*注意
失恋話なので、苦手な方はバックしたほうがいいです。
今日も幻想郷は平和である。
天高く馬肥ゆる秋、と言ったのは誰だろうか。
馬が無駄に肥えるほど食べ物が美味しくなる時期だと言いたかったのか、単に美味しい馬刺しが好きだからなのか。
私としては、天高く巫女肥ゆる秋と変更してもらいたい。
効力は『平和だったら自動的に神社に食べ物が集う』とか如何なものか。
そうすれば真面目に修行して、異変を起こした輩を全力でぶっ飛ばすのに。
私はそんなくだらないことを考えながら、縁側でお茶を啜っていた。
舞い散った落ち葉を掃くという重大な仕事を終え、先日里の人からもらった煎餅を齧りながら秋空を見上げる。
無邪気に遊びまわる妖精たちが、友人たちと会話する妖怪たちが、自由気ままに飛んでいた。
(幸せそうで何より、でいいのかしら)
私は彼女らを退治する立場にあるのだ。
しかし異変でもないのに攻撃を仕掛けるのは面倒だ。ウザ晴らしにはなりそうだけど。
まあいい。
今は冷えてきた体に熱を染みこませるのに忙しいのだ。
「この頃肌寒くなってきたからな。縁側でのんびりするのも辛くなってきたんじゃないか?」
背後から声がした。
博麗神社には私しか住んでいないので、必然不法侵入者となる。
それだけでも度し難いのに、そいつは「どっこいしょ」なんて言いながら私の隣に座った。
ちらりと視線を向けると、湯気のたった湯飲みを両手で握っている。
厚かましいことこの上ない。
「まだこの程度じゃない。まあ、そろそろコタツの準備でも始めるわ」
「巫女はコタツで丸くなるってか? まずはその寒そうな格好をどうにかするべきだろう」
「一応、これ冬着なのよ。ほら、生地が綿になってるでしょ?」
見せびらかした袖が丹念に触られる。
彼女は「ふーん」「へー」と感心するような呆れたような、実に気のない返事をした。
「こんなの毎年のことでしょ?」
「毎年のことだから心配してんだよ。とりあえず腋を隠せ。それで十倍暖かくなる」
余計なお世話だ。
このやり取りは巫女服を着始めた時から習慣のようにしているので、半ば季節の変わり目の挨拶になっている。
かれこれ何年になるだろうか、こいつとこうしてお茶を飲み合うのは。
……正確な日時は覚えていない。
はっきり言えるのは、記憶をいくら遡っても必ずこいつが登場するということだけだ。
まさしく腐れ縁である。
「で、今日は一体何の用なのかしら? 魔理沙」
「いや、まあ……うん。霊夢が寂しがってないかなーっと思って」
「はっきりしないわね。もしやまた妖精と一緒に悪戯でも企んでるんじゃ……」
私はこの時初めて、魔理沙の姿をまともに見た。
服装はいつもの黒白で、トレードマークの三角帽子も健在。茸狩りの帰りで泥に塗れているわけでもなく、至って普通の格好で普通にお茶を飲んでいる。
服装に変化はないのだが……。
「……ねえ魔理沙。それ、どうしたの?」
「へっ!? な、なにがだ?」
分かっているのかいないのか、魔理沙の声は裏返り、ひどく狼狽していた。
むず痒そうに体を揺すっている。
私は魔理沙がそういうことに興味があったことに驚きながらも、心のどこかで納得した。
「口紅、塗ったの?」
「え、ああ、幽香が……幽香に珍しく呼び止められてな、プレゼントだって貰ったんだ」
魔理沙のふっくらした唇に淡いサーモンピンクの紅が引かれていた。よくよく見れば、赤面する頬がいつもより映えている。化粧には詳しくないが、おそらく白粉を軽く付けているのだろう。
化粧をすると心まで『女性』に移り変わるのか、照れる仕草までもが大人びていた。
「あのさ霊夢……おかしくないか?」
両手を膝の上に合わせて微妙に上目遣いをしてくる魔理沙は、そっち方面に疎い私でも可愛らしいと思えた。
「いいんじゃない、よく似合ってるわよ。あんたも一応女だったのね」
「一言余計だぜ! まあ確かに今までこんなのに興味なかったからなぁ」
「ふぅん……」
たしか前回会ったのは一昨日くらいだったか。
たった二日の間にどんな心境の変化があったのかは知らないが、魔理沙も女性だということだ。
単なる興味か、あるいは。
「好きな人でも出来た?」
「っぶほぁ!?」
どうやら丁度喉を潤している最中だったらしい。
ゲホゲホと咳き込む魔理沙の背中を優しくさすってやった。こういうところはまだまだ子供だ。
こちらを振り向いた魔理沙は涙を目尻に浮かべ、抗議の声を上げた。
「こら、いきなり何言い出すんだ!」
「何よ図星? お相手は霖之助さんかしら? それとも他の男性? ああ、私は別に同性愛に偏見はないから安心して吐きなさい」
「脅迫じゃないか! というか、それどんな奴でも当てはまるだろ!」
「だって魔理沙の恋愛話じゃない。これほど酒が進む肴はそうそうないわよ」
私は立ち上がって台所へと足を向けた。
流しの下の棚を覗き込み、醤油瓶や何種類かの料理酒と紛れるように置かれている黒い瓶を取り出す。
秘蔵の日本酒である。
少し前に紫から分捕ったもので、どこで開けようか迷っていたのだが、飲みたい時が飲み頃だろう。
コップを二つ持ち、私は意気揚々と縁側に戻った。
「魔理沙も飲むでしょ? 紫が快く譲ってくれてさ、こんな真昼間から飲むのも乙じゃない?」
そう言って私が魔理沙の隣に腰を下ろすと、何故か魔理沙は体を小さく震わせた。
私は両方のコップに酒を注ぎ入れ、一口舐めるように味を確かめる。
――悪くない。
「今年の秋はずいぶんと短かったわね。おかげで衣替えが慌しかったけど、あんたはもうやった?」
「…………」
「急な寒波は勘弁して欲しいわよね~。ついこの間まで素麺が美味しかったのに、今じゃ食べた気にならないもの」
「…………」
「そろそろ鍋の時期かな。魔理沙も食用茸採ってきたら一緒に囲みましょうよ……。ねえ、そろそろ会話に参加してよ。これじゃ壁に話してるみたいで嫌なんだけど」
「……ああ、悪い。ちょっと考え事してた」
「ふぅん」
日本酒をぐいっと呷った。
一滴残らず口に流し込むと、焼けるような感触が食道を通って胃に到達する。
酒単体だからか、妙に胃に染み渡った。
私は二杯目を早々に注ぎながら、様子がおかしくなった魔理沙を横目で見る。
どこか深刻そうな表情で、一心に地面を見つめていた。
大好物である日本酒にも手をつけないとは、よほど重症と思える。
さっきの恋愛話のことか? 冗談のつもりだったのだが、もしかしたら魔理沙はそのことで相談しに来たのかもしれない。
相談相手が酔っ払っていては、そりゃあ魔理沙も失望するだろう。
(仕方ない。真面目に相手をしてやるか)
飲酒を中断してコップを脇に置いた。
と同時に、思わぬ温もりが私の手を覆った。
驚いてそちらを見ると、
「……魔理沙?」
「…………」
私の右手が、魔理沙の左手にしっかりと握られていた。
誤ってコップを取り違えたという可能性を考えたが、今なお乗せられている事実からして、それはない。
魔理沙の反応はない。未だに視線は地面に向いたままである。
色落ちした葉っぱが散る中、私と魔理沙は手を合わせたまま微動だにしない。
まるで、咲夜のスペルカードが発動したかのように、神社の縁側の時間は止まっていた。
私は沈黙に耐えかね、自然に手を離そうとする。
「ね、ねえ、そういえばさ、隣の家に囲いが……」
「霊夢」
だが。
今まで見た事がない魔理沙に、言葉が続かなくなった。
いつものニヒルな笑みは跡形もなく消え、視線を鋭く口を真一文字に結んでいる。
出会いを記憶していないほど長く一緒にいたのに、こんな顔を見るのは初めてだった。
私は作り笑いをすることもできず、真正面から魔理沙と目を合わせた。
「あのさ、私たちが初めて会った時のこと、覚えてるか」
覚えていない。
首を横に振ると、魔理沙の瞳が静かに揺らめいた。
――胸がざわつく。
「私は覚えてるぜ。桜の花びらが雪みたいに散っていた季節だ。博麗神社にすごい魔法使いがいるって聞いて、止める香霖を押しのけて参道を駆け上がった。するとどうしたことか、魔法使いはいなくて無表情のチビ巫女が境内を掃除していた」
「……魔理沙は私より小さかったじゃない。今もだけど」
「うるさいな、私はこれからが成長期なんだよ。それはいいとして、あの時の霊夢の姿は焼きついてるぜ。目じゃなくて、心にな」
なんて臭い奴だ、と揶揄してやりたかったが、それは叶わなかった。
胸の奥が、掻き毟りたくなるほどにざわついていたからだ。
「正直、ここまでつるむようになるとは想像してなかった。最初の頃はお前、ずいぶん無口でドライだったからな」
楽しげに話す魔理沙に反論しようと口を開くが、喉で詰まったように声が出ない。
その代わりに湧き上がってきたのは暗雲のような感覚。
「でも、何も知らなかっただけだったんだな」
私はそれを、嫌な予感と呼んでいる。
「二人だけで鬼ごっこして、お茶飲んで、掃除しながらチャンバラして、夕食一緒に食べて。私が魔法使い……魅魔様に弟子入りしてから時々対立するようになっても、関係が途切れることはなかった。初めての友達がお前で良かったよ」
「……気持ち悪い」
出来る限り実感を込めて呟いたのだが、魔理沙は「ひでぇな、おい」と苦笑するだけだった。
おそらく照れ隠しだと思われてるんだろう。勘違いも甚だしい。
「乏しい才能から目を逸らすために努力を重ねた。強い奴のスペルを参考にして実力を磨いた。お前を出し抜くために、起こる異変全てに首を突っ込んだ。なんだ、私結構無茶してるなぁ」
あはは、とさも面白い話をしているかのように笑う魔理沙。
だけどそれは彼女の錯覚だ。聞かされている私はまったく愉快な気分にならない。
「一体何を言いたいのかさっぱりわからないわ。退屈しのぎなら余所でやってちょうだい」
言って、私は靴を履いて境内へ向かった。
少し放っておいただけで落ち葉がまたひどく散らかっていた。まったく、いくら掃いてもきりがない。
これも神社を存続させるための大切な業務だと自分に言い聞かせ、再度掃除すべく箒を取りにいく。
「霊夢!」
魔理沙が追いかけてきた。
「まだ何かあるの? 私は忙しいんだからまた今度にして」
「なんだよ、私怒らせるようなこと言ったか? もしそうなら謝るけど……」
「そうね、無意味な会話で貴重な時間を潰されたのが腹立ったわ。悪いけど、思い出話は好きじゃないの」
「む、無意味って……」
先ほどの笑顔は消え、魔理沙はくしゃりと顔を歪めた。
これも見たことがない。弾幕ごっこで負けたときとか実験に失敗したらしいときに似ているが、根本的に違う。
本当に、辛そうな表情だ。
「魔理沙の話はいつも唐突でつまらないけど、今日は突き抜けてるわね。過去が何だってのよ。そういうのは晩年にやることで、今は今を生きる時間でしょうが」
「そうだけど! 別にそんな言い方しなくたって……!」
「魔女はおばあさんが定石だから魔理沙もそうなっちゃったのかしら」
言い終わる瞬間に、魔理沙が私の胸倉を掴んで引き寄せてきた。
顔が近い。魔理沙は目尻に小さな珠を浮かべ、必死の形相で睨んでくる。
鼻息が荒く、私の服を握る手がぷるぷると小刻みに震えていた。
処理しきれない激情を、何とか身の内に留めようとしているようだ。
「……怖がり魔理沙」
氷の妖精よりも冷たく低い声が響いた。
私の声だった。
「あんたはいつもそう。何でも知ってるふりして誤魔化してる。本当は自分が一番怖いのに、誰よりも強く見られようとして無理をする。無視されるのが怖いから、迷惑かけてでも見てもらおうとする」
「……私は」
「今もでしょ? 何も持ってないのに見せびらかす。話すことがないのに口を動かす。することがないのにしようとする。だから魔理沙はいつまでも……」
「私は、霊夢が好きなんだ!」
……………………は?
思考が止まる。
何を言い出すのかこいつは。
好き? 好きって何よ? 友人として? それとも――
魔理沙の真意について考えるが、答えどころか何一つ言葉が思い浮かばなかった。
私が何も言えず、呆然と魔理沙の顔を眺めていると。
「――意味分かんないって顔してるな。私も同じ気持ちだぜ。こんな雰囲気で告白するなんて、まったく想像してなかった」
告白、らしい。
胸倉を掴み上げて声を荒げる姿はどこをどう解釈してもそういう風には受け取れない。
しかし、本人が言ってるのならそうなのだろう。
「本当は桜とか雪が適度に降って二人っきりになったところでロマンチックな告白をかましてやりたかったけどさぁ! 季節は生憎秋だし、落ち葉が酷いし、化粧は上手くできなくて結局咲夜にやってもらうし、お前は暢気に紫から貰った酒を飲もうだなんて言い出すし! 何もかも中途半端でうまくいかない!」
「いやそれは――」
私のせいじゃないし。
「何でこんな奴を好きになっちまったんだよ私は! 寂れた神社で腋を出しながら昼寝ばかりしてる巫女って普通恋愛対象にならないだろ!? しかも同性で、友人以上の感情とかありえなさすぎる! でも好きなんだよ、霊夢が!」
一度だけ、魔理沙は大きく息を吸って。
「霧雨魔理沙は、博麗霊夢に恋してるんだよ!」
そんなことを、堂々と言い切った。
ようやく掴んでいた手を離し、息を整えるように深呼吸をしだす魔理沙。
顔は真っ赤で、冬の匂いを届ける冷たい風が吹いているにも関わらず、まるで全力で参道を駆け上がったかのような汗が境内の石畳に染み入る。
おかげで化粧が徐々に崩れている。見苦しいほどではないが、よく観察すれば分かるくらいには。
これを見れば、魔理沙がどれほど真剣だったかは容易に推測できる。
今日という日を極度の緊張で迎え、腸が捻り切れそうな苦悩で神社に向かい、動揺を悟られないよう普段どおりを心がけていたことか。
だけど私は。
私は、どこまでも抑揚のない声で、
「悪いけど、恋愛ごとなんかに現を抜かしてる暇はないのよ」
それら全てを、切って捨てた。
突風が吹いた。
どこか憂いを帯びた風は、境内を覆っていた落ち葉を拾い上げて、また四方へばら撒いていく。
私は肌寒さを感じさせる秋の空気を受けながら、魔理沙と向かい合っていた。
言葉はない。
真摯な瞳に動作を奪われ、必然真正面から対峙する形となっていた。
「なあ霊夢、私はどうすればいいんだ?」
「…………」
「嫌いだとか、他に好きな奴がいるって言われればまだ納得できた。でも、恋愛に興味がないだって? 進めばいいのか、捨てればいいのかも分からないよ……」
小さく可愛らしい口から、嗚咽が漏れている。
魔理沙は顔を隠そうともしないで、さめざめと涙を流しはじめた。
せっかくのお洒落も乙女の心で溶けて浮いて、じきに消えてしまうだろう。
私はちくりと痛む胸を無視して、
「ごはん、食べなさい」
と言った。
魔理沙は潤んだ瞳のまま、きょとんとした顔になる。
あからさまに驚いた表情。まあ、ある意味予想通りの反応だ。
私は続ける。出来る限り厳しく、繊細な彼女の心に傷をつけるのはこれが最後と言い聞かせながら。
「次にお風呂に入って髪を丁寧に乾かして梳かしなさい。おわったら布団に包まって朝までぐっすり眠りなさい」
「……霊夢?」
「起きたら顔を洗って身支度を整えて朝ごはん。適当に掃除してお腹がすいたら昼ごはん。買い物とか昼寝で時間を潰したら日が暮れるわ。そしたら夕飯よ。精のつく料理を食べなさい」
「食べたらどうするんだ?」
「お風呂に入って寝る」
「……そんなこと、いつもやってるよ」
「そう、そんなことを飽きるまでやれば」
「やれば?」
目を閉じて深呼吸し、一息のまま言葉を放った。
「そんなくだらない感情、忘れるわ」
しばしの静寂の後。
ぱしん、と乾いた音が頬を叩いた。
私は頬に起こった衝撃を他人事のように受け止め、魔理沙を見つめた。
魔理沙は私を殴りおわった格好のまま、じっとこちらを凝視していた。
そしてぽつりと呟く。
「謝らないからな。どんなに霊夢が迷惑だと感じてても、この気持ちだけは――くだらなくなんて、ないから」
「……そう。あんたの代名詞だものね」
恋符。魔理沙の得意技。
誰かに恋をしたというパワーを込めたスペルは、どのような相手も吹き飛ばす必殺。
私の夢想封印とは違い、強大な威力と範囲を兼ね備えた弾幕が一直線に突き抜ける。
そんな生き方を――昔、羨ましく思ったものだ。
「帰るぜ」
言うやいなや、魔理沙は取り出した箒に跨る。
そしてさよならの挨拶をする前に、そのまま飛び去っていった。
私はその背中にかける言葉を持たず、ただそれを見送った。
私はがらんと人気がなくなった境内を去り、お酒の置いてある縁側に再度座った。
鬱々とした気分のまま、幻想郷の空を眺める。実に平和な日常である。
「出てきたら? 悪趣味もいいかげんにしてほしいわ」
「あら、空気を読んでいたと言ってもらいたいものね」
庭先の空間が目蓋のように開き、そこから八雲紫が現れた。
日差しは強くないのにいつもの日傘を引っ提げて、実に優雅な足取りで近づいてくる。
そのまま、私の横に腰を下ろした。
「ご機嫌いかが?」
「そうね、いたっていつも通りだわ。あんたが現れる前までは」
「それは良かった。そのお酒をあげた甲斐があったわ」
紫は胡散臭い笑みを浮かべながら、魔理沙が使うはずだったコップを手に取った。
「一献、もらえるかしら?」
「……全部見てたなら、そんな図々しいことは言えないはずなんだけど」
「だから聞いているのよ」
私は苦々しく思いながらも頷くと、紫は絵画になりそうなくらいの優美さで、コップを傾けた。
酒を一人で飲むのは寂しい、と自分に言い訳しながら。
「……私、あれで良かったのかな」
「博麗の巫女としては百点満点よ」
一縷の救いを求める私に、紫は一切の容赦がなかった。
博麗の巫女は全てに平等でなくてはならない。
巫女が誰かを特別に想えば幻想郷のバランスが保てなくなる。
幻想郷に住んでいるのなら子供でも知っていることだ。
立場上、私は人間の味方をする。
しかし博麗大結界を担って幻想郷を維持する側に立っている以上、人間よりも妖怪よりも結界を最重要視するのだ。
その目的を達成するならば、たとえ人間を害して妖怪に利することも厭わない。
妖怪を退治するのが生業であってもだ。
故に、私は特別な者を作らない。
人間であろうと妖怪であろうと、いずれは職業上邪魔になることは明白であるから。
それが、正式な博麗の巫女になったときに誓ったことである。
「あなたは修行嫌いでぐーたらなのに、そんなところだけは立派な巫女なんだから」
紫は可笑しそうに笑った。
未熟な人間を嘲笑うようにではなく、世話の焼ける子供を見守るかのように。
なんとなく気恥ずかしくなり、ぷいっと顔を背ける。
「私はこれから『寝る』けど、辛くなったら藍を呼びなさい。どんな命令だって従うわ」
「……期待しないでおくわ」
紫は冬眠する妖怪である。
秋のうちに人間を『蓄え』、春が来るまで熟睡して起きないらしい。
そんな機能があれば私も楽なのだが、生憎私は朝起きて夜寝る人間だった。
瓶の中身が半分くらいになったところで、紫は帰ると言い出した。
引き止める理由はない。私はさっさと帰れと促す。
また庭にスキマを広げ、紫が潜ろうとした瞬間。
「ああそうそう、忘れてたわ」
紫は手にした扇子でパチンと音を鳴らした。
……特別、何の変化も起きない。
「それで人恋しさを紛らわしなさい。頑張ったご褒美でもあるわ」
それでようやく、紫は去った。
最後の言葉は一体なんだったのかとコップに手を伸ばすと、それは人肌程度に温かかった。
日本酒の中身がすべて熱燗になっており、隣にはツマミが乗った皿が二つ。
変に気が利く奴だな、と感心しながらも言葉に甘えることにした。
◆
一ヶ月経った。
冬の気配がこれ以上になく濃厚になり、雪でも降るんじゃないかというくらいの寒さである。
今日は運が良いことに、里のおばあちゃんからさつまいもを貰ったのだ。
落ち葉は先月に比べてずいぶん少なくなっていたが、芋を二個焼く程度には集まっていた。
私は落ち葉に火をつけてさつまいもを入れ、期待に胸を膨らませながら出来上がりを待っていると。
「あやややや~、なにやら面白いことをしていますね霊夢さん。食欲の秋ですか?」
「残念、もう冬よ。こんな日だからこそ焼き芋が美味しくなる。――で、何の用?」
「霊夢さんの顔が見たいから、ではいけませんか?」
颯爽と現れた射命丸文は、愛想笑いを浮かべながら私の横に降り立った。
私はちらりと文の姿を確認し、またすぐに視線を炎に戻す。
「怖い鬼が舌を引っこ抜きにくるわよ」
「それは本当に恐ろしいですね。ただし、この場合は嘘ではなくて冗談だとご理解いただきたいものです」
「本音では、私の顔を見たくないってことかしら」
「そうなら神社に来ませんよ。今日はこれをお裾分けに来たんです」
文は肩にかけた鞄から紙の束を取り出した。
見覚えがある。……たしか、文が不定期に発行している『文々。新聞』とやらだったか。
さては定期購読の勧誘に来たのか?
「何度も言ってるでしょ? 私は新聞なんて取らないって」
「取ってもらえれば御の字ですが、さすがにそんな期待はしていません。まあ、読んでみてくださいよ」
私は押し付けられた新聞を渋々手に取って一面とやらに目を通す。
記事の題名はでかでかと、こう書かれていた。
『百鬼夜行再来!? 森の奥地で毎夜行われる大宴会!』
「……へー、そうなんだ」
私が気のない返事をすると、文は聞いてもいないのに興奮気味に語り始めた。
「私が取材を始めてから、間違いなく十日はやってますね! 場所は泥棒の根城、霧雨魔法店。集まるのは妖怪がほとんどで、一体どんな儀式が執り行われているのか興味が尽きません! 取材は断られてしまったので詳細は分かりませんが、いずれ暴いて記事にしてみせますよ」
などと得意げな文を余所に、私は掲載されている写真をじっくりと眺めていた。
中心にいるのは魔理沙。みんなに引っ張りまわされて辟易しているみたいで、実はその好意を嬉しく思っているようだ。
口の端に隠しきれない喜びが出ているのが、何よりの証拠である。
そんな彼女を囲むのは、メイドだとか吸血鬼だとかお姫様だとか、あげくにはさとり妖怪や妖精までいた。
皆、どこかで見たことがあった。
見知った顔という意味ではなく、つい先日会った記憶がある。
(ああ、そういえば以前怒鳴り込んできた奴らか)
半月ほど前に、写真の妖怪たちが次々に尋ねてきたのだ。
彼女たちは一様に「魔理沙の様子がおかしいが、何か知らないか」と聞いてきた。
心当たりは十二分にあったが面倒が嫌なので白を切ると、皆怪しむように眉をひそめた。
けれども特に追求しないで帰ったので、すっかり忘れていた。
「……霊夢さん? もしかして、何か知ってるんですか?」
「まさか。知りもしないし興味もないわ。これは異変じゃなくて単なる宴会だから、私が動く必要もないし」
「それはまあ、そうですねぇ。……ふーむ」
訝しむようにじろじろと観察されるが、それを無視して新聞を炎の山に放り込む。
新たなる獲物を歓迎するように、炎は紙の束を存分に味わっていた。
「ああっ、何するんですか!?」
「燃料の追加」
「そりゃ使い道は読者の自由ですけど……本人の目の前はひどいじゃないですか~」
がっくりと肩を落とす文の横で、私は燃えていく新聞を淡々と見つめる。
火の粉を舞う。とうとう炎は写真の部分にまで侵食していき、無慈悲に嬲り尽くす。
その光景を、どうしてか寂しく感じる自分がいた。
また、一ヶ月経った。
私は神社の縁側で一人、星が瞬く夜空を見上げていた。
静かではない。後ろでは、人外の酔っ払い共が声を張り上げながら酒を飲んでいるので、ひどく騒々しい。
今日は博麗神社で新年を祝う大宴会の日だった。
実際は元日をとうに通り過ぎて七日ばかり経過していたが、それでも妖怪たちは祝うのを止めない。
長命な妖怪にとっては一年の抱負を語る場ではなく、宴会をする口実でしかないのだろう。
それに付き合わされる人間の気持ちも考えて欲しい。
「……寒いな」
口からは常時白い息が漏れるほどの寒さだ。
酔い冷ましにと思って出たのだが、予想以上に冷たい空気で自然と体が震える。
だが、中に入れば強制的に飲まされる。八方ふさがりである。
「一人で何をしているんだい、おめでたい巫女さん」
「……空を警戒してるのよ、小さな百鬼夜行さん」
「なるほど、今にも降ってきそうな星は立派な肴になるね。私も付き合ってやるよ」
一切の気配を感じさせず、伊吹萃香は私の隣で足をぶらぶらさせていた。
どうせ霧になって来たのだろうが、普通に歩いてくればいいものを。
そんな私の心情を知ってか知らずか、萃香は楽しそうに瓢箪の酒を呷っていた。こんなときでも自前の酒は手放さないらしい。
萃香は何も喋らない。
私としても、特段話すことがないので黙って星空を眺めていた。
「なあ、霊夢」
萃香はいつになく真剣な口調で、呟いた。
「私らみたいな妖怪ばかりしか来ないから……抜け出したのか?」
何を馬鹿なことを、と思った。
自分勝手な妖怪たちが訪ねてくるのはもう慣れたし、本気で嫌なら全力で追い返している。
また軽口で返そうと萃香を見やると、それはどこか愁いの帯びた表情だった。
なので仕方なく、偽らざる本音を口にする。
「好きなのよ、この景色が。紅い霧は出てないし、満月は隠れてない。ああ、今日も幻想郷は平和だなって」
たまに異変が起こってくれれば退屈しないが、何事もない平穏というのも大好きなのだ。
しかしながら、萃香はとんでもない提案をしてきた。
「もしも霊夢が望むなら、流れ星を連れて来てあげるよ。――どうする?」
流れ星。それの意味することは、なんとなくわかった。
たしかに、黒白の流星は今も博麗神社に姿を現していない。あの日から、ずっと。
もしかして本気で嫌われたのか。だが、そういう風になるように仕向けたのは、他ならぬ私だ。
長年の腐れ縁にして、よく仕事の邪魔をする商売敵。
魑魅魍魎が集う博麗神社で、私以外の純粋な人間だった彼女。
認めるしかあるまい。私は今、魔理沙がいなくて寂しいのだと。
だが、それでも。
私は喉から飛び出そうとする感情を、無理やり喉の奥へ押し込んだ。
「お断りするわ。流れ星は遠くで眺めているだけで充分だもの」
「……そうか、くだらないことを言ったね。忘れてくれ」
構わないわ、と空になった杯を萃香に差し出した。
萃香も無言で酒を注ぐ。
私たちは小さく杯を重ね合わせた。
チィン、と軽やかな音が響いた。
◆
私は縁側でお茶を飲みながら、彼方を遠望していた。
いつもと変わらない一日のはずだった。
澄み切った青空の向こう側から、黒いものが飛来するまでは。
彼女は前のままだった。
いつもの帽子をかぶり、黒い服にエプロンドレスを着て、不遜な態度は改まらず。
お決まりのニヒルな笑みを携えて、私の眼前に着地した。
「よう霊夢、お茶くれないか?」
「…………」
「おいおいどうした、幽霊でも見たような顔しちゃって。私、ちゃんと足あるよな?」
彼女は爪先で地面を叩いたり靴を見回したりして、不審な点がないか確認する。
その間に凍結していた意識が復活し、私はようやく彼女の言葉を理解した。
「え、ええ。ちょっと待ってなさい」
小走りで台所に向かい、少し熱の引いたヤカンのお湯をポットに注ぐ。
待ち時間が妙に長く感じる。心臓が久しぶりに活動したかのような強い鼓動が、狭い胸骨の中で暴れ狂う。
私は彼女が好んで使う湯のみに涸れかかった緑茶を入れ、縁側へと戻った。
見慣れた背中。
帽子を脇に置いて何もない森に視線を向けるスタイルは、まさしく彼女のものだった。
幼少時より飽きるほど見てきた光景に、何故か目頭が熱くなった。
「はい、熱いから気をつけなさいよ。魔理沙」
「おう、サンキュー」
そう言って魔理沙は、本当に嬉しそうに受け取ったのだ。
それからしばし、二人して無言だった。
示し合わせたわけではない。私が話し出そうとしなかったように、魔理沙も口を開かなかっただけだ。
春の兆しはまだ遠く、縁側にいるより室内にいた方が快適なのは明白なのだが、私は動けなかった。
腰を浮かせた途端に会話が始まりそうで。
室内に促した途端に状態が悪化しそうで。
私らしくないと理解していながらも、何も出来なかったのだ。
そんな私の心境を知ってか、魔理沙の方から話しかけてきた。
「なあ霊夢」
「ひゃ、ひゃい!?」
「……ひゃいってなんだよ。新しい幻想郷のトレンドか?」
「わ、悪かったわね! ちょっと噛んだだけよ!」
「ふ、ふふふっふふ」
「この、笑うなぁ!」
「あっはっはっはっは! おいこら、殴るな! お茶が零れる!」
あんまりにおかしそうに笑うので、ついむきになってしまう私。
本当に久しぶりに、頬が緩んだ気がした。
しばらくじゃれあった後、体が冷えた私たちは部屋に入ることにした。
部屋の中央を陣取るのは我が家自慢のコタツである。
魔理沙は早々と手足を突っ込むと、蕩けた表情でリラックスしていた。
「は~、寒かった~」
「それならさっさと言えば良かったのに」
「私から言い出したら催促してるみたいじゃないか」
「それはあまりにも今更過ぎるでしょ」
私も魔理沙のようにコタツ布団に足を入れた。
じわじわと足の芯が温まってくる。その心地よさに眠気が襲ってきた。
(ま、まずいわね。こんなときに眠ったら……)
何がまずいのかは自分でもよく分からないが、なんとなくよろしくない気がする。
せっかくなので魔理沙との会話で誘惑に耐えよう。
そう考えて魔理沙を見ると、
「……くかー」
当の本人は小さな口を開けっ放しにして、ぐっすりと寝ていた。
その呆気なさに、私も開いた口が塞がらなかった。まるで事前に計画していたかのような素早さである。
しばらくぶりに会ったかと思えば、速攻で寝入るとは。一体何しにきたのだと問い詰めたくなった。
「……ふふ」
でも、これが魔理沙らしい。
こいつはいつも自分勝手で、人のことなど考えもしないのだ。
私は机に顎を乗せて、魔理沙の寝顔をじっくりと観察する。
あの日のような化粧はしておらず、以前のようにナチュラルである。
そのことに少しだけほっとし、また残念にも思った。あれはあれで可愛らしかったからだ。
そんなことを考えていると、視界が徐々に狭まっていった。
「おやすみ、魔理沙」
そう呟いて、私もまどろみに身を任せた。
ごそごそと、何かが動く気配がした。
時間的に意識が浮上していた頃なのか、意外とあっさり眼を開けることができた。
「……魔理沙?」
「ありゃ、悪いな。起こすつもりはなかったんだが」
魔理沙はちょうど襖を開けて、篭った空気を入れ替えていた。
帽子をかぶって箒を手にしているところから、どうやら帰宅するつもりらしい。
「泊まっていけばいいのに」
「残念だけど、家に口うるさい奴らがいるんでな。無断外泊したら殺されかねん」
魔理沙は困ったように微笑んだ。
そういうことなら、と私は立ち上がる。せっかくなので見送ろうと思ったのだ。
魔理沙は特に反対しないで、すたすたと縁側を越えて庭に降り立った。
空はすでに暗闇で覆われ、数多くの星は己が存在を誰かへ主張していた。
冬の夜ということもあって、身を刺す寒さである。私は自分の体を抱くようにして身を縮めた。
そんな私を、魔理沙は呆れたように見返した。
「別に無理しなくたっていいぞ」
「私がしたいんだからいいの。それより、魔理沙は寒くないの?」
「子供は風の子だぜ。……というのは冗談で、実は暖房の魔法をかけてるから問題ない」
「ずるいわね。今度私にも教えなさいよ」
「魔法使いの特権だよ。巫女はコタツで丸くなってな」
魔理沙は自慢の相棒に腰掛けると、そのまま飛び立とうとする。
そんな彼女を、私は呼び止めてしまった。
「魔理沙!」
「あー? 何か言い忘れたか?」
「え、いや、えっと」
私は何を言おうとしたのだろうか。
おやすみ? 風邪ひかないようにね? 次は何時来るの?
どれも言いたい言葉のようで、どこか違う気がする。
もっと聞きたいこともあるのに、どうしても言葉が思い浮かんでこなかった。
魔理沙はしばらく言い淀む私を眺めた後。
くるりと反転しながら私の目の前に思いっきり箒を寄せて。
「霊夢、知ってるか?」
魔理沙は笑った。
鮮やかに輝かしく、まさしく夜空を彩る一番星のように。
「霧雨魔理沙は博麗霊夢がいなきゃ、退屈で死んじまうんだぜ」
楽しげで、美しかった――。
私は結局、黒白の影が夜空に紛れて消えるのを見届けてから、一人部屋に戻った
そして再びコタツに潜り、ゆっくりと凍えた手足を解すように伸ばす。
きっとまた明日から魔理沙は来るだろう。
ならばお茶は二人分用意しなくてはならないし、お茶請けも準備しなくてはならない。
あいつが茸を取ってきたら鍋にして囲もうか。神社に来た妖怪でも引っ張り込めばさらに美味しくなるに違いない。
そんな、いつも通りの明日を夢想しながら。
私は、また意識を手放した。
今日も、幻想郷は平和である。
失恋話なので、苦手な方はバックしたほうがいいです。
今日も幻想郷は平和である。
天高く馬肥ゆる秋、と言ったのは誰だろうか。
馬が無駄に肥えるほど食べ物が美味しくなる時期だと言いたかったのか、単に美味しい馬刺しが好きだからなのか。
私としては、天高く巫女肥ゆる秋と変更してもらいたい。
効力は『平和だったら自動的に神社に食べ物が集う』とか如何なものか。
そうすれば真面目に修行して、異変を起こした輩を全力でぶっ飛ばすのに。
私はそんなくだらないことを考えながら、縁側でお茶を啜っていた。
舞い散った落ち葉を掃くという重大な仕事を終え、先日里の人からもらった煎餅を齧りながら秋空を見上げる。
無邪気に遊びまわる妖精たちが、友人たちと会話する妖怪たちが、自由気ままに飛んでいた。
(幸せそうで何より、でいいのかしら)
私は彼女らを退治する立場にあるのだ。
しかし異変でもないのに攻撃を仕掛けるのは面倒だ。ウザ晴らしにはなりそうだけど。
まあいい。
今は冷えてきた体に熱を染みこませるのに忙しいのだ。
「この頃肌寒くなってきたからな。縁側でのんびりするのも辛くなってきたんじゃないか?」
背後から声がした。
博麗神社には私しか住んでいないので、必然不法侵入者となる。
それだけでも度し難いのに、そいつは「どっこいしょ」なんて言いながら私の隣に座った。
ちらりと視線を向けると、湯気のたった湯飲みを両手で握っている。
厚かましいことこの上ない。
「まだこの程度じゃない。まあ、そろそろコタツの準備でも始めるわ」
「巫女はコタツで丸くなるってか? まずはその寒そうな格好をどうにかするべきだろう」
「一応、これ冬着なのよ。ほら、生地が綿になってるでしょ?」
見せびらかした袖が丹念に触られる。
彼女は「ふーん」「へー」と感心するような呆れたような、実に気のない返事をした。
「こんなの毎年のことでしょ?」
「毎年のことだから心配してんだよ。とりあえず腋を隠せ。それで十倍暖かくなる」
余計なお世話だ。
このやり取りは巫女服を着始めた時から習慣のようにしているので、半ば季節の変わり目の挨拶になっている。
かれこれ何年になるだろうか、こいつとこうしてお茶を飲み合うのは。
……正確な日時は覚えていない。
はっきり言えるのは、記憶をいくら遡っても必ずこいつが登場するということだけだ。
まさしく腐れ縁である。
「で、今日は一体何の用なのかしら? 魔理沙」
「いや、まあ……うん。霊夢が寂しがってないかなーっと思って」
「はっきりしないわね。もしやまた妖精と一緒に悪戯でも企んでるんじゃ……」
私はこの時初めて、魔理沙の姿をまともに見た。
服装はいつもの黒白で、トレードマークの三角帽子も健在。茸狩りの帰りで泥に塗れているわけでもなく、至って普通の格好で普通にお茶を飲んでいる。
服装に変化はないのだが……。
「……ねえ魔理沙。それ、どうしたの?」
「へっ!? な、なにがだ?」
分かっているのかいないのか、魔理沙の声は裏返り、ひどく狼狽していた。
むず痒そうに体を揺すっている。
私は魔理沙がそういうことに興味があったことに驚きながらも、心のどこかで納得した。
「口紅、塗ったの?」
「え、ああ、幽香が……幽香に珍しく呼び止められてな、プレゼントだって貰ったんだ」
魔理沙のふっくらした唇に淡いサーモンピンクの紅が引かれていた。よくよく見れば、赤面する頬がいつもより映えている。化粧には詳しくないが、おそらく白粉を軽く付けているのだろう。
化粧をすると心まで『女性』に移り変わるのか、照れる仕草までもが大人びていた。
「あのさ霊夢……おかしくないか?」
両手を膝の上に合わせて微妙に上目遣いをしてくる魔理沙は、そっち方面に疎い私でも可愛らしいと思えた。
「いいんじゃない、よく似合ってるわよ。あんたも一応女だったのね」
「一言余計だぜ! まあ確かに今までこんなのに興味なかったからなぁ」
「ふぅん……」
たしか前回会ったのは一昨日くらいだったか。
たった二日の間にどんな心境の変化があったのかは知らないが、魔理沙も女性だということだ。
単なる興味か、あるいは。
「好きな人でも出来た?」
「っぶほぁ!?」
どうやら丁度喉を潤している最中だったらしい。
ゲホゲホと咳き込む魔理沙の背中を優しくさすってやった。こういうところはまだまだ子供だ。
こちらを振り向いた魔理沙は涙を目尻に浮かべ、抗議の声を上げた。
「こら、いきなり何言い出すんだ!」
「何よ図星? お相手は霖之助さんかしら? それとも他の男性? ああ、私は別に同性愛に偏見はないから安心して吐きなさい」
「脅迫じゃないか! というか、それどんな奴でも当てはまるだろ!」
「だって魔理沙の恋愛話じゃない。これほど酒が進む肴はそうそうないわよ」
私は立ち上がって台所へと足を向けた。
流しの下の棚を覗き込み、醤油瓶や何種類かの料理酒と紛れるように置かれている黒い瓶を取り出す。
秘蔵の日本酒である。
少し前に紫から分捕ったもので、どこで開けようか迷っていたのだが、飲みたい時が飲み頃だろう。
コップを二つ持ち、私は意気揚々と縁側に戻った。
「魔理沙も飲むでしょ? 紫が快く譲ってくれてさ、こんな真昼間から飲むのも乙じゃない?」
そう言って私が魔理沙の隣に腰を下ろすと、何故か魔理沙は体を小さく震わせた。
私は両方のコップに酒を注ぎ入れ、一口舐めるように味を確かめる。
――悪くない。
「今年の秋はずいぶんと短かったわね。おかげで衣替えが慌しかったけど、あんたはもうやった?」
「…………」
「急な寒波は勘弁して欲しいわよね~。ついこの間まで素麺が美味しかったのに、今じゃ食べた気にならないもの」
「…………」
「そろそろ鍋の時期かな。魔理沙も食用茸採ってきたら一緒に囲みましょうよ……。ねえ、そろそろ会話に参加してよ。これじゃ壁に話してるみたいで嫌なんだけど」
「……ああ、悪い。ちょっと考え事してた」
「ふぅん」
日本酒をぐいっと呷った。
一滴残らず口に流し込むと、焼けるような感触が食道を通って胃に到達する。
酒単体だからか、妙に胃に染み渡った。
私は二杯目を早々に注ぎながら、様子がおかしくなった魔理沙を横目で見る。
どこか深刻そうな表情で、一心に地面を見つめていた。
大好物である日本酒にも手をつけないとは、よほど重症と思える。
さっきの恋愛話のことか? 冗談のつもりだったのだが、もしかしたら魔理沙はそのことで相談しに来たのかもしれない。
相談相手が酔っ払っていては、そりゃあ魔理沙も失望するだろう。
(仕方ない。真面目に相手をしてやるか)
飲酒を中断してコップを脇に置いた。
と同時に、思わぬ温もりが私の手を覆った。
驚いてそちらを見ると、
「……魔理沙?」
「…………」
私の右手が、魔理沙の左手にしっかりと握られていた。
誤ってコップを取り違えたという可能性を考えたが、今なお乗せられている事実からして、それはない。
魔理沙の反応はない。未だに視線は地面に向いたままである。
色落ちした葉っぱが散る中、私と魔理沙は手を合わせたまま微動だにしない。
まるで、咲夜のスペルカードが発動したかのように、神社の縁側の時間は止まっていた。
私は沈黙に耐えかね、自然に手を離そうとする。
「ね、ねえ、そういえばさ、隣の家に囲いが……」
「霊夢」
だが。
今まで見た事がない魔理沙に、言葉が続かなくなった。
いつものニヒルな笑みは跡形もなく消え、視線を鋭く口を真一文字に結んでいる。
出会いを記憶していないほど長く一緒にいたのに、こんな顔を見るのは初めてだった。
私は作り笑いをすることもできず、真正面から魔理沙と目を合わせた。
「あのさ、私たちが初めて会った時のこと、覚えてるか」
覚えていない。
首を横に振ると、魔理沙の瞳が静かに揺らめいた。
――胸がざわつく。
「私は覚えてるぜ。桜の花びらが雪みたいに散っていた季節だ。博麗神社にすごい魔法使いがいるって聞いて、止める香霖を押しのけて参道を駆け上がった。するとどうしたことか、魔法使いはいなくて無表情のチビ巫女が境内を掃除していた」
「……魔理沙は私より小さかったじゃない。今もだけど」
「うるさいな、私はこれからが成長期なんだよ。それはいいとして、あの時の霊夢の姿は焼きついてるぜ。目じゃなくて、心にな」
なんて臭い奴だ、と揶揄してやりたかったが、それは叶わなかった。
胸の奥が、掻き毟りたくなるほどにざわついていたからだ。
「正直、ここまでつるむようになるとは想像してなかった。最初の頃はお前、ずいぶん無口でドライだったからな」
楽しげに話す魔理沙に反論しようと口を開くが、喉で詰まったように声が出ない。
その代わりに湧き上がってきたのは暗雲のような感覚。
「でも、何も知らなかっただけだったんだな」
私はそれを、嫌な予感と呼んでいる。
「二人だけで鬼ごっこして、お茶飲んで、掃除しながらチャンバラして、夕食一緒に食べて。私が魔法使い……魅魔様に弟子入りしてから時々対立するようになっても、関係が途切れることはなかった。初めての友達がお前で良かったよ」
「……気持ち悪い」
出来る限り実感を込めて呟いたのだが、魔理沙は「ひでぇな、おい」と苦笑するだけだった。
おそらく照れ隠しだと思われてるんだろう。勘違いも甚だしい。
「乏しい才能から目を逸らすために努力を重ねた。強い奴のスペルを参考にして実力を磨いた。お前を出し抜くために、起こる異変全てに首を突っ込んだ。なんだ、私結構無茶してるなぁ」
あはは、とさも面白い話をしているかのように笑う魔理沙。
だけどそれは彼女の錯覚だ。聞かされている私はまったく愉快な気分にならない。
「一体何を言いたいのかさっぱりわからないわ。退屈しのぎなら余所でやってちょうだい」
言って、私は靴を履いて境内へ向かった。
少し放っておいただけで落ち葉がまたひどく散らかっていた。まったく、いくら掃いてもきりがない。
これも神社を存続させるための大切な業務だと自分に言い聞かせ、再度掃除すべく箒を取りにいく。
「霊夢!」
魔理沙が追いかけてきた。
「まだ何かあるの? 私は忙しいんだからまた今度にして」
「なんだよ、私怒らせるようなこと言ったか? もしそうなら謝るけど……」
「そうね、無意味な会話で貴重な時間を潰されたのが腹立ったわ。悪いけど、思い出話は好きじゃないの」
「む、無意味って……」
先ほどの笑顔は消え、魔理沙はくしゃりと顔を歪めた。
これも見たことがない。弾幕ごっこで負けたときとか実験に失敗したらしいときに似ているが、根本的に違う。
本当に、辛そうな表情だ。
「魔理沙の話はいつも唐突でつまらないけど、今日は突き抜けてるわね。過去が何だってのよ。そういうのは晩年にやることで、今は今を生きる時間でしょうが」
「そうだけど! 別にそんな言い方しなくたって……!」
「魔女はおばあさんが定石だから魔理沙もそうなっちゃったのかしら」
言い終わる瞬間に、魔理沙が私の胸倉を掴んで引き寄せてきた。
顔が近い。魔理沙は目尻に小さな珠を浮かべ、必死の形相で睨んでくる。
鼻息が荒く、私の服を握る手がぷるぷると小刻みに震えていた。
処理しきれない激情を、何とか身の内に留めようとしているようだ。
「……怖がり魔理沙」
氷の妖精よりも冷たく低い声が響いた。
私の声だった。
「あんたはいつもそう。何でも知ってるふりして誤魔化してる。本当は自分が一番怖いのに、誰よりも強く見られようとして無理をする。無視されるのが怖いから、迷惑かけてでも見てもらおうとする」
「……私は」
「今もでしょ? 何も持ってないのに見せびらかす。話すことがないのに口を動かす。することがないのにしようとする。だから魔理沙はいつまでも……」
「私は、霊夢が好きなんだ!」
……………………は?
思考が止まる。
何を言い出すのかこいつは。
好き? 好きって何よ? 友人として? それとも――
魔理沙の真意について考えるが、答えどころか何一つ言葉が思い浮かばなかった。
私が何も言えず、呆然と魔理沙の顔を眺めていると。
「――意味分かんないって顔してるな。私も同じ気持ちだぜ。こんな雰囲気で告白するなんて、まったく想像してなかった」
告白、らしい。
胸倉を掴み上げて声を荒げる姿はどこをどう解釈してもそういう風には受け取れない。
しかし、本人が言ってるのならそうなのだろう。
「本当は桜とか雪が適度に降って二人っきりになったところでロマンチックな告白をかましてやりたかったけどさぁ! 季節は生憎秋だし、落ち葉が酷いし、化粧は上手くできなくて結局咲夜にやってもらうし、お前は暢気に紫から貰った酒を飲もうだなんて言い出すし! 何もかも中途半端でうまくいかない!」
「いやそれは――」
私のせいじゃないし。
「何でこんな奴を好きになっちまったんだよ私は! 寂れた神社で腋を出しながら昼寝ばかりしてる巫女って普通恋愛対象にならないだろ!? しかも同性で、友人以上の感情とかありえなさすぎる! でも好きなんだよ、霊夢が!」
一度だけ、魔理沙は大きく息を吸って。
「霧雨魔理沙は、博麗霊夢に恋してるんだよ!」
そんなことを、堂々と言い切った。
ようやく掴んでいた手を離し、息を整えるように深呼吸をしだす魔理沙。
顔は真っ赤で、冬の匂いを届ける冷たい風が吹いているにも関わらず、まるで全力で参道を駆け上がったかのような汗が境内の石畳に染み入る。
おかげで化粧が徐々に崩れている。見苦しいほどではないが、よく観察すれば分かるくらいには。
これを見れば、魔理沙がどれほど真剣だったかは容易に推測できる。
今日という日を極度の緊張で迎え、腸が捻り切れそうな苦悩で神社に向かい、動揺を悟られないよう普段どおりを心がけていたことか。
だけど私は。
私は、どこまでも抑揚のない声で、
「悪いけど、恋愛ごとなんかに現を抜かしてる暇はないのよ」
それら全てを、切って捨てた。
突風が吹いた。
どこか憂いを帯びた風は、境内を覆っていた落ち葉を拾い上げて、また四方へばら撒いていく。
私は肌寒さを感じさせる秋の空気を受けながら、魔理沙と向かい合っていた。
言葉はない。
真摯な瞳に動作を奪われ、必然真正面から対峙する形となっていた。
「なあ霊夢、私はどうすればいいんだ?」
「…………」
「嫌いだとか、他に好きな奴がいるって言われればまだ納得できた。でも、恋愛に興味がないだって? 進めばいいのか、捨てればいいのかも分からないよ……」
小さく可愛らしい口から、嗚咽が漏れている。
魔理沙は顔を隠そうともしないで、さめざめと涙を流しはじめた。
せっかくのお洒落も乙女の心で溶けて浮いて、じきに消えてしまうだろう。
私はちくりと痛む胸を無視して、
「ごはん、食べなさい」
と言った。
魔理沙は潤んだ瞳のまま、きょとんとした顔になる。
あからさまに驚いた表情。まあ、ある意味予想通りの反応だ。
私は続ける。出来る限り厳しく、繊細な彼女の心に傷をつけるのはこれが最後と言い聞かせながら。
「次にお風呂に入って髪を丁寧に乾かして梳かしなさい。おわったら布団に包まって朝までぐっすり眠りなさい」
「……霊夢?」
「起きたら顔を洗って身支度を整えて朝ごはん。適当に掃除してお腹がすいたら昼ごはん。買い物とか昼寝で時間を潰したら日が暮れるわ。そしたら夕飯よ。精のつく料理を食べなさい」
「食べたらどうするんだ?」
「お風呂に入って寝る」
「……そんなこと、いつもやってるよ」
「そう、そんなことを飽きるまでやれば」
「やれば?」
目を閉じて深呼吸し、一息のまま言葉を放った。
「そんなくだらない感情、忘れるわ」
しばしの静寂の後。
ぱしん、と乾いた音が頬を叩いた。
私は頬に起こった衝撃を他人事のように受け止め、魔理沙を見つめた。
魔理沙は私を殴りおわった格好のまま、じっとこちらを凝視していた。
そしてぽつりと呟く。
「謝らないからな。どんなに霊夢が迷惑だと感じてても、この気持ちだけは――くだらなくなんて、ないから」
「……そう。あんたの代名詞だものね」
恋符。魔理沙の得意技。
誰かに恋をしたというパワーを込めたスペルは、どのような相手も吹き飛ばす必殺。
私の夢想封印とは違い、強大な威力と範囲を兼ね備えた弾幕が一直線に突き抜ける。
そんな生き方を――昔、羨ましく思ったものだ。
「帰るぜ」
言うやいなや、魔理沙は取り出した箒に跨る。
そしてさよならの挨拶をする前に、そのまま飛び去っていった。
私はその背中にかける言葉を持たず、ただそれを見送った。
私はがらんと人気がなくなった境内を去り、お酒の置いてある縁側に再度座った。
鬱々とした気分のまま、幻想郷の空を眺める。実に平和な日常である。
「出てきたら? 悪趣味もいいかげんにしてほしいわ」
「あら、空気を読んでいたと言ってもらいたいものね」
庭先の空間が目蓋のように開き、そこから八雲紫が現れた。
日差しは強くないのにいつもの日傘を引っ提げて、実に優雅な足取りで近づいてくる。
そのまま、私の横に腰を下ろした。
「ご機嫌いかが?」
「そうね、いたっていつも通りだわ。あんたが現れる前までは」
「それは良かった。そのお酒をあげた甲斐があったわ」
紫は胡散臭い笑みを浮かべながら、魔理沙が使うはずだったコップを手に取った。
「一献、もらえるかしら?」
「……全部見てたなら、そんな図々しいことは言えないはずなんだけど」
「だから聞いているのよ」
私は苦々しく思いながらも頷くと、紫は絵画になりそうなくらいの優美さで、コップを傾けた。
酒を一人で飲むのは寂しい、と自分に言い訳しながら。
「……私、あれで良かったのかな」
「博麗の巫女としては百点満点よ」
一縷の救いを求める私に、紫は一切の容赦がなかった。
博麗の巫女は全てに平等でなくてはならない。
巫女が誰かを特別に想えば幻想郷のバランスが保てなくなる。
幻想郷に住んでいるのなら子供でも知っていることだ。
立場上、私は人間の味方をする。
しかし博麗大結界を担って幻想郷を維持する側に立っている以上、人間よりも妖怪よりも結界を最重要視するのだ。
その目的を達成するならば、たとえ人間を害して妖怪に利することも厭わない。
妖怪を退治するのが生業であってもだ。
故に、私は特別な者を作らない。
人間であろうと妖怪であろうと、いずれは職業上邪魔になることは明白であるから。
それが、正式な博麗の巫女になったときに誓ったことである。
「あなたは修行嫌いでぐーたらなのに、そんなところだけは立派な巫女なんだから」
紫は可笑しそうに笑った。
未熟な人間を嘲笑うようにではなく、世話の焼ける子供を見守るかのように。
なんとなく気恥ずかしくなり、ぷいっと顔を背ける。
「私はこれから『寝る』けど、辛くなったら藍を呼びなさい。どんな命令だって従うわ」
「……期待しないでおくわ」
紫は冬眠する妖怪である。
秋のうちに人間を『蓄え』、春が来るまで熟睡して起きないらしい。
そんな機能があれば私も楽なのだが、生憎私は朝起きて夜寝る人間だった。
瓶の中身が半分くらいになったところで、紫は帰ると言い出した。
引き止める理由はない。私はさっさと帰れと促す。
また庭にスキマを広げ、紫が潜ろうとした瞬間。
「ああそうそう、忘れてたわ」
紫は手にした扇子でパチンと音を鳴らした。
……特別、何の変化も起きない。
「それで人恋しさを紛らわしなさい。頑張ったご褒美でもあるわ」
それでようやく、紫は去った。
最後の言葉は一体なんだったのかとコップに手を伸ばすと、それは人肌程度に温かかった。
日本酒の中身がすべて熱燗になっており、隣にはツマミが乗った皿が二つ。
変に気が利く奴だな、と感心しながらも言葉に甘えることにした。
◆
一ヶ月経った。
冬の気配がこれ以上になく濃厚になり、雪でも降るんじゃないかというくらいの寒さである。
今日は運が良いことに、里のおばあちゃんからさつまいもを貰ったのだ。
落ち葉は先月に比べてずいぶん少なくなっていたが、芋を二個焼く程度には集まっていた。
私は落ち葉に火をつけてさつまいもを入れ、期待に胸を膨らませながら出来上がりを待っていると。
「あやややや~、なにやら面白いことをしていますね霊夢さん。食欲の秋ですか?」
「残念、もう冬よ。こんな日だからこそ焼き芋が美味しくなる。――で、何の用?」
「霊夢さんの顔が見たいから、ではいけませんか?」
颯爽と現れた射命丸文は、愛想笑いを浮かべながら私の横に降り立った。
私はちらりと文の姿を確認し、またすぐに視線を炎に戻す。
「怖い鬼が舌を引っこ抜きにくるわよ」
「それは本当に恐ろしいですね。ただし、この場合は嘘ではなくて冗談だとご理解いただきたいものです」
「本音では、私の顔を見たくないってことかしら」
「そうなら神社に来ませんよ。今日はこれをお裾分けに来たんです」
文は肩にかけた鞄から紙の束を取り出した。
見覚えがある。……たしか、文が不定期に発行している『文々。新聞』とやらだったか。
さては定期購読の勧誘に来たのか?
「何度も言ってるでしょ? 私は新聞なんて取らないって」
「取ってもらえれば御の字ですが、さすがにそんな期待はしていません。まあ、読んでみてくださいよ」
私は押し付けられた新聞を渋々手に取って一面とやらに目を通す。
記事の題名はでかでかと、こう書かれていた。
『百鬼夜行再来!? 森の奥地で毎夜行われる大宴会!』
「……へー、そうなんだ」
私が気のない返事をすると、文は聞いてもいないのに興奮気味に語り始めた。
「私が取材を始めてから、間違いなく十日はやってますね! 場所は泥棒の根城、霧雨魔法店。集まるのは妖怪がほとんどで、一体どんな儀式が執り行われているのか興味が尽きません! 取材は断られてしまったので詳細は分かりませんが、いずれ暴いて記事にしてみせますよ」
などと得意げな文を余所に、私は掲載されている写真をじっくりと眺めていた。
中心にいるのは魔理沙。みんなに引っ張りまわされて辟易しているみたいで、実はその好意を嬉しく思っているようだ。
口の端に隠しきれない喜びが出ているのが、何よりの証拠である。
そんな彼女を囲むのは、メイドだとか吸血鬼だとかお姫様だとか、あげくにはさとり妖怪や妖精までいた。
皆、どこかで見たことがあった。
見知った顔という意味ではなく、つい先日会った記憶がある。
(ああ、そういえば以前怒鳴り込んできた奴らか)
半月ほど前に、写真の妖怪たちが次々に尋ねてきたのだ。
彼女たちは一様に「魔理沙の様子がおかしいが、何か知らないか」と聞いてきた。
心当たりは十二分にあったが面倒が嫌なので白を切ると、皆怪しむように眉をひそめた。
けれども特に追求しないで帰ったので、すっかり忘れていた。
「……霊夢さん? もしかして、何か知ってるんですか?」
「まさか。知りもしないし興味もないわ。これは異変じゃなくて単なる宴会だから、私が動く必要もないし」
「それはまあ、そうですねぇ。……ふーむ」
訝しむようにじろじろと観察されるが、それを無視して新聞を炎の山に放り込む。
新たなる獲物を歓迎するように、炎は紙の束を存分に味わっていた。
「ああっ、何するんですか!?」
「燃料の追加」
「そりゃ使い道は読者の自由ですけど……本人の目の前はひどいじゃないですか~」
がっくりと肩を落とす文の横で、私は燃えていく新聞を淡々と見つめる。
火の粉を舞う。とうとう炎は写真の部分にまで侵食していき、無慈悲に嬲り尽くす。
その光景を、どうしてか寂しく感じる自分がいた。
また、一ヶ月経った。
私は神社の縁側で一人、星が瞬く夜空を見上げていた。
静かではない。後ろでは、人外の酔っ払い共が声を張り上げながら酒を飲んでいるので、ひどく騒々しい。
今日は博麗神社で新年を祝う大宴会の日だった。
実際は元日をとうに通り過ぎて七日ばかり経過していたが、それでも妖怪たちは祝うのを止めない。
長命な妖怪にとっては一年の抱負を語る場ではなく、宴会をする口実でしかないのだろう。
それに付き合わされる人間の気持ちも考えて欲しい。
「……寒いな」
口からは常時白い息が漏れるほどの寒さだ。
酔い冷ましにと思って出たのだが、予想以上に冷たい空気で自然と体が震える。
だが、中に入れば強制的に飲まされる。八方ふさがりである。
「一人で何をしているんだい、おめでたい巫女さん」
「……空を警戒してるのよ、小さな百鬼夜行さん」
「なるほど、今にも降ってきそうな星は立派な肴になるね。私も付き合ってやるよ」
一切の気配を感じさせず、伊吹萃香は私の隣で足をぶらぶらさせていた。
どうせ霧になって来たのだろうが、普通に歩いてくればいいものを。
そんな私の心情を知ってか知らずか、萃香は楽しそうに瓢箪の酒を呷っていた。こんなときでも自前の酒は手放さないらしい。
萃香は何も喋らない。
私としても、特段話すことがないので黙って星空を眺めていた。
「なあ、霊夢」
萃香はいつになく真剣な口調で、呟いた。
「私らみたいな妖怪ばかりしか来ないから……抜け出したのか?」
何を馬鹿なことを、と思った。
自分勝手な妖怪たちが訪ねてくるのはもう慣れたし、本気で嫌なら全力で追い返している。
また軽口で返そうと萃香を見やると、それはどこか愁いの帯びた表情だった。
なので仕方なく、偽らざる本音を口にする。
「好きなのよ、この景色が。紅い霧は出てないし、満月は隠れてない。ああ、今日も幻想郷は平和だなって」
たまに異変が起こってくれれば退屈しないが、何事もない平穏というのも大好きなのだ。
しかしながら、萃香はとんでもない提案をしてきた。
「もしも霊夢が望むなら、流れ星を連れて来てあげるよ。――どうする?」
流れ星。それの意味することは、なんとなくわかった。
たしかに、黒白の流星は今も博麗神社に姿を現していない。あの日から、ずっと。
もしかして本気で嫌われたのか。だが、そういう風になるように仕向けたのは、他ならぬ私だ。
長年の腐れ縁にして、よく仕事の邪魔をする商売敵。
魑魅魍魎が集う博麗神社で、私以外の純粋な人間だった彼女。
認めるしかあるまい。私は今、魔理沙がいなくて寂しいのだと。
だが、それでも。
私は喉から飛び出そうとする感情を、無理やり喉の奥へ押し込んだ。
「お断りするわ。流れ星は遠くで眺めているだけで充分だもの」
「……そうか、くだらないことを言ったね。忘れてくれ」
構わないわ、と空になった杯を萃香に差し出した。
萃香も無言で酒を注ぐ。
私たちは小さく杯を重ね合わせた。
チィン、と軽やかな音が響いた。
◆
私は縁側でお茶を飲みながら、彼方を遠望していた。
いつもと変わらない一日のはずだった。
澄み切った青空の向こう側から、黒いものが飛来するまでは。
彼女は前のままだった。
いつもの帽子をかぶり、黒い服にエプロンドレスを着て、不遜な態度は改まらず。
お決まりのニヒルな笑みを携えて、私の眼前に着地した。
「よう霊夢、お茶くれないか?」
「…………」
「おいおいどうした、幽霊でも見たような顔しちゃって。私、ちゃんと足あるよな?」
彼女は爪先で地面を叩いたり靴を見回したりして、不審な点がないか確認する。
その間に凍結していた意識が復活し、私はようやく彼女の言葉を理解した。
「え、ええ。ちょっと待ってなさい」
小走りで台所に向かい、少し熱の引いたヤカンのお湯をポットに注ぐ。
待ち時間が妙に長く感じる。心臓が久しぶりに活動したかのような強い鼓動が、狭い胸骨の中で暴れ狂う。
私は彼女が好んで使う湯のみに涸れかかった緑茶を入れ、縁側へと戻った。
見慣れた背中。
帽子を脇に置いて何もない森に視線を向けるスタイルは、まさしく彼女のものだった。
幼少時より飽きるほど見てきた光景に、何故か目頭が熱くなった。
「はい、熱いから気をつけなさいよ。魔理沙」
「おう、サンキュー」
そう言って魔理沙は、本当に嬉しそうに受け取ったのだ。
それからしばし、二人して無言だった。
示し合わせたわけではない。私が話し出そうとしなかったように、魔理沙も口を開かなかっただけだ。
春の兆しはまだ遠く、縁側にいるより室内にいた方が快適なのは明白なのだが、私は動けなかった。
腰を浮かせた途端に会話が始まりそうで。
室内に促した途端に状態が悪化しそうで。
私らしくないと理解していながらも、何も出来なかったのだ。
そんな私の心境を知ってか、魔理沙の方から話しかけてきた。
「なあ霊夢」
「ひゃ、ひゃい!?」
「……ひゃいってなんだよ。新しい幻想郷のトレンドか?」
「わ、悪かったわね! ちょっと噛んだだけよ!」
「ふ、ふふふっふふ」
「この、笑うなぁ!」
「あっはっはっはっは! おいこら、殴るな! お茶が零れる!」
あんまりにおかしそうに笑うので、ついむきになってしまう私。
本当に久しぶりに、頬が緩んだ気がした。
しばらくじゃれあった後、体が冷えた私たちは部屋に入ることにした。
部屋の中央を陣取るのは我が家自慢のコタツである。
魔理沙は早々と手足を突っ込むと、蕩けた表情でリラックスしていた。
「は~、寒かった~」
「それならさっさと言えば良かったのに」
「私から言い出したら催促してるみたいじゃないか」
「それはあまりにも今更過ぎるでしょ」
私も魔理沙のようにコタツ布団に足を入れた。
じわじわと足の芯が温まってくる。その心地よさに眠気が襲ってきた。
(ま、まずいわね。こんなときに眠ったら……)
何がまずいのかは自分でもよく分からないが、なんとなくよろしくない気がする。
せっかくなので魔理沙との会話で誘惑に耐えよう。
そう考えて魔理沙を見ると、
「……くかー」
当の本人は小さな口を開けっ放しにして、ぐっすりと寝ていた。
その呆気なさに、私も開いた口が塞がらなかった。まるで事前に計画していたかのような素早さである。
しばらくぶりに会ったかと思えば、速攻で寝入るとは。一体何しにきたのだと問い詰めたくなった。
「……ふふ」
でも、これが魔理沙らしい。
こいつはいつも自分勝手で、人のことなど考えもしないのだ。
私は机に顎を乗せて、魔理沙の寝顔をじっくりと観察する。
あの日のような化粧はしておらず、以前のようにナチュラルである。
そのことに少しだけほっとし、また残念にも思った。あれはあれで可愛らしかったからだ。
そんなことを考えていると、視界が徐々に狭まっていった。
「おやすみ、魔理沙」
そう呟いて、私もまどろみに身を任せた。
ごそごそと、何かが動く気配がした。
時間的に意識が浮上していた頃なのか、意外とあっさり眼を開けることができた。
「……魔理沙?」
「ありゃ、悪いな。起こすつもりはなかったんだが」
魔理沙はちょうど襖を開けて、篭った空気を入れ替えていた。
帽子をかぶって箒を手にしているところから、どうやら帰宅するつもりらしい。
「泊まっていけばいいのに」
「残念だけど、家に口うるさい奴らがいるんでな。無断外泊したら殺されかねん」
魔理沙は困ったように微笑んだ。
そういうことなら、と私は立ち上がる。せっかくなので見送ろうと思ったのだ。
魔理沙は特に反対しないで、すたすたと縁側を越えて庭に降り立った。
空はすでに暗闇で覆われ、数多くの星は己が存在を誰かへ主張していた。
冬の夜ということもあって、身を刺す寒さである。私は自分の体を抱くようにして身を縮めた。
そんな私を、魔理沙は呆れたように見返した。
「別に無理しなくたっていいぞ」
「私がしたいんだからいいの。それより、魔理沙は寒くないの?」
「子供は風の子だぜ。……というのは冗談で、実は暖房の魔法をかけてるから問題ない」
「ずるいわね。今度私にも教えなさいよ」
「魔法使いの特権だよ。巫女はコタツで丸くなってな」
魔理沙は自慢の相棒に腰掛けると、そのまま飛び立とうとする。
そんな彼女を、私は呼び止めてしまった。
「魔理沙!」
「あー? 何か言い忘れたか?」
「え、いや、えっと」
私は何を言おうとしたのだろうか。
おやすみ? 風邪ひかないようにね? 次は何時来るの?
どれも言いたい言葉のようで、どこか違う気がする。
もっと聞きたいこともあるのに、どうしても言葉が思い浮かんでこなかった。
魔理沙はしばらく言い淀む私を眺めた後。
くるりと反転しながら私の目の前に思いっきり箒を寄せて。
「霊夢、知ってるか?」
魔理沙は笑った。
鮮やかに輝かしく、まさしく夜空を彩る一番星のように。
「霧雨魔理沙は博麗霊夢がいなきゃ、退屈で死んじまうんだぜ」
楽しげで、美しかった――。
私は結局、黒白の影が夜空に紛れて消えるのを見届けてから、一人部屋に戻った
そして再びコタツに潜り、ゆっくりと凍えた手足を解すように伸ばす。
きっとまた明日から魔理沙は来るだろう。
ならばお茶は二人分用意しなくてはならないし、お茶請けも準備しなくてはならない。
あいつが茸を取ってきたら鍋にして囲もうか。神社に来た妖怪でも引っ張り込めばさらに美味しくなるに違いない。
そんな、いつも通りの明日を夢想しながら。
私は、また意識を手放した。
今日も、幻想郷は平和である。
魔理沙は一体どうなってしまったんだろう……吹っ切れたのか、自棄になったのか。ある意味ハッピーなのか果てしなくアンハッピーなのか、どちらとも取れる終わり方
もやっとしたといえばしましたが、これはこれで悪くない読後感
前作でも思いましたがごはんつぶさんの文章、とても読みやすくて好きです 次作も期待
自分を好きになって欲しいという気持ちを押し付けた魔理沙と、それをばっさり切り捨てておきながら未練がましい態度をする霊夢。
諦めが悪い魔理沙と非情になりきれない霊夢は、実に自分勝手でとても人間くさいです。
欲を言えば、しばらく博麗神社にこなかった間の魔理沙の心情の変化が欲しいと感じました。
個人的にはタイトル詐欺も甚だしいと思うなぁ。
物語の最初から最後まで、霧雨魔理沙と博麗霊夢は恋をしているようにしか見えない。
博麗の巫女なんか知らんよ。
「霧雨魔理沙は博麗霊夢がいなきゃ、退屈で死んじまうんだぜ」
つまりはそういうことだ。
幻想郷随一の誉れも高いその諦めの悪さ、思う存分発揮しようぜ白黒の魔法使い。
紅白がっ 泣くまで 告白するのをやめないっ!
そんな感じでした。
きっと霊夢なら、こんな縛りからも浮ける筈……!
例え言葉の上で拒絶され続けても。
そうしていずれ、ね。
そして魔理沙の家にいるのは咲夜たちなんだろうか
この話の続きが是非読みたいです
はかなくも、美しいEDであり、そしてOPでした。
その方が俺得なので、そう思っておこう
レイマリの心は一体どこへ向いているのだろうか...