Coolier - 新生・東方創想話

あの子の正体

2010/12/28 20:17:47
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 ゆったりとしたソファに腰掛けて本を読む私に向かって、誰かが歩いてくる気配がした。同じ研究室の、Sという男だった。脂肪で覆われた胴を揺らし、丸い赤ら顔に沈み込む皺の様な目で私の様子を窺いながら、ゆっくりと近付いて来る。男は、低い机を挟んだ向こう側のソファに腰掛け、悪戯っぽく微笑んだ。

「よお宇佐見。何読んでるんだ?また根も葉もないオカルト系の本か?」

 Sの声には、明らかな挑発の意が込められていた。彼は、私が(彼からすれば)得体の知れないサークルに所属していることを知っている。  

「あんたには関係ないでしょ。集中できないからあっち行ってよ」

 と私は、熱いコーヒーを口に運びながら言い捨てた。嫌な男だ。私はこの男に対して、嫌悪以外の感情を抱いた事が無い。しかもその嫌悪は、私の趣味嗜好に対する不理解から来るものではなく、むしろ生理的な不愉快といっていい。

「まあそう言うなって。折角面白い話をしてやろうと思ったのに。確かお前のやってるサークルの片割れって、金髪にふわっとした帽子被ってる外国人だよな?昨日会ったぜ。しかもどこで会ったと思う?バーだよ。バーで、向こうから話しかけられたんだよ」

 とSは得意げに言った。私は思わずページを捲る手を止め、驚きと共に彼を見つめた。金髪にふわっとした帽子……確かにメリーだ。しかし、メリーが?この男に?バーで?話しかけた?

「……何て話しかけられたのよ」

 心なしか、少し声が震えた。

「まあそう焦るなよ。一部始終少しずつ話してやるからさ。そうだな、確か俺がカウンターに座った途端、いきなり隣にそいつが来たんだよ。何を頼むでもなく、『何も飲まないのか?』って訊いても、酒は飲めないとか言って。何でも『今までの人生で一番怖かった経験を教えて欲しい』とかなんとか言ってたな。それでそいつの身なりが、話に聞いてたお前の相方の特徴と似てたもんだから、俺が『もしかして君、宇佐見蓮子の知り合い?それってサークルの活動としてやってるの?』って訊いたら、ただ笑って頷いたんだ。まさに妖艶、って感じでな。それでいて、見ようによっては子供っぽい無邪気さにも見えたんだから不思議だよ」

 とSは下卑た笑みを浮かべて言った。今までの人生で一番怖かった経験……なるほど、これならまだ幾分納得がいく。多分、メリーはサークル活動のネタを探していたのだろう。……彼女が陰で、そこまで真剣に秘封倶楽部のことを考えていたのかと思うと、最近何かとサークルを休みがちな自分が情けなく思えてくる。だがそんなメリーの健気な努力も、この野卑な人間には、実像とはかなり違って見えるらしい。

「それで」

 Sは尻上がりに語気を強めて言った。

「それで俺は、とっておきの昔話を披露してやる気になったんだよ!酒の勢いもあったんだろうが、あんまり熱心に尋ねてくるもんだから、ここは一つ今まで誰にも話さなかった……というより話せなかった思い出を話して度肝を抜いてやろう、とね。お前も聞きたいか?」

 私は何も言わなかった。その昔話とやらは後でメリーに聞けば分かる上に、できることなら、こんな低俗な男との会話など早い所打ち切ってしまいたい。そうだ、それにこれから仕上げなければならない論文の事を考えれば、こんな所で徒に過ごす時間など無いはずなのだ。

 しかし……それでも私は、拒否も罵倒もせず、ただ無言でSを見ていた。私の沈黙が何を意味するのか……。受容か?関心か?答えは、自分でも分からなかった。ただ、この男に価値は無くとも、これからこの男が話すであろう物語には何らかの意味がある。……そんな予感が私をその場に留まらせていた。

 机の上のコーヒーは、もうほとんど湯気も立てず、ただ静かに黒い液面を揺らしている。口角を歪に吊り上げる不気味な笑みを浮かべ、Sは語り始めた。







――俺の育った所は今時珍しいぐらいの田舎でさ、右を見ても左を見ても山しかない、辺鄙な町だったんだよ。まあ、別に嫌いだったって訳じゃないんだ。俺は中学生ぐらいの時にその町へ引っ越して来た身だったんだが、むしろ住んでて心地良かったよ。そうだ。確かに嫌いでは無かった。だけど俺は、どんなに住み心地が良くても、この大学に入る為に家を離れる最後の日まで、どうしてもその町を好きだって言い切ることは出来なかった。どうしてかって?何故かって言われても色々あり過ぎて困るが……一言で言うと、不思議な町だったんだ。実に不可解な、とてもじゃないが普通とは言えないルールがあったんだ。「***山の向こう側には、絶対に行ってはならない」。初めて聞いたら何の事か分からんと思うが、この***山ってのは町の西端の方を塞ぐ様にして聳えてる大きな山で、要するにその山を越えて町の西側に出てはいけない、ってことなのさ。おかしいと思わないか?だって、その向こう側ってやつは行政上は町の一部なんだぜ?町の一部なのに、どうして町の住人が自分の町の西側に行っちゃいけないんだ、って話だ。全く馬鹿げてる。でもな、町の人間たちは誰一人としてこのルールを破ろうとはしなかった。法を踏みにじることを生き甲斐にしていた様な連中でさえ、このルールだけは何があっても遵守していた。それに加えて、誰に理由を尋ねても「知らない」の一点張りだし、どんな地図を探して眺めても、山の向こうにはありふれた木々以外、何も存在していないことになってる。つまりだ、このルールは何かを隠していたんだ。衛星写真を丸々書き移した様な地図になど決して反映されない、重大な何かをな。余所者の俺にとっちゃ、これが謎のまま放置されている事が、不思議で不思議で堪らなかった。どうして誰も「向こう側」を知ろうとしないんだ、ってな。どうせ田舎の人間特有の閉塞的精神のせいだろうと思ってたよ。……

 そしてここからが本題だ。実のところ俺はあの町でただ一人、この謎を自力で解き明かした人間なんだ。俺が町を出てこの大学がある京都へと向かうその日に、たった一人で***山を越えたんだ。驚いたか?驚かないよな。そうだ、宇佐見ならそう言うと思ってたよ。未知に我慢ならないという点で、お前と俺は、根っこの部分では似ているからな。そうだろ?まあそんな嫌そうな顔するなよ。話はこれからだ。お前が喜びそうな話は、まさに、その山の向こう側へ行ったときの事なのさ。……

 あの日、俺はすっかり荷造りを終えて出発を待つだけだった。といっても荷造りを終えたのは前日の夜で、京都への出発は午後1時だったから、時間は腐るほどあった。俺はその有り余る時間、あの町で過ごす最後の時間を、謎の究明に費やす計画だったんだ。段取りはこうだ。事前に「別れの前に、友達の家に泊まって遊ぶ」ということで家から離れておく。そして夜のうちに***山の麓まで車で向かい、そこで夜を明かす。俺は下調べの段階で、山を最も楽に越えられるルートを発見していたから、そこを通って夜明けとともに山を越えることにしていた。……宇佐見は今、「どうしてわざわざ最後の日まで計画を実行しなかった?」と思っているんだろう。答えは簡単だ。ビビッてたんだよ。誰もが異口同音に「絶対に行ってはいけない」なんて言うんだからな。解明したい欲求は強かったが、それ以上に得体の知れない恐怖があった。だから、最後の最後まで、実行を遅らせてしまっていたんだ。さあ、俺を笑うか?宇佐見。まあそうだろうな。無理もない。お前にとって、そんな恐怖なんてものは、一生涯無縁の存在なんだろう。

 話を戻そうか。夜が明けて、俺は山を越えた。殆ど獣道と言っていい酷い道だったが、不思議な位、楽に越えることが出来た。方角をしっかり確かめながら歩くと、まるであらゆる障害物が俺を避けているみたいにすんなり歩くことが出来たんだ。
 
 山を越えてみて驚いたよ。急に視界が開けたと思ったら、辺り一面とんでもない霧に覆われていて、呆れる位に何も見えなかったんだ。山を境に少し移動しただけなのに、全く別な次元の世界に迷い込んでしまった様な気がした。一応、しばらくその辺りを歩き回ってはみたんだが、唯一確認できたのは、どうやら俺は湖の畔に立っているらしい、ってことだけだった。その湖の大きさ知る術さえ無かったんだ。

 さて、ここからが面白くなるぞ、宇佐見。とりあえず、ということで湖沿いをしばらく歩いていると、突然真っ白な霧の中から、周囲に対抗するみたいに真っ赤な建物が浮かんできたんだ。よくよく近付いて見て見ると、どうやら西洋風の大きな屋敷らしかったな。あちこち崩れかけててボロボロだったから、多分相当な大昔に建てられたんだろうと予想は付いた。周囲の風景とは余りにもかけ離れた紅……その不調和が、とにかく不気味だった。何だか俺は、血まみれの化け物と相対している様な錯覚に陥ってしまった。

 俺は何分か躊躇った後、意を決してその建物の中に入ってみることにした。というのも、どう見ても人が住んでいる様には見えなかったし、何よりわざわざ禁を犯してまでやってきたこの「向こう側」で、何の収穫も無いまま霧と湖を眺めてるなんてのは有り得なかったんだ。俺は何としてもここの謎を解き明かさなければならなかった。あと数時間で俺は町に別れを告げるというのに、湖と屋敷がありましためでたしめでたし、でこの冒険を終わらせるなんてことは、絶対に考えられなかった。お前なら分かるだろう?

 俺は、震える手足を必死に動かして、屋敷の門をくぐった。門と屋敷の間には、霧に霞んではいたが、荒れ果てた広い庭が挟まれていた。酷い有様だったよ。かつては綺麗に刈り込まれた芝に覆われていたんだろうが、そんなものは見る影も無く、ただ陰気な雑草や木々が生い茂っているだけだった。その庭を一目見ただけで、もうこの屋敷に誰も住んでいないって事が容易く想像できたよ。そして俺は、その庭を貫いている剥げ上がった石畳の道を通って、大きな玄関に辿り着いた。木製の重厚な扉だったが、俺が少し力を入れて引くだけで、錆びた蝶番が今にも壊れそうな音を立てながら、ゆっくりと扉を動かした。……




 Sはここで一旦言葉を止めた。彼の顔には相変わらず薄気味悪い笑みが浮かんでいたが、既に普段の血色の良さは失われ、額には汗の粒が張り付いていた。そして徐に立ち上がると、水を飲んでくる、と静かに言い残してラウンジを出て行った。
 私は……私は、いつの間にか彼の話に引き込まれている自分の存在を、認識しないわけにはいかなかった。何故なら、彼の言う「向こう側」は、恐らく私の知っている世界……いや、正確にはメリーの知っている世界と重なるのだ。彼の見た屋敷は、かつてメリーが夢の中で訪れた屋敷と同一のものであるとしか思えない。だが、屋敷が荒れ果てていて誰も住んでいないなどと、メリーは言っていただろうか?……違う。私の記憶が正しければ、メリーは屋敷で人に会ったはずだ。とすると、やはり私の思い過ごしなのだろうか?
 そう、気になるのはメリーだ。この男の話を、彼女も聞いたはずなのだ。果たしてメリーはこの話を聞いて何を思ったのだろう?
 私は携帯電話を取り出し、メリーに「昨日の夜、バーで太った男と話した?」という旨のメールを打ち、送った。そしてほぼ時を同じくして、Sがラウンジに戻ってきた。Sの顔は幾分生気を取り戻し、僅かながら普段の赤みも宿っている様だった。彼は最初と同じ様に私の対面に座り、数秒の沈黙の後、再び語り始めた……

 
 
 
――待たせたな、宇佐見。なんてことはないさ、ちょっと喉が渇いちまってね。さあて、どこまで話したっけ。……そうだ、屋敷の中に入った所だったな!そうだそうだ。屋敷の中は、庭とは比較にならない位酷い荒れ様だったよ。まず、扉を開けて足を一歩踏み入れた途端、真っ赤な絨毯の下からギィギィ音が鳴って、おまけに物凄い黴の匂いがしもんだった。その次にだだっ広いエントランスホールをぐるっと見回してみると、壁はほとんど剥がれ落ちて、土色の壁材がむき出しになっていたし、階段や扉は全て粉微塵になるまで破壊されていた。屋敷の内装は外観同様に赤を基調にしてたんだが、余りにボロボロになってるもんだから、まるで至る所を癌に侵されている臓器に潜り込んだ様な気分だった。……いや、これも良く考えてみると間違いだな。むしろ、あの屋敷はもう死んでいた。息絶えた臓器だった。俺が入り込むとっくの昔に、あの屋敷は手の打ちようのない新生物に食い荒らされていたんだ。そう、俺が見ていたのは、もうこれ以上無く腐りきった木乃伊の様な館だった。

 不思議なことに、いつの間にか俺は恐怖を克服していたよ。入っちまえばこっちのもんだったんだ。俺は自分の中で、得体の知れない恐怖よりも、廃墟を探検する楽しみの方が遥かに強くなっているのが分かった。そして、その危なっかしい好奇心をかざしてエントランスホールを歩き回っていると、俺はある物を見つけた。一枚の肖像画だった。薄桃色の服、青みがかった縮れ毛、奇妙な帽子……そう、お前の相棒が被ってたみたいな帽子を身に着けて、尊大な表情でこちらを見つめている少女の肖像画だ。恐らく十歳かそこらに見えるその少女は、薄暗い廃墟の中で、不自然なほどの偉容を備えていた。何しろ、周囲の壁や床は漏れなくボロボロに朽ち果てているくせに、その肖像画だけは傷一つ無かったんだからな。まるで誰かが、少女を風化から守るために、あの大きな額縁に切り取られた空間の時間を止めてしまったんじゃないかと疑う位に、埃一つ付かず。……いいか宇佐見、この肖像画のことをちゃんと覚えておけよ。なに、理由は後で分かるさ。……

 さて、更に散策を続けていると、俺はまた何かを発見した。一体何だと思う?なんだ、いい加減そのパターンは止めろ、って顔だな。分かったよ。言えばいいんだろ?聞いて驚くなよ。死体だ。正確には、完全に白骨化した死体だ。俺は、エントランスホールから右に入ってすぐの、恐ろしく長い廊下の途中でそいつを見つけた。最初は人骨が転がってるなんて思わなくて、つい通り過ぎちまってたんだがな。多分、その死体が生前身に着けていたであろう、奇妙な緑の服と一緒に落ちてなかったら、振り返ってまじまじと観察しようとは思わなかっただろう。……ああそうだな、宇佐見の意見も尤もだ。確かに普通の人間なら、廊下のど真ん中に落ちてる頭蓋骨を見落としたりはしないよ。実際俺は普通の人間だし、ヒトの骨格図なら、そらで描ける位には記憶している。ではそんな俺が、なぜ見落としていたのか?……単純明快、「骨格がほとんど残ってなかった」のさ。頭、胴体は見るも無残なほど粉々に砕け散っていて、4本の手足に至っては、どこにも見当たらなかったんだ。宇佐見、分かるか。あの割れ落ちたティーポットの様な白い破片群を、死体だと確信した時の俺の気持ちが分かるか。服を持ち上げて、かろうじて粉砕を免れた脊椎骨がぱらぱらと床に落ちるのを見た俺の、喉の奥深くからこみ上げてきたものが分かるか。吐き気なんかじゃない。歓喜だよ、宇佐見。歓喜だ。遂に俺は不可解な謎の尻尾を掴んだんだ。遥か昔、この山奥の屋敷で、何か大変なことがが起こっていたんだよ。ああ、あの時俺は興奮して我を忘れていた。穴だらけのカーテンをぐいと開けて、霧に沈む湖に向かって思いっきり叫んだもんさ。

 更に続けて館を徘徊していると、俺の中で、歓喜は際限無く亢進してきた。同様の死体が、幾つか見付かったからさ。数自体、館の大きさにしては随分と少なかったものの、なかなか興味深いシチュエーションのやつもあった。中でも一番俺の関心を引いたのは、屋敷の地下の、馬鹿でかい図書室にあった死体だったよ。いやな、宇佐見がどの程度のものを想像しているかは知らんが、あれは間違い無くこの国のどの図書室よりも巨大で、どの図書室よりも黴臭いと思うぜ。見上げるような高さの本棚が、まるで隊列を組むようにしてどこまでも並んでた。その中から何冊か手に取って読んでみたんだが、妙な言語で書かれてる本ばっかりで、全く意味が分からなかったな。……まあそれは置いておくとして、死体の話だ。こいつは実に面白かった。俺が図書室の中をうろうろしていると、ふと本棚の列の一角に、何か弾痕みたいのものを見付けたんだ。それも、とんでもない数のな。蜂の巣って表現に初めて納得した瞬間だったよ。余りに規則正しく、眩暈を起こしそうな美しい配列の弾痕は、本棚から本棚へとどんどん奥に続いていて、進んでいくほど激しさを増していた。そしてこれ以上無い位に弾痕の密度が高くなった頃から、弾痕は徐々に焼け焦げや殴打の跡が入り混じる、無造作なものに変わっていた。必死な、余裕の欠片も無い滅茶苦茶な有様だったよ。それも段々激しさを増していた様だったが、ある地点でぷっつりと途絶えてしまっていた。そして、そこに廊下の奴と同じ手口で殺された白骨死体、つまり頭蓋骨も肋骨も容赦無く粉砕された死体が転がっていたんだ。パジャマみたいな服を血まみれにして、そこら中に散らばった本の残骸の上に横たわってな。……

 いよいよ俺の興奮は最高潮に達していた。俺は、迷路の様な屋敷内を駆け回りながら、一つでも多くの手掛かりを見付けようと躍起になっていた。最早、謎を解く義務みたいなものを感じ始めていたんだ。
 そして、最後に入った部屋で、俺は最も重大なの手掛かりを発見することになる。そこは大きな広間だった。真っ赤なカーペットが広間の真ん中を突っ切り、その終着点に、まさしく豪奢と呼ぶに相応しい玉座が設けられていた。その玉座に近づき、その上に乗っている物を見た時、俺は全身が総毛立つのを感じたよ。それは……一本のナイフに貫かれ、背もたれに釘付けにされた、薄桃色の服だった。宇佐見、覚えてるか?俺がエントランスホールで見付けた肖像画の少女が着ていた服と、全く同じだったんだよ。つまり、彼女はこの館の主だった。近くに見覚えのある帽子も落ちていたから、間違いない。服は心臓と思われる場所を貫かれていて、胸から腹にかけて夥しい量の血が流れた形跡があった。だが……今でも納得できないんだが……玉座に残っていたのは、それだけだった。骨一本見当たらなかったんだ。まるで、跡形も無く蒸発してしまったみたいに。

 もう一つ発見があった。玉座のすぐ脇にも死体が転がっていたんだ。何ていうのか……ウェイトレスみたいな服を着ている、首から上が切り落とされた白骨だった。頭部はちょこんと死体の背中の上に置かれていて、奇妙に儀式めいた感じがしたよ。それまで見てきた死体に比べて、余りにも清潔な殺され方だったからな。加えて、その死体は大量のナイフ、それも玉座に突き刺さっていたのと同じナイフを持っていたんだ。宇佐見、これが何を意味するか分かるか?お前ならもう分かるだろう。

 俺は一つの仮説を立てた。何者かの襲撃を受けたこの館で、あの幼い主人は、諦めか誇りか……とにかく自分の側近を殺し、自らも死を選んだんだ、とね。というのも、隣の死体は明らかに他殺だったし、「襲撃者」による殺し方とは明らかに異なる。更に、あの大広間には図書室にあった様な戦闘の形跡は一切見られなかった。どうして主人の死体が消えてしまったのかだけは分からないが、概ねこんなところだろう。……

 さて、そろそろクライマックスだぞ。俺は、真相を突き止める為の証拠として、主人の服に刺さっていたナイフをタオルで包んで鞄に入れ、もう一度それぞれの死体を調べに向かおうとしたんだ。だが俺は……大広間の入り口を開けて廊下に立った時、廊下の遥か向こうに何かが居ることに気が付いた。 いや、「誰か」と言った方が正しいかもな。廊下の向こうは外からの明かりが遮られていて、よく見えなかったんだ。俺は動けなくなった。俺を支配していた高揚感が、一瞬でどす黒い恐怖へと変わるのが分かった。春先の肌寒い朝だってのに、一気に生温いが噴き出したよ。廃墟……殺人……俺の頭の中で、その二つの単語が最悪の想像を生み出していた。あそこに居るのは、ただの野犬かもしれないが、ただの猟奇殺人犯かもしれない。……冷静に考えれば、犯人が何十年何百年も犯行現場に住み着くなんて事は考えにくいだろうが、既に俺の頭の中はあの白骨死体たちのイメージで溢れ返っていた。粉々に砕け散った頭蓋骨や肋骨。……俺は震える脚を動かすことすら出来なかった。

 俺がしばらくの間「奴」を凝視していると、「奴」も俺の存在に気付いたらしかった。ああ宇佐見聞いてくれ……そこからが本当に恐ろしいんだ。……「奴」は、突然この世のものとは思えない、凄まじい叫び声を上げたんだ。甲高くかすれた、断末魔と言っても差し支えない類の叫びだった。俺は、これまでの人生であれよりも狂った音を聞いたことが無いし、絶対に聞くことも無いだろう。だが、最も恐ろしかったのは、100メートル近く離れていてもなお俺の耳を劈く、その声量だった。窓は一斉にガタガタ鳴り、壁はボロボロと崩れ、……屋敷全体が振動していた。いよいよ俺は生命の危機を全身で悟った。震える脚もようやく動く気になったらしく、俺は何も考えずに、腕を顔の前で盾の様に組み、窓に向かって飛び込んだ。一階に居たのが幸いして、なんとか俺は唯一の逃走手段……つまり俺の脚を傷つける事無く、外に脱出することが出来た。両腕に鋭い痛みが走ったが、そんなことを気にしている場合では無かった。脚さえ無事ならそれで良かったんだ。俺は走った。ひたすら走った。ただ一刻も早く、「奴」に追いつかれる前に山を越えることだけを考えていた。……いつの間にか霧が晴れ、太陽が湖の畔を温かく照らしていたことにも気付かずにな。 

 そこからの記憶は余り無い。ただ走って走って、気が付いたら俺は自分の車を見付けて、次の瞬間には全力でアクセルを踏んでいた。そして俺は家に辿り着き、大急ぎでトランクに荷物を放り込み、呆然とする家族に別れも告げずに京都へ向かったんだ。……








 Sは最後の言葉を言い終えると、青ざめた顔でソファの上に崩れ落ちた。そして一分ほどかけて呼吸を整え、ゆっくりと起き上がって何も言わずに出口へと歩いて行った。
「それで」
 私は彼の、今やすっかり萎びてしまった背中に向かって、最後の質問をした。
「それで、この話を聞いたメリーは、何て言ってたの?」
 Sは小さな声で答えた。
「例のナイフを見に行きたいから、住所を教えてくれってさ。……今夜にも来るんじゃないかな」
 そう言って彼は少し笑い、ラウンジを出て行った。




 私は、Sの口から語られた話に、浅からぬ衝撃を受けていた。もしあの話が彼の妄想で無かったとしたら、これは予期せぬ収穫と言っていいだろう。興味深い調査対象が、また一つ増えたのだから。

 しかし、あの屋敷……メリーが訪れたであろう屋敷……一体何が起こったのだろう?あの話から分かるのは、住人と側近らしき人物が殺されたという事実と、主が自殺したという推測、そして未だにその館に誰かが住んでいるという若干不確かな目撃だ。しかも、殺害方法がいま一つ飲み込めない。頭部と胸部を粉砕し……ということは、よほど強力な銃器を使うか、爆弾でも仕掛けるか、それとも殴り砕くか……いずれにせよ、相当な力や武器が無ければ成し得ない犯行だ。それに、それだけ大きな屋敷なら、内外の警備にもそれなりの力を割いていたはずだろうから……犯人はきっと何らかの手段により、隠密に犯行を行える状況を確保していたに違いない。

 彼は、「何者かによって襲撃を受けた」と仮定していた。……だが、私には、彼がどこか勘違いしている様な気がして仕方ない。何を勘違いしているのかは自分でも分からないが、引っ掛かるのは、彼が意図せずに発したであろう屋敷の形容の一部……不死化し、無限の増殖能を獲得し……宿主を内側から破壊し尽くす、「新生物」。そうだ。確かにあり得る。何も犯人が部外者であると決まっている訳ではないのだ。例えば……ある日、日常の一欠けらに何らかの変異が生じ、住人が長い間保っていた何らかの均衡が突如として破れ、数多くの致命的な異常が発生した館は、全てを終わらせる為に自らの「死」という運命を選択、そして……いけない。これ以上の推測は、もっと証拠を集めてからにしよう。もしかしたら、メリーが見た夢とは違う世界の話なのかも知れないのだ。どちらが幻想で、どちらが現実か。はたまた、どちらも幻想に過ぎないのか。……今の私には、知りようが無い。


 私はカップを手に持ち、ふうと溜息をついて立ち上がった。どうやら、少しばかり休憩が長過ぎたようだ。これからまた、精神をすり減らす作業に戻らなければならない。思考を巡らすのは、その後でも遅くは無いだろう。出来れば今夜にでも、メリーと一緒に……

 しまった、すっかり忘れていた!さっき、メリーに確認のメールを送ったではないか。急いで携帯電話を見てみると、既にメリーからの返信が来ていた。マナーモードにしていた事が災いしたらしい。私は、深い後悔の溜息とともにメールを開いた。
 メールの本文欄にはただ一言、こう書かれていた。

「そんな人、知らないよ?」

 やはり、人違いだった様だ。私の手足が、奇妙な安心感に少しだけ震えるのが分かった。……そうだ。今の京都では、外国人など珍しくない。あらゆる土地から、それぞれが異なる目的を持ってやって来る。何ということもないのだ。その中の一人が、……たまたま帽子を被った金髪の誰かが、たまたま彼に興味を示しただけの事……ただそれだけの事だったのだ。誰を探していた訳でもなく、ただ偶然に……





 私は、すっかり冷め切ってしまったコーヒーの残りを、一気に口に含んだ。普段通りの苦味の中に、ほんの少しだけ、鉄臭い血の匂いがした様な気がした。
疲れました。
変てこなSSですみません。

一応私の脳内に真相はあるのですが、果たして書いていいものかどうか迷っています。
ラック
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コメント



0.350簡易評価
1.70名前が無い程度の能力削除
面白かったし、量もホラー、不思議な話としてちょうどいい。
2.100名前が無い程度の能力削除
世にも奇妙な、なんとやら
いったい何があったのか――全ては謎につつまれて。
そして、いつの間にか、そんな話など 誰も 忘れてしまっ
4.100奇声を発する程度の能力削除
不思議な感じ…
6.100名前が無い程度の能力削除
真相ぷりーず
13.100名前が無い程度の能力削除
S氏超逃げて
14.80名前が無い程度の能力削除
物語全体にただようなんともいえない
暗いトーンがいいですねえ。
こういう秘封も大好きです。
16.100名前が無い程度の能力削除
フランちゃんが美鈴とパチェをキュッとしてドカーン! して、お嬢様がフランを殺して、咲夜さんと心中したのかな。
なんであれS氏の冥福を祈ります。
17.100名前が無い程度の能力削除
哀れ・・・真実を知ること無き者よ・・・
そしてSさん、振り向かずにすぐに逃げろ!