※このSSは、作品集109『幻想参景 紅魔』と、作品集128『幻想参景 竹林』の橋渡し的な位置付けにある作品です。
二話構成です。
1 箱庭(ミニチュア・ガーデン)
期間は一週間。食事は一日に二回。膝枕は一日一回、三十分。
その条件のもとで、古明地こいしはフランドール・スカーレットの部屋に監禁される。
「なんだか、ドキドキするね……」
「そうかなぁ。私はいつも通りだけど」
「もう、こいし。少しはノってきてよ。人がせっかく盛り上がってるんだからさぁ」
フランドールが唇を尖らせてすねるのを見て、つくづくこの子は可愛いな、とこいしは微笑む。
部屋の中央に、天井まで届くほどの巨大な鳥かごが配されている。しかし横幅はそれほどない。こいしがようやく寝転がれるくらいの広さだ。これから彼女はこの鳥かごの中に入って、合計148時間はフランドールの監視の下に置かれることになる。幾ら条件を出したからといって、食事が毎回ちゃんと出されるとは限らない。こいしの生殺与奪の全権をフランドールが握るわけだ。
フランドールにはあんなことを言ったが、こいしも内心では結構どきどきしていた。何よりもふらふら飛びまわれる自由を愛してはいるけれど、たまにはこうして完全に誰かのものになるというのも、新鮮で素晴らしいことのように感じられた。
人に飼われた鳥は、いつか鳥かごの中に戻ってくる。閉じ込められるとはいえ、安全な寝床と心地よい休息が約束されるのだ。時には自由を犠牲にして不自由を獲得するのも悪いことではないだろう。
「それに、ちゃんと夜空も見えるしね」
こいしは上を見る。そこにあるはずの天井はなく、代わりに満天の星空がそこに広がっている。つい昨日この紅魔館を去った彼女の姉、古明地さとりの置き土産だ。時間の経過に会わせて、星々はきちんとその位置を変える。本物の夜空と見紛うほどである。
「さとり、いなくなっちゃったんだね。大丈夫かな」
フランドールは寂しそうに言う。
「大丈夫だよ。きっとね」
貴女のせいでいなくなったんだよ、という呟きを押し殺して、こいしはうけあった。
「フランドール様、そろそろ0時です」
傍らに控えていた咲夜が、銀時計を見ながら言った。彼女は企画の裏方なのだ。鳥かごを用意したのも、こいしのために食事を用意するのも、すべてこの瀟洒なメイドの仕事だった。
「じゃあ、こいし」
「うん」
こいしは頷いて、裸足のまま鳥かごの中に踏み入る。金属のひんやりとした感触が足の裏に心地よい。
「今からこいしは、私のものね」
ガチャンと、錠の落ちる音がした。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
静かな部屋に、時計の針の進む音が響いている。見上げた先は格子状に切り取られた夜空だ。月はちょっと澄ましたような冷たい笑みを浮かべている。手を伸ばしても、今のこいしはそれに微塵も近付くことができない。
「空見てばっかり。私よりもそんなにお星様が気になるの?」
不機嫌そうな声がしたので、こいしは視線を水平に戻した。
ベッドに寝そべったフランドールが、片肘を立てて杖をつき、むすっとした顔をその上に乗せている。
「あんまり言う事きかないとさぁ、こいしのこと壊しちゃうかも」
紅い瞳に嗜虐の光を覗かせる。こんなことを言っているけれど、むしろ機嫌はいいみたいだ。望むものを手に入れたという満足感にまだ浸っているのかもしれない。
「ん、それはちょっと嫌かも」
「なら、もっとこっち見てよ」
「うん」
こいしは両ひざを両手で抱え込むようにして座り直し、フランドールを見つめる。金色の髪は、夜の闇の中でも決して褪せることのない彩光を放っている。その輝きに照らせば、星々のあえかな光など一瞬のうちに褪せてしまうような気がした。
「やっぱりいいね、こういうの」
満足したのか、フランドールがにっこり笑って言った。
「こいしはどう?」
「こっちもなかなか。鳥かごに入ってるのって案外いいね。なんだか囚われのお姫様になったみたいな感じ」
「ふぅん? ……よくわからないこと考えるんだね。あ、そろそろご飯の時間だ」
扉が開いて、咲夜がトレイを持ったまま入ってきた。二人にぺこりと礼をして、鳥かごの入口の前まで来ると、鍵を取り出して錠を外そうとする。
「あ、咲夜、いいよ。鍵外さないで」
「……では、彼女のお食事はどのように?」
「私が食べさせてあげるから。格子越しにね」
得意げにフランドールは言った。さとりにきいたから知っているのだが、それは「こいしを監禁したらやりたい10のこと」のうちの一つらしい。あと九つに関しては不明のままだ。
咲夜は得心が行ったというように小さく頷くと、トレイを体育座りしているこいしの前の床に置いた。それから透き通った綺麗な瞳でこいしを眺めたあと、再びぺこりと礼をして部屋から出て行った。
「さて、こいし、ご飯だよ」
はしゃいだ声でフランドールは言う。
「たーんとお食べ」
「うん。フランちゃんは食べないの?」
「私はいいや。あんまりお腹空かないし。それにこいしにご飯上げるのに忙しくなるからね」
フランドールはそう言って、こいしの前にぺたりと座りこんだ。
格子越しに見つめ合う二人。妙な気分だ。
「じゃあ……いくよ?」
フランドールがシチューをスプーンですくい、こいしの口に近づける。
こいしは目を閉じ、口を開いたまま待機する。
あむ。
「……どう?」
「ん。おいし」
広がる味はクリーミィ。紛うことないシチューである。熱さもちょうどいい。言うことなしだ。
「次はお肉、食べたいな」
「うん」
そうやって、一口一口、丁寧に運んでいく。鶏肉、キャベツ、にんじん、じゃがいも、たまねぎ。うまく口に入らなかったり、途中でスープが零れてしまったりと大変だったけれど、なんとか食べきった。
「……ふぅ、どうだった? こいし」
「美味しかったけど、結構大変だね。次からはもう、やめにする?」
「うん……いや、やっぱり、私がする。つぎ、パンいくよ。あーんして」
そういって、フランドールは甲斐甲斐しくパンをちぎり、欠片をつまんでこいしに差し出した。こいしはそれもあむっと食べる。スプーンとは違うので、必然、フランドールの指に唇が触れてしまうことになる。
「…………」
フランドールは、自分の指先が唾液で少し光っているのを、物珍しげに見つめていた。こいしは何となく恥ずかしくなって、「汚いから、拭きなよ」と言った。フランドールはほとんど上の空のままそれに従って、ナプキンで指先を拭った。
ジュースにはちゃんとストローが付いていたので、今度は難なく飲むことができた。二人は一口ずつ分け合ってそれを飲みほした。その間、夜空は静かに輝いて、二人を優しく見下ろしているように思えた。星は時折きらりときらめき、星間を埋める紺色は心地よく眠っていた。あの海を夢のように泳ぎ回れたら、さぞかし気持ち良いだろうなとこいしは思う。宇宙の空気はきっと綿菓子のようにふわふわしていて、甘い匂いがして、星々ももしかしたら、食べてみるとすごく美味しいのかも。
「……綺麗だね」
こいしは呟く。
「うん、本物みたいだね。……どうだったっけ」
幾分か寂しそうにフランドールが返す。
「フランちゃん、外に出たいの?」
「うぅん……別に、出ようと思えばいつでも出られると思うけど。でも、これがあるなら、もう出なくてもいいかなぁ」
そう言って、フランドールが格子に寄りかかった。こいしもその同じ部分に背中をあずける。内側にいる人が、外側にいる人に向かってするにしては変な質問だ。
「こいしの知ってる夜空は、どんなの?」
「うーん……もっとね、意外と残酷なところだよ。とんでもなく寒いし、生き物は全然住めないし。でも、雲の上を飛ぶのはすっごく綺麗かな。雲の表面がね、プリズムみたいにきらめいてるんだ」
「へぇ……それはちょっと、見てみたい、か、も」
最後のほうは、尻切れトンボになっていった。振り返ると、フランドールが膝と膝の間に顔をうずめてるのがわかった。肩が震えていないから、泣いてはいなさそうだけれど。少し心配になって、格子越しに両手を伸ばし、彼女の首のまわりをネックレスみたいに包み込む。顔に触れても、湿っていないから、やっぱり、泣いていなかった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
さて、こいしお待ちかねの膝枕タイムである。鳥かごから出るわけにはいかないから、咲夜に鍵を開けてもらい、フランドールが一時的に鳥かごの中へ入ることになる。
「なぁに、喜んじゃって……そんなに楽しみだったの?」
「うん。だってね、お燐がね、あ、うちの猫だけど。お姉ちゃんにやってもらってると、凄い気持ちよさそうなんだよ」
フランドールは苦笑して、冷たい床にぺたりと腰を下ろした。こいしはその太ももに頭を乗せる。目の前には、金髪サイドテールの可愛い女の子の顔がある。そしてさらにその上には幾重にも分断された星空。格子が邪魔になるのは少し残念だけど、悪くない。
「…………」
「…………」
やはり見つめ合うことになる。綺麗な赤い瞳に、きょとんとした色が浮かんでいる。
「フランちゃん、髪、なでて」
「あ、う、うん」
白く細い指が、さらりと、こいしの柔らかい癖っ毛を梳く。目にかかった前髪をはらい、頭の後ろに手を回して、指で少しずつ、まっすぐにでもするかのように。
「すっごい、巻き髪だね」
「フランちゃんは、まっすぐだもんね……うらやましいなぁ」
整えるのが結構大変なのである。櫛をいれないと、すぐにボンバーなことになってしまう。こいしは手を伸ばして、彼女の肩から垂れる金色の房に触れた。まるで濡れているみたいにみずみずしくて、清涼感を含んでいる、不思議な髪質だった。つくづくうらやましい。
そうやってしばらく、お互いの髪をいじって遊んでいた。フランドールはこいしの髪を指にスパゲティみたいに巻き付けて、カールさせるのが楽しいみたいだ。やがて、それにも飽きたのか、困ったことにこいしの顎を指でこちょこちょすることに精を出し始めた。
「ひゃ、やめてっ、ふ、あははっ」
「ええい、いいではないかいいではないか」
「それ、誰に教わったの?」
「え、パチュリーだよ?」
いったい何を教えているのだろうあの魔女は。そんな疑問を抱きつつ、こいしはフランドールの指から逃れるので必死だった。その時、ドアが開いて、咲夜が静々と入ってくるのが見えた。
「フランドール様、お時間です」
「あ、うん」と、フランドールが頷く。
「えぇー、もうかぁ」
「また明日ね。じゃ、出るから。頭どけて」
こいしは渋々頭を上げた。フランドールが外に出て、再び重たい錠が下ろされる。
スン、とこいしは指の匂いをかいだ。花のような香りが僅かに残っている。消えてしまうのが惜しかったので、何度も何度もかいだ。
「こいし、犬みたい」
「だっていい匂いなんだもん」
「え、ほんと?」
フランドールも同じようにする。
「あ、ほんとだ。お日様みたい」
「私とフランちゃんの髪の匂い、違うのかなぁ」
「わかんないよ。ちょっとかがせて」
そんな二人を呆れ顔で眺めていた咲夜が、いつものようにぺこりと礼をして、静かに部屋から出て行った。それまで二人は子犬のようにお互いの手の匂いをかいでいた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「こいし、絵本読んであげる」
フランドールがテーブルの上から紫色の大判の本を取って、にこにこしながらこいしの前にやってきた。
「絵本? もうそんな歳じゃないんだけどなー」
「いいじゃん。ほら、こっち来て」
カーペットに絵本が置かれた。タイトルはミミズののたくったような文字で書かれていて読めない。だけど、その下の署名だけはこいしにも読むことができた。
「これ……あの魔女が描いたの?」
「うん。図書館で暇だ暇だ連呼してたら、しょうがないなって描いてくれたんだ」
本の装丁を見てみれば、ところどころが角度によってきらりと光ったりと、なかなか豪華なものだった。しょうがないからというわりには気合が入っている。案外ノリノリだったんじゃないか、とこいしは疑って、くすりと笑った。
主人公は、金髪の巻き毛が印象的な黒白の魔法使いだった。彼女は箒に横向きに乗りながら、さっそうと絵の中を飛び回っている。
「ってこれ」
「ふふふ。主人公誰がいいって聞かれたから、魔理沙にしてって頼んだんだ。ついでに悪役の吸血鬼はお姉さまね」
悪のメイドの時間をとめる能力によって、親友の人形遣いがさらわれてしまった。魔法使いは自分の無力さを悔い、険しい山々で修業をすることになる。天狗たちとの長きに渡る戦いでついに世界最速の魔法を編み出した彼女は、満を辞して敵の居城に乗り込み、見事親友を救いだしたのだという。色々とめちゃくちゃである。
嬉々として文章を読み上げるフランドールは、とても楽しそうに見えた。内容はこいしにとってそれほど刺激的ではなかったけれど、友達のそんな姿を見ていられるのだから、まあいいかと思った。
「めでたしめでたし。ねぇこいし、どうだった?」
「うん……私もこんな感じに強ければ、フランちゃんをさらって逃げ出せるのになぁ」
「そうだね、こいしってちょっと弱そうだもんね」
「ぐさっ」
「ねぇ、私は強そうに見えるかな?」
「うん」
と、こいしはうなずいた。
「フランちゃんは強いよ。だって、凄い能力持ってるし、吸血鬼だから、力もあるし」
「でしょ。だから、何かあったら、弱っちいこいしちゃんを守ってあげる」
「その時はよろしくね」
そうして、格子越しに指切りをした。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
途方もない夜空に、重々しい置時計の針の音が刻み込まれていく。それがだんだんと高まるにつれて、二人の間に倦怠がのしかかってきた。
一日二回、フランドールはきちんと自らの手でこいしに食べ物を与え続けた。パンをちぎり、スープをすくってふぅふぅ冷まし、じゃがいもをぽろりと落とさないように、慎重に。誰かと一緒にこんなにも長く時を過ごしたのは初めてで、新鮮だったのかもしれない。その姿はとても甲斐甲斐しかったと言っていい。
だけど時間が経ち、新鮮味が薄れていくにつれて、スプーンとフォークを運ぶ動作がのろくなっていった。本人は認めたくないようだったけれど、徐々にではあるが着実に「飽き」が彼女の心を蝕んでいた。
心から欲しかったもの、心底に願い通したものが、手に入れてみたらただのガラクタに見える。そんなことがあるわけがない。きっと、そう信じていたのだろう。
こいしも当然それに気が付いていた。膝枕をしているとき、自分を見下ろすその瞳の中に、いつもの綺麗な光と違う、胡乱な淀みが混じっていたから。紅いルビーの泉の底に、深淵がぽっかりと口を開いているのが見えていた。
だから、何とかしてフランドールを飽きさせないために、こいしのほうでも色々と工夫を凝らしてみた。いつもより大げさにふるまってみたり、突拍子もないことを言って笑わせようとしたり、さとりとの思い出に色を付けて話してみたり。だけど、最後のは明らかに逆効果だったようで、フランドールはさとりが出ていった理由をしきりに訊こうとした。迂遠な尋ね方だったけれど、明らかに彼女は、さとりが出ていった理由が自分にあることに、見当がついているようだった。こいしはそれを頑として言おうとせず、会話はやはり途切れがちになった。
だんだんと、時計の音だけが星空に響き渡る時間が多くなった。星の光ももはや白々しく、星間を埋める群青は空虚だった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
世界の底まで続く滝を轟々と流されているような夢。ひどく冷たい水が骨の髄まで凍らせて、そのまま死んでしまいそうな気がした。圧倒的な恐怖と凍てつく寂しさがこいしの心を満たす。叫び出したかったけれど、口の中は水でいっぱいだ。肺までそれは流れ込んでいた。出てくるのは、声にもならないかぼそいすすり泣きばかり。手を伸ばしてもつかめるのは酷薄な空気だけ。あらがいようもなく、ただ下へ深層へとこいしは堕ちていく。
目を開くと、格子の向こうの白く清潔なベッドの上に、怯えた表情のフランドールが、震えながら座り込んでいるのが見えた。紅い瞳は紛れもなく恐怖で見開かれて。その視線は明らかにこいしに向けられている。
どうしたの……と言おうとして、口の中に染み渡る鉄の味に気がつく。唇に触れると、赤いものが掌に線を残した。血が出ている。
よく見るとその手も、何かに打ちすえられたみたいに痣がいくつもできている。左の親指の爪が割れている。それだけじゃない。体のそこかしこがずきずきと鈍く痛む。
「こ、こい、し」
再び視線をフランドールに向ける。そのまなじりには涙が滲んでいる。口からは白い歯がのぞき、寒さに耐えているようにガチガチと鳴り合わさっている。
夢を見ている間に、こいしは酷く暴れたらしい。固い格子の鉄棒が、一部だけ不自然にぐにゃりとひん曲がっていた。フランドールと一緒に声を出して読んでいた絵本はずたずたに切り裂かれて、見る影もない有様だ。いつも被っていた帽子は何度も何度も踏みつけられたのか、歪な形に潰されていた。
気分が悪い。ぐるぐると胃の中が踊っている。焼けつくような吐き気が胸を焦がしている。自由に出歩けないことは、想像以上にこいしを蝕んでいたらしい。無意識に任せてふらふらと動きだしたはいいものの、きっと格子にぶつかって阻まれてしまったのだろう。そこでストレスが爆発して、暴れまわった。
「だ、だいじょうぶ?」
おそるおそるフランドールが声をかけてきた。友人の初めて見る凶行に心底怯えきっていただけに、それは大変な勇気に違いなかったけれど、こいしは応える気力もなく、胸を抑えたまま倒れ込んだ。何か一言発しただけで、もどしてしまいそうだった。
ぐるぐるとまとまらない頭の中でぼんやりと考える。自分では、この鳥かごの檻を破ることはできない。全然力が足りない。私は弱い。心を閉じればきっと、前よりも強くなれると信じていたのに……。これじゃ、何も変わらないじゃないか。フランちゃんは強いから、きっとこんな檻なんて、一瞬で粉々にしてみせるだろう。だけど、だけど……。
またしばらく時間が経ったらしい。扉の外に、カシャッとトレイが置かれる音がした。監禁期間が二日を過ぎたあたりから、フランドールは咲夜の入室を禁じていた。二人きりの時間を、邪魔されたくなかったから。だから咲夜は、扉のこちら側で何が起きているかなんて、まったく関知していない。
「あ、ごはん……」
フランドールは不安げにこいしをちらりと見た。こいしはもう落ち着きを取り戻して、格子に背中をあずけて、ぐったりしていた。
「こいし、食べられる?」
「……うん。食べる」
そう言うと、フランドールはほっとして、扉を開けてトレイを持ってきた。今度のメニューはにんじんやじゃがいもの入ったコンソメスープに、レーズンパン、そしてミルクだった。どれも好きなものだったけれど、今はなぜか、パンにくっついているレーズンのぶよぶよした形が、恐ろしい病のもたらす斑点に見えて、ぞっとした。
「じゃ、行くよ……?」
こいしは黙ってうなずいて、口を開いて待った。
また退屈な作業が始まった。スプーンでスープをすくい、じゃがいもを割り、パンをちぎって、こいしの口に運ぶ。最初のうちは新鮮味に溢れていて、楽しかった。けれど、こう何回も続くと、その緩慢さにいらいらする。自分の思い通りに食べられないのが、こんなにうっとうしいなんて知らなかった。
フランドールはこいしの表情の変化に気付いたのか、少しまた怯えて、スプーンを持つ手がふるふると震えた。
「あ……」
ぺちゃ、とにんじんが零れ落ちた。次いで、スプーンを落としてしまう。フランドールはそれを慌てて拾おうとしたけれど、勢い余って牛乳の瓶を倒してしまった。白い液体が紅いカーペットにじわりと染み渡る。
「あ、ぅ……」
もう限界だった。フランドールはこいしの前で石のように固まってしまった。指は震え、瞳の輪郭は広がり、紅い湖から透明な水が流れ出している。
その姿が、無性にこいしを苛立たせた。
「もういい」
こいしは言った。
「もういいよ」
フランドールの肩がぴくりと動く。まるで小動物のように怯えている。
「なんでフランちゃん、そんなに脆いのさ」
「え……?」
「全てを破壊する能力っていうから、チカラのほうは物凄いよね。本気を出せば、誰にでも勝てちゃうもん。でもさ、それを使うフランちゃん自身が弱いんじゃなんの意味もないじゃない」
これを言えば、フランドールを傷つけるだろうなと、ぼんやりと考えたことがあった言葉。それが今、口をついて外へ出て、彼女の柔らかい部分を突き刺していく。とめようと思わなかったわけではない。でも体を突き動かす苛立ちと衝動が留まることを許さなかった。
「お姉ちゃんを壊したあの強さはどうしたの。どうしてそんなに簡単に揺らいじゃうの」
「え……じゃあやっぱり私が、さとりを……」
「そうだよ。フランちゃんのせいで出て行ったの。フランちゃんがお姉ちゃんを魅了しようとしたから、怖くなって、出て行ったの。でもそんなのはどうでもいい。本当にフランちゃんが強いんならさ、力を見せてよ」
さとりは弱い。意識なんてものに頼り切っているから、いつまで経っても強くなれない。だからこいしは心を閉ざした。その代わりに、無意識のままで行動する術を手に入れた。だけど、全然足りない。圧倒的な力が足りない。無意識で行動できてもたかが知れているのだ。本当の強さとはなにか? その秘密を解き明かすために、こいしは――
「……もし、かして……こいしが、私と友達なのって……?」
その続きを耳にしなくとも、こいしにはフランドールの訊きたいことがわかった。答えてはいけない、否定しなくてはならない。そんな一瞬の迷いは、無意識によって打ち消されてしまった。
「そうだよ。ただ単にフランちゃんが強そうに見えたから……それ以外の理由なんてないわ」
ボンッ、と音を立てて、鳥かごの格子が爆発した。
「や……そんなの……いや……」
牛乳瓶が、スプーンが、トレイが、錠前が、次々に破壊されていく。細かな粉塵が宙を舞う。
フランドールは座り込み、耳を抑え、その手が閉じられるごとに、音を立てて何かが破壊されていく。
「こうなりたくてなったんじゃない!」
フランドールがそう叫ぶと、突然、妙な感覚がこいしを襲った。自分が何か一点を中心に集束していくような……ぐいぐいと体全体が縮むような心地がする。
こいしの「目」を収めたフランドールの手が、今にも閉じられようとしていた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
不意に視界が暗転して、奇妙な浮遊感が体を覆ったとき、ああ、死んだんだ、とこいしは思った。
でも、次に襲ってきたのは現実的な、でも死ぬほどではない痛みだった。誰かに頬を思い切り叩かれた。その焼けつくような感覚に、頭がしばしのあいだ真っ白になる。
目の前に、冴え冴えとした青い瞳があった。それは宝石のように無邪気に輝いていて、なんの感情も、怒りも、悲しみも、そこからは読み取れなかった。
こいしを叩いたのは、十六夜咲夜だった。
「……少し、頭を冷やしなさい」
静かな声でそう言うと、咲夜はこいしの帽子を椅子に置いて、部屋から出て行った。
呆として周囲を見回す。そこはフランドールの部屋ではなかった。紅魔館の他の場所とは違い、青系の落ち着いた色合いの壁紙が使ってあり、調度品も無駄をいっさい切り捨てたかのようにシンプルで、悪く言えば面白みがない。こいしは窓のそばに備え付けられた白く清潔なベッドに腰掛けていて、中央の一人用のテーブルの上に、黒い装丁の小さな本が置いてあるのが見えた。咲夜の部屋なのだろうか。
どうやら、フランドールに壊されるよりも一瞬早く、こいしは咲夜に助けられたらしい。時をとめる能力で、ここまで連れてこられて、そして……。
叩かれた頬がひりひりと痛んだ。だけど必要な痛みだとも思った。頭を沸かせていた熱が冷めてきて、自分の言ったことの残酷さがようやく認識できた。
こいしは、フランドールを利用するために、彼女と友達になった。強さの秘密を解き明かすため、それだけ……本当のところ、確かにそれも一面ではあった。だけど、それがすべてではなかったはずだ。彼女の可愛らしい容姿、嗜虐と寂しさで輝く紅い瞳、水のように潤っている金色の髪、口からもれる幼い声、そして、底なしの湖のように神秘的な心。そういったものにも、確実に惹かれていたというのに……。
今頃、あの子はどうしているだろうか。何を思っているだろうか。それを考えると、罪悪感と焦燥で胸がきりきりと締め付けられた。
それからしばらく、こいしは咲夜の部屋で過ごした。出ていく気になれなかったし、出ていけとも言われなかったから。
咲夜は昼前になると自室に戻ってきて、こいしのために簡単な食事を用意し、自分はシャワーをさっと浴びて、寝る前に椅子に腰かけて静かに読書をした。時にはブランデーを少量グラスに注いで、ぼんやりと外を眺めながら味を楽しむこともあった。だけど、それ以外には何もない。考えうる限り最もシンプルな生活を送っているようだ。
まったく淀みのない淡々とした生活。何に心を揺るがされることもなく、時間が過ぎるのを静かに待つ。これを可能にする精神は、やはり、強いといえるのだろうか。だけど、ひたすらに強さを求めたこいしと違って、咲夜は決してそんなものを求めているようには見えない。ただ単に、強くある、それだけ。ならば強さとは、求めて手に入るものではないのか。
本に没頭している咲夜から目をそらして、こいしは窓の外を眺めた。数日前から雨が降り続いている。梅雨の時期でもないのに、不自然に引き延ばされたような、薄っぺらい雨雲だ。もしかしたらパチュリーが、不安定なフランドールを外に出さないために降らせ続けているのかもしれない。
「フランちゃんは……」
思わず口をついて出た言葉。本の虫になっていた咲夜はそれを聞いて顔を上げ、カップの紅茶を啜り、答えた。
「落ち込んでいるわ。外見上は普通に思えるけれど……たまにものをぽんぽん壊すから、会うのはあまりお勧めできないわね」
でも、会わないと何も言えない。
だけど、言うべきことも思いつかない。
「どうしたらいいのかな……」
窓に頬を押しつける。ひりひりと冷やされ、窓が吐息でぼうと曇った。咲夜に叩かれたそこは、当然のようにもう痛まない。でも叩かれた記憶自体は生々しく残っている。その記憶を、手放してはいけないと思う。
「強さって何なのか、わからないや。ずっとそれが欲しかったはずなのに……心を閉じたあのときから、ずぅっと。だけど……」
外が暗いおかげで、窓に室内の様子が反射して見える。咲夜は青くつつましい夜着姿で、カップを両手で包み込むようにして持ちながら、こいしのことを見ている。
「フランちゃんは、強いけど、弱い。心が脆いのは仕方のないこと。だって……」
ぽつり、ぽつりと言葉をこぼしていく。まとまらなかった考えが、外に出ていくことでようやくはっきりした形をとるように思える。聞いてくれる人がいるのは、ありがたかった。
「望んで強くあったんじゃないから。フランちゃんは、ただ仕方なく強かった。そうあらざるを得なかったから……」
こうなりたくてなったんじゃない、というフランドールの叫びを思い出す。強くなりたくて生まれてきたんじゃない。ただそういう風にしてしか、生きられなかったから……。それは、こいしが心を閉ざしたのと同じ理屈だった。
「嫌われ者になりたくて生まれてきたんじゃない。だから、私は心を閉ざして……でも、フランちゃんは」
こいしとは違って、フランドールは逃げずに、自分の能力と向き合っている……いや、それはわからない。だけど少なくとも、自分の能力と共に生きている。だから。
「フランちゃんは、私よりも、ずっと強い」
そもそも、強さを求めるのなんて無意味だった。そうあらざるを得なかった強さの秘訣は、求めるまでもなくずっと、こいしと共にあったのだから。
「……その答えが合っているのかどうか、私にはわからないけれど」
咲夜が夜のように静かな声で言った。
「何をするにしても、今はまずいわ。一度、紅魔館を離れてみてはどうかしら。そうね、永遠亭に行った貴女の姉を追いかけてみるとか……それは自由だけれど。また機を見計らって、戻ってきなさい。そうしたら……」
「そうしたら?」
「仲直り、しましょうね」
咲夜が緩々と微笑んで、ぱたりと本を閉じて、テーブルの上に置いた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
2 星の器
なんだか上のほうが騒がしいな、とフランドールはぼんやり思った。
すり鉢状に展開していく夜空の向こうから、どたばたと大勢が駆けまわる音が聞こえてくる。でもそれは、私となんの関わりもないんだ、どうせ。全部が私から遠く離れて動いていて、誰も振り向いてはくれないんだ……そんないじけた考えを持て余して、だから今度もきっと、何事もなく円満に解決するだろうと確信する。魔理沙も、霊夢も、彼女の倦怠を一時的にしか紛らわせてくれなかった。一緒に時を過ごしたこいしも、もういない。
だけど予想に反して、そのざわめきはどんどん近付いてきた。階段を駆け下りて、地下通路を駆け抜けて、パチュリーの仕掛けた防護の呪文を突破して……ついに足音は、フランドールの部屋の前で止まった。
木製の扉がコンコンとノックされる。
「……誰?」
まばゆい光が部屋の中を照らしだす。偽りの星空が掻き消されて一瞬にして元の天井に戻る。強い光のもとでは、弱い星の光は死んでしまうのだ。
扉を開けたのは、黒い帽子を被り、山吹色の上着を羽織り、深い緑色のスカートを穿いた少女だった。彼女はつかつかと部屋の中に入ってきて、がしっとフランドールの両手を掴んだ。
「フランちゃんっ!」
「はっ、はい」
思わず敬語を使ってしまう。フランドールを覗き込むこいしの瞳は、星のようにきらきらと輝いていた。
「駆け落ちしよう!」
「……はい?」
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
もう来てくれないと思っていた。弱い自分になんて興味はないんだと知らされたから。一生もう会えないと確信していた。だけど、会いに来てくれた。
「こいし、それはいいんだけど」
「なぁに?」
「なんで私たち、こんなことしてるの?」
フランドールはこいしに手伝わされて、天井にある星を一つ一つ、ぺりぺりと剥がす作業をしていた。小さな固い星は案外あっけなく夜空から取れたから、大した苦労はないのだけれど、それをする目的がいまいち不明だった。
「フランちゃん、お姉ちゃんに恩返ししたいでしょ?」
こいしはこちらを振り向かず、弾んだ声で言う。
「恩返し……? まぁ、そうだね、さとりにはお世話になったし……」
「でしょ! だったら、この星をお姉ちゃんのところに持っていこう。きっと喜ぶよ」
「うん……って、ちょっと待って。元々この星って、さとりからもらったんだよ? 突っ返されて喜ぶかなぁ」
「大丈夫。お姉ちゃんに今一番必要なのは、これだもの」
そう言って、こいしはこちらを振り向き、ウィンクをした。いや、まったく意味がわからないけれど。とりあえず今は、こいしが戻ってきてくれたのが嬉しかった。フランドールはほっと安堵のため息をついて、目の前の疑似星空に集中した。
それにしても。
星を一つ摘まんで、目の前に持ってくる。まるで金平糖のようにぎざぎざしていて、美味しそうに見える。もしかしたら、食べたら案外いけるのかもしれない……。
ガリッ。
気が付いたら、口に放りこんでいた。
「……あ、甘い」
砂糖を固めたような味がした。一口噛むと、あとはするすると舌の上でほどけて、夢のように儚く消えてしまった。その感覚を楽しみたくて、フランドールはもう一つ星を口の中に放りこんだ。がりっ。
「あー! フランちゃん、食べちゃだめだよ!」
「でも、美味しいよ。こいしも食べたら? ちょっとくらいなら平気だよ」
「え、ほんと?」
こいしも星を一つ口に含む。瞳が驚きにじわりと広がる。
「あ、ほんとだ……想像通りだ」
「でしょ。私ももう一個だけ……」
そうして二人は星をぽんぽん次から次へと食べていった。そうしているうちに、当然、星は残り少なくなってしまった。
「…………」
「…………」
「……減っちゃったね」
「えーと、ぜろ、いち、に……」
数えるまでもない。残り二つである。
「…………どーしよ」
「……ま、まぁ、星それ自体よりも、私たちがこれを届けにきたってことのほうが大切だよ、うん」
こいしはそう無理に自分を納得させて、残った二つの輝きを小さな箱の中に入れた。これは元々、さとりがフランドールに星空をプレゼントしたとき、星たちが閉じ込められていた箱である。他に適当な入れ物が見つからなかったので、仕方なくこれを使うことにした。
「じゃ、フランちゃん。行こっか」
「……うん」
こいしはフランドールの手を握って、部屋の外へと歩み出した。
☆ ☆ ☆ ☆
不思議なことに、紅魔館の住人たちは一人残らず眠っていた。妖精メイドたちはそこらへんにだらしなく寝転がって、ぐぅぐぅと気持ちよさそうだ。
「……これ、こいしがやったの?」
「うん。お夕飯にちょっと混ぜものをしてね。さすが八意印の睡眠薬。フランちゃんのお姉ちゃんもイチコロだったよ」
驚くべきことに、あの咲夜ですら無防備に眠りこんでいた。壁に背をあずけて、口を半開きにして。
「うわぁ……咲夜が眠ってるの、初めて見た」
いったい、どんな夢を見ているのだろうか。僅かに頬に赤みがさしている。人をほっとさせるような、安らかな寝顔。
「ね、フランちゃん。早く行こ。皆が起きださないうちに帰ってこないと、大騒ぎになっちゃう」
「うん……もう遅い気もするけど」
二人は窓から外に飛び出した。
夜の空気は冷たく、だけどどこか甘かった。びゅうびゅうと吹く風は、二人を後押しするように上へ上へと押し上げて行き、あっという間に雲の近くまで来ていた。薄い雲はミルクのヴェールのようで、綿菓子のようにじっと動かなかった。
「せーのっ」
手をしっかりと繋ぎ合せたまま、白い闇の中へ飛び込む。何も見えないけれど、こいしの手のぬくもりがあったから、ちっとも怖くなかった。片手を翼のようにぱたつかせて泳いでいるうちに、二人はやがて雲の上に出た。
「わあ……!」
フランドールは思わず息を呑んだ。黒い天蓋には、地下室にあったものとは比べ物にならないくらいの星々が、二人のためにおしみなく盛大に輝いていて、まるで光の土砂降りだった。雲の表面は仄かに光を発していて、手を差し伸べると、たんぽぽの綿毛のようなものが左右に飛び散って、白い水面に波紋を残した。時々ある切れ間から覗く下の世界は、悪戯めいた笑みを浮かべながらその秘密を奥深い懐に隠しているみたいだった。森のざわめき、風のこえ、宵闇のささやき、草花のせせらぎ。全てが遠くにあって、何もかも素敵に見えた。夢のような光景だけど、それは間違いなく現実で、つまりは現実こそが夢なのだった。
「ね、言った通りでしょ?」
こいしが両目を閉じて自慢げに言う。唇の両端がつりあがっている。なんだか小憎たらしい。けれど、確かにこいしが前に言った通りだった。生命が微塵も見当たらない酷寒の世界だけれど、こんなにも沢山の素敵で満ち溢れているのだ。
「さ、星海クルージングは終わり。そろそろ下界へダイヴするよ」と、こいし。
「えー、もう? もうちょっといたいなぁ」
「だーめ。今日のメインは他にあるんだから。また今度、連れてきてあげる」
「約束だよ?」
「うん、約束」
そうして二人は高度を下げ、再び雲の中へと飛び込んで行った。
☆ ☆ ☆
こんなにも星が輝く夜、ミスティア・ローレライは決まって外へ出て、素敵な歌を探しに行く。といっても、お宝を求めて薄暗い地下にもぐったり、金の匂いを嗅ぎつけて穴を掘るといったような泥臭い作業とはわけが違う。ただ星空を我が物顔で飛びまわりながら、くるくると舞いつつ空気に身を任すだけで、勝手にメロディが森や山や花や川から流れ込んでくる。その旋律が言の葉と縁を結んだ瞬間に歌は生まれる。その一瞬の昂揚を求めて、ミスティアは今宵も空を行く。
「わー! 素敵な歌声!」
しかしそんな風に心良く歌っているミスティアを邪魔する声があった。少しく不機嫌になって目を開けると、前には奇妙な二人組。
「なぁに? せっかく気持ち良く歌ってたのにさ……」
「ごめんなさい。ただすっごくいい歌声だったものだから……」
黒い帽子を被ったほうがそんなことを言った。邪魔されたのは腹立たしかったけれど、褒められて悪い気はしなかった。ミスティアは許すことにした。
「それで、なんの用? 残念ながら今日はコンサートは受け付けていないけど」
「ええ、そうですね……なら、私たちのために歌を一つ、くれません? 貴女、夜雀さんでしょう?」
「歌を? ……うーん、別にいいけど。でも、私は貴女たちのこと知らないから、何もなしじゃあ歌は作れないわ。そうね……何か貴女たちの大切なものと交換、というのはどう?」
「うーん、大切なものかあ……」
「こいし、アレは? まだ二つ残ってるでしょ? 片方だけならあげちゃっても大丈夫じゃないかな」
「あ、そっか。あの、じゃあこれとはどうですか?」
そう言って差し出されたのは、一つの小さな星だった。偽りの輝きではあるけれど、確かに何か大切なものがこもっているようだった。
「うん、なかなか素敵ね。これなら大丈夫そうだわ。歌も流れ込んできそうだし」
「やったぁ! じゃあ、お願いします」
ミスティアは瞼を閉じ、手の中に包みこんだ星に呼気を吹き込み、星空に向けて思い切り投げ上げた。星屑はその運動の最高点に達すると、パッと弾けて霧散して、細かな粒がミスティアたちがいるところへ流星群のようにきらきらと降り落ちてきた。
「はい。これで歌は貴女たちにも宿ったわ。私もいい歌を手に入れたし、お互い様ね。私はもっとたくさんの歌を探すから、じゃね」
「ありがとう!」
ミスティアは手を振って少女たちと別れた。前よりもさらに気分が昂揚して、今なら大切な友人たちのために、歌を分けてあげてもいいような気がした。
☆ ☆
竹林の夜はさわさわと波打っていた。細い幹の間を埋める広い間隙にはとっぷりとした仄白い闇が満ち充ちていて、草葉の影で眠る動物たちは思い思いの夢を見つつ安寧の中でたじろいでいた。その奥の方にある広大な建物もまた、同じく夢と現の境界でまどろんでいた。
「さとり、本当にここにいるの?」
「うん。こっちこっち」
どうやら下調べは住んでいるらしく、こいしは迷うことなく空中を突き進んで、永遠亭の隅の方の一角に、小さな部屋があるのを見出した。窓は閉じているけれど、鍵は閉まっていなかった。こいしはしぃと唇に指をあてて合図し、音を立てないようにして中へ入り込んだ。僅かの躊躇の後に、フランドールもそれに続く。
さとりは毛布にくるまって、独り、苦しそうにうなされていた。強くしかめられた眉根は、もうずっと安らいだ気持ちになったことがないようだった。紅魔館にいた頃よりもやつれて、元々小さかった顔もよりいっそうやせていた。肌も病人のように白かった。これが、フランドールのしたことなのかもしれない……フランドールはさとりを自分のものにしたかった。けれど、さとりにはそれが嫌だった。理由はわからないけれど、きっと苦しむことになるだろうと思ったから……だから、さとりはフランドールのもとを離れざるを得なかった。ぜんぶぜんぶ自分のせいだ。
さとりが不意に目覚めて起き上がり、胡乱な視線でこいしを見ると、かすれたか細い声で言った。
「こいし……?」
「お姉ちゃん。プレゼントを届けにきたよ」
そして、その視線がフランドールのほうを向いた。きっと、自分の名前は読んでくれないだろうと思った。だって、フランドールのせいで、こんなにもさとりは苦しんでいるのだから……だけど。
「フラン……」
呼んでくれた。懐かしいあの声で、以前と同じように。
なんだか涙があふれてくるようだった。喉のおくにぐっと何かがつまって、声が出せなくなったみたいだ。だけど、言わなくちゃ。チャンスはもうない。こいしがフランドールの背中を、勇気づけるように軽く押した。
前へ進み出て、伝えられなかった言葉を言う。もう遅いかもしれないけれど、とにかく、伝えたかった。
「ありがとう、ごめんね」
さとりのおかげでお姉さまと仲良くできた。さとりのおかげで楽しかった。さとりのおかげで、星空の綺麗さを知ることができた……。
それらをすべて言いたかったけれど、もう、言葉が出なかった。その代わりに、小さな箱を彼女に渡した。本当にこれが役に立つのか、フランドールにはわからない。だけど、これくらいのことしかフランドールには出来ない。だから、こいしの言葉を信じるしかなかった。
さとりはそれを受け取ると、ふっと安心したように目を細め、そのままぱたりと寝入ってしまった。
☆
楽しく飛び回った夜もこれで終わり。帰ってきても、紅魔館の住人たちはまだ心地よい眠りを味わっていた。出てきた場所と同じ窓からフランドールは中に入り、こいしはそのまま外に残った。お別れの時間らしい。
「ね、フランちゃん。夜雀さんから歌を貰ったの、覚えてる?」
「うん。なんだか不思議な感じ」
そのメロディを頭の中で思い浮かべるだけで、胸がほかほかと沸き立って、楽しい気分になってくる。その歌詞を舌の上で転がすと、地下で食べた星の甘い味が鮮明に蘇ってきた。
「その星の歌はね、お姉ちゃんがあげたあの星空の代わり。寂しくなったら、いつでもそれを歌ってね。そうすれば、きっと何もかも大丈夫だから」
「うん……行っちゃうの?」
「今日はね。もうそろそろ、お姉ちゃんも地霊殿に帰ると思うから……だけどまた、こっそり遊びにくるよ」
「絶対だよ? 約束……」
微笑んで、こいしは首を振った。
「ううん。約束はしない……だって約束って、すぐに破られちゃいそうな、脆いものなんだもの……また今度、遊びにくる。だから、歌でも歌って、待っててね」
そう言って、空気よりも軽く、こいしは夜空へと浮かんで行った。
残されたフランドールは、窓を閉め、そこにはぁと息を吹きかけた。そして、指でまず「独り」という字を書き、その横に「一人」という字を書いた。この二つは、読み方は同じだけど、意味は全然違う……「独り」はいつまでもひとりだけど、「一人」は「二人」になるかもしれないからだ。つまり、友達とまた遊べるという確信が、一人で家に帰るということなのだ。
フランドールは、歌を歌いながら部屋へと帰った。もう暗い天井には、星は輝いていない。形として残ったものは、いつかきっと壊れてしまう。だけど、記憶の中にあるものは、ぼやけることはあるけれど、決して壊れることはない。
そんな曖昧な夢を見ながら、フランドールは一人で生きていく。
二話構成です。
1 箱庭(ミニチュア・ガーデン)
期間は一週間。食事は一日に二回。膝枕は一日一回、三十分。
その条件のもとで、古明地こいしはフランドール・スカーレットの部屋に監禁される。
「なんだか、ドキドキするね……」
「そうかなぁ。私はいつも通りだけど」
「もう、こいし。少しはノってきてよ。人がせっかく盛り上がってるんだからさぁ」
フランドールが唇を尖らせてすねるのを見て、つくづくこの子は可愛いな、とこいしは微笑む。
部屋の中央に、天井まで届くほどの巨大な鳥かごが配されている。しかし横幅はそれほどない。こいしがようやく寝転がれるくらいの広さだ。これから彼女はこの鳥かごの中に入って、合計148時間はフランドールの監視の下に置かれることになる。幾ら条件を出したからといって、食事が毎回ちゃんと出されるとは限らない。こいしの生殺与奪の全権をフランドールが握るわけだ。
フランドールにはあんなことを言ったが、こいしも内心では結構どきどきしていた。何よりもふらふら飛びまわれる自由を愛してはいるけれど、たまにはこうして完全に誰かのものになるというのも、新鮮で素晴らしいことのように感じられた。
人に飼われた鳥は、いつか鳥かごの中に戻ってくる。閉じ込められるとはいえ、安全な寝床と心地よい休息が約束されるのだ。時には自由を犠牲にして不自由を獲得するのも悪いことではないだろう。
「それに、ちゃんと夜空も見えるしね」
こいしは上を見る。そこにあるはずの天井はなく、代わりに満天の星空がそこに広がっている。つい昨日この紅魔館を去った彼女の姉、古明地さとりの置き土産だ。時間の経過に会わせて、星々はきちんとその位置を変える。本物の夜空と見紛うほどである。
「さとり、いなくなっちゃったんだね。大丈夫かな」
フランドールは寂しそうに言う。
「大丈夫だよ。きっとね」
貴女のせいでいなくなったんだよ、という呟きを押し殺して、こいしはうけあった。
「フランドール様、そろそろ0時です」
傍らに控えていた咲夜が、銀時計を見ながら言った。彼女は企画の裏方なのだ。鳥かごを用意したのも、こいしのために食事を用意するのも、すべてこの瀟洒なメイドの仕事だった。
「じゃあ、こいし」
「うん」
こいしは頷いて、裸足のまま鳥かごの中に踏み入る。金属のひんやりとした感触が足の裏に心地よい。
「今からこいしは、私のものね」
ガチャンと、錠の落ちる音がした。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
静かな部屋に、時計の針の進む音が響いている。見上げた先は格子状に切り取られた夜空だ。月はちょっと澄ましたような冷たい笑みを浮かべている。手を伸ばしても、今のこいしはそれに微塵も近付くことができない。
「空見てばっかり。私よりもそんなにお星様が気になるの?」
不機嫌そうな声がしたので、こいしは視線を水平に戻した。
ベッドに寝そべったフランドールが、片肘を立てて杖をつき、むすっとした顔をその上に乗せている。
「あんまり言う事きかないとさぁ、こいしのこと壊しちゃうかも」
紅い瞳に嗜虐の光を覗かせる。こんなことを言っているけれど、むしろ機嫌はいいみたいだ。望むものを手に入れたという満足感にまだ浸っているのかもしれない。
「ん、それはちょっと嫌かも」
「なら、もっとこっち見てよ」
「うん」
こいしは両ひざを両手で抱え込むようにして座り直し、フランドールを見つめる。金色の髪は、夜の闇の中でも決して褪せることのない彩光を放っている。その輝きに照らせば、星々のあえかな光など一瞬のうちに褪せてしまうような気がした。
「やっぱりいいね、こういうの」
満足したのか、フランドールがにっこり笑って言った。
「こいしはどう?」
「こっちもなかなか。鳥かごに入ってるのって案外いいね。なんだか囚われのお姫様になったみたいな感じ」
「ふぅん? ……よくわからないこと考えるんだね。あ、そろそろご飯の時間だ」
扉が開いて、咲夜がトレイを持ったまま入ってきた。二人にぺこりと礼をして、鳥かごの入口の前まで来ると、鍵を取り出して錠を外そうとする。
「あ、咲夜、いいよ。鍵外さないで」
「……では、彼女のお食事はどのように?」
「私が食べさせてあげるから。格子越しにね」
得意げにフランドールは言った。さとりにきいたから知っているのだが、それは「こいしを監禁したらやりたい10のこと」のうちの一つらしい。あと九つに関しては不明のままだ。
咲夜は得心が行ったというように小さく頷くと、トレイを体育座りしているこいしの前の床に置いた。それから透き通った綺麗な瞳でこいしを眺めたあと、再びぺこりと礼をして部屋から出て行った。
「さて、こいし、ご飯だよ」
はしゃいだ声でフランドールは言う。
「たーんとお食べ」
「うん。フランちゃんは食べないの?」
「私はいいや。あんまりお腹空かないし。それにこいしにご飯上げるのに忙しくなるからね」
フランドールはそう言って、こいしの前にぺたりと座りこんだ。
格子越しに見つめ合う二人。妙な気分だ。
「じゃあ……いくよ?」
フランドールがシチューをスプーンですくい、こいしの口に近づける。
こいしは目を閉じ、口を開いたまま待機する。
あむ。
「……どう?」
「ん。おいし」
広がる味はクリーミィ。紛うことないシチューである。熱さもちょうどいい。言うことなしだ。
「次はお肉、食べたいな」
「うん」
そうやって、一口一口、丁寧に運んでいく。鶏肉、キャベツ、にんじん、じゃがいも、たまねぎ。うまく口に入らなかったり、途中でスープが零れてしまったりと大変だったけれど、なんとか食べきった。
「……ふぅ、どうだった? こいし」
「美味しかったけど、結構大変だね。次からはもう、やめにする?」
「うん……いや、やっぱり、私がする。つぎ、パンいくよ。あーんして」
そういって、フランドールは甲斐甲斐しくパンをちぎり、欠片をつまんでこいしに差し出した。こいしはそれもあむっと食べる。スプーンとは違うので、必然、フランドールの指に唇が触れてしまうことになる。
「…………」
フランドールは、自分の指先が唾液で少し光っているのを、物珍しげに見つめていた。こいしは何となく恥ずかしくなって、「汚いから、拭きなよ」と言った。フランドールはほとんど上の空のままそれに従って、ナプキンで指先を拭った。
ジュースにはちゃんとストローが付いていたので、今度は難なく飲むことができた。二人は一口ずつ分け合ってそれを飲みほした。その間、夜空は静かに輝いて、二人を優しく見下ろしているように思えた。星は時折きらりときらめき、星間を埋める紺色は心地よく眠っていた。あの海を夢のように泳ぎ回れたら、さぞかし気持ち良いだろうなとこいしは思う。宇宙の空気はきっと綿菓子のようにふわふわしていて、甘い匂いがして、星々ももしかしたら、食べてみるとすごく美味しいのかも。
「……綺麗だね」
こいしは呟く。
「うん、本物みたいだね。……どうだったっけ」
幾分か寂しそうにフランドールが返す。
「フランちゃん、外に出たいの?」
「うぅん……別に、出ようと思えばいつでも出られると思うけど。でも、これがあるなら、もう出なくてもいいかなぁ」
そう言って、フランドールが格子に寄りかかった。こいしもその同じ部分に背中をあずける。内側にいる人が、外側にいる人に向かってするにしては変な質問だ。
「こいしの知ってる夜空は、どんなの?」
「うーん……もっとね、意外と残酷なところだよ。とんでもなく寒いし、生き物は全然住めないし。でも、雲の上を飛ぶのはすっごく綺麗かな。雲の表面がね、プリズムみたいにきらめいてるんだ」
「へぇ……それはちょっと、見てみたい、か、も」
最後のほうは、尻切れトンボになっていった。振り返ると、フランドールが膝と膝の間に顔をうずめてるのがわかった。肩が震えていないから、泣いてはいなさそうだけれど。少し心配になって、格子越しに両手を伸ばし、彼女の首のまわりをネックレスみたいに包み込む。顔に触れても、湿っていないから、やっぱり、泣いていなかった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
さて、こいしお待ちかねの膝枕タイムである。鳥かごから出るわけにはいかないから、咲夜に鍵を開けてもらい、フランドールが一時的に鳥かごの中へ入ることになる。
「なぁに、喜んじゃって……そんなに楽しみだったの?」
「うん。だってね、お燐がね、あ、うちの猫だけど。お姉ちゃんにやってもらってると、凄い気持ちよさそうなんだよ」
フランドールは苦笑して、冷たい床にぺたりと腰を下ろした。こいしはその太ももに頭を乗せる。目の前には、金髪サイドテールの可愛い女の子の顔がある。そしてさらにその上には幾重にも分断された星空。格子が邪魔になるのは少し残念だけど、悪くない。
「…………」
「…………」
やはり見つめ合うことになる。綺麗な赤い瞳に、きょとんとした色が浮かんでいる。
「フランちゃん、髪、なでて」
「あ、う、うん」
白く細い指が、さらりと、こいしの柔らかい癖っ毛を梳く。目にかかった前髪をはらい、頭の後ろに手を回して、指で少しずつ、まっすぐにでもするかのように。
「すっごい、巻き髪だね」
「フランちゃんは、まっすぐだもんね……うらやましいなぁ」
整えるのが結構大変なのである。櫛をいれないと、すぐにボンバーなことになってしまう。こいしは手を伸ばして、彼女の肩から垂れる金色の房に触れた。まるで濡れているみたいにみずみずしくて、清涼感を含んでいる、不思議な髪質だった。つくづくうらやましい。
そうやってしばらく、お互いの髪をいじって遊んでいた。フランドールはこいしの髪を指にスパゲティみたいに巻き付けて、カールさせるのが楽しいみたいだ。やがて、それにも飽きたのか、困ったことにこいしの顎を指でこちょこちょすることに精を出し始めた。
「ひゃ、やめてっ、ふ、あははっ」
「ええい、いいではないかいいではないか」
「それ、誰に教わったの?」
「え、パチュリーだよ?」
いったい何を教えているのだろうあの魔女は。そんな疑問を抱きつつ、こいしはフランドールの指から逃れるので必死だった。その時、ドアが開いて、咲夜が静々と入ってくるのが見えた。
「フランドール様、お時間です」
「あ、うん」と、フランドールが頷く。
「えぇー、もうかぁ」
「また明日ね。じゃ、出るから。頭どけて」
こいしは渋々頭を上げた。フランドールが外に出て、再び重たい錠が下ろされる。
スン、とこいしは指の匂いをかいだ。花のような香りが僅かに残っている。消えてしまうのが惜しかったので、何度も何度もかいだ。
「こいし、犬みたい」
「だっていい匂いなんだもん」
「え、ほんと?」
フランドールも同じようにする。
「あ、ほんとだ。お日様みたい」
「私とフランちゃんの髪の匂い、違うのかなぁ」
「わかんないよ。ちょっとかがせて」
そんな二人を呆れ顔で眺めていた咲夜が、いつものようにぺこりと礼をして、静かに部屋から出て行った。それまで二人は子犬のようにお互いの手の匂いをかいでいた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「こいし、絵本読んであげる」
フランドールがテーブルの上から紫色の大判の本を取って、にこにこしながらこいしの前にやってきた。
「絵本? もうそんな歳じゃないんだけどなー」
「いいじゃん。ほら、こっち来て」
カーペットに絵本が置かれた。タイトルはミミズののたくったような文字で書かれていて読めない。だけど、その下の署名だけはこいしにも読むことができた。
「これ……あの魔女が描いたの?」
「うん。図書館で暇だ暇だ連呼してたら、しょうがないなって描いてくれたんだ」
本の装丁を見てみれば、ところどころが角度によってきらりと光ったりと、なかなか豪華なものだった。しょうがないからというわりには気合が入っている。案外ノリノリだったんじゃないか、とこいしは疑って、くすりと笑った。
主人公は、金髪の巻き毛が印象的な黒白の魔法使いだった。彼女は箒に横向きに乗りながら、さっそうと絵の中を飛び回っている。
「ってこれ」
「ふふふ。主人公誰がいいって聞かれたから、魔理沙にしてって頼んだんだ。ついでに悪役の吸血鬼はお姉さまね」
悪のメイドの時間をとめる能力によって、親友の人形遣いがさらわれてしまった。魔法使いは自分の無力さを悔い、険しい山々で修業をすることになる。天狗たちとの長きに渡る戦いでついに世界最速の魔法を編み出した彼女は、満を辞して敵の居城に乗り込み、見事親友を救いだしたのだという。色々とめちゃくちゃである。
嬉々として文章を読み上げるフランドールは、とても楽しそうに見えた。内容はこいしにとってそれほど刺激的ではなかったけれど、友達のそんな姿を見ていられるのだから、まあいいかと思った。
「めでたしめでたし。ねぇこいし、どうだった?」
「うん……私もこんな感じに強ければ、フランちゃんをさらって逃げ出せるのになぁ」
「そうだね、こいしってちょっと弱そうだもんね」
「ぐさっ」
「ねぇ、私は強そうに見えるかな?」
「うん」
と、こいしはうなずいた。
「フランちゃんは強いよ。だって、凄い能力持ってるし、吸血鬼だから、力もあるし」
「でしょ。だから、何かあったら、弱っちいこいしちゃんを守ってあげる」
「その時はよろしくね」
そうして、格子越しに指切りをした。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
途方もない夜空に、重々しい置時計の針の音が刻み込まれていく。それがだんだんと高まるにつれて、二人の間に倦怠がのしかかってきた。
一日二回、フランドールはきちんと自らの手でこいしに食べ物を与え続けた。パンをちぎり、スープをすくってふぅふぅ冷まし、じゃがいもをぽろりと落とさないように、慎重に。誰かと一緒にこんなにも長く時を過ごしたのは初めてで、新鮮だったのかもしれない。その姿はとても甲斐甲斐しかったと言っていい。
だけど時間が経ち、新鮮味が薄れていくにつれて、スプーンとフォークを運ぶ動作がのろくなっていった。本人は認めたくないようだったけれど、徐々にではあるが着実に「飽き」が彼女の心を蝕んでいた。
心から欲しかったもの、心底に願い通したものが、手に入れてみたらただのガラクタに見える。そんなことがあるわけがない。きっと、そう信じていたのだろう。
こいしも当然それに気が付いていた。膝枕をしているとき、自分を見下ろすその瞳の中に、いつもの綺麗な光と違う、胡乱な淀みが混じっていたから。紅いルビーの泉の底に、深淵がぽっかりと口を開いているのが見えていた。
だから、何とかしてフランドールを飽きさせないために、こいしのほうでも色々と工夫を凝らしてみた。いつもより大げさにふるまってみたり、突拍子もないことを言って笑わせようとしたり、さとりとの思い出に色を付けて話してみたり。だけど、最後のは明らかに逆効果だったようで、フランドールはさとりが出ていった理由をしきりに訊こうとした。迂遠な尋ね方だったけれど、明らかに彼女は、さとりが出ていった理由が自分にあることに、見当がついているようだった。こいしはそれを頑として言おうとせず、会話はやはり途切れがちになった。
だんだんと、時計の音だけが星空に響き渡る時間が多くなった。星の光ももはや白々しく、星間を埋める群青は空虚だった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
世界の底まで続く滝を轟々と流されているような夢。ひどく冷たい水が骨の髄まで凍らせて、そのまま死んでしまいそうな気がした。圧倒的な恐怖と凍てつく寂しさがこいしの心を満たす。叫び出したかったけれど、口の中は水でいっぱいだ。肺までそれは流れ込んでいた。出てくるのは、声にもならないかぼそいすすり泣きばかり。手を伸ばしてもつかめるのは酷薄な空気だけ。あらがいようもなく、ただ下へ深層へとこいしは堕ちていく。
目を開くと、格子の向こうの白く清潔なベッドの上に、怯えた表情のフランドールが、震えながら座り込んでいるのが見えた。紅い瞳は紛れもなく恐怖で見開かれて。その視線は明らかにこいしに向けられている。
どうしたの……と言おうとして、口の中に染み渡る鉄の味に気がつく。唇に触れると、赤いものが掌に線を残した。血が出ている。
よく見るとその手も、何かに打ちすえられたみたいに痣がいくつもできている。左の親指の爪が割れている。それだけじゃない。体のそこかしこがずきずきと鈍く痛む。
「こ、こい、し」
再び視線をフランドールに向ける。そのまなじりには涙が滲んでいる。口からは白い歯がのぞき、寒さに耐えているようにガチガチと鳴り合わさっている。
夢を見ている間に、こいしは酷く暴れたらしい。固い格子の鉄棒が、一部だけ不自然にぐにゃりとひん曲がっていた。フランドールと一緒に声を出して読んでいた絵本はずたずたに切り裂かれて、見る影もない有様だ。いつも被っていた帽子は何度も何度も踏みつけられたのか、歪な形に潰されていた。
気分が悪い。ぐるぐると胃の中が踊っている。焼けつくような吐き気が胸を焦がしている。自由に出歩けないことは、想像以上にこいしを蝕んでいたらしい。無意識に任せてふらふらと動きだしたはいいものの、きっと格子にぶつかって阻まれてしまったのだろう。そこでストレスが爆発して、暴れまわった。
「だ、だいじょうぶ?」
おそるおそるフランドールが声をかけてきた。友人の初めて見る凶行に心底怯えきっていただけに、それは大変な勇気に違いなかったけれど、こいしは応える気力もなく、胸を抑えたまま倒れ込んだ。何か一言発しただけで、もどしてしまいそうだった。
ぐるぐるとまとまらない頭の中でぼんやりと考える。自分では、この鳥かごの檻を破ることはできない。全然力が足りない。私は弱い。心を閉じればきっと、前よりも強くなれると信じていたのに……。これじゃ、何も変わらないじゃないか。フランちゃんは強いから、きっとこんな檻なんて、一瞬で粉々にしてみせるだろう。だけど、だけど……。
またしばらく時間が経ったらしい。扉の外に、カシャッとトレイが置かれる音がした。監禁期間が二日を過ぎたあたりから、フランドールは咲夜の入室を禁じていた。二人きりの時間を、邪魔されたくなかったから。だから咲夜は、扉のこちら側で何が起きているかなんて、まったく関知していない。
「あ、ごはん……」
フランドールは不安げにこいしをちらりと見た。こいしはもう落ち着きを取り戻して、格子に背中をあずけて、ぐったりしていた。
「こいし、食べられる?」
「……うん。食べる」
そう言うと、フランドールはほっとして、扉を開けてトレイを持ってきた。今度のメニューはにんじんやじゃがいもの入ったコンソメスープに、レーズンパン、そしてミルクだった。どれも好きなものだったけれど、今はなぜか、パンにくっついているレーズンのぶよぶよした形が、恐ろしい病のもたらす斑点に見えて、ぞっとした。
「じゃ、行くよ……?」
こいしは黙ってうなずいて、口を開いて待った。
また退屈な作業が始まった。スプーンでスープをすくい、じゃがいもを割り、パンをちぎって、こいしの口に運ぶ。最初のうちは新鮮味に溢れていて、楽しかった。けれど、こう何回も続くと、その緩慢さにいらいらする。自分の思い通りに食べられないのが、こんなにうっとうしいなんて知らなかった。
フランドールはこいしの表情の変化に気付いたのか、少しまた怯えて、スプーンを持つ手がふるふると震えた。
「あ……」
ぺちゃ、とにんじんが零れ落ちた。次いで、スプーンを落としてしまう。フランドールはそれを慌てて拾おうとしたけれど、勢い余って牛乳の瓶を倒してしまった。白い液体が紅いカーペットにじわりと染み渡る。
「あ、ぅ……」
もう限界だった。フランドールはこいしの前で石のように固まってしまった。指は震え、瞳の輪郭は広がり、紅い湖から透明な水が流れ出している。
その姿が、無性にこいしを苛立たせた。
「もういい」
こいしは言った。
「もういいよ」
フランドールの肩がぴくりと動く。まるで小動物のように怯えている。
「なんでフランちゃん、そんなに脆いのさ」
「え……?」
「全てを破壊する能力っていうから、チカラのほうは物凄いよね。本気を出せば、誰にでも勝てちゃうもん。でもさ、それを使うフランちゃん自身が弱いんじゃなんの意味もないじゃない」
これを言えば、フランドールを傷つけるだろうなと、ぼんやりと考えたことがあった言葉。それが今、口をついて外へ出て、彼女の柔らかい部分を突き刺していく。とめようと思わなかったわけではない。でも体を突き動かす苛立ちと衝動が留まることを許さなかった。
「お姉ちゃんを壊したあの強さはどうしたの。どうしてそんなに簡単に揺らいじゃうの」
「え……じゃあやっぱり私が、さとりを……」
「そうだよ。フランちゃんのせいで出て行ったの。フランちゃんがお姉ちゃんを魅了しようとしたから、怖くなって、出て行ったの。でもそんなのはどうでもいい。本当にフランちゃんが強いんならさ、力を見せてよ」
さとりは弱い。意識なんてものに頼り切っているから、いつまで経っても強くなれない。だからこいしは心を閉ざした。その代わりに、無意識のままで行動する術を手に入れた。だけど、全然足りない。圧倒的な力が足りない。無意識で行動できてもたかが知れているのだ。本当の強さとはなにか? その秘密を解き明かすために、こいしは――
「……もし、かして……こいしが、私と友達なのって……?」
その続きを耳にしなくとも、こいしにはフランドールの訊きたいことがわかった。答えてはいけない、否定しなくてはならない。そんな一瞬の迷いは、無意識によって打ち消されてしまった。
「そうだよ。ただ単にフランちゃんが強そうに見えたから……それ以外の理由なんてないわ」
ボンッ、と音を立てて、鳥かごの格子が爆発した。
「や……そんなの……いや……」
牛乳瓶が、スプーンが、トレイが、錠前が、次々に破壊されていく。細かな粉塵が宙を舞う。
フランドールは座り込み、耳を抑え、その手が閉じられるごとに、音を立てて何かが破壊されていく。
「こうなりたくてなったんじゃない!」
フランドールがそう叫ぶと、突然、妙な感覚がこいしを襲った。自分が何か一点を中心に集束していくような……ぐいぐいと体全体が縮むような心地がする。
こいしの「目」を収めたフランドールの手が、今にも閉じられようとしていた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
不意に視界が暗転して、奇妙な浮遊感が体を覆ったとき、ああ、死んだんだ、とこいしは思った。
でも、次に襲ってきたのは現実的な、でも死ぬほどではない痛みだった。誰かに頬を思い切り叩かれた。その焼けつくような感覚に、頭がしばしのあいだ真っ白になる。
目の前に、冴え冴えとした青い瞳があった。それは宝石のように無邪気に輝いていて、なんの感情も、怒りも、悲しみも、そこからは読み取れなかった。
こいしを叩いたのは、十六夜咲夜だった。
「……少し、頭を冷やしなさい」
静かな声でそう言うと、咲夜はこいしの帽子を椅子に置いて、部屋から出て行った。
呆として周囲を見回す。そこはフランドールの部屋ではなかった。紅魔館の他の場所とは違い、青系の落ち着いた色合いの壁紙が使ってあり、調度品も無駄をいっさい切り捨てたかのようにシンプルで、悪く言えば面白みがない。こいしは窓のそばに備え付けられた白く清潔なベッドに腰掛けていて、中央の一人用のテーブルの上に、黒い装丁の小さな本が置いてあるのが見えた。咲夜の部屋なのだろうか。
どうやら、フランドールに壊されるよりも一瞬早く、こいしは咲夜に助けられたらしい。時をとめる能力で、ここまで連れてこられて、そして……。
叩かれた頬がひりひりと痛んだ。だけど必要な痛みだとも思った。頭を沸かせていた熱が冷めてきて、自分の言ったことの残酷さがようやく認識できた。
こいしは、フランドールを利用するために、彼女と友達になった。強さの秘密を解き明かすため、それだけ……本当のところ、確かにそれも一面ではあった。だけど、それがすべてではなかったはずだ。彼女の可愛らしい容姿、嗜虐と寂しさで輝く紅い瞳、水のように潤っている金色の髪、口からもれる幼い声、そして、底なしの湖のように神秘的な心。そういったものにも、確実に惹かれていたというのに……。
今頃、あの子はどうしているだろうか。何を思っているだろうか。それを考えると、罪悪感と焦燥で胸がきりきりと締め付けられた。
それからしばらく、こいしは咲夜の部屋で過ごした。出ていく気になれなかったし、出ていけとも言われなかったから。
咲夜は昼前になると自室に戻ってきて、こいしのために簡単な食事を用意し、自分はシャワーをさっと浴びて、寝る前に椅子に腰かけて静かに読書をした。時にはブランデーを少量グラスに注いで、ぼんやりと外を眺めながら味を楽しむこともあった。だけど、それ以外には何もない。考えうる限り最もシンプルな生活を送っているようだ。
まったく淀みのない淡々とした生活。何に心を揺るがされることもなく、時間が過ぎるのを静かに待つ。これを可能にする精神は、やはり、強いといえるのだろうか。だけど、ひたすらに強さを求めたこいしと違って、咲夜は決してそんなものを求めているようには見えない。ただ単に、強くある、それだけ。ならば強さとは、求めて手に入るものではないのか。
本に没頭している咲夜から目をそらして、こいしは窓の外を眺めた。数日前から雨が降り続いている。梅雨の時期でもないのに、不自然に引き延ばされたような、薄っぺらい雨雲だ。もしかしたらパチュリーが、不安定なフランドールを外に出さないために降らせ続けているのかもしれない。
「フランちゃんは……」
思わず口をついて出た言葉。本の虫になっていた咲夜はそれを聞いて顔を上げ、カップの紅茶を啜り、答えた。
「落ち込んでいるわ。外見上は普通に思えるけれど……たまにものをぽんぽん壊すから、会うのはあまりお勧めできないわね」
でも、会わないと何も言えない。
だけど、言うべきことも思いつかない。
「どうしたらいいのかな……」
窓に頬を押しつける。ひりひりと冷やされ、窓が吐息でぼうと曇った。咲夜に叩かれたそこは、当然のようにもう痛まない。でも叩かれた記憶自体は生々しく残っている。その記憶を、手放してはいけないと思う。
「強さって何なのか、わからないや。ずっとそれが欲しかったはずなのに……心を閉じたあのときから、ずぅっと。だけど……」
外が暗いおかげで、窓に室内の様子が反射して見える。咲夜は青くつつましい夜着姿で、カップを両手で包み込むようにして持ちながら、こいしのことを見ている。
「フランちゃんは、強いけど、弱い。心が脆いのは仕方のないこと。だって……」
ぽつり、ぽつりと言葉をこぼしていく。まとまらなかった考えが、外に出ていくことでようやくはっきりした形をとるように思える。聞いてくれる人がいるのは、ありがたかった。
「望んで強くあったんじゃないから。フランちゃんは、ただ仕方なく強かった。そうあらざるを得なかったから……」
こうなりたくてなったんじゃない、というフランドールの叫びを思い出す。強くなりたくて生まれてきたんじゃない。ただそういう風にしてしか、生きられなかったから……。それは、こいしが心を閉ざしたのと同じ理屈だった。
「嫌われ者になりたくて生まれてきたんじゃない。だから、私は心を閉ざして……でも、フランちゃんは」
こいしとは違って、フランドールは逃げずに、自分の能力と向き合っている……いや、それはわからない。だけど少なくとも、自分の能力と共に生きている。だから。
「フランちゃんは、私よりも、ずっと強い」
そもそも、強さを求めるのなんて無意味だった。そうあらざるを得なかった強さの秘訣は、求めるまでもなくずっと、こいしと共にあったのだから。
「……その答えが合っているのかどうか、私にはわからないけれど」
咲夜が夜のように静かな声で言った。
「何をするにしても、今はまずいわ。一度、紅魔館を離れてみてはどうかしら。そうね、永遠亭に行った貴女の姉を追いかけてみるとか……それは自由だけれど。また機を見計らって、戻ってきなさい。そうしたら……」
「そうしたら?」
「仲直り、しましょうね」
咲夜が緩々と微笑んで、ぱたりと本を閉じて、テーブルの上に置いた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
2 星の器
なんだか上のほうが騒がしいな、とフランドールはぼんやり思った。
すり鉢状に展開していく夜空の向こうから、どたばたと大勢が駆けまわる音が聞こえてくる。でもそれは、私となんの関わりもないんだ、どうせ。全部が私から遠く離れて動いていて、誰も振り向いてはくれないんだ……そんないじけた考えを持て余して、だから今度もきっと、何事もなく円満に解決するだろうと確信する。魔理沙も、霊夢も、彼女の倦怠を一時的にしか紛らわせてくれなかった。一緒に時を過ごしたこいしも、もういない。
だけど予想に反して、そのざわめきはどんどん近付いてきた。階段を駆け下りて、地下通路を駆け抜けて、パチュリーの仕掛けた防護の呪文を突破して……ついに足音は、フランドールの部屋の前で止まった。
木製の扉がコンコンとノックされる。
「……誰?」
まばゆい光が部屋の中を照らしだす。偽りの星空が掻き消されて一瞬にして元の天井に戻る。強い光のもとでは、弱い星の光は死んでしまうのだ。
扉を開けたのは、黒い帽子を被り、山吹色の上着を羽織り、深い緑色のスカートを穿いた少女だった。彼女はつかつかと部屋の中に入ってきて、がしっとフランドールの両手を掴んだ。
「フランちゃんっ!」
「はっ、はい」
思わず敬語を使ってしまう。フランドールを覗き込むこいしの瞳は、星のようにきらきらと輝いていた。
「駆け落ちしよう!」
「……はい?」
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
もう来てくれないと思っていた。弱い自分になんて興味はないんだと知らされたから。一生もう会えないと確信していた。だけど、会いに来てくれた。
「こいし、それはいいんだけど」
「なぁに?」
「なんで私たち、こんなことしてるの?」
フランドールはこいしに手伝わされて、天井にある星を一つ一つ、ぺりぺりと剥がす作業をしていた。小さな固い星は案外あっけなく夜空から取れたから、大した苦労はないのだけれど、それをする目的がいまいち不明だった。
「フランちゃん、お姉ちゃんに恩返ししたいでしょ?」
こいしはこちらを振り向かず、弾んだ声で言う。
「恩返し……? まぁ、そうだね、さとりにはお世話になったし……」
「でしょ! だったら、この星をお姉ちゃんのところに持っていこう。きっと喜ぶよ」
「うん……って、ちょっと待って。元々この星って、さとりからもらったんだよ? 突っ返されて喜ぶかなぁ」
「大丈夫。お姉ちゃんに今一番必要なのは、これだもの」
そう言って、こいしはこちらを振り向き、ウィンクをした。いや、まったく意味がわからないけれど。とりあえず今は、こいしが戻ってきてくれたのが嬉しかった。フランドールはほっと安堵のため息をついて、目の前の疑似星空に集中した。
それにしても。
星を一つ摘まんで、目の前に持ってくる。まるで金平糖のようにぎざぎざしていて、美味しそうに見える。もしかしたら、食べたら案外いけるのかもしれない……。
ガリッ。
気が付いたら、口に放りこんでいた。
「……あ、甘い」
砂糖を固めたような味がした。一口噛むと、あとはするすると舌の上でほどけて、夢のように儚く消えてしまった。その感覚を楽しみたくて、フランドールはもう一つ星を口の中に放りこんだ。がりっ。
「あー! フランちゃん、食べちゃだめだよ!」
「でも、美味しいよ。こいしも食べたら? ちょっとくらいなら平気だよ」
「え、ほんと?」
こいしも星を一つ口に含む。瞳が驚きにじわりと広がる。
「あ、ほんとだ……想像通りだ」
「でしょ。私ももう一個だけ……」
そうして二人は星をぽんぽん次から次へと食べていった。そうしているうちに、当然、星は残り少なくなってしまった。
「…………」
「…………」
「……減っちゃったね」
「えーと、ぜろ、いち、に……」
数えるまでもない。残り二つである。
「…………どーしよ」
「……ま、まぁ、星それ自体よりも、私たちがこれを届けにきたってことのほうが大切だよ、うん」
こいしはそう無理に自分を納得させて、残った二つの輝きを小さな箱の中に入れた。これは元々、さとりがフランドールに星空をプレゼントしたとき、星たちが閉じ込められていた箱である。他に適当な入れ物が見つからなかったので、仕方なくこれを使うことにした。
「じゃ、フランちゃん。行こっか」
「……うん」
こいしはフランドールの手を握って、部屋の外へと歩み出した。
☆ ☆ ☆ ☆
不思議なことに、紅魔館の住人たちは一人残らず眠っていた。妖精メイドたちはそこらへんにだらしなく寝転がって、ぐぅぐぅと気持ちよさそうだ。
「……これ、こいしがやったの?」
「うん。お夕飯にちょっと混ぜものをしてね。さすが八意印の睡眠薬。フランちゃんのお姉ちゃんもイチコロだったよ」
驚くべきことに、あの咲夜ですら無防備に眠りこんでいた。壁に背をあずけて、口を半開きにして。
「うわぁ……咲夜が眠ってるの、初めて見た」
いったい、どんな夢を見ているのだろうか。僅かに頬に赤みがさしている。人をほっとさせるような、安らかな寝顔。
「ね、フランちゃん。早く行こ。皆が起きださないうちに帰ってこないと、大騒ぎになっちゃう」
「うん……もう遅い気もするけど」
二人は窓から外に飛び出した。
夜の空気は冷たく、だけどどこか甘かった。びゅうびゅうと吹く風は、二人を後押しするように上へ上へと押し上げて行き、あっという間に雲の近くまで来ていた。薄い雲はミルクのヴェールのようで、綿菓子のようにじっと動かなかった。
「せーのっ」
手をしっかりと繋ぎ合せたまま、白い闇の中へ飛び込む。何も見えないけれど、こいしの手のぬくもりがあったから、ちっとも怖くなかった。片手を翼のようにぱたつかせて泳いでいるうちに、二人はやがて雲の上に出た。
「わあ……!」
フランドールは思わず息を呑んだ。黒い天蓋には、地下室にあったものとは比べ物にならないくらいの星々が、二人のためにおしみなく盛大に輝いていて、まるで光の土砂降りだった。雲の表面は仄かに光を発していて、手を差し伸べると、たんぽぽの綿毛のようなものが左右に飛び散って、白い水面に波紋を残した。時々ある切れ間から覗く下の世界は、悪戯めいた笑みを浮かべながらその秘密を奥深い懐に隠しているみたいだった。森のざわめき、風のこえ、宵闇のささやき、草花のせせらぎ。全てが遠くにあって、何もかも素敵に見えた。夢のような光景だけど、それは間違いなく現実で、つまりは現実こそが夢なのだった。
「ね、言った通りでしょ?」
こいしが両目を閉じて自慢げに言う。唇の両端がつりあがっている。なんだか小憎たらしい。けれど、確かにこいしが前に言った通りだった。生命が微塵も見当たらない酷寒の世界だけれど、こんなにも沢山の素敵で満ち溢れているのだ。
「さ、星海クルージングは終わり。そろそろ下界へダイヴするよ」と、こいし。
「えー、もう? もうちょっといたいなぁ」
「だーめ。今日のメインは他にあるんだから。また今度、連れてきてあげる」
「約束だよ?」
「うん、約束」
そうして二人は高度を下げ、再び雲の中へと飛び込んで行った。
☆ ☆ ☆
こんなにも星が輝く夜、ミスティア・ローレライは決まって外へ出て、素敵な歌を探しに行く。といっても、お宝を求めて薄暗い地下にもぐったり、金の匂いを嗅ぎつけて穴を掘るといったような泥臭い作業とはわけが違う。ただ星空を我が物顔で飛びまわりながら、くるくると舞いつつ空気に身を任すだけで、勝手にメロディが森や山や花や川から流れ込んでくる。その旋律が言の葉と縁を結んだ瞬間に歌は生まれる。その一瞬の昂揚を求めて、ミスティアは今宵も空を行く。
「わー! 素敵な歌声!」
しかしそんな風に心良く歌っているミスティアを邪魔する声があった。少しく不機嫌になって目を開けると、前には奇妙な二人組。
「なぁに? せっかく気持ち良く歌ってたのにさ……」
「ごめんなさい。ただすっごくいい歌声だったものだから……」
黒い帽子を被ったほうがそんなことを言った。邪魔されたのは腹立たしかったけれど、褒められて悪い気はしなかった。ミスティアは許すことにした。
「それで、なんの用? 残念ながら今日はコンサートは受け付けていないけど」
「ええ、そうですね……なら、私たちのために歌を一つ、くれません? 貴女、夜雀さんでしょう?」
「歌を? ……うーん、別にいいけど。でも、私は貴女たちのこと知らないから、何もなしじゃあ歌は作れないわ。そうね……何か貴女たちの大切なものと交換、というのはどう?」
「うーん、大切なものかあ……」
「こいし、アレは? まだ二つ残ってるでしょ? 片方だけならあげちゃっても大丈夫じゃないかな」
「あ、そっか。あの、じゃあこれとはどうですか?」
そう言って差し出されたのは、一つの小さな星だった。偽りの輝きではあるけれど、確かに何か大切なものがこもっているようだった。
「うん、なかなか素敵ね。これなら大丈夫そうだわ。歌も流れ込んできそうだし」
「やったぁ! じゃあ、お願いします」
ミスティアは瞼を閉じ、手の中に包みこんだ星に呼気を吹き込み、星空に向けて思い切り投げ上げた。星屑はその運動の最高点に達すると、パッと弾けて霧散して、細かな粒がミスティアたちがいるところへ流星群のようにきらきらと降り落ちてきた。
「はい。これで歌は貴女たちにも宿ったわ。私もいい歌を手に入れたし、お互い様ね。私はもっとたくさんの歌を探すから、じゃね」
「ありがとう!」
ミスティアは手を振って少女たちと別れた。前よりもさらに気分が昂揚して、今なら大切な友人たちのために、歌を分けてあげてもいいような気がした。
☆ ☆
竹林の夜はさわさわと波打っていた。細い幹の間を埋める広い間隙にはとっぷりとした仄白い闇が満ち充ちていて、草葉の影で眠る動物たちは思い思いの夢を見つつ安寧の中でたじろいでいた。その奥の方にある広大な建物もまた、同じく夢と現の境界でまどろんでいた。
「さとり、本当にここにいるの?」
「うん。こっちこっち」
どうやら下調べは住んでいるらしく、こいしは迷うことなく空中を突き進んで、永遠亭の隅の方の一角に、小さな部屋があるのを見出した。窓は閉じているけれど、鍵は閉まっていなかった。こいしはしぃと唇に指をあてて合図し、音を立てないようにして中へ入り込んだ。僅かの躊躇の後に、フランドールもそれに続く。
さとりは毛布にくるまって、独り、苦しそうにうなされていた。強くしかめられた眉根は、もうずっと安らいだ気持ちになったことがないようだった。紅魔館にいた頃よりもやつれて、元々小さかった顔もよりいっそうやせていた。肌も病人のように白かった。これが、フランドールのしたことなのかもしれない……フランドールはさとりを自分のものにしたかった。けれど、さとりにはそれが嫌だった。理由はわからないけれど、きっと苦しむことになるだろうと思ったから……だから、さとりはフランドールのもとを離れざるを得なかった。ぜんぶぜんぶ自分のせいだ。
さとりが不意に目覚めて起き上がり、胡乱な視線でこいしを見ると、かすれたか細い声で言った。
「こいし……?」
「お姉ちゃん。プレゼントを届けにきたよ」
そして、その視線がフランドールのほうを向いた。きっと、自分の名前は読んでくれないだろうと思った。だって、フランドールのせいで、こんなにもさとりは苦しんでいるのだから……だけど。
「フラン……」
呼んでくれた。懐かしいあの声で、以前と同じように。
なんだか涙があふれてくるようだった。喉のおくにぐっと何かがつまって、声が出せなくなったみたいだ。だけど、言わなくちゃ。チャンスはもうない。こいしがフランドールの背中を、勇気づけるように軽く押した。
前へ進み出て、伝えられなかった言葉を言う。もう遅いかもしれないけれど、とにかく、伝えたかった。
「ありがとう、ごめんね」
さとりのおかげでお姉さまと仲良くできた。さとりのおかげで楽しかった。さとりのおかげで、星空の綺麗さを知ることができた……。
それらをすべて言いたかったけれど、もう、言葉が出なかった。その代わりに、小さな箱を彼女に渡した。本当にこれが役に立つのか、フランドールにはわからない。だけど、これくらいのことしかフランドールには出来ない。だから、こいしの言葉を信じるしかなかった。
さとりはそれを受け取ると、ふっと安心したように目を細め、そのままぱたりと寝入ってしまった。
☆
楽しく飛び回った夜もこれで終わり。帰ってきても、紅魔館の住人たちはまだ心地よい眠りを味わっていた。出てきた場所と同じ窓からフランドールは中に入り、こいしはそのまま外に残った。お別れの時間らしい。
「ね、フランちゃん。夜雀さんから歌を貰ったの、覚えてる?」
「うん。なんだか不思議な感じ」
そのメロディを頭の中で思い浮かべるだけで、胸がほかほかと沸き立って、楽しい気分になってくる。その歌詞を舌の上で転がすと、地下で食べた星の甘い味が鮮明に蘇ってきた。
「その星の歌はね、お姉ちゃんがあげたあの星空の代わり。寂しくなったら、いつでもそれを歌ってね。そうすれば、きっと何もかも大丈夫だから」
「うん……行っちゃうの?」
「今日はね。もうそろそろ、お姉ちゃんも地霊殿に帰ると思うから……だけどまた、こっそり遊びにくるよ」
「絶対だよ? 約束……」
微笑んで、こいしは首を振った。
「ううん。約束はしない……だって約束って、すぐに破られちゃいそうな、脆いものなんだもの……また今度、遊びにくる。だから、歌でも歌って、待っててね」
そう言って、空気よりも軽く、こいしは夜空へと浮かんで行った。
残されたフランドールは、窓を閉め、そこにはぁと息を吹きかけた。そして、指でまず「独り」という字を書き、その横に「一人」という字を書いた。この二つは、読み方は同じだけど、意味は全然違う……「独り」はいつまでもひとりだけど、「一人」は「二人」になるかもしれないからだ。つまり、友達とまた遊べるという確信が、一人で家に帰るということなのだ。
フランドールは、歌を歌いながら部屋へと帰った。もう暗い天井には、星は輝いていない。形として残ったものは、いつかきっと壊れてしまう。だけど、記憶の中にあるものは、ぼやけることはあるけれど、決して壊れることはない。
そんな曖昧な夢を見ながら、フランドールは一人で生きていく。
次回も期待してます!
このお話以外の『幻想参景』を読んだことがなかったのですが、このお話を読んで他作品も読んでみたくなりました!
というわけで、読んできます!
全体的に、巧いなあという印象です。
鳥かごも背徳的な状況がなんとも素敵。
ところで。
おトイレはどうしていたんですかーっと。
なんかこう暖かいようでせつない感じ
前作も読みます。