「お届けものでーす」
境内に響く元気な声を受け、面倒くさそうに身体を起こす。
陽気な空模様を眺めようと縁側で寝転がっていた少女は、草履に足を置くと声の主の方へ歩いていった。
「はいはーい。……お届け物なんて、一体どこのどいつからよ?」
ぶっきらぼうな言葉に対し、小包を抱えた妖怪は「えーっと……」と伝票に目を落とした。
「ああ、誕生日プレゼントですね。ほら、毎年あなたの所にお届けしている」
妖怪の言葉に、少女は思い当たる節があるようだ。
そういえば、そんな時期か。と心中で納得する。
「ああ……今年の“服”ね……。一体、どうやって私にぴったりのサイズの服を新調して、なんでまた私のところに送ってくるのかしらねぇ」
「うーむ。分かりかねます。なにせ、あっしは頼まれた荷物を運ぶだけの運送屋ですから」
「あなたが知らないって事は、知ってるわ。……待ってなさい。今、お駄賃あげるから」
目の前に立つ妖怪・雷獣から小包を受け取ると、少女は代わりに玉蜀黍を一個与えた。
なんとも不思議なものだが、雷獣の運送屋は報酬に玉蜀黍を受け取るのが慣例らしい。――そのように、この雷獣が教えてくれたのだ。
「はいはい、確かに受け取りましたよ。それじゃあ、ここにサインを」
受取人の欄を指差す雷獣。
ペンを持った少女の動きが、ピタリと止まった。
「……ねぇ、雷獣……確か」
「飯綱夜です」
雷獣は手際よく自分の名を教えた。
此処は何度も荷物を運んでいる“お得意さま”の神社であるはずなのだが、この巫女は自分が訪れる度に名前を忘れているのだ。聞かれる前に、教えてやった訳である。
しかし少女は悪びれる様子もなく、ペンを走らせつつ続けた。
「そう、飯綱夜さん。この荷物の送り主。何処の誰だか、教えてくれないかしら?」
「……伝票に書いてあるじゃないですか。“香霖堂”って」
確かに、少女の手の中にある紙にはしっかり『香霖堂』と、店名らしき名前が刻印されていた。
「それは分かるけど。じゃあ、この香霖堂って一体、何処にあるってのよ? 私も良く里には行くけど、見たことないわよ」
「さぁ、分かりません。集配の雷獣は担当が別ですから……」
「あっそ。まぁいいわ。はい、サイン」
「へへぇ、ありがとうございます。それでは失礼。雷獣の配達サービスを、これからもご贔屓に~」
飯綱夜はふわりと浮き上がると、少女から受け取った伝票を腰のポーチにしまい込んで、雲の上へ向けてすっ飛んでいった。
そのあまりの速さに感嘆の声を漏らしてから、少女は小包を抱えて縁側へと戻っていく。
「ふーん、香霖堂……かぁ。今度、探しに行ってみようかしら」
彼女は不思議に思っていた。
気付けば毎年に送られてくる、この紅白の巫女装束。随分と凝った意匠のそれは、作ろうとすれば恐らく馬鹿にならない金が掛かるはずだ。
それを無償で自分への誕生日祝いとして送ってくる、この香霖堂という存在が、少女にとって長年の謎であった。
「さて……」
縁側に置いて、小包に書かれた宛先を見る。
その字は流麗な字体で書かれてあったが、恐らくは男性の書いた風に思えた。
彼女は頭の中で「もしかして私の父親かしら?」などと妄想してみたりする。
「……そんな馬鹿な」
口に出して否定し、小包を開けた。
中には案の定、紅白の布地が詰まっている。持ち上げてみれば、今着ているものと少し違った趣の新しい巫女装束がそこに現れた。
「ふぅ、これで洗濯に余裕が出来るわ」
そのように呟いてから、彼女はもう一度だけ宛先の字を見た。
『博麗神社 博麗霊夢様』
確かに書かれているのは、自分の名前である。
彼女はまだ見ぬ送り主に、一応は感謝の言葉を送りながら、試着の為に寝室へと向かった。
まだ緑色の艶やかな葉が、不意に枝を離れる。
地面に着くやいなや、それは竹箒にさらわれてしまった。
なぜなら博麗霊夢は、思いの他、掃除に関しては真面目に行う質である。
「ふ、ぅー……」
葉っぱを玉砂利の上から退けてやると、霊夢は一つ溜息をつく。
これで今日の掃除は終わりといったところだ。
「…………」
彼女は無言のままで箒を社殿の柱に立てかけると、すたすたと社務所の方へと戻っていく。
境内には霊夢の他に誰もいないのだから、彼女の無言は当然である。
彼女は決して無口という性格ではなかったが、独り言をぶつくさと唱えるほど喋りたがりでもない。
彼女の一日とは、概ね、こんな風に過ぎていくのである。
「起きて、掃除して、ご飯食べて、お茶飲んで……。本当にそれの繰り返しだな、お前」
「……!? 誰っ」
声は鎮守の森から唐突に湧いたものだから、霊夢も驚きに声を上げた。
無意識のうち、右手には妖怪撃退用の御札が握られている。
そんな鋭い反応を見てか、声の主は慌てて霊夢を制止した。
「おぉっと! 待ってくれよ。私は妖怪なんかじゃないぜ。ただのしがない参拝客だ」
声はあくまでも明るく、ふざけた調子である。
それに対して霊夢は毅然とした風に、厳しい口調で説教する。
「それなら、正面から堂々と鳥居をくぐってきなさいよ」
「なーに、一応は魔を扱っているもんでね。出来るなら結界はくぐりたくないものさ」
両手を上げて敵意の無いことを示しながら、一人の少女が茂みから出てきた。
その格好に霊夢は面食らう。
てっぺんが尖んがった帽子に真っ黒なドレス。腰に純白のエプロンを着けているのが、逆にその黒を際立たせている。――どう見ても「魔女」である。
神聖なる神社に魔女が上がりこんできた。――霊夢は問答無用で右手を振りかぶって、御札に霊力を込める。
「うぉぉい! だから止めろって! 私はお客さんだぜ?」
魔法使いの少女は、戦う気満々の霊夢に慌てて静止の言葉を放つ。
「うるさい。よくもまぁ、堂々と神社に乗り込んできたわねぇ……って……」
その言葉を無視して御札を投げつけようとした霊夢。
しかし、その動きが不意に止まった。
それには魔法使いも一安心し、身を守るように構えていた両腕を下げる。
「そ、そうそう。暴力は良くないぜ? 平和的にいこうじゃないか」
ただ、霊夢が矛を収めたのは、魔法使いの思っているような理由ではなかった。
すなわち、平和的な思想で話し合おうとした訳ではなく。霊夢はただ拍子抜けしたのである。
「なんだ。よく“感じた”ら……。あなた“魔法使い”じゃないじゃん」
そう。霊夢は気づいたのだ。
目の前の魔法使いが“格好”だけであるという事に。
いくら魔法使い然としたファッションに身を包んでいても、目の前の少女はただの人間であるのだ。
そんな相手に自分の霊力を振るうのも馬鹿らしい。
一方で、自称“魔法使い”はある種、侮蔑されたような形になった。
だが、その表情に怒りや悲しみはない。先程と変わらず、にこやかである。
「……まぁな。私は魔法使い“見習い”ってところかね? でも実力は折り紙付きだぜ。魔法で戦ったら、本物の魔女にだって負けやしない」
胸を張って、その黒いのは笑った。
そんな今いち咬み合わない会話に毒気を抜かれた霊夢は、敵意と御札を懐に戻す。
何にせよ、妖怪やらの危険な輩が間近まで迫っていたのなら、自分が気づかぬはずがない。だから、この少女はまるで無害なのだと判断できる。――そういった“自分の感覚”に対する自負を霊夢は持っていた。
ただ戦う気は失せたものの、神社に無断侵入した者を放っておく訳にもいかない。
霊夢はせめて事情でも訊こうかと口を開いた。
「それで、魔法使い未満の人。一体神社に何の用かしら? まさか、本当にただの参拝客な訳はないでしょう?」
「紅白巫女さん、私は最初に“参拝に来た”と言ったじゃないか」
「こんな辺鄙な所まで、わざわざ参拝に来る人間なんて、いるわけないじゃないの」
「おいおい……自分で言うなよ……」
魔法使いはその会話の繋がらなさに、少し勢いを削がれる。
続いて霊夢は踵を返すと、社務所へと歩を進める。そして振り返ると魔法使いを手招きした。
「あっ? どうした?」
「あなた、話があるんでしょう? こっちでお茶でも飲みながらにしましょう。立ってるの、疲れた」
さっきとは打って変わって、まるで客人を相手にするような霊夢の態度。
それで今度は、魔法使いが呆気にとられた。
「……おいおい、もしも私がお前の命を狙う悪の魔法使いだったとしたら、どうするつもりなんだ? のんびりとお茶を飲んでる場合じゃないぜ」
「私の名前は、博麗霊夢。この博麗神社の宮司をやっているわ」
「……無視すんなよ。……私は霧雨魔理沙。霧雨魔法店の店主をしている」
「ちゃんと名乗り返してくる悪の魔法使いなんて、いるわけないじゃない」
「……分かったよ。お前には参った」
魔法使いはすっかりと抵抗を止めて、大人しく彼女と話をする気になった。
社務所にやってきた霊夢は縁側に上がると「そこで待ってなさい」と魔理沙に指示する。
魔理沙も大人しくそれに従い、縁側の端っこに遠慮がちながら腰を降ろした。
「それで、魔理沙だっけ。その歳で店主だなんて、一体どういう人生設計してるのよ」
戸棚の奥に眠っていた湯のみを持ってくると、そこへ茶を注ぎながら質す。
魔理沙は、その乳白色をした湯のみを受け取りつつ、呆れたように返す。
「お前だって私と同じくらいの歳だろ? それで神社で巫女をやってるんだ。お互い様じゃないか」
「私は家業を継いでいるだけよ」
「お前、親の後を継いで巫女をしているのか?」
魔理沙の問いに、首を振りつつ霊夢は答えた。
頭を飾る紅白のリボンが、それに従うように左右に揺れる。
「ううん、違うわ。私、捨て子だったの。だから親はいない。……ただ、いつの間にか巫女になってたから、これが私の家業」
その答えに僅かに間を置きつつ、魔理沙は疑いの眼差しを霊夢へと向けた。
だが、それが冗談や虚偽ではないと分かった彼女は、「ふーん」と小さく漏らしてから返した。
「……そうか。いや、それだったら私だって同じだ。私は親の家業を継いで、店をやってるようなもんだぜ」
「へぇ。じゃあ、あんたの親も、そのうんたら魔法店をやってた訳?」
「いや……親がやってるのは魔法の店じゃない。親は里で普通の道具屋をやっている」
「じゃあ、違うじゃん。あんたは家業を継いだんじゃなくて、自分が好きでお店をやってるんでしょ?」
「ああ……。確かに、その通りだよ」
二人の茶を啜る音が重なった。
間を読んだように、頭の上で烏がカァと鳴く。
その鳴き声を合図にしたかのように、二人は咳払いをして、互いの顔をみやった。
「って、そんな話をしに来たワケ?」
「ああ、そうだった。それじゃ、本題に移らせてもらおうかな」
気を取りなおした魔理沙は、背中に背負っていた黒い鞄を床に降ろした。ドスンという擬音が良く似合う衝撃が、床を通じて霊夢の身体に伝わる。
中に何が入っているのか霊夢には見当もつかないが、そのパンパンに膨らんだ様子と、床に降ろした時の衝撃からすると、余程たくさんのものを積み込んできたとみえる。
「実は、この神社に来たのは“セールス”の為なんだ。霧雨魔法店の営業をしに来たんだぜ」
「……新聞屋だけじゃなく、ついに押し売りまでやってきたか」
「押し売りとは人聞きが悪いな。これでも私は、ちゃんとお前に必要なものを見繕って持ってきてやったんだ」
「なんで初対面のあんたが、私の必要なものを知ってるのよ?」
「ふふふ、この一週間ほど、実はこっそりとお前の事を観察していたんだ。これを業界用語でマーケティングというらしいぜ。だから、お前の趣味趣向はバッチリ把握できているわけだ」
「……やっぱり御札の一枚や二枚、叩き込んどくべきだったわね」
「まぁまぁ、こうしてお茶を出したら私はもう客だ。お前の負けだぜ。さぁ、私のセールストークを聞くが良い」
なんだか楽しそうに鞄を開いた彼女を見て、さっさと追いだそうかと考えていた霊夢も、少し付き合ってやる気になった。
なんせ、この神社に人間がやって来たのは、もうほとんど初めてだと言っても良いのであるから。
霊夢が物心のついた頃、こんな事があった。いつものように境内を掃除していると、里の人間たちが血相を変えて神社へやって来たのだ。
彼らが言うには、妖怪が暴れているので懲らしめて欲しい、との事だった。
霊夢は早速、言われた通りに里へ赴き、居酒屋で酔って暴れていた妖怪を叩きのめした。
その時に聞いた人間の言葉を、彼女は未だに覚えている。
「困るよ。あんな所まで呼びにいかないと、助けてくれないなんてさぁ」
それは群衆の中の一人が放った愚痴のようなものであったが、その時に霊夢は思った。――「それは、ごもっともだ」と。
空を飛べる自分が、自主的に妖怪退治をする方が、お互いに時間の節約になるではないか、と。
それ以来、彼女は自ら幻想郷のあちこちを見回るようになった。
だから里の人間も神社へ助けを乞いにくる事はなくなり、霊夢が神社で人と会うことも、めっきり少なくなったのだ。
つまり、それ以来の客である。この霧雨魔理沙という魔法使いは。
「おおおい! 聞いてんのかよ!!」
「……え。あ、聞いてなかった」
大声にハッと気づいた霊夢は、妙ちくりんなガラクタを片手に熱弁を振るう魔理沙へと、上の空丸出しの顔を向けていた。
もちろん、魔法使いはそれに食って掛かる。
「なんだよ! 私がせっかく便利な道具をお買い得価格でご提供しようとしてるのにさー。もういいよ、そんな態度だったら、今日はもう帰っちゃうぜ?」
「あら、そう? 残念ね、また来てくださるかしら?」
一丁前に駆け引きを仕掛けたつもりの魔理沙は、肩透かしを食らったようにつんのめる。
「おいおい、そこで本当に帰す奴がいるかい。引き留めろよ、この私を」
「私には必要に思えないもの。魔理沙が持ってる、そのゴミ」
「ゴミじゃない。うちの目玉商品だ」
「いいから、帰った帰った……」
手で払うようにして追い返そうとする霊夢に対して、魔理沙は「仕方がないな」と一言呟き、そして右手を差し出した。
霊夢は一瞬だけ考えてから、その差し出された右手を握り返す。
「ええ、よろしくね。魔理沙」
「違う違う」
魔理沙は握られた手を、上下に軽く振ってから霊夢へと突っ込む。
そして、もう一度右手を雲の方へ向けて開いた。
その何も置かれていない手のひらをポカンと見つめていると、2回ほど手のひらが開閉する。それでも霊夢には意味が分からない。
仕方がなく、痺れを切らしたように魔理沙が口を開いた。
「セールストーク料だよ。まけとくぜ」
そんな金銭の要求に、霊夢は血相を変えて魔理沙に詰め寄った。
「はぁ!? 何よ、それ? 勝手に押しかけて喋り倒したあげく、お金をとるっての?」
「まるで聞いてなかった癖に良く言うよ。だが私が喋った以上は、とにかく払ってもらうぜ。――別にお金じゃなくてもいいしな」
「とんだ押しかけ強盗だわ。一応聞くけど、お金じゃなかったら何で払えば……」
そこで霊夢はふと、先ほど握手を交わした己の右手を見た。
続いて魔理沙の顔を見つめる。
そのまっすぐで、まるで黒瑪瑙のように綺麗な瞳で射ぬかれた魔法使いは、思わずたじろいだ。
「なんだ、よ?」
「ああ、どうりで大きい帽子だと思ったわ……」
表情をさほど変えず、しかし魔理沙の差し出した右手を、霊夢は再び握った。
「仕方ないわね。案外と面白かったわよ、あなたのセールストークとやら。聞き入ってたのよ、実は」
「本当かよ? まるで上の空って感じの顔だったぜ? とても聞いていたようには見えなかったがね」
「うるさいわね! 代金を払う、って言ってるのに」
そこで霊夢は少し改まったように、襟元を正してから言葉を続けた。
「代金として……今晩うちで、ご飯食べていかない?」
「えっ……」
霊夢の唐突に思える提案に、魔理沙は一瞬狼狽した。
だが次の瞬間にはごくりと喉を鳴らし、先程までと同じ小賢しい笑みを浮かべる。
「……メニューは、なんだ?」
「カレーライス」
「ふむ、乗った。それで立て替えといてやろう」
それを聞いて霊夢はくすり、と笑った。
魔理沙も誘われたようにくすり、と笑う。
その笑い声は水面に起きた波紋のように、やがて大きく広がっていく。
二人は笑いあった。少女たちは無邪気に笑った。傍から他人が見れば、一体何がそんなに可笑しいのだろうと思うことだろう。
だが、心の底から沸き起こる笑いというのは得てして、笑っている本人にさえ原理が分からないものである。
「はっはっは、博麗神社のカレー。どんなもんか採点してやろうか」
「食べたらビックリするわよ。自分で言うのもなんだけど、私は料理が上手いから」
「くっくっく、カレーなんて煮込むだけじゃないか。腕なんて関係ないぜ」
「ふふん、そんな事を言っているようじゃ、魔理沙の料理は大した事なさそうね。ふふふ」
◇ ◇ ◇
少し肌寒くなってきた。
だが霊夢はいつもと変わらぬ格好で平気な顔をしている。
なぜなら袖の内側には発熱する御札を縫い付けてあり、それで幾分か寒さから身を守っているからだ。それが霊夢があみ出した防寒の知恵である。
だが根本的な解決にはなっておらず、霊夢の肌には鳥肌が立つ。
寒いものは、寒いのだ。
「暇ね……」
ぽつりと零し、お茶を啜る。
寒いのであれば縁側ではなく、居間にあるこたつにでも入れば良いものを、霊夢は頑なに縁側に腰掛けてお茶を啜る。
それは囲炉裏にあたりながらカキ氷を食べる快感に似ている、と彼女は思っていた。
「こう風が強くっちゃ、ますます掃除をする意味もないわねぇ」
またぼそりと呟いた。
急須の中身もなくなると、彼女は数日前の出来事を思い出す。
『こんな美味しいカレー!! 初めて食べたぜ! 霊夢は料理の天才か!?』
『言ったでしょう、ビックリするって。これでセールストーク料金の支払いは十分よね?』
『ああ、十分だ。……ううむ、私もカレーの研究はまだまだということか』
『料理を研究するなんて、魔法使いと言うより、まるで料理人じゃないの』
『なんとでもいえ、料理と魔法は似て非なるものなんだ。……次は、私がとびきり美味しい料理を振舞ってやるからな、覚悟しろ』
『はいはい。楽しみに待っているわ』
そんな会話から数日。
本当に料理の研究でもしているのか、魔理沙はとんと姿を現さない。
だから霊夢は暇を持て余しているのだ。
そもそも、霊夢は料理の研究どころか、練習もしたことがない。
気付けば、自分で自分の食べるものは作れるようになっていた。
それは料理だけではない。生きていくこと自体、全てが気付いたら出来ていたのだ。
だから、魔理沙のいった“研究”という言葉に、彼女はピンときていなかった。
彼女にとって練習や研究は、時間の無駄としか考えられないのである。
「楽しみにしてたのに」
一人ごちて勢い良く立ち上がると、身体をほぐすように伸びをした。
ひんやりとした空気が喉を通っていくのが分かる。霊夢の目は急に冴えた。
「……ちょうどいい。妖怪退治にいこっと」
彼女にとって、妖怪退治は時間つぶしであった。
綺麗な境内の掃除や、縁側でのお茶のみ、それらと全く同等な価値の行為であるのだ。
妖怪退治によって、霊夢は里の人間から“お礼”として食料などをもらっている。確かにそういった所で僅かには損得勘定も働いていた。
しかし、こうして暇だという理由で重い腰を上げたのが、結局は“暇つぶし”だという何よりの証拠である。
「たまには巫女らしい事もしないとねぇ」
彼女は空に飛び上がると、その黒い髪を靡かせながら里の方へと向かった。
上空の方が空気は冷たい。「ったく。せめて長袖ならねぇ」彼女は肩の部分が大きく開いた、妙な意匠の服に恨み節を言った。
「そういえば、魔理沙は箒に跨って帰っていったわね。あれがないと空を飛べないのかしら? 不便ねぇ」
霊夢にとっては、空を飛ぶことさえも、気付いたら自然と出来ていたことだ。
むしろ、里の人間が歩いて神社まで来るのを見て、ようやく普通の人間は空を飛べない事に気付いたくらいである。
「……ってことは、魔理沙は普通の人間じゃないわね。ふふ」
心なしか嬉しそうに言った彼女は、やがて視界に人間の里を捉えた。
妖怪退治の時は、とりあえず、里に訪れて妖怪が悪さをしていないか聞き込みを行い、それで何かあればそいつを懲らしめに行くのが基本作法だ。
人間の知らぬところで妖怪退治をしたところで、評価の上昇、ひいては貢物への影響はない。――そんな無駄働きは、ごめんよ。というのが霊夢の考えである。
だから、大々的に自分が来た事を知らせるのが、彼女の妖怪退治の始まりなのだ。
「さぁ、博麗の巫女が来たわよ! 困った事があったら、何でも言いなさい!」
凛とした声が響くと、人々はそちらに顔を向け、やおら歓声が起きる。
「おっ、霊夢ちゃん!」
「霊夢さんが来たぞー!」
大通りに着地し、腰に手をあてて高らかに自己紹介をする。
往来の人々はその目立ちまくる紅白の衣装を見て、博麗の巫女がやって来たと騒ぎ出す。
あとは解決して欲しい事案が、民衆から集まるのを待つだけである。
年端もいかない巫女に民衆が敬意を払い、妖怪退治を依頼するのは、それだけ人々が妖怪に恐怖しているという事だろう。
妖怪の中には、里の中に入ってきて買い物をしたりする友好的な者もいるのだが、無差別に人喰いを行う凶暴な妖怪も、やはりまだ存在するのだ。
人々が巫女を頼るのは、自然な事である。
「霊夢さん、頼みたいことが……」
「あら、八百屋のおじさん。何かしら?」
早速、妖怪退治の依頼がやってきて満面の笑みになる霊夢。
それに向かって禿頭を上下にさせながら、八百屋の親父が頼み込む。
「どうも最近さ、里の西南の方で、掟破りの妖怪が湧いてるみたいなんだ……。幸い、死人は出てねぇが、この間も弥八の奴が、畑仕事で遅くなった時に追いかけられたそうで……」
「あら、じゃあ弥八さんを連れてきてよ。直接、妖怪に遭った人から様子を聞きたいわ」
「それが、妖怪に追いかけられたのがよほど参ったのか、まだ家で唸って寝こんでやがるんだ。だから頼むよ、霊夢さん。妖怪を退治してやって、弥八の奴を安心させて欲しい」
一際大きく下がった頭頂部を眺めながら、霊夢は少しだけ思案するように腕組みをし、すぐに答えを出した。
「ふふん、任せなさい。その妖怪は、この博麗霊夢が退治してあげるわ」
高らかな宣言と同時に、民衆からは「流石は博麗の巫女!」「霊夢ちゃんバンザイ!」といった声が上がる。
それに気を良くした霊夢はえっへんと胸を張る。
「それじゃ、早速行ってくるわ!」
霊夢は軽く地面を蹴ると、ふわりと浮き上がった。
ますます勢いを増した声援を背に受けながら、霊夢は民衆へと手を振りながら現場へと飛んでいった。
「行ったな……」
誰ともなく、群衆の中から声が上がる。
それを合図にするように、彼らの熱がさぁっと引いていった。
そして、各々の目的地に向かって歩き始め、人だかりはあっという間に消える。
「やれやれ、博麗の巫女を乗せるのも一苦労だ」
民衆の内の一人が声をひそめていう。
「そう言うな。結局、俺らは霊夢ちゃんに頼るしかないんだ」
連れ合いがそれに苦言を呈する。
「でもよ、明らかに点数稼ぎの妖怪退治じゃねぇか」
「彼女も生活が掛かってんだ。奉仕活動ってわけじゃないんだろう」
大体そんな話があちらこちらで、風にのって里に広がっていく。
霊夢は既に里から消え、妖怪退治に向かっている頃だろう。
だが、あれだけ人目を引いて登場したのだ。その話はしばらく止むことがない。
「でもよ、前の巫女はもっとしっかり……。巫女としての仕事を全うしていた気がするぜ」
「まぁまぁ、あんな子供で頑張ってるんだ。大目に見ようじゃないか」
「……なぁ、そういえば。前の巫女って、どういう人だったっけ。てか名前はなんだっけ」
「あー? 忘れたのか、恩知らずな。ほら……はくれい…………」
「お前も忘れてんじゃねぇか!」
やがて霊夢の話は喧騒の中に溶けこんでいき、人間の里はいつも通りの賑やかさに戻っていった。
それが人間の里における、霊夢の立ち位置であるのだ。
◇ ◇ ◇
空を往く霊夢の手には、一冊の小冊子があった。
表紙には『初等妖怪退治教本』と書かれている。なんとも馬鹿げた題ではあるが、少なくとも霊夢はこの本を真剣に読んでいた。
彼女の住む神社には、誰が残したのか分からない道具が数多くある。
それは御札であったり、陰陽玉であったりするのであるが、この冊子もそのうちの一つなのだ。
しかも、これはある日突然、居間の机の上に“出現した”ものだから、彼女も気になって内容を熟読したものである。
そんな曰くつきの本が未だに現役ということは、その内容が彼女にとって如何に大事であるかは推して知るべし、といったところだ。
「恐らく、こいつね。ルーミア、宵闇の妖怪」
索引を頼りに、里周辺に生息する妖怪を探しだした。
そう、この『初等妖怪退治教本』には、幻想郷に住む妖怪の見た目や特徴などが書かれており、妖怪退治に役立つようになっているのだ。
何故、それが自分の家に現れたのかは理解出来なかったが、少なくとも自分にとっては有用なものである。霊夢は心置きなくそれを携帯していた。
「金髪、見た目は人間でいう7~8歳。瞳は血のような赤。食欲旺盛で人喰い衝動が比較的高い。健忘症を疑いたくなるくらい忘れっぽく、もちろん掟のことも頭にない。ただし人を襲うのが下手なので、未遂に終わるのが通例。たまにガツンと痛い目に遭わせると、しばらくおとなしくなる。黒い球体を見かけたらコイツ……か」
普通の人が見れば、もっと戦いに役立つ情報はないのかと思うだろう。
だが霊夢は、教本を読んで既に学んでいる。――教本の中で、戦いについて特に言及されていなければ、霊夢にとって退治するのは造作でもないという証なのだ。
むしろ、このくらいの妖怪には余裕で勝ってもらわないと困る、と筆者から発破をかけられている気さえしていた。
「おっと、いきなり当たりね」
なんとなく、森の近くにいるのではないかと思って飛んでいたところ。霊夢は空を浮かぶ黒い球体を発見した。
まだ陽も落ちていないのに黒に擬態するとは、健忘症というより単に頭が悪いのではないのか、と霊夢は嘲笑する。
「ちょっと、そこの黒いの。止まりなさい」
霊夢は御札を片手に球体の行く手を塞いだ。
だが球体はそれに構わず突っ込んでくる。
「えぇ!? ちょ」
「うわっ!」
霊夢もまさか、球体が止まる素振りすら見せないとは思わなかったので、避ける事が出来ずに球体と正面衝突してしまった。
衝撃と共に黒い球体は跡形もなく消え去り、代わりに金髪の少女が地面に落ちる。
ぶつかったおでこを手で抑えながら、その姿を確認した霊夢は怒りの声を上げた。
「あんた! 止まれっていったら止まってよ!」
「あいたた~。そんな事言われても、突然飛び出されたら困るわ。だって私、前が見えないんだもん」
「え、あんた目が……?」
「いや、違う違う。だって、闇の中だと目が見えないじゃない?」
つまり、自分の能力で闇を作り出して、前が見えなくなったというのだ。
それを聞いた霊夢は「教本に添削を入れておこうかしら」と呆れ返った。書き足すのは「致命的にバカ」とでもするつもりだろう。
「なんか聞くのも面倒なんだけど、あんたさ。最近、人間を襲わなかった?」
「あ、そうそう。今もちょうど、人間を探してたんだよね~。って、目の前にいるじゃない」
「あら、意外と話が早かったわ」
「交渉成立ね。それじゃ、いただきま~す」
「それじゃ、退治させてもらうわよ」
苦笑いを浮かべつつ、霊夢はルーミアから距離を取った。
ただの人間である弥八が逃げ切れたのだ。――その事実から霊夢は、ルーミアが人間を襲うときの手段を推測した。
『人間が妖怪から逃げられるとしたら……例えば食欲に任せた噛み付き、それほどの悪手で狩りをしたのだろう』
霊夢は自然と、そのように考える事が出来ていた。
だからまずは距離をとる。
そして案の定、鋭い犬歯をむき出しにして噛み付きをかましてきたルーミアは、空高く舞い上がった巫女を捉えることが出来ずに、勢い余って顔面から地面に突っ伏した。
「はぶぶ。べぇ! 土食べちゃった……。もう、なんで私の動きが分かるのよ!」
「勘」
吐き捨てると同時、霊夢の手から御札が放たれる。
それは青白く光り、雷光を纏いながらルーミアへと襲いかかった。
「ひぇ!?」
思いもよらぬ反撃に、ルーミアはたまらず空中へ逃れた。
だが、それも霊夢の読み通りである。
「はい、ようこそ」
すでにルーミアの退避してくる場所に、霊夢が足を降り切り身構えていた。
強烈な蹴りが、ルーミアの背中を打つ。
「ぐぇっ!?」
攻撃を受け、小さな身体はまるでゴム鞠のように地面を跳ねた。
「ぐぐぐ~! あんた何者よ!? あっ、もしかして巫女!?」
「私の格好を見て、気付いてなかったとは想定外だわ。だけど、あなたが私に退治されるのは、依然変りなく想定内ね」
霊夢の手の中に収まっていた小さい陰陽玉が、霊力を受けて巨大化する。
それはルーミアの身体を軽々と押しつぶすような質量を持っていた。
「さぁ、これでトドメよ。しばらく人を襲えなくなってもらうわ」
「むぅ。分が悪いわねぇ……。逃げる!」
「逃がすかっ!」
踵を返して、背後の森へと飛び立ったルーミア。
霊夢はすかさず、その背中へ目がけて陰陽玉を食らわせようと、腕を大きく振り上げた。
「あっ?」
そこで霊夢の“想定外”が起きた。
突如として、目の前が真っ暗になったのである。
「わっははー。参ったかー」
闇の向こうからルーミアの無邪気な声が聞こえてくる。
そう、ルーミアはここぞとばかりに暗闇を作りだす能力を発揮したのだ。
「……当たれ!」
一瞬で視界を奪われた霊夢は、わずかに手元が狂う。
恐らく、陰陽玉が地面を抉ったのであろう轟音だけが響いて、ルーミアへの攻撃が失敗に終わったのを知った。
「あー、外した! ……逃さないわよ!」
すぐに追いかけようとする霊夢であるが、自分を飲み込んだ特大の闇はなかなか消えない。
流石の彼女も、視界が失われた状態で敵を追うことには躊躇した。
「闇に乗じて……来るか?」
ルーミアの攻撃に備えて闇の中、最大限に感覚を研ぎ澄ませる霊夢。
やがて彼女の耳には、妙な音が聞こえてきた。
枝の折れる音や、草葉が激しく揺れる音。
そして時々聞こえる「ぎゃっ」という悲鳴。
「もしや……闇を広げたまま、森の中を逃げてるの?」
そうに違いないと判断すると同時、即座に自分も闇の中へ身を投じる。
妖怪退治が生業の巫女である。
闇夜の中でも戦えるくらいの暗順応を、彼女の瞳は身につけていた。
「まずいわね。……何も見えない」
だが、流石に妖怪の能力で作り出された闇は完全である。
霊夢の眼を以てしてでも、ルーミアが作った闇の中では影の一つも見えない。
「全く……厄介な奴ね。あんまり速度が出せないわ」
こうなれば後は、己の感覚に頼るしか無い。
少し速度を落としつつも、音を頼りに森であろう方向へと飛翔を始める。
「……くっ!」
皮膚の先。僅かな所を鋭い枝が通り過ぎていった。
僅かに首を傾けなければ、その柔い肌は鮮血を滲ませることになっていただろう。
霊夢は己の皮膚を通してくる感覚、それのみで森の中を突き抜けていった。
これが常人であれば、少しも進めないうちに幹にでも激突し、悶絶しているのは言うまでもない。
「もー、やだぁ」
霊夢の行く、おおよそ一町ほど先から、間の抜けた声がした。
「うっ、まぶっ!?」
すると、それを合図にしたように闇が急に晴れた。
霊夢は突然の明るさに目を細めながら、迷いなく己の飛翔速度を上げた。
「ったく。大方、木にぶつかるのに我慢出来なくなったんでしょうが。だったら始めっから、こんなややこい事しないでよ!」
霊夢は明るくなった瞬間に、全身に枝葉の絡んだルーミアの姿を捉える。
そして一直線に、そこへ向けて突っ込んでいく。
怒りを増大させながら迫ってくる巫女の姿に、ルーミアもさぞや恐怖したのだろう。
「うー、やられてたまるかっ」
その恐怖がきっかけとなり、小さな妖怪に変化が起きた。
「むっ、闇バカ、反撃する気になった?」
「このー! そっちが離れて攻撃するならっ」
ルーミアは両腕を広げ、自分の中にある妖力を解き放とうとしていた。
それは妖怪にとっては基本的な、妖力の弾による攻撃である。
しかし今までのルーミアは、そのような攻撃手段すら知らなかったのだ。
それが今、霊夢への恐怖心で開眼した。
皮肉にも、霊夢が彼女の妖怪としての格を一つ上げたといっても良い。
「そんな攻撃……」
ただ霊夢も焦る様子は全くない。
単純な飛び道具など、身体を捩るだけで躱す事が出来る。
霊夢は勝利を確信した。
逃げるのを止めて空中で停止しているルーミアは、すぐに回避運動に移ることは出来ないだろう。
さらに、彼女は慣れない妖力での攻撃の最中。
よって、御札による攻撃を躱せるはずがないのだ。
霊夢は次こそトドメになるはずの御札を、手の中で固く握った。
「あたったー!」
ルーミアの明るい声が、霊夢の耳に入る。
だが、彼女の言葉を聞かずとも、足を襲う焼けつくような痛みが、霊夢にその事実を伝えている。
「え、うそ……」
彼女の足元をルーミアの弾が直撃していた。
僅か、だが絶対に有り得ない回避ミスである。
「あ、ここ……」
気付くには遅すぎた。
彼女は周りを見渡し、そこが普通の森ではない事を知る。
「ああ、魔法の森」
彼女も知識にはあった。
幻覚作用のあるキノコが自生し、常に瘴気に包まれた人を寄せ付けぬ森。
それが魔法の森だ。
ルーミアは妖怪だから平気であったが、知らず知らずのうちに足を踏み入れた巫女は、その瘴気によって確実に体力を奪われていた。
そして激しい戦いの中で、その“鈍り”は致命傷となったのだ。
「足をやられたら、逃げる事も出来ないわね。よーし、食べるぞー!」
弾が当たったのに気を良くしたのか、ルーミアが犬歯を煌めかせて突進してくる。
霊夢は足に力を入れようとするも、骨がねじ切れるかのような痛みばかりが脳を叩き、足は動こうとしない。
「うっ、まずい……!」
「巫女肉、いただきー!」
ルーミアの綺麗な白い歯。
それが一本一本、確認出来るほどの距離に近づいた。
誰がどう見ても、絶体絶命である。
しかしながら、それでもなお、妖怪に立ち向かうのが“博麗の巫女”であった。
「舐めるな!」
肺の中に溜め込んだ息を全て吐き出し、彼女は叫んだ。
その瞬間、彼女すらも理解できない現象が起きる。
「へ?」
霊夢の目の前には、ルーミアの背中。
そして、何もない空間に向けて飛び込んでいるルーミア。
一瞬の逡巡。
理解したのは、どうにかして自分がルーミアの背後へと移動したということ。
だがそれは、十分過ぎる認識だ。
「そりゃ!」
「ぐぎゃ!」
陰陽玉が後頭部に叩き込まれると、ルーミアは本日二度目の地面とのキスを果たした。
「……おい」
「ふにゃ……?」
霊夢は痛む右足をかばいつつ着地し、地面に臥したルーミアへと話しかける。
金髪の妖怪は泥だらけの顔を上げると、鼻血を垂らし目を潤ませていた。
「私、封印されちゃうの?」
「もう、人間を襲ったりしない? 約束できるなら、見逃してやってもいいけど」
「うーん、分かんない。食べるかも」
「ガッチガチに封印するわよ」
「わ、分かった! もう人間食べない!」
どうにもルーミアとの掛け合いでペースを乱された霊夢は、やれやれとため息をつきながら御札を懐へしまった。
「分かったなら……行って良し」
「あ、ありがとー」
とんでもなく痛い目に合わされた相手に、礼を言ってしまう辺りは妖怪故なのか、それともルーミアの頭が弱いからなのか。
そんな事を考えつつ、霊夢は自らの視界がぼやけていくのを、まるで他人ごとのように感じていた。
「巫女が、瘴気に負ける、なんて……ダメよ」
今更、瘴気避けの結界を張ったところで意味もない。
既に身体には瘴気が危険水域まで浸透しているのだ。
しかも、瘴気は空気より軽い。
だから瘴気が最も濃いのは、霊夢の背丈より、もう少し上のあたりだ。
よって空を飛ぼうとすれば、一気に致死量を吸い込んでしまう可能性が高い。
歩いて行こうにも、この足と朦朧とした意識では無理なのは明白だ。
結論を言えば、彼女に逃げ場はなかった。
「割に合わない妖怪退治だったわ……。米俵、一年分、くらいね」
霊夢は地面に這いつくばった。
どうにかして瘴気を吸い込まないように、そして動かない右足を庇うようにして森を出ようとした。
ただし残念ながら、今の霊夢の意識では、もはやどちらが森の外なのかすら分からない。
「あー、さっきの金髪妖怪……助けて……」
いくら呑気で馬鹿といっても、あの妖怪が巫女を助けてくれるはずがない。
だが霊夢の視界には、確かに金髪の少女が、ぼやけながらではあるが映っていた。
それが、瘴気の見せた幻覚であったならば、真に遺憾ながら、霊夢の物語はここで終わりである。
そして嬉しいことに、それは幻覚ではなかったのだ。
◇ ◇ ◇
一番古い記憶は、寒い廊下を歩く姿。
気づいた時、自分は一人で神社にいた。
「ここは何処? 私は誰?」
その問いに答えてくれる人はいなかった。
だから自分は、一人で生きていく事にした。
幸いにして、どうやったら自分が生きていけるのかは分かっている。
誰かが教えてくれたのか、最初からそうであったのか、自分には生き延びる力が備わっていた。
それともう二つばかり。
自分が分かっていた事がある。
博麗大結界を守る事と、自分が博麗霊夢であるという事。
「いっつ!?」
目が覚めると同時。
身体を支配したのは、右足首の激痛であった。
それが脳味噌に危険信号を送るように、どくんどくんと頭の中に鈍痛を伝える。
やがて、それに慣れると霊夢は、ようやく自分の周りに目を向けられた。
まず分かったこと。――自分はふかふかのベッドに寝ている。
右足には包帯が雑に巻かれており、格好はあの時のままだ。
ベッドの周りには何かの部品のようなガラクタや、古びた本などが山積みになっている。
そして、机の上ではフラスコの中の液体がコポコポと気泡を生み出していた。
「不思議なものね。誰の部屋か分かるなんて」
もとより、霊夢の知っている人間は数が限られている。
その中でもこういった部屋に住むものといえば、最近知り合った彼女しかいない。
「おっ、目が覚めたか」
答え合わせは、すぐに出来た。
土鍋を持った魔理沙が、部屋にやってきたのである。
手にはめたピンクのミトンには、星の刺繍がしてあった。
「どうやら、あなたに助けられたみたいね。魔法使いさん」
「ああ、まさか魔法の森で巫女が採れるとは思いもしなかったぜ」
魔理沙は白い歯を見せて笑いながら、土鍋をベッド脇の床頭台へ置いた。
蓋を外すと、お粥から白い湯気が立ち上がる。
「お前を家に運んでから、半日が経過している。私なりのやり方で瘴気も抜いたし、右足以外に怪我はない。……となると、あとは胃袋だけだ」
「……随分と、大きな借りを作ってしまったみたいね」
樫の木で作られた小さい椅子に腰掛け、手近な本を手に取りながら魔理沙が答える。
「なーに、妖怪退治の手伝いをしたって喧伝すれば、私の店も繁盛するかもしれんからな。私も損得勘定で動いたに過ぎん」
それを聴いて霊夢は、ふと、笑みを零した。
「ん? 何か可笑しいことを言ったか?」
それに反応した魔理沙は、怪訝そうに尋ねる。
霊夢は笑みを浮かべたまま頷いた。
「ええ、言ってるわよ。……ずっと気になっていたんだけど、魔理沙。あなたの喋り方、なんとかならないの? 聞いてると笑っちゃうわ」
「む……。これは私のアイデンティティなんだぜ。笑うなよ」
「まぁ、確かに……。その口調を聞いてるだけで、あなたって存在が分かる気がする。なんだか、今は魔理沙の喋り方を聞いてると安心する」
「そいつはどうも。お粥でも食べて、ゆっくり休みな。……あ! そのお粥は手を抜いて作ったから、“料理勝負”には含まないでくれよ!?」
「ふふ、分かってるわ。それじゃ、頂きましょう」
暖かいお粥を小皿に盛り分けている間、魔理沙はずっとさっきの本を読んでいる。
やがて霊夢が食事を終えても、まだ同じ本を読んでいた。
霊夢はしばらくベッドに横になり、ぼうっとしてみる。
それでふと横を見ても、まだ魔理沙は分厚い、皮で装丁をされた本を、樫の木の椅子の上で読んでいた。
たまらず霊夢は、背表紙の向こうにいる魔法使いへと尋ねた。
「……ねぇ、魔理沙。それ、何を読んでいるの?」
「ん、ああ。ちょっと手に入れた魔道書さ。魔法使いになる為の勉強」
「魔道書って、ちょっと手に入るもんじゃないでしょうに……」
勉強中の彼女を見て、霊夢は思った。
この同じくらいの年齢である魔理沙は、魔法使いを目指している。
自分は巫女、そして彼女は魔法使い。何が自分たちを変えたのだろうかと。
一体、自分たちの何が違うのだろうかと。
「ねぇ魔理沙?」
「あん? なんだよ」
「魔理沙は、なんで魔法使いになろうとしているの?」
単純な疑問である。
まだ二回目の邂逅ではあるが、魔理沙が魔道への執着を持っていることは明らかで、今も目の前でその研究に没頭している。
自分と同い年ほどの少女が、何故に魔法使いになろうとしているのか。
霊夢は疑問に思い、質問したのである。
魔理沙はその分厚い本に栞を挟むと、被っていた帽子を思い出したように脱ぎ捨てた。
それはガラクタの上にふわりと着地する。
「私にとって魔法は、生きる為に必要な力なんだ」
彼女の答えは、霊夢にとって少し意外であった。
「妖怪に、対抗する為?」
「それも含む、だな。私みたいな子供が、一人で生きていく為には、魔法の一つや二つは知らないと生きていけないんだ。魔法を学びたいから学ぶのではなく、一人で生きていきたいから、魔法を学んでいるんだ」
その説明を受け、霊夢は表情を暗くした。
「そうなんだ。がっかり」
「おいおい、人に尋ねといて、“がっかり”はないだろう?」
「だってさ、魔理沙は私と違うと思ったんだもの」
「あー? お前は、自分と私が同じだと言いたいのか? 私は魔法使いだぜ、巫女じゃない」
霊夢は身体を捩って負傷した右足の位置を直すと「そういう事じゃないのよ」とぼやいた。
「私は、気付いた時には博麗の巫女だった。別にそれが嫌って訳でもないけど、自分で選んだ道という訳でもないの。成り行きで、ただそうなっていたから巫女をしているだけ。でも、魔理沙は自分の好きな事を、自分で選んでやっているのだと思ったの。だから羨ましいなぁ、と……勘違いしちゃったのよ」
思いの外、真面目な話に、魔理沙も面食らったのだろう。
少し間を置いてから、言葉を選ぶように口を開いた。
「いや、別に……私も嫌々で魔法を勉強している訳じゃないぜ? 嫌いだったら、こんな所に住んでまで研究するかよ。……生きる為でもあり、好きだから魔法を学んでいるんだ。ま、一石二鳥って奴だな」
「そう、ね。……じゃあ、やっぱり羨ましいわ。あなたのこと」
本当に羨ましそうに、羨望の眼差しが向けられる。
その瞳と目が合った魔理沙は、どうしても納得がいかないようであった。
「なぁ。博麗の巫女ってのは、幻想郷の平和を守る役目なんだろ? なんで本人が知らないうちに、そんな大事な役に就いてしまったんだよ? おかしいじゃないか」
「……知らないわよ。私が知ってるのは、私が博麗の巫女であるということだけだったんだもの」
それを聞いて魔理沙は、小首を傾げた。
そして、少し言い辛そうに、躊躇いをたっぷりに訊いてみた。
「えっとさ、なんていうか、初めて会った時に、あの、自分は……捨て子だって言ってたよな? それって、なんで分かったんだ? 気付いた時には、神社に一人でいたんだろ? そうしたら親が何処にいるのかも分からないし、捨て子だって決まった訳じゃ……」
歯切れ悪くボソボソと尋ねた魔理沙とは対照的に、返す口調はハッキリと、サバサバしていた。
「推測よ。でも、そうとしか考えられないじゃない。確かに神社の社務所には、誰かが住んでいた形跡はあるんだけど、どうも私自身の形跡としか感じられないし。昔からあそこには、私しか住んでいなかったと思うしかないじゃない」
「はぁ……。じゃあ、物心つく前から霊夢一人で住んでいたのか?」
「そんな訳ないわよ。赤ん坊が、どうやって一人で生きていけるのよ」
「いやいや、どっちだよ」
「……多分、誰か、育ての親はいたんでしょう。博麗の巫女を育てる為の……。――拾ってきた私を博麗の巫女にして、そして去っていったんだわ。理由は知らないけど」
魔理沙は返す言葉も見つからず、霊夢も途端に口を閉じた。
そんな訳で、部屋をしばらく無言が支配する。
「あぁ……お茶、いるか」
「頼むわ」
魔理沙は駆け足で台所に行くと、その手にティーポットとマグカップを持ってきた。「安心しろ、緑茶だ」と言いつつ、マグカップに湯気を注ぐ。
それを受け取ると、霊夢は湯気を息で吹き飛ばしながら、ゆっくりとマグカップへ唇をつけた。
「ありがとう。……ねぇ、魔理沙。なんであなたは、一人でここに住んでいるの? ご両親は……その……」
「ん、大丈夫。私の両親は健在だぜ。ただ喧嘩して、私が一人飛び出してきた、だけさ」
魔理沙は机の上で小刻みに揺れるフラスコを見つめながら、素っ気なく言った。
それ以上は霊夢も追求しなかった。
ただ、霊夢の口中に流れこんできた茶の味は、やたらと苦い。
「不思議なもんだな。真逆かと思ったら、似ているようで、やっぱりそうじゃない。……いやはや、神社に営業に行って、本当に良かったよ」
「そうかしら? 私は憂鬱よ。これから毎日のように、あなたと顔を合わせるのかと思うと、ね」
「くっく……」
「ふふふ……」
二人は、どちらからともなく笑い出した。
何が愉快なのかは本人たちも分からないのであったが、とりあえず笑いあってみた。
ふと気付けば、霊夢の足の痛みは大分良くなっている。
それが分からぬくらいに、彼女は穏やかな気持ちの中にいたのだ。
「さて、と」
魔理沙は放り投げた帽子を引っつかむと、積み上がった本の隙間から頭をのぞかせている帽子掛けに、それを戻してやった。
そして、フラスコの方へと近寄って、そのガラスを凝視し始める。
「巫女の仕事ってさ」
「おん?」
「妖怪退治だよな」
「そうだと思って、やってるわ」
霊夢は枕へと深く頭を沈めて、魔理沙の小さい背中を眺めながら答えた。
「足が治って、また妖怪退治するならさ」
「うん」
「今度は、私も連れていけよ」
「魔法使いの仕事は、妖怪退治じゃないでしょ」
「趣味で妖怪退治をやっちゃ、いけないか?」
「別にいいんじゃない? あっちも趣味で人を襲ってるんだから」
「じゃあ、連れてけよ」
「嫌よ。足手まといは勘弁願いたいわ」
「ほほう。私が足手まといとな」
そう言うと魔理沙はフラスコを片手にくるりと振り返り、また白い歯を見せて笑う。
「それじゃあ競争だな。私も今日から、妖怪退治屋だ。お前の仕事を奪ってやるぜ!」
「霧雨魔法店はどうするのよ」
「開店休業だ。なんたって、今までの客は霊夢一人だけだからな」
「あんたから押し掛けて来たのが、初めてで唯一の客? ひどい経営状態ねぇ」
「だってさ、里の他に人間が住んでるのなんて、お前の神社だけだろ?」
「ええ、確かにそうね。それじゃ、売上はカレー1杯だけってことか。そりゃ倒産寸前ね」
二人は同じように唇を吊り上げ、互いに不敵に笑いあう。
改めて思うに、霧雨魔理沙が博麗神社に営業に行ったのは、正解であった。
二人はきっと、全く同じ気持であっただろう。
◇ ◇ ◇
右足を床に付けると、足の裏に違和感があった。
随分と久しぶりに自分の足で立った気がする。
このまま寝こんでいたら、ますます歩けなくなってしまっていたんだろうな、と霊夢は思った。
「うん、大丈夫みたいだな」
「ええ、おかげさまでね」
魔理沙に向けて素直に感謝の言葉を伝えると、霊夢はベッド脇で大きく伸びをした。
そして腰に手を当てて、身体をほぐすように背中を反らす。
軽快に骨が鳴って、まるで身体にスイッチが入ったような気分だ。
「身体が治ったところで、改めて紹介しようか。ここは魔法の森にある、私の自宅兼霧雨魔法店の店舗だ」
「ま、店というよりは、倉庫に見えるけどねぇ」
周りを埋め尽くす雑多な道具の山を見渡し、霊夢は頭を掻いた。
この部屋は寝室であり、魔理沙の書斎も兼ねているようだったが、その隣のリビングや台所も、綺麗に片付いている訳ではないのはすぐに分かった。
さきほど魔理沙が自分の家を案内すると言って、霊夢を色んな部屋に連れていったのだが、やはりどこも物が多くて汚かったのだ。
「……それにしても、こんな立派な家をどうやって手に入れたの? 魔理沙、家出したんでしょ?」
「家出じゃなくて独立と言ってくれ。……この家はな、前に住んでいた魔女が建てた屋敷なんだが、今はそいつが留守で、鍵も玄関に挿さったまんまだったから、私の家にしてやったんだ」
「ちょ、それって泥棒じゃない。その魔女が帰ってきたら、どうするのよ?」
「今は私の物だ、って追い返すに決まってるじゃないか。この魔法の森には、名前の通りに魔法使いしか住んでいないんだ。だからここでは、魔法使いのルールが適用される」
「魔法使いのルール?」
会話を続けながら玄関から出て、二人はその外観を眺めた。
霧雨邸は白い壁に黒い屋根という、まるで魔理沙の格好を模したような姿をしている。
「魔法使いのルールを知らんのか? “その手に掴んだものは、自分のものと思え。”だぜ」
「それって泥棒のルールの間違いじゃないの? 誰が言ったんだか、そんなこと」
「私が発案したんだ」
「……なんとなく分かってたけど」
再び家に入ると、魔理沙は「お茶にしよう」といってリビングの椅子に霊夢を座らせた。
キッチンに行く魔理沙の背中を眺めつつ、扉の開きっぱなしになっている寝室へと目をやる。
どうしたら、あそこまで散らかるのかと疑問に思うと同時に、いったいあれだけのゴミをどこから集めてくるのか、という疑問が湧いてきた。
「ねぇ、魔理沙?」
「なんだ? 紅茶でいいか?」
「砂糖は無しでお願い。――あれだけのガラクタ、一体どうやって手に入れてるの?」
「ん、まぁ魔法の森に落ちているのを拾ったり、香霖の所で交換したりだな」
良くよく見れば、このリビングの壁際には大量の野菜まで置いてある。
きっと台所に収納し切れなくなったものなのだろうが、流石に野菜は道端に落ちていないだろう。
「そこにある大根とかは、何よ?」
「ああ、それは里で手に入れたものだ。魔法の森には、食用や薬用として貴重なキノコが自生しているんだが、一般人は瘴気が邪魔してそれを収穫出来ない。だからここに住む私がそれを集めて、食べ物やらと物々交換しているのだ」
「ふーん。そうやって生計を立てて……」
紅茶を飲もうとカップに近づけた口が、ぴたりと閉じた。
先程の会話で、あっさり流してしまった言葉。
だが、決して看過してはならぬ単語があったことに、霊夢は気付いていた。
「“香霖”……?」
「ああ、すまん。香霖ってのは私の知り合いで、道具屋をしている奴のことで……」
「香霖堂! 道具屋って、もしかして香霖堂のこと!?」
「んお!? どうしたんだ、知ってたのか? 香霖堂のこと」
霊夢はカップを机に置くと、魔理沙に食いかかるように詰め寄った。
「その香霖堂って、どこにあるの!?」
「えっと、魔法の森の入り口にあるんだけど……。一体どうしたんだ?」
魔理沙もあまりの剣幕にたじろいで、砂糖を注ぐスプーンが止まっている。
霊夢は唇を噛むと、自分の身体を包む服に目を落とし、呟くように言った。
「脇のところ、もう少し小さくして欲しいのよ」
「……はぁ?」
思わず漏れてしまった恨み節は捨て置き、霊夢は更に質問を浴びせる。
「ね、ねぇ! その香霖さんって、どういう人なの?」
「あぁ? 気になるのか……? どういう人って言われてもな。……眼鏡で、屁理屈こきで、妄想癖があって、薀蓄が長い。そんな奴だ」
「そーいう事じゃなくてさ! そう、歳とかは?」
「歳? うーん、忘れたけど。でも、人間と妖怪のハーフだから、結構な歳いってるはずだぜ」
「あ、なんだ。じゃあ良いわ」
霊夢は肩を落とすと、椅子に座りなおしてカップを右手に持った。
その落胆の意味は分からない魔理沙であったが、霊夢が話題にしてくれたおかげで、自分も香霖堂へと用事があったことを思い出した。
「なぁ、お昼ごはんを食べたら一緒に香霖堂へ行かないか? 私も道具の修理を頼んでいたんだ」
魔理沙の言葉に、ちょっと考えてから返事をする。
「ええ、そうね。一回は会っておきたい人だわ」
「なぁ、もし良かったら聞かせてくれないか? なんで香霖に会いたいのか」
魔理沙の問いに、霊夢は一転して落ち着いた様子で、静かに答えた。
「その人は、もしかしたら私の事を、私より知っている人なのかも知れないから」
「……ふむ。霊夢は知りたいのか。どうして自分が博麗の巫女なのか」
「うん。ここ数日、ベッドの上で過ごしていたら、そう思うようになってたの」
二人は無言で頷きあった。
こうして霊夢は神社へ帰る前に、香霖堂へ寄ることになる。
彼女にとって『香霖堂』が唯一の手がかりなのだ。――自分が博麗の巫女になる前、その出来事を知る為には。
◇ ◇ ◇
里から帰ってきた霊夢は玄関へと降り立った。
その両手には、数日分の食料が入った買い物かごを持っている。
妖怪が悪さをしていないか見回りついでの食料調達に行ってきたのだ。
しかし、どうも里の人たちからの供物が足りなかったので、彼女は不満げであった。
ただ、最近のところ彼女の虫の居所が悪いのは、供物が足りないことだけが原因ではない。
あの魔理沙と共にした香霖堂への訪問が、期待していたような成果を上げなかった事が影響しているのだ。
霊夢が香霖堂に行って分かったのは、店主の名前が森近霖之助という事。そこでは魔理沙の溜め込んでいるようなガラクタが大量に置かれている事。
そして霖之助は、霊夢の服を作るように10年分の料金を前払いされ、その依頼主の正体については彼も知らないという事だけであった。
魔理沙もその話を聞いて興味を持ったのか「じゃあ、どうやって毎年、霊夢の服のサイズが分かったんだよ?」と尋ねたところ、店主は「その時期になると、いつの間にか僕の机の上に寸法が書かれた紙が置かれているんだよ」と返していた。
結局のところ、霊夢の服を霖之助に作らせていた相手は、とにかく秘密主義者らしいというのが唯一の収穫だったのだ。
期待していた分、霊夢の落胆と怒りもそれなりであった。
「おーい、霊夢」
玄関先に買い物かごを降ろしたところで、タイミングを見計らったかのように声が降り注ぐ。
旋風を巻き起こしながら箒を地面まで下げた魔理沙は、帽子の端を右手で握りながら霊夢へと続けた。
「今日も遊びに来たぜ」
「ああ、ちょうど良いところに来たわね。これを運ぶのを手伝ってくれない?」
足元で形を崩している買い物袋を指さしながら、霊夢は振り返った。
魔理沙は「やれやれ」と気だるそうな声を出しつつも、玄関へと足を踏み入れる。
どうやら魔法使いは、霊夢の持っていた重そうな袋の中身に興味津々のようであった。
「なぁ、それ何が入ってるんだよ」
「野菜よ」
相変わらずの素っ気ない返事に、魔理沙は苦笑する。
「……なんだ、つまんないの。――いや、まて、どうやって野菜を入手した? この神社、人が来ないから賽銭もないんじゃないのか?」
「確かにお賽銭は滅多に入らないけど、妖怪退治のお礼として農作物をもらえるのよ」
「今年はなんだか少ないけど」と霊夢は頬をふくらませる。
それを見て魔理沙は憮然として表情になった。
「おいおい、私だって、ちゃんとキノコと交換したりして食べ物をもらっているんだ。それを、ただで貰ってるんだから文句を言うなよ」
「魔理沙はキノコ狩りが本職だからいいじゃない。私は妖怪退治が本職だから、その報酬としては当然の権利よ」
「私は魔法使いだ。キノコ狩りが仕事じゃないぜ」
失礼な、と訂正を求める魔理沙に対して、霊夢は「ほら、早く運ぶの手伝ってよ」と袋の片方を担いだ。
魔理沙は靴を脱ぐと廊下へと足を上げ、残された方の買い物かごを両手で持ち上げる。
それは彼女の思っていたよりも、かなりの重さがあった。
「うわ、こんなに重いのを二つも持ってたのか、お前」
「だから手伝ってって言ったのよ。さ、台所に持って行くわよ」
思えば魔理沙を自分の家に上げるのは、これが二回目の事であった。
縁側で軽く茶を飲むくらいはしていたものの、居間や台所まで上がるのは“カレー”の時以来である。
あまりに自然な成り行きでお邪魔することになったせいか、魔理沙は少しよそよそしい。
「……野菜が少ないのも、妖怪の仕業かも知れんな」
そんな緊張のせいか、突拍子もないことを魔理沙は呟いた。
居間へ入った霊夢は、それを耳にいれると一笑に付す。
「馬鹿ね。どうやったら妖怪が、私へのお供え物を減らせるのよ」
「いやいや、こういう小さい出来事も、ちゃんと調べれば妖怪の仕業かも知れないんだぜ。何がきっかけで異変に気付くか分からんだろ?」
魔理沙の言うとおり、そんな小さい異変も調べれば、もっと大きな異変の前兆であると気付けるかも知れない。
だが霊夢は、さほど興味もなさそうな様子でいた。
「まぁ、もしそうだったとしても……。里の人たちが私に頼むまで、私が動く必要はないわね」
「おいおい、自分から動こうって気はないのかね」
「無いわねぇ。自分から自分の仕事を増やす気には、ならないわ」
魔理沙は台所の床に買い物かごを降ろすと、かごの重さで真っ赤になった掌へと「ふーっ」と息を吹きかける。
そして悠長な巫女へと苦言を呈した。
「そんなんじゃ駄目だろ。異変は起きてからじゃ遅いんだぜ」
と言ったところで、魔理沙は何か考え直したように顎に手をあて、前言撤回した。
「……いや、好都合かもな。お前がのんびりとしている間に、私が先に異変を見つけて、一足早く解決してやるチャンスだ」
「はあ? なんで魔理沙が妖怪退治をするのよ」
「忘れたのか? 私はお前のライバルになると宣言しただろうが。……あっと、そうそう。今日、ここに来たのもそれと無関係じゃないんだ」
言うと魔理沙はエプロンのポケットから、掌にちょうど収まるくらいの金色の物体を取り出した。
そして、それを軽く空中に放り投げて弄ぶ。
「荷物運びをしてやったんだ。今度は私の手伝いをしてくれ」
「別にいいけど。何をしようっていうの?」
「魔法の実験さ。そうだな、ここじゃ狭すぎる。境内に行こうか」
楽しそうに笑いながら、返事を待たずに魔理沙は玄関へと駆けていく。
その笑顔にあまり良い予感はしないながらも、荷物運びの借りは返そうと霊夢も彼女に続いた。
ところが張り切っているのか、魔理沙はあっという間に彼女を置いて境内の方へと姿を消してしまう。
「ちょっと~、置いていかないでよ」
魔理沙は境内のド真ん中、一番開けた場所で霊夢を待ち構えていた。
そして追いついた巫女に向かって、説明を始める。
「私が今からやりたいのは、攻撃魔法の実験だ。妖怪退治の為に開発した、とっておきな奴だぜ」
「ふぅん。もしかして、その金色の道具も攻撃魔法に関係してるのかしら?」
「ほう、勘がいいな。でも、詳細はまだ秘密だぜ。この八卦炉は秘密兵器だ」
魔理沙は大事そうに八卦炉のフチを指でなぞる。
「答えを言ったようなもんじゃない……。それで、私は何をすれば良いの?」
「ふっふ。霊夢に頼みたいのは、ずばり! 攻撃魔法を受ける実験台になって欲しいという事なのだ!」
「お断りよ。馬鹿」
霊夢はどこから取り出したのか、お祓い棒で魔理沙の帽子をポンと叩いた。
「まー、待て待て。勘違いをするな。ただ攻撃を受けてもらったんじゃあ、私としても実験になりはしない。妖怪だって、私の攻撃を避けたり防御したりするだろうからな。そこで霊夢には実践的な動きの中で、私の攻撃魔法を受けて欲しいんだよ。もちろん、反撃もありでな」
「……それってつまり、私と戦おうってこと?」
「うむ、端的に言えばそうなるかもしれん」
「……やっぱり、駄目よ」
霊夢はきっぱりと断った。
それには魔理沙も少し意外だったようで、目をぱちくりさせた。
「な、なんでだよ? いいじゃないか、練習くらい」
「練習でも、相手を狙う以上、どちらかが怪我をする恐れがあるわ。……友達のあんたに、怪我はさせられないわよ」
「むぐ……」
子供同士の、ちゃんばらごっことは違うのだ。
霊夢の御札や魔理沙の魔法は、当たり所が悪ければ相手が死に至る事もある。
否、ちゃんばらごっこでも、当たり所が悪ければ死ぬ。ということだ。
だが当の魔理沙は諦めきれないようで、顔の脇から垂らしている三つ編みを引っ張りながら、何かアイディアを出そうと唸っていた。
「うーむ……。そうだ、こういうのはどうだ?」
閃いた魔理沙は掌を空に向け、そこから光を生み出した。
それは、暗がりを照らす“光球”の召喚という、魔法使いにとっては初歩的な魔法である。
その光球に指先でそっと触れると、ビー玉ほどの大きさのそれは、魔理沙の顔の周りをくるくると廻りだした。
「戦うといっても、ちゃんとルールを決めるんだ。例えば、お互いにこうやって“的”になるモノを4つくらい自分の周りに漂わせる。そしてお互いは、相手の的に攻撃を命中させるように狙う。これだったら本人を狙うワケじゃないし、結構実戦的じゃないか」
「うーん」
見本とばかりに魔理沙は、残り3つの光球を生み出す。
それを前にして、霊夢はまだ両腕を組みながら悩んでいた。
確かに直に相手を狙うよりは、危険性も減るし遊びの要素は大きくなる。
しかし、間違って本人に攻撃が当たれば、やはり怪我を負わせてしまうかもしれない。
ただ霊夢の中には既に、そんな倫理観を凌駕する、ある感情が芽生え始めていた。
『戦いたい』
そう、彼女も単純に、魔理沙と自分のどちらが強いのかが、知りたくなってしまっている。
その首は、ゆっくりと縦に振られた。
「分かったわ。その条件で遊びましょう。私の的は、これでいいかしら?」
言うと霊夢は懐から小さな陰陽玉を4つ取り出し、握る手に一瞬だけ力を込めた。
すると、陰陽玉は命を得たようにふわりと浮き上がり、やがて彼女の身体から少し離れたところで、周回軌道に乗ったように廻り出す。
「魔理沙、あなたの珠、見辛いんだけど。色つけられないの?」
「おぉん? そうだな、赤にでもしておくか」
魔理沙がちょんと突付くと、光は赤みと強さを増した。
二人はお互いの姿をじっと見つめて、次第に“的”の大きさや動きをシンクロさせていく。
出来る限り、公平な状況で戦いたいという思いが重なっているのだ。
「……これで、準備はいいかしらね?」
「ああ、それじゃ。先に4つの的を壊された方の負けってことで」
「逃げるのは無しよ?」
「ああ、神社の敷地から出たら、反則負けな」
彼女たちの心の中に、急速に燃え上がる何かがあった。
それが二人の呼吸を自然と合わせ、その瞳に強い光をもたらす。
「それじゃあ」
「行くぜっ!」
まず、魔理沙が箒に跨る。
そして黒い革靴が玉砂利を蹴りつけるのと同時、その隙を逃さないと、霊夢はさっそく御札を投げつけた。
「うぇ! いきなり!?」
離陸する前に攻撃を仕掛けられ、目を見開いて驚嘆する魔理沙。
身を捩りながら空中へ上がるものの、その奇襲は魔理沙にとって致命的だった。パリッとガラスの砕けるような音がして、光球が一つ割れる。
魔理沙は開始1秒もしないうちに、先手を取られてしまった。
「くぅ! 霊夢の奴、やってくれるぜ!」
「馬鹿ね。開始の合図は、したんでしょ?」
続いて霊夢も地面を蹴りつけて空へと舞い上がる。
3対4、霊夢の優勢。
だが、先手を取られて光球を一つ失った魔理沙は、その実“上を取る”という点においては逆に先手を取っていた。
そして霊夢よりも上空にいる魔理沙が、自分の方へと昇ってくる相手をのんびりと見ているはずがない。
「さて、お返しだ。……研究の成果、見せてやるぜ!」
右手には黄金色の八卦炉、そして左手には懐から取り出した粉末状の“薬”が握られる。
魔理沙の研究方法とはキノコの調合である。
キノコの粉末に色んな物質を混ぜたり弄繰り回したりして、反応を確かめていくという地道な作業だ。そうして戦いに役立つような反応を得られる組み合わせを発見するのには、かなりの時間が掛かる。
それだけに彼女は期待に胸をふくらませ、それを八卦炉へと押し込んだ。
「くらえっ、霊夢! の的!」
八卦炉をぐいと前に出し、狙いをつけて魔力を送り込む。
すると彼女の手には僅かな振動と、想像以上の熱が発生した。
「うぉ、これは……」
魔理沙の顔が焦りと嬉しさに歪んだ瞬間、目の前には白銀の光線が現れた。
それは目にも留まらぬ速さで眼下の霊夢へと真っ直ぐに伸び、彼女の周りを飛んでいた陰陽玉の一個を貫いていった。
頬の脇を掠めていった熱に、霊夢は身を震わせて抗議の声を上げる。
「ちょ……!? そんな危ない魔法なんて、聞いてないわよ!?」
「うおお、思った以上の威力だった……ぜ」
それを放った本人も戦慄し、八卦炉に残る熱を掌に感じていた。
だが現金な魔法使いはすぐに気を取りなおして「この勝負はもらった」と笑みを零す。
「勝負あったぜ、霊夢! お前の御札は頑張れば私でも避けられる速さで飛んでくるが、私のレーザー魔法は目にも留まらぬ速さ。流石のお前も、これは避けられまい!」
「ええ、確かに見てから避けるのは無理ね。――でも、勝負はまだ分からないわよ?」
両手に御札を握り、負けじと不敵な笑みを浮かべる霊夢。
魔理沙も対抗するように口角を釣り上げると、再びポケットから火薬となる粉末を取り出した。
「それっ!」
霊夢は的を絞られないように、空中をひらひらと舞うように動く。
そして、その合間から御札による攻撃を仕掛けてきた。
「おっとと。だがやはり、余裕で見切れる……あっ?」
躱しながら、魔理沙は気付いてしまった。
八卦炉に火薬を仕込まなければいけない自分と違い、霊夢は御札のある限り、いくらでも連射が効くのだ。
こうして御札で攻撃をされると、回避に気を取られる自分は八卦炉への装填もままならない。
「だが……! スピードで振り切る!」
魔理沙は箒を右手で、帽子を左手で握りしめると、あさっての方向へ急加速した。
多少の追尾性があるらしい霊夢の御札は、しかしその動きにはついていけず、魔理沙は安全な場所へと離脱した。すなわち、霊夢の御札が飛んで来るまでに、時間の余裕が出来る“長距離”を保ったのだ。
ここまで霊夢と距離を取れば、装填もゆっくりと出来る。
あとは、霊夢の的へ目がけて照準を合わせるだけである。
「2個目の的、もらったぜ!」
勝利を確信した声と共に、レーザーが光る。
無論のこと、霊夢は反応が出来ない。
魔理沙はこの日の為に、八卦炉での射撃について練習を重ねてきた。
だから、自分の“狙い”が外れることはないと思っていた。――だから、そのレーザーは霊夢の的を破壊するはずなのだ。
「あ、あれ?」
「動きが止まった! そこね!」
静かに消えていったレーザーに愕然とし、魔理沙は退避が遅れる。
しかも霊夢が放った今度の攻撃は、先程とは速さが違った。
それは御札ではなく、針による攻撃。「なんて器用なやつ」と感心すると同時に、魔理沙の的が1個、パキンと乾いた音と共に壊れる。
「ぬぅ……。2対3になってしまったか。いや、それよりも、霊夢への攻撃が当たらなかったのは何故なんだ?」
「ふふ、狙いには自信があったみたいね。それが災いした、とだけ言っておきましょう」
「なに~!? と言ってる間にも、次こそ当てるぜ!」
魔理沙は話しながらも、抜け目なく装填を終えている。
そして、次こそはと八卦炉からレーザーを撃ち出した。
「あぁ?」
だが、今度も快音は聞かれず。レーザーは霊夢のすぐ脇を通りすぎていった。
「今、霊夢の奴……まさか?」
しかし今度は、魔理沙も気付くことが出来た。
霊夢は“レーザーが撃たれた時”には回避の素振りもみせていなかった。
だが、自分がレーザーを放つ瞬間、その僅か“前”に、身を捩らせていたのだ。
つまり魔理沙の狙いが正確な事を見抜いて、八卦炉の射出口の向きから射線を読み、それから逃れることでレーザーを躱していたというのだ。
その事実が分かったといっても、魔理沙には対策のしようもない。
むしろ、霊夢の常人離れした才能に舌を巻くばかりである。
「おいおい、こりゃ、参ったな。……だが、こちらから申し込んだ戦いだ。そう簡単には負けないぜ!」
「諦めなさい。魔理沙の攻撃には当たらないわよ。あなたはこれから、私の攻撃を避け続けるだけ!」
戦いが再開する。
しかし戦況は変わらず、魔理沙は追い詰められていく。
追尾してくる御札に対して、速度だけを武器に振り切りながら、魔理沙は何度か反撃のレーザーを放つ。
だが、やはり霊夢は正確に射線を見切り、ぎりぎりのところで避けていく。
「あ~。このままじゃ、ジリ貧じゃないか」
そこで魔理沙は考える。まずは状況分析だ。
今のところ自分が優っているのは、直線における飛行速度くらいのもので、そのおかげで御札や針の嵐から逃れて、的も2つ残っている。
対する相手はというと、どんな力の影響か分からないが、霊夢の御札は自分の的に向かって、僅かながら軌道修正するようである。それに頼っているのか、霊夢は割と適当に御札を投げている気がする。
自分のように一点に狙いを定める必要がないので、攻撃にはあまり気を割かなくていいのだ。だから余計に回避へ集中することが出来るのだろう。
ならば、自分が勝つ。つまり霊夢の的へと攻撃を当てるには、どうすれば良いのか。――回避に集中させなければ良い。――では、どうやって?
「……そういや。賑やかしに作った……」
魔理沙の手がエプロンの内ポケットへと伸びた。
そこには、普段使われない雑多な小物が詰まっている。
そして彼女が思い出したシロモノ。――黄色い粉末の包まれたセロファンも、ちゃんと収納されていた。
「クリスマスにでも使おうかと思っていたが……。一矢報いるには、これしかないぜ」
魔理沙は決意すると、その粉末を八卦炉に装填した。
そして霊夢の攻撃が、僅かにでも途切れるタイミングを見計らう。
「ほらほら魔理沙ぁ! 怪我する前に降参したらぁ?」
遠方から御札を投げつつ、霊夢が上から目線で降伏勧告をしてくる。
そして御札を懐から取り出そうと、一瞬だけ弾幕の線が途切れた。
「今だっ」
その涼しい顔を驚きで変えてやる、と魔理沙は八卦炉を構える。
「行け!」
掛け声と共に八卦炉から飛び出したのは、レーザーではなかった。
だから、射線を見切って僅かに身体を捩った霊夢も、その顔に初めて焦りの色を見せる。
「ちょ、ちょ、何よ、これ!?」
飛び出してきたのは、流星群であった。
キラキラと豪奢かつ無駄に光る星の形をしたものが、八卦炉からクラッカーのように飛び出したのだ。
それはレーザーに比べれば随分とゆっくりと飛ぶもので、数が多いとはいえ霊夢には当たりようがなさそうに見える。
霊夢はすぐに落ち着きを取り戻すと、星屑の合間をひょいひょいと躱していった。
「まさかな。私だって、こんな星に当たってもらっちゃ、逆に困るぜ」
魔理沙のそんな台詞が霊夢に届く。
時既に遅し、である。
「あ!」
気付いた瞬間には、魔理沙自身が放った星屑を貫き、そして霊夢の的を射ぬくレーザーが煌めいていた。
そう、魔理沙にとって星屑の魔法は陽動であり目眩まし。霊夢の避ける軌道を読みやすくし、さらに魔理沙への集中力を途切れさせたところを、レーザーで仕留めるという寸法だったのだ。
それは見事に成功した。
「さぁ、これで2対2だな!」
「うぐ……。でも残念ね! もう、この手は喰わないわよ?」
お互いに、一気に決着をつけようという気運が高まる。
霊夢と魔理沙は各々の武器をその手に、真正面から急接近していった。
「レーザーで、一気に撃ちぬいてやる!」
「甘い!」
八卦炉を構えた魔理沙に合わせるように、霊夢は御札を放った。
だが、それはただの御札ではない。
霊夢の手を離れた瞬間に、それはどういう原理か巨大化した。
そして霊夢の姿を覆い隠すような“大風呂敷”になって、魔理沙の視界をも塞ぐ。
しかし、魔理沙は八卦炉の構えを解かない。
「甘いのはそっちだぜ。的の位置は分かってるんだ。このまま、ぶち抜いてやる!」
レーザーが光り、霊力で保護された大風呂敷の御札は、哀れにもその身を貫かれた。
そして大風呂敷は、役割を終えたように一瞬で萎んで元の大きさになる。
そして、そこには魔理沙の愕然とした表情だけが残されていた。
「どこに……!?」
「後ろよ!」
視界から消えた霊夢、そして答える声。
魔理沙の腕が慌てて後ろに振られる。
いくらレーザーが光速で放たれるといっても、その銃身を180度回転させるのまでは、光速とはいかない。
魔理沙が霊夢の姿を再び捉えた瞬間。彼女の周りを廻っていた光球は、お祓い棒によって残らず叩き割られていた。
パリパリッと小気味良く、二つの光球が散る。
魔理沙は悔しそうに八卦炉を握り締め、脱力したように地表へと落ちていった。
「うわっ! ちっくしょー! 負けちまったぜ~……」
魔理沙は心底悔しそうに、箒の柄を拳で叩いた。
それについていくように落下する霊夢は、煤で汚れた袖を払いつつ魔理沙へと笑いかける。
「ふぅ……。やるじゃない、魔理沙。そんな魔法が使えるなら、確かに妖怪退治も出来そうね」
「嫌味かよ? 全然、当たらなかったじゃないか。まだまだ、色んな種類の魔法を作らないと……」
「嫌味じゃないわ。純粋な賞賛よ。私も、うかうかしていられないわねぇ」
境内には火薬の炸裂した臭いが立ち込めていた。
そこへ着地すると、二人はいつの間にか煤だらけになっていた互いの顔を見て、くすりと笑う。
「なぁ、霊夢。これで、少しは私と妖怪退治で競う気になったか?」
「ええ、そうね。博麗の巫女が、魔法使いに先を越されちゃ名折れだわ」
気付けば境内には、霊力を失った御札や針。
はたまた流れ弾で弾かれた土塊が散乱していた。
霊夢はニヤリと笑みを浮かべ、魔理沙の肩をポンと叩いた。
「それじゃ、魔理沙は負けた罰ゲームとして、境内の掃除をすること」
「本当かよ……やれやれ。次こそは私が勝つから、覚えてろよ?」
自らが乗っていた箒を両手で握りしめ、魔理沙は溜息交じりに宣言する。
これが彼女たちにとって、初めての遊びであった。
◇ ◇ ◇
八百屋の店先に並んだ、たくさんの野菜を眺めていた。
やはり、そうだ、と巫女は納得する。
どうも、野菜の種類が少ない。
店先に出された野菜が少ないということは、自分への供物だけが減ったという訳ではなく、里の全体において野菜が不足しているのだろう。
「おっ、霊夢ちゃん。今日はどうしたんだい? 昨日、野菜を持っていったばかりじゃないか」
八百屋の親父が霊夢に気付いて話しかけてくる。
昨日は霊夢が訪れると、弥八の仇をとってくれた事に感謝し、野菜をくれたのだが、さすがに二日連続であげられる余裕はないのだろう。
その目は暗に供物を拒否していた。
だが霊夢も野菜をもらう気はない。
今日は供物をもらいに来たのではなく、異変の調査に来たのだから。
「ええ、今日はちょっと気になることがあってね。おじさん、最近、里で変な事は起きたりしていない?」
霊夢の言葉に、親父の顎髭がぴくりと反応する。
よほど、彼にとってその台詞は予想外だったのだろう。
「へぇ、珍しいねぇ。霊夢ちゃんから異変について聞き込みかい? ……といっても、特に里で変な事は起きていないかなぁ」
「……嘘おっしゃい。色んな店を回ってきたけれど、足りないのよ。食べ物が」
彼女の指摘は的確だった。
里にある米屋、魚屋、そして八百屋など、食品を扱う店の品揃えが著しく悪いのだ。
このままではきっと、一般家庭の食卓にも影響が出るのは必至である。
「……うーん、これは妖怪とか関係ないから、霊夢ちゃんには言わなかったんだけど……」
八百屋の親父は言い辛そうに、しかし何かを知っている風に切り出した。
「言ってよ。何か私に解決できることがあれば、協力するわよ」
「お、心強いね。でも、本当に巫女さんがやる仕事とは違うからなぁ……。だって、泥棒なんだよ」
「へ? 泥棒?」
意外な言葉に、霊夢はきょとんとする。
八百屋の親父は額に巻いたねじり鉢巻を、ちょいと指でいじりながら溜息をついた。
「そ、泥棒。ここ最近、里で食べ物を中心に狙う泥棒がいてねぇ。俺の店もやられちまったって訳よ。それで食べ物が不足しちまってるのさ」
「えぇ、里の中でそんな大それた事をする奴がいるかしら? 大量の食べ物なんて隠し持っていたら、すぐにバレそうなものだけど」
霊夢の言う事はもっともだ。
人間の里といっても所詮は狭い村のこと。泥棒などしても、盗品がすぐに見つかってしまうので、そういった犯罪は成り立たない。
それを聞いて八百屋も唸りながら推測を口にする。
「うーん、もしかしたら、そいつは里の人間じゃないのかもしれん。それに、空を飛んでいたから、人目につかずに盗んだ物を運べそうだし……」
「……へ? 空を、飛んでいた……?」
目を点にした霊夢が聞き返すと、親父は「うん」と大きく頷いた。
「俺も盗まれた所を見たんだよ。朝方だったから、人影しか見えなくて犯人の特徴は分からないんだけど、確かに俺が怒鳴りつけたら慌てて空を飛んで逃げていきやがった」
「……そ、それって、犯人は妖怪じゃないの!?」
「え、そうかな。だって寺子屋の先生だって空を飛べるし、妖怪って決まった訳じゃ……」
「そんなのごく一部の例外よ! 普通、人間は空なんか飛べないのよ!」
霊夢はまくし立てるように続けた。
「犯人が妖怪かもしれないんだったら、やっぱり私の仕事じゃない! 安心して、私がその不届き者を懲らしめて、みんなの食料を取り返してあげるから!」
「え、でも……もう喰われちまったんじゃないかなぁ。俺の野菜」
「そんなのは今、気にしないでよ! とりあえず、犯人探ししてくる!」
そう言うと霊夢は軽く地面を叩き、空へと舞い上がっていく。
それを見て親父はポツリと一言だけ。
「やっぱり人間も空、飛べるじゃないか」
◇ ◇ ◇
その後もいくつかの聞き込みを行った結果、霊夢はある程度の犯人像を絞り込むことに成功した。
神社に戻ってきた彼女は縁側で例のごとく茶を啜りながら、その考えを整理する。
「犯人が盗むのは野菜と果物が中心、たまに魚とか道具とかも盗まれる。そしていくつかの目撃情報から、下手人は空を高速で飛ぶことが出来る……とか」
霊夢は聞き込みをする中で、目撃者の前で試しに自分が空を飛んでみせた。すると、霊夢が飛ぶのより明らかに、犯人の方が早かったとの回答が得られたのだ。
霊夢も飛行の速度にそれほど自信がある訳ではないので参考程度だが、少なくとも自分より速く飛ぶことに長けた奴が犯人であるという事が分かったのだ。
「うーん、腐るほどいる妖怪の中から犯人を探すには、この情報だけじゃ足りないわね……」
大福を一口ほうばり、首をひねる。
情報が足りないといっても、これ以上はどこから新しい情報を得れば良いのか分からない。
いっそのこと、朝方の里で見回りでもしようかと考えたが、早起きも面倒なので却下した。
「そうよ、私は探偵じゃないんだからさ……。そこまでやる義理はないし。ってか、そもそも里には“里の守護者”ってのがいるらしいから、後はそいつに任せれば……あ?」
そこで、大福を持つ手がピタリと止まった。
情報は、まだあった。――霊夢は口中で呟き、食べかけの餡を皿に戻した。
「そうだわ、里だって好き勝手に妖怪が入れるワケじゃない。特に明け方の里は、警備も厳しいっていうし……。となると、入り込めるのは普段から里に出入りのある妖怪か……もしくは、人間……?」
その時、彼女の頭の中で歯車がカチリと嵌る音がした。
頭の中に、モノクロの映像が流れ始める。
雑多な物に溢れかえる室内、その片隅に置かれた野菜。
そして自分と対峙した時に見せた、あの高速飛行。
歯を見せて笑う屈託のない笑みに、鋭くヒビが入った。
「……信じたくはない。でも、確かめなきゃね」
霊夢は立ち上がると、屹然とした面持ちで空へと上がった。
目指すは魔法の森、あの白い壁の家である。
「そうだ、瘴気対策もしないと」
霊夢は思い出したように、自分の周りに薄い結界を張った。
ルーミアとの戦いの中では、知らず知らずのうちに迷いこんでしまった魔法の森であるが、あらかじめ挑むことが分かっていれば瘴気というものは怖くもなんともない。
そこで思い出すのは、瘴気に倒れた自分を助けてくれた少女の姿であったが、それとこれとはまた別の話と切り替えられるのが霊夢らしくもあった。
「ん、霧……? 濃いわね」
森の中は、以前に来た時と少し違った様子だった。
あたり一面に白い靄がかかっており、若干彼女の視界を悪くする。
それは瘴気がいつも以上に発生しているのが原因であったが、霊夢は知る由もない。
瘴気は人を惑わせる力がある。しかし、博麗の巫女に対してはその効力が意味をなさないのか、霊夢は全く迷う様子もなく森の中を滑空していく。
「ん~……我ながら……」
彼女も自分の土地勘というか、直感的なものに少し驚いていた。――木々がなくなり開けた場所に出ると、目の前には白い壁の家が現れたのだから。
「さて、着いたか。……逃げられても面倒ね。まずは様子を見ましょうか」
霊夢は地面に足を着けると、腰を低くしてこそこそと玄関へ向かった。
途中、ちらりと窓から部屋の中を覗くも魔理沙の姿は見えない。
それに、以前見たのとは違う部屋のように、部屋の中がやけにこざっぱりとしている。「もしかしたら、証拠隠滅で片付けられたのかも」と少し焦りの色が出てきた。
玄関に近寄り、片耳をドアにつけて中の音を聞き取ろうとする。
「うーむ。ここは素直にノックをすべきか、それともドアを蹴破って取り押さえるか……」
「何をしているのかしら? もしかして、泥棒さん?」
声は上から降ってきた。
霊夢が顔を上げると、屋根の上からいくつかの小さい影が、自分へ向けて降り注ぐのが見えた。
同時に身体が動く。
「はっ!」
飛び退きながら、自分へ襲いかかってくる小さな影をお祓い棒で叩き落す。
その数は5つほどであったが、霊夢は難なく全ての攻撃を躱した。
そして睨むように、地面に落ちた小さな影に目をやる。
それは意外なものであった。
「……に、人形?」
金髪にエプロン姿の可愛らしい人形。
ただし、その手には剣や槍などのミニチュアという物騒なものが握られていた。
「……へぇ、素晴らしい」
驚く霊夢を出迎えるように、玄関が開く。
そこにはまるで、今叩き落とした人形たちを、そのまま大きくしたような少女が佇んでいた。
「結構やるみたいね」
拍手をしながら玄関から出てきた少女は、楽しそうに賞賛の言葉を述べた。
対する霊夢は、彼女へ向けて厳しい目線とお祓い棒の先端を向けた。
「あんたは……。もしや、魔理沙の仲間!?」
戦闘態勢をとって身体を正面に向ける霊夢。
だが、人形たちの使い手らしい少女は、その敵意を受けてきょとんとしていた。
そして、すぐに何かを理解して手槌を打った。
「ああ、あなた! もしかして……」
「何か言い訳でもあるの!?」
「家、間違えたんじゃない?」
「え……?」
少女の言葉に、霊夢は改めて自分が訪れた家を見上げた。
確かに魔理沙の家は真っ白な壁だった記憶がある。そして、この家の壁も真っ白である。
だが人形の降ってきた屋根の形は全く違うし、家自体の作りもまるで異なっていた。
そう思えば、窓から覗いた部屋の中が見違えるように綺麗だったのも納得がいく。
「あ、あはは……。えっと……あなたの言うとおりみたい」
「……魔理沙っていうと、確か最近になって引っ越してきた白黒の奴ね」
霊夢の勘違いには興味がさほどないらしく、すぐに少女は霊夢の口にした『魔理沙』という人名に食いついた。
それには霊夢も「話の分かる奴だ」と安心して本題に入る。
「そうそう、その白黒を訪ねにきたのよ」
「さっきの発言を見る限り、魔理沙を“良い用事”で訪ねた訳じゃなさそうね? 案内してあげるから、道中でその理由、聞かせてくれないかしら?」
そういうと少女は両手の指先でクイクイと奇妙な動きをみせた。
すると、地面に落ちて力尽きた人形たちが、息を吹き返したようにトコトコと歩き始める。
そして、彼女の足元に集合すると、家の中へと行進しながら戻っていった。
霊夢は思わず「かわいい~」と零す。
「私の名前はアリス・マーガトロイド。この魔法の森に住んでいる、もちろん、魔法使いよ」
差し出された手を握ると、彼女がつけている指貫がひんやりと感じられた。
「そう、話の分かる人で良かったわ。私は博麗霊夢。巫女をしているものよ」
「……ああ、博麗の巫女さんね。どうりで私の人形でも歯がたたない訳だわ」
「その人形、あなたが操っていたの?」
霊夢が尋ねると、アリスは再び指を滑らかに動かして、新しい人形を家の中から呼び寄せる。
今度は武器を装備しておらず、手ぶらの人形たちだ。喚び出された彼女たちは、小刻みなステップを踏んでダンスを始めた。
「ええ、私は自律人形を研究している魔法使いなのよ。その経過として人形繰りもやってみせるけど」
「ふぅん。魔法使いにも、色々いるのねぇ……。ところで、魔理沙の家まで案内、本当に頼めるの?」
「良いわよ、魔法の森は慣れていないと迷いやすいから……。すぐ近くだから、さっそく行きましょう」
そういうとアリスは玄関に鍵を掛け、人形を引き連れて森へと入っていく。
霊夢はその人形の生きたような動きに感心しつつも、置いて行かれないようにと背中を追いかけた。
「それで、霧雨魔理沙は一体、何をしでかしたのよ?」
アリスの問いに、ようやく本来の目的を思い出したかのように、霊夢は早口で返した。
「ああ、里で野菜の盗難事件が発生してね。その重要参考人として魔理沙に尋問をしようと思ったのよ。それで、間違えてあなたの家に着いちゃったわけ」
「ふぅん。つまり、あの魔法使い。泥棒なんだ」
「もしかしたら、だけどね。……アリスも何か、心当たりはないかしら。魔理沙が泥棒を働いたっていう事に関して」
霊夢は一瞬、後ろから見たアリスの横顔が、嬉しそうに笑っていたように見えた。
しかし次の瞬間には、彼女の顔はまた冷静で精巧な表情に戻る。
「私は黒だと思うわ。だって、あいつ、前から泥棒だもの」
「えっ! もしかして、あなたも何かを盗まれたりしたの!?」
「そうよ。私の大事なグリモワールを、引っ越し祝いに持っていったの。返してっていっても『まだ借りとくぜ』って言って聞かないのよ」
それを聞いて霊夢も疑惑が確信に変わった。
どうやら野菜を盗んでいたのは魔理沙だったのだ。
道理で自分の神社に初めて来たときも、やつれていた訳だ。
きっと野菜を買うお金もなかったのだろう。
と、友達として一応の同情心も湧いた。
だが犯罪は犯罪である。
博麗の巫女として、道を誤った友人を正すことも大事なのだ。
「……むう。普段からそんな事を……。信じたくはなかったけど、今回の件もどうやら魔理沙が犯人だったみたいね」
「私も逮捕に協力するわ。今まで盗られた物を取り返したいから。さぁ、もうすぐ着くわよ」
アリスと魔理沙は本当にご近所だったようで、それから数分も経たないうちに二人は目的地へと到着した。
白い壁と黒い屋根を観察するように見つめ、今度こそは魔理沙の家に違いないと霊夢は確認する。
「それじゃあ、私は彼女が逃げ出さないように外を見張っているわ。あなたが玄関をノックしてみて」
アリスは人形を弄びながら霊夢へと指示した。
「正面から乗り込むのが得策とは思えないけれど?」
「相手に敵意を見せないのも、大事な戦法じゃない? 始めっから疑ってかかると、戦いになるのは免れないわよ」
確かにアリスの方がこういった交渉事には向いていそうだ、と霊夢は自覚し、大人しく指示に従うことにした。
相手の警戒心を煽らないように堂々と玄関まで歩き、木製の扉をじっと見つめる。
多少の緊張をしつつ、伸ばした右手は威勢よくドアを叩いた。
「もしもーし。魔理沙、いるかしら?」
霊夢の声は確かに家の中へと通じているはずだが、返事が返ってこない。
振り返って木陰からこちらを覗くアリスへと視線を送ると、彼女は顎に手を当てて小首をかしげていた。
「魔理沙ー! いないのー!?」
もう一回ノックをしたところで、アリスが隠れるのを止めてこちらへと近づいてきた。
そして、髪を掻き上げる仕草をしながら気だるそうに言う。
「駄目ね。どうやら留守のようよ。……私の記憶が正しければ、玄関にはいつも箒が置いてあった。でも今はそれがないって事は」
「箒に乗って、どこかに出かけたって事ね?」
「そういう事。どうするの、霊夢さん?」
霊夢は「少し待って」と思案した。
魔理沙と知り合ってから、それほど時間は経っていない。
だが霊夢は、あの魔法使いが出かける先は限られていることを知っていた。
つまり、香霖堂か、自分の神社くらいだと。
「もしかしたら、入れ違いで私の家に行ったのかもね。ここで待ってるのも瘴気がうざったいし。私は神社に行くことにするわ」
「そう……。なら、私が出来るのはここまでね」
アリスが身に纏っていた緊張を解いた。
周りを囲む人形たちも腑抜けたように、だらりと小さな腕を地面へ向ける。
「あら、協力してくれるんじゃなかったの?」
「それはあくまでも、“ついで”の範囲よ。……それじゃ、ここで失礼するわ。あなたとは、また会うことになるでしょう、博麗の巫女さん」
「ええ、そうなることを楽しみにしておくわ。人形使いさん」
アリスがくるりと踵を返したのと同時、霊夢は瘴気の層を一気に突き破って、森の上空へと脱出した。
戦いになることは明白だ。
彼女は懐に仕込んである御札に、そっと指を重ねた。
◇ ◇ ◇
「おーい、霊夢ー! いないのかー?」
境内に響き渡る声を聞き、霊夢は社務所へと急いだ。
案の定、目的の人物は自分と入れ違いになっていたようだ。
「魔理沙! 見つけたわよ!」
「うお!? まさか後ろから登場とは! ……っていうか、お前も私を探していたのか?」
驚きながら振り返る魔理沙は、その背中に白くて大きな袋を担いでいた。
「魔理沙、もしや……私の家にまで盗みに入ろうとしていたんじゃ? その袋の中を見せなさい!」
袋を引っつかんだ霊夢に、魔理沙も慌ててそれを振り払う。
「な、何を薮から棒に言うんだ! これは私の新しい研究成果が詰まった袋だよ。お前に勝つために、新しい技を開発してきたんだ。まだ見せる訳にはいかないね」
「ふふん、下手な言い逃れね。もう状況証拠が揃っているのよ? ……魔理沙! 里から野菜やら果物を盗んでいる犯人は、あなたね!!」
「……えぇ!?」
びしり、と指を突きつけられた魔理沙は、まさに寝耳に水といった反応であった。
だが霊夢にとっては、それは白々しい演技のようにしか見えない。
「待て待て、なんの話だ!? 事実無根だぜ」
「やはり認めないか……。自白が無理だというのなら、勝負するしかないわね」
「はぁ!? どうしてそうなるんだよ! 私は犯人じゃないぜ!」
「あなたが犯人かそうでないかは、あまり重要じゃないわ。とにかく、勝負に負けたら犯人として大人しく捕まりなさい!」
「うおおい! 真実はどうでも良いのかよ!? 悪徳巫女だな、全く」
魔理沙は箒を持つ手と袋を持つ手を器用に入れ替えると、素早くそれに跨った。
霊夢も対抗するように腰からお祓い棒を抜いた。
「まぁ、私からすれば戦績を五分に戻すチャンスだ。勝負自体に文句はないがね」
「やはり、魔理沙が犯人だったのね。負ける訳にはいかないわ」
「やれやれ、無実は実力で奪い取るしかないか」
「お腹も空いたし、今日は1個でいいかしら」
「そうだな。こんな茶番は、早々に終わらせたいぜ」
霊夢の右手から陰陽玉が、魔理沙の右手から赤い光球が、それぞれ1個繰り出された。
それが互いの術者の周りを回転し始める。
「さて、それじゃ第二回戦」
「スタートだぜ!」
きっとこの場にアリスがいたならば、真面目な魔法使いである彼女のこと「あなたたち、ふざけているの?」と言いそうな、気の抜けた戦いの幕開けである。
だが、これは彼女たちにとって“遊び”なのだ。ふざけていて当然である。
「まずは、こいつを喰らえ!」
魔理沙は上昇しながら袋から黒い球体を取り出し、それを霊夢へと投げつけた。
やはり、単純なスピードでは魔理沙が優っている。霊夢はまたも出遅れて、上空から一方的に攻撃を受ける形となった。
「そんなひょーろく玉、当たるもんですか!」
霊夢が馬鹿にしたような台詞と共に、その球体を避けようとした瞬間、魔理沙の口元が「してやったり」と歪んだ。
「甘いぜ、霊夢!」
魔理沙の八卦炉が火を吹いた。その光線は以前の戦いの時と同じく、目にも留まらぬ速さで目標を貫く。
その狙いは今回、霊夢の陰陽玉ではなく、自分の投げた黒い球体の方であった。
「え!?」
発光が目の前を覆い、霊夢は呆気にとられる。
黒い球体が光線に貫かれた瞬間、それは爆竹が弾けたような音を発した。
そして、そこから飛び出したのは燦然と輝く星屑たち。
そう、その球体に仕込まれていたのは、拡散する星の魔法だった。
「くっ、なかなか面白いことを……ッ!」
霊夢が自分の身体と陰陽玉を守る為、お祓い棒を素早く操り迫り来る星屑を弾いた。
だが、その動きの中でも彼女の警戒心は魔理沙の位置を確認しようと、その眼球を素早く動かす。
前回の戦いでも、このような拡散攻撃で集中力が切らされた時にレーザーで仕留められたのだ。
魔理沙から目を離す訳にはいかない。
自分が真正面からの攻撃には当たらないということは、魔理沙も前回で分かったはずである。
そうなると、この星屑か光線。どちらかで気を引いて、本命の攻撃を当てにくるはずなのだ。
そして、どちらがより成功しやすいかと言えば一目瞭然。回避する為には発射前に射線を見切る必要があるレーザーでの狙撃がフィニッシュと決まっている。
「……いた!」
輝く星屑の中から箒の尻尾を見つけた霊夢は、そこへ向けて反撃の御札を乱射する。
あまり魔理沙自体に気を取られて星屑に当たってもつまらない。
ここは彼女がレーザーを打つのを邪魔する目的で、御札による撹乱を目論んだのだ。
「だが、残念だったな!」
「え!?」
霊夢が驚いたのは、背後から聞こえてきた声によってである。
それに応じた瞬間に、彼女の周りを浮いていた陰陽玉が一筋の光に貫かれた。
「え、ええ? うっそ……」
「やったぜ! これで一勝一敗だ! そして私は無実を勝ち取った!」
喜ぶ魔理沙の姿を見て、霊夢は口をあんぐりと上げて、何か抗議したいように指をさした。
それを受けて魔法使いは、ニヤリと笑って自信満々に胸を張った。
「私が箒を使わなきゃ、空を飛べないなんて、言ったことがあるか?」
「ぐ、ぐぐぐ。騙してたのね!?」
そう、魔理沙は空を飛んでいる。
箒を星屑の陰に隠したままで、何にも跨らずに空を飛んでいるのだ。
「やれやれ、しかし、これで隠し玉を二つも使ってしまったぜ。まぁ、負けたら七面倒くさい事になるから、一気に大放出してしまって正解だったかな」
満足気に感想を述べる魔理沙に対し、霊夢は色々と納得がいかないようであった。
「ちょ、ちょっと待ってよ! 魔理沙、この勝負に勝ったからって、泥棒の犯人じゃない証拠にはならないわよ!」
「おいおい! ひどいな! そっちから『勝負に負けたら無条件で犯人にする』って言ってきたんじゃないか。いや、それに本当、私は何も知らないんだぜ? ここで私が捕まったら、得をするのは真犯人だけだ」
「……け、けど。私はまだ諦めたワケじゃないわよ」
霊夢の頑なな態度に、魔理沙も困り果てた。
「じゃあ、こうなったら仕方がない。私もその事件の調査に協力して、真犯人を捕まえるしかないな。それで私の無実を証明してやる」
「むぅ。勝手に犯人をでっち上げたりするんじゃないでしょうね?」
「お前が言うな!」
地表に降りた魔理沙は、不機嫌な面の霊夢に向かって提案をした。
「なぁ、早速だが、犯人を探すいい作戦があるんだ。私に任せてもらえないか?」
「……私はもともと、一人で捜査するつもりだったのよ。好きにするといいわ」
「ああ。でも、一回しか使えない作戦だから下手を踏んで取り逃がしたりはしたくない。準備が終わったら霊夢にも伝えるから、手を貸して欲しい」
「分かったわ。あなたの考える作戦が、どれほどのものか見せてもらおうじゃないの」
「へへっ、それじゃあ楽しみにしててくれよ」
そういうと魔理沙は、再び箒に跨って鼻歌などを奏でながら空の彼方へと消えていった。
霊夢は若干汚れた境内を眺めて額に手を当てつつ「なんで魔理沙は普段、箒に乗っていたのだろう」と、悔しさに地団駄を踏んだ。
◇ ◇ ◇
それから数日。
霊夢は張り切って里での聞き込み調査などを行ったが、一向に犯人へ結びつく手がかりはなかった。
やはり魔理沙が犯人なのではないかと思いつつも、勝負に負けてしまった手前、今は大人しくするしかない。
「あぁー! もう、嫌んなっちゃうなぁ」
里から帰ってきた霊夢は、縁側に寝そべると誰にともなく悪態をついた。
魔理沙の方も妙案があると言ったきり、神社へ姿を見せていない。
明日も連絡が来なかったら、やはり彼女を捕まえるべきだろうかと思い始めていた。
だがそう思った時に限って、均衡は破られるものだ。
「おーい、霊夢ー! しばらくぶりだなぁ」
身体を起こして欠伸をすると、こちらへと来る魔理沙の笑顔が眼に入る。
それは、何がそんなに楽しいのかと思うくらい屈託のない笑みだった。
「しばらくぶりって、一週間も経ってないわよ。前に会ってから」
「まぁまぁ、霊夢もお待ちかねだったろ? 調子はどうだい、犯人は見つかったか?」
「私の顔を見りゃ分かるでしょ。犯人は目の前にいるわよ」
霊夢の据わった瞳に気付いた魔理沙は、ぶるぶると首を横に振る。
「おいおい、まーだ私を疑っているのか? まぁいい、私の方も準備が出来たから、すぐにでも真犯人を捕まえて身の潔白を証明してやるよ」
「それは楽しみねぇ。それで、どういう作戦なのよ?」
促す言葉に、待っていましたという様子で魔理沙は説明を始める。
その嬉々とした表情に霊夢は「まるで悪戯の計画を練っている妖精みたい」と思った。
「実はここ数日、里にある噂を流してきたんだ」
「噂? 一体どんな?」
「うむ。『今季に収穫した野菜は、泥棒に盗まれないように神社の社殿に隠した』という噂だ」
期待に輝いていた霊夢の瞳から光が失われる。
「……それで、もしかして……。うちに泥棒が盗みにくるのを待つってこと?」
「そういう事だ」
霊夢は溜息と共に、社殿へと目を向けた。
「そんな噂、誰が信じるっていうのよ? そんな誘いに乗ってノコノコと現れる犯人じゃないでしょうに」
「いや、自信があるぜ。調査の結果、泥棒は毎週の金曜日に現れる。そして今日は木曜日。明日の明け方、奴は野菜を狙ってあそこに来るはずさ」
魔理沙の指が、境内の真ん中に鎮座する社殿を指さした。
「全く、そんなんで現れるなら、ここまで苦労しないっての」
「まぁ見てな。……あ、それと、霊夢に頼みたいことがあるんだが……」
魔理沙は境内に誰もいないのに、周りをキョロキョロと見渡してから霊夢へと耳打ちをした。
それを聞いて霊夢は「まぁ、そんな事ならいくらでもやってあげるけど」と了承する。
「でもさ、泥棒がやってくるのは朝方よね? それまでの時間はどうしようかしら」
「……うーむ。今日はお前ん家に泊まりこみだな。そういう訳で夕飯もご馳走になるぜ」
「あんた、まさかそれが目的じゃないでしょうね」
「馬鹿言うな。今の私は泥棒逮捕に燃える正義の味方だぜ? そんなやましい考えは持っちゃいないさ」
言って魔理沙は背中に担いでいた袋から、一升瓶を取り出した。「準備は万端じゃないの」と呆れつつも、霊夢はそれを受け取る。
時刻はようやく日が傾き掛けた頃。
泥棒が現れるとしても、まだ12時間はある。その時に備えて二人は休養をとることになった。
「そういえば魔理沙」
居間に彼女を上がらせて、一升瓶をちゃぶ台の中央に安置してから霊夢が切り出した。
「あん?」
「料理勝負をするって言って、あれっきり音沙汰がないじゃない」
出会った日にカレーを食べながらした会話を思い出し、霊夢は尋ねた。
魔理沙も言われて思い出したかのように目を見開き、帽子を脱ぎながら答える。
「あぁ、そういや、そうだったな。あの後、すぐに今回の泥棒騒ぎになってしまったから、有耶無耶になっていたぜ」
「ちょうどいいわ。今日の晩ご飯は魔理沙が作ったらどうかしら? 食材ならたくさんあるから、好きに使っていいわよ」
挑戦的な瞳が、魔理沙に突き刺さる。
それを受けて魔理沙も「くっくっく」と含み笑いを漏らした。
「いいのか? 私に包丁を握らせた瞬間、お前の敗北は決定するんだぜ」
「やれるもんなら、やってみなさいよ」
「よし、乗った! 今日の晩ご飯は私が作る。そして料理勝負でも私が勝って、通算成績を2勝1敗にしてやるぜ!」
「奇遇ね。私も2勝1敗になると思っていたわ」
互いに減らず口を叩きながら、二人は笑った。
「よーし。私の一番得意な料理でいかせてもらうぜ」
魔理沙はエプロンの結び目を気にしつつ台所へと向かう。
「よしよし、これで楽ができるわ」
霊夢は聞こえないように小声で呟き、畳の上に寝っ転がった。
◇ ◇ ◇
畳の上には空になった一升瓶。
ちゃぶ台の上には、鍋の中に半分ほど残ったシチューがあった。
「うー。味はいいんだけどさぁ。量がおかしいわよ、食べきれないって」
顔を赤くした霊夢が、ぷっくりと膨らんだお腹を天井に向けて大の字になっている。
負けじと同じような体型になった魔理沙が、眠そうに目をこすりながら返す。
「だって二人分って、どのくらい作ればいいのか分からなかったんだ。でも、味は良かったって認めるだろ?」
「まぁ、引き分けって所にしておくわ。うぇっぷ」
実際のところ、魔理沙の作ったシチューは美味しかった。
そして酒も進んで、今はこの有様ということだ。
二人は芋虫のように畳の上を這いずりまわり、やがて互いに顔を突き合わせた。
「うぅ、酒臭いわよ魔理沙」
「お前だって、そうだろぉ」
こんな調子で泥棒逮捕が出来るのだろうかと不安になりながら、魔理沙はちゃぶ台の上から水の入ったコップを引っつかんで、それを口元に持っていく。
「あぁ、こんなに酔ったのは久しぶりだぜ。一人じゃ酒を飲む機会もないからな」
「魔理沙は……前からお酒飲んでたの?」
「んあぁ、親父が酒飲みでさ。小さいころからチビチビと飲まされてたんだ。全く、とんでもない親父だぜ……」
「そう、親って普通はお酒を飲まさないものなのかしらね」
「あ……すまんな」
魔理沙の言葉にきょとんとして、霊夢は目の前の金髪を見た。
それは酔いで弛緩しつつも、真剣さを持った表情であると見える。
「なんで謝るのよ?」
「いや……なんていうかさ」
言い淀んでいる魔理沙の様子で、霊夢も何となしに想像がついた。
彼女らしい余計な気遣いを、と霊夢は吹き出す。
「別に気にしちゃいないわよ。今さら、親がいないことなんてさ」
「わ、笑うなよ。……でも、お前……今までずっと一人で生きてきたんだろ。この神社でさ」
「そうよ? それがどうしたの」
「辛くないのか……?」
畳に垂れた魔理沙のおさげをピンと指で弾くと、霊夢は寝返りを打つようにして仰向けになった。
そして酒のせいで熱くなった息を天井へと吐きかける。
「だってさ、知らないんだもん。最初からいないから、親がどんなものかも分からないし、親がいないことに何も感じないっていうか、むしろ今さら親が現れても、ねぇ……どうって事ないだろうし」
霊夢はおもむろに腕を上げると、自分の髪を縛っていたリボンを解いた。
彼女の真っ黒で艶やかな髪が、枷を解かれたかのように一斉に羽を広げる。
そしてリボンを両手でかざすように腕を伸ばし、話を続けた。
「一人でいるのだって、そう。私は一人以外の時間を知らないから、まるで辛くなかった。ただ結界さえ守って、ちょっと妖怪退治をしておけば、誰にも文句は言われない。そんな、ただ一人の人生なんだなって、思ってたわ。……そういう意味では、今は少しだけ、一人の午後が退屈……かもね」
手の中から、するりと落ちた紅白の帯びが、彼女の顔に落ちてきた。
それを避けようともせずに、リボンのフリルが肌をくすぐる野暮ったさを噛み締める。
「なぁ、霊夢」
頭の方から、疲れきったような声が届いた。「ん……?」と口中で返事をしつつ、身体を横にして彼女を視界に捉える。
ぴたりと目が合って、僅かな沈黙を挟んだ。
「私たち、友達になろうぜ」
鼻息で飛ばしたリボンが、頬を伝って畳の上に落ちていく。
霊夢は吹き出していた。
「おことわりよ」
二人の笑い声は、やがて眠気の渦の中に沈み込んでいく。
◇ ◇ ◇
「ふがっ!」
起きた瞬間に思ったのは「寒い」ということ。
そして酒で頭がクラクラしているということ。
頭を抑えながら数秒間考え込むと、霊夢はハッとして部屋を見渡す。
ちゃぶ台の上には食べかけのシチューが入った鍋、床に転がる一升瓶とお猪口。
そして自分の帽子をぎゅっと抱きしめて眠る魔理沙。
「魔理沙ー! 起きなさい!」
慌てて駆け寄り肩を揺すると、少女はまだハッキリとしない様子ながらも目を開いた。
「うにゃ……? なんだ霊夢か」
「起きて! もう朝になっちゃうわ!」
霊夢が指さした先には、朝の4時を指す置き時計の針があった。
魔理沙はしばらく呆けたようにその時計を眺め、なぜ自分が霊夢の家にいるのかを思い出した。
「おああ! 寝過ごしたー!? 霊夢、急いで行くぞ!」
「了解!」
二人は慌ただしく廊下に出ると、玄関で靴を履きつぶしながら外に出る。
そして地面を蹴ると二人して空に飛び上がった。ちなみに魔理沙はキチンと箒に跨っている。
「ねぇ、魔理沙。なんで箒に乗ってるの? それがなくても空は飛べるんでしょ?」
「まぁな。でも、やっぱり魔法使いっていったらコレに乗ってなくちゃあな」
「そんなこだわりに負けるとはねぇ……」
言いながら境内へと着いた二人は、社殿の入り口を覗ける位置の草むらに入り込んだ。
そして息を殺して監視を始める。
「ねぇ、本当に犯人が現れると思う?」
「奴はくるさ。……酒臭いな霊夢」
「そりゃ、あんたもでしょ!」
「しっ! 誰かきた!!」
息を殺しつつも、興奮を隠せない魔理沙。
その目には、博麗神社へと近づいてくる小さな影が映っていた。
空の暗さに紛れてはいるが、それは確実に人間と同じくらいの大きさをした生き物である事が分かる。
「うっそ……。本当に来たの?」
「霊夢、例のアレは、ちゃんとしてあるんだろうな?」
「大丈夫、任せなさい」
「よし、それじゃ……社殿の扉を開いたら、そこで捕まえるぜ」
「分かったわ。……ふぅ、緊張する」
そこから二人は口を閉じた。その目の前で、人影はゆっくりと着地する。
そして周りを見渡す素振りは見せたものの、あまり警戒しているとは思えない様子で、ひょこひょこと社殿へと向かった。
やがて賽銭箱を通り過ぎると、その後ろにある社殿の扉へと手を掛ける。
「今だ……!」
鋭く叫んだ魔理沙は草むらから飛び出ると、上空へ向けて八卦炉を構えた。
そして冷たい空気を肺の中にたっぷりと溜めこむ。
「そこまでだっ!!」
大きな叫びと共に打ち出された大きな光の矢は、細かい星屑を零しながら夜空を引き裂いた。
そして、その魔法の光は真っ暗だった境内を照らし出し、社殿の前で驚きに身を固めた犯人の姿を晒した。
「お前は……!?」
いち早く駆けつけた魔理沙が、その姿を見て驚愕に戸惑った。
蒼い髪に、紅の瞳。逆立てたような髪の毛の合間からは、鬼のような角が一本飛び出している。口からは鋭い牙が二本だけ見える。身に纏っているのは法衣に似た厚手の着物だった。
「お前は……誰だ!?」
魔理沙には、まるで見覚えがない妖怪であった。
その反応に、相手も拍子抜けしたようだったが、代わりに追いついた霊夢がその正体を叫んだ。
「あーっ! あんた配達屋の雷獣じゃない! 確か……」
「飯綱夜です」
「そうそう、飯綱夜とかいう!」
驚く霊夢に、にこにこと笑っている相手。
それらを交互に見てから魔理沙が尋ねる。
「なんだ霊夢、知ってるのか?」
「ええ、うちに良く配達物を届けてくれる雷獣よ。あんた、なんだって野菜泥棒なんてしたのよ!」
霊夢の問いかけに、飯綱夜は悪びれた様子もなく、言い逃れする訳でもなく、頭をポリポリと掻きながら淡々と答える。
「いやぁ、実はあっしら配達雷獣の報酬ってのは“玉蜀黍”じゃないんですよ」
「トーモロコシ? ……はぁ? 何いってんだ、こいつ?」
「え、だって……あんたが玉蜀黍をくれって言ったんじゃない!」
まるで関係ない話に首を傾げる魔理沙とは対照的に、自分とは無関係ではない霊夢は、まるで抗議するように大きく声を上げた。
「ええ、そうなんです。雷獣ってのはみんな、玉蜀黍が好きなもんです。あっしも例外じゃありません。だから本当は上司に報酬として野菜とか果物を取ってくるように言われてるんですが、あっしはおやつ代わりに玉蜀黍を頂いて、自分で食べていたわけなんです」
雷獣の丁寧な説明を聞いて、魔理沙もようやく事態が飲み込めた。
「おいおい、つまり自分で報酬を横領した埋め合わせに、里から野菜を盗んでいたってことか?」
「お、白黒のお嬢さん。その通りでございやす」
雷獣はペコペコと頭を下げながら、次々と自分の犯した犯罪について話した。
その様子に、霊夢は違和感を覚える。
「ねぇ、雷獣。あんた、私たちに全部話すってことは、もう観念したってこと? 大人しく捕まるってことかしら」
だが、その言葉を聞いた瞬間に、雷獣は先程までの卑屈な態度をピタリと止めた。
そして腹を抱えながら、霊夢と魔理沙を指さして笑う。
「くひひ、あっしが観念した? ご冗談を。動機から何まで、お二人に丁寧に説明してやったのはですねぇ……」
瞬間。雷獣の身を覆った殺気が、魔理沙の身体を震わせた。
「あっしがここから逃げれば、何の証拠もないからですよ! 人間の餓鬼二人に知られたところで、なーんも怖かぁねぇや、って訳です!」
言うなり、雷獣は弾けた。
その脚力は大したもので、霊夢も一瞬だけ視界からその姿が消えるのを許してしまう。
飯綱夜は自身の司る力と同じように、雷光の如く一瞬の煌きを残して境内を突っ切ったのだ。
だが、到底追いつけない速度で逃げた相手を目の当たりにし、なお霊夢たちは落ち着いていた。
「ふぅん。啖呵切るだけはあって、なかなかの速さね」
「うむ。私でも追いつけるかどうか……」
「まぁ、いくら速く飛べても、意味が無いけどね」
霊夢が指を鳴らした。
それを合図としたように、魔理沙の魔法とはまた別の光が境内を満たす。
「うわ!? なんだこりゃ!」
飯綱夜は間一髪で蜻蛉返りして、その“壁”に激突するのを免れた。
そう、彼女の行く手には蒼白く光る霊力の壁――結界が出現したのだ。
「神社の周りをぐるっと囲む結界よ。いくら速くても、これじゃ逃げられないでしょ」
飯綱夜へとゆっくり歩み寄りながら、霊夢がニヤリと笑う。
魔理沙も八卦炉に火薬を詰めながら、雷獣の姿を睨めつけた。
「へっへ、なるほど。手間掛けた罠だけあって、用意周到って訳だぁ」
「飯綱夜だっけか? 諦めるんだな。後は私たちがお前を里の人間に引き渡して、市中引き回しにされるのを看取るだけだぜ」
二人は手に各々の得物を構えつつ、空中で腕組みをしている飯綱夜へと勧告する。
だが、その妖怪の表情は、追い込まれた者のそれには見えなかった。
むしろ、絶対的に優位な者が見せる飄々とした態度である。
「これほど強力な結界、確かにあっしの力じゃ破れやせん。ということは、簡単だ。あっしは結界を張っている、そっちのお嬢さんを倒してから、ゆっくりとトンズラすれば良いってことですね」
指をさされた霊夢は、髪をリボンで結び、そして言い返した。
「出来るもんならね!」
「よし、行くぞ! 霊夢!」
二人は掛け声と共に、一斉に空へと浮かび上がる。
成り行き上、相手が妖怪ならばこういった戦いになることも想定していた。
だから二人で共闘するならば、どちらがどういった役割を持つのかも事前に話している。
だが彼女たちは知らなかった。
実際にこうして戦いに入ると、そのような些末な打ち合わせなど頭から吹き飛んでしまうことを。
「あーあ、死んでも知らないですよ~。それっ!」
飯綱夜は両手に発生させた電気の鞭を、左右に散開した少女に向けて振り分けた。
雷獣は雷様に仕える妖獣であり、その力を授けられて雷――つまり電気を操ることが出来る。
もとは“雷”などとはまるで関係のない長生きのムササビが、その空を駆けるあまりの速さに「雷光のようだ」と人間に噂され、やがて妖獣としての格を得たのが雷獣である。
だから彼女らは、実際に雷を操ることには慣れていない。
「さぁ、黒焦げになりなさい!」
だがこの雷獣は、霊夢と魔理沙に自分が負けることなど有り得ないと信じている。
それが彼女たち妖怪の矜持であり、存在価値でもある。
だから戦闘の苦手な飯綱夜でさえ、彼女たちには恐怖を与える存在として立ち向かって見せるのだ。
「魔理沙!」
「馬鹿、こんなの当たるか!」
飯綱夜の放った電気の鞭は、少女たちの身体を捉えることはなく、その下に広がる玉砂利を打ち壊す。
それには飯綱夜も舌打ちをせざるを得ない。
「ちぃ、速さはそれほどではないですが。“素早い”ですね。それに目が良い」
魔理沙のスピードが増す。
そして飯綱夜の背後に回りこむように、その身体は地面の僅か上を這っていった。
こうなると飯綱夜としてはまずい。
なにせ霊夢の方は、まだ自分の左手前方にいるのだ。
魔理沙の方へ目を向ければ、霊夢に背中を晒す事となる。
それはあまりにも致命的だ。
「……なら、追いかけるしかない、ですねぇ」
幸いにして巫女の飛行速度は遅いようだ。
ならば背中を見せるにしても、巫女には到底追いつけない速度で魔法使いを追えば良い。
超遠距離からの攻撃ならば背中越しでも回避出来るし、自分が魔法使いに近づけば、巫女も仲間と敵が近すぎて攻撃を仕掛け辛いだろう。
と飯綱夜は判断した。
飯綱夜は魔理沙へと鋭い視線を向けると、そのまま急加速して黒い影を追う。
そして両腕に纏った電気の鎖を、箒の尻に目がけて投げつけた。
「魔理沙ぁ! そっち追っていったわよぉー!」
「分かってるぜ。援護頼む!」
叫びながら魔理沙は箒を握る右手に力を込め、左手で帽子の縁をなぞった。
そこに仕込んであった火薬を一摘みすると、ろくすっぽ後ろも見ずに適当な手振りで投げ捨てた。
「ぬぅ!」
その火薬は空中で炸裂すると、虹色の光を放ちながら、まるで金平糖のような形の星屑を散らした。
飯綱夜はたまらず大きくそれを避けて、魔理沙との距離を開かざるを得ない。
魔理沙の主力であるレーザー攻撃は、八卦炉を用いて使用する魔法である。
それ故にしっかりと目標へ八卦炉の発射口を向けなければならず、後ろから追いかけてくる刺客に対しては攻撃し辛いのだ。
だから、背中に向けて爆弾を巻くような反撃しか出来なかった。
「うひ~。箒の先が焦げてるぜ。直撃したらタダじゃ済まんか……?」
飯綱夜の雷撃に戦慄を覚えながら、魔理沙はその場で転回をする。
必死に作った飯綱夜との距離を、ここで消費しての勝負だ。
「さて、行くぜ」
と、懐から八卦炉を取り出した魔理沙の目に、間近に迫った飯綱夜の身体が映った。
「うぇ!? はや……」
「喰らえっ!」
「作った」と思っていた距離は、雷獣にとってはまるで無いに等しいものであった。
想像以上の速さで間合いを詰められた魔理沙は、とっさに箒を盾にしたものの、その強力な拳を受けて思わず地面へと転がった。
「あだだ……」
腰を抑えながら苦悶の表情を浮かべる魔理沙。
その頭上高くに、雷獣がピタリと止まった。
そして見下す目線を隠すことなく、つまらなそうに呟く。
「よし、まずは一人……。ま、こっちを倒しても仕方がねーんですけど」
起き上がろうとする魔理沙に向け、飯綱夜は雷の鞭を振り下ろそうとする。
流石の魔理沙もここから逃れる術はない。
だが、もちろんのこと、霊夢がそれを黙ってみている訳はなかった。
「無視、してんじゃないわよ!」
ようやく追いついた霊夢は、やや場違いな怒りの叫びを放ちながら、御札を飯綱夜へ投げつける。
雷獣も魔理沙と相討ちになる気はないらしく、その鞭の方向を変えて御札を叩き落した。
「それ、まだまだ!」
霊夢は続いて針を乱射する。
妖怪退治用に作られた封魔針は、命中すれば妖怪自らは針を抜くことが出来ないという、強力な破魔の武器である。
「く、巫女の方が厄介ですかね」
飯綱夜の身体が、まるで首根っこを何かに掴まれたかのように、後ろ向きのままで加速する。
そして針に追いつかれないうちに、その軌道から身を躱した。
そう、雷獣の飛行速度は、霊夢の針よりも速いのだ。
これには霊夢も驚きと苛立ちを隠さずに叫ぶ。
「あぁー! あんなスピード出されたんじゃ、攻撃が当たらないわ! 魔理沙、大丈夫?」
とりあえず離れていった雷獣よりも、今は地面に転がる魔理沙の安否を気遣った。
「ん……何とかな。それにしても、流石は雷獣。私の速さに霊夢の身軽さを足したような動きだぜ」
「でも、攻撃はヘボいわよ。あんなのに当たるもんですか」
「しかしだ、持久戦となったら妖怪である、あいつの方に分がある」
言っている間にも、上空から落雷の刃が襲いかかる。
二人は再び左右に別れて飛び立った。
だが今度は、先程よりも空を飛ぶ二人の距離が近い。
雷獣を倒すには、連携が必要だと互いに理解したのだ。それが自然と彼女たちの距離を近くした。
「霊夢! 次で決める。私が奴の軌道を見極めさせてやる!」
「ええ!? 出来るの!? 信じて突っ込むわよ!?」
「私を信じろ!」
「胡散臭いわね! でも信じてや……うわっと!」
大きな雷が、二人の間を引き裂いた。
「んー。避けますねぇ」
再び散開した敵に、飯綱夜も面倒くさそうに目を細める。
「霊夢!」
「うん……!」
襲いくる雷を躱しながら頷きあった二人は、上空を蠅のように飛び回る飯綱夜へ向けて、意を決したように仕掛けにいった。
それを見て、雷獣の顔にも笑顔が浮かぶ。――互いが勝機を確信したのである。
「ふふ、わざわざ自分から突っ込んで来てくださるとは。近づけば近づくほど、攻撃も防御も強い私に有利なのですよ。あなたたちの唯一の武器は、そのチョコマカとした動きだけなんですから」
言って飯綱夜は、両腕に妖力を貯めこんだ。
すると空気中から両腕へと電気が集まり始め、やがてそれは破壊力を持った妖術の類へと変質する。
決定機の為に一旦攻撃の手を止めた、飯綱夜の行為。
これが魔理沙にとっては逆に好機であった。
一発でも雷撃を受けてしまえば終わりである自分は、如何にして霊夢へ活路を作るまで“避け続けるか”が問題だったのだ。
それが解決した今、魔理沙は心置きなく八卦炉に火薬を仕込んだ。
「行くぜ、雷獣!」
魔理沙は高度を下げると、地面とすれすれのところで、更に箒を傾けた。
そして身体を乗り出すようにして、右手に持った八卦炉を下手で投げつける。
「な、投げっ!?」
その行動に驚きつつも、霊夢は気を取りなおして前を見据えた。
自分の単体攻撃では、飯綱夜を捉えられないとは分かっている。
だから魔理沙の言葉を信じて、自分は彼女の作る“一回”で勝負を決めなければならないのだ。
「いけぇぇぇぇ! シュートザ・ムーン!!」
魔理沙の掛け声と共に、八卦炉に光が灯った。
それは地を這うようにして雷獣の元を通過していく。
その一見すると無意味な行動。呆気に取られた飯綱夜は、嘲笑を向けようと魔理沙の顔を見て、そして戦慄する。
八卦炉の通って行った道に、魔方陣が浮かんでいた。
それはゆらゆらと揺れ、今にも消えそうなほど儚かいものであったが、確かに魔力の込められた魔方陣である。
そしてそれは、飯綱夜の足元にも、いくつか浮かび上がっている。
「……これは!」
飯綱夜が顔を蒼くしたのと、魔方陣が一斉に“力”を持ったのは同時であった。
魔方陣から放たれた淡い光線は、空に向かって打ち上げ花火のように伸びていく。
投げ付けた八卦炉によって刻んだ魔方陣から、上空へ向けて放たれる光線。
それが魔理沙の秘密兵器であった。
だが飯綱夜は、その合間を必死になって躱し続ける。
「……! 危ない、素晴らしい奇襲でした。だが、躱せないものでは、ない!」
言い切った飯綱夜の眼前に、草鞋の底が見えた。
そして、それが顔面にめり込む。
「ふぶっ!」
「もらったぁあぁあ!」
顔面に蹴りをもらった飯綱夜は地面に叩きつけられ、無論のこと動きは止まっている。
そこに向けて、霊夢の振りかぶった特大の御札が、風を切って迫る。
「くっ! 魔法は動きを絞る為の布石……! やられ」
敗因を分析する飯綱夜の声は、続く清心なる言葉によって掻き消された。
「幻想郷に神留まり坐す龍神の命以ちて魂の日月の光を和らげ賜ふが如く身心は天地の光に通はしめ賜ふが如く身は安く言は美はしく意は和らぎて諸々の悪業煩邪念猛慮をば冥府の扉の天上の雲海の弱く和柔ぎたる潮の如く罪と云ふ罪咎と云ふ咎は在らじと祓ひ賜ひ清め賜ふ事の由を山麓の八つの耳を振り立てて聞こし食せと白す。死ねっ!」
「あぎゃあああああぁぁぁ!?」
びしり。――まるで強烈なビンタを喰らわされたような音が、境内に響いた。
「あがががが」
飯綱夜の身体を、青白い光が包み込んだ。
おでこに貼りつけられた御札によって、雷獣は自分の操るものより、よっぽど強力な電撃を喰らったのであろう。
やがて、その断末魔は夜の闇に消えていく。
「やれやれ……」
魔理沙が焼け焦げた箒を片手に霊夢のもとへ駆け寄る。
地面に転がる野菜泥棒は、舌を出して全身を痙攣させていた。
「……勝ったな。私たち」
魔理沙は強く瞼を閉じて、勝利の余韻をかみしめる。
下手をすれば死んでいたかもしれない。そんな目に遭った少女は、深い安堵の溜息をついた。
「ええ、当然でしょ。博麗の巫女は妖怪退治の専門家ですもの。それに……」
「確かに。ボロボロの私に比べて、霊夢は無傷ときたもんだ」
「……そうね、怪我してない?」
言いながら霊夢は、拾っておいた八卦炉を差し出す。
魔理沙はそれをしっかりと受け取り、ニッコリと笑い返した。「ああ、大丈夫だ」と白い歯を見せて。
「あぁー! 疲れたー! 今日は帰ったら暖かいベッドで一眠りだぜ」
「そうね。その前にこいつを、里へと差し出してからだけど」
霊夢の足が雷獣の頭を小突く。
その身体には妖怪を封印する為の御札がびっしりと張られ、身動きが出来ないように縛り上げられている。
とりあえず朝まで転がしておくことにして、二人は社務所へと歩き始めた。
「そうだな。しばらくは里で無償奉仕でもさせられるんだろう。自業自得だがね」
「……ねぇ、魔理沙。聞きたいんだけど、戦ってる時の掛け声、アレ何よ? シュートザ・ムーンとかって」
「ああ、あれか? 必殺技さ。『月に向かって撃て!』――かっこいいだろう、3日前から考えてた」
「何よ、その洋画の邦題みたいなセンスは……」
「霊夢もさ、技にかっこいい名前をつけようぜ。それでお互いに繰り出す時に名前を叫ぶんだ。弾幕ごっこが、さらに楽しくなるぜ」
「弾幕ごっこ……か。ふふ、そっちのネーミングはいいセンスしてるわ。確かに私たちがやってるのは命がけのごっこ遊びだもの。……でも、技の名前を叫ぶのは反対よ、恥ずかしいもの」
「なんだよー。私だけ叫んでたら、私だって恥ずかしいぜー」
会話は社務所の中へ吸い込まれていき、やがて夜は明ける。
彼女たちにとって初めての異変解決は、こうして静かに幕を降ろした。
◇ ◇ ◇
昼下がり。人間の里を囲う外壁、その近くに霊夢と魔理沙はいた。
霊夢の手には、簀巻きにされた雷獣がぐったりとした様子で抱えられている。
「はぁ~、重かった! 霊力を随分と消費させられたわ」
「さて、あとはこいつを里の人に引き渡すだけだな」
観念した様子で抵抗の素振りも見せない雷獣。
その身体を持ち上げると、霊夢は里へと入っていこうとする。
「さ、行くわよ!」
魔理沙に声を掛ける。
しかし、彼女はその場から動く様子がない。
「ん? どうしたのよ」
「悪いけど、霊夢……」
魔理沙はニコッと笑い、踵を返した。
「ちょ……」
「用事を思い出した。アリスの奴に本を返すって約束してたんだよ。すまんが、そいつの引き渡しは霊夢ひとりでやってくれ」
「え、そんな! 一緒に退治したんだから、魔理沙も……」
「それじゃ! 後は任せた!」
問答無用で会話を終わらせると、魔理沙は箒に跨って森の方へとすっ飛んでいった。
唖然とする霊夢であるが、雷獣を放置してわざわざ追いかけることも出来ない。
仕方が無しに一人で里へと足を踏み入れた。
「うーん、やっぱり……。八百屋さんに引き渡そうかしら。最初はあの人の話から始まった訳だし……」
霊夢は八百屋に行くと、威勢よく声を出す親父の前に、雷獣を放り投げた。
「おぉ!? 霊夢ちゃん、こいつは一体……!?」
「前に言ってた野菜泥棒。捕まえてきたわ」
「え……?」
霊夢は雷獣の口に張ってある御札を剥がすと、その頭に封魔針を突きつけながら怒鳴った。
「ほら! さっさと謝りなさい!」
その迫力に、飯綱夜はすっかりと怯えてまくし立てた。
「ひぃぃぇえ! すみませんでした! 私が野菜とかを盗んでいたんですぅう! 雷様に掛け合えば、きっと私が納めた分は戻ってくると思いますぅぅぅう! お助け~!」
その様子を見て、八百屋の親父は目をぱちくりとさせる。
あまりの騒ぎに、通りを歩いていた人も集まり始めた。
そして泥棒が捕まったらしいと聞いて、被害にあった店の人たちもあっという間に駆けつける。
「まぁ、そういう訳で。後は私が雲の上まで行って、雷様に盗まれたものを返してもらうように頼んでくるわ。こいつはみなさんで好きなようにして」
雷獣に蹴りを入れて顔を上げた霊夢は、そこで周りの様子に気が付いた。
里のみんなが、自分の方を見ていた。
それも今までに自分が受けていた眼差しとは違う。
博麗の巫女を崇め、妖怪退治を依頼してくる目とは違う。
純粋な、感謝の気持ち。
それが込められた瞳に囲まれている。
「霊夢ちゃん、ありがとう」
「あぁ、ここまでしてくれるなんて」
「良かったぁ。もう商品がなくなってしまう所だったんだ」
「巫女様、流石だぜ」
「やるなぁ。雷獣をとっちめてしまうなんて」
「ありがとう、盗まれたものが返ってきたら御礼をしにいくよ」
一つひとつを挙げればキリがない。
人々からの感謝の言葉は嵐のように霊夢を取り囲んだ。
そのざわめきは留まるところを知らない。
「ちょ、ちょっと。私は博麗の巫女として、当然の事をしたまで……」
「そんな事は関係ねぇ。霊夢ちゃんは、俺らを助けてくれたんだ」
「そうだよ。この前だって妖怪退治をしてくれたんだしさ」
「いやぁ、感謝してもしたりないぜ」
何か、弁解をしているような自分の言葉に、霊夢は顔が熱くなるのを感じた。
だから腹いせに雷獣をもう一回だけ蹴りつけると、群衆の間を掻き分けるようにして突き進んだ。
「あ、ちょっと……!」
「そ、それじゃあ。また何かあったら、気が向いたら、解決してあげるから。御礼はたっぷり弾んでね!」
人々の呼び止める声を無視して、霊夢は空へと舞い上がる。
やがて霊夢が視界から消えると、残された雷獣に民衆の目線が突き刺さる。
彼女はゲンナリとしながら、これから酷く扱き使われるのだろうと想像し、簀巻きの中で泣いていた。
その様子を路地裏から見ていた魔理沙は、静かに笑った。
夏。セミの声と灼熱の日差しが支配する世界で、少女たちは口中で氷を舐めまわしながら、まるで放熱するように縁側にうつぶせていた。
その手はペンを握り、一心不乱に紙へと文字を書き綴っている。
「封印……ふう、いん……。ねぇ、魔理沙? 封印の前につけたら響きのいい言葉って何かないかしら?」
「封魔とかどうだ?」
「“封”の字が被っちゃうじゃない。封魔封印……うーん、意外とアリかなぁ?」
霊夢はその四文字を紙に書いて、しばらく眺めていたものの、やはり気に入らないのか端の方へ除けてしまった。
同じように魔理沙も色々な文字を紙に書いては、首を捻ったり頷いたりして、何かの選別をしているようだった。
「やっぱり私のレーザー攻撃は、こう、びしっとくる名前がいいよなぁ? あれこそが私の必殺技だし」
「そうねぇ。自分の必殺技は、自分で決めるのが一番でしょ? 私が口を出すことじゃないわ」
「うむ、一理あるな。……どうしようかなぁ、魔法を極めたもの……マスター……キャノン? なぁ、霊夢、キャノンってどういう意味だ?」
「大砲って意味じゃなかったかしら……。って、いい名前がきてたのに! 声を掛けるから忘れちゃったじゃないの!」
「な、なんだよ。お互いにアドバイスしながら決めようっていったのは霊夢じゃないか」
そう、彼女たちは弾幕ごっこの際に「必殺技の名前を宣言すること」を、ルールとして定めたのである。
方法としては、お互いに技の名前を書いた紙を見せ合い、どういう必殺技を使うのか宣言してから撃ちあうというものだ。
彼女たちは、こうして戦いの練習に、より遊びとしての色を強く加えていった。
そして現在、二人は一緒に必殺技の名前を決めているという訳である。
子供の発想力というのは素晴らしいもので、こうして名前を決めている間にも、次々と新しいルールを思いついていく。
「ねぇ、魔理沙。今、思いついたんだけどさ、技の名前に屋号をつけるのはどう?」
「技に屋号? どういう事だよ?」
「例えば、これ……私の“封魔陣”だったらさ、頭に“夢符”とかつけるの」
「なんだよ夢符って。技の名前と関係ないじゃん」
「だって私の名前は霊夢だもの。そこからとって夢符よ」
「じゃあ私は魔理沙からとって“魔符”か? ……あ、意外といいかもしれないな」
「そうよ、これでお互いの技が、どういう分類で分けられているかを確認しやすくなるの。あと宣言する時もかっこいいしね」
「うーん、そのアイディア、採用だな! 私のルールブックに追加しとくぜ」
言うと魔理沙は、脇に置かれてい本に、また新しく項目を書き加え始めた。
本の背表紙には「SPELL CARD RULE」と書かれている。
要するにそれは、彼女らの遊びにおけるルールブックであった。
あれから二人は何度も「弾幕ごっこ」を繰り返した。
その中で二人は、より面白く遊ぶためのルールを作り上げていった。それを魔理沙がルールブックにまとめているのだ。
ちなみに戦績は現在、10勝10敗の五分である。
「ごめんくださーい」
不意に、訪問者の声が聞こえてきた。
聞き覚えのない、なんだか間延びした声に首を傾げつつ、霊夢は筆を置いて身体を起こす。
「はーい、こっちにいるわよぉ」
呼びかけると、境内の方から駆け寄ってくる足音が聞こえてくる。
魔理沙も誰だろうと思って、ペンを動かす手を止めた。
「配達屋です~。お届け物を持ってきました~」
そこに現れたのは雷獣であった。
随分と眠そうな顔をしている、と霊夢に思わせたその雷獣は、以前まで博麗神社を担当していた飯綱夜とは違う者である。
あの不届き者は里で無償奉仕の罰を受けているので、博麗神社を担当する雷獣も代わったのであろう。
「はいはい、ご苦労様ね。野菜なら表に出してあるのから、好きなの持っていっていいわよ」
「はい~。どうもです~」
雷獣の渡した手紙を受け取ると、霊夢は差出人の欄に目を通した。
「って、これ差出人が書かれてないじゃない」
そこには何も書かれていなかった。
ただ『博麗神社 博麗の巫女へ』と宛名だけが書かれているのだ。
「ええ、そうなんですよ~。でも宛名は書かれてたんで、配達しました~」
「……しかもこれ、消印の日付が随分と前に見えるんだけど」
「えへへ~。ちょっと私、配達が遅いんですよね~」
「おいおい。とんでもない配達屋だな。霊夢の所には、マトモなのが配置されないのか?」
魔理沙の茶々入れを無視しつつ、霊夢は手紙の封を切る。
中には三つ折りにされた二枚の手紙と、和紙の便箋が一つ入っていた。
とりあえず霊夢は手紙の方を開いてみる。
「ん、どれどれ?」
魔理沙も興味深そうに覗き込んできた。
別に見られてまずい手紙がくる覚えもないので、霊夢はそれを咎めることをしない。
むしろ魔理沙にも見やすいように、手紙の文面をそちらへ向けてやった。
「え~、なになに。『初めまして、博麗の巫女。私は幻想郷を管理する妖怪です』……ふむ。なかなかにフザけた内容だな」
読み上げた魔理沙は、呆れた口調で言った。
「いや、まだ悪戯と決まったわけじゃないわ。続き……『私は以前より、幻想郷における人間と妖怪の共生について、貴方と話し合う機会が欲しいと思っていました。そこで私の方でこの度、幻想郷にふさわしい“ルール”を制定することになりましたので、それに関して貴方と相談をしたいと思っております』」
霊夢が一段落読み終わると、交代するように魔理沙が読み上げる。
「ふ~ん……。『そこで次の盈月の夜。私の方から神社へと使者をお送りしたいと思います。同封した“ルール”についての草案に、予め目を通していただけると幸いです』……随分と一方的な物言いだなぁ」
手紙を読み終わった霊夢は、ふと文章の中の『盈月』という単語に目がいった。
満ちていく月という事は、満月の事であろうかと推測する。
「って、魔理沙。次の満月っていつだっけ?」
「あん? ……今日だな」
「は、早っ! 今日の夜に、その使者ってのが来るわけ!?」
その会話を聞いていた雷獣は、にっこりと笑って説明する。
「あはは~。私の配達が遅かったから、約束の当日に手紙が届いちゃったんですねぇ~」
「他人事みたいに言うな! ってか、まだいたんかい! 帰れ!」
「ひょえ!?」
怒りの陰陽玉は、報酬の大根と共に雷獣を吹き飛ばしていった。
「お~、よく飛ぶ雷獣だな」
「それにしても、どうしようかしら。何の準備もしてないわ」
「ふむ。とりあえず言われた通りに、そっちの草案とやらを読んどいた方がいいんじゃないか?」
言いながら魔理沙は、封筒に残っていた和紙を引っぱり出す。
「もう、魔理沙が読んでもしょうがないじゃない。よこしなさいよ」
「おいおい。私も同席するに決まってるだろ? 一緒に読もうぜ」
「な、なんで魔理沙も同席するの!? あなたは、幻想郷の管理に関係ないじゃない!」
霊夢の抗議を無視して、魔理沙はその草案へと目を通した。
「ふふ、巫女のライバルとしては無関係ではない……って……。マジか」
「どうしたの?」
和紙を広げ、絶句した魔理沙に向けて尋ねる。
彼女は草案の書かれた和紙を床に落とし、両の手のひらを天に向けておどけてみせた。
「どうやら私も、本当に無関係じゃないみたいだぜ」
「どういう……?」
霊夢は床に落ちた和紙へと目を落とす。
和紙には、大きく題字があった。――『命名決闘法案』と。
そして、その内容は、彼女たちの考えた“弾幕ごっこ”そのものであった。
◇ ◇ ◇
霊夢のもとに手紙が届く、ひと月ほど前の事である。
幻想郷の端っこ、もしくは外側、有り体にいえば境界線上に存在する屋敷があった。
そこに、先の手紙の差出人である、八雲紫が住んでいる。
「はぁ……」
溜息などつきながら、書斎に籠っている紫の周りには、おびただしい量の書物が積み上げられている。
それは魔理沙の家に散らかるガラクタの比ではない。
しかも、それらは全て紫が自分で書いた“草案”の出来そこないなのだ。
「歪な世界……か」
八雲紫は悩んでいた。
ここ数年間、彼女はほとんどを部屋に篭りっぱなしで、考え抜いている。
すなわち、人間と妖怪の共存の為、何か策はないかと。常に試行錯誤を繰り返しているのだ。
幻想郷を隔離してから、もう随分と長い月日が経った。
妖怪である彼女からすれば、まだ幻想郷は出来たばかりといった印象であるが、確かに考えてみれば人間たちは何代もの入れ替わりがあったし、新しい妖怪が外から参入してくることも随分とあった。
そして、それらが変わっても以前として変わらないのが、人間と妖怪の争いなのである。
否、もとから人間と妖怪は争うものである。
だが、人間の数が限定された幻想郷という箱庭で、各々の妖怪が好き勝手に人を喰っては困るのだ。
だから紫は妖怪たちに対して人喰いを制限してきた。
無論のこと、それに対しては妖怪から反発が起こる。
そして個人の暴走や集団での謀反など、紫への反抗が度々起こるのだ。
しかし、反抗程度ならまだ良い。
その程度ならまだ、紫が強烈な制裁を加えてやれば、妖怪たちを統率出来るのだ。――いや、統率出来ると彼女が思い込んでいた。
「紫様、お茶をお持ちしました」
「入って」
彼女の忠実な僕、藍が部屋を訪れた。
根を詰める主人をこの数年間、陰ながら支えてきた彼女は、相変わらずの文章の山に苦笑いを浮かべた。
「お疲れではないですか?」
差し出したティーカップからは、紫の好む香りが漂ってくる。
藍にだけしか教えていない、彼女の好きな稀少で高価な銘柄だ。
「……今のところは、私の力で妖怪たちの謀反も抑えられている。でも、それが行き過ぎると、また吸血鬼異変みたいな大事になるかもしれないでしょ。だから、このままじゃいけないのよ」
吸血鬼異変とは、幻想郷に現れた強大な力を持つ吸血鬼が、幻想郷の支配を目論んだ大きな紛争である。
当時の妖怪たちは、紫による人喰い制限を始めとした窮屈なルールのせいで、気力を失っていた。
故に妖怪たちは幻想郷に現れた吸血鬼の軍門に下り、幻想郷の妖怪を二分するほどの大事件となったのだ。
この事がよほど堪えたのか、吸血鬼異変を自らの腕力で解決した後に、紫は妖怪への制限をやや緩くしてきた。
それで一応は妖怪たちの気力もある程度は高まった。だが、それは新たな問題を引き起こすのだ。
すなわち、妖怪内部での紫に対する反抗心を煽り、数年前の神社襲撃という小さな反乱を引き起こしてしまった。
紫はそのように考えていた。
「しかし、仕方のないことです」
藍は心中を察したように、静かに答える。
目を瞑って、何かを思い出すようにしながら。
「博麗……博麗の巫女を、二度も失う訳にはいきません。また妖怪たちが弱体化する事は気になりますが、抑圧を緩める事で湧いて出てくる“跳ねっ返り”が巫女を倒そうとするような事態は避けなくては……。紫様による抑圧は、正しいものであると私は考えます」
「ありがとう、藍。でも……吸血鬼異変の時みたいな大きな紛争が、また起きたとしたら……。その時には、今の“博麗の巫女”は戦いに出ようとするでしょう。あの時、幽夢は成熟した巫女だったけれど、今の巫女はまだ幼すぎる。そうなれば、危険なことには変わりが……」
鋭い音が部屋に響いた。
紫の持っていた万年筆の筆先が、弾けて天井に当たる。
主の頭の上に落ちてきた鋭い破片を素早く掴みとると、藍はそれを握りつぶした。
「あ、そうそう。博麗の巫女が、また面白い遊びをしていましたよ」
話題が変わると、険しかった紫の表情が、幾分か緩んだ気がした。
ただ、声は相変わらず平坦なままだ。
「へぇ、何をしていたの?」
「ほら、前にも話した、白黒の魔法使いとの遊びですよ。今日は巫女が封魔陣で勝負を決めて、通算成績を五分に戻しました」
「ま、博麗の巫女なら、そのくらいはやってもらわなきゃねぇ。むしろ、魔法使いの子が良く頑張っているわ」
「そうですねぇ」
引き出しから新しい万年筆を取り出した紫は、書きかけの羊皮紙にインクを落としかけ、そこでふと動きを止めた。
「藍。あの子たちのやってる遊び、なんていう名前と言ってたかしら」
「あ、えーっと、確か“弾幕ごっこ”とか呼んでましたよ」
「弾幕ごっこ……。ごっこ遊びか」
「え、ええ。それが、どうかしましたか?」
藍はじわり、と後ずさりした。
何故なら、目の前の主は背中を上下に揺らしながら、不気味に笑い声を発し始めたのだから。
また、ロクでもないことを思いついたのでは、と昔の藍ならば思っていたところだろう。
だが、今の主が何か思いついたのだとすれば、それは天啓のような閃きに違いなかった。
それでも、この煮えたぎるような妖力を背中から発する紫の笑い方に、藍は身体の震えを抑えることが出来ないのである。
「ねぇ、藍」
「は、はひ」
「もし貴方が、魔法使いの立場だったら、どうなる?」
「……? へ、えー、と。れ、博麗の巫女と、私が戦うって事ですか?」
「ふふふ、そういう事よ……。ふふ、あはは、アッハッハッハッハ!」
高笑いを聞きながら、なんだか自分が面倒な役割を押し付けられる事になりそうな予感がして、半分は嬉しい気持ちにもなる藍であった。
◇ ◇ ◇
静まり返った博麗神社。
社務所の居間では、二つの鼓動が静かにその時を待っていた。
だが、どうも黙っていられない少女たちは、あっさりとその沈黙を破る。
「なあ、あの手紙が悪戯だったらさ。この時間ってすごい無駄だよな」
ちゃぶ台の前に仲良く並んだ片方、魔理沙が呟く。
霊夢は部屋に残る夕飯の臭いが気になったのか、空中を手で仰ぎながら返す。
「だってさぁ、本当だったら無視する訳にはいかないわよ? だって、私たちが考えた遊びが……」
その言葉は、障子戸を通して響いてきた音で途切れた。
みしり、という木の板を踏みしめる響きが、唐突に外から聞こえてくる。
それは静かに、確かに一歩ずつ居間へと近づいてきた。
魔理沙は隣の袖をぐいぐいと引っ張りながら、肩を震わせる。
「お、おい霊夢……」
「相手は幽霊じゃないのよ。しっかりなさいな」
みしっ、と一際大きい音が、障子戸の前で止まった。
白い薄紙の向こうには、彼女たちより遙かに高い背丈の影が浮かび上がっている。
二人は口を噤んで、あちらの対応を待った。
「お待たせしました。管理者からの使いの者です」
力強い声に、二人は喉を鳴らした。
しかし負けじと霊夢が、堂々とした通る声で対応する。
「待っていたわ。入っていいわよ」
静かに、音もなく戸がずれた。
そして二人はハッと息を飲む。
そこに現れた者は、全身を白い装束で覆い隠し、その顔貌さえも白塗りの狐のお面で隠していた。
魔理沙はその不気味な風貌に身体を揺らし、霊夢は鼻をひくつかせた。
「……獣臭いわね。あんた、妖獣?」
霊夢の不躾ないいようには答えず、使者は静かにちゃぶ台へと近づくと、一礼をした。「どうぞ」と手を差し出した霊夢の動きを見てから、狐の面は静かに腰を降ろす。
ちゃぶ台を挟んで、使者と二人の少女が相対する形になった。
「さて……」
「ちょっと!」
話を始めた狐の面に対し、霊夢は慌てて突っ込みを入れる。
「あんた、使者っていうのなら、そのお面を外しなさいよ。素顔を見せるのが筋ってもんでしょ?」
「そ、そうだそうだー」
狐の面は、全くの動揺を見せることなく静かに首を振った。
「いいえ、これが私どもに許される、最大の譲歩です。このままでお許しください」
「……はぁ? あんた、何言って……」
「まぁ霊夢。ここは大人の対応で、許してやろうじゃないか」
少し、狐の面からプレッシャーのようなものを感じた魔理沙が、身を乗り出した霊夢の身体を抑える。
すると狐の細い目が、この場にそぐわない白黒に気付いて、その姿を睨めつけた。
「助け舟を出して頂いたところで、申し訳ありません。そちらのお方、ご退席をお願いできますか? これは博麗の巫女との間でのみ、話したい事なのです」
狐の言葉に、魔理沙は頬を膨らませて反論する。
「む、やい狐。お前が話したい事って、命名決闘とやらについてなんだろ? あれは私たちが考えた弾幕ごっこのパクりじゃないか! 私だって発案者の一人、部外者じゃあないぜ」
「しかし……」
頑なな態度になりかけた狐に向かい、霊夢はすかさず言い切った。
「その面を外さない事に譲歩する。代わりに、魔理沙の同席を認めなさい」
霊夢の言葉は、ぴたりとその場の空気を止めた。
彼女がこの場の空気を支配しかけた事に懸念を感じた狐は、初めて面の裏で表情を濁らせた。
「……分かりました。それでは、このまま話を始めたいと思います」
「よろしい。始めてちょうだい」
「おう。粗茶でも飲みながら、な」
魔理沙が傍らに置いていたお茶をちゃぶ台に配し、ニコリと笑った。
面が微かに上下に揺れると、そこから彼女の説明が始まった。
「この度の命名決闘法案……、別名をスペルカードルールについて説明させて頂きます。といってもその内容については先に送らせていただきました草案に書いてある上、発案者のご両人が最もご存知でありますでしょうから、割愛させていただきます」
「つまりは、私たちの必殺技が“スペル”と名前を変え、それをお互いに宣言して弾幕ごっこするっていうだけよね」
「そうです。それでは、このスペルカードルールが、なぜ必要になったのかの説明をさせて頂きます」
そこから霊夢と魔理沙は、狐の説明に耳を傾けていた。
人間をむやみに襲わないように、管理者が妖怪へと人喰いの制限をかけていること。
しかし、その存在意義を封じられた妖怪は力を失うことになったこと。
その機に乗じた新参者が戦禍を引き起こしたこと。
そして今はまた、管理者が妖怪を抑圧し続けているということ。
狐は幻想郷が辿ってきた道を、淡々と説明した。
「そこで我が主は、長年に渡って求め続けていたのです。人間と妖怪が、その本来の関係性を保てる、しかし殺し合いとは別の方法を。そこで、貴方たちの考えた“弾幕ごっこ”が、全てのことを解決してくれると、主は判断しました」
「ふーん、そりゃ光栄ねぇ。でもさ、妖怪は人喰いをしたいって言ったじゃない。私たちの弾幕ごっこで、食欲が抑えられる訳?」
「妖怪の人喰いとは、すなわち人間と戦う為の闘争本能の表れのようなものです。我々妖怪は存在意義によって成り立つ概念的な生物。人と戦うことも出来ずに、餌を与えられるような人喰いをしているよりも、その肉を喰わずとも戦いをすることの方が、よほど、その腹を満たすのです」
自分が思っていたよりもスケールの大きな話に、魔理沙は感心したように頷いていた。
「へぇ~。難儀だなぁ、お前らも。大きな紛争って吸血鬼異変の事だろ? 私たちの生まれる前じゃないか。そんな昔から、お前の御主人様は何かいい案がないかって考えてたんだ」
魔理沙の言葉に、狐の面はゆっくりと頷いた。
そして、その面の向こうから機械のように、滑らかで無機質な声が流れる。
「全ての説明は終わりました。博麗の巫女、そして星の魔法使いよ、我々がスペルカードルールを普及することに、許可を頂けますか?」
「……私たちに許可なんかとらなくても、別にいいじゃないの?」
「いいえ、我が主は発案者の同意を得ることを望んでいます。更に言えば、スペルカードルールの発案者、そして唯一の実践者である貴方がたに、命名決闘法のルールについて精査して頂きたいと考えています。その今後に行われるであろう打ち合わせの事も、伝えにきたのです」
「ふむ、なるほどな。その時は、お前の御主人様も顔を出すんだろ?」
魔理沙の言葉に、狐の面は微かに首を横に振った。
それを見逃した魔理沙が「シカトかよ」と突っ込むのを聞いてから、狐は最後の言葉を話す。
「最後に。これは幻想郷全体に影響を及ぼす、大きな決まりごとです。だから主は、博麗の巫女に同意をとることを望んでいるのです。幻想郷を管理するものは、主と博麗の巫女の、二極でなければなりませんから」
その言葉を聞いた霊夢は、あまり納得がいかない様子で茶を啜った。
横目で「どうするんだよ?」と訊いてくる魔理沙に軽く目配せすると、狐の面に向かって答えを返した。
「別にいいわよ。私たちの遊びが、妖怪たちの暴走を抑えるのに役立つなら嬉しいし。それに最近、対戦相手がずっと同じことに飽きてきたのよね。これが普及してみんなが弾幕ごっこ出来るようになれば、退屈しないで済みそうだし」
「おいおい、私に負け越すのが怖くなったのか?」
「そんな事ないわよ。なんなら、この後に一戦やる?」
口喧嘩でも始めそうな二人に慌てて、狐の咳払いが割って入る。
「あー、ごほん。確かに、博麗の巫女の同意は得られました。それでは、私はこれを主に報告します。また後日に、スペルカードルールについて綿密な打ち合わせを行いたいと思います」
会釈をした狐の面に向かい、魔理沙と言い合いをしていた霊夢は、思い出したように告げる。
「ねぇ、最後に聞きたいんだけど」
「はっ、なんでしょうか」
「今まで私の事を、ずっと放っておいたのに、なんで今回から博麗の巫女の意見も尊重するようになったのかしら? 幻想郷の管理者さんは」
幾分か鋭い目線で尋ねる巫女の言葉。
面の向こうの表情が強張った事は、二人には伺い知れない。
「我が主は……。博麗の巫女を、ずっと、見守っていたと思います。ただ……そう、あまり干渉するのは好ましくないのです。博麗の巫女と、幻想郷の管理者というのは」
先程までの精密な言葉とは変わり、ぎこちなさの目立つ声。
ただし少女たちが、その違和感に気付くことはなかった。
「ふぅん。まぁ、今回はかなり影響の大きなルールになるから、私の方にも連絡を取ったって事で納得しておくわ」
「そういう事で、ございます。……それでは、また来ます」
足音も立てずに戸まで後退すると、結局その面を外すことなく使者は去っていった。
後に残されたのは、たっぷりとお茶の注がれた湯のみと、二人の少女のみ。
「や、やったぁぁ!」
突然叫んで、畳の上に寝っ転がる魔理沙。
それに驚いて霊夢は「な、何よ!?」と身体を仰け反らせた。
「へへ、霊夢! 私たちの考えたルールが、幻想郷全てのルールになるんだぜ!? これは、すごい事じゃないか!」
「う、うーん。確かに、そう言われれば……すごいかも」
「うわー、人間や妖怪がみんな、弾幕ごっこするんだなぁ。こりゃ創設者として、私たちは誰にも負けられないな!」
「え、ええ……。そう、そうね。作った本人が負けてちゃ、格好悪いわよね」
改めて思うに、それは不思議な感覚であった。
魔理沙の唐突な意見から始まった、二人だけの遊びであった“弾幕ごっこ”。
それが、今の狐の話を信じるならば、この幻想郷に住む全ての妖怪たちが、このルールに従うというのだ。
昔ならば人間を殺そうと襲ってきた妖怪たちが、代わりに弾幕ごっこを挑んでくる。
これほど愉快な事があるだろうか?
「いやー、やっぱりさー。私たちが弱かったら流行らないと思うんだよな。妖怪たちが、私たちに勝とうと燃え上がるように、私たちは強くなくちゃいけないぜ」
「そうねぇ。まぁ、私は妖怪が弾幕ごっこを仕掛けてきても、負ける気はしないけどねぇ。心配なのは魔理沙の方よ」
「……ふふ。言ってくれるぜ」
魔理沙は身体を起こすと、己の腹具合、時計の針、そして懐にしまってある八卦炉を確認した。
そして、隣で湯のみを片付け始めた霊夢へと、ニヤリと笑いかけた。
「なぁ、霊夢。本当に幻想郷の“公式ルール”になってしまう前に、最後の弾幕ごっこをしないか」
「……今から? そうね、ちょうど今は10勝10敗。このまま終わったんじゃ、対等なままよね」
「それじゃあ、4個でいいか?」
「場所は境内、境界線には結界のリングアウトなし……。必殺技は?」
「景気付けだ。撃ち放題で」
まるで予定調和のように、トントン拍子で会話が進む。
二人は互いに笑顔を向け合いながら、居間を後にした。
◇ ◇ ◇
二人の少女が空を舞う。
互いの周りにはそれぞれ、4つの陰陽玉と光球がくるくると纏わりついている。
「それじゃあ、行くか」
「ええ、行きましょう」
まず仕掛けたのは霊夢。
その手から放たれた御札の乱舞は、全方位から魔理沙を包みこむように迫る。
魔法使いはすぐさま急加速し、その包囲網から逃れようと霊夢へ突進してきた。
「馬鹿正直な動きね!」
待っていましたとばかりに、こちらへ肉薄しようとする魔理沙へ向けて封魔針を発射する。
この針は、魔理沙のレーザーほどの早さは持っていない。
しかし、正面から向かってくる魔理沙自身の速度もあって、その針は魔法使いにとっては亜音速のように感じられる弾丸となるのだ。
「だが、お前も!」
もはや回避運動を一切見せずに、魔理沙は八卦炉を構えて叫んだ。
そこから打ち出されたレーザーは、霊夢の周りをただよう陰陽玉の一個を貫く。
「あっ! ……しまった、最初から相討ち覚悟で……!」
「よっし、上手くいったぜ」
そのまま霊夢とすれ違い、後ろをとって反転した魔理沙は、砕け散った光球の残光を目の前にしながら、再びターゲットへと八卦炉を構える。
一歩遅れて後ろを振り返った霊夢は、とっさに“飛び跳ねた”。
「イリュージョンレーザー!」
叫んだ彼女は、八卦炉に魔力を送り込む。
予めセットしておいた火薬に熱が灯り、そこからは純白の一閃が放たれた。
それは霊夢の陰陽玉を撃ちぬく、はずであった。
「あ! またかよ!」
魔理沙は舌打ちをする。
一瞬のうちにして、霊夢の姿が消えてしまった。
だが彼女にとってこれは、弾幕ごっこをする上で何度か体験してきた現象である。
なんと霊夢は危機を回避する際に、どうやら無意識のうちに空間転移をしてしまうようなのだ。「さすがにそれは卑怯だろ」と最初は魔理沙も抗議したが「だって知らないうちにワープしちゃうんだもん」と霊夢は釈明した。
結局は反則にも出来ず、魔理沙はこの空間転移に何度もしてやられている。
しかし、その経験が最悪の事態を回避する。
経験から言えば、霊夢がワープをする先は、大体が自分の背後なのだ。
だから魔理沙は、やや当てずっぽうながらも、箒から身を乗り出して振り向きざまにレーザーを放った。
「きゃ!?」
「やっぱりな!」
霊夢のお祓い棒が光球の一つを強かに打ち付けるのと同時、魔理沙のレーザーも霊夢の周りを漂う陰陽玉を破壊した。
二人は空中で一瞬、鋭い目線を交錯させると、同時にその場を離脱する。
「これで2対2か! いい勝負だな!」
「やるわねぇ。そうこなくちゃ」
両手の指に、御札を目一杯構える霊夢。
そして八卦炉に新たな火薬を仕込む魔理沙。
二人は互いに愉悦の笑みを見せると、同時に叫んだ。
「メテオニックシャワー!」
「夢想封印!」
魔理沙は八卦炉を上に放り投げると、懐からコルクの栓がしてあるビンを取り出した。
そして、それを正面に投げつける。
空中で割れたビンの中からは無数の星屑が飛び出した。
一方の霊夢は御札から手を離すと、身体を晒すように両腕を大きく広げた。
すると、彼女の身体からは七色の光が生み出される。
それは一瞬、霊夢の周りを守るように滞空すると、次の瞬間には目標に向けて一斉に襲いかかった。
「互いに考えてた事は」
「同じってね!」
フェイントからの技を出し終えた二人は、互いの技を躱す為に動き出す。
無数の星屑は、想像以上の広い範囲にまき散らかされている。霊夢の飛行速度では、その範囲から逃げることは間に合いそうにない。
ただし、その星たちの隙間は、霊夢の体格なら避けられないことはなかった。――判断した霊夢は、一気に星屑の海へと突っ込む。
「どわぁ! なんじゃこりゃ!」
魔理沙は八卦炉をキャッチするやいなや、後方へと逃げた。
その七色の弾は霊夢の技にしては、なかなかに早い弾速である。
だが自分の最高速度なら、振りきれないことはない。――そう考えていた。
しかし、境内を突っ切る魔理沙の後ろを、その七色の光は諦め悪く追跡をしてくるのだ。
霊夢の得意とする誘導弾であろうが、その捕捉は今までのものと段違いである。
「うわわ、追いつかれる!」
魔理沙の目の前には、鎮守の森が近付いている。
そこには霊夢の張っている結界が存在し、魔理沙は通り抜けることが出来ない。
ここでUターンをすれば、その僅かな減速の瞬間に、後ろから迫っている七色たちが自分の光球に喰らいつくだろう。
「いちか、ばちかだ!」
覚悟した魔理沙は、八卦炉に“とっておき”の火薬を詰め込んだ。
そして、それを箒の尻に向ける。
右手に力を込め、箒の頭を持ち上げた。
そして結界のすぐ手前で、魔理沙は叫ぶ。
「スターダストォ! レヴァリエェェ!!」
こんな時でも必殺技の咆哮はする。
それが彼女なりの美学だ。
ともかく八卦炉から吐き出された大量の星屑は、地面を砕きながら爆発的な推進力を箒に与えた。
深く被っていたはずの帽子が風圧に吹き飛ぶ。あまりの勢いに口中へ空気が叩き込まれ、呼吸困難になるほどだ。
魔理沙はまるで打ち上げ花火のように、勢い良く天に昇っていった。
その早さには、流石の夢想封印も追いつけずに、逆に距離を開けられる。
そして、追いかけていた箒の尻から打ち出された流星群に、その輝きは次々と飲み込まれていった。
魔理沙は見事、霊夢の夢想封印から逃れきってみせたのだ。――だが、霊夢の“とっておき”は、最低限の仕事をしていた。
「……あれ? いつの間に……参ったなこりゃ」
魔理沙が気づくと、彼女の周りを漂う光球はたったの一つになっていた。
夢想封印の光はどうやら、ぎりぎりで目標を捉えていたようだった。
気付けば、自分が放った霊夢への攻撃は消え去り、そこには陰陽玉を二つ従えた巫女が、腕を組んで不敵に笑っていた。
「ふふ、2対1ね。どうやら戦いの終わりが近づいてきたようだわ」
「いや、参ったぜ。それか? お前が名付けに悩んでいた必殺技は」
「ええ、おかげでしっくりくる名前が思いついたわ」
「1対2か。こうなったら、私も“とっておき”を出すしかないな」
魔理沙は微かに震える手で、八卦炉に火薬を詰め込んだ。
キノコを原材料とした火薬を媒介とする。それが彼女の魔法であるが、無論のこと魔理沙自身の魔力がその火種である。そして、大掛かりな魔法ほど、消費する魔力も多い。
正直なところを言えば、先程の「スターダストレヴァリエ」で彼女の魔力は底を尽きかけていた。
だから彼女にとっては、次の一撃で霊夢の陰陽玉を2つ奪い取らなければ、負けるのは必至なのだ。
それを知らない霊夢は、お祓い棒を軽く素振りして、遙か上空にいる魔理沙へとその先端を向けた。
「宣言してあげるわ。魔理沙の攻撃が私の陰陽玉を捉えた瞬間、その時には、私の攻撃があなたの最後の光球を潰しているとね」
その言葉を聞いて、魔理沙は勝利を確信し、八卦炉を構えた。
「甘いぜ、霊夢。1つと言わずに、一気に、2つとも消し飛ばしてやる!」
「う!?」
魔理沙から発せられる、渾身の魔力に悪寒を感じた霊夢。
霊力を解き放ち、慌てて上空へと駆け上る。
だが、その前に魔理沙の八卦炉が、淡く眩しい光を放ち始めた。
「遅い!」
「く、なんかヤバい気がする!」
「マスター…………スパァァァアァアァク!」
土壇場で思いついた名前は、巻き起こった轟音によって霊夢へは届かなかった。
八卦炉の発射口の何倍も、魔理沙の細い腕の何倍も、魔理沙の身体よりも何倍も太い、夜を昼にするような閃光が境内に突き刺さった。
その魔砲が生み出す質量は、術者自身の腕さえも引きちぎらんばかりに八卦炉を暴れさせ、空中を飛んでいるのが難しくなるほどのリコイルを少女の身体に叩き込んだ。
だが、そんな中でも魔理沙の顔には笑みがあった。
マスタースパークの業火の中に、霊夢は消えたのだから。
まず、間違いなく陰陽玉2つは砕け散ったであろう。
奇跡の逆転勝利である。
「っと……。ようやく止まったか」
八卦炉が光を吐き出すのを止め、辺りには夜が戻ってきた。
そして射線上に立ち込める硝煙がやがて、風に流されて魔理沙に勝利の報告をする。
そこに、静かに佇んだ霊夢の姿を見なければ、そして2つの陰陽玉が浮かんでいなければ、確かに魔理沙は勝っていたはずだ。
「な、なんだ……そりゃ!?」
魔理沙が驚くのも無理はない。
霊夢の全身が瑠璃色に輝き、それでいて半透明になっており、無論のことマスタースパークの直撃を受けたようには見えない姿でそこにいるのだ。
そして何事もなかったかのように、むしろ安らかに眠っているような、その瞼を閉じた霊夢。
その無情なままで放たれてきた御札を、魔理沙は全く避けることが出来なかった。
光球が壊れる音がして、魔理沙の周りを漂う光球がなくなる。
彼女は何も分からないまま、茫然自失のままで敗北した。
「10勝11敗……。負け越しで終わり……か」
「……あら、魔理沙。え、え、なに? 私、勝ったの?」
目を開いた霊夢が慌てふためく様子を見て、魔理沙は大きく溜息をついた。
「おいおい、まさか、また無意識のうちに、じゃないだろうな?」
言われて霊夢は、申し訳なさそうに頭を掻いた。
「うぅ、そのまさか、よ。私は魔理沙が、何だかスゴい攻撃をしてきた所までしか、憶えてない」
「うわー! ふざけんなよー! 無意識で無敵状態になるって、そりゃ卑怯すぎるぜ!」
流石の魔理沙も、その発言には髪の毛を掻き乱して叫んだ。
とりあえず地表に降り立つと、地面に落ちていた帽子を拾いあげ、そして霊夢に向かって指先を突きつける。
「霊夢、お前さっきの透明になる技、禁止な!」
ワープまでは許していた魔理沙も、流石に一切の攻撃が効かない技には“No”を突きつける。
「そんな事言われたって、無意識で出ちゃうんだから、しょうがないじゃない」
「だーっ! 創始者がそんな反則技使っちゃったら、みんなが白けるだろ? ゲーム作った本人だけが使える無敵技なんてあったら、流行るもんも流行らん!」
魔理沙はあくまでもスペルカードルールの普及の為、と言い張っているが、どうみても自分が勝てなかった事への怒りがその言葉を紡がせていた。
言われる霊夢も、なにしろ無意識の内の事だったので、反論も何も出来ない。
「私にどうしろっていうのよ……」
「そうだな。それじゃあ、こういうのはどうだ? さっきの無敵状態で、何秒間か霊夢の攻撃を避け続けたら、霊夢を倒したことになるってのは。そういう必殺技って事にすればいい」
「うーん、不本意ながら、そうするしかないわね。……名前はどうしようかしら」
必殺技、スペルであるというなら名前が必要である。
「あんな反則技、適当でいいよ。“夢想天生”とかって名前にしとけ」
「あら、カッコイイ名前じゃない。魔理沙、やっぱりネーミングセンスあるわよ」
褒めつつ霊夢は、おもむろに竹箒を取り出す。「ど、どこから出した?」という魔理沙の問いには答えずに、笑顔でそれを渡してあげる。
「それじゃ、負けた方は境内の掃除ね」
「ちょ、待てよ! 今から掃除したら夜中になっちまうよ。夕飯も食べてないのに」
「仕方が無いわね、それじゃあ今晩はうちに泊まりなさい」
「ぐぐぐ。……霊夢! 弾幕ごっこでは確かに負け越したが、スペルカードルールでは負けないからな!」
「ええ、私も負ける気はないわね」
霊夢は笑いながら社務所へ帰り、魔理沙はその後ろで荒れに荒れた境内を見渡していた。
こうして二人だけの遊びは終わりを告げた。
結局は霊夢が勝ち越すことになった、ように見えたこの勝負。
結論からいうと、未だに二人の勝負は決着がついていない。
舞台はスペルカードルールとなっても、二人の関係は変わりようがないのだから。
◇ ◇ ◇
それから何年かが経過した。
彼女たちは自分の作った遊びをルールとして明文化し、その普及に努めた。
だが全ての妖怪が急に、そのルールに従うのであったら、妖怪の管理者も長年頭を悩ます必要はないだろう。
しばらくの間はスペルカードルールも、ただ形だけの存在であった。――そう、あの日の夜空に広がった、華麗なる弾幕がなければ。
――霊符『夢想封印』
宣言された言葉は、現わされた意味を伴って力となる。
初めてのスペルカードルールに戸惑うルーミアは、避ける動作も見せずに光の珠に全身を撃ちぬかれた。
いや、戸惑うというよりは、対戦相手のルーミアでさえ、その輝きに見惚れていたのかもしれない。
「あいたた~」
少し悔しそうな表情を浮かべて墜落していく妖怪に、巫女は素っ気なく一言添えた。
「良薬っていっても、飲んでみなけりゃ分かんないけどね」
湖の上を突き進む巫女は、お祭り騒ぎに便乗してくる妖精をなぎ倒しながら異変解決に奔走する。
そのたびに夜空に次々と彩り美しい弾幕が広がり、その鮮やかさは紅霧に怯えていた人々の目を釘付けにした。
否、人間だけではない。
森の中にいる妖精や、山から下界を見下ろす妖怪。
それぞれが、その弾幕に酔いしれていた。
――あの綺麗な光はなんだ? 誰がやっている? 何をやっている?
そんな声が輪唱のように幻想郷を駆け巡った。
そして、やがて物覚えの良い妖怪が答えを見つける。
「そういえば、スペルカードルールとかいう“お触れ”があったじゃないか。あれじゃないか? 今やってるのって」
そして、妖怪たちは弾幕ごっこに興味を持つ。
向こう見ずな妖精、騒ぎを引き起こした吸血鬼、それらが弾幕ごっこで敗れた後。
それらを見ていた妖怪たちは、我も続けと自分たちの存在をスペルカードに映し始めた。
何よりも、まず楽しくなければ動かない者ばかりの幻想郷である。
故に妖怪たちは、なんだか楽しそうだという理由でスペルカードルールに従ってみる。
すると、巫女を始めとした人間たちに戦いを挑んでも、このスペルカードルールに則っていれば、今までのように賢者からウダウダと文句も言われないというではないか。
現に、あれだけ大騒ぎした吸血鬼も、巫女に弾幕ごっこで敗れた後には、特にお咎めがないらしい。
そこまで広まれば、後は簡単だった。
積年の鬱憤を晴らすように、祭り好きの妖怪やら何やらが好き勝手に異変を起こし始めた。
そこに何故か魔法使いやらメイドやらも顔を出してきて、幻想郷中がスペルカードルール一色になったである。
「……あー、面倒ねぇ」
この決まり事によって溜息をつくようになったのは、発案者である博麗の巫女だけであったのが、また皮肉なものである。
一キロ先で小さな針が落ちたとしても、その音が耳に入るであろう。
それが白玉楼辺りの静けさ具合を、ほんのり誇張した表現である。
なにしろ幽霊の揺れ動く音しか響かない冥界でも、このお屋敷の周囲は取り分け静寂なのである。
ただし今は、そこに姦しい声が響いていた。
「それでね、藍ったら、油揚げをこっそりと隠し持っていたのよ」
「ふふ、案外と可愛いところがあるのね、貴方の式は」
広い敷地の端に立ち、雲の絨毯を眺めている。――八雲紫である。
その傍らに佇む友人に対し、妖怪の賢者はまるで少女のような無邪気さで話をしていた。
「スペルカードルールも、あの紅霧異変を契機にあっという間に普及したわ。そういう意味では、異変を起こした、あの吸血鬼に感謝しなきゃね」
「あはは、あの吸血鬼嫌いの紫が、吸血鬼に感謝する日が来るなんてねぇ」
「あいつらは好き勝手にし過ぎるのよ……。あと支配欲が強いしねぇ……」
彼女たちから下に見える世界は、どこまでも白かった。
それは見えているのが雲の上だから、という訳ではない。なにせ雲の下まで、雪で真っ白なのだ。
その代わりというように、この庭園には薄らかな春の暖かさが集まりつつあった。
「ねぇ……」
紫は両手を身体の前で握ると、唇を少しだけ開いて、消え入るような声で言った。
ここが冥界でなければ、風の音にでも掻き消されそうな声だ。
「あいつは、どうなったの?」
問う声は弱々しく、返ってきた声は力強かった。
「別れちゃったわ。最後に、また会いに行くから、だって」
馬鹿馬鹿しい、という具合に彼女の唇が笑みを作った。
「そう、あいつらしいわね」
答えた紫は心の中で、閻魔の顔を思い浮かべ、それに頭を下げた。
まさか、という疑いの気持ちを持ちつつも、間際の逢瀬は、きっと彼女の計らいではないかと推測したのだ。
まだ浮かない顔の紫へと、友人は「大丈夫よ、安心して」と、その肩を抱いた。
「大丈夫、殺したって、死なないわよ。あいつは、きっと帰ってくる」
「きっと、そうね」
言いづらそうに、彼女は。
「ねぇ。どうだった? あの子は」
ふっ、と息を漏らし「人づてに聞いただけ」と前置きし。
「あの子は、完全なる巫女よ」
「そう、やっぱり」
彼女の顔が曇る。ただし、貴方は責めないわよ。――そう言いながら。
「違う、違う」
苦笑し、紫は続ける。
「あの子は今までの巫女とは、全く違う。あれこそが、本当は、あの子みたいに皆しなきゃならなかった」
「どういう、意味?」
「あの子は、孤独だった。みんなと同じく、孤独な記憶の中から歩き始めた。だけど、あの子を縛るものは何もなかった。受け継がれていく博麗の巫女という名前も、私による干渉も、両親の愛すらも。何もあの子にはなかった」
彼女の瞼が、静かに閉じられた。
まるで、涙を堪えるように。
「でも、違う。あの子は何にも縛られずに、そして巫女として生きていく事を選んでいる。彼女は口で言うでしょう。自分は巫女になるしかなかったって。でも、違う。巫女としての生き方は、誰に教えられた訳でもない。……今までなら、私が無理やりにでも教えていたものを、親が私から守ってくれたから」
「紫……。違う……貴方は、貴方のやってきた事は決して、だって私は……」
「ふふ、ありがとう。やっぱり、貴方は優しいわね。その本質も、やっぱり、あの子は受け継いでいる」
ふぅ、と大きく溜息をつくと、紫は懐から一枚の紙を取り出した。
それを見た瞬間に、隣からの抗議の声が飛んでくる。
華麗に無視しつつ、紫はそれを目の前に広げ、下界に呼びかけるように文面を読み上げる。
彼女の瞳は「招待状代わり、よ」と笑っていた。
◇ ◇ ◇
「『紫へ。貴方がこの手紙を読んでいる時、私は人間としての生を終えているでしょう』」
雲の中を突っ切って、博麗の巫女が天空を目指す。
お祭り騒ぎに便乗する、いつもの妖精たちは自慢の御札で次々に撃ち落としてやる。
もっと厚着してくれば良かった、と彼女が思うのも無理はない。
春が奪われた上に、ここは空なのだ。
寒くて当たり前である。
「『私が死んだ後、もしかしたら紫が霊夢を育ててくれるかもしれない。そういう前提で、今から私の思いを伝えるわ』」
目の前に春告精が現れた。どうやら春が近いと興奮しているらしい。
巫女は大きく舌打ちすると、乱痴気のように弾幕を撒き散らす妖精へ、一気に間合いを詰めにいった。
「『霊夢には、私のことを忘れて欲しいの。知らないでいて欲しい。博麗の巫女として産まれてきたという事を。知らないでいて欲しい』」
春が近いという事は、春を奪った犯人の居所はこちらで合っている。
その事を確認して不敵に笑うと、彼女は強烈な蹴りを春告精へと叩き込んだ。
白い妖精は、まだ「春だ、春だ」と騒ぎ立てながら力を失い落ちていく。――何がそんなに楽しいのかしら。と彼女は呆れ返った。
「『悪いんだけど、幻武も説得してくれるかしら。あれだけ騒いでおいて何だけど、霊夢には両親が必要ないって事が分かったのよ。いいえ、両親がいたら、彼女も抜け出せなくなる』」
視界が真っ白になる。
彼女の目の前には、太陽と雲海の織り成す白銀の世界が待っていた。
長い間、雪雲に覆い隠されて薄暗かった幻想郷から、一気に燦々たる白日の下に来たのだから、彼女が思わず目をつぶるのも無理はない。
彼女は薄く瞼を開き、更に天を仰ぐと、その目に目標を捉えた。
「『だから私は、私の存在を幻想郷から消し去ることにしたわ。そういう事が出来る手合いがいたから、無理をいって頼んできちゃった』」
大きな扉である。
現世と冥界を隔てるにしては、随分と物理的な障害だ、と巫女は嗤う。
そんな彼女のもとに、またもや障害が現れた。
今度は妖精たちのような雑多なものとは違う。
そして、なんとも珍しいことに3人組での登場だ。
巫女は改めて笑う。――楽しませてくれそうね、と。
「『でも安心して。私は後悔していない。ごめんね、我儘なやつで。私は私のやりたいようにやって、そして死ぬだけだから。後悔はないの。ただ、ほんの少しの人だけに憶えてもらってれば、それでいい』」
いつものように、相手と適当に口喧嘩をしてみる。
出会った時からお互いに弾幕を撃ちあう気が満々なのに、こうして会話をしなければ戦いにならないのが、彼女にとっては億劫に感じられる。
まずは3人の中から黒っぽいのが仕掛けてきた。
一斉に掛かってきても良いのに、と彼女は自信満々に構える。
「『三人だけ。後は霊夢が自由に生きてくれれば悔いはない。博麗の巫女がいたって事は分かっても、それが何という名前だったのかも、今の巫女と親子だったのかも。全ては歴史の中から消え去るの』」
やはり余裕だった。
冷や汗を垂らしながらも、彼女は胸を張るのを忘れない。
すると、遠巻きに観戦していた二人が戻ってきて、3人がかりでのスペルカードを宣言した。
彼女は強烈な攻撃を予想して固く目をつぶるも、前言撤回はしなかった。
やはり、余裕だった。と
「『だから、紫。貴方は私のことを憶えていてね。そして霊夢がしっかりと、自分の力で飛び立てるように、見守っていて欲しい』」
流石に、3人の弾幕は強烈である。
しかも姉妹だというから、連携も取れているのだろう、と巫女は推測した。
だが、そこで簡単に負けるのであれば、自分は博麗の巫女を名乗る資格がない、と自負心が燃え上がる。
妖怪を退治するのが自分の仕事であり、彼女の、博麗霊夢の生き方なのだ。
「『追伸、霊夢へ。貴方がこの手紙を読むことはないけど、念の為に私からの言葉を書いておくわ。一人でも寂しくない? 暇な時は境内の掃除をすると良いわよ。料理はちゃんと作れる? どっちも器用だから貴方も料理は上手いはずよ。しっかり修行している? 私より才能豊かとはいえ、日々の鍛錬は心も研ぎ澄まされるのよ。しっかりね。友達は出来たかしら? この際、妖怪でもいいわ。互いに切磋琢磨して、思い合える友達を作るようにね。あと結婚相手は』……あいたたたたた」
「もー!! 止めてよ!!」
紫が髪の毛を引っ張られるのと時を同じくして、騒霊の音楽家たちを打ち破り、博麗の巫女は冥界へと進入してきた。
◇ ◇ ◇
それを見ていた紫は、手紙をひらりと地面に落とす。
それは空中で発火すると、着地する前に灰となってしまう。
「あーあ、まさか、こんな手に出るとはねぇ」
紫の背後から、幽々子が話しかける。
その右手にみたらし団子を持ち、左手には玉露の湯のみがある。
「ちょ、食べながら歩くなんて、はしたないわよ。それでも白玉楼のお嬢様?」
「いいじゃない。ちょうど今は、口うるさい妖夢がいないし~」
もごもごと口を動かし、お茶で甘さを整えてから紫へと続ける。
それは、ほとんど愚痴のようだった。
「まさか、ルールそのものを作らせるとはねぇ。流石の私でも、そこまでのテコ入れはしないわよ?」
「……うるさいわねぇ。でも、どちらにせよ、今から決まるんじゃない? 直接対決するんだから」
紫の言葉に、幽々子は素っ気なく言う。
「ダメよ。妖夢が勝てるわけないじゃない」
「冷たいわねぇ。少しは信じてあげたらどうなの?」
「期待をしなければ、ガッカリもしないでしょ?」
会話を続ける二人の傍らで、彼女は一人、じっと下界へと目をやっていた。
その目線はもはや現世ではなく、この白玉楼へと続く、長い永い階段へと向けられている。
そこを昇ってくる一人の少女へと、その瞳は向けられている。
「……あー。やっぱりね」
肩越しにぬっと首を出して、幽々子が溜息をついた。
それを聞いて彼女は「この人、やっぱり少しは期待していたんだ」と感づく。
「まだ食べ終わってないのに、仕方が無いわね。私の出番が来ちゃったみたい」
「ええ、せいぜい、頑張ってらっしゃいな」
「ふぅ。負けると分かっていてやるのも、案外と面白いものねぇ」
「別にいいのよ。貴方が主役を食ったって」
紫の言葉には返事をせず、幽々子は清水の舞台から飛び降りるがごとく、白玉楼から飛び立っていった。
空の皿が庭園の白砂を叩き、彼女に「あの人、全部食べた!」と小さく叫ばせる。
それを見送った紫は「さて」と呟いて、空間にすきまを開いた。
ここに来たときもそうであったが、紫は帰るのも唐突なのだ。
「帰るの?」
「ええ、ちょっと藍を呼んでくる」
「そう。……じゃあ、私も或るべき所へ、帰るとするわ」
すきまへと身体を差し込んだ紫へ向けて、彼女が静かに告げた。
「ねぇ、紫。いつまで舞台裏にいるつもり?」
「さぁ、ねぇ。私は根っからの裏方ですから」
「でも、もう。貴方は舞台袖から、覗き込んでいる。あの華やかなる世界を」
「……分かってる。幽々子じゃないけど、近づいてるのよ。私の出番も」
すきまが閉じ、白玉楼の敷地には静寂が戻る。
「こんなにも。名残り惜しいとは……思わなかったわ」
長い黒髪は綺麗な弧を描いて、薄く消えていった身体は、誰にも見られる事がなかった。
◇ ◇ ◇
紫は慌てていた。
なにしろ、その焦り方は尋常ではない。
誰が想像できるだろうか? 彼女が洋服を前後逆に間違えて袖を通してしまう姿など。
姿見の前でそれに気づいた彼女は、この日の為に新調した“とっておき”の洋服を脱ぎ去ると、よくよく前後を確認してから再び袖を通し始めた。
10年である。
それは妖怪にとっては、本当にあっという間の時間であり、紫にとってもそれは例外ではなかった。
だが、彼女の長い生の中で、これほどまでに待ち遠しい10年ぽっちがあっただろうか。
人間にとっての10年とは、若者が成熟し、少年が大人になり、そして赤ん坊も少女になる時間である。
だから紫は、胸の高鳴りを抑えることが出来ないでいるのだ。
「紫様、橙が倒されたようですので、私が出てきます」
「え!? あ、もう? ……分かったわ。貴方の力で蹴散らしてやりなさい」
まったく、心にもないことを言った。
早く藍を倒して欲しいような、今日のところは撃退されて欲しいような。
そんな葛藤に身もだえしつつ、彼女はその長い髪に櫛を通した。
これまでは万が一を考え、すきまから覗き見ることさえしなかった。
だから彼女がどのように成長したのかは、藍からの報告で聞くのみであった。
それがこの間、冥界へと進入してきた様子を遠目から見て、彼女は決意したのだ。
いよいよ、自分も舞台へと上がる時であると。
『ゆ、紫様、駄目です。負けちゃいます』
式を通して、藍の悲鳴のような叫びが聞こえてきた。
それが、なんだか笑いを堪えているようにも聞こえたのは、ただ気のせいであろうか。
「あ、ちょ、まだスペルカードが用意できてないのよ。もう少し、持ちこたえなさい」
『そ、そんなこと言われてもですね。やっぱり博麗は強い……』
ノイズと共に、式の声が途絶えた。
どうやら彼女も敗れてしまったらしい。
紫はぐっと唇を噛むと、改めて姿見の前に立った。
そこに映った姿は、やはり美しい。
完全に客観視して、そう見える。
だが、今の姿は彼女が望んだ美しさではない。
ただ今宵は、それを少しだけ取り戻すことを、彼女も許されるはずであった。
「私はあの時から、ひとつも変わっていないのに。貴方はきっと……素敵になったのでしょうね」
意を決したように、観念したように、お気に入りの帽子を目深に被る。
紫は最後に、すっと柔らかな唇に紅をひいた。
「今の私と貴方は、赤の他人。幻想郷の管理者と博麗の巫女。妖怪と人間。生き物と、生き物」
今日で全ての契約は幕を閉じ、これからの霊夢は自分の人生を歩みはじめる。
過去の悲しみからは解き放たれて、今。妖怪の賢者は、一度は巣立った雛を、その掌の中へと迎えにいくのだ。
紫は右手で綺麗に空間を引き裂き、そこにすきまを作り出す。
そして胡散臭い笑みを浮かべると、軽やかなステップを刻む。
「おかえり、霊夢」
彼女の身体はいつものように、すきまへと入り込んでいった。
春雪異変が解決した後、博麗の巫女が再び冥界に赴いたことは、あまり知られていない。
それでも友人の魔法使いやら、一部の者は「八雲紫との戦い」を知っている。
だが、今から語るのは本当に誰も知らない、歴史の隙間に落ちた出来事である。
春を取り戻した彼女は、張り切って宴会を催す人妖たちに巻き込まれ、酒精にまみれていた。
そんな中で行くことになった冥界だったので、彼女は少々、具合の悪さを感じていた。――これが大きな原因の一つである。
それは冥界に行く為に雲の上を目指し、妖怪の山の脇を掠めていった時のこと。
「うえっぷ」
突如として彼女は、胃からこみ上げてくるものを感じた。
慌てて周りを見渡し、どこか着地できる場所がないかと探す。
さすがに、上空から無差別に吐瀉物を撒き散らすことは、道徳心やら羞恥心が許さなかった。
「あぅ、どこか休める場所……」
彼女の目は、横にそびえ立つ険しい山肌を舐めるように睨みつけた。
とてもではないが、人間が降り立てる場所はない。――ただ一箇所を除いて。
「ラッキー! 助かったわ!」
山肌の中に覗いた平地を見つけると、彼女は急降下して降り立った。
そして身体をくの字に折り曲げると、さっそく胃液を勢い良く撒き散らす。
「あー、まったく。これもレミリアの奴が飲ませるからよ……」
竹筒に入れてきた水で口をゆすぐと、彼女は大きく伸びをして、ふと周りの景色に目を向けた。
そこは不思議な場所であった。
妖怪の山の頂上付近、春の陽気も届かない冷涼な地に、花が咲き乱れていた。
霊夢の足元も豊かな緑に覆われ、周囲を取り囲む白い岩肌には、まるで似合わない場所である。
「へぇ~。こんな所があったんだ。……あれ?」
霊夢は自分が着地したあたり、ちょうど断崖絶壁になっているところに、あるものを見つけた。
近づいてみると、それは自分の膝ほどの高さの岩である。それが2つ、仲良く並んでいた。
自然にあるものとは思えない。誰かの手によって安置されたもののようである。
さらに、そこには萎れた花束が置かれていた。
流石にそれを見れば、二つの岩がどういった意図で置かれたものかは想像に難くない。
「もしかして、これ……」
「巫女さんかい」
突然の声に、霊夢は大きく身体を跳ね上げて振り返る。
思わずその手には御札を構えてしまった。
「おっとっと。こんな婆さんに向けて、勘弁しておくれよ」
「あ……? 人間?」
霊夢はさらに驚いて目を丸くした。
そこに立っていたのは、頭髪を真っ白にした老婆であった。
それが山姥などの妖怪であったなら、まだ納得がいく。しかし、目の前の老婆は確実に人間であったのだ。博麗の巫女が間違えるはずもない。
妖怪の山の、しかも山頂付近に人間の老婆がいることは、自分がその気配にまるで気づかなかったことよりも、さらに驚くべきことである。
「おばあさん、こんなところで何をしているの?」
慌てて御札をしまうと、思わず霊夢は老婆へと尋ねた。
すると、その枯れた手に握った花束を見せながら、老婆はにっこりと笑った。
「私は墓参りが趣味でねぇ」
老婆は曲がった腰を上下に揺らしながら、霊夢の脇を通り過ぎて墓石の前に立った。
「こうして、花を取り替えにきているのさ」
石の前に二種類の花が置かれた。
老婆はもとある萎れてしまった花を片付け、すっと手を合わせる。
霊夢も思わず、老婆の背後から真似をするように合掌した。
「墓参りってことは……。このお墓は、おばあさんの知り合いの墓なんですか?」
手を戻し、背を向けたままの老婆に問うた。
しわがれた声が返事をする。
「いいや、知らない人の墓さ。この墓は誰のものか分からない、忘れ去られた墓。だから、墓石に名前すら彫ってないだろう?」
「あら、本当」
確かにそれは墓石というよりは、ただ丸い岩を置いただけといった様子である。
無縁仏なのだろう、と霊夢は納得した。
老婆は振り返り、霊夢の脇を過ぎる。
そして、もと来た道へと歩みを進めた。
だが思い出したように立ち止まり、霊夢に向けて再び、震える声で語りかけてきた。
「そう、誰のものか分からないから、誰も墓参りにこないのさ。来るのは私みたいな奇特な奴だけでねぇ」
老婆はくるりと振り返り、霊夢の顔をじっと見つめた。
その、言い知れぬ迫力に霊夢はたじろいだ。
「だから巫女さん。たまにでいいから、この墓に手を合わせにきてやってくれないかい」
坊主であったら即答するのであろうが、霊夢は巫女である。
だが、彼女にも死者の鎮魂を祈る役割はあるのだ。
だから答えは決まっている。
「ええ、こんな辺鄙なところに仏さん二人っきりじゃ、寂しいでしょうしね。年に一回くらいは来てあげようかしら。……忘れなかったら」
「ああ、ぜひ、そうしてくれ」
突如、草原に山風が吹いた。
巻き上がる草葉に思わず目を瞑った霊夢は、次の瞬間には老婆の姿を見失っていた。
やはり只者ではなかったようだ、と驚愕しながらも、彼女は本来の目的を思い出す。
「さて、吐き気も収まったし、妖怪退治といきますか」
霊夢は駆け足で断崖絶壁へと向かうと、そこから飛び立とうと踏切り、そして脇にある二つの墓石へと目をやった。
「それじゃ、またね。どこかの誰かさん」
上昇気流に吹き上げられたように、彼女の身体は雲の上へと押し上げられていく。
彼女は笑顔だった。
これから、冥界で暴れている奴を退治しにいくのである。
一体どんな相手で、どんなスペルを用いてくるのか。今から楽しみで笑みが溢れるのだ。
そして、その姿を墓石の横で見つめる老婆の顔も、静かに笑っていた。
血色の良い唇は、滑らかに動いて言葉を紬ぐ。
「飛んでいきな、霊夢。お前はみんなに愛されている。みんな昔っからお前のことを、知っているんだからさ。――だから自由に、高く、高く、飛んでけ、霊夢!」
老婆は腰をぴんと伸ばすと、軽やかに山を下っていった。
ふと空を見上げれば、粒のように小さく見える人影が、雲の中に消えていくところである。
「飛んでけ、飛んでけ」
そして今日も、幻想郷には巫女が舞う。
<了>
博麗霊夢と言うキャラクターを過去の過去から書き綴った大作でした。
特に霊夢の両親たち――幽夢や幻武のお話からここまで創り上げた力量は賞賛の言葉しか出てきません。
容量にしてみればとても長く感じるのですが、氏の文体はあまり重くない(飾らない)文章であるので、するすると読めました。ただ、それだけに飾らなさすぎるという点で演出面に対して少しもったいなさを感じることもありました。(私的な意見ですが、長さが気にならないほど面白い物語でした。)
話は変わりますが、氏に対してもっとも驚かされるのは「筆の速さ」です。
かなり速いペースで大きな物語を生み出し続ける力量は、私など及ばぬところでとても尊敬しています。
まだ書き始めて一年も経っていない氏は、おそらくこれから小説についての様々な理論や知識を身につけていかれるだろうと思います。
だから氏が近い未来に力を上げたら、「もっとすごい作品が読めるのかなー」なんて、勝手に期待していますw
その時にまた、成長した氏の作品が読めることを願い、筆を置かせて頂きます。
ああ、お恥ずかしい文章で大変失礼致しました。
ここまで長いコメントを残すのは初めてのことですが、書かずにはいられなくなってしまうほどこの作品からは感銘を受けました。累計で何回くらい泣いたっけな……間違いなく3~4回は泣かされてます。毎日毎日続きが来るのを楽しみに創想話に訪れていたほどです。それくらい大好きな物語でした。
この作品が読めてとても幸せでした。本当にありがとうございました。
なるほどいいスキマ補完でした。
緊迫感がある1章と2章までは面白く読めたのですが。
だけど『不干渉浮遊』の完結として見るならば……。
出生が特別、生い立ちが特別、生みの親も育ての親も特別。
何もかもが規格外の〝運命の子〟と、この作品の霊夢がどうしても等式で結ばれない。
幽夢さんは満足かもしれんが正直俺は肩透かし。ゴメンね。
〝なんか凄ぇ結末〟を勝手に期待していた勝手な読者の無責任なタワゴトでした。
何となくそれぞれの話がブツ切りになっている様に感じてしまいました。
幻想郷の担い手としての霊夢に落ち着くと言う前提条件が、折角丁寧に織り込まれた物語の醍醐味を少しだけ損なわせてしまっているような気がします
東方の世界観としては最高に忠実で原作のリスペクトを忘れない素敵な作品ですし、最初の1~2で引き込まれた一読者として我侭を言わせて貰うならば
各々が運命に抗うようなむき出しの感情を前面に押し出して、yuntaさんのオリジナリティを混ぜ込んでも良かったのではないかと思います
とにもかくにも大作お疲れ様でした。この作品の紫は自分の想像する紫そのままで、あまりに魅力的過ぎて恋に落ちそうでした
不干渉浮遊と言うタイトルに相応しい物語であり、素晴らしい作品を本当にありがとうございました!