「全ての理は壊れるものよ。理屈も。理由も」
その声は、鈴の音のようにころころと心地良く響いて、とても甘い。
何より甘いのは、その、言葉。
「貴方がウンと答えてくれるなら、私は何でも壊してしまうよ。私と貴方は、同じものからできているわ。ねえ」
左手が楽になる。
細く冷たい指が、私の頬をするりと撫ぜる。
欲しいものがすぐ手許にあって、頂戴とただ一言答えれば、刻を待たずして手に入るなら。
私だって、こんな風に愛おしく撫ぜるのに違いない。
ならこの指は、私の指だ。
指先が、私の唇にそっと触れて。
「とても嬉しいの。貴方が来てくれて。ずっと一緒にいれば良い。ね、一緒に楽しくお食事しましょう」
私、は――
◇◇◇◇◇◇
晦日(つごもり)――月の終わり。
私はいつもの寝床で膝を抱え、外の景色をぼんやりと眺めている。
朽木のうろから覗く景色は、内側とさして変わらない。
うろの内側に光は無い。闇色でべっとりと塗り潰されて、手の触れる先が木肌かどうかさえも怪しい。
なら外側はというと、月明かりは当然無いし、曇天の夜空に星明かりも無いから、やはり同じ事だ。
ただ内側よりも広いから、様子だけは知れる。鬱蒼とした林の姿は、黒木綿の幕へ蝋をこすり付けたように頼り無く見える。
顔を膝に埋める。するともう、辺りの様子さえ知れない。
輪郭さえ無くなる。闇だ。
闇は好きだ。というよりは、闇を操る私にとって体の一部みたいなものだけれど。
だからこんな清々しい闇夜には、ふよふよと外を飛び、妖精をからかい、夜の妖怪と世間話して、木の実や小動物を捕えて食べながら面白可笑しく過ごすんだ。……いつもなら。
けれど今はそんな気分になれない。いつもそうだ、晦日の夜は。
外に出たくない。
痩せ衰え、もういない月を想うのは耐え難い。
この間、そんな話をある吸血鬼にしたのを思い出す。博麗神社で食事をした時に出会った。
……何と言ったっけ。太古の昔に噂された幻想大陸みたいな名だった気がする。吸血鬼は噂なんだとか言っていたし。
悪い奴じゃなかった。良い奴かどうかは解らない。変な奴、というのがしっくりくる。
晦日の夜が悲しくないなんて、変な奴に違い無い。
月は満ちればやがて欠ける。それは道理だと吸血鬼は言った。
それはそうだ。だから欠けた月がいずれ満ちるのだって、理屈の上では解っている。
だから理屈じゃないんだ、悲しい気持ちは。
ちいん、と耳鳴りがする。それからわさわさと音を立てて、出入口に何かが停まった。
顔を上げると一匹の蝙蝠が居た。うろの入口で逆しまになり、胡乱な景色に際立つ瞳で私をじいと見つめている。
はてなと思い、私もじいと見つめ返す。胡坐をかいて尻を向けたような鼻で、ぶすな顔立ちの蝙蝠だ。
…………。
上唇をひと舐め。悲しくても腹は減る。
そういえばここ数日は、木の実しか食べていない。神無月も終わりで、殆どの小動物は暖かな場所へ隠れた。もう雪だって珍しくないから、多分この蝙蝠も暖かな場所を求めてここへ来たんだろう。
むんずと捕まえ、頭から。
「いただきまー……ぎゃあああッ」
鼻頭を噛まれた。こン畜生何するんだ。
「全く野蛮だね、お前は。私の眷属をいきなり食べようとするんじゃないの」
鼻を押さえて拳固を振り被ったところに、妙な声がぶつかった。誰か居るのかしらん、と首を巡らせてみたけれど、暗くてよく判らない。外に首を出してみたけれど、やはり誰も居ない。
さても奇怪。よもや妖怪が妖怪に遭うとは思わなんだ、と首を傾げてみる。
「何しているの」
「何って、声はすれども姿は見えず」
「食べようとしたのに何で姿が見えないのよ」
そう言われてうろに首を戻すと、蝙蝠が天井で翼を休めてこちらを見ていた。
「私蝙蝠に知り合いなんて居ないよ」
「眷属だと言ったでしょう。彼女を通してお前に話しかけているの。ねぐらを聞いていなかったから探したわ。早く館にいらっしゃいな、もうすぐ準備も整うから」
「え、何の準備が整ったの」
「……十日夜の夜、紅茶会に招待したでしょう。もう忘れたのかしら」
「ああ」
確かこの間、神社で一緒に月見をした折、今度紅茶会をするから来いと誘われたんだ。そうだ、その吸血鬼の名前。
「レムリア」
「違う。レミリア・スカーレット。……ふむ。けれどお前は幻想というものを理解しているね。中々素敵よ。遅れた事は許してあげるから、早くいらっしゃい」
「うんわかった」
素で間違えたのに、何やら感心された。その分には罪も無いので、そういう事にしておく。
誘われた勢いで外に出たものの、やけに寒い。風は凪いでいるけれど、霜月よりの冷たい空気は衣服を凍えさせ、衣服の擦れる度に薄氷を肌へ当てたような心地がする。冬も構わず闇夜を遊んで過ごす私でさえ、いささか身に沁みる。
吐く息は白く、刹那に闇へ溶ける。吸い込む夜気はきりりと冷え、鼻を抜けて頭を鮮明にする。――ぼんやりとした風景も、幾許か鋭い輪郭を帯びた。はたと気付けば、いつも私が遊んで過ごす林だ。そんな当たり前の事に気付いただけなのに、何だか少し嬉しくなる。
なるほど、いくら悲しくても引き籠もってばかりでは気の毒だ。寝床の温もりにふやけていては、馴染みの風景さえ頭から溶け出てしまう。紅茶会の事を忘れていたのも、全くこのためだ。
何処にいたって悲しい事に変わりないなら、外に出るのも悪くない。ちょっとした嬉しい事が溶け出す前に、こうして夜気に頭を晒して、少しでもましな形に固めないと惜しい気がする。
そんな風に考えながら、私は蝙蝠の行先――紅魔館を目指して闇空を飛んだ。
◇◇◇◇◇◇
昏く広がる湖を越え、輪郭だけの森を抜けると、塀や庭木に囲われた館へ至る。
窓灯りは少ない。その明滅する度にひとつ、館は紅く脈打つ。
紅魔館と、そこに棲む者達だけが活きている。
「やあ、こっちこっち」
門前で、輪郭だけの妖怪が私に手を振る。外套に襟巻をしている。
蝙蝠は無視して行ってしまったけれど、私は一度門前に降りてみた。
「こんばんは美鈴」
「はい今晩は。今夜はお客さんですね、途中まで案内しますよ」
「美鈴は一緒に紅茶会しないの」
「私は後で頂くんですよ。咲夜さんが用意してくれるんです」
輪郭だけの妖怪は、美鈴の顔をして微笑む。彼女もまた紅魔館に棲む者だ。だから上気した頬は、鮮かに紅い。
「さ、皆さんお待ち兼ねですから行きましょうか」
「皆、ってレミリアと咲夜だよね」
「他にもいらっしゃいますよ。まあお楽しみに。――ようこそ紅魔館へ」
鉄柵門をきいと開き、美鈴は私に元気良く一礼した。こんな応対は初めてで、少し照れくさい。しどろもどろでいると、美鈴は爽やかに微笑みながら、問答無用で私を門内へ押し込んだ。
二、三歩と門内へ入って。
(――来たね)
ひたりと、背筋に刃物を当てられた心地がする。
美鈴の声じゃない。レミリアの声でもない。
「――あれれ。ちゃんと付いてきて下さいな。どうかしたんですか」
「あ……や、何でも」
振り返る。けれど、やはり誰も居ない。
ただ、再び閉ざされた鉄柵門の外の景色が。先程と変わりはしないはずなのに。
何故か、たった数歩のその距離が、随分と遠く見える。
にい、と誰かが嗤う。
誰も居ないのに。
「何でも、ないよ。……初めて門内に入ったから珍しくて」
「アハハハそうですか。まあこれまで誰も館に招待した事がありませんからね、様子も知れないので珍しいんでしょう」
「ウンそうかも」
そういう事にしておく。あまり、気にしてはいけない。
「門番の私が言うのも何ですが、これからはここも、もっと幻想郷に馴染んでいけたらな、と思うんですよね。お嬢様方も幻想郷をお気に召していらっしゃいますし、何よりこの間の紅霧異変でお友達が増えたみたいで」
「ここ何だか閉鎖的だもんね。妖怪はもっと自由奔放じゃないと、面白可笑しく過ごせないよ」
「イヤ全くそうですよ。館に引き籠もってばかりいては、折角の面白い事を逃がしてしまいます。第一健康的じゃありません。日中なんか全く外に出ようとしないものですから、あんなに青白い顔になって」
それは吸血鬼なんだから許してあげるが良い。
「まあ、あまり自由奔放なのも考え物ですけれど。ほら、たまに変な人間が居るじゃないですか。妖怪より自由奔放な」
「霊夢の事かしらん」
「あの巫女も大概ですけれど。その知り合いで白黒の魔法使いが、度々侵入するんですよ。ああいうのはいけませんね、ちゃんと許可を得て侵入して欲しいもんです」
「許可の有無ではなくて、侵入などさせないで頂戴。それが貴方の仕事でしょう」
扉の開く音も無しに、いつの間にかメイド――咲夜が私達の目の前に居た。カンテラの灯に上半身だけが幽(かそけ)く炙り出されて、大変心臓に悪い。以前美鈴に紹介された時も、神社で出会った時もそう思ったけれど、本当に食えない奴だ。
彼女は手を腰にあてたまま美鈴の側へ歩み寄り、きっと顔を上げる。美鈴よりも少しだけ身の丈が低い。
「だいいち侵入の許可って何。そんなもの出すよう言った覚えは無いわよ」
「いやそれはほら、ここを通りたくば私を倒すことだー、というアレがナニでして」
「弾幕勝負で敗けたって事じゃない……何で魔理沙なんかに敗けるのよ私よか強いくせして」
「アハハいやその。まあそのお話はまた後でですね、ルーミアさんをお連れしましたよハイどうぞ」
咲夜の三白眼に当てられたものか、美鈴は貢ぎ物とばかりに私を差し出した。お客さんと言われてこの応対も前代未聞だから、また私はしどろもどろになってしまう。
「これはいらっしゃいませ、ようこそ紅魔館へ。ここから先は私がご案内致しますわ」
咲夜はいかにもメイドらしい態度で私に辞儀をした。私にも畏まるなんて随分と忠義に篤い事だと思う。美鈴はそそくさと逃げてしまった。あいつめ。
「ねえねえ、紅茶会って何するの。私こんな格好だけど良いのかな」
「アラご心配には及びませんわ。お嬢様方とご一緒に、紅茶をお楽しみ頂きたいのです。それに貴方は十分可愛らしくて素敵ですよ」
「エヘヘヘそうかしらん。うん、それで紅茶を飲むの。神社とあんまり変わらないね」
「まあ、そうですね。要は気兼ねせず、ゆるりとしたひとときを楽しんで頂く事が紅茶会の趣旨ですわ」
「お茶菓子もあるの」
「ええ。腕によりをかけて準備させて頂きました。お口に合いましたら幸いです」
「本当。わーい」
俄然やる気が湧いてきた。
咲夜は誇らしげな顔で笑う。そうした表情を見ると、彼女も美味そうだなと思う。いつもの食えない顔や素振りと、どちらが本当なんだろう。幻想郷には変な人間が割と多い。
「それでは、お嬢様もお待ち兼ねですから、お部屋までご案内致しますわ」
正面玄関が開く。咲夜に促されて、私は館内へと入った。
壁掛けの燭台が、ロビイを鬱金に照らす。階段の手摺りや柱の土台に彫刻された薔薇が、揺らぐ光をしとどに浴び、本物より活き活きとして見える。
それにしても広い。奥行きもさる事ながら、吹き抜けが高い。二階から最上階までひと続きのステインド・グラスなど、一目では全容が知れない。月夜の晩にはさぞかし鮮やかな影を落とすんだろう。
かちりと金属音がして、入口が閉ざされる。重厚な扉は見た目と裏腹に、軋む音も立てない。
それから後は、水底のように静かになる。ただ先へ行く咲夜の足音だけが響く。こつ、こつと、たった数歩の音が、遥か遠く聞こえる。
不安になる響きだ。我が身を棺に葬られ、親しい人がひとり、またひとり遠ざかる響きに聞こえる。経験など無くても、それはそういう音に違いない。
「随分と寂しいね。いつもこうなの」
たまらず私は先を行く咲夜に声をかけ、その足音を止めた。
「いえ、いつもは妖精メイドもいて賑やかなものです。今夜はお客様がいらして、皆きっと真面目を装っているのでしょう」
「そうなんだ。気を遣わせちゃって、何だか悪い事したかな」
「張合いになります。良い事ですわ」
そうして咲夜は微笑み、また先を行く。
ふと館内を見れば、左手の柱の陰から二、三匹の妖精が、首を伸ばして私を見ている。目を合わせれば、途端に隠れてしまう。何だかこちらが恥ずかしい。
少しばかり頭を掻いて、私もまた二、三歩と進む。
(――楽しみだね。とても)
臓腑を、冷たい手指で直接撫ぜられた心地がする。
咲夜の声でもない。
「――どうかなさいましたか」
「え。あ、いや……」
先刻の妖精だろうか。妖精もまた妖怪と同じで、悪戯好きだから。
……多分、そうなんだろう。
「何でも、ないよ」
そう答えて、私は階段へ足を向けた。
◇◇◇◇◇◇
三階の広間へ通された。
目いっぱいな広さの部屋に、相応しく大きな暖炉がある。赤煉瓦造りが重厚で、部屋の主のように見える。広間に設えた暖炉というより、ここは暖炉のための広間だ。
炉の口ではくぬぎ炭が芯から熱を帯び、暖炉の周りを赤裸にする。赤裸の内に、懐かしさと温かさが見える。組木の床だ。素朴な模様だけれど、相当の手間がかかっている。
広間もまた、実に閑散としている。暖炉に鉄柵と、後は中央三割ほどに絨毯が敷かれ、応接の長椅子とテエブルがあるだけだ。応接を隔てて向こう側はバルコニイへ至る全面硝子張りの引き戸がある。採光用の引き戸は、広間をより開放的に見せる。
レミリアの意匠だろうか。ある意味で、広間の贅沢な使い方かも知れない。何となく、暖炉の近くに大型犬とか寝ていたら素敵だな、と思う。
「ようやく主賓のお出ましね。いらっしゃい、今夜は楽しみましょう」
テエブルには白のクロスがかけられ、三叉の燭台に小さな火の玉が三つ灯っている。一つはレミリアを、もう一つは初めて見る少女をひっそりと照らす。残る一つは、これから私を照らすんだ。
本当の火明かりは純白だ。黄の色は、煤に混じる自然の記憶がもたらす。赤の色は、自然の情念がもたらす。灯から、かっと拡散して照らされる者々は、だから懐古色(セピヤ)の温かさがある。
記憶に無くとも今ここに宿る、どこか懐かしい原風景に私はしばし惚けた。
「何惚けているのよ」
「うん。誰かの家なんて、あんまり入った事ないから」
「そう。興味があるなら後で館の案内くらいしてあげる。まずは座りなさい」
ゆらりと、細く白い指が長椅子を指す。こうした時はどんな作法が良いんだろう。考えてみたけれど、元々知らないから仕方無い。促されるまま長椅子に座――
「うっひゃあああああ」
吃驚した。すっごい沈む。すわ長椅子に呑まれたか、と思い慌てた。長椅子は私の背中を包み込んだところで、ようやく許してくれた。ふわふわとして、宙に浮いた感じによく似ている。
「フフフフいや失敬。本当に面白い子ねお前は。まあ落ち着きなさい。咲夜、紅茶を」
「かしこまりました」
いつの間にかレミリアの隣に控えていた咲夜が、一礼して退室する。先刻までは人間的な表情を見せて、今は表情らしい表情を見せなかった。本当によく判らない人間だ。
さて、咲夜の事は良しとして。何というか、その。
「…………」
膝元に開いた古書に顔を向け、上目遣いで私をじっと見つめる、知らない少女。たまたま見ただけだから気にするな、とでも言わんばかりの面持ちをして、まじまじと私を観察する。
こちらも頑張って見返すものの、暖簾に腕押し、糠に釘。まるで置物と睨めくらをしているようで、頑張るだけ莫迦みたく思えてくる。
「ああそうか、紹介がまだだったね。彼女は私の旧い友人でね、魔女だ。パチェ、客人に挨拶くらいしなよ」
「……パチュリー。パチュリー・ノーレッジ」
消え入りそうな細い声で、ぽそりと呟く。それでも視線は容赦無く私をつんつん突く。返答を求めているのかなと思い、笑顔で答えた。
「ルーミアだよ」
「そう」
それからようやく視線を本に向けた。
「オヤ珍しい。随分と興味持たれたみたいよ、お前」
とてもそうは見えないけれど、レミリアが言うならそうなんだろう。すごく反応に困る奴だ。
咲夜は紅茶の用意をすると、デナーを準備してきます、と言い残して再び退室した。紅茶会の後には食事があるそうだ。昼夜は逆転しているけれど、レミリアはかつての欧州の食習慣に則った生活をしているらしい。
デナーと聞いて、疑問符が私の頭をよぎった。確か夕餉の事だったと思う。夕餉といえば夕方に食うもんだから、一日の終わり頃の食事だろう。けれどまだ夜は長い。人間の生活で表現すれば、昼時を少し過ぎたくらいだ。
随分早いなと思って聞いてみると、そもそも「夕餉」という邦訳からして間違っているそうだ。本来は「その日の主となる食事」らしい。
デナーには私も誘われた。博麗神社での食事と違い、不思議な期待感があってわくわくする。何しろデナーというくらいだから、お洒落で美味そうな響きだ。
「まあ、咲夜の料理は私のお墨付きだけれど。お前、何でそんなに目を輝かせているの」
「だって、デナーだよ」
「そりゃまあデナーよ。けれど別に、響きで食事をするわけではないんだから。ごくありふれた家庭料理よ」
そうはっきり言われると、何だか夢が萎んでしまう。考えてみれば私はデナーの意味を知らなかったし、こうも心躍る方が妙な話だ。けれど不思議と、食欲という名の魂を揺さぶる。デナー。言霊の一種かも知れない。
と、言うわけで。今私達の座前に置かれた紅茶と菓子は、それまでのつなぎとなる。こういうのをアフタヌン・ティというらしい。
「じゃあこれは御八つって事になるのかな」
「……役割としては、同じ」
「でも今真夜中だよ」
「ん……ミド・ナイト・ティと呼ぶべきかも」
「パチェまで……味気無い事言うなあもう。腹ごしらえだの刻限ばかりの話ではない、こうした慣習であることが大切なの。だからアフタヌン・ティはいつでもアフタヌン・ティと呼ぶべきよ」
なんだそうだ。
アフタヌン・ティは社交の場でもある。こうして気の合う同士、紅茶や菓子を嗜みつつ、会話や趣味を楽しむものだ。
作法や感性、知識をこそ重要視する傾向もあるけれど、それも今は昔。私達は幻想郷の妖怪として、私達らしく楽しむ。社交の場であるなら尚更だ。そうした姿勢こそが私達にとっての作法であり、感性であり、知識だ。そうレミリアは答えた。
紅茶は随分と完成された飲み物だな、と思う。琥珀よりも紅みの強い液体は、緑茶と比べて味や香りがやや薄い。ただ癖も少なく、すっきりしている。舌にちりりと熱いのさえ、紅茶の優しさに感じる。
ミルクを入れても美味いと聞いた。舌にもたつきはしないかと危惧したけれど、脂の気は存外薄い。卵色になった液体は、だから紅茶の風味が十分に活きている。熱も少し冷めて、今度はまろやかな舌触りが心地良い。
砂糖は敢えて入れない。咲夜が紅茶と共に用意した焼き立てのビスケツトが、味も香りも十分甘いんだ。ほのかな酸味のある紅茶との組み合わせに、しばし恍惚とする。癒しというのはこういう事を言うんだな、と思う。
そんな風にくつろぎながら、私達はアフタヌン・ティのひとときを過ごしている。
「そういえば魔女も夜行性なの」
「そうでもない。朝でも起きている事はある」
している話といえば、いずれ他愛の無いことばかり。ゆるりとした時間には、ゆるりとした話をするのが心地良い。だからその問いかけも、ふと思っただけの事に過ぎない。けれど。
「パチェは本読むと寝食忘れる質なのさ。何たって知識と日陰の少女だからね。今夜はたまさか寝起きだというから誘ってみたの」
「昨晩は魔術の研究をしていたから」
「ふうん。どんな魔法をお勉強していたの」
「…………」
パチュリーは私の顔をじっと見て。
「……月の、寿命の延ばし方」
そんな、気になる事を言った。
「それでどうなのパチェ、研究の成果は」
「……大きな疑問がひとつある」
「へえ。パチェにも解らない事があるのか」
「疑問と未解明は違う。私のは疑問だから、解は既にある。ただ複数解が存在するから、判断に困るだけ」
「理屈は何だって良いよ。疑問は何」
「ルーミア」
「んぐ。へ、私なの」
ビスケツトをぽりぽりやっていたところ、突然私に話が振られた。パチュリーはもう本を閉じて、真っ直ぐに私を見つめている。
「宵闇の妖怪と聞いている。いつでも夜に月が出ているとしたら、貴方はどう思う」
月の寿命の延ばし方。レミリアが、この間の話を伝えたんだろうか。
事の発端がどうであれ、それに対する私の答えはひとつしかない。
「とっても素敵。凄く嬉しいな」
けれどパチュリーの疑問は、その答えだけで解消はされなかった。
「それは、夜に月が出ていなければ悲しいという事かしら」
「うん。もしかして、レミリアにこの前した話を聞いたの」
「この前の話というのは知らない。レミィからは、ただ『毎晩月見がしたい』と言われた」
物凄い無茶振りをされたらしい。当のレミリアは我関せずな顔でティ・カップを傾けている。
「レミィの我侭はいつもの事。適当にあやしてあげれば済むから良いけれど」
「思い切り聞こえているよパチェ」
「ただ今夜は『何故か偶然』『宵闇の妖怪がレミィに招かれた』ようだから。レミィの我侭は置いておいて、夜に活動する貴方の意見を聞いた方が参考になる」
「聞こえているっての。何よ私の意見が参考にならないって言うの」
「良い子だからレミィは紅茶飲んで静かにしていなさい」
目に見えてしょんぼりとした。レミリアって館の主じゃないのかしらん。
「それで。何故貴方は月夜を素敵だと思うの」
「うんとね。月は赤ん坊で、友達で、お母さんなの」
「何言っているのお前」
「ほら。良い子だからレミィはビスケツト齧っていなさい」
ビスケツトを口元に押し込まれ、また黙らされてしまう。今度はしょんぼりとしながら、ビスケツトの甘さに機嫌良く翼をぱたぱたさせている。
それから私は、月に対する想いを語った。
月は朔日(ついたち)に始まり、晦日(つごもり)に終わる。私にとってそれは、一周一周が月の生涯だ。月は朔日に生命を得て、私は月と巡り会う。それから望月を経て、晦日にその生涯を終える。
だから朔日は嬉しくて、晦日は悲しい。そういう話だ。
大筋は以前語った内容と同じだから、レミリアには伝わっていた。けれど私の言った「月は赤ん坊で、友達で、お母さん」の意味は計り兼ねている。
対してパチュリーは、私の一言一言に目をみはり、小さく頷いている。
「……そう。妖怪なんてレミィみたいなのばかりかと思っていたけれど、貴方は優しい考え方をするのね」
「だから思い切り聞こえているっての、もう……私だって月は素晴らしいものだと思うさ。特に満月は至高ね。あれ程妖力溢れた魅力的なものは世にそう無い。まるで私のためにあるようなものだね」
「妖力莫迦は放っておいて。だから貴方は月を素敵な友達だと思うわけね」
「……パチェの意地悪」
むっつりと拗ねてしまった。意外と打たれ弱いのかも知れない。
「うん。いつも私に顔を向けてくれる月が大好き。朔日からしばらくは、よく眠る赤ん坊。それから育った月は友達。望月からは、優しいお母さん」
朔日から少しの間は心躍る。私が起きた頃に、月は小さく顔を出し、すぐ酉(とり)の方へ隠れて眠ってしまう。まるで寝付きの良い幼子みたいだ。月が最もあどけない頃だ。
それから次の夜、また次の夜と刻を経て、月はすくすくと育っていく。次第次第に幼さから可愛さ、美しさに化けていく。顔を見せる時間も延びていく。私は月と、夜空を游(あそ)ぶ。友達なんだ。
望月ともなれば、あるいは私よりも綺麗で優しく見える。温かく見守っていた私は、いつしか柔らかな顔で見守られていたんだなと気付く。母親が居るとしたら、こんな感じかも知れない。
「ふむ。相変わらずお前は面白い見解をするね」
「面白いのかしらん。私いつもそうして月を見ているから、よく解らない」
「……なるほど。だから」
パチュリーが口を開く。レミリアの顔から、笑みが消える。
「――だから、月のいない三十日の夜は悲しいと」
私は、胸の奥にちくりとした痛みを感じた。
晦日。それは今夜だ。
月は満ちて欠ける。望月になってしばらくは、まだ解らない。一夜、また一夜と、少しずつ欠けていくんだ。
下弦から先は、見ていて胸の締め付けられる思いをする。気付いた頃にはもう、遅い。
月は老いていく。私よりもずっと後に卯(う)の方から起きてきて、朝焼けに照されながら、ぼんやりとなる。
暁月なら、疲れてしまったのかな、と思うだけなんだ。けれどたまに昼更かしした際、卯の方の空を見て愕然とする。
――昼日中に。抜け殻のような、月の生霊がいる。
晦日の前の夜。月はいっそうか細く、消え入りそうな顔をして、私の眠る半刻前に顔を出す。
それから月は、ふつりといなくなってしまう。
夢枕に立たれた心地がする。別れの挨拶をされたような気持ちになる。
だから私は、晦日が悲しい。
暖炉の炭が、ちりりと弾ける。紅茶から、白い湯気がほわほわと溢れる。
晦日の夜には、音が無い。色が無い。私の周りは、どこまでも闇が広がるだけなんだと思う。
「……悲しいお話ね」
「ん……」
うまく声が出なかった。パチュリーは私をじっと見つめる。レミリアはなおも黙ったまま、ティ・カップを静かに傾けている。
「けれどその悲しみは、貴方にとって厭なものなのかしら」
少しの間を置いて、パチュリーは答えるまでもない事を問いかけた。
晦日の悲しみが厭でなくて何だというんだろう。そもそも悲しい事を好むものは居ない。居るとしたら、それは端から見て悲しいのであって、当事者には嬉しい事でなければおかしい。
「そんなの、厭に決まっているよ。だから私、晦日の夜は殆ど外に出ないの」
――晦日の夜は、外に出たくない。
痩せ衰え、もういない月を想うのは耐え難い。
それが私の正直な気持ちだ。
「なら、月夜の喜びも貴方にとって厭なものなのかしら」
またおかしな事を言う。悲しい事を好むものが居ないのと同様、嬉しい事を厭がるものも居はしまい。
「そんな事ない、大好きだよ。言ったじゃない、月は赤ん坊で、友達で、お母さんだって」
「ええ。けれどその喜びは、貴方の厭がる三十日の夜があってこそ感じるもの。新月を経て再び月が顔を出した時、貴方は心躍ると言った。その時貴方は、三十日の夜の悲しみを引きずっているかしら」
「んん……そうでも、ないかも。凄く嬉しいから」
「そう。ではもう一度問う。三十日の夜の悲しみは、貴方にとって厭なものなのかしら」
「それは……悲しいのは、でも……」
パチュリーは少し咳き込み、紅茶で喉を潤す。こくり、と小さな音がした。
「感情は起伏するわけではない。これまでの思いの積み重ね。悲しみを厭がるばかりで、大きな喜びは感じ得ない。悲しみは土台。その上に喜びが重なることで、悲しみ以上の喜びは得られる」
私はまだ、この話をうまく飲み込めずにいる。晦日の夜に、こんなにも咽せているというのに。
うまく飲み込めた時、私の心は潤うんだろうか。
「……難しいよ。気持ちの整理が追っ付かない」
「整理などしなくて良い。感じる通りにあることが、心の整理された状態だから。……そうね、では今夜この時。貴方はどんな気持ちかしら」
「今は楽しい気持ちだよ。月の事を考えるとやっぱり悲しいけれど、こうして美味しい紅茶を飲んで、甘いビスケツトを食べて、お喋りしているから」
「そう。私もとても楽しいわ。だから今の気持ちを大切に、今夜を過ごしましょう。それが貴方の、心の整理された状態」
そう言って、パチュリーは温かく微笑んだ。こちらまで嬉しくなる微笑みだ。
「ハハハハ。パチェは話が上手いね。カウンセラにでもなると良い」
それまで黙っていたレミリアが突然愉快そうに笑い出し、からかうように言った。
「……レミィの本当に求めている事なんて大体解る。どれだけ付き合いが長いと思っているの」
「ま、それはそれとしてね。でもまだ解決とは言わせないよ」
意地悪な顔をして二の句を継ぐ。
「月の寿命の延ばし方。研究の成果はどうなのかしらねえ」
「あ、そうだ。それ私も聞きたいよ。いつでも月が見られるなんて素敵」
そういえばそういう話だった。いつの間にやら話の矛先が変わったから、危うく失念するところだ。
けれどパチュリーは、しれっとして答えた。
「何言っているの二人共。私はもう、月の寿命を延ばしたわ」
「え、嘘。じゃあこれから毎晩月見し放題なの。凄いわパチェ」
「出来るわけないでしょう。そんなにしたければ、咲夜に頼んで緋盆でもぶら下げておいてあげる」
「……莫迦にされているのかしら。月の寿命を延ばしたって言ったじゃない」
むっとしてレミリアが咎めるも、パチュリーは飄々として紅茶をまた一口。私もちんぷんかんぷんだ。
ティ・カップをそっと置くと、ひと息吐いてこんな結論を述べた。
「確かに私は月の寿命を延ばした。月齢ではないけれど」
「どういう事よ」
「少し複雑な計算が要るけれど、月齢を延ばすなら外力を加えて公転速度を落としてやれば多分できる。幻想郷の丁度真上に、地球の自転速度と同じになるように」
「何だ、簡単そうじゃない。どうすれば良いの」
「月面で大爆発でも起こせば推力が得られるのではないかしら。四割くらい月が削れるかも知れないし、月がここに落ちてくるかも知れないけれど。ああ、その前に月の兎と戦争かしらね」
「……ごめんなさい。私が悪かったです」
なるほど、レミリアの我侭を却下することでパチュリーは確かに月そのものの寿命を延ばしたわけだ。
そんな詮無い話をいくつもして笑いながら、私達はアフタヌン・ティのひとときを過ごした。
この場に招かれたのは、気の合う幻想郷の妖怪同士、私達らしく今夜を楽しむためなんだ。晦日の夜を泣き暮らす私への同情じゃない。話をするうちにそんな事に気付いて、私はひとり微笑んだ。
晦日の夜がいくら悲しくても、嬉しい気持ちがそれに勝れば安らぎを覚える。こんな晦日の過ごし方があるなんて私は知らなかった。レミリアが、パチュリーが教えてくれたんだ。
とても嬉しかった。
◇◇◇◇◇◇
楽しい時間は続く。
アフタヌン・ティで人心地ならぬ妖心地着き、今度はレミリアと館内を散策することにした。パチュリーは喘息持ちだそうで、散策を辞退し居室へと戻った。
「パチュリーの居室ってどんなお部屋なの」
「ああ、パチェは大図書館の住人」
大図書館と言われても、そうした施設を見た事が無いのでどんな場所だか解らない。何でも、古臭い魔導書がたんとあり、埃っぽく黴臭い場所だという。それは住処と呼べるんだろうか。喘息にも良い気がしない。
館内を一通り周ったら連れて行ってくれるそうだ。もう少し話をしたかったから、有難い提案だ。
広間から硝子戸を抜け、バルコニイへ。
「わあ。凄く見晴らしが良い」
「だろう。月夜には庭先がもっと鮮明に見渡せる。月光の冴え渡る夜には、よくここで紅茶を飲むのよ」
眼下には紅魔館の庭。煉瓦塀と鉄柵門を越えて、向こうに雑木林と霧の湖が広がる。今夜は生憎の曇天で、茫漠とした景色に色は無い。湖は途中から虚ろに溶け、揺らぐ霧が、絶えずその境界を狂わせる。
ふと思う。紅魔館は外界と隔たれているのかも知れない。門外へ出れば、後はただ闇が広がる私の世界だ。ならこの館は、私の知る世界とは違う。館の門を潜った際に感じた違和感は、ある種望郷に似た念だったかも知れない。
けれどそれなら私は、異界であるこの館に今いることを楽しむべきかも知れない。
きっと誰しも、自分の世界が愛おしい。ただ、それだけでは息が詰まる。いずれ晦日(つごもり)に悲しみを覚える事になる。
だから今、自分の世界に居ずして楽しみを感じるなら、それを大切にすべきだ。そうすれば呼吸が合う。
なるほど、少しだけパチュリーの言葉が飲み込めた気がした。
そうして私は、眼下の庭に目を向けた。
「お庭が綺麗だね。冬でもお花が咲いてる」
「冬薔薇(ふゆそうび)ね。美しいでしょう、ここでは年中薔薇が楽しめるわ。美鈴が育てているのよ」
「あれ、そういえば門前に美鈴いないよ」
「この時間は休憩かしら。寒いからねえ。咲夜とお茶でもしているのよ。部屋に行ってみようか」
広間を抜け、階段を下りて左手の廊下を奥へ。
「何だか良い匂いがする」
「渡り廊下を左に抜ければ厨房よ。デナーの準備中ね」
「楽しみー」
「詰まみ食いしたら咲夜に刺されるよ」
怖い事を言う。けれどその言葉が間違い無いのも想像に難くない。だからなお怖い。
踊り場の手前にある部屋は、館の者が自由に使っているそうだ。レミリアは最奥の部屋の戸を二つ叩く。中からは咲夜の声が返ってきた。
「入るよ」
「あらお嬢様。どうかなさいましたか」
「わ、え、な何でこんな所にお嬢様が」
咲夜の部屋かと思ったら、美鈴の部屋だったらしい。香の薫りの清々しい、こざっぱりとした内装だ。
部屋の所々には美鈴らしさが伺える。寝台に飾られたフリルの柄、二人の座る古美術的なチェアやテエブルなどからは、乙女的よりも母性的な優しさが感じられる。
「こんな所で悪いわね。私の館よ」
「ああいえ、そういうつもりじゃないんですよう。お呼び頂ければこちらから」
「少し驚いただけですわ。よろしければお嬢様方も紅茶をいかがでしょう」
「何、散策中だから良いよ。それにその紅茶、美鈴の分だろう」
「ええ、まあそうなのですけれど」
咲夜はいつものメイドらしい顔で微笑んでいる。美鈴は何だか落ち着かない感じでレミリアを伺っている。
どうかしたかな、と思っていると、レミリアは含み笑いをして廊下へ戻った。
「美鈴、外は寒いだろうからゆっくり暖まりなさい。門番しっかりね」
「あ……はいっ、ありがとうございます」
「あ、待って。またね美鈴、咲夜」
「はい、また後ほど。いってらっしゃいませ」
それからまた二人で廊下を歩く。レミリアは心なしか嬉しそうな顔で、ぽつりと呟いた。
「仲良き事は美しき哉」
他にも色々と館内を巡った。けれど正直、広過ぎてよく解らない。廊下をあっちへ階段をこっちへ……単純明快ないつものねぐら付近と比べれば、まるで迷路だ。
ただ、あっちにもこっちにも。色々な妖精メイドがいたり、時折咲夜が現れたり、窓から外を見れば美鈴が門に戻っていたりして、皆が皆楽しそうだ。
ひっそりと死に絶えたような館の雰囲気とは裏腹に、棲む者達は和気藹々としている。見ているだけで、私もその輪の中に入った気になる。
「良い所だね、紅魔館て」
「何ならお前もメイドやってみなさい。いつでも歓迎するよ」
「オジョウサマやりたい」
「……さすがに譲れないわ」
「アハハハ冗談。でも皆とっても楽しそう」
「ええ。自慢の館よ」
レミリアはそう言って、若齢の月のように笑った。
館の裏手には中庭がある。門側よりは手入れが行き届いていないものの、自然が自然のまま庭の体裁をなす面白い趣だ。妖精メイドが皆で手入れをしているらしい。だから自然に近いんだろう。
「部屋棲まいに慣れない妖精メイドが棲んでいるのよ。入らないようにね、こんな規模でも迷わされるわ」
「もしかして、レミリアは迷わされたことがあるの」
「さ、大図書館はこっちよ」
あるみたいだ。
細く続く石畳の向こうに、古びた塔がある。屋根では風見鶏が黄昏れて、遠く風の生まれる彼方を、きいきい鳴きつつ眺めている。
レミリアはここが大図書館の入口だと言う。だけれど大図書館という割には、随分小さな建物だ。
「地下にあるのよ。館の敷地と同じくらいだがね、ここから入れば一番面倒が無い」
館内からも入口はあるけれど、空巣防止の罠だらけだそうだ。塔自体は目くらましなんだろう。確かに塔を見付けたら、登りたくなる奴は居ても降りたくなる奴は少ない。
明かりの乏しい石段を螺旋に降りると、石造りの回廊が左右に伸びている。回廊の突き当たりはまるで見えない。
等間隔に灯された燭台は、人魂のように蒼白い。何処を照らすわけでもなく、ただ静謐として浮かぶ。だから廊下も暗い。……暗いのだけれど、自分の立ち位置は見える。月明かりや雪明かりによく似た、不思議な灯りだ。
斜め前の大扉が、ぎいと音を立てる。燭台の灯りに気を取られている間に、レミリアは先へと進んでいた。慌てて私も大扉を潜ると――
「うわあ……」
本の、大渦。四方は果てなく、天井は知れない。ただ判るのは本ばかりだ。壁や天井、全てが書架なんだろう。だだっ広い部屋の全てが、まるで本で出来ている。
すぐ周囲にも見上げる程の書架が立ち――いや、浮き並ぶ。本でできたような書架は、雲か霞のようにぼんやりと浮いて、私達に道を開ける。書架の側面にも蒼白い灯が揺れている。
私達が一歩進むたびに書架は道を開けて、部屋の中央へと私達を誘う。そうして書架は、後から興味津々と私達を覗き見る。まるで生きているみたいだ。すると側面の蒼白い灯は、やはり人魂か何かかも知れない。
「ここだって十分迷いそう」
「ほんの入口程度で何言っているの。ここより下層にも書庫は沢山あるのよ」
聞いただけで眩暈がする。元来書物なんて読んだ例が無いから、ここは私にとって館内よりもなお異界だ。ここにパチュリーが居るという。ならパチュリーは異人だ。つまり魔女なんだろう。
「このお部屋だけでもこんなに広いのに、まだ下に降りなきゃいけないの」
「いや、デナーもすぐだしパチェならこの辺りだと思うけれど……やあ居た」
木目の潰れた板張りを踏み鳴らし、焼けたインキと伸された古木の香りを抜けた先には、薄手の敷物を黒く垂らして、白木のテエブルと籐の安楽椅子、カウチの設えられた空間があった。
テエブルには銀の鈴とラムプが置かれている。やけに明るいラムプだ。静止した調度品と、翼を揺らすレミリアとを暖かく照らし、それでもまだ足りないとみえて、私達を囲う本の背表紙のことごとくを浮き彫りにする。
「……いらっしゃい」
果たしてパチュリーはそこに居た。安楽椅子に背をもたせ、ゆらりと倒れた拍子に、こちらを覗いて挨拶をした。いささか無精だ。
「珈琲でも煎れさせましょうか」
「私の分は要らない。この子が来たがっていたから連れてきたのよ」
「ウンあの、もう少し喋りたい事があって」
「そう。そちらのカウチにでも座って頂戴」
言われるままカウチへ。レミリアは座らず、翼をはたはたさせて私の所作を見届けている。
「さて私は少し失礼するよ。何かあったらパチェへ言いなさい。私に用があれば部屋まで案内してくれるから。楽しんでいらっしゃい」
「ウンわかった。ありがとうねレミリア」
「じゃあパチェ、後は宜しく」
「……良きに計らう」
それからレミリアは機嫌良く、来た道を戻って行った。
「貴方、レミィに随分と好かれているのね」
「ん、そうなのかしらん。でも良い奴だよね」
「ええ、根は良い子なの。私も久しく、あんな風に楽しげなレミィは見なかった。……ねえ」
パチュリーは本を閉じて、こちらに顔を向ける。
「あんな子だけれど、仲良くしてあげて」
少し、陰のある顔をしていた。
◇◇◇◇◇◇
珈琲というのは香りこそ美味そうだけれど、口に含んで美味いものじゃない。容赦無く苦い。その苦さたるや、舌を土足で蹴散らされ、喉奥まで雄叫び混じりに特攻されたと言おうか。たったの一口で参った。
これは香りを飲むものなんだと思う。唇を湿らせて鼻頭を近付け、ふわりと咲いた湯気の花を、胸いっぱいに吸い飲むんだ。煎れたての珈琲は、頑固な香りが面白い。つまり渋い主張の内に、優しい香りが見え隠れしている。
私は紅茶も珈琲も今夜初めて飲んだけれど、昨今ではこうした嗜好品も幻想郷に広まりつつあるという。ただ珈琲豆は、茶葉と違って寒さに弱いので、幻想郷では栽培に向かない。だから珈琲は希少なんだそうだ。
これは館内で育てているらしい。先刻レミリアみたく翼を生やした子が煎れてくれたけれど、その子が大切に育てているんだとか。
「私も好きだけれど、とりわけ小悪魔が珈琲好きで。悪魔は黒いものを好むのだと」
なるほど黒い。褐色をした闇色だ。白磁のカップに満たされた珈琲は、深い闇から甘い香りを漂わせる。――けれど口に含めば、苦いのだと知れる。悪魔的なんだ。
「にーがーいー。香りは好いけれど、胃が荒れちゃいそう」
「……珈琲は神経を興奮させる薬理作用がある。疲労感を除いたり、呼吸器を強めたり。摂り過ぎなければ体に良い。良薬は口に苦し、と言うでしょう」
そう答え、パチュリーは安楽椅子にもたれてカップを傾ける。闇色の水面が、ふらりと揺れる。彼女の薄桃の唇に、悪魔が寄り添う。白い喉がかすかに震えた時、雫は彼女の喉を、こくり、と可愛らしい音で鳴かせた。
……見ている分には、美味そうなんだけれど。
「苦いったって限度があるよ。こんなのパチュリーだから飲めるんだ。小悪魔なんか従えているし」
「従えてはいない。あの子は悪魔にしては、少しばかり様子が違う。そもそも悪魔との契約というのは、魔女が悪魔を崇拝し忠誠を尽くすのであって……」
そこでパチュリーは言葉を切り、また珈琲で喉を潤す。カップを置き、そのまま肘掛に上体を預け、しなを作って私を艶に眺めた。
「まあ、面倒な話は止しましょう。そうね、馬が合うの。小悪魔に限らない。レミィも、咲夜も、美鈴も。もちろん貴方も」
「アラ。うんその……えへへ」
穏やかな声がくすぐったく、少し照れくさい。
先刻も感じたけれど、紅魔館はその雰囲気と比べて随分と優しく、温かな所だ。それなのに里の人間なんかは、悪魔だの吸血鬼が棲むと言って酷く恐れ、近付こうとさえしないらしい。
けれどそんなの嘘っぱち……いやまあ嘘は何一つ無いけれど、そうじゃなくて。つまり食わず嫌いだ。まあ、人間には仕方無い事かも知れない。霊夢や魔理沙や咲夜みたいな変人ばかりじゃなかろうし。
「……それで。貴方は何か、私に尋ねたい事があって来たのでしょう」
「あ、そうなの。……うんとね」
「小悪魔も本の整理に戻った。気兼ねせず話して頂戴」
今夜、レミリアに呼ばれて良かった。大切な気持ちを、紅魔館の皆から貰った。
晦日(つごもり)の夜を、こんなに嬉しい気持ちで過ごした事は無い。私はそう、思った事を素直に伝えた。
「そう。それでお返しを、ねえ」
私はパチュリーに、何か今夜のお返しができないか相談をした。ところがパチュリーは気乗りしない顔で、また安楽椅子に体を預けると、本の頁を手繰り始めた。
「……気にする必要は無い。レミィは貴方を持て成したくて呼んだ。貴方はそれに応えて紅茶会を楽しんだ。もう貴方は、その思いに応えているではない。十分よ」
「十分かなあ。何だか私ばっかり嬉しい気持ちになったみたいだもん。何か、もやもやするよ」
「十分よ。持て成しはすべからく、そうでなくてはいけない。招待客の貴方に気を遣わせる方が失敗。だから貴方が嬉しい気持ちである事こそ、何よりのお返し」
「そう、かなあ……」
その言い分は正しい。私は紅茶会に呼ばれたわけで、願い出てはいない。だから、くれると言うものを貰ったわけだ。等価でない事が前提だから、それで良いと私も思う。
けれど今は、どうも得心がいかない。仮にアフタヌン・ティやデナーを差し引いたとしても、やはり私ばかり得した気がする。レミリア達と等価じゃない、もやもやした何かが残るんだ。
何かが残るからには、過不足の問題だ。持て成しとは別に、私が貰い過ぎている。それは多分、物じゃない。
そうか。なら正しくは、こうなんだろう。
「ううん、違う。御礼がしたいの」
「御礼……何かレミィに義理でもあるの」
「パチュリーにもあるよ。晦日のお話を聞いてくれて、答えてくれたのが嬉しいんだ」
私は嬉しい気持ちを沢山貰った。だから、私からもそれをあげたい。けれど言葉だけじゃ全く足りない。もっと、もっと伝えたい。
「だけれど、私に何かできる事なんてあるかしらん」
少し間を置き、パチュリーは本を閉じて答えた。
「気持ちの御礼は、気持ちで返すと良い」
「……ううん、喜んで貰える事かあ。何だろう」
「レミィはああ見えて単純よ。まるで子供。……感受性が強いの。美しいものを好むわ」
「美的感覚なんて、私じゃ解んないよ」
「美しさは見た目ばかりではない。レミィに喜んで貰いたい、貴方の気持ちが大切。気持ちで返すというのは、そういう事」
「ふうん」
レミリアは美しいものを好むという。お嬢様だからか。感受性が強いのも頷ける。運命を見たりするらしいし。……さて、私にどんな事ができるだろう。
喜んで貰うからには、やはりレミリアが好むものを送りたい。けれどパチュリーの言うように、気持ちに対しては気持ちで返したい。物で返すのは野暮天だ。
そうすると、何かしら行為で示したい。できれば今、この気持ちの冷めないうちに。そのうえでレミリアが美しいと感じてくれそうな事――
「あのね、お庭の薔薇って摘んでも大丈夫かな」
「たまに咲夜が摘んでいるから、少しなら構わないと思う……なるほど、それをレミィに贈るの」
「ううん、デナーの席を飾り付けするの。皆で薔薇を見ながら食べるんだよ。これならパチュリーにも、他の皆にも喜んで貰えるよね」
どう考えても、この館に無くて私に有るものなど思い付かない。レミリアみたくお嬢様でないし、パチュリーみたく頭も良くない。労働だって、咲夜や美鈴のが万倍頼りになる。
それでも何かしたければ、足りないと感じたところを満たすんだ。小さな事でしか返せないのは仕方無い。だからそこに、有り丈の気持ちを込める。良いものを、より良くするんだ。
幸いにして近頃は、よく博麗神社で食事の手伝いをする。霊夢は手抜きをすぐに見破るから、私自身、随分躾られたように思う。
それに今夜の紅茶会だ。御八つひとつ取っても、腹を満たすばかりでなく、五感と心で楽しむ事を知った。デナーも同じだろう。食事は、だから綺麗な盛り付けをする事が多い。
今の私にあるのは、これまでの経験と行動と気持ちだ。それを活用して御礼にする。うん自信が出てきた。
今ならレミリア達の度肝を抜くような、たまげた飾り付けができるのに違いない。うん言い切った。
我ながら凄く良い案だと思った。思わずテエブルに身を乗り出し、鼻息をふすんと荒げる。
目を丸くしたパチュリーは、やがて頬を緩め、口元を袖で隠して肩を震わせた。
「そんなに変な事言ったかしらん」
「ウフフフいいえ……私の想像を超えた、素敵な案。レミィも喜ぶと思う」
「やった。じゃ早速摘んでくるね」
「ええ。飾り付けの件、咲夜には私から伝えておく。案内に小悪魔を呼ぶから、少し待ちなさい」
ゆたりとした袖口からしなやかに手を伸ばし、テエブルの鈴を取って凛と鳴らす。小悪魔はすぐに来た。
「はいはい、お呼びでしょうか」
先刻の小悪魔はいかにも洋風で、本と珈琲が実によく合う格好をしていた。けれど今はその上へ純白の割烹着に三角巾という、郷愁ただよう出で立ちだ。
掃除をしていたのかしらん。妖精メイドと同じで忙しいのかも知れない。
「少しこの子に付き合ってあげなさい」
「ええー。今丁度乗ってきた所なんですよう。パチュリー様付き合ってあげてください、ほら私掃除中ですし」
「……そう。それで、ぜんたい何綴読み終えたのかしら」
「最近書籍化された文々。四こま漫画集が面白くて一気に三綴……いやその」
身振り手振りで冷や汗混じりに弁解する。何だかよく解らないけれど、真っ赤な顔でしきりに頭の翼をぱたぱたさせるから、やはり忙しいんじゃないかと心配になる。
「忙しいなら無理言わなくて良いよ。お花が摘める所を教えてくれれば私一人で」
「この子は居候の猫みたいなものだから、心配無用。こういう時くらい役立って貰う」
「やだなあパチュリー様、いつもお掃除とか珈琲の準備とか、役立ってばかりですよ私ってば」
「珈琲だけでしょう。本当にいつも掃除していれば、大図書館は埃っぽくも黴臭くもならない。食べて遊んで寝ているだけの証拠」
「イエイエそれは大図書館が名前の通り大きいのでですね私は常日頃から見回りを兼ねて大事な本を傷付けないよう少しずつ丁寧に」
「……暇で寂しい時はすぐ私にじゃれつい「ハイッ、ルーミアさんでしたね私がお供いたしますよさあ行きましょうすぐ行きましょう」
パチュリーの言を遮って、小悪魔は私の背中をぐいと押し進める。吃驚したような相づちは、忙しいためか忙しないだけか。結局私は、小悪魔の手で半ば強引に連れ出された。
◇◇◇◇◇◇
「ところで、どこに連れて行けば良いんでしょう」
大図書館を出て回廊を右に周り、来た時とは恐らく違う階段を上って、何故か部屋の暖炉の床を開けて出ると、小悪魔はそんな事を言った。まるで我が物顔で先導するから、承知の上だと思っていた。
「ええとね、お花摘みに行きたいの」
「ははあ、そんな用ですか。じゃ丁度ここを出てすぐだからね、案内してあげます」
小悪魔は暖炉の床を閉め、私の衣服についた煤を綺麗に払うと、割烹着と三角巾をそこいらに脱ぎ捨てた。手慣れたもんだと感心する。煤で部屋が大分汚れたけれど、後で掃除するんだろうか。
「ここは貴方のお部屋なの」
「さあ。妖精メイドの誰かだと思うけれど知らない」
知らないらしい。それにしては随分と我が物顔だ。
部屋を出しな、棚の菓子箱にあった飴を美味そうに口へ放ったから、てっきりそうだと思ったのに。勝手知ったる何とやら。やりたい放題だ。
「ちょっ、他人のお菓子を勝手に食べたらいけないよ」
「ふっふっふ、悪魔だから許されるのだ。えいっ」
「んむっ」
私の口にも飴を放り込む。これで晴れて共犯の身の上だ。
困った奴だなと思う。でも飴は甘くて美味い。
「地下と館とは、私しか知らない隠し通路を沢山作ってあるの。こうしておくとね、悪戯するのに便利なのよ」
流石は悪魔。悪戯にかける手間は惜しまない。恐らくは、大図書館の掃除そっちのけで隠し通路を掘るんだろう。よく追い出されないもんだと感心する。
けれどなるほど、暖炉からぬっと現れたら、さぞかし吃驚されるに違いない……暖炉が使用中だったらどうなるんだろう。少し心配になった。
館の廊下は足音だけがよく響く。けれど響く先は闇の中。足音はその向こうへ、すうと吸われて返らない。この館には闇が多い。
「ねえ、ルーミアはメイド見習いか何かなの」
小悪魔は外弁慶なんだろう。パチュリーが近くに居ないと、まるで飾り気の無い態度になる。こちらとしても気楽だ。
「ううん、レミリアに紅茶会へ誘われたんだよ」
「ふうん。紅茶はどうだった」
「ウンあれは随分と不思議な飲み物だね。優しい香りがして、とっても落ち着いたよ」
「そんなものかな。私は珈琲の、口を炙るような渋さの方が好みだ。ねえ珈琲はどうだった」
「苦かった」
「アハハハそうかな。あの苦味が楽しめないのは可哀相だ」
小悪魔は快活に笑う。可愛さよりも元気が勝って、まるで悪戯小僧だ。小悪魔だから悪餓鬼なのかも知れない。パチュリーとは随分と対照的だ。レミリア寄りな気がする。やはり小悪魔だからなのかも知れない。
紅魔館に棲む者は何とも興味深い。色んな者が棲んでいる。竜生九子の門番に、人間のメイドに、魔女に悪魔に吸血鬼に。妖精まで館内をうろつき、メイドの真似事なんかして。まるで種族の坩堝(るつぼ)だ。
色んな者が棲んでいて、皆個性的だ。数多在る妖精メイドも、例えば私を興味津々と眺めるのや、まるで無関心なの、玩具を見付けた子供みたく積極的なのと様々だった。
そういえば人間の里を覗いてみると、やはりそんな風に十人十色だ。大勢居ても皆違う。不思議な事に彼等は、腹の探り合いをするでもなく、互いに協力し合い生活している。
紅魔館もそれに近い。互いに好みも性格も違うだろう者が顔を合わせて成り立つ。皆がいてこその紅魔館であり、一人として欠かせない。そんな、整然とした美しさがある。
素敵な事だと思う。私はいつも、嬉しければ独りで喜び、悲しければ独りで泣くんだ。その気持ちは、きっと私ひとりの心から生まれる。もし私ひとりでなければどうだろう。もし他者がいたら、私の心は何を生むだろう。
それを今夜、よく知る事ができた気がする。今この、御礼をしたいとまで思う気持ちは、それが思いの外嬉しい事だったからじゃなかろうか。
レミリアの手前、オジョウサマやりたいなんて言ったけれど。もし本当にこの館で皆といられるなら、妖怪メイドとして過ごすのも素敵かも知れない――
(きっと素敵だよ)
声がした。振り返っても、遠く燭台の灯りが揺れるばかりで何もない。爪先から間も無く闇に融け、部屋の扉が欠けて見える。私達が出て来た部屋は、とうに闇へ消えた。
「おおい、ちゃんと付いて来ないと置いていくよ」
「あ、うん……ねえ今何か声しなかった」
「ん、さあ。まあ石ころ投げれば妖精に当たるような所だからね。大方その辺でお喋りでもしているんじゃない」
「そう、なのかな」
それにしては静かだ。妖精が近くに在れば、そう感じる。妖精とはそうしたモノだ。なのに、ここには私達ふたりの気配しかない。
小悪魔には声が聞こえていないらしい。だからその声は、私に向けられた声の怪異かも知れない。
声の怪異は音の怪異と違い、音が意味を持って聞こえる。例えば姑獲鳥(うぶめ)など、実際は獣の鳴き声なんだけれど、感得した者にははっきり「負ばりょう」と聞こえるそうだ。
音が声になる。その違いは、感得した者の心に依る。心に疚しい事があれば、獣の鳴き声さえ言葉となる。妖怪は感得した者の心にこそ在る。
少しなら気にはしない。たまさか感じただけの事でも声が聞こえる事もあるから、玉石混淆だ。ただ、三度目ともなれば、無意識よりの警鐘という事もある。
だから次こそは、声の真意を自身に問うてみるべきかも知れない。願わくば、じわじわと湧く厭な予感が、杞憂であって欲しいと。
「さて着いた。ね、ここがそうだから行ってらっしゃい。何かあったら呼んでね、大図書館に戻っているから」
肩を叩かれてはっとする。いつの間にやら廊下を突き当たり、それまでと少し違って簡素な扉のある場所に来ていた。
勝手口か何かかなと思う。的確な判断をするには、いささか考え事に没頭し過ぎていた私は、適当な返事をした。
「ウンありがと……もう行っちゃった」
小悪魔はそれを了承と捉えたものか、ぱたぱたと翼を揺らして元来た廊下を戻って行った。飾り気が無いというか、適当な奴だなと思う。
まあお陰で御礼のための薔薇摘みもできるわけだし有難い。さてどれくらい摘んで行こうかと、うきうきしながら扉を開く。
便器が鎮座していた。
扉を閉じて、首を傾げる。はてこれは何だろう。およそ外の景色じゃなかった。
再び扉を開いてみる。
どう見ても便器です。本当にありがとうございました。
「あいつめ……ねえーっ。ちょっとぉーっ」
幾許かの怒気を込めて廊下の向こうに呼びかけるも、反応はない。小悪魔は本当に大図書館へ戻ったらしい。連絡方法も告げずに……ここまで適当だといっそ感心する。
けれど落ち着いて考えれば、私の説明不足だったかも知れない。「お花摘みに行きたい」と言ったから、厠に連れて来たわけだ。紅茶会の御礼に薔薇を摘んで食卓を飾り付けたい、なんて小悪魔には伝えなかった気がする。
それにしてもこれはひどい。何で小悪魔が登山用語なんか知っているんだ。だいたい妖怪が厠で用足しなんてするか。美少女だって用足ししない御時世だ。これ一般常識よ。
……不特定多数の人間に怒られそうで済まない気持ちがいっぱいだけれど、私には何の事やらさっぱり解らないからさておいて。
こんな所にいても仕方無いので、来た道を一人で歩く。相変わらず足音は寂しく響く。
窓でもあれば外の様子が知れるのに、生憎とこの廊下に窓は無い。元来た暖炉を探そうにも、部屋が多くて造りも一緒だ。おまけにどうやら、ここいらの妖精メイドは出払っているらしい。デナーの準備かも知れない。
誰も居ない。心細い間隔で灯された壁掛けの燭台だけが唯一の頼りだ。全く勘弁して欲しい。
何とかして大図書館に戻ることができたら、小悪魔に文句のひとつも言ってやろうと、憤然として歩を進め――
「わあ……」
館のロビイに辿り着き、思わず感嘆した。
いつしか空も晴れたものか。最奥の壁に設えたステインド・グラスに星明かりが差し、床一面に薔薇の影絵を落としている。
影絵を踏めば、私の影が薔薇と戯れて見える。本当の私の体も、影絵の薔薇色で鮮やかに染まる。今なら、レミリアが薔薇を美しいと讃えた気持ちも解る。
きらめく薔薇のステインド・グラスを眺めて、しばし自失する。真冬の透き通る空を越えた星明かりは、果敢無げなのに強く、照明となるべき燭台さえ明らかにさせた。
見上げた先から、影を目で追う。踊り場から階段を経て玄関口、壁伝いに上へ。そこで私は初めて、玄関口の真上に掲げられた大きな油絵に気付いた。
ステインド・グラスの光に、ふたりの少女の絵が照らされる。中央の椅子に腰かけた少女はレミリアか。その後ろには、椅子の背に手を添えて、金色の髪の少女が微笑む。誰だろう。
その少女にも翼がある。レミリアに劣らず大きく逞しい。節の目立たない翼の骨はしっとりと黒く、広がる飛膜は透き通って白い。くっきりと分かれた配色が目を引き、その美しい翼に全てが包み込まれそうだ。
レミリアの顔は、神妙のうちに緊張が伺える。まるで慣れていない感じが、幼い彼女の姿に微笑ましさを与える。
対して金色の髪の少女は、神妙のうちに微笑みをたたえる。慣れているのか……少し違う。喜びだろうか。楽しみだろうか。
いや。微妙なる笑顔には、ただの喜びや、楽しみでは言い表せられない――まるで場違いで、受け入れ難い凄みがある。
端麗な容姿といい、秀美な双翼といい。美的感覚など解さない私が見ても、このふたりの絵には心奪われる。
ただ一点。金色の髪の少女の、微妙なる笑顔だけが歪だ。けれどそれこそ、この絵の要だと――紅魔館に相応しい絵だと、心が強く主張する。
彼女らは、等しく一点を見つめている。絵だから当然と言えば当然、だけれど。やや下を向いている。その紅い瞳で、何者かを見下すように。
今も、見ている。何を見ているんだろう。
戦慄が走る。
誰かに見られている。
ゆっくりと、私の振り向く先。絵の中の二人の、見つめる先。
左手奥、階段のわきに、ひっそりと暗い通路がある。茫然と照る燭台の灯りも、燦々と輝く星明かりも届かず。ぽかりと、闇が覗いている。
(おいでよ)
はっきりと、声が聞こえた。
私の声だ。
◇◇◇◇◇◇
言葉にするなら、夢遊だろうか。
記憶は確かに残っているのに、はっきりとした意識を伴ってはいなかった。
通路は細く、狭かった。奥の鉄扉は錆びて、押し開くと耳障りに軋んだ。隙間風がロビイの燭台をひとつ消したものか、闇はより深くなった。
石積みの下り階段はひどくざらつき、足音を容易く吸い込んだ。光も音も無く、壁に添えた右掌の感触だけを頼った。板張りだった壁もいつしか石積みに代わり、一段ごと硬く、冷たくなった。
音が聞こえた。水の滴る音。水溜りを撥ねる音。地下水がひたひたと溢れ、右手が凍えた。
いつしか段差も無くなり、それでも通路は続いた。幾つかの鉄扉と、幾つかの横穴があった。こちらを抜ければ、果たして何処に続くのか――
(おいで)
ただ、足が交互に動いた。何処までも奥に。
そうして、ある鉄扉の前に至った。閂(かんぬき)には和錠が幾つもかけられ、扉に溶接された鉄輪に、鎖が幾重にも張られている。
ここまでの経路は覚えている。通路の様子だってはっきりしている。
ただ、意識だけが伴っていない。どうして来たのか、いつの間に着いたのか、何故この扉の前なのか。まるで解らない。
ただ。
(ほら、おいで)
意識することさえ憚られるコトが、ここに在る。それだけが唯一解る。
鉄扉はまだ新しく、傷一つない。開閉の形跡さえない。錠前は、鎖は、開くことを知らない。ただここを閉ざし続ける使命だけを持つ。この扉からは、入る事も出る事も許さない。
ならこれは扉じゃない。何かを封じた事を象徴するだけの、意味の無い鉄壁だろう。
ところが。
扉に手をかけた途端、閂は真二つに折れ、錠も鎖も錆びて砂と崩れた。扉は錆を削って半分ほど開き、蝶番の折れた拍子に形を崩し――音も無く、破壊された。
「…………」
言葉にならない。こうまで執拗に閉ざされた扉が、かくも容易く壊れるもんだろうか。私にこんな能力は無い。なら、この中に潜む何かが……
扉の向こうから、灯りが漏れている。
「……ねえ。誰か居るの」
答えるものは無い。
「ねえ」
部屋に至る通路を風が吹き抜け、灯りが蛇の舌みたくちろちろと揺れる。
誰かを呼ぶべきかも知れない。けれど足が竦んで――意識とは関係なく足が動いて。
私は部屋の中へ入った。
屋内は思いの他広い。ただ、住処などではない。大小様々の一枚岩がひしめく自然窟だ。
だから逆に、人工の壁や天井より有効なんだろう。自然窟には隙が無い。少しの破壊でも、これでは途端に均衡を崩して潰れる。恐らくここは地下牢なんだ。
こんな場所に何が幽閉されているのか。まさか人間じゃなかろう。こんな場所に居れば一刻と経たず精神を壊してしまう。下手をすれば妖精や妖怪だって危ない。桁外れの胆力でも持っていないと――
屋根付きの古びた寝台が奥にあって、何かが蹲まっている。
「……あの。こんにちは」
私の呼びかけに気付き、生気無く首を起こす。壁の油灯に照らされて、ぼんやりと顔が浮かぶ。
ロビイの油絵に描かれていた金色の髪の少女――に、見えた。けれど。
「…………誰」
「ルーミアだよ」
「知らない」
「うんまあ。私の名前。……貴方は何ていうの」
少女の翼は無惨に破れ、歪に曲がり。かさつき色褪せた翼の骨に、目の痛くなるような宝飾をして。
「……何をしに来たの」
私の問いかけには答えず、ただ私に問い、寝台を降りて近付く。少女の双眸が私を射竦める。静かに地を踏む足音が、私の胸を、どん、どんと破裂させる。私はきつく胸を押さえた。
鼻頭が触れるほど近付き、少女は私の瞳を見つめる。その紅い瞳を見て、見られて。私の瞳に、恐ろしいものが流れ込む。流れ込むほどに目前の少女は深く、大きく影を伸ばして私を呑む。
理解の及ばないコトが在る。理屈の通らないコトがある。思考が役立たないなら、残るは情動に頼るしかない。けれど情動は、ただ私に、それは危険なコトだとしか教えない。
理に適わない危険なコトが、ただ目前にあるという。
叫ばずにいられない。だのに、声が出ない。絞り出す声は声にならず、ただふるふると、胸中の震えばかり漏らす。
ぐっと唾を飲み下せば、口はそのまま開かなくなる。震えは逃げ道を失い、胸から身体、手足へと及ぶ。立っている事が難しい。ただ、どう仕様も無くて立ち尽くす。
瞳を見ていては、いずれ入口の鉄扉みたく朽ちる気がした。震えていては、頭の天辺からもろもろと崩れる気がした。だから残る力で身体を硬ばらせ、きつく目を閉じた。
抵抗なんてできない。後は――どうなるか、私にだって解らない。
そっと身体を抱かれる感触。まるで割れ物を丁重に扱うように、少女の胸と両腕が私を包み込む。けれど、その温度はあまりに冷たい。思わず水を浴びせられたみたく、ぞっとする。
「怯えなくて良いよ。大切にしてあげる」
悦びを含む声が、吐息と共に私の耳をくすぐる。途端、凍て付く私の背筋は粉と砕け、がくりとした。
少女が支えていなければ、頭から床に倒れ込んでいたろう。私は顎を少女の肩に乗せて、薔薇の萎れたように息を吐いた。
「ねえ大丈夫。壊れていないよね」
「……うん、平気。立ち眩みかしらん。よく解らない」
少女とふたり、寝台に腰かける。少女は今も私に寄り添い、両手で肩を抱いてくれる。
妙な気分だ。優しくされているのは、そうなんだろうけれど。温もりも親しみも感じられない。ただ優しく……扱われている、ような気分だ。それと。
「良かった。壊れていなくて」
少女の向ける笑顔に嘘は無い。作り笑いならすぐ判る。少女は純粋に喜んでいるんだ。ただ、言い回しが妙だ。
……なにぶん初めての顔合わせ、ちょっと緊張しているのかも知れない。他者と話すことに慣れていないのかも知れない……どうにでも考えられる事だ、とは思う。
「うん、心配させて御免ね。貴方はお名前何ていうの」
「フランドール。フランって呼ばれているの」
「ふうん。フランはどうしてこんな場所にいるの」
「ここはつまらない場所よ。何もないの。遊んでくれるお友達も、甘いお菓子も。たまにね、メイドが煎れてくれる紅茶を飲むの。知っているかしら。暗がりで燭台の灯りに照らされた紅茶はね、とても紅いわ」
「……あの、えっと。紅茶は美味しいよね。優しい香りで、落ち着いて」
「勿体無いよね、沢山零したの。でも私ばかりのせいにするのは酷いわ。お姉様だって一緒だったの。あいつ怖がりなくせに、体裁を気にするのよ。それで私を自分から切り捨てて」
「んん……お姉様って、レミリアの事かしらん」
「そうよ、自分が零したんだから同じよ。それを開き直ってさ。莫迦よ。私を閉じ込められるわけないのに。きっと好きなものを零したから、癇癪を起こしたのね。子供よまるで」
……さっぱり話が噛み合わない。何の事かも解らない。けれどフランドールだけは了解しているみたいだ。
いっそ意味も解らなければ良かった。なまじ意味を含む返答だから、ただ違和感のみが積もる。積もるほどに、私の気持ちは押さえ付けられる。そうして身動き取れない私の気持ちを、フランドールは悠然と眺めているんだ。
私から、何か言わないといけない。そんな焦りが、言葉となって口をつく。
「フランは、レミリアの事が嫌いなの」
ぴたりと、フランドールの動きが止まる。目を丸くして、ただ私の顔を覗き込む。不味い事を言ったろうか。
かくり、と操り糸の切れたように肩を落として。
「あはは。嫌いなわけないじゃん。あいつは私なのに」
莫迦にしたように、けらけらと笑う。甲高い音が、静かな部屋に虚しく響く。
私は、この少女を怖いと思った。
◇◇◇◇◇◇
荒い息遣いがする。すぐ隣で、フランドールが仰向けに寝転び、笑い喘いでいる。
私は寝台に座ったまま動けない。動くだけの気力が無い。ここから、そっと抜け出したいと思うのに――もう上体を支え続けることさえ危うい。
「……ねえ。何をしに来たの」
まただ。フランドールは寝台に横たわり、瞳で私を呑む。くらくらする。汗がひとすじ、額から頬を伝う。
何か、言わないといけない。
「呼ばれた、から」
「ふうん。誰に」
「……フラン、じゃあないの」
「呼ばないよ。私はね、ただ壊すだけ」
右の太股をぐっと掴まれ、ぞくりとする。振り向けばそこに、上体を起こしたフランドールの顔。
その深い眼差しが、熱を帯びて。
「壊すの。ありとあらゆるものを……ううん、モノだけじゃない。モノを壊すのはね、簡単よ。放っておいてもいずれ朽ちるから。そんなの能力として半端よね」
「じゃあ、壊すって、何を」
「理(ことわり)を」
その肩から伸びる翼の骨が、きちきちと音を立てて。
「例えば理性。感情を締めて、本能を抑える箍(たが)。十重二十重に締めてあるから感情は決壊しない。けれどね、幾重もの理性が全て均等に締めてはいないの。重要なのはたった数本。そのうち一本でも切れると、ね」
「……私の、声に呼ばれたの。おいで、って。でも私ここに来ようなんて」
「知らなくて当然だよ。本能が求めたんだから」
その柔らかな頬が、くくと迫り上がって。
「本能は敏感でね、貪欲なんだよ。貴方はここに、来たくて来たの。和錠のかけられた閂を折ってまで。私の首よりも太そうな鎖を引き千切ってまで。厚くて重い鉄扉を引き裂いてまで、来てくれたんだね。私嬉しい。ねえ、貴方はどんな妖怪さんなの」
「宵闇の、妖怪だよ」
「ふうん。貴方は闇を嗅ぎ分けるのね。それで深い、より深い闇が欲しくて来たのね」
「っ、そんなの、欲しくない」
「欲しくて来たのよ。闇は欲張りだから。何でも呑み込む。時代も、人間も、噂も、吸血鬼も」
「アッ」
肩を鷲掴みにされ、倒れ込む。
影が落ちる。油灯の明かりを背にして、吸血鬼の影が、執拗に私へと絡む。骨ばかりの翼の影が、容赦なく私を縛る。
その翼の宝飾が、瞳が、獣の牙が、艶かしく潤み。
私の心に歯を立てる。
「私はね、お姉様と同じ……あいつが、私と同じなのかしら。吸血鬼なの」
「お、美味しくないよ私なんて」
「どうかしら。私にはとても美味しそうに見えるよ」
「そんなあ」
押さえられた両肩は岩のように動かない。加減がない。身をよじる事もできない。
フランドールの顔が近い。見ていられない。目を瞑っても怖くて、身体の震えが止まない。
「厭ああ」
「そんなに怯えないで。私嬉しいんだから。ねえ、一緒に楽しくお食事しましょう」
「ふぇ……一緒に、って」
「壊すの」
ふと目を開けば、紅い瞳と、瞳が重なって。
そのずっと奥底に、フランドールの姿が見えた。
「壊すの。この箱庭を」
「箱、庭って」
「あいつは莫迦よ。人間を襲うのが耐えられなくなったくせに、未だ自分の在るべき場所をかつての欧州に求めている。人間が居て、悪魔を連れた魔女が居て、近世の幻想を妖精や館の装飾にあしらって。門の鋪(ほ)の妖怪に外壁を固めさせたこの箱庭を、俯瞰して喜んでいる莫迦なのよ」
あいつ、とはレミリアの事だろうか。咲夜や、パチュリーや小悪魔を紅魔館へ棲まわせて。沢山の妖精メイドと、古雅な館と薔薇の庭園に囲まれて。美鈴が、館の門番を――
もし美鈴を、竜生九子の「椒図(しょうず)」としたら。この紅魔館は、閉じているのか。
だから私も、この館が異界だと感じたのか。
紅魔館は、レミリアが生じた頃の欧州の、駒を揃えた箱庭か。
……それでも。例え箱庭だと、しても。
「……この前、レミリアから聞いたよ。人間が噂にばかり惑わされて、辛かったって」
「…………」
「今はね、とても楽しそう。皆仲良しなの。パチュリーも、小悪魔も、咲夜も美鈴も妖精達も。ね、思うんだけれど、昔の思い出を箱庭にしたんじゃなくって……その頃の、やり直しをしているんじゃないのかな」
紅魔館は、世辞抜きで素敵な所だと思う。皆が皆、素敵だ。浮き草みたいな私にも手を差し伸べてくれる。フランドールの言うように、ここは近世の欧州を模しているかも知れない。けれど話に聞いたような、血腥い面影なんてない。
誰しも自分の世界は愛おしい。良い事も、悪い事も含めて。……それを箱庭にまでしてしまう気持ちは、ちょっと私も理解し兼ねるけれど。でも捨てられないんだ。私にだって、そういうのはある。私にとっての月と同じだ。
それは拠り所だ。ただ、過去は過去。過ぎた事ばかりを求めては何処にも向かえない。レミリアはそれを理解したうえで、ここにいるんだろう。
だから私は、紅魔館が素敵な所だと思うんだ。
「こうすれば良かったんだ、っていうのを見せているんじゃないのかな。その良し悪しなんて解らないけれど、莫迦なんかじゃないよ。妖怪として、吸血鬼としての在り方を全うしたいんじゃないのかな」
「……誰が喋って良いって言った」
「痛いッ」
肩を引き裂かんばかりに、フランドールの爪がするどく食い込む。この華奢な細腕の、何処からそんな力が湧くのか。握り込む力に敗けて、背筋が反る。力任せに押し付けられ、喉が詰まる。
「こうすれば良かった、だって。あいつの独り善がりが、そんなに良い事なの。吸血鬼としての在り方を捨てて、私をこんな所に閉じ込めて……ねえ、それがそんなに良い事なの」
「や、めてッ、痛いッ」
「ねえ。どうして吸血鬼がふたり在ると思う。姉妹だって……莫迦莫迦しい。妖怪に肉親の概念なんかない。あの臆病者が私を恐れたの。嫌ったの。拒んだの。私が壊したから。伝説の吸血鬼そのままに、全てを壊したから。恐怖に潜んで宿るべき心を持つ人間を、あまりにも壊し過ぎたから」
「は、放して、ようッ」
「吸血鬼の本質は、凶兆と破壊。屍が生命を欺く。棺を抜けて夜に躍る。迷妄する人間の血を飲み肉を裂く……巷説で良いの。噂で正しいの。それを凶兆と見て、怖れることこそ人間の性よ。心を壊して身体を壊して、国を壊して時代を壊して。壊して壊して、なお壊し足りないのが人間の質よ。吸血鬼はね、かつての欧州にこそ在った。こんな箱庭に在りはしない」
「アアッ」
怖い。
怖くて、逃れようと必死にもがく。けれど逆に、襟首を掴まれて引き倒され、馬乗りにされる。暴れる両腕も容易く押さえ付けられ、全ての自由を奪われた。
「ねえ。動けないのは厭だよね。自由を奪われるのは、辛いよねえ。同じ事よ。私と同じ。あいつが自分のために、私を幽閉したのと同じ。……ねえ。こうする事が、こうされる事が良い事だって、貴方は言うの」
少女は嗤う。目元で、頬で、唇で。
「私とあいつは元々ひとつだったの。『運命を操り』『あらゆるものを破壊する』ことは吸血鬼の本質。過去を俯瞰すれば良い。時代の人間はことごとく怯え、惑い、狂い壊れ狂わせ壊してきた。そこに潜むのが吸血鬼という、妖怪」
「嘘。レミリアは、優しいもん。そんなに、怖い妖怪なんかじゃ、ないもん」
「妖怪は、妖しく怪しいコトよ。心惑わせ、狂わせない妖怪に何の意味がある。だからあいつは莫迦なのよ。妖怪であるコトを捨てたの。『あらゆるものを破壊する』部分を、化け物に括り出して幽閉したの。それが私」
その瞳は、なお紅く燃えて。
「化け物。あはは。最上級の賛辞よ。それはあいつ自身が、私をこそ妖怪だと認めたわけだから。だからあいつは吸血鬼なんかじゃない。私を踏み付け、『運命を操る』振りをして……吸血鬼を気取るなんて五〇〇年早いッ」
吼える。
――時が凍て付く。
空気が。闇が。油灯の火が。寝台の敷布が。濡れる岩肌が。
私が。少女が。
動けば、鼓膜をつんざく痛烈な音を立て、全てが容易く割れてしまいそうに。静かに、薄く凍て付く。
動けば、私は砕けて小さな破片になるだろう。けれどその破片を、さらさらと掬いこぼして遊ぶ者は無い。
目の前の少女も、砕けてしまいそうな瞳をしているから。
「壊すの」
先に、少女が砕けた。
「壊すの。闇に呑むの。そこに私は生じる。時代の闇から。人間の闇から。心の闇から。恐怖を植えるの。不安を育むの。狂気を咲かせるの。迷妄の種を、巷説の風に委ねるの。貴方なら、解るよね」
顔を無くした少女が、かさつく言葉に破片を乗せる。一言一言が、私の胸中にしくしくと刺さる。
妖怪の私なら。闇に対する恐怖を食う、私なら――
「それが私達の在り方よ。この箱庭で繰り返される、退屈なままごとのための駒じゃない。私達は妖しく怪しいコト。そう在る事を望まないで、なぜ私達はここに在るの」
妖怪なら。妖怪だから。私達には、私達の理がある。
闇を操る私には、闇を。ありとあらゆるものを破壊する少女には、破壊を。
妖怪として在るために。
少女には、それを望むことができなかったんだ。人間の心に、妖怪として在る事が。
在れば否応無く、全てを壊してしまうから。
少女に対しての恐怖心が変わる。静かな怖さは、胸の震える分、悲しさによく似ている。
それは、私が晦日(つごもり)に覚える悲しさと、あまりにもよく似ている。
「フランは」
少女の悲しい破片に、私もまた砕けて小さな破片になる。
「フランは、ここを壊したいの」
「全て壊したいの。吸血鬼だもの」
「……全て壊しちゃったら、人間は居なくなるよ」
「居なくならないわ。殺しはしないもの。それでも死ぬのは人間の勝手」
それなら、良いか――
ふたりの破片が混じる。ひとつひとつ異なる欠片が、混じり合ってまたひとつになる。
まるで私達が、同じものでできているかのように。
いつしか私は、私を見つめているような錯覚に陥った。
問えば、答えてくれる気がした。
「……私ね。月夜が好きなの。朔日(ついたち)の夜は嬉しい。月が生まれるから。それから眉月。弦張。十日夜。十三夜。月はね、私と游(あそ)んでくれるんだよ」
「ふうん。満月は私も好きよ」
「うん。望月はね、お母さんみたいだなって思うよ。けれどそれから更待月、下弦を経て、月はいなくなってしまうの。ねえ、いなくなる事は、悲しいよね」
「そうじゃないよね」
ああ。やはりこの少女は答えてくれるんだ。
「パチュリーはね、深い悲しみがあるから、より深い喜びを得るんだって言ったよ」
「戯言。はぐらかし。パチュリーは所詮魔女だもの、いくら博識でも私達のコトまでは理解できない。ねえ、その悲しみの理由は答えて貰えたかしら」
「……ううん。それだけ」
「当然よね。月が生まれるから嬉しい、いなくなるから悲しいなんて人間臭い。だから解釈として都合が良い。後はその気持ちだけに、説明を付ければ済むから。そうして自分達の考えをこそ正当化するの。魔女らしい遣り口。……私は貴方の悲しむ理由が解るよ。吸血鬼だから。妖怪だから」
ただ話が解らないわけじゃない。ただ怖いわけじゃない。
「でも、悲しいのは理屈なんかじゃ」
「理屈よ。闇の貴方には隠れて見えない理屈。貴方は闇を怖れる人間の心を食べるよね。なら人間は、どうして闇を怖れると思う」
「それは、だって。人間は天道の下に生活しているから」
「そう。日の光の下に生活するのが人間の常だから。闇は非常な事なの。だから怖れる。けれど、それが逆転したなら。闇が人間にとっての常なら、人間は闇を怖れない。それは私達が闇中をこそ常として、怖がらないのと一緒」
「でも、私達は月明かりも怖くないよ」
「月明かりは人間にとっても常なの。だけれど、太陽の下よりは不安よ。そこかしこに闇があるから。日常の内に潜む非日常に、はっとして人間は怖れを抱く。そこに貴方という妖怪は在る」
ただ壊すだけの妖怪じゃない。私と同じ、妖怪であることが第一義なんだ。
「非日常が日常に成り代わっては意味が無い。だから月明かりが必要なの。いつまでも月が有り続けてくれなければ、貴方は妖怪として人心に宿れなくなる……貴方の悲しさは、其処にある。月に想いを抱くのは、身近な月に気持ちを投影しているだけ」
この少女の考え方は、あまりにも妖怪的だ。
「その悲しみもね。みんな、みんな壊してあげるよ」
だから、こんなにも歪に微笑む――
◇◇◇◇◇◇
「全ての理は壊れるものよ。理屈も。理由も」
その声は、鈴の音のようにころころと心地良く響いて、とても甘い。
何より甘いのは、その、言葉。
「貴方がウンと答えてくれるなら、私は何でも壊してしまうよ。私と貴方は、同じものからできているわ。ねえ」
左手が楽になる。
細く冷たい指が、私の頬をするりと撫ぜる。
欲しいものがすぐ手許にあって、頂戴とただ一言答えれば、刻を待たずして手に入るなら。
私だって、こんな風に愛おしく撫ぜるのに違いない。
ならこの指は、私の指だ。
指先が、私の唇にそっと触れて。
「とても嬉しいの。貴方が来てくれて。ずっと一緒にいれば良い。ね、一緒に楽しくお食事しましょう」
私、は――
「離れなさい。フラン」
空気が震える。刹那、静かに凍て付くふたりの世界は、跡形もなく四散する。
暴力的に「地下牢」へと戻されて、全身が引き攣る。反射的に動く左手が、敷布のしわを掴む。
ひやりと冷たい――そうか、ここはフランドールの籠る地下牢だったかと気付く。
壁の油灯だけが暖かく、他には冷たいものしかない、地下牢だったかと。
「アラご機嫌よう、お姉様」
フランドールの横顔は、より歪に口元を吊り上げる。皮肉から、じわじわと嫌悪の念が滲む。
その棘の向く先にレミリアが立っていた。薄紅のワンピイス・ドレスに紅毛のストオルが華やかで、一片の薔薇の花弁を思わせる。
薔薇の花弁は、燃えている。
「離れなさい」
「馬子にも衣装と言うわね。そんな格好で、これから飼い葉でも食べるの」
「――離れろ、と言っているの」
レミリアの右手がかげろう。陽炎は紅く燃え、たちまち赤黒い溶岩となって、拳からずばと噴き出す。それは灼き尽くすより他を知らない、赤く輝く槍となる。
「……へえ。遊んでくれるの、お姉様が」
私の腹部から、右手から重圧が無くなる。密着していた箇所を空気が触れる感覚に、自分が砕けていない事を知る。
「ここはつまらない場所だわ。何もないの。遊んでくれるお友達も、甘いお菓子も。本当の吸血鬼が在る場所だものねえお姉様。お姉様は甘い。甘い、とことん甘い……」
フランドールの右手が暗む。陰から、赤黒く濁る血塊のようなものが、ぬらぬらと零れ出す。それは壊し尽くすより知らない、黒く爛れた剣となる。
フランドールが床を踏む。みしり、と厭な音を立てる。
一歩、また一歩と。彼女にとって、意思を以て動くことは、何かを壊すことと同義か。
「残念ね。甘いのはそれほど好みではないわ」
「木符・シルフィホルンッ」
突如、灯を横に揺らして風が巻く。不意の出来事にフランドールが目を覆う。
けれど風は彼女ではなく――
「ひゃあああ」
幾重もの風が渦巻き、私を軽々と巻き上げて術者の許へ運び去る。
「よいしょ。……おかえり」
「あーれー……あれ。何。パチュリー居たんだね」
「小悪魔に聞いて。レミィも貴方の事が視えなかったから、ここかなと。妹様がレミィの能力を壊していたのね。あれは『真理』に近い能力だから」
呆気に取られる私の頭を、よしよしとばかりにパチュリーが撫ぜた。
「もう安心。小悪魔にも剣突食わせておいた」
その手が、ほんのりと温かい。
「フラン、貴方も甘いものは控えた方が良いわ。肥えて動きが鈍るよ」
私の傍らで、レミリアが皮肉に微笑む。先刻までの痺れるような気配は、右手の槍と共に消えた。
対するフランドールは、ただ呆然として……
空間を巻き込み、形相を歪める。
「……そう。やっぱりお姉様は、そうして私から奪うんだ。悲しいね。憎らしいね。怨めしいね……こんな箱庭でままごとをするのが、そんなに楽しいんだ。吸血鬼なんか、要らないんだッ」
ほろほろと、涙をこぼして。
「なら私は何なの。どうしてここに在り続けるのッ。妖怪は人間の心に潜むものよ。怪しいコトに怯えて、私達は感得されるのに。忘れ去られた、何も無いこの場所で、私はどうすれば良いのッ」
「どうもない。フランの思う通りにすれば良いさ。私はもう、止めてなどいないよ」
――何を、ふざけているんだ。
フランドールは瞳に驚愕と憎悪の意思を込めて、レミリアを射貫く。
それはそうだろう。あんな重厚そうな扉に遮られて、入る事も出る事も許されない監禁状態で。思う通りになんてできるわけが……
そういえば、その扉は容易く壊れたんだったか。フランドールによって。
……違う。だって私は招かれたわけじゃない。ただ来たくて来て、それをフランドールは快く思ってくれただけだ。招かれてもいないのに、扉を開ける事はない。
それならあの扉は、一体。
「フラン、まずは落ち着きなさい。それから思い出すの。確かに私はかつて、ふたりでひとりの吸血鬼だった頃、在り方を二分した。それから幽閉したのも間違いの無い事よ。理由は貴方が、人間の心において劇薬だったから。
壊すことはね、想像以上に人間の心を疲弊させるの。怖れや怪しさよりも、まず悲しみや憎しみに繋がる。『妖怪のせい』にする前に心が潰れるのは、私達の本懐ではないわね。吸血鬼を感得して貰えないんだから」
レミリアは淀みなく語る。かつて幾度となく、同じ話を繰り返したように。
「けれどそれは外の世界に在った頃の話。幻想郷は小さい。ふざけた守人が飽きもせずスキマから監視している。かつてのような自由は、ここには無いわ。だがね、だからこそ貴方を解放できた。ここに来た時から貴方は自由だった。
けれどフラン、貴方もまた自覚したわ。貴方がその気になれば紅魔館など、幻想郷などひとたまりも無い。だのに貴方はそうしない。ずっとここで寝食している。他に幾らでも部屋はあるのに、もうずっと、この何も無い地下牢で」
「……嘘だ。だって。私はお姉様に閉じ込められたのよ。とても厚い鉄扉で、閂に和錠までかけられて、私の首より太そうな鎖まで、じゃらじゃらと」
「貴方は、その扉を『外側から』見た事があるのね。安心なさい、もうその扉は無いわ。貴方も自覚した今、冷たく閉ざす扉はもう要らないの。……だからルーミアも、貴方の許へ遊びに来たでしょう」
「…………」
扉は、フランドールの幻影ということだろうか。元からそんなもの、無かったのか。
確かにあの扉は、音も無く崩れた。まるで元から無かったかのように。
「パチュリー。私ね、ここに来る時に扉を見たんだよ。扉は本当に、無かったのかな」
「無い。貴方は妹様の力に当てられたのね。ここへ来るまでに、自分の意識はあったかしら」
「……無かった、なあ」
「少しだけ壊されたのね。『深層心理』。私は専門ではないけれど、深層意識には全ての元型があるという。精神を旨とする貴方達妖怪なら、無意識を越えて仮想現実を視せることも、あるかも」
何を言っているのか理解できない。できないから取り敢えず、パチュリーは頭が良いなあと思って頷く。
フランドールは震える。
レミリアが一歩ずつ近付くにつれ、フランドールの震えは、大きく、拒むように痙攣する。
「ねえフラン。暖かい紅茶を飲みましょうか」
「…………」
「貴方もたまに飲むわよね。『メイドの煎れた』暖かい紅茶」
「……うん。とても甘いの」
「そうよ。砂糖を入れて。暖かくて、少し甘い。落ち着くわ」
レミリアの両腕が、泣き震えるフランドールを温かく包み込む。
もう自分自身を、冷たく閉ざす事は無い。ここは貴方を温かく迎え入れてくれるから。
そう聞こえてくるようだった。
◇◇◇◇◇◇
今夜はもう、レミリアには会えそうにない。咲夜の給仕で、フランドールと一緒にお茶をして過ごすんだろう。
残念ながらデナーもおあずけか。またの機会があれば良いなと思う。
そんなわけで。
「にーがーいー」
「……この苦味を楽しめないようじゃ、まだ子供」
パチュリーとふたり、最初に訪れた三階の広間で珈琲を啜っている。
暖炉のある方が暖かいからと、パチュリーがこの部屋へ連れて来てくれた。
赤煉瓦の暖炉には炭でなく薪が入れられた。かっと燃え立つ分、熱の巡りが早い。地下牢で冷え切った体には、すこぶる有難い。
暖炉はまるで往時の勢いでも取り戻したみたく、薪の火明かりでぎらぎらしている。
「ああーん。私も珈琲飲みたいですケイキ食べたいですー」
「貴方は駄目、小悪魔。自分のした失敗を反省なさい」
「私の育てた珈琲豆ぇー」
ちなみに一応、小悪魔もいる。何故か小さくなって瓶詰めで。私のカップとケイキを交互に眺めては、涙ながらに涎を垂らす。
ふと、美鈴はこんな時でも変わらず門番しているんだろうなと思う。何故涎を見て美鈴を思い出したかは解らない。
「ねえ、もう小悪魔の事許してあげてよ。私の伝え方も悪かったんだよ」
「きゃー。さすがルーミアさん。痺れる。憧れる。惚れる。好き。愛してる」
「まるで反省していない……小悪魔。貴方何故怒られたのか解っているの」
「ハイそりゃあもう湖より深く反省してますよう。私がルーミアさんの用足す所を監視しなかったせいでこんな事に」
何て事を言うんだろうこいつは。
「よ、用足しなんてしないもんっ」
「わああ嘘。間違い。言葉のあや。文屋の記事。最後まで案内をしなかった私が悪いです御免なさい反省してます」
「……で。解放して良いのかしら」
「ううん……」
少し悩んだけれど、やはり私の自業自得感も否めないので解放した。
パチュリーがコルクの札を剥がし、きゅうと音を立てて蓋を取る。蜂蜜をこぼしたみたく広がりながら、にゅうと出てくるさまは、いささか珍妙だ。
「うはあ、助かりましたあ。パチュリー様たまに閉じ込めた事忘れるんですもん。こないだなんか標本棚に一週間放置ですよ。メイド長来なかったら今頃悪魔の乾燥標本ですよ私」
「……煩いなあ。魔術書の解読中で手が放せなかったのよ。仕方無い」
「まあそれなら仕方無いですね」
納得するんだ。別に良いけれど。
このふたりも、妙な関係だなと思う。悪魔といえば、魔女が信仰するものだろうに。何故か小悪魔が、パチュリーに全面的な信頼を置いているように見える。
パチュリーも何だかんだで、小悪魔に甘い。こうなる事を見越して、珈琲もケイキも三つ用意してある。
――仲良き事は美しき哉。
それはレミリアの言葉だったか。あれは誰に向けた言葉だろう。
「ねえ。聞いて良いかな」
「……当事者だもの。何でも答えるわ」
「うん。……フランはさ、何で地下牢なんかにいるのかな」
地下牢の扉は、確かに無かった。あったのはただ、何年も前に壊れて放置された錆の塊。
地下へ続く通路の扉には、鍵が無い。少し重いけれど、私の力でも開く簡素なものだった。
フランは閉じ込められていたと言う。レミリアは解放したと言う。
私には、そのどちらも本当の事だと思えた。
「妹様は……ああ、フランドールお嬢様の事。妹様の言に嘘は無い。妹様は、今も幽閉されている」
「だって。扉は無かったよ。レミリアも解放したって」
「妖怪には物質など意味がない。せいぜい付喪神になる程度。妹様を幽閉しているのは、妹様自身。……自覚しているの。今この時代において、妹様のような妖怪が要らなくなった事を」
「要らなく、って……」
反論しようとして。けれど、言葉が出なくて。
だってそれは、私にさえ訪れ得る結末だ。
人間が闇を怖れなくなれば、その時に私は消える。それは人間が、私という妖怪を要らなくなることに等しい。
「レミィから聞いたわ。この前、貴方は面白い事を言ったそうね。昔の事は、今のあの子には関係無い、とか何とか。それはとても正しい事だと思う」
この前といえば、博麗神社で初めて出会った時か。確かに私は、そう言ったのを覚えている。
妖怪は、今それが奇っ怪な出来事だからこそ、妖怪なんだと。
「レミィの場合はそれで良い。いえ、本来ならば妹様の場合も。ただ、時代の流れはそれを許さない」
時代の流れ。それは私の知る由も無い、外の世界での事だ。
数年前まで、パチュリー達は外の世界に居た。近世から現代に至るまでの、時代の流れを見たという。
人間達は、常に発展を求めて生きていた。文化を創り、技術を高め、幸福へ至る道を邁進していた。
けれどその道は、得るばかりのものじゃない。失うものも等しく存在した。
等価交換なんだ。
「戦争は形骸化しつつある。不治の病は治療法が見つかる。差別には撲滅運動が起こる。文化は保護される……不思議な事に、それでも脅威は無くならない。鼬ごっこ。人間はやはり、死ぬ時に死ぬ。結果論では、近世から変わった事など、そう多くない。人間が増えたくらい」
「人間には、それが幸せなの」
「幸福なの。結果を得るのは、実のところ夢物語。人間が本当に得たものは、数多の知識。それが人間を幸福にする」
人間達は、長く生きて知識を得たという。それが幸福に繋がる、と――知識と日陰の少女は語る。
「けれどそれも等価交換。知識を得る毎に、未知は既知になる。解釈から事実だけが研磨される。不安は安心に変わる。すると曖昧なものが消えていく。曖昧ではいけないものだけなら良い。けれど、曖昧で良いものさえ消えてしまう」
曖昧なもの。それは、私達か。
「曖昧なものは、判り易いものから次々と淘汰されていく。ねえ、レミィと妹様の能力。言葉にして、貴方の知識ではどちらが判り易いと思う」
「……フランの、能力かなあ」
「ええ。だから要らなくなってしまった。人間の大量死を、吸血鬼のせいにする必要が無くなったから。戦争と、病と、それらが起こす集団ヒステリに分析されてしまったから」
それは、私達には――悲しい事だ。
「レミィの能力は解明が難しい。真理にも、オクルトにも近しいから。貴方もそう、まさにオクルト。けれど妹様は、正体を暴かれてしまった。
だから妹様は自身を幽閉し、それを『幽閉されている』事にして、在り方を変えようとしている。『隠された破壊の脅威』……今の妹様の在り方は、そういう事」
胸の、締め付けられるような思いがした。
ありとあらゆるものを破壊することで怖れられていたはずのフランドールが、自分を壊すことでしか自分を保てないなんて――いや。
フランドールばかりじゃない。
壊れ易いんだ、私達は。
「純粋なの、妹様は。だからこそ、本当の吸血鬼は妹様だけと言えるかも知れない」
空のカップをテエブルに置いて。
「曖昧で良いものはある。摩訶不思議で、理解できなくて良いものは、幾らもある。……私でさえ。知識を得た事で、曖昧で良いものを消してしまったことは、幾らもある」
長椅子に沈み、パチュリーは深く溜息をつく。
「……だから私は、貴方の晦日(つごもり)に覚える悲しさも解明しなかった」
「え……そう、なの。フランは答えてくれたよ」
「ええ。少しだけ聞こえた。貴方はそうしてひとつ、知識を得てしまった。……けれどね。知識というものは、それがいくら正しいものだとしても……安易に与えてはいけない」
「曖昧な方が、良いって事」
「良いものもあるという事。得た知識で、貴方が幸福になれば問題ない。どうかしら、件の事実が詳らかになった今。貴方は幸福かしら」
詳らかになった事。
もし月明かりの無い晦日が、延々と続いてしまったら。もし月が、本当に消えてしまったら。
人間は、闇の中で生活することが常となる。闇が常なら、人間は闇を怖れなくなる。人間は私を、要らなくなる。
――詳らかになった事は、それだけだ。
「……ちっとも。むしろ……」
朔日(ついたち)を迎える度、いずれ訪れる晦日を、より強く意識してしまう。
いつ月が本当に消えてしまうのか、そればかりを。
「曖昧で良いものは、あるのよ。妖怪が妖怪であるためにも。レミィと妹様の事もそう。人間は戦争の脅威を、病の原因を知識として得た。そこまでにしておけば良かった……吸血鬼を、それに当て嵌めてしまった。曖昧で良いコトの正体まで暴いてしまった」
確かに、曖昧で良いものはあるんだ。
「時代は流れるもの。人間は幸福を求めるもの。妖怪は消えゆくもの。それは止める手立ての無いこと。人間が幸福を求めた分だけ、妹様は幸福から引き離される。それは抗うべくも無いこと。
……だから私達はここに来た。幻想郷に。もう外の世界は関係無い。ここは全てを受け入れる。私達さえ受け入れてくれた。……それで、もう良いはずなの。けれど妹様自身が、それを受け入れられずにいる。固執している。かつての欧州に」
それは、フランドールがレミリアを評した際の言葉だった。
「フランは、フランの言っていた事は、全部本当の事なのかな」
「ええ。妹様の言に嘘は無い。……ただ、あまりにも固執しているから。自身の感情にさえ嘘を吐けない」
ならフランドールの言葉は全て、彼女自身を評した言葉だったのかも知れない。
どれだけ哭いても、自分にさえ届かない……悲痛な、声だったのかも知れない。
「……うええええええん」
「……いや、何で小悪魔が泣くの」
「だって、えぐ、妹様可哀相です、うぐ、ぶうーっ」
「うわあああ何で私のスカアトで鼻拭くのっ」
「ふう。細かい事は気にしないでください……すん。パチュリー様あ。何とかならないんですかあ」
「大丈夫よ」
パチュリーは静かな声で、小悪魔をなだめる。
私のスカアトはあんまり大丈夫じゃない。
「大丈夫。レミィがいるから。レミィと妹様は、ふたりでひとりの吸血鬼だから。いつか妹様はこの幻想郷を……紅魔館を受け入れてくれる」
レミリアが在るから、フランドールは在る。吸血鬼の姉妹は、姉妹よりもなお縁ある、ひとつの吸血鬼だから。
決して離れる事はない。決して独りなんかじゃない。
それなら、いつか。フランドールも自分を幽閉しないで良くなる時が、来るに違いない。
今夜私が、悲しみを覚えずに過ごす事ができたように。
「だから私達も、この館に居るの。レミィと妹様と共に」
ひとりより、ふたり。ふたりより、大勢。
だから紅魔館は、素敵なんだ。皆の関係が、私にはとても美しいと――
――仲良き事は美しき哉。
隣人(人)とのなかだち(中)の、けがれなき(良)事。
妖怪は人間を、人間は妖怪を。魔女は悪魔を、悪魔は魔女を。妖精は自然を、自然は妖精を。
吸血鬼は、吸血鬼を。
はっとした。
それは紅魔館に向けられた、言葉なんだと。
ここは箱庭なんだ。けれどそれは、フランドールの厭うような過去の投影なんかじゃなく。
それは人間と妖怪の箱庭で。魔女と悪魔の箱庭で。自然と妖精の箱庭で。
館の枠に囲われて、薔薇の砂を敷き詰めた、幻想の箱庭だ。
レミリアがこれまで作り、フランドールがこれから作る。
ふたりで作る、吸血鬼の箱庭なんだ。
「私そろそろ、ねぐらに帰るよ」
「……泊まっても構わないけれど」
「ううん。何だかね、少し自分のねぐらが恋しい気分」
レミリアとフランドールが作るこの世界は、小さくも愛おしい。
紅茶会に喜び、会話を弾ませ、散策を楽しんで。
時に孤独を憂い、拠り所に迷って、在り方を見失っても。
皆が居て、皆と居て。そのひとつひとつが全てを作る、小さくも愛おしい世界。
――だけれど私にも、私の世界があるから。
「あ、じゃあ今度こそ私が門まできっちりお見送りしますね」
「遠慮しとく」
「うああん。酷い」
「アハハハ御免ね。けれどもう、夜明けが近いから。バルコニイから帰るね」
私は、これ以上ここに留まってはいけないと悟る。
彼女達の世界に、私の世界が――他の世界が介入するのは野暮な事だ。
だから私は、いつも通り。闇のまにまに漂って、彼女達の世界を眺めていたい。
こんなにも沢山の、素敵な気持ちをくれた紅魔館を。
「そう。気を付けて」
「ウン……」
……もし。
もし言葉として伝えることが、今夜せめてもの御礼になるなら。
この思いが、少しでも伝わればと。
「……あのねパチュリー、小悪魔。今夜はありがとうね。とっても楽しかったよ」
思いを込めた御礼の言葉に、パチュリーの、小悪魔の笑顔が返ってきた。
「そう。何よりの言葉よ。そう思って貰えたなら、レミィも喜ぶ」
「また遊びに来てくださいね。珈琲用意して待ってますからね」
「うん。レミリアにも伝えて欲しいの。それとね、もしできれば、フランにも」
レミリアの、フランドールの。
紅魔館の皆の笑顔が浮かんだ。
ねえレミリア、フラン。ここはとても素敵な所だね。
皆が居て、貴方達が在る。小さいけれど愛おしい、紅魔館は素敵な所だね。
紅魔館に対する独自の解釈にはハッとさせられました。
惹き込まれて一気に読んでしまった。次も期待してます!
続き期待してますね。
普段あまり深く考えないぶん、もう少しぱちゅり先生と妖怪の在り方について議論したかったような、ちょっとモヤモヤした気分。
そんな訳でフラストレーション解消の為に一回だけ叫ばせて下さい。
レム☆リア☆ムー!!
ふぅ、すっきりした。
さて、次はいよいよ妖々夢(決め付け)な訳ですが、なんか凄く作者様と噛み合いそうで楽しみというか怖いというか。
亡霊嬢や西行妖、愛しのスキマ妖怪様と貴方がガチバトルしたら文章量が途轍もないことになりそうな予感。
ま、1MB位なら余裕で迎撃です。もちろん短いのでも大歓迎ですよ。
それでは楽しみにお待ちしています。ありがとうございました。
> 7様
アノ能力で閉じ込められている原作設定って、まさに矛盾ですよね。それが実に面白く、つい考えてしまいました。
また紅魔館も命蓮寺ばりに人妖の集う場所、きっと何かしらあるんじゃないか。。。と。楽しんで頂けて良かったです。
> 8様
ありがとうございます。雰囲気を出すのは、毎回苦労します。情景そのまま、文章はもっと読み易くしたいなぁ。
> 14様
洋館って普段行かないので想像の産物でしたが、雰囲気出ているようで良かったです。
> 16様
かっこいいなレミリアさすがレミリアかわいい。。。あれ?キャラクタ観を好んで頂けて嬉しいです。
> 18様
。。。ルーミアっぽいのが居る!また書かせて頂きたいですー。
> コチドリ様
そうですねー、モチーフは二つに分かれてしまったかも。妹様と紅魔館。また話の流れに対する結論も、少々飛躍していて悩みました。主題をひとつに決めることが今の私の課題です。モヤモヤされた点、ご意見ありがとうございます。
亡霊嬢と西行妖、スキマ妖怪。。。どこまで書き切る事が出来るか、挑戦してみます!(でもたまに別話へ浮気とかします)
この小説を読んで、その深き世界を垣間見ました。
それは誰も知らない山奥にある、どこまでも深く澄んだ湖を覗き込んだような。
遥か遠くに見える水底は、全ての感情を抱き合わせながら、それでいてひっそりとして、とても美しかった――
貴方の愛する幻想を、ありのままに描き上げて下さい。
その秘境にまた、迷い込ませていただきます。
> 21様
やばい。貴方の表現に惚れます。水面を境に隔たれた湖底には、今はもう忘れてしまった静寂を感じて素敵です。
筆者の綴る幻想郷、果たしてその雰囲気に適うものか不安では御座いますが、楽しんで頂ければ幸いです。
> 23様
やばい。貴方の表現にも惚れます。筆者惚れっぽい。灯は決して全てを明瞭にしないから、曖昧なモノゴトは嬉々として闇中に游んでいられるのだ、と思うことがあります。
素敵に思って頂けて嬉しいです。
寒い冬の方がお風呂は暖かいとかそういう話でしょうか。え?違う?
> 咲夜は誇らしげな顔で笑う。そうした表情を見ると、彼女も美味そうだなと思う。いつもの食えない顔や素振りと、どちらが本当なんだろう。
この言い回しには、ニヤリとさせられてしまいました
恥ずかしながら中盤までルーミアと分かりませんでした