世の中というものは千差万別にして複雑怪奇、理解出来ないものなど吐いて捨てる程で、受け入れがたい事など腐る程ある。その中でひとつ代表的なものを挙げるとすれば、それはわたしにとって食事という行為だった。世の中の生き物は、高級食材だ珍味だ、などと言ってそれを得て食べる事を良しとするけれど、そこらの草と何がどう違うのか説明して欲しい。
生きとし生けるすべてのものが食事という行為に快楽を見出す理由は、なんとなく想像出来る。生き物にとって生きる上で必要不可欠な行為には、必ず快楽が付随するものだ。子を成す為の行為に強い快楽があるように。呼吸のように無意識にも自律して行われるものを除けば、大体すべてそう。
しかしそこに来るとどうだ、わたしは生きる上で生き物である上で、必須の条件をクリアしていないのではないか?
わたしには味というものが判らない。何を口に入れても同じに感じる。においの差から多少の良し悪しはあるけれど、それを除けばどんな食材、いや、それが食べ物でなかったとしても、わたしにはまるで違いが感じられない。あんまりにも味が判らないので、突飛なものを口に入れれば少しはましになるかもしれないと思い、庭に生えた草を引き千切って口に入れた事がある。咀嚼し、唾液で溶かし、喉を通してみた。なんとなく土臭さは判ったが、生臭さの残る刺身と何が違うのか考えたら対して誤差では無さそうだ。なんだ、やっぱりわたしには味などという高尚なものは土台理解出来ない訳だ、と納得した。ちなみに、その場をうちの妖精メイドに見られていたらしく、しばらく彼女らの利用する食堂はその話題で賑わったそうで、それを聞き入れたお姉様が「食事の何が不満なのよ」と怒って来たが、さておき。
食事というものはひとを幸せにするらしい。残念ながらわたしはその例外に位置するようだが、わたし以外は概して当て嵌まるのだという事は経験上知っている。美味しいものは、良いものらしい。良いものというのは、それ自体で既に価値を成しているから、羨ましいと思う。良い悪いという二元論で価値が得られるのだから、美味しいものは幸せだ。
ともあれ、それがわたしには困るのだった。ひとを幸せにする食事がわたしを不幸にする。それはまぁ良いとしよう。言っても、詮無い。ところが、その差異がひとにばれたら、大変なのだ。わたしが食事をしているところを見ると、決まってひとは「美味しくないの」、と困ったような顔をする。わたしに美味しいという概念がそもそも理解出来ないのだが、それはさておいても、まるでひとは美味しくない事が悪い事のように、美味しくない事が不幸であるかのように、振舞うのだから困る。美味しい事は絶対の基準なのだろうか。生物が得るべき普遍の価値観なのだろうか。悲しむような困ったような、それでいて何故か憐れむような、そんな彼女らの顔を見ていると不思議に思える。
わたしはわたしが悪くて不幸だとは思わないのに。
とまぁ世間の風評はこの辺にして、本題に入ると、つまるところわたしは、たったひとりのメイドの顔を見たくないだけなのである。メイドの名前は十六夜咲夜と言う。十六夜咲夜は優秀なメイド長である。その働きぶりは大雑把の癖に目ざといお姉様の眼にも適うようで、大変重宝されている。お姉様に彼女の価値を尋ねたところ、「あれよりは大事ね」と、この屋敷で最も高価なシャンデリアを指差していた。どこまで本気なのか判らないが、家具にランキングを付ければ一番らしいという事は間違いなさそうだ。
とかく優秀なメイド長は、完全無欠にして天衣無縫、なんでもかんでも完璧にやり尽くしてしまう。わたしが閉口したのは、メイド長は非常に料理が得意であるらしいと知ってからだ。メイド長の腕前はそれはもう見事なもので、そんじょそこらのシェフより美味しく、レパートリーも豊富であり、何より早い(時を操るのだからあたりまえだろうという突っ込みはぐっと心の奥に押し留めて)。らしい。すべて伝聞であり、実感した試しはない。そこが問題だった。完璧に美味しい筈の、完璧に素晴らしい筈の彼女の才覚を、わたしは認めてあげる事が出来ない。それは彼女にとって小さくないショックであったようだ。彼女は鬼の如く料理の勉強をし、新しい料理を学び、研鑽を積み、とかく必死で腕を磨いた。そうして某かを作っては、わたしに食べさせるのだった。わたしにとっては少し迷惑ではあったけれど、おまえの料理は雑草と同じだと言われれば(直接言った訳ではないが、妖精メイドによって庭の草を貪るわたしの逸話は既に誰でも知っていた)躍起になる気持ちも判るし、居た堪れなく罪悪感を感じたので、黙って付き合っていた。
メイド長が恭しく料理を差し出す。素材同士の色合いには調和が満ち、それでいていやらしい輝きはない。においも臭みは感じないし、世間的に良いと呼ばれそうなにおいが香っていた。さくり、フォークを刺して、ナイフを通す。無駄や抵抗を感じさせない、程良い切れ味が手に伝わる。満点だ。あぁ、これが美味しいという事なのだろうなと、口に入れる前に悟った。ひとはこれを美味しいと褒め称えるだろう。何せ非の打ちどころがない。そこまで感じて、最後に口に入れる。けれどそこまでだ。わたしに残るのは、虚しく口の中を転がり消化されゆくだけの異物でしかない。不味いと思った訳ではない。わたしにそんな高尚な感覚は与えられていない。わたしに味は判らない。とかく、判らない。詮無い事だ。もはや儀礼だ。もはや儀式だ。規則正しく両手を動かし、丁寧に食べ尽くす。テーブルマナーは完璧だ。せめてそれが、わたしに出来る彼女への敬意の表し方だと思うからだ。わたしが食べ終えると、彼女は何も言わない。わたしも沈黙する。感想も聞いてこないし、言わない。メイド長は少しだけ俯いて、小さくため息をもらすだけ。
そんなやりとりが一体何日、何回、続いたのか判らない。メイド長は決して諦めず、それでも必死で料理を学ぶ。お姉様は言った、「別にシェフとして雇ったつもりはないんだけどねぇ」。
完璧なメイド長が、完璧な料理を作る事が出来るのに、完璧の更に上を目指そうとしている。わたしにただ一言「美味しい」と言わせたいが為に、見ていて呆れるような努力を惜しまない。それくらい完璧主義でなければ完璧なメイド長は務まらないのかな、と軽く考えた。
お姉様がぼんやり零した、「パチェの偏食が直ったのよ」という言葉を、わたしは始め、信じなかった。偏食にも程があるというかあれはもはや雑食の可能な生き物ではないのだろう、とそこまで諦めていたわたしたちだ。お姉様も半ば噂でも語るような口調だった。「しかも、三食きちんと食べるようになったのよ」まで聞いた時には、わたしはソファから転げ落ちた。わざとだけど。
お姉様は右往左往しながら、明日幻想郷は滅ぶのだろうかと呟いた。冗談には聞こえなかったので、幻想郷の運命はどうなってるか尋ねたところ、「えぇ、えぇ、見えるわ。明日あたりに海が幻想入りして幻想郷を包みこみ、子羊たちはかつてない洪水に見舞われ、その命を摘み取られるであろう。方舟作らなくちゃ」などと意味の判らない供述をしており、以下略。お姉様は元よりこんな冗談を言う性分ではない。勿論この言葉は冗談だが、つまり、普段言わない冗談を言うくらいには、驚いているという事だった。わたしも普段しないリアクションを取ったくらい驚いたので、くだんの魔女に話を伺う事にした。大丈夫ですか、頭でも打ったんですか、それとも変な魔法を御自身にかけたのですか。素朴な疑問を投げかけるわたしには目もくれず、魔女は口早に短く呟いた。「食事は栄養摂取の為に取るものだと思ってた。だから私には必要無いとも思っていた。でも、食事にはもうひとつ価値があるのよ。妹様もそれを理解出来る日が来ると良いわねははん」。最後のははんは要らないだろうははん。馬鹿にしてんのか。
メイド長は今日も仕事の合間を縫って料理本を読みふける。その後キッチンに立ち、淡々と黙々と作っては門番に食べさせる。感想を言わせて、また少し調味料やら食材を変えて同じものを作る。この繰り返しだ。門番の腹部が赤子を産めそうになる頃、ようやくメイド長のクッキングは終了する。メイド長は仕事に戻り、門番も門に戻る。きっとこの後凄まじい眠気に襲われるだろうし、門番の性格ならそれに抗う事もしないのだろう。未来が見えたところで、わたしは彼女が眠ってしまう前に話をした。メイド長の料理は既に充分美味しかろう、何故あそこまで執念に駆られるのか知りはしないか、聞いてみる。「美味しいですよ。でも、それでは駄目。この前とうとうパチュリー様が折れたので、あともうひとり。咲夜さんはあとひとりを打ち負かしてやりたいらしいですよ」、どや顔で恰好よく言ってもらったが、その腹部では笑いを抑える事しか出来そうにない。
さておき、あとひとり。
それがわたしを指している事は言わずもがなだったが、それは到底起こり得ないのではないかと。困ったなぁ、と、頭を掻いた。
今日もメイド長が恭しく料理を差し出す。いつも通りの素晴らしさ、いつも通りの美しさ、いつも通りの完成度、いつも通りの仕事ぶり。でも、結局、いつも通りではわたしのどうしようもない舌を打ち負かす事など出来ない。目の見えない者にどれほど美しい絵画を持ってきたところで意味がない。同じ事だ。何故判ってくれない? もう終わりにしたい。もう終わりにすればいい。その才覚は判る者に判ってもらえば良いではないか。判らない者にまでどうして見せびらかす必要がある? 何をそんな意固地になっているんだ? メイド長を見た。黙ってわたしを見つめている。そこに期待はなかった。あるのは、満足そうな光だけだ。
――満足?
何を満足しているのだろう。わたしはまだナイフを動かしているだけで、口には入れていないのに。口に入れたところで、いつも通りの無反応を決め込むしかないというのに。
お姉様は何が不満なのだと言った。魔女はもうひとつの価値があると言った。門番は打ち負かしたいのだと言った。食事に不満はない。食事は栄養を摂取する為にしかない。食事はスポーツではない。一体何がしたいんだ、メイド長? メイド長は満足そうに小さく微笑んでいる。
ある日、珍しくメイド長がいつも来る時間に来なかった。既に一日の中でルーティンワークと位置付けられた、彼女がわたしだけの為に持ってくる完璧な料理が、今日は来ない。今まで一日でも休んだ試しはなかったので、なんとなく気になってメイド長の元へ赴いた。今日は持って来ないのだな、そう言ったわたしに彼女は跳び上がるような喜びを顔いっぱいに称え、声を張り上げてこう言った。「やっと意識して下さいましたね!」、……はて。
メイド長はすぐさまわたしを部屋まで送り返し、秒違いで料理を持ってきた。素材同士の色合いには調和が満ち、それでいていやらしい輝きはない。においも臭みは感じないし、世間的に良いと呼ばれそうなにおいが香っていた。さくり、フォークを刺して、ナイフを通す。無駄や抵抗を感じさせない、程良い切れ味が手に伝わる。満点だ。あぁ、これが美味しいという事なのだろうなと、口に入れる前に悟った。ひとはこれを美味しいと褒め称えるだろう。何せ非の打ちどころがない。そこまで感じて、最後に口に入れる。そして、今日は、まだ続きがある。美味しいとも不味いと思った訳ではない。わたしにそんな高尚な感覚は与えられていない。わたしに味は判らない。けれど、判らないのは味だけだ。見て、におって、感触もある。それだけの情報があれば、判る筈なのだ。このたった一皿にどれだけの手間と時間と労力が込められているか、今のわたしには判る。
何が不満なのだ、――おまえの為に用意されたものはきちんとあるのに。
もうひとつ価値があるのだ、――それはわざわざおまえの為に作られたのだ。
打ち負かしたいのだ、――おまえだけの為に作ったのだから。
口の中で転がるのは異物。味のない、摂取するという行為だけ見ればそのあたりの雑草と何も変わらない料理。しかしそれはただそこに初めから在ったものではなくて、誰かの手によって、わざわざそのような形を与えられて、ここに在る。
わたしが悪くて、不幸だった。理解しようともしないわたしが、理解出来ずに与えられるまま得るだけだったわたしが、悪くて不幸だった。
世の中というものは千差万別にして複雑怪奇、理解出来ないものなど吐いて捨てる程で、受け入れがたい事など腐る程ある。けれどわたしは、今日ひとつ理解して、受け入れる事が出来た。
メイド長は笑っている。完璧な満面の笑みだ。その笑顔の意味が、今は判る。
わたしが食べ終えても、彼女は黙っていた。けれどわたしは、沈黙しなかった。
「不味い。もっと美味しいの、作って」
おわり
良かったです。
あと何気にぱっちゅさんがかわいい。ははん
ラストの台詞一行を境に、その世界が感情と色彩を帯びてくる感覚。
もう少し文章量が多ければ、そのコントラストは更に劇的だったのかなぁ。
とにかく咲夜さんはファインプレーだ。この物語のMVPは彼女のものだと思う。
それにしてもフランちゃんはどんな表情で「不味い。もっと美味しいの、作って」って言ったんだろう。
無表情で? ぶすっとして? 微笑みながら? 涙目とかだったらかなりヤバイぜ。
気になる。ものごっつい気になる。
無味乾燥、まさしく最後のセリフは作者に返されるべき物
レイアウトも合ってる気がします。
「やっと意識して下さいましたね!」からあとは読み進めるとともに鳥肌がたちました。
すばらしかったです。
そしてそっか、咲夜さんはフランの為の料理を作れていることで既に満足だったんだな
それをフランが意識していなかったから、フランの為の料理として成り立てていないことが残念だったのか
いいなあ、ほんと、最後のセリフに至る流れが
が頭に浮かんだw
フランが作者の道具で滑稽。
手料理っていいよなぁと心から思う一人暮らしの今日この頃
ただ、味覚障害自体は誰も何ともしようとしていないし、それを周りが分かっているのかもあやふや。個人的にはそこでちょっと引っかかってしまいました。
フランは価値を理解しただけでおいしいとは感じられなかったわけだから、ここまでやるならこの味覚障害もふっとばすような料理を作ってほしいという思いで最後の言葉を言ったのかな、と想像しました。ごちそうさまでした。
淡々とした語り口に、たびたび混じる、これまた淡々としたユーモア。
その混ざり具合といい、『さくやの料理』を意識しだしたフランの変化といい、文章の隙間、まさしく行間を想像する余地が限りなく広い作品だと思います。
題材的にはもう少し長い文章にしてじっくり溝を埋めていくという行程もあったかもしれませんが、精神的な『変化』の萌芽を最後に持ってくることで、この文章量でもきれいにまとまっていたと言えると思います。