頭を踏まれて目が覚めた。最悪の目ざめである。
脳内はまだ夢うつつ。現在おかれている状況の違和感を気にとめることもできない。とりあえず目を開けると、自分のそばに誰かがいることだけがわかった。
未だに意識のはっきりしない私の頭をていやっ、と最後に一回軽く蹴とばしてから迷惑すぎる目覚まし時計はにっこりとまるで狼みたいに笑った。
「おはようございます。文様」
「おはよーございます……椛」
踏まれた頭は痛まないが、仮にも部下である椛に踏まれたせいで心が痛い。なんなのこいつ。腹が立つような気もするがそれ以上に眠い。
でもにこにこと笑う椛の笑顔が怖いからしぶしぶと私は身を起こした。
部屋に差し込む陽光は障子越しにも眩しくなぜ椛がこんな風に私をたたき起したのか、私は薄々理解していた。
「今、何時?」
ぐしぐし、と寝癖頭を手でどうにかまとめようとしながら聞くと、椛は待ってましたとばかりに本当に幸せそうな、そして意地悪な顔をして答えた。
「つい先ほど正午になりまして」
正午。正午だって?
確かに私は休日は夕方まで寝ていることがある。取材がある日に寝坊しちゃってはたてにからわれたことだってある。
いや、でも、普通の休日に正午って、そんなの未知の体験だ。どうしよう、午後からでも普通に業務再開を。その前に同僚とかに謝った方がいいかな。ああ、そういや取材のアポ入れてたし。ああどうしようどうしよう。
テンパっている私を見て椛はくすくすと笑いながら(ひどい。なんというさでずむ)「大丈夫ですよ」と言った。
「事前に私が皆様に説明させていただいておりますので。文様はお疲れのようだと言えば皆さま納得して下さいましたよ?」
「そんなことしてる暇があるなら起こしてくれたらいいじゃない!!」
「混乱してる文様が見たかったのです」
なんなのこいつ。なんなのこいつ!
確かに寝坊したのは私だ。私の代わりに方々に謝罪を入れてくれたと言えば聞こえがいい。だが椛のこの笑顔を見たらそんなことは思えない。本当に私を困らせたかっただけ、そして困っている私を見てさいっこうに幸せだという顔だ。
初めて会ったときはこんな娘ではなかった。生真面目で、私がちょっとからかっただけで全力で怒るような子だった。あの時はかわいかった。「もう、文様!」とかちょっと涙目で怒鳴る姿などもうたまらなかった。
それがどうしてこうなったと言うのか。
あまりからかいすぎた私が悪いというのか。それゆえひねくれてしまったというのか。
ううむと私が考えていると、急にぽん、と椛が手を打った。
「ああ、そんなことよりご飯、作ってあるから食べましょう」
「なに? 椛が作ったの? なんで、暇なの? 毒が入ってるの?」
想定外の言葉に思っていることが全部口から出てしまった。
けれどそんな私の言葉にも顔色一つ変えずに、むしろこちらがどきりとしてしまうような、それこそ昔を思い出しそうなくらいのまじめな顔で、
「だって文様、お疲れなのでしょう。私、今日お休みをとりましたので、文様とずっと一緒にいますよ」
答えた。
こうも真剣に答えられるとこちらとてからかえない。有り体に行ってしまえば今この瞬間は椛の『隙』である。
なにあんたなんだかんだいって私のこと好きなのー、とか、別に疲れてないよ早とちりぷぎゃー、とか、ごめん私お昼外で食べる約束がー、とか、とか。
なんだかんだ適当に反論すればよかったものを。あるいはそもそも、椛がくすくすと笑っていれば。
「……じゃ、朝ご飯食べましょか」
「私にとってはお昼ごはんですけどね」
かろうじてつぶやいた言葉に答えたとき、既にもう椛は笑顔になっていて、だからこそさっきの真剣な表情が脳裏から離れなくなって。
やられっぱなしなんて私らしくもないと思ったけれど、なぜだかあまり嫌な気はしなかった。
* * * *
さて、久しぶりの休日である。
椛の作った質素な感じの昼食を普通においしく頂いた後、私は本当にすることがなくて困り果ててしまった。
普通の休暇であるならば、同僚と宴会をしたりするのだが、あいにく同僚は今、がんばって仕事してるまっ最中だろう。それを思うと罪悪感もあり、なかなか楽しい休暇というものなどおくれそうもなかった。
じゃあ私にいきなり休日をプレゼントしてきた(そしてちゃっかり自分もお休みをもらってきた)椛はと言えば、なにやら読書に夢中になっている。朝から散々無礼を働いてきたくせに、こういうときだけ礼儀正しく正座して読んでいるあたり、椛らしかった。
「ねぇ椛」
「なんですか文様」
「暇」
「本でも読んだらいかがです」
「家にある本読み飽きたー」
「じゃあ知りません」
顔も上げずに早口で答えているあたり、こちらにはてんで興味はないらしかった。本当になにしに来たんだこいつ。
そんなに読書が楽しいか。私より本の方が好きなのか。いや、そうなんだろうけど。ぱた、ぱた、とお前が尻尾を振るたびに毛が散っているのに気付いているか。誰が掃除すると思ってる――いや多分椛なら自分で掃除して帰るけど。
……それにしてももさもさした尻尾である。それが右へ左へと揺れるものだから、こうなるとどうにも好奇心というものがうずいてしまう。
そこで、私はごろんとはしたなく床に寝転がり、椛のしっぽと戯れることにした。
わさわさとなでてみたり、ときにぎゅっと掴んでみたり。尻尾の着地地点に手を置いて自動わさわさ装置とか思ってみたり。椛本人と違ってなかなかおもしろい尻尾である。それに触ったりつかんだりすれば、こわばったり、跳ねたりきちんと反応が返ってくるのだ。
尻尾の持ち主とは言えばなんとも味気ない。耳が赤く染まっているとか、目が泳いでいるとか、そういうことなど一切なく本当に読書に没頭しているらしい。
本当は基本的に椛は他人が己の体に触れることをよしとしない。
相手が同性の場合であろうと真っ赤になってしまうし、ましてや異性だったりすれば恥ずかしさのあまり刀を抜いてしまうことだってある。
けれど私の場合は別だ。
と、いってもそれは私と椛がラブラブだからとかそういうわけではなく、いやがる椛がおもしろくてべたべたしまくっているせいで椛の方も拒否するのがめんどくさくなったらしい。
日に日に対応が雑かつ冷酷になっていくのが目に見えて、おもしろいと言えばおもしろかったけれど。(「文様っ! やめてください!」→「止めていただきたいのですが」→「…………(呆れたような視線)」)
私が悪いと言えばそうかもしれないけれど、根負けしたのは椛なのだから文句を言われる筋合いはあるまい。
うへへ、となんだか楽しい気持ちになってきて尻尾をゆらゆら追いかけまわしていると、ふらふら動いていた尻尾がいきなりまっすぐ私の顔面めがけて振り下ろされた。
「ふみゃ!?」
目やら鼻やらに毛が入り込んでひとり大慌ての様相である。
あわてて距離をとってこんこんくしゅんと忙しくしつつも椛の方を見ると、ぷるぷるとその肩がふるえていた。ついでに耳も震えていた。どう見てもこちらを笑っていた。
「文……様っ……ふっ……大丈夫……ですかっ……?」
「てめーふざけんなよ!」
うっかり全力で怒鳴ってしまった。だが涙目なのでいまいちしまらない。椛もついには声をあげて笑い出してしまった。
いけないいけない。ここらで落ち着いて余裕のある対応を見せなくては。
「ごほん……なぜ椛はこんなことをしたんですか?」
「ふみゃって……文様かわいー……ふふっ……」
「きけよっ!」
っと……少し興奮してしまった。
「落ち着いて笑うのをやめなさい。やめなさいったら」
「くっ……ふふっ……ごめんなさい……あんな華麗に決まるとは思わず……」
「なんで振りおろしたのよ。私の顔面に当たるかもって思わなかったわけじゃないでしょ?」
「文様を混乱させたくって……」
「それ椛の趣味なの?」
思えば今日は朝から椛に混乱させられっぱなしだ。そんなに上司イジメが快感なのか。もしそうだというなら、私はちょっと椛の将来を心配するのだが。
ああ昔は超かわいかったのに。イジメたくなるくらいいじらしかったなあ……そういえばあの頃は(以下略
「椛、他の上司にもこんなことしてるの?」
「してませんよ、当たり前じゃないですか。私は上司はもちろん同僚にも敬意を払ってるんですから」
じゃあ、私は。
と聞くのはどう考えても無駄だった。きっと素敵な笑顔で「文様は特別ですから」とかなんとか答えてくれやがるんだろう。
もしも過去の自分になにか一つだけ伝えられるなら私はこう伝える。
犬走椛をいじめすぎるなと。
* * * *
気付くと夕食の時間になっていた。
いや、目覚めると、というべきか。尻尾事件(と名付けたところでそれが記事になるはずもないけれど)のあと私はふて寝していたのだ。
とんとんとん、というリズミカルな音が台所から聞こえてくる。きっと椛が夕食の支度をしているのだろう。何故、と思わなくもない。散々私をイジメておいてこんな風に世話を焼くなど意味がわからない。見れば、部屋の中も少し片付いている。
椛にきけば対価だとこたえるだろう。真面目だから、いじめっぱなしというのが自分でも納得できないに違いない。それがなんだか悔しかった。目の前においしい料理をだされたりしたら怒るに怒れないではないか。
犬のくせに本当に不可解な娘である。
はあ、と私がため息をついていたりすると急に台所から「きゃんっ」と犬の鳴き声みたいな悲鳴が聞こえてきた。ひょい、とのぞくと指をくわえてきょろきょろする椛と目があった。
「きゃんっだってー椛かわいー」
さっきされたようにからかうとむっとした表情で睨まれた。
「あやひゃま、ばんひょーこー」
「えー? なに言ってるか全然わかんないー」
「あーやーひゃーまー」
椛が口から指を抜くと、血液がつー、手の甲まで滑った。結構深く切っているらしい。私はからかうのを切り上げ、絆創膏を探すことにした。適当に棚をあさると案外あっさり出てきたそれを、椛に押しつける。
「はい、あげるからあんたは休んでなさい」
ぐいぐい、と椛の背を押して台所から押し出そうとすると、椛はじたばたと暴れた。そのたびに血液が飛び散るのではないかと私はひやひやしてしまう。
「これまいたら続きやりますから―」
「だーめー。台所血まみれにするつもりですか?」
「もーうー切ーりーまーせーんー」
「信用できないなー。ぶきっちょさんは引っ込んでてください」
にやにやと笑いながらんべ、と舌を出すと、椛は「むう……」とうなった。だが切ってしまったのは事実なので、あまり強く言いかえすことはできないらしい。不機嫌そうに頬をふくらましているが、無視無視。
台所に入ると、まな板の上でネギを切っている最中だった。あたりには切られた白菜や豆腐やキノコやお肉があり、ああ、鍋を作ろうとしていたんだな、となんとなく察しがついた。
鍋くらい別に自分で作るのに。本当に真面目なんだから。
だしをとって、残りの野菜を切って。「椛、薄味好きだったわよねー?」呼びかけると小さく「はい」という返事が返ってきた。それを聞いてちょっとだしを薄めにする。
出来上がった鍋は、可もなく不可もなくといった感じだった。まあ、鍋だし。とりたてておいしいとかまずいとか、あんまないよね。
ぐつぐつと煮立ったままの鍋を居間の机へ持っていくと、椛は顎を机に乗せて待っていた。むぅ、と唇を尖らせて、未だに不機嫌そうだ。
けれど鍋の香りをかぐと、やはりお腹がすいていたのだろう、ずいぶんとその表情は和らいだ。
「はいはい、鍋ですよー」
「見ればわかりますって。ちゃんと薄味にしてくれましたか?」
「してあげたから感謝しなさ―い」
「あざーっすー」
未だにうだうだしている椛に鍋をよそってやると、椛は私が切った人参を箸でつまんで笑った。椛の形にしようと思ったのだが、少ぉしぐちゃぐちゃになってしまったやつだ。
「文様の方が、ぶきっちょ」
「指切った人に言われたくありませんー」
一度そうやって軽口をたたき合うと、そこからは鍋のおいしさと、いつの間にやら出ていたお酒のおかげで話は止まることはなく。
共通の上司の愚痴とか、河童の発明についてとか、美味しいお店のお話とか、もう本当にくだらないことをたくさんべらべらとしゃべった。
そのうちに鍋の中身は空になり、お酒もあらかた空いて、ふうと二人で息をついてそこでやっとこさ沈黙が訪れた。
けれどいやな沈黙ではない。
「ねぇ、文様」
ぽつり、と沈黙に向けて椛がつぶやいた。
「私たちって、どういうい関係なんですかね」
「そりゃあ、」
答えようとして、止まってしまった。純粋に答えがわからなかった。
「上司……と……部下?」
「上司はもっと部下のことをいたわったりするんじゃないですか?」
「確かに部下は上司のことを足蹴にしたりしませんね」
「じゃあ友人なんですかねー」
「いっそのこと恋人とか」
「ありえませんね。私文様のこと実は文様(笑)って思ってるんですよ」
「私も椛のこと結構なんなのこいつって思ってる」
「あはははは、どうやらお互いさまのようで」
「そうですね、お互い様お互い様」
「一緒のこと、思いあってるんですよ」
「不愉快だけどね」
「椛なんて」「文様なんて」
「「嫌い!!!」」
「だわ」「です」
あまりにもきれいにハモってしまったから、私と椛はおかしくなってげらげらと笑ってしまった。机をばんばんとたたいて、もう本当に仲のいい友人みたいに笑いあったのだ。
「ああ、おかしい、もう私帰る気も失せました、泊めてください」
「いいけど、布団ないよ?」
「文様から奪い取りますんで」
「冗談冗談。あるからその狩人の目を止めてください」
「あっても奪いとります」
「なにそれひどい」
休日を一緒に過ごして、料理を作ってあげて、作ってもらって、一緒に遊んで、一緒にご飯を食べて、一緒に笑いあって、その癖悪口言いあって、からかいあって、いじめあって。
結局のところ、私と椛の関係を今の私は言葉にすることはできない。
ただ確実に言えることがある。
「椛、私、いますごく幸せなの」
「ええ……私もですよ、文様」
脳内はまだ夢うつつ。現在おかれている状況の違和感を気にとめることもできない。とりあえず目を開けると、自分のそばに誰かがいることだけがわかった。
未だに意識のはっきりしない私の頭をていやっ、と最後に一回軽く蹴とばしてから迷惑すぎる目覚まし時計はにっこりとまるで狼みたいに笑った。
「おはようございます。文様」
「おはよーございます……椛」
踏まれた頭は痛まないが、仮にも部下である椛に踏まれたせいで心が痛い。なんなのこいつ。腹が立つような気もするがそれ以上に眠い。
でもにこにこと笑う椛の笑顔が怖いからしぶしぶと私は身を起こした。
部屋に差し込む陽光は障子越しにも眩しくなぜ椛がこんな風に私をたたき起したのか、私は薄々理解していた。
「今、何時?」
ぐしぐし、と寝癖頭を手でどうにかまとめようとしながら聞くと、椛は待ってましたとばかりに本当に幸せそうな、そして意地悪な顔をして答えた。
「つい先ほど正午になりまして」
正午。正午だって?
確かに私は休日は夕方まで寝ていることがある。取材がある日に寝坊しちゃってはたてにからわれたことだってある。
いや、でも、普通の休日に正午って、そんなの未知の体験だ。どうしよう、午後からでも普通に業務再開を。その前に同僚とかに謝った方がいいかな。ああ、そういや取材のアポ入れてたし。ああどうしようどうしよう。
テンパっている私を見て椛はくすくすと笑いながら(ひどい。なんというさでずむ)「大丈夫ですよ」と言った。
「事前に私が皆様に説明させていただいておりますので。文様はお疲れのようだと言えば皆さま納得して下さいましたよ?」
「そんなことしてる暇があるなら起こしてくれたらいいじゃない!!」
「混乱してる文様が見たかったのです」
なんなのこいつ。なんなのこいつ!
確かに寝坊したのは私だ。私の代わりに方々に謝罪を入れてくれたと言えば聞こえがいい。だが椛のこの笑顔を見たらそんなことは思えない。本当に私を困らせたかっただけ、そして困っている私を見てさいっこうに幸せだという顔だ。
初めて会ったときはこんな娘ではなかった。生真面目で、私がちょっとからかっただけで全力で怒るような子だった。あの時はかわいかった。「もう、文様!」とかちょっと涙目で怒鳴る姿などもうたまらなかった。
それがどうしてこうなったと言うのか。
あまりからかいすぎた私が悪いというのか。それゆえひねくれてしまったというのか。
ううむと私が考えていると、急にぽん、と椛が手を打った。
「ああ、そんなことよりご飯、作ってあるから食べましょう」
「なに? 椛が作ったの? なんで、暇なの? 毒が入ってるの?」
想定外の言葉に思っていることが全部口から出てしまった。
けれどそんな私の言葉にも顔色一つ変えずに、むしろこちらがどきりとしてしまうような、それこそ昔を思い出しそうなくらいのまじめな顔で、
「だって文様、お疲れなのでしょう。私、今日お休みをとりましたので、文様とずっと一緒にいますよ」
答えた。
こうも真剣に答えられるとこちらとてからかえない。有り体に行ってしまえば今この瞬間は椛の『隙』である。
なにあんたなんだかんだいって私のこと好きなのー、とか、別に疲れてないよ早とちりぷぎゃー、とか、ごめん私お昼外で食べる約束がー、とか、とか。
なんだかんだ適当に反論すればよかったものを。あるいはそもそも、椛がくすくすと笑っていれば。
「……じゃ、朝ご飯食べましょか」
「私にとってはお昼ごはんですけどね」
かろうじてつぶやいた言葉に答えたとき、既にもう椛は笑顔になっていて、だからこそさっきの真剣な表情が脳裏から離れなくなって。
やられっぱなしなんて私らしくもないと思ったけれど、なぜだかあまり嫌な気はしなかった。
* * * *
さて、久しぶりの休日である。
椛の作った質素な感じの昼食を普通においしく頂いた後、私は本当にすることがなくて困り果ててしまった。
普通の休暇であるならば、同僚と宴会をしたりするのだが、あいにく同僚は今、がんばって仕事してるまっ最中だろう。それを思うと罪悪感もあり、なかなか楽しい休暇というものなどおくれそうもなかった。
じゃあ私にいきなり休日をプレゼントしてきた(そしてちゃっかり自分もお休みをもらってきた)椛はと言えば、なにやら読書に夢中になっている。朝から散々無礼を働いてきたくせに、こういうときだけ礼儀正しく正座して読んでいるあたり、椛らしかった。
「ねぇ椛」
「なんですか文様」
「暇」
「本でも読んだらいかがです」
「家にある本読み飽きたー」
「じゃあ知りません」
顔も上げずに早口で答えているあたり、こちらにはてんで興味はないらしかった。本当になにしに来たんだこいつ。
そんなに読書が楽しいか。私より本の方が好きなのか。いや、そうなんだろうけど。ぱた、ぱた、とお前が尻尾を振るたびに毛が散っているのに気付いているか。誰が掃除すると思ってる――いや多分椛なら自分で掃除して帰るけど。
……それにしてももさもさした尻尾である。それが右へ左へと揺れるものだから、こうなるとどうにも好奇心というものがうずいてしまう。
そこで、私はごろんとはしたなく床に寝転がり、椛のしっぽと戯れることにした。
わさわさとなでてみたり、ときにぎゅっと掴んでみたり。尻尾の着地地点に手を置いて自動わさわさ装置とか思ってみたり。椛本人と違ってなかなかおもしろい尻尾である。それに触ったりつかんだりすれば、こわばったり、跳ねたりきちんと反応が返ってくるのだ。
尻尾の持ち主とは言えばなんとも味気ない。耳が赤く染まっているとか、目が泳いでいるとか、そういうことなど一切なく本当に読書に没頭しているらしい。
本当は基本的に椛は他人が己の体に触れることをよしとしない。
相手が同性の場合であろうと真っ赤になってしまうし、ましてや異性だったりすれば恥ずかしさのあまり刀を抜いてしまうことだってある。
けれど私の場合は別だ。
と、いってもそれは私と椛がラブラブだからとかそういうわけではなく、いやがる椛がおもしろくてべたべたしまくっているせいで椛の方も拒否するのがめんどくさくなったらしい。
日に日に対応が雑かつ冷酷になっていくのが目に見えて、おもしろいと言えばおもしろかったけれど。(「文様っ! やめてください!」→「止めていただきたいのですが」→「…………(呆れたような視線)」)
私が悪いと言えばそうかもしれないけれど、根負けしたのは椛なのだから文句を言われる筋合いはあるまい。
うへへ、となんだか楽しい気持ちになってきて尻尾をゆらゆら追いかけまわしていると、ふらふら動いていた尻尾がいきなりまっすぐ私の顔面めがけて振り下ろされた。
「ふみゃ!?」
目やら鼻やらに毛が入り込んでひとり大慌ての様相である。
あわてて距離をとってこんこんくしゅんと忙しくしつつも椛の方を見ると、ぷるぷるとその肩がふるえていた。ついでに耳も震えていた。どう見てもこちらを笑っていた。
「文……様っ……ふっ……大丈夫……ですかっ……?」
「てめーふざけんなよ!」
うっかり全力で怒鳴ってしまった。だが涙目なのでいまいちしまらない。椛もついには声をあげて笑い出してしまった。
いけないいけない。ここらで落ち着いて余裕のある対応を見せなくては。
「ごほん……なぜ椛はこんなことをしたんですか?」
「ふみゃって……文様かわいー……ふふっ……」
「きけよっ!」
っと……少し興奮してしまった。
「落ち着いて笑うのをやめなさい。やめなさいったら」
「くっ……ふふっ……ごめんなさい……あんな華麗に決まるとは思わず……」
「なんで振りおろしたのよ。私の顔面に当たるかもって思わなかったわけじゃないでしょ?」
「文様を混乱させたくって……」
「それ椛の趣味なの?」
思えば今日は朝から椛に混乱させられっぱなしだ。そんなに上司イジメが快感なのか。もしそうだというなら、私はちょっと椛の将来を心配するのだが。
ああ昔は超かわいかったのに。イジメたくなるくらいいじらしかったなあ……そういえばあの頃は(以下略
「椛、他の上司にもこんなことしてるの?」
「してませんよ、当たり前じゃないですか。私は上司はもちろん同僚にも敬意を払ってるんですから」
じゃあ、私は。
と聞くのはどう考えても無駄だった。きっと素敵な笑顔で「文様は特別ですから」とかなんとか答えてくれやがるんだろう。
もしも過去の自分になにか一つだけ伝えられるなら私はこう伝える。
犬走椛をいじめすぎるなと。
* * * *
気付くと夕食の時間になっていた。
いや、目覚めると、というべきか。尻尾事件(と名付けたところでそれが記事になるはずもないけれど)のあと私はふて寝していたのだ。
とんとんとん、というリズミカルな音が台所から聞こえてくる。きっと椛が夕食の支度をしているのだろう。何故、と思わなくもない。散々私をイジメておいてこんな風に世話を焼くなど意味がわからない。見れば、部屋の中も少し片付いている。
椛にきけば対価だとこたえるだろう。真面目だから、いじめっぱなしというのが自分でも納得できないに違いない。それがなんだか悔しかった。目の前においしい料理をだされたりしたら怒るに怒れないではないか。
犬のくせに本当に不可解な娘である。
はあ、と私がため息をついていたりすると急に台所から「きゃんっ」と犬の鳴き声みたいな悲鳴が聞こえてきた。ひょい、とのぞくと指をくわえてきょろきょろする椛と目があった。
「きゃんっだってー椛かわいー」
さっきされたようにからかうとむっとした表情で睨まれた。
「あやひゃま、ばんひょーこー」
「えー? なに言ってるか全然わかんないー」
「あーやーひゃーまー」
椛が口から指を抜くと、血液がつー、手の甲まで滑った。結構深く切っているらしい。私はからかうのを切り上げ、絆創膏を探すことにした。適当に棚をあさると案外あっさり出てきたそれを、椛に押しつける。
「はい、あげるからあんたは休んでなさい」
ぐいぐい、と椛の背を押して台所から押し出そうとすると、椛はじたばたと暴れた。そのたびに血液が飛び散るのではないかと私はひやひやしてしまう。
「これまいたら続きやりますから―」
「だーめー。台所血まみれにするつもりですか?」
「もーうー切ーりーまーせーんー」
「信用できないなー。ぶきっちょさんは引っ込んでてください」
にやにやと笑いながらんべ、と舌を出すと、椛は「むう……」とうなった。だが切ってしまったのは事実なので、あまり強く言いかえすことはできないらしい。不機嫌そうに頬をふくらましているが、無視無視。
台所に入ると、まな板の上でネギを切っている最中だった。あたりには切られた白菜や豆腐やキノコやお肉があり、ああ、鍋を作ろうとしていたんだな、となんとなく察しがついた。
鍋くらい別に自分で作るのに。本当に真面目なんだから。
だしをとって、残りの野菜を切って。「椛、薄味好きだったわよねー?」呼びかけると小さく「はい」という返事が返ってきた。それを聞いてちょっとだしを薄めにする。
出来上がった鍋は、可もなく不可もなくといった感じだった。まあ、鍋だし。とりたてておいしいとかまずいとか、あんまないよね。
ぐつぐつと煮立ったままの鍋を居間の机へ持っていくと、椛は顎を机に乗せて待っていた。むぅ、と唇を尖らせて、未だに不機嫌そうだ。
けれど鍋の香りをかぐと、やはりお腹がすいていたのだろう、ずいぶんとその表情は和らいだ。
「はいはい、鍋ですよー」
「見ればわかりますって。ちゃんと薄味にしてくれましたか?」
「してあげたから感謝しなさ―い」
「あざーっすー」
未だにうだうだしている椛に鍋をよそってやると、椛は私が切った人参を箸でつまんで笑った。椛の形にしようと思ったのだが、少ぉしぐちゃぐちゃになってしまったやつだ。
「文様の方が、ぶきっちょ」
「指切った人に言われたくありませんー」
一度そうやって軽口をたたき合うと、そこからは鍋のおいしさと、いつの間にやら出ていたお酒のおかげで話は止まることはなく。
共通の上司の愚痴とか、河童の発明についてとか、美味しいお店のお話とか、もう本当にくだらないことをたくさんべらべらとしゃべった。
そのうちに鍋の中身は空になり、お酒もあらかた空いて、ふうと二人で息をついてそこでやっとこさ沈黙が訪れた。
けれどいやな沈黙ではない。
「ねぇ、文様」
ぽつり、と沈黙に向けて椛がつぶやいた。
「私たちって、どういうい関係なんですかね」
「そりゃあ、」
答えようとして、止まってしまった。純粋に答えがわからなかった。
「上司……と……部下?」
「上司はもっと部下のことをいたわったりするんじゃないですか?」
「確かに部下は上司のことを足蹴にしたりしませんね」
「じゃあ友人なんですかねー」
「いっそのこと恋人とか」
「ありえませんね。私文様のこと実は文様(笑)って思ってるんですよ」
「私も椛のこと結構なんなのこいつって思ってる」
「あはははは、どうやらお互いさまのようで」
「そうですね、お互い様お互い様」
「一緒のこと、思いあってるんですよ」
「不愉快だけどね」
「椛なんて」「文様なんて」
「「嫌い!!!」」
「だわ」「です」
あまりにもきれいにハモってしまったから、私と椛はおかしくなってげらげらと笑ってしまった。机をばんばんとたたいて、もう本当に仲のいい友人みたいに笑いあったのだ。
「ああ、おかしい、もう私帰る気も失せました、泊めてください」
「いいけど、布団ないよ?」
「文様から奪い取りますんで」
「冗談冗談。あるからその狩人の目を止めてください」
「あっても奪いとります」
「なにそれひどい」
休日を一緒に過ごして、料理を作ってあげて、作ってもらって、一緒に遊んで、一緒にご飯を食べて、一緒に笑いあって、その癖悪口言いあって、からかいあって、いじめあって。
結局のところ、私と椛の関係を今の私は言葉にすることはできない。
ただ確実に言えることがある。
「椛、私、いますごく幸せなの」
「ええ……私もですよ、文様」
最高のあやもみをありがとうございました
読んでるほうも幸せになる