Coolier - 新生・東方創想話

ともだちの形。

2010/11/07 10:53:47
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※注 【 】内は、直前の単語に対するルビ(読み仮名)に相当します。






●プロローグ


『これ、もみじちゃんにあげる』
『なぁに? ……わぁ、きれいなおと』
『いいでしょ。にんげんは〝すず〟ってよんでるみたい』
『こんなのもらっちゃっていいの?』
『いいの。ともだちのしるし』
『ありがとう、あやちゃん。ずっとだいじにするね』

 このおとをきいたら、わたしはいつでもあやちゃんをおもいだすよ。
 ……それは遠い日の記憶。
 ともだちの、約束だった。



 ◆


 ――凛、と鈴の音が鳴った。
 それに呼び戻されるようにして、椛の意識は真っ白な世界から目覚めた。
 まず最初に感じたのは肌をかすめていく風の流れ。そして背中には自由落下するとき独特の引力。
 ああ、墜【お】ちているのだ、と思う。
 空から地へと、まっすぐに、あるいは弧を描いて墜ちているのだ。
 降りるのとはちがう。
 落ちるのとはちがう。
 空を自由に飛ぶ天狗たちにとって、風を制御「しない」のと「できない」のでは大きく異なる。
 そして椛は今、風を制御できず「墜ちて」いた。
 理由は簡単だった。
 自分の身体【からだ】、指の一本にさえ力が入らない。
 かろうじて握りしめていた右手の剣は上半分が折れていて、ほとんど柄の部分しか残っていなかった。これ以上戦おうにも武器はなく、満身創痍の身体には一片の体力もありはしない。
 このままではいずれ地面に衝突するしかないとわかってはいても、抗おうとする気力はどこからも湧いてこなかった。
 剣と一緒に心までもを折られたかのように。
(けっきょく、わたしは弱いままなのかな)
 目の前に広がる空。
 その暮れはじめた薄い山吹色の中に、ひとつの人影が見えた。
 この距離でも椛の眼にははっきりと見える紅白の衣装。奇妙な格好をした人間の巫女の姿は、だんだんと遠ざかっていく。
(……いや、遠ざかっているのはわたしだ)
 耳元で鈴が鳴る。帽子の房にくくりつけた鈴が風にあおられて、迫りくる地面を警告するように何度も激しく鳴り続けている。それでも椛の意識はそんな状況を、他人事みたいに醒めた目で眺めていた。
 広大な空はどこまでもどこまでも澄み渡っていて。
 果てしない雲の向こうは、どれだけ手を伸ばしても届かないくらい遠くて。
 天狗のみんなも、
 求め続けた「強さ」ということへの答えも、
 ――文【あや】ちゃんも、
 すべてが自分を置いて遠ざかっていくようで。
 過去のあの日はふたたび廻【めぐ】ることのない幻想なのかもしれなかった。
(それならもういっそのこと、)
 椛は目を閉じる。
 現実を象徴するかのごとき光景を見まいとして。あるいは、いずれ身体を打ちすえるであろう衝撃を覚悟して。
 己の手から剣が滑り落ちていく。最後の力が、こぼれ落ちていく。
 世界の音が消え、その中にたったひとつの音が残る。
 
 凛、と――。

「……文ちゃん」
 そう呟く自分の声が、どこか遠く、なのにくっきりと聞こえた。




 ◆1.河童はかく語りき


 妖怪の山、中腹。
 流れおちる瀑布【ばくふ】の音が轟々と響きわたる薄暗い空間。
 山でもとりわけ巨大な滝の裏にはいくつかの空洞があって、将棋をさす河童や天狗たちの遊戯室になっていたり、あるいは密談を交わすには絶好の防音室になっていたり、ものによると妖怪が自分の棲家【すみか】としていたりもする。
 その空洞の、いちばん滝壺に近い場所。
 もっとも低い位置にある洞【ほら】は椛が好んで使う修練場だった。
 かれこれ何年になるだろうか。
 一日として、この場での修練を欠かしたことはなかった。
 今でこそ格好の修行場だと思っているけれど、本来ならここは最悪とされる場所なのだ――自分のような、最底辺の天狗に押しつけられる不人気の極地である。
 他の天狗からしてみれば「住めば都ということか」と解釈するしかないようだが、そうでもないのだ。
 たしかに、ぱっと見ても訓練に適した環境とは言いがたい。
 お世辞にも広いとはいえないその大きさは武器を振り回したりするのには向かないし、ふつうの妖怪ならひどくうるさい水音を嫌うだろう。冷たい水の砕けた飛沫【しぶき】がつねに漂っていて、いつも肌寒いくらいの温度に保たれている。
 けれど、その適度な狭さが無駄な動きを教えてくれる。疲れて大振りになれば剣をどこかにぶつけてしまうからだ。
 集中力をかき乱すような轟音だって、意識から音が消えるくらいまで集中すれば気にならない。むしろ雑念と雑音を頭の中から排除するのに絶好のバロメーターでもあった。
 寒すぎない程度に冷えている気温も五感を研ぎ澄ませてくれる。
 だいたいにして、ここで暑いと思うくらいに身体が温まっていなければそもそも訓練強度としては足りない。
 素振りを終え、身体もほぐれ、集中力が増してくると、椛は訓練の最終段階に入る。
 流れ続けるぶ厚い水の壁に向かい合い、目を閉じる。
 ここからはシンプルだ。
 かんたんに言うと「滝の上から流れおちてくる紅葉を斬り、なおかつ剣を濡らさぬこと」が条件である。
 そこに必要なのは気配を感じ取る反応の速さと、剣閃の鋭さ。
 紅葉が洞の前を通りすぎる一瞬の間を逃さないだけの反射速度、水圧に負けることなく斬り裂けるだけの剣風、その先にある標的を逃さぬだけの軽やかさだ。
 最初は木の枝を狙っていたが、それもじきに木の葉へと変わった。
 葉っぱの一枚は薄く軽やかである。気配を捉えるのがより難しく、斬ることはさらに難しい。力技で乱暴に斬りつければ剣風が木の葉をひるがえしてしまうし、中途半端な速度では剣が濡れるか木の葉が剣にくっつくだけで斬れはしない。
 ……待つ。
 目視してから動くのでは間に合わないと悟ってからは、目を閉じて気配に集中するようになった。
 けれど長時間高い集中力を保ち続けるのは至難の業だ。知らず知らずのうちに雑念が舞いこんだり、来るべき瞬間が来たときに反応が遅れたりする。
 いくら落葉の季節とはいっても、この小さな穴の前を通る数なんてそれほど多くなかった。
 一気に何枚も通過することもあれば、こんなふうに気の遠くなるほど来ないときも、
 影。
「――ふっ!」
 狭い空間の中に風が巻いた。
 剣を振り切った体勢で残心、目を開いて確認すればその剣身には水滴のひとしずくもついていない。
 しかし、
「失敗かあ……」
 斬りそこなったようだった。
 これだけの水幕では、向こうの標的が斬れたかどうかを確認することはできない。
 ゆえに剣を振り切ったとき、わずかに剣先に残るその感触を頼りに判断するしかないのだ。成功の判断が不確実なようで、じつは「剣気が冴えたかどうか」の感覚を鍛えるのに良い鍛錬になると気付いたのは最近のことだった。
 言葉で形容するのが難しい感覚ではあったけれど、いまのはきっと葉の重心を捉えそこなったのが原因だと思う。
「あと九振り」
 ふたたび目を閉じ、流れの向こうに意識を集中する。
 ただ長々と訓練すれば良いというものではない。一回の訓練では十振りまでと決めていた。
 このあとには周辺の哨戒にも巡らなければならないのだ。そういえば最近、沼のあたりでカエルに悪戯ばかりしている妖精がいる。今日あたりはとっちめてやらないといけないかもしれない。
 ――立て続けに三枚、
「ぁああっ!」
 一声、間髪入れずに三閃。
 すべての薄片を捉えた手ごたえに、頬がゆるむ。
 三枚同時成功は初めてかもしれない。
「……やったっ」
 この瞬間が、何物にも代えがたかった。
 力まず、緩まず、剣の先まで気の通った一撃が放てたときだけに感じる心地よさ。
 澄んだ水のなかを自分自身が剣となって飛翔していくような、空を飛ぶよりもずっとずっと素敵な爽快感。
 
 他人と戦うのは苦手だった。
 それでも、剣を捨てることはできなかった。
 剣を握っているときにだけに感じることのできる世界のひとかけら。
 剣という棒きれを構えて振るというだけの、シンプルな動作。
 その一秒にも満たない刹那の時間。
 そこにしかない何かを、光のようなものをもう一度感じるために……今日も自分は剣を振ることをやめられないのだった。


 ◆


 ――長月。
 暦【こよみ】に依【よ】らずとも、色めく紅葉が季節の深まりを教えてくれる頃。
 妖怪の山では蝉の声を耳にすることもめっきり減った。代わりに秋虫たちの、やかましいくらいの合奏が聞こえてくるようになった。
 それは最初、数匹の歌い仲間の集まりにすぎない。それが、どこからやってくるのかどんどんとその数を増していき、やがては山全体で大騒ぎしているかのような大合唱へとふくらんでいく。
 そんな合唱会も、東の地平線が白みはじめるその少し前になれば――夜通し歌い、歌い疲れて、秋虫たちはだんだんと解散していく。なかにはテンションの下がりきらないらしい何匹かが、まだ残ってちらほらとソロコンサートを開催してはいるけれど。
 犬走椛が布団から起き上がり、床【とこ】を上げて、畑に出てくるのはそんな時分である。
 外はまだ暗い。
 椛は軒先【のきさき】を出てうーんと伸びをし、大きく深呼吸する。
「……よしっ」
 ちいさく気合いを入れて、納屋【なや】から仕事道具を引きずり出してくる。
 雑草を取り除き、作物が悪い虫や病気にかかっていないか確認し、川から水を汲んできて柄杓【ひしゃく】で撒く。
 その他もひととおりの作業をざっとすませると、椛は汗のにじんだ額をぬぐう。集中していると時間の過ぎるのはあっという間で、気づけば周囲もずいぶんと明るくはっきりとしてきた。
「ふう」
 とひと息。
 気づけば虫たちの声も聞こえなくなっている。
 夜明け前の、いちばん静かな時間。椛はこの時間の澄んだ空気と、生き物たちが起き上がってくる気配、一日がはじまろうとする匂いのようなものが好きだった。
 空を見上げる。
 太陽も仕度【したく】を終えてそろそろ顔を見せるのだろう。夜の藍色がだんだんと朝焼けのオレンジに変わってゆく途中の、紫とも群青ともつかない色調はとてもきれいで、そこにはうすくたなびく雲がわずかにかかっているのみだった。
 だんだんと暑さも和らいできたけれど昼間の陽射しはまだまだ強い。涼しいうちに畑の手入れを終わらせておこうと椛は思う。
 
 今日も、暑くなりそうだった。


 ◆


「よ、あいかわらず早いね」
 畑で採れたものだけで作った質素な朝食を終え、いつものように剣の修練のため河原を訪れた椛は、そこで河童に出会った。
「いつもいつも精が出るねぇ……飽きないかい?」
「ぜんぜん。好きでやってることだし」
 河辺の岩に腰掛けたまま、親しげに話しかけてきたのは河城にとり。この近辺を棲家とする河童の妖怪である。
 なにやら正体不明のヘンな物を作るのが趣味で、いつも実験と称して誰かにいたずらを仕掛けている変わり者だ。
 さらにはそのほとんどが失敗作で、なぜか最後にかならず爆発するという特徴があるため、たいていの人妖は彼女を迷惑がっていた。――が、それでも嫌われはしないのが、にとりの妖怪徳【じんとく】とも呼ぶべきものだった。
 珍奇な発明品はときに他者の役に立ったし、物珍しさから飽きられることはなく、とくに子供たちに人気なのだ。
 不思議な物を次々と作りだす才覚と知識は椛もいつもすごいと思っていたし、あとくされのないさっぱりとした性格にも好感が持てた。
 なにより、彼女は椛の数少ない……いや、いまは唯一ともいえる友人だったから。
「椛らしいことだね。それよりさ、これ」
 と言いながら、にとりは背中のリュックから一部の新聞を取り出す。
 幻想郷で知らない者は――結構いるかもしれないが、椛はよく知っていた。烏天狗の射命丸文が勝手に発行している「新聞」と呼ばれる読み物だ。
「神様が妖怪の山に来たんだとさ。かなり神格の高い柱らしくて、ずいぶんな信仰を集めてるんだそうだ」
「へえ……。そう言われればここのところ、みんなもなんだか慌【あわ】ただしかったな」
「ま、山に変化が起こればまっ先に動くのが天狗の組織だからね。椛は出なかったのかい?」
「んー」
 椛は曖昧な表情を浮かべてごまかした。
 山に変事があったのに自分には詳しく知らされておらず、また他の天狗たちは動いていた。
 つまり、これが意味するところは「下っ端には関係がない」ということだ。組織の中でも下の下、ひとかけらの期待もされていない自分ができるようなことは何もない――というのが実情なのだろうと椛は自嘲的に考える。慣れたことではあったが、まったく何も感じないほどに無関心というわけでもなかった。
 そんな反応をどう受け取ったのか、にとりはつかの間椛の顔を見つめると、「ま、いいや」と話を打ち切った。
 こういう、さばさばしたところが彼女の美徳だと椛は思う。
「所用のところ引きとめて悪かったね。頑張りなよ」
「ううん。ありがとう」
 そう言って別れようとしたところで、
「号外、号外~」
 頭上から聞き覚えのある声が降ってきた。
「『文々。新聞』、号外ですよー。妖怪の山に神様現る! これは大変なことですよー」
 空をふり仰ぐと、漆黒の翼をはためかせて烏天狗が一匹、手当たり次第に新聞をばら撒きながら青空を横切ってゆく。
 件【くだん】の自称ジャーナリスト、射命丸文であった。
 それを判別したころには呼びかける暇【いとま】もなく、幻想郷最速と呼ばれる彼女の姿はもう視界の彼方へと飛び去っている。
 文が通ったあとの軌跡を、まるで羽根のように舞い散る紙片が描き出していた。
「号外もなにも、もともと不定期発行じゃないか。なあ」
 にとりが呆れたように横に向かって話しかける。
 けれど椛の視線は彼女が飛び去った空のむこうへ向けられたままだった。
 ふたりの傍に新聞が一部、はらりと鳥のように舞い降りる。
「……そんなにあの新聞屋が気になるのかい?」
 椛ははっとしたように振り向き、
「あ、うん、その、えーと、」
 言葉を探すように手と視線をあっちこっちにさまよわせる。
「あの――その、ね」
「……無理に言わなくてもいいよ?」
「ち、ちがうの」
 そうじゃなくて、と間を置いて、椛はちょっと迷った末にこう言った。
「昔は……友達だったから」
 椛は、文との間柄を聞かれて言葉につまった。
 〝友達だった〟。
 ――そうやって、過去形にするのがなんだか悲しかったから。それが半分。
 もう半分は、友達だと思っていたのは自分だけだったんじゃないか……いま考えると、そんなふうに思えてしまって、過去とはいえ彼女との関係を「友達」などと言ってしまっていいのだろうか――そんなふうに考えてしまうから。
 幼いころは一緒に遊んだ仲だった。
 けれど先に天狗の世界へ入った旧友【あや】はめきめきと頭角を現し、いまではまったく手の届かない遠くにいってしまった。
 自分はいまだに下っ端天狗のまま、異変があっても関わることなく、ただ眺める傍観者の一人にすぎない。
「なんだか、今は違うみたいな言い方だねえ」
「うん……そうだね。もう、ずいぶんとお話もしてないから」
「ま、あちらさんは忙しいみたいだし」
「それもあるけど」
「うん?」
「――わたしがもっと強かったら、友達のままでいられたかもしれないのにな、って」
 それはふたつの意味を含んでいる。
 単純な実力としての、総合的な戦闘力としての弱さと、実戦における精神的な弱さだ。
 天狗の社会では時節ごとに昇格試験みたいなものがあって、そこで優秀な成績を残せればより高い地位を得ることができた。
 智力を試すもの、
 神通力を試すもの、
 手合わせによって単純な白兵戦における強さを試すもの、といくつかあって――
 自分は、最後のひとつがどうしても昇格に値しないのだった。
 過去に何度も戦い、勝利はたったの一度だけ。
 最初の、一度だけなのだった。
「それはちがうと思うけどね」
 物思いに沈みかけていた椛の思考は、にとりのひと言で現実に引き戻された。
「それは正確じゃないよ。わたしは椛が弱いとはまったく思わない」
「――――、でも、」
「相手を倒すことが『強さ』だというのならそんなものはクソくらえだよ。天狗社会もスペルカードルールを導入してみりゃわかるだろうさ」
 そこまでひと息に言い放ったところで、「ごめん」とにとりは謝った。
「これはわたし個人の見解だ。べつに椛んとこの組織を否定してるわけじゃない」
 ただね、と続けざまに、
「幻想郷でこのルールが浸透している理由を、おたくのところの首領や管理職どもは考えるべきだ。そして山が孤立しがちなことと、いまになってやってきた神様が妖怪たちに受け入れられている理由、それも一緒にね」
「…………」
 椛は驚き、その驚きで言葉を失っていた。
 機械以外のことで、ここまで饒舌になっているにとりを初めて見た。
 そして目を見開いて黙っている椛を見て、にとりはもう一度「ごめん」と謝った。
「気に障ったかい」
「ううん、そんなことはないけど」
 言っていることの半分くらいはわからなかった。
 それでもひとつだけ、心の中に引っかかっている言葉があった。
 にとりの言葉をそのまま解釈するのなら、彼女は「相手を倒すことが強さではない」と思っているのだ。
 じゃあ、強さっていったい――?
「懐の深さ、かな」
 ふいににとりがそう言った。
「え?」
「え? って、いま訊いたじゃないか。強さってなんなの、ってさ」
 もしかして思考がそのまま口に出ていたのだろうか。なんだか恥ずかしくなって、椛は顔が赤くなるのを感じた。
 そんな下っ端天狗の様子を見て、にとりがちいさく吹きだす。
「かわいいね、椛は」
「え……えええっ」
 二度目の不意打ちに、いろんなものが吹っ飛んだ。たとえば冷静さとか。
 耳の裏側まで熱くなっていく感覚をおぼえる。
 さっきまでのシリアスな雰囲気はどこへやら、にとりはあたふたしている椛を見てやわらかく微笑んだ。
「そういうところも、わたしはいいと思うな」
「あうあう……」
 我慢しきれずといった感じで椛が下を向いてしまうと、にとりはからからと笑い、
「そのままでいいんだよ」
 声色をあらためて、やさしくそう呟いた。
「――ふえ?」
「変わらないほうがいいことはある。強制はしないけれど、わたしは今のままの椛がいいと思う」
「………………」
 顔を上げた椛の視線が、にとりのそれと重なる。
 心の底までを見透かすようにまっすぐに、彼女は椛を見据えていた。

「もっと自分に自信をもちなよ。椛は自分で思っているよりずっと、強い」

 念押しするように、言葉尻を強調するように河童はそう言った。
 じゃあ、わたしも用事があるし、このへんで帰るよ――にとりがそう言い残して川に姿を消してからも、しばらく椛は動けずにいた。
 強さ。変わること。変わらないこと。
 ともだち。
 いろんな言葉が頭の中をぐるぐると回っていた。

 ……結局、その日の鍛錬は雑念にまみれてちっとも集中できなかった。



 ◆


 あの頃の自分に迷いはなかった。
 はやく文の背中に追いつきたくて、がむしゃらに強くなることを目指していたと思う。


 あの日、気がつけば目の前に苦悶の声を漏らしてうずくまる烏天狗がいた。
 背を丸め膝をついた彼女を見下ろしながら、椛は何が起こったのかよくわかっていなかった。
「勝者、犬走椛」
 審判員を務める大天狗がそう宣言した。
 ――勝ったんだ。
 わたしは、勝ったんだ。……でも、どうやって?
 組織内部の序列を決める、烏天狗の昇格試験。
 初戦の相手は新人のなかでも飛びぬけて優秀で、周囲の面倒見もいい、いわゆるリーダータイプの子だった。人見知りする自分にもよく声をかけてくれて、友達とまでは言えなくてもそれなりに仲良くやっていたと思う。
 組み合わせが決まったとき、「ついてないな」と他の新人に肩を叩かれたことを思い出す。
 実際、彼女はとてつもなく強かった。
『私のお母さまのお兄さまのお爺さまは、かの有名な牛若丸さまと手合わせしたこともあるのよ』
 というのが彼女の誇りらしくて、その誇りに違【たが】わず彼女の剣技は素晴らしかった。
 必死でしのいでいるうちに、だんだんと頭の中が澄んできて。
 こんなにすごい相手と戦っているということが、どうしようもなく楽しくなってきて。
 
 そこから先を、椛は憶えていない。
 
 ただ、勝利を告げられたあと「大丈夫?」と声をかけて遠慮がちに伸ばした手が振り払われたこと。
 涙のうかんだ瞳が、灼熱の温度を宿して自分をつらぬくように睨みつけていたこと。
 そのときの衝撃だけが、いまでも鮮やかに脳裏に焼きついている。





 ◆2.烏天狗はかく語りき


「椛の手料理が食べたいです」
 突然やってきた彼女は開口一番そう言った。
 椛は呆気【あっけ】にとられ、返事を考える時間も与えられぬまま気づけば炊事場に立たされていた。さすがは幻想郷最速の生物、他人を動かすのも速いらしい。
 摘んできた山菜と、今朝畑で収穫した野菜、川で釣ってきた魚を手早くさばきながら考える。
 どうしてこうなった、と。
 そもそも、上位存在であるところの文【あや】が食事をしたいというのも珍しいことである。
 というのも天狗は食事を摂【と】ること自体が珍しいからだ。
 椛のような下っ端天狗はともかくとして、序列の上にいけばいくほど酒や菓子などの嗜好品を口にすることが多く、それだけで生活を足れりとしている天狗だってけして少数ではない。
 妖怪の山にはそういった嗜好品がないため、下級天狗は山の産物を人間の里で交換したり薪【まき】売りをしてお金を稼ぎ、それらを仕入れて上納品として献上するのである。
 納めた物品の余剰分は下っ端の手にも残るけれどそんなのは微々たるもので。
 売れ残ったり虫食いがひどくて売り物にならなかった保存のきかない野菜などを、なぐさめ程度に食べるしかない。
「椛~、まだですか~」
 奥の座敷から文の声が聞こえてくる。
「もうちょっとですから、待っててください」
 ふつふつと煮立っている鍋をのぞき、先に入れた根野菜に竹串を通して加減をみる。
 白米も蒸らし終わる頃だろう。
 竃【かまど】から赤熱した炭【すみ】をいくつか取り出して七輪に入れ、金網に下ごしらえの済んだ魚を乗せる。次に竃の火を消し、鍋に味噌を入れてよく溶かす。頃合いをみてフタをかぶせ、切ったばかりの野菜に胡麻とちょっとの芥子【からし】を加えるとよく混ぜて和【あ】え物にする。
 一汁一菜が椛の献立の基本であるが、今日はお客さんがいるのでちょっとだけ贅沢をしてみた。
 炊きたてのごはんとお味噌汁、そして焼き魚の香ばしい匂いが辺りに漂ってくる。
「お腹すきましたよ~」
 文の弁もごもっともであった。


 ◆


「ご馳走様でした」
「お粗末様でした」
 食事が終わると、ふたりは手を合わせて食卓に一礼。
「それにしても野菜や魚も悪くないものですね。最近はあまり食べる機会もなかったから」
「でしょうね。あ、片づけは私がやるので文さまは座っててください」
 食器を手に取り立ち上がろうとする文を制して、椛は手早くそれを取り上げる。
 来客に手を煩わせるなんてことはしたくない。
 それがとくに彼女であれば。文は「わざわざ作ってもらったし座ってるだけだと退屈だし」と遠慮したが、椛は承知しなかった。
 炊事場で後片づけをしていると、
「いいですよ、椛の恥ずかしい秘密とか探しちゃいますから」
 と拗ねたような声が聞こえてきた。
 その子供のような言いように、思わずくすりと笑ってしまう。
 そもそもあまり物を持たない性分である椛の部屋に、恥ずかしくなるようなものなどない。あえて言うのであれば、何も物がないことのほうが恥ずかしくはあった。日記のようなものはつけているけれど、その日の哨戒任務や田畑の様子、個人的な訓練の内容に食事の献立くらいだ。
 ざっと食器を洗い終えて水を切り、ちょっとだけ風を起こして乾かすとお手製の食器棚にしまう。
 さて。
 椛は炊事場から座敷のほうに視線をやる。
 ここからの角度では文の姿は見えないけれど――素朴な疑問が浮かんでいた。
 文は、いったい何をしにここに来たのかということだ。まさか本当に飯を食いにきただけということはあるまい。
 そうでなくとも、ここ数年交流らしい交流もなかった間柄なのだ。突然やってきたということは、何かしらの思惑があるに違いなかった。
 悪い報【しら】せ、だろうか。
 数日前から配られはじめた新聞。慌ただしかった仲間たち。にとりは山に神様が来たと言っていた。信仰を集めている、とも。
 符号はいくつもあった。
 ただその報せがどんなものであったとしても、おそらく自分にできることはない。
 ……こんなふうに、うだうだと考えているよりはさっさと訊いてしまったほうがいいのかもしれなかった。
「そうだね」
 自分に言い聞かせるようにしてちいさく声に出すと、座敷へと戻っていく。
「で、文さまはどうして……」
 そう言いながら部屋に足を踏み入れた瞬間、椛はへんなものを見た。
 ものすごく嬉しそうな、意地悪そうな笑みを浮かべた文の顔。そして、彼女は何か持った手を後ろに隠している。
「もーみーじ。見ちゃった」
「…………、何をですか」
「恥ずかしいものー」
「だから何ですか」
「恥ずかしいものー」
「だから……」
「恥ずかしいものー」
 椛が憮然として黙ると、くふふと文は含み笑いを漏らし、「じゃーん」とガラにもないことを言って隠していたものを出した。
「……あ」
「まだ大事に持っててくれたんですねえ」
 それは写真立てに入った一枚のフォトグラフと、小さな金属製の鈴がひとつ。
 鈴はまだ幼かったころ文がくれたもので、写真は文が『かめら』という一瞬で穴の向こうの景色を写し出す不思議な機械を使って撮ったものだった。文机【ふづくえ】の抽斗【ひきだし】の奥にしまったまま、ずいぶんと長い間そのままにしていたんだっけ。
 そう、『かめら』を初めて手に入れたその日、文はまっさきに椛のところにやってきて、「一緒に撮りましょう」と言った。何を言っているのかよくわからなかったが、彼女はたまたま椛と一緒にいたにとりに操作を頼むと自分の隣に立った。「動かないでくださいね」と言われたので椛はがちがちに顔をこわばらせたまま息まで止めて直立不動、対照的に自分の肩に腕をまわした姿勢で写っている文は、とてもとてもいい笑顔をしている。
 ――そんなふたりの、過去の思い出だった。
「あ、あやちゃんっ!」
 カーッと頭に血液が逆流してくるような感覚をおぼえ、椛は写真を奪おうと文に飛びかかった。
 文はそれを見越していたかのように、すっと身をかわす。
「わうっ」
 つんのめってたたらを踏んだ椛だったがすぐに振り返ってふたたび飛びかかる。
 けれど文はひらりひらりとそれを避ける。
「ふふふ。甘いあまーい。そんなスピードで私に挑もうなどと百年早いです」
「か、かえしてっ」
「嫌です。もうちょっと楽しんでから」
 ドタバタと、ふたりは狭い室内を飛びまわったり走りまわったり。
「鬼さん、こーちら」
「鬼じゃないもん天狗だもん!」
「じゃあ天狗さんこーちら」
「返してってばっ」
 やがて椛が息を切らせて立ち止まると、文はちゃぶ台の上にそれらを置き、目を細めて椛を見た。
「ひさしぶりですね」
「……な、なにが……」
「こうして追いかけっこするのも、あなたが私を『文【あや】ちゃん』と呼んでくれることも」
「あ……」
 そう言えば必死になっていて気づかなかった。
「ご、」
「ごめんなさい、はナシです。悲しくなりますから」
 それはどういう意味だろう――と椛が思っていると、文はふと窓の外に目をやった。
「行きたいところがあるんです。一緒に来てくれませんか」


 ◆


 そこは妖怪の山から離れたところにある、遠くからでもひと目でわかるほどの高さをもった岩山だった。
「懐かしいですね。ここに来るのも久しぶりです」
 手近な岩に腰かけ、文はぐーっと伸びをしながらそう言った。
 開けた場所に出ると、なんとなくそうしたくなる気持ちは椛にもわかる。天頂付近からは幻想郷のすべてではないけれど、広大な景色を一望することもできた。
 岩山は幼い子供天狗が遊び場にするのに絶好の高さで、どれだけ高い場所まで速く登れるか競走するのが、子供たちのあいだでの一種のステータスだったのだ。椛と文もそのご多分に漏れず遊びに加わっていたが、文は「あまりにも簡単すぎてつまらない」といちはやく卒業してしまった。
 その頃からもう、文は周囲の存在から頭ひとつ飛びぬけていた。
 だけど椛は知っている。
 そう言って一番先にこの遊びをやめた文が、ときどき一人でこの天頂近い岩場に座り、遠くを眺めていたことを。
「ここからの風景が好きなんです」
 文は宝物を自慢するような口調で言う。
 そのセリフと横顔は、昔から変わっていないような気がした。
「うん、知ってる」
 一人でどんどん先に行ってしまうところも、昔から変わっていない。
「私も知ってますよ。私がここにいるといつも、椛はあそこの岩陰から様子をうかがってました」
 そう言って文は、ちょうどそこから死角になる――と、自分では思っていた――岩場を示してみせる。
 いま考えればバレバレの位置だった。
 なぜならそこは角度的には死角になるけれど、太陽の方向によっては思いっきり影が見えてしまうのである。
「うぅぅ」
 またひとつ恥ずかしい秘密を突きつけられているようで、椛は口ごもるしかなかった。
「ちなみにこれは知ってますか? あの頃、いつも椛に突っかかってきてた男の子。大天狗の娘と結婚して逆玉の輿【こし】になったのは良かったんですが、名家に入ったせいであっちこっちの任務に飛ばされて……大変みたいですよ」
「へえ……」
 申し訳ないことに、はっきり言ってどうでもいい情報だった。
 そんな天狗【ひと】もいたような気がするけど今では顔を思い出すこともできない。とくに組織の内部がどうこうとかは、自分には関係のないことなのだ――そんな諦めというよりは卑屈さにも似た感情がすっかり板についてしまっていた。
 でもそれは、周囲に対する嫉妬というよりも自身に対する失望が根底にあって。
「うらやましいな」
 気づけばそんなセリフを口にしていた。
「……というと?」
「みんな頑張ってるのに、わたしはぜんぜんダメで……すごいなぁ、って」
「みんなは頑張ってて自分はダメ、ですか?」
「うん。ちっとも強くなれなくて」
 文の近くの岩に腰かけたまま、椛の口からは勝手に言葉が流れ出す。
 そんな椛を横目に見ながら、ふぅん――と文はしばし考えるような間を置いて。
「ではそんな椛に、ちょっとした質問です」
 いたずらっぽく笑うと、人さし指を立てて椛の目の前に突き出した。
「天狗の組織は、集団社会を営む他の生物――たとえば人間のように新陳代謝を繰り返します。さて、では毎年、天狗社会で生まれる新人はどれくらいいると思いますか?」
 いつものことではあるが、唐突な質問だった。
 椛は自分がここに来たばかりの頃を思い出しながら、ひーふーみ、と頭の中で数えていく。
「……二十くらい。かな?」
 ふふ、と文はおもしろそうに微笑した。
 椛は首をかしげる。
 自分は、何かおかしなことでも言ったのだろうか。
「私も正確に把握しているわけではありませんが……およそ五百といわれます」
 椛はまず目をぱちくりさせ、それからしばらく考えて、その意味を呑みこんだとき「ええっ!?」と素っ頓狂な声を出してしまった。
 わたわたと手を動かし、
「だって、わたしのときはそんなにいなかったし、」
「毎年そんなにたくさん新人がいたら、天狗の組織は膨れ上がりすぎてすぐに破綻しますね」
 うんうんと椛は首を縦に振る。
 それほど巨大な勢力があったら、おそらく件の〝紫ババア〟が黙ってはいないだろうと思う。
 椛は見たこともなく噂でしか知らないが、たいそう恐ろしい妖怪なのだと聞く。
 ちなみに、この噂話をしてくれた天狗がその後全員どこかに消えてしまったという点も、真実性を帯びていていっそう恐ろしい。
「――ひとつ季節がめぐるたびに五百を超える数の烏天狗が生まれます。しかし、その三年後に、なお烏天狗としてあろうとする者はごく少数です。同期の新人が十人以上残っていたという例を、すくなくとも私は知りません」
 文は椛の顔から視線を外し、遠くを見やった。
 つられるように椛もそちらをに視線を移す。
 岩場からは、妖怪の山とそこから流れ出る河、その左右に広がる森林が見渡せた。
 山の向こうに沈んでいく夕陽が、それらの風景を茜色に染め上げている。
「理由は様々です。厳しい修行に耐えられなかった者、地味な下積み生活に理想と現実の差を感じて落胆する者、旧態依然とした序列社会や頭の固い組織の上層部についていけない者…………。動物でいる間は比較的、自由を謳歌できる世界です。無理に組織での権勢をうかがわずとも、生きることに不自由はしませんから」
 その声は何かを懐かしんでいるようにも聞こえたし、なんの感情もこもっていないような気もした。
 暮れゆく空を、何匹かのカラスが鳴きながら横切ってゆく。
 椛はちらりと文の横顔をうかがった。
 まぶしいほどの橙色に照らされたその表情は陰影のせいではっきりとは見えない。
 ただ、椛には、普段見せない文の素顔がそこにあるように思えた。
「私の同期で残っているのは、もう三人だけです」
「……やっぱり、文ちゃんはすごいんだね」
 しみじみとつぶやいた椛の言葉に、文はくすりと小さな笑いを漏らした。
 そして椛のほうを振り向いて真似【まね】るように言う。
「相変わらず、椛は呑気者【のんきもの】なんですね」
「文ちゃんひどい」
 真剣に言ったのに、なんだかはぐらかされた気がして椛はちょっとむくれた。
 でも文の顔にさっきまでの寂しげな色はもうなくて。
 そのことに少しだけほっとする。
「ふふ。ごめんなさい、そういう意味ではないのですよ」
「じゃあ、どういう意味?」
「のんびり屋ということです」
「いっしょだよ!」
 思わずツッコんでしまった。
 文はひとしきり笑い、目元ににじんだ涙をぬぐうようにして、
「二人です」
 と言った。
 露骨に「?」を浮かべる椛を見て彼女はほほえみ、「あなたの同期ですよ」と答える。
「現在まで残っているのはたった二人です。他の者は嫉妬と諦めとでぽつぽつと減っていったようです――ずば抜けた天才がいましたからね」
「天才……って?」
「さっきも言いましたが、椛の年の烏天狗は、あなたを除けば一人しか残っていません」
 自分と、あと一人だけ。
 その言葉は椛にとって衝撃的ではあったけれど。
 もともと組織に関心の薄かった椛にとって、それはどこか遠い世界の――たとえば結界の外の世界の――ことのように、どこか非現実的な衝撃だった。だから何を言うべきかわからず、とりあえず最初に浮かんだ感想が口をついて出た。
「じゃあ、その人が天才なんだ」
「半分は正解です」
「むー……文ちゃんの言い方はいつも回りくどいよ……」
「わかりませんか?」
「わかんない」
「本当に?」
「うん」
「そこがあなたの呑気者たる所以【ゆえん】なのですよ」
 呆れと、好ましさとが混じったような苦笑を浮かべて文は言った。
「相手はバリバリに意識してるのに、本人はのほほんとしてるんですから。ちょっとあの子に同情します」
「……もうちょっとわかりやすく」
「天真爛漫、天衣無縫、春風駘蕩【しゅんぷうたいとう】、純真無垢」
「なんで難しくするの……」
 弱ったように椛がこぼすと、仕方ないというように文はため息をついた。
「椛は頭がいいはずなのに、こういうところには無頓着というか、壊滅的に鈍いというか」
「そんなこと言われても」
「そこがいいところでもあるんですけどね……。とりあえず、私の言ったことを最初から思い返してみてください」
「……うーん」
 腕組みをして悩みはじめた椛を見て、文は表情をゆるめる。
 うんうんと唸る椛の横顔をしばらくの間優しげな目で見つめ、そしておもむろに立ち上がると、夜の帳【とばり】が半分ほど落ちてきた地平線に目を向けた。
「そろそろ暗くなってきましたね。帰りましょうか」
「うーん……うん」
 考え事をしているとき特有の生【なま】返事をしながら、椛も腰を上げる。
「椛」
「うん?」
 呼ばれて文のほうを向いた椛は、そこにいつになく真剣な彼女の表情を見た。
「――あなたはもっと、自分に自信を持ってもいいと思います」
 まっすぐに。
 いつもの、はぐらかすような調子のない、真摯な言葉だった。
 そして椛は、最近どこかで同じようなセリフを聞いたような気がした。それがどこだったのか思い出す前に、文が「行きましょう」と翼を広げて宙に身を躍らせた。
 椛も岩場を蹴り、その背中を追う。
 空を飛んでいる最中にも、いろんな文の言葉がぐるぐると頭の中を回りすぎて……だんだんわけがわからなくなってきた。
 ただ、
 視線を前に向ければ幻想郷最速のスピードで遠く飛んでゆく彼女の背中が、
 それを追いつけないと知りながらこうして追いかけている自分の姿が、
 なんだか象徴的なものに思えて。
 
(せっかく、お話できたのにな)
 
 椛は、胸の奥に小さな痛みがうずくのを感じる。
 その背中はちっとも近くなんてならなくて、まだぜんぜん遠いままで――。
 自分ひとりだけがあの遊び場に取り残されたまま、過ぎ去った時間に立ちすくんでいるのだろう。
 秋に暮れていく空は古い写真の色に似ていて。
 なんだか、ひどく切なくなるのだった。



 ◆


「臆病者。白狼【ハクロウ】なんてとんでもない、牙のない狼なんて狗【いぬ】も同然よ」
 完敗だった。
 ほとんど手を出すこともできないまま、好き放題に打ちすえられた。
 地に手と膝をつき、肩で息をする椛を空から見下ろしながら、彼女は傲然と言う。
「こんなのに負けただなんて、一生の恥だわ」
 あれは異常なほど長かった冬、ちっとも春の来なかった年。芽吹きの訪れない裏山の枯れ木の中で、わたしはひどく冷たい風と言葉にさらされていた。
 彼女はその後、一度たりとも負けることなく組織の中で台頭していった。
 自分はその後、一度たりとも勝つことなく組織の中で埋没していった。
 たしかに彼女の敗戦は自分との一度きりで、自分の勝利は彼女との一度きりだった。
 だけど、そんなのはこんなふうに彼女が私的な決闘を挑んでくるような理由になんて、ならない気がした。だってもうわたしは落ちこぼれで彼女はエリートで、こんな弱い者いじめみたいなことをして彼女が得るものなんて何もないと思うのだ。
「本気【カード】を出しなさいよ。それとも、そんなので優しさのつもり?」
 明らかに苛立っている口調で彼女は言った。
 椛は荒い息をととのえ、身体中の痛みを無視して「ちがう」と答える。
「……ちがうよ。わたしは、誰かを傷つけたくないだけ。恨んだり争ったり、そんなのはいや」
 ふん、と鼻で笑う声が頭上から降ってきた。
「戦えもしないくせに共存しようだなんて、笑っちゃう」
「…………」
「がっかりだわ」
 黙ったままうつむいていると、これまでとどこかちがう感情の混ざった言葉が聞こえた。
「――あなたとなら、友達になれるかもしれないと思ってたのに」
「え」
 はじかれるようにして顔を上げ、


 // テレビのチャンネルを切り替えるように一瞬ノイズが走り、場面が切り替わった。 //


 そのときようやく、椛は自分が夢を見ていることを自覚した。
 いやに現実味のある夢だ――そんなことを思いながら、目の前でこちらに背を向けて椅子に座っている人物を見る。
 それもそのはずだ。いま見ている夢は、過去の体験をひどく明瞭に追体験しているのだから。
 薄暗い部屋の中。
 机につけられた光源にぼんやりと浮かび上がる背中。青くて柔らかそうな、短めの髪。ところ狭しと並べられた不可解な物体。
 ああ、懐かしいなと椛は思う。まだこの河童【こ】とそれほど親しくなかった頃だ。
 部屋に招かれたことも初めてで、実はけっこう緊張していた。
「それじゃ、あんたに預けるものがある」
 男とも女とも区別のつかない、中性的な声。
 それも低いのではなく、声変わりする前の少年のような澄んだ響きがあった。あるいは言葉遣いの端々【はしばし】に男女どちらともつかない言い回しを感じるせいなのだろうか。
「そこの脇の木箱を開けてみてくれ」
 金属的な匂いと気配が漂うその空間の中で唯一、やわらかな雰囲気をもった物体はすぐに目についた。
 椛はうず高く積まれていたガラクタ(に見える)の上に乗せられた箱を手に取る。
 フタをとれば、新木の香りがふわりと漂う。
 中には抜き身のままの剣がひと振り、蒼【あお】みさえ含んだ透明さを宿して横たわっていた。清冽【せいれつ】な水のようだと椛は思い、それだけでこの剣のことが気に入った。
 鍔【つば】の近くには複雑な文様が刻まれていて、おそらくは目の前にいる剣の製作者――河城にとりの銘【めい】なのだろうと推察する。
「剣技を見せてもらった結論として……いちおう、言っておく。わたしは、あんたを〝優しい剣〟だと思う」
 不思議な評価だと思った。
 そんな言い方をされたことは、いままで一度としてなかったから。
 基本的に逃げ腰で専守防衛になりがちな椛の剣技は、周囲の苛立ちをさそうことも多かった。
 臆病者。
 卑怯者。
 軟弱者。
 そう形容されることはあっても、優しいだなんて言われたことはなかった。
「だからこそ、あんたが『強くなりたい』と言うことに違和感があった。でも今ならその理由もわかる」
 思えばこのとき、一度わたしの剣技を見ただけで本質を見抜いていた彼女の観察力に驚嘆するしかない。
「それから、その剣のことだけど――」
 椅子ごとくるりと回ってこちらを向くと、にとりは眼鏡をはずして言った。
「頑丈に出来てるから多少乱暴に扱ったって壊れはしない。遠慮なく振り回してくれていい。ただ、あんたはスペルカードを使わないと聞いたから、それ用には造ってない。そこだけは注意しといておくれ」
 こちらをまっすぐに見つめてくる目を見返しながら、それは正しくない、と椛は思う。
 使わないのではない。
 使えない、が正しい。
 でもとりあえず、これで――
「これで、強くなれるの?」
「それはわからない」
 てっきり肯定が返ってくると思っていたのでびっくりした。
「それは〝あんた用に造った〟剣だ。言わばこれは実験みたいなもんなのさ。わたしの見込みが、あんたの求める『強さ』と合致するかはわからない」
「でも、こんど昇格試験があるんだよ」
 新人天狗にとっては初めてになる昇格試験だ。
 文に追いつくためには、こんなところでつまづいているわけにもいかなかった。弱音も迷いも呑【の】みこんで勝たなければならなかった。
 だからガラにもなく道具に頼ってでも、強くなりたいと願った。
 それを聞きつけた彼女が――いつもは将棋をさす以外の接点のない、ただの知人でしかなかった彼女が――自分にやらせてほしいと言ってくれたのだった。

「強く、なりたいんだ」

 それがあの頃の自分の渇望だった。
 焦っていたのだろう。急いでいたのだろう。
 いまでも「強くなりたい」と思う心に変わりはない。けれどあの頃の煮えたぎるように渦巻いていた温度は、もう胸のうちから消えてしまった。
 椛は明晰夢から意識的に目覚め、上半身だけを布団から起こす。
 頭の片隅に、まだ覚醒直後のしびれるような気だるさが尾を引いていた。
 部屋の中も外もまだ暗い。
 いつもより、かなり早い時間に起きてしまったようだ。
 家具の輪郭さえぼんやりとして、意識もまだ夢と現【うつつ】との境目から足を抜け出せないでいた。
 ふらふらと視線をさまよわせた部屋の片隅に、長く四角い箱が置かれている。
 ――強くなりたいと願って手に入れた剣。
 それさえも今では、自分の弱さの象徴でしかないのだった。




 ◆幕間


「わざわざ時間を取ってもらってすいません」
「いいや。これも仕事だよ……で? 依頼のものはどれだい」
「これです」
「ふむ……ああ、なるほどね。ここんところがイカレてるんだ。部品取っ換えてちょいと調整すりゃ直る」
「相変わらず素晴らしい腕をお持ちで」
「お世辞はよしなよ。こっちもこれで食ってるんだから、あたりまえ」
「なんとかなりそうですか?」
「一日あればすぐにでも」
「頼もしいですね。――では、もうひとつ依頼してもよろしいでしょうか」
「なんだい」
「新聞はご覧になりましたね?」
「ああ。てか、昨日あんたがわざわざ持ってきたんじゃないか。椛にも見せてやってくれとか言ってさ」
「あの神様たちも少々派手に動きすぎましたね。どうやら博霊の巫女が出てくるようですよ」
「まあご苦労なこったね」
「で、ものは相談なのですが」
「うん?」
「そろそろあの子にも表舞台に出てもらおうと思いまして」
「……ちょっと相手が悪くないかい」
「あの子も本当は、いつまでもあんなところでくすぶっている器じゃないんですよ。このままだと、ずっとあのままでいるかもしれませんから」
「身内のえこひいき、ってのは感心しないけどねえ」
「サービス残業もサービス出勤も数えきれないくらいしてるんです。これくらいは大目に見てもらわないと割に合いません」
「さーびすざんぎょう?」
「外の世界の言葉で、組織への貢献という意味だそうです。近年それがトレンドだとか」
「とれんど?」
「猫も杓子も参加する行事、らしいですが……情報元が信頼に欠けるのでこれ以上はなんとも」
「ふぅん」
「それでですね。あなたに一枚噛んでいただきたいのですが」
「わたしに何ができるってんだい」
「ここに書いてあります」
「……ずいぶんと慎重になってるじゃないか」
「どこで誰が聞き耳を立ててるかもわかりませんからねー。たとえば向こうの山の三本杉の左側、上から五本目の枝にとまってる誰かさんとかですね」
「あんたのことだから、わざとだとは思うけどさ。身内で牽制【けんせい】し合ってるってのも、なんだかねえ」
「私も不肖【ふしょう】の身でしてね。上からはあんまりいい目をされていないのですよ」
「――まあ、いい機会だから言っておくけどさ」
「はい?」
「わたしから見て……と、いちおう前置くけどね。いまの天狗の社会は歯車が狂ってる。たとえばさっきの機械【これ】、外見【そとみ】からは壊れてるようにゃ見えなかっただろ?」
「そうですね。動作がおかしくなってきたので、あなたに訊いてみたのですが」
「ひとつの機構が動き続けるには、必然いくつかの部位が噛みあってないといけない。たとえ小さな歪みであっても、噛みあわないまま動かせばとうぜん……」
「歯車は軋みますね」
「そう。ヘタをすれば修復不可能なほどに壊れてしまう」
「それは大変ですねえ」
「なにをノンキに……。まだそれほど大きな歪みじゃないが、ちゃんとメンテしないと危ないのは確かだ。新聞屋、あんたならわかってるはずだ」
「ええ」
「べつにわたしは〝椛に〟協力することなら構わない。だけど、それ以外に動く気はないよ」
「それを含めての今回の依頼ですよ」
「なんか裏のありそうな言い方だね。まあ、あんたはいつもそうだけどさ」
「では、そういうことでお願いしましたよ」
「へいへい。なんとなくあの子を騙【だま】すみたいで、気が進まないけどねわたしは……」





 ◆3.けんかするのも、ともだちだから


 バカなことをした。
 そう椛が後悔したのは、いつもの訓練場を出てしばらくたってからだ。
 身体のあちこちに、いつもの疲労とはちがう重さがあった。全身が心地よく火照るような、軽すぎず重すぎない運動をこなしたあとの、ほどよい虚脱感――それではない。ずっしりと骨の芯に鉛でも仕込まれたかのような、空気そのものが覆いかぶさってくるかのような不快な重さだった。
 そして、なによりも肌をちくちくと刺す悪寒。
 寒いのに熱い。気分が悪いのに頭がふわふわする。おぼつかない歩調は、自分の足がちゃんと地面についている感覚がないからだ。
 あれから数日。
 椛は、いつもの場所で修練を続けた。
 いつもよりもずっと多く、いつもよりもずっと長く。自分で決めた、十振りまでという制限も無視して。
 それは椛がいつも行うような、深く淡々としたものではなくて……耐えがたい何かに追い立てられるようにして剣を手にしている者の、鬼気迫る危うさを潜めていた。
 ――その危うさの中に潜んでいた何かが、今こうして自分に牙を突きたてている。
 河原の砂利を踏みしめ、うつむき加減に、身体を引きずるようにして歩く。吐きだす息までもが質量を増しているかのようだ。
 十振りまでとしている制限にはちゃんと理由があった。
 集中力を極限まで高めた鍛錬は、効果も大きいが反動ももちろん大きい。ゆえに自分の限界を超えてしまえば身体に無駄な負荷をかけるだけだし、そもそも集中力にだって限界がある。集中をともなわない鍛練など、ただの踊りと大差ない。だからこそ、己の身体と相談して決めた「十振りまで」というラインを頑【かたく】ななまでに堅持していたのだ。
 自戒【それ】を破った結果が、これだ。
 普段の椛だったらそんなことは絶対にしない。
 普段であれば。
 いつも通りであれば。
 ……いつも通りでは、なかったから。
 椛はだらりと下げていた左手を持ち上げ、目の前でひらく。数えきれないほどの素振りを重ねた手のひらは硬くなっていたけれど、その上にさらに血マメができていた。じんじんと痺れるような熱を感じながら、さっきまでの鍛錬を思い出す。
 はじまりは三日前で、つまりは文が家にやってきた日の翌日だった。
 その日はいつになく調子がよかった。ひと振りで一枚どころか十枚でも斬れそうな剣気の冴えがあって、いつもなら一度で一枚を狙っていたのに欲を出して何枚も流れてくるのを待ったりもした。
 貴重なひと振りが惜しかったのかもしれない。
 ともかく、訓練が最終段階にさしかかる頃には頭の隅々まで澄んだ意識が満ちていて、椛は剣の先に触れる空気の流れまでわかりそうな気がした。
 自分が剣であり、剣が自分であり、その意識はいつものように五感を通したものではなくて、どこか遠くにあった。
 目を閉じて剣を構え、水壁に向かい合う自分を斜め後ろから見下ろしているような心地。
 何年もの間、愚直に同じことを繰り返してきたこの洞の隅々までもが知覚できた。
 そのとき、
 ふと椛の脳裏に去来するものがあった。

 あれはまだ文と出会う前のこと。
 今までよりずっとずっと昔、とても小さかった頃の記憶。
 あの頃だって椛は他の妖怪たちとうまくつき合っていくことができなくて、こうして一人で剣を振っていた。正確に言うならそれは木剣で、しかもいつ誰が忘れていったものか長い間風雨にさらされてほとんど朽ちかけていたものを拾ったのだった。
 あのときの自分が何を思ってそんなものを手に取ったのかはわからない。幼いゆえの、枯れ枝を拾ってただ振り回すのが意味もなく楽しい子供特有の心理だったのかもしれないし、そうではなかったのかもしれない。それでも剣の形をしているというだけで、やっぱりそれは枯れ枝とは何かが違った。
 幸いにしてここは天狗も陣取る妖怪の総本山である。
 門前の小僧をするのに不自由はなかった。
 見よう見まねで剣を振った。それっぽくできればよかった。でも、振れば振るほどに何かが違うと思った。何かが違うと思えば、それをつきとめるために、さらに振った。いつしか夢中になり、木剣が手のひらから滑り落ちるまで続けた。
 落ちた木剣を拾おうとして、指に力が入らなくなっていることに気づき、次いで手の皮が破れて血まみれになっていることに気づく。
 ――ああ、だから落としたのか。
 最初に出てきた感想はそれだった。まだマシなほうの手でなんとか剣を拾い、顔をあげるとあたりはもう真っ暗だった。
「おなかすいた」
 それがその日初めて口にした言葉だったとふいに思いあたり、なんだかおかしくなって笑った。
 帰らなくちゃ……そう考えたところで世界は傾き、そのまま倒れるように眠ってしまうこともあった。

 あのときと今は同じだ。
 ストイックだとか、一生懸命だとか真面目だとか、にとりや文はそう言ってくれるけど。違うのだ。
 自分はただ人づきあいが上手くなくて、みんなが一緒に遊んでいるところに入っていくことができなくて、こうしてひとりぼっちで剣を振っていることにしか楽しみを見つけられなかっただけで。
 今では正確に場所を覚えていないけれど、あの妖怪の山のどこかと、この小さな肌寒い洞は同じ場所だ。
 あるいはあの岩山とも同じ、時間だけが過ぎても自分は一歩も進むことができずただ無為にたたずんでいるだけなのかもしれな、
「――――しま」
 振りだしは最悪で、剣筋も最悪だった。
 まるで素人のような大振りは洞の壁にぶつかり、よろめいた軌道は力なく水幕にぶつかって圧【お】され、盛大な水しぶきをまき散らして椛をずぶ濡れにした。
 とうぜんのように葉の一枚も捉えることはできなかった。
「った……」
 雑念に呑まれていた自分が悔しい。
 こんなこと今まで一回もなかったのに。どうして。
 それから、最高の状態だった剣気は最悪なまでに落ちた。どれだけやっても冴えのかけらさえ取り戻せなかった。むきになって振り、振れば振るほど事態は悪化し、さらに水をかぶったままうす寒い場所で長時間の負荷を受けた身体は弱り果てた。
 そこで休めばよかったものを、毎日の習慣をやめることへの気持ち悪さと、今日こそはという意地が邪魔をした。
 バカなことをした。
 いまさらそんなことを思ったところで、身体の重さは容赦なく増していく。
 帰って休もう。しばらくは養生に専念しよう。

 ――すぐ近くで、川底が爆発したかのような水柱が立ったのは、そのときだった。
 思わず目をつぶって腕を頭上にかざす。
 雨のように降り注ぐ河水をやり過ごし、いまだ波打つ水面をうかがう。やがて水底から浮いてきたのは青髪の河童――にとりだった。
「いやあ、まいったまいった」
 大の字になってぷかぷかと浮いたまま、彼女はそう言った。
 身体のあちこちに傷があった。息もひどく乱れている。
 にとりが傷だらけになっているのはけっして珍しいことではない。爆発だって珍しいことではない。それにしたって、今回はちょっとばかり派手だ。
「……また、実験?」
「いんや」
 そこでいったん言葉を区切り、呼吸を整えるように何度か深呼吸をして。
 にとりは右腕を持ち上げて空を指差した。
「あれだ」
 見上げた空。
 己の体調に反比例するように、腹の立つくらいに清々しい秋晴れだ。
 まばらに雲が点在する以外には何物も混在しない、あきれるほどに青々とした空。何も見えない。
 そう、椛の千里眼をもってしなければ、何も。
 秋空の向こうへと飛翔していくのは紅白の衣装を身にまとった、いささか奇妙な人間の姿。いつだったか聞いたことがある。
「……博麗、霊夢」
 そう。たしかそんな名前。
「なんで――」
 にとりのほうへ視線を戻した椛は一瞬、わが目を疑った。
 水面には何もない。
 小さな水泡がぷくぷくとその下から浮かび上がってくる。最初はふざけているのかと思ったが、そんなことをする理由も思い当たらなかった。まさか、という思いと、そんな馬鹿な、という思いが同時に浮かぶ。
「にとりちゃんっ!?」
 椛は自分の体調など忘れ、水底へ沈んでいく彼女を追って河へと飛びこんだ。


 椛は気を失ったにとりを自室へ運ぶと、着替えさせて布団に寝かせた。
 そして自らも着替える。無地の普段着ではなく、昇格試験やかしこまった場でしか着ることのない特別な衣装へと。
 とはいっても華美なものではない。
 白地を基調として、ところどころに赤の刺繍。袴は赤の地に紅葉柄のアクセント。
 しいて言うべきポイントはそのくらい。
 そもそも椛は格好にこだわるような性質【たち】ではなかったし、必要最低限の身だしなみと機能性があればなんだっていいと思っていた。だから清潔感のある白を好んだし、自分の髪の色ともあっていたから白と赤のコントラストが好きだった――というのは半分くらいが建前で、ほんとうのところ彩色したものは高価だったし、もらい物の多くがその色だったからという理由にすぎない。
 けれど、その「もらい物」という要素【ファクター】は椛にとって重要だった。
 誰かにもらったもの。
 誰かが自分にくれたもの。
 それは物を所有することにこだわらない椛にとって、数少ない宝物ですらあった。縁あって手に入れた小物や衣装がなければ、椛の生活風景は今よりもさらに色彩に乏しく殺風景なものだったはずだ。
 着替えをすませると椛はにとりが横たわる布団のわきに座り、彼女の顔を見る。
 今は穏やかな寝息をたてていて、べつだん大きな傷などはなかったようだが、激しく疲弊しているようだった。そうでもなければ、河童である彼女が水の中に沈んでいくなどということは考えられない。
 椛は最後に彼女の手をいちど握り、布団をかけ直して立ち上がる。
 どのようないきさつがあったのかは知らない。けれど、「友達」をこんな状態にした人間を看過できるほどに、椛は日和見【ひよりみ】主義者でもない。
 部屋の隅でうっすらと埃をかぶっていた箱を開く。
 まめに手入れをしているとはとても言えなかったが、それでも刀身のきらめきはまったく翳【かげ】っていなかった。
 戦いが嫌いだとか、自分は弱いから、などという言い訳にすがっている場合ではない。
 勝ち負けも問題ではない。
 単純に、この状況で自分が何もしないなんていやだ。
 どのような理由があろうとも、友達を傷つけた人間をそのまま放置するなんていやなのだ。
 ふと視界に光がちらついた。
 文が置いたままになっていた写真立てと、鈴だ。
 椛は鈴を手に取り、帽子の房に結ぶ。
「文ちゃん、力を貸して」
 写真に向かってそうつぶやくと、椛は部屋から飛び出した。


 ◆


「戻りなさい。あなたの任務はあくまで哨戒。実戦は私たちの役目です」
 久しぶりに会った彼女の最初の言葉はそれだった。
 人間の巫女を追って空を飛んでいる最中、椛の目の前に一人の烏天狗が立ちふさがった。あの頃から幾分か変わってはいたけれど、見間違えるはずもない、あの子だった。
「知らない。どいて」
「あなたのやっていることは明確な規律違反。上部に報告すればそれなりの罰則が下りますよ」
「知らない」
「あの人間は、あなたが勝てるような相手ではありません。行っても無駄です」
「知らない。勝てるとか勝てないとか、どうでもいい」
「聞く耳を持ちませんか。私の知っているあなたは、それほど愚かではありませんでしたが」
「それでいい。はやくどいて」
 彼女はあからさまにため息をついた。
「結果の見えきっている行為になんの意味がありますか?」
「そんなのわからない」
「わかりますよ。無理です」
 彼女は腰に帯びていた剣を手に取る。
「すくなくとも私にすら勝てないあなたには、絶対に」
 聞き分けなければ、力づく。
 実力に裏打ちされた自信がなす、いかにも実動部隊らしい態度だと思う。
 椛も剣を手に取った。
 まだ視界は安定せず、ときおり歪んだり傾いて見える。
 体温が上がり続けているのだろう、身体の奥から気だるさをともなった熱が絶え間なく沸き出てくるようだ。けれど、今はその熱量さえも前へ進むための糧だ。彼女が立ちふさがるというのなら――
「倒してでも通る」
「やれるものなら」
 ともに構えた剣越しに、視線がぶつかる。
 試合のような合図はない。
 しかし二人はまったくの同時に動き、最初の一合が暮れ始めた空に火花を散らした。


 ◆


 秋の暮れは早い。
 だから空が茜色に染まりはじめてもなお、二人の戦いが続いていることに不思議はないのかもしれない。
 あるいは力が拮抗していたからこそ、これだけの時間が経っても決着がつかないのかもしれない。
 ともかく、空は刻々とその表情を変えていた。
 西日が照らしだす二人の横顔。
 互いに息を切らせていた。
 いくらかの攻撃が当たることはあっても、決定打に欠けた。
 終わりの見えないシーソーゲーム。
 このままでは人間の巫女に追いつけなくなるかもしれないという焦りが、椛の攻撃を単調なものにした。
 ただし彼女の攻撃も単調なものだった――序列では完全に零落している椛の予想外の力に驚いているのかもしれない。表情にいっさいの乱れはなかったが、あまりに淡白な剣筋が彼女の心情を物語っているようだった。
 そして互いにそれを決定打として許すほど、二人は不用意でもなかった。
 ……何かに焦っているのだろうか、と椛は思う。
「どうして」
 先に口を開いたのは、椛だった。
「どうして、邪魔するの」
 烏天狗はすぐに返事をしなかった。椛を見据えたまま、しばらくの沈黙が流れる。
「当然じゃない。これは組織の方針に背くもの。見逃せるわけがない」
「うそ」
 椛は即断した。
「だったら、あなた得意のスペルカードを出せばいい」
「……それは」
 彼女が大きく息を吸い、
「お互い様でしょう!」
 叫ぶと同時に斬りかかってきた。椛は自分の剣でそれを受けながら、牽制に放たれる弾幕の間をすり抜けた。
 剣撃と弾幕にまじって、言葉が飛んでくる。
「勝ち負けはどうでもいいとか、傷つけるのは嫌だからとか……あなたはいつもそんな言葉で逃げている!」
「べつに逃げてなんて、」
「うるさい! その言いわけは聞き飽きた!」
 視界いっぱいに、横なぎに払われる高速弾幕。
 横に対しては縦――上か下に逃げるのが定石だが、これはおとりだ。椛は身を投げるようにして横っ飛び、すれすれのところで回避。
 あからさまに開けてあったスペースを本命の一閃が駆け抜けていく。
 この子の弾幕は冷静だ。よく相手を見ている。
「あのときもそうだった! あなたはいつも本気で戦うことから逃げてる! いいえ、戦おうとする自分から逃げてる!」
 言葉の勢いを受けて攻撃がさらに苛烈なものへと変わる。
 椛は防戦一方となり、詰め将棋のようにいくつもの回避パターンの中から一本の道筋を見抜くことに専念する。戦うのは苦手でも、将棋は得意だった。勝つためには攻めるだけではダメなのだ。
「なぜ剣を持っているのに戦わない! 狼に生まれたくせに、なぜ牙を使うことを拒否する!」
 隙間が見えないほど大量の弾幕がばら撒かれる。
 当たらないものは無視、直撃コースを剣で弾いてわずかな隙間を確保。グレイズし【かすっ】ていく弾の間を縫うようにして飛んだ先に本人が斬りこんできた。
 逃げ場はすでに封じられている。真っ正面からの剣撃を受け流し、さばき、猛攻をしのぐ。
 こんな全開の攻撃、いつまでも続くはずがない。
 相手はジリ貧に耐えかねた。ここをやり過ごせば必ずそこに隙が生じる。その瞬間を捉えれば自分の勝ちだ。
 一瞬、意識が遠のく。
 歯をくいしばり、意地で視界をクリアに保つ。……問題は、そこまで自分の体力がもつかどうかだ。
「じゃあ逆に聞く! どうしてそんなに戦いたがる!」
 椛は叫ぶ。
 腹の底から声を出して、気力を途切れさせまいとする。
「剣とは戦うためだけのものなのか! 牙というのは剥かなければいけないのか!」
「戦いたくなければ、剣も牙も捨てて狗になり下がっていればいい!」
 彼女が叫び返しながら剣を振るってくる。
 そのとき不思議と椛はぽっかりとした空白を感じた。
 奇妙なことに、この子の剣筋は相変わらずきれいだな――などと、場違いなことを考えた。
 空が白い。
 昼間の鮮やかな青から夕刻の紅、そしてまた宵の藍へと移り変わってゆくとき、わずかに真っ白な時間がおとずれるときがある。白の背景に、美しい剣閃が紡がれる。

 光だ、と思った。
 真っ白な光の中に、五枚の紅葉が舞い散るのを見た。
 そして椛はただ、あの薄暗い洞窟の中で何度もそうしていたように――その五枚を一振りのもとに断ち斬った。


 ◆


 椛はゆっくりと地上に降り立った。
 周囲よりもやや大きな楓【かえで】木の根元に烏天狗が背を預け、へたりこむようにして座っていた、その前へと。
「……あーあ。負けたのって久し振り」
 いっそ、さばさばとした口調で彼女は言った。
「あれ、けっこう自信あったんだけどね。まだ誰にも破られてなかったのに」
 必殺の五閃を払われ、わずかに体勢が泳いだ瞬間がすべてだった。
 死闘であればあるほどその決着はあっけなくて、意識が朦朧【もうろう】としているせいもあるのだろうか、椛は自分が何をしたのかまったく憶えていない。
 それは、あの昇格試合の再現のようだった。
 だから勝ったという実感よりも、わけがわからないという心地だけがあって、ただぼうっと立ちすくむしかなかった。
 そんな椛のたたずまいをどう受け取ったのか、もう一度「あーあ」とつぶやいて烏天狗は空を仰いだ。
 二人の頭上から、はらりはらりと真っ赤なかけらが舞い落ちてくる。
 静かな時間の中をささやくようにかすかな音だけが降り積もってゆく。
「私がね」
 彼女はそんなふうに切り出した。
「私があなたの何に腹を立てているか、わかる?」
 そんなのわかるわけない。
 椛はちいさく首をかたむけた。
「それよ」
 烏天狗はあきれたようにため息をつきながら苦笑する。
 なんだか最近、こういう笑われかたを何度もされているような気がした。
「そのぼんやりした、平和ボケしたような態度。人の敵意や悪意なんか気にしないで、ただ楽しく剣を振っていればそれでいい、みたいな……濁りのない水みたいな態度が、すごく癇に障るの」
「そんなこと言われても」
「それがいいところでもあるんでしょうけどね」
 またどこかで繰り返したような会話だと思い、ふたたび椛は首をひねった。
「あまり気にしないで……といっても、ほんとに気にされないとそれはそれで腹が立つんだけど。ただの嫉妬よ」
 自嘲するようにちいさく笑い、彼女は続ける。
「あのときのこと憶えてる?」
「……どれ?」
「私が、あなたに負けた試合のこと」
 椛はうなずいた。
「あのときね、すっごく悔しかったの。どうしようもなく悔しかったの。だって私は誰にも負けないと思っていたもの。小さいときからずっとずっと剣を振ってきて、お母さまのお兄さまのお爺さまについて回って、誰よりも練習したっていう自信だけは、誰にも負けなかった」
「うん。知ってる」
 彼女の自信満々な言動がたゆまぬ鍛錬のたまものだということは――おなじことを繰り返してきた椛だからこそ、すぐにわかった。彼女の剣筋は、ただの才能で紡がれるものじゃない。その裏側に秘められた汗とか時間とか、そういうものがなければあんなにきれいな剣は生まれない。
「初めて負けたのが悔しくて、あなたにはひどい態度もとったと思うわ。でもね、私が一番悔しかったのはそれじゃないの」
 彼女が椛に視線を向けた。
 椛も彼女のほうを見た。
「あなたが、私と本気で戦ってくれなかったこと」
 二人の視線の間を、一枚の紅葉が横切る。
「初めて友達ができると思ったのよ。あなたが一人で黙々と剣を振っていたことも、孤独を抱えていたことも、全部察しがついた。だけど私だって、天才だとか血筋だとか言われて、誰も私自身を見てくれなかった。『あいつは天才だから』の一言で私のすべては片づけられた。誰も、私と対等になろうとなんてしてくれなかった」
 その一瞬だけ、彼女の視線が鋭くなる。
「初めて対等になれると思った。友達【ライバル】になれると思ったの。またあなたと戦いたいと思ったのに……本気で相手にされなかったときの気持ち、あなたに想像できる?」

〝相手はバリバリに意識してるのに、本人はのほほんとしてるんですから。ちょっとあの子に同情します〟

 頭の片隅に、文の言葉が思い浮かんだ。
「まあ、それも私の勝手な感情ではありますが」
 表情をやわらげて、彼女はいちど深呼吸するように大きく息を吐いた。
「せっかくあなたが戦う気になっているようだったので……申し訳ないですが、私としては見逃すわけにもいきませんでした。任務遂行うんぬんは、ただの建前です」
 以上があなたがした質問への答えです――と彼女は言うと、ちらりと椛の背後に視線を向けた。
 椛はつられるようにして振り返る。
「これからのことは、私は見なかったことにします。あなたの好きにしてください」
 とおく黄昏【たそがれ】はじめた空の向こうに、人影が見えた。
 
 ……博麗の、巫女の姿が。





 ◆4.その光の向こう側に


「――なんだ、雑魚【ザコ】か」
 椛を一瞥した巫女はがっかりしたような声色でそう言った。
 ずいぶんな言われようだと思った。だけどその一方で、そうかもしれない――とも思った。
 なにしろ、満身創痍である。
 視界の揺れぐあいといったらなかった。ぐわんぐわんする。あたまいたい。
 あの博麗霊夢を目の前にして、これほどノンキな思考をしている妖怪も珍しいかもしれなかった。しかし本人はそんなことまったく思いつきもしない。とりあえず背筋があまりにぞくぞくするので、ぶるりと身ぶるいをひとつ。
 あきらかに体調は悪化の一途をたどっていた。
 しかもさっきまで全力で一戦を交えている。その前にはいつもの洞で練習までしたような気がする。
 ……なんで今ここにいるんだっけ?
 思考が混乱する。えーっと、部屋から出てきたのが、たしか……。
 ちりん、と耳元で鈴が鳴った。
 ああ、そうだ。
 ふいに視界のブレが止まる。意識が焦点を取り戻す。
 にとりちゃんをひどいめにあわせたこいつを、こらしめてやらなきゃいけないんだ。
「下っぱの狗【いぬ】に用はないの。痛い目みたくなかったら、早くおうちに帰ったほうがいいわよ」
「……雑魚かどうかは、やってみればわかる」
 巫女は眉をひそめた。
 にへら、と椛は笑った。なんでかわからないけど、楽しい。ふわふわする。
 今ならなんでもできそうな気がした。
 身体は疲れきっているはずなのに、剣を持つ手はかぎりなく軽かった。
〝初めて対等になれると思った。友達【ライバル】になれると思ったの。またあなたと戦いたいと思った〟
 誰の言葉だったか思い出せないけど、なんか素敵なことを言われた気がする。
 椛は気分が良かった。
 それは脳が身体のだるさをだまそうとしているだけなのかもしれなかったが、酒に酔っているときのような気だるい陶酔にも似ていた。
 たしか、噂によればこの人間はものすごく強かったはずだ。
 ということは、この人間を倒せば自分もけっこう強いはずだ。
 だとしたら、文ちゃんも自分とまた友達になってくれるかもしれない。
 ぼんやりとした頭でよくわからない結論を出す。
 ――まあ、いいか。
 とりあえず、にとりちゃんの借りを返してやらなければ。
「じゃあ、いきますよ」
 身体のまわりに風が巻く。意識せずして起こした風がどこからともなく、紅葉を運んできた。
 どうせならこの赤ごと全部斬り払ってみせよう。
 初撃から全開で。
 相手が強者だと知れていれば、どのみち遠慮は一切無用なのだ。


 ◆


「……どこが下級なのよ!」
 霊夢は次々と繰り出される弾と剣閃との間をすり抜けながら苛立ちまぎれに叫んだ。
 白狗の放つ弾幕と太刀筋は、まったく尋常のそれではなかった。
 ギリギリのところでなんとかかわせているのが現状で、こんなの反則じゃないかと思うような攻撃もたまに飛んでくる。懐に忍ばせた退魔符【スペルカード】に手を伸ばしかけたのは一度や二度ではない。
「もう……っ!」
 視界を覆うような量の弾幕を下に飛んでかわし、そのまま白狗の足元をくぐり抜けて反対側に抜ける。
 霊夢が椛を〝下級【ザコ】〟と見誤ったのには理由がある。
 道中、何匹もの烏天狗たちを見かけるうち、服装でそれなりの等級が位置づけられていることに気づいた。たとえばそれは帽子であったり、その房飾りであったり、胴衣であったり下駄であったりした。リーダー的存在であれば服にはそれなりの意匠が施されていたし、よく見れば細かい装飾も身につけていた。
 その意味において、この白狗の衣装は限りなく簡素だった。
 意匠といえば袴の紅葉柄のみ、装飾といえば帽子の房【ふさ】についている鈴がひとつだけ。
 それらも高価なものには見えなかったし、これまでの天狗たちとのパターンともちがったから、おそらくは個人的な好みで身につけているだけなのだろう。いわば、まっさらな新人天狗といった風情であった。
 ゆえに霊夢は彼女を下級天狗であると断定した。
 その判断は何も間違っていない。間違っているものがあるとすれば、それは椛の実力と序列とのバランスだけであった。
 反対側に抜けた霊夢は空中で振り向きながら停止し、白狗と正対する。
 彼女は一時的に手を止め、まっすぐに霊夢を睨みつけていた。
 正眼に構えられた剣の向こうで双眸が鋭く光る。
 肩で息をしながらも、意志を携えたその瞳だけはけっして色を失うことなく……むしろ最初よりも輝きを増しているように思えた。
 ――これは狗【いぬ】じゃない。
 もはや狼だ。
 ひときわ強い風が二人の髪をなぶり、夕刻の西日に照らされて火の粉のように燃え立った紅葉が、両者の間に赤々とばら撒かれた。黄昏を背に浮かぶ白狼の輪郭が黒く切り取られ、その影の中でふたつの眼光だけがくっきりと浮かぶ。
 ふいに、その眼が閉じられる。輝きがまぶたの向こうに消える。
 白狼が大きく息を吐き、
 深く吸いこんだ。
 あれだけ強く吹いていた風が――その一瞬だけ凪いだ。吹き上げられ逆巻いていた赤片が、凍ったようにその時間を止める。
 凛、と鈴の音がひとつ静寂の中に取り残された。
 ……くる。
 白狼が目を開き、
 空気を蹴飛ばして、
 剣を振りかぶった瞬間にはもう背後にすべての紅葉を置き去りにして、
「――訂正」
 霊夢の手は退魔符を抜き放っていた。
 笑う。
「雑魚どころか、ずいぶんな大物だったわ」
 次の瞬間――
 真っ白な光と剣とが、正面から激突した。


  /


 にとりは布団に横たわる椛の体温と脈をとると簡易のカルテに書きこんだ。
 大丈夫、たぶん問題はない。
 医者でもない自分が断定するにはやや心もとないにしても、それなりの知識はある。人体に作用するものだってたまには作るのだ。これくらいの基礎知識がなければエンジニアなんて名乗っていられない。
 ……まあたしかに門外漢であることにはかわりないから、あとでちゃんと里の獣人にでも診てもらおう。
 ふすまが開き、文【あや】が部屋に入ってきた。
 にとりは立ち上がって場所をあけ、そこに入れ替わるようにして文がすわる。
「かなりボロボロだったし消耗は激しかったけど、体力を使い果たして気絶してるだけで別状はない。あんだけ派手にぶつかったわりには丈夫なことだね」
 文は無言で椛の手を握り、彼女の顔を見ていた。
「その代わりに――それだ」
 にとりは枕元の剣を指さした。
 文が、ちらりとだけそちらに目をやる。椛が使っていた剣は根元から真っ二つに折れていた。
「あの場所に落ちてたよ。ここまできれいに折れているとかえって清々しいくらいだ」
「……あなたにとって、椛はなんですか?」
「妙な質問をするね」
「答えてください」
 珍しく居丈高な質問の仕方ではあったが、それだけ真剣な問いなのだとにとりは思った。
 ざっと自分の中の思考を整理し、
 それが言葉として形になったところで口を開く。
「研究者としての興味が半分、個人的な興味が半分、ってとこかな……」
「個人的な興味、ですか」
「うん。あんたの言い回しじゃないけどこんな仕事をしてるとね、ものごとをデジタルにしか見れなくなるときがある」
 くるくると手元の体温計を回しながら、にとりは流れ出てくる思考をそのまま言葉にする。
「要素分解、科学的視点、観測者的中立――ってやつかね。計量的で、統計的な視点だ。そこに拘泥するあまり、自分の感情さえも摂氏何度に値するか、なんて考えたりしてさ。そんなときでも、この子と接していると……自分の中で凝り固まっていた何かが溶けるような感覚をたまにおぼえるんだ」
 文は何も言わずに、ただうなずいた。
 どれに対する肯定だとも、共感だとも口にしなかった。
 椛の顔を見つめたまま小さく、うなずいた。
 そして最後に重ねた手をそっと握ると、彼女の額をひと撫でして立ちあがった。
 ふすまを開き、部屋を出ていく。
「めずらしいこともあるもんだ」
 にとりは腕組みをして部屋の壁にもたれかかりながら、その背中に声をかける。
「ずいぶんと熱くなってるじゃないか。『記者は私情を挟まず、いつでも客観かつ中庸【ちゅうよう】、冷静さと好奇心をもって』――じゃなかったのかい?」
「取材は中止です。それどころじゃありませんから」
 文の背中が答える。
「今の私はただ、この子の友達です」
 後ろ手にふすまが閉じられた。
 一拍おいて外から翼のはためく音が聞こえ、すぐに遠ざかっていく。
「私情を挟まず好奇心をもって……ってところが、すでに矛盾してるような気がするけどね」
 忍び笑いを漏らしながら、にとりは部屋の外に視線を向けた。
 表面上は冷静に見えて、意外と私情を抑えられないところがあるんだよな――と、にとりは思う。そこが新聞屋のいいところであり、また同時に短所でもあるのだが。
「戦いのさなかに、ヘンに熱くなりすぎなきゃいいけど」


  /


 博麗の巫女は思っていたよりも強かった。
 でも、ぜんぜん敵わないというふうには思わなかった。
 いつも文を目で追っていたからだろうか。たしかに彼女の弾幕は同僚の天狗たちとは比べ物にならないくらいすさまじかったけれど、椛の身体は考えるよりも先に射線をかわしていた。あの部屋でした鬼ごっこのときに比べればこれくらい、落葉をよけるのとたいして変わらない。自分で思っていたよりもずっと冷静に、紙一重のところで札の軌道から抜け出ることができた。
 あの昔あの日あの試合のときと同じように、強い相手と戦えることの喜びが身体中に満ちていた。
 あの昔あの日あの試合のときと同じように、頭の中がかぎりなく澄み渡り、剣気が先端にまで満ち満ちていた。
 ……問題は、体力だった。
 ついさっきも同じようなことを思ったはずなのに、なぜ忘れていたのだろう。
 揺れる視界が定まり、思考にかかっていた靄【もや】が晴れるにつれて、椛の頭はべつのことを考えはじめた。
 強さってなんだろう。
 自分は思ったより強者とわたりあえるようだった。でも、にとりは言ったのだ。
 相手を倒すことが強さではない、と。
 たしかにそうだと自分でも思う。だって誰かに勝つことだけが強さだとは今でも思わないし、どれだけ弾幕勝負に勝ったところで相手を傷つけてしまうのであればそれは強さなんかじゃないと思う。じゃあ、なんなのだろう。
 ――よくわからない。それが正直な感想だった。
 だけどそれは、ひどく正しいことのように思えた。
 わかっていたらこんなことで迷わない。迷わずに「これが強さだっ!」なんて言えるのも、それはそれでどうかと思う。
 だから、よくわからない。
 剣を両手でにぎって構え、まっすぐに巫女を見据える。ひときわ強い風が吹く。
 よくわからないから――感じるままに。
 いまの自分が感じる「強さ」をそのまま相手にぶつけようと思う。
 相手にとって不足はないし、そもそもこの巫女は友達を攻撃したのだ。それはやっぱり許せない。自分は誰かに勝ちたいとは思わないけれど、誰かの代わりに戦えればと思う。戦いたいと思う。そのためにもっと剣を極めたいとも思うし、
 強くなりたいと……そう、思う。
 目を閉じておおきく深呼吸。
 ふいに、
 風がやんだ。
 帽子の房についた鈴が、凛と鳴った。
「いざ」
 空を蹴って飛翔する。
 巫女が笑った。
 目のくらむような真っ白な光が前方で爆発する。
 その瞬間、椛のうちに確信がおりた。
 ああ、そうか――
 この光の向こうに、きっと「強さ」があるのだ、と。



 ◆


 地面に激突するその寸前で、文は椛の身体をつかまえた。
 落葉を巻き上げながらスレスレのところを飛び、すこしずつ速度を落としていく。腕の中の彼女に負荷をかけないように、ふわりと着地。はらはらと周囲に紅葉が舞い散る中で、椛の身に着けていた鈴がちりん、とちいさな音をたてる。
 それに反応するようにして椛が身じろぎする。聞こえるか聞こえないかの大きさで呟く。あやちゃん――。
「……本当に椛は律儀ですね」
 さっき、椛をつかまえる前にも彼女は自分の名を呼んでいた。
 気づいていたわけではないのだろう。
 もしかしたら自分の勘違いなのかもしれない。
 でも。
 こんなものを後生大事に持っていたくらいなのだ。椛の性格からすれば、ありえないことではなかった。
「まだ、あの約束を覚えているのですか?」
 泣きそうな、それでいてこのうえなく嬉しそうな顔をして、文はそう言った。





 ◆5.ともだちの形



「……ね。椛、だっけ」
「え?」
 ぱちり。
 洞の中に乾いた音が響く。
「ちがった? 犬走椛。あんたの名前」
「あってるけど――下で呼ばれるなんて普段ないから」
 ぱちり。
 将棋盤に駒が打たれる。
「あー……馴れ馴れしかったかい」
「んーん。気にしない」
「じゃあこっちで呼ぶよ」
「うん」
 ぱちり。
 にとりがしてやったりといった表情を浮かべる。
「残念ながらそいつは罠だ」
「うう。そうか、そこに桂馬が……」
 ぱちり。
「椛はいっつもこのパターンに引っ掛かるね」
「むー」
 ぱちり。
「あ、それいただき」
「うげ。見えてなかった」
「へへへ、一本取ったり」
 ぱちり。
 視線は盤上に固定されたまま、会話だけが交わされる。
「それにしてもさ、椛は将棋が上手いよね」
「……そう?」
「そう。最近じゃ、山の妖怪たちの間で『ちぇす』とかいう彫刻を使った似たようなのが流行ってるけど」
 ぱちり。
 大将棋のように時間もかからず、なによりオシャレだから――だってさ、とにとり。
「私もやってみたんだけどね。なんかこっちのほうが好き」
「その理由、なんとなくわかる気がするよ」
 ぱちり。
「なに? ――金飛車取り」
「あまい、王手香車取り。――ちぇす、と将棋の違いってなんだと思う?」
「ちえっ……。んー、駒の数?」
「いいや、ようするに捕縛と首級の違いだ」
 ぱちり。
「生かすか殺すかってこと?」
「そうそ。しかも敵だったものを味方として扱える、これは珍しいルールだと思うね」
「そうなの?」
「大抵の場合しくじったり盾にされたら、その駒【そいつ】はその場でジ・エンド」
 ぱちり。
「なんか殺伐としてるねえ」
「そこだよ」
「へ?」
「その感覚が大事なんだ」
 打っていた手を休め、にとりは顔を上げた。
 自然、椛も手を止めて向き合う形になる。
「戦力の大小で考えるよりも先に、もっと感じるべきことがあるだろうってこと」
 椛は小首を傾げる。
 にとりはときどき文みたいな複雑な言い回しをすると思う。
「まあ所詮はゲームだから、そこまで深刻になるこたぁないんだけどさ」
 かるく肩をすくめる仕草をして、にとりはそんなことを言った。
「――で、話は変わるんだけど。新しい剣がほしいんだって?」
「うん……そうだね。いまの剣じゃあ、さすがにと思って」
「わたしに任せてくれないかい?」
「え?」
「その新兵器」
「いや、べつに兵器じゃないし新しくなくてもいいけど」
「いいから」
「引きうけてくれるなら、もちろんありがたいよ」
「よし決まりだ。一か月くらい待てる?」
「ん~。……ぎりぎり、かな」
「おーけーおーけー。あと、一回でいいから鍛錬を見せておくれよ。あんたの剣を確認しておきたい」
「ただのボロ木剣だよ?」
「そっちじゃなくてね」
「素振り?」
「それでいいや。わたしが新兵器を作るのにゃ欠かせないのさ」
「……もしかして新兵器って言葉、好きなの?」
「好きだねー! ワクワクしないっ?」
 椛は目をぱちくりさせた。
 クールで論理的だと思っていた彼女の、それはそれは楽しそうな目の輝き。


 ◆


 椛は、ゆっくりとまぶたを開いた。
 ぼやけていた視界が徐々に輪郭を取り戻していく。
 見慣れた天井。
 ……夢、だろうか。
 どこからどこまでが夢だろうか。
「つっ」
 身体を起そうとして全身に激痛が走った。それでも、なんとかして上半身だけをもち上げる。
「あー、だめだめ。医者にはまだ安静って言われてるんだから」
 声のしたほうに視線を向けると、床にあぐらをかいて座るにとりの姿があった。足元にはなにやら図面の書かれた紙が広がっていて、よくわからないが小さな金属部品もちらほらと並べられていた。
 彼女はそれらを手早くまとめて脇に置いてあったリュックを引きよせ、無造作に突っ込んだ。
 用途もなにもわからないからアレだけど、あんなに雑に扱って大丈夫なのだろうか――と、椛は思わず余計な心配をしてしまう。
「そ、それより体調は大丈夫なのっ!?」
「私は大丈夫だよ。おそらく、三日連続で徹夜の実験してたのが響いたんだろうねー」
 椛の言葉に、にとりは苦笑を返す。
 あっけらかんとしたその口調は本当に平気そうで、椛は安堵に胸をなでおろした。そんなことより自分の心配を先にしなさいよ。彼女は続けてそう言う。
「ずいぶんと無茶したみたいだね。あんた、まる一日ちかく昏倒してたんだよ」
「無茶……?」
 えっとえっと。
 椛はぼんやりとした頭で、必死に記憶の糸をたぐりよせる。
 たしか、鍛錬の帰りににとりちゃんが落ちてきて、部屋を出て、あの子と戦って、それから……
 思い出そうと身じろぎをしたところで、ふと手に触れるものがあった。
 視線をそちらに向けると、枕元に剣があった。
 いや、正確に言うのならばそれは剣だったもの、だ。
 半ばから折れ長さが半分になったその柄に手をかけたとき、突如として記憶はよみがえった。

〝――夢想封印――〟
 
 挑戦的に向けられた巫女の視線と、目の前にかざされた札【ふだ】。
 あとはただ真っ白な記憶。
 どんなふうに戦ったのかも、どうして剣が折れているのかも、なぜここで寝ているのかもわからない。
 ……いや、
 椛はかぶりを振る。
 なぜ寝ているのかはわかった。
 あのあと、わたしは負けたんだ――。
「ごめん……なさい」
 知らず、そんな言葉が口をついて出た。
「うん?」
 にとりは何を言われたのかわからないといったような顔で椛を見る。
 椛は、剣を持った腕を布団のうえにだらりと下げ、剣だったものをうつろに見下ろしていた。
「ごめんなさい。せっかく、作ってくれたのに」
「ああいや、べつに」
 そんなのいいよ――そう言いかけた言葉が止まった。
「ちょ、ちょっと! 泣くこたぁないだろ!?」
 椛の瞳から雫がこぼれた。
 幾筋も幾筋もとめどなく、ぼろぼろと。
「だって、」
 せっかくにとりちゃんが作ってくれたのに。その言葉は嗚咽【おえつ】に混じって自分でさえよく聞き取れなかった。負けたことも悔しかったし、友達の仇を討てなかったことも悔しかった。だんだんとこぼれる涙さえもがなぜか悔しくなってきて、泣いているのが悔しくてまた泣いた。
 にとりは最初こそ戸惑っていたものの、ひとつため息をつくと、「よしよし」と椛を抱きしめた。
「わたしはね、その気持ちのほうが嬉しいよ。だから泣くんじゃない」
「でも、」
「剣はまた作ればいい。今度は、あれくらいじゃ壊れないくらい頑丈なのを作ってやるさ」
「だって、」
「いいから。物はいつか壊れる。それをわかっていて、エンジニア【わたしら】は物を作るんだ」
 椛はしばらくぐずっていたものの、最後にすん、と鼻をすすり、
「いいの?」
「わたしが作りたいんだ。作らせておくれ」
「うん……」
 そしてそのまましばらく沈黙があり、
 ふと椛が小さく笑った。
「どした?」
「ううん、あのね……」
 そして思い出し笑いをするように、ふたたび笑みをこぼす。
「作りたいのは……『新兵器』が好きだから?」
 にとりは不意打ちをくらったように目を丸くし、そして盛大に噴き出した。
「もちろんだよ! わたしは新兵器が作れるかと思うと今からワクワクが止まらないのさ」
「今度は爆発しないでね」
「さあ、そいつはどうだか……」
 ふたりの笑い声が、小さな座敷にひびく。
「おや、楽しそうですねー」
 そこに襖を開けて、烏天狗が一匹顔を出した。
「文ちゃん?」
「寝込んでると聞いて見舞いにきたんですが……大事はないみたいですね」
「ま、ついさっき目を覚ましたんだけどね」
「そうですか。――それにしても、ずいぶん無茶をしましたね、椛」
「……それ、さっきも言われた」
 苦笑まじりに椛は答える。
「なんで文ちゃんがそれを知ってるの?」
「それはね、ここに椛を運んだのがその新聞屋だからさ」
「文ちゃんが……」
「そうですよ。博麗の巫女は、上層部や紅魔館の吸血鬼でさえ手を焼く相手なのです」
 文は人さし指を立てて、ずいと椛に迫る。
「あれ相手に一人で挑むだなんて、あまりにも危険です」
「ほー。さよか」
 子供を叱る親のような調子で椛に忠言する文のうしろから、にとりが底意地の悪い笑みを浮かべて言った。
「そんな文さんは、いったい巫女相手にどうしたのやら?」
「うぐ。……私は負けてませんよ。山の神が新参のくせに幅をきかせすぎていましたので彼女を誘導して利用したというか、あまりパワーバランスが崩れるのもよろしくないと思ったといいますか、なんというか、そう、新しい記事のネタになると思って」
「ほぉー。わたしはまだ、なにも言ってないんだけどなー」
「むむむ……」
 勝ち誇った笑みを浮かべてねばっこい視線を送るにとりと、それを嫌そうに受け流す文。
 双方の間で何往復か視線をさまよわせた椛は「け、ケンカはだめだよっ」と言って二人の間に割って入る。
 そんな椛を見て、にとりと文はふわりと柔らかく微笑みあうのだった。


「――さて、じゃあ私はそろそろお暇【いとま】するよ」
 にとりがリュックを背負い、立ち上がる。
「あ、待って。見送るよ」
「いいから寝てなって。まだ立つのはしんどいだろ?」
「だいじょうぶ。すぐそこまで」
 椛がよろめきながらも立ち上がってしまったので、また寝かせるわけにもいかなかった。
 しぶしぶといった感じでにとりは戸口を開く。まだ足元がおぼつかない椛を二人は支えようとしたが、そこまで世話になるのは気が引けると彼女がしきりに遠慮するので、三人はずいぶんな時間をかけてゆっくりと外に出た。
 外に出ると、空は抜けるような蒼さだった。
 太陽はすでに中天を通りすぎ、昼下がりの穏やかな日射しをふりまいている。
「今日の畑仕事、さぼっちゃったなー」と椛。
「こんな時くらい休まないとだめです」と文。
「たまには放置プレイも重要だよ」とにとり。
 ぐだぐだと、とりとめもないことを話しながら三人はすぐ近くの河原まで歩いた。
 トンビの甲高い声が秋空に響き渡る。
「そうだ」
 河原に到着すると、ふと思いついたように、にとりは水際で立ち止まってリュックを探る。やがてその中から布にくるまれた一本の棒きれのようなものを取り出す。
 中身は――先の戦いで折れた椛の剣。
 刀身は二つに折れていたけれど、先端だけがわずかに欠けていた。
「椛。手出して」
 椛が首をかしげながらも手を差し出すと、にとりは剣の切っ先だけの部分をつまみ、小さな布きれに乗せかえて渡した。
「ま、とくに意味はないんだけど。持ってて」
「うん、べつにいいけど……」
「気分だよ。木守り柿みたいなもんだと思ってさ」
 木守り柿――来年も実がたくさんつくように、収穫の終えた柿の木にひとつだけ残しておく柿。
 それが意味するところは。
「次の剣にゃ、期待してておくれ」
「……うん。わかった」
「じゃ、また今度」
 にとりは踵【きびす】を返し、二人に背を向けたまま手をひらひらと振る。
「河童さん、今回はお手数をおかけしました」
「……なんのことだい?」
 文がその背中に声をかけた。
 にとりは河辺で立ち止まり、背を向けたまま答え、答えながらも思う。
 いやらしい奴だ、と。
 この天狗はいつもこうやって、質問の真意を曖昧にして訊くのだ。
「椛がお世話になりました」
 笑顔のまま、やはり天狗はぼやかした言葉を紡ぐ。
 椛を介抱したことに対してか。
 励ましたことか。
 剣を作って渡してやったことか。
 あるいは――〝依頼通り巫女に負けてみせた〟ことなのか。
 けれど、答えは決まっている。
「たいしたことじゃあないよ」
 どのことに向けた問いであったとしても、すべて返答は同じだ。
 なぜならそのすべては椛の、友人のためなのだから。世話などした覚えはないし、世話などと思ったこともない。
 そしておそらくこの天狗は、そのすべてに問うているのだ。
「――そうですか」
「じゃ」
「最後にひとつ。〝腕の調子は、いかがですか?〟」
 河に飛び込もうとしていた足が止まる。
 この天狗……そういうことか。
 あのとき切り札を出さなかったことを、本気でやっていなかったことを――見抜かれていた。
 にとりは振り返り、にやりと笑って言う。
「どうも最近、伸びが悪くってね」
「それはそれはお大事に」
 文も意味深な笑みを返してくる。
 すべてはお見通しとでもいうように。
 にとりはこの天狗のことが嫌いではなかったが、こういうところはちょっと苦手なのだった。
 口の端に苦笑が混じる。
 椛が「にとりちゃん、腕ケガしてるの?」と尋ね、文は「筋肉痛みたいなものだと思いますよ」ととぼけた返答をしていた。
 そんな二人のやりとりに背を向けて、
 にとりは今度こそ水の中へと身を躍らせた。


 ◆


 波打つ水面がしずまるまで待って、二人はゆっくりとその場を引き返す。
「それにしても、あんなに戦うのを嫌がってた椛が博麗の巫女に挑むなんて不思議ですね」
「そ、そう?」
「ええ。ちょっと前からはとても考えられません」
 楽しそうに、嬉しそうに。文は目を閉じてうつむき、歩みを進めながらくすくすと笑う。
 そんな彼女の横顔を見ながら、椛はふと不思議な心地にとらわれる。
 ほんの数日前まで、文とまたこんなふうに歩きながら話すことができるようになるなんて、まったく想像もしていなかったのだ。
「それに、強くなりました」
「そ……そう?」
「ええ」
「……ううん。やっぱり、わたしはぜんぜん強くないよ」
 たしかに思っていたよりは善戦したと思う。
 でもやっぱり終わってみれば彼女には傷ひとつつけられなかったわけで、自分はボロボロで剣まで折られてしまったわけで――強くなったのかと問われると、やっぱりわからない。
 たとえ昔よりは強くなっていたとしても、自分はまだまだなのだと実感した。
 
 ただ――
 あのとき、光はたしかにそこにあった。
 
 ともだちをまもるための剣。
 それと同時にそこに感じた、素晴らしい相手と対峙したときに感じる澄んだ心地。
 自分の求め続けた「強さ」の答えが、その真っ白な光の向こうに在った気がしたのだ。
 だから、もし。
「あの、あのね、笑わないでね」
「なんですか?」
「もし、ね」
 隣を歩く文は、淡い頬笑みを浮かべながら椛のほうを覗きこむ。
「はい、なんでしょう」
「あの……その、ね。だから、」
 ものすごい勇気が必要だった。死にそうだと思った。
 剣を持って家を飛び出したあのときなんかよりも、ずっと勇気を出さないと前に進めないような気がした。
「……っ」

 ちりん。

 鈴の音が響いた。
 椛はびっくりして小さく飛び跳ねてしまう。
 ごそごそと音のしたあたりをさぐると、袴の紐の端にあの鈴が結びつけられていた。
 その鈴をそっと手に取る。
 するとなんだか気持ちが落ち着き、言葉は意外なほどすんなりと出てきた。
「もし私が強くなったら――また昔みたいに、私の友達になってほしい……です……」
 語尾はだんだんと尻すぼみになってしまった。
 でも、とにかく言えた。
 しばらくぎゅっと目を閉じてうつむいていたけれど、いつまでたっても返答がない。
 おそるおそる目を開けて顔を上げようとしたところで、
「――もう、真剣な顔して何を言うかと思ったら」
 笑いをこらえるような、それでいて優しげな声が聞こえてきた。
 ぽん、と頭の上に手のひらが置かれる。
 椛は一瞬びくりと身体をこわばらせたが、そっと包みこむように抱きしめられて静かに力を抜いた。
 今日はよく抱きしめられる日だ、なんて場違いなことを考え、

 そんな椛の耳元にささやくようにして、
 文が、








 帰りの道中、二人はずっと無言だった。
 けれどそれは気まずい沈黙ではなくて、言葉がなくても一緒に空気を共有できる者どうしの、声なき会話のようですらあった。
 ときおり視線を横に向けると文も気づき、笑みを返してくれた。
 それがなんだかくすぐったくて、顔がふにゃりと緩んでしまって、椛はなんだか恥ずかしかった。
 そうして長い時間をかけて家までたどりつくと、その前に待ちくたびれたような一匹の烏天狗の姿があった。
「――もう、遅い! どこ行ってたの!」
 その反応から、彼女はもしかしたら相当な時間ここにいたのかもしれないと椛は思った。
「っていうか、あなた大丈夫なの!? もう動いていいの!?」
 心配しているやら怒っているやらよくわからない口調でまくしたてられて、「ああ、うん」と曖昧な返事をする。
 彼女はそれならいいか……とつぶやいて、そのあと自分の失言に気づいたように慌て、
「べ、べつにあんたを心配してるわけじゃないんだからね! 射命丸さまにお願いされたから、仕方なく来ただけなんだからね! 勘違いしないでよねっ!!」
 顔を真っ赤にして叫んだ。
 あまりにもあからさまなその言いように、椛は一瞬きょとんとしたあと、盛大に噴き出してしまった。
 文もなにやら顔をそむけてプルプルと震えている。
「な、なによその態度! 誰が見逃してあげたと思ってるのっ!」


 そのあとも彼女はなんだかんだとわめいていたけど。
 最後には「ちゃんと治しなさいよ、今度こそ絶対に叩きのめしてやるんだから」と見舞い品を山のように置いて帰っていった。
 体調はその後数日ですっかり回復し、そのあまりの順調さは里の賢者を驚かせた。

 今、椛の文机の上には写真立てと、
 見舞い品の残りと、
 あの鈴と、
 剣のかけらが置かれている。
 
 
 
 ともだちの形はそれぞれだけど。
 ひとつの形は、たしかにここにある気がした。




●エピローグ


「おもしろいね、あの子は。本当におもしろい」
 にとりは真っ二つに折れた剣を手に取りながら、愉快そうに笑って言った。
 河底に隠された、にとりの研究所【ラボ】である。
 薄暗いドーム状の空間には照明といえるものがなく、怪しげに光る薬品やら計器やらの漏らすわずかな明かりのみが、不気味に家主の顔を映し出している。
 ここに黒魔術道具のひとつでもあれば、まちがいなく狂信者【マッドサイエンティスト】の巣窟だ――と文は思った。
「自信作だったんだよ、わりと。少なくとも、その辺の天狗にゃ100年使わせたってガタがこないってくらいの代物だったんだ」
「――でも、あの子にはたった数年でへし折られた」
「そういうことだね。まったく予想外にもほどがある……相手も悪かったんだろうけど」
「あなたの予測が甘かったのでは?」
「かもね。しいて言えば、あの子の潜在能力と成長速度を見誤ってた」
「……まあ、それは私にも言えることですが」
 烏天狗は珍しく自嘲ぎみにこぼした。
「まさか博霊の巫女を本気にさせるほど強くなってるとは思いませんでした。椛【あの子】の怪我は――」
「半分はわたしの責任だね」
「半分は私の責任です」
 にとりと文がまったく同時にそう口にし、目を合わせて同時に苦笑した。
「そうなると――次は、それに耐えうる以上のモノを作らなきゃならない。こいつは難儀だよ」
「とか言いつつ、私にはとても楽しそうに見えるのですが」
「楽しいよ。実際、愉【たの】しくて仕方がない。開発者冥利に尽きるってもんだ」
「期待してますよ」
「剣に? それとも椛に?」
「あなたにも。まだ『奥の手』を隠しているのでしょう?」
「買いかぶりだね」
「そういうことにしておきましょうか」
 にとりが苦い顔をする。
「あんた、そういうとこ直したほうがいいと思うよ」
「御冗談を。これなくして記者は務まりません」
「わたしに使わなくてもいいじゃないか……」
「ともあれ頼みましたよ」
「はいはい。次の異変までに間に合うかどうかは、わかんないけどね――」
 おそらく、大多数の人は初めまして。
 お見知りおき――をいただくまでもないかもしれませんが、「KY」あるいは「かざみ」の名で文章を書いている者です。
 同人で最後まで書き上げた作品はこれが初めてですが……。

 この作品は、友人が書いたマンガのネームをノベライズするという形で書かせていただいたものになります。
 ご本人様から「好きにやっていいよ」と言われまして、いろいろと煮詰めているうちに、本当に自由すぎるシロモノになってしまいました(^^;

 pixivユーザーの方で興味をもたれましたら、こちらで友人のマンガ版もご覧いただけます(※ もしこれが禁止事項に抵触するようでしたら削除いたします)。
 http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=midium&illust_id=14182006
 (あるいはユーザーID 618574 より)
 ネーム段階のものに合わせたため意図せずして展開が異なっている部分もありますが、原作の魅力を損なうようなものになっていないことを願うばかりです。
 蛇足ではありますが、エピローグから二段落前の最後の文章は、「ささやいているセリフを明示しない」というネームの方向性に沿ったものであり、けして手抜きや欠け落ちというわけではありません……と言い訳を添えておきます(笑)。


 本編をお読みになられた方は、いかがでしたでしょうか。
 この作品が読者様の中にある東方世界を、より魅力的に想像する一助となれば、これ以上の幸いはありません。

 では、またどこかでお目にかかれましたら。
KY(かざみ)
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コメント



0.600簡易評価
5.100バターピーナッツ削除
 長文を書けるだけの実力があって羨ましい限りです。
椛が成長して行く姿、それを見守り手助けする文とにとりの姿がとても印象的でした。
心理描写はお手本にしたいくらいです。

 今後のご活躍を心から願います。
6.50名前が無い程度の能力削除
ルビの使い方が少々余計に感じました。ここは特殊な読み方をしてほしい思うところだけに絞ったほうがよかったかと。
普通に読めるものに中途半端に振ってあるルビが変に鼻につきます。
7.無評価名前が無い程度の能力削除
申し訳ないのですが私にはこれを最後まで読みきることができませんでした・・・
理由はルビです。

私は文章を読みながら風景や世界を想像していくのですが、
ルビに差し掛かる度にひどい違和感を感じてしまいました。
例えるなら、走っている途中で立て看板がガンガンぶつかってくるような感覚です。
真似すら読めないと思われているのか、と感じてしまってからはもう無理でした・・・

感想を書く資格などありませんが、あえて書かせていただきます。
作品そのものには非常に好感を覚えました。
14.無評価KY(作者)削除
評価やコメントをくださった方、ありがとうございます。

ルビについては、ふだん中高生向けの文章を書いているせいもありまして、そちらのクセが変に出てしまっているようです。
プリントアウトしたものではそこまで気にならなくても、こういう形式ですと非常に邪魔になるんですね……。
今後は注意していきたいと思います。
読者の語彙を見くびっているわけではありませんので、もし不快に思われた方がいらっしゃいましたら申し訳ありません(--;

拙文を読んでくださった方々、ありがとうございました。
17.60名前が無い程度の能力削除
先の感想者も述べていましたが読めば読むほどルビがとても邪魔でした。

椛好きな自分としてはこの話はいい話なのですが過度なルビが多すぎで途中でお腹一杯になってしまいました。

次回に期待という形で今回はこの点数で……