……空を仰いだ。
すごく青い、綺麗な空だった。
あの日と変わらないその空に、彼女は息をついた。
なにか込み上げて来るもの感じながら、流れていく雲を目で追う。
ゆっくりと流れるその雲は、今肌で感じる時間と同じように静かだった。
……青さが目に沁みた。
そこで彼女は、込み上げて来るものの正体が涙なんだと気付いた。
彼女は無意味に俯く。
吹いた風に黒髪が揺れた。
こんな時は無性に優しさが欲しくなる。強気な彼女の心は、二十年という長い時間を経て、少しだけ弱ってしまっていた。
……顔を上げる。
目の前には道が続いている。
振り返れば神社がある。
だけど彼女はもう一度前を向いて歩き出した。
その一歩は感慨深く、胸の奥をチクリと痛めた。
それでも、もう一歩、もう一歩……歩を重ねて歩いていく。
……唐突に、もう一度だけ空を仰いだ。
楽しかった思い出が蘇る。
誰かの笑い声が耳鳴りのように奥で響く。
あの頃の記憶だ。一番輝いていた、今ではその眩しさから直視できないような過去の宝石。
──空はあの日と変わらない。けれど、彼女達は変わらずにはいられなかった。
霊夢は人里までやって来ると、慣れた足取りである場所へと向かう。
昼時に行き交う人々の間を縫って歩き、一つの店ののれんを潜った。
「遅いぞ!」
顔を覗かせるや、早々にそんな言葉をぶつけられた。霊夢は少しだけ急ぎ足で席に着く。
「まったく、貴方の遅刻癖は相変わらずね」
「マイペースですよねー」
咲夜と早苗が魔理沙の怒号に同意する。
「なによ、ちゃんと来たんだからいいじゃない」
四人は一つのテーブルを四方で囲むように座っている。つまり、これは四人による集会だった。
彼女達は数年前からこうした機会を設けている。何をするでもなく、週に一度集まって言葉を交わすだけの集まり。
しばらくすると、店の主人が紅茶を運んできた。こじんまりとしたこの店に合わせたかのような風貌の老人は、それを運び終えると奥へ戻り、椅子に腰掛けて新聞を読み始める。
彼女達以外の客は滅多に訪れない、物静かな店。自分達だけの空気が気に入って、以来集まりはこの店でと決めていた。
「あれ、今回は私の番じゃなかったっけ?」
「なに言ってるの。魔理沙、貴方、二週続けて頼んだじゃない」
運ばれてきた紅茶に首を傾げた魔理沙を咲夜が窘める。
お喋りに必要不可欠な飲み物は、週毎に順番で好きなものを頼めるという取り決めだった。主に霊夢は緑茶で、魔理沙はホットミルク、咲夜は紅茶、早苗は珈琲。それぞれが勝手に好きなものを頼まず全員で統一するのは、集まりの協調性を保つという面での考慮だった。
「紅茶だって美味しいじゃないですか。私は嫌いじゃないですよ」
「そりゃ、私だって嫌いじゃないけどさ……」
ぶつくさ言いながらも紅茶を啜る。そして、落ち着いたと言わんばかりに長い息を吐いた。
「んで、なにか面白いことあったか?」
「そうねぇ……取り立てては無かったわね」
「私も変わり映えしないことばかりですね」
「一週間なんて短い間じゃ、そうそう可笑しなことなんて起こらないわよ。平和で結構じゃない」
「そうは言うけどね、咲夜、お前が髪型をコロコロと変えた時期があったよな? あれは実に一週間で四変化もする慌しさだったと記憶するが」
「あ、あれは妹様が……」
「三十代半ば……そんなお前があんなことをやり始めるとは誰が思っただろうか。否!! 誰もが予想だにしなかったに違いない。なればあれは異変だったと言っても過言ではないと私は思うんだ」
「咲夜さんは短いほうが似合ってますよ。どうして伸ばしちゃったんですか?」
「別に深い意味は無いのよ。でも、一度くらい長くしてみても面白いと思ったの。本当にそれだけよ」
「…………」
そんな会話を前にして、霊夢はただぼんやりとしていた。
三十代半ば……それは彼女達の年齢だった。
あの騒がしくも楽しかった日々から二十年。本当に、自分がこんな歳になるとは誰もが思わなかっただろう。
霊夢は二十年経っても容姿こそあまり変わらなかったが、口数が減った。
魔理沙はなんら変わらない素振りで人と接してはいるが、笑顔が減った。
咲夜は昔以上に仕事熱心だが、自分を語ることが少なくなった。
早苗は誰よりも協調性と責任感を強くしたが、自己主張をしなくなった。
霊夢は少し背が伸びて、魔理沙は少し女性らしくなり、咲夜は少し髪を伸ばし、早苗は少し声が変わった。
あの頃はなんら変わりない日々がずっと続くのだと思っていた。しかし、二十年というのは想像を超えて圧倒的だったのだ。
二十年もあれば赤子は大人に育つだろう。地べたを這い、無闇に泣いてばかりだったものが、地に立ち、言葉を発し、他人のために泣くことができる。そんな成長過程を築ける時間が二十年であり、彼女達を変えてしまうには十分過ぎるほどに長い時間。
なおかつ、きっかけは些細なことだった。
いつもと変わらずに接していたある日、彼女達はふと気付いてしまう。
身体に刻まれていく皺を見て、何かを思ってしまう。
幾年経てども変わらぬ容姿の友人を見て、湧き上がる感情が本物になる。
あの頃の彼女達は、どこか達観していてもやはり幼かった。だからきっと分かっているフリをして誤魔化していたのかもしれない。でもついには理解してしまった。自分達は人間で、彼女達は人間ではないのだと。
友人達はそんなこと百も承知だった。承知の上での付き合いだった。でも、彼女達は引いてしまったのだ。一歩、二歩と。少しづつ下がっていき、やがてはお互いの手を伸ばしあっても触れ合えないところまで来てしまった。
先に背中を向けたのはどちらからだったか。別段、避け合うなんてことはない。それでも、あの頃のような騒がしさは遠のいでしまった。
お互いが触れ合うにはどちらかが歩み寄る必要がある。握手はできても手は繋げない……今はそんな関係だった。
彼女達だってそれは理解している。自分達が下がり、線を引いた以上は自分達が歩み寄らなければいけないということも分かっている。
だけど……頭では理解していても……心が軋んで涙が出る……。
もどかしい。歯がゆい。内に湧き立つままならぬ悔しさは、涙となって外へと溢れた。
すべき事は明瞭なのに、またこうして集まってはくだらない雑談で時間を潰す。〝人間〟である四人の意味無き集会。
──今すべき事はなんだっ!?
──こんなことしてる暇はないでしょっ!?
あるいはそうやって誰かが叫べば、何か変わるかもしれない。だがしかし、そう糾弾してくれと願うことはあっても、誰かが声を荒げて主張することなぞ一度も無かった。
皆、自分のことで手一杯だったのだ。
今四人にはそれぞれ抱えているモノがあった。ずっと前から、悩みに暮れる問題を一人静かに抱いていた。
それを解決できて初めて、友人達と向き合える勇気が得られる。そう信じて二十年、三十半ばまで来てしまった。
「……またいらしてくださいね」
寡黙な店主の言葉を背に受けて、話し終えた四人は店を出た。
昼を幾分か過ぎた今、人通りは疎らで並んで歩くのも苦ではない。
仰げば青い空。あの頃もきっと同じような空だったろう。同じような……と思う反面、もっと青かったような錯覚も覚える。
……これから変わっていけるだろうか。
誰かが胸中でそう呟いた。いや、もしかしたら四人が全員だったかもしれない。
昔より少しだけ重くなった足を動かして、それぞれは家路に就いた。
朝日が瞼越しに目を苛み、その鈍痛に耐えかねて霊夢は目を覚ました。
身体を起こし、尾を引く睡魔と戦いながら、外を見る。
「…………」
快晴だった。雲一つ無い空は、まるで絵の具の青で塗りつぶしたかのよう。
しかしそんな良き日に、霊夢は小さな溜め息をついた。
吐かれた息は白く濁り、今が冬であることを思い出させる。布団の温もりが意識を強く誘惑する。起きたって用事などない。いつもの集まりはまだ先だ。このまま寝ていても誰に迷惑を掛けることもない。
「……寒い」
それでも霊夢は布団から這い出て、欠伸をしながらそれを畳む。
用事が前もって用意された朝なぞ、この数年迎えたためしがなかった。だからもう、それは日常で、一日中寝ていていい特別な理由には成り得ない。
だから、いつも通りに起きることにした。
顔を洗い、服を着替える。
水は痛いほど冷たくて、眠気はすぐに消え失せた。しかし残っていた温もりも同時に失ってしまい、霊夢は僅かに震えながら着替えに移る。
刺すような冷気の中、それに肌を晒して服を取り替える。
昔のような薄着ではとても耐えられなくなったのは、幻想郷の気候が変わったのか、それとも自分が歳を取ったからなのか。とにかくこの季節が来ると厚着をせずにはいられない。
着替えが終わって、とりあえず外に出れる状態になったのだが、まだやることはある。朝食の用意だ。
台所に身を移し、釜を開ければ湯気と共に米の甘い匂いが立ちこめる。電気が普及してからというもの、生活の労力が大きく軽減された。楽だと言えばその通りで、この季節は辛い洗濯だって勝手にやってくれる。
でもそのせいで、霊夢は一日の多くを所在なさげに過ごすことを余儀なくされてしまった。
適当に汁物を作り、糠床から出した漬け物も食卓に並べて朝食を済ます。
はぁ……と息を吐いたのは、物悲しさを紛らわすためなのか。
霊夢は一人分のお湯を急須に注ぎ、しばらく待ってから湯飲みに注ぐ。外を見ながらそれを啜り、食後の間を埋める。天気は起きたときと変わらぬ快晴。なのに……何故か溜め息ばかりが口から漏れた。
──いつからだろう……晴れよりも、雨を好むようになったのは。
自嘲するように、霊夢は胸の奥底で呟いた。
昔は晴れのほうが好きだった。暖かいし、陰鬱になる雨と違って気分も清々しい。
でも今は違った。全てが逆になった。晴れは気が滅入り、雨はそれが和らぐ。
霊夢は箒を持って表へと出た。
強要されているわけでもないのに、律儀に毎日掃き掃除をする。境内は大して散らかっておらず、掃いても砂埃が舞うだけ。それでも数少ない自分の仕事を、霊夢は追われるように懸命にこなした。
まるで……空白を恐れるように……。
それでもずっと続けていられるほど、掃き掃除は面白くなかった。
だから霊夢はいつものように空を仰ぐ。手持ち無沙汰になってはいつも見上げるその行為は、もはや癖と言ってもいい。
見上げた空は青く、快晴。そして、霊夢はいつものように暗い気持ちになってしまう。
こんな晴れた日は酷く思い知らされるのだ。誤魔化しきれない、孤独感を……。
そして雨音が恋しくなる。あの音は、寂しさを紛らわせてくれる。独りで食事をしていても、どこか賑やかで……。
──だから、晴れは嫌いで、雨は好き。
歪んだ感性だということは分かっている。それでも霊夢は、そんなふうに物事を捉えてしまうようになってしまった。時の流れが全てを変えてしまったのだ。
その時、神社の上をいくつもの影が飛んでいった。形容し難い形をしたそれは、知能を持たない下級妖怪である。
天狗のように知恵を巡らせたり、河童のように何かを創造することは勿論、言葉を交わすことさえできない原始の生物。共通しているのは捕食するための大きな口だけ。目、耳、鼻……そんな高等な器官を持つモノは少なく、手足すら無いモノがほとんど。球体から雑巾のように平たいモノまで、形すらも不揃いなその妖怪は、近年数を増やし続けていた。
妖怪が増える最も大きな原因は常に一つ。ただ、それを念頭に置いたとしてもここ数年の増殖は目まぐるしい。恐らくは複数の要因が重なっているのだろう。しかし、一番の要因は……退治すべき者が退治しなくなったからに違いない。
また、神社の上をその妖怪が飛んでいった。
霊夢は黙ってそれを目で追う。あれらの向かっていく方向は総じて人里のほうだ。……何故、捕食するための口が大きいのかと言えば……そういう理由である。
それらが人里を取り囲むようにして空を泳いでいるのが遠目にも分かった。時折滑空している姿も見受けられる。きっと……いや、もしかしなくても人間を襲っているのだ。
昔の里の者ならば泣き寝入りしかできなかっただろう。しかし、今はある程度の抵抗する力を持った人間も多い。
それは霊夢のように、弾幕だったりといった特殊なモノではなく、原始的な武器を握り締め、震える足に鞭を打ち、涙を堪え、精一杯の勇気を振り絞っての……そういった微弱な力ではあるが、相対するあの妖怪達も同様に微弱な存在なのだ。数人掛かりならば打倒もできよう。しかしそれでも……血で濡れて、悲痛の言葉に抱かれながら倒れる者も少なくない。
血の上に涙が流れ、涙の上にまた血が流れる。そんな生活が、人里ではずっと続いていた。
誰かが叫んだのを覚えている。
──こんなの、私が愛した幻想郷じゃない。
声色静かに語られたその言葉は、しかしながらにして叫び声のように耳を衝いたのを覚えている。
怒気とも落胆とも取れる、久しく会っていない友人のその言葉を、霊夢は今も覚えている。
影を全て見送った霊夢は、ふと短く息をついた。
今日も今日とてやることがない。いつまでも掃き掃除してるわけにもいかない。さて、何をしよう──そんな思惑を感じさせた。
箒を片手に神社へと向き直る。そしてその肩越しに……あの妖怪がまた人里へと滑空していった。
「それでさー、霖之助の奴がさー」
「えぇっ!? そんなことしちゃったんですか!?」
「彼ならやりかねないわね」
「…………」
週に一度の定例集会。魔理沙が最近あった面白いことを語って聞かせている。そして霊夢はそれを、物静かな面持ちで聞いていた。
(……っ)
言葉に出さず、心の中で舌打ちをした。
──私は何をしているのか……。
日に日に強くなるその疑問。押し潰されそうになっては泣きそうになる。
このままだらだらと曇ったような時間を過ごして、やがては死ぬのか。灰色の感情がせり上がって来るのを感じて、霊夢は三人から目を逸らした。
「しかもその後に──」
「……いや、さすがにそれは……」
「やりかねないと思わせるところが、彼の偉大なところよね」
幸いその仕草に疑問を持った者はいないようで、三人は楽しげに雑談を続けている。
霊夢も可笑しければ笑うくらいの余裕はある。ただ、耳を傾けるだけの余裕が無いだけ。頭の中で色々なことがぐるぐると回り、言葉が耳から入ってきても脳まで届かない。だから聞いてはいても、それでなにか感情が動くということはあまりなかった。
そんな中、一通り話し終わった魔理沙が、声を少し低くしてある疑問を口にした。
「なぁ、この椅子……」
「あっ、私もずっと思ってました。いつも四つなのに、なんで今日に限って一つ多いのかなって」
囲むテーブルは四角く、いつもはその一辺一辺に合わせるように、計四つの椅子が置かれていた。
しかし、今日に限っては椅子が五つ並べられている。そもそも店の内装そのものが違っていた。まずテーブルが一つしかない。いつもの四角いテーブルではなく、やや大きめな丸いテーブルが一つ。その円卓以外のテーブルは全て隅に追いやられ、椅子も上げられている。
必然的に霊夢達はその円卓に着くことになったのだが、そこでもう一つ気がかりな点があった。
それは椅子の数である。この円卓を一つだけ残しておいたということは、つまり、霊夢達が来ることに配慮してのことだろう。なれば椅子は四つで事足りる。
店主とは数年来の付き合いだった。寡黙な老人は言葉こそ少なかったが、四人の名前くらいはちゃんと覚えている。そんな彼が数を間違うはずがない。では何故、五つ目の椅子を用意したのか。
「おーい、爺さん」
「…………」
魔理沙が声を掛けるも、老人は黙ったまま。
「店、閉めちゃうのか?」
「…………」
沈黙を守り、視線は新聞に落としたまま微動だにしない。だが次の瞬間、しわがれ声でこう言った。
「……いらっしゃいませ」
店の玄関の扉に付けてある鈴がチリンと鳴った。
次に、その扉の閉まる音がした。
そして老人は立ち上がり、霊夢達にはしないような仰々しい深々としたお辞儀をすると、店の奥の奥へと姿を消した。
四人が視線を扉のほうに向ける。そこには人影があった。
いらっしゃいませ──その文句は来客に対するものだ。だからきっと、その人影の正体は来客で、こんな辺鄙な店に好んで入るのだから変わり者に違いないと四人は思い、それなら自分達と仲良くなれるのではとも思った。
その人影と視線が交わる。
途端、何か嫌な気まずさが……その場に満ちた。
その来客は黄金色の髪を揺らし、紫色の優美なドレスを靡かせ、カツカツと床を鳴らしながら四人の円卓に近づいて……五つ目の椅子へと静かに腰を下ろした。
元より、この椅子は彼女のために用意されたのものだったのだ。扉を見れば、いつのまにか〝営業中〟の札が仕舞われている。
円卓を囲む五つの椅子。その内の四つの視線は一箇所へ……たった今現れた、最古参にしてこの集会の新参者へと向けられた。
「お久しぶりね」
数年ぶりに見た八雲紫は、再会を喜ぶように小さく笑っていた。
こうして縁側に腰掛けるのは何年ぶりだろう。
「やっぱり緑茶よね。藍ったら最近紅茶に凝っちゃってて」
隣で紫が屈託無く笑う。それに釣られて霊夢も少しだけ頬を緩ませた。
「あんた、今まで何してたのよ」
「何してたの……その問いに答えられるような面白いことなんてしてないですわ」
「つまり、いつも通りぐうたらしてたのね」
紫のニッコリと笑うその仕草は、霊夢の言葉に対する相槌に違いない。
呆れたと言うように目を細める。それから緑茶を少しだけ啜って、紫が何か喋りだすのをじっと待った。
先日、いきなり紫が現れたときは一体なんの前触れかと身構えてしまった霊夢だったが、なんてことない、ただ単にお喋りしてその後はすぐに解散となった。
他の三人も紫と会うのは久しぶりらしく、いつになくその日の集まりは喋りが弾んだ。紫も紫で、生来の胡散臭さはそのままに、あの頃と寸分違わないよく知った彼女だった。
「でもそうねぇ……面白いと言えば、橙が少しだけ成長したわ」
「ふーん」
「貴方は成長し過ぎたわね」
「余計なお世話よ。もう成長じゃなくて、老いが始まってるわ」
「あら、ごめんなさい」
霊夢は自身の肩や腰を叩いて見せ、身体の老朽化が進んでいることをアピールする。それに対して、紫は愛嬌滲む謝罪で応対した。
まるで話すのが楽しくて仕方がないとでも言いたげに、紫は言葉の隣に笑顔を添える。以前からこんな笑うような人柄だっただろうか。嫌な含み笑いはあっても、こんな朗らかに笑うような女性だったか。
隣で緑茶を啜る紫を盗み見る。容姿に限って言えば、既に霊夢のほうが大人びて映る。親子……とまではいかないが、姉妹くらいなら見えなくもない。
「誕生日を迎えるのが苦痛になったのなら、それは老い進行の合図です。人は自分が歳を取ったと思ったときに初めて、歳を取る生き物なのです」
「……覚えておくわ。もう遅いけど」
次第に、何か生暖かいモノが胸にふつふつと湧き始めるのを霊夢は感じていた。それが〝懐かしさ〟であると気付くのに、あまり時間は掛からなかった。
話し相手がいるということのなんと素晴らしきことか。ここしばらくは魔理沙もろくに訪れていなかったし、集まりも最近は思い詰めてばかりで上の空だった。それでもこうして紫と話している分には"自分"でいられる気がする。きっと、馬が合うんだろうなと霊夢は思った。
「ちゃんと結界の管理はしてた?」
「えっ? し、してたけど、なによその言い草。まるで自分は何もしてなかったみたいじゃない」
「だって藍に任せきりだもの」
空になった湯飲みを手で遊ばせながら、軽い口調でそう言う。
「相変わらず駄目な主人ね」
「駄目な嫁を貰った夫は哲学者になれるそうよ」
「それじゃあ、藍は大哲学者になれるわね」
霊夢が意地の悪い笑みを浮かべてやると、紫は反比例するように澄んだ笑みを返した。
今度こそ彼女のその見慣れない表情に、霊夢は若干面食らって突き合わした顔をぷいっと背ける。それを見てから、紫は勝ち誇ったように手を口元に添えて上品に笑った。
それに気付いた霊夢は面白くないと沸き立つが、そんなことがどうでもよくなるくらいの安堵感を感じていた。
──なんだ……まだ大丈夫じゃない。
まだこうして、自然に付き合えるじゃないか。
自分が思っているほど、抱えているこの蟠りは大きくないのかもしれない。
少し距離を置いてしまったけど、こうしてこれからゆっくりと元の関係を築き直せばいい。
そうだ、まずは仲直りをしよう。
「…………あんた、らしくないわよ」
そう思って口を開いたのに……衝いて出た言葉は……友好を取り持つにしてはあまりにも言葉足らずだった……。
「なんでそんなふうに、優しく笑うのよ」
「…………」
「らしくないのよ、全然似合わないって。気を遣わないでよ……ほんとにもう、やめてよ……っ」
哀切さを窺わせる面持ちで、霊夢は細く薄い声でそう叫んだ。
「なんでっ……なんでそんな変に優しくすんのよ……っ!」
優しくされるのが苦しかった。気を遣われるのが辛かった。湧いた懐かしみや安堵感の裏にあったその感情は、心のどこかに隠すには大きすぎた。
自分で線を引いたのに。友人、親友、そういった枠の中で、いつまでも仲良くできたのに。余所余所しくなるのは当たり前なのに。誰よりも親しくて、誰よりも近くにいた彼女に、そんな態度を取られると無性に悲しくなる。目の前の彼女にも腹が立つが、それ以上に、その何倍も、霊夢は身勝手な自分が許せなかった。
だから涙は大きな雫となって溢れた。最近は歳のせいか、涙脆くなったと霊夢は思っていた。それでもこんなに泣くとは思わなくて、情けなくて、不細工な顔を見せたくなくて俯くのだけど、下を向いたら余計に涙は零れて膝を濡らした。
「弱いから」
ぼそりと……紫が呟く。
咽び泣く霊夢を尻目に、彼女はこう続けた。
「今の貴方、すごく弱いもの。儚くて、脆くて、優しくしてあげないと壊れてしまいそうだから」
そう指摘されて、霊夢の嗚咽が大きくなる。
「だ、だって仕方ないじゃないっ……昔みたいにはいられないのよっ!」
喉を震わせて、そう叫んだ。
「皺が増えてきて、身体が痛くなってきてっ、走ればすぐに息が上がるしっ、満足にあんた達を追いかけることもできなくてっ! 膝が重くて……酸欠で頭は痛くて……目は霞んで…………」
大の大人が声を震わせる様は、見ていて決して気持ちの良いものではない。しかし、紫は黙って聞いていた。
「そうやって段々衰えていくのを感じて、生きるのってすごく怖いことだって思ったわ。あんた達のことは……す、すごく大切な友達だと思うけどっ、それでもさっ! そんな自分の隣で、ずっと変わらないあんた達を見て、なんも思わずにいられるほど神経太くないのよっ……!!」
悲しみと苦悩の声に、紫は耳が痛かった。
霊夢の弱さを目の当たりにして居ても立ってもいられず、腕を彼女の後ろに回して抱きしめた。
「霊夢、ありがとう」
その言葉の真意を霊夢は受け取れたのか。
割り切ることは簡単だけど……現状の関係を維持するのは楽だけど……そうじゃないと、このままではいけないと、ずっと悩み続けてくれた心優しき友人に対する感謝の言葉。
霊夢は察していた。黙っていれば、きっとこのまま紫は自分に優しくしてくれるだろう。調子を合わせてくれて……心地の良い笑顔を返してくれて……。
でもそれは一つ壁を作った相手に対する、当たり障りの無い接し方ではないのか。
嫌われないように自分を偽る、嘘と妥協だらけの関係ではないのか。
そしてそれは……自分が望んだ在り方ではなかったのか……。
それでもこうして胸の内を曝け出しているということは……きっとそうじゃない。望んでなんかいなかった。ただ、分からなかっただけだ。
何もできない赤子が泣いて求めるように……霊夢もずっと泣いていた。心の中で、えんえんと泣いていた。誰かに手を差し伸べてもらいたかった。……どうすればいいか、歩き方を教えて欲しかった。
「違うって分かっちゃったのよっ……頭で分かってたつもりでも全然違った。あぁ、本当に違うんだなって思って、そしたら頭がこんがらがって……整理しようと頭を抱えてるうちに、気が付いたら後ずさってたの……っ」
「そうやって悩むことは大切なことだから、誰も怒らないわ。私のほうこそ、遅れてごめんね」
そう言って紫は立ち上がり、手を差し出した。
「生きるのが辛く苦しいのは戦っているから。そして戦うのは未練があるから。私が手伝ってあげるわ。貴方にはまだ、やりたいことがたくさんあるでしょう?」
疎遠になってしまった彼女達との関係。
親交を一方的に断ち切り、何年も背を向けていた代償は大きく、溝も深い。
それでも今、霊夢は一番身近にいた友人を取り戻したのだ。
自分から歩み寄ったわけじゃない。彼女が歩み寄って来てくれただけに過ぎないが、彼女が側にいてくれれば……背を押してくれれば……きっとできる気がした。
変わっていけるだろう──。
霊夢は紫の手を取って立ち上がる。
背が伸びた今、お互いの背丈は然程変わらない。
同じ高さにある双眸と目が合った。
吸い込まれそうでいて、透き通るような、不思議な瞳。
それが霊夢の泣き顔を見て、悪戯っぽく歪んだ。
あぁ……。
今度こそ本当に安堵した。
見慣れた顔。記憶の中の彼女、そのままだった。
──二人は今、本当の意味での再会を果たしたのだ。
── 歩き方と手のつなぎ方 ──
その日、霊夢は落ち込んでいた。
自身の食卓に頭を突っ伏し、ぐでーんとしていた。
「どうしたの?」
紫が声を掛けるも、その暗い雰囲気は取り除けない。
(あぁ……なんであんなに泣いたんだろ……)
振り返ってみるとすごく恥ずかしい。まるで子供のように泣いた自分が、情けなくもあり、でも少しだけ好きになった。
涙は感情の結晶。それは嬉しくも悲しくも感情が昂ぶったときに溢れる。なれば、あれだけ泣いて涙を流せた自分の心は、まだ元気でいてくれるのだと霊夢は思った。
涙さえ流せなくなったらとても辛いだろう。辛いときに流す涙を流せなくなったら辛い……などと言うのは可笑しいかもしれないが、霊夢にはそんな気がした。
あの涙はどちらだったのだろうか。嬉しかったのか、悲しかったのか。辛くて流すことが大半であるのは、世の悲しみがそれだけ強烈なのか、それとも世に悲しみがそれだけ多いからなのか。いずれにせよ、涙は大きな役割を担っているに違いない。
「……少し、すっきりしたもんね」
「うん?」
紫に聞こえないよう小さな声で呟くと、霊夢は伏せていた顔を上げた。
その晴れ晴れとした顔に、紫は満足する。だがそれも束の間、表情を引き締めて本題を切り出した。
「霊夢、貴方は……自分では気付いてないかもしれないけど、悩みを抱えているわ」
「心当たりが多すぎるわね」
「みんなも同じ。魔理沙も咲夜も早苗も、みんな悩んでいるの。それは特別なことではなくて、生きていく上で必ず躓く小さな石。それに足を取られて、転んで、起き上がれずにいるの。歩き方は知っていても、起き上がり方は知らないのね」
「……私も、そうだって?」
「そうよ。気付いてないフリをしてるのかは分からない。けれど、他の三人とは違って、貴方の悩みは一番単純でいて、一番重要な問題かもしれないわ」
「なんでそんなことが分かるのよ」
「ずっと見てたもの」
「えぇ……」
「いや、変な意味じゃなくてね」
霊夢の作った気味悪がる顔に、紫は微笑して応えた。
「たまに顔を見ていただけですわ」
「いや、十分変な意味だと思うけど……。それと〝見て〟じゃなくて〝盗み見て〟の間違いでしょうに」
「まぁそれは置いておいて、つまり、私には見ただけで分かるのです」
「伊達に長生きしてないわね」
フンと鼻を一つ鳴らす。
「それで、何をすればいいのよ」
「霊夢、私は貴方の助けになるわ」
「そ、そお。恐縮だわ」
「だから貴方は、他の三人の助けになってあげて」
「魔理沙たちの……?」
「ええ。彼女達は大切な友達でしょう?」
「…………」
「あれっ、なんで黙っちゃうのよ?」
「……言葉にしなくちゃダメ?」
これ以上の恥の上塗りは勘弁とでも言いたげに、気恥ずかしさからそんな言葉が出てしまう。
「私たちのことは大切だって言ってくれたんだから、差別せずに言ってあげるべきです」
「…………」
霊夢の表情が苦虫を潰したように歪む。
勢いに任せてあんなことを言うんじゃなかったと後悔する。こうやって後々までからかいのネタにされることは容易に想像できたはずなのに。
「魔理沙も咲夜も早苗も、大切な友達よ。……これでいい?」
仏頂面でそう言うと、紫はどこか嬉しそうに笑った。それはまるで、自分の子供に友人ができたことを喜ぶ親の愛情にも似た……そんな優しさが感じ取れた。
だから霊夢はくすぐったくて、仏頂面のまま顔をぷいっと背ける。
「それにね、きっとこれは無駄にならないわ。貴方にとってもね」
紫にそう言われて、霊夢は疑るような目を向けてしまった。
そんな視線に晒されると、紫は何故か不敵に笑う。
……胡散臭い。
懐かしい感覚が胸に芽生えた。
(大切な友達……ねぇ)
何かむず痒くなるのを覚えながらも、霊夢は心の中で復唱する。
紫がこうやって寄って来てくれなかったら……きっと今も灰色で、ぼんやりと時間を浪費していただろう。
やりたいことは無く、やらなければいけないことは実行できない。そんな自分に差し出してくれた彼女の手は、どんなに胡散臭くても暖かかった。
「最初から最後まで付きっ切りで面倒は見てあげられないけど、困ったときは話し相手になってあげるわ。さぁ、行きましょう」
紫はそう言って、いつかと同じように手を差し出した。
「さすがに、そこまでは甘えないわよ」
霊夢はそう啖呵を切って、その手を掴んだ。
やっぱり掴んだ手は暖かくて、その温もりにどうしようもなく安心する。
引かれるままに外に出た。外は嫌いだった快晴で、日差しが眩しい。でもきっと、今日から好きになれる気がした。そんな些細なところからでも、変わっていけたらと思った。
今までの反復する日常の檻から飛び出して、霊夢は走り出す。
手を引く目の前の彼女を見て、今更ながらに自問した。
──信じてもいいのだろうか……。
自答はしなかった。
何故なら……自身の胸の高鳴りだけで十分な答えを得られたから。
──To Be Continued......!!
続きをお待ちしてます、ありがとうごさいました。
ただ、風祝であり神でもある早苗さんが普通に年を食ってるのが違和感。
咲夜さんのエピソードが楽しみです。
これは続きが楽しみです。
続きに期待です
魔理沙が霖之助を名前で呼んでるのにも、時の流れを感じさせて面白いのだが
妙に気になるのは作中の会話……一体彼は何やらかしたのかw