ぬえは一つ、おおきなあくびをした。
「で?」
正午の飯のあとに昼寝をたっぷり一時間はとってつい先ほど起きだしてきた、心身ともに満ち足りてはいるけれど頭のねじがどこか緩んでいる様な、心底のんきそうな返答をしたぬえに対し、私はただただ、ため息をつくしかなかった。
「君も見ただろう? ご主人、三時間も前からああなんだ」
私とぬえは、隣の部屋で正座をしている私のご主人、寅丸星を覗き見た。
彼女は、四畳ほどの部屋の真ん中で、書見台に向かって正座をしながら毛筆をふるっている。
写経でもしているのだろう、ずいぶんと長い巻物に向かっているその真剣なまなざしは、まさに凛々しい、と表現して良いほどの美しさと健気さを彼女の見た目に付与していた。
いつもなら。
そう、普段ならば。
「でも、ぷっ……なかなか気づかないもんなんだね」
ぬえがこっそりと吹き出す。
ご主人は、どこまでも真摯な視線で書き付けを行ってはいたが。
「どうにかして、ご主人にあの事実を教えたいのだが。何かいい知恵はないか?」
端的に言うと、ベロをしまい忘れてるのだ。
毘沙門天の代理が。
ちょろっと。
人の姿で。
猫ではなく、虎のくせに。
誰もが思わず吸い付きたくなるようなみずみずしい唇からほんの少しだけ覗かせる赤い魅惑の果実は、確実に、私の日本海溝よりも深遠なる理性を惑わせることに成功していた。
「いや、普通に言えばいいじゃない」
「残念ながら、ご主人は無言の行をしていてね。だれにも喋っちゃいけないし、話しかけられてもいけないんだ。そういう修行だから」
私は、自分の心臓が次第に早鐘のごとく打ち鳴らすのを全身で感じ始めている。
これはおそらく、毘沙門天の直接の部下でもある私が、代理である彼女の不心得な動作をその道徳的義務感から見過ごすことが出来ないせいなのだろう。
「ナズーリン、さっきから鼻息荒いよ」
仕事熱心だな、私。
「まあそういうことで、どうにかしてこれ以上は毘沙門天の威信を傷つけないようにしたい。具体的には、ご主人が自分であれに気がつくようにしたいんだ」
「はあ」
「やっぱり、あれかな? 私と、舌と舌が絡み合うようなディープキスをすれば、さすがにあのご主人といえども舌をしまってくれるんじゃないだろうか」
「なにそれこわい。ってかその発想はおかしかないか?」
ぬえは、私がさっきたっぷり一時間以上は、それはもう感触やら何やらまで詳細に考えに考えた策をあっさりと否定した。
しかもこのぬえ、話して居る途中、私と視線をあからさまにずらし、時々ちらちらと伺うような視線を向けて来た。一体何が気に入らないと言うんだ。
「うーん。そうだ、こんなのは?」
十分後、私は丸いお盆の上にご主人愛用の湯飲みをのせて、部屋に突入していた。
私は一礼し、ご主人の隣で膝を立てる。
ごく自然の動作で、湯気の立っている、緑茶を入れた湯飲みを書見台の隅に置き、ご主人を仰ぎ見る。
ご主人は、一瞬、とても可愛らしく(←ここ重要)困ったような顔をしたあとに、左手をたて、やんわりと否定の動作をして見せた。
ここまではぬえの予測の範疇だ。
写経の途中でお茶を飲む等、普通はしないからね。
私は再度一礼し、手に取ったご主人の湯飲みに注がれたお茶を、一息に飲み干した。
全国一億人のナズーリンファンよ、安心して欲しい。
このお茶、湯気は立ってはいるが、実はそこまで熱くはないのだ。
だが、その事実をご主人は知らない。
私が口を押さえて転げ回っている今、彼女は私がやけどをするくらい熱いお茶を飲んだものと信じて疑わない筈だ。
十秒ほどそうした後に、私はわざとらしく舌を出し、ヒーヒーと息をして見せた。
さあ、これならどおだ。
ご主人は私をあっけに見つめた後、静かに頷いた。
それは、控えめながらも心底私を心配する表情で、私くらいご主人と共に暮らした者ならば、彼女が本心から私のことを気遣っていることが明白だった。
そして、私の目を見て、微笑んだのだった。
ベロを出しっぱなしのまま。
抱きたい。もとい、しっぱい。
意気消沈した私は、その部屋を退散するしか他に方法がなかった。
へんたい、じゃない。たいへんなごりおしいが、隣の部屋に潜んでいたぬえのもとへ引き下がる。
そんな私に対し、ぬえはいたわりの言葉もかけてこず、たった二言口にしただけだった。
「鼻血、止めたら?」
「どうしよう。ぬえ、他に案はないか?」
「そうだねえ、とくにないかなあ」
「だめだなぬえは。危機管理というものは、ひとつのシチュエーションにたいして常に複数の対策方法を考えるのが基本じゃないか」
「いやいやいや。このシチュエーションを想定とか普通しないし」
「私はするが? 毎月に二回くらい。一番KENZENな対応策をぬえに否定されちゃったけど」
「ちょ」
結局二人だけではこれと言った道は開けず、たまたま侵入してきた小傘を捕まえるまで進展はなかった。
隣の部屋で小傘を取り押さえていても、ひそひそ話をしても、ご主人は取り乱さず、一心不乱に写経へ神経を集中させていた。
さすが毘沙門天の代理、集中力には並々ならぬものがある。決して、気がついてないだけではない、はずだ。
さて、気を取り直した私達は、小傘から没収した、茄子色した傘をご主人の視界、それも隅っこぎりぎりの所へ張り出した。
私達は隣の部屋から傘の柄をもって、傘を揺り動かす。
そうすると、ご主人は、フーコーの振り子の様に揺れ蠢く傘の舌が嫌がおうにも目に入るはずだ。
私の後ろで、猿ぐつわをされた上に荒縄でがんじがらめにされた小傘が何か訴えているようだが、許してくれたまえ。大事だ。
驚異的な集中力を持つご主人も、さすがにこれには気がついたようで、毛筆を動かしている手を止め、揺れ動く巨大な舌に視線を移した。
ゆらゆら。
ゆらゆら。
ご主人の顔がつられて揺れる。明らかに、ご主人は傘の舌を注視している!
これはうまくいくかも、と思った瞬間だった。
ご主人は、不意に両目を擦ったのだ。
筆を持っている方の手の甲で。
その結果。
あれは、わざとか? わざとなのか?
ご主人の頬に、墨のお髭が出現した。
こんな傘の柄など、いますぐご主人の下にはせ参じたい。
ご主人の頬を、少量の液体で濡らした後に、私の手ぬぐいで丁寧に、ぬぐい去って差し上げたい。
そうおもって、柄を握る力を半分ほどゆるめた時。
あ。
ああ。
ご主人は。
大きく、あくびをして。
ゴリっとやった。
「ッ!!!!!」
こういう瞬間も全く声を出さないというのもさすがご主人だ。毘沙門天の代理なだけある。
畳の上を転げ回る姿も大変可愛らしい。
「けどまあ、これでベロの件は解決したわけだね。痛そうだけど」
「そうだね、ぬえ。感謝するよ。さて、私はご主人の傷に薬を塗らなきゃいけない」
中座しようとした私を、ぬえが呼び止める。
「口中の傷に塗る薬ってあるの?」
「古来から、この国には『軽い怪我なら唾付けときゃなおる』って言い伝えがあってだな。この場合は他者の唾を薬に見立てて――」
「やっぱ永遠亭に連れて行こう」
「ご主人のはそこまでの傷ではないだろうに」
「あんただ、あんた」
「で?」
正午の飯のあとに昼寝をたっぷり一時間はとってつい先ほど起きだしてきた、心身ともに満ち足りてはいるけれど頭のねじがどこか緩んでいる様な、心底のんきそうな返答をしたぬえに対し、私はただただ、ため息をつくしかなかった。
「君も見ただろう? ご主人、三時間も前からああなんだ」
私とぬえは、隣の部屋で正座をしている私のご主人、寅丸星を覗き見た。
彼女は、四畳ほどの部屋の真ん中で、書見台に向かって正座をしながら毛筆をふるっている。
写経でもしているのだろう、ずいぶんと長い巻物に向かっているその真剣なまなざしは、まさに凛々しい、と表現して良いほどの美しさと健気さを彼女の見た目に付与していた。
いつもなら。
そう、普段ならば。
「でも、ぷっ……なかなか気づかないもんなんだね」
ぬえがこっそりと吹き出す。
ご主人は、どこまでも真摯な視線で書き付けを行ってはいたが。
「どうにかして、ご主人にあの事実を教えたいのだが。何かいい知恵はないか?」
端的に言うと、ベロをしまい忘れてるのだ。
毘沙門天の代理が。
ちょろっと。
人の姿で。
猫ではなく、虎のくせに。
誰もが思わず吸い付きたくなるようなみずみずしい唇からほんの少しだけ覗かせる赤い魅惑の果実は、確実に、私の日本海溝よりも深遠なる理性を惑わせることに成功していた。
「いや、普通に言えばいいじゃない」
「残念ながら、ご主人は無言の行をしていてね。だれにも喋っちゃいけないし、話しかけられてもいけないんだ。そういう修行だから」
私は、自分の心臓が次第に早鐘のごとく打ち鳴らすのを全身で感じ始めている。
これはおそらく、毘沙門天の直接の部下でもある私が、代理である彼女の不心得な動作をその道徳的義務感から見過ごすことが出来ないせいなのだろう。
「ナズーリン、さっきから鼻息荒いよ」
仕事熱心だな、私。
「まあそういうことで、どうにかしてこれ以上は毘沙門天の威信を傷つけないようにしたい。具体的には、ご主人が自分であれに気がつくようにしたいんだ」
「はあ」
「やっぱり、あれかな? 私と、舌と舌が絡み合うようなディープキスをすれば、さすがにあのご主人といえども舌をしまってくれるんじゃないだろうか」
「なにそれこわい。ってかその発想はおかしかないか?」
ぬえは、私がさっきたっぷり一時間以上は、それはもう感触やら何やらまで詳細に考えに考えた策をあっさりと否定した。
しかもこのぬえ、話して居る途中、私と視線をあからさまにずらし、時々ちらちらと伺うような視線を向けて来た。一体何が気に入らないと言うんだ。
「うーん。そうだ、こんなのは?」
十分後、私は丸いお盆の上にご主人愛用の湯飲みをのせて、部屋に突入していた。
私は一礼し、ご主人の隣で膝を立てる。
ごく自然の動作で、湯気の立っている、緑茶を入れた湯飲みを書見台の隅に置き、ご主人を仰ぎ見る。
ご主人は、一瞬、とても可愛らしく(←ここ重要)困ったような顔をしたあとに、左手をたて、やんわりと否定の動作をして見せた。
ここまではぬえの予測の範疇だ。
写経の途中でお茶を飲む等、普通はしないからね。
私は再度一礼し、手に取ったご主人の湯飲みに注がれたお茶を、一息に飲み干した。
全国一億人のナズーリンファンよ、安心して欲しい。
このお茶、湯気は立ってはいるが、実はそこまで熱くはないのだ。
だが、その事実をご主人は知らない。
私が口を押さえて転げ回っている今、彼女は私がやけどをするくらい熱いお茶を飲んだものと信じて疑わない筈だ。
十秒ほどそうした後に、私はわざとらしく舌を出し、ヒーヒーと息をして見せた。
さあ、これならどおだ。
ご主人は私をあっけに見つめた後、静かに頷いた。
それは、控えめながらも心底私を心配する表情で、私くらいご主人と共に暮らした者ならば、彼女が本心から私のことを気遣っていることが明白だった。
そして、私の目を見て、微笑んだのだった。
ベロを出しっぱなしのまま。
抱きたい。もとい、しっぱい。
意気消沈した私は、その部屋を退散するしか他に方法がなかった。
へんたい、じゃない。たいへんなごりおしいが、隣の部屋に潜んでいたぬえのもとへ引き下がる。
そんな私に対し、ぬえはいたわりの言葉もかけてこず、たった二言口にしただけだった。
「鼻血、止めたら?」
「どうしよう。ぬえ、他に案はないか?」
「そうだねえ、とくにないかなあ」
「だめだなぬえは。危機管理というものは、ひとつのシチュエーションにたいして常に複数の対策方法を考えるのが基本じゃないか」
「いやいやいや。このシチュエーションを想定とか普通しないし」
「私はするが? 毎月に二回くらい。一番KENZENな対応策をぬえに否定されちゃったけど」
「ちょ」
結局二人だけではこれと言った道は開けず、たまたま侵入してきた小傘を捕まえるまで進展はなかった。
隣の部屋で小傘を取り押さえていても、ひそひそ話をしても、ご主人は取り乱さず、一心不乱に写経へ神経を集中させていた。
さすが毘沙門天の代理、集中力には並々ならぬものがある。決して、気がついてないだけではない、はずだ。
さて、気を取り直した私達は、小傘から没収した、茄子色した傘をご主人の視界、それも隅っこぎりぎりの所へ張り出した。
私達は隣の部屋から傘の柄をもって、傘を揺り動かす。
そうすると、ご主人は、フーコーの振り子の様に揺れ蠢く傘の舌が嫌がおうにも目に入るはずだ。
私の後ろで、猿ぐつわをされた上に荒縄でがんじがらめにされた小傘が何か訴えているようだが、許してくれたまえ。大事だ。
驚異的な集中力を持つご主人も、さすがにこれには気がついたようで、毛筆を動かしている手を止め、揺れ動く巨大な舌に視線を移した。
ゆらゆら。
ゆらゆら。
ご主人の顔がつられて揺れる。明らかに、ご主人は傘の舌を注視している!
これはうまくいくかも、と思った瞬間だった。
ご主人は、不意に両目を擦ったのだ。
筆を持っている方の手の甲で。
その結果。
あれは、わざとか? わざとなのか?
ご主人の頬に、墨のお髭が出現した。
こんな傘の柄など、いますぐご主人の下にはせ参じたい。
ご主人の頬を、少量の液体で濡らした後に、私の手ぬぐいで丁寧に、ぬぐい去って差し上げたい。
そうおもって、柄を握る力を半分ほどゆるめた時。
あ。
ああ。
ご主人は。
大きく、あくびをして。
ゴリっとやった。
「ッ!!!!!」
こういう瞬間も全く声を出さないというのもさすがご主人だ。毘沙門天の代理なだけある。
畳の上を転げ回る姿も大変可愛らしい。
「けどまあ、これでベロの件は解決したわけだね。痛そうだけど」
「そうだね、ぬえ。感謝するよ。さて、私はご主人の傷に薬を塗らなきゃいけない」
中座しようとした私を、ぬえが呼び止める。
「口中の傷に塗る薬ってあるの?」
「古来から、この国には『軽い怪我なら唾付けときゃなおる』って言い伝えがあってだな。この場合は他者の唾を薬に見立てて――」
「やっぱ永遠亭に連れて行こう」
「ご主人のはそこまでの傷ではないだろうに」
「あんただ、あんた」
もはや理性や周囲の視線に惑わされず行動するべき。
ナズーリンw
素晴らしい
素晴らしい