「そういえば私、朝起きたら最速になってたのよね」
「はあ?」
博麗神社の縁側に、悲鳴にも似た素っ頓狂な声音が響いた。
その響きに違わぬ形に表情を歪めた文に、霊夢は憎たらしいぐらい誇らしげに胸を張った。
一瞬、文はカメラにそれを収めたくなったが、どうせ後で苛ついて破棄するだろうので、頭の中だけに留めておく。文が脳内で三回は霊夢の写真を破いたところで、ようやく霊夢は反応が芳しくない事に気づいたようだった。
「いや、だから最速になってたのよ。朝起きたら」
「微妙に倒置を用いられましても仰っている事は何ら変わりないのですが。大丈夫ですか? 何でしたらほっぺたつねってさしあげましょうか?」
「夢の話をしてるんじゃないのよ。馬鹿にしないで」
どう考えても馬鹿にされているのは文の方である。
幻想郷最速と言えば、曲がりなりにもなどと頭につけなくとも、鴉天狗で新聞記者の射命丸文の代名詞だ。文としてもその事実に相応なプライドがある。霊夢の妄言を笑って見逃すわけにもいかない。
口から出任せのお調子者を、さてどのスペルでこらしめようかと吟味しようとしかけ、待てよ、と文は考えを改めた。
「成程、成程。では詳細を聞かせてもらってもいいですかね? こんな飛びっきりのネタ、見逃しては新聞記者の肩書きが泣くというものですから。ささ、最速らしい感じでちゃっちゃと話してみてください。さあ、早く」
懐から万年筆と文花帖を取り出し、文は内心ほくそ笑んだ。
霊夢が嘘を早々に認めようが最期まで押し通そうが、その醜態を記事にすれば霊夢があちらこちらで後ろ指さされる未来しかない。
舌なめずりするように、文は万年筆を指で一回転させようとした。が、指先には空を切る虚しい感触があるのみだった。
頭に疑問符を浮かべながら、ひとまず文花帖をしまって自らの身の回りを確認してみる。しかし、服をはたいても、床下を覗いても、万年筆は見当たらない。
「あやややや? 霊夢さん霊夢さん、私の万年筆がどこかに落ちていませんか? どうも落としちゃったみたいで。これじゃあ取材が出来ませんよ」
「ああ、口頭で伝えるの遅くてかったるいから、代わりに書いておいてあげたわよ。ほら」
「……えっ」
振り向きざまに視界に飛び込んできた光景に、文はたまらず声を漏らす。
霊夢が差し出してきたのは見まごう事なき文愛用の万年筆だった。
それだけならまだいいだろう。気付かぬ内に落としてしまったのを、霊夢が拾ったのだと説明がつく。
しかし、ついさっき懐にしまった筈の文花帖までを霊夢が持っているというのは、一体全体どういうことなのか。
「だから言ったでしょ」
そして、文字通り文の眼前に、文花帖の一頁が突き出される。
『我是最快的幻想郷』
何故中国語。
「ほら、私って朝起きたら幻想郷最速になってたから、ついでに最速で勉強してみたのよ。そして最速な私と比べてあんまりにノロマなあんたの仕事道具奪って試してみたってわけ。Do you understand?」
「何で今度は英語になってるのよ」
思わず素の口調が出てしまい、いけないいけないと文は咳払い一つしてから、突き出されたそれを受け取る。
霊夢の勝ち誇った顔に天狗式ヒールをめり込ませてやりたい衝動を、文花帖の一頁を破り捨てる事でどうにか抑えた。帰宅した後、思う存分粉微塵にしてやろうと胸に誓う。
「それで、今のはどんな手品を使ったんですか? いつぞやの異変の時に見せた亜空穴とやらの応用か何かでしょうか」
「亜空穴? そんなの使ってないわよ。最速な私の最速っぷりを発揮しただけ」
「あー、はいはいそうでしたね。すっかり失念しておりました。ですが今のだと、ちょっと旧最速の私程度では分かりづらかったもので。もっと万人にも理解し得る方法で、霊夢さんの最速っぷりを見せていただはしないものかと」
さあ、これでもう小細工は出来まい。腹の内を隠そうとも努めないまま、文は意気揚々と畳みかけた。こうしてねちっこく迫り続ければ、いずれボロが出るに違いない。
笑っていられるのも今の内と、文は二人の霊夢を見た。
「ところで、何で私は最速になったのかしらねえ」
「いや知りませんけど」
右の方の霊夢が、文の言葉などお構いなしにのんびりと呟いた。話が自分の意図とは別のところに行く気配を感じ、文は苛立ち混じりにグリップを叩く。
「だって朝起きたら最速になっていたんでしょう? ならそれでいいじゃないですか」
「いや、そうなんだけれど。でも気になるじゃない。昨日何かやったかしら。私は何か覚えてない?」
「うーん、昨日のおゆはんはなんだったかしら。そこに何かありそうだわ」
「別に貴方の食卓について伺いたいわけではないのですが……」
「でも重要な事でしょ」
文の背後から更なる霊夢が口を挟んできた。ただでさえ二対一で多勢に無勢を感じていたところに新手が来たのではますます話がそれてしまう恐れがある。それが霊夢だというのだから尚更である。
肩越しに警戒した視線を送っていると、ふと右の方にも何かの気配を感じる。
文がそちらの方を向くと、居たのはやはり霊夢だった。
「確か昨日は寒かったから、適当な物突っ込んだ鍋にしたと思うんだけれど、何いれたかしら。ねえ、私は何を食べたように見える?」
「そんなの分かるわけないでしょうに。……まさかとは思いますけれど、鶏肉とか食べてないですよね?」
「あ、食べたかも」
「そうだ。人里で鶏肉が安かったような気がするわ」
「ちょっとちょっと、お二人とも何て物食べてくれてるんですか! しかも、よりにもよって私の来る前日にだなんて!」
「あんたが勝手に来たんでしょうが」
「そうよそうよ」
四方からさながら立体音響のようにして聞こえてくる声に文は辟易とした。ぐるぐるする頭に振り回されるように、首もふらふらと頼りない。
そうして揺れた視界に無数の霊夢が飛び込んでくる。それらが一様にからかい顔で見つめてくるので、文としては針のむしろといった具合いである。
…………。
「霊夢さん?」
「何よ」
「いきなり」
目の前の霊夢が二人。口々にそう言った。
「で、こっちも霊夢さん」
「当たり前でしょ」
背後に立つ霊夢が憮然とした声で答える。
右を向いても左を向いても霊夢霊夢霊夢。
「いやいやいやいやいや! 何で霊夢さんがこんなに沢山居るんですか!? 今度はどんな手品を使ったんです!?」
「だから」
「手品なんか」
「使ってないってば」
「「「「だって最速だし」」」」
「ここぞとばかりに声を重ねないでください!」
気付けば四人の霊夢が肩を並べて文の眼前に立ちはだかっていた。
こればかりは亜空穴云々で疑いようもない。幾ら何でもこれだけの数を同時に、しかも文と一通り掛け合いをこなすだけの時間持続させる事など、今までの霊夢の力量を鑑みるにありえないことだ。
しかし、それが今まで通りでないとしたら?
間を縫って魔が差し込んできたかのような思考を、文は必死に振り払った。
それを一人確かめるように、そっと口を開く。
「そ」
「そんなはず、ない」
「……な」
「何で分かったのかって? ほら、私は最速になったから。音速を超えて声が出せるのよ。――その理論はおかしい!」
最初の一文字さえ言わせてもらえなくなった。
もう何を言っても先読みされてしまいそうで、文は胸の内を吐き出せないもどかしさに口を開けたり閉じたり忙しそうにするしかなかった。
まだ霊夢の所業が狡猾な手口による誤魔化しであるという気持ちはある。しかし、だとしても文が手玉に取られたという事実が綺麗サッパリ水に流されるという事ではない。
羞恥と憤慨とがないまぜになり、文の中で渦巻いた。
「それで? まだ私が最速であるというには足りないかしら。そろそろ疲れてきたんだけど」
「うぐぐぐぐ……」
唸り声を上げる文に、霊夢はこれ見よがしにため息をつく。
「往生際が悪いわね。旧最速さん?」
そして、文の堪忍袋の緒がとうとう切れた。
「――なさい」
「え?」
「そこまで言うんだったら、私と勝負しなさいと言ったのよ。もう二度とそんな戯言叩けないよう、打ち負かしてあげる」
新聞記者としての顔を完全に捨てて、幻想郷最速の天狗、射命丸文が宣言した。
◇
「勝負するのはいいけど、どんな方法で? 弾幕ごっこじゃ速さは比べられないわよね」
「そちらで決めて下さって結構です。貴方が何をほざこうと現時点の最速は私。貴方は挑戦者の立場にあるのですから」
少し間を置き、文は冷静さを取り戻した様子だった。ただし、それは霊夢への対抗心が削がれたという事を意味するものではない。その心中はより一層、堅牢な氷を研ぎ澄ましたかのようになっていた。
そんな文の事など眼中に無いとばかり、のんきなままに霊夢は逡巡する。
「面倒だから人里までにしたいところだけれど、それだと流石に面白味が無いからチェックポイントを設けましょう。ちょっと遠回りになるけど魔理沙の家でいい? そこを通って、先に龍神像前に着いた方の勝ち」
無論、家の主である魔理沙には何の断りも入れていない。
その事を言いだしっぺの霊夢は愚か、文ですら微塵たりとも考えようとはしなかった。
「別に構いませんが、チェックポイントを通過した事をどうやって証明するんです?」
「分かりやすい方法であんたに見せてあげる。どうせ私の方が先に通るんだから」
「……分かりました。それでは早速始めましょうか」
「じゃあそっちで適当に始めていいわよ。ちょっとぐらい出遅れたって余裕だろうし」
「とことん天狗をおちょくってくれますね」
「だって」
分かりきった言葉の続きを耳にいれようともしないまま、文は意を決して敷石を蹴った。
境内に風が吹き荒び、一瞬にして文の姿が遙か上空へと駆け上がる。曲線を描くように、上昇しつつも文の身体は魔法の森へ真っ直ぐに向かっていた。
霊夢が追いぬくどころか、追い付いてくる気配すらまるで感じない。やはり霊夢が見せた様々な事柄は何らかのまやかしだったのだと納得する。だが、その納得の中にわずかばかり釈然としない物を抱えているのも確かだった。
ただ独り風を切り裂きそこまでを思考すると、もう既に魔法の森は眼下へと差し迫っていた。
減速しないままに着地して、勢いそのままに地面を駆け抜ける。
あわや扉に体当たりするすんでのところでややブレーキをかけて、文は霧雨魔法店の門戸を叩いた。
間髪入れずに扉が開き、家の主、霧雨魔理沙が顔を出した。
「ごめんください! 霊夢さんはまだ来て――」
「おお、ブン屋じゃないか! 待ってたぜ。なあ、ちょっと聞いてくれよ、さっきまで霊夢が居たんだけどさ」
「えっ」
「凄いんだよ! あいつ最速になったんだぜ!」
文が驚愕を声にもらしたのを意に介さずに魔理沙はまくし立てる。
「あいつが来た時私はまだ寝てたんだけど、気が付いたら寝間着から着替えさせられて食卓につかされてたんだよ。何が起こったのかと思ったら、目の前に霊夢が居てな。これはどう考えても霊夢が原因だろうと、とりあえず文句の一つでも言ってやろうと思ったんだが、目の前にある味噌汁とシャケがこれまた美味しそうだったんだよ。それで食べてみたら見た目通りに美味くて夢中で食っちまったぜ。流石にこれだけの物作った霊夢には、癪だが礼の一つや二つ言ってやろうと思ったんだが、その時にはもう居なくてさ。そんでもって――多分あいつが掃除したんだろうけど見違えるほど綺麗になってた――部屋を見渡したら、ほらそこにやたら季節外れの花がさされた花瓶があるだろ? あんなもの私の部屋には無かったはずなんだが。気になって近づいてみたら書き置きがあったんだよ。そこに書いてあった事なんだけど、お前宛てに」
「最速だから!」
もう辛抱ならずに文は叫んだ。そのまま魔理沙に背を向け飛び立つ。加減をしなかったので、せっかく綺麗になった部屋が再び滅茶苦茶になったかもしれないが、文はそれを確認しようとも思わなかった。
もう千余年も生き長らえ、羽ばたき続けて。とっくに風が目に染みる事などなくなったはずなのに。文の目尻には涙が浮かんでいた。
ぼやけた視界に、神社に取り残したはずの姿が見えた。飛んでいるというよりは、ただ浮かんでいるといった方がいい。霊夢は完全に静止したまま、射命丸を待ち構えていた。
魔理沙相手に短く吐き捨て、それだけにしようと思っていた文が、それを見て再び声を張り上げた。
「分かってますよ! 最速だからって言いたいんでしょう!? だから魔理沙さんが気付かない間に部屋の掃除も出来たし着替えも朝食も用意してあげられたんでしょう。朝食がやけに美味しかったのは朝の内に勉強したからなんでしょう。季節外れの花があったのは寄り道して幽香さんに都合してもらったんでしょう。メモだって残せたんでしょう。分かってますよ、そんな事は! 最速だからそれが出来たと言いたんでしょう、だからそれが出来ない私は最速じゃないんでしょう、そうなんでしょう!?」
言いながら、既に文は霊夢を追い越していた。棒立ちになっている横を突き刺すようにして、尚も霊夢から逃れられない様子で必死に叫んでいた。
もう霊夢が最速である事の真偽についてはどうでもよくなっていた。ただ、自分が思いの外幻想郷最速の称号に矜持を抱いており、またそれが霊夢によって汚された事実に文は涙していた。
腹の中にたまった醜悪な感情は、敗北を認め立ち止まったところで解消出来そうにもない。それならばいっその事、こうして相手が油断している内に勝負を決してしまって、形だけの勝利だけでも手にした方が幾分か報われるように思えてならなかった。
今までで出した事もないような、正真正銘の最高速度で文は人里へと辿り着いた。
野分並みの凄まじさを伴った突風に、たまたまた表に出ていた人々は立つ事すらままならず、ただ慄くしかなかった。
その姿も声も、文には感じ取る事が出来ない。頭には最早、龍神像の事しか残っていなかった。
しかし、そんな文の中に強引に割り込むものが、否、文自ら意識せざるを得ないものが、そこにはあった。
言うまでもないだろうが、それは紅白の衣を身に纏う少女だった。
「らららららー♪ らーらーらららー♪ らーららららー♪ ららららーららー♪」
余裕綽々と紡がれる鼻歌に、射命丸の心身は完全に負けた。
それでも最後まで走り抜けたのは、今の今まで射命丸を支えていたいかなる感情によるものでもない。ただ単純に全身の力が抜け、スピードが殺しきれなかったからだった。
そして、その直線上に居た霊夢を巻き込んで文は地面に倒れた。
「何すんのよ。重いでしょうが」
「すみません……。でも最速なら避けれたでしょう」
「余所見してたし、流石に反応しきれひゃうううううん!」
「はい?」
「む、胸っ! 胸さわらな、あっ、ああん、ああああああああああああああああ!」
すわ何事かと見てみれば、成程霊夢の言葉通り、文の両手はしっかりと霊夢の小ぶりな胸を鷲掴みにしていた。打ちひしがれ鈍くなった頭にも、その手から伝わる感触がいかに柔らかいかは理解する事が出来る。
それと同時に、霊夢の頬が上気し、明らかに呼吸が乱れている事も文には感じ取れた。瞳もこころなしかとろんとしていて、明らかに平時の霊夢とは様子が異なっている。
理解は追いつくものの思考にまでは繋げられず、無意識の内に文は霊夢の胸をもう一回揉んだ。
「ちょ、ちょっと、ひゃっ。だから、胸は、んあっ、ら、らめって言ってるのに。んあぁ、ああっ、ああんっ、あ、あ、ああああああああああ!」
「霊夢、さん」
呟いて、文の頭が今一度働きはじめた。
博麗霊夢は最速である。これはもうどうしたって疑いようがない。ならば、最速であるという事そのものについて考えればいいのだ。
文が今まで名乗っていた最速とは、ただ単純に駆け抜ける際の速さの事だった。
しかし、今日の霊夢の最速とはそれだけではない。ただ単純に素早いだけであるならば、一気に本を読破することも、部屋の掃除や料理をこなす事までは出来ない。
それならば、霊夢は何もかもにおいて最速となっているのではないか。
だから、何がしかへの反応ですらも最速になっているのだとしたら。
確かめるように、文は霊夢と視線を合わせた。ちなみに、そうして思考している間にも霊夢の胸は揉みしだかれ続けている。
「あ、文ぁ……」
その一言に、文は一瞬だけ霊夢から最速を取り戻し反応したかに見えた。
そして、人里にあられもない声が絶え間なく響くことになった。
◇
花果子念報 第百二十五季 霜月の四
【幻想郷一二の速さ、結ばれる】
先日、博麗神社の巫女、博麗霊夢と、新聞記者の鴉天狗、射命丸文が祝言を上げた。
式場にてこちらから話しかける前に向こうから事の成り行きを説明されたが、あまりに早口だったため聞き取れず詳細は不明である。
噂によれば二人は人里で乳繰り合った後に挙式を決断し、その日の内に式を決行したそうだ。
事実だとすれば交際期間が全くないままのスピード結婚という事になる。
それもそのはず、この二人は今や幻想郷においてワンツーフィニッシュを決める速度の持ち主なのだ。
先日まで幻想郷最速を名乗っていたのは射命丸文のほうだったが、それを博麗霊夢が塗り替えたとのことだった。
その博麗霊夢の最速振りと、両氏の仲睦まじさをさんざん見せつけられた旨、紙面に残しておく。
尚、二人の間には既に第一子がもうけられているとの事。出産予定日は明日となる予定だそうだ。
>たまたまた表に出ていた人々
たまたま?思わず笑ってしまいましたがw