「ぱるさんのばか! ばかばかなすび!」
あのこいしが怒った。
「へんたい! じごろ! おんなのてき! 大っ嫌い!」
罵声を発しながら彼女は走り去っていく。見つめながらパルスィは、この異常事態の原因を探るべく想起していた。一秒だけ考えて、明らかに今現在パルスィに抱き付いている村紗が原因だと分かった。彼女はきょとんとしたようにパルスィを見上げている。無駄に顔が近い。
「……とりあえず、離してくれる?」
「え? やだよ?」
なるべくまっすぐ顔を見て言ってやるが、返答は凡そ悪い予想通りだった。どうやら何も分かっていないようだ。パルスィは嘆息した。
「あんたのせいで、こいしちゃんが怒っちゃったじゃない。どうしてくれんのよ」
「私がいるじゃん?」
「うっせーバーカ」
無理やり引き離そうとしても、バカでかい錨を振り回す筋肉バカ女にパルスィが敵うはずもなく、余計きつく抱き締められるだけだった。
「パルスィのいけずー。いんぽてんつー。かたぶつー。だいぶつー。げだつー」
「はいはい。何でもいいからその手をどけて」
「じごろー」
「うっさい」
人が真面目に傷ついているというのに、こいつは心配ひとつしてくれないらしい。
大嫌いと、言われてしまえばあっけなかった。心のなかへ瞬間的に激しい痛みが襲ったあと、それでぽっかり穴が開いてしまったような気がした。
はぁー、と長い溜息を吐きながら、パルスィは力なく村紗の胸を揉んだ。揉むほどもなかったが、怯んだのでその隙に脱出してやった。ふらふらと壁まで歩いて行き、そこで座り込む。壁を前にして座り込むと、なぜか安心した。
何度も言うが、原因は村紗なのだ。三人で談笑していたところ、村紗がパルスィに抱きつき「おい妻、ごはんが先か風呂が先か聞け。私の妻」とか目的の分からない文言を呟き出してから、こいしの様子はおかしくなった。なぜ妻呼ばわりする必要があったのか。二回も。
尤もその後パルスィも冗談めかし、「それよりあんたが食いたい」といい加減に答え、さらに村紗が「んもーう、デザートの妻身食いはいけないんだぞっ」とうまくないこと言ってパルスィの頬に唇を寄せた辺りで、こいしは完全に沸騰したのだった。
やっぱり半分くらいはパルスィも悪かったかもしれなかった。
「嫌われちゃったじゃないのよ……」
パルスィは今にも泣きそうだった。それを見てさすがの村紗も気にしだしたのか、彼女の隣に座り込んで、こう言った。
「いやうん。ごめん。知らなかったんだよ。こいしちゃんがそんなに君のことを好きだったなんて」
「え?」
「えって何」
大嫌いと言っていただろうと、言ってパルスィは嘲笑う。村紗は何か考えているのかいないのか、ぴたっと静止したままパルスィを見つめている。
「嫉妬しちゃっただけでしょうに。嫉妬するのは好きの証拠よ」
「そういうもん?」
「……何であんたがそれを聞くのさ」
何でと言われても、誰彼構わず嫉妬をしているものだから些か仕方ないのだが、しかし村紗の言うことも一理あると、パルスィは頷いた。彼女は自らの嫉妬パワーに溺れるあまり、基本を疎かにしていたのかもしれない。そんなことでは嫉妬マスターの名に傷が付くというもので、これには、パルスィの忘れかけていた乙女心にも火が点いたのだった。
「こいしちゃんが、私のことを……」
「うん。すぐ仲直りできるんじゃないの。次会ったら却って、ぱるさん実は好きでしたーっつって抱き付かれたりしてね」
「えっ。ど、どうしよう」
それを聞いた村紗は再びきょとんとした。
「ちゅーすればいいんじゃね?」
「えっ!」
さも当たり前とでもいうように、唇を思い切り尖らせる。
「ちゅー」
パルスィは耳まで真っ赤にして俯いてしまった。照れ屋だった。ぽんぽんと肩を叩かれながら、流されやすい彼女はついうっかり意を固めてしまう。すっかりその気になって立ち上がると、胸の前で拳を握った。
こうして、こいしと仲直りして、あわよくばちゅーまでしてしまおうという随分下心のある作戦が幕を開けた。
* * *
古明地さとりは午後を自室で過ごしていた。大量の書類で散らかった床から、目的の紙一枚を見つけた喜びに浸っていた。喜びすぎて、紅茶に入れる角砂糖を、いつもの四つから五つに増やすという贅沢までしてしまった。
悪いことをしているという自覚はあった。しかしそういえば普段から悪いことばかりしているので、それでやめるほどの可愛げは既になかった。
「これで彼女は私のもの……んふふふふ」
ずるい笑みを浮かべながら、独りで呟く。
さとりは金に物を言わせて、"橋"と呼ばれている、地底と地上を繋いでいる洞窟を是非局直庁から買収しようとしていた。彼女の探していたこの紙は、一応の親機関であるそこからの委任許可状である。
あとはこつこつ貯めた金を送るだけ。無論、橋を管理している水橋パルスィの許可は取っていない。拒否権を与えない。いきなりこの紙を見せて脅かしてやるのだ。そしてさらにこう言ってやる、「お前は既にペットになっている」と。
ニヤニヤしていたところ、ふと気配を感じた。部屋の扉が二度叩かれる。さとりさまーと呼ぶ心の声。燐がわざわざ三階のこの部屋まで来たらしい。珍しいことだった。
「どうぞ」
金属音の後、扉の奥から現れた燐は、部屋があまりに散らかっているからと一瞬絶句していた。さとりは少し恥ずかしくなったが、そのためのペットであると思い直す。後で燐に片付けさせてしまおうと、わざとニヤけた顔を見せておく。
「どうかしたの?」
「はい。こいし様がお帰りに……」
さとりの肩が喜びに上がる。
「……なられまして。それでさとり様にお話があるとかないとかで、応接間で待っているそうです」
「すぐに行くわ」
必要な書類を集めて、机の上に投げ置く。可愛い妹が久しぶりに帰ってきたのだ、舞い上がるのも無理はなかった。ペットは大事だが、妹とは比べ物にならない。
今日はいい日だと、さとりは鼻歌を歌いながら部屋を後にした。
* * *
こいしとパルスィが仲よくなったのは最近だが、その仲よくなり方が急速だった。無意識を操る妖怪であるこいしは、その能力ゆえ誰に目にも止まらない。そのはずなのに、パルスィはいつでも、気付けば彼女の手を掴んでいた。パルスィ自身、なぜそんなことができるのか分からない。しかしこいし本人によれば、パルスィの前を通るとだいたい七割ぐらい捕まっているそうだから、偶然ではなさそうだった。
パルスィはお詫びの印として、こいしにプレゼントをすることを目論んだ。村紗を誘って、旧都の一角にある商店街へと歩を進める。村紗を誘ってしまってはよくないかもしれないが、それを咎める者は誰もいない。パルスィは今少し冷静な判断力を失っていた。片や村紗も、パルスィとデートがしたくて仕方のない様子であったから、同じく冷静な突っ込みなど入れられるはずもなかった。
パルスィは立ち並ぶ商店を見回りながら、こいしの喜びそうな品を探した。可愛らしく装飾された洋菓子か、彼女の両腕に余りそうなほど大きなぬいぐるみか、大人っぽくお洒落なインテリアか、この際自分にリボンを巻くか。一通り回ってみても、パルスィはこれというひとつに決めることができなかった。
こいしの笑顔を思い出す。いつでも何を見ても笑っている彼女が、特別好きなものとは何だろうか。考えてみるがどれもしっくりこない。
「ねぇ村紗。ぬいぐるみと小物入れだったら、どっちがいいと思う?」
雑貨屋の棚を見ながら、頼みの村紗に尋ねる。返事はなかった。慌てて振り返ると、彼女は向かいの棚に飾ってあるボトルシップに夢中で目を輝かせていた。
小瓶のなかの船が、水もないのに、まるで宙を泳いでいるように浮かんでいる不思議な置物。「魔法の船」との札が付いているから、小洒落た魔法使いが作った代物なのかもしれない。
「パルスィこれ買って」
「嫌」
こいしのために買い物しているというのに。こいつは他人事だと思って、のんきに観光気分だった。しかもついこの間までここに住んでいたくせにである。
「えーだってカッコいいよ? 可愛いよ? カッコ可愛いよ? ガレー船だよガレー船。鋼鉄の咆哮だよ。おーしっぷこまんだーだよ」
「あー私何でこいつを誘っちゃったんだろう」
だんだん冷静さを取り戻していく頭を、パルスィは手で押さえる。村紗がにへらと笑うのがまた気に食わなかった。
「しかも浮いてんだよ!!」
「そこ力説されてもね。あんたに物買うために来てるわけじゃないんだから」
「いいじゃん、せっかくのデートでしょ!」
「ちょおま、何てこと言うのよっ」
興奮しているのか、彼女の声がどんどん大きくなっていった。パルスィの顔がぼっと紅くなっていく様子に気付きもせず、村紗はうるさく迫った。まるで駄々っ子だ。尤も、何を言ったところで声が小さくなることは絶対にない。
「いいじゃんーふーねー。デート代だと思ってさ」
「うるさい、デートじゃない」
「あっ、パルスィあれは?」
何が視界に入ったのか、彼女は急に店内の奥を指差した。雑多な小道具が並ぶ横、一際カラフルな一角へ、左手にボトルシップを持ったまま駆け寄って、ハート形の枕を引っ張り出す。
「YES」
そして、枕にでかでかと書かれた文字を音読した。
「また碌でもないもの見つけ、て……」
答えながらパルスィは、このパステルピンクの枕を抱きしめるこいしを想像した。小さな体をめいっぱい使って枕を抱きしめ、僅かに頬を染めながらも無邪気に微笑みかける姿。そして彼女はパルスィに向かってこう囁くのだ。「あのねぱるさん、眠れないから、今日は一緒に寝よう?」。
「……うむ」
パルスィは深く頷いた。
「あぁ何か納得しやがったなこいつ。帰ってこーい」
「失礼ね。ちゃんとNOも一緒に渡すわよ」
「ごめん勧めといて難だけど、そういう問題じゃない気がします」
パルスィはこいしのこととなるとやはり平静さを失うのだった。ただ単に興奮するだけともいう。
「こっちの文字が付いてないほうにしておけ」
親切にも交換して見せられ、パルスィは渋々納得した。挙句、そもそも今回は謝るための品を探しているのだから、あまり冗談みたいなことをしてはいけないんだぞと言われてしまった。どの口がほざくのか。
村紗の腕のなかには、桃色と青色のペアになっている、ハート形の小さな枕。自分が見つけていないのが悔しいが、こいしが好きそうと自信を持って言えるのはこれぐらいのものだった。いやしかし、それでこそ村紗を連れてきたかいがあったというもの。
「大義であった」
ここは素直に褒めておく。
「でしょ? だから船買って」
奴はちゃっかりしていた。
はぁ。パルスィは短く溜息を吐く。村紗から枕をひとつづつ手渡されると、彼女の手に残ったのは、世にも不思議なボトルシップただひとつになる。
船幽霊の村紗は、やはり船が大好きらしい。パルスィは少しだけ考えた。考えてやらないこともなかった。
どれだけ欲しいのかと、村紗の目を見つめた。やたらめったらキラキラしていて澄んだ瞳だった。妬ましいと思わず呟きそうになる。昔こそ、彼女の瞳が自分とよく似た惨めなものだと、パルスィは思っていたのに。いつしか、いや、聖とやらを助けてからというもの、彼女は変わってしまった。たったひとつの切欠それだけで、これほど見違えるものなのか、今の村紗は幸せそのものだった。悪夢の船幽霊として恐れられていた、孤独な彼女はもういない。
だが実はパルスィは、口でいくら妬ましい妬ましいと言いつつも、本当のところはあまり妬ましくなかった。幸せそうな村紗を見ると、パルスィも不思議と嬉しいのだ。ゆえにいくら妬もうとしても、この幸せそうな笑顔を、崩すようなことはできなかった。
いつのまにか、あんまり妖怪らしくなくなってしまったと、パルスィは嘆息する。こいつと対峙するとなぜかいつも、人間に戻ってしまったかのような気持になる。
「……わかった、買ってあげる」
「よっしゃーパルスィ優すぃ! 愛してる! 結婚しよう!」
「うっさい、無意味に甘いセリフを吐くなっつうの」
商品を買って店を出るまで、パルスィは耳まで真っ赤だった。知ってか知らずか、村紗は無邪気に喜んでいた。
* * *
さとりの長年の悩みは、今まさに解消されたところだった。彼女の表情は、まるで妹がくっついてなんかいないとでも言うように涼しく、彼女の目線は、まるで本に釘付けであるかのように手元を向いている。言わずもがな実際は全く反対で、さとりは今すぐこいしを抱き締めたかった。確かに今まで仲の悪かった妹が突然横からぴたりくっついて離れなくなったのだから、姉としては抱き返してあげるほうが自然なのかもしれない。だが、しかし妹と触れ合うことを忘れて久しい彼女には、それは却って難しかった。
第三の目を閉じてから、こいしは姉に冷たかった。食事も一緒に摂らない、遊びに誘っても乗ってきてくれない、そもそも家にいない、いても見向きもしてくれない。
しかしつい最近一度だけ、彼女から遊びに誘われた。パルスィに会わされて、三人で昼食を食べた。こいしは幸せそうだった。パルスィもこいしを気に入ってくれていたようで、とても感謝した。その日は長年生きてきたなかで最高の日だった。
それからさとりは妹の笑顔を見る機会が増えた。その極めつけが今日である。何百年ぶりなのか分からないが妹が甘えてきた。嬉しくないはずがなかった。なのにさとりは、ここに来て身体が動かなくなった。
あまりに姉が反応しないからか、こいしは飽きてきたようにきょろきょろと周りを見始めた。地霊殿のある大きな一室。低い硝子の机の周りに、古傷の多いソファがいくつか並べられているだけの、簡素なインテリア。窓から入ってくる光以外には灯りさがなくて薄暗く、普段はよく猫の遊び場になっているが、なぜか今日彼らは留守のようだった。
「お姉ちゃん……」
停滞している空気に耐えられなくなったらしく、こいしは渋々といったように重々しく口を開いた。
「何ですか」
「キスしよ」
本が床まで転がり落ちていった。
「あはは。動揺してる」
「してません。ちょっと手が滑っただけだもん」
さとりが頬を膨らませる。
彼女のなかで、忘れていた情景が次々と思い起こされた。本当ならば忘れてしまいたかった光景。地底へと辿り着く前、傷だらけになった幼い妹の姿を。
暫し、見つめ合う。不思議な心地だった。こいしはようやく、にっこりと、久しい笑顔を見せてくれた。妹にあの頃の面影は今やないはずなのに、さとりは今、確かにあの頃の彼女を重ねて見ていた。狭い世界にたったふたり、寂しさ余って幾度も、幾度も唇を重ね合ったあの頃の彼女を見ていた。
いつしか妹は変わっていった。たぶん、いい方向に。第三の目を閉じたことを切欠に、姉妹ふたりだけの世界から抜けだしたこいしには、さとりとの関係は禁忌となってしまった。さとりは、寂しさを紛らわしながらも、妹のためにふたり離れ離れになることを選んだ。
なのに、こいしは今になって、さとりとの禁忌を取り戻そうと言う。おかしなことだった。おかしなことのはずなのに、姉としてたしなめなければならないはずなのに、心のどこかで喜んでしまっていることは、さとりにとって自責すべきことであった。
「何かあったんですか、こいし」
何か悪いことが。
さとりは落ちた本を拾って、元見ていたはずのページを探した。
「お姉ちゃんが、可愛いから」
「っ……」
そう言って、こいしはスカートを摘んでひらひらと泳がせた。嘘くさい言葉と仕草。だが、そんなもので心が動かされるのが分かって、さとりはとても悔しいのだった。もう既に動揺で文字が読めない。
「寂しがりになったね、お姉ちゃん」
こいしが呟くたび、さとりの胸が痛んだ。
「そう見えますか」
「うん。妹をそんな目で見るなんて、欲求不満が過ぎるよ」
「違うってば」
目を合わせられない。
本当は全て、こいしの言う通りだった。甘やかすつもりが、自分が甘えてしまっていたのかもしれない。在りし日孤独に怯えるこいしを慰め続けるうちに。いつしかこいしと肌を重ね合うのが日常になっていくうちに。
妹がある日突然変わってしまったことで、さとりの慰みが失われてしまったのでは何の意味もない堂々巡りだ。まして妹を助けるという名目ながら、彼女の傷を舐めることで自らの心を癒していたのでは、さとりは嘘つきである。
「いいんだよ、触っても」
か細い太股をきゅっと締めるように力を入れて。こいしが上目遣いに囁く。
「昔みたいに可愛く鳴けるかは、分かんないけど」
「こいし」
まったく、どこで、そんな仕草を覚えてきたのか。
嘆息しながら、だがこいしの真似をするように、自然とさとりの肢体にも力が入っていた。
これ以上の我慢なんて、できそうになかった。
さとりはせっかく拾った本をほとんど投げ捨てるように、側らの硝子テーブルへと置いた。そして隣でもじもじと縮こまるこいしに、そっと唇を重ねる。
そのまま、妹を大きなソファへ押し倒した。彼女の唇をキスでこじ開けて、舌をねじ込み、貪る。苦しそうな声が漏れたのも意に介さず、さらに右手で服のボタンを乱暴に外していく。両の腕で妹を抱きかかえ、唇から首筋、鎖骨まで舌を這わせる。ほとんど、獣の如く、妹の素肌を舐め回していく。
もう一度唇にキスをする。湿った音がする。唇を離す。糸を引く。はだけた服を脱がしていく。あまり膨らんでいない乳房が露になる。妹の吐息が漏れる。愛おしい。胸に抱き付く。抱き締める。もう離したくない。
「お姉ちゃん……」
「貴方が甘えるのが、いけないんですからね」
荒い息をかけ合うように。
「私なんかに、甘えたのが」
途切れ途切れに呟きながら、妹の内股から、スカートへ手をかけたときだった。
部屋のドアが派手な音を立てて開き、向こうから燐がやたら機嫌よく飛び出してきたのだ。
「さっとりっさまっ、お客様がいらし、て……」
その歌うような声はあっという間に止まる。彼女の前には今、服の乱れた妹にのしかかって手をかけようとする主人の姿があったのだから、当然の反応であった。
「……」
さとりは興が削がれたというように、呆れ顔でゆっくり起き上がった。尤もその内心は緊張していた。一方こいしは慌ててはだけた服を直している。相対する燐はといえばすっかり硬直して、直立不動の有様である。
「すぐ行きますと、伝えておいて」
緊張する心臓を宥めるように、さとりはできるだけ淡々と冷静に告げた。
「え。あっ、で、でもその」
夢うつつのようにぼうっと上気したまま、燐はあたふたと答える。
「その必要は、ない、かなぁって……」
燐の心のなかに、特徴的な人影。
苦笑する彼女の後ろを覗き込むと、そこには見知った長い耳があって……さとりはいよいよ、血の気が引く思いがした。
一番見られたくない人に、禁忌を見られてしまった。
* * *
「すみませんね、驚かせて」
さとりはなるべく内心を隠して、そっけなくして言った。
「驚いたわ」
パルスィの心のなかは、思ったよりずっと穏やかだった。驚いているようには全然見えない。あんな姿を見せたというのに、彼女も案外したたかなものだった。いつもと同じ嫉妬の防御。その奥の幻滅も嫌悪も見えない。いつ覗き見たって嫉妬、嫉妬、嫉妬。ちっとも動じてくれない。
「いつも……その、あんなことしてるの?」
問うパルスィの中で、あのときのさとりたちの姿が想起されていた。さとりから思わず呻き声が漏れた。あれだけ平静でない自分を客観視させられるのは、堪えるものがある。どれだけのことをしてしまったのか、まざまざと思い知らされるようだった。
ああいけない、とパルスィは想起を掻き消そうと首を振る。さとりから見れば無駄な努力だが、そうしてまだ優しくしてくれるのは嬉しかった。
「いけませんか」
なのに、わざと、怒った振りをして声を低めた。こうなるとパルスィは意外と気が弱いらしく、畏縮したように一歩たじろいだ。
「いけないってことはないけど……」
言いながら、強いて言えばイケナイことかなぁ、と彼女は心の中でよく分からないことを続けた。聞かなかったことにした。
「大丈夫。久しぶりですから」
「何が大丈夫なのよ……」
さとりは、んふふと急に笑った。
「あの子が求めるんだもの。無碍になんてできないです」
パルスィを二階のテラスへと誘う。床、丸椅子、丸テーブル、それに手すりが同じ木目の素材で出来ている、お気に入りの休憩場所。旧都の北西側が一望できる。
いつもなら燐に紅茶でも出させるところだったが、今日は状況が状況だから、生憎であった。彼女はたぶんまだ硬直している。パルスィを椅子に座らせてから、さとりも正面に座る。
今こいしちゃんはどうしているだろうかとふとした疑問を呈しつつ、閑話休題であると、パルスィは心のなかで切り出した。
「なるほど、妹へのお詫びにプレゼントですか。そこにあるのがそうですか?」
「うん、そんなところ。いやぁ、ね、あの子を怒らせたのなんて初めてだから、おっかなくなっちゃって」
パルスィの心を読む限り、どうやらこいしは嫉妬していたらしい。あの妹にそんな気持が残っていたとは、驚きのことだった。嫉妬は己の惨めさを浮き彫りにする。なるほど、だからこいしは、姉を求めたのか。
「あのさ、聞いてよ、こいしちゃんったら酷いのよ。この孤高のロンリーウルフ水橋に向かって、あの子何て言ったと思う? ジゴロよ? ジゴロ。わざわざ仏語を引っ張り出してgigoloよ?」
パルスィがいきなり早口になる。村紗より、彼女の感情の起伏のほうが読みにくい。
「紐ですか?」
「縄になりたいものね。頑丈だし」
適当なことをいうものだと思う。
「あっ、それはいいんだけどね。これ、こいしちゃんに渡してほしいの」
たどたどしく差し出された可愛い包装紙。やたら大きい箱を包んでいるが、非力なパルスィが軽々持ち上げているから、どっしりしたものではなさそうだ。
「分かりました。変なものが出てきたら殺します」
「うわ、物騒」
言って何気なく、さとりはにっこり微笑んだ。そのとき、不意に、パルスィの心が震えた。顔には、微塵も出さない。さとりはその一瞬こそ見逃さなかったものの、本意は掴めなかった。
彼女の心が読みにくかったのは、さとりの能力をあしらうように、意図的に心を沈めているからのようだった。この橋姫も、さとりの扱いにも随分慣れたものだった、以前はとても不安定だったのに。
ただ、こいしが好きという思いだけが、隠しきれずに伝わった。そういうところが彼女のずるいところだと、さとりは思うのだった。
「パルスィ」
「それじゃもう帰るわ。こいしちゃんに、ごめんねって伝えておいて」
パルスィは椅子の足を鳴らしながらさっさと立ち上がって、足早に廊下へ消えていく。さとりはなまじパルスィの気持が分かりすぎて、それ以上言葉を紡げなかった。そうして独り跡に残された。
* * *
「あぁ~……」
今朝から橋じゅうに、どすの利いた声が響き続けている。呻きのような溜息のような鵺のような声だった。
心は空虚。嫉妬の殻のなかが、ごっそり腐って流れ出て、跡には空洞のみが残る。昨夜はベッドで泣いた。泣き疲れて眠るまでずっと泣いていた。やっぱり、私なんかでは駄目なのか、と自問もした。無論答は出やしない。今やパルスィは気持のやり場に困ってしまい、力なく洞窟の壁にもたれかかることしかできない。
「あぁ~あ……」
もう何度吐いたか分からないこの声が、ようやく人の耳に届いたのは、昼もぼちぼち過ぎようとしていた頃だった。
「落ち込んでんね。ついに振られたのかー?」
「うっさいわね」
村紗である。ゲラゲラ笑っているふうにも見えるが、なんだかんだで成り行きを心配しているらしい。どういう意味かは分からないが、パルスィの隣に座って、肩をポンポンと叩いてくる。
「あんたには分からないわよ」
誰とでも好きに遊べるあんたに、私の気持なんてと。パルスィはわざと悪態をついた。村紗は一瞬きょとんとした後、むっとしたように口を尖らせた。
本当は分かっているのだ。こいしに好かれていたことを。そして、彼女の寂しさが嫉妬を生み、愛情を壊してしまったことを。パルスィだってかつては、気が触れるほどの孤独を味わってきた。彼女らの気持は、痛いほどよく分かるのだ。ただあの秘密の出来事は、パルスィにとって経験できなかったものだ。あれを見た瞬間パルスィのなかで、大切に育ててきた心の芽は急速に腐って、爛れ落ちた。姉妹を理解するより先に、獣のごとく本能的に、怨んでしまった。妬んでしまった。笑顔を向けてくれるこいしを、気付かないまま振り回してしまった。挙句、淑寂のなか愛情を求め続けた彼女を、あろうことか怨んでしまった。それが悔しかった。許される余地がどこにあろう。
人間らしいとも妖怪らしいともつかぬこの苦しさは、パルスィにしか分からない。ましていくら長い付き合いであろうとも、村紗のような爽やか系モテモテ女には、一生かかったって分かられてたまるかという気さえする。彼女は人に好かれる。性根が真っ直ぐで人を裏切らない。ただ真っ直ぐ過ぎるせいで機転が利かないから、間違いを犯しがちなだけだ。よく分かっているのだが。
「過ぎてしまったことは仕方ないわ。私はあの子に嫌われた」
私は村紗とは違う、というように強がって、言葉を吐き捨てた。これには村紗も目を丸くして、しまったという顔をする。事の重大さにようやく気が付いたらしい。
「う、うそん。まじで? あんなに仲良かったのに?」
黙って首を振り答えると、村紗は引き攣った笑みのまま、凍ったようにしばらく静止した。真っ白く綺麗な肌も、頬にしわができて台なしだった。
大方自分のせいでとでも思っているのだろう。普段どうでもいいことばかりべらべら喋るくせ、肝心なことになるほど寡黙なのが彼女だった。だがパルスィなら、長年連れ添っているから考えていることは大体分かる。
「そんな顔しなくていいよ。あんたが悪いわけじゃない」
「でも……」
「仕方ないよ、あれは」
パルスィは笑って見せた。意せずして乾いた笑いだった。
* * *
その日、村紗は一人で旧都に赴いて、何やら色々買い込んだり遊んだりしたらしく、随分経ってから帰って行った。パルスィが聞けば、冬のためだと言われた。冬眠でもするのかとさらに尋ねると、冬眠する生き物と住んでいると答える。そういえば、さとりも似たようなことを言って、毛布を買い込んでいた。確か、そのときにひとつ裾分けしてくれたのが家にあるのだった。
次の日、橋では風が強かった。さとりのくれた毛布を引っ張り出してきて、包まって過ごした。特に誰かが通る様子はなかった。その次の日もだった。この日は随分懐かしい心地がした。この橋で孤独を感じるのはこれで三度目である。最初は地底に住み始めた頃、次は村紗たち仏教組が地上から出ていってすぐ、そして、三度目は古明地姉妹と決裂した今。
たった三日、まだたった三日間しか経っていないのに、寂しさは膨れ上がるばかりであった。村紗が旅立ったときですら六百日近く、地底に落ちたときは百年ほども耐えられたのだが。それだけパルスィのなかで、古明地姉妹のための比重が増えていたのか。あるいは、決裂に納得がいっていないからか。
かといって、彼女に何ができるわけでもなかった。こいしからの答えはまだ返ってこないし、もうきっと返ってこないのだろうと思った。
「……誰か来ないかな」
どうしてこうなってしまうのだろう、と半ば自棄になったとき。
不意に、天からパルスィに向けて夕陽が差した。目が眩んで、背を向けるように振り返ると、そこに見知った人影が立っている。ぼんやりと浮かぶような、小さいシルエット。ハートが鷲掴みにされたような、不思議な心地がした。
「見つかっちゃった」
台詞の割に落ち着いた声が、洞窟内に反響した。今まで気が付かなかったのが不思議なほど堂々と、彼女はそこにいた。
ずっとそこにいたのだ。
* * *
パルスィとこいしが壁際に座りこんでいた。間にはなぜか、村紗に渡したはずのボトルシップがぽんと置かれている。これが一体どういう経緯でこいしの手に渡ったのか知れない。パルスィはありがたいような、後ろめたいような、寂しいような、複雑な気持になった。
「わたし誤解してたよ」
こいしは空中をぽかんと見上げていた。
「誤解?」
「ぱるさんは、誰にでも優しいのね」
「はぁ?」
誤解していたと前置しながら、ひどく失敬なことを言うものだった。
彼女が横目でパルスィを見る。大きくてまん丸い瞳。まるで硝子玉のように曇りなく綺麗だ。
「わたしだけに優しいんだと思ってた」
「ふ、ふーん、そりゃまた盛大な勘違いね」
「や、正しくは、さとりだけ、かな」
彼女は穏やかな調子でしゃべり続けた。しかしパルスィには、どこか不機嫌のようにも思えた。
「あれね、わたしから誘ったんだ」
あれとだけ、こいしは告白した。何を指しているかは明らかだ。
「そっか」
大方、パルスィにも予想は付いていた。こいしのなかで、心が勝手に嫉妬して、嫉妬して嫉妬して、それが寂しさを誘発した。爆発しそうな人恋しさを、一番身近な人にぶつけてしまった。
「好きなんだー。お姉ちゃんのこと」
「そっか」
笑顔が何となく空虚な、彼女はさらにこう続ける。
「びっくりしたでしょ。でもね、わたしたちにとっては普通のことなんだ、あれ。この目を閉じる前は、わたしたちってホントに二人きりだったの。ごはん食べるのも、家を造るのも服を作るのも、何をするのにも二人でしなくちゃいけなかったし、他に誰の手も借りられなかった。だから、もちろん、外で傷付いた心を慰めることだってそうだし、寂しいときには、」
「こいしちゃん」
パルスィは、こいしの言葉をを途中で遮るように、しかしできるだけ優しく名前を呼んだ。思わず、こいしの膝に置かれた左手を握る。あまりにも小さいその手を取りながら、パルスィはこいしの顔を見つめた。彼女の視線が、遠慮がちな上目遣いでパルスィを見上げた。
「怒ってる?」
パルスィは答えなかった。ただ心のなかで、どうしようもなく己を恥じていた。
「ぱるさん。わたしね、ぱるさんのこと好きだったんだよ」
そうやって彼女のたった一言が、いつもふとした瞬間パルスィを突き刺すのだった。言い知れない胸の痛みは再びパルスィを襲った。普段は宙を舞っているようなこいしの思考回路も、今ならば手に取るように分かった。
村紗に、姉に、パルスィに、パルスィを取り巻く全ての人に、こいしは嫉妬していた。たぶんずっと前から、こいしは嫉妬していた。だから、嫉妬心だけ読めるパルスィは、無意識に漂う彼女にいつでも気付くことができた。こうして会話をすることもできた。
その嫉妬心が、今はもうなかった。
「じゃあ、―――――」
「待って」
立ち去ろうとするこいしの袖を、パルスィはほとんど無意識に掴んでいた。こいしは何も言わずに立ち止まった。目の前でスカートが少しだけふわりと浮かんだ。
はて、パルスィは、何を言おうとしたのだったか分からなくなってしまった。こいしの後姿を見ながら、何か言おうと口をぱくぱくさせるが言葉が出てこない。パルスィは心のなかで自問した。こいしのことが本当に好きかと。この期に及んで答が分からない。好きなんて感情は、今や嫉妬に隠れて見えない。
ただ、引き止めたいだけだった。このまま別れてしまいたくなかった。ここで彼女を見失ったら、二度と会えないような気がした。
「……そのボトルシップね、恋の魔法がかかってるんだって」
「え?」
どうしたことか、こいしの歩はそれ以上進まなかった。
パルスィが村紗に渡したはずのボトルシップ。魔法の船と銘打たれていたが、果たして恋の船だなんて銘打たれていただろうか。パルスィの記憶では、雑貨屋に値札と共にただ置かれていただけのはずだ。
「二人きりになって瓶を開けると、恋が叶うんだよ」
一体誰がそんなことを言うのかと少しだけ考えて、一人しかいないことに気が付いた。馬鹿げた占いだと、パルスィは思わず頬を緩ませた。そんな簡単に恋が成就するものか。瓶を開けてしまったら、船を浮かせている魔法が解けてしまうだけではないのか。それともそれでいいのか。船幽霊だからそれでいいのか。あいつの考えることはときどき突拍子がない。
だが、おかげで助かったのが事実だった。
「……そうなの、じゃあ開けてみる?」
こいしはゆっくり振り返った。少し、意外そうな顔をしていた。パルスィは掴んでいた手をそっと離して、相変わらず地面の上を泳ぐボトルシップを持ち上げた。
「私は橋姫。恋なんてものとは縁遠い存在だわよ。でも、そうね、こいつがそんな私ですら虜にするというのなら試してみましょう」
「無理だよ」
「どうして」
「ぱるさんが好きなのは、わたしじゃないから」
そこまで言って、こいしは自分の第三の目を抱いた。
「そんなの」
パルスィはかっと熱くなって、瓶の蓋に手をかけた。少し力を入れてきゅっと捻るだけで開いてしまうだろう。パルスィは妖怪なのだ。夢中になって手に力を入れた。すぐに蓋はぐるりと回転して、開口からは魔法が、美しい滝のように零れていった。
ふたりは、魔法が流れ落ちていく様をただじっと見ていた。優しい光の滝は地面へ辿り着く前に、消えてなくなってしまう。そして数秒。それだけで、瓶のなかの立派な船は、コトンと音を立てて沈んだ。僅かな期待に反して魔法は失われた。
やけにあっけなく壊れてしまった。パルスィは失望した。
切ない気持だった。自分は何をやっているのだと。船が沈む瞬間に、色んなことが頭を過ぎった。村紗は、これをこいしに渡すとき一体何て言ったのだろうとか、こいしはプレゼントを受け取ったのだろうかとか、さとりはこの可愛い妹と今までどれだけ気持をぶつけ合ったのだろうとか……疑問の先は、何も想像できなかった。ただ現実が突き刺さるだけだった。まったく、本当に、自分は何をやっているのだ!
心の痛みが止まらない。こいしは何も言わなかった。むしろそれが却って気持を増長させるせいで、パルスィはいよいよ嗚咽を堪える羽目になってしまった。気持ばかり無闇に高まって、涙が溢れた。
「ぱるさん? どうして泣いてるの?」
「……妬ましいのよ」
こういうとき呟くのは、お決まりの台詞だった。
「妬ましい?」
「だって」
パルスィのなかに抑えられていた気持と言葉が、わっと溢れ出る感じがした。
「だって、ずるいじゃない、あんたたちが姉妹だなんて!」
大声で堰を切ったつもりだった。実際は声が震えてあまり出ていなかった。でも、気にしなかった。
「妬ましいの、あんたたちの間にあるものが妬ましい。どんなにつらいときも悲しいときも苦しいときも傍にいて、肩寄せ合って抱き合って。そんなに固く結ばれちゃ、私の入り込む余地なんてないじゃない。あんたたちはそんなに仲がいいのに、私とは少しすれ違っただけでさようならなんてあんまりよ」
「それは、ぱるさんが」
「聞いて、お願い、こいしちゃん。たまにでもいいから私に会いに来てほしいの。来ないって言っても私のほうから会いに行くからね。貴方との関係をここで絶つなんてできないのよ」
寡黙なパルスィの口から、言葉は次々飛び出た。
「私だってねえ、私だって貴方の―――――」
だけど、それまでだった。こいしが泣きそうな顔をしながら見つめていたから、そんなに怖い顔をしているだろうかとパルスィは、そこでようやく冷静になった。
何かしようとすればするほど、泥沼に嵌っている気がした。
「……ごめん、船壊しちゃって」
急に言葉が出なくなって、こいしと、ここにはいない村紗に向かって謝った。自分が惨めたらしくて仕方なく見えた。
「あ、いいよー。嘘吐いたむらさんが悪いのよ」
小首をかしげながらそう言ってこいしは、作ったような笑顔を見せる。内心でどう思っているのか、本当のところはまるで見当が付かない。
「ごめん」
これ以上引き止める言葉もなく、パルスィからは糸を切らしたように力が抜けた。それから二、三の会話をしたが、とうとうこいしは帰ってしまって、洞穴は再び静かになった。
* * *
最近、こいしが地霊殿に帰ってくる頻度が増えた。放浪癖自体は直っちゃいないが、ここのところは毎日帰って、さとりと空と三人で、共に晩ごはんを食している。
さとりは少し、困っていた。あの日のことが忘れられなかった。せっかく広がろうとしていたこいしの世界を、自分が再び閉ざしてしまったように思えた。こいしは甘えんぼうだが、昔のように臆病な子供ではない。むしろ臆病になってしまったのは、紛れもないさとりのほうだった。こいしが自分の手から離れていくのを嫌って、いつまでも我侭に縛り付けている。
「お姉ちゃん」
正面の席、地底アンコウの煮付に箸を刺したまま手を止め、こいしは言った。
「ぱるさんってひょっとして、わたしのことが好きなのかな」
「え?」
さとりの声に反応したように、空が目だけでさとりを見、すぐにこいしを見た。こいしは心が読めない上言うことに突拍子がないから、さとりでさえ予想外のことに思わず素頓狂な声を上げてしまうのも無理はない。空もさぞ驚いたようだ。
「ぱるさんってひょっとして、わたしのことが好きなのかな」
当のこいしだけは、いつもどおりのふわふわとした態度だった。こういうときの彼女はいつも、同じことを綺麗に繰り返して言う。さとりが、聞き取れなくて聞き返したのか、言葉の意味が分からなくて聞き返したのかぐらい、心が読めない妖怪だって察してくれるものだが、この妹はそういかないらしい。
「パルスィが貴方を、ですか。さぁ、聞いたことないですね」
さとりは知らない振りをして、嘘を言った。
「そっか。お姉ちゃんなら知ってると思ったんだけど」
「本人に聞いてみればいいじゃないですか」
そういえば是非局の許可状をどこへやったかなぁと、さとりは別のことを考え始めた。確か燐に片付けさせてしまったから、どこへ仕舞ったか聞き出さなければならない。
「だめ。あの人、ストレートに物を言えない呪いにかかっているのよ。言ってることが全然分かんない」
「じゃあ心を読めばいいわ」
「やめてよ。それでもし嫌われてたりでもしたら、わたし死んじゃうよ」
「死んだら燐の通訳が要りますね」
潔癖な燐は、人に隙を見せることを嫌う。だから料理は作ってくれても、自分が食事するところを、主人のさとりにさえ決して見せない。晩ごはんを作り終えて、今日はもう仕事の時間は終わったから、彼女はきっと明日まで姿を見せてくれないだろう。燐はそういう子だ。だから許可状は自分で探したほうが早そうだった。こんなことなら、食事を始める前に思い出しておきたかった。仕事部屋にある書類の山を思い出すとげんなりする。あのなかから、もう一度目的の紙一枚を探すのは心が折れそうだ。
「聞いてる?」
「聞いてますよ。忙しいお姉ちゃんを使いっ走りにしようっていう話でしょ?」
「さすがお姉ちゃん話が早いね」
いい加減、こいしの機嫌が悪くなってきた。
「報酬はないんですか」
「明日一緒にお風呂入ったげる」
「ほっほーう。それで手を打ちましょう」
「やった」
明日は寝不足になりそうだった。空はよく分かっていないまま、何だか恥ずかしいと心のなかで呟いた後、すぐに「ご馳走様でしたっ」と言って逃げるように退室してしまった。
「あらら。こんな、さとりの館なんぞに住んでいながら……うちのペットはシャイな子が多いわね」
さとりにとっては、空の気持のほうが余程解せなかった。人は誰だって甘えたがるものだ。空だって、もう少し甘えてくれていいものを。
古明地さとりはパルスィが好きだった。パルスィは天邪鬼で嘘つきな奴だが、心を読めるさとりには意味がないどころか、言葉と内心とのギャップがむしろ面白くさえ思えた。まして彼女も分かった上でそれでも強がっている、というのがまた可愛くて仕方なかった。
しかし、そのパルスィがこいしと仲よくなっていることを知ったとき、さとりはあまりいい顔ができなかった。それからというものずっともやもやとした感覚が身体を支配していたのだが、最近こいしがやけに甘えてくるようになって、ようやくその正体が嫉妬だと気付いた。
妹が自分の手を離れていくのが惜しいと思ってしまっていた。妹をこの手で支配しておきたいという邪な願望を、さとりはずっと抱いていたのだ。パルスィから預かったこいしへのプレゼントをまだ渡していないのも、そのせいだ。
愛しいこいしは目前で魚を口に含めている。咥えたフォークを滑らす唇が、あまりにも可愛かった。さとりはじっと彼女を見つめていた。キスがしたいと思った。テーブルが大きいので手を伸ばしても届かないが、回りこめばいくらだって近付ける。もしかすると今なら抵抗されないかもしれない。言いなりになってくれるかもしれない。だからいっそお風呂だなんてちゃちなことを言わず、今すぐここで服を破り捨て、自分のためだけに鳴かせてやりたかった。何とかまだ自分だけのものである妹の綺麗な裸に、一生消えない傷を付けてやりたかった。
尤も今のさとりでは、そんなことなどとてもできなかった。こいしは姉妹二人だけの世界をとうに抜けだしてしまった。彼女が見ている人は、目の前にいる姉を、通り越したその先にある。さとりが今からどれだけ妹を独占しようとしても、それは妹の視線を無理矢理遮ることにしかならない。それでは己の欲望を妹に押し付けるだけだ。
「ごちそーさま。結果楽しみにしてるね」
言うが早いか皿の上にフォークを投げ捨てて、こいしはさっさと立ち去っていった。さとりの食指はやはり動かないままだった。
それも仕方ないかと。さとりの心に少しだけ、安心する自分がいた。
* * *
明けない夜というものは広い世の中にもなかなかないもので、パルスィは地上からまっすぐに射す白い陽光を浴びていた。朝の空気が肌に冷たく纏わり付くのが、ひどく気持悪く思った。
傍らには、湧き水によってできた小さな泉がある。温泉と呼ぶには微温く、冷水と呼ぶのも忍びない、中途半端な湧き水だ。パルスィはふと、密閉し直したボトルシップをそこに浮かせてみた。瓶は水に浮いたけれども、無論瓶のなかの船はもう宙に浮くことはない。まるで様にならない姿だった。
村紗の奴め、しょうもない嘘を吹き込んだものだ。こいしちゃんどころか、私までぬか喜びをさせて。パルスィはいつものように、誰にともなく毒づいた。
奴は気を使っていたつもりなのだろうが。普段から大雑把な性格からか他人の微妙な心情にはとことん疎く、頭を使おうとすると大抵碌なことにならない。以前鵺が愚痴を溢していたことだが、奴は数百年来の仲である彼女から慕われていることに、未だ気付いていないなんていうたまげた鈍感ぶりなのだ。むしろ鵺と一輪とが仲良しだと思っているらしくて、よく要らぬお節介をかけようとしているらしい。
そんな奴の謀略なんて高が知れている。奴はもっと素直でいいのに。
「何が、恋の魔法よ。バカバカしい」
「パルスィ」
ぼそぼそと小言を呟いているところに、度胸の無さそうな細い声が割り込んだ。振り返れば、さとりであった。パルスィの両肩が固まるように力んだ。
「……あによ。笑いに来たの?」
「いえ、気持を探りに来たんですが、探るまでもなかったのでもういいです。それじゃ」
「って、なにそのウザいの! 待ちなさいよ!」
今更探られる気持などありはしないと言いたいところだったが、さとりに嘘は吐けない。パルスィは逃げようとする幼女の手を掴んだ。既視感を覚える流れだった。
「冗談です」
振り返って、さとりはまるで天使のように微笑んだ。そのときパルスィの肩は凄く脱力した。安心したのかもしれない。手を離し、適当なところに座り込んで、さとりの顔を見上げた。
彼女は普段悪戯好きで意地の悪い奴だが、今日は優しい顔をしていた。こういうときだけは可愛くて、どうにも憎めない。
「ありがとうございます。本当はね、ちょっと聞きたいことがあったんです」
言いながらパルスィの前へ淑やかに座って、ずいずい顔を近づけてくる。何がありがとうございます、だ。パルスィは恥じらいを覚えて少し、たじろいだ。そのまま数秒、じっと見つめ合っていた。まるで意味が分からない。たださとりが黙って見つめるものだから、他にどうしようもなく見つめ返すことしかできなかっただけだ。
「こいしへのプレゼント」
息がかかりそうな距離で、不意に囁かれる。
「あれ、どういう意味なんです?」
たぶん枕のことを言っているのだろうが、パルスィは何も答えられなかった。今はもう、何の意味もなくなってしまったからだ。あのときは後ろめたさとかけじめとか、もしかしたら下心もあったかもしれないが、そんなものはボトルシップが流して消えてしまったのだ。もうパルスィとこいしの間には何も残ってはいない。
「そうですか」
そんな心を隅々まで読んだのか、さとりは表情を消して呟いた。
「貴方の心は嫉妬心で塗り固められていますがね。未練がましーく尾を引くように」
「なっ」
「本当は今でも、好きで好きで堪らないくせに」
ようやく顔を引き離したら、さとりは唇に指を当て再び微笑んだ。
「素敵ですよ、パルスィ。貴方は本当に可愛い。照れ屋で臆病な心を必死で隠そうとする姿」
「な、何を言っているのかさーっぱり分からないわね」
「尤も一番可愛いのは、うちの妹ですけどね」
元気付けたいのか追い込みたいのか。どちらにしろパルスィは苛立ったので、とりあえず、このシスコンめと心のなかで毒づいておいた。
「それです」
「はぁ?」
ところがさとりときたらこれだ。人の心を読むだけ読んだら、あとは自分一人で結論付けてしまうからいけない。こうして一緒に話しているパルスィにとってみればとんだ意味不明だ。指を差してそれとだけ言われても、人差し指を酷使するなあとしか思えない。
「さて貴方は今なぜ苛立ったのか」
「あんたが要領を得ないからでしょ」
さとりの人差し指が、今度は上向きに揺れた。
「のんのん。なんせんすですよパルスィ。だって貴方は全て理解しているじゃないですか。私は褒めて元気付けた直後に妹自慢で追い込んだんです」
「それをする意味が分からないって言ってるんだけど」
「じゃー聞き方を変えますが、貴方はなぜ、妹自慢をされたぐらいで追い込まれてしまったのか」
「ん」
パルスィの眉間に皺が一本できた。考えながらさとりの顔をじっと見ると、だんだんいつものニヤニヤとした悪戯な笑顔になっていった。何回見ても腹が立つ顔だった。だいたいこいつは人の話を聞かない。本人は心を読む能力のせいで嫌われているのだと思っているようだが、パルスィはそう思わない。この勝手な性格のせいで嫌われているに違いないのだ。
だがここまで説明されれば言っていることは意外と全うで、納得できるところがあった。納得できるゆえに悔しかったが、黙っておいた。
パルスィは、やっぱり、今でもこいしが好きだった。
「……私、」
「ところでおべんと持ってきたんですよ。もう朝食べました?」
座っているのに、思わず転びそうになった。人に尋ねておいて答えを聞かないのか。
「せっかくですから一緒に食べませんか」
さとりは五重塔みたいになっている弁当箱を、本当にせっせと広げ出した。家がでかい奴は弁当もでかい。やっとのことで大方を敷き終わると、あっという間に夢中になって、箸を取り出すや否や黙々とタコさんウインナーを啄み始めた。こうなったさとりは心の声すら聞こえないことをパルスィは知っているので、思慮をやめ素直に箸を受け取った。
いくつか他愛もない話を聞いた。この弁当は燐が作っているとか、ペットが大きくなってくるとそっけなくて寂しいとか、今度どこどこで洋服を買ってあげるだとか、近々土蜘蛛を飼いたいと思っているとか、あ、そうそうこの間村紗が遊びに来たんですよとか。家族の話ばかりするくせ、妹の話だけをしなかった。
パルスィがこいしの話を切り出したのは、彼女が焼き餃子を嗜んでいたときだった。彼女はちょっと待ってというように手のひらを突き出してから、餃子を飲み込んで、こう言った。
「気になります?」
さらに例のウザい笑顔をした。
「ちょっとね」
「最近、よく甘えてくるようになりました。凄く可愛いんですよ」
促しておきながら、いざ聞くとパルスィの表情は曇った。
パルスィは妬んでいた。さとりがこいしの姉であるという事実を。嫉妬に駆られた橋姫がいくら喧嘩を売ったところで、こいしの傍にさとりがいるという事実は変わらない。こいしがどれだけ我侭を言ったって、さとりの愛情がなくなることはない。もしさとりがどれだけ妹に嫌われようとも、こいしが妹でなくなることはない。たとえどんな家族であろうとも、血の繋がりを断つことは決してできない。その重みは橋姫の執念よりも強い絆だ。
パルスィには、そんな人がもういない。こいしの家族になりたかった。
そんな心の内を読んでおきながら、さとりは何も言わないで鰤の刺身を頬張っていた。マイペースだった。何か言ってほしかった。
「んー」
仕方がないから念波を送ってみると、さとりは食べ物を噛みながら、今度は箸を持っていない左手の人差し指を口元に当てて、何やら考え出した。わざととぼけているのだろうかどうなのか、判断に迷った。
「えと、パルスィは、こいしのお姉ちゃんになりたいんですか?」
さとりはいきなり表情を殺して、じっとパルスィを見た。こういうとき彼女の質問は怖い。余計なことまで探られてしまう。
「……そうね」
「えへへ」
だからなるべく思慮浅く答えたのだが、なぜか彼女は急に微笑み出した。
「何よ」
「プロポーズですよね」
「は?」
寒い沈黙が二人の間を過ぎった。
さとりの目が三つ、揃ってパルスィを見ていた。彼女は落ち着かない様子で箸を弄びながら、はにかんで息を漏らした。
パルスィは焦った。確かにさとりと結婚でもすれば、こいしは晴れてパルスィの妹ということになるが、言いたかったのはそういうことじゃない。姉になりたいとは言ったが比喩に決まっている。別に、本当にそんな関係へとなることができるだなんて思っていない。それにただ姉になればいいという問題でもない。却って余計に話がややこしくなる気がする。
「私、パルスィとならいいですよ」
「ちょっ、え!?」
なぜか本当に結婚させられそうな流れだった。パルスィはさらに焦った。殊更拒否する理由もないのが余計に困った。むしろちょっと悪くないかもと思った。
さとりはもじもじとパルスィの様子を窺っている。恐らく悪くないかもと言った心の声が聞こえたのだろう、あっという間に言い逃れできなくなった。
「あっ、でも」
けれども思い出したように。
「パルスィを取っちゃったら、こいしは嫉妬しちゃいますね」
言って彼女は少し寂しそうな顔をした。
パルスィはそれではっとした。自分は何も反省していなかったことに気付いた。嫉妬に駆られてパルスィを罵ったこいしの顔を、よく思い出してみる。
ある意味、彼女はこいしの期待を裏切ったのだった。こいしは姉でなく他の誰でもない、パルスィの愛情を求めていたのに。こいしはずっと嫉妬心のサインを出して、パルスィの気を引こうとしていたのに。気付けば寂しい思いをさせていた。やがて彼女の嫉妬心も燃え尽きて、嫌われてしまうという結果だけが残った。こいしは悲しみに任せて、最も安心させてくれる人の元へと逃げ込んでいった。パルスィがそうさせたのだ。
読んださとりはその心に対してこう言った。
「違いますよ、パルスィ」
「何がよ。現にあの子はすこぶる寂しがって、貴方に、」
反論しようとするパルスィに、彼女は左手の人差し指を突き出して制止を促した。頬が赤かった。
「あの子は、自分がいけなかったんだって反省したんです。あの子から嫉妬心が見えなくなったのは、貴方に興味がなくなったからじゃなくて、自分が我侭言っていたことを反省しただけなんです」
それは姉からの言葉だった。他人であるパルスィからは到底見られない視点からの言葉だった。
「あの子今まで、自分が好かれていないと思っていたみたいなんです。全然そんなことないのにね」
「え、あっ。そ、そう……かな」
「こいしは、自分がパルスィに愛されているって気付いたから、嫉妬心を失ったんです」
「なっ」
「だから、ほら、周りをよく見てください」
そこまで言ってさとりは、再びお弁当を啄み出した。
パルスィにはその意味が分からなかったが、さとりが珍しく真剣だったから、言う通りにした。
洞窟はいつもと変わらずに、暗くてじめじめしている。床には苔が点在し、壁はごつごつしていて、天井は水気を孕んで滴を垂らしている。洞窟の奥へと目をやれば、そこそこ大きな岩がごろごろと転がっているような、悪い足場の先に旧都への門がある。
そのときパルスィはある岩の陰に、小さな違和感を見た。何かがいると気付いたら、その瞬間違和感が人影へと姿を変えたように思えた。
慌ててさとりのほうを見ると、例のにやーっとした笑顔になっていた。もしかすれば、パルスィも同じ顔をしていた。
「いつから見てたのかしら、あの子」
パルスィがすっかり嬉しくなって尋ねると、さとりはにやにやした顔のまま答えた。
「さあ。でも、貴方が気付いたってことは、さぞ嫉妬してるんでしょうね」
「あははは。あーあ」
こいしが嫉妬心を失ってしまっては、パルスィでも捉えられない。しかしさとりが敢えてパルスィと仲良く振る舞うと、嫉妬もすっかり元通り元気になるらしかった。こいしはさっと岩に隠れたが、パルスィには、岩の向こう側から嫉妬心が漏れているのが見えるので意味はなかった。
「そういうわけですパルスィ。実は両想いだったんですよ。妬ましいですねまったく。こいしは貴方のことが好きで好きで堪らないんですよ。貴方に嫌われるのが怖かっただけなんです。でもそれはお互い様なんですよね。パルスィだってこいしのことをこんなに思っていますし、こいしもだんだんそれに気付いたら、貴方のことが気になって気になって、ここまでわざわざ足を運んで……」
恥じらいに耐えかねたこいしが飛び出してくるまで、さとりはずっとこんな調子で喋り続けていた。
* * *
「ごめんね」と一言、こいしはパルスィに告げた。パルスィも、「いいえ、私こそごめん」と言った。それで二人は照れたように笑った。
さとりはそれをじっと見ていた。色んなことを考えた末、パルスィをペットにするのはやめることにした。隠し持っていた是非局の許可状を、陰で握り潰した。
* * *
明くる日の昼ごろ。パルスィは村紗のことを考えた。村紗の生き様は、パルスィが見れば、どこからどう見たって太く長くダイナミックな様相だった。彼女を見ていると、たかだか男一人に振り回されただけの自分の半生がちっぽけなものにさえ見えて、あいつは凄いなーと橋姫のくせに感心しちゃったりするのだった。
村紗がパルスィに与えた影響は計り知れない。彼女はもしかしたらパルスィ以上の苦難と挫折を抱えながらも、その巨大な壁を乗り越え得難い幸福を手にした。下手をすれば見ることすら永遠に叶わなかったかもしれない親友、聖白蓮と邂逅することができた。ほんの少しだがパルスィも協力したからか、そのとき妬ましいという感情はあまり起こらなかったし、どころか一緒になって成功を喜んでしまった節さえあった。
そんなことがあったから。あいつはたぶん、信じているのだ。この橋姫が幸せに笑う日が来ることを。船幽霊と、永遠に嫉妬に狂うために生きている橋姫とでは立場が全然違うというのに、あいつはそれでも。
パルスィはこいしを見つめた。
村紗と同じように橋姫が幸せになったら、それは何になる。少なくとも、幸せな橋姫は、ふつう橋姫でない。
「つまり、」
と。
「こいしちゃんは可愛い」
橋姫は結論付けた。
「や、その結論おかしいって」
珍しくこいしに突っ込みを入れられた。言いながらちょっと嬉しそうにはにかむ顔がさらにいじらしかった。パルスィが意味もなく彼女の頭を撫で回すと、彼女はパルスィの胸に頬擦りするように抱き付いた。
「いいのよ」
パルスィは橋姫らしくなかった。人間くささを捨て切れずにいた。結局のところ彼女が求めているのは自分への愛情と理解であって、嫉妬や愛憎劇なのではないのかもしれない。だからこそラブリーなこいしが愛おしいのだった。パルスィがこうして優しさと穏やかさを以て接すれば、彼女は必ず愛情や思慕で応えてくれる。
さとりの言っていたことが本当であればいいな、そうすればきっと、私だって幸せになれると思いながら、パルスィはこいしの目を見つめた。
「……ええと、さ」
慌てて目を逸らして、こいしは言った。
「悩んでるってことなんだよね」
「そうでもない」
「そうでもないの?」
「そうでもあるかも」
「どっちなのよ、もう」
叱られた。言いながら、こいしはいつものふわふわした顔で笑っていたが。
「月並みだけどね。ぱるさんにはぱるさんのいいところがあるのよ」
どうやら励まされているらしいことに、パルスィはここでようやく気付いた。
「本当に月並み。それじゃ橋姫の心は落とせないね」
「む」
パルスィは初め人間として生まれ、その後橋姫になった。しかし、自分は本当に橋姫になったのかと疑い始めてみた結果、意外に答は出なかった。
自分は人間なのか、それとも妖怪なのか。なるほどこうして意地の悪い応答をついついしてしまう辺りは橋姫っぽいかもしれなかった。しかしその根底には何かパステルピンク色の乙女心があると言えばある感じもするので、人間くさいともいえた。
元来妖怪には、愛とか恋とかいうものは必要ないものだ。そんなものは、人間だけが捏ねくり回していればよいはずなのだ。
「えーっとじゃあ、ねえ」
こいしは口元に人差し指を当てて、やや上を見上げる。それを見てパルスィは、仄かな期待を抱くのを感じてみたりした。少々の間を、パルスィはこいしを見つめて過ごした。
「好きだよ、ぱるさん」
それが答えなのだろうと思った。
「……合格」
「やった」
二人の目線は、互いの目を見ていた。その目は確かに笑っていた。
不意に、後方で足音がした。振り向けば地上から来た村紗だった。物凄く嫌な予感がした。
おもむろにこいしが立ち上がって、村紗の前へとにじり寄った。二人はパルスィの眼前で、じっと見つめ合い始めた。互いが互いの出方を窺うかのように、集中して目を光らせている。まるで戦闘でも始まる気配だった。
それからじっと見合ってしばらく。先に動いたのは村紗だった。いきなりにへらっと笑って、「私の妻に何してんの?」と喧嘩を吹っ掛けた。馬鹿かとパルスィは思った。ところがこいしときたら、臆しもせずに「むらさんこそ、私の妹に何か用?」と突っ込みどころ満載の台詞をのたまって応戦した。そして話はとても低いところで平行線を辿った。妻のほうがいちゃいちゃだとか姉妹のほうが親密だとか、「姉妹が親密」って凄いエロい響きじゃね? とかいってどんどんくだらない話になっていき、気付けばパルスィを差し置いて二人で握手し友情を育んでいた。意味が全然分からなかった。
パルスィは楽しそうにしている二人を放置して、泉に浮かぶボトルシップを眺めることにした。仲が良さそうな奴らを見ていると妬ましくなって、あのくだらない言い争いに参加する羽目になりそうなのが嫌だったからだ。船は相変わらず瓶のなかで座礁していた。
「あ、ねーぱるさん」
なぜかすっかり和気藹々としているはずの背後で、パルスィを呼ぶ声がした。仕方なく振り返ると、嬉しそうな顔をしたこいしが寄ってきて、こう言った。
「プレゼントのクッション、ありがとね。ベッドに飾ってるから、見に来ていいよ」
パルスィはそれを聞いて、ああ、あれは枕でなくてクッションだったのかと思った。その後で、あっこれってもしかして添い寝フラグかと下心がむくむく湧き出た。しかし枕とクッションの違いは分からなかった。
「お、ボトルシップを水に浮かべるとは斬新だなあ」
村紗はいつだって空気を読まずにずかずかやってくる。そういう奴だから仕方なかった。言いながら彼女は、手でボトルシップを水のなかへ沈めた。船は何が何でも転覆させなければ気が済まないらしい。あいつは自分の船ですら最終的に転覆させて、なぜかお寺にしてしまったような女だ。
「やめなさいよ。中に水が入ったら台無しじゃない」
「あー、そっか?」
沈没船は引き上げられたが、時僅かに遅く、瓶のなか三分の一くらいに水が入ってしまった。この船は村紗に買われてからというもの碌な目に遭っていない。
「んー? むらさんそれ貸して」
ところがこいしは言った。何を思ったのか、村紗からボトルシップを受け取ると、くるくると縦に回転させた。それで彼女はパルスィと二人で大いに喜んだ。横向きのボトルシップを縦に回転させても、水は重力によって下に溜まったまま動かない。その穏やかな水面に魔法の船は浮かんで、悠々と泳いでいた。
ややいやらしい性格で、気に入った相手をペットにしようとしたり、シスコンでどっぷり依存してるくせに背中を押したり
それよりなにより、私、さとりんのどや顔大好きなんですよ
無意識だって嫉妬しちゃうわ女の子だもの。
素直になっただけっていう些細なことで収集するお話って大好きです。
が、
「こいしのお姉ちゃんになりたいんですか?」
私は死んだ。
普段絡まない組み合わせであるだけになおさら
読み終えたら際どい描写が云々とか書く気が無くなりました
良い作品でした
家族になりたかった……か。切ないですね
気になるのはさとりさんですね
二人が結ばれてさぞ複雑な気分だことでしょう…
登場人物それぞれのキャラ立ちが際立って本当に活き活きとしてるし、それぞれの感情が手に取るように伝わって来る感じが絶妙!
恋に堕ちた時の綺麗な部分とどろどろと生々しい箇所がくっきりとしてて、最後は素敵に結ばれる物語の流れは素晴らしいの一言に尽きます
みんな一癖も二癖もありそうで、可愛らしくも愛らしく、そして「人間」っぽくて。何処か共感できる部分がとても多い素敵な作品でした
こいしとパルスィの後ろに見えるさとりや村紗の姿も魅力的でナイスです。