという退屈な時間だったため、阿求は子供たちの反応の方ばかり眺めることとなってしまう。それも新鮮と言い変えることはできるかもしれないが、蛇足には違いない。
けれど、授業が進むたびにうんうん唸る隣の大人を見ると、阿求はなんだかおかしくなってくる。こんなことも知らないのだろうかという感情より、死神と名のつく者の教養が偏ったものなんだという事実を再発見できたのが大きいだろうか。
「いえ、偏っているのは、お互い様でしょうかね」
「ん? なんか言った?」
「いえ、特には」
子供たちが元気良く手を上げる姿が視界に映る中、阿求はくすり、と微笑んだ。
その後、一通り授業を終えた二人は慧音と一緒に子供たちを見送り、寺子屋を後にする。
「どうですか、昨日の夜の話とはまた別物だったでしょう?」
「うん、うん、まったくそのとおり。あぁ~、やっぱり堅苦しい場所で聞くと退屈だねぇ」
その帰り道、阿求は不信な発言を受けて足を止める。
まさかと思い、声を掠れさせながら聞き返した。
「あ、あの、何か考えがあって、寺子屋に寄ったんですよね?」
「いやぁ、別に? ふわぁぁぁっ」
あっさりと答えて大欠伸。
わざわざ好意で半日付き合ったのに、それを無駄にしてくれた。
そんな小町の脇腹のお肉に対し、
「痛いっ! それ、地味に痛い!」
怒りの爪が襲い掛かった。
◇ ◇ ◇
次の日、たった一日違うだけで阿求の世界は激変する。
朝から頭痛はしないし、不法侵入者が部屋に堂々と座っていたりしない。仕事の時間も邪魔されることなく、昨日の遅れまで取り戻せそうだった。
ふと薄暗さに気が付いて顔を上げれば、部屋四隅には燭台が設置され、ゆらゆらと炎が輝いている。どうやら時間の感覚が狂うほど歴史の編纂作業に集中していたらしい。大きく背伸びをしたら、阿求の背骨が小気味よく鳴り、
「ふふ、子供の出す音ではありませんね」
思わず苦笑してしまった。
天井に上げた腕を引き戻し、肩を回しても同じような音が響く。運動不足ここに極まれりである。
いい加減休憩しようと足を伸ばし、畳の上に背中を預けたら、後頭部に柔らかい感触が伝わる。片付け忘れた座布団でもあっただろうか、と、目を閉じたままその辺りをまさぐってみる。
「……きゃんっ」
何かが、鳴いた。
左手に当たるむにむにを触るたび、座布団が動く。
確かに黒猫は住み着いているが、質感は察して小動物ではない。間違いなく。阿求は確信し、ゆっくり瞼を上げてみた。
すると……
「思春期だからって、同性の尻を揉むのはどうかねぇ」
「……出ましたね、さぼり神」
「おや? きゃーっとか、破廉恥な、いつからここにっ、とかは?」
「どうせ距離を操って勝手に入ってきたのでしょう? 疲れているので、面倒です。しばらく枕になってください」
正体が判明して安心したのか、腕を体の横に持ってきて大の字に広げた。
死神相手に無防備にもほどがあるのかもしれないが、危険人物とは思えないのだから仕方ない。
「士別れて三日なれば、即ち更に刮目して相待すべしって言うけど、一晩でそんな態度を取られるとお姉さん寂しい。もうちょっとからかいがいのある態度を取ってくれないと」
「なら、立派なお姉さんらしい態度を取ることです」
「ほらほら、膝枕とかお姉さんっぽい」
「では、それだけを受け入れますので、1刻ほどしたら起こしてください」
「ああ、わかった。二時間したら起こせばいいんだね。ねえ、ところで阿求?」
「なんです?」
後頭部から伝わる温もりでまどろみの中へ連れ去られそうな中、小町が顔を覗き込んで尋ねてくる。大事なことかもしれないと一瞬気を張るものの、
「あんたの靴ってどんな色?」
「赤ですね、他の使用人は比較的地味な色を……ふぁぅ……」
どうでもいいことか、と。
阿求はそう判断して意識を暗闇に預けた。
すると、わずかな浮遊感の後で急激に落下するイメージに捕らわれる。
普段眠るときと少し違う。
小町に触れているからか、と。
(ああ、懐かしいですね、この感覚は)
それは遠い遠い、昔。
妖怪にしてみれば一瞬の出来事かもしれないが、少女にとっては大切な思い出。
密着した肌からは温もりだけでなく、誰かがいる安心感が伝わってくる。
そう、それはまるで……
(乳母に背負われていた、あの頃を……)
あの大きな背中に捕まっていたあの頃の事を……
(……はて?)
そこで、阿求は気づいた。
そのとんでもない違和感に。
「あの、小町さん?」
「ん? まだ時間には余裕があるから、眠っていいんだよ?」
「はい、時間がそれほど進んでいないことはこちらもわかります。そうではなくて、一つ気になることがあるのですが」
「ん? あたいのスリーサイズかい?」
「あの、私って、膝枕してもらってましたよね?」
「むむ、スルーなんて酷いじゃないか。そうだよ、しっかり膝枕してた」
そうだ、そこまでは問題ない。
仕事の切れ目に横になった、それだけだ。
何の変哲もない行動を行っただけなのに、、
「えっと、すごく背中が寒いんですけど」
「うん、冬だからね」
「それに、なんだか足に妙な感覚があるんですが」
「ああ、靴を履いたからね」
「……なんで、外なんでしょう?」
「靴を履いたら室内にはいられないじゃないか、馬鹿だねぇ」
「……ははは、なるほど一本とられましたね! あははははっ!」
「ははははははっ!」
「あははっ、うふふふふ♪」
「あはっ……! いたっ! いたたっ! か、髪の毛は女のいのちぃぃぃぃ!」
小町に背負われながら、満面の笑みで浮かべ、その赤い髪を力任せに引っ張る。
割と本気な阿求さんがそこにいた。
静まり返った林の中に二つの足音が響く。
一つは、自信満々に、
もう一つは、一歩一歩不安げに、
まばらに空いた針葉樹の天井からはいくつもの月光が光の筋となって地面に降り注ぎ、茂みを青く照らし出していた。
「……まさかと思いますが、私をどうこうするおつもりですか?」
「んー、散歩だよ、散歩。たまに人里の外も悪くないと思ってね。それとも逢引って言い直そうか?」
「心から遠慮します。確かに林の中は気を落ち着ける効果もあると聞いた覚えはありますが、今夜はどんな夜か。ご存知ですか?」
「ああ、もちろん。騒がしくて、風流な夜だ」
「書にこの世界の危険度をまとめている私から言わせてもらえれば、満月の夜は人里と神社以外は危険区域だらけです。ましてやこんな足をとられやすい場所で妖怪に出会おうものならひとたまりもないでしょう」
「子供なら、尚更?」
「ええ、もちろん」
「女の子なら、もっと?」
「当然です!」
小町の腕に抱きつき、周囲を警戒し続ける。
人間として模範的な行動を続ける阿求の姿は、まさしく無力な少女代表といったところか。急な外出であったため、妖怪に出会ったときに渡す非常食すら持ち合わせていないのだから、命綱はしっかり握っておく必要がある。もちろん、その綱役が能天気な小町である。
けらけらと笑いながら、林の先を指差して。
「じゃあ、あれは絶体絶命ってことでいいんだね」
「え?」
あまりに平坦な声過ぎて、世間話を振られたと思った。
阿求はその指の示す方向を何気なく見つめて、息を呑んだ。
林の中の、月光が差し込んだ広い空間。
十を回ったところだろうか、まだ幼い少女が木の幹に背中を預け空を見上げていた。
それだけなら、迷子であっただろう。
しかし、
「あなたは食べてもいい人間?」
少女の視線の先には、同じくらいの大きさの女の子が浮かんでいた。
普段は纏う闇を解き、完全に捕食へと意識を向ける妖怪が、
「ぁぁ……ぁぁぁああっ!」
子供は泣き叫び、父と母を呼ぶ。
けれど、その場に二つの影はない。
興味本位で外へ出かけて一人になったか、それとも、両親はすでに何者かの犠牲になったか。それも定かではない。
けれど、この場で一ついえることは。
捕食者と獲物が揃ってしまったということだ。
「もうちょっと楽しい風景が見られるかと思ったけど、ついてない。 ……ま、ハクタクは里を守るので精一杯だからね。仕方ないさ」
仕方ない。
その感情は正しい。
ルーミアが生きるための食料として人間を選び、見つけた。
人間が牛肉や豚肉を選んで食べるのと何が違うというのか。
「助けては、くれないのですか?」
それでも、阿求は人間だった。
仲間であり、まだ子供である少女が妖怪に襲われる現状を直視したいはずがない。
もし、子供が小町と阿求の存在に気がつけば、助けを乞われる存在なのだから。
「これがあの子の天命、寿命であるならこちらは手を出さない。あの世とこの世を繋ぐ船頭として禁忌になるからね」
「わかります。それがこの世界の理なのですから……」
あと一回でも瞬きをすれば、ルーミアが少女に手を伸ばす位置に来る。
「でも、小町さん、あなたに悪意がないのなら……能力を使ってはくれませんか?」
鮮血の結末など、見たくもないし。
見届ける義理もない。
距離を操る力ですぐにでもここを離れて欲しいと願った。
「ああ、もちろん。そのつもりだよ……すまなかったね」
小町はトンッと足を踏み鳴らす。
すると、阿求がしがみ付いているのとは逆の右手の中に、彼女の代名詞である大鎌が姿を現す。
「謝って済むとは思ってないよ、でももう一度だけ言わせて欲しい」
小町から独特の妖力が登り立ち、小町と阿求の姿を陽炎に変える。
その場に彼女たちなんて最初からいなかったと、世界が誤認し、それを修正する。
二人がいるべき場所は、そう。
ガキンッ
「……本当に悪いと思ってるんだよ。
ねえ、ルーミア?」
「む~~~っ!」
少女と、ルーミアの中間地点。
そこにいきなり体を割り込ませた小町は、鎌を使ってルーミアの押し止める。
爪と、刃。
二つの物質がぶつかり合い、耳障りな音を上げる中でも、小町は阿求を片腕で抱きしめて妖怪の力押し受け流す。体勢を崩されたルーミアは片腕を地面につくと、追い討ちを警戒してすばやく後ろへと下がった。
距離が開き、地面の上でにらみ合う形となった二人。
「な、何故です! このようなことは理に反すると!」
そこで驚きの声を真っ先に上げたのは、ルーミアでも小町でもなく。ましてや子供でもなく、小町から手を離した阿求だった。
「んー、だってその子、まだ寿命じゃなかったから」
「は、はい?」
「だから、寿命の前にあっさり死なれたら、あたいが船頭として送らないといけなくなるだろう? 書類も作らないといけないし、面倒じゃないか」
「……は? 面倒だと、その程度の理由で?」
「何言ってるのさ、今やらなくていいことを今やったら、その分転生とかが早く来て、あたいの仕事が増える、さぼれなくなる、いこーる、可愛そうな小町お姉さんは寝込んでしまうのであった♪」
「あ、あなたと……あなたという人はどこまで……」
食べられると思ったのだろう。
子供は気絶し、地面の上で横になっている。
現在もルーミアとの命のやり取りが行われようとしているのに、このさぼり魔の死神という奴は……、
「どこまで……くっ、ははっ、あはははっ」
笑う場面ではないことなんて、理性でわかる。
それでも阿求の声は止まらない。
自分とは掛け離れすぎた感性を持つ妖怪が可笑し過ぎて、後から後から笑いが込み上げてきて、どうしても吐き出してしまう。
しかしそんな笑いを見せ付けられては、もう一方の妖怪が黙っていられるはずがない。
「酷いよ! なんで私のご飯の邪魔をするの? 久しぶりの人間だったのに!」
「だって、殺されちゃうとあたいの仕事が増えるんだ」
「私のお腹は減るよ!」
「ふーむ、じゃあこれでどうだい?」
小町が鎌の柄を地面にぶつけると、そのあたりの空間がわずかに歪み……
一匹の猪が姿を見せた。
何が起きたかわからず、暴れだそうとする猪の眉間に向かって、小町はためらう事なくもう一度柄を打ちつけた。
それだけで、猪はその挙動をすべて停止させる。
「今日のところはこれで勘弁しておくれよ、今度知り合いの死神に魂抜き終わった後の死体を分けてもらうからさ」
「え、え、ほ、ホントに! 嘘じゃないよね?」
「ああ、あたいも神様の端くれだからね、嘘はつかない。そういうことにしとこう」
ルーミアは嬉しそうに笑い、猪を大事に抱えて林の奥へと消えていく。
職業柄代替物を容易に準備できる死神との交渉は、妖怪にとってプラスになることの方が多いのかもしれない。
そう阿求は考えそうになってしまうが、冷静になってみれば、
「……死神として今のはアリなんでしょうか?」
「真面目なヤツならないんじゃないか? 大体十割の確率で」
「まったく、あなたはどこまで出鱈目なのでしょう」
あまりにもおかしな、
常識なんてどこかに置き忘れた死神の姿。
でも、月明かりに映える姿は凛々しく、命を刈り取るはずの鎌さえ美しい装飾品のように見えた。
そう、感じたとき。
阿求の頭の中で何かが切り替わったのかもしれない。
音を立てて崩れたものの隙間に、新しい風が入り込む、そんな感覚だ。
それはたった一度の瞬きの間で、
(あれ?)
林の中を見渡し、地面を夜空をそして茂みを覗き込み、最期に小町をじっと見つめてみる。
景色は何も変わっていない。
瞳は今ある事象を淡々と映し続けるだけなのに、
(怖く、ない?)
人間として恐怖の対象の一つになりうるはずの満月、それがどこか懐かしくすら感じた。
慧音に依頼し、護衛になってもらいながら風景を書き記していたときとは、明らかに違う感覚が阿求の中に渦巻いている。
「あの、小町さん?」
「ん?」
「満月の夜は、人間でもこんなに、心が躍るものなのでしょうか」
「……ん、そんなもんさ♪ こんな綺麗な夜を見て、感情を揺らさない方が嘘ってね。ほら、初詣のときだっていつもと同じ朝日のはずなのに、どこか元気付けられるものがあるってね」
見ている人の心の持ち方が違うだけだ。
少し前なら、阿求はそう返していただろう。
しかし、その心の中に浮かび始めた新しい景色は、今までのくすんだ色をどんどんと溶かし、落とし、明るい色へと変化させていく。
「あの、小町さん。お願いがあるのですが」
「なんだい?」
「今夜、もし、お時間があるのなら、幻想郷の景色を一緒に見てもらえませんか?」
「いくつくらいだい?」
時間がない。
この感情が消えてなくならないうちに。
新鮮に受け止められているうちに、すべてを記憶しなければ意味がない。
強迫観念とはまた違う、強い意志が阿求に小町の腕を握らせる。
「……全部です」
「はっ?」
「全部! この満月が照らす世界のすべてを私に見せてください。私を連れ出したのだからその程度のことは出来るんですよね?」
「はははっ、参ったねこりゃ……、お嬢様の目を覚まさせちゃったか……」
小町は、頬を掻き肩を落とした。
試すように微笑む少女に腕を掴まれて、ため息をつく。
一晩でこの世界のすべとを見せろなんて無茶にもほどがあった。
力で振り払うこともできる。
無理やり家に送り返すこともできる。
しかし――
「覚悟しなよ。あたいの舵取りは、ちょっと揺れるからね!」
笑っていた。
小町は、心から満足そうに夜空に声を飛ばし、満月と共に昂ぶらせた力のすべてを解放した。
距離を操る、小野塚小町の名にかけて。
◇ ◇ ◇
その次の日から、阿求はほとんど家から出なくなった。
満月の夜に記憶したすべてをまとめないといけなかったからだ。
少しだけ見方を変えただけで変貌した世界のことを少しでも多く記すために。
「差し入れだ、あまり根を詰めるなよ?」
一ヶ月、二ヶ月。
作業が続くたび、慧音や人里の誰かが様子を見に来てくれる。
それが救いのうちの一つだった。
外に出なくても誰かの顔が見えるというのは、孤独な作業の中で大きな力になる。
けれど――
……すぴーっ
さらさら……
……すぴーっ ぷすーっ
さらさらさらさら……
すぴーっ ぷすーっ 、 ぐごっ! ……すぴーっ
さらさら、みしっ!
「ア、テガスベッタ!」
「いったぁ! カド! 今、カドだった!」
例え、会いに来てくれるといっても、である。
阿求が一生懸命に筆を走らせている前で、気持ちよく熟睡された場合は別だ。
赤ちゃんの頭ほどの大きさの歴史書が、『不慮の事故』で飛んでいっても仕方ない
「いいじゃないですか、妖怪とか神様とかそういうのは物理攻撃じゃ滅びないんですし」
「うわー、下手に知識を持ったインテリヤクザが純情な小町ちゃんを虐める……」
「可愛いと思ってやってます?」
「全然♪」
「でしょうね、まったくもう。時間があるようでしたらおもしろい話の一つや二つしてくれてもいいじゃないですか」
「面白い話をしろと言われて撃沈した宴会部長の話してあげようか?」
「いりません、心から」
胸の前で手組み、嫌々と首と一緒に振る姿を見て阿求はうんざりとしながらも、口元を緩めた。
作業中のもう一つ救い、いや、ほとんど大部分を占めているのが彼女の存在なのだから。書かなければいけない、と悪い方向で集中し始めた頭を時折彼女が通常の状態に戻してくれるからこそ、順調に筆が進む。
もちろん、阿求はそのことを小町に伝えないし、伝えようとしない。
時間があるたびに、気軽に小町が遊びに来てくれるだけでいいと、そう思っていた。
『当主様は、死神様と良い仲でいらっしゃるのですか?』
と、使用人に誤解されても、まあ、それはそれでいいかなと。
結局、異性に恋をせず、一生をこの歴史の編纂作業に当てている稗田家の中でにあっては恋愛の『レ』の字すら聞くことがないのだから。
年頃になってからそのことが気になって書物を調べてみたが、『甘酸っぱい』やら『天にも昇る心地』とか、まったく想像できない言葉ばかりで解読不能。先代の誰もが自分のように堅物であったのなら、仕方がないかと諦めた。
と、小町を見つめながら思考を繰り返す中ちょっとした悪戯心が芽生えてくる。
そのはた迷惑な噂について語ってみると、どんな反応を返すのだろう。
「知っていますか? あなたがあまりに屋敷に出入りするものですから、使用人はてっきり私が妖怪好きと思っているようで」
「え? 違うのかい?」
「さあ、どうなんでしょう?」
「さあ、ってあんた、自分のことだろう?」
「生まれたときから外出はあまりしないほうでしたし、人里の中なら妖怪を怖いと感じたこともありませんでした。ですから、異性との関係も妖怪との関係もあやふやなものばかりで」
「まあ、誤解するのも無理ないと思うよ。あたいが遊びに来てるときだけど、阿求は平気で眠るじゃないか。『疲れた』とか言って」
そういえば、と、阿求は最近の自分の行動を思い出す。
確かに、小町の言うとおり。
極度の疲労を感じた場合、小町が遊びに来ているとき限定で寝るときがあるのだ。
小町も勝手に眠っているので、別段意識をしていたなかったが、
「そりゃあ、勘違いもするだろうね。使用人が部屋を空けたら。あたいが布団を敷いているし、阿求はその横で寝てるし、『ごめんなさい!』って大声で叫びながら逃げ帰るさ」
「それは半分以上小町さんが原因ではありませんか?」
「だって、風邪を引いたら困るじゃないか」
「……そ、そう、ですかね?」
優しいところがあるじゃないか。
そんな恩を感じるべきなのかもしれないが、阿求は心のどこかで疑問を持つのを忘れない。
「あたいにうつる!」
「もう一冊歴史書はいかがです♪」
「遠慮しとく♪」
予想通り、と阿求は胸の中で微笑んだ。
小町は話を誤魔化そうとするとき必ず最期に茶々を入れてくる。
それを数ヶ月続けられたのだから、もう慣れてしまった。
「ま、でも、珍しいとは思うけどね。酒も入ってないのにあたいの目の前で熟睡できるやつっていうのは」
「そういうものでしょうか?」
「あのね、一応あたいって死神だからね?」
「ああ、お酒を盗まれる」
「いつから死神って職業は泥棒に成り下がったのかねぇ、確かに最近は晩酌も付き合ってもらってるけどさ。ほらほら、わかってるだろう?」
「もちろん。人間は死神を本能的に恐れるから、でしょう?」
「そうそう、だから阿求を入れたら三人しかいないんだよね。あたいの前で気軽に寝てくれたやつ」
「ああ、霊夢さん」
「躊躇わずにその名前が出るところが凄いね……一応正解だよ」
阿求が一番最初に選んだのは、特別な感情を抱いているとかそういうものではない。
霊夢という巫女は、行動理念が多少適当に見える。
けれど、その実ほとんどが直感で物事を判断し行動する、という救いようのない適当さ加減なのだから。例外的に異変があるが、例外なのだから仕方ない。
たとえ死神が横にいても、『たぶん大丈夫』という判断で昼寝するに違いないと予想して、小町に伝えたまでだ。
「……霊夢さんと同列に並べられると、ちょっとだけ複雑な気分なのですが、もう一人はやはりその腐れ縁でしょうか」
「ああ、魔法使いの方はああ見えて結構慎重だからね。酒でも入ってない限りはあたいの側で寝たりしないよ。妖怪とかの対処法はがんばって勉強してるみたいだしね。その知識の取得方法が不法侵入と窃盗だけど」
てっきり魔理沙あたりかと思った阿求であったが、答えを聞いて意外そうに目を丸くする。となれば、もう一人の山の巫女か、咲夜、はたまた、人里の子供なんて答えも……
「三人目はもう少し考えてから答えるとしましょう」
「ま、そうだね。当てられたら詳しい話を教えてあげようかね」
阿求は喉から出そうになった答えを飲み込み、すっかり温くなったお茶を啜る。
そして、小町をもう一度見つめた。
すると何故か胡坐をかいたままそわそわと小刻みに体を揺らし始めて、甘えるような視線を阿求に向けてくる。
だから理解してしまった。
ふぅ、と阿求は小さく息を吐き。
ぱんぱんっ、と手を叩く。
「夕食と、熱燗の手配を!」
その声に、ぱちんっと指を鳴らす音が続いた。
◇ ◇ ◇
明日が怖かった。
子供が怖い話を聞かされたときのように、阿求は脅えていた。
人には見せないように、当主としての威厳を損なわぬように、隠し続けた。
しかし、いつからだろう。
一日が開けるのが待ち遠しくなる。
また、馬鹿らしい客人がやってくるときを待ち、胸を鳴らして筆を取る。
その感情は、いったいどんな名前を持つのだろうか。
「これで、三日ですか」
本来ならこれが正しい。
魂の船頭であるなら、時には長く、時には短い三途の川を渡すのが使命。
小町がそれを真剣に行った場合、阿求のもとに訪れる時間はずいぶんと少なくなるのだ。
事実、人里では立て続けに葬式が重なった。
それが死神の鎌によって運ばれたのなら、船には乗らない。
けれど、寿命や不慮の事故で失われたものなら、小町が運ぶこととなる。
「たまには、昔のものを覗いてみるのもいいかもしれません」
伝えるものがいないのに、阿求は小さく声を出す。
自分に言い訳をするためというのが情けないが、きっかけづくりなのだからしかたない。若者とは思えない声を出して立ち上がると、阿求は部屋の隅の棚から先代の歴史書を持ち出す。
気分転換と、考え方が少し変わった状態で読み返せば新しい発見があるかと思ったからだ。
本を机の上に開き、こほんっと咳払いをして一枚一枚捲っていく。
その作業を十回繰り返したところで、
「……歴史は、歴史ですよね」
結論に至ってしまった。
絶対に忘れないという能力上、淡々と書かれている部分で新しい発見などあるはずもなく、愚かさに脱力することしかできない。
となれば、残すは末尾。
著者の癖が出る妖怪についての説明書きを読みふけるしかなくなり。
何故か自然と、指が死神の項目へと動いていた。
それでも、やはり真新しいことはない。
阿求が読んだことのある記述しかなく、ただの時間潰しにしかならない。
「……おや?」
死神に関する最期の頁まで読み終えた阿求は、本を閉じようと指を紙から外し。
そこで、気付いた。
子供のいたずら書きのような言葉が、その指で押さえていた部分に書かれていることを。
その二週間後。
すっかり夏が終わり、秋色に染まり始めた田園風景を眺めることもないまま作業を続けていたら、小町が部屋を訪れた。
「久しぶり、今日もお仕事かい?」
「ええ、もちろん」
阿求はその姿を確認できた安心感と高揚感を表情に出すことなく、俯いて応じた。多少不機嫌さを出してみたかったのかもしれない。
何故そう見せる必要があるかも判断できぬまま。
「あの、小町さん。転生した魂というのは、前世の記憶を持ち越したりするんでしょうか」
さっそく眠り始めようとする小町を引き止めるためか、阿求は答えのわかりきった質問をする。自らでも過去に書き記したことのある内容なのに、である。
「例外なく忘れる、と思うけどね。稗田家でも転生で持ち越せるのは歴史に関する知識だけさ」
阿求の前、畳に仰向けに寝転んで天井を見上げる。
欠伸を繰り返しずいぶんと眠そうだ。
「私が、先代の記憶を持たないのはご存知で?」
「一応ね、特異体質で認められてるのは末端まで知られてるよ。稗田家は幻想郷の特異点なんだってさ」
「そうやってと特別視されるのは好きではありません」
「言うと思った。相変わらずの意地っ張りめ」
小町はふふんっと鼻を鳴らし、自分の腕を枕にする。
眠る準備を整えているのが見て取れたが、久しぶりの対面なのだからもう少し会話を楽しみたいというのが、阿求の本音だった。
しかし、もう一人の阿求はまどろみに落ちそうな小町を冷静に観察し続ける。
「起こすのは、夕刻で構いませんか? それとも深夜に?」
「夕方一択だね。ここの夕食は下手な居酒屋なんて尻尾を巻いて逃げ出すから」
「堂々とたかりにこないでくれませんか?」
「いいじゃないか、今度うまい店奢るから。それで相子にしておくれよ」
「わかりました、では、掛け布団だけでも準備させましょう」
「ああ、助かる……」
相当に疲れたのだろう。
小町はそれだけを言い残し、すぐさま寝息を立て始めた。
「そんなに急がなくても……」
くすり、と。
阿求は再び筆を動かしながら、微笑む。
『稗田阿求』の名が記された歴史書を書き連ねながら、先代の歴史書を指でなぞった。
(転生は、歴史だけを繋ぐ。間違いありませんね? 小町さん)
つぶやきを残し、瞳を閉じて、それでも筆は紙の上を滑る。
感情を消し、淡々と書き連ねなければいけない事実の羅列。
それが稗田家のならわし。
それが歴史書のありかた。
けれど、先代は……
再び、過去の歴史書をなぞる。
人のために、妖怪のためにある書物に阿求はそっと触れた。
(なぜ、こんなものを残したのでしょう)
単なる、遊び心か。
それとも、運命に対する抵抗か。
もしくは、未来に対する僅かな希望?
(転生の先に、何を望んだのでしょう)
過去の自分なら絶対気が付かなかったもの。
単なるラクガキにしか思えなかったもの。
それでも、その言葉はきっと。
心の証明に他ならない。
だから、阿求は……
(小町さん、ごめんなさい……)
日が傾いた、夕刻に。
心の中で謝罪の言葉を紡ぎ、呼んではならない言葉を生んだ。
小さな、小さな、その唇から。
「ねえ、『こまっちゃん』起きてください」
普段の阿求が口にするはずのない言葉。
優しく伝えて、眠った体を揺すれば。
「ん~~、わかったよ『――』。あんたはいつもせっかち――」
阿求とは違う。
それでも、よく知った名前を小町はつぶやき、目を擦る。
微笑みながら、名を呼んだ者の姿を見て。
ははっ、と笑った。
「そういう、ことか……」
いつもの、冗談を言うときと同じ顔のはずなのに……
怒る阿求をからかった後の、困ったような笑い顔なのに……
「ちょっと、酷いかな……」
小町の笑い顔が、泣いているようにしか見えなくて。
阿求は、心から詫びた。
調べ物をしていたら、いたずら書きがあったから、そのとおりに呼んでみただけ。
ごめんなさい、と。
心を偽り、謝罪した。
「夕食、今お持ちしますから」
無言で小町が天井を見上げる中。
阿求は重たい空気から逃げ出すための口実を思い出し、実行する。
それしか方法がなかった。
疑惑が、確信に変わってしまったから。
妖怪や神様の一生は、人間と比べ物にならない。
稗田のような血筋の者と比較すれば、一生のほんのわずかな時間でしかない。
故に、小町はあの名前を口にした。
ほんの少し前に、共に生きていたはずの。
三人の、一番目。
小町の前で、初めて無防備に寝顔を晒した人間の名を呼んだ。
「小町さん、またそのような薄着で……」
「魅力的?」
阿求の先代の名を、呼んだ。
小町にとってその名がどれほど大切なものだったかは、阿求にはわからない。
それでも、わかることが阿求にあるとするなら。
「そんな魅力的な小町さんの船に、いずれ私は乗ることになるのでしょうか」
「予約しといてあげようか?」
「駆け込み乗船も楽しそうですが」
「当船での駆け込みは危険ですので禁止しております」
小町が、何かを探しているということ。
目の前で寝転びながら何気ない様子で語る。
この他愛のないやり取りも、その一つ。
強引な酒の誘いも、あの満月の夜の気まぐれも。
阿求の中の何かを見つけ出そうとしているように、阿求には見えた。
『こまっちゃん』
きっと、あの先代が残した小さな文字がそのすべて。
それを見た転生体の子孫たちにそれを見つけさせ、きっかけとする。
もしも、もしもだ。
転生後もわずかに記憶が残っていたとするなら。
そんな淡い期待を持って残した言葉。
「この一冊を書き終えるまで、閻魔様には待っていただきたいのですが」
「地獄の沙汰も金次第って言うけどね。あたいの上司に限って言えば逆効果かなぁ」
それでも、転生後はそのすべてが綺麗さっぱりと押し流されてしまった。
先代が期待した効果もこの言葉にはもうない。
単なる、『昔の小町の呼び名』と成り下がった。
が――
(もし、それが本当なら……)
阿求は、決意する。
この感情が、先代に操られたものではなく、自分のものであるのなら。
誰かとずっと一緒にいたいと願う感情が、特別なものであるのなら。
「小町さん」
「なんだい?」
「……あ、あの、また満月の夜に、出かけて見ませんか?」
この歴史の名前にはきっと、簡単な文字が付け加えられるのだろう。
筆を置き、歳相応の少女として笑う。
阿求が、知るはずもなかった感情の一欠片。
「も、もちろん、二人っきりで……」
こつん、と。
机の横に置きっぱなしにしてあった。
恋敵の歴史書を軽く叩きながら。
党首→当主
の誤字がありました。
内容はすごく良かったです。
阿求のこういう話は大好きです。
一箇所だけ誤用が…「~2刻ほど~」→「~ニ時間したら~」の部分は、一刻が2時間なので、二刻では4時間になりますね。