<注意事項>
妖夢×鈴仙長編です。月一連載予定、話数未定、総容量未定。
うどんげっしょー準拠ぐらいのゆるい気持ちでお楽しみください。
<各話リンク>
第1話「半人半霊、半熟者」(作品集116)
第2話「あの月のこちらがわ」(作品集121)
第3話「今夜月の見える庭で」(作品集124)
第4話「儚い月の残照」(作品集128)
第5話「君に降る雨」(作品集130)
第6話「月からきたもの」(ここ)
第7話「月下白刃」(作品集133)
第8話「永遠エスケープ」(作品集137)
第9話「黄昏と月の迷路」(作品集143)
第10話「穢れ」(作品集149)
第11話「さよなら」(作品集155)
最終話「半熟剣士と地上の兎」(作品集158)
「サキの馬鹿……!」
置き手紙を床に叩きつけて、シャッカはそう叫んだ。その声を聞きながら、キュウは交信を断念して息を吐き出す。波長を操る玉兎の能力で連絡を取ろうとしたが、全く反応は返ってこなかった。波長が届かない場所にいるか、向こうが無視しているか。いずれにしても、これでは連絡のとりようがない。
いつもならシャッカを宥めるのは自分の仕事だが、今回ばかりは自分も同感だ。どうして今頃になって、という思いばかりが募り、ただキュウは苦々しく奥歯を噛み締める。
「あの……いったい、どういうことなの? サキは――」
ひどく緊迫した空気に満たされた、玉兎兵宿舎、二○七号室。その中でただひとり、状況と事情を把握していない玉兎兵がいた。彼女は――レイセンはただ、おろおろと同室の仲間であるキュウとシャッカを見渡している。
「ああ……そうか。レイセンは知らないんだもんなあ」
溜息を吐き出して、キュウは立ち上がった。置き手紙を足元に肩を震わせるシャッカを一瞥して、キュウはレイセンに向き直る。
「……レイセン。あんたがここに来る前、この部屋には別の玉兎兵がいたんだ。あんたと同じ名前の玉兎兵。レイセン、っていう……飛び抜けた才能があったけど、ちょっと兵隊としては性格に難があった、そんな子が。もう、けっこう前の話だけどね」
「私と、同じ名前……」
「その子がいなくなったから、依姫様たちはあんたにその名前をあげたんだろうけどね。ともかく――その、前のレイセンの世話を焼いてたのが、サキだったんだよ」
「あ、ひょっとして、以前地上に逃げた兎っていうのが――」
「そう、それが前のレイセン。……この部屋の、あんたのベッドで寝てたんだ」
レイセンは自分のベッドを振り返って、言葉を飲みこむようにひとつ唸る。
キュウは思い出す。思えば、レイセンがここから姿を消して、結構な時間が経ったものだ。とはいえ、キュウからしてみれば、少し前に当のレイセンから連絡があったので、それほど懐かしいという気もしないのだが――。
――しかし、本当にどうして今更なのだ?
シャッカが投げ捨てた置き手紙を拾い上げる。それは今朝、もぬけの空になったサキムニのベッドに残されていたものだった。サキムニの丸っこい文字で、そこにはこう書かれている。
レイセンを迎えにいってきます。
少し留守にするけど、心配しないで。必ず戻りますって、依姫様にも伝えて。
それじゃあ。
サキムニ
今のレイセンがここにいる以上、このレイセンは地上に逃げたあのレイセンのことだ。
だが、レイセンが地上に逃げてからはもう結構な時間が経っている。一度、帰ってこないかというメッセージも送ったが、結局無視されてしまったので、レイセンにはもう月に戻る意志はないのだ、ということはみんなが解っていた。サキムニだってそれは納得して、今のレイセンがここにやって来たときには素直に歓迎していたはずだった。
それなのに、どうして今更、あのレイセンを迎えに行くなどと言って、サキムニが姿を消さなければいけないのだ?
「あのレイセンのことだから、今更になって帰りたいなんてサキに甘えたんじゃないの。前は無視したくせに。あれでサキがどれだけ落ち込んだかも知らないで――サキもサキだよ。なんでそこまでレイセンに甘くするのよ」
「シャッカ――」
苛立たしげにそう言い放つシャッカの肩を押さえて、キュウは宥めるようにその背中を叩く。その傍らで、レイセンは自分が責められているわけでもないのに、ひどく居心地悪そうに身を竦めていた。その様子に、キュウは小さく苦笑いする。
「いや……たぶん、こいつはサキの独断だよ。あのレイセンからの連絡じゃないって」
「なんで、キュウにそんなことが言い切れるの」
そう確信できる理由は、一応キュウにはあった。ただその確信の源は、他の誰にも秘密にしていたことだから、喋ってしまっていいものか、キュウはひとつ眉を寄せる。当然、シャッカには訝しげに見つめられ、やれやれとキュウは肩を竦めた。
「――仕方ないか。ちょっと前、依姫様が疑われたことがあったじゃん?」
「あの、勝手に神様が召喚された件?」
「あ、私がここに来たときの……」
そういえば、今のレイセンが兵隊に加わったのはあのときだった。
「そう。――実は、あのとき、地上のレイセンから連絡があったんだよ。あたし宛に」
シャッカが息を飲んで目を見開いた。バラすなとは言われたけど、こうなってしまったらやむを得ない。悪いね、とキュウは心の中だけで地上にいるレイセンに詫びをいれる。
「レイセンは、何て言ってたの」
「何て……ってか、こっちに探りを入れてた。月で何か騒ぎが起きてないか、って。なんでそんなこと聞くのかってこっちが訊ねても、とにかく教えて、の一点張りで――私だって、ちょっとは意地悪な気分になったから、少し大げさに状況を伝えたら、ありがとう、サキには私が連絡してきたことは伝えないでって言って、それでおしまい」
「なんで隠してたの」
「んなこと言われても。お願いされちゃったから仕方ないじゃん。どうせレイセンに帰ってくるつもりが無いなら、サキに伝えたって同じことだし――」
それに、サキに伝えたら、レイセンが連絡を取ろうとした相手が自分でなかったことに、きっとサキはショックを受けただろう。たぶんレイセンの方も、サキの心配性を見越した上でこちらに連絡してきたのだ、とキュウは思う。シャッカは昔からレイセンには厳しいから、探りを入れる相手は自分が一番適任だった。レイセンの判断は正しい。
「……サキには、そのことは」
「伝えてないよ。あたしは約束は守るさ。……だから、なんで今更、なんだって。サキがレイセンを連れ戻しにいくなら、レイセンが出て行った直後か、あの帰ってこいってメッセージを無視されたときか、そういうきっかけが必要なはずなんだよ」
そう、本当に、どうして今なのだ?
少なくとも昨日の時点で、地上に逃げたレイセンについての新情報が流れてきたなんてことは無かった。サキが月からの脱走なんて大がかりなことを今頃になって決行するに至った理由が、だからキュウにはさっぱり解らないのだ。
「あの……」
と、そこでおずおずとレイセンが片手を上げた。キュウとシャッカは振り返る。
「わ、私はサキがどうしていなくなったのかは解らないけど……とりあえず、そろそろ訓練に行かなきゃいけない時間だし……サキがいなくなったこと、依姫様に伝えないと」
レイセンの言葉に、キュウはシャッカと顔を見合わせた。
――そうだ。訓練に行けば、必然的にサキがいなくなったことは依姫にも伝わる。サキが地上に向かったことを知ったら、依姫は何と言うだろう? レイセンのときは、半ば覚悟していた様子だったけれど――サキは真面目だ。戦闘能力は高くなかったけれど、その態度と人望のおかげで依姫からもそれなりに信頼されていた立場である。
「……何とか、戻ってくるまで隠しておけないかなあ」
「どうやってよ」
「腹痛で寝込んでるとか誤魔化してさ」
「そんなこと言ったら、豊姫様がお見舞いに来るわよ」
「あー」
前のレイセンが仮病でサボろうとしたときに、そんなことがあった。豊姫がこの部屋に遊びに来て、仮病のレイセンに看病ごっこを始めたのだ。よほど散々に弄ばれたのか、レイセンはその後二度と仮病を使おうとしなかった。豊姫は仮病であることを知った上で嫌がらせに来たのではないか、というか依姫の差し金ではないかとキュウは疑っている。
「……どうしよ?」
「知らないわよ」
つん、と口を尖らせてシャッカはそっぽを向く。レイセンはレイセンでおろおろとするばかりで、全く頼りにならない仲間たちである。そうこうしてる間にも、訓練の集合時間は近付く。
参った、どうにもなりそうにない。キュウが頭を抱えたときだった。
『――玉兎兵全員に連絡します。今日の訓練は中止します』
突然、部屋のスピーカーから依姫の音声が降り注いだ。三人ははっと顔を上げる。その言葉の意味が一瞬、キュウには理解できない。――訓練中止? 何かあったのか?
いや、何かは起こっているのだ。サキムニの失踪――だがそれを最初に知ったのは、同室である自分たちのはずだ。しかし――。
『繰り返します。今日の訓練は中止です。全員、指示があるまで自室で待機のこと。以上』
顔を見合わせ、三人は首を傾げる。
とりあえず、サキムニの失踪について依姫に言い訳しなければならない事態はいったん延期になったらしい。――が、それはそれとして、また別に何やら厄介なことが起きているのかも知れない。
「……何かあったのかな」
「かなあ。ちょっと確かめてくるよ。ついでにサキの件、誰か何か見たりしてないかそれとなく聞き込みしてくる」
自室待機とは言われたが、まあ宿舎から出なければ問題はないだろう。シャッカとレイセンに軽く手を振って、キュウは部屋を飛び出す。
――機嫌の悪いシャッカを、あの鈍くさいレイセンとふたりにしてきたのはまずかったかもしれない、とキュウが気付くのには、もう少し時間が必要だった。
第6話「月からきたもの」
1
実を言えば、額に何かが触れた感触を知覚した時点で、鈴仙は目を覚ましていた。
妖夢の名を呼んだのは、寝言ではなく――薄く目を開けたら、妖夢の顔がそこにあったからで。手を伸ばして、妖夢の膝に触れて、それが現実であったことに目を閉じて息をつこうとしたら、妖夢が「……寝言?」と呟いたので、目を開けるに開けられなくなってしまった。
「鈴仙」
妖夢の声が耳をくすぐり、布団から出した手が、妖夢に握りしめられた。
その手の冷たい感触に、不意に高鳴った鼓動が悟られないように、鈴仙は目を閉じたまま寝たふりを続ける。
そのまま、妖夢は何を口にするでもなく、ただずっと鈴仙の手を握りしめていた。
静寂と、瞼を閉じた暗闇の中で、妖夢の手の感触だけが確かな時間。
それは決して長い時間ではなかったのだろうけれど――起きるに起きられず、妖夢の手を握り返すこともできないその時間は、鈴仙にとってはあまりにも長く感じられた。
「……あら、貴方、まだいたの?」
救いの声は、唐突に襖を開けて現れた。妖夢の手が慌てたように離れ、鈴仙は小さくそっと息をつく。どうやら、永琳が様子を見に戻ってきたようだ。
「あ、すみません――」
「時間がいいなら、別に構わないけれど」
永琳の言葉に少し遅れて、妖夢は「うひゃあ」と変な声をあげた。慌てて立ち上がる音。そして、「し、失礼しました。――鈴仙に、お大事に、と伝えて下さいっ」とだけ言い残して、ぱたぱたと妖夢の足音は遠ざかっていく。
その足音が聞こえなくなったところで、「鈴仙」と永琳が名前を呼んだ。
「もう、寝たふりしてなくても大丈夫よ?」
「……はひ」
やっぱり、師匠には気付かれていたらしい。鈴仙が目を開けると、永琳は呆れたように小さく肩を竦めて、こちらを見下ろしていた。
鈴仙が身体を起こそうとすると、「そのままでいいわよ」と制して、永琳は鈴仙の額に触れる。……そういえば、目を覚ましたとき、妖夢が自分の額に触れていたような気がする。その感触がどこかくすぐったい気がして、鈴仙は布団の中で身を竦めた。
ふむ、と永琳は手を離してひとつ頷き、鈴仙の枕元に薬包紙の乗った盆を置く。
「夕方にはてゐにご飯を持って来させるから、それを食べたらこれを飲んで。あとはゆっくり眠ること。明日には良くなるわ」
「はい」
「――で、寝たふりなんかして、あの子に何かされたのかしら?」
頬に手をあてて首を傾げ、永琳はどこか楽しげにそう言った。
何か師匠にとんでもない誤解を受けている気がして、鈴仙は慌てて首を振る。
「なっ、何かって――べ、別に何も」
「何も?」
「……た、ただ、手を、握られてた、だけです」
布団の中で、妖夢に握られていた手を胸元に抱き込むように握った。
妖夢のひんやりとした手の感触が甦って、なぜだか顔が熱くなる。……たぶん、熱のせいだ。
「ふうん? 手を、ねえ……」
と、永琳は目を細めて、もう一度鈴仙の額に触れた。
額に感じた微かな冷たさが、またふと甦る。手と額に残る妖夢の感触。それがくすぐったくて、気恥ずかしくて、鈴仙は布団に潜り込むように顔を埋めた。
そんな鈴仙の姿に、永琳はどこか苦笑するように息をひとつ。
「おやすみ」
「……は、はい」
もごもごと布団の中で返事をすると、永琳の足音が遠ざかっていく。襖を閉める音。布団から顔を出すと、既に永琳の姿は部屋になく、
どういうわけか、代わりにてゐが居た。
「おはよ、鈴仙」
「……てゐ? あんた、いつから居たの」
「さあ?」
にしし、と含み笑いするてゐに、身体を起こして鈴仙は目を細める。まさかずっとこの部屋の中にいたわけでもあるまい。それなら師匠が気付かなかったはずもないし。
「やー、それにしても、まさかあの半熟剣士が、あんなこと言うなんてねえ」
「……は?」
底意地の悪い笑みを浮かべてそう言ったてゐに、鈴仙は目をしばたたかせた。半熟剣士って、妖夢のことか。――あんなこと?
「あれ、鈴仙、ホントに寝てたの? 寝たふりして聞いてたわけじゃなく?」
「……何の話?」
「えー、ホントに聞いてなかったの? うわーうわー、そこは空気読んで寝たふりで聞いてあげるところでしょー、向こうは一世一代の告白みたいな雰囲気だったのに」
呆れた、と言わんばかりに肩を竦めるてゐ。しかしそんなことを言われても、聞いていないものは聞いていないのである。……って、告白?
「だから、何の話? ……妖夢が何か言ってたの?」
「――『ねえ、鈴仙。私は、未熟だし、自分に自信もそんなに無いし、きっと、頼りないよね』」
鈴仙の方に身を寄せると、てゐは急に真面目くさった顔で口を開いた。――妖夢の真似のつもりなのだろうか。正直、あんまり似ていない。
「『でも……そんな私でも、鈴仙の友達でいていいのなら』そう言って妖夢は、そっと鈴仙の前髪をかきあげて――」
ナレーションのようにそんなことを言いながら、てゐは鈴仙の前髪に触れる。
「『……いつか、打ち明けてほしいよ。鈴仙の抱えてるもの、鈴仙が苦しんでること』」
はっと、息を飲んだ。
目の前にあるてゐの顔に、一瞬――妖夢の真剣な表情が、ダブった気がした。
「『それがどんなに重くても、辛くても……私で良かったら、一緒に背負うから。重くて大変なものでも、ふたりで抱えれば、きっと少しは軽くなると思うから――』」
――それは、まるで、本当に妖夢の声のように、鈴仙には聞こえた。
呼吸が止まる。ぐっと胸が苦しくなって、鈴仙は咄嗟に、額に触れようとしていたてゐの手を払って、そのまま再び布団に潜り込んだ。
妖夢なら、言いそうなことだった。あの例月祭のとき、妖夢が自分に向けた言葉が甦る。鈴仙のことを知りたいんだ――妖夢はそう言った。
自分のことなんて、知ったっていいことなんか、ひとつもないのに。
卑怯で、身勝手で、臆病な自分。外面を一枚剥がせば露わになる、醜い自分の姿。
――自分が背負っているものなんて、妖夢が思っているほど深刻でも、重くもないのだ。
ただ単に――自分は。
「鈴仙」
不意に、怒ったような声が聞こえた。てゐの声だった。
「私ゃ別に、鈴仙の過去には興味なんか無いし、鈴仙が自分自身をどう思ってよーと、あの半熟剣士のことをどう思ってよーと、別に気にしないけどさ」
「――――」
「鈴仙は、お師匠様や姫様とは違うんだよ。――永遠になんか、逃げ続けられやしないんだ」
はっと、鈴仙は振り返る。てゐはもう立ち上がって、部屋を出て行こうとしていた。
「てゐ」
「――ま、私がどうこう言うことでもないか。鈴仙がどーなろーと、私ゃ気にしないもんね。別に私は鈴仙がいなくなったところで困りゃしないし。お師匠様だって姫様だって、結局は何も変わらないよ。……ああ、そんなことは、もう知ってるか」
胸が、痛い。
知っている。解っている。――そんなことは、とっくに承知しているのだ。
鈴仙が突然いなくなったとしても、永琳はせいぜいお茶が出なくなって困るだけ。姫様は無茶を言って遊ぶ相手がいなくなるだけ。てゐにとっては暇潰しにからかう相手がいなくなるだけ。――何も変わらない。永遠亭は、何も。
解っている。――解っているのだ。
かつて自分がいた月だって、同じだったのだから――。
「おやすみ、鈴仙」
襖が閉ざされる。てゐの足音が遠ざかっていく。
枕に顔を埋めて、鈴仙はただ、ぎゅっと毛布を握りしめた。
――妖夢のはにかんだ顔が、どうしようもなく恋しかった。
だけど――だけど、知られたくない。妖夢には、こんな自分のことは。
どうすればいいのだろう? 私は――私の居場所は、いったい、どこにあるのだろう?
静まりかえった部屋の中に、ただ時計の音だけが、ゆっくり時を切り刻んでいる。
◇
廊下に出て、襖を閉めると、イナバたちが足元にじゃれついてきた。
「なんだい、あんたたち」
てゐは笑って、足元で飛び跳ねるイナバたちを見下ろす。――溜息は口の中で押し殺して。
あっためるー、とイナバの一匹が答えた。おふとんでぬくぬくー、と別のイナバが続ける。その答えに、てゐは苦笑した。
「鈴仙ならもう寝たよ。邪魔になるから、それは夜にしときなって」
ざんねんー、とイナバたちは飛び跳ねていく。それを見送って、てゐは肩を竦めた。あいつらのことだから、どうせそれは口実で、布団で寝たいだけなのだろうけど。
「らしくないねえ、やだやだ」
首を振って、口笛を吹きながらてゐはイナバたちの後を追って歩き出す。
全く、こんなのは自分らしくない。そう思いながら、てゐは世話の焼ける月の兎が眠る部屋を振り返った。――静まりかえった襖の向こうで、鈴仙は何を思っているのだろう。
「なんであんなヘタレを好きになる物好きが多いんだか、ねえ」
誰にともなく呟いた言葉に、前を跳ねていたイナバが、なにー? と振り向いた。
なんでもないよ、と答えて、そのイナバを抱え上げて頭に乗せ、てゐは走りだした。
2
――昔の夢を見る。
「レイセン、レイセンってば――あ、やっぱりここにいた」
いつものように、庭の物陰であの本を読んでいると、またいつものようにサキムニが自分を探しに来る。もうそれは決まり切った日常のパターンだった。
「……今日はサボりじゃないもん」
「それは知ってる」
レイセンがそう答えると、サキムニは肩を竦めて隣に腰を下ろした。
今日は依姫が出掛けていて、訓練はお休みだった。一緒に豊姫も出掛けてしまっているので、綿月邸に残っているのは兵隊や餅つき担当の兎たちばかりである。
構わずレイセンが本の続きを読もうとすると、横からサキムニが覗きこんでくる。
「またそれ? ずっと同じ本読んでて、飽きない?」
「……面白いもん」
お気に入りなのだ。文句を言われる筋合いはない。
サキムニの視界から本を隠すようにそっぽを向いたレイセンに、サキムニは肩を竦める。
「いや、レイセンがそれでいいなら、いいんだけど」
「面白いもん」
「はいはい」
訓練の声が響かない綿月邸の庭は、しんと静かだ。代わりに聞こえてくるのは、餅つきの兎たちの声。何事か歌いながら、ぺったん、ぺったん、餅をつく音がする。
同じ綿月邸に飼われている兎だが、レイセンたち兵隊と、餅つきの兎たちの間にはこれといって交流はない。なので、餅つきが何のための仕事なのかも、レイセンはよく知らなかった。もともと、特に興味も無いのだけれど。
「……レイセン、さ。いっそ兵隊やめて、餅つき担当に変えてもらう?」
不意にサキムニがそんなことを口にして、レイセンは思わず振り返った。
サキムニは困ったように笑いながら、レイセンの顔を覗きこむ。
「たぶん、レイセンにはそっちの方が向いてると思うんだ」
――急に、そんなことを言われても、自分にどうしろというのだ。
「依姫様は、レイセンに随分期待してるみたいだけど――レイセンを餅つき担当に変えてくださいって、みんなで頼めば、依姫様だって――」
「……私が、邪魔だから?」
思わず口にしていたのは、そんな言葉だった。
――解っている。自分が他のみんなにとって面倒な存在なのだということぐらいは。
シャッカは明らかにこちらを嫌っているし、サキムニとキュウはいつもフォローしてくれるけど、それはなるべく、依姫に怒られないためだ。
本当なら、自分は居ない方がいいのだろう。誰にとっても。
――そうだ。兵隊である意味も、理由も、武器を持って戦うことの意義も、何も解らない自分なんて、元々ここにいるべきではないのだ。だから、だから――。
「レイセン!」
ぐっと胸ぐらを掴まれて、息が詰まった。
目の前に、怒ったような、泣き出しそうな顔をした、サキムニがいた。
「……次、そんなこと言ったら、本気で怒るよ」
手を緩めて、顔を伏せてサキムニは息を吐く。息苦しさから解放されて、レイセンは目をしばたたかせて、サキムニを見つめた。
――どうして、そんな顔をするのだろう。
サキムニ――サキ。同じ玉兎兵。同室の仲間。彼女は、自分の――。
「誤解しないで、レイセン。……私はただ、それがレイセンのためだって、そう思っただけ」
「……そんなの、知らない」
レイセンはただ、そっぽを向いてそう答える。
何が自分のためか、なんて、そんなの自分にも解らないのに。
サキムニにそんなことを言われたって、それが自分のためかなんて解るはずもない。
「……ごめん」
ぽつりと、サキムニがこぼした。答える言葉はなく、レイセンはただ手元の本に目を落としたけれど、内容はもう頭に入ってこなかった。
沈黙。遠くから、餅つきをする兎たちの脳天気な声だけが響く。
「レイセン。――桃、食べよう」
唐突に、明るい声でサキムニがそう言った。
見上げると、立ち上がったサキムニはこちらに手を伸ばして、目を細めて笑っていた。
「ほら、依姫様もいないんだし。キュウとシャッカも誘って、四人で桃食べよ? ね」
差し出された手と、サキムニの顔を見比べて、レイセンは本を閉じた。
このままだと、どうせもう本の中身は頭に入ってきそうになかった。
手は取らずに立ち上がると、サキムニは困ったように苦笑して、くるりと背中を向ける。
「ほら、行こう、レイセン」
たっ、と駆け出すサキムニの背中。レイセンは息を吐いて、その後を歩いて追いかけた。
餅つきの声が、追いかけるように後ろから聞こえている。
「……あの餅って、おいしいのかな」
サキムニの背中に追いついて、レイセンは声の方を振り向きながらそう呟いた。
餅つき担当の兎たちがついている餅が、誰のためのものなのかもレイセンは知らない。少なくとも、それらしきものを食べたことがないのは事実だった。
「ああ――あれって、食べるための餅じゃないんだって」
「え?」
「薬の材料らしいよ。私もよく知らないけど、すごく長生きできる薬だって聞いた」
「……ふうん」
食べ物ではなかったのか。でも、長生きできる薬なんて、みんな長生きなこの月で、いったい誰のために作っているのだろう。――まあ、どうでもいいといえばどうでもいいことだけど。
「あ、おーいキュウ、シャッカ」
と、サキムニが足を止めて、そのふたりに声をかけた。庭の隅で何か話していたふたりが顔をあげ、こちらに小走りに向かってくる。
「サキ、レイセン。どったの? 依姫様も居ないし、暇だし何しようかーって今シャッカと喋ってたんだけどさ。将棋でもしようかーとか桃でも食べようかーとか」
「そう、桃食べない? 四人で」
「お、いいねえ。んじゃ、依姫様の居ぬ間に屋敷の桃という桃を食べ尽くしちゃおうか! もう一生桃なんか見たくなくなるぐらいの勢いで!」
「……そんなに食べられないし、桃が無くなったら豊姫様が泣くってば」
「あー、じゃあ豊姫様に泣かれない程度に」
シャッカのツッコミに、キュウが苦笑いし、サキムニもくすくすと笑う。
サキ、キュウ、シャッカ。――そして、自分。
同じ部屋の四人組。自分に構ってくる、物好きな三人。
「レイセン、何ぼーっとしてるの? 桃、食べちゃうよ」
気がつけば、三人が先に歩き出していた。レイセンは慌てて、その後を追う。
相変わらず、自分のことも、彼女たちのことも、解らないことばかりだけれど。
今は、美味しい桃の匂いにつられてしまおう。レイセンは、そう考えていた。
――そんな、昔の夢。
遠い遠い、過去の夢。過ぎ去った、捨て去った、かつての自分の夢。
3
永琳の言った通り、翌日にはすっかり体調は回復していた。
さすがに師匠の薬はよく効く。たまに効きすぎてかえって具合が悪くなることもあるが、今回はそんなことも無かったようだ。庭に出てひとつ伸びをし、鈴仙は竹林に差し込む朝の陽射しに目を細めた。
早朝の空に、月は見えない。今の時間では、自分の能力で月と連絡を取ることもできない。――やはり、連絡を取ってみるべきだろうか。あの本がここにあった件について、彼女がどうしているのかを、かつての仲間たちに。
けれど、あのとき――いつぞやのロケット騒ぎのときのことを思い出す。あのとき自分は、永琳から月の状況を探るように言われて、キュウに連絡を取った。サキムニに連絡を取るのは気が引けたし、シャッカは苦手だったから、キュウしか選択肢が無かった、とも言う。おしゃべりなキュウならすぐに教えてくれるだろう、という計算もあった。
キュウは案の定、欲しい情報をすぐに提供してくれたけれど、その声音にはやっぱり自分を非難するような色があって――それで結局、情報を提供してもらっただけで交信を終えた。逃げ出したのは自分だし、数年前に帰ってこないかというメッセージを無視したのも――永琳たちの事情があったにせよ――やはり自分だから、キュウが怒るのも当然だ。
また連絡を取ったら、今度こそ絶対に怒られる。もし、万が一、サキムニが月からいなくなっていたりしたら――それが、鈴仙には怖かった。
「ふわあ……」
「あれ、姫様?」
と、不意に聞こえてきた大あくびに、思考が中断させられて、鈴仙は振り返る。縁側に姿を現したのは輝夜だった。こんな朝早くに起きているなんて珍しい。
眠そうに目を擦りながらあくびをする輝夜の姿には、言っちゃ悪いが威厳もカリスマもあったものではない。
「あら、鈴仙。おはよう」
「おはようございます。珍しいですね、こんな時間に」
「これから寝るところよー」
早起きかと思ったらただの夜更かしだった。「そ、そうですか」と鈴仙は苦笑を漏らす。
「お昼まで寝るから、イナバたちには起こさないでって言っておいて」
「はい、解りました」
ふわあああ。大あくびを漏らした輝夜につられて、鈴仙もついあくびをひとつ。
咄嗟に口元を押さえた鈴仙の方を振り返って、輝夜はどこか楽しげに笑った。
「鈴仙の方は、体調はもういいのかしら?」
「あっ、はい。大丈夫です」
「そう。わざわざこんなところまでお見舞いに来てくれるなんて、いい友達を持ったわねえ」
「え――」
にぃ、と笑った輝夜に、鈴仙はたじろぐ。お見舞い――昨日の妖夢のことだ。
いい友達。――その言葉に、微かな胸の疼きを覚えて、鈴仙は顔を伏せた。
あの例月祭のとき、妖夢のことを友達だと、そう自分の中で認めたはずなのに。
また躊躇いを覚えてしまうのは――あの本のことが、まだ引っかかっているからだ。
サキムニの本。それがこの幻想郷にあった、その意味。
もし、もしも。サキムニが、今この幻想郷にいるのだとしたら――。
「鈴仙? どうかした?」
「いっ、いいえ、なんでも」
我に返って、鈴仙は慌てて首を振る。輝夜は目を細めてこちらを見つめた。
「いい子みたいだし、友達は大事になさいな」
「……はい」
はぁふ。たまに真面目なことを言ったと思ったら、あくびで台無しなあたりが輝夜である。
それじゃおやすみ、と手を振って、輝夜はゆっくり歩み去っていく。それを見送って、鈴仙は竹林を振り仰いだ。――どうすればいいのだろう、自分は。
妖夢のこと。それは現在。
サキムニのこと。――忘れかけていた、過去。
新しい友達と、かつて自分を友達だと言ってくれた少女のこと。
両方が頭のなかでごちゃごちゃになって、不定形なまま、答えは出ない。
「ああ、そうだ、鈴仙」
と、部屋に戻っていったはずの輝夜が、再びひょっこり顔を出した。
「あとでおつかい、行ってきてもらえないかしら」
「え? はい、構いませんけど――」
一昨日、霧雨書店で本を買ってきたばかりだが、まだ何かあるのだろうか。
目をしばたたかせた鈴仙に、輝夜は袖口からメモを取り出して手渡した。
「新作の資料で、また別の本が必要になったのよ」
「はあ」
「書店にあると思うけど、無かったら借りてきてくれない?」
「借りて? 紅魔館の図書館からですか?」
メモを見ると、どうやら歴史書らしいタイトルが三冊分ほど記されていた。
「いや、たぶん人里にあるでしょ。ほら、もこたんの知り合いの」
「――ああ、はい、了解しました」
藤原妹紅の知り合いで歴史家といえば、寺子屋の教師の上白沢慧音のことだ。
「あれ、でも姫様……いいんですか?」
「何が?」
「いえ、前に彼女の評に、姫様が怒ってらしたような」
慧音には歴史小説家という面もあり、稗田文芸賞の選考委員も務めている。鈴仙自身は、昔に一冊、稗田文芸賞受賞作の『満月を喰らう獣』を読んで、堅苦しい文章と説明のくどさに辟易してから敬遠しているのだが、ともかく幻想郷の文芸においては慧音はそれなりに地位のある身なのだ。
その慧音が、輝夜の第二作『あの月の向こうがわ』を、書評で結構厳しく批判したのである。結末で語り手が下す《ある結論》はリアリティに欠け、根本的に他者を見下している語り手の傲慢な思考回路が浮き彫りになっており、不遜な自己賛美に他ならない、うんぬん。その評に対して輝夜がたいそう機嫌を損ねていたのは鈴仙の記憶にも新しかった。
慧音が輝夜の作品に厳しいのは、彼女が親しくしている藤原妹紅が輝夜と敵対する間柄であることに関係しているのかもしれない。まあともかくそんなわけで――その慧音から本を借りてこいというのは、予想外な上に向こうも素直に貸してくれるものか、考えるだけで気が重い。
が、当の輝夜はけろりとしたもので、
「それはそれ、これはこれ。必要な本がそこにしか無いならそこから手に入れるしか無いじゃない。もこたんの本だろうとその仲間の本だろうと、本そのものに罪は無いわよ」
「はあ」
「ま、書店に新品があればそれでいいから。よろしくね~」
そう言い残して、輝夜はまた姿を消してしまった。さて、どうやって慧音に話をつけたものか。――まあ、普段手伝わされる難題に比べれば大したことではないけれど。たとえば幻想郷で海が見たいとか。
唐突に、ぐぅ、とお腹がひとつ鳴った。誰に聞かれていたわけでもないけれど、鈴仙は軽く赤面する。――とりあえずは朝ご飯か。てゐももう少しすれば起きてくる頃だろうし、まずはその支度をしよう。いつも通りに。
そんなことを考えながら、鈴仙はメモをポケットにしまうと、台所に向かって歩き出す。
月に連絡を取るべきか、という懸念はとりあえず、頭の隅に追いやって。
――それはおおよそ、普段と何も変わらない、永遠亭の朝だった。
鈴仙に抱える懸念はあったけれど、それもまだ日常の範疇にあった。その時点では。
なるようになる、と高をくくっていたのだ。今までも、何とかなってきたのだから。
これまで通りの永遠亭の日常は、とりあえず今のところは、無事に続いていくのだと――鈴仙はまだ、何の根拠もなく、そう信じていた。
このときは、まだ。
◇
「お師匠様、朝食をお持ちしました」
聞き慣れた声がかかり、永琳はカルテを整理する手を止めて顔を上げた。カルテを棚に差し込んだところで、襖が開き、お盆を手にした鈴仙が現れる。
「ありがとう。そこに置いておいて」
「はい」
座卓にお盆を置く鈴仙の顔色は良好だった。風邪はもうすっかり治ったらしい。
「体調は大丈夫?」
「あ、はい、おかげさまでもうピンピンです」
「そう。それなら、今日は昨日の分もしっかり働いてね」
「は、はい」
笑って言うと、鈴仙は苦笑いして頷いた。その顔に目を細めていると、不意に鈴仙が「……あの、お師匠様」と声をあげた。
「なに?」
「いえ、大したことではないんですが。……最近、お師匠様、機嫌いいなぁって」
思わず永琳は目をしばたたかせる。
「そう?」
「はい、とても。やっぱり、姫様のことですか?」
鈴仙の言葉に、永琳は鼻をひとつ鳴らした。
まあ確かに、ここのところ気分のいいことは多い。輝夜が小説を書くという仕事を見つけて、それに夢中になっていることも、もちろんそのひとつだ。昔から輝夜には、何かやりたいことを――有り体に言えば、ここに在る目的を持ってほしいと思っていたから、今の状況は素直に喜ばしいことである。――何の目的もなく、無為にやり過ごすには、自分たちの永遠は永すぎるのだ。
しかし、それはそれとして。自分の機嫌がいいとすれば、その理由は何も輝夜のことだけではない。もちろん永琳にとっては、輝夜のことが第一ではあるけれども。
「そうね――嬉しいことと、面白いことがひとつずつあるからかしら」
「面白いこと?」
「ペットの生態観察。特に外的干渉がペットの性格・行動・思考に与える影響に関する興味深い経過について」
首をひねった鈴仙は、十数秒後にようやく言葉の意味を理解したのか、「うぇ」と変な声をあげた。
「……それって、ひょっとしなくても」
「実に興味深い事例だわ。だからもうしばらく、経過を楽しませて頂戴?」
「うぇええ」
困ったような、気恥ずかしそうな、そんな感情の入り交じった表情で鈴仙は身を竦める。永琳は悠然と微笑んで、「それより――」とまだ湯気をたてる朝食を見やった。
「戻らなくていいのかしら? 食べられちゃうわよ」
「あっ、し、失礼しました!」
軽くお腹を押さえて、鈴仙は慌てて踵を返す。できあがったばかりの朝食が運ばれてきたということは、鈴仙はまだ食べていないということだろう。だがそのまま放っておいたら、鈴仙の分の朝食までてゐやイナバたちの腹の中に収まってしまうのは必然の成り行きだ。
走り去っていく鈴仙の足音。閉め忘れていった襖を閉ざし、永琳は座卓の前に腰を下ろした。冷めてしまう前に食べてしまおう。
鈴仙の作る朝食は、ときどき見てくれの良くないこともあるけれど、おおむね素朴でほっとする味がする。永遠亭に来た頃には料理なんてできなかったのだが、上達はするものだ。まあ、そもそも殺生を穢れとして遠ざけた月で暮らしていた身で、殺生が前提である地上の料理ができるはずがないのだが。
目の前には白米と豆腐の味噌汁、野菜のおひたしと焼き魚、鶏肉の煮物。月人ならばあまりの穢れに卒倒しそうな献立だが、こういう食事に慣れたのも、自分たちが既に地上の住人となって久しいということでもある。
「いただきます」
「いただきます」
――そんなことを考えながら焼き魚に箸を伸ばしたら、目の前に別の箸が伸びてきて、勝手にその身をほぐして一口分を運んでいった。
顔をあげれば、いつの間にかそこには招かれざる客の姿がある。
「……てゐ」
「やだなぁお師匠様、毒味ですよ毒味」
ずず、と勝手に味噌汁まで啜って、てゐは全く悪びれずにそう言った。――いつの間に部屋にいたのか。相変わらずこの兎は、永琳から見ても底の知れないところがある。気付かなかったのは自分の不覚だ。永琳は息を吐いて、てゐに崩された焼き魚の身を頬張った。
「――何かあったのかしら?」
てゐが直接永琳にコンタクトを取ることは珍しい。それは大抵、永遠亭の近辺で何かきな臭い動きがあったときだ。若干警戒心を強めて、永琳は尋ねる。
「今のところは、そっちが心配するようなことは何も。現在進行形のこと以外はね」
「――――」
てゐの言葉に、永琳は黙って白米を口にする。
――この兎は、どこまで知っているのだろう?
鈴仙に機嫌がいいと言われた。それは事実かもしれない。だが、だからといって懸念や、問題が全く無いわけではないのだ。いや――その問題は、ずっと前からつきまとっている。これといった対策を見いだせないまま、結論を先延ばしにし続けている問題が、ひとつ。
だからこそ、だろうか。
――だからこそ自分は、彼女に起きた変化を過剰に喜んで、その問題から目を逸らそうとしているのかもしれない。
「鈴仙も鈴仙だけどさ。……お師匠様、あんたも大概だと思うよ。あんたにとっちゃ、鈴仙の時間なんてゼロに等しいぐらい一瞬で過ぎ去っちゃうもんなんでしょ?」
「――貴女に言われる筋合いは無いわ。これは医者としての私の問題よ」
「そうだね、全くその通りだよ。けどさ――」
てゐは静かに、永琳を見つめて、口を開いた。
「ゼロに等しくても、鈴仙にとっちゃその時間が全てなんだよ」
永琳は、ただ黙して、朝食を口に運ぶ。
「何も知らないままで終わらせちゃって、いいのかね?」
――答える言葉を、永琳はまだ持たなかった。
4
それを最初に目撃したのは、神社の境内を掃除していた博麗霊夢だった。
夏も既に過ぎ去り、秋めいた午後の陽射しが降り注ぐ境内には、ちらほらと落ち葉も目立ち始めている。それを箒で掃き集めながら、「萃香の奴、どこいったのかしら」と溜息混じりに霊夢は呟く。
伊吹萃香がこの神社に居着くようになってから、庭や境内の掃除は主に萃香の仕事だった。疎と密を操る萃香の能力は、塵芥をかき集めるのにはうってつけなのだ。しかし、萃香も常に神社にいるわけではなく、どこかを呑み歩いているのか、ときどきふらりと居なくなる。今日もどこかで、紫か文か、そのあたりと呑み明かしてそのまま寝ているのだろう。陽も傾き始めた今になっても帰ってくる気配は無かった。
そんなわけで、霊夢は箒を手に、萃香よりも非効率的な掃除に精を出しているのである。
「……誰が来るわけでもないのにねえ」
参拝客の姿が無いのはいつものことだ。先日の地震騒動で二度も倒壊し、結果として神社の本殿は前よりも立派な新築になったわけだが、それも参拝客増加には繋がらない。
以前ならそれも深刻に考えはしなかったが、今は収入源もそこそこ重大な問題である。再建自体は萃香が無料で請け負ってくれたが、家財の多くは最初の倒壊のときに犠牲になっていたので、余裕のあったはずの家計は現在絶賛逼迫中なのだ。
「誰か来ないかしら」
賽銭を入れてくれるなら魔理沙でも文でも、紫でもいい。どれも望み薄ではあるが。
そんなことを思いながら、霊夢は鳥居の下から石段を見下ろす。参拝にはこの長い石段を上らないといけないのも、参拝客が増えない要因かもしれないが、それはさすがにどうしようもない。神社を移転するわけにはいかないのだ。
「……うん?」
その、石段の下――結界のある方角から、人里の方向へ、走っていく影があった。
片足を引きずるようにしながら、前のめりに走るその影は、数秒で霊夢の視界から消える。遠目に人相までは判別がつかなかったが、その頭部には特徴があって、霊夢は目を細めた。
兎の長い耳が、揺れていたのだ。
「なんか……前にもあったわねえ、こんなこと」
傷ついた妖怪兎を拾った、そんなことが以前にもあった。けれど、と霊夢は息を吐く。石段の下に行き倒れたなら放っておくわけにもいかないが、今の兎は既にどこかへ走り去ってしまった。足を負傷しているようだったが、わざわざ追いかけるほどのことでもない。
永遠亭の兎なら、放っておいても竹林に戻るだろうし、手当てをする医者もいる。そうでない、外から来た兎なら――まあ、運が悪ければそのへんの妖怪に襲われるかもしれないし、運が良ければお人好しの誰かに保護してもらえるだろう。どちらにしても、それ以上わざわざ自分が関わり合いになることではない。
霊夢は石段から視線を上げる。気怠い午後の陽光に目を細めて、それから霊夢は箒を持ち直した。そうして掃除を再開したときにはもう、通り過ぎた妖怪兎のことは霊夢の意識から完全に消え去っていた。
◇
次にそれを目撃したのは、太陽の畑から人里へ戻る途中の風見幽香だった。
最近、幽香は居住地を太陽の畑から人里に移した。正確には、人里の稗田邸に。
とはいえ、太陽の畑は長年を過ごした場所であり、そこに咲き誇る花のほとんどは幽香が育てたと言っても過言ではない。だから引っ越しを済ませた今も、幽香は欠かさず太陽の畑の様子を見に行くようにしている。
今日もそうして、一通り畑の花々が元気に陽光を浴びているのを確かめて、幽香は新たな居場所である稗田邸への帰り道を、少しご機嫌な気分で歩いていた。
「阿求は、ちゃんといい子にしてるかしら?」
柄にもなく、そんな独り言まで口にして、幽香は頬を緩める。
幽香が太陽の畑に出掛けるとき、彼女がついて行きたそうにしていたのは、ちゃんと解っている。とはいえ、身体の強くない彼女に、そうそう無理をさせるわけにもいかないのだ。人里から太陽の畑はさほどの距離でもないが、彼女の足には遠いだろう。
彼女――稗田阿求は、今の幽香にとって、何よりも大切な一輪の花。
ずっと昔から、繰り返し咲き続けるのを遠くから見守ってきた花だから。
それを守るために、今、幽香は彼女のそばにいる。
「ふふ――」
端的に言えば、風見幽香は幸福だった。
彼女がかつての自分自身の記憶を持っていないことは解っている。幽香が数百年前に出会った奇妙な人間と、彼女は同一であっても別個の存在だ。……それでも、確かにそこには、残されるものがあったのだ。だからこそ、阿求は風見幽香という存在を求めてくれた。つまりはそれが、風見幽香の幸福なのだった。
「――あら」
そんな浮かれた気持ちで歩く幽香が、それを見つけたのは、人間の里が見えてきた頃合いだった。人間の里は、かつて人が妖怪に怯えて暮らしていた頃の名残で、四方を堀と塀が囲っており、堀に掛けられた橋に面して門が開かれている。
妖怪が人里を襲うことが無くなり、外敵からの防備という役割は失ったが、堀を流れる水は人里の生活用水として使われ、塀と門は人里とそれ以外――この幻想郷における、人間にとっての安全区域と危険地帯の境界としての役割を担っていた。
その、門へ通じる橋の手前に、一匹の妖怪兎の姿があった。
左足を怪我しているのか、不自然に右足に体重をかけるような姿勢で、遠巻きに覗きこむように、その妖怪兎は人里の様子を伺っているようだった。
一瞬、人里に薬を売りにくるあの兎かと思ったが、どうも違うようだ。鈴仙というあの兎より髪が短いし、髪の色も違う。服装は同じような、人里ではあまり見ない格好だが。
「何をしているのかしら?」
ゆっくりとその背後に歩み寄って、そう声をかけると、びくりと身を竦ませて、妖怪兎はこちらを振り向いた。ふわりとカールがかかった桃色の髪が揺れる。
怯えたような視線を向ける兎の少女に、幽香は眉を寄せる。――別に、とって食おうなんてつもりはないのだが、何かやましいところでもあるのか、兎の少女は数歩後じさりすると、左足を引きずるようにしながら走りだした。
「……何なのかしらね?」
兎の姿が遠ざかるのを、幽香は日傘をくるくると回しながら見送った。怪我をしている様子なのは気になったが、逃げたのをわざわざ追いかける義理があるわけでもない。
小さく肩を竦めて、幽香は門の中に視線を向ける。稗田の屋敷もすぐそこに見えていた。
まあ、妖怪兎の一匹ぐらいなら、万一何かあったとしても自分の敵ではない。
それよりも今は、自分の帰りを待っている人のところに戻る方が先決だった。
逃げていった妖怪兎のことはもう思考の外に追いやって、幽香は人里の門をくぐる。
きっと精一杯澄ました顔で自分を出迎えるだろう彼女に、どんな言葉をかけようか。
そんなことを考えながら、小さく笑みを漏らして。幽香はただ、誰かが自分を待っていてくれる、というささやかな幸福を噛み締めていた。
◇
三人目の目撃者は、寺子屋の授業を終えて、里の見回りをしていた上白沢慧音だった。
幻想郷が安全になったとは言っても、備えあれば憂いはない。歴史を喰らうことで人里の存在を覆い隠すことのできる慧音は、人里の自警団のメンバーでもある。人里を襲ってはならない、という不文律を犯す妖怪が現れたとき、彼女はその能力で人里を隠す。獣人であり、常人よりも身体能力に恵まれている彼女は、率先して戦いにも赴く。幸いにして、そういったことは滅多に起きない程度には、今の幻想郷は平和だったが。
「こら、こんなところで遊んでいたら危ないぞ。外は怖い妖怪が出るんだからな」
門の近くで遊んでいた子供たちに、慧音はそう声をかける。はーい、と素直に返事をして駆け出す子供たちの姿を見送り、門の外に視線を向けたところで、慧音はその影に気付く。
門の外に、うずくまる影がひとつあった。
怪我人か、急病人か。慧音は慌てて門の外へ飛び出し、その影に駆け寄る。
「どうした? こんなところで、具合が悪いのか?」
かがみ込んでそう声をかけると、その影はゆっくりと顔を上げた。その頭部に生えた二本の長い耳に、慧音は目をしばたたかせる。兎の耳だ。よく見れば服装も、人里に薬を売りに来る永遠亭の兎――鈴仙・優曇華院・イナバとよく似たものを着ている。
しかし、と慧音は眉を寄せる。藤原妹紅の世話を焼いている関係で、迷いの竹林にはよく足を運ぶ。そうすると自然、竹林に住んでいる妖怪兎と顔を合わせるのも珍しくはないのだが、この少女は今まで見たことのない顔だった。
桃色の髪をした少女は、不安げな顔で慧音を見返し、それから小さく悲鳴をあげて足を押さえた。見やれば、左の足首がひどく腫れている。捻挫をずいぶん放置した様子だった。
「足を挫いたのか。……腫れがひどいな。動かさないで。すぐに冷やした方がいい」
慧音は踵を返して、里の中の井戸から水を汲んで運ぶ、少女は立ち上がれないのか、大人しくその場所に残っていた。靴を脱がせて、桶の水に足を浸させる。少女が痛みに顔をしかめた。
「医者に診せた方がよさそうだな。君は永遠亭の兎か?」
「……えいえんてい?」
不思議そうに少女は聞き返す。……永遠亭の兎ではないのか。だとすれば、こんなところでひとり怪我をしているところからして、幻想郷の外から迷いこんできたのかもしれない。
「腕の良い医者がいる。竹林の奥だ。あそこなら君の仲間も大勢いる」
「仲間――」
「立てるか? 肩を貸そうか」
慧音が手を差し伸べると、少女は戸惑ったようにその手を見上げて、
「――レイセンという兎を、知りませんか」
そう、口にした。
慧音は虚を突かれて目をしばたたかせる。――やはり、鈴仙の知り合いなのか?
「永遠亭の鈴仙のことか?」
そう聞き返すと、少女の顔が驚愕に染まった。
「レイセンが、ここにいるんですか」
「あ、ああ――永遠亭に行けば、いるんじゃないか」
「どこですか。その、えいえんていっていう場所は――」
詰め寄るように慧音の手を掴んで、真剣な顔で少女は言いつのる。突然の少女の豹変に面食らいながらも、慧音は視線で竹林の方角を見やった。
「ここから南だ。少し歩くことになるが――」
「そこに、レイセンがいるんですね?」
「……君が言っているのが、その服を着た髪の長い兎のことなら――」
がたん、と桶を蹴飛ばして、少女は立ち上がった。左足の痛みも忘れたように、少女は濡れた足のまま脱いでいた靴をつっかけて、慧音の手を離す。
「ありがとうございましたっ」
「ちょっ、待ちなさい――」
慧音が呼び止めようとしたときには、少女はもう左足をかばいながら走りだしていた。あんな足で、竹林まで辿り着けるのか。辿り着いたとしても、あの迷いの竹林の中から永遠亭を探し出すのは並大抵のことではない。
慌てて慧音は追いかけるが、足を怪我しているとは思えないほど少女の足は速かった。ほどなく少女の姿を見失い、慧音は溜息をついてその場に立ちつくす。
「何だったんだ……?」
首を捻ってみたところで、答えは出ない。
――あとで妹紅の様子を見るついでに、怪我をした妖怪兎を見なかったか聞いてみよう。
そんなことを考えながら、肩を竦めて慧音は人里の方へ踵を返した。
◇
第四の目撃者は、永遠亭のイナバの一匹だった。
てゐに連れられ、竹林の中を駆け回っているうちに、彼女は仲間からはぐれていた。永遠亭への帰り道も解らない。この竹林に暮らしていても、基本的に永遠亭の近くを遊び回っているだけなので、あまり遠くへ行くと迷ってしまうのだ。
まよったー、と彼女はあてもなく飛び跳ねる。迷ったといっても、彼女にこれといって危機感は無かった。適当に飛び跳ねていれば、そのうちてゐか、あのお人好しの少女が見つけてくれるからだ。
永遠亭とは別に、竹林に暮らしている銀髪の少女。ぶっきらぼうで口が悪いけれど、彼女はその少女のことがお気に入りだった。迷っていれば永遠亭まで連れていってくれるし、お腹が空いていれば釣った魚を分けてくれたりする。
考えたらお腹が空いていた。たべものー、と視線をさまよわせた彼女は、ふとその視界に仲間のものらしき長い耳を見つけた。茂みの向こう、ぴょこんと飛び出た白い毛並みは、確かに兎の耳だ。
なかまー? と彼女は、茂みをかき分ける。がさりと茂みを抜けると――太い竹の幹にもたれて目を閉じた兎の姿があった。兎の姿である彼女と違って、人の少女の姿をした兎。桃色の髪を乱し、その顔を赤く火照らせて、荒い息を吐き出した少女は、見たことのない顔をしていた。――この竹林の兎じゃない、と彼女は直感する。
何より、その少女は見覚えのある、けれど彼女たちにはあまり馴染みのない服を着ていた。同じ永遠亭に暮らす兎――月の兎である、鈴仙・優曇華院・イナバと同じブレザー姿。
熱に浮かされたように、少女は何事かを呻いていた。けれどそれは、彼女の耳には聞き取れない。ただ確かなのは、目の前に座り込んだ少女の具合が芳しくないということだけだ。
しらせないとー、と彼女は慌てて飛び跳ねる。ともかく、自分の手に負える状況でないのは確かで、それならば別の――てゐか、あるいはそれ以外の誰かの判断を仰がねばならない。気ままな兎とはいえ、彼女にもそのぐらいの判断力はあった。だから彼女は、茂みを抜けて竹林の中を飛び跳ねていく。
あとにはただ、熱にうなされる兎の少女だけが残されている。
5
鈴仙は竹林の中を、人里の方へ向かって歩いていた。目的は、輝夜に頼まれた本の確保だ。
慧音との交渉は、間に挟まる事情を考えるといささか気が重かったので、できれば本屋に売っていてほしいなぁ、と考えながら鈴仙はタイトルの書かれたメモを見やる。交渉用の手みやげとして羊羹も持ってきたが、果たして効果はあるだろうか。
しかし、この間まで剣豪小説を書いていたと思ったら、今度は歴史小説らしい。『幻想演義』の特集向けの短編なのだろうが、デビュー作はミステリーで、二作目は青春小説。次の書き下ろしの長編はホラーだとか言っていたし、輝夜の小説は全くジャンルが一定しない。共通するのは《月》というモチーフぐらいだ。飽きっぽい輝夜が今のところ執筆活動に飽きた様子が無いのは、書くたびにジャンルをとっかえひっかえしているからではないかと鈴仙は思っている。
まあ、輝夜が執筆に励んでいる限り、永琳の機嫌が良いのならば、それに越したことはない。……何かもうひとつ、自分のことで楽しまれているらしい件については、とりあえず置いておくとして。
そんなことを思いながら、竹林の出口が近づいてきたあたりで、鈴仙はふと足を止めた。近くの茂みがガサガサと音をたてている。――誰? と咄嗟に身構えたが、姿を現した影に思わず息を吐いた。
「どうしたの? てゐと遊んでたんじゃないの?」
茂みから顔を出したのは、同じく永遠亭に暮らしているイナバの一匹だった。てゐと一緒に遊んでいたにしては、ここは永遠亭からは離れすぎている。しゃがんで声をかけると、イナバは軽く慌てた様子でふるふると首を振る。
みつけたー、とイナバは言った。「見つけたって、何を?」と鈴仙が首を傾げると、しらないウサギー、とイナバは答えて、鈴仙のブレザーを見やる。
おんなじかっこうー。
呼吸が一瞬止まったのを、鈴仙は感じた。
「……私と? 同じ格好の兎? ――どこで!?」
思わず詰め寄ると、イナバは目を白黒させながら、あっちー、と後ろを振り返った。その方向を見やり、鈴仙は次の瞬間にはもう駆けだしていた。思考よりも早く身体が動いていた。
自分と同じ格好。このブレザーは、月にいた頃から変わらず着続けているものだ。綿月邸で飼われていた頃の、兵隊としての制服。それを着た兎がここにいる。この竹林にいる。――心当たりは、ひとつしか無かった。
あの本。彼女の名前が書かれたあの文庫本が、霧雨書店にあった理由は。
やはり――その持ち主がここにいるからに、他ならなかったのだ。
◇
そして鈴仙は、たどり着いてしまう。
竹林の中、少し開けた空間。
――そこに、少女は竹の幹にもたれて、目を閉じていた。
「……サ、キ」
見間違えるはずもなかった。
ふわりとカールのかかった桃色の髪は、数十年前、まだ月にいた頃に、毎日見ていたもの。いつも自分を追いかけて、どこに隠れていても見つけだした、彼女のものだ。
――そして、今も。
地上に隠れていた鈴仙を見つけに、彼女は――サキムニはそこにいた。
ただ、その姿がかつてと違うとすれば。
目を閉じたサキムニの顔はひどく赤く火照り、その口元は荒く、苦しげに息を吐き出していることだった。駆け寄って触れるまでもなく、ひどい発熱を起こしているのは、鈴仙にも見て取れた。
「サキ……!」
どうして彼女がここにいるのか。こんなところで苦しそうに座り込んでいるのか。様々の疑問は頭の中を渦巻いて離れない。が、ともかくそれよりも、今は目の前で苦しそうに呻いたサキムニを介抱するのが先だった。鈴仙は駆け寄ってかがみこむと、サキムニの頬に触れる。やっぱり、ひどく熱い。かなりの熱だ。
全身を見やると、投げ出された左の足首がひどく腫れ上がっている。捻挫か、骨折か、ともかく発熱の原因もこの腫れであるのは間違いない。応急処置でどうにかなるとも思えなかった。
「とにかく、師匠に診せ――」
呟いた言葉が、愕然と止まった。
どういう理由かは解らないが、サキムニは月からここに来た、それは間違いない。そして、永琳と輝夜は――その具体的な理由は未だに知らないのだが――月から逃げだし、身を隠している立場だ。
自分があのふたりに拾ってもらえたのは、同じく月を逃げ出してきた身の上だったからだろう。永遠亭に転がり込んだときには、月に帰るつもりはなかったし――かつて一度だけ帰ろうとしたことがあるけれど、そのときは結局帰してはもらえなかった。それを恨むつもりは無いけれども。
そうして結局、自分は永琳たちと同じく、月からは身を隠すような立場のままで永遠亭に居続けている。同じ逃亡者だからこそ、永琳や輝夜は自分をあそこに置いてくれているのだ。
――だが、サキムニは?
サキムニもまた、月から逃げてきたのか?
それとも、あるいは。
『見つけた、レイセン』
懐かしい声が、脳裏によみがえる。
彼女は――自分を連れ戻しに来たのではないか?
もしそうだとしたら。サキムニが月に帰ることを前提にここにいるのなら――永琳に知られるのは、たぶん、まずい。自分のように、帰ろうとしても帰れない立場にしてしまうかもしれない。
――だが、それならどうする?
「う……ぅ、ん」
サキムニが呻いて、鈴仙ははっと思考を中断した。目の前にあるサキムニの顔。その瞼が微かに震えて、鈴仙と同じ赤い瞳が薄く、その下から姿を現す。
「……レイ、セン……?」
力なく囁かれた、懐かしい響きの名前。
それが幻覚でないと確かめようとするように、サキムニは震える手を伸ばした。思わずその手を、鈴仙は握りしめていた。――妖夢の冷たい手とは違って、熱に火照ったサキムニの手は、ひどく熱かった。
「サキ……」
「レイセン……ああ、レイセンだ……やっと、見つけた――」
泣き出しそうな声で、彼女はその名前を呼んだ。
レイセンは何も答えられず、ただその手を握りしめて。
「……元気そうで、良かった――」
また、瞼が落ちる。腕から力が抜ける。
「サキ!」
悲鳴のように叫んでいる自分に気付いて、鈴仙はただうろたえる。サキムニはまた意識を手放して、うなされるように意味のないうめき声をあげた。
このまま放っておくわけにはいかない。
だけど、今のままでは永琳には頼れない。
――永琳は身内と病人には基本的に優しいが、そうでないもの、特に輝夜に対して厄介ごとを呼ぶ相手には酷薄な面があることは、鈴仙も知っていた。今のサキムニは病人だが、治ったあとは――あるいは。
と、背後の茂みが音をたて、鈴仙ははっと振り返った。
姿を現したのは、あのイナバだった。おいてかないでー、とこちらに駆け寄ってきたイナバに、鈴仙は少し思案して、おみやげとして預けられていた羊羹を取り出す。
「お願い。……この子のことは、誰にも言わないで。特にてゐやお師匠様には絶対に内緒にして。お願い――」
羊羹を差し出して、イナバにそう懇願する。ないしょー? とイナバは首を傾げ、わかったー、と羊羹を受け取った。イナバの言葉を信用できるかは甚だ疑問だったが、こうする他に手もない。
それから鈴仙は、意識を失ったサキの身体を背中に負ぶった。この場所に放置しておくわけにもいかない。安静にできて、薬があるかもしれない場所。――永遠亭以外に、一軒だけ心当たりがある。
「……サキ」
背負ったサキムニの身体は、ひどく軽かった。耳元で吐き出される苦しげな息に、鈴仙はぐっと一度目をつむり、そして歩き出す。自分がどうしたいのか、どうするべきなのかも解らないまま――ただ、そうることしかできないから。
まってー、と羊羹を口いっぱいに頬張りながら、イナバがその後を追いかけていく。
竹林はただ常と変わりなく、風にその葉をざわめかせている。
6
台所から、少し遅い昼食の匂いがふわりと漂ってくる。
藤原妹紅は、ぼんやりと台所に立つ上白沢慧音の背中を見つめていた。エプロンを身につけて、何か鼻歌を歌いながら鍋の味見をする慧音の姿を見るのは、何というか、悪くない。
一昨日の雨の日にやって来たばかりだというのに、今日も慧音は妹紅の暮らすあばら屋に顔を見せていた。少し放っておくと妹紅はすぐ散らかすし、洗濯物は溜め込むし、ご飯もろくに食べやしないんだから、とは慧音の言であり、事実そうなのでぐうの音も出ない。
と、慧音がこちらを振り向いた。随分じっと見つめていたことに気付いて妹紅が視線を逸らすと、慧音は何を勘違いしたのか小さく苦笑する。
「お腹が空いたか? もう少しでできるから待っててくれ」
「……ああ」
いや、確かにお腹は空いていなくもないが、別にそのためにじっと見つめていたわけではない。そもそも不老不死の身だ、食べなくたって生きてはいけるから食欲がそもそも妹紅には希薄である。美味しいものは好きだけれども。
ただ、慧音の方を見つめていたのは、楽しそうに料理している慧音の姿を見るのが好きだからだ――なんていうのは、気恥ずかしくて口に出せないだけだ。
横目にちらりと慧音を見やると、また視線が合ってしまって、妹紅は慌てて目を逸らす。そんな様子に、慧音が苦笑しているのが解って、ただ妹紅の顔は熱くなるばかりだった。
慧音が作ってくれたのは、たけのこの炊き込みご飯と、たけのこ入りの豆腐ハンバーグにたけのこの味噌汁だった。この竹林で一番簡単に手に入る食材はたけのこであるから、たけのこ尽くしになるのはやむを得ないが、その中でバリエーションを作ろうとしてくれているのがよく解る。慧音の律儀さが、そのあたりにも現れていた。味ももちろん保証済みである。
慧音自身はとっくに昼食を済ませていて、妹紅が食べている様を楽しそうに見つめている。そういう風に見つめられるのも慣れてはいたが、あんまりにこにことされるのは少し気恥ずかしい、と妹紅は思うのだ。
「ああ、そうだ。妹紅」
豆腐ハンバーグを妹紅が切り崩していると、ふと思いだしたように慧音が顔をあげた。
「うん?」
「今日、怪我をした妖怪兎を見かけなかったか?」
ハンバーグを口に含んで、妹紅は目をしばたたかせた。
「妖怪兎? 見てないが、どうかしたのか?」
「いや、ちょっとな――」
ひとつ肩を竦めて、慧音は少し前に見かけたという妖怪兎について説明を始めた。永遠亭の鈴仙・優曇華院・イナバと同じ服を着て、足を挫いた様子の妖怪兎を人里の近くで見かけたらしい。この竹林の方に姿を消したらしいが、少なくとも妹紅はそれらしき姿は見かけていなかった。まあそもそも、今日はあまり遠くまで出歩いてはいないのだが。
「永遠亭の兎なら、戻ればあのヤクザ医師に手当てしてもらえるだろう」
「それがどうも、永遠亭の兎でも無さそうなんだ」
「永遠亭と関係がない妖怪兎なんて、このあたりにいるのか?」
「私も知らないよ。ただ、鈴仙を探している様子だった」
「鈴仙……ああ、永遠亭の兎の嘘つきじゃない方か」
宿敵である輝夜の比較的近くにいる、二匹の兎を思い浮かべる。妹紅自身は、あまりあの兎のことはよく知らない。宿敵の身内だ、あまり積極的に知りたいとも思わないが。
「まあ、見かけていないなら仕方ないんだが……怪我の状態はだいぶ悪そうだったし、あの足で走り回ったらますます酷くなる。見かけたら、永遠亭に連れていってやってくれないか。鈴仙と同じ服で、桃色の髪の兎だ」
「解った解った、覚えておく。……赤の他人にも優しいな、慧音は」
自分と全く関係のない相手にまで親身になって心配するのは、慧音の良いところでもあり、悪いところでもある、と妹紅は思う。そういう性格だから教師なんてこともやっているのだろうし、こうして自分の世話もしてくれるのだろうが、慧音ひとりで守れる範囲には限度がある。それを省みずに何でもかんでも抱え込みすぎやしないかと、ときどき心配になるのだ。
「べ、別にそんなことは……心配の種を放っておけないだけだ」
ちょっと照れたように、慧音は顔を伏せる。妹紅はその様子に目を細めた。
不老不死の身である自分にも、何くれと心配して世話を焼く慧音。どうせ死ぬことはない、と何事にも無頓着になっていた自分に、こうして美味しいご飯を作ってくれる。輝夜との決闘で怪我をしたあとは、放っておいても治るのに、いちいち手当てをしてくれる。
そんな慧音のまっすぐな優しさが、妹紅は好きだった。
「慧音」
箸を置いて、妹紅は慧音の手に自分の手を重ねた。慧音がはっと顔を上げた。
「……妹紅」
真っ赤な顔でこちらを見つめ返した慧音に、妹紅は軽く身を乗り出して、その頬に触れた。上気した慧音の頬は、すべすべしていてあたたかかった。
慧音が目を閉じる。妹紅も目を閉じて、そっとその吐息が感じられる距離へ顔を寄せ、
――ふたりの間に、不躾なノックの音が割り込んだ。
目を開けて顔を見合わせ、思わずふたり苦笑し合う。慧音以外の来客とは珍しいが、永遠亭への道案内を求める里の人間だろうか。妹紅が席を立とうとすると、「いや、私が出るよ」と慧音が立ち上がって玄関の方へ向かった。
食べかけだった炊き込みご飯の残りを口に含みながら、妹紅はそれとなく玄関の方に注意を向ける。はいはい、と言いながら慧音が玄関の扉を開く音がした。
「すみません――」
聞こえてきたのは、聞き覚えのある声。――あの声は確か。
ハンバーグの残りを掻き込んで、味噌汁で流し込むと、妹紅は席を立つ。玄関の方に向かうと、思った通りの顔がそこにあった。ただし、ひとり余計なおまけを負ぶって。
「妹紅」
「――何だ、おい。急患なら場所が違うぞ?」
慧音が困ったように振り返り、妹紅は来客の姿に眉を寄せる。
「……ごめんなさい、でも、ここしか無いんです」
そう懇願するように口にしたのは、鈴仙・優曇華院・イナバだ。
――彼女はその背中に、発熱に顔を火照らせた、桃色の髪の妖怪兎を負ぶっていた。
◇
何しろ妹紅は不老不死なので、本来薬の類は必要ないものだ。だが、自分が輝夜と戦って怪我をすると、放っておいても平気なのに慧音は手当てをしたがる。「そんな傷だらけの格好、妹紅が良くても私が見てられない」とは慧音の弁だ。
そんなわけで、薬や包帯の類はこのあばら屋にも常備してあるのだった。
「とりあえず、応急処置はこれでいいはずだが……」
布団に横たわった兎の額と、腫れ上がった足首に氷嚢をあてがい、腫れた足を高く持ち上げて固定する。兎は眠っているようだが、呼吸はまだ荒い。その身体に毛布を被せて、慧音はひとつ肩を竦めた。
「すみません……」
「素人の処置だ、あまりあてにしないでくれ。捻挫から時間が経っているようだし、だいぶ無理をしているはずだ。早めに永遠亭に連れていった方がいいんだが」
身を縮こまらせる鈴仙に、慧音は厳しい表情でそう告げる。鈴仙は困ったように俯いて、膝の上でぎゅっと拳を握りしめていた。
そんな鈴仙の様子に、妹紅は傍らで眉を寄せる。
「どうしても、永遠亭には連れて行けないのか?」
慧音の問いに、鈴仙はこくりと頷く。
この少女が担ぎ込まれてきたとき、当然ながら妹紅は「永遠亭に連れていけ」と言った。自分はただの案内人だ。急患を持ち込まれても困るし、鈴仙は永遠亭の住人なのだから、自分の家に連れて行けばいいだけのはずだ。だというのに、鈴仙は首を横に振って、「永遠亭には、ちょっと――」と答えた。
布団の上で眠る兎の少女の姿を見やる。鈴仙と同じ服を着た、見慣れない妖怪兎だった。少なくとも、竹林内や永遠亭で見たことのある顔ではない。同じ服を着ているから鈴仙の仲間のはずだが、なぜそれを永遠亭に連れていけないというのか。
「発熱は捻挫の影響で起こした貧血が原因のはずだから、栄養のあるものを食べて寝ていればいい。しかし、足の方はきちんとした治療をしないと後遺症が残るかもしれないぞ」
「……それは解ってます。でも」
慧音はじっと鈴仙を見つめる。鈴仙はただ、膝の上に視線を落としている。
「まあ……どうしてもと言うなら仕方ない。どんな事情があるのかは知らないが、そこまで言うからにはよほどのことなんだろう。君が、自分の師匠を頼れないなんて言うのだから」
「…………」
「風邪薬の類と食べ物を、里から持ってこよう。妹紅、この子の様子を見ていてくれ」
「ああ、解った」
立ち上がった慧音に、妹紅は頷く。と、傍らの鈴仙が「あ――」と慌てて立ち上がる。
「私も、行きます。……あの、そちらに他の用もあるので、その」
鈴仙の言葉に、慧音は一度険しい表情を見せたが、「解った」と頷いて歩き出した。鈴仙は一度眠る兎の方を振り向いて、それから慧音を追いかけて歩き出す。
「――ああ、そうだ、おーい」
ふと思い立って、妹紅は鈴仙を呼び止めた。鈴仙が足を止め、訝しげに振り返る。
「この兎の名前、なんていうんだ?」
何しろこちらは布団を奪われた上に、この兎が何者なのかも知らないのだ。そのぐらいは聞いても罰は当たるまい。
「……サキムニ、です」
鈴仙はぽつりと、呟くようにそう答えた。サキムニ、ね。不思議な響きの名前を口の中で繰り返し、妹紅は鈴仙と慧音を見送ると、眠る兎の少女を見下ろす。
「全く――私もお人好しになったもんだな」
ぽりぽりと頭を掻いて、微かに呻いたその唇を湿らせてやろうと、妹紅はサキムニの上体を軽く起こして、水を注いだ湯飲みをあてがう。意識は朦朧としているようだったが、その喉はこくん、こくんと微かに動いて、唇に注がれた水を飲み干した。
「よし、あとは慧音が戻るまで大人しくしとけ」
もう一度身体を寝かせ、毛布を掛け直す。――誰かの看病なんて、いつ以来だったかな。そんなことを思いながら、妹紅はサキムニの身体に軽く触れて、
――その懐に、何か硬い感触があるのに気付いた。
「ん?」
ブレザーのポケットに何か入っているらしい。感触からすると小瓶か何かだろうか。毛布をめくり、妹紅は小さく断ってポケットを探る。寝返りをうったときに、ポケットにものが入っていたら邪魔だろう――という、それだけの心遣いのつもりだった。
入っていたのは、やはり小瓶だった。中には、透明で少し粘度の高い液体が詰まっている。
「……これは」
その液体を見た瞬間――何か、嫌な予感がした。
理由はない。ただ、永く生きているが故の直感のようなものだった。いや――あるいはそれは、永い時間の中にも風化せずに残った記憶にある、それを想起したが故だったかもしれない。
いや、そんなはずはない。あれが、こんなところにあるはずがない。あれは自分が遥か昔に、どことも知れぬ土の下に埋めたのだ。誰にも決して見つからないように。
確かに似ている。見た目はただの透明な液体だ。ぱっと見ただけでは水と区別がつかない。だが――あれにはひとつ、決定的な特徴がある。
妹紅は微かな戦慄を覚えながら、その小瓶の蓋を開けた。その口をそっと傾ける。中の液体はとろりと小瓶からこぼれ、つう、と長く糸を引いて、あばら屋の床へと落ちていく。
――だが、床にたどりつこうとした瞬間、その落下がぴたりと止まった。
そして、ゆっくりと、液体は重力に逆らって、小瓶の中に戻っていく。
「そんな、馬鹿な――」
一滴もこぼれることなく、元の小瓶の中に収まった液体の姿に、妹紅は愕然と、眠る兎の少女を見下ろした。これは。この性質は、まさしく――あの。
震える手で蓋を閉め、妹紅はその小瓶をぎゅっと強く握りしめると、自分のもんぺのポケットに突っ込んだ。――慧音にこれを見せるわけにはいかなかった。
「なぜだ? ……なんでお前が、こんなものを持っているんだ」
問いかけに、眠るサキムニは答えない。
ただ、彼女の荒い呼吸の音だけが、あばら屋の静寂の中に響いている。
◇
慧音と鈴仙が薬と食材を抱えて戻ってきたときには、妹紅は何事もなかったかのように出迎えた。小瓶はまだ、ポケットに入ったまま。サキムニは起きる気配は無かった。
眠ったままのサキムニに薬を飲みこませて、それから慧音は食事の支度を始めた。鈴仙の方はしばらくじっとサキムニを見下ろしていたが、薬が効いてきたのか頬の赤みが引き、呼吸が落ち着いてくると、ほっと息を吐き出す。
鈴仙とサキムニ、それから永遠亭の間にどんな事情があるのか、妹紅は知り得ない。だが、今自分のポケットに入っているものがそれと無関係とは思えなかった。本当はすぐにでも問い詰めたいのだが、慧音がいる手前では難しい。こいつのことに、慧音を巻き込みたくはなかった。これはあくまで、自分の問題なのだ。自分と――あるいは、輝夜の。
「……あの。私は、一旦永遠亭に戻ります」
先に立ち上がったのは鈴仙だった。どういうわけか、三冊ほどの本を抱えて、鈴仙は慧音と妹紅にぺこりと一度ずつ頭を下げる。
「迷惑をかけてすみません。……夜に、また戻ります。それまで、サキムニのことを、お願いしても、いいですか」
「――まあ、今更放り出すわけにもいかないから、そりゃ構わないが。いつまでもは置いておけないぞ。うちは病院じゃないんだからな」
眉間に皺を寄せて、妹紅は言った。「……はい」と鈴仙は俯いて頷く。
「どういう事情があるのかは知らないが、早めに永遠亭まで連れていって、きちんとした治療を受けさせた方が彼女のためだ。君の仲間だろう?」
「解ってます……すみません。それじゃあ」
慧音の言葉に、もう一度深く頭を下げて、鈴仙は小走りにあばら屋を出て行く。その背中を見送って、妹紅は慧音と顔を見合わせて肩を竦めた。
――月からの追っ手なのだろうか、とふと妹紅は思う。輝夜たちは月の民だ。この兎は、それを探している追っ手なのかもしれない。その追っ手に、輝夜たちが見つかるのを鈴仙は恐れているのか――いや。
……追っ手だとすれば、仲間が輝夜に殺されるのを恐れているのか。
そっちの方が可能性としてはありそうだ。兎一匹、輝夜の手にかかればおそらくひとたまりもない。手負いならばなおさらのことだ。仲間が主に殺される場面など、鈴仙だって見たくはないだろう。つまりはそういうことなのかもしれない。
いずれにしても想像だ。答えはこの兎が起きたら聞いてみるしかないだろう。――ポケットの中の小瓶についても。
「どうしたんだ、妹紅」
「ん?」
「……今、かなり怖い顔をしていたぞ」
慧音の言葉に、妹紅は虚を突かれて、それから意識して相好を崩した。なるべく、慧音に心配をかけないように。ただでさえ、何かと迷惑をかけている身の上なのだ。
「何でもないさ。……それより、慧音はいいのか?」
「何がだ?」
「いや、あまりここに長居していて、慧音の都合は大丈夫なのかって」
妹紅の言葉に、慧音は包丁を握る手を止めて、半眼で頬を膨らませる。
「……私がいたら邪魔か?」
「いや、そういうわけじゃなくて」
「冗談だ。――この子のことは私も無関係というわけじゃないからな」
慌てた妹紅に、慧音は苦笑して、眠るサキムニの顔を見下ろす。その寝顔は、薬が効いてきたのか安らかなものに変わっていた。
「できれば、目を覚ますまではここにいてやりたいのが本音だが――起こすわけにもいかないしな。どうしたものかな」
そう呟きながら、慧音は料理に戻る。量からして、病人向けのお粥と一緒に、妹紅の晩ご飯も仕込んでくれているらしい。その背中に目を細めて――やっぱり慧音を巻き込むわけにはいかないのだ、と妹紅は思う。
できれば、日が暮れるまで起きないでいてくれよ、と眠る少女に妹紅は心の中で声をかける。日が暮れる前には慧音を帰して、あの小瓶について問い詰めるのはその後だ。
――そういえば、あの小瓶の中身で、この少女は何をしようとしていたのだろう。
ふとその疑問が浮かび、妹紅は眉を寄せる。たったひとりであれを少量、懐に携えていた少女。――あるいは彼女こそが逃亡者なのか?
まあ、本人に聞けば解ることか、と妹紅は息を吐いた。自分が考えても仕方ない。
自分にできることは、この小瓶を他人の手に渡らないようにするだけだ。
「ああ、すまない妹紅。そこの袋からネギを取ってくれないか」
「ん、ああ――」
慧音から声がかかり、妹紅はのそりと腰をあげた。
傍らの布団で、少女が微かに呻いたけれど、その言葉は意味を為さずに消えていった。
7
結局、再び永遠亭を出ることができたのは、夕飯の支度を終えてからだった。
すっかり日は暮れ、空には月がぽっかりと浮かんでいる。その光から目を逸らしながら、鈴仙は竹林の中を、妹紅のあばら屋を目指して歩いていた。
足取りは、いささか重い。自分がどうすればいいのか、未だに答えが出ていないせいだ。
輝夜から頼まれたお使い――資料の確保は無事に済んだ。慧音が何も言わずに貸してくれたのだ。ただ、そのとき慧音から投げかけられた問いが、まだ頭の中をぐるぐると巡っている。
『――君は、いったい何に怯えている?』
慧音は、サキムニについては何も訊かなかった。ただ、鈴仙が頼んだ本を手渡したときに、目を細めてそう言った。それだけだ。
それだけの問いに、鈴仙は答えを見つけられないまま。
自分は確かに怯えている。だが、何に怯えているのかが、自分でも解らないのだ。
何が恐ろしいのだろう。自分は、何を恐れているのだろう?
サキムニがここに来たこと。その理由。目的。サキムニの意志。月に残してきた仲間たちのこと。それから、今の自分の家――永遠亭の面々のこと。そして、――あるいは。
立ち止まる。月を見上げる。けれど、またすぐに鈴仙は目を逸らす。
サキムニを見つける前は、またキュウに連絡を取ろうかとも考えた。けれど、それも怖かったのだ。キュウに何を言われるのかも。そして、実際にサキムニが地上に向かったと告げられるのも怖くて、自分は結局何も聞けないまま。
そうして今、サキムニは藤原妹紅の家で眠っている。
どうすればいいのだろう? サキムニがここに来てしまったことはもうどうしようもない。その上で、サキムニが何を望んで――自分は、それにどう答えればいいのだろう。
「……よう、む」
こんなとき、妖夢だったらどうするのだろう。あの真っ直ぐな少女なら――。
そう考えて、鈴仙は自嘲気味に首を振った。今のこの状況を招いたのは、どう考えても自分だ。月を逃げ出してきた自分の罪と弱さだ。……妖夢なら、最初からこんな状況に自分を追い込むようなことはない。逃げ出したりなんか、しないだろう。
だけど自分は、今もこうして逃げ続けている。逃げ出したいと思っている。
これ以上、どこに逃げられるわけでもないのに――。
ざざざ――と、竹林がざわめいて、鈴仙ははっと顔を上げた。
風か。いや、違う。何かが、こちらにおぼつかない足取りで走ってくる。その気配を感じて、鈴仙は身構えた。陽が落ち、闇に沈んだ竹林の中、――ざざ、ざざと音。そして、
現れたのは、赤い瞳。
「……レイ、セン……っ」
茂みの向こうから、よろめくように姿を現したのは、サキムニだった。
「サキ――」
目を見開いた鈴仙の前、サキムニはその顔に安堵を浮かべ、それから左足を引きずって、よろめくように鈴仙の方に倒れ込む。鈴仙は慌てて駆け寄り、その身体を支えた。「ごめ……ん」と呟いて、サキムニはまた呻く。
左足が治っているはずもない。なのに、どうしてサキムニがここに。妹紅のあばら屋で眠っていたのではなかったのか。――だとすれば、妹紅は、
「おい、待て――っ、お前」
身構えた瞬間、茂みの中からその当人、藤原妹紅が姿を現す。
妹紅は輝夜に相対するときのような険しい顔で、こちらを睨み据えた。
サキムニが、怯えたように鈴仙にすがりつく。
「ちょ、ちょっと――どうなってるんですか」
それはサキムニと妹紅、両者に向けた問いかけだった。しかしサキムニはただ震えるばかりで、妹紅は険しい表情のままにこちらににじり寄る。
「悪いことは言わない。そいつを寄越すんだ」
恫喝するように、妹紅は言った。
その声音と表情に、鈴仙は悟った。――今の妹紅は、サキムニの敵だ、と。
咄嗟に鈴仙は、サキムニを背後に庇うように、妹紅の前に立つ。
「……レイセン?」
サキムニが声をあげる。鈴仙は深く息を吸って、目の前の妹紅を見つめ返した。その怒気を孕んだ視線に気圧されそうになる自分に、奥歯を噛み締めながら。
「待ってください――なんで、サキを追いかけてるんですか」
「……そいつが逃げ出したからだよ」
「逃げ出したって……何をしたんですか、サキに」
「何もしちゃいない」
鈴仙の問いかけに、心外だとばかりに妹紅は首を振る。
「ただ――そいつは、ここにあっちゃいけないものを持っている」
その言葉に、鈴仙はサキムニの方を振り向く。サキムニはただ、怯えた顔で首を振った。
「それを寄越せば、悪いようにはしない。だが渡さないというなら――」
妹紅の右手が、ゆらりと炎をまとった。暗色の炎が、闇に揺らめく。その光に照らされた妹紅の顔が、暗い影を落として浮かび上がる。
「力づくででも、取り返させてもらう」
じり、と一歩妹紅がこちらに足を向けた。一歩後じさり、鈴仙はもう一度サキムニを振り返る。サキムニは左足の痛みを堪えながら、立ち上がろうとしていた。
「……レイセン、ごめん、私……」
「サキ――」
何がなんだか、鈴仙にはさっぱり解らない。だが、確かなのは。
月にいた頃は、いつも自分を庇ってくれていたサキムニが、今は自分の背後で怯えて震えている。……彼女の足のことを考えれば、戦えるのは自分だけだった。
――正直、戦うのは嫌いだ。
だけど、何も解らないまま、一方的にやられるのも、嫌だ。
「さあ、そいつを寄越すんだ」
妹紅が獰猛な声で言った。サキムニは、ふるふると首を横に振った。
それが、答えだった。
「なら――仕方ない。少し痛いだろうが、我慢しなよ――ッ」
妹紅が地を蹴った。鈴仙は咄嗟に、サキムニの身体を抱きしめた――。
二匹の兎を照らす月光が、刹那、さっと翳る。
そして、次の瞬間――こちらに振り下ろされようとした妹紅の拳は。
間に割り込んだ影に受け止められ、中空で静止していた。
「あらあら――うちのペット相手に、何をしているのかしら? もこたんったら」
どこか楽しげな声。それとともに、妹紅は飛びしさって距離を取る。
鈴仙は呆然と、自分たちの前に割り込んだ影を見上げた。
月光に照らされた、長い黒髪。闇の中に凛と佇むその姿は。
――蓬莱山輝夜のものだった。
「輝夜ァ――」
苦々しげに、妹紅が吐き捨てる。その声に小さく肩を竦め、輝夜はちらりとこちらを振り返った。鈴仙は思わず、サキムニを抱きしめたまま息を飲む。
そのときの輝夜の瞳に宿っていたのは、見たこともないほど冷徹な光。
けれどそれは一瞬で、輝夜はすぐにいつもの脳天気な笑みを浮かべた。
「ここは危ないから、とりあえずお逃げなさいな。そこのイナバもね」
「はっ――はいっ」
咄嗟に頷いて、鈴仙はサキムニに肩を貸す。「サキ、飛べる?」と訊ねると、サキムニは目をしばたたかせて、首を横に振った。それなら仕方ない。鈴仙はサキムニを抱えるように、ふわりとその場に飛び上がった。
◇
――時間を、少し溯る。
「じゃあ妹紅、ちゃんと後始末とか自分でやるんだぞ」
「はいはい、解ってるよ」
慧音が料理を終えても、兎が目を覚ます様子は無かった。もうすぐ日が暮れる。暗くなってから慧音をひとりで帰すわけにもいかない、というわけで、まだ明るいうちに慧音には帰ってもらうことにした。泊まるわけにもいかないのは慧音も解っていたようで、渋々ながら頷いてくれた。
「あの子のことも任せた。できれば、鈴仙を説得して永遠亭に連れていってくれ」
「解った解った、善処する」
「明日、また様子を見に来るからな。……じゃあ、また明日」
「ああ、おやすみ、慧音」
「おやすみ、妹紅」
手を振って、遠ざかる慧音の背中を見送る。いつもなら人里の近くまで妹紅が送っていくところだが、兎を放置するわけにもいかないので、見送りだけだ。
慧音の姿が見えなくなったところであばら屋の戸を閉め、妹紅は兎の眠る布団に歩み寄ると、ポケットからまたあの小瓶を取り出し、手の中で弄ぶ。
それから、慧音が作ってくれた晩ご飯と、兎のための卵がゆを見やった。
「……自分の分は、冷める前に食べておくか」
昼食が遅かったのでそんなにお腹は空いていなかったが、せっかく慧音が作ってくれたものを冷ましてしまうのも勿体ないので、妹紅は食卓の前に移動して箸を手に取る。
相変わらず慧音の料理は美味いな――と炊き込みご飯を頬張っていると、布団の方から微かにまた呻き声がした。振り返ると、兎の少女が身じろぎして、身体を起こそうとしていた。どうやらようやくお目覚めらしい。
箸を置いて立ち上がり、妹紅は上半身を起こした少女に歩み寄る。少女はぼんやりとした顔でこちらを振り向いた。まだ意識は覚醒しきっていないようだ。
「おはよう。もうすぐ夜だがな。気分はどうだ?」
「……ここ、は? あなたは……だれ?」
「私は、行き倒れてたお前さんを拾った親切な人間だ。で、ここは私の家だ」
「にん、げん……?」
少女は訝しげに、赤い目を細める。妹紅は小さく肩を竦めた。
「んで、お前さんは何者だい? どっから来た? このへんの兎じゃないだろう?」
眉を寄せてそう問いかけると、少女は「……私は」と小さく呟いて、それから目を見開いた。
「そうだ――レイセン。レイセンは、どこ」
突然明瞭になった少女の言葉に、妹紅は面食らってのけ反る。少女は家の中に視線を彷徨わせて、「レイセン――」ともう一度その名前を呼んだ。
「おいおい、落ち着け。鈴仙なら今はここにゃ居ないよ。そのうち戻ってくる」
「……レイセンが、いるの?」
「今は居ないよ。永遠亭に帰ってる。あとでここに戻るって言ってたから、少し待て」
そこで妹紅は立ち上がって、弱火にかけてあった土鍋を持ち上げる。中身は慧音お手製の卵がゆだ。風邪のときはこれが一番だ、とは慧音の弁。
「腹減ってないか? とりあえず、これでも食って落ち着け」
土鍋を鍋敷きの上に置いて、器に卵がゆをよそい、少女に差し出した。
少女は湯気をたてる卵がゆを、ぼんやりと見下ろして――。
その顔が、驚愕と嫌悪に染まった。
「――嫌ッ」
少女の手が、妹紅の手をはね除けた。その手から器がこぼれ、布団に卵がゆが撒き散らされる。畳の上を、中身を失った器が音もなく転がった。
「おま――何を」
慌てて布団に飛び散った卵がゆを拭こうと布巾を手にとって、妹紅は少女の顔を見る。
その顔に浮かんでいたのは、ただ怯えと嫌悪の色。
信じがたいものを見たような驚愕と、得体の知れないものへの怯えを孕んだ表情だった。
――おいおい、食べ物を差し出しただけで、何でそんな顔をされなきゃいけないんだ。
苛立ちを覚えるものの、とりあえず布団をどうにかしなければ。土鍋ごとでなかったのが幸いだったか、布巾で目につく分を拭ってしまえば何とかなる状況だった。
こぼれた分を拭い終え、転がっていた器を拾い上げる。もう一度差し出すべきか思案したが、結論を出す前に少女が布団から這い出すように後じさりながら首を振った。――だから、どうしてそんなに怯えるんだ。自分はそんなに恐ろしい姿をしているとでもいうのか?
妹紅はひとつ溜息をついて、土鍋を脇に寄せた。これ以上布団や床を汚されても敵わない。
「だから落ち着けって。私は別に、お前さんをどうこうしようってわけじゃない」
ふるふる、と少女は首を横に振る。だが、少し怯えの色は薄れたようにも見えた。
――それから妹紅は、ポケットに入れていた小瓶のことを思い出す。
そうだ、これについて問い詰めなければいけないのだ。できれば、鈴仙が戻る前に。
まだ微妙に怯えられている様子なのが気がかりだったが、時間もそんなに無い。妹紅は息を吐いて、ポケットから小瓶を取り出した。
その瞬間、少女の顔色がさっと青ざめた。
少女は慌てて身体をまさぐり、その小瓶が無くなっていることを悟ったか、こちらを愕然とした顔で見上げた。妹紅は小瓶を少女の方に向けながら、目を細める。
「……この小瓶の中身、私の勘違いでなければ、こいつは――」
少女が、飛びかかるように小瓶に手を伸ばした。さっと手を引く。少女は布団に突っ伏し、それから懇願するような顔でこちらを見上げる。――そんな顔をされても、こいつを渡すわけにはいかない。これは、ここにあってはいけないものだ。
「どうして、お前さんがこんなものを持っているんだ」
少女は答えなかった。答えず、ただ妹紅の方をじっと見上げて、
突然、妹紅の視界が、ぐらりと揺らいだ。
「――――っ!?」
一瞬の眩暈。妹紅は咄嗟に目元を押さえる。その瞬間、小瓶を持つ右手が無防備になる。
少女が手を伸ばした。妹紅の手から、その小瓶の感触が消えた。
「あっ――」
気付いたときには遅かった。少女は跳ね上がるように起きると、左足をかばいながら脱兎のごとく――いや、兎だからまさしく脱兎の勢いで走りだす。
「待て、そいつは――っ」
慌てて追いかけようとしたが、まだ視界がふらついて、妹紅は数歩たたらを踏んだ。
あの赤い目のせいか。何か、幻覚のようなものを見せられているのだ。
妹紅は自分の両手で、強く頬を叩いた。その痛みで、視界が明瞭な輪郭を取り戻した。
玄関から外へ飛び出すと、茂みの中へ消えていく兎の耳が見えた。
「くそっ――」
吐き捨てるように舌打ちして、妹紅はその後を追って走りだした。
◇
そして、時間は現在に回帰する。
「どけっ、輝夜――」
妹紅の繰り出した拳をひらりと受け流し、輝夜はその肩に触れて――ドッ、と軽く力を込めた。妹紅の肩の肉が抉れて、鮮血が散る。悲鳴を噛み殺して、妹紅はその場に転がった。
「どうしたのかしら? もこたんったら、殺し合いに気が乗らない?」
「五月蠅い――」
鮮血を滴らせる肩は放って、妹紅は奥歯を噛み締めて輝夜を睨み据えた。
「今は、お前の相手をしている場合じゃないんだ」
「あら心外。貴女に私を殺すことより重大な優先事項があったなんて」
口を尖らせる輝夜に、妹紅は唇を噛む。
――輝夜への復讐。それは確かに、自分がこの千年以上も生き続けてきた理由だ。
だが、今は、今ばかりは、それを差し置いても、あの兎を何とかしなくてはいけない。
「時と場合によるんだよ」
「ふうん? うちの鈴仙に、何をそんなにご執心なの?」
「――そっちじゃない。もう一匹の方だ」
妹紅の答えに、輝夜は意外そうに目をしばたたかせた。
「もう一匹?」
「今、いただろう。鈴仙ともう一匹の兎が」
「ああ――そういえば、見覚えのないイナバがいたわね。あれが何?」
その問いかけに、妹紅は少し拍子抜けして身構えていた身体の力を抜く。
輝夜も、何も知らないのか? だとすればあの少女は本当に――何者なのだ?
「あの兎は、薬を持っていた」
「薬?」
「私にとってもお前にとっても、忘れがたいあの薬だ」
――その言葉に、輝夜の表情が険しくなる。
「どういうこと?」
「私が聞きたいよ。だが、間違いない」
そう、あのこぼれても重力に逆らい瓶に戻る――元に戻ろうとする性質は、今の自分や輝夜と同じ性質。
不変。
不死。
あらゆる変化を拒絶した、それは即ち――永遠そのもの。
「あれは――蓬莱の薬だ」
◇
月灯りの下、サキムニの細い身体を抱きかかえるようにして、鈴仙は飛んでいた。
鈴仙にしがみついたサキムニは、ただ無言で顔を伏せている。鈴仙も何と言葉をかけていいか解らないから、ずっと沈黙が続いていた。
――向かっている先は、冥界だ。
永遠亭にサキムニを連れていく決断は、やはり下せなかった。せめてサキムニから、どうして、何のためにここに来たのかを確かめてからでないとその判断はできない。そして今は、それをゆっくり確かめている余裕はなかった。輝夜には申し訳ないが、とにかく今のうちになるべく竹林を離れるほかない。妹紅がサキムニに敵意を持っていたのは明らかだから、彼女がすぐには追って来られない場所まで逃げるのが最優先だった。
そして、自分が急に転がり込んだとき、そのまま匿ってくれそうな場所。
思いついた場所は、白玉楼。この状況で頼れる相手は、妖夢以外に思い当たらない。
「……レイセン」
不意に、サキムニがこちらを見上げて、震える声でそう言った。
懐かしい響き。あの頃と変わらない、サキムニの言葉。
「なに?」
鈴仙はつとめて穏やかに笑って、サキムニの方を振り向いた。
その表情に、サキムニがはっと目を見開いて――どこか寂しげに、目を細めた。
「……そんな風に、笑えるんだね、レイセン」
風に溶けるような微かな声に、鈴仙はただ小さく息を飲む。
それは、ふたりの間に隔たった確かな時間を露わにする言葉だった。
月にいた頃と、今の自分。サキムニの知る自分と、今の自分は――きっと、違う。
逃げ出してきてから、もう何十年が経っただろう。
その間に、自分は、そしてサキムニは――。
「ごめん……ごめんね、レイセン。こんな、迷惑、かけて」
「サキ――」
飛ぶのを止めて、鈴仙は空中に静止した。サキムニはその腕を掴んで、鈴仙に向き直った。
目の前にある、サキムニの赤い瞳。
その目が、泣き出しそうに潤んで――ぎゅっと、サキムニは鈴仙にしがみついた。
「良かった……鈴仙が無事で、元気そうで、良かった……」
鈴仙の首筋に顔を埋めて、サキムニはそう、泣き出しそうな声で言った。
その背中に腕を回すこともできず、鈴仙はただ中空に両手を彷徨わせる。
自分に――勝手に逃げ出して、帰ってきてという伝言も無視して、何十年も離れたままだった自分に向けて、サキムニはまだこんなにも真っ直ぐに手を伸ばしてくれるのに。
ずっと逃げ続けてきた自分は、その手を取っていいのか、解らないのだ。
呆然としている鈴仙の顔を、サキムニは目を擦って見上げた。
そして、一度ぎゅっと口を引き結び、意を決した顔で、口を開く。
「レイセン。――月に、帰ろう」
それは半ば、予期していた言葉だったけれど。
どう答えればいいのか、鈴仙には答えが出なかったから。
息を飲んで黙り込んだ鈴仙の沈黙を、どう受け取ったのか。
サキムニは、「ううん――」とゆっくり、首を振る。
「月に帰らなきゃ駄目なの。レイセン。……レイセンは嫌かもしれないけど、もう月になんか居たくないのかもしれないけど――駄目だよ。ここに、地上にいちゃ駄目」
痛いほど強く鈴仙の腕を掴んで、サキムニは言いつのった。
鈴仙はただ、「――どうして?」と訊ね返すことしかできない。
どうしてサキムニが、駄目、なんて言い切るのか。この地上に居たら駄目だと――。
「だって――」
サキムニは、躊躇するように一度言葉を切って。
そして、何度かの逡巡のあと、ゆっくりと、口を開いた。
――全ての理由を、意味を、語り尽くす一言を。
「このまま、地上に居たら――レイセンが、死んじゃうから」
その言葉の意味が、鈴仙には咄嗟に理解できなかった。
<第7話へつづく>
サキちゃんの地上の食べ物に対する反応を見て、ウドンゲは最初どんな思いでそれを口にしたのか? 日本の私たちが、未開地のゲテモノ料理を食べるような感覚だったのかしら?
なんてことに思いをはせました。
ウドンゲが『死んでしまう』から、地上に来たサキちゃん。
いつか死んでしまうことは、私たちにとっては当たり前だけど、月の世界では一番避けたいことなのかもしれませんね。月を脱走してまでも、連れ戻そうとしたサキちゃんは、とてもやさしく、そして強い子ですなあ。
果たして幻想郷で一番死に近い場所で暮らす妖夢は、そのやさしさに対してどんな答えを出すのか。
いやあ、どんどん面白くなっていってますな。
題名見た瞬間に小躍りするほど楽しみです。
次もお待ちしてます◎
これからどうやって今以上にうどんちゃんと妖夢さんがくっつくのか楽しみです。
あと、周りの皆さんも素敵だぁ
月の兎ってなんで年取るのかね
サキちゃんの食事の反応と死んじゃうってとこが関連してるのかなぁ
地上の飯は月の兎にとって毒・・・?
続きがすごいきになりますw
鈴仙がこのままだと死んじゃうというのは、地上の穢れによるものなのかなあ。
何にせよ、今回も面白かった。続き期待してます。
それでも妖夢なら……妖夢なら何とかしてくれる!
大丈夫、氏なら問題ない
あと、時系列では記憶の花のあとなんですね
今回のに加えて綿月姉妹やら冥界とくれば八雲も当然
と話に絡む人数がえらいことになりそうですねw
いや、それはそれで楽しみなんですがねw
地上じゃ普通のことなんだけど、それは玉兎からすればキツイんだろうね
しかし何でまたサキムニは蓬莱の薬を持ち込んだのか……月に帰ろうって言ってるわけだから、飲むんじゃないだろうし、それ以外に使い方も思いつかないし
それとも案外、瓶の中身が何なのかサキムニ自身も知らなかったりして?
なんにしろ、ついに動き出した物語に期待が高鳴るばかりですわ
なんだか壮大な話になってきたでござる。
いやほんとどうなるのよこれ!?
蓬莱人三人の活躍に期待
続き楽しみだけど悲恋になりそうな雰囲気で怖い
ここからの妖夢の活躍に期待しよう
勿論続きも読ませてもらいます……ってもう続き来てた。早く読まないと。
にしてもうどんげをめぐる話がどんどん壮大になりますね…。
まさかここで蓬莱の薬が出てくるとは。