レミリア・スカーレットに、もはや逃げ場はなかった。
迫りくる光の洪水を目の前にして、その言葉は余りにも容易く口から零れ出た。
「おぅまいがー」
言ってしまって愕然とする。悪魔たる自分が、神に祈るなど!
唇を強く噛みながら、レミリアは石壁すれすれを飛んで避わす。不健康な魔女によって強力な結界がこれでもかと張り巡らされた寝室は、強大なふたりの吸血鬼が全力でぶつかりあっても、びくともしなかった。
「なぁんだ、お姉様。その程度?」
鈴を転がすような声は、この光の発生源である彼女の妹、フランドールのもの。
見ると彼女は、また新たなスペルカードを掲げ、嬉々として発現するところであった。
≪禁弾「スターボウブレイク」≫
更なる波が、レミリア目がけて押し寄せる。
光り輝く世界の真中で、しかしレミリアの眼の前は真っ暗になった。
◆ ◆ ◆
春の盛りはもう過ぎた。長くなりつつある昼の陽がようやく沈んだ。魔の跋扈する時間が訪れる。
太陽の最後の一欠片が山の端に沈みきってしまうと同時に、紅魔館の主は目を覚ますのが常だ。目覚めの悪さに欠けては一級品の彼女を、お付きのメイド長が手取り足取り着替えさせ、ほんの少しのおめざをその口の中へ放り込む。するとそこでようやく目が覚めるのか、吸血鬼は毛布を吹っ飛ばす勢いでベッドから飛び出すのだった。ちなみにそのとき、ニヤリと決め台詞を決めることも忘れない。「さぁ咲夜、逢魔が時を始めるわよ」とか、「フフ、今宵も世界は私のものだわ」とか。ちなみに、最近のメイド長のイチオシは「咲夜、クリムゾンでバーニングな夜にしてあげるわ」である。どのような意味でのイチオシなのかは、読者諸兄の判断を仰ぎたい。
とどのつまり、主が目覚めなければ紅魔館は完成しないのだ。日が沈んでからの姿が本来のそれであり、昼間の紅魔館は只の館である。門前で舟を漕ぐ門番に庭先ではしゃぐ妖精メイドなんてのが、悪魔の住む館の正体であるはずがない。
しかし、ここ数日の紅魔館は様子が違っていた。
「お嬢様、お目覚めの時間ですよ」
海原のように大きなベッドの中で、貝のごとく身を縮こませているレミリア・スカーレットに向かって、十六夜咲夜は本日三度目の呼びかけを行った。
しかしレミリアは応えない。もぞもぞと身を捩り、羽毛布団を頭の天辺まで引き上げただけだった。誰がどう見ても、まだ起こすなという意思表示である。とうに日は沈んで夕焼けも消えてしまったというのに、夜の王は未だ眠ったままなのだ。
咲夜の目尻が少しだけ下がる。瀟洒な彼女は、決して聞こえよがしに溜息を吐いたり、小言を言い捨てたりはしない。諫言はメイドの為すところではない。
だが、紅魔館の生活の滞りない運営とその管理は、メイド長である彼女の仕事だ。そしてレミリアが起きてこないことには、この部屋の掃除ができないのであった。
「ていっ」
「ぎゃっ」
だから、咲夜はレミリアをベッドから放り出すことにした。咲夜がテーブルクロス引きの要領でベッドシーツをはぎ取ると、小柄な主は見事に不意を付かれて宙を舞った。蛙を踏み潰したような声を上げて頭から落下したが、まぁ大丈夫だろう。吸血鬼だし。
「おはようございます、お嬢様。今宵もいい夜ですよ」
主を投げ飛ばした咲夜は満面の笑みである。嫌味にしか見えないが、これで本人には言葉以上の意味が微塵もないのだから恐ろしい。もちろんレミリアもそれを理解していて、普段ならばそれに更なる捻りを利かせ返す程度のことはやってのける。
のだが。
「……………………」
のそりと幽鬼のように起き上がったレミリアは、そのままシーツのなくなったベッドに戻り、再び力なく倒れ込んでしまった。うつ伏せのまま力なく五体を投げだす吸血鬼の背で、黒い蝙蝠の羽だけがピンと立ち、ゆっくりと左右にリズムを刻んでいる。
重傷であった。
「そんなに、ショックですか。フランドール様に負けたことが」
咲夜のその言葉に、ゆらゆら揺れる羽がびくんと止まる。そしてそのままぱたんと倒れた。
流石にその姿には憐憫を誘われたのか、メイドは手に持っていたシーツを毛布の代わりに掛けてやった。糊が利いていて少し固めなその布で、小さな身体を丁寧に包んでやる。春も終わりに近づき、朝夕の冷え込みもだいぶ和らいではいるが、この主の身体は如何せん冷え易い。
レミリアの肩までがしっかりとシーツで包まれていることを確認しながら、咲夜はひとつ前の満月の夜のことを思い返した。
煌々と輝く紅い月の下、爆発せんばかりの妖気を滾らせた紅魔館の主は、エントランスホールで高らかにこう宣言したのだ。
―― 我らが機先を制する。
―― 幻想郷の誰よりも早く、スペルカードに基づいた異変を起こし、
―― 矮小な人妖どもを悉く席巻する!
咲夜以下メイド妖精一同はもちろん、門番隊隊長の紅美鈴も、この提案に反対しようはずもなかった。彼女たちにとって、仕える主の言葉は絶対を通り越して真実でしかない。
咲夜にとってちょっとした驚きだったのは、動かない大図書館ことパチュリー・ノーレッジがこの宣言にあっさりと賛成票を投じたことである。普段ならば小言の一つも呟きながら、しぶしぶとレミリアに同調するのが常であるのに。
目を丸くする咲夜に、魔女は小声で語って聞かせた。
「いつどこの世でも、先んじるというのは大事なことだわ。スペルカードルールに基づいた大規模な異変。紅魔館が勝つにせよ負けるにせよそれが『成功』すれば、先人としての私たちの地位は不動のものとなる。そうなるという運命を、レミィは察知したのかもしれない」
あの脳無しがどこまで考えているかは知らないけど、と付け加えて、パチュリーは読んでいた本へと視線を戻した。
なぁるほど、と咲夜は理解する。異変を起こせば、それを解決する者がやってくる。大本命は幻想郷の規律たる博麗の巫女であるが、異変を解決してやろうという酔狂な物好きはそれ以外にもいるだろう。英雄譚風に言うところの、勇者たちと魔王軍の激突。こんな素敵なエンターテインメントを、人間も妖怪も放っておくはずがない。近い将来、弾幕勝負は間違いなく流行る。その歴史の一番最初に、紅魔館とレミリア・スカーレットの名前が燦然と輝くのだ。
気紛れ気味なお嬢様のいつもの発作かと思った自分を、咲夜は恥じた。そういうことならば、レミリアの剣になることも盾になることも厭いはしない。自分はメイド長だが、屋内警備の統括も兼ねているのだ。きっと力になることができるだろう。
やがて、主から数枚の札が配られた。トランプ大で厚めの白い紙だが、それなりの魔力を感じる。
「それがスペルカードよ。自分の作りたい弾幕をイメージして、念を流し込むだけでいい。そうすれば後は札の方で自動的に調整して、術者の能力に応じた弾幕が生成されるらしいわ」
説明しながらも、レミリアはもう意識を札に集中している。目を閉じて、さっそく一枚目の作成に取り掛かっているようだ。
それに習って、皆がその場でカードの作成を始める。咲夜も試してみた。
自分の得意技。ナイフ投げ、種なしのマジック、そして時間停止。それらを活かせる弾幕とはどんなものだろう。
しばらく思考を巡らせていると突然、望遠鏡の焦点が合ったときのように、くっきりと弾幕のイメージが見えた。思わず目を開けると、眼前にある札はもう純白ではなかった。赤黒く染まった札には、浮かび上がった映像と同じ、無数のナイフが舞う図案が描かれていた。
ふむ、と感心しながら周りを見回すと、美鈴とパチュリーが驚いた顔で札をまじまじと見つめていた。理屈は分からないが、この札自体に弾幕作成を助ける何がしかの力が込められているらしい。レミリアはというと、既に二枚目の考案に入っている。
対して、パチュリーの使い魔である小悪魔や、自分の後ろに控える妖精メイドたちの札には、全く変化がない。どうやらカードを作るに当たっては、術者本人が一定以上の魔力を持つことが必要なようだった。
「できなかった者は仕方がない。たくさん精進して頂戴。カードができた者は外へ出ましょう。さっそく試してみたいわ」
待ち切れないと言った様子で飛び出していくレミリアに続いて、カードが生成された者たちが館の上空へと飛び立った。すなわち、咲夜、パチュリー、美鈴の三人である。
そしてそのまま、模擬戦闘が開始された。成程それぞれの弾幕は、術者本人の得意技を色濃く反映していた。
美鈴は、気の流れに逆らわない流麗な弾幕を。
パチュリーは、七曜で構成された多彩な弾幕を。
そして何よりも圧倒的なのが、レミリアのスペルカードであった。
「喰らいなさい!」
可愛らしい咆哮とともに放たれるは、裏腹に極悪な真紅の弾塊。
大きさ、密度、速度、いずれも超ド級。底なしの力を誇る吸血鬼ならではの、手の施しようのないほどに力任せなスペルの数々。
相対した三人のいずれも、それを避わしきってレミリアから勝利をもぎ取ることはできなかった。
紅い月の下で小一時間ほど弾幕勝負を試したあと、四人はホールへと戻った。観戦していた妖精たちの興奮ぶりは凄まじいものであったが、お嬢様のテンションはその遥か上空をぶっちぎっていた。
「フフフ、これなら私たちが負けるはずがないわ。誰が来ようとね」
自信満々に言い放って、レミリアはひとまずの解散を宣言した。
やっぱり特に何も考えてないのね、とパチュリーが独りごちた。
それで丸く収まればよかったのである。だが、事態はとんでもない方向へと進展した。
草木も眠る丑三つ時。レミリアが自室で三時のティータイムを楽しんでいるところに、ドアをノックする者があった。
「お姉様、面白いことを始めるのね」
その声にレミリアがはっとするのと、扉が音を立てて開き始めたのはほぼ同時であった。
給仕をしていた咲夜は、声の主が部屋に入ってくるのをむしろ微笑ましい心持ちで眺めていた。
「ずるいわ、私に内緒でこんなこと始めるなんて」
ドアの隙間から身体を滑り込ませ、フランドール・スカーレットは悪戯に笑う。
気が狂れているとも情緒不安定ともいわれる彼女は、五百年近い地下室幽閉生活のせいで館の外を知らない。幻想郷へ移ってきてからは館の中を出歩くことは許されたものの、それでも恐らくここに住んでいる誰よりも暇を持て余していた。
その小さな手に握られているのは、既に虹色の図案が浮かび上がっているスペルカード。後から聞いた話によれば、はしゃいでいた妖精メイドたちから分けてもらったそうだ。
「ねぇ、私もカード作ってみたのよ。試しにやってみましょう、お姉様」
レミリアはカップを皿に置き、精一杯もったいぶって妹へと振り返った。
「フランにそれはまだ早いわ。だって手加減を知らないもの、貴女」
「加減? 吸血鬼が手加減をする必要があるの?」
意味が分からない、と言いたげな顔で、フランドールは言い返す。
「また夜を暴れて回るんでしょう、お姉様。今度こそ、私も混ぜてほしいの」
両手を目一杯に広げて、妹は姉に我儘を叩き付けた。
その手に宿る破壊の力を危険視したレミリアによって、フランドールが軟禁されたことを咲夜はもちろん知っていた。それが元で妹の周囲が、そして妹自身が壊れてしまわないようにという、どこか不器用なレミリアの愛情のためだった。
「ダメよ」
だから弾幕勝負をさせるにしても、フランドールがもっと精神的に落ち着いてからにしようと考えていたのだろう。諭す姉の声には、とても冷たい厳しさが込められていた。
「うん、まぁ、そう言われると思ってたよ」
いつもならそこでくしゃりと涙に歪んでしまうフランドールの笑顔が、しかしこの時は崩れなかった。
ポケットからずらりと取り出だしたるは、都合十枚のスペルカード。
「小難しいことは抜きにしてさぁ、単純なやり方で決めようよ。勝負で勝った方の言い分が通る。これで公平でしょ?」
「フラン、私は貴女のことを思って……」
「あら、負けるのが怖いの、お姉様?」
妹のその言葉にレミリアの眉がピクリと動くのを認めて、咲夜は主に声をかけることを諦めた。
それは分かり易すぎるほどに幼い挑発だった。しかし沸点の低さとプライドの高さにかけてレミリアの右に出る者はいない。お嬢様が思わず奮い立ってしまうのに十分な言動であった。
「いいわ、フラン。貴女がそこまで言うのなら、私が直々に叩き潰してあげる。生意気な口をきいたことを後悔するのね」
「あはははは! 後悔するのが自分にならなきゃいいね、お姉様っ!」
レミリアも札を手に取り、臨戦態勢に入った。
こうなってしまっては、もうどうしようもない。咲夜にできることといえば、とりあえず時間を止めてティーカップとソーサーを片付け、部屋に防護術をかけるためにパチュリーを呼んでくることだけだった。
「 ―― で、ものの見事に負けたんですものね」
「あれ、パチュリー様。自分から御出でになるとは珍しい」
「咲夜、貴女も容赦ないわね。何もそんな頭までぐるぐる巻きにしなくても」
ベッドシーツで主をミイラのごとく包み終えた咲夜の背後から声をかけたのは、眠たそうな眼をしたパチュリーである。ちなみにここまでされても、レミリアは無言でされるがままであった。
「にしても、レミィったらまだ不貞腐れてるの? もうそろそろ一週間になるわよ」
「えぇ、ご覧の有様です」
「まったく、こんなことしてる場合じゃないってのに」
パチュリーは口の中で何事かを呟いて、人差し指をシーツに包まれた親友へと突き付ける。すると、赤い炎が一瞬だけ噴き上がった。シーツだけを綺麗に火の魔術で焼き払ったのだ。
「おはようレミィ。貴女の親友として、忠告と助言をしにきたわ」
「…………おはよ。親友にしては随分な目覚めのキスをくれたもんね」
もはや完全に目を覚ましたレミリアが、恨みがましい目でパチュリーを睨む。その身体はところどころ焦げていた。流石にいきなり火を着けられては、物申さずにはいられなかったらしい。
「いいからほら、外を見てみなさい」
レミリアは頭を魔女に掴まれ、無理矢理に窓の方へと向けられた。仮にも館の主なのに散々な扱いである。
「外って、ただの夕焼けじゃないの」
窓の外は紅い光に満ちていた。ただの夕焼けとは言っても、何とも不気味な色にぎらぎらと煌めいている様は、日の光よりも地獄の業火を連想させた。血のようなその色が、彼女の中の吸血鬼としての本能をちくちくと指すようであった。
「……夕焼け?」
しかし、咲夜がそれに異を唱える。
「そんなはずはありませんわ。つい先程、私がお嬢様の部屋に入ったときに、陽は完全に沈んでしまったはず」
夜の闇が窓の向こうを支配するのを、咲夜はしっかりとその目で見ていたのだ。
ここから導き出される結論は。
「つまり私たちは……何者かのスタンド攻撃を受けている!」
「何を意味の分からないことをほざいてるの」
ドドドドドドドという効果音を発しながら青ざめる咲夜を、パチュリーはばっさりと切り捨てる。
「あの妹様、フランドールの仕業よ。まったくあの娘も、碌なことをしでかさないんだから」
「フランが?」
レミリアが怪訝な声を上げた。しかし言われてみれば、夜風に混じって覚えのある力の気配を感じる。
「えぇ。あの勝負の日からこっち、また頻繁に図書館まで来るもんだから、何かを企んでるとは思ってたんだけど。まさかこんな魔法を引っ張りだしてくるなんて」
「パチュリー様、フランドール様はどのような魔法を?」
「これよ」
パチュリーが一冊の本を差し出す。咲夜には読めない文字だったが、レミリアは表紙を一読して理解したらしかった。
「ふむん、天候操作ね。とすると、あれは霧?」
「そう。軽く魔力を混ぜて、隠れ家に近づいてくる相手を惑わせたりするのに使うのが一般的なんだけど」
魔女の手が忙しなく魔道書の頁をめくる。
「あの娘はさらにアレンジを加えて、あの紅い霧を作り出したのね。たぶんだけど、自分の血肉も使ってると思う」
「それは穏やかではありませんね。いや、穏やかな悪魔というのも考えものですが」
「私、魔法の理屈ってニガテなのよね……。どう違うの?」
「まず濃さが決定的に違う。普通の人間なら、長い間当てられていると体調を崩すでしょうね。それに範囲だって桁違いに広くなるわよ。それこそ、幻想郷を覆い尽くすくらい」
「じゃあこれは ――」
「えぇ、まず間違いなく」
レミリアが言い切る前に、パチュリーは断言してみせる。
「『異変』と見なされるでしょうね」
三人はしばらく黙りこくった。
幻想郷の人妖たちに先んじようとしたレミリアだが、フランドールによってさらにその先を行かれてしまったわけだ。最もその思惑は、姉よりもずっと単純なものだろう。暇で暇で仕方がないとか、誰かが忍び込んできて遊び相手になってくれないかなぁとか、そういう無邪気な動機に違いないのだ。小難しい言葉をこねくり回すのが姉と同じくらいに好きなフランドールだが、その根底にある行動原理はレミリアより五年分だけ幼い。
「これは本当にマズいわ。咲夜、フランはどこに?」
「自室にいらっしゃいますが……。説得なさるおつもりで」
「まさか。あの娘がそんな簡単に折れるタマとは思わないわ」
レミリアは考え込む。
もしこれが異変とされて、それを解決するために巫女なり何なりがやってくるとすれば。
フランドールを倒さない限り、この霧は収まらない。つまり、彼女らとフランドールの対決は避けられない。
「もしそんなことになったら、なんて考えたくもない。レミィも咲夜も分かってるでしょうけど、あの娘は弾幕勝負だからといって手加減なんてできないでしょうし。もしかしたら、攻めてきた相手を ――」
流石にその先は、パチュリーも口にはしなかった。
フランドールによってこの異変がそんな結末を迎えてしまえば、スペルカードルールの定着など金輪際あり得ないだろう。それだけでなく、幻想郷が滅茶苦茶になってしまうかもしれない。
「……最悪の事態になる前に、何とかして止めないと。姉として、責任は取るわ」
その凛とした声に、咲夜は心の中で喝采を送った。しかし尚も、パチュリーが食い下がる。
「止めるって、どうやって」
「そりゃあ実力行使よ。この前と同じ条件でフランを打ち負かすことができたら、あの娘だって引き下がるでしょ」
「貴女、妹様相手の弾幕勝負で完封負けだったじゃない」
「ぐ……」
唸るレミリア。しかし思い返してみれば、確かに先日の勝負の中でレミリアにいい場面など全くなかった。フランドールの織り成す極彩色の弾幕に対して、姉はただ翻弄されるばかりだったのである。
「貴女の力が底なしなのは認めるわ。私たちではとても太刀打ちできないほどにね。でも、貴女の攻撃はただ力とスピードに任せるだけの単調なもの。それに比べると、フランの考えたスペルカードはずっとバリエーションに富んでいる」
パチュリーはひとつ大きく息を吐いて、そしてレミリアに人差し指を突き付けた。
「賭けてもいいけど、このまま再戦しても、貴女はフランに勝てない」
「なっ! そんなこと ――」
「やってみなきゃ分からない? そういうことは、妹様から一本でも取ってから言いなさいな」
偉大なる紅魔館の真祖は、今度こそぐうの音も出なかった。
この紅い霧が異変と見なされ誰かが解決しにやってくる前に、フランドールを止めなければならない。しかし、現在最も強力な弾幕を扱えるレミリアでさえ、フランドールの前では手玉に取られてしまうというこの現状。
大図書館の異名を取るほどに知識の塊と化しているパチュリーと言えども、思い付く策はひとつしかなかった。
「咲夜」
「何でしょう、パチュリー様」
「特訓が必要よね」
「特訓、ですか。成程」
「え、ちょっと何を言ってるのよふたりとも」
レミリアの額を冷や汗が流れた。
特訓。何ともイヤな響きの言葉だ。
「特訓ですよ。お嬢様がより高みに昇られるための」
「うぇ……。走ったり、飛んだりってするの?」
「そうじゃないわ。弾幕勝負にそれはあんまり関係ないし。というか、今更貴女がそれを鍛えてどうするの」
「じゃあ、何をするのよ」
「ふむ、こういうのはどうかしら」
パチュリーが右掌を上に向ける。ぼそりと一言呟くと、炎が瞬時に灯った。それは人魂のように、魔女の手の上で燃え続けている。
「私たちの得意とする技を、レミィに教え込むの。それを弾幕に取り入れるくらいに、使いこなせるようになってもらう」
「え、何で。どゆこと?」
炎の色が、赤から白へと移り変わっていく。そこに視線を止めたままで、パチュリーは答えた。
「私ね、あれから考えたのよ。レミィに何が足りなかったのか」
「ふむふむ」
「それで小一時間考えて分かった。貴女センスがないわ」
「なっ……」
吸血鬼の幼い顔に濃いタテ線が下りた。
「わ、私、センスないの?」
「だから言ったでしょう。攻め方が力任せのワンパターンなのよ。それじゃあいくら強力な攻撃だって、守る側が慣れてしまえば通用しなくなってしまうわ」
「確かに、お嬢様のスペルって、紅い大玉をひたすら撃つものばかりですよね」
信じていたメイド長までもが頷いたので、レミリアはベッドへと三度倒れ込んでしまう。
ショックであった。自分はセンスの塊だと、今の今まで信じて疑わなかったのに。
「だから攻撃方法にバリエーションがあればいいのだけど。それを手っ取り早く補充するなら……」
「私達の技を、お嬢様に伝授して差し上げればいい。と、そういうことですね」
「流石。脳の無いっていう誰かさんとは違って、咲夜は理解が早いわね」
パチュリーが掌を握り込むと、青白い炎はすぐに消滅した。
フランドールはその天賦の才で、姉のスペルを初見で見通してしまったのだ。それをさらに越えて勝利を掴もうとするならば、必要なのはテクニックである。レミリアにあってフランドールには無いもの。それは戦局に応じた最適の戦術を採用できる眼であると、パチュリーは踏んだのだった。
「だから、レミィ分かった? これが私の助言。時間もないし、取りかかるならすぐにでも始めたいわ。それとも貴女、何か代案がある?」
「…………いいえ、ないわ」
「よし、じゃあ咲夜」
「えぇ。フランドール様が地下室から御出でにならないよう、手を回しておきますわ。もっとも、ご自分から出てこようとなさるとは思いませんが」
「そうね。あの娘好きなのよねぇ、冒険譚。魔王はどっしりと城の一番奥に構えているものと信じているからねぇ」
魔女とメイドが勝手に話を決めてしまう傍らで、レミリアはさらに深く落ち込んでいた。ここ一週間で、自分のプライドはズタボロである。可及的速やかに、再びベッドへと潜り込みたい。
しかし、事態が逼迫していることは事実だ。このまま放っておくという訳にはいかなかった。解決のためにどんな手段を用いることになろうとも、あの妹を今度こそぶっ飛ばしてやらなけりゃならない。
そう思うと、悪魔の心臓に火が付いた。
「……フフ、いいわ。こうなったら、特訓だって何だってやってやろうじゃない」
思い出せ、レミリア。お前はフランドールを守ると決めたその日から、修羅となったのではなかったか。血反吐、憎悪、逆境、その全てを引っ被ってでも、信念は曲げぬと決めたのではなかったか。
その時の覚悟があれば、友人や従者に教えを請うくらい、屈辱でも何でもない。
レミリアはベッドから飛び上がった。小さな身体が勢いよく宙を舞い、ムーンサルトを決めて着地した。
「咲夜、おめざを頂戴。トーストに真っ赤なクランベリージャムを乗っけて」
「御意に」
咲夜の姿が掻き消えた。きっとすぐに注文の品がここまで運ばれてくることだろう。
「じゃあレミィ、頑張ってよ」
「あぁ」
パチュリーが部屋を辞してしまうと、紅い霧の妖気が一層強く感じられた。
久しぶりに忙しくなりそうね、とレミリアは不敵に笑った。
◆ ◆ ◆
フランドールの住む地下室には、もちろん窓はない。いや、飾り窓はあるが、ガラスの代わりに牧歌的な風景壁画が描かれているだけだ。もちろん外光など取り込めるはずもなく、照明はすべて人工灯である。
ここに長いこと幽閉されていたフランドールが考案した遊びの一つに、その灯りを全部消してしまうというのがあった。他に何もすることがなく、かといって眠る気もないときに、この「暗闇ごっこ」は最適の遊びである。目を閉じても開いても何も変わらない世界。闇が質量をもって覆い被さってくるような感覚が、彼女は大好きだった。
紅い霧の魔法を発動させてからずっと、フランドールは浮き浮きしっぱなしだった。自分を取り巻く環境を自分の力で変えたのは、「暗闇ごっこ」を除けば初めてである。明日にでも何かが起こるかもしれない。誰かが自分目当てにやってきてくれるかもしれない。そう考えただけで心が躍った。
だからしばらくして、あんまり浮き足立ってはいけないと反省したのだ。自分を倒しに来たヤツが来たときに、ワクワクが過ぎて逆に楽しめませんでした、では興醒めもいいところである。なので心を落ち着かせようと、フランドールは地下室の灯りをすべて落とした。
「……………………」
ベッドで仰向けに大の字になる。自分の瞼が開いているのか閉じているのか、すぐに分からなくなった。闇がほどなくしてフランドールの身体に浸みこみ、目に見えない熱を奪っていった。
「…………お姉様のばか」
誰ともなしに呟いてしまったのが失敗だった。それを皮切りにして、意地悪な姉の顔が闇を埋め尽くすように浮かんでは消えた。
自分を閉じ込めたのもレミリアなら、幻想郷に入ってからそれを解いたのもレミリア、異変に首を突っ込むことを良しとしなかったのもレミリアである。自分のすべてを姉に握られていることが、フランドールには我慢できなかった。それを当然と思っている姉に対するこの感情はきっと憎悪というのだろうな、というふうに彼女は理解していた。
「あぁもう、やめやめ!」
頭をかきむしって、のしかかる闇を跳ね飛ばすようにフランドールは起き上がった。右手に魔法で小さな明かりを灯し、視覚的にも闇を追い払う。そしてベッド脇の鏡台までひと跳びで跳んで引き出しをまさぐると、薄紅色の宝珠を掴み出した。
再びベッドに腰掛け、フランドールはそれをそっと握り込む。魔法の光が消えてしまっても、宝珠自体の放つ淡い光が、周囲の闇を追いやっていた。そのまま数秒の間、彼女は祈るように目を閉じた。
やがて、キーンという高い音とともに、宝珠からひとの声が響き始める。
『―― ました? 御用ですか、フランドールお嬢様』
「いや、ちょっとお話ししたくなっただけ」
聞こえてきた声にフランドールは破顔し、小さな声でささやき返す。
『こちらにいらっしゃればいいのに……という訳にはいかないんでしょうね。今の貴女様は』
「そうだけど、美鈴だってお仕事中じゃない。見つかったらまた咲夜に怒られるよ」
会話の相手は門番長だ。握りしめる宝珠は、かつてフランドールが作った通信機のような魔法道具である。監禁されていた時分に見よう見まねで作成したこの魔具は、今まで彼女が作った中でもいっとう便利だった。これを持つ者同士は、離れていてもお喋りできるのだ。
フランドールはこれを、当時から最も仲の良かった美鈴に渡していた。もちろん誰にも内緒である。以来ときどきこうやって、ふたりはこっそりと他愛無い話に興じることがあった。
『それにしても、今回はまたとびきりの面倒をひき起こして下さいましたね』
「言うわねぇ、貴女も。でも、楽しそうでしょ。ワクワクしない?」
『……全くしない、と言えば嘘になりますが』
美鈴の声色からは、紅魔館が上へ下への騒ぎになっていることが感じ取れた。フランドールは満足して、小さな牙をにっと剥き出すように笑った。
『何も起こらないのが一番なんですが、このままではまず無理でしょうね。どこかの妹様が早々に飽きて下されば話は別ですけれど』
「残念。その可愛い可愛い妹ちゃんは言ってるわ。誰かがやって来て私を負かすまで、止める気はさらさらないってね」
宝珠から聞こえてくる風の吹くような音は、たぶん溜息だろう。
『酔狂な……。本当、紅魔館に来てから酔狂にだけは事欠きませんよ』
「ま、美鈴も頑張ってよ。誰かが私を止めに来るんなら、門番の貴女とは絶対にぶつかるでしょうし」
『その誰かが、紅魔館の外から来るなら、そうなるでしょうね……おっと』
あからさまに美鈴が口をつぐんだ。喋ってはいけないことを喋ってしまった、とでもいう風に。
「ふぅん、そっか。中からか。それは考えてなかったなぁ」
『独り言ですよぅ。気にしないで下さい』
「ま、関係ないか。私を倒しに来るのがお姉様だろうと人間だろうと、私は楽しめればそれでいい。私をワクワクさせてくれるのなら誰だっていい」
珠の光を受けて、フランドールの瞳がぎらりと光った。
「あー、でもそいつに私の相手が務まるかなぁ? 私より強い人間なんていないだろうし、お姉様だって論外だしね」
『ほどほどにしてあげて下さいよ。レミリアお嬢様が貴女様の暴走を一番心配しておられることくらい、分かっておいででしょう?』
「要らない世話だっていうのに、本っ当に分からず屋なんだから、あいつめ……。あ、美鈴」
フランドールは宝珠にキスしそうなくらいに唇を寄せて、ほとんどひそひそ声で問いかけた。
「もしまた私とお姉様が闘うことになったら、そのとき美鈴は私の味方になってくれる?」
『……………………私がお守りするのは、』
聞こえてきた門番長の答えに、フランドールは宝石をベッドに放り投げた。薄紅色の明かりはすぐに消え、地下室を再び暗闇が満たした。抱き締めてほしい気分だった。それがたとえ、鼓動も何もない暗闇であっても。
たぶん今も門の前で立ち続けているのだろう美鈴は、確かにこう言ったのだ。
『私がお守りするのは、いつどこにいたって、この紅魔館です』
◆ ◆ ◆
紅美鈴は、謎多き妖怪少女である。
大陸から欧州へと流浪し、幻想郷へ移転する前の紅魔館へ辿り着いたという以外には、出自や経歴は一切不明。何という妖怪なのか、正体すら分からないのだ。『気を使う程度の能力』を持つ功夫の達人であり、よく笑いよく食べそしてよく眠る。彼女が門前に立っているときは、舟を漕いでいるか太極拳の套路を舞っているかのどちらかなので、真面目な門番かと問われたらレミリアも首を捻らざるを得ない。
しかしまぁ、侵入者を素通りさせてしまうこともないし、体術の腕は本物である。それに不思議と人を魅き付ける愛嬌があった。なのでレミリアは、総じて美鈴を信頼できる従者として重用しているのである。
「それで、最初の講師は貴女なのね、美鈴」
「はい! 咲夜さんは仕事の調整があるし、パチュリー様は事前準備があるとかで。必然的に消去法で、一番時間に融通の利く私からということになりました」
「ふぅん」
紅魔館のエントランスから一歩外へ踏み出すと、そこには見事な英国式の庭園が広がっている。湖畔という立地の美しさを活かした風景式庭園は、美鈴の手入れの賜物だ。二人はその只中に立っている。夜の闇に紅い風と館が浮かび上がる様は、さながら夢絵巻のようだ。昼間であれば季節の花々によって彩られた眺望を楽しめるのだが、夜行性の主人は生憎とそれに全く興味を示すことはなかった。
「じゃ、さっさと始めましょ。願わくば、有意義な時間にしたいものね。貴女の教えが無駄にならなきゃいいけど」
「チェストォーッ!」
「がへっ」
突然、美鈴の空手チョップがレミリアの脳天を直撃した。完全に不意を突いた一撃。吸血鬼だって猫騙しを喰らえばとっても痛い。
「あ、貴女、何を……」
「お嬢様、お言葉ですが」
手刀を主の頭からゆっくりと引き離しながら、美鈴は静かに語る。その瞳に宿るは真剣の光。普段の飄々とした華人小娘はもう、どこにもいなかった。
「その態度、教わる者のそれには相応しくありません。一時といえども、ひとたび師と弟となったのであれば、そこには礼というものがなければならない」
「主人が門番に頭を下げろっていうの!?」
精一杯の凄味を利かせたつもりだったが、頭頂を両手で押さえて涙目な現状では、迫力も何もあったもんではない。
「名は体を表し、体は名を轟かす。何事も形から入るものです。そうでなければ、心も芯も真も得ることは叶いません」
「だけど……」
「『教えの時間を有意義に』。その信念は御立派でございます。されど心構えが疎かなままでは、同じ師からでも学び取れるものは自ずと限られてしまうでしょう」
さぁ、とレミリアを促しながら、美鈴は自身も深く腰を折った。握った片拳と開いた片拳を合わせる、大陸式の礼である。
微かな唸り声が、レミリアの喉から漏れた。捨てると誓ったはずの矜持が、まだ胸の奥底で燻ぶっている。
夜闇の世界では、相手に頭を下げることなど考えられない。舐められたら負けなのだ。隙を見せれば最後、己が全てを骨の髄まで食い荒らされる。そういう中でスカーレットの家名を守り続けてきたレミリアにとって、その傲慢不遜はもはや本能であると言ってもよかった。
「お嬢様」
「……何よ」
「不安に思われるその気持ちも分かります。ですがもう、ここはそういった場所とは無縁の世界なのです」
視線だけでレミリアを見上げ、美鈴は言った。
「郷に入っては郷に従え、と申します。幻想郷の流儀が力と権威でないことは、お嬢様自身が一番お分かりのはず」
「む」
その言葉にレミリアが思い出すのは、数年前に紅魔館の幻想入りした直後に自分が巻き起こした、吸血鬼異変のことである。
幻想郷は人外どもがうじゃうじゃと住まう場所だと聞いていた。なのでレミリアは、ナメられてはたまらんと気合を入れて『挨拶』をして回ったのだ。結果として、それは成功した。成功しすぎて気持ち悪くなるくらいだった。吸血鬼がその力をほんの少し見せてやっただけで、大抵の妖怪は竦み上がって白旗を上げたのである。瞬く間に幻想郷の最大勢力となった紅魔館の頂点で、レミリアは拍子抜けしていた。勝利の美酒にとっておきのワインを開けても、あまり美味しく感じなかった。
そこに現れたのが、結界を管理するというスキマの大妖である。式を一匹だけ伴って、突如として紅魔館に殴り込みをかけてきた彼女は、レミリアの意趣返しと言わんばかりに暴れ回った。いの一番に迎撃に向かった美鈴も、魔力の全てをつぎ込んだパチュリーも、怒りに身を任せ暴そのものとなったレミリアも、圧倒的な力でまさに文字通り捻り潰された。
死をも覚悟したレミリアに、八雲紫はあの胡散臭い笑顔でこう言った。
―― おいたはいけませんわね、お嬢様。
―― いいお酒が沢山あるようだけれど、このままじゃあ宝の持ち腐れだわ。
―― 本当にこの味が分かるようになったら、また会いましょう。
館から去っていく彼女の手には、レミリアが放り出したヴィンテージワインが抱えられていた。
「……そうね。確かにあのとき、私は一回死んでいるようなものだものね」
意識を過去から現在に引き戻して、レミリアは独りごちた。
幻想郷の流儀が力こそ全てであるのなら、あのとき紅魔館の全てはスキマ妖怪に奪われていただろう。だが彼女はそうしなかったのだ。
弱い妖怪はおろか脆い人間でさえも、ここでは恐怖に雁字搦めにされることなく生きている。そういう世界の在り方は、強大な力を持つ者の生き方だって変えていくのだろう。いや、よくよく考えてみれば、最も恐怖に縛られていたのはレミリア自身かもしれない。五百年もの間彼女はきっと、弱く在るんじゃないと自身を脅迫して生きてきた。だが一度死んで生まれ変わった今、もはや何も怖いものなどない。
ふふ、とレミリアの小さな唇から笑みが漏れた。
そして、開いた片手と握った片手を合わせ、美鈴と同じように腰を深く折る。
「非礼を詫びるわ、美鈴。貴女の言う通りよ」
「……え? あ、はい」
対する美鈴は、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔だ。
「何よ、素っ頓狂な声をあげて」
「いえ。お嬢様のことだからきっと半日は駄々をこねて、特訓が進まないだろうなと思っていたものですから」
「……私を何だと思ってるのよ」
ぎろりと睨みつける。一言多いのも、この愛すべき門番の悪い癖であった。
「ともかく、始めましょう。今は一刻の時間も惜しいわ」
「分かりました。私がお教えするのは、この技です」
まずは見ていて下さい、と言い残して美鈴は飛んだ。レミリアは腕組みをしたまま見上げたが、その姿勢はやっぱり相応しくないと思い直し、慌ててそれを解いた。
美鈴が空中で構えを取り、気を集中させる。そしてすぐに、両の腕を素早く振り払った。握った砂利がばら撒かれるように、極彩色の沢山の弾が放たれた。
そのまま拡散していくかと思われた弾は、しかしすぐに軌道を変える。重力に引かれて落下するように、あるいは風に舞う木の葉のように、加速しながら緩やかな曲線を描いた。
通常、重さを持たないエネルギーの塊は、放たれたらそのまま一直線に飛ぶものだ。軌道をカーブさせるにしても、最初から狙う場所を決めておき、そこに届くよう計算した上で放つ。しかし今の美鈴の弾は、そのどちらでもなかった。放たれた弾は、本当に石を放ったかのように放物線軌道を描いたのだ。避ける側からしてみれば、直線軌道の弾とはまた違った回避が必要となるだろう。
ほぉー、と見上げていたレミリアのすぐ側に、美鈴は降り立った。
「いかがでしょう? お嬢様のスペルは直線的な技が多いですから、こういった変化球はどうかなぁと思ったんですけど」
「確かに、組み合わせれば有効な攻撃手段になるわね。でも、どういった理屈なのかしら」
「もちろん、気の流れを応用した技です」
美鈴が、何かを握るように胸元に拳を持ってきた。すぐにそこに七色の光が灯り、不思議な色の煙が上がる。煙は風に乗るようにレミリアの下へと流れてきた。だが実際の風は、レミリアから見て右手から吹いている。
「物と物の間には、必ず気の流れが存在します。それは互いの距離が近いほど、互いの意識が近いほどに、はっきりとした強いものになる。そこに弾を乗せてやればいいのです」
「……簡単に言ってくれるわね」
「今私が煙で可視化しているのは、私からお嬢様へ流れる気です。もちろん、お嬢様から私への流れもここにはある」
レミリアの鼻先まで流れてきた薔薇色の煙は、そこで突然向きを変えた。百八十度ぐるりとUターンして、美鈴の方へと戻っていったのである。
「先程お見せした弾幕は、ここらにある色々なものとの気の流れに乗せています。庭木、石、そして地面そのもの。自分と相手を繋いだ延長線上にあるものとの流れを読み取り、そこに弾を乗っけることができれば、弾幕はまるで相手に降り注ぐような動きをするというわけです」
「じゃあ、相手と自分の間の流れに沿って弾を撃って、絶対にぶつけるようにしてやればいいんじゃないの?」
「それはルール違反でしょう……。避わせない弾幕は認められませんよ」
煙が一周して細長い輪を形作る。美鈴は拳にふっと息を吹きかけた。すると光が消えて、煙も同時に掻き消えた。
「というわけで、お嬢様には気の流れを読み取る練習をして頂きます。それさえ掴めれば、そこに弾を乗っけてやることはそれほど難しくありません」
相手との気の繋がりを読み、それを基に闘う。成程、いかにも拳法らしい奥義だ。最小の力で最大限の威力を発揮できるよう編み出された技なのだろう。圧倒的な力を生まれ持つ吸血鬼からでは、到底生まれ得ない発想である。
「ま、理屈はよく理解できたわ。それで、具体的に何をするの?」
「有効なのは、座禅や瞑想です。万物との繋がりを体で感じ取るためには、まず心が研ぎ澄まされていないといけませんから」
それもよく聞く話である。修業において、体だけではなく心も鍛える必要があるというのはお決まりのパターンだ。
しかし、それにはもう一つお約束があったはずだ。すぐにそれに思い当たったレミリアは、思わず門番に問いかけた。
「ちなみにそれ、どのくらい時間かかるの?」
「そうですねぇ。かつて私がとある師の下で修行したときは、ざっと十年ほど」
「やってられっか!」
レミリアは吠えた。十年て。
そんだけの時間があれば、この紅い霧は余裕で大結界を越えて、世界を覆い尽くしているだろう。もちろん、異変を察知した巫女やらが襲来するのには、間に合わない。
「それはもちろん、私も分かっています。なので今日お嬢様にしていただくのは、私の考案したオリジナルの瞑想修行です」
すでにドヤ顔の美鈴を前に、レミリアの頬を冷汗が流れた。この展開はマズい。
「オリジナル」という言葉には、イヤな思い出しかないのだ。それというのも、紅魔間の連中にまともな思考回路を持つ者がいないためである。普通にやれば無難に上手くいくものを、その無駄に高い能力をフル活用してオリジナライズし、調和をことごとくブチ壊す。レミリアも、暇を持て余しているときであればそれを楽しむ余裕があろうというものだが、奴らときたらこちらの都合などお構いなしに次々と爆弾を作り出すのだ。咲夜が砂糖と塩を完全に逆転させたレシピに凝っていた頃のことや、パチュリーの手製魔法薬のせいでモケーレ・ムベンベの幻影に四六時中追いかけられた経験などは、なるべく早く忘れてしまいたい記憶である。
「オリジナルて……。何をするのよ」
「まずは、これを着てください」
言うが早いか、美鈴はどこからかそれを取り出した。
「子猫パジャマです」
「いやぁぁぁぁ! 何よその可愛らしいの! 普通こういうときに着るものっていったら胴着とかじゃないの!?」
茶トラ柄のそのパジャマは、もしかしなくても人間の子供用である。着ぐるみ型で、頭にはご丁寧に耳付きフードが備わっていた。
何が悲しくて、猫のコスプレで修行せねばならんのか。その返答如何では、レミリアはゼロ距離で弾幕をぶっ放す覚悟であった。
「お、落ち着いてください。その槍はしまってください。これには深い訳があるんです!」
「何よ、その訳って」
「気を知るためには、自然と一体になることが必要になります。普通にやったらそれこそ何年もかかってしまうでしょう。でも動物になりきれば、もっと短期間で修得できるかもって」
「それでできちゃったら、いやできないと思うけど、先人の努力とかことごとく否定することになるわよね!?」
論理も何もあったもんではない。大体「できるかも」って何だ、「かも」って。
「ともかく! 私はこんなの着ないわよ」
「えぇ、そんなぁ。手に入れるの大変だったんですよ、これ」
「知るか! 他の方法はないの?」
「特には考えてないです」
「サノバビッチ!」
私息子じゃありません、という的外れなツッコミを美鈴は飛ばしたが、レミリアは無視した。
「これ着て瞑想なんてするくらいなら、私はこの足でフランに果たし状突き付けに行くわよ」
「いや、するのは瞑想だけじゃないんです。そこはちゃんと考えてますって」
「……本当にちゃんと考えてるんでしょうね」
「もちろんです。猫になりきればいいんですから、猫っぽい行動をすればいいんです」
「猫っぽい行動?」
「例えばほら、猫って高いところからでも上手に飛び降りますよね?」
「もう分かったから喋るなお前!」
何てことだ。特訓をすると決めた初っ端からこんなことになろうとは。つまりはこの着ぐるみのような猫パジャマを着て、猫になりきった上で高いところから飛び降りろということか。前代未聞、酷すぎる。冒頭の問答での感動を返せ。
憮然とするレミリアに、しかし美鈴の表情は真剣である。中華四千年の歴史を体現するかのように不動のまま、小さな主を見つめていた。
「な、何よ」
「確かにこの修行、一見理不尽に見えるかもしれません。しかし概して、訓練とはそのようなものなのです。私も師について学んでいた頃は、なぜ必要なのかも分からないような修業を沢山させられました。でも今思い返してみると、そのひとつひとつがきちんと私に生きているのです」
美鈴が猫パジャマをずいと突き出す。
「さぁ、騙されたと思って、ほら」
「騙されてからじゃ遅いのよ」
「上手くいかなければ、その時はいかような罰でも受けます。今は時間がないのです。むしろ成功すればめっけもんだと考えましょう」
何がめっけもんだ畜生。四千年の歴史が行きつく果てがこんなのでは、草葉の陰で豪傑たちも咽び泣いているに違いない。
しかし、他に方法があるかと言われれば困ってしまう。武道や気といったものについてはド素人のレミリアに、専門家である美鈴がこの手段しかないと言っているのだ。これをやりたくないと一蹴してしまうのは簡単だが、そうしたら今日の特訓はなくなってしまう。何も得るものがない。
「……ふん」
「お嬢様……!」
レミリアは、茶トラ柄のそれを美鈴からひったくった。
猫になりきるという特訓で気の流れの察知が習得できるとは思えないが、それでも一縷の望みがあるのであれば、何もしないよりはマシであろう。事態は急を要するのだ。レベルアップの可能性がそこにあるのなら、レミリアはそれを無駄にするべきではないと結論付けた。
「着替えてくるから待ってなさい。まったく、これで何もなかったら貴女にも同じことをやってもらうからね」
パジャマを抱えて館へ戻るレミリアの背には、不退転の三文字がダイナミックに踊っていた。
さて半刻ほど後、ふたりは紅魔館の時計台のてっぺんに立っていた。いつもは時計のメンテナンスに使っている場所だ。
紅魔館で一番高いところといえば、という美鈴の提案によるものである。
「……………………」
下を見下ろして絶句するは、フード付きパジャマで身を包んだレミリア・スカーレット。五百年間で一センチたりとも成長しなかったその体形に、猫の着ぐるみはこの上なく似合っていた。それがまた本人には気に入らなかったのだが、もはや何も言うまい。
「さぁお嬢様、さぁ」
「ちょちょ、ちょっと待って。やっぱり心の準備が」
紅魔館は三階建てであり、時計台はその上にさらに高くそびえている。それぞれの階の天井が高いこともあって、地面からの高さは少なく見積もっても三〇メートルはあった。
そんな場所から、飛ぶのではなく飛び降りろというのである。吸血鬼の強靭な肉体のこと、着地に失敗しても死にはしないだろうが、たぶん死ぬほど痛い。ちなみに自慢の蝙蝠の翼は、着ぐるみの中にすっかり隠れてしまっていた。これはスカイダイビングにおいてパラシュートが使えないのと同義であった。
「思ったんだけどさ、別に一番高い所である必要はなくない? もうちょっと低いところから始めるなり……」
「何を仰るのですか。修業は始めから高い壁にぶつかってこそですよ。当たって砕けての繰り返しで、乗り越える術を体で会得するのです」
「文字通りに当たったら砕けそうなんだけど」
夏になりきっていない夜の風は強くて冷たい。レミリアはぶるりと震えた。寒さのせいであると信じたかった。仮にも自分は夜の王、悪魔が夜に恐怖で震えているなど、笑い話にもなるまい。
「おっと、大事なことを忘れていました。猫になりきらないと」
「え」
「とりあえず、猫じゃらしと猫缶があったので持ってきました」
「それでどうしろってのよ。というか、猫のいない紅魔館に何であるのよ」
メイド長の猫度が足りないと、魔女が嘆くのはもう少し先、また別の話である。
「ほらほら~、にゃおにゃーお」
「じゃ、じゃれるの、これに?」
「おいしい猫缶もありますにゃー」
「それは絶対に食わないからな!」
喧嘩を売っているようにしか見えない門番だが、全ては主に猫になりきってもらうための演技だ。本人が至って真剣である分、なおさらに性質が悪い。このままではプライドと一緒に尊厳まで投げ捨ててしまいそうだ。
美鈴は笑顔で猫じゃらしを振り続けている。もうどうしようもない、どうにでもなれ。色々と諦めたレミリアは、もはやある種の悟りを開いていた。
「くっ……にゃ、にゃー」
「そうそう、もっと猫っぽく! 猫パンチで応戦して!」
「ふにゃー! ふにゃー!」
その上暗示にもかかりやすいところが、彼女の弱点だった。バラエティ番組の「超催眠術スペシャル」とかを絶対に見せてはいけないタイプである。ものの数秒で、レミリアの精神は限りなく猫に近づいていた。
猫パンチにおいて大事なポイントは、手首の曲げ具合である。軽く握った拳をそろりと上げ、対象に向かって繰り出す一瞬だけ手首を伸ばすのだ。これによって腕の動きと手首の動きが組み合わさり、ひっかき攻撃等に大きな威力を発揮する。いま紅魔館においてひとつの格闘技が完成したが、それが対戦用の技として日の目を見るのもやっぱりもう少し先、また別の話である。
「さぁ行きますよお嬢様! 準備はいいですか!?」
「ふにゃー!」
「よし、行ってこーい!」
美鈴が振りかぶって、猫じゃらしを思いっきり放り投げた。地面へ真っ直ぐ落下していくそれ目がけて、レミリアも柵を乗り越えて飛び降りる。風が耳元でびょうびょうと鳴り、あっという間にフードを剥ぎ取った。その眼に映るのは、頼りなく風に流されていく猫じゃらしだけだ。
手を伸ばして ―― もう少しで ―― 届いた!
「やったっ! ……あ」
レミリアとしたことが、いささか夢中になり過ぎた。集中力はとても大切だが、時と場合によるのである。落ちていく猫じゃらしを取ることだけを考えていたレミリアは、着地のことなど全く考慮していなかった。吸血鬼のクールな思考回路は、自分の身体と暗い地面が激しいキスを交わすまで、もうあと三秒しかないと弾き出した。頭が完全に下になっている今の体勢は大変に危険だ。
頭の中で走馬灯の上映会が開かれているのが分かる。あれもこれもいい思い出だった、って違う! 考えろ、ここからどうする? 腕でもって着地するか、それともここから体勢を戻すか? 呼吸一つ分の時間もないのに? 羽を開いた方が早いんじゃ、あっ、着ぐるみのせいで上手く開かねぇ。
夜へ夜へ、一直線に落ちていく。薄く長く引き延ばされたような時間の中で、レミリアが取った行動は恐らく無意識のものであったのだろう。
さて時計台から見守っていた美鈴は、不意にレミリアの気配が掻き消えたので大いに慌てた。
「え、嘘。やっちゃった?」
闇の中に微かに見えていたレミリアのパジャマ姿が、影も形も見当たらない。夜に溶けてしまったかのように誰もいない。
美鈴の顔から血の気が引いた。最悪の事態が頭をよぎる。これは流石にやり過ぎた。調子に乗り易いのが自分の悪い癖だと分かってはいるのだが、レミリアがあんまり真剣に猫になりきってくれるものだから、何だか楽しくなってしまったのである。何たる失態。主に対してあれだけでかい口を叩いておきながら、これでは自分も師匠失格ではないか。
「あ……あぁ……お嬢様」
しばらく待ってみても、吸血鬼の妖力はいよいよもって感じられない。きっと頭の打ちどころとかが悪いと、いくら闇の眷属といっても死んでしまうのだろう。基本的に人型の生命体は、三〇メートルの高さから落ちて無事で済むようにはできていない。
かくなる上は仕方がない。責を取って己も殉ずるのみ、と美鈴が眼を瞑ったまま柵に足を掛けた、そのときであった。
足元から天に向かって、漆黒が撃ち上がった。
「え……?」
美鈴は慌てて視線で追う。飛び去った影は、すぐに紅い霧のずっと上空へ行ってしまったようだった。何かが高速で飛び回っているのは感じるのだが、あまりにも速すぎて細かい動きまで捉えきれない。
呆気にとられる美鈴の目に、次の瞬間無数の光弾が映った。黒い影があちらこちらでばら撒いたのだ。そして自らが放った弾に照らされて、一瞬だけその正体が顕わになる。
「お、お嬢様!」
それは、蝙蝠へと変じたレミリアであった。おそらく本能のうちの回避行動だったのだろう。地面への激突を変身によって寸前で回避した吸血鬼は、無意識に突き動かされるまま滅茶苦茶に飛び回りながら自らの妖力を解き放っていた。放射状に広がる光弾は正に発狂弾幕と呼ぶに相応しい。
とりあえず美鈴は胸を撫で下ろした。だが、これでは特訓になっていない。猫になりきっていたはずが蝙蝠では。いや、あれも動物ではあるのだが、蝙蝠は吸血鬼の化身だ。レミリアが特訓のためになりきる対象としては相応しくない。もう一度、今度は蝙蝠にならず着地できるよう頑張ってもらわなければならない。
「お嬢様ぁ! こっち戻ってきて下さぁい!」
美鈴が叫んだ。その声が聞こえたのか、夜空を狭しと飛び回っていた蝙蝠ははたと動きを止めた。無数の光弾に囲まれて、夜の王は厳かに羽を振る。その姿に見とれて瞬間だけ思考を停止した美鈴だったが、次の瞬間に信じ難いものを見た。
四方八方に突き進んでいた幾多の光弾が、一斉にその進路を変えた。見覚えのある急カーブを描いて、紅魔館の時計台へと襲いかかったのだ!
「!! これは……」
とっさに美鈴が腕を交差し、防御の体勢に入る。洪水のような弾の群を目の当たりにして、全てを無理に避わすよりはある程度受けきってしまった方が良いと判断したのだ。これは勝負ではないのだから、被弾したところで負けはない。
正面から、弾群の第一波が襲いかかった。一発目が美鈴の脇腹をかすめて、背後の煉瓦へと突き刺さる。土塊が豪快に弾け飛んだ。見た目だけなら小粒な弾だが、込められた魔力は膨大である。あらためて美鈴は吸血鬼の底力を見た。
息つく暇もなく、視界を覆い尽くすほどの光弾が飛来する。並みの使い手ならば、この時点で防御も回避も投げ出してしまっているだろう。しかし美鈴はその鋭い動体視力で、ひとつひとつの弾の動きを正確に読み取っていた。降り注ぐ弾を最小限の動きで避わし、あるいは的確に防御していなしていく。
時計台に弾が当たる度に大きな音が響き、煉瓦が砕けた。弾幕の嵐が過ぎ去る頃には、辺りは土煙に包まれていた。
弾が来ないことを確認し、美鈴は防御の構えを解いた。
「ふぅ……。いやぁどうなることかと思」
「チェストォ!」
「おごふっ」
油断した脳天にチョップを叩き込まれた美鈴は、痛みにそのまま倒れ込む。
「まったく、なんてことさせるのよ貴女は」
「……お嬢様だって結構ノリノリだったじゃないですか」
「黙れ」
口を尖らせる門番の前で尊大に言い放つのは、もちろんレミリアである。ようやく落ち着いたのか、既に人型へと戻っていた。ただ子猫パジャマはそのままだった。
「こんなこと、もう二度とやらないからね。飛ぶのはいいけど、落ちるのはイヤよ」
「でも、何だかんだ言って」
主を見上げた美鈴が、にっと笑う。
「一発でできてるじゃないですか。流石です」
「……ふん」
ぷいとそっぽを向くレミリア。しかしその顔は、どこか誇らしげだ。彼女が無我夢中の内にばら撒いた弾は、見事に美鈴のお手本と同じ軌道を描いたのだ。褒められて悪い気はしないのだろう。
得意顔を隠さない吸血鬼に、美鈴はしれっと言い放った。
「さぁ、今ので感覚は掴めたでしょう。あとはこれを、実践で使えるまで高めるだけです」
「ちょっと! だから言ってるでしょう、もうやらないわよ私は」
「でも、繰り返し練習しないと身につきませんよ?」
牙を剥いて威嚇するレミリアを意に介する様子もなく、美鈴は立ち上がって服をぽんぽんと払う。そしてポケットから、また新しく猫じゃらしを取り出した。
「はい、お嬢様。にゃおにゃ~お」
「やらないからね、絶対!」
「そんにゃこと言わないで、ほら、ふりふり」
「わ、私は絶対に……」
「ふりふりにゃーお、ふりにゃーお」
「……………………」
「うりうりうりうり」
「えぇい畜生! にゃあぁぁぁぁ!!」
終わりの見えない馬鹿げた茶番に、レミリアは前のめりで頭から突っ込んだ。
結局、猫云々は関係無しに蝙蝠に変身して弾を撃った方が上手くいくことにふたりが気付くのは、夜が明ける寸前のことであった。人型よりも蝙蝠に変じた方が、魔力そのものは減じてしまうものの、気の流れを読み取りやすかったのだろう。まさか、猫になり切って気の流れを掴むというハチャメチャな特訓が功を奏したとは思いたくもない。結果としては美鈴の言う通りになってしまったのだが。
くたくたになった身体をベッドに横たえて、レミリアは呟いた。
「……あと二日、やっていけるのかしら」
一日目の特訓を終えた時点で、偉大なる吸血鬼に運命ははっきりと見えていた。これからの数日間、紅魔館の連中に教えを乞うているうちは、特訓の名の下にいじられ続けるに違いない。エキセントリックな住人が目白押しのこの館で、普通のことが普通に起こるはずがないのだ。
「まぁ、もうなるようになるしかないか」
溜息とともに、目を閉じる。疲れていたためか、レミリアはあっという間に深い眠りへと落ちていった。
◆ ◆ ◆
紅魔館の地下室は、入り口自体が隠し扉になっているため、その場所がとても分かりにくい。何も知らない来客が迷い込んでしまわないようにという配慮であったが、館内を勝手に歩き回るほどフランクな客人などここ二百年は訪れたためしがなかった。
その扉から長く暗い階段を下りきったところで、咲夜は右手側の壁を掌で押した。すると重く擦れるような音とともに壁が開き、小さなリフトが姿を現す。中には、およそひとり分の夜食が載った手押し車が鎮座していた。
咲夜はそれを引っぱり出して、地下通路をさらに奥へと進む。石畳の冷たい廊下の上を、台車はなぜか音も立てずに滑っていく。
フランドールとレミリアには、瓜二つな点と真逆な点があった。たとえば、顔や身体の造形に関してはふたりともとても似通っている。特にくりくりとした瞳の形なんかを見比べてみると、彼女たちが姉妹であることをあらためて実感できた。そして今運んでいる食事などは後者に当たる。少食なレミリアに対してフランドールはどちらかというと健啖な方なのだ。台車に載っかった夜食の分量は、主に似て食の細い方である咲夜からしてみると若干多めだ。
「失礼いたします、フランドール様」
重く堅く閉ざされた扉の前で、咲夜は頭を下げた。ぶ厚い扉の向こうまでこの声が届いているようには思えないが、これまで妹様に非礼を咎められたことはないので、きっと聞こえているのだろう。
やがて少しの間の後、扉がゆっくりと開き始めた。この鉄扉は魔法仕掛けであり、鍵術が施されていない限りは部屋の主が自在に開け閉めできるのだ。
咲夜が地下室へ入ると、フランドールは天蓋付きベッドの上で腹這いのまま、何かを楽しげに眺めていた。
「ん、ありがと咲夜。その辺に置いといてよ、適当に」
「御意に」
広大な地下室に、部屋割りなどというものはない。深紅の大きな一枚絨毯の上に、妹様の四九五年間の全てが存在する。
よほど機嫌がいいのか、足をばたばたさせて鼻歌なんぞを歌うフランドール。咲夜はそれを横目に、台車の上の夜食を机に並べた。
「お姉様、どうしてるの?」
その問いかけに、咲夜はすぐさま時間を止めた。仕えるべき相手からの質問である。配膳しながら答える、あるいは配膳を終えるまで待たせてから答えるなどという選択肢は、彼女にはない。咲夜ひとりのみの世界で残る皿を全て並べ、フランドールの寝そべるベッドの傍まで急ぐ。
時間を戻す寸前、咲夜はベッドの上でフランが夢中になっているものを見た。魔具だ、手製の。おそらくは鉄で作られた三重の輪のようなそれが、この紅い霧を生み出す魔法の要なのであろうことは容易に予想できた。
「レミリア様は、特訓をなさっておいでです。フランドール様に勝つための」
「ふ~ん。あいつ本気なんだ」
さして驚いた風でもなく、フランドールは魔具をいじり続けている。
咲夜は嘘をつかなかった。隠したところで意味はないし、バレてしまったところで影響はないからだ。
「無理だと思うけどね。あいつダメよ、センスないもん」
フランドールは魔具を放り出し、ベッドの上に身を起こした。多少乱暴に扱っても平気らしい。
そして彼女は何を思いついたのかニコッと笑うと、両腕を咲夜に向かって突き出した。
「咲夜ー」
「なんでしょう?」
「だっこ」
「かしこまりました」
左手をフランドールの背中に、右手を膝の下に差し入れる。差し出された二本の腕が、咲夜の首筋にがっしりと巻き付いた。いわゆるお姫様だっこの格好である。そのまま、準備された食卓へとメイドは歩いていく。
「咲夜さぁ、怖くないの?」
「怖い、と申しますと?」
「私は貴女を壊しちゃうかもしれないのに。そんな吸血鬼に、よく首筋を差し出せるよね」
「あぁ、そういうことですか。それでしたら ――」
咲夜はフランドールを椅子へと降ろす。そのまま手早くナプキンをつけてやりながら、束の間のお姫様に向かって咲夜は微笑んだ。
「フランドール様が私を壊したとして、それも『運命』だと受け入れる準備はできております故」
「ふぅん」
帰ってきた声はどこか平たい。
「そんなに信じているんだ、お姉様のこと。ていうか、盲信しているわよね。あいつが『死ね』って言えば死ぬわよね、迷いなく」
「…………」
笑顔のまま、咲夜は答えなかった。頭の中で一瞬でも「それはないだろうな」と思ってしまった以上、嘘をつくことはできなかった。
「もう下がっていいわ。食べ終わったらまた呼ぶから」
手をひらひらと振って、フランドールは退室を促した。彼女はひとりでの食事を好む。食べ終わると部屋に備え付けられているベルを鳴らし、食器を下げるよう知らせるのである。
だが今日の咲夜は、素直には部屋を出なかった。
「フランドール様。ひとつだけ」
呼ばれた妹様は不機嫌そうに、しかし意外だという顔で咲夜を見た。
「かつてレミリア様は仰いました。『未来にいかなる運命を見ようと、それを改竄するようなことはしたくない』と。ですが ――」
「咲夜、あんまり長話なようだと閉じ込めちゃうよ?」
フランドールが人差し指を軽やかに降る。すると、開いたままだった鉄の扉がゆっくりと閉まり始めた。
咲夜は涼しい顔のまま動じない。
「ですが、フランドール様や紅魔館にとって危機となることを予見したのなら、レミリア様はそれを避けるために何だってなさることでしょう。私は何よりも、それを信じております」
失礼いたします、と咲夜は慌てた風もなく扉をすり抜けた。メイド長の銀髪が見えなくなるのと、扉が閉まる音が地下に響いたのはほとんど同時であった。
「……ふん、何さ。格好つけちゃって」
フランドールは小さく呟くと食卓へ向き直り、目の前のステーキを少しだけ乱暴に切り裂いた。
分厚い扉の反対側、冷たい石畳の廊下を咲夜は歩く。そして心の中だけで、寂しがりやなもうひとりの主にそっと言葉を付け足した。
―― 私は、貴女様も信じております。レミリア様と同じくらいに。
◆ ◆ ◆
自分の体を蝋燭に変えて、少し溶かして火を着けるイメージ、なのだという。
「うぅん……」
火花すら起こらない指先を見つめながら、レミリアは唸った。もうかれこれ一時間、悪戦苦闘を繰り返しているが、何も起こらない。
苦々しげに、レミリアは視線を脇の友人へと向けた。すぐそこの大きな安楽椅子の上で、パチュリーは永遠の本の虫になっている。アドバイスの一つもくれないだろうかとの微かな望みは、あまりにもあっけなく費えてしまった。
まったくあり得ないことだったが、レミリアは昨日の美鈴との特訓を懐かしく思ってしまった。修行内容はブッ飛んでいたが、美鈴は助言は沢山してくれたし、声もかけてくれたのである。それに比べるとこの魔女には、教える気があるとは到底思えなかった。
二日目の夜の特訓は、紅魔館の図書館で行われている。ぽつぽつと魔法灯が灯されているだけの広大な空間は、壁までが見通せないために果てのない地下迷宮を思わせた。夜目の利くレミリアだからこそ危なげなく歩くことができるが、普通の人間では足元も覚束ないだろう。
呼び出されてここを訪れたレミリアに、パチュリーは本から一切顔を上げず、いつもの小声早口で告げたのだった。
「さて、水は吸血鬼には荷が重いし、木は騒々しい貴女には無理。金は銀に通じるし、土ほどの落ち着きも貴女にはないからねぇ。やっぱり火よ、火」
「それ属性の話? じゃあ日とか月はどう? 強そうじゃない」
「問題外よ。そんなもんを一日やそこらで修められてたまるもんですか」
言いながら、魔女は自分の傍らに積み上げられた本をつんつんと指差す。
「適当に見繕っておいたから、それ読みなさい。五行の基礎から覚えてもらわないと」
「適当にって……」
レミリアは絶句した。文机の上の大量の本は、彼女の目線より高い位置まで積まれているのだ。
しかしまぁ、駄々をこねても始まらないことはとうに織り込み済みである。ため息を押し殺しながら、レミリアは飛び上がって天辺の本を一冊手に取った。
背表紙をざっと見る限り、今回パチュリーがチョイスしてくれた文献は欧文で書かれているものばかりのようで、そこには素直に感謝しておいた。昨日一日の準備というのは、これらを探し出してくることを指していたのだろう。神代文字で書かれた本が出てきたらどうしようかと思った。
「火の魔法って一口に言っても、いろいろあるのね。派手なのばっかりかと思ってたけど」
「当たり前でしょう。人が神から火を盗み出して以来、それを操る術には数多のアプローチから研究が重ねられてきたのだから」
レミリアが三冊目に手を付けた『炎魔法大全』というそのものズバリの本には、実に様々な術が載っていた。例えば今開いているページには、炎を氷よりも冷たくする魔法が記されている。何のために編み出された術なのかはさっぱり理解できないが、こういうことを四六時中考察し続けているのが魔法使いという種なのだ。氷の魔法を使えよなどというツッコミは無粋だ。長いこと魔女の親友をやっているレミリアにはとてもよく分かる。
「こんな無駄なことばっかり考えてると、いくら寿命が長くったって時間が足りないんじゃないの?」
「無駄なことを考えるのを止めた時点で、魔女は死ぬのよ」
「不毛だわ……。人間に生まれなくてよかったわねパチェ。きっと人生が物足りなくなってたわよ。それとも人間にも、無駄に魔法使いを目指すやつがいたりするのかしら」
「さぁ? そんな奇特な輩、いるのなら是非お目にかかりたいものだけど」
パチュリーがぱらりとページをめくる。
「それよりレミィ。そろそろ実技も練習しておかないと夜が明けちゃうわよ」
「へ? 実技って言われても、本読んでただけなんだけど私」
「本を読んだのなら十分じゃない。ほら、その本の七三ページ。『炎術の基礎』って章があるでしょ」
言われてレミリアは慌ててページを戻る。たくさんの魔法の解説が存外面白かったのでついつい読み進めてしまったが、確かに冒頭には基礎的事項が書かれていたはずだ。
「……あった。『魔力を熱に変換するには』『魔力を光に変換するには』」
「そう。じゃあその通りにやってみなさい」
「え、パチェが教えてくれるんじゃないの?」
「あのねぇ、だから言ってるじゃない」
パチュリーは、そこで初めてレミリアを見た。
「方法はそこに書いてある。読んだのならできるはずよ。それとも、一言一句読み聞かせてほしいの?」
その鋭い目線から読み取れるメッセージはただ一つ、『私の読書の邪魔をするな』という怒りだけである。
もはやレミリアには言葉もない。この女、本を見繕っただけで自分の仕事は終わったと考えてやがる。パチュリーのエキセントリックな言動は今に始まったことではないが、まさかこの火急の事態にまでそれが通常営業だとは思わなかった。
呆れながらも、レミリアは開いたページを読む。ほぼ全ての炎術に通じる基礎、すなわち火を起こす方法が、そこには書かれていた。
そもそも魔法とは、呪文や陣などを通じて力を様々な形に変換する術である。水車によって川の流れから仕事のエネルギーを取り出すようなものだ。当然、大きな力を得ようとすればするほど、注ぎ込む力も変換する装置も大がかりなものが必要となる。
しかしここに記されているのは、魔法の初歩中の初歩の内容だ。したがって必要な回路も至極単純なものであった。
「ふぅん」
学術書独特のややこしい言い回しで書かれていたが、内容は読みとれた。なんだ、簡単そうじゃないか。
さっそくレミリアは、右手に魔力を集中させる。立てた人差し指の先、豆粒ほどの空間。そこを目がけて、口の中で小さく呪文を呟いた。
「……あれ?」
しかしいくら待ってみても、何の変化も起こらない。力も十分に集めてあるし、呪文も間違っていないのに。
二度、三度と、レミリアは同じことを繰り返したが、結果は変わらなかった。二進も三進もいかなくなったので、隣のパチュリーに助けを求める。
「おっかしいわね。ねぇパチェ、上手くできないんだけど」
「そりゃあ、ただ呪文唱えるだけで上手くいくはずないでしょう。見てなさい」
分厚い本から左手だけを挙げて、パチュリーは素早く呪文を唱えた。瞬く間に、その掌に炎が燃え上がる。
「いい? 詠唱に必要なのは言葉じゃないの。書かれている文句をただそのまま朗読したって、魔法は発動しない。大事なのは声、もっと言えば音よ。音節でもって見えない回路を紡ぎあげるの。世界の理に働きかけるのだから、きちんと正式な手段をとらないと上手くいかないし、たとえ成功したとしても大変なことになるわ」
はいこれ、といって山と積まれた中から手渡されたのは、またしても本であった。『呪文詠唱入門』という題で、これまた鈍器になりそうな厚さだ。
「…………魔法書って、どれもこれもこんなんなの? 咲夜が図書館を拡張してみせたとき、貴女が大喜びした理由がやっと分かったわ」
「今もって研究が続けられている学問だもの。ちゃんとした本を集めようと思ったら、本棚はいくつあっても足りないわよ」
そろそろうんざりしてきたが、ぶーたれてもいられない。溜息をつきながら、レミリアは再び活字との格闘へと戻った。
それからはもう、ずっとこんな感じなのである。レミリアが壁にぶつかる度に、パチュリーはそれについて記されている本を投げて寄こす。そこでまた分からないことがあったら、それの解説が載っている本を。延々とその繰り返しであった。
それでレミリアはといえば、魔法が一向に上手くいく気配がない。
そもそも、天才肌同士が教える側と教わる側に別れたことが悲劇の始まりなのである。このふたりは生来努力などという言葉とは無縁な人生を歩んできた。生まれ落ちたその時から数えても、できなかった事の方が少ない。教える者としての心得も教わる者としての覚悟も、彼女たちにはほとんど備わっていないと言い切って良かった。もっともレミリアにとって今日はレッスン二日目である。その分だけ僅かながら、「生徒」としての長があった。
「だぁーもう!」
レミリアがついに本を放り出したのは、失敗が五十回を数えた頃である。既に椅子の周りには十を超える分厚い魔法書が散乱していた。パチュリーが渡してきた本のチョイスは正確だったし、どこに何が書かれているかを寸分違わず暗記している記憶力だって感嘆に値した。しかしそれでも、レミリアの指先に炎が灯ることはなかったのである。
「この調子じゃそれこそ夜が明けちゃうわよ! ねぇパチェったら!」
「……何よ」
「お願いだから手伝って。本を読んでるだけじゃ分からないの。私はもっとこう、何というか、手取り足取り教えてほしい、みたいな感じで」
「ねぇレミィ、私分からないんだけどさ」
パチュリーの声色が変わった。重たさと鋭さを併せ持った瞳が吸血鬼を睨みつけた。ばたんと本を閉じる音が、必要以上に大きく鳴った。
「逆に問うわ。どうしてできないのよ。本を読んで学ぶ。それを基に実践する。ただそれだけじゃない。ただそれだけの、誰にだってできることが、どうして貴女にはできないのかしらね」
魔女のアルトボイスが、まるで周囲の暗闇から湧き出ているかのように響く。
「今回のことを提案したのは私だもの。だから貴女がしっかり学べるようにって、これだけの本を準備した。だけど貴女はそれ以上のことを要求する。私に言わせれば、それは完全に甘えだわ。『できない』『無理だ』って喚くことなら簡単よ。でもそれをいちいち耳元で聞かされるこっちの身にもなって頂戴」
それは滅多に見ない、パチュリーの怒りであった。彼女はたとえ狂わんばかりにキレたとしても、決して声を張り上げるようなことはしない。喘息患いの少女にそんな芸当はできない。かわりに精一杯の呪いを込めた平坦な声で、いつもの早口に更に磨きをかけた恨み節を紡ぐのだ。
別にパチュリーも、教えることをおざなりにしているつもりはないのである。彼女にしてみれば、書から学び自らの血肉にすることは当たり前なのだ。彼女自身そうやって、すっと研究を続けてきた。パチュリーに間違いがあるとすれば、自分と同じやり方でレミリアが魔法を修められるだろうと考えたその一点である。
レミリアは椅子を鳴らして立ち上がった。
「い、言わせておけば……。私が悪いって言うの!? それならパチェだって、ずっと座って本読んでただけじゃない!」
「ここは私の空間よ。私が何をしようとどんな教え方をしようと、とやかく言われる筋合いはない」
大抵の者であれば即座に竦み上がる魔女の怒りを前にして、しかし吸血鬼は怯むことなく真っ向からぶつかった。ふたりの視線が交錯する。その間で固く結ばれていたはずの友誼に、今まさに亀裂が入ろうとしていた。
「大変です! 大変ですよパチュリーさ……うわっ!」
そこに魔女の使い魔が割って入ってきた。紅い長髪の両サイドで小さな羽を忙しなくぱたぱたさせながら走ってきた小悪魔は、振り向いたふたりの刺々しい視線をいっぺんに受け止めてしまい飛び上がった。
「……おふたりともどうしたんですか? そんなに怖い顔しちゃって」
「ふん、分からず屋が喚いてただけよ。それで、何が大変なの?」
やわらかい椅子にぽすんと座り込み、パチュリーは頭を振った。小悪魔はすぐに真顔を取り戻し、主に報告すべき内容を口にする。
「来たんですよ、巫女が」
「巫女? まさか博麗の?」
「そうです。つい先ほど、美鈴さんが交戦しました」
レミリアの頭がすぅっと冷える。事態はどちらかというと悪い方向へ動き出しているようだった。まさか、もう異変解決役が動き出しているというのか?
「それで、博麗の巫女は」
「美鈴さんがなんとか追い払いました。弾幕勝負で辛うじて勝利したみたいです」
スペルカードルールに乗っ取った対決においては、美鈴はその能力を最大限に生かしているとは言い難い。それでも撃退できたということは、向こうもまだこの勝負に不慣れなのだろうか。
しかし楽観はできない。この異変が解決されるまで、巫女は何度でもやってくるだろう。美鈴が突破されてしまうのも時間の問題である。
「今、咲夜さんが館内警備の再編成をしています。次は御自身でも迎撃に出るとかで、忙しそうに走り回ってました」
「そう。私も出なければいけないかしらね」
「えぇ。咲夜さんと美鈴さんが相談した結果、相手をまず図書館側に誘導することが決定しています」
パチュリーの諦めたような表情に、小悪魔は頷いてみせた。
「はぁ、そうなると思ったわ。否が応でも頭数には入れられるのよね。小悪魔、もし賊が侵入したら、貴女にも働いてもらうから」
「うぇ、分かりました……」
小悪魔の頭にある小さな羽がだらりとしょげた。魔力よりも機転や話術で生き延びてきた彼女にとって、荒事はあまり歓迎すべき事態ではなかった。
一方で焦っているのがレミリアだ。フランドールを叩き伏せるために残された時間が、もうほとんどないのである。簡単な炎魔法のひとつも習得できていない現状では、あまりにも不安だった。
「それじゃ図書館の防護魔法も見直さないと……。ちょっと席外すわね、レミィ、小悪魔」
「え……」
立ち上がるパチュリーの視線は、まだどこか冷たい。
「言ってるでしょ。そこの本にある通りにやれば、誰だってできるようになる」
「でも私は……!」
「フランはそうだったわ」
急に出てきた妹の名前に、レミリアは黙り込んでしまった。
「妹様が紅霧の魔法を身につけたのは、この図書館の本で学んだから。もっともあの娘の場合は、本も自分で全部探し出していたけどね」
初耳であった。フランドールが自ら何かを学ぼうとするなど、レミリアには想像できなかった。
「手取り足取り教われば、それはきっと楽でしょう。言われたことをただやっていればいいのだから。でもそのやり方だけでは、貴女が本当の意味で成長することは決してない。教えられた以上のことはできるようにならない」
パチュリーは背を向けてふわりと浮き上がった。
「この幻想郷で、今までと同じように自分の足で立っていたいのでしょう? それを望むのなら、貴女は精一杯の努力をしないといけないと思う。これで私も期待しているのよ、そんな貴女の姿にね」
魔女のひらひらとしたシルエットが闇の中に消えてしまうまで、吸血鬼と使い魔は立ち尽くしていた。片方は打ちひしがれて、もう一方はいつものことかと諦め顔のままであった。しばらくの間、動くものは揺らめく魔法灯に 照らし出されるふたりの影だけだった。
「……えぇと、あの、お嬢様」
先に沈黙を破ったのは、場の空気に耐えきれなくなった小悪魔である。
「何にせよ、練習しません? 時間ないみたいですし」
練習。その言葉にあらためて、レミリアは足元を見た。自らが散らかした何冊もの本が散乱している。整理整頓されているとは言い難いパチュリーの図書館だが、自分がそこに取り込まれつつあるような気分だった。
「ダメよ、できそうにない。フランとは違って、きっと私には向いてないんだわ、魔法って」
らしくない弱気な言葉が飛び出すのも仕方がなかった。自分の手のひらから炎が燃え上がるイメージが、どうやっても浮かばないのである。
「もう今日のところは諦めて、明日からは咲夜の特訓に切り替えようと思うの。その方がパチェにだっていいだろうし……」
「何をおっしゃるんですか!!」
ばぁんと大きな音がした。小悪魔が両手を机に叩きつけたのだ。
「お嬢様ともあろう方が、人を思いやってどうするんですか! まだ半日しかやってないのに引き下がるなんて、あんまりな諦めの早さですよ」
「そんなこと言われても、無理なものは無理よ……」
「まったくもう! ほらお嬢様、見てください」
ふんす、と張り切って小悪魔は、さっと呪文を呟いた。立てた人差し指の先に、ぽっと小さな火がともる。
「ほら、こんなに簡単なんですから。私にだってできるくらい」
「…………」
「空を飛ぶのと同じようなもんですよ。一度コツさえ覚えちゃえば、もう忘れることはありません」
人間で言うところの、自転車に乗るようなもん、だろうか。
小悪魔の熱弁にも、しかしレミリアは動かない。彼女は理解している。王には王の、使い魔には使い魔の能力があることを。どちらが強いかなど、論じること自体ナンセンスだということを。
「でも……」
そして自分の能力に、今一番必要としているそれが欠けていることも、何となく思い知ってしまった。
しょげ返るレミリアを見て、小悪魔は指先の炎を消した。文机の反対側にいる館の主の元へ、ゆっくりと歩みを進めていく。
小さな小さな主人の親友を見て、小悪魔は思う。自分より圧倒的に強い力を持つこの少女は、しかし何と不器用なのだろう。初歩的な魔法が上手くできないから、ではない。それを言うならば、初めて魔法を完成させるまで数ヶ月を要した小悪魔だって、人のことは言えない。レミリアを不器用だというのは、甘え方があまりに下手なためである。
「ほら、俯かないでください、レミリア様。そんな表情、夜の王には似つかわしくないですよ」
「え……」
「僭越ながら、私が教授して差し上げます。お嬢様が炎をご自分で灯せるようになるまで」
レミリアが小悪魔を見上げる。五百の齢を感じさせぬほどに、その瞳は澄み切っていた。
偉大なる夜の王に対して、小悪魔が勝っている点が二つあった。それは背の高さと、要領の良さである。生まれ持ったものである前者はどうしようもないとして、後者に関して小悪魔は百日どころではない長があった。持てる力自体は大して強くない彼女が今日まで五体満足で生き延びてこれたのは、いかに相手に取り入り身の安全を確保するかを常に考え続けていたからに他ならない。魔女の図書館で司書兼使い魔という立場を見事手に入れた彼女以上に要領の良い妖怪など、世界中どこを探したっていないだろう。
レミリアとパチュリーが睨み合う現場に踏み込む形になった小悪魔は、その様を一目見た瞬間からもう何があったのかを理解していた。確かにふたりは長い付き合いの友人同士ではあるが、教え教わるという関係にはとてもじゃないがなり得ない。甘えることが、というか下手に出ることがこの上なく苦手なのだ。これでは、互いが互いに自分のやり方を押し通そうとして衝突することは目に見えている。
その点、フランドールは甘え上手である。パチュリーは妹様が一から自分で魔法を修得したように言っていたが、実はそうではない。「ねぇパチェ、これについて書いてある本がどこにあるか教えてほしいんだけど」と、頻繁に尋ねていたのだ。彼女はそうやって、誰かから力を貸してもらえる方法を知っていた。伊達に四百九十五年もの間、妹をやっているわけではない。
「たった今ですけど、いい方法を思い付いたんです。お嬢様が呪文の感覚を掴むための練習として。パチュリー様がお戻りになるまでに、一度試してみませんか?」
「練習……。読書以外でってこと?」
「えぇ。実践型のお嬢様にぴったりだと思うんです」
小悪魔は華のように笑う。その笑顔を少しだけ信じてみる気になったレミリアは、黙って頷き話の先を促した。
「悪魔憑きを応用します。私がお嬢様に憑き、身体をお借りした状態で呪文を使う。そうすれば、お嬢様にもその感覚が分かるでしょう?」
「ちょ、ちょっと待って。それって貴女が危険なんじゃない?」
ただでさえ良くないレミリアの顔色が、さらに青くなった。
小悪魔の理屈はとても単純だ。悪魔は別の生き物に憑依することができる。小悪魔がレミリアに憑依し呪文を使わせれば、確かにレミリアの身体に感覚を刻みこむことは可能なはずだ。それを忘れない内に、次は悪魔憑きを解除した状態で練習すればいいのである。
だがそれは、小悪魔にとっては捨て身の挑戦だった。取り憑く相手が人間ならまだしも、今回は格上の吸血鬼だ。本来ならば、憑依しようと思っても不可能な対象である。憑くこと自体はレミリアが許可すれば可能ではあるものの、そのあまりの力量差は小悪魔側の負荷となる。レミリアが力の制御を誤ったり、小悪魔の魔力が保たなかったりしたら、哀れな使い魔は一瞬にして押し潰されてしまうだろう。
「いくら何でも、貴女にそんな危ない橋を渡らせるわけには……」
「ご心配には及びません。この小悪魔、名も無きしがない妖怪ですが、引き際だけなら心得ております。危ないと思ったら、すぐに憑依を解きますよ」
小悪魔はグッと両拳を握ってみせる。しかしそれでも、レミリアの顔は晴れなかった。
「ご心配ですか?」
「そりゃあ……。私の都合で、貴女にそこまで負担をかけるのはね」
「もう、本当に今日のレミリア様ってばらしくないですねぇ。仮にも悪魔の館の主なんですから、もっとどーんと構えて行きましょうよ、どーんと」
小悪魔の両手が、レミリアの頭へと置かれた。身体側の許可さえあれば、もういつでも憑依できる状態だ。
しゃがみ込んで目線を合わせた小悪魔は、曇りない笑顔で言った。
「それにたとえ私がしくじってくたばったって、その屍を思いっきり踏みつけて先に進めばいいんです。これまでもそうだったように」
しばらくの間、図書館を静寂が包んだ。レミリアはやはり小悪魔にそんな真似をさせたくはなかったが、小悪魔も他の紅魔館住人と同じく、言い出したら梃子でも動かない性質であることを知っていた。だから弱り切った吸血鬼は、どんな言葉で思いとどまらせればいいかがすぐには浮かばなかった。
「お嬢様」
「……………………」
「どうか信じて下さい。私と、そしてご自分を」
「……小悪魔」
「さぁ、目を閉じて」
言われるがままに、レミリアは目を瞑った。もはやなるようにしかなるまい。
自分の内の魔力を目一杯抑え込み、意識の扉を外向けに開いてやる。
「それではお嬢様、健闘をお祈りいたします」
小悪魔の声が、どんどん残響を強めていく。瞼の裏の暗闇の中で、レミリアはそっと自らの意識を手離した。
「…………え」
数瞬の間、瞬きひとつ分の時間すら待たずに、レミリアの意識は戻った。目を開けてまず気付いたのは、机に両手をつき体重を預ける格好になっている自分である。体感時間は一瞬でも、やはり数十秒から数分の間、小悪魔が憑いていた状態だったらしい。
喉に奇妙な感触が残っている。試しに声を出してみると、いつもと違った響きを伴って自分の声が聞こえてきた。喉の震えも普段と比べると少し強いようだ。呪文の詠唱に必要だという、音節。それを発声するための方法なのだろう。
「な、るほど。これがその感触なのね。じゃあ ――」
頭からそれが飛んでしまわないうちに、レミリアは五十一度目の呪文を唱えた。唱え終わるか終わらないかの時点で、もう今までとは違う反応が自分の指先から返ってきた。
魔法で蝋燭を手の内に作り出すのではない。手首から先そのものがマッチと蝋燭になるのだ。見えない回路が構築され、立てた人差し指から最初の火花を散らす。それはすぐさま、その空間に凝縮された魔力へと燃え移り、そして、
「―― できた……!」
果たしてレミリアの指先には、小さな火の球が灯っていた。
「やった! できたわよ小悪魔! 貴女のおかげで……あれ?」
この喜びを分かち合おうと、つい先ほどまで小悪魔がいた方を向いたが、そこにその姿はなかった。悪魔らしく悪戯も好む彼女だが、今この時にかくれんぼをしているわけもあるまい。館の主に黙ってこの場を辞するというのも考えづらかった。
「小悪魔? どこに行ったの?」
集中が切れたせいか、レミリアの指先の炎がふっと消えた。
そのとき、遠くの方で何かが落ちるどさりという音がした。
「……小悪魔?」
炎が消えたせいで、暗がりに紛れてしまっていた本棚の辺りまで見渡せるようになった。
二十歩ほどのところにある本棚の下に、倒れ伏す人影がある。
「な、ちょっと!」
レミリアは慌てて駆け寄った。彼我の距離を一瞬で詰め、仰向けに横たわる彼女を抱き起こす。
「小悪魔! しっかりして、小悪魔ったら!」
憑依して呪文を使っている最中に、ふとした拍子でレミリアから魔力が逆流し、吹き飛ばされてしまったのだろう。小悪魔は本棚に思いっ切りぶつけられていた。先程の音は、その本棚から本が落下した音であった。
レミリアがいくら呼びかけてみても、頬を叩いてみても、小悪魔が目を覚ます気配はない。十メートルは吹き飛ばされたというのにその顔は安らかで、まるで死蝋を思わせてレミリアはぞっとした。
「お願いよ、目を覚まして……」
ぴくりとも動かない小悪魔の頭を小さな胸にかき抱き、レミリアは涙した。あぁ、なんということだろう。あろうことか、特訓に付き合ってくれた親友の従者を死なせてしまうとは。「運命を操る程度の能力」などと豪語しておきながら、こんな結末を避けることのできなかった自分の無力さに、何よりも腹が立つ。自分の今習得した魔法は、彼女のの尊い犠牲の上に成り立っているのだ。
レミリアはその穏やかな死に顔に、慟哭とともに誓った。
「うぅ……。約束するわ。きっとこの魔法で、フランを止めてみせる。そして、そしてこの異変を鎮めてみせるわ。小悪魔、貴女のことはずっと忘れない。この私在る限りはずっと ――」
「騒がしいわね。何をやっているのよ、貴女たち」
さめざめと崩れ落ちるレミリアのもとに、図書館内の防護魔法を見直し終わったパチュリーが戻ってきた。
「パチェ、あぁパチェ……。小悪魔が……」
レミリアの嘆きはもはや言葉にすらならない。自分の使い魔が倒れ伏している衝撃的な光景を、しかしパチュリーは眉一つ動かさずに見ていた。
「小悪魔がどうしたって?」
「ま、魔法を教えてくれたのに……。私のせいで吹き飛んじゃって、それで……」
「魔法を? 何だかよく分からないけど」
魔女はふたりの傍らにすとんと降り立つと、ぶつぶつと何やら唱えながら右手に魔力を集め始めた。段々と強まっていくその光は、青みを帯びている。どうやら水の魔術のようだ。
「パチェ、何を……」
「いいから。見てなさい」
やがて姿を現した握りこぶし大の水球を、パチュリーは小悪魔の顔面に落とすと見せかけて、
「ほれ」
「うっひゃああああぁぁぁぁーーーー!!」
小悪魔のシャツの腹をぺろりとめくり、そこに無造作に放り込んだ。
すると死んでいたはずの小悪魔が、黄色い叫び声をあげて飛び上がったではないか。
「はぁ、そんな事だろうと思ったわ。貴女の死んだフリなんてもう見飽きたわよ」
「パ、パチュリー様。起こすにしたってもう少し方法が……」
「私に文句を言う前に、あっちをどうにかしたら?」
「あっち?」
パチュリーの指差す方向を振り返った小悪魔の目に、顔を真っ赤に染めたレミリアの姿が目に入った。拳を固く握ってぶるぶると震えている彼女は、どう見ても ――
「……あの、怒ってます、よね?」
「そうだ、よく分かったな。私にいらん恥をかかせやがって」
邪眼と見紛うほど殺意を込めた視線で、吸血鬼は小悪魔を睨みつけた。
「そんなに死にたければ、私が直に殺してやるぞ! おい待てコラ!」
「そう言われて待つヤツがありますか! ひぃぃぃー!」
慌てて逃げ出した小悪魔を全力で追うレミリア。図書館内でいきなり始まった追いかけっこに、パチュリーは盛大に溜息を吐いた。
ふと、自分のものでない魔法の残り香に気づく。小悪魔のそれとも違うということは、レミリアの魔法はちゃんと成功したのだろう。先程からのふたりの様子を見るに、小悪魔が手を貸したことは容易に想像できた。
「何があったのかは知らないけど、目的が果たせたのなら重畳だわ。にしても」
再びふわりと浮き上がったパチュリーは、喧騒をよそにお気に入りの安楽椅子へと腰を下ろす。
自分に縋り付いてきたレミリアを拒絶したのは、自分なりに正しいと思ってやったことだった。しかしそれは果たして正しかったのだろうか。もちろん、「自ら本より学べ」という信念を曲げるつもりはない。レミリアにはもっと、様々な意味で強くなってほしいというのも本音である。
「少し焦っていたのかもね、私も。ま、これが片づいたら、またゆっくりと始めてもらえばいいか」
小悪魔があっさりと正解を導き出したことには、心の中だけで賞賛しておいた。素直に褒めるなんてことは絶対にできない、冷め顔魔女の精一杯の譲歩である。パチュリーは冷め切ったレモンティーを喉へ流し込むと、図書館で騒ぎ続けるふたりに制裁を下しに再び立ち上がった。
◆ ◆ ◆
明くる明け、レミリアが今朝も眠りに就こうかという頃のことである。紅魔館の廊下を歩くパチュリーの姿を認めた咲夜は我が目を疑った。
「まさか、パチュリー様が三日の内に二度も図書館からお出でになるなんて……。これは幸運の前兆に違いありませんわ」
「ひとの出現率で吉凶を占うのは結構だけど」
人外を人外と思わない咲夜の言い草にツッコむ者は、もはや紅魔館にはいない。
「まぁ丁度いいか。聞きたいんだけど、フランの地下室ってどこから入るんだったかしら?」
「フランドール様のお部屋、ですか?」
咲夜にとっては、これまた驚きの質問である。フランドールがパチュリーの図書館を訪ねることはあっても、その逆は今まで一度もなかった。
「そうよ。ちょっとやっておきたいことがあってね。レミィへの恩返しも兼ねて」
「はぁ。入り口でしたらエントランスから向かって右の廊下の突き当たり、胸像と大鏡の間の隠し扉がそれですが」
ご案内しましょう、とメイド長は先を切って歩き始めた。足の弱いパチュリーのためなのか、心持ちゆっくりとした歩みだ。
廊下の窓からは、昼になりかけの太陽が燦々と輝いているのが見える。例年ならそろそろ白い初夏の香りが漂い始めるころだが、フランドールの霧の魔法のせいでその兆しすら感じられない。まるで世界の全てが黄昏の中にあるようだ。
「小悪魔の奴がさ」
パチュリーが口を開いた。結構な齢を重ねた魔女といっても、ふたりきりでの沈黙にはすぐに耐え切れなくなるあたりが、いかにも少女である。
「ついさっきよ。私のところに嬉しそうに駆け寄ってきたと思ったら、こう言ったの。『パチュリー様、レミリアお嬢様に技を教えて頂きました』って」
「技、とは」
振り返らなかった咲夜だが、パチュリーの話には随分興味をそそられていた。今までのレミリアならば、誰かに何かを教えるなどということはしなかっただろう。二日間の特訓を経て、彼女の中で何かが芽生えたのかもしれない。
「それが驚くじゃない。ほら、あのレミィが得意な、妖力を大きく膨らませる系統の魔弾よ」
「あぁ、あの。しかし、あれは小悪魔にとっては消費が激しいのでは?」
「その辺は上手く抑えられるようアレンジしたらしいわ。無駄なところで器用よね」
単なる戦闘であれば、大弾はその威力の高さに物を言わせた決戦武器となる。しかし被弾の回数によって勝敗が決まる弾幕ごっこに関して言えば、威力の大小に意味はない。大きな弾を撃つことによって得られるメリットとしてはその当たり判定の大きさの他に、見た目の迫力で相手が委縮することが挙げられる。
「なるほど、シャボン玉のようなものですわね。中を薄くして形を保つあたり」
「それで、まぁ使い魔がお世話になったわけだし。こっちもレミィのために何かしてあげようかと思ったわけ」
ふたりは目指す隠し扉の前に着いた。咲夜が胸像に隠された釦を押すと、カコンと軽い音を立てて壁が外向きに開いた。下り階段が魔法灯に照らし出される。上から覗いても下の見えない真っ直ぐで急な階段に、パチュリーはうんざりした。
「足元、お気を付け下さい」
「これを歩いて下るなんて……。飛んでいくわよ、私は」
「それならそれで、壁にぶつかったりしないようご注意を」
「えぇ。ありがとう咲夜、ここまででいいわ」
ふわりと浮き上がった魔女が地下へと消えていくと、咲夜は扉をそっと閉めた。
「わぁお、パチェが私のところ来るなんて。明日はいいことありそうだわ」
「……どいつもこいつも」
パチュリーが部屋に入ったときには、もうフランドールは寝間着姿だった。吸血鬼にしてみれば少々昼更かし気味な時間ではある。
「で、何しに来たの? もしかして、お姉様じゃなくてパチェが私を倒しに来たとか?」
「あら、そんなこと ――」
歩み寄りながら、パチュリーは自分の袖から、その紙片を取り出した。既に魔力を十分に込められていたその札は、力を解き放たんと眩く輝いていた。
「―― あるわよ?」
≪土&金符「エメラルドメガリス」≫
魔女の宣言と同時に、翠色の奔流が出現する。始めに飛沫のような無数の小弾が四方に飛び散り、やがて一際に輝く巨大な弾丸が、フランドール目がけて押し寄せた。
しかし第一波がベッドに触れようかというときには、もうそこに部屋の主の姿はない。
「あはははは! いいねぇパチェ、そういうお行儀が悪いの、嫌いじゃないよ!」
笑うフランドールの声は、ほとんど真上から聞こえてきた。回避のために、一瞬で天井近くまで高く飛び上がったのだ。天井を背にされては、弾幕の迫ってくる方向が限定されてしまう。
フランドールの脚をかすめた弾が、天井に呑み込まれるように消えていった。パチュリーは舌を打つ。
「ちょこまかと……ッ!」
突如、裂かれた枕から雪のように羽毛が舞った。部屋に入ったとき、内壁や家具に防護魔法は張り巡らせたはずなのだが、寝具には手を回し損ねていたようだ。
そして綿毛の向こうで、フランドールが得意げに自身のスペルカードを取り出す。
「じゃあさ、こういうのはどう?」
≪禁弾「カタディオプトリック」≫
フランドールから青い閃光が走ったかと思うとすぐさま、まるで流星群のようにいくつもの大弾が降り注いできた。それは光跡のように細かい弾をばらまきながら、猛スピードでパチュリーを打ち倒さんと迫る。らしからぬ俊敏な動きで、魔女はそれを回避する方向に動いた。フランドールと同じように、壁を背にするつもりだった。
しかし、パチュリーの思惑通りには行かなかった。青い弾幕は壁に当たっても消えることなく、そこから反射して襲い掛かってきたのだ!
「なっ!?」
眩い光と甲高い被弾音が、彼女の敗北を告げた。為す術は無かった。
星の坩堝の只中の様相だった地下室が、それを合図に一瞬で静まり返る。嵐の空白を埋めるように白い羽毛が舞い散った。それはふたりがかき乱した部屋の空気に乗って、煙のようにいつまでも漂い続ける。
「あはっ、パチェ、まだまだだね」
その中を、フランドールはゆっくりと降りてきた。虹色の歪な羽を背負ったその姿は天使のようにも見えた。裸足のままで音もなく、羽根の散らかった絨毯の上に着地する。きっと明日は、この部屋を掃除する咲夜が悲鳴を上げることになるのだろう。
「……私と貴女、弾幕ごっこ歴はそんなに変わらないはずなんだけれどね」
「そこはほら、才能の差?」
嫌みたっぷりの台詞を邪気の無い笑顔で言い放つことができるのも、妹様の立派な才能であった。その態度にいかにも辟易したというように、パチュリーは肩を竦める。
「ま、分かってたわよ。私じゃ貴女を止められないことくらい」
「負け惜しむんならもうちょっといい文句があると思うけど」
用は済んだ、とばかりに、パチュリーはもう扉に手を掛けていた。その背中に、フランドールはひとつ問うた。
「ねぇパチェ、貴女もお姉様に付くの?」
扉が重い音を立てて開いた。
「……当然でしょう。フラン、貴女は自分が何をしているか分かっていない」
「理解しているわよ。私は異変を起こす。そして誰かが来るのを待っている。ずぅっとね」
「だから浅はかだというの」
フランドールの眉がぴくりと動いた。彼女の眼前で、羽根がひと欠片弾けて散った。
「おんなじなのね……。おんなじことを言うわ、あいつも、美鈴も、咲夜も」
「そう。それが同じに聴こえるうちは、貴女もまだまだだわ」
振り返らずに、魔女は地下室を後にした。ひとり立ち尽くすフランドールの周りを、解けない雪が澱のようにいつまでも舞い続けていた。
「―― なぁんて。私も随分な大根役者だわ」
長い階段を飛んでいくパチュリーの手には、術式を組み込んでいた二つの石が握られている。眩かった魔法の輝きも、もう力を解放しきって消え失せてしまっていた。
彼女の目的は、二つの魔法を地下室に組み込むことだった。ひとつは、フランドールの元に侵入者が辿り着いてしまったときに、パチュリー自身をその場へ転移するための術。もうひとつは、万が一フランドールが紅魔館の外へ出てしまったときに、それを感知して館の周囲に雨を降らせる魔法だ。
フランドールの予想外の強さに、魔術を仕掛けるために想定していた時間を稼ぐことはできなかった。だが手の中の石を見る限り、二つの術式はきちんと作動している。何かがあった時の保険に過ぎない措置ではあるが、何もしないよりはマシだろう。
「あとはもう、レミィに頑張ってもらうしか……けほっ」
先程から咳が止まらない。どうやら舞い散った羽毛をしこたま吸い込んでしまったようだ。
もうしばらくは呪文詠唱もまともにできないわね、と思いながら、魔女は懐かしき自分の塒へと一直線に飛んだ。
◆ ◆ ◆
「……美鈴が負けた?」
メイド長の報告に、レミリアは眉を吊り上げた。
紅魔館の主の寝室は、豪奢なシャンデリアによって華やかに照らし出されている。館の最上階にあるため、紅い霧さえなければ黄昏と暁の光に浮かぶ湖がよく見える。
「はい。今日襲来したのは、巫女ではなかったようですが」
「じゃあ誰なのよ」
「人間だが、箒に乗っていて魔法使いのようだった、と」
椅子の上で脚を組み、レミリアは唸る。異変を鎮めようという人間がもうひとりいるというのは、あまりよろしいニュースではなかった。
しかし、咲夜がここで取り乱した様子もなく報告に来ているということは。
「パチェが追い払ったってわけね」
「左様でございます。図書館での弾幕勝負に、パチュリー様がなんとか勝利されました。賊は退散したとのことです」
直立不動のまま咲夜は奏上した。
今に侵入者は、紅魔館の深くまで斬り込んでくるようになる。残された時間はほんの僅かだった。おそらく、フランドールとの対峙の機会は一度きりになるだろう。
「ま、負かしてやったんならそれでいいわ。早いところ今日の特訓に入りましょ」
「それでは畏れながら、本日はこの咲夜めがお嬢様の講師を務めさせていただきます」
スカートの裾をつまみ、咲夜が優雅な礼をした。
レミリアも立ち上がり、真似っこポーズで礼を返して見せる。すると咲夜は石でも呑み込んだ様な顔をして固まった。
「何よ。さっさと始めましょう? 時間あんまりないんだから」
「……失礼いたしました。それでは」
軽い咳払いとともに姿勢を正した咲夜は、腕の一振りでどこからかナイフを取り出した。
「本日は、これを練習して頂こうかと」
「投げナイフ? それなら私だってできるわよ」
流石にレミリアの顔には不満の色が浮かんだ。力技を得意とするレミリアにとって、刃物の投擲なんざ朝飯前である。百メートル離れた相手の眉間を寸分違わずに撃ち抜く自信があった。
「まぁ、ひとつまずはご覧ください」
ナイフを握った咲夜がレミリアに背を向けると、いつの間にかその前方には巻藁が立てられていた。きっと時間を止めて、的代わりに準備したのだろう。洋風の部屋には全く馴染んでいなかったが。
「―― はっ!」
気合一閃、流れるような動作で咲夜がナイフを投げる。
刃が手を離れた次の瞬間だった。投げられたナイフは一気に数十へと分裂したのだ!
「おぉー……」
感心するレミリアの前で、増殖したナイフ達は巻藁へと殺到した。機関銃のような音を立てながら、ひとつ残らず的に突き刺さる。
思わず手を叩くレミリアへと咲夜は向き直り、再び裾を持ち上げ一礼した。
「まぁこんなものですわ」
「凄いけど、それ貴女の時間停止能力の応用じゃなかったっけ?」
時空を超えて飛び回る人間離れしたメイド長は、別の時間軸から物を持ってくるなどという離れ業も涼しい顔でやってのける。主にその能力は紅茶に入れる砂糖を切らしてしまったときなどに利用されるが、もちろん飛刀用のナイフを無数に拝借してくることも可能だろう。
便利な能力であることには間違いないが、あくまでこれは咲夜固有の力だ。レミリアがホイホイと学び取れるようなものではない。
「確かに、そうやってナイフを調達することも可能です。しかしこれはそうではありません」
あちらを、と咲夜が掌で指した巻藁を見ると、無数に刺さっていたはずのナイフは消え失せている。いや、ちょうど眉間に当たりそうな体中線の上あたりに一本だけ残っていた。
「本物のナイフはあの一本だけ。あとは全部、魔力を具現して作り出した虚像なのです」
咲夜は右手にもう一本ナイフを取り出した。そして左掌を上に向けると、ほどなくしてそこに全く同じ形のナイフが現れた。それは重力に引かれることなく、その場所で浮遊し続けている。質量をもたないエネルギー弾であることの証左だ。
「成程、器用なもんね。いかにも弾幕ごっこらしいテクニックだわ」
「というか、弾幕勝負でくらいしか使えませんが」
いきなり無数のナイフが出現すれば、相手は一瞬とはいえ驚くだろう。そして須臾の差が命取りとなる弾幕勝負では、その隙が好機となる。
「理屈は分かったわ。で、私は何を練習すればいいの?」
「飛ばすのは普通の弾と同じですから、少しでも早く成形する練習が必要です。例えば」
咲夜が右手のナイフをしまい、机の上にある花瓶を手に取ると、間もなく左手の弾は同じ花瓶の形をコピーした。ヘッドドレスを手に取ればヘッドドレスへと、本を手に取れば本へと、次々に形を変えていく。
レミリアは舌を巻いた。このメイドの器用さは知っていたが、ここまで無駄に達者だとは思わなかった。
「このように、手に持ったものをすぐに具現するような練習が効果的ですわ」
「ナイフの形だけ覚えちゃえばいいんじゃない? 花瓶やら本やらの弾は撃つつもりないんだけど」
本の弾幕など、パチュリーならば喜んでブチかましそうな気もするが。
「いえ、それではいざという時に記憶が混濁してしまいます。ましてや時間が足りない現状では、そのような技は付け焼刃にすらならないでしょう」
「つまり手本をひとつ持っておいて、それを基に複製する方が確実という訳ね」
「お察しの通りです」
主が答えに辿り着いたことを喜んでか、咲夜は微笑む。対するレミリアは少し苦い顔をした。
自慢ではないが、不器用さにかけては自信がある。大抵のことは力技で押し切ってきたレミリアにとって、小手先の技術が必要となる場面などほとんどなかったからだ。
弾の形を変化させるというのは、そんな彼女にとって結構な高等テクニックだ。いや、グングニル云々の技も作ってしまったが、あれだって魔力を棒状に凝縮して投げつけてるだけだし。細部の装飾や質感まで再現するなんて、考えただけで面倒くさいではないか。
しかしまぁ、自分に足りないものを補うための特訓である。流石に三日目ともなると諦めは早かった。
「そうと決まれば、さっそく練習に入りましょ」
「はい。すでにいくつかコピーの練習となりそうなものは見繕ってありますので」
レミリアは椅子へと腰掛けながら、咲夜と同じように左掌の上に弾を浮遊させる。そして右手を差し出した。
「では、まずはこちらから」
その右手に、メイド長はどこからかそれを取り出し、置いた。
むにゅっ。
「……むにゅ?」
心なしかひんやりとしたその感触に、レミリアは思わず手に乗ったそれを見た。
「大福餅でございます」
「なん……だと……」
吸血鬼の目が驚愕で見開かれた。
何を隠そうこのスカーレット家当主、甘いものには目がない。その甘党っぷりは、血液と砂糖さえあれば生きていけるのではないかと妖精メイドに噂されるくらいだ。レミリアが少食のくせにお八つを食べ過ぎてしまい、その次の食事が入らないことなど日常茶飯事であり、その度に咲夜は困り顔をする。
だがしかし、咲夜は今回その嗜好を逆手に取った。真似る物がお菓子であれば、レミリアのモチベーションも格段に上がるに違いないというわけだ。
そしてもちろんメイド長の策略はそれに留まらない。
「合格したら、そちらをお召し上がりいただいて結構です」
「ホント!?」
「今日はこの他にも、様々なスイーツを用意してございますので」
咲夜がぱちんと指を鳴らすと、妖精メイドが大きな台車を押してきた。その上には宝石と見紛うほど色とりどりの和洋中のお菓子たちが、整然と並べられている。
レミリアの瞳に星が輝いた。文字通りに餌で釣る作戦であった。
「こ、これ全部食べていいの?」
「勿論。きちんと複製できましたら」
ふぉおおおお、と頬がゆるゆるになっている主に、咲夜はきちんと釘を刺した。刺された方はそれに気づかずしばらくにへらにへらしていたが、正気に返るときりっと眉を引き締めた。
「……おほん。調達ご苦労だったわ咲夜。じゃあやってみましょう」
「お嬢様、よだれが」
咲夜にナプキンで口元を拭いてもらってから、レミリアは左手へ意識を集中する。
何だか簡単にできそうだった。第一歩目が大福というのは、きっと球形に近いからだろう。通常、特に意識をしなければ弾は丸くなるものだ。まずは加工しやすい形から初めて、徐々に難しくしていく算段に違いあるまい。
数分ほどして、レミリアの左手の弾は扁平な球形に変わっていた。餅の白い色も、重力による潰れ具合も、なかなか上手く再現できている。
「どう、咲夜? 文句のつけようがないでしょう? まぁ一発目だしね。これっくらい楽勝よ、楽勝」
ふふん、と鼻を鳴らしながら、レミリアの頭の中はすでに甘ぁい餡子のことで一杯である。
「ふむ……」
主の掌を様々な角度から見つめながら、咲夜は少し思案した。やがて何を思ったのか、人差し指でコピーした大福をつつく。
当然のことながら、弾は甲高い音とともに炸裂した。レミリアは絶句した。
「ちょっ……」
「ダメですね。大福のもっちり感が再現できていません」
「弾幕に触感って重要!?」
「重要です。さぁ、もう一度」
咲夜が何を言ってるのか分からない。もっちりした弾幕って一体何だ。全く納得できないが、しかし不合格を言い渡されてしまったからにはやり直しである。多少の理不尽も、甘味の為なら我慢だ。とにもかくにもまず大福をクリアしないと、後に控える様々なスイーツにはいつまで経ってもあり付けない。
「くっ……。もっちり……もっちり感……」
どうすればいいのか見当もつかないが、とりあえずもっちりもっちりと呟きながら力んでみた。
ぴちゅーん。
「ダメです。もう一度」
「く……」
勿論そんなことで完成するはずもなく、二度目の挑戦にも敢え無く失敗した。愛しい愛しい大福が、段々と憎らしく見えてきた。おのれ、こうなったら貴様を精一杯惨たらしく食い散らかしてやるからな。餡子でベタベタにしてやる、口周りとか。
おかしなスイッチが入り変に張り切るレミリアであったが、三回目、四回目と立て続けにダメ出しを喰らう。咲夜が触れた途端、どうやっても弾が弾けてしまうのだ。
「……そういう咲夜は、できるんでしょうねコレ?」
「もちろんです。ほら」
「どれどれ……。うわ、ホントにもっちりしてる!」
このメイド、一体何で出来ているんだろう。
「お嬢様。ひとつ大事なことを見落としていらっしゃいます」
「……大事なこと?」
訝しげな目を向けるレミリアに、いつもの涼しい微笑で咲夜は告げる。
「大福の何たるか、大福は如何様にして成り立っているか。それを理解しなければ、複製することなど叶いません」
「何たるか、って……」
そんなもの決まっている。大福は和菓子で、餅と餡子から形成されている。もっちりとした感触は、そのオノマトペが示す通り外側の餅が作り出すものだ。餅米をふかして、搗いて、こねて ――
「あ」
ふと思い当り、レミリアは再び魔力を展開する。今度は只の弾ではない。形成する前に、空中でよく揉んでおく。餅と同じように作ってやれば、もしかしたら同じ感触が得られるかもしれない。
魔力の形成など、けっこう思い込みで何とかなるものだ。術者の精神に思いっ切り依存するこれらの技は、信念が強いほどに力も増す。単純な思考回路を持つレミリアにしてみれば、搗いてこねれば柔らかくなるという常識は餅にも魔力にも共通なのだ。
もはや藁をも縋る気持ちで、レミリアは五度目の審査に挑んだ。
「……………………」
目を細める咲夜。見た目はもう完璧なはずだ。
続いて指で突く。すると咲夜の人差し指が、見事に弾の中へと沈んだではないか。メイド長は満足げに頷いた。
「おめでとうございます。合格ですわ。それではどうぞお召し上がりください」
「や、やった! いっただっきまーす」
思わず立ち上がったレミリアは、その勢いで大福餅に齧り付いた。舌の上を甘味がぶわっと広がる。予想はしていたが、やはり咲夜のお手製のようだ。一度本気を出せば人里の甘味屋が泣いて土下座するとまで言われる咲夜の腕前は本物である。普段から慣れ親しんでいるレミリアだからこそ、口にしたその瞬間に理解できるのだ。
行儀をどこかに置き忘れたレミリアは、すぐに大福を完食した。
「さぁ、この調子でドンドン行くわよ! 次持ってきなさい、次!」
「では」
続いて咲夜がレミリアの掌に乗せたのは、ガラス皿に鎮座する赤が鮮やかなストロベリー・ゼリー。輪切りのイチゴが見た目のいいアクセントだ。
「これは……このぷるぷる感を再現しなければいけないというわけね」
「それだけではありません。この器まできちんと複製して頂きます」
「固いものと柔らかいものを同時に……。難題ね」
冷たい皿の感触を感じながら、レミリアは考えた。皿は大丈夫だ。細部の再現は面倒だがやりようはある。となると、問題なのはやはりゼリーの部分。餅なら搗いて作ることは知っていたのでいいのだが、ゼリーってどうやって作るんだっけ。
「えっと、冷やす?」
うろ覚えの知識をもとにとりあえず冷やしてみた。周囲の空気から水分を奪うことで熱を下げる。以前漫画見た技を見よう見まねでやってみたら、咲夜が何故か目を輝かせた。
何とか形作ったそれを咲夜が再びつつく。最初のように炸裂こそしなかったものの、メイド長は首を横に振った。
「ダメですね。アイスクリームになっちゃってます」
「やっぱり?」
レミリアの中では、冷やしたらアイスが完成するという意識の方が上回っていたのだ。
その後も、冷やし方を急にしてみたりゆっくりにしてみたり、様々な方法を試すものの、ゼリーの感触は得られなかった。見かねた咲夜が、再びのヒントを出す。
「お嬢様がいまお作りになっているものは何ですか?」
「え、ゼリーでしょ?」
「違います。弾です。その点をお忘れ無きよう」
ゼリーの複製をさせておいてゼリーを作るなとは、これまた難解な謎かけだ。一体何で作れというのか。
「プランBはいくらでもある、ということでございます」
プランB、すなわち代替案。
要はゼラチンの要領でやろうと思うからできないのである。弾で複製したものなんて所詮食べられないのだから、見た目と感触だけが合っていればいいのだ。食品サンプルみたいなもんである。
しばらく考え込んでいたレミリアだったが、やがて代替物に思い当たったのか、神妙な顔でもう一度弾を作り出した。
咲夜がつついてみると、それは見事な弾力をもってぷるるんと揺れた。咲夜はにっこり笑って頷く。
「流石です、お嬢様。何をお考えになったので?」
「いや、まぁ、その……」
しかし何故だかレミリアは、口を濁して目を逸らした。咲夜はしばしきょとんとしていたが、レミリアに「もうこれ食べていい?」と聞かれると我に返り、次の菓子を準備した。
常日頃から妄想していた「大人になった自分の胸部」をモデルにしたとは、レミリアは口が裂けても言えなかったのだ。
「さて、三番目はこちらになります」
咲夜が台車から選び出したのは、定番中の定番スイーツ、ショートケーキ。
レミリアの喉がごくりと鳴った。
咲夜のケーキは世界を征服できる、と紅魔館女子たちは割と真剣に信じている。どこで身に付けたのかは知らないが、彼女の腕前は伝説級だ。食事など必要ない、と嘯いていたパチュリーが紅魔館の食卓に着くようになったのも、咲夜のケーキを口にしてからだった。強いて欠点をあげるとすれば、咲夜がケーキを作る機会が滅多にないことだろうか。一説にはその余りの美味しさのせいで戦略兵器としての有用性が認められるため、過度の供給は自粛しているのだとも言われている。
「そのケーキが、今ここに降臨した……」
「大げさです。単に手間がかかるというだけですわ。それよりお嬢様」
咲夜の強い瞳が真っ直ぐにレミリアを見つめる。
「ショートケーキにおいて大切なもの、分かっておいでですね?」
「もちろんよ。ケーキは、ふわふわしていなければならない」
それはこの世の数少ない真理のひとつである。
しかも、ただふわふわしていればいいというものではない。ホイップとスポンジのふわふわは全く違う。片や溶け込むようなクリームの感触、片や包み込むような生地の手触りだ。似たようで異なる二つを再現しなければならないショートケーキは、これまでの練習と比べてもレベルが一段違う。
しかしレミリアは、もう迷わなかった。
「見てて咲夜、今度こそ ――」
まずは手始めに、ケーキを乗せる皿を形成する。
次はスポンジ部分だ。ゼリーと同じく作り方は知らないので、身近にある近い感触のものを探す。包み込むようにふわふわしたもの。ほら、この部屋のすぐ側にあるじゃないか。眠りの最中自分を包んでくれる、あの大きなベッド。あれをお手本にしよう。
最後に生クリーム。魔力をめいっぱいかき混ぜて撹拌する。空気と十分に混ぜ合わせ、細かい無数の泡を作るイメージだ。煙のように広がったそれを、ふわりとスポンジに重ねてやる。
流れるような行程で、弾幕ショートケーキは完成した。
「……………………」
魔力で模られたそれを、咲夜は無言のまま見つめる。そしてフォークを取り出すと、頂角にある一口分を切り取った。抵抗らしい抵抗もなくケーキに切れ目が入り、やがて皿に当たってかつんと止まる。
咲夜の顔がほころんだ。
「お見事でございます。まさか一回目で成功なさるとは」
レミリアは右手にある本物のケーキをテーブルに置いた。しかしそれをそのまま口にはせず、ずいと右手を咲夜に差し出す。
「咲夜。ナイフ、貸して」
「……かしこまりました」
巻藁から回収しておいた投擲用ナイフを、咲夜は主に手渡した。レミリアはそれを握ると、椅子から立ち上がり巻藁に相対する。
「思い返せばさ、この三日間は、新鮮なことばかりだったわ。誰かに教えを乞うなんて、初めてのことだったから」
後ろに立つメイド長を、レミリアは振り返らない。しかしその声は、とても力強く響いた。
「最初にパチェが言い出したときは、『どうしてそんなことを』って思ったけど。今は、やってみて良かったって思うわ」
二本の指で、刃が掌側を向くように握り込む。レミリアの右手がゆっくりと肩越しに挙げられていく。
「フランにこてんぱんにされたとき、正直かなり落ち込んだ。あの娘の強さは知ってたつもりだったけど、あそこまで絶望的に負けるとは思ってなかったからさ。だからもう、ずっと勝てないんじゃないか、って」
その手は耳の後ろ辺りでぴたりと止まった。投擲寸前の姿勢で的を真っ直ぐ見据えたまま、レミリアは続ける。
「でも、今は違う。皆の言葉が、私の中で生きてるのを感じる。美鈴も、パチェも、小悪魔も。そして ――」
右手が、神速で振り下ろされた。
ナイフがレミリアの指を離れる。その瞬間、飛刀を取り囲むように無数の刃が現れた。ひとつ残らず狙い違わず、全てのナイフが巻藁へと殺到する。
そして、大きな太鼓を強く叩いたような音が響いた。
「―― 貴女もよ、咲夜」
的の巻藁は、見事な針鼠となっていた。
レミリアの中には今、自信が満ち溢れていた。皆に教わった技。三日間で自分のものにした弾幕をもってすれば、誰にも負けるはずがない。もはや自分の勝ち名乗りが聞こえてくるようですらあった。
咲夜が手を叩く。一人きりのスタンディングオベーションは、レミリアの耳にかつてないほど心地よく染みた。
結局その後も練習は続き、夜が明けようというころに台車は空っぽになった。
それを見て、咲夜は満足げに頷いた。
「では、本日の特訓は終了させて頂きます。お嬢様がこれほどまでに上達が早いとは、全く予想外でしたわ」
「ありがと」
レミリアは椅子の上で背伸びをした。流石に細かい作業ばかりだった今日の練習は、使ったことのない筋肉を多分に使ったようだ。でもその疲れも、何だか心地よい。
「今日はごゆっくりお休みいただいて、フランドール様の元へ行かれるのは明日にいたしましょう。それまではこの不肖十六夜咲夜、この身に代えても賊は通しません」
「えぇ、お願いね」
メイド長の言葉は頼もしかった。いつだって、咲夜の言葉に嘘はない。
「ただお嬢様、最後に僭越ながらひとつだけ」
深く腰を折り、咲夜は続けた。
「この三日間で、お嬢様は三つの技を修められました。しかし最後にお嬢様を助けるのは、きっとご自身の技や力になると、私は思います」
「……え?」
レミリアは言葉を失ってしまう。今日まで自分が学んできたことは、自分が強くなるための糧ではなかったのか。
「私どもが教授して差し上げたものは、あくまでお嬢様に新しいインスピレーションを与えるきっかけに過ぎません。それを過信しすぎてしまいますと、逆にお嬢様の身を滅ぼしてしまうでしょう。誰しも最後に信じるべきは、自分自身の持つ力です」
顔を上げ、咲夜はレミリアに微笑んだ。
夜は明け始めている。射し始めた陽の光が紅霧を照らし出す。それは昨夕よりも、さらに濃さを増しているようだ。
幻想郷を埋め尽くさんとしているのはただの魔法ではない。フランドールがその胸をかち割って溢れさせた悲痛である。それを止められるのは巫女でも魔法使いでもない。この宇宙にたったひとりだけ、このレミリア・スカーレットだけなのだ。そしてそのために、レミリアは強くならなければならなかった。
しかし、強さ。強さとはなんだろう。それは数字に表せるものではないし、一度や二度の勝敗だけで決まるものでもない。この三日間で、それが自分に備わったのだろうか。
「ねぇ、咲夜」
「何でしょう」
「私、フランに勝てるわよね?」
「お嬢様がそう願うなら、必ずや」
咲夜の表情は揺るがない。敬愛すべき主を、信じているからだ。
そう思い当たったときに、レミリアはようやっと理解した。
「そうか。そういうことなんでしょうね、きっと」
「?」
「何でもない。もう寝るわ」
レミリアは咲夜を促し、部屋に備え付けられている小さな浴室を目指した。就寝前に軽く湯浴みをするのが毎日の習慣だった。
強さとは、きっと信じることなのだ。手のつけられないほどのフランドールの力は、底なしに自分を信じ切っているからこそ出せるものなのだろう。
ならばこちらは、自分のみならず、紅魔館の皆をも信じよう。技だけではない。彼女たちが与えてくれている全てを信じよう。そうすれば個人戦の弾幕勝負だろうと、いつだって一緒に闘える。
「決めましょう、明日で。全部をね」
ここ数日が嘘のような晴れやかな顔で、レミリアは微笑んだ。
◆ ◆ ◆
ごく稀に、気象や光線の具合で見ることのできる真紅の月が、レミリアは好きだった。夜にだけ輝く血のごとき光。まさしく自分のために存在するようなものではないか。
日の入りを待ち構えていたかのように上る満月を窓から見上げ、吸血鬼は独りごちた。
「今日の月は、幸運の印かしら。それとも……」
その先は言葉にならなかった。
今まさに心臓から飛び出したかのように紅い満月は、フランドールの作り出した霧のせいで染まっているのだ。その元凶をこれからぶっ飛ばそうというのである。月が勝利に微笑むのはどちらか片方で、その相手が生みの親ではないとする根拠はどこにもなかった。
運命が複雑に絡み合っているのが見える。自分の支配下にあるはずのそれは、大蛇のようにのたくって暴れ、もはや手に負えない。
フランドールのいる地下室への入り口の前で、レミリアはしばし立ちどまった。見送りはない。他の面子は全員が巫女と魔法使いの迎撃に向かっている。その二人は、話を聞く限りなかなかの実力者であるらしい。流石に異変の解決役を自ら買って出るだけのことはある。
だがこちらにも人間規格外である咲夜がいるし、パチュリーと美鈴も実力者だ。小悪魔にはレミリア直々に技を教えてやったし、妖精メイドたちだって力はないが元気とやる気ならそうそう遅れは取るまい。
背後は預けた。あとは、前に進むだけだ。
「……調子狂うなぁ」
人差し指でぽりぽりと頬を掻く。思い返してみると、こんな風に誰かと共に闘うなんて経験は今までなかったように思う。誰かを信じることをしなかったレミリアは、いつだってひとりで闘ってきた。生まれ持った力だけを武器に、近づく者はみな潰すか喰らうかして生きてきた。フランドールを護るためと自分に必死に言い聞かせながら。
しかし紅魔館に皆と住むようになって、退屈な日々に愚痴をこぼしながらも、実は心のどこかで気づいていたのかもしれない。本当に求めているものは、こんな風な誰かとの安らぎだったことを。そしてフランドールをその相手として見ることができていなかった自分に後悔していることを。
だから、これはけじめだ。独りよがりに守ってきたせいで増長した妹を、他の誰でもない自分が打ち倒す。何ひとつとも向き合ってこなかったレミリアが、この世界で生きていくための通過儀礼なのだ。
「待ってなさい、フラン」
隠し釦を押しこむ。壁がころころと開いた。魔法灯に火が灯り、地の底に続いていそうな階段が現れる。禍々しい、しかしどこか楽しげな気配がレミリアを包んだ。フランドールも、姉の突入に気が付いているのかもしれない。
羽を広げて浮き上がり、一直線に地下室を目指す。小さな体躯はすぐにトップスピードに乗り、弾丸のように飛んでいく。
レミリアは思う。この四九五年間、フランドールにはずいぶん可哀想なことをした。全て片付いたら、目一杯あの娘と遊んでやろう。幻想郷ならば、それも受け入れてくれるに違いないのだから。
「わぁ、本当に来たんだ、お姉様」
さしたる感動もなく、部屋を訪れた姉にフランドールはただそれだけを言った。ベッドに座り込んだまま、手元で何かをいじっている。三つの輪が重なったようなそれに、レミリアは見覚えがなかった。しかし濃ゆい妖力がそこからだだ漏れになっているので分かる。あれこそが彼女の魔術の核を成す道具なのだ。
「……フラン。私が何をしに来たのか、分かっているわよね?」
「化け物退治、でしょ」
扉から一歩だけレミリアが踏み出と、フランドールはベッドから両足を揃えて飛び降りた。
「あはっ、ワクワクするなぁ。ねぇ、この異変を止めに来てるのはお姉様だけじゃないんだよね? 隠してたって分かるよ。ここに迫ってくる気配を感じるもの」
フランドールの周りに衛星のような光が現れる。スペルカードだ。全部で五枚のカードが、彼女を護るようにくるくると回っていた。
「いいわよ、お姉様。何度だって受けて立ってあげる。さっさと始めようよ」
顔に浮かぶのは余裕の笑みだ。自分が負けることなど、微塵も考えていないのだろう。
レミリアも同じ数だけのカードを取り出し、宙に浮かべる。それらは壁のように整然と並び、ぴたりと静止した。
「被弾数は?」
「……二回」
「え、それだけでいいの?」
フランドールはくすくすと笑った。姉の自信が、よほど可笑しくて仕方がなかったようだ。
「勝負になるかなぁ? ……あ、そうだお姉様。じゃあハンデをあげる」
「ハンデ?」
「お互い二回当たったら負け。だけど私はもう一つ」
フランドールは、ベッドの上に転がっていた魔具を手に取った。
「これをお姉様に取られても、負けを認めるわ」
鈍く輝くそれを、ひらひらと振って見せる。
完全に虚仮にされた格好のレミリアだが、その闘志に揺らぎが入ることはなかった。心が透き通ったままであることに自分でも驚きながら、妹に言葉を投げかける。
「問題ないわ。すぐに沈めてあげる。だけどひとつだけ、貴女に言っておかなきゃいけないことがある」
地を蹴ってふわりと浮かび上がりながら、レミリアは続けた。
「私の目的は、あの人間たちとは違う。貴女の異変を止めにきたわけではないわ」
「……え? じゃあ、何だっていうのよ」
フランドールは怪訝そうに姉の顔を見返す。
ばさり、とレミリアは黒い羽を思いっ切り広げた。
そして牙を剥き出しにした、悪魔の名に相応しい壮絶な笑顔でフランドールを睨みつけた。
「貴女の紅霧異変、このレミリア・スカーレットの名に於いて、私が奪い取る! 恨むのなら、過ぎた力を生み出した自分を恨みなさい、フラン!」
反論しようと口を開いたフランドールを無視し、レミリアは一番右のカードに拳をぶつける。するとカードが輝いて、込められた力の全てを解放した。
≪天罰「スターオブダビデ」≫
紅の閃光が眩く部屋を満たす。その光はすぐに線へと収束した。乱れ飛ぶビームが、部屋の中のあらゆるものを貫いた。絨毯は抉れ、机の脚は粉々になる。今日は内装や家具を守る魔法はないのだ。
一秒毎に軌道を変える光線に、フランドールも回避を余儀なくされる。
「……少しは本気なんだね。じゃあこっちも行くよ!」
すぐ脇を光線が掠めたことを確認すると、フランドールも周回するカードの一枚を指で弾いた。
≪禁弾「スターボウブレイク」≫
七色の光の洪水が、レミリアの眼の前に湧いて出た。そして加速しながら真っ直ぐに迫りくる。極彩色の波状攻撃は三度、四度と地下室を遍く洗い流した。
前回の勝負で姉に止めを刺した、フランドールお気に入りのスペルである。
「あははははっ! この前みたいにすぐへばっちゃわないでよ! こっちも冷めちゃうからさぁ!」
自分を串刺しにせんと何度も発射されるビームをすれすれで避わしながら、フランドールは高らかに笑った。
いまやフランドールの部屋は完全に二分されている。片や紅の光線が埋め尽くす檻、片や七色の弾で飽和した海である。もはや空間芸術の展示室だ。作品は、相手を撃墜するためだけに作り出された、決して同じ様を見せることはない弾幕という言霊。
それを避けるふたりの様子は対照的だった。細かく最小限の動きで回避するレミリアに対し、フランドールは弾と弾の間を素早く見つけそこに飛び込んでいくのだ。
飛び交う弾幕と飛び散る瓦礫の音を掻い潜って、フランドールの楽しげな声が聞こえてくる
「うん、前よりは保ってるじゃない。練習のおかげかな。してたんでしょ、特訓? 」
視界は光に埋め尽くされて、相手の顔を窺うことはできない。しかし今のフランドールは、この上なく意地悪な表情で言葉を紡いでいるに違いなかった。
「美鈴もパチェも咲夜も、ホントいい迷惑だったと思うけど。でも仕方ないよね。お姉様ってばひとりじゃなぁんにもできないんだからさぁ!」
レミリアの頬を弾がひとつ掠った。
「それに失敗するとすぐヘコむし。いつも偉ぶってるのだって、自信と余裕の無さの裏返しでしょ? 私に負けた後だって、この世の終わりみたいな顔して塞ぎ込んでたりしてたんじゃない?」
フランドールの挑発に、頭へ血が昇っていくのが分かる。爆発してしまいそうな心を、しかしレミリアは必死で抑え込んだ。これは奴の策略に間違いない。こちらがキレて冷静さを失えば、被弾の可能性も格段に上がるという訳だ。
幾度目か分からない虹色の波をまたくぐる。そのとき、目の前で輝いていたカードがその力を失い、散った。こちらの最初のスペルが終わったのだ。
どちらかがミスをすれば、その瞬間に弾は一時的に全て消滅し、合図の音と光も発生する。それがないということは、フランドールはこちらの第一手を何事もなく切り抜けたのだ。
「あれ、もう終わり? 全っ然楽しくないよ、お姉様ぁ!」
「……言わせておけば」
臍を噛むレミリア。しかしこちらのカードが切れたということは、間もなくフランドールのカードも制限時間が来るはずだ。ひとまずはそれまで避わし切らなければならない。
「特訓したっていうから、どれだけ凄い攻撃が来るのかと思ってたけど。大したことないね」
そして最後の波を抜けた。
するとその先で、すでに次のカードを掴み取っていたフランドールが、ニヤリと口角を上げ、宣言する。
「つまんないから、さっさと墜ちちゃえ」
≪禁忌「カゴメカゴメ」≫
間髪入れずの発動の直後、白い弾で構成されたラインが何本も浮かび上がり、格子模様を形成する。垂直に交じり合った辺と面が、不揃いな直方体を切り取った。レミリアはその中に残された形になる。まさに籠目の中の鳥だ。
「これは……」
初見のスペルにたじろぐレミリアに、後ろの正面に浮かぶフランドールは右手を向ける。指鉄砲を作ると、人差し指をレミリアへと向けた。
「―― ばぁん!」
指先からは、本当に大玉が放たれた。檻を壊して破片を巻き込みながら、一直線にレミリアへと迫る。その間にも、壊れた隙間を埋めるように新たな壁が作り出されていた。
やはり弾に遮られてレミリアの姿は視認できないが、フランドールはその気配がする方向を読んで、次々と指鉄砲を撃ち込んでいく。だが姉も一筋縄ではいかないようで、被弾の合図がないまま刻一刻と時間が過ぎていった。
レミリアが粘れば粘るほど、フランドールは昂ぶりを感じた。それが何故だかはよく分からない。今まで自分を縛りつけてきた存在を手玉に取れるためか。それとももっと原初的な、獲物を手先でいたぶる肉食獣の快感があるからだろうか。
「ふふっ、まだかなぁ。まだお姉様墜ちないのかなぁ。―― あれ?」
その変化を、フランドールは敏感に感じ取った。
「……どこに行ったの、お姉様?」
レミリアの気配が消えたのだ。被弾音はしなかったので、墜落したのでないことは確かなのだが。
この地下室から逃げたとも考えづらい。入口がひとつしかないから、逃げられたらすぐにそれと分かる。
辺りを見回しながら思案するフランドールの視界の端に、自分のものではない弾の光が映った。
「―― ッ!!?」
刹那の反射でそれを回避する。視線を向けると、小さな弾の群れが壁をすり抜けるように飛んでくるところだった。フランドールは軌道を読もうと目を凝らす。
「やっぱりいるのね、コソコソ隠れるなんて、実にお姉様らしいじゃない」
どうやら、いくつかの地点から放射状にばら撒かれた弾のようだ。回避の難しい弾幕ではない、と判断したフランドールは、姉を探すために前に出ようとした。
その瞬間だった。
まるでフランドールの背後へと引力が働いているかのように、弾が軌道を変えて加速したのだ!
「―― ヤバっ!」
慌てて下がるフランドール。そのすぐ側を、今やほとんど平行になっている小弾の群れが通過した。とりあえず発射源と思われるポイントに、また何発か指鉄砲を撃ち込んでおく。
するとまた違う色の光が見えた。今度は炎だ。間違いなく一直線に、こちらに向かって飛んでくる。
意外な攻撃の連続だったが、フランドールからすれば難なく避わせるレベルのものだ。ただ、派手な攻撃をひたすらに好むレミリアにしては味気ない攻撃なのが少し気になる。
その後も小弾と炎弾が繰り返される単調な反撃が続いた。回避しながらこちらからも大弾を放つが、やはり当たらない。
「何なのよ、さっきから!」
レミリアの意図が掴めない上に姿が見つからないため、フランドールは苛立っていた。だが腹いせにまとめて指鉄砲を叩き込んでみても、事態は何も進展しない。
「あぁもう! どこなの、出てきてよ!」
「そう? なら、お望み通りにしてあげる」
姉の声が響いて、フランドールはとっさに首をそちらに向けた。
何かが高速でこちらへ向かってくる。黒い弾丸のようにも見えるそれに、フランドールは見覚えがあった。
「蝙蝠に化けて……そんなのアリなの!?」
「ルール違反だとは聞いてないわ。汚いかしら?」
レミリアはずっと小さくなった体躯で、籠目の網をすり抜けたのだ。人の姿では不可能な回避も、急制動の利くこの姿でなら容易い。
動揺するフランドールの眼前十メートルほどの位置で、レミリアは人型に戻った。そしてそのときにはもう、二枚目のカードが眩く光を放っていた。
「悪いけど私は今、勝つためなら何だってやるわよ」
≪紅符「スカーレットシュート」≫
先程とは桁の違う量と大きさと速さで、弾の塊が迫る。油断と懐疑で心が揺れていたフランドールの反応が、ほんの一瞬だけ遅れた。
ギリギリのところを飛んで避わす。第一波を何とか切り抜けたところで、すでに壁際に来てしまっていた。
ばら撒き弾ならば壁の側の方がやり易いのだが、狙い撃たれる大弾はそうはいかない。次は逆方向へと避けて行かなければ追い詰められてしまう。切り返すために、フランドールは壁を蹴った。
第二波が来る。しかし、レミリアは逆サイドから絨毯爆撃のように弾を放った。
「しまっ……」
その後悔はもう遅かった。最初の弾の残りとばら撒かれた第二波に囲まれて、フランドールに逃げ場はなかったのだ。
カウンターでスペルを発動する暇すらなく、大弾がフランドールの半身を通り抜ける。鋭い熱を感じた直後に、被弾を示す甲高い音が上がった。
「やった……っ!」
部屋の中に静寂が戻る。まさかの先制一本に、レミリアは小さく拳を握った。
対するフランドールは、直立したまま俯いている。指先に辛うじて、あの魔具が引っ掛かっていた。そして彼女の周囲を回る残り三枚のスペルカードは、まるで独楽鼠のように忙しない。
「あら、さっきまでの威勢はどうしたの?」
悪魔の笑顔を再び取り戻し、レミリアは妹を睥睨した。
「情けない妹ね。まさかもう戦意喪失? だったら拍子抜けだわ」
正直、レミリアにもあまり余裕はない。フランドールの攻撃はどれもこれも戦略兵器級で、少しでも気を抜けば敗北の未来しかないのだから。だが虚勢とその上塗りはレミリアの十八番である。自身の持つ力を何倍にも見せかけ見せつけることで闇を生き抜いてきたのだ。
それに対して、フランドールに精神面での耐性は皆無だ。伊達に五百年近く引き篭もっていた訳ではない。前回のように一方的な勝負ならまだしも、揺さ振りを受けると容易く崩れてしまうことはつい先ほど証明された。
地力では負けていても、腹の読み合いならばこちらに分があることは確かだった。
「この調子じゃあ、今度はこちらの完封勝ちになりそうね。がっかりしたくないのは私の方よ、フラン」
その言葉が届いたのか、フランドールが動く。
空いている右手で、周回する札の一枚を毟るように手に取った。怒りの気配がする。レミリアは身構えた。
「―― 何なのよ、一回当てたくらいでいい気になっちゃってさぁ」
二本の指で挟んだカードが輝きを増す。やがてそれは、超新星と見紛うばかりに光り始めた。相当量の魔力が注ぎ込まれている証だ。
「次からは、本気の本気よ。私は絶対に負けない。お前なんかに、負けてやるもんか!」
そして、光が爆ぜる。
≪禁忌「レーヴァテイン」≫
弾けた光は、再び集まって巨大な剣を作り出した。燃え盛るように紅いそれは、まるでフランドールの怒りをそのまま形で表しているようだ。
「はっ!」
気合一閃、フランドールが全速力で突撃を開始する。
レミリアも、自分の眼前の札から一枚を弾き出し発動する。あれはフランドールの持つスペルの中でも、近接戦闘に特化した術だ。当然こちらにも、それに対応する策は用意してあった。
≪神槍「スピア・ザ・グングニル」≫
光り輝く槍が、レミリアの手にも出現する。そのまま大上段で斬りかかってきた妹の刃をがっきと受け止め、ふたりは鍔迫り合いへと縺れ込む。それぞれの得物の接点からは、花火のような火花が散った。
フランドールの馬鹿力を、レミリアは何とか押し戻した。しかし息つく暇もなく、フランドールは滅茶苦茶に刃を振って襲い掛かる。全てをまともに受け止めては不利と判断し、レミリアは間合いを取るために飛んだ。それを追うフランドール。地下室は物騒な鬼ごっこの会場へと一変した。
「ちょこまかと ―― 逃げるんじゃ ―― ないわよ!!」
レミリアにとっては、フランドールの方から距離を取ったときがチャンスだ。このスペルは槍を投げることも想定して作られている。もう一度裏をかくことで、妹に二発目を食らわせられる算段は大きかった。
激しい攻防戦が続くが、両者ともに吸血鬼である。息が上がってしまうよりは、スペルの時間が切れる方が早いだろう。
剣を振り回しながら、フランドールは叫ぶ。
「いっつも、いっつも、逃げてばっかりの癖にっ!」
レミリアは神速の横薙ぎを、首から上だけで仰け反って避わした。前髪が数本舞うのが見えた。
「人のこと縛ってばっかりで、正面から立ち向かったことなんてない癖にっ!!」
再びの横薙ぎは、レミリアの胴を狙ってきた。避けきれないと判断し、神槍でもう一度受け止める。
「ずぅっとそうだった! 地上から私のことを見下して、お前はひとりで笑ってたんだ!」
「違う、違うわフラン。私は ――」
私は、何だというのだろう。
身体のすぐ横で、盛大に火花が散った。だがレミリアの頭の中では、それ以上の葛藤が鎌首をもたげ始めていた。
フランドールを恐れていた自分。
フランドールを信じられなかった自分。
フランドールの伸ばす手を取れなかった自分。
今更どの面を下げて、私はこの娘の姉だと言える?
「さっさと、墜ちろぉッ!」
激昂の咆哮とともに、フランドールはまた一閃。しかし今度の攻撃はレミリアに届かない。彼女は何故か後ろへと下がったのだ。
それを確認したレミリアは、咄嗟に槍を妹へと投擲する。
そのとき、被弾を告げるあの音が地下室に響いた。
発信源は、レミリアだ。
「え、何で……?」
何が起こったのか分からず、茫然と辺りを見回すレミリア。ちょうど被弾の瞬間に時間切れになったのか、両者の手から得物は消滅していた。
カラクリは簡単である。フランドールが間合いを取る際に牽制の一振りは、その軌跡から小弾が発射される仕様になっていた。事前に激しく飛び散っていた火花のせいで、レミリアはそれを弾と認識できなかったのである。
気づかぬうちに、それに当たってしまっていた。レミリアも妹と同じく、残りの被弾可能数は一となった。
しかしそれ以上に、レミリアは打ちのめされていた。フランドールの言葉が頭の中で何度も反響する。時間的にも精神的にも余裕の無いレミリアは、振り払ったはずの雑念に再び苛まれていた。
一方で一本を取り返したフランドールだが、その表情は依然として険しい。余りにも怒りに身を任せ過ぎたせいか、いかり肩が大きく上下に動いていた。
「はぁ……はぁ……。まだよ、ここで墜としてやる、絶対に」
そして彼女は、四枚目のカードに手を伸ばす。
≪禁弾「過去を刻む時計」≫
宙空に、二つの白い巨大な時計が姿を現す。互い違いにゆっくりと回りながら、棒立ちのレミリアへと迫る。さらにそこからフランドールは、紅い弾を放射状に放った。移動を制限しつつ、射撃で仕留めるタイプのスペルである。
二つの十字が、レミリアには断頭台を思わせた。フランドールが反逆の果てに、姉の首を刎ねるためのギロチンだ。
「……だけど、私にだって」
やるべきことが、ある。
レミリアは妹の声を無理矢理頭から放り出した。きっと前を睨み、十字を抜けるタイミングを計る。そして腰から、飛刀用のナイフを抜き取った。手にあるナイフは、全部で二本。
ひとつ羽ばたいて、レミリアは猛然と前へ出る。時計の針が交差しきった直後、次の針が回転してくるまでの一瞬が勝負だ。フランドールの放つ弾を避わしながら、レミリアは一直線に飛んだ。
観音開きのように、大きな針が目の前を過ぎる。するとその隙間から、両手をこちらに突き出して大量の弾を撃つ妹の姿が見えた。
「やっ! はっ!」
続けざまに二本のナイフを放った。手を離れた直後は一本だったナイフは、直後に数十本に増殖し、広い範囲に襲い掛かる。
「!?」
やはり初見の技に驚いたフランドールが、回避のために大きく動いた。すかさずもう一本、その先を塞ぐ位置に叩き込む。
「こす狡い技をっ!」
フランドールがこちらを向くと、やり過ごしたはずの時計が消え、再びレミリアの眼前に現れた。避けきれないと判断したレミリアは、カウンターとして四枚目のカードを切る。
≪呪詛「ブラド・ツェペシュの呪い」≫
「くっ! 仕留めたと思ったのに……」
毒付きながらも、フランドールは後ろへ下がった。この状況で間合いを詰めても、何もいいことはない。
この姉のスペルも、フランドールにとっては初めて見るものだった。何が飛んでくるかわからない以上、状況を冷静に判断して進まなければならない。しかし努めて冷静になろうとしても、昂った感情は収まることを知らなかった。
苛立ちをさらに募らせるフランドールを他所に、レミリアのスペルは展開していく。放たれたのはまたしてもナイフだ。全方位に向けて、先程よりは緩い速さで飛んでいく。左曲がりのカーブを描いて、そのうちの一つがフランドールを直撃するコースを辿る。
「ちっ!」
舌打ちをしながら、フランドールは僅かに後ろに逸れた。他に弾はないようだが、それだけなはずはない。ただのカウンター用にしたって、レミリアがこんなにしょぼいカードを作るはずがなかった。
「そうね、貴女の思ってるとおりよ、フラン」
そのとき一瞬だけ、ふたりの視線が正面から交差した。
フランドールがスペルの性質に気づいたのは、姉の言葉が聞こえたのとほぼ同時だった。
ナイフの軌道に沿って、大量の小弾が設置されている!
「心して、避け切りなさい」
レミリアの腕の一振りで、配置された弾は波打ち始めた。フランドールはとっさに飛び退く。風紋のように形を変えていく弾幕は、今までの直線的な軌道とは違って非常に先を読みにくかった。
飛び回っても飛び回っても、その先には弾の塊がある。その上ナイフの発射も二回、三回と続き、弾の密度は濃くなる一方だった。
こちらのスペルはすでに制限時間を過ぎ、あと一枚を残すのみである。これを今カウンターとして発動してしまったら、レミリアにカード一枚分のアドバンテージを与えることになってしまう。フランドールにしてみれば、この厄介な弾幕を自分の身一つで避わし切るしかなかった。
「こうなったら……」
一つの決意が、フランドールの中で固まった。あの姉の技を真似るなんてこの上ない屈辱であったが、背に腹は代えられない。
魔力を素早く編み上げ、空中で一回転する。すると一瞬で、フランドールの姿は蝙蝠へと変じた。
先程レミリアが使った回避法だ。相手が使ったものをこちらが使ってはいけないというのは道理じゃない。姉が文句を言おうはずもなく、フランドールはあわよくばこのまま次のスペルもやり過ごしてしまおうと考えていた。
実際にやってみると、成程かなり避け易くなる。辺り判定がぐっと小さくなるのに加え、周囲に対する感覚がずっと研ぎ澄まされるのだ。もうどんな弾にも当たる気はしない。
そのとき。
―― がしゃん
ずっと下の方で、何かが落ちた音がした。
はっとして、フランドールは人型に戻り、ずっと下方の床に目を凝らす。
何かがころころと転がっていた。
「あ……」
あの魔具だ。フランドールお手製の、紅い霧の元凶。
あれを手に持っていることを忘れていた! 蝙蝠に変身するときに落としてしまったのだ。
慌てるフランドールを他所に、魔具はまるで吸い寄せられるかのようにレミリアの方へと転がっていく。
あれを取られたら、負ける!
「くそっ!」
姉が気づいていないなどということはないだろう。慌てて変身を解いてしまったのだから、何かあったと勘付くに決まっている。
しかし、レミリアのスペルはまだ終わらない。これが切れるまでは、床まで魔具を取りに行くことなど叶わない。
避わし切るしかなかった。このまま、姉に取られてしまわないことを祈りつつ。
「取られてたまるか! 絶対に!」
煮えくり返りそうな頭を抱えて、フランドールは再び蝙蝠へと変じる。
レミリアが床に近づかないよう牽制の弾も放ってみるが、蝙蝠の姿では大したものは撃てなかった。姉の特訓はこのためのものだったのかと、フランドールはひとり合点して歯噛みした。
錐揉み回転、宙返り、急降下。思い付く限りの飛行テクニックを駆使して、彼女は弾幕をかわし続ける。どれくらいの間それを続けていたのか分からなかった。
周囲から弾の気配が消えたことを察知して、フランドールはようやっと人型に戻る。
「やるじゃない、フラン。そうでなくては面白くないわ」
その台詞を聞くのもそこそこに、フランドールは足元を見回した。魔具は、あれはどこにある?
「―― あった! あそこ、に……」
発見の安堵は一瞬だった。魔具が転がっていたのは、あろうことかレミリアの真下。運命を操るという、レミリアの能力のせいだろうか。
「余所見は頂けないわね」
レミリアの声にはっと我に返る。
前方からは、先程と同じようなナイフの群れが降り注いできていた。
「なっ……」
回避するが、二発、三発と同じ攻撃を喰らう。
フランドールの頭には、何よりも先に疑惑が立った。
「それ、拾わないの? お姉様」
「うん? あぁ、あの魔法道具か」
今初めて気づいたという風に、レミリアはそれを見下ろした。
「あれを手に取れば、お姉様の勝ちなのよ」
そう言いながらフランドールは、魔具の破壊の「目」を慎重にこちらに手繰り寄せていた。レミリアの手に渡るくらいなら、壊してしまった方がいい。
「知らないね。そんなこと、貴女が勝手に言い出したんでしょう」
しかし帰ってきた答えは、フランドールの予想を真っ向から裏切った。
「私はフランに弾幕で勝つ。それ以外の勝利なんて、要らない」
敢然と、レミリアは言い放ったのだ。
それを聞いたフランドールの頭の中を、何かがぐるぐると渦巻いた。
「ふふっ……ふふふ……あははははははは」
何がおかしくて自分が笑っているのか。これは感情なのか、理論なのか、それすらも分からない。ただ一つはっきりしているのは、コレをあの姉にぶつけてやらなければ気が済まないということだけだった。
「フラン?」
その姉の呼びかけが、たぶん合図だった。
フランドールの最後のスペルカードが、爆発した。
≪禁忌「フォーオブアカインド」≫
地下室の壁に沿って、膨大な魔力が展開された。それはそれぞれの壁の中心辺りに凝縮していく。
都合4ヶ所のポイントにやがて姿を現したのは、
「あははははははっ!」
「壊してやる! 壊してやる!」
「最初からこうすればよかったんだ!」
「あははははははっ!」
全く同じ姿の、四人のフランドール。
恐らく四人のうち三人は、魔法で作り出した虚像なのだろう。しかしカラクリが理解できても、四人の妹に囲まれたレミリアにしてみれば不気味の一言である。
フランドール達は、一斉にその右手を前に出した。
「もういいよ、ぶっ壊してあげる、お姉様!」
「私のことを縛って、閉じ込めて、その上馬鹿にして!」
「そんなやつ、もういらないもの!」
「きゅっとして、ドカーンだよ!」
その手に宿る、絶対究極の破壊の力。弾幕ごっこの範疇を越えたその能力を、フランドールはレミリアに行使するつもりなのだ!
恐れていたことが起きてしまったが、相手が自分でよかった、とも思う。これが何も知らない人間だったら対処のしようがなかっただろうし、喰らったのが自分であれば、運が良ければ再生できる。
しかし、まさか四人に分身するとは思わなかった。フランドールの破壊を止めるには拳を握らせなければいいのだが、破壊の力を有しているのは本体に当たる確率は、四分の一。
取り囲むフランドール達が、手当たり次第に大量の弾をばら撒き始めた。時間がない。
「フランっ!」
レミリアは飛んだ。フランドールとの距離を、一瞬でゼロにする。
標的は ――
「……私が、正解だと思う? お姉様」
自分の正面で、向かい合い睨み合っていたフランドールだ。
握ろうとしていた右掌に、自分の拳を叩き込む。
「えぇ、間違いないわ。だって ――」
レミリアはにやりと笑った。すると至近距離で交差する二人の視線の間に、くるくると一枚のカードが割り込んできた。
それは最後まで残っていた、レミリアのラストスペル。
「貴女は、逃げないもの。私の前からは、絶対にね」
≪紅符「不夜城レッド」≫
その身から迸るのは、十字架を模った紅い魔力。
昼を滅して夜を征し、人を従え魔をも下すための、渾身の一撃。
密着するほどの至近距離で放たれたそれを避けることは、流石のフランドールにも叶わなかった。
きらきらとした輝きと共に、他三人のフランドールが消えていく。
レミリアは、見事一発で引き当てたのだ。
ふたりはその格好のまま、ゆっくりと床へ降下する。姉の拳を妹が握るという何とも不器用なやり方で、血を分けたたったふたりの姉妹は繋がっていた。
俯くフランドールを、レミリアは抱き寄せる。
「あぁフラン。愛しい愛しい、私の妹よ」
先程までの暴れ様が嘘のように、フランドールは姉のされるがままになっている。こんな風に抱きしめてやったのは、いつ以来だったろう。
「許してくれなんて言わない。信じてくれとも言わない。そんなこと、きっと私に言う資格なんてないから」
床に降り立つと、改めて部屋の惨状が目に入った。無事なものは何一つ残っていない。後で全部直してやらなければいけない、とレミリアは心に刻む。
「だけど、覚えていて。私は貴女を無条件で許すし、信じる。世界の全てが敵に回ろうとも、貴女が私の敵になろうとも、永遠絶対によ」
フランドールはそのまま、床にぺたんと座り込んだ。泣いているのかもしれないが、目許を窺うことはできない。涙を流す時は大声で泣くフランドールだが、姉の前では決して慟哭しようとはしなかった。
床に転がる魔具のもとまで、レミリアは歩いていった。鈍く輝き続けるそれを拾い上げ、フランドールに笑いかける。
「約束通り、貴女の異変は私が預かるわ。ゲームで負けそうになると相手を殺そうとする貴女に、魔王役はまだ早いの。だって魔王役は、いつか必ず倒されるものだから」
扉の入り口は開いていた。あれを内から開けるのはフランドールだけだから、いつの間にか開けていてくれたらしい。外へと歩いて行きながら、しかしもうレミリアは振り返らなかった。異変はまだ終わっていないのだ。やってくる巫女と魔法使いを、自分が迎え撃たなければならない。
「だから、見てて。私が貴女に教えてあげる。ゲームのラスボスの、あり方ってやつをね」
その声がフランドールに届いていたのであろうことも、レミリアは固く信じていた。
◆ ◆ ◆
二人は、ようやくその場所に辿り着いた。全く別のタイミングで出撃した巫女と魔法使いだったが、そこに到着したのは何故だかほぼ同時だった。白黒がニヤリと笑うと、紅白は憮然とそっぽを向いた。
館を通り抜けたその先にあったのは、紅い月の照らす中庭。魔が跋扈するに相応しい、何とも不気味な空間だ。そこに張り詰める空気に、二人はいつしか言葉を失っていた。
道中の敵は手強かった。特にこの館に入ってから出会った妖怪や人間たちのスペルカードは、いずれも一筋縄ではいかないものばかりだった。何度も敗北してはその度に挑み直し、ここまで来たのだ。
ふと、巫女がはっと月を見上げた。魔法使いもその視線を追う。
それを待っていたかのように、楽しげな声が響いた。
「―― ここまで来たのね。驚いたわ。褒めてあげる」
血の色をした月を背に、彼女は飛んでいた。
間違いない。異変の元凶、館の主。もはや存在を隠そうともせず、悠々と空に浮かぶあの影が、吸血鬼だ。
二人はそれぞれに得物を取り、臨戦態勢に入った。見た目は幼い少女であっても、化け物じみた住人達を束ねているのだ。実力は推して知るべしであった。
「で、何しに来たのかしら。退治? 戦争? 喧嘩?」
吸血鬼のの問いかけに、人間たちは声を揃え短く何かを叫んだ。その答えに満足したのか、少女は翼をはためかせて不敵に笑う。
ひとり分の殺した笑いは、いつしか三人分が重なる大きな笑い声になっていた。何が楽しいのかなんて、彼女たち自身にも分からないに違いない。ただ一つだけ確かなのは、今やこの夜の全てがここにいる三人のためにあるということだけだ。
突然、紅い月が弾けた。いや、吸血鬼がその魔力を爆発させたのだ。巻き込まれればへし折られてしまいそうな圧力に当てられて、それでも二人の人間は怯まない。紅い悪魔を見据える両の眼は、倒すべき相手を見誤ってはいなかった。
そうだ。そうでなくては、面白くない。
口角がさらに吊り上がるのを感じながら、レミリアは妹のことを思った。フランドールもこの勝負をどこかで見てくれているだろうか。自分はどうしようもない姉だが、見てくれていたならいいと思う。いつかふたりで、こんな素敵な月の下を揃って飛べる日が来るように。
誰ともなく、スペルカードを取り出した。月光とは違う光が生まれ、それぞれの持ち主の顔を照らす。
幕間は終わりだ。第二幕を始めよう。
誰よりも純粋で、誰よりも我儘な妹のために。
自分が信じた、自分を信じてくれた皆のために。
幻想郷の新たなる歴史の、その始点に思い切り深く楔を打ち立てるために。
その未来のために、レミリア・スカーレットは言い放つのだ。
「こんなにも月が紅いから、本気で殺すわよ!」
長いので今日読もうかどうか迷ったけど読んで良かった。面白かったです。
これから紅魔郷プレイの度にこのssが頭に浮かびそう!
不意に台頭するシリアスパートと戦慄する弾幕バトルシーンに心奪われ、否が応にも時を忘れて読み進めてしまいました。
異変の元凶がレミリアではなくフランドールだったと言うところの着眼点はお見事です。
自分にはない発想を目の当たりにすると、素直に感心する他ありません。
パチュリーがフランドールとの交戦の末喘息を拗らせる等、原作への作者様なりの伏線も、おお、と思わずうなってしまいました。
総じて、読み応えのある作品だったと思います。それと、お嬢様、月はともかくとして日は銀や水以上に天敵だろう、と一言。
個人的にはメイフラ分が補給出来たので大満足です。瀟洒だけどジョジョ好きなメイド長もギャップが嬉しい。
大作お疲れ様でした。最後に、月並みな言葉になりますが、面白かったです。ありがとうございました。
すごい面白かったです。
出てくるキャラクターみんなに魅力があり、これぞ紅魔館だなって気がします。
気がつけば引き込まれ、読み終わってました
すばらしき紅魔館の面々に、そして作者さまに、最大の拍手を
ここでついに涙腺崩壊。貴方「は」、ね……。
あの扱いづらい不夜城レッドをあえてラストスペルとして残したのも最高に格好いい。弾幕戦と格闘戦の入り乱れたスペカバトル。お見事です。
レミリアの放つナイフや炎にはそういう意味があったのか。シューティングゲームにストーリーなんていらないと思っていただけに、このSSには衝撃を受けました。
このSSを読んでレミリアが大好きになりました。妹のしでかした粗相の責任を負う姉としてラスボスになったレミリアを、こちらも全力で倒します。
着目点も素敵だし文章はさらさらと読める。弾幕戦の表現も完璧でした
いい作品を読ませていただきました
私も、また紅魔郷をやりたくなってきた
すべての原点のような紅魔館キャラの性格。
どこにも違和感がなく、すんなり読むことができましたし、着眼点も新しい。
ただただ、面白かったです。
ちょっと紅魔卿プレイしてくる
未だに妹様に会えずにいるせいで
スペルカードが想像出来ない...orz
俺も三人に特訓してもらいたいわw
この紅魔館の面々をもっと読みたいと思ったほど良かったです。
いきなりカリスマ崩壊でふくれっ面だったり猫だったりのお嬢様も可愛いですが、妹や皆を想う心遣いに胸打たれました
修行のシーンなどは冗長になりがちですけれども、三人称の語り口が軽快かつ登場人物が生き生きとしていて
これだけの長さに関わらずさくっと読むことができました。非常に面白かったです
二次創作はこれだからやめられない。
まさに大作にふさわしい作品でした。作者に感謝を。
こういうバックグラウンドを色々と想像することは、やはり楽しいものです。
面白い作品をありがとうございました。