意識を闇から少しずつ引き上げる。最初に戻ってくるのは視覚だ。光があることを感じて、そして次に呼吸がまだあることに気づく。鼻腔から微かな風の匂いが侵入し、あちこちから人が暮らす音が聞こえてくる。
深いのか浅いのかも分からぬ眠りから覚めた私は、固まっていた身体を無理矢理動かして、腹の底まで息を吸った。痰が絡んでいるのか、喉がごろごろと言った。
澱んだ水の底から一直線に浮かび上がって、水面に顔を出して息継ぎをするような感じ、だろうか。生まれ付いた身体がそう強いとは言えなかった私は、水中に身体を沈める経験など、屋敷の湯船くらいでしかしたことがないが。
目を開いた。胸がずきりと痛んだ。無数の小さな針に囲まれて、心の臓は相も変わらずとくとくと動き続けていた。縁側、開け放たれた窓からも、鋭い光が押し寄せる。私はうんざりして、再び目を閉じた。
この稗田阿求の命は、もう長くはない。
眠りについてしまったらもう目覚めないだろう、と毎晩のように予感するくらい、私は衰弱していた。いや、もしかしたら、眠っている間の私は死んでいるのかもしれない。今の私は、そう思えてしまうほどに曖昧であった。就寝と起床も生誕と絶命も、もはや私には区別がつかないのだ。
寝返りをひとつ打つ。長いこと臥せっているので、ただそれだけの動きでも非常に億劫である。しかし身体を動かさないと血が偏ってしまうし、何よりも他にすることが何もない。
幻想郷縁起の編纂も転生の準備も、全ては恙無く終わっている。後はお迎えを待つばかりだ。せめて顔見知りの死神が迎えに来てくれますように、と祈ってみたりしても、時間は潰れてはくれない。
さっさと、終わってしまえばいいのに。
誰もいないだだっ広い部屋の中、そんなことを呟いてみる。稗田の屋敷は大きいので、それぞれの部屋も必然的に大きい。私が臥せるこの部屋だって、無駄に二十四畳もある。
縁起の編纂を終えたときに満ち満ちていた達成感は、今やこの広大な空間の中にすっかり撹拌されてしまっている。心はその分空虚で、落ち着かない。何か大事な忘れ物があるのに、それを思い出せないときの気分だ。
広い部屋にぽつんと寝かされていると、その落ち着きのなさに拍車がかかるのだ。死にかけの女一人を置いておくだけなら、物置でも十分だと思うのだが。
あぁ、物置。いいかもしれない。役目を終えて朽ち果てるばかりの道具を保管する場所として、物置以上に最適なところなどないではないか。
つらつらと思考を続ける私の耳に、足音が飛び込んできた。とんとんと廊下を歩くのは、物心ついたときから聞き慣れた女中のものだ。
続いて、さぁっと襖を開く音。
「いやァ、暑い暑い。今年の夏は暑いですよ、阿求様」
現れた彼女は汗を拭いながら、その場に膝をついて座った。
そうか、今日は暑いのか。最近はもう半分死んだようなものだから、暑さもなにもまるで分からない。
「そういうこと言ってるから、本当の死人みたいな顔になっちまうんですよ。鏡見てますか? 年頃の娘のくせに、信じられないほど顔色が悪くて」
別に誰に見せるものでもなし。問題はない。
「大ありです。今日はお客様が見えてるんですから」
客、だって?
私は僅かに目を見張った。まだ身体が十分に言うことを聞いていた頃に、大抵の知り合いとは面会を済ませていたはずだ。この期に及んで、死にかけの求聞持にわざわざ会いに来る物好きとは、いったい誰だろう。
「それがね、驚くじゃありませんか。竹林の薬師だって。あの有名な八意様ですよ。阿求様に薬を渡したいって、直々に。あ、なんかちびっこい娘っ子も一緒でしたけど」
八意、八意永琳か。これは意外な客どころの話ではない。
女中の言う通り、この里の人間であれば彼女の名は誰だって知っている。数年前から迷いの竹林で永遠亭という薬屋を始め、その腕の良さであっという間に里の医者のお株を奪ってしまった。出自は不明だが、外来人ではないかと噂されている。
迷いの竹林は人間がおいそれと入り込める場所ではないが、危険を冒してでも永遠亭の薬を欲しがる者は後を絶たない。その需要を察した、のかどうかは知らないが、彼女の弟子だという妖怪兎が置き薬の行商にやってきてはいる。しかし、人当たりがあまり良くないのと説明が小難しいのとで、こちらはあまり受け入れられているとは言い難い。
「とにかく、お通ししてもよろしいですね? いや、私も断ったんですよ、一応。でも向こうさん、どうしても会いたいって言うもんですから」
冗談じゃない。こちとらあと一息で死にそうな身だっていうのに、今更薬など貰って何になる。
「わがまま言うんじゃありません。阿求様、ここ最近、胸が苦しいんでしょう。隠してたって分かりますよ。何年貴女の面倒を見てきたと思ってるんですか。残り少ない命なら、せめて快適に過ごすようにしなきゃ。八意様の薬ですよ? 欲しくったって手に入らない人は沢山いるんです」
その言説は、私の嫌いなものの中でも五本指に入る理論だ。ただでさえ機嫌が良くなかったところにイライラも加わったので、どうにかして断ってやろうと三秒ほど考えたが、上手い理由も浮かばなかったので早々に諦めた。
「じゃあお連れしますから、待っててくださいな」
そう言って立ち上がり、女中は再びとんとんと歩いていった。
しばしの静寂を取り戻した部屋の中で、私は八意永琳の来訪の理由について考えた。
彼女との面識は全くない。求聞史記には確かに彼女について記載はしたが、その中味の全ては他人からの伝聞である。
私に薬を持ってきた、と女中は言った。これがもし哀れみからの施しであるのなら、私は薬師の顔に唾を吐き付けてやらなければならない。
私の人生が人間の中でも短い方に定められているというのは、紛れもない事実である。しかしその一点だけを取り上げられて、「可哀想だ」と言われることが私は我慢ならないのだ。
阿礼乙女たる自分の人生には、生まれたときから成すべきことが定められていた。私はそれをやり遂げた上で死ぬのだ。成すべきことを見出せずにのうのうと命を消費するだけの人妖に比べれば、私の人生はずっと上等なものに違いあるまい。
それに、「可哀想」という単語そのものが実に鼻持ちならない言葉である。「哀れに想う可し」とは、これまたどうしようもなく見下げている表現ではないか。
私はとりあえずそこまで勝手に想像を巡らせた。そして寝たままで来客の顔面に唾棄する方法を編み出そうと頑張ってみた。舌をすぼめて水鉄砲の要領で飛ばせばいけるかもしれない、とまで考えたところで、再び襖が開いた。
「こちらになります、八意様」
「えぇ。ご案内、どうも有難う」
入口に姿を現した八意永琳は、ほとんど話に聞いていた通りの容姿であった。
凄腕の薬師とは思えない、少女然とした大きく強い瞳に、月光を紡いだかのような濁りない銀髪。服装の方は、一度見れば忘れることはないだろう。赤と青で奇抜に染め上げられた医務服だ。そこに星座の刺繍が縫いとられている。
想像と異なっていたのは二点。想ったよりも背が低いことと、頭の後ろに奇妙なものを乗せていたことである。
「お初にお目にかかります、稗田殿。八意永琳と申します。ほら、貴女も」
「はーい、自己紹介のお時間ね。私の名前はメディスン・メランコリーよ。で、こっちがスーさん」
奇妙な『もの』。生きてはいるが、人形なのだから物には違いあるまい。無名の丘に住んでいる毒人形が、永琳の肩車に乗ってそこにいた。
薬と毒。物騒なものを専門とするふたりの組み合わせだ。何をしに来たのだろう。まさか私が死にかけなのをいいことに、人体実験でもする気なのだろうか。
「そんなまさか、ですわ。実験動物には、もっと活きのいいのを選ばないと」
「毒を吸わせるにしてもなー。すぐにぽっくり逝っちゃってつまらなさそう」
私の命を弄ぶ気はないらしい。しかしそうなると、猶のこと目的が分からない。
「今日は二つ、目的があって参りました。ひとつは、この子に読ませる資料を借りに。そしてもうひとつは ――」
永琳は、メディスンを畳に降ろしながら、不可解な言葉を口にした。
「貴女に、恩を返しに」
私に微笑む薬師の意図が、これで完全に分からなくなった。彼女に恩を売った覚えなど全くない。求聞持の能力が鈍っているのでない限り、それは確かな事実だ。
「まぁそのことはとりあえず置いておいて、まずはお体の調子を拝見させていただきますわ」
「早く済ませちゃってよ、永琳」
私の話には取り合わず、永琳は私の身体のあちこちを触診し始めた。女中の件といい、今日の私は誰にも話を聞いてもらえないようだ。
永琳の両手が、私の顎の付け根へと伸びる。人差し指と中指で感触を確かめると、その手は段々と首筋から肩へ移っていく。
「ふむ」
そして、そのまま私の寝間着の合わせをさっと解いた。胸から臍にかけて、私の全てが露わになった。
「うわぁ、悲惨」
メディスンが小さく漏らす。その感想は私の現状を的確に表していた。何せ近頃は食べ物も碌に喉を通りやしないので、私に残されたものは骨と皮ばかりなのである。腹は肋が浮き出るどころか肋骨そのものを象っているし、乳房だって萎れた蜜柑のようにふかふかとしてしまっていた。
「……戻しますね」
その辺りに関しては二、三度触診しただけで、永琳は合わせを元に戻した。
「結論から言いますけども」
私の目を真っ直ぐに見つめ、永琳は言った。薬師の癖に、医者の真似事で私の現状を正確に把握したらしい。
「明日の朝日は拝めないでしょうね、多分」
そうですか。そうだろうな。
今日が人生最後の日だと唐突に宣言されたが、何の感動も感傷も浮かばない。永琳の言葉が持つ得体の知れない説得力によって、私の漠然とした予感が裏打ちされただけであった。
「貴女の身体も、魂も、もはや生きることを止めようとしている。普通の生物であれば有り得ない現象です。おそらくは、転生の術の影響なのでしょうが」
説明の傍らで、永琳は腰の物入れから何かを取り出した。小瓶に入った液体だ。
「間に合ってよかった。貴女にずっと渡そうと思っていた薬が、昨晩ようやっと完成したのです」
私に? ずっと?
「そう。これは言うなれば ―― 貴女を通常の輪廻に引き戻す薬」
息を呑む音が聞こえた。自分の瞳孔が広がるのが見えた。
私の魂の流れを、他の魂と同じ輪廻へと戻す。それはすなわち、求聞持の能力を持つ者が、二度と稗田家に生まれなくなるということである。
「輪廻の流れは、炭素循環と類似していますわ。獣の死骸が土に還り、養分となって草木を育て、別の獣の糧となるように。死んだ人間の魂が、次にまた人間として生まれることができるかどうかは、神や閻魔ですらも分からない」
永琳の右手に握られた小瓶が、薄い青を反射している。
「しかし稗田家の者は、求聞持の能力を保存するためにその理を逸した。貴女の魂だけは特別な方法で彼岸へと運ばれて、次に生まれる際には求聞持の能力だけを綺麗に洗い出される。そして再び、稗田の血の中へと投げ込まれるのです」
全ては、幻想郷縁起のために。この地に生きる、人間たちのために。
「そう、元は人間たちが、強力な妖たちに対抗するための策。戦って生き残るための指南書として、幻想郷縁起は必要だった」
でも、と永琳はそこで一旦言葉を切る。
「貴女は自覚しているはず。今の幻想郷に、かつてのような人妖の対立はない。であれば、自分のような存在はもう ――」
必要が、ないのではないか。
庭でさえずる鳥の声が、やたらとはっきり聞こえる。竈のにおいがする。昼餉の用意が始まっているのだろう。栄養の足りていない頭で必死に思考を巡らせる私に、永琳はさらに続けた。
「この薬は、転生の秘術をも打ち破る強力な作用を持ちます。閻魔に知れたら、大問題に発展しかねないほど強力。さらに、貴女の身体と魂も術から解放され、再び気力を取り戻すでしょう。貴女は人と同じだけの寿命を持って、人生に復帰することができます」
私の枕元に、小瓶が置かれた。青い液体がきらきら揺れるのが、少し眩しかった。
これを飲め、というのですか?
「私は薬を作るだけ。確かに人は私の薬を持て囃して飲むけれど、私はそれを指示したり強制したりすることはしませんわ」
永琳は立ち上がった。
「貴女はそれを飲んでもいいし、飲まなくてもいい。飲まずに死んでしまったとしても、私は嘆きも悲しみもしない。私の『恩返し』はここまで」
薬だけを私の元に残し、彼女はメディスンの方へと歩いていく。
「さて、書庫の資料をお貸し願えるわね、稗田殿? この子に勉強を教えてあげたいの。教科は主に歴史、過去の妖怪たちの偉人伝ってところかしらね。列伝を参照するのなら、あの半人半獣を頼るよりこちらの方が適していると思ったのだけど」
「過去に学んで、真の大妖を目指すのよ! ……本当は苦手なんだけど、本読むの」
腰に手を当て、メディスンは胸を張る。
確かに彼女はまだ若い。相対的な意味ではなく、本当の意味で幼い。私より年若い妖怪を、私は他に知らない。
「そうね。成長にあたって、過去を知るのは大切だわ。でもね、メディ」
永琳がメディスンの前に立った、その瞬間だった。
風船が割れるような音が部屋に響いた。永琳が平手で、メディスンの頬を張ったのだ。私はその音を、ただぼんやりと聞いていた。
「先程の言葉を取り消して、そして恥を知りなさい。稗田殿はその全てを擲って大事を成し遂げた。あの身体はその勲章です。それを称賛こそすれ、言うに事欠いて『悲惨』などと。いくら知恵を付け、いくら力を増そうとも、その心が理解できないようでは決して大妖になどなれはしない」
永琳は言葉を投げ終わるまで動かなかった。メディスンも右へと曲がった首のままで固まっていた。鼓動がうるさいくらいの沈黙が流れる。
「……ごめんなさい」
それを破ったのは叱られた子供の方だった。
永琳の周りの空気が、ふっと緩むのを感じた。
妙に身体が温まっている。私の意識は相変わらず薄暗い気怠さの中を漂っているが、先程からの薬師の言動がほんの少しだけそこに光を射した。寒い夜に擦るマッチのように、温もりを与えてくれた。
貴女の言う、『恩返し』とは何なのですか。
私は思わず尋ねた。掠れ切った小さな声だったが、それに永琳はきちんと振り向いてくれた。その表情はどこか呆けたような可笑しな顔で、こんな体調でなければ噴き出していたかもしれない。彼女の視線は私に向いてはいたが、見ているものは明らかに私ではなく、その向こうにいる誰かだった。
「愛と憎が表裏一体であるように、恩と仇もその本質は同じ。どちらも自分本位の、身勝手な感情です。貴女には身に覚えのないことでしょうが、私にとってはとても大切な思い出。薬を押しつけて、満足を得たいと思うくらいには」
『身に覚えがない』という言葉は私の辞書にはない。なにせ産声を上げた瞬間から全ての記憶があるのだ。そして、そんな私の知らない恩を永琳は返すと言う。その対象として、思い当たる可能性は一つしかなかった。
「資料を持ってきますわ、この部屋まで」
貴女、人間ではないのですね。
私の言葉に、永琳は足を止めた。彼女が返すという恩が、かつての御阿礼の子に対してのものだというのであれば辻褄は合う。もちろん、ひとつ前の求聞持の能力者だって、生きていたのは百年以上昔のことである。若い娘にしか見えない永琳が彼らに恩があるというのであれば、彼女が人間であるはずがなかった。
「ん、永琳は……」
言いかけたメディスンの言葉を、永琳は片手を挙げて制した。
「確かに貴女の言うとおり、私は人間ではありません。返す恩にしたって、貴女に何も思い当たる節がないことも分かっています。でも、そのどちらも取るに足らない問題。私は自分勝手ですから、貴女が納得するかどうかなんてことはどうでもいいのよ」
そして振り返らずに、部屋を出ていった。女中が書庫へと彼女を案内する声が聞こえる。私はこの広い部屋にまた一人になった。
毒人形がいるにはいるが、これを一人とは数えないだろう。立ち尽くす彼女に目をやると、視線が合ってしまったのであわてて逸らした。
教えてやりたい、と永琳は言った。授業に稗田の書物が使われるというのは、悪い気はしない。寺子屋で教える上白沢慧音もここの資料を参考にして授業を行っているが、学者肌の彼女の教え方は見ている方にとっては大変退屈であった。他の教師の教え方が見られるならば、是非見てみたい。
たぶん私は笑っていた。今際の際の過ごし方としては、上々だ。
◆ ◆ ◆
「えぇと。『八雲紫、スキマの大妖』」
メディスンの周りには、うず高い書の山が築かれている。
歴代の御阿礼の子たちが記した幻想郷縁起、それとその草稿である。
「『力強し。刀を振るいても矢を射かけても、何人たりともかの者に届かせること能わず』」
幻想郷に存在し、人にその名や姿を知られた妖怪については、特徴や能力が可能な限り細かに記録されている。今彼女が呼んでいるのは三代目の阿三のものだ。初っ端から戦闘能力について書かれていることからも分かるように、完全に対妖怪の戦闘指南書として書かれている。挿し絵やら何やらを入れて読み易さを優先した私の縁起とは、名こそ同じだが性質は全く違う。
「『自ら人を襲うことは無かれど、刃を向ける者には容赦なし。努々手を出さぬ事』」
そういえば、八雲紫に私の草稿を初めて見せたときは面白かった。真剣な表情だったのが、読み進めるに従って怪訝な顔になっていき、自らの姿絵を目にした瞬間に噴き出した。しばらく腹を抱えて笑い転げた後、目尻を拭いながら「貴女がいいのなら、これでやりなさい」と言った。「あ、でも私の項目、もう少しだけ威厳を増す感じにしてもらえるかしら?」と付け加えることも忘れなかった。
「『古くよりこの地に住まい、他の妖達よりの畏怖も厚し。式を幻想郷中に遣わし、常に人の動きを見張つている』」
先程の永琳の言葉を思い出す。人妖が命を懸けて争うことがなくなった今の幻想郷に、果たして縁起は本当に必要なのだろうか。
歴代の御阿礼の子たちがこの状態を見たら、どう思うのだろう。妖怪が脅威でなくなったことを喜ぶだろうか。それとも人間が不甲斐なくなったと嘆くだろうか。何せ人間が妖怪を倒す術を知るための書を使って、当の妖怪が学んでいるのだ。
「うぅー。やっぱり難しいよ、スーさん……」
メディスンが本を放り出し、頭を抱えた。ちらちらと永琳に視線を投げている。
薬師の教え方は、とんでもないものだった。書庫から大量に資料を持ち出してきた彼女は、それを積み上げるとメディスンに、ただ一言「読みなさい」とだけ言い放ったのだ。これを授業と呼べるのであれば、紅魔館の動かない大図書館は押しも押されぬ大先生である。
読書よりも講義や実践の方が好みなのか、メディスンは先程から気を散らしがちであった。
少し疲れを感じ、目を閉じる。暗転した世界がゆっくりと回り、闇に落ち込んでいく感覚。潰えそうな意識の中で、私は枕元にある薬のことを考えた。
自分の運命を呪ったことが全くない、といえば嘘になる。残された時間の短さに気付いて呆然としたことだって、一度や二度ではない。
もし自分に、人並みの普通の人生があったら。求聞持の能力など無い一介の娘として、生きていくことができたら。例えば友達と外で思いっきり遊ぶこともできただろう。やがて普通に恋をして結婚し、子供を産んでいたかもしれない。
この薬を飲めば、今からでもそれが実現できるのだという。仮定の話に過ぎなかった夢が今、手の届くところに置かれている。
そしてもうひとつ、求聞持の能力が稗田の血筋から消えるという薬効。
御阿礼の子は、稗田という機構の中で最も重要な道具である。その背負う運命は決して軽いものではない。自らの力に、身体に、命に、全てに苦しめられる。根が淡泊な私個人としては、その荷を負うことは別段苦ではなかった。だが歴代の求聞持の能力者の中には、狂人寸前まで陥ってしまった者もいる。次に生まれる御阿礼の子が、そうならないとは限らないのだ。
そんな危険を残したまま、求聞持という能力を引き継いでいく意味が、今の平和な幻想郷に果たしてあるのだろうか。
我ながら、自分の優柔不断には笑えてしまう。とうに覚悟を決めたはずの心が、こうも簡単に揺れ動いてしまうとは。考えるために残された時間も、ほんの僅かしかないというのに。
「……こんなんじゃ参考にならないわよ。もっと私の理想を体現するような活躍をした、華々しい妖怪はいないの?」
メディスンが頬杖をつきながら、口を尖らせた。瞼を上げてみると、既に縁起は閉じられて脇へと投げ出されている。永琳がその様相を見て溜息をついた。
「理想、って言われてもねぇ。貴女の理想って何よ」
「決まってるじゃない! 人間に操られている人形たちを解放して、あべこべに人間を操ってやるのよ」
「その人間の作った本でさえ、まともに読み切れない貴女が?」
「うぐ……」
痛いところを突かれたと思ったのか、人形は苦い顔をした。
「しょうがないじゃない。私は永琳みたいに永く生きてる訳じゃないんだし」
「永く生きているというだけで箔がつくなら苦労はないわ」
その言葉が迷う私へのものに聞こえて、どきりと心臓が跳ねる。脇腹の辺りを滴が伝う。汗をかくなど、何時ぶりのことだろう。それがこの暑さによるものなのか、それとも冷や汗なのかは分からなかった。
「とにかく、そこにある分くらいは読み切りなさい。あぁ、理解しろとまでは言わないわ、酷でしょうから」
「むきー!」
奇声をあげて、メディスンは再び縁起を手に取った。この教師は、生徒の特性をよく把握していた。
「ところで、稗田殿」
こちらに改めて向き直り、永琳が問いかける。
「手に取る許可を頂きたいものがあるのです。貴女の書庫の、一番奥にあるものなのですけれど」
屋敷の書庫の際深部。そこに納められているものは、長い稗田の歴史の中でも家宝として扱われてきたようなものばかりである。
それは一体、何でしょう?
「稗田阿礼が記したという、『古事記』の草稿」
息を飲んだ。なぜ彼女が、それがここにあることを知っている?
「許可を、頂けますか?」
永琳の瞳に込められた力が思ったより強く、私は頷くことしかできなかった。もっともその動作はあまりにも小さすぎて、首が少し痙攣したくらいにしか見えなかっただろうが。
「感謝いたします。これで私も、ここで堂々と読書ができますわ」
そう言って彼女がすっと取り出したのは、件の草稿であった。どうやら最初からここに持ち込んでいたようだ。そのあまりにも大っぴらなやり口に、怒りも呆れも通り越して感心してしまった。この辺りの思考回路はやはり人間より妖怪に近いらしい。
「ご心配なさらずとも、盗むような真似はいたしません」
厳重に保管されているはずのものをたやすく手に取っている時点で、心配するなという方が無理な話である。
当時は貴重な品であった紙で製本されたそれをぺらぺらと読み進めながら、永琳は笑ってみせた。
「人や妖が何をしようと、これを汚すことも傷つけることもできはしない。そもそも、不思議に思わなかったのですか? 繊維質の物体が千年以上もその形を綺麗に保ち続けていることに」
そう、それは数ある稗田家の珍品の中でも、最も不可思議な現象であった。何の変哲もない草稿は、千の齢を経ても瑞々しい姿のままなのだ。
「この品には、『永遠の術』が掛けられている。これが解かれない限り、この原本はこの屋敷で、欠けることなく存在し続ける。ようく知っているわ、この術は私の主が掛けたものだから」
八意永琳の仕える主、永遠亭の姫君、蓬莱山輝夜。
直接の面識はないが、人間でないという永琳が仕えているのだから、彼女もまた人間ではないのだろう。輝夜が『古事記』の草稿に術を掛けたというのであれば、まさか永琳が面識があるという稗田の者とは ――。
「何か、聞きたそうな顔してるわね」
永琳殿、貴女は稗田阿礼と、会ったことがあるのですか?
夏の陽の熱射が、また部屋の気温を上げた。だが人外のふたりは、暑さにへばる気配すら見せない。人形が汗をかかないのは理解できるが、この薬師はどうして平気なのだろう。微笑みを浮かべながら、永琳は答えた。まるで生徒が答えに辿り着いたことを祝福しているようだった。
「もし、そうだって言ったら、貴女はどうしたいのですか? 転生前の自分に興味がある?」
ない訳がない。阿礼の記録は全くと言っていいほど存在しないのだ。
そういう学術的な意味でももちろんだが、今の私はそれすら脇に置いて、別の意味で阿礼のことを知りたかった。一度見たものを決して忘れない、求聞持の力。それを残すために外法まで用いて、阿礼が夢見た未来を知りたかった。そうすれば、私の迷いだってたちどころに氷解するだろうから。
「成程、貴女の言いたいことは分かりました。でも ――」
しかし、永琳の笑顔は揺るがなかった。
「それを貴女に話しても意味がない。迷っているとしても、貴女自身で考えなさい。他の誰に頼るのでもなく、これは貴女が自分で結論しなければならない問題だから」
汗が、引いてくれない。
稗田家に求聞持の力を残すのかどうか。稗田阿求がここで死ぬか、それとも生き長らえるか。決断を下すことができるのは阿礼ではなく、もちろん永琳でもなく、今ここにいる私だけ。
思えば、完全な記憶能力を持ち膨大な資料に囲まれながら育った私には、過去を参照せずに物事を判断するということが極端に少なかった気がする。どこかに似たような記憶や記録があり、それを読めばそのときの判断を把握できるのだから。それが正解だろうと不正解だろうと、私には歓喜も後悔もない。それは誰かが残した軌跡の上で初めて成り立つ選択なのである。
だから今、どうしたらいいか分からない。
寝返りの要領で体を横に向け、小瓶を手に取った。薬液がこぽりと掌の中で跳ねた。心臓が弱く、しかし早鐘のように鳴っている。
教えてほしかった。稗田阿礼、貴方はどうして縁起を書き続けることを選んだのですか。命の巡りをも逸して、目指したかったものとはなんなのですか。
まともに声にならなかった私の呟きに答えたのは、薬師ではなかった。
「うーん。ただ好きなだけだったんじゃないのかな、妖怪のことが」
読んでいた本から目を離して、メディスン・メランコリーが小さな口を開く。
「だから、こうやって妖怪について書き続けたんじゃないの? ていうか、そうでもなきゃこんなことしないでしょ」
勘だけど、と尻すぼみに言って、彼女は再び文字との格闘に戻った。
妖怪が好きなだけ。その言葉の意味を理解するのに、呼吸三回分の時間が必要だった。
鼓膜から浸透したその音が脳の中で像を成したとき、掛布団を突然はねのけて私の上半身がむくりと起き上がった。まるで身体の中に、大きなバネがあるように。
「え? 何、いきなりどうしたの?」
メディスンが驚いた顔をしていたが、当の私自身が一番驚いている。もうずっと寝たきりになると思っていたのが嘘のように、私の身体は矍鑠と動いた。
だが思った通り、次の瞬間にはくらりと目眩がした。私は思わず、薬を胸にかき抱いていた。
茹だるような暑さの中だというのに、瓶は氷のように冷たい。人ならざる者が作った薬である。不思議なことでも何でもない。
「どうするのかは、もう決まったのかしら」
永琳の言葉が響く。それに応えるように、私の喉が震えて奇妙な音を出した。自分の声を聞くのも、随分と久しぶりな気がした。
「あ……あぁあ……」
見聞きしたものを決して忘れない。私の能力はその程度。
だから、忘れてしまっていたのだ。縁起の項目をひとつ書き上げる度に感じていた、あの喜びを。
「あ……、わ、わた、しは……っ」
確かに妖怪は強く、恐ろしい。けれど、文章を連ねていく内に見えてくるのだ。彼らがその深層に隠し持つ、泣きたくなるほどの美しさが。それをひとつ見出す度に、私はそれを皆に伝えたいと強く望んだ。
だから筆を執り続けた。妖怪をひたすらに書き続けた。
「……わたしは、私は!」
そうやって積み重ねていった先に、私の幻想郷縁起がある。
御阿礼の子にしか為せぬ、金字塔がある。
求聞持の能力者がいなくなったとして、きっと他の誰かが縁起の執筆を続けるだろう。それはやっぱり妖怪が大好きな捻くれ者で、他人から見れば正気を疑うような勢いで書きまくるのだろう。そして作り上げられた幻想郷縁起は、不思議にみちみちた最高に面白い代物に違いないのだ。
ふざけるな。こんな愉快なこと、御阿礼の子以外にやらせてたまるか。
「私は、書いていたい。生まれ変わっても、縁起を、妖怪を、ずっと……」
思ったよりずっと大きな声を、私の喉は発した。思い切り叫んだ後の静寂を、すぐに蝉の合唱が埋める。それはずっと鳴いていたはずなのに、気付けなかった。どうしてだか、今の今まで意識に入ってこなかった。
永琳の膝の上にある、『古事記』の草稿が目に入る。心のどこかで懐かしいと思うのは、やはり阿礼の魂が私にも残っているからなのだろう。
阿礼が妖怪に魅かれていたのかは分からない。私の前に立つ八代の御阿礼の子たちについてだってそうだ。でも今の私は、そんな運命を信じたかった。人と妖がどういう訳だか並び立っている今の幻想郷が、彼らのずっと望んできたものだと思いたかった。
「もう、大丈夫みたいね」
「え、大丈夫なのこの人」
ふふ、と永琳の微笑む声が漏れる。その傍らで、メディスンが怪訝な声を上げた。
私は立ち上がった。二本の足が力を取り戻し、体が持ち上がる。余りにも高いところに届いた視線に吃驚する。
青い空を見たいと思った。白い雲と、光り輝く太陽も。縁側のその先で、夏を謳歌する草花を見たいと思った。
足がふらふらと動きだす。布団から部屋の外までの無限の距離を、小さな歩幅で歩き始めた。思うように進まぬ足がもどかしい。
永琳もメディスンも、私に手を差し伸べることはしなかった。いや、もしそんなことをされても、私はその手を振り払っただろう。だってこれは、私の下した決断。これだけは、誰の手も借りずに成し遂げなければならなかった。
身体が大きくよろめく。畳の合わせ目に足が引っ掛かったのだ。弱り切った身体に姿勢を制御する術はなく、ばたんと前のめりにすっ転んだ。
「ぐ……」
強かに身体を打ちつけてしまった。外部からの痛みを感じるのも、随分久しぶりだった。目が回って、視界が霞む。
そのまま縁側に向かって手を伸ばしても、障子の端までは腕もう一本ぶん足りなかった。
「阿求殿」
立ち上がれそうになかったので、這って進む。畳が傷むだろうとかそういうことは、もうどうだってよかった。両の手、両の足を、必死にくねらせて外を目指した。空気が熱く、呼吸もままならない。だらだらと流れる汗が寝間着へと染みていき、布が吸いきれなくなった分が畳を湿らせる。
「ねぇ貴女、ホントに大丈夫?」
すぐ側からメディスンの声が聞こえた。そういえば、永琳の呼ぶ声もあった気がする。
「構わないで、下さい。大丈夫です、から」
片手が、畳ではなく板張りの床を叩いた。届いた、辿り着いたのだ。
私は顔を上げた。いつの間にか、降り注ぐ眩しい日差しの中に私はいた。そうか、道理で暑かったわけだ。
目線の先、床板が途切れた先では、世界が彩り豊かに萌え広がっていた。土と草の匂いがする。そしてゆったりとそよぐ風の音。私は体中で、この世界を噛み締めた。
「永琳さん」
掌に収まっていた小瓶を、改めて見る。その中身は、空の青を抽出したように見えなくもなかった。
「薬、作って頂いて、ありがとうございました」
傍から感じる大きな気配が、息を飲んだ。
「でも、ごめんなさい」
そう言って私は、瓶の栓を抜いた。
それをそのまま、庭へと放り投げる。
緩く回転しながら少しだけ宙を舞った瓶は、中身をぶちまけながら草叢の中へと落下した。
「……………………」
目の前に、ひと雫の薬液が零れている。それはすぐにさらさらと、風に揮発していった。
それを視認した私の身体から、全ての力が抜けた。瞼を開けることも閉じることもできず、薄く眼を開いたまま息を大きく吐いた。
「阿求殿」
永琳の腕が、私を抱き起こす。陽光のせいか目が霞んでいるのか、彼女の表情が見えない。
「まったく無茶をする。何度生まれ変わろうと、そういうところだけは変わらないんだから」
汗で額にへばりついてしまった前髪を、薬師の白い指がかき上げて整える。
転生する前の誰かと、八意永琳の間に何があったのかは私も知らない。この家にあるどの手記にもそんな記述はなかった。それでも彼女の返してくれた『恩』は、私にとって正に救いの手であった。
薬を飲んでも飲まなくてもどちらでもよい、という彼女の言葉は、たぶん本当なのだ。私が普通の人間に戻ろうと、このまま死んでいこうとも、どうでもよかったに違いない。
永琳はこの薬を私に渡すことで、私に納得をくれた。
息の絶えるその瞬間に、忘れていたものに気付くことができた。笑っていることができた。
「永琳さん、私また、きっとここに戻ってきます。それでまた、縁起書きます」
瞼は閉じていないのに、意識から光が失われていく。
もう熱も何も感じない。後はただ、闇へと沈んでいくばかりだ。
「それ、阿礼の草稿、貴女に差し上げます。お礼です」
「礼など、私は ――」
「いえ、受け取って、下さい」
どうせ、この家に置いてあったって、ただ埃を被るだけだ。それならば、所縁のある別の者に持っていてほしかった。
そして願わくば、次代の御阿礼の子が生まれたら、見せてやってほしい。私の記憶が全く残っていなくとも、きっと思い出せるだろう。
幻想郷縁起の意味を。
私がいま、固めた決意を。
「―― 分かりました。お待ちしましょう、貴女を。それこそ、いつまでもね」
聴覚だけが、まだ辛うじて機能を保っていた。永琳の声が私を優しく包み込んだ。
そうだ、縁起にも記したっけ。長命な妖怪たちならば、私の転生を待つことができるだろう、と。
闇に沈みきってしまう最後の一瞬まで、私は確かに、温もりの中にいた。
◆ ◆ ◆
ふわふわと、不思議な感覚である。重力に縛られないというのは、これほど心地よいものだったのか。
ずぅっと重かった身体が、嘘のように軽い。いや、もう身体などないのだった。
霊魂と化したのだろう自分には目も耳もないはずだが、どういうわけだか光も音も感じ取れた。今の私の姿は、冥界の剣士の周りに浮いていた、あの半霊のように見えるのだろうか。
稗田の屋敷では、今しがた私の葬式が終わったところである。私が思ったより多くの人が集まり、私が予想だにしなかった妖怪たちもやってきていた。一人の人間の葬式としては、前代未聞の光景である。
この魂は間もなく、彼岸へと運ばれていくのだろう。根拠などないが、何となくそんな予感がする。
「ねぇ、永琳。永琳ってば」
「メディ、今日は大人しくしていなさいって言ったでしょう」
縁側に腰かけているのは、私の臨終を看取ったふたりだ。
礼装ではなく、いつもの格好である。彼女たちのみならず、妖怪はほとんどお馴染みの格好で参列していたのが可笑しかった。私は何とも思わないのだが、屋敷の者たちは白い目で見ていた。
「人間って、あんなに簡単に死ぬんだね」
メディスンがぽつりと呟く。妖怪とはいえ、彼女は私よりも人生経験が少ないのだ。もしかしたら、人の死を初めて見たのかもしれなかった。
「えぇ、そうよ。特にあの人間は、酷く脆いの」
「ふぅん。巫女とかはあんなに強いのにね」
人波の中には、見覚えのある戦士たち(巫女とか、魔法使いとか)の姿も確かあった。流石に彼女たちは、喪に服した服装で参列していたが。
「何を言っているの。阿求殿だって強かった。貴女も見たでしょう?」
メディスンは何も答えない。ただ足元に視線を落とし、ぼんやりとしていた。
「妖怪の強さと人間の強さは違う。人間の強さは、目に見えるところだけにあるのではないの。阿求殿は、確かに身体も力も弱かった。だけど彼女の心は、本当に強い」
むず痒くなるような言葉に、無いはずの顔が赤面する。
「メディ。貴女は、人間が憎い?」
人形は、やはり黙ったままだ。それを肯定か否定かどちらと取ったのかは知らないが、永琳は続ける。
「そう。貴女は妖怪だもの、人を殺すなとは言わないわ。だけど、人の心の強さは知らなくてはならない。貴女が大妖となりたいのなら」
それだけ言うと永琳は立ち上がり、メディスンをひとり残して立ち去った。行く先には彼女の弟子の兎の姿が見える。何か相談ごとでもあるのだろう。
くるりとひとつ、宙返りを打つ。軽やかなこの身体は本当に愉快だ。
メディスン・メランコリーはどんな妖怪になるのだろう。立派な妖怪になりたいと願い、拙いながらも研鑚を続ける彼女が、次の幻想郷縁起ではどんな風に描かれるのだろう。
それを書くことができるのは私だけだが、その未来を決して、私は知ることはない。
ちょっと寂しい気もするが、後悔はなかった。稗田という機構のひとつではなく、幻想郷を構成する一つの要素として、御阿礼の子はあり続けたかった。
それは妖怪退治を生業とする少女たちと同じ、人と妖を結ぶもの。人間でありながら化け物じみたような、そんな存在。彼女たちに近い妖怪たち(八雲紫とか、人形遣いとか)だってそうだ。人でないのに、余りにも人を愛しすぎる連中。
そういう者たちが、人間と妖怪、隣合いながら決して相容れないふたつを、狭間に立って結んでいる。御阿礼の子も、その鎹のひとつなのだから。
呼ばれたような気がして、私はそちらを見た。
遠くにぽつんと、飛んでくる人影が見える。赤髪に巨大な鎌を持つあれは、人里をよく訪れるあの死神だろう。彼女の担当は三途の川の船頭だったはずだが、ヤマザナドゥが気を利かせてくれたのだろうか。
まぁ、知った顔が旅の連れとなるのは、素直に嬉しい。
さて、最後の最後まで心に焼き付けておくとしよう。私の大好きな幻想郷の、色を、光を、匂いを。
転生して戻ってきた私の魂が、記憶などなくたって、すぐに思い出せるように。
忘れ物をひとつ、残していこう。
嬉しくなったし、泣きたくなった。
この作品を読めてよかったです。
考えてみりゃ残酷な話だけど、その選択をした彼女の事が
たまらなくまぶしくみえるなぁ
メディスンが立派な妖怪になれますよう。
いいですね、こういうの
1.吉凶の前触れ。兆し。前兆。
2.物事の起こり。起源や由来。
3.阿礼乙女の編纂した書を『起こり』として、人と妖が『縁』を結ぶこと。
永琳先生は凄ぇ優しいおせっかいをやいた。
メラン子は凄ぇ無知であるが故に少女の本質を貫いた。
阿求は──、阿求は凄ぇ綺麗だった。凄ぇ綺麗に笑っている気がする。
良い最期でした。