お姉様。
お姉様は、私が嫌いなのですか?
お姉様は、何で私を閉じ込めておくのですか?
私が嫌いなら、私はここを出ようと思います。
閉じ込めておくだけなら、こじ開けてしまおうと思います。
私も、外の世界が見たい。
一応、代わりの私を置いていきます。
閉じ込めておくだけなら、代わりだっていいでしょう?
さよならお姉様。
お元気で。
†††
鍵を開けて、外に出た。
四百年くらいは、古い何十もの結界で。
百年くらいは、パチュリーの雨の結界で閉められた鍵。
それでも、咲夜とかパチュリーが何度も開け閉めしてるところを見たから開け方はわかった。
意外と簡単で、ちょちょっと魔力を流してあげれば開く仕組み。
霊夢や魔理沙が殴りこみに来たあと、パチュリーに魔法を教わって思いついた方法。
出られるようになるまで、何度も何度も試行錯誤。
時々、間違えて扉ごと吹っ飛ばしたりもした。
いつものこと、とアイツはやっぱり現れなかった。
ま、それも過ぎたことね。
これから、外に出るんだもの。
廊下には、だーれもいない。
正確には、妖精メイドがいるんだけどそれは問題にならない。
適当にあしらうか、咲夜の名前を出せばいいんだもの。
ばれちゃいけないから、吹っ飛ばせないし。
ちょっとだけ、フラストレーション。
見慣れない、ちょっと大き目の妖精もいたけれど何だったのかしら。
黒髪とか、ドリルみたいな髪型だったけど。
ともあれ、気づかれないようにこっそりこっそり。
途中、何匹かはきゅっとしたけど大丈夫よね。
復活するし。
そんな感じで、正面玄関。
ここまでが順調だったものの、ここで大きな障害。
なんで、咲夜がいるのかしら。
それも、パチュリーと一緒に。
「では、今度買い足しておきましょう」
「ええ、お願い」
「美鈴の分は、どうしましょうか」
「そうね……ま、ついでだからいいんじゃない?」
「かしこまりました」
買い物の相談だったのか、咲夜は出て行った。
「……ん?」
!
パチュリーが、こっちに気づいた?!
やばいやばい。
蝙蝠に化けて、適当なつぼの中。
「また、レミィが何か考えてるのかしら?」
もしかして、アイツと勘違いされた?
で、あるならば。
このままやり過ごすのが、賢いレディというもの。
押し黙って息を呑んで、パチュリーに黙秘を続ける。
「ま、いいわ」
やや、睨まない合いが続いたあとでパチュリーは図書館へ。
まさか、また雨で足止めを?
こんなに苦労して出たのに、そんなことしたら恨むわよパチュリー!
物理的に!
慌ててドアノブを捻り、開け放つ。
東の空は暗く、西の空は朱に染まる。
「あれ、妹様どうされました?」
美鈴がいた。
花の植え替えの途中なのか、顔と手は土だらけ。
「今年は、花時計にしようと思いましてね? あ、誰かに見せるわけじゃないですよ」
美鈴は、聞いてもいないのに照れくさそうに答える。
それよりも、そこから早く退いてほしい。
もしかしたら、察知してこっちに寄ってきたのか。
恐るべし。
「たいちょー。なんか妖精攻めて来たよー」
「はいよー。妹様、黄昏時は陽が強いので注意してくださいね。日傘をどうぞ」
美鈴は、呼ばれたままに門へ。
私、何も一言も言ってないけど……。
それよりも、今がチャンス。
戸の横には、ピンクの日傘。
傘の柄には、私の名前が彫られている。
出たこともないのに、出されることもなかったのに何であるんだろう?
考えても、わからない。
でも、必要だから使うことにした。
門は美鈴が気付いちゃうから、こっそり脇の塀を飛び越える。
パチュリーが結界でも張ったかと思ってたけど、そんなことも無かった。
広がるものは、黄昏の陽を浴びる森。
私の、初めての外。
まず、目指すは魔法の森。
もしくは、遠い遠い神社。
†††
創ることは難しくても、壊れる時はほんの一瞬。
私は、齢五つでそれを知った。
たったの五年。
寿命を放棄した吸血鬼からすれば、爪先にも満たない年月。
そして、私が他の吸血鬼を見ていたのもこの時が最後。
私は、運命を見るということがどういうことか理解していない。
残ったモノは、手の中の赤ん坊。
私に遅れることたったの、五年。
または、実に五年。
私にとっての、世界は死んで。
妹が、生まれた。
†††
「お嬢様、そんなことなさらずとも私が」
「いいのよ。今日からは、私が持っていくことにする。拒否権は、無いわ」
「かしこまりました」
「ちょっとは、食い下がりなさいよ……」
紅い紅い館。
泣く子も喰らう、吸血鬼。
ガラガラと、ワゴンに紅茶を積んで運ぶ。
このワゴンは、咲夜がいつも使っているものだ。
だから、レミリアが運ぶには少々大きすぎる。
極端な例えをすれば、つかまり歩きをしているように見えるのだ。
これでも、この館の現主人。
ただの手伝いをする子どもにしか、見えないが。
油断すれば、人を喰らう鬼なのだ。
「さて、フラン好みのお茶請けって何かしら」
「ケーキ、クッキー、その他人間ですわ」
「そろそろ、生身で入れちゃえばいいんじゃない?」
「消し炭ですわ」
「そうね」
他愛もない会話で時を潰し、地下室に向かう。
その途中、パチュリーと遭遇した。
相変わらず、寝不足のクマを目元に飼い慣らしている。
最も、その健康状態ついて指摘する者は咲夜しかいないのだが。
「メイドでも始めたの? レミィ」
「パチェ、私が耐えられると思う? 私は、無理だと思う」
「同感」
「否定してよ」
肩を竦めるレミリアと、表情の変化が乏しいパチュリー。
まるで息が合っていないが、これでも百年来の付き合いであったりする。
荊のような会話も、互いにとってはいつものこと。
「ああ、そうだ。咲夜、私はこれから寝るわ」
「これからですか?」
「そうよ。図書館を閉めて寝るから、起こさなくていいわ」
「かしこまりました」
「あら、あなた健康志向に目覚めたの? 数日間、寝ずに読書したりしていたのに」
「原因はそれで、あなたのためでもある」
「?」
「おやすみ」
パチュリーは、図書館へ向かう。
「咲夜、何の事かわかる?」
「存じあげませんわ」
「そうか」
レミリアは、それ以上何も言わない。
この従者は、主人のためなら平気で嘘を吐いて押し黙る。
何かある、と気付いていながらもレミリアは追及を避けた。
おそらくは、自分のためなのだと言い聞かせて。
フランドールの部屋は、地下にある。
螺旋状の階段を、しばらく行けば突き当たりにそれはある。
悪魔の妹を封じておくには、なんてことない平凡な扉。
魔女によって施された封印が無ければ、物置と言われても文句は言えない。
「咲夜、ここまででいいわ」
「かしこまりました」
言うが早いか、咲夜は姿を消した。
つくづく、理解が早いとレミリアは思う。
正味、幻想郷においては彼女に並ぶ従者はいない。
完璧でショウシャ、肩書きに偽りはない。
稀な失敗が、瑕にもならないほどには。
だからこそ、レミリアは惜しむ。
彼女が、寿命を持つ人間であることを。
人間の一生など、吸血鬼からすれば芥に等しい。
寿命をごまかす程度、咲夜の能力なら簡単だろう。
しかし、彼女はそれをしない。
レミリアも、咲夜にそれを望まない。
主人は従者を哀れむことなく、従者もレンビンを求めない。
咲夜を見送って、レミリアは深呼吸をひとつ。
彼女と妹を隔てるドアに、手をかけた。
「フラン、入るわよ」
紅魔館の地下室は広い。
旧都とはいかないまでも、並の家数軒は入る。
簡単な祭りであれば、里の人間を総動員したところで窮屈になることはないだろう。
物理的な意味だけでなく、パチュリーオリジナルの仕掛けも多い。
力をある程度抑制する、水の魔法が随所に流れている。
今のレミリアのように中央であれば、気になるほどではない。
ただし、壁に近づくほど吸血鬼の力を奪う。
フランドールの癇癪にも、十分耐えうる程度には。
まだ、この仕掛けが破られたことはない。
(まあ、癇癪自体起こしてないのだけれど)
姉が見た、最後はいつだったか。
それとも、
(癇癪じゃなく、抵抗しただけ、か)
フランドールは、ベッドの上にいた。
この広大な空間に一人では、できることは限られる。
495年もの間に、できることはやりつくした。
眠ることしか、残っていないのかもしれない。
ともあれ、レミリアは笑顔で迎えられた。
安堵して、胸を撫で下ろす。
「フラン、今日は咲夜が厳選した茶葉よ」
フランドールは、笑顔を崩さない。
悪戯の最中のように、笑う。
「あと、明日は霊夢が来るそうよ。良かったわね」
茶葉の缶を開け、用意した湯でカップを温める。
咲夜に比べれば、手際は劣る。
当然、レミリアはほとんど自分で紅茶を淹れた経験がない。
どのようにすれば、美味にできるかなど知る由も無かった。
今、それがわかるのは咲夜の指導の賜物である。
レミリアは、正しくこの日のために研鑽を積んだのだ。
大げさかもしれないが、彼女は間違いなくこの時を意識していた。
「今日のお菓子は、クッキーかケーキよ。どっちがいい?」
紅茶を淹れたレミリアは、フランドールへ向き直る。
フランドールは、笑顔。
レミリアが部屋に入ったときから、変わらない。
貼り付けられた、張りぼての感情。
その笑顔を見て、レミリアはティーカップを取り落とした。
着地するまでの間、紅に近い琥珀色を零しながら回るカップ。
そして、白い器は紅い花を咲かせ――――
「……どういうこと?」
フランドールは、その胸を貫かれた。
†††
例えば、旅をするとしよう。
個人差はあれど、目的地と経路くらいは調べる。
迷うことなく、目的地にたどり着くために。
行き先がわからなければ、永遠にさまよい続ける。
行き方がわからなければ、一寸先さえ闇となる。
つまるところ、
「どこだろう、ここ……」
フランドールは、迷子だった。
そもそも、魔法の森の正確な位置さえ知らない。
夜目は利くといっても、上空から森など見分けがつかない。
そこを根城にしている者だけが、我が家にたどり着けるのだろう。
不要となった日傘を振り回しながら、フランドールは見知らぬ場所を闊歩する。
ちなみに、ここは博麗神社に近いただの森。
特にいわくも何もなく、見通しが悪く迷いやすい。
ただの森だった。
フランドールは、幻想郷の地理を全くもって知らなかったのだ。
「森」という単語しか知らず、実物を見たことはない。
そして、迷うということすらも初めてだった。
彼女は生まれてこの方、家から出たことがなかったのだから。
しかし、フランドールは微塵も慌てた様子がない。
簡単に殺されることのない吸血鬼である、ということもある。
そして、何より自身の持つ能力がその自信の源だった。
「んー、ここ一帯消し飛ばせばいいかな。それとも、焼いちゃおうかな?」
ありとあらゆる物を、破壊する程度の能力。
もしくは、古き神スルトの息を模したスペル『レーヴァテイン』。
どちらを用いたとしても、森一つが無くなることに変わりはない。
そう判断して、フランドールは杖を手に取る。
炎が、フランドールを妖しく照らし出す。
ごっこではない、スルトの杖を模したレーヴァンテイン。
フランドールが腕を下ろせば、その範囲の木々は全て炭になるだろう。
吸血鬼の魔法は、それほどの威力がある。
「せー…………のっ!」
炎の杖は、振り下ろされた。
横向きに、力任せ。
解放された魔力は、その猛威をもって幻想郷の静かな夜を打ち壊す。
はずだった。
「あれ?」
焼き尽くすはずの炎は、杖から跡形も無く消えていた。
森を照らす光も消え、残ったのはフランドールだけ。
先ほどと違う点は、杖にお札が一枚貼り付けられていること。
「まったく……いやな予感がして来てみれば、何やってるのよこのバカ」
「あ、霊夢だ」
「霊夢だ、じゃないわよ。喧嘩でも売りに来たの? それとも、私を殺そうとでも?」
「迷ったから」
「は?」
「迷ったから、道を作ろうと思っただけよ」
「……」
幻想郷が火の海になる事態は、避けられた。
霊夢の勘は、いつもどこでも正しい。
「あんた、保護者は?」
「今日はいないわ。淑女の散歩に、問題でも?」
「大アリよ。このウルトラバカ」
「ひどーい。アイツに言い付けてやるんだから」
「勝手にしなさいよ。あんたは、牢屋に連行ね」
「えっ?」
「身元引受人が、早く来るといいわね」
出歩いた場所は、湖を越えて名も無い森まで。
もう少し早い時間であれば、夕陽に照らされる景色が見れたことだろう。
今宵は、月さえない闇の夜。
あまりにも、あっけなく。
フランドールの初めての散歩は、こうして終わりを告げた。
博麗神社境内。
フランドールは、文字通りお縄についていた。
暴れられないように、結界のおまけ付きである。
捕まえた霊夢はといえば、見張りと称して船を漕いでいる。
フランドールは、頬を膨らませて不満を表すが誰も見ていない。
最初は抵抗を試みたが、無理だと悟ったのだ。
触れようが殴ろうが、反撃はない。
その代わり、それを水のように受け流す。
また、縛っている縄も博麗神社特製。
力でも、妖怪でも破れない。
内側からの力を、ある程度まで受け流す。
現状、フランドールは身じろぎすら難しい。
名実ともに、捕らわれの身。
「おや、珍しいのがいるね」
フランドールの前に、声が響く。
霊夢が起きた様子は無い。
「西の方にいた鬼か。なるほど、噂どおり姉にはさっぱり似てないね」
「……誰?」
「おおっと、こりゃ失礼」
フランドールと霊夢の間、上半身だけ姿を現す。
伊吹萃香。
神社に棲みついた、東の古い旧い鬼である。
見た目こそ、フランドールと変わらない。
その実、フランドールの倍以上生きている。
「さて、お嬢ちゃんは何をやらかしたのかな?」
「ちょっとだけ、森を消し飛ばそうとしただけよ」
「へえ、なかなか面白い考えだ。でも、神社の近所なのはまずかったね」
「神社がこっちなんて、知らなかったのよ」
「まあいいさ。お嬢ちゃんの迎えは、いつ来るのかな?」
「さぁ?」
「素っ気ないね」
「アイツは、私のことどう思ってるかわからないからねー」
「ふぅん」
萃香は、瓢箪を飲みながら話す。
外を追われた鬼同士、何か感じるものでもあるのだろうか。
数珠のように続く、「アイツ」とやらの愚痴はとどまることを知らない。
萃香は思う。
心なしか、最初よりも顔に生気が満ちていると。
あえて、それは指摘しない。
鬼の悪い癖だ。
それが正しいことだろうと、誤った感情であろうと。
鬼は、助けない。
ただ、さらうだけだ。
もっとも、萃香に鬼をさらう趣味はない。
「……って感じなのよ。嫌になっちゃう」
「へぇ、そうかいそうかい」
「……ちゃんと聞いてた? パチュリーは、会話がコミュニケーションの始まりだって言ってたわ」
「出会い頭に豆投げる奴の台詞かね」
「あ、あなたも豆嫌いなの?」
「嫌いじゃなくて、弱点なんだよ。当たると痛痒い」
「ふーん……ところで、これは外せる?」
「いんや。紫じゃないと無理だね。結界は、専門外」
「残念。あなたと遊ぼうと思ったのに」
「嬉しいけど、霊夢に怒られるからね。それに、もう間もなくだ」
障子の向こうでは、欠けた月が雲に隠れた。
萃香は、再び体を霧に変える。
フランドールは、眉を寄せて不満を顕わにする。
「えー、あなたまでいっちゃうの?」
「霊夢も起きそうだし、何より迎えが来るよ」
「え?」
「余計ついでに、一つ忠告だよ。あんたが言ってた不平不満も、害意とは違うところから生まれたものさ。多分、不器用なんだろうね」
「?」
「ま、わからなきゃそれでいいよ。ここに二人しかいない西の鬼だ。仲良くすればいいよ。私と違って、まだ仲間がいるんだからさ」
じゃあね、と残して萃香は消えた。
少しの酒香を残して、跡形もなく。
「……何よ。わけわかんない」
残されたのは、フランドールと完全に横になった霊夢だけ。
まだ、姫君の迎えは来ない。
†††
戸を開け放つ。
開け放つというのは、あくまで私の感覚だけのもの。
本当は、砕けて廊下に飛び散った。
そんなことは、どうでもいい。
「咲夜! 咲夜はどこ!」
感情に任せて、声を張り上げる。
地下室から戻る最中、壁を思い切り叩く。
当然崩れはしないが、ヒビ程度は入った。
だからといって、気分は少しも晴れはしない。
逆の手に持った紙切れが、握りつぶされてくしゃりと悲鳴を上げた。
地下から出れば、廊下には誰も何もいない。
いつも居るはずの妖精メイドは、轟音を聞いて隠れたのだろう。
全くもって、役に立たない。
そして、役に立つはずのメイドはどこへ行った。
私の理性は、もう間もなく限界を迎えるぞ!
「お嬢様! 何事ですか!」
「遅い。緊急事態よ、今すぐフランを探しなさい」
「フランドール様が、何かなされたのですか?!」
「これを見なさい。私も出る。あの馬鹿が、こんな紙切れ一枚おいて行方不明よ」
「しかし、お嬢様」
ぎちりと、歯が軋む音がする。
問答をしている暇などない。
今、この館がもぬけの殻になろうとも優先されるべきはフランドール。
あの子を置いて、他にないのだ。
そうだ、パチェにも頼もう。
動けないまでも、何か知っているかもしれない。
いや、知っているはずだ。
フランドールが暴れるとき、外に出ようとするときはパチェが止めていた。
私たちの弱点である流水だったり、太陽だったりを擬似的に作り出せる。
パチェは、この館で唯一吸血鬼の弱点をつける貴重な魔女なのだ。
そして、知識人と言われるだけあって智慧でも頭一つ抜けている。
何処に行ったか、見当が付くかもしれない。
せめて、どこに行くかがわかりさえすればそれでいい。
あとは、私が行って連れ戻す。
それだけで、いい
「口答えも、不満も聞かない」
「……かしこまりましたわ」
咲夜は、数枚のトランプを残して消えた。
外は、もう陽が沈んで藍色の空。
日傘は必要ないだろう。
次はパチェだ。
図書館で寝ているらしいが、叩き起こす他ない。
きっかけだけでもいい。
知っているなら、全部話させる。
踵を返して、図書館へ向かう。
そうだ、何か知っているに違いない。
私は、それ以外の思案を全て押さえつけて歩みを進めた。
八つ当たりでしかないが、全てフランドールのためだ。
こんな状態でも、闇雲に探しても見つからないことだけはわかっていた。
とにかく早く、早く。
急いている私は、大事なことに気づかない。
「パチェ! 出てきなさい!」
親友は、宣言どおり図書館を締め切っていた。
ご丁寧に、水属性の結界まで張っている。
流水でないところが、実に作為的。
閉じこもろうと思えば、日と水で固めてしまえばいいのだ。
まぁ、冷静さを欠いた私が言うことではない。
開けられない扉を前に、無駄であることも理解できずにノックを繰り返す。
パチェが眠ると宣言したのだ。
本当に眠っているかどうかはともかく、扉が開くはずもない。
「そうか……もういい」
時間がもったいない。
咲夜が行ったから時間の問題だろうが、ここで落ち着いて待てるほど私は我慢強くなかった。
全くの無駄足であった。
多少無作法ではあるけど、窓から身を乗り出す。
窓枠にかけた足に、力をこめる。
「レミリア様!」
いざゆかんと、気合をこめたところで水を差された。
振り返れば、図書館から出てきた小悪魔だ。
私の表情を見て怯えているようだが、気丈にも睨み返してきた。
「パチュリー様からの、伝言です」
「言いなさい」
「私は手を貸さない、自分で解決しろ、存分に話し合いなさい、と」
「……ふぅん」
「い、以上です」
仮にも悪魔、私の憤怒よりも契約の方が重いらしい。
そういえば、私はこの子のことをほとんどと言っていいほどに知らない。
パチェをこの館に招いて、百年近く。
いつから、パチェの司書をしているのかしら?
「……な、何かご無礼でも」
「いいえ、何もないわ。何ひとつね」
怯えに混じる、困惑の感情。
悪魔とは、思えないような慌てっぷりだ。
あまり図書館から出てこないから、こういった表情を見ることすら初めてだった。
私は、何も知らなかったのかもしれない。
スカーレットの当主でありながら、何も。
「小悪魔」
「は、はい!」
「パチェに、よろしくね」
今度こそ、窓枠を蹴って外に躍り出る。
その音に反応して、門番がこちらを振り返った。
慌てた様子は、ない。
咲夜から聞いたのか、それとも見えたのが私だからか。
門番は、確か今の面子の中では相当の古株のはず。
パチェを招く前から、咲夜を招く前から門を守っていた。
それも、任せたままでろくに様子を見ていない。
最近も、咲夜からの報告で聞くだけに留まっていた。
外も中も、隙だらけ。
こんな私が、フランに対して何を怒る?
495年もの間、妹が怖くて閉じこめていた私に。
何の権利が、あるというのか。
陽はすでに沈み、欠けた月が東に上る。
化け物の時間になっても、気分は晴れない。
咲夜からの報告もなく、当てもなく星空をさまよう。
目指すは、最愛の妹。
私の世界を壊した、最悪の悪魔のもとへ。
†††
月が上った。
先ほどまでの雲は流れ、南の空で高々と輝く。
フランドールは、縄を解かれて縁側に座っている。
霊夢曰く、仮釈放ということらしい。
吸血鬼用の結界もなく、逃げ出そうと思えば簡単に飛び出せる。
博麗の巫女という、最大の障害もない。
背後で、のんきに晩酌を楽しんでいる。
そして、フランドールも逃げ出さない。
霊夢に言われたように、座して迎えを待つ。
「あんた、結局どこに行くつもりだったの?」
「んー、魔理沙のとこ?」
「全く方向違うじゃない。地図も読めないの?」
「地図なんかあったの?」
「……ないわね」
博麗神社は、幻想郷であって幻想郷でないところにある。
ちょうど、『外』との境界線。
博麗大結界に区切られる場所。
今や、妖怪神社と呼ばれるほどに有象無象の集まる場所となってしまった。
この場所は、誰にでも平等。
悲しいほどまでに、徹底された平等がある。
「あーあー、せっかく寝ようと思ったのに一悶着ありそうね」
「面白いじゃない」
「それは、あんたらだけよ」
「ら?」
「妖怪全般。トラブルばっかり起こすんだもの」
「知ったこっちゃないわ。解決するための巫女って、パチェが言ってたもの」
「……どうやら、またあそこに殴りこむ必要があるみたいね」
二人以外に、神社周辺を訪れる気配はない。
非常に、静かな夜だ。
これからの、前触れかのように。
葉の擦れる音一つしない。
何もかも、これから起こることを予知しているかのように。
もしくは、向かってきている者を感知しったのかもしれない。
「ねえ、そのお酒ちょうだいよ」
「ダメよ。まだ子どもじゃない」
「あんたよりも、よっぽど永く生きてるんだけど?」
「見た目の問題よ。いろいろめんどくさそうじゃない」
「じゃあ人肉」
「もっとダメ」
「ちぇ」
「それにしても、遅いわね」
「……」
「ま、そのうち来るでしょう。私はもう寝るわ」
「あれ、待ってくれないの?」
「吸血鬼サマと違って、人間は今が眠いのよ。じゃあね」
「……ちぇ」
フランドールは、未だ縁側にいる。
月も、大きく西へ傾いた。
霊夢はというと、奥に引っ込んだ上に布団をかぶっている。
もはや、夜というよりも朝に近い。
あらゆる圧力に屈しない霊夢であっても、睡魔には白旗を掲げた。
言葉に偽り無く、様子を伺っている風でもない。
先ほどの宣言は、建前ではなかった。
霊夢は、数少ないフランドールの知人である。
館以外のことを知識としてしか、知ることはできない。
それも、誰かを通して主観が入った情報。
館の外を、本当の意味で知らなかったのだ。
そして、憧憬もまた強かった。
強大な力をもつ悪魔でも、知らない土地は歩けない。
彼女にとって、初めての外は広すぎたのだ。
行きたい場所もなく、知っているのは地下室を訪れた人間二人。
広すぎて暗すぎる夜に、一抹の不安を覚える。
一人ぼっちの吸血鬼は、それに地下室を連想した。
頭が悪いわけではない。
心が弱いわけでもない。
ただ、無知で幼かった。
夜の王と称される種族であり、何でも破壊できる力があっても帰り道さえ知らなかった。
迎えを待つしか、ないのだ。
それが例え、彼女が望まなかった展開であったとしても。
「!」
境内に、人影ひとつ。
小柄な体に、蝙蝠の羽。
いつの間にか、迎えは訪れた。
階段を上りきった、鳥居の下。
迎えに来たのは、十六夜咲夜ではない。
その意味では、フランドールの期待通りには行かなかった。
まさか、自分を閉じ込めた張本人が来るなんて。
レミリアの表情を窺うことはできない。
顔を伏せているわけでも、隠してもいない。
ただ、笑顔でないことは確かだろう。
「おねえ、さま?」
「……」
返事は、ない。
フランドールも、ただならぬ気配を察したのか縁側から離れない。
少しだけ、互いの間に張りつめたモノができる。
ただの姉妹だというのに、神社に一触即発の雰囲気ができあがった。
「……」
一言も語らず、レミリアが前に出る。
フランドールは座ったまま身じろぎし、姉の姿をただ見つめる。
境内には、足音が一つだけ。
先ほどよりも、さらに音が減ったように感じる。
夜明けにはまだ遠く、夜も深みを越えてしまった。
草木も眠った、丑三つの刻。
誰も、彼女たちを止められる者は居ない。
着々と歩みを進め、レミリアは愛する妹に手が届く距離へたどり着いた。
フランドールは、立ち上がって胸の前に手を組む。
いつも「アイツ」と呼んでいる姉は、変わらない背丈。
それが今では、とても大きく、恐ろしく見えた。
「フラン、どうして?」
不明確な問い。
「外の、色んな物を見てみたかったの」
純粋の答え。
二人は、495年も姉妹をやってきた。
その内、フランドールがこれほど楽しそうに話すことなど幾つあっただろう。
「ね、お姉様。世界ってとってもすごかったのよ。見たこともないものが一杯だったの」
「そう」
「途中で、霊夢に会ってね。森を吹っ飛ばそうとしたのよ」
「そう……」
「それでね、それでね」
「フラン」
レミリアは、フランドールの言葉を遮る。
フランドールは、ここで初めてレミリアの顔を見た。
その表情は非常に複雑で、笑っているのか泣いているのか。
はたまた、感情ではない何かか。
ただ、その口から出た言葉には確かに感情が乗っていた。
「どうして、勝手に外に出たの?」
「だって、お姉様は教えてくれるだけで連れ出してくれなかった」
「出たいなら、どうしてちゃんと言わなかったの」
「言ったら、出してくれた?」
「……」
「閉じ込めたのも、お姉様。私に会ったのだって、何日ぶり?」
「フラン、話を」
「うるさい!」
目に涙を溜めて、言葉は叫びに近づいていく。
目を覆って、口を大きく開けて吐きだす。
「だって、私だって皆と遊びたかったのに。ずっと寂しかったのに! 会いに来るのは世話係だけで、遊びに来たのなんてほとんど居ない! 楽しんでいたのはお姉様だけ、お前だけ――――!」
パチン。
乾いた、小さな音がひとつ。
あまりにも軽く、風にすら流されそうな音だった。
レミリアが、フランドールの頬を張ったのだ。
平手で、一発。
フランドールは、呆気にとられてレミリアを見る。
「……我が妹ながら、ここまで馬鹿だとは思わなかったわ」
レミリアは、ゆっくりと言葉を絞り出す。
「あなたがここに来るまで、どれほどの心配をかけたかわかる? ずっと前から、あなたが外に出られるように準備をしていたのに。やっと、やっとよ。生まれてからここまでかけて、今日の夜にでも教えてあげようと思っていたのにーーーー」
レミリアは、決して悪意からフランドールを幽閉していたわけではない。
彼女なりに、フランドールを守ろうとした。
ただ、それだけだった。
そして、それが伝わっていたら諍いも起こらなかったのかもしれない。
「もう、いい」
疲労と感情を混ぜた顔で、レミリアは話す。
「あなたは、もうスカーレット家の者じゃない。私の妹でもない。好きにしなさい。もう、誰もあなたを縛らない」
はっきりと放たれた、拒絶の言葉。
フランドールは意味を理解できなかったのか、固まったままレミリアを見る。
叩かれた頬に手を当てて、振り返る姉を見送る。
――もう、スカーレットの者ではない
言葉の反芻が終わった頃には、もう境内にだれも残っていなかった。
かくして、彼女は外に放たれた。
祝福は、来ない。
フランドールは、月と星と静寂だけの世界で。
天井のない部屋で、大声をあげて泣いた。
怨唆も憤怒も含まれない、子どもの声で泣いた。
姉の名前と、ごめんなさいと。
何が悪かったのか、わからないままに。
†††
(事態は思ったよりも、深刻みたいね)
パチュリー・ノーレッジは考える。
ある意味、今回の騒動におけるフランドールの共犯者でもある。
いつも通り雨の結界でフランドールを閉じこめず、外へ出ることを止めなかった。
もっとも、咲夜も美鈴もフランドールが地下室から脱走している時点で部屋に戻そうとはしなかった。
それどころか、注意すらもしなかった。
フランドールを、他の誰よりも知っている紅魔館の住民である彼女たちもその成長を感じ取ってはいたのだ。
元々魔法の扱いに長けていたフランドールではあるが、何より人間と接したことで精神面での成長が著しかった。
そして、もう一つ。
あえて、外に出すこと。
パチュリーにとって、そして紅魔館にとっての大きな賭け。
もしも、その力を里ででも使ってしまえば本当の意味で「退治」されてしまう。
幻想郷からも、彼女たちは追い出される。
だから、細かな場所は教えていなかったのだ。
魔理沙は「森」、霊夢は「神社」。
どちらも、人里から離れたところに住んでいる。
フランドールの性格を考慮し、パチュリーは霊夢か魔理沙のところに行くであろうと見立てる。
彼女らなら、フランドールを悪いようにはしない。
あわよくば正しい常識を教え、さらなる成長が期待できるはずだった。
その実、神社に行ったフランドールは霊夢に外での生活を見せられ、余計な破壊をしないように注意を受けた。
結果、あれだけの危険な吸血鬼が表に出たというのに騒ぎの一つも起きやしない。
十分な成果であった、と言い切っても差し支えない。
問題は、姉の方だった。
常日頃、顔を合わせない二人。
近頃は屋敷の中で顔を合わせる機会もあるが、互いに悪態をついて終わるだけだ。
その裏では、何よりも互いを心配し、想い、慕っているというのに。
ある意味では、正しい姉妹像であるかもしれない。
ただ、それが逆に姉妹を疎遠にしているようにパチュリーには映ったのだ。
実際、誰かが背中を押さない限り永劫にこの関係を繰り返したことだろう。
パチュリーは、レミリア自身を迎えに行かせることでその助けになろうとしたのだ。
それが、よもや大喧嘩になろうとは。
彼女の親友は、自分の手を見て動かない。
「レミィ、あのね」
「パチェ」
パチュリーの言葉は、遮られる。
レミリアは、自分の手を見ながら言う。
「私は、おそらく吸血鬼だ。およそ夜には敵無しで、たぶん昼だって負けない」
「……」
「十字架だって、にんにくだって怖くはない。狩に来た者は、いくらだって殺してやる」
「……」
「人を喰らい、獣を討ち、悪魔を飼う。私たちは、栄えある串刺し公の末裔」
「……」
訥々と、吸血鬼を語る吸血鬼。
傍らの魔女は、黙して何も語らず。
「パチュリー・ノーレッジ」
「何かしら、レミリア・スカーレット」
「私は、本当に吸血鬼か?」
手から視線をはずして、レミリアはパチュリーを見る。
その目に感情はなく、ただ疑問の瞳があった。
――私は、半端者だ。
――私は、水を渡れない。
――私は、魅了されてばかり。
――私は、永遠に幼く在るしかない。
――この手は、なぜこんなにも痛む?
「こんな体たらくのくせに妹を処断とは。我ながら、涙が出るほど情けない」
背もたれに体を預け、レミリアは自嘲する。
笑ってはいるものの、その顔は憔悴しきっていた。
あの傲慢不遜とも言える覇気が、全くと言っていいほど感じられない。
ここまで弱気な彼女は、誰も知らない。
「……その痛みの一端は、私のせいよ」
本を机に置いて、パチュリーは言う。
まっすぐ、レミリアの目に視線を返しながら。
「貴女に妹君を任された身でありながら、私は彼女を野放しにした」
「思慮あってのことだろう?」
「確かに考えはあったけれど、だからって許されることかしら?」
「許す許さないではないんだ。私とフランの喧嘩だから、誰が悪いっていう話じゃない」
「それでも、私は貴女に謝るわ。ごめんなさい」
「ひとまずは受け取っておくけど、何の意味もないわよ?」
「わかってるわ。わかってる」
二人は、そこで口を噤んだ。
タブーに触れたわけでもなく、互いに静止したわけではない。
ただ、言葉が続かなかった。
当座、レミリアとフランドールの仲違いを解消するための方法が思いつかない。
五百年生きた吸血鬼と、百年学んだ魔女であったのにも関わらず。
まともな姉妹喧嘩なんて、したことがなかったのだ。
顔をあわせないか、殺し合いか。
物騒な話、これが初めての喧嘩であったのかもしれない。
少なくとも、記憶に残る限りでは。
「さて、知識人も役立たずか……」
「私の知識は、年頃の少女に関することは専門じゃないもの。生贄以外」
「……年頃?」
「吸血鬼は、成長を捨てたのでしょう?」
「見た目はね。もちろん、精神は別物よ。」
見た目は幼くとも、重ねた年月は偽りではない。
五百の年月で得たものもあれば、捨ててしまいたいものもある。
時折見せる幼い言動も、今のように思い悩む姿もまた彼女なのだ。
フランドールも、同じく。
「何をしているのかしらね、本当に」
「案ずることはありませんわ」
いつの間にか、部屋にはメイド長の姿がある。
表情は平時のまま、主人を憂う様子など微塵も出さない。
薄情かと思われるかもしれない。
しかし、人間の彼女もまた姉妹を最も心配する一人。
「咲夜、フランは?」
「神社に預けて来ました。霊夢なら、何かあっても何とかできるでしょうし」
「そうか」
「ええ、あとはお嬢様が迎えに行くだけですわ」
「……それは」
それができず、ここで頭を悩ませているというのに。
先ほどのアレの後では、顔を合わせることすら至難に感じる。
咲夜は、もしかしてあの様をどこかで見ていたのだろうか。
もしくは、あの展開が予想できていたのか。
「私が迎えに行って、素直に話が進むと思うか?」
「ええ、進みますわ。至極順調に」
「……その自信はどこから来るのか知らないけれど、一応根拠を聞きたいね」
「小難しい話ではありませんよ、お嬢様が折れればそれで終わりです」
「ああ、確かにその方法があったわね」
「どういうことだよ」
「簡単に言うと、フランドール様にごめんなさいしてください」
「は?」
咲夜は笑顔のままだ。
しかし、冗談を言っているとは思えない。
パチュリーは、これで解決とばかりに本を抱えたまま部屋を出て行った。
どうやら、私の味方というか意見を聞く者はこの部屋にいないらしい。
「姉妹喧嘩なんて、単なる意地の張り合いですよ。先の言葉に本心は少ししか混ざっていませんわ」
「少しは、本音か」
「思ってもいない言葉を出せるほど、フランドール様はひねていませんから」
「……」
「何か?」
「……いや、何でもない」
時々、このメイドが人間なのかわからなくなる。
スキマほど胡散臭くも無いけれど、私の想像に真横から割り込んでくる。
ちょうど、私の知識の穴を埋めるように。
人間って、みんなこうなのか?
私の機嫌一つ誤れば、八つ当たりの的になって命を落とすかもしれない。
まぁ、咲夜はそれすら避けるのだろうけど。
「……わかった、私が折れるのはよしとする。でも」
「問題が?」
「私の言葉を、フランドールは聞くとは思えない」
さもなくば、神社は三度目の倒壊を迎えることになる。
そして、私がそれを目の当りにして落ち着いていられるとは思えない。
元の木阿弥どころか、ハチの巣を両手に持って振り回すように悪化しそうだ。
「それも問題ありませんわ。話は出来ないでしょうけれど、連れて帰ることはできますわ」
「どうやって」
魔法でも使えというのか。
それはパチェの得意分野であって、私の性には合わない。
引っ叩いて連れ帰るほうが、如何にも私らしいではないか。
「そろそろ、泣き疲れて眠っている頃かと。この機を逃せば、お嬢様が危惧したとおりになりますね」
「何でわかる?」
「いつも、見てましたから」
咲夜にとっては何気ない一言かもしれないけれど、私の心に深くそれは突き刺さる。
四百と九十五年。
人間ならば、七つ代替わりしてもおかしくない月日。
閉じ込めていたとはいえ、それだけの時間を過ごしたのに私はそんなことも知らなかったのか。
咲夜のことだ、無神経に今の言葉を放ったわけではないだろう。
時々抜けた言動をすることはあるが、こういった場面でミスをしないからこその瀟洒。
さて、その意図はどこにあるだろう。
「ささ、時間がありません。お早く」
「霊夢にも、謝らないとな」
「そちらのほうが難しいかもしれませんわね、見返り的に」
「……今度、いい菓子でも渡しに行こう」
本日二度目、妹の迎えに行くことになった。
アレだけ大騒ぎしておいて、最後は連れ去るか。
全く、情けない姉もいたものだ。
妹を連れ戻すだけで、一体何人に迷惑をかけてしまったのか。
本当に、後が怖い。
月は、山に隠れそうなほどに低い。
もはや、私にプライドなんか残っていない。
仲直りしたら、みんなに謝りに行こう。
†††
「行った?」
「ええ、この分なら夜が明けたころにはお帰りになるでしょう」
「面倒かけたわね」
「仕事ですから」
「そう」
レミリアが出かけた後、パチュリーはまた居間に戻ってきた。
一度は部屋から出たものの、やはり心配であったらしい。
咲夜は、どこからともなく珈琲を取り出してパチュリーの前に差し出す。
それを、一口。
「うまくいくかしら」
「あら、パチュリー様でも不安になることがあるんですね」
「ロケットとは違うのよ。姉妹の仲を取り持つことが、月に筒を飛ばすより難しいなんてね」
「お互い、一筋縄ではいきませんからね」
「……大泣きして、メイドに叱られて。もう意地の張りようもないでしょう」
少なくとも、今日限りは。
「うまくいくかしら」
「もし駄目でしたら、この館どうなるんでしょうね?」
「全壊」
「恐ろしいですわね」
「それはともかく、もう一杯もらえる?」
「かしこまりました」
親友と従者は、主の帰りを待つ。
†††
私の能力は、運命を見ること。
具体的にどうと説明することはできないが、今はそれが空しく思える。
ここまでメイドの予見どおりとは、あの人間が本当に人間なのか非常に疑わしく思える。
「迷惑かけたわね、霊夢」
「本当よ。こっちは寝れたもんじゃなかったんだから」
「あー、うん。今度、食事に招待するわ。ちゃんと人間でも食べられる物を用意させる」
「そうしてちょうだい。はい、お姫様は任せた」
フランは、完全に泣き疲れて眠っていた。
腫れた目を見ると、胸が締め付けられる。
人間はこんな時、どのようにこれに耐えるのだろうか。
霊夢からフランを受け取り、抱きかかえた。
同じくらいの身長の体を抱きかかえるのは、意外と難しい。
赤子の時にはあんなに小さくて、すっぽりと腕に収まったのに。
「……」
「寝てからもごめんなさいって寝言で言ってたわよ」
「うん」
「あんたが妹をどうしようと勝手だけどね、神社を壊すようなことはしないでね」
「善処する」
「じゃ、さっさと帰りなさい。あんたらは太陽が嫌いなんでしょ?」
霊夢が指す山の向こうには、藍色と朱色のグラデーションが広がり始めていた。
もうじき、夜が明ける。
日光に当たってすぐ灰になるわけではないけれど、この状態で日傘を差すことはできない。
そして、フランが起きる前に帰ったほうが良さそうだ。
これ以上、霊夢に迷惑をかけるわけにはいかない。
咲夜や、パチェにも迷惑はかけられない。
私が、この騒動を治めなくちゃならない。
私が、姉なのだから。
「今回は、本当に迷惑かけた。申し訳もない」
「あんたが殊勝だと、何か気持ち悪いわね」
「けじめだよ。他意なんかない」
「そう」
「そうだよ」
私が謝罪なんて、いつ以来だろう。
もしや、これも初めてか?
……フランは、私より先に謝っていたんだっけ。
つくづく、駄目な姉ね。
畏怖もない、伝承と違うばかりの吸血鬼。
私は、上る朝日に背を向けて飛び立った。
†
フランドールの部屋、つまり地下室には当然窓がない。
上階も日中はカーテンで覆われ、中はさながら夜の帳が下りたようになっている。
「ではお嬢様、上でお待ちしております」
「うん、何かあったら呼ぶよ」
「失礼いたします」
咲夜が出て行って、地下室にはレミリアとフランドールの二人きり。
まだ寝たままのフランドールが起きるまで、ベッドに腰掛けてレミリアは待つ。
レミリアは、何も言わず暖炉の火を眺めている。
暖炉の火は、地下室の壁にレミリアの影を映し出す。
その影は、さながら悪魔そのものであるにも関わらず、彼女の表情は沈んでいた。
外見相応の、幼い少女がそこに居た。
そのまま、どれほど時間が流れただろうか。
そろそろ、夜が完全に明けた頃。
フランドールが、小さく身じろぎした。
「おはよう、フラン」
レミリアは、暖炉から視線を外さずに声をかける。
返事はない。
寝ぼけていたとしても、その声は届いたはずだ。
寝息もなく、フランドールは動くまいと体を強張らせた。
自分が起きていますと言っているようなものだが、本人は気づかない。
ため息を一つ吐いて、レミリアは続ける。
「外は、楽しかった?」
フランドールにとっては、予想もしなかった一言だろう。
相変わらず反応はないが、被った布団の中でどんな表情をしているかは想像に難くない。
レミリアは、その反応を知ってか知らずか言葉を続けた。
「最初が霊夢のところでよかったわ。あそこなら殺されることはないもの」
「……」
「夜で、晴れていたのも良かった。私たちの行動に最も適した天候よ。雨だけはどうしようもない」
「……」
「あとは……そうね、咲夜でも供に付ければ良かったと思うわ。大抵のことは片付けてくれるし」
「……どうして」
フランドールは、布団を払いのけて起き上がる。
その顔は八つ当たりに近い憤りと、今にもあふれようとしている涙が同居している。
当人も、自分の感情を制御できていないのだろう。
非常に、危うい状態。
いつ感情が破裂してもおかしくはない。
レミリアは、その妹の顔を見ても動じない。
僅かに赤い痕がついた頬と、赤く腫れた目を見ても。
「どうして……怒らないの!」
枕に爪を立て、強く握ったそれを布団に何度も叩きつける。
常ならば、レミリアがフランドールを叱り付けてからの喧嘩で終わる。
売り言葉に買い言葉が始まり、優劣のつかない大喧嘩の開幕。
それをパチュリーと咲夜が仲裁し、美鈴が手当てをする。
咲夜の言葉は、それを見越してのものだ。
彼女の能力ほど、全力の姉妹喧嘩を止めるのに便利なものもなかった。
今この時にも、姉妹の家族は踏み込む用意をしいているはずだ。
だが、今回ばかりは展開が違う。
「このっ……このっ……!」
フランドールの八つ当たりは続く。
枕の布は破れて羽毛が舞い、その膨らみは萎んでいく。
困惑しているのだろう。
姉が自分の部屋に来て、この状況で喧嘩をしなかったことなどなかった。
まして、喧嘩の後で姉が部屋に来たこともない。
お互いに、顔を合わせたくなくなるからだ。
気まずいということもあり、大喧嘩をしたことで何が原因かうやむやになってしまう。
そして、結局は周囲の力を借りて仲直り。
「フラン」
レミリアは、フランドールの手を取る。
決して力を入れず、そっと添える程度。
レミリアは話を進めるためだったが、フランドールはまた頬を張られるのかと怯えた顔を見せる。
頬を張られるよりも、遥かに重い怪我を負ったことは何度もある。
単純に比しても、蚊に刺された程度だろう。
痛みよりも、姉に真っ向から頬を張られたという事実が痛みより勝っていた。
五百年近くも生きて、初めての衝撃。
レミリアは、頬を張ったその手で痕に触れる。
反射的に、フランドールは目を硬く閉じる。
「痛かった……わね。ごめんね、フラン」
「!」
フランドールは、レミリアを見る。
吸血鬼は、不遜で傲慢で自分勝手な一族だ。
レミリアやフランドールのような幼いソレであれ、大人の姿をして椅子で尊大にしている姿であれ。
自らの行いに関して謝罪など、滅多にするものではない。
彼の者は、夜の王。
そして、館の主人として吸血鬼たろうとするレミリアが。
妹に謝ることなど、誰が想像できただろう。
呆気にとられるフランを、レミリアは抱き寄せる。
勤めて優しく、頭をなでた。
慣れない手つきではあるが、人間の姉が妹にするように。
そこにあるのは、愛情以外の何物でもない。
呆けたままのフランは、どうやら堰き止めていた感情が溢れたらしい。
レミリアにしがみつくように抱きついて、レミリアの背を強く掴む。
顔をレミリアの胸に埋めて、小さい声で泣き始めた。
「……ごめんなさい」
「いいのよ。私より、ちゃんと迷惑かけた人に謝ること」
「わかった……」
「……」
「……お姉様?」
「気にしないでいいの。今日は存分に泣きなさい」
暗い暗い地下室に、すすり泣く声が一つ。
悪魔は二人。
しまいはひとつ。
†††
「……終わったわ」
「お疲れ様でした。部屋の破損などは?」
「なにもなし。今日は鍵をかけなくともいい。私はもう寝る」
「……」
「何、あんたそんな驚いた顔できるの?」
「……まぁ、爆発はなくとも怪我くらいはあると思っていましたので」
「日頃の行いって奴か」
「そうですわね」
「……」
普通、従者は主人にもう少し優しくあるべきではないかしら?
それはそれで気味が悪いが、ここまで辛辣である必要もないと思う。
「それから、明日は霊夢の所に行くから菓子か何か用意しておいて」
「かしこまりました」
お辞儀する咲夜に言伝し、私は寝室へと向かう。
本当はパチェにも一言声がけしたいけれど、図書館に引きこもっていることだろう。
それに、先に一言もらっているから別段気にはならない。
事の顛末くらいは報告しないといけないけれど、もしかしたらもう何が起きたか知れているかも。
私は、寝室のドアを開けた。
寝ると宣言した以上、勝手に部屋に入る奴はいない。
部屋の掃除は咲夜がしてくれているし、何より今は寝ていてしかるべき時刻。
実は、私の眠気もそれなりにピークを迎えている。
服を適当に脱ぎ捨て、寝巻きに着替える。
そのまま、いそいそと布団へ。
……やっぱり、慣れないことというのは疲れる。
泣く子をあやすなんて、五百余年生きて初めてだった。
姉として、恥ずかしくない所を見せられただろうか。
叩いてる時点で、そんなものは無かったような気がするけれど。
右の手のひらを眺めながら、考える。
軽く、本当に軽く叩いたつもりだったのに、手にまだ感触が残っている。
「つくづく、甘い……」
当主としても、吸血鬼としても、姉としても。
かくあろうとしても、私は何一つ達成していない。
まるで、それらのレプリカほどの価値しかない。
今日の前進か後退か横道かわからない一歩は、それに近づくものになったのかしら。
答えは無い。
あるのならば、悩んだりしない。
でも、誰かに与えられた答えなんて真っ平ごめんだ。
フランドールの愛し方なんて、私にしかわからないのだから。
コンコン。
ノック。
決意を固めようとしたところに、水を差された。
誰だ、こんな時間に。
「お姉様……」
「フラン? どうしたの?」
「……」
ドアを開けて入ってきたのは、フランだった。
フランも眠るつもりだったらしく、寝巻きにパジャマ。
胸に枕を抱えて、気恥ずかしそうにしている。
ああ、なるほど。
「眠れないの?」
「……」
首を振る。
ふむ。
この時間だし、眠れないということはないか。
そうすると……。
私は、自分だけでは大きくスペースが余るベッドの中央から少し動く。
「おいで」
ゆっくりと、ベッドに上がるフラン。
……黙られると、私まで恥ずかしくなるじゃないか。
何か言え。
言葉に出さずとも、妹は何かを読み取ったらしい。
さっさと布団に潜り込んで、猫のように丸まってしまった。
……まぁ、さっきの今じゃ仕方ないか。
私も、さっさと眠ってしまおう。
二人で横になってようやく、ベッドにちょうど見合ったサイズになる。
フランの体で、ベッドがほんのりと温かい。
だから何だという話だけど、まぁ、その。
……少しだけ、心地良い。
私は、フランを軽く抱き寄せる。
今度は怯えた様子も無く、むしろ体を寄せてきたように感じる。
少しだけ、妹に近づけた気がした。
いつの日か、スカーレットの名に恥じない私になれるのだろうか。
答えは求めない。
今は、フランの温もりだけでいい。
たとえ、それが気休めであったとしても。
†
「雨降って地固まる、だったかしら」
「涙雨ですね」
「全く、一枚噛んでいようがいまいがややこしい姉妹だわ」
「同意させていただきますわ」
ため息をつきながら、二人は言う。
従者と親友は、どこまでも二人に振り回された一日だった。
勝手に喧嘩して、勝手に仲直り。
表舞台の裏で、彼女たちがどれだけ気を揉んだことか。
それにも関わらず、二人は笑顔だった。
「……明日のお詫び、良ければ私もついていくわ」
「あら、珍しい」
「魔理沙を張ってるとでも嘯けばいい」
「ふふ、お菓子は多めに用意しておきますわ」
「お願い」
パチュリーは、それだけ言い残して寝室の前から去っていった。
照れた顔を隠すように、珍しく早足。
くすりと笑いながら咲夜も、音を立てずに静かに立ち去る。
紅魔館全体を巻き込んだ姉妹喧嘩は、これにて一件落着となる。
神社への謝罪はあるものの、それはまた別の話。
†
「……ねえ、お姉様」
「……何?」
「偽者の私と、今の私。どっちが温かい?」
「……はぁ。二度と、妹の心臓を抉るような真似はさせないでほしいわ」
「ふふん。で、どっち?」
「もちろん……」
私は、フランの頭をもう一度撫でた。
「貴女に決まってるじゃない」
「……ふふふ」
「何よ、気持ち悪いわね」
「お姉様」
「ん?」
「……大好き」
そう言うと、フランは恥ずかしいのか布団に頭までもぐりこんだ。
ま、照れ隠しということで黙っていてあげましょう。
フランに聞こえないように、私はぽつりと呟いた。
「私もよ、フラン」
頬が熱い。
きっと、私もフランも林檎のように顔を真っ赤にしているのだろう。
慣れないことは、やはりするものではない。
気恥ずかしさから逃れるべく、私は眠気に身を委ねる。
明日は、もう少し妹との距離が縮まることを願いながら。
「おやすみ、フランドール」
「……おやすみなさい、お姉様」
了
お姉様は、私が嫌いなのですか?
お姉様は、何で私を閉じ込めておくのですか?
私が嫌いなら、私はここを出ようと思います。
閉じ込めておくだけなら、こじ開けてしまおうと思います。
私も、外の世界が見たい。
一応、代わりの私を置いていきます。
閉じ込めておくだけなら、代わりだっていいでしょう?
さよならお姉様。
お元気で。
†††
鍵を開けて、外に出た。
四百年くらいは、古い何十もの結界で。
百年くらいは、パチュリーの雨の結界で閉められた鍵。
それでも、咲夜とかパチュリーが何度も開け閉めしてるところを見たから開け方はわかった。
意外と簡単で、ちょちょっと魔力を流してあげれば開く仕組み。
霊夢や魔理沙が殴りこみに来たあと、パチュリーに魔法を教わって思いついた方法。
出られるようになるまで、何度も何度も試行錯誤。
時々、間違えて扉ごと吹っ飛ばしたりもした。
いつものこと、とアイツはやっぱり現れなかった。
ま、それも過ぎたことね。
これから、外に出るんだもの。
廊下には、だーれもいない。
正確には、妖精メイドがいるんだけどそれは問題にならない。
適当にあしらうか、咲夜の名前を出せばいいんだもの。
ばれちゃいけないから、吹っ飛ばせないし。
ちょっとだけ、フラストレーション。
見慣れない、ちょっと大き目の妖精もいたけれど何だったのかしら。
黒髪とか、ドリルみたいな髪型だったけど。
ともあれ、気づかれないようにこっそりこっそり。
途中、何匹かはきゅっとしたけど大丈夫よね。
復活するし。
そんな感じで、正面玄関。
ここまでが順調だったものの、ここで大きな障害。
なんで、咲夜がいるのかしら。
それも、パチュリーと一緒に。
「では、今度買い足しておきましょう」
「ええ、お願い」
「美鈴の分は、どうしましょうか」
「そうね……ま、ついでだからいいんじゃない?」
「かしこまりました」
買い物の相談だったのか、咲夜は出て行った。
「……ん?」
!
パチュリーが、こっちに気づいた?!
やばいやばい。
蝙蝠に化けて、適当なつぼの中。
「また、レミィが何か考えてるのかしら?」
もしかして、アイツと勘違いされた?
で、あるならば。
このままやり過ごすのが、賢いレディというもの。
押し黙って息を呑んで、パチュリーに黙秘を続ける。
「ま、いいわ」
やや、睨まない合いが続いたあとでパチュリーは図書館へ。
まさか、また雨で足止めを?
こんなに苦労して出たのに、そんなことしたら恨むわよパチュリー!
物理的に!
慌ててドアノブを捻り、開け放つ。
東の空は暗く、西の空は朱に染まる。
「あれ、妹様どうされました?」
美鈴がいた。
花の植え替えの途中なのか、顔と手は土だらけ。
「今年は、花時計にしようと思いましてね? あ、誰かに見せるわけじゃないですよ」
美鈴は、聞いてもいないのに照れくさそうに答える。
それよりも、そこから早く退いてほしい。
もしかしたら、察知してこっちに寄ってきたのか。
恐るべし。
「たいちょー。なんか妖精攻めて来たよー」
「はいよー。妹様、黄昏時は陽が強いので注意してくださいね。日傘をどうぞ」
美鈴は、呼ばれたままに門へ。
私、何も一言も言ってないけど……。
それよりも、今がチャンス。
戸の横には、ピンクの日傘。
傘の柄には、私の名前が彫られている。
出たこともないのに、出されることもなかったのに何であるんだろう?
考えても、わからない。
でも、必要だから使うことにした。
門は美鈴が気付いちゃうから、こっそり脇の塀を飛び越える。
パチュリーが結界でも張ったかと思ってたけど、そんなことも無かった。
広がるものは、黄昏の陽を浴びる森。
私の、初めての外。
まず、目指すは魔法の森。
もしくは、遠い遠い神社。
†††
創ることは難しくても、壊れる時はほんの一瞬。
私は、齢五つでそれを知った。
たったの五年。
寿命を放棄した吸血鬼からすれば、爪先にも満たない年月。
そして、私が他の吸血鬼を見ていたのもこの時が最後。
私は、運命を見るということがどういうことか理解していない。
残ったモノは、手の中の赤ん坊。
私に遅れることたったの、五年。
または、実に五年。
私にとっての、世界は死んで。
妹が、生まれた。
†††
「お嬢様、そんなことなさらずとも私が」
「いいのよ。今日からは、私が持っていくことにする。拒否権は、無いわ」
「かしこまりました」
「ちょっとは、食い下がりなさいよ……」
紅い紅い館。
泣く子も喰らう、吸血鬼。
ガラガラと、ワゴンに紅茶を積んで運ぶ。
このワゴンは、咲夜がいつも使っているものだ。
だから、レミリアが運ぶには少々大きすぎる。
極端な例えをすれば、つかまり歩きをしているように見えるのだ。
これでも、この館の現主人。
ただの手伝いをする子どもにしか、見えないが。
油断すれば、人を喰らう鬼なのだ。
「さて、フラン好みのお茶請けって何かしら」
「ケーキ、クッキー、その他人間ですわ」
「そろそろ、生身で入れちゃえばいいんじゃない?」
「消し炭ですわ」
「そうね」
他愛もない会話で時を潰し、地下室に向かう。
その途中、パチュリーと遭遇した。
相変わらず、寝不足のクマを目元に飼い慣らしている。
最も、その健康状態ついて指摘する者は咲夜しかいないのだが。
「メイドでも始めたの? レミィ」
「パチェ、私が耐えられると思う? 私は、無理だと思う」
「同感」
「否定してよ」
肩を竦めるレミリアと、表情の変化が乏しいパチュリー。
まるで息が合っていないが、これでも百年来の付き合いであったりする。
荊のような会話も、互いにとってはいつものこと。
「ああ、そうだ。咲夜、私はこれから寝るわ」
「これからですか?」
「そうよ。図書館を閉めて寝るから、起こさなくていいわ」
「かしこまりました」
「あら、あなた健康志向に目覚めたの? 数日間、寝ずに読書したりしていたのに」
「原因はそれで、あなたのためでもある」
「?」
「おやすみ」
パチュリーは、図書館へ向かう。
「咲夜、何の事かわかる?」
「存じあげませんわ」
「そうか」
レミリアは、それ以上何も言わない。
この従者は、主人のためなら平気で嘘を吐いて押し黙る。
何かある、と気付いていながらもレミリアは追及を避けた。
おそらくは、自分のためなのだと言い聞かせて。
フランドールの部屋は、地下にある。
螺旋状の階段を、しばらく行けば突き当たりにそれはある。
悪魔の妹を封じておくには、なんてことない平凡な扉。
魔女によって施された封印が無ければ、物置と言われても文句は言えない。
「咲夜、ここまででいいわ」
「かしこまりました」
言うが早いか、咲夜は姿を消した。
つくづく、理解が早いとレミリアは思う。
正味、幻想郷においては彼女に並ぶ従者はいない。
完璧でショウシャ、肩書きに偽りはない。
稀な失敗が、瑕にもならないほどには。
だからこそ、レミリアは惜しむ。
彼女が、寿命を持つ人間であることを。
人間の一生など、吸血鬼からすれば芥に等しい。
寿命をごまかす程度、咲夜の能力なら簡単だろう。
しかし、彼女はそれをしない。
レミリアも、咲夜にそれを望まない。
主人は従者を哀れむことなく、従者もレンビンを求めない。
咲夜を見送って、レミリアは深呼吸をひとつ。
彼女と妹を隔てるドアに、手をかけた。
「フラン、入るわよ」
紅魔館の地下室は広い。
旧都とはいかないまでも、並の家数軒は入る。
簡単な祭りであれば、里の人間を総動員したところで窮屈になることはないだろう。
物理的な意味だけでなく、パチュリーオリジナルの仕掛けも多い。
力をある程度抑制する、水の魔法が随所に流れている。
今のレミリアのように中央であれば、気になるほどではない。
ただし、壁に近づくほど吸血鬼の力を奪う。
フランドールの癇癪にも、十分耐えうる程度には。
まだ、この仕掛けが破られたことはない。
(まあ、癇癪自体起こしてないのだけれど)
姉が見た、最後はいつだったか。
それとも、
(癇癪じゃなく、抵抗しただけ、か)
フランドールは、ベッドの上にいた。
この広大な空間に一人では、できることは限られる。
495年もの間に、できることはやりつくした。
眠ることしか、残っていないのかもしれない。
ともあれ、レミリアは笑顔で迎えられた。
安堵して、胸を撫で下ろす。
「フラン、今日は咲夜が厳選した茶葉よ」
フランドールは、笑顔を崩さない。
悪戯の最中のように、笑う。
「あと、明日は霊夢が来るそうよ。良かったわね」
茶葉の缶を開け、用意した湯でカップを温める。
咲夜に比べれば、手際は劣る。
当然、レミリアはほとんど自分で紅茶を淹れた経験がない。
どのようにすれば、美味にできるかなど知る由も無かった。
今、それがわかるのは咲夜の指導の賜物である。
レミリアは、正しくこの日のために研鑽を積んだのだ。
大げさかもしれないが、彼女は間違いなくこの時を意識していた。
「今日のお菓子は、クッキーかケーキよ。どっちがいい?」
紅茶を淹れたレミリアは、フランドールへ向き直る。
フランドールは、笑顔。
レミリアが部屋に入ったときから、変わらない。
貼り付けられた、張りぼての感情。
その笑顔を見て、レミリアはティーカップを取り落とした。
着地するまでの間、紅に近い琥珀色を零しながら回るカップ。
そして、白い器は紅い花を咲かせ――――
「……どういうこと?」
フランドールは、その胸を貫かれた。
†††
例えば、旅をするとしよう。
個人差はあれど、目的地と経路くらいは調べる。
迷うことなく、目的地にたどり着くために。
行き先がわからなければ、永遠にさまよい続ける。
行き方がわからなければ、一寸先さえ闇となる。
つまるところ、
「どこだろう、ここ……」
フランドールは、迷子だった。
そもそも、魔法の森の正確な位置さえ知らない。
夜目は利くといっても、上空から森など見分けがつかない。
そこを根城にしている者だけが、我が家にたどり着けるのだろう。
不要となった日傘を振り回しながら、フランドールは見知らぬ場所を闊歩する。
ちなみに、ここは博麗神社に近いただの森。
特にいわくも何もなく、見通しが悪く迷いやすい。
ただの森だった。
フランドールは、幻想郷の地理を全くもって知らなかったのだ。
「森」という単語しか知らず、実物を見たことはない。
そして、迷うということすらも初めてだった。
彼女は生まれてこの方、家から出たことがなかったのだから。
しかし、フランドールは微塵も慌てた様子がない。
簡単に殺されることのない吸血鬼である、ということもある。
そして、何より自身の持つ能力がその自信の源だった。
「んー、ここ一帯消し飛ばせばいいかな。それとも、焼いちゃおうかな?」
ありとあらゆる物を、破壊する程度の能力。
もしくは、古き神スルトの息を模したスペル『レーヴァテイン』。
どちらを用いたとしても、森一つが無くなることに変わりはない。
そう判断して、フランドールは杖を手に取る。
炎が、フランドールを妖しく照らし出す。
ごっこではない、スルトの杖を模したレーヴァンテイン。
フランドールが腕を下ろせば、その範囲の木々は全て炭になるだろう。
吸血鬼の魔法は、それほどの威力がある。
「せー…………のっ!」
炎の杖は、振り下ろされた。
横向きに、力任せ。
解放された魔力は、その猛威をもって幻想郷の静かな夜を打ち壊す。
はずだった。
「あれ?」
焼き尽くすはずの炎は、杖から跡形も無く消えていた。
森を照らす光も消え、残ったのはフランドールだけ。
先ほどと違う点は、杖にお札が一枚貼り付けられていること。
「まったく……いやな予感がして来てみれば、何やってるのよこのバカ」
「あ、霊夢だ」
「霊夢だ、じゃないわよ。喧嘩でも売りに来たの? それとも、私を殺そうとでも?」
「迷ったから」
「は?」
「迷ったから、道を作ろうと思っただけよ」
「……」
幻想郷が火の海になる事態は、避けられた。
霊夢の勘は、いつもどこでも正しい。
「あんた、保護者は?」
「今日はいないわ。淑女の散歩に、問題でも?」
「大アリよ。このウルトラバカ」
「ひどーい。アイツに言い付けてやるんだから」
「勝手にしなさいよ。あんたは、牢屋に連行ね」
「えっ?」
「身元引受人が、早く来るといいわね」
出歩いた場所は、湖を越えて名も無い森まで。
もう少し早い時間であれば、夕陽に照らされる景色が見れたことだろう。
今宵は、月さえない闇の夜。
あまりにも、あっけなく。
フランドールの初めての散歩は、こうして終わりを告げた。
博麗神社境内。
フランドールは、文字通りお縄についていた。
暴れられないように、結界のおまけ付きである。
捕まえた霊夢はといえば、見張りと称して船を漕いでいる。
フランドールは、頬を膨らませて不満を表すが誰も見ていない。
最初は抵抗を試みたが、無理だと悟ったのだ。
触れようが殴ろうが、反撃はない。
その代わり、それを水のように受け流す。
また、縛っている縄も博麗神社特製。
力でも、妖怪でも破れない。
内側からの力を、ある程度まで受け流す。
現状、フランドールは身じろぎすら難しい。
名実ともに、捕らわれの身。
「おや、珍しいのがいるね」
フランドールの前に、声が響く。
霊夢が起きた様子は無い。
「西の方にいた鬼か。なるほど、噂どおり姉にはさっぱり似てないね」
「……誰?」
「おおっと、こりゃ失礼」
フランドールと霊夢の間、上半身だけ姿を現す。
伊吹萃香。
神社に棲みついた、東の古い旧い鬼である。
見た目こそ、フランドールと変わらない。
その実、フランドールの倍以上生きている。
「さて、お嬢ちゃんは何をやらかしたのかな?」
「ちょっとだけ、森を消し飛ばそうとしただけよ」
「へえ、なかなか面白い考えだ。でも、神社の近所なのはまずかったね」
「神社がこっちなんて、知らなかったのよ」
「まあいいさ。お嬢ちゃんの迎えは、いつ来るのかな?」
「さぁ?」
「素っ気ないね」
「アイツは、私のことどう思ってるかわからないからねー」
「ふぅん」
萃香は、瓢箪を飲みながら話す。
外を追われた鬼同士、何か感じるものでもあるのだろうか。
数珠のように続く、「アイツ」とやらの愚痴はとどまることを知らない。
萃香は思う。
心なしか、最初よりも顔に生気が満ちていると。
あえて、それは指摘しない。
鬼の悪い癖だ。
それが正しいことだろうと、誤った感情であろうと。
鬼は、助けない。
ただ、さらうだけだ。
もっとも、萃香に鬼をさらう趣味はない。
「……って感じなのよ。嫌になっちゃう」
「へぇ、そうかいそうかい」
「……ちゃんと聞いてた? パチュリーは、会話がコミュニケーションの始まりだって言ってたわ」
「出会い頭に豆投げる奴の台詞かね」
「あ、あなたも豆嫌いなの?」
「嫌いじゃなくて、弱点なんだよ。当たると痛痒い」
「ふーん……ところで、これは外せる?」
「いんや。紫じゃないと無理だね。結界は、専門外」
「残念。あなたと遊ぼうと思ったのに」
「嬉しいけど、霊夢に怒られるからね。それに、もう間もなくだ」
障子の向こうでは、欠けた月が雲に隠れた。
萃香は、再び体を霧に変える。
フランドールは、眉を寄せて不満を顕わにする。
「えー、あなたまでいっちゃうの?」
「霊夢も起きそうだし、何より迎えが来るよ」
「え?」
「余計ついでに、一つ忠告だよ。あんたが言ってた不平不満も、害意とは違うところから生まれたものさ。多分、不器用なんだろうね」
「?」
「ま、わからなきゃそれでいいよ。ここに二人しかいない西の鬼だ。仲良くすればいいよ。私と違って、まだ仲間がいるんだからさ」
じゃあね、と残して萃香は消えた。
少しの酒香を残して、跡形もなく。
「……何よ。わけわかんない」
残されたのは、フランドールと完全に横になった霊夢だけ。
まだ、姫君の迎えは来ない。
†††
戸を開け放つ。
開け放つというのは、あくまで私の感覚だけのもの。
本当は、砕けて廊下に飛び散った。
そんなことは、どうでもいい。
「咲夜! 咲夜はどこ!」
感情に任せて、声を張り上げる。
地下室から戻る最中、壁を思い切り叩く。
当然崩れはしないが、ヒビ程度は入った。
だからといって、気分は少しも晴れはしない。
逆の手に持った紙切れが、握りつぶされてくしゃりと悲鳴を上げた。
地下から出れば、廊下には誰も何もいない。
いつも居るはずの妖精メイドは、轟音を聞いて隠れたのだろう。
全くもって、役に立たない。
そして、役に立つはずのメイドはどこへ行った。
私の理性は、もう間もなく限界を迎えるぞ!
「お嬢様! 何事ですか!」
「遅い。緊急事態よ、今すぐフランを探しなさい」
「フランドール様が、何かなされたのですか?!」
「これを見なさい。私も出る。あの馬鹿が、こんな紙切れ一枚おいて行方不明よ」
「しかし、お嬢様」
ぎちりと、歯が軋む音がする。
問答をしている暇などない。
今、この館がもぬけの殻になろうとも優先されるべきはフランドール。
あの子を置いて、他にないのだ。
そうだ、パチェにも頼もう。
動けないまでも、何か知っているかもしれない。
いや、知っているはずだ。
フランドールが暴れるとき、外に出ようとするときはパチェが止めていた。
私たちの弱点である流水だったり、太陽だったりを擬似的に作り出せる。
パチェは、この館で唯一吸血鬼の弱点をつける貴重な魔女なのだ。
そして、知識人と言われるだけあって智慧でも頭一つ抜けている。
何処に行ったか、見当が付くかもしれない。
せめて、どこに行くかがわかりさえすればそれでいい。
あとは、私が行って連れ戻す。
それだけで、いい
「口答えも、不満も聞かない」
「……かしこまりましたわ」
咲夜は、数枚のトランプを残して消えた。
外は、もう陽が沈んで藍色の空。
日傘は必要ないだろう。
次はパチェだ。
図書館で寝ているらしいが、叩き起こす他ない。
きっかけだけでもいい。
知っているなら、全部話させる。
踵を返して、図書館へ向かう。
そうだ、何か知っているに違いない。
私は、それ以外の思案を全て押さえつけて歩みを進めた。
八つ当たりでしかないが、全てフランドールのためだ。
こんな状態でも、闇雲に探しても見つからないことだけはわかっていた。
とにかく早く、早く。
急いている私は、大事なことに気づかない。
「パチェ! 出てきなさい!」
親友は、宣言どおり図書館を締め切っていた。
ご丁寧に、水属性の結界まで張っている。
流水でないところが、実に作為的。
閉じこもろうと思えば、日と水で固めてしまえばいいのだ。
まぁ、冷静さを欠いた私が言うことではない。
開けられない扉を前に、無駄であることも理解できずにノックを繰り返す。
パチェが眠ると宣言したのだ。
本当に眠っているかどうかはともかく、扉が開くはずもない。
「そうか……もういい」
時間がもったいない。
咲夜が行ったから時間の問題だろうが、ここで落ち着いて待てるほど私は我慢強くなかった。
全くの無駄足であった。
多少無作法ではあるけど、窓から身を乗り出す。
窓枠にかけた足に、力をこめる。
「レミリア様!」
いざゆかんと、気合をこめたところで水を差された。
振り返れば、図書館から出てきた小悪魔だ。
私の表情を見て怯えているようだが、気丈にも睨み返してきた。
「パチュリー様からの、伝言です」
「言いなさい」
「私は手を貸さない、自分で解決しろ、存分に話し合いなさい、と」
「……ふぅん」
「い、以上です」
仮にも悪魔、私の憤怒よりも契約の方が重いらしい。
そういえば、私はこの子のことをほとんどと言っていいほどに知らない。
パチェをこの館に招いて、百年近く。
いつから、パチェの司書をしているのかしら?
「……な、何かご無礼でも」
「いいえ、何もないわ。何ひとつね」
怯えに混じる、困惑の感情。
悪魔とは、思えないような慌てっぷりだ。
あまり図書館から出てこないから、こういった表情を見ることすら初めてだった。
私は、何も知らなかったのかもしれない。
スカーレットの当主でありながら、何も。
「小悪魔」
「は、はい!」
「パチェに、よろしくね」
今度こそ、窓枠を蹴って外に躍り出る。
その音に反応して、門番がこちらを振り返った。
慌てた様子は、ない。
咲夜から聞いたのか、それとも見えたのが私だからか。
門番は、確か今の面子の中では相当の古株のはず。
パチェを招く前から、咲夜を招く前から門を守っていた。
それも、任せたままでろくに様子を見ていない。
最近も、咲夜からの報告で聞くだけに留まっていた。
外も中も、隙だらけ。
こんな私が、フランに対して何を怒る?
495年もの間、妹が怖くて閉じこめていた私に。
何の権利が、あるというのか。
陽はすでに沈み、欠けた月が東に上る。
化け物の時間になっても、気分は晴れない。
咲夜からの報告もなく、当てもなく星空をさまよう。
目指すは、最愛の妹。
私の世界を壊した、最悪の悪魔のもとへ。
†††
月が上った。
先ほどまでの雲は流れ、南の空で高々と輝く。
フランドールは、縄を解かれて縁側に座っている。
霊夢曰く、仮釈放ということらしい。
吸血鬼用の結界もなく、逃げ出そうと思えば簡単に飛び出せる。
博麗の巫女という、最大の障害もない。
背後で、のんきに晩酌を楽しんでいる。
そして、フランドールも逃げ出さない。
霊夢に言われたように、座して迎えを待つ。
「あんた、結局どこに行くつもりだったの?」
「んー、魔理沙のとこ?」
「全く方向違うじゃない。地図も読めないの?」
「地図なんかあったの?」
「……ないわね」
博麗神社は、幻想郷であって幻想郷でないところにある。
ちょうど、『外』との境界線。
博麗大結界に区切られる場所。
今や、妖怪神社と呼ばれるほどに有象無象の集まる場所となってしまった。
この場所は、誰にでも平等。
悲しいほどまでに、徹底された平等がある。
「あーあー、せっかく寝ようと思ったのに一悶着ありそうね」
「面白いじゃない」
「それは、あんたらだけよ」
「ら?」
「妖怪全般。トラブルばっかり起こすんだもの」
「知ったこっちゃないわ。解決するための巫女って、パチェが言ってたもの」
「……どうやら、またあそこに殴りこむ必要があるみたいね」
二人以外に、神社周辺を訪れる気配はない。
非常に、静かな夜だ。
これからの、前触れかのように。
葉の擦れる音一つしない。
何もかも、これから起こることを予知しているかのように。
もしくは、向かってきている者を感知しったのかもしれない。
「ねえ、そのお酒ちょうだいよ」
「ダメよ。まだ子どもじゃない」
「あんたよりも、よっぽど永く生きてるんだけど?」
「見た目の問題よ。いろいろめんどくさそうじゃない」
「じゃあ人肉」
「もっとダメ」
「ちぇ」
「それにしても、遅いわね」
「……」
「ま、そのうち来るでしょう。私はもう寝るわ」
「あれ、待ってくれないの?」
「吸血鬼サマと違って、人間は今が眠いのよ。じゃあね」
「……ちぇ」
フランドールは、未だ縁側にいる。
月も、大きく西へ傾いた。
霊夢はというと、奥に引っ込んだ上に布団をかぶっている。
もはや、夜というよりも朝に近い。
あらゆる圧力に屈しない霊夢であっても、睡魔には白旗を掲げた。
言葉に偽り無く、様子を伺っている風でもない。
先ほどの宣言は、建前ではなかった。
霊夢は、数少ないフランドールの知人である。
館以外のことを知識としてしか、知ることはできない。
それも、誰かを通して主観が入った情報。
館の外を、本当の意味で知らなかったのだ。
そして、憧憬もまた強かった。
強大な力をもつ悪魔でも、知らない土地は歩けない。
彼女にとって、初めての外は広すぎたのだ。
行きたい場所もなく、知っているのは地下室を訪れた人間二人。
広すぎて暗すぎる夜に、一抹の不安を覚える。
一人ぼっちの吸血鬼は、それに地下室を連想した。
頭が悪いわけではない。
心が弱いわけでもない。
ただ、無知で幼かった。
夜の王と称される種族であり、何でも破壊できる力があっても帰り道さえ知らなかった。
迎えを待つしか、ないのだ。
それが例え、彼女が望まなかった展開であったとしても。
「!」
境内に、人影ひとつ。
小柄な体に、蝙蝠の羽。
いつの間にか、迎えは訪れた。
階段を上りきった、鳥居の下。
迎えに来たのは、十六夜咲夜ではない。
その意味では、フランドールの期待通りには行かなかった。
まさか、自分を閉じ込めた張本人が来るなんて。
レミリアの表情を窺うことはできない。
顔を伏せているわけでも、隠してもいない。
ただ、笑顔でないことは確かだろう。
「おねえ、さま?」
「……」
返事は、ない。
フランドールも、ただならぬ気配を察したのか縁側から離れない。
少しだけ、互いの間に張りつめたモノができる。
ただの姉妹だというのに、神社に一触即発の雰囲気ができあがった。
「……」
一言も語らず、レミリアが前に出る。
フランドールは座ったまま身じろぎし、姉の姿をただ見つめる。
境内には、足音が一つだけ。
先ほどよりも、さらに音が減ったように感じる。
夜明けにはまだ遠く、夜も深みを越えてしまった。
草木も眠った、丑三つの刻。
誰も、彼女たちを止められる者は居ない。
着々と歩みを進め、レミリアは愛する妹に手が届く距離へたどり着いた。
フランドールは、立ち上がって胸の前に手を組む。
いつも「アイツ」と呼んでいる姉は、変わらない背丈。
それが今では、とても大きく、恐ろしく見えた。
「フラン、どうして?」
不明確な問い。
「外の、色んな物を見てみたかったの」
純粋の答え。
二人は、495年も姉妹をやってきた。
その内、フランドールがこれほど楽しそうに話すことなど幾つあっただろう。
「ね、お姉様。世界ってとってもすごかったのよ。見たこともないものが一杯だったの」
「そう」
「途中で、霊夢に会ってね。森を吹っ飛ばそうとしたのよ」
「そう……」
「それでね、それでね」
「フラン」
レミリアは、フランドールの言葉を遮る。
フランドールは、ここで初めてレミリアの顔を見た。
その表情は非常に複雑で、笑っているのか泣いているのか。
はたまた、感情ではない何かか。
ただ、その口から出た言葉には確かに感情が乗っていた。
「どうして、勝手に外に出たの?」
「だって、お姉様は教えてくれるだけで連れ出してくれなかった」
「出たいなら、どうしてちゃんと言わなかったの」
「言ったら、出してくれた?」
「……」
「閉じ込めたのも、お姉様。私に会ったのだって、何日ぶり?」
「フラン、話を」
「うるさい!」
目に涙を溜めて、言葉は叫びに近づいていく。
目を覆って、口を大きく開けて吐きだす。
「だって、私だって皆と遊びたかったのに。ずっと寂しかったのに! 会いに来るのは世話係だけで、遊びに来たのなんてほとんど居ない! 楽しんでいたのはお姉様だけ、お前だけ――――!」
パチン。
乾いた、小さな音がひとつ。
あまりにも軽く、風にすら流されそうな音だった。
レミリアが、フランドールの頬を張ったのだ。
平手で、一発。
フランドールは、呆気にとられてレミリアを見る。
「……我が妹ながら、ここまで馬鹿だとは思わなかったわ」
レミリアは、ゆっくりと言葉を絞り出す。
「あなたがここに来るまで、どれほどの心配をかけたかわかる? ずっと前から、あなたが外に出られるように準備をしていたのに。やっと、やっとよ。生まれてからここまでかけて、今日の夜にでも教えてあげようと思っていたのにーーーー」
レミリアは、決して悪意からフランドールを幽閉していたわけではない。
彼女なりに、フランドールを守ろうとした。
ただ、それだけだった。
そして、それが伝わっていたら諍いも起こらなかったのかもしれない。
「もう、いい」
疲労と感情を混ぜた顔で、レミリアは話す。
「あなたは、もうスカーレット家の者じゃない。私の妹でもない。好きにしなさい。もう、誰もあなたを縛らない」
はっきりと放たれた、拒絶の言葉。
フランドールは意味を理解できなかったのか、固まったままレミリアを見る。
叩かれた頬に手を当てて、振り返る姉を見送る。
――もう、スカーレットの者ではない
言葉の反芻が終わった頃には、もう境内にだれも残っていなかった。
かくして、彼女は外に放たれた。
祝福は、来ない。
フランドールは、月と星と静寂だけの世界で。
天井のない部屋で、大声をあげて泣いた。
怨唆も憤怒も含まれない、子どもの声で泣いた。
姉の名前と、ごめんなさいと。
何が悪かったのか、わからないままに。
†††
(事態は思ったよりも、深刻みたいね)
パチュリー・ノーレッジは考える。
ある意味、今回の騒動におけるフランドールの共犯者でもある。
いつも通り雨の結界でフランドールを閉じこめず、外へ出ることを止めなかった。
もっとも、咲夜も美鈴もフランドールが地下室から脱走している時点で部屋に戻そうとはしなかった。
それどころか、注意すらもしなかった。
フランドールを、他の誰よりも知っている紅魔館の住民である彼女たちもその成長を感じ取ってはいたのだ。
元々魔法の扱いに長けていたフランドールではあるが、何より人間と接したことで精神面での成長が著しかった。
そして、もう一つ。
あえて、外に出すこと。
パチュリーにとって、そして紅魔館にとっての大きな賭け。
もしも、その力を里ででも使ってしまえば本当の意味で「退治」されてしまう。
幻想郷からも、彼女たちは追い出される。
だから、細かな場所は教えていなかったのだ。
魔理沙は「森」、霊夢は「神社」。
どちらも、人里から離れたところに住んでいる。
フランドールの性格を考慮し、パチュリーは霊夢か魔理沙のところに行くであろうと見立てる。
彼女らなら、フランドールを悪いようにはしない。
あわよくば正しい常識を教え、さらなる成長が期待できるはずだった。
その実、神社に行ったフランドールは霊夢に外での生活を見せられ、余計な破壊をしないように注意を受けた。
結果、あれだけの危険な吸血鬼が表に出たというのに騒ぎの一つも起きやしない。
十分な成果であった、と言い切っても差し支えない。
問題は、姉の方だった。
常日頃、顔を合わせない二人。
近頃は屋敷の中で顔を合わせる機会もあるが、互いに悪態をついて終わるだけだ。
その裏では、何よりも互いを心配し、想い、慕っているというのに。
ある意味では、正しい姉妹像であるかもしれない。
ただ、それが逆に姉妹を疎遠にしているようにパチュリーには映ったのだ。
実際、誰かが背中を押さない限り永劫にこの関係を繰り返したことだろう。
パチュリーは、レミリア自身を迎えに行かせることでその助けになろうとしたのだ。
それが、よもや大喧嘩になろうとは。
彼女の親友は、自分の手を見て動かない。
「レミィ、あのね」
「パチェ」
パチュリーの言葉は、遮られる。
レミリアは、自分の手を見ながら言う。
「私は、おそらく吸血鬼だ。およそ夜には敵無しで、たぶん昼だって負けない」
「……」
「十字架だって、にんにくだって怖くはない。狩に来た者は、いくらだって殺してやる」
「……」
「人を喰らい、獣を討ち、悪魔を飼う。私たちは、栄えある串刺し公の末裔」
「……」
訥々と、吸血鬼を語る吸血鬼。
傍らの魔女は、黙して何も語らず。
「パチュリー・ノーレッジ」
「何かしら、レミリア・スカーレット」
「私は、本当に吸血鬼か?」
手から視線をはずして、レミリアはパチュリーを見る。
その目に感情はなく、ただ疑問の瞳があった。
――私は、半端者だ。
――私は、水を渡れない。
――私は、魅了されてばかり。
――私は、永遠に幼く在るしかない。
――この手は、なぜこんなにも痛む?
「こんな体たらくのくせに妹を処断とは。我ながら、涙が出るほど情けない」
背もたれに体を預け、レミリアは自嘲する。
笑ってはいるものの、その顔は憔悴しきっていた。
あの傲慢不遜とも言える覇気が、全くと言っていいほど感じられない。
ここまで弱気な彼女は、誰も知らない。
「……その痛みの一端は、私のせいよ」
本を机に置いて、パチュリーは言う。
まっすぐ、レミリアの目に視線を返しながら。
「貴女に妹君を任された身でありながら、私は彼女を野放しにした」
「思慮あってのことだろう?」
「確かに考えはあったけれど、だからって許されることかしら?」
「許す許さないではないんだ。私とフランの喧嘩だから、誰が悪いっていう話じゃない」
「それでも、私は貴女に謝るわ。ごめんなさい」
「ひとまずは受け取っておくけど、何の意味もないわよ?」
「わかってるわ。わかってる」
二人は、そこで口を噤んだ。
タブーに触れたわけでもなく、互いに静止したわけではない。
ただ、言葉が続かなかった。
当座、レミリアとフランドールの仲違いを解消するための方法が思いつかない。
五百年生きた吸血鬼と、百年学んだ魔女であったのにも関わらず。
まともな姉妹喧嘩なんて、したことがなかったのだ。
顔をあわせないか、殺し合いか。
物騒な話、これが初めての喧嘩であったのかもしれない。
少なくとも、記憶に残る限りでは。
「さて、知識人も役立たずか……」
「私の知識は、年頃の少女に関することは専門じゃないもの。生贄以外」
「……年頃?」
「吸血鬼は、成長を捨てたのでしょう?」
「見た目はね。もちろん、精神は別物よ。」
見た目は幼くとも、重ねた年月は偽りではない。
五百の年月で得たものもあれば、捨ててしまいたいものもある。
時折見せる幼い言動も、今のように思い悩む姿もまた彼女なのだ。
フランドールも、同じく。
「何をしているのかしらね、本当に」
「案ずることはありませんわ」
いつの間にか、部屋にはメイド長の姿がある。
表情は平時のまま、主人を憂う様子など微塵も出さない。
薄情かと思われるかもしれない。
しかし、人間の彼女もまた姉妹を最も心配する一人。
「咲夜、フランは?」
「神社に預けて来ました。霊夢なら、何かあっても何とかできるでしょうし」
「そうか」
「ええ、あとはお嬢様が迎えに行くだけですわ」
「……それは」
それができず、ここで頭を悩ませているというのに。
先ほどのアレの後では、顔を合わせることすら至難に感じる。
咲夜は、もしかしてあの様をどこかで見ていたのだろうか。
もしくは、あの展開が予想できていたのか。
「私が迎えに行って、素直に話が進むと思うか?」
「ええ、進みますわ。至極順調に」
「……その自信はどこから来るのか知らないけれど、一応根拠を聞きたいね」
「小難しい話ではありませんよ、お嬢様が折れればそれで終わりです」
「ああ、確かにその方法があったわね」
「どういうことだよ」
「簡単に言うと、フランドール様にごめんなさいしてください」
「は?」
咲夜は笑顔のままだ。
しかし、冗談を言っているとは思えない。
パチュリーは、これで解決とばかりに本を抱えたまま部屋を出て行った。
どうやら、私の味方というか意見を聞く者はこの部屋にいないらしい。
「姉妹喧嘩なんて、単なる意地の張り合いですよ。先の言葉に本心は少ししか混ざっていませんわ」
「少しは、本音か」
「思ってもいない言葉を出せるほど、フランドール様はひねていませんから」
「……」
「何か?」
「……いや、何でもない」
時々、このメイドが人間なのかわからなくなる。
スキマほど胡散臭くも無いけれど、私の想像に真横から割り込んでくる。
ちょうど、私の知識の穴を埋めるように。
人間って、みんなこうなのか?
私の機嫌一つ誤れば、八つ当たりの的になって命を落とすかもしれない。
まぁ、咲夜はそれすら避けるのだろうけど。
「……わかった、私が折れるのはよしとする。でも」
「問題が?」
「私の言葉を、フランドールは聞くとは思えない」
さもなくば、神社は三度目の倒壊を迎えることになる。
そして、私がそれを目の当りにして落ち着いていられるとは思えない。
元の木阿弥どころか、ハチの巣を両手に持って振り回すように悪化しそうだ。
「それも問題ありませんわ。話は出来ないでしょうけれど、連れて帰ることはできますわ」
「どうやって」
魔法でも使えというのか。
それはパチェの得意分野であって、私の性には合わない。
引っ叩いて連れ帰るほうが、如何にも私らしいではないか。
「そろそろ、泣き疲れて眠っている頃かと。この機を逃せば、お嬢様が危惧したとおりになりますね」
「何でわかる?」
「いつも、見てましたから」
咲夜にとっては何気ない一言かもしれないけれど、私の心に深くそれは突き刺さる。
四百と九十五年。
人間ならば、七つ代替わりしてもおかしくない月日。
閉じ込めていたとはいえ、それだけの時間を過ごしたのに私はそんなことも知らなかったのか。
咲夜のことだ、無神経に今の言葉を放ったわけではないだろう。
時々抜けた言動をすることはあるが、こういった場面でミスをしないからこその瀟洒。
さて、その意図はどこにあるだろう。
「ささ、時間がありません。お早く」
「霊夢にも、謝らないとな」
「そちらのほうが難しいかもしれませんわね、見返り的に」
「……今度、いい菓子でも渡しに行こう」
本日二度目、妹の迎えに行くことになった。
アレだけ大騒ぎしておいて、最後は連れ去るか。
全く、情けない姉もいたものだ。
妹を連れ戻すだけで、一体何人に迷惑をかけてしまったのか。
本当に、後が怖い。
月は、山に隠れそうなほどに低い。
もはや、私にプライドなんか残っていない。
仲直りしたら、みんなに謝りに行こう。
†††
「行った?」
「ええ、この分なら夜が明けたころにはお帰りになるでしょう」
「面倒かけたわね」
「仕事ですから」
「そう」
レミリアが出かけた後、パチュリーはまた居間に戻ってきた。
一度は部屋から出たものの、やはり心配であったらしい。
咲夜は、どこからともなく珈琲を取り出してパチュリーの前に差し出す。
それを、一口。
「うまくいくかしら」
「あら、パチュリー様でも不安になることがあるんですね」
「ロケットとは違うのよ。姉妹の仲を取り持つことが、月に筒を飛ばすより難しいなんてね」
「お互い、一筋縄ではいきませんからね」
「……大泣きして、メイドに叱られて。もう意地の張りようもないでしょう」
少なくとも、今日限りは。
「うまくいくかしら」
「もし駄目でしたら、この館どうなるんでしょうね?」
「全壊」
「恐ろしいですわね」
「それはともかく、もう一杯もらえる?」
「かしこまりました」
親友と従者は、主の帰りを待つ。
†††
私の能力は、運命を見ること。
具体的にどうと説明することはできないが、今はそれが空しく思える。
ここまでメイドの予見どおりとは、あの人間が本当に人間なのか非常に疑わしく思える。
「迷惑かけたわね、霊夢」
「本当よ。こっちは寝れたもんじゃなかったんだから」
「あー、うん。今度、食事に招待するわ。ちゃんと人間でも食べられる物を用意させる」
「そうしてちょうだい。はい、お姫様は任せた」
フランは、完全に泣き疲れて眠っていた。
腫れた目を見ると、胸が締め付けられる。
人間はこんな時、どのようにこれに耐えるのだろうか。
霊夢からフランを受け取り、抱きかかえた。
同じくらいの身長の体を抱きかかえるのは、意外と難しい。
赤子の時にはあんなに小さくて、すっぽりと腕に収まったのに。
「……」
「寝てからもごめんなさいって寝言で言ってたわよ」
「うん」
「あんたが妹をどうしようと勝手だけどね、神社を壊すようなことはしないでね」
「善処する」
「じゃ、さっさと帰りなさい。あんたらは太陽が嫌いなんでしょ?」
霊夢が指す山の向こうには、藍色と朱色のグラデーションが広がり始めていた。
もうじき、夜が明ける。
日光に当たってすぐ灰になるわけではないけれど、この状態で日傘を差すことはできない。
そして、フランが起きる前に帰ったほうが良さそうだ。
これ以上、霊夢に迷惑をかけるわけにはいかない。
咲夜や、パチェにも迷惑はかけられない。
私が、この騒動を治めなくちゃならない。
私が、姉なのだから。
「今回は、本当に迷惑かけた。申し訳もない」
「あんたが殊勝だと、何か気持ち悪いわね」
「けじめだよ。他意なんかない」
「そう」
「そうだよ」
私が謝罪なんて、いつ以来だろう。
もしや、これも初めてか?
……フランは、私より先に謝っていたんだっけ。
つくづく、駄目な姉ね。
畏怖もない、伝承と違うばかりの吸血鬼。
私は、上る朝日に背を向けて飛び立った。
†
フランドールの部屋、つまり地下室には当然窓がない。
上階も日中はカーテンで覆われ、中はさながら夜の帳が下りたようになっている。
「ではお嬢様、上でお待ちしております」
「うん、何かあったら呼ぶよ」
「失礼いたします」
咲夜が出て行って、地下室にはレミリアとフランドールの二人きり。
まだ寝たままのフランドールが起きるまで、ベッドに腰掛けてレミリアは待つ。
レミリアは、何も言わず暖炉の火を眺めている。
暖炉の火は、地下室の壁にレミリアの影を映し出す。
その影は、さながら悪魔そのものであるにも関わらず、彼女の表情は沈んでいた。
外見相応の、幼い少女がそこに居た。
そのまま、どれほど時間が流れただろうか。
そろそろ、夜が完全に明けた頃。
フランドールが、小さく身じろぎした。
「おはよう、フラン」
レミリアは、暖炉から視線を外さずに声をかける。
返事はない。
寝ぼけていたとしても、その声は届いたはずだ。
寝息もなく、フランドールは動くまいと体を強張らせた。
自分が起きていますと言っているようなものだが、本人は気づかない。
ため息を一つ吐いて、レミリアは続ける。
「外は、楽しかった?」
フランドールにとっては、予想もしなかった一言だろう。
相変わらず反応はないが、被った布団の中でどんな表情をしているかは想像に難くない。
レミリアは、その反応を知ってか知らずか言葉を続けた。
「最初が霊夢のところでよかったわ。あそこなら殺されることはないもの」
「……」
「夜で、晴れていたのも良かった。私たちの行動に最も適した天候よ。雨だけはどうしようもない」
「……」
「あとは……そうね、咲夜でも供に付ければ良かったと思うわ。大抵のことは片付けてくれるし」
「……どうして」
フランドールは、布団を払いのけて起き上がる。
その顔は八つ当たりに近い憤りと、今にもあふれようとしている涙が同居している。
当人も、自分の感情を制御できていないのだろう。
非常に、危うい状態。
いつ感情が破裂してもおかしくはない。
レミリアは、その妹の顔を見ても動じない。
僅かに赤い痕がついた頬と、赤く腫れた目を見ても。
「どうして……怒らないの!」
枕に爪を立て、強く握ったそれを布団に何度も叩きつける。
常ならば、レミリアがフランドールを叱り付けてからの喧嘩で終わる。
売り言葉に買い言葉が始まり、優劣のつかない大喧嘩の開幕。
それをパチュリーと咲夜が仲裁し、美鈴が手当てをする。
咲夜の言葉は、それを見越してのものだ。
彼女の能力ほど、全力の姉妹喧嘩を止めるのに便利なものもなかった。
今この時にも、姉妹の家族は踏み込む用意をしいているはずだ。
だが、今回ばかりは展開が違う。
「このっ……このっ……!」
フランドールの八つ当たりは続く。
枕の布は破れて羽毛が舞い、その膨らみは萎んでいく。
困惑しているのだろう。
姉が自分の部屋に来て、この状況で喧嘩をしなかったことなどなかった。
まして、喧嘩の後で姉が部屋に来たこともない。
お互いに、顔を合わせたくなくなるからだ。
気まずいということもあり、大喧嘩をしたことで何が原因かうやむやになってしまう。
そして、結局は周囲の力を借りて仲直り。
「フラン」
レミリアは、フランドールの手を取る。
決して力を入れず、そっと添える程度。
レミリアは話を進めるためだったが、フランドールはまた頬を張られるのかと怯えた顔を見せる。
頬を張られるよりも、遥かに重い怪我を負ったことは何度もある。
単純に比しても、蚊に刺された程度だろう。
痛みよりも、姉に真っ向から頬を張られたという事実が痛みより勝っていた。
五百年近くも生きて、初めての衝撃。
レミリアは、頬を張ったその手で痕に触れる。
反射的に、フランドールは目を硬く閉じる。
「痛かった……わね。ごめんね、フラン」
「!」
フランドールは、レミリアを見る。
吸血鬼は、不遜で傲慢で自分勝手な一族だ。
レミリアやフランドールのような幼いソレであれ、大人の姿をして椅子で尊大にしている姿であれ。
自らの行いに関して謝罪など、滅多にするものではない。
彼の者は、夜の王。
そして、館の主人として吸血鬼たろうとするレミリアが。
妹に謝ることなど、誰が想像できただろう。
呆気にとられるフランを、レミリアは抱き寄せる。
勤めて優しく、頭をなでた。
慣れない手つきではあるが、人間の姉が妹にするように。
そこにあるのは、愛情以外の何物でもない。
呆けたままのフランは、どうやら堰き止めていた感情が溢れたらしい。
レミリアにしがみつくように抱きついて、レミリアの背を強く掴む。
顔をレミリアの胸に埋めて、小さい声で泣き始めた。
「……ごめんなさい」
「いいのよ。私より、ちゃんと迷惑かけた人に謝ること」
「わかった……」
「……」
「……お姉様?」
「気にしないでいいの。今日は存分に泣きなさい」
暗い暗い地下室に、すすり泣く声が一つ。
悪魔は二人。
しまいはひとつ。
†††
「……終わったわ」
「お疲れ様でした。部屋の破損などは?」
「なにもなし。今日は鍵をかけなくともいい。私はもう寝る」
「……」
「何、あんたそんな驚いた顔できるの?」
「……まぁ、爆発はなくとも怪我くらいはあると思っていましたので」
「日頃の行いって奴か」
「そうですわね」
「……」
普通、従者は主人にもう少し優しくあるべきではないかしら?
それはそれで気味が悪いが、ここまで辛辣である必要もないと思う。
「それから、明日は霊夢の所に行くから菓子か何か用意しておいて」
「かしこまりました」
お辞儀する咲夜に言伝し、私は寝室へと向かう。
本当はパチェにも一言声がけしたいけれど、図書館に引きこもっていることだろう。
それに、先に一言もらっているから別段気にはならない。
事の顛末くらいは報告しないといけないけれど、もしかしたらもう何が起きたか知れているかも。
私は、寝室のドアを開けた。
寝ると宣言した以上、勝手に部屋に入る奴はいない。
部屋の掃除は咲夜がしてくれているし、何より今は寝ていてしかるべき時刻。
実は、私の眠気もそれなりにピークを迎えている。
服を適当に脱ぎ捨て、寝巻きに着替える。
そのまま、いそいそと布団へ。
……やっぱり、慣れないことというのは疲れる。
泣く子をあやすなんて、五百余年生きて初めてだった。
姉として、恥ずかしくない所を見せられただろうか。
叩いてる時点で、そんなものは無かったような気がするけれど。
右の手のひらを眺めながら、考える。
軽く、本当に軽く叩いたつもりだったのに、手にまだ感触が残っている。
「つくづく、甘い……」
当主としても、吸血鬼としても、姉としても。
かくあろうとしても、私は何一つ達成していない。
まるで、それらのレプリカほどの価値しかない。
今日の前進か後退か横道かわからない一歩は、それに近づくものになったのかしら。
答えは無い。
あるのならば、悩んだりしない。
でも、誰かに与えられた答えなんて真っ平ごめんだ。
フランドールの愛し方なんて、私にしかわからないのだから。
コンコン。
ノック。
決意を固めようとしたところに、水を差された。
誰だ、こんな時間に。
「お姉様……」
「フラン? どうしたの?」
「……」
ドアを開けて入ってきたのは、フランだった。
フランも眠るつもりだったらしく、寝巻きにパジャマ。
胸に枕を抱えて、気恥ずかしそうにしている。
ああ、なるほど。
「眠れないの?」
「……」
首を振る。
ふむ。
この時間だし、眠れないということはないか。
そうすると……。
私は、自分だけでは大きくスペースが余るベッドの中央から少し動く。
「おいで」
ゆっくりと、ベッドに上がるフラン。
……黙られると、私まで恥ずかしくなるじゃないか。
何か言え。
言葉に出さずとも、妹は何かを読み取ったらしい。
さっさと布団に潜り込んで、猫のように丸まってしまった。
……まぁ、さっきの今じゃ仕方ないか。
私も、さっさと眠ってしまおう。
二人で横になってようやく、ベッドにちょうど見合ったサイズになる。
フランの体で、ベッドがほんのりと温かい。
だから何だという話だけど、まぁ、その。
……少しだけ、心地良い。
私は、フランを軽く抱き寄せる。
今度は怯えた様子も無く、むしろ体を寄せてきたように感じる。
少しだけ、妹に近づけた気がした。
いつの日か、スカーレットの名に恥じない私になれるのだろうか。
答えは求めない。
今は、フランの温もりだけでいい。
たとえ、それが気休めであったとしても。
†
「雨降って地固まる、だったかしら」
「涙雨ですね」
「全く、一枚噛んでいようがいまいがややこしい姉妹だわ」
「同意させていただきますわ」
ため息をつきながら、二人は言う。
従者と親友は、どこまでも二人に振り回された一日だった。
勝手に喧嘩して、勝手に仲直り。
表舞台の裏で、彼女たちがどれだけ気を揉んだことか。
それにも関わらず、二人は笑顔だった。
「……明日のお詫び、良ければ私もついていくわ」
「あら、珍しい」
「魔理沙を張ってるとでも嘯けばいい」
「ふふ、お菓子は多めに用意しておきますわ」
「お願い」
パチュリーは、それだけ言い残して寝室の前から去っていった。
照れた顔を隠すように、珍しく早足。
くすりと笑いながら咲夜も、音を立てずに静かに立ち去る。
紅魔館全体を巻き込んだ姉妹喧嘩は、これにて一件落着となる。
神社への謝罪はあるものの、それはまた別の話。
†
「……ねえ、お姉様」
「……何?」
「偽者の私と、今の私。どっちが温かい?」
「……はぁ。二度と、妹の心臓を抉るような真似はさせないでほしいわ」
「ふふん。で、どっち?」
「もちろん……」
私は、フランの頭をもう一度撫でた。
「貴女に決まってるじゃない」
「……ふふふ」
「何よ、気持ち悪いわね」
「お姉様」
「ん?」
「……大好き」
そう言うと、フランは恥ずかしいのか布団に頭までもぐりこんだ。
ま、照れ隠しということで黙っていてあげましょう。
フランに聞こえないように、私はぽつりと呟いた。
「私もよ、フラン」
頬が熱い。
きっと、私もフランも林檎のように顔を真っ赤にしているのだろう。
慣れないことは、やはりするものではない。
気恥ずかしさから逃れるべく、私は眠気に身を委ねる。
明日は、もう少し妹との距離が縮まることを願いながら。
「おやすみ、フランドール」
「……おやすみなさい、お姉様」
了
我らがお嬢様は主に困り顔。
だけどやっぱり最後はみんな笑い顔。どんな笑い方かは人それぞれだろうけど。
この物語の登場人物達は皆良い表情をしてると思うよ。
レプリカ・スカーレット。ちょっと可愛いと思ったのは俺だけじゃないはず。