母親が死んでしまう。
と、人間の少女は言う。
齢で言うと、十を回ったくらいだろうか。
幼い体を揺らし、栗色の髪を振り乱し、半狂乱になって。
私の山伏の衣装にしがみ付き、喚き散らしてくる。
正直言うなら、実に、うるさい。
私の大きな耳は、そんなの大声で叫ばなくとも十分音を感じ取れる。
はっきりと、落ち着いて話せ。
もう少しゆっくり、と。
なんとか説得を試みても、死んでしまうとしか言わない。
嗚咽を繰り返し、荒い息を弾ませる。
そんな少女の着物は本来とても可愛らしいものなのだろう。
赤や黄色の花の絵がちりばめられたで、薄紅色の綺麗な着物だったはず。
しかし、今はそれが見る影もない。
枝や茂みに擦れたせいか。
上半身の所々は破れて、葉擦れの汚れでくすみ。
下半身などは、膝まで泥に塗れていた。
それでも手に下げられた竹細工の籠。
その中にある植物の絵はどこも汚れておらず。
大事に抱えてきたというのが見て取れた。
私がそれは何か、と声に出して尋ねると。
やっと少女は泥だらけの顔を上げ、その籠をぐっと押し付けてきた。
人間の子供とは思えないほどの力で。
少女は言う。
この絵の草がいるんだ、と。
この薬草がないと母親が助からないのだと。
つま先を立て、私の顔に届くように言う。
でも私はあくまでも哨戒天狗。
山の物品の管理など、管轄外で。
その権限は大天狗様しか持っていない。
だから急にそんなことを言われても対処などできない、と。
いくらそう説明しても少女は引き下がってくれない。
仕方なく私は、その紙を手にとり、どんな薬草かを見てみることにした。
ぱっと見て、ないとわかればすぐ帰って貰えるだろうと。
そして、私はその紙の絵を確認し。
思わず、私は振り返っていた。
たった、そこから6尺ほど。
振り返って、二歩ほど歩いた距離のところに、視線を向けてしまった。
少女も、私の動きに釣られて。
地面の上をじっと見て。
見つけてしまう。
絵に書かれているものとまったく同じ花を持ち。
まったく同じ、葉を持つ。
まったく同じ、色彩の草。
それが一輪だけ、私の後ろに咲いていた。
少女は、私の体を潜り抜けようと必死に地面を這う。
けれど私はそれを止めた。
止めるしかなかった。
許可なく人間が妖怪の山から物品を持ち出すことは厳禁だから。
それが例えどれほど。
緊急を要し、重大な事象を含んでいようとも。
白狼天狗には、その権限がない。
だから私は、止めた。
私たち天狗から見れば脆弱すぎる小さな体を。
歯を食いしばって、止めた。
抵抗できないように持ち上げ、羽交い絞めにして。
子供は言う。
一つだけでいいから、と。
私は言う。
駄目だ、決まりなんだ、と。
子供が叫ぶたびに、心を切り裂かれるようだった。
今すぐ、この手を離してしまいたかたった。
でも、古くから規則に縛られ続けた理性は、私にそれ以上の行動を許さない。
だから、私はこう言うのがやっとだった。
必ず、この花は人里へ届ける。
だから、待っていてほしい。
一日。いや、半日だけでいいからと。
それでも少女は抵抗を続ける。
嫌だと、泣き叫び。私の手から逃げだろうとする。
私はそんな少女を、軽く空へと持ち上げて。
連れて行け、と。
私より位の低い白狼天狗に命を出す。
白狼天狗にしか聞こえない、高い、高い声で。
しばらくして、私の前に一人のまだ若い白狼天狗が膝をつき、少女を抱えて空を飛ぶ。
目的地はもちろん、人里だ。
それを見送るか否や、私は哨戒を別の者と交代してもらい。自室に戻って持ち出し許可書を作成する。
『人里の病人のため、急を要する』
それだけを書き、自分の印を押して。
疾風の如く、地を駆けた。
大天狗様に出会い、許可を求めるため。
地面を、木々を、川面を。
足に触れるもの全てを蹴り飛ばして、風すら超える勢いで駆け抜ける。
そして、大天狗様のお屋敷に辿り着き。
息を切らせながら面会を申し出た私に対して告げられたのは。
三刻ほど、待て。
大天狗同士の打ち合わせの『準備』で忙しいのだと。書類を突き返された。
耳を疑った。
準備、で、忙しい?
たった一輪の花を持ち出すだけだ、と。
印を押してくれるだけでいいのだ、と。
一刻たりと、時間がないのだ、と。
私は、なんとか目を通して貰えるように訴える。
しかし、違うのだ。
門番役の天狗の目の色すら、違うのだ。
どうせ、人間に関する書類なのだろう。何を急ぐ必要がある?
まるで、そう言っているかのように。
だから私は、もう一度地を蹴った。
家に戻り、もう一度書類を作り直し。再度突きつけた。
『白狼天狗、犬走 椛が山の外で使用するため』
そう書き直しただけなのに。
驚くほどあっさりと、印は押された。
やりきれない思いに捕らわれそうになる。
あの少女のように大声で喚きたくなる。
でも、そんな場合ではない。今は、行動するしかない。
あの小さな少女が勇気を持って山にやってきた。
それに応えずして、何が天狗か。何が山の管理者か。
私はただ、必死で走る。
書類の書き直しで失った一刻を取り戻すため、ただひたすら足を前に運ぶ。
途中で人里に子供を送り届けさせた者と合流、家の位置などを短い『遠吠え』で交換し合い。転がり込むように人里へと入った。
足がガクガクと震えるが、休んでいる場合ではない。
約束を守らなければならない。
まだあれから半日も経過していない。
長くて四刻半ほどか。
そして私は、その少女の家を見つけて安堵する。
まだ人が集まってもいないし。
人が死んだことを示す道具が、入り口の前に置かれていない。
なんとか指名を果たせたと、よろけながらゆっくりと。
約束したものを届けに来た。
力強く言葉を発し、締め切られた入り口を開ければ。
私を迎えたのは、思わず身を引くほどの気配だった。
布団に眠る、大人の女性の横で。
すがるように寄りかかるあの少女と。
うつむき、左右に首を振る大人の男性。
たった三人しかいない空間から。
いや、たった一人のあどけなさの残る少女から。
信じられないほどの殺気が、私に向けられていたから。
わけもわからず、ただ、花だけを握り締める私が思わず身震いするほどの。
白狼天狗を引かせるだけの意志の力が、少女から立ち昇っていた。
私は問う。
喉をからからに干上がらせたまま。
何が、あったのかと。
すると、道具箱を持った。医者らしき男が言う。
重い表情のまま、たどたどしく。
後……
一刻ほど……早ければと。
その言葉だけで私は、すべてを察した。
理解し、右手に握る花をぽたりと落としてしまう。
あの余計な時間がなければ。
私がもう少しだけ考えて書類を書けば。
助かっていたかもしれないと。
そう思っただけで、膝が震えた。
立っていられなくなり、入り口の近くに身を寄せる。
その、直後。
ひゅんっと。何かが風を切り。
私の額に勢いよくぶつかる。
一輪挿しか、小さい花瓶か。
そんなものがいきなり私の額に当たり、爆ぜた。
その欠片で切れたのだろうか。
私の鼻の頭から、ぽたり、ぽたり、と赤い点が足元へと落ちていく。
「出て行け、人殺しっ!」
私を罵声する少女と。
「あああ、す、すみません、天狗様! なにとぞ、なにとぞ!」
少女の側に慌てて駆け寄り、無理やり頭を押さえる人間の男。
抵抗を試みる少女であったが、大人の力に敵うはずもなく。
頭を畳に押し付けられていた。
そうやって少女に頭を下げさせてから、土下座して、男は叫ぶ。
子供が感情のままに、何も知らずにやったこと故、どうか、お怒りをお静めください、と。
少女は知らず。
男は知っている。
天狗という種族の、特性を。
もし、誰か一人が他の種族によって傷つけられたり。殺害されたとき。
天狗は、個ではなく群れとなって牙を剥く。
それを恐れる男は、私がここにいる限り謝罪を続け。
それを拒む少女は、私がここにいる限り悔しさで畳を濡らす。
そのとき私にできたことは。
達者で暮らせ……
たったそれだけ。
わずかに、口を動かしてその場から逃げるように姿を消すことだけだった。
天魔様――。
私がもし、物言わぬ将棋の駒なら。
こんなに、やりきれない思いをしなくてもいいのでしょうか。
私がもし幻想郷という。盤の上で踊らされる駒であれば。
何も考えず、命令だけを遂行する。
そんな駒でいられれば。
この胸の痛みも晴れるのでしょうか
○月×日 犬走 椛
◇ ◇ ◇
鴉天狗史上『最速』と謳われた少女は、空から地上を見下ろし、珍しい光景を観察していた。
眼下では山の麓で天狗が人間の少女と約束を結び。
そのために必死になって動く。
何の特にもならない行動を取る白狼天狗。
なるほど、あれが噂の変わり者か。
取材も終わり、ちょうど暇だったので山をゆっくり飛んでいたら。
そんな面白い場面に出くわしたというわけである。
鴉天狗の中でも少々噂になったので、覚えているのだが。
人間に対しても情を持ちやすい。
そんな変わった白狼天狗の一派がいる、と。
下っ端として雑務をさせるには優秀だが。
性格が固く。融通があまり利かないため、取材等には向かない。
よって鴉天狗もその一派と一緒には仕事をしたがらない。
確か家名が。
犬走。
どちらかというと、命令に従順で何でも言うことを聞いてくれる。
名前からはそんな印象しか受けない。
けれど実情は異なり、忠義を尽くすのは大天狗と、天魔だけ。
鴉天狗たちは不真面目な厄介者と思い。
取材しか能のない、役立たずとすら論じているとか。
もちろん、噂でしかない情報であるが。
鴉天狗の10人中9人が知っているような情報を噂と割り切るのもまた、不自然というもの。
確かに、気になりはする。
心に何かが、芽生えたような気がしたけれど。
その日は噂の白狼天狗に何のアプローチもかけぬまま、少女は家路についた。
それでも――
少女は次の日。
思わぬところで、その名前を目にすることになる。
◇ ◇ ◇
人間とのいざこざの合った次の日。
私は朝起きてからずっと鏡を見ていた。
ぼーっと眺めては、額に触れ。
感触を確かめるようにゆっくりと横に這わせる。
たった沿うだけの行動を繰り返す。
顔に残る傷にならなかったのを喜んでの行動なのか。
それとも、残っていて欲しかったのか。
それすらもわからず、ただ触れ続ける。
そんなとき、入り口の扉がノックされ、隙間から新聞が差し込まれた。
どうやらまた、あの鴉天狗たちの新聞らしい。
何の役にも立たないような噂話を集めただけの、白狼天狗にとってなんの利益もない物体。大天狗様たちは基本的に外出することの少ない鴉天狗以外の者が、外の世界を知るためにと必要な仕事だと言うが。
私にとっては、無駄なことだ。
何故ならこの私には、山にいながら千里を見渡せる瞳が。
犬走家の中で代々受け継がれてきた能力がある。
だから新聞など不要。
必要があれば、ずっと木の上で世界を見渡していればそれで事足りる。
そう思いながら、私はちらり、と床に投げ出されたままの新聞を見た。
……まあ、善意で持ってきてくれたものを無下にするわけにもいくまい。
入り口近くに置いてあった紙の束を拾い上げ。
布団に転がりながら広げてみれば。
やはりくだらない噂しか書かれていない。
季節外れの雪が降った。
もしかしたら異変かもしれない、だと?
まったく、どこまで鴉天狗たちの頭は茹で上がっているのか。過去に何度季節外れの雪が降りその年は実際に何かがあった、だから気をつけろ。そんな立証すらされず。『危ないかもしれない』で話が終わっている。
これでは本当にそのあたりの世間話を集めただけじゃないか。
文句を言い。
反論をつぶやきながら読み進め、最後のページをめくる。
そして――
『先日、白狼天狗の犬走椛氏は、無理難題を通そうとする常識のない人間が求める薬草のために、妖怪の山を駆け回り精一杯の誠意見せた。結果、人間の望むとおりにはならなかったが、彼女の行動は誇りある天狗として恥じない行為であり大天狗は表彰の意思を――』
私は、迷わずその新聞を破り捨てた。
◇ ◇ ◇
気分が、悪かった。
いつもの哨戒任務中も、あの新聞の内容が頭の中から離れない。
何が誇りある天狗か。
何が恥じない行為か。
私は天狗だから行動したわけじゃない。
純粋に、ただ。母親を思う子供の心に揺らされて、なんとかしたいと思っただけだ。
それなのにあの新聞は何だ。
私がまるで……
「こんにちは、偽善者さん」
そうだ、単なる偽善者のようで……
……
聞き覚えのない声が空から落ちてきて。
私は、瞬間的に飛び退いていた。
空からの相手に少しでも有利な位置へと。
声を出した相手から間合いを離すように、素早く身を翻し。
「おやおや? それが白狼天狗の椛さんの実力? ハエが止まる動きのようにも見えますな」
手を抜いてなどいない。
自分ではいつものとおりに、体の向きを切り替えた。
油断も、緊張すらしていない。
それなのに……
「まあ、飛ぶよりも地面を走る方が早いような? 天狗とは名ばかりの白狼天狗であれば、今ので精一杯なのでしょうね。いやぁ、情けない。こんな野良犬と同程度の弱者と、天狗の名を共有することになろうとは」
「……それは白狼天狗全員を貶していると受け取っても?」
「いえ、あなただけですよ? あんな記事で功績を称えられた白狼天狗がどれだけ鼻を高くしているか、見学にね」
柄に手を触れさせたままゆっくりと振り返れば、そこには扇を揺らし、薄ら笑いすら浮かべる鴉天狗がいて、あからさまに私を挑発していた。しかもあの記事で私が調子づいていると勘違いでもしているのか。
白狼天狗に対しそのような発言をしているつもりなら、この無礼な鴉天狗に一太刀浴びせてやってもいいのだが。
「……ならば、抜く必要はない。さっさと失せろ。人の弱みを狙う汚らしい鴉め」
妖怪の山での同属の争い極力避けること。しかし種族を過大に貶めるような発言や行為を行った場合は、指導してもよいものとする。
そう決まり事でも記してある。
だから個人を貶す言葉なら争う必要はない。
私は柄から手を離し。構えを解く。
そうやって無防備な背中を相手に向けて、ふんっと鼻だけを鳴らしてやる。
「ほうほう、へぇ~、そういうこと。それが懸命ね。私と手合わせをしたとしてもあなたが一方的にやられるだけ。何一つ得はな――」
「失せろと言った。仕事の邪魔だ」
「ほほぅ……」
それでも、この鴉天狗は退かない。
退くどころか、何を血迷ったのか。
私の肩に手を触れさせながら不敵な笑みを浮かべて回り込み、視界を塞ぐように漆黒の羽を広げてくる。
無言のまま、威圧しながら私が横に動けば、その鴉天狗もついてくる。
地面を蹴り、木の幹を蹴って、飛び上がってみても。
目の前にはニコニコ笑う鴉天狗の姿。
「何の真似だ?」
「いやぁ、偶然私の動きたい方向に椛さんがいる。邪魔しているのはどちらか、と」
「妨害行為を繰り返されたと、上に報告してもいいんだが?」
「さて、大天狗様は一体どちらのお言葉を信じると? 少々名の売れた白狼天狗でしょうか? それともぉ、将来有望な鴉天狗?」
どうやっても相手にしろ、ということか。
なんと小賢しい。
私は、妖気を使って素早く着地し。もう一度背中に背負った柄に手を当てて。
躊躇うことなく、一気に引き抜いた。
すると、さすがに鴉天狗も残像を残すような速度で私から離れ。風を纏いながら空で停止した。
「ふふ、そうでなくては……、白狼天狗と鴉天狗。格の違いを教えておかないと後々面倒になりそうだし。特に、あなたのように、鴉天狗に偏見を持っている駄犬にはね」
「人の振り見て我が振りなおせ、御託はいいからさっさと済ませることを進言する」
かちゃり、と。
腰だめに構えた刃が鳴り。
「その言に、同意する」
鴉天狗の羽が空を切り裂く。
比喩でも、何でもない。
風を操作し、空気抵抗を緩め風の壁を破壊したのだ。
音速の壁を一瞬で打ち破ることで生まれた風の衝撃が、私の全身を襲い。
直後に黒い弾丸が急降下した。
点と、点から伸びる黒い線。
それが見えたとき。
ほぼすべての勝負は終わる。
人の形としてすら捉えられないほどの信じられない速度だ。
一般的な天狗が見れば、の話だが。
されど犬走家の者であれば――
「……止まれ」
――見えないほどではない。
私は風に体勢を崩されながらも、迷わずある一転に刃を振り上げ。
ぴたり、と止める。
「……今のを寸止め、ね。これはこれは、大層な目をお持ちで」
「ふん、犬走家の視界に入るなと教わらなかったのか? そこから逃れたくば、光速でも超えて見せるがいい」
「おやおや、たった一回私を制しただけでその態度。ふむ、癪ですな」
「反省が足りないようなら、今からでも体と頭が分かれさせてみようか? その要望になら、応えてやる」
私の刃は、鴉天狗の胴と頭を繋ぐ場所。
喉のわずか一寸程度の距離で止まっていた。
目の前のからす天狗が、調子に乗って私の声を聞き逃していれば。間違いなく頭が一人旅をしていた頃だろう。
「それが嫌ならとっとと失せろ」
「……今回は、その提案に乗るとしましょう。では……」
不満そうに眉を曲げながらも、素直に私の言葉を聞き入れ。
風を起こしながら距離を取る。
「あ、そうそう、私の名前は『射命丸文』是非ともあなたを、私の忠犬にしたいと思っているしがない天狗です。以後、お見知り置きを」
そう言いながら、何故か片目を閉じ。
さらに刀を持った私の姿を写真機に収めて。
「暗い顔の従者など張り合いがない。多少反抗心のある元気な犬の方が、燃える性質なので。ずっと今のような椛であることを希望します。では♪」
と、何か鳥肌が立ちそうな言葉を口走り、手を振りながら去っていく。
「……慰めにきた、わけじゃあ……ないだろう。いや、まさか……」
よくわからない寒気に襲われながら。
私は哨戒任務を続けたのだった
◇ ◇ ◇
気が重い。
今日は午前だけの哨戒任務。
これが終われば、にとりと将棋が楽しめるというのに、気晴らしをする気分にすらなれない。
周囲を見渡せる杉の木の上で心地よい風を受けても、
立ち並ぶ木々の壮大な風景を見せられても、
簡単の声ではなく、唇は落胆のため息しか吐き出そうとしない。
こんなときくらい、このもやもやした気分をぶつけられる侵入者がいてくれればいいのだが、今日に限ってとことん平和なのだ。
突き抜ける青空が、実に恨めしいと思ったのは久方ぶり。
それもこれも、あの新聞のせい。
『犬走 椛の表彰の日程が決定、明日天魔様のお膝元で直々に書状を手渡されるとのこと』
その新聞を見た瞬間、破るとかそういう発想すら出てこなかった。
まさか『天魔』という二文字を見せ付けられるとは思ってもみなかったからだ。
なんだ、このオオゴトは。
『大天狗の命であるなら、犬走家として辞退してもかまわない』
『そうよ、おまえの好きにやりなさい』
五日ほど前、文という天狗と争った後、そのように言ってくれたのは父上と母上であった。
烏天狗どもからはすでに見下された家名だ。
ならばそれを貫いてもかまわない、と。
さすが父上と母上だ、器が違うな。と、納得したものだが。
しかし、天魔様が出張ってくるなど誰が予測できようか。
これを拒んだとすれば一体どうなるか、あまり想像もしたくない。
ああ、縦社会とは、本当に悲しいものだ。
儀礼用に一着、綺麗な服は残してあっただろうか。
家に戻ったら再度確認してみよう。
交代の時間が近づき、わずかに緩んだ緊張感。
その油断を戒めるように、小さな客人が一つ。千里眼の中に映った。
人間か?
獣か?
すぐに姿が隠れてしまって良くは見えなかったが、白狼天狗の武器は目だけではない。
大きな耳と、空間の震えを敏感に感じ取る尻尾で位置を把握。
間髪おかずに急降下し、予測地点へと木の幹を蹴って移動する。
空を飛ぶ速度では烏天狗に遅れを取るかもしれないが、こういった森林での機動性ならば私たちの上を行く種族は存在しない。
それは紛れもない事実であり、その証拠に。
「言葉がわかるものなら止まれ、わからぬのなら刀の錆になると思え」
最初に蹴った木になっていた木の実が地面に落ちるより早く。
侵入者の目の前に立つことができる。
苛立ち混じりでいつもより荒くなる口調はご愛嬌であったが。
「こ、こんにちは」
「……お前は、この前の」
木々の間で息を切らせるのは、見覚えのある人間。
齢で言うと、十を回ったくらい。
薄紅色の着物を着た人間の子供を視界に入れた途端、私の余裕は消え去ってしまう。
ここは人間のくる場所ではない、用がないなら引き返せ。
そんな決まりきった言葉さえ出ない。
笑顔で挨拶をしてくる少女を見つめるだけで。
溢れ出る罪悪感に押しつぶされてしまいそうだった。
「あの、あのときの天狗さんですよね?」
「……ああ、そうだ。この前はすまないことをした、私がもう少し機転の利く天狗であれば、そちらの母親も助かったことだろう」
「気に、しないでください。私、聞きました。あなたが私のために精一杯がんばってくれたこと、それを聞いてお礼を言わないといけないって、私……」
小さな人間の、なんと立派なことか。
母親の死を乗り越え、原因を作り出した妖怪に頭を下げる。
対して、棒立ちすることしかできないこの白狼天狗のなんとみすぼらしいことか。
「そう言ってくれるか。ありがとう。しかし、妖怪の山では理由なく人間を立ち入らせてはいけないという決まり事がある。気持ちを仇で返すのは心苦しいのだが……」
誠意を行動で返せず、追い払うことしかできない。
無い知恵を集めて考えた結果、それしか出てこない。
どこまで制約に従順なんだろうと、自分でも泣きたくなってくる。
せめて里まで送りたいが、一人しかいない状況で持ち場を離れるわけにはいかない。
苦悩の末、人間の少女を山の入り口まで送ろうと決意したときだった。
がさりっ
上から枝葉を掠める音が聞こえ、若い白狼天狗が現れたのだ。
「椛先輩、交代の時間ですが侵入者でも見つけました? って、あー、どこかで見たことがあるような……」
しかも一度この子供を運んだことのある子だ。
白狼天狗では珍しく長髪を好むことでも有名な、犬先 柳。
しだれ柳だから髪の毛も長くないといけません、などと初見で白い髪を自慢してきたのが記憶に残っている。
これは助かった。
厳しい先輩が来たらどうしようと、気が気ではなかったのだ。
私は周囲を気にしつつ、柳に命を下す。
というよりお願いか。
「私がこの子を人里まで送るから、哨戒の引継ぎを頼む」
時間より少し早い交代であったから気を使ったのだが。
柳は頷くどころか拳を縦に握って、親指を立てる。
「お任せください、椛先輩。その子はしっかり私が送り届けて見せましょう」
話が通じていないようだ。
私が送り届けるともう一度言ってみたが、今度は手を左右に振って。
「だって、先輩私より遅いし、空飛ぶの下手だし」
「む……」
急に劣勢になった私を人間の子がきょとんっとした顔で見上げる。
いきなり何を言うのか。
しかも気にしていることをあっさりと。
言葉を発した張本人は、怒りの反撃を警戒しているのか、しっかり一定距離を保っていた。
言っておくが、天狗社会全体から見れば得意ではないだけで、一般的な妖怪では十分上位に入る。
地面を走るという意味では、白狼天狗最速と言っても過言ではないので差し引きで丁度いいはずだ。
まったく、場を崩すにもほどがある。
注意する意味で軽い拳骨を食らわせてやろうと、右手を肩まで上げたら。
「まあまあ冗談はここまでにして、椛先輩最近元気ないですし。にとりって河童も気にしてましたよ? ここは若い者にお任せください。良く言うじゃないですか、若い頃の苦労は買ってでもしろって」
叱ろうとしたその寸前で柄にもないことを口にしてくる。
こうなっては私の右腕はどこに下ろせばいいのだろう。
仕方ないので人間の子供の頭を撫でることにして、あのお姉さんと一緒に戻りなさいとできる限りやさしい声音で告げた。
すると子供は一瞬迷った顔を見せて、私に体を摺り寄せてきた。
瞳を揺らして、何かを訴えるようにも見えた。
しかし、私は、それを単なる人見知りだと決め付けた。
「はいはーい、お姉さんはそこのお姉さんより優しいよ」
「私よりというのは余計だ」
だから、子供の手を引いた。
拒否反応を見せれば、柳に任せず自ら動こう。
そう思って地面へ視線を落とせば、可愛らしい小さな足がおずおずと前に出るところだった。
これならば大丈夫。
私は前に出ると、ついて来なさいと背中を向ける。
そのときだった。
距離が開いたことで焦ったのか、視界の隅に残る子供の影が急に傾いた。
木の根にでも引っかかったのだろうか。
転んではいけないと、わざと足を止め、背を貸してやる。
予測どおり腰から少し上の部分に、柔らかな重みが加わって――
とす、という。
聞き覚えのない音が聞こえてくる。
その音はあまりに小さくて、私しか聞き取れなかったのだろう。
柳は笑顔を崩さず、子供を呼び続けていた。
私の顔から笑顔が一瞬だけ消えても、不思議がろうとしない。
しかし、風が場の雰囲気を一変させる。
私よりも風下だった彼女の立ち位置が一瞬の間にすべてを狂わせる。
「よくも……」
耳とぎらつく瞳を目標へ向け、前傾姿勢を取る。
妖気と殺気が混ざり合う、白狼天狗の敵勢行動。
尻尾を立て、うなり声を上げ始めた柳とは対照的に、
「ごめんなさい、ごめんなさい」
子供は、涙を流して謝り続けていた。
あなたが悪い天狗じゃないのはわかっている、と。
一生懸命尽くしてくれたこともわかっている、という言葉を挟みながら。
私のわき腹に、細い刃を突き刺していた。
白い布地にじわじわと広がっていく赤い染み。
そこから微かに漏れる鉄錆の匂いが、柳の敵意を高めていく。
天狗の中でも仲間意識が特に強い白狼天狗が、この行為を許すはずがない。
自らの中にも怒りが込み上げて然るべきであるのに――
「抜くな、抜けば血の匂いで仲間が集まる」
子供の頭を撫でて、その身を引き寄せた。
本来なら心を覆い尽くすはずの黒い感情は微塵もなく、安堵だけがあった。
この子は、やはり子供なんだと。
母親が死んで、それが納得できないだけの子供なんだと。
そう心が理解した瞬間、私の手は無意識に動いた。
「椛、先輩っ! 何を……」
子供を守る形で、盾を構える。
仲間に刃を向けることはできない、それゆえの行為だった。
この子供を傷つけることは許さない。
天狗にあるまじき、馬鹿げた行動。
「柳、牙を収めて」
「……できません」
「私は、この子の母親を殺した。助けると約束しながら、何もできなかった。その間、ゆっくりと死を迎え入れる母親の姿を直視し続けたこの子の心の痛みは、こんな小さな刃で形容できるものではない。だから、これは当然の報いなの。お願い柳、この場は引いて」
「……できません!」
「そう、じゃあ私が里まで降りる。柳はこの場で待機して――」
「駄目です、無理です、不可能です! 椛先輩は何を言ってるんですか! 天狗の規律をしっかり守って、その上で信念を通すのが先輩だったじゃないですか。こんな人間のために今までの自分を捨てて良いんですか!」
良い後輩を持った。
私は素直に感動していた。
わき腹が痛みを訴え続けているのに、何故か表情が綻んでしまう。
血が太ももの布地まで染め始めているのに、笑みが溢れてしまう。
その表情が質問の回答と理解したのか、柳はぐるりと回り込み人里への獣道を塞ぐ。
そして、無言で刀を抜いた。
それが彼女なりの答えなのだろう。
無理を通したいなら、倒してからいけと。
まったく、どこでそんなことを覚えたのやら。
痛む右脇腹と、止血用の布がないため刺さったままの小刀。
そして私の背に隠れる子供。
どれを取っても勝てる要素などなく、それでも柳はかかって来いという。
私は子供に下がっていなさいと伝え、痛みを無視して刀を――
「はいはーい、清く正しい射命丸文でーす」
「ふぎゃっ」
柄を握るより早く、柳が消え去った。
いったい何が起きたか、という疑問は私の目ではありえない。
それを一言で表現するなら、斜め上空からの『蹴り』それに尽きる。
「おや、何かに当たったような」
「私の部下を弾き飛ばしておいてその言い草か、十中八九故意だろう。それに」
「いえいえ、見学にも飽きたので、事態を進展させようとしただけですよ。あちらで倒れてる柳? でしたっけ? そっちも風の膜で防御しましたし、多少頭を揺らされて気絶しているだけ。外傷などありませんので、ご安心を」
「やはり覗いていたか、趣味が悪いな鴉天狗というやつは」
「ふふ~ん、誰のおかげであなたの血の匂いが拡散せずにすんだと思っているのやら? あなたのような非効率なやり方では手間が増える一方だというのに」
見ず知らずの天狗が現れたことで、子供が私の服を掴む。
幼いながら、何か文に感じるものがあるのかもしれない。
そもそも、鴉天狗が興味を強く引くのは情報。つまり、
「ふんふん、白狼天狗が自分を傷つけた人間を守る。これは下っ端天狗に許されざる越権行為ですね。これは面白い記事になりますよ」
こいつが風を操り、匂いを一定範囲から出さないようにしたのは、私を助けるためでも、恩を売るためでもない。
特ダネを独り占めするためだ。
哨戒天狗如きが犯せば、二度と妖怪の山に住む事ができなくなる。
そんな馬鹿げた行為を新聞の上に載せるため。
「さて、私がこれを活用した場合、あなたはどうなりますかねぇ?」
「御役御免は免れないな」
「ふふふ、でしたら、椛? 私にお願いすることはわかりますね? はっきりとゆっくりと明瞭簡潔にお伝えください」
逃れられぬ事実を記した手帖。
それをひらひらと私の目の前で揺らし、挑発を繰り返す。
きっとあの宣言を言わせたいがために、
生意気な白狼天狗を隷属させたいという、彼女の希望を叶えるために。
それを言葉にできれば、私は救われるのかもしれない。
けれど、その場合。
「さぁ、その人間をこちらに、上手く『処分』しておきますよ」
人を食らうことができる天狗がどうやって処分するかなど、語るまでもない。
そして私がどう行動するべきかも。
盾での防御姿勢をとき、戸惑う子供を文の前に押し出して。
忌み嫌う鴉天狗に深々と頭を下げた。
「その子を人里まで送って、いえ、送ってください」
「……は?」
「土下座が必要か?」
「いえいえいえ、そうじゃないでしょう? 今日のことは見なかったことにしてください。この薄汚い犬に是非ともお慈悲をとか、忠誠を誓うとか? そういうのはない?」
「……」
「ふむ、その目の色からして本気というところでしょうか。いやはや、厄介なことで。偽善行為の末、この人間を無事に里へ戻せと言う。しかし私がそれで首を縦に振るとお思いで?」
天狗に深手を負わせた人間を生かしておくという前提が不自然なのだ。
人間を情報提供者兼食料程度にしか思っていない鴉天狗にとって、この提案はまったくの無意味。
「こちらの利点は?」
「……ない」
「そうですか、交換条件すら成立しない。それでいて、私に不利な条件だけを飲み込めという。実におめでたい頭をお持ちで」
「わかっている、わかっているが!」
たぶん、これは私のわがままだ。
たった一つの決まりごとを破れず、その結果が引き起こした争いの火種。
天狗であろうと、人間であろうと。
自分のせいで多くの血が流れるのだけは、許容できなかった。
辛辣な文の言葉を前にも、私は歯を食いしばることしかできない。
体の痛みに耐えるためではなく、道理を通すことができない自分の不甲斐なさに対する怒りがそうさせた。
それ以外にできたことは、俯き、絶望的な答えを待つこと――
「ま、いいでしょう。迷い子を人里へ送り届ける。それでよろしいか?」
聞き間違いかと思った。
頭を跳ね起こし、揺れる瞳で少し背の高い文を見上げれば、丁度胸ポケットに手帖を仕舞い込むところだった。
もちろん、どこか呆れた顔で。
「いい? 私はあなたが怪我をしていることも知らないし、その経緯も然り。ただ、そっちのお願いで子供をあるべき場所へと戻した。それ以上でも、それ以下でもない」
「文……本当に?」
「ええ、構いませんよ? 表向きは私が心優しい天狗になるだけですからね。ただし、もし秘密が知れれば私は知らぬ存ぜぬで通しますから」
「恩にきる!」
「おやおや、握手などお戯れを。卑しい犬の血で私の服が汚れたらどうするおつもりですか?」
血がついたら説明が面倒。
そう単純に伝えてくれればいい。
しかしこの鴉天狗は最後まで嫌味を忘れない。
「けなされて笑うなどとは、変態もいいところですね。私は山に面倒事が持ち込まれることが嫌なだけ。人間との争いになれば取材活動など安心してできませんから、その点でだけ利害関係が一致したわけで」
それでも私は笑っていた。
怪我を負い、侮辱されながらも、微笑んでしまっていた。
山の平穏と人間のこと、その両面を考えてくれる鴉天狗がいる。
そう思えて、素直にうれしかった。
「いいですか、椛。私の使いの鴉がにとりのところへ向かっています。直に光学迷彩用の装備を持って、こちらに来るでしょう。それが届いたら私の結界が機能している間にこの場から立ち去ることです。見張りにはそこで伸びている白狼天狗を気付けした上で活用する。証拠隠滅と部下の説得は的確にお願いしますね」
「ああ、では、子供を頼んだ」
子供を文に向かって歩かせる。
場が荒れ、様々な流れを見せたせいで、子供は動揺を隠せずにいた。
憎らしいはずの私を不安げに見て、今にも泣きそうだ。
それでも泣き叫んだりしないのが、この子の強さなのだろう。
「帰り道に天狗と人間の関係について軽くお説教するかもしれませんが」
「……怖がらせるな」
「ふふ、冗談です」
細腕で子供を脇に抱え、荷物のように持ち上げる。
あまり好ましくない運び方ではあるが、文としてはこれが最大限の妥協なのだろう。
空いた左腕を左右に振りながら、営業用の笑みを作って木々の間を縫って飛んでいく。
それを静かに眺めていたら。
かくん、と。
「あ……」
膝が折れた。
乾いた土の上に尻餅を付いてしまっていた。
その途端、今までのことが嘘のように、痛みが自己主張を始める。
改めて傷口と小刀を見れば、自分でもおかしくなるくらい深々と突き刺さっていた。
人間の子供が簡単に天狗を傷つけられることからしても、妖刀の類なのかもしれない。
どちらにしても、この傷で事後処理を行わなければいけないということで。
「も、椛! 怪我したって本当っ!」
「はははっ……」
怪我を見て。顔を青くしているにとりを説得する。
そんな気苦労を置き土産にしてくれた鴉天狗に―-
ありがとう。
正面切っていえない言葉を心の中で囁いた。
◇ ◇ ◇
かたかた……と、指が震える。
手帖を開き文章を書こうとするたび、喉がカラカラになって、呼吸の荒さを押さえられなくなった。
目の前の真実を見せ付けられたことだけではない。
それを記事にすることの大きな意味、それを少女が気づかないわけがない。
一文字書いて、消し。
一気に一文を書き流してみて、そのページのすべてに×印を付ける。
「何をしている?」
そして少女が心を張り詰めさせているのは、その真後ろに居る人物の存在ゆえ。
天狗の面をかぶり顔を見ることは出来ないが、礼儀式的な服装を着用していることが彼女の存在の証明。
少女よりも頭一つほど高い、女性の圧倒的な存在感が鴉天狗の指を止めてしまっていた。
「いえ、書き出しがうまくいかなくて」
「そうか。無駄な時間稼ぎをしているのかと思ったよ。文のことを気にして」
「滅相もありません! 私が大天狗様のご命令をないがしろにするなど」
左右でまとめた髪を振り乱し、自らの忠誠が本物であると主張する。
しかしそんな会話など無意味だと切り捨て、大天狗と呼ばれた女性は河童の少女と話を続ける白狼天狗を指差した。
木々の間から見える映像ではあったが、脇腹の怪我は痛々しく。
浅い傷ではないことが遠目でもわかる。
「どうこう考える必要はない。私とて、能力的に頭一つ抜けている文を捨てるなどはしない」
「そ、そうですよね! 私も永遠のライバルとして新聞で競いたいですし!」
「その新聞のネタとしてこれを扱わせてやろうというのだ。光栄だろう?」
「……は、はい」
「新聞大会優勝、このネタをうまくいかせばそれも難しくはないはずだが」
少女は、その言葉に飛びついた。
まだ手ごたえのある記事を書いたことがなかったから、甘言に頷き。
「白狼天狗の行動を、禁止事項と照らし合わせ書け。文は怪我に気が付かず迷子の子供を人里へ返した」
「しかし、それは……」
「真実は別にあるとでも?」
そして、今、ここにいる。
一連の事件をすべて、物陰で観察し続け。
「……いえ、それが、真相です」
捻じ曲がった情報を、『真』とする。
少女は震える手をもう一度手帖へ向け、記事にするため事件の整理を始めた。
鴉天狗が有利になるように、明確な悪を作り出し――
「妙な気をおこすなよ、姫海堂 はたて」
このとき、はたては思った。
こんなことは、初めてだと。
こんなに、新聞を作るのを楽しくないと思ったのは、初めてだと。
◇ ◇ ◇
今日は欠席した方がいい。
にとりはそう言っていた。
嫌な予感がする。
絶対何かが起こる。
あんな事件が簡単に起きるはずがない。
けれど、天魔様のご意向を無視するなどできるはずもなく。
結局この場に来てしまった。
敷き詰めてある畳はいったい何枚あるのだろうか。
山中の天狗が集まっても入りきってしまうのではないかと思える大広間の左右には大天狗様たちが正座し並ぶ。
もちろん、直属の上司の大天狗もその場におり私を見つけて手招きしていた。
しかし、この光景を見せられたときの私の心境は
この場から逃げ出したい。
それだけだった。
天狗社会の重要人物が溢れていたのだから。
下座には名家の鴉天狗や、白狼天狗の党首が並び。
一番入り口に近い部分には、河童代表の意味かどうかはわからないが、にとりの姿も。
初めて人里に入った妖怪のように、視線を気にしながら左右に視線を動かすと、全員と目が合ってしまい、
俯いて進むことしか出来ない。
案内に従い、部屋の中央まで歩かされた私はそこで姿勢を正し、正座して頭を下げる。
単なる広い部屋だと思い込もうとしても、混乱した思考は泥沼にはまり続ける。
「犬走 椛、面を上げよ」
「はっ」
それで慌ててしまう。
両膝と手、そして頭を畳に付けていた私は、しんと静まり返る世界の中で勢いよく体を起こして、
「っ!」
思わず声を出しそうになる。
昨日の傷が、不意に痛んだからだ。
怪我を隠すためにきつめにしめた包帯が裏目に出てしまったようだ。
本来であればあの程度の傷など一晩あれば塞がる。
けれど、あの小さな刀は対妖怪用の術式が施されていた。
完治まではまだ時間を要するだろう。
「どうかしたか? 椛よ」
「いえ、やはり刀と盾がないのは落ち着かないと申しますか」
「ははは、仕方あるまい。我もあまり堅苦しいのは好まぬのじゃが、一応祝いの場。そのあたりを厳しくせねば周囲の者にも示しが付かぬ。ほれ、そこの我の世話係など厳しい顔でにらんでおるじゃろう?」
なんとかうまく切り返すことが出来たが、今後もこううまくいくとは思えない。
動きには注意しようと決意して、視線を前へと動かせば畳よりも一つ高い台座が見えた。
天井から絹のように薄いすだれが下がり、その奥に天魔様がいる、
しかし小さな影が動いていることがわかるだけで、その姿を見せることはない。
「いやぁ、我がお主の前に顔を出すのもいかんと口うるさくてのぅ。おっとっと、そろそろ咳払いが来る頃合か?」
こちらが見えないということは、あちらからも見えないはず。
なのに天魔様は部屋の中の場面がすべて見えているかのように振舞っていた。
お付きの天狗がそろそろ本題に入るように急かす咳払いも、完全に予測して見せたのだから。
「なにはともあれ、椛よ。人間に対し礼節を忘れぬお主の態度は天狗にあっておもしろい」
「おもしろい、ですか?」
「そうじゃ、立派だと称えられるより、そうした方がお互い気を張る必要がなくてよい」
「は、はいっ!」
「だから気を張るなといっておるではないか」
助かった。
天魔様の態度に驚きながらも、その軽い態度で緊張が解けていく。
動かすことを忘れていた尻尾も、穏やかに畳の上をすべるのがわかった。
「じゃからその面白さに免じて、祝いの品を贈呈しようではないか。これ、椛に礼のものを」
どこで覚えたのだろう。
ぱんぱん、と、影が首の近くで手を叩く姿。
あれはまさしく人間が酒の席で芸者を呼ぶ仕草だ。
何かもっと、礼儀的な何かがあるのかと想像を膨らませていたが、そんなことはないらしい。
たったこれだけのために仰々しい場が用意されたと考えると、なんだか可笑しくなってきてしまう。
それでも、こんな簡単な受け渡しでも。
天魔様が犬走家に品物を贈呈した。
事実は残り、間違いなく家名は上がることになろう。
そのせいだろうか、私の尻尾は後方での気配の変化を敏感に感じ取る。
鴉天狗嫌いの家系が寵愛を授かるのを好ましくないと思っている者の敵意を。
放っておけば誰も気にしない、その程度のわずかな気の乱れを敏感になった感覚が掴む。
「天魔様、祝いの席に発言することをお許し願えませんか」
気配を感じ尻尾を一度、左右に振った後だったろうか。
大天狗様の一人が、私の後ろで声を上げる。
「後ではいかんのか?」
「はい、今この場でお伝えしたいことがございます」
遠まわしに後にしろと告げる声に従わず、頭を下げた。
すると天魔様は付き人を天幕の中に呼び、こそこそと何かを耳打ちし始める。
「発言を許そう、手短にな」
結果、許した。
付き人の方はと言うと、部屋の入り口まで下がりふすま越しに何かを伝えていた。
廊下の見張りに少し遅くなるとでも伝えたのだろうか。
そんな光景を静かに見守る私の心は、驚くほど早く脈を打つ。
理由は、簡単だ。
この場で『今』話さなければならない理由。
それはつまり、私が存在する必要がある話だ。
そしてその可能性が最も高い、天魔様の耳に届けなければならないほどの話は、たった一つ。
私は畳みの上で拳をぎゅっと握り締め、神に祈った。
あの話ではないように、と。
けれど――
「そこの犬走椛なる白狼天狗が、人間から重症を負わされたと」
「ほぅ、人間が?」
その願いは、打ち砕かれた。
警鐘の如く鳴り響く心音は一段跳ね上がり、血液は沸騰しそうなほど。
周囲の大天狗や、他の天狗からの視線が疑惑へと変貌し私の焦りを引き上げていく。
どうすればいい。
いったいどうすればいい。
ずきずきと疼き始めた脇腹の傷は、まだはっきりと残っているのだ。
「そのときの傷はまだ癒えておらず、それを隠したまま今の席にいると。とある情報筋から得ております」
「その情報は確かなのであろうな? 何の根拠もないまま仲間である天狗を疑うなど、万死に値するぞ?」
「ええ、間違いございません」
「そうか、ではそのものをここへ連れてまいれ、直々に話を聞こう」
まずい。
このままでは、まずい。
私の傷が知られたら、人間が天狗にした行為が明るみになってしまう。
そうなれば、天狗の山から穏やかな日が消えてしまう。
大好きな山が、変わってしまう。
有効手段すら見つけられず、困惑している間に、天魔様と大天狗様は会話を交わし合い。
大天狗様が付き人に指示を出した。
そして、しばらくすると。
「彼女は姫海堂はたて、偶然現場を目撃した鴉天狗でございます」
入り口付近に、見慣れない鴉天狗がいた。
種族では珍しい茶色い髪を左右でまとめているので、長髪でありながら特徴であるとがった耳がはっきりと見て取れる。
文とは違う、地で人懐っこいタイプにも見えた。
けれど、その表情は緊張で強張っており、俯き加減で固まったまま顔を上げようともしない。
「ほ、ほほ、本日は、お日柄もよく!」
「形式的な挨拶は良い。して、何か? お主は我が開いたこの場をぶち壊してくれるほどの大事を持ってきたというわけじゃな?」
「うっ、え、えと、その……」
「どうした? ん?」
天魔様は自分の場が崩されたことにご立腹のようで、傍目から見ていてもかわいそうになるくらいはたてを攻める。
はたてはもう、半泣きになって、連れてきた大天狗を見上げる。
助けて、と、全身で訴えながら。
「そう威嚇しないでください。天魔様。この場を壊したいがためにやったことではありません。真実をお伝えしたかっただけなのですから」
「ほぅ、ではさっさと話を進めてはくれぬか。こちらにも段取りがあるのでな」
「わかりました、では、はたて。私が代理で話しても問題ありませんね?」
その言葉を待っていたのだろう。
はたてはコクコクと頷いて、にとりの横へと逃げ込む。
入り口に残された大天狗様は、再度姿勢を正し正座すると。
あの日のことを語り始めた。
「はたてが森の中を散歩してたときのこと、何か物音がしたそうです。その音が何か気になったはたては、静かに森の中を飛び、人間とそこの椛がもめているのを発見しました。最初は山に入ろうとする人間と交渉をしているのだと思ったと彼女は言っていますが、問題はその後でした。椛が不用意に背中を見せた途端、人間が椛の背中に襲い掛かったのです。小さな刃物を握って、そのまま脇腹へと」
あのとき、もう一人いた。
そんなこととは知らず、私はなんと不用意なことを……
言葉が続くたび、私の体を後悔の念が駆け巡る。
これでは私だけではない、私に協力してくれた全員がいらぬ疑いを向けられてしまう。
私を心底信頼する後輩、柳の笑顔。
私を心配してくれた親友、にとりの泣き顔。
そして、何かと突っかかってきた、文の呆れた顔。
そのすべてが頭の中を過ぎり、
「現場には椛一人しか居なかったため、人間はそのまま逃走。逃走の際、鴉天狗の射命丸と出会い、何も知らない彼女は人間の迷子だと判断し人里まで送り届けたそうです」
「ぇ?」
雷に打たれるほどの衝撃だった。
なんだ、これは。
なんだこの真実というヤツは。
私は天魔様の前であるというのにその背を上座に向け、後ろを振り返る。
はたてという天狗は私の視線から逃げるように首を振り。
白狼天狗の名家の当主、柳の父親は――ずっと目を伏せていた。
ああ、そういうことか。
そういうことなのか、これは。
すでに根回しは終わっているというのか。
「ほう、して椛よ。今の証言に嘘偽りはないな?」
嘘だ。
そうはっきりと言ってやりたかった。
あの場には柳も、文も、にとりだっていた。
それでも私は、たった二文字を喉で止める。
出掛かった叫び声を飲み込んで、ぐっと膝の上の手に力を込める。
「……ません」
ここで否定すれば、私の知っている真実を話さなければいけないことになる。
その場合、責任はもちろん私だけで済まなくなるだろう。
柳も、文も、私と同程度の罪を背負うことになりかねない。
それをわかっているから、はたてという天狗も、柳の父親も、言葉を殺す。
「間違いありません」
だから私は、はっきり答えた。
背中を向けるという無礼を続けながら。
じっと、睨んだ。
こんな茶番にはたてという天狗や、柳を巻き込んだ大天狗に紅い瞳を向けた。
しかし大天狗は顔色を変えず、私の視線を真っ向から受け止める。
「そうなると、疑問が残りませんか。皆々様。そういった大きな事件があった場合、白狼天狗は上司である大天狗に知らせる必要があるわけです。それなのにそこの犬走椛はそれを隠そうとしたのです。これは明らかな命令無視、重大な反逆行為とも受け止められます」
「違う! 椛はそんなんじゃ――」
「にとり!!」
そして、私はもう一つ気付かされた。
私を縛るための足枷として、もう一つ。
にとりを利用した。
こんな茶番に、親友を利用された。
「大丈夫だから、何も心配しなくていいから」
「でも、椛! このままじゃ!」
「おやおや、ご来賓のにとり様が興奮なさっているようですね。誰か医務室へお連れしてあげなさい」
真実を話そうとすればどうなるか。
それを意識付けさせるために、にとりまでこの場に呼び込んだんだ、こいつは。
部屋の前を守っていた鴉天狗の一人に抱えられ、にとりが部屋を出て行く。
「もう一度尋ねるぞ椛、本当にすべて真実なのじゃな?」
廊下で響いていたにとりの叫び声。
それが消え去ったとき、天魔様が静かに私に問いかける。
背を向けている無礼を咎めず、ただ真実を教えてくれと訴えかけてくる。
「すべて、間違いございません。しかし天魔様、私はただ、妖怪の山に戦乱を招きたくなかっただけでございます。私が傷つけられたせいで、より多くのものが傷つくのが許せなかった。ただそれだけなのです」
だから私は真実で答える。
もう一度向きを変え、天魔様をまっすぐ見つめて。
私の言葉に周囲がざわつくのがわかる。
常識のない天狗だと、
人間に与する愚か者だと、
自らの保身のために奇麗事を並べるなと。
確かに私の感情は、人間と住処を争ったこともある大天狗様たちとは違うのだろう。
傷つけられれば牙を剥く、そうしなければいけなかった時代に天狗社会を守り抜いた先人とはわかりあえないだろう。
でも、今口にした感情こそが、私の真実に違いないのだ。
「そうか……それが真実であるのなら、裁かねばなるまい。報復行動についても、近いうちに考えることとしよう」
妖怪の山を去れというなら、素直に出て行こう。
腕の一本もよこせというのなら、躊躇わず切り落とそう。
それでも、この結末だけは望んではいなかった。
自分のために誰かが傷つき命を落とすことだけは嫌だったというのに。
「白狼天狗の皆様、自らの立場というものをもう少し認識して子や配下の指導をお願いしますね。今後、このような過ちが起きないように。椛といいましたか? あなたもこの場は下がった方がいいのではないでしょうか、天魔様も情報を整理する時間が必要でしょうし。おや、どうしました? 犬走椛? 卑しい白狼天狗がまさか?」
私は、いつのまにか喉を鳴らしていた。
威嚇の低い声を漏らし、身を低くする。
この場でこんなことをすればどうなるかなど、目に見えている。
それでも、こいつだけは――
一度噛み付いておかないと、気が済まない。
獲物との距離は、十分。
身体の状況、不可。
周囲の状況、最悪。
これくらい恵まれてない方が、私らしい。
痛む脇腹を無視して足に力を込めていく。
畳の目を足の指にかませ、初撃にすべてを掛け――
ドンっと。
蹴った。
畳から飛び上がったはずだった。
なのに、私はいつのまにか天井を向いていて。
「あー、すみません。新技の研究中に風が暴発しまして。どなたかお怪我はございませんか?」
聞き覚えのある声を聞くのと、畳の上に背中から落ちるのは同時だった。
私を弾き飛ばした犯人は、攻撃のせいでふきとんだふすまを部屋の隅に片付けた後でひょこひょこと、軽い足取りで近づいてきた。
そして、脇腹を押さえて、くの字に体を曲げている私に向けて扇をかざす。
「いやぁ、被害者が椛だけでよかったよかった。まさか大天狗様にでも当たろうものなら私の首が飛んでしまいますからね」
「ふむ、文よ。廊下で風の攻撃を考えるのは感心せぬぞ」
「あやややや、天魔様には敵いませんねぇ。ほらほら、立てますか椛?」
「傷が開いた……」
「ふむ、元気そうで何より」
まさかこの展開もあの大天狗が仕組んだものか。
そう思って、文の手を握り締めて起き上がれば、困惑しているのは大天狗の方。
文をどう取り扱っていいか、判断が付かないようだった。
そんな中、私の横でいきなり正座した文は、作り笑いを崩さずに咳払い一つ。
「天魔様。私、椛と一緒に現場にいました」
まるで、形式的な報告事項の言い方だった。
例えるなら、異常ありませんと上司に告げる白狼天狗たちのように。
しかし、その内容は今までのやり取りを壊滅させるには十分で。
「ば、馬鹿な! 貴様いきなり出てきて何を!」
再びざわつき始めた大天狗様たち。
その声を打ち消すほど大きな声が、上がった。
もちろん、あの大天狗からだ。
「真実を言えと、大天狗様がおっしゃっていたので。それに答えただけですが? 何かまずかったでしょうか。そしてその場には確か、にとりという河童も後から現れましたね。白狼天狗の一人は私との訓練で目を回していましたが」
「文、何を言っている! それでは!」
「確かに、あの人間の子供は椛が助けられなかったことを恨み、刀を使って攻撃を行った。しかし私たちも物理攻撃だけでは死なない妖怪ですから、命に関わることではありません。言ってしまえば少々大きな蚊に刺された程度でしょう。その程度のことで成熟した大天狗様たちが、人間たちに報復するなんて本気でおっしゃられたりします? まさか理性ある妖怪の代表格である我々がその程度のことで大騒ぎするなんて言いませんよね?」
自分より上の立場にある者達を侮辱する言い方だった。
しかし、周囲がいきり立つより早く。
「ふむ、それも馬鹿らしいな。これで相手を滅ぼしたとあっては汚名にしからならぬ。その汚名を飲んでまで行動したいものはおるか?」
天魔様が反応したことにより、全員が押し黙る。
強硬姿勢を見せようにも、汚名が残ると正式な場で宣言されたのだ。
形式を重んじる高齢の天狗たちにとって、名を汚されるのは大きな問題であり。
耐え難い事象。
それをあっさり文が引き出してしまった。
あまりにも簡単に。
「そ、それでは! 個人的な罪はどうなります! 犬走椛と射命丸文の所業、許してはおけません!」
「許せませんか?」
「当然だろう、天狗社会の掟を無視してただで済むと思っているのか!」
それでも、根本的な解決にはならない。
私と文の立場が悪いことには変わりなく。
決まり事から判断しても、私たちに正義はない。
けれど、文は余裕すら感じさせる笑みを崩そうとせず。
「私の所業が、許せない。そうおっしゃりましたね?」
肩越しに、後ろの大天狗を見る。
半笑いで、まるで馬鹿にしているように。
「その余裕もそこまでだ、文! 同じ鴉天狗の出だからと言って何をしても私が許すとは思って――」
その顔に釣られたか、大天狗は文へ攻撃的な視線を向け言葉を、
「黙れ」
続けようとして、固まる。
私も、その言葉が誰から発せられたのか一瞬わからなかった。
すぐ隣に、その人物がいるというのに。
「な、ななな、何を言って」
「黙れ、そう言ったんですよ。大天狗様。情報は私たちの武器であり、脆さでもある。それを理解できないような愚か者が先輩とは、こちらとしては情けなくなりますよ。お願いですからもう口を開かないでください。臭いんで」
「き、貴様ぁっ!」
「おや、まだ理解できない? では教えてあげますよ、大天狗様。あなたは最初、天魔様にどう宣言しましたか? これが真実だと、そう言いませんでしたか? 椛一人がすべてをやったこと、それがすべてだと」
扇をパタパタと振る文の仕草は周囲にどう映っているのか。
大天狗を馬鹿にするだけの生意気な若者としか映っていないのかもしれない。
しかし、肩が触れるほど近くに座っているかわかる。
文は、震えていた。
口では強気でも、指先を震えさせて恐怖を覆い隠していた。
ここ一番の大勝負に自分自身を賭ける、地獄が手招きする場面で感情と必死に戦っていた。
「それで、私が椛と一緒に居たと宣言した後、なんと言いました? 私と椛が許せないと簡単に言ってくれましたね? あれはどういうことでしょう。あなたはもう一つの話をはたてから聞いたんでしょう? 同じ証言であるというのに、何故私の方を選んだのです? まるで、私がその場に居たことを目撃していたような口ぶりですが?」
「そ、それは……」
「まだあります。子供があの場所に来たとき、椛の名前を知っていたんですよ。椛が名乗ったのかと思い、子供を運ぶときに聞いてみたんですが違いました。では誰に聞いたのかと問うと、そうしたら私よりも大きい女の人に教えてもらったというじゃありませんか。その人に『悔しいならその手で恨みを晴らして見ないか?』とね。それと同時に刀も貰ったそうで。弱いとは言っても、人間の子供が天狗を傷つけられる武器ですよ? そんな便利なものをほいほいと渡すなんて恐ろしい。次は我が身かなと恐怖を覚えましてね。大天狗様も心配でしょう?」
「……ああ」
「それで、ちょっと気になりましていろいろ調べてみたんですよ。ほら、私たち天狗って頭の帽子と履き物を取ったら普通の人間に見えるじゃないですか。だからそういう裏切り者が天狗に紛れてるんじゃないかなって思いまして。もちろん、まさかそんな人いないだろうなと半信半疑でしたが、倉庫を探してみたんですよ。念のためですよ、念のため。ほらほら、昔の殺伐とした時代に、裏切り者とかを倒すための武器があったりするじゃないですか。まさかそういうの盗まれてないかと心配していたのですが、あそこの管理状況は危険ですね。天狗であれば、簡単に何でも持ち出せるそうですよ。そういう武器みたいなのも、殺傷力の極めて低い道具だけは持ち出し可だそうで。あ、でもこれは、『大天狗様』か『大天狗様の書状』がないと持ち出せないそうなんですが……さて、もう少し続けましょうか?」
「…………」
誰かが息を呑む声だけが聞こえた。
文が言う情報は、誰かを名指ししているわけではない。
けれど前後の話の流れが、犯人が誰であるかを示していた。
それでも大天狗は反論の一つくらい返すはず。
そう思っていた。
しかし、文の問いかけからしばらく経過しても大天狗は声一つ上げない。
青い顔のまま、頭に両手を置く。
焦燥と恐怖だけがその顔に残り、すがるように視線だけを前に送る。
今の会話のどこに彼女をそこまで追い詰めるものがあったのかと、もう一度内容を思い出してみて。
「――っ!!」
気づいた。
いや、思い出した。
書類仕事をする天狗なら一度は学んだことがある。
倉庫の履歴を閲覧できるものは、天狗の最高責任者か、その許可を得たもの。
『天魔様か、天魔様の命令で動く者』
その二つしかありえないのだ。
それなら、文の妙な登場の仕方も……
天魔様の段取りがあるという言葉も……
すべて繋がる。
「のぅ、大天狗達よ。お主等が白狼天狗を下っ端と見ていることは知っておるし。今更その認識を改めろとは言わぬ。しかしじゃ、我はすべての天狗の長、大天狗から白狼天狗まで、すべてを我が子のように想っておる。椛も文も、我のかけがえのない娘じゃ。それを自らの望みのために犠牲にするというのであれば、良いな?」
頭が自然に下がる。
天魔様の言葉が嬉しかった。
胸に響いたということもある。
けれど、それ以上に……
部屋のすべてを覆い尽くしても足りないほどの妖力に、私の体が自然に反応していた。
誰も、声すら発せない圧力の中。
天魔様の低い声の名残が、いつまでも静寂を支配していた。
◇ ◇ ◇
「じゃあ、最初から文と天魔様は繋がっていたってこと?」
「まあ、そうなりますね。正確に言えば、私があなたに手を出した後にですけどね。天魔様から呼び出しを受けまして、不穏な動きをする大天狗がいるから手を貸せと、それでいろいろ動き回っていたわけですが、騒動の方からやってきてくれたので助かりましたよ」
「助かったのはこちらだ。文がいなかったら、私はこの山にいられなかったろう」
「そうですか? 改まっていわれると照れますね。何か言うことを聞いてあげたくなってしまいます」
「そうか、なら、一ついいかな?」
「ええ、なんなりと」
だから聞いてみることにした。
今、私が置かれている状況について。
「降りろ」
「お断りです」
散歩でもしようと滝の裏を出た。
そこまでは何の変化もない朝だった。
森に一歩入り、
新鮮な空気を吸い込み、
両手を上に大きく背伸びをしたとき、
無防備な両肩目掛け、文が降ってきた。
つまり現在、文を肩車している状況なわけだ。
こんな場面を見られたら、なんと噂されることか。
「さっきなんでもいうことを聞くと」
「ええ、聞きました。聞くだけですけど♪」
「太もも噛む」
「ちょ、ちょっと! わ、わかりました。降りる、降りますから!」
布に覆われていない素肌に息を吹きかけてやると、文が暴れ始める。
本当に噛むと思ったらしい。
それでも私の頭が邪魔で中々降りられないのか、じたばたと両足を動かすばかり。
仕方ないので腰あたりを掴んで、ひょいっと頭を抜いてやる。
普通なら空を飛べばすむ話なのだが――
「いやぁ、飛べないというものは実に不便で」
「だからと言って私に乗る意味がわからない」
昨日の騒動の中、喧嘩両成敗という意味で私と文、そしてあの大天狗には軽い罰が科せられた。
それは十日間空を飛ばないこと。
主に地面を走る白狼天狗としては一般生活に支障をきたさなかったが、鴉天狗の二人にとっては空を飛べないことがことのほか重いようだ。
哨戒任務から外されたためいきなり休日が飛び込んできた私と違い、一般生活が飛ぶことと同義な文は苦労しているだろうと思ったらこれである。
「だって、椛は白狼天狗最速と噂ですし。これは乗るしかないかなと」
「乗るな! 確かに、天魔様の手伝いをしておいて飛べないというのは可哀想だとは思っ」
「ああ、後から取材に必要な最新式の道具を頂くということで話が付きました」
「前言撤回」
「つまり、乗っていいと」
「そっちは撤回してない!」
まったく、この鴉天狗は遠慮がないというかなんというか。
決まり事が厳しい天狗社会でどうしてこうも羽を伸ばすことが出来るのか。
私がもし文の立場であったなら、天魔様の名前を聞いただけで体が固まってしまうはずなのに。
文はどうして、こうも自然体でいられるのか。
「さて、椛、そろそろ行きましょうか」
「いつそんな展開になった」
「え? 恩義を感じて、一緒に取材させてくださいって」
「誰が言った! それ、誰が言ってた!?」
「あなたの母親から、はいこれ手紙」
「母上ぇ……」
『恩を返せない大人に育てた覚えはない』
本当に母の字でそう書いてあるのだから恐ろしい。
まったく、本当にもう。
せっかく決意したというのこれじゃあ台無しだ。
「私の足が欲しいだけなら、素直にそういえば言い」
「おや、何か勘違いされていらっしゃるようで」
「そうでないなら、一体何だと――ひゃぅんっ!?」
思わず身を引いてしまう。
仕方ないだろう。
いきなりだ、いきなり文が私に顔を近づけてきたから。
顔は、顔は赤くなったりしていないだろうか。
耳もぺたんっと倒れていないだろうか。
「ふふん、何を素っ頓狂な声を上げているのやら、私はあなたのその目に惹かれたのですよ」
「目?」
「そうです。あなたの目は遠くまで見渡せるのでしょう?」
「ああ、それで遠くの事件を覗いたりするためか」
やはり、能力目的か。
結局、文も白狼天狗を道具としか見ていないんだと息を吐いた。
「それもありますが。そんな能力を持つあなたが私と同じものを見たら、どう感じるのか。どう受け止めるのか。いろいろな風景を共に眺めてみたいと思いまして、なかなか興味深いと思いませんか?」
「…………」
気を抜いた瞬間に、そんなことを言うのは卑怯だ。
瞳を見つめる文の顔から、視線を外せなくなってしまう。
もう言うまいと決めていた言葉を、吐き出したくなってしまう。
「文、いいぇ、あや、さん。一度しか、言いませんから……絶対、忘れないでくださいね」
どんな顔をしているんだろう。
きっと、真っ赤なんだろう。
もう、みっともない赤くて、耳なんてふにゃふにゃで。
ただ、目の前に文さんの顔があることしかわからなくて。
「私も、あなたと同じ風景を見てみたいです、ずっと一緒に」
桃色の唇に、そっと噛み付いた。
◇ ◇ ◇
「はいはーーーい。惚気話、ご馳走様ぁ~~~っ!! なんなの、あれなの? シングルな私への当てつけなの?」
「え~、はたてが聞きたいって言ったんじゃない」
居酒屋『風神楼』。
妖怪の山の中にぽつんっと立っている居酒屋の中では今日も様々な話が飛び交っていた。
上司への愚痴から始まり、私生活のことから恋の話まで。
ここで聞き耳を立てていれば天狗社会のすべてがわかると言っても過言ではない。
そんな居酒屋のテーブルの一つに、二人の鴉天狗が顔を赤くしている。
それでも、一人はどこか不機嫌そうに、どんっとテーブルを叩いた。
「私が聞いたのは、そっちじゃなくて、あれよ。結局あの事件のとき、なんで大天狗様が椛を目の敵にしたのかってこと!」
「白狼天狗だから、とかじゃダメ?」
「ダメ! ぜったい!」
「そっかー、でも知ってると思ったんだけどなぁ。ある意味この世界の常識みたいなもんだし」
「だって誰も私に教えてくれないんだもん」
「知ってると思ったか、巻き込まれて可哀想だったから話を避けたって所かなぁ」
「そういうのはいいの、真相教えなさいよ」
仕方ない、と。
文は頬をぽりぽり掻いて、口をはたてに近づけていき。
「えーっと、ですね。大天狗様の初恋が、椛の父親だった」
「……はい?」
「いやぁ、なんとも複雑な関係で」
「あ、え、いや、ちょっと、ちょっと待って! 話し進めようとしないでよ! じゃあ何? ナンデスカ? あの大天狗様って、白狼天狗の男に惚れたわけ!」
「ええ、べた惚れだったの。上司の権力を使ってでもくっつこうとしていたらしくて。もちろん、鴉天狗時代にね」
「で、結局奪われたと」
「はなから相手にされていなかった。周囲の天狗たちはそう語る」
「うわぁ……ご愁傷様。え、じゃあ椛って、その痴情のもつれの餌食になったってこと」
「はい、そのとおり。過去の恋だと忘れていたところで、犬走の苗字を新聞で見つけ、いてもたってもいられなくなった。反省文の中で本人が書いていたから、間違いない」
「恋愛って怖いんだなぁ」
「まあ、酒の肴にそこそこ良い話だけど、多くは語りたいとは思えない」
「私だって何回も聞きたくないかな」
やっと本当のことを知ることができて胸のつっかえが取れたのか。
はたてはコップに注がれた酒を一気に飲み干し、店員に新しい飲み物を要求した。
「で、さっきの惚気に戻るんだけどさ」
「どうぞどうぞ♪」
「なんか噂じゃ、椛に噛み付かれてばっかって話なんだけど? どうなの、本当はうまくいってないんじゃない? 見得張ってないで正直に言いなさいよ、このこの」
「む、失礼な。関係は上々、そこまで聞きたいなら教えてあげる。椛がね、私専従の白狼天狗になるって言った日のことなんだけど」
「うんうん」
「なんか家に椛がいたのよ、しかもなんか三つ指ついて玄関で頭下げてるの。何事かと思って家の中確認してみたら、なんか寝室に二つ布団並べてあって、しかもすっごいくっついてるのね! これにはもうびっくりよ! 何してるのかって聞いたら、あの子、なんて言ったと思う?」
「ああもう、もったいぶらないで教えなさいよ!」
「これが、下に付く白狼天狗がこうするのは当たり前だと、先輩から教えてもらったって! 冗談をそのまま受け止めて実践しちゃったのよ!」
「うっわー、私だったら引くわー」
「まあ、可愛いと思った私の負けでしょうね。それで、その日から急に甘えるようになってね、しかも甘え方が素直じゃないんだこれが。静か~に、畳の上で擦り寄ってきて、『耳が聞こえにくくなった』とか言いながら、私の腕とかを甘噛みしてくるのよ。耳掻きしてって素直に言えばいいのにね」
「ああ、それでよく噛むってわけねぇ~、なるほどぉ~」
「ふふふ、いいでしょう?」
「いいかもしれないわね、で、文?」
「なに?」
「後ろ、噛まれるわよ?」
「え?」
その夜、偶然姿を見せたある白狼天狗の噛み付きが――
店を揺らすほどの悲鳴を生み出したのだった。
m?
素晴らしかった…最後の方は読んでて気持ち良かったです
これは良い妖怪の山。
椛や文たちはもちろん、他のキャラクターたちも上手く動いていたと思います。
特に天魔様がえらく男前でした。
良いお話をありがとうございます。
DSでの設定も生きててとても好き。
少しロリ天魔様が寛大過ぎる気が。
大天狗の犯した罪は文や椛よりも格段に重いだろうに。
ただ、上の人も言っている様に大天狗の罪が軽いと思います。
ただ、上の人が言っている様に大天狗の罪が軽いと思います。
間違って二回、評価のコメントを送信してしまいました。
今後、このようなことが無いよう気をつけてます。
とてもとてもよい妖怪の山でした。また読みたいです。
大好物だからむしろGJ。いいぞもっとのろけて!
まあいい過去話なんだけど、大天狗の罪は軽いし、
母親死んだ子は逆恨みで傷害事件を起こしたんだから例え幼女と言えど
何らかの罰は受けないといけない気がする。
椛かわいかわいいようわあああああああ!!!
話の展開に引き込まれ夢中で読んでいました。文章も不自然な部分が無く読みやすかったです
締めの部分も最高でした
実際のところ社会的に抹殺されたも同然ですよね……。
血を見たくないという椛の願いにも適っていますし、意外にも妥当な罰だと思えました。
いやあ、痴情のもつれってのは恐ろしい。しかも大天狗一人でもつれてたところに椛が絡まっただけって・・・哀れ也、大天狗。
>>迷わずある一転に刃を振り上げ。
一点?