さぁ、幻想の産声を聴け。
──ごめんなさい。
あなたは許してくれるだろうか。
わたしはあなたを裏切ってしまった。悲しませてしまっただろう。
どうかわたしのことは忘れてほしい。わたしはあなたを忘れられないけれど。
きっかけはほんの些細な興味。あるいは掃いて捨てる程度の使命感もあったかもしれない。
きっと大丈夫、一人でも大丈夫。何の根拠もなくそう思っていた。
現実はいつだって優しく笑いかけてくれるわけではない。時には容赦なく牙を剥く。
油断すればたちまち呑みこまれ、後には負の万感だけが取り残される。
その残滓はやがて形を変えてあなたに降りかかることになるだろう。
だからどうか。
どうか。
わたしのことは忘れてほしい。
許してくれとは言えない。ただ謝りたいだけ。
ごめんなさい。
わたしはあなたに途方もない心配を押し付けた。
今のわたしには償う方法が見つからない。胸のうちを焦がす後悔が滔々と炎を揺らし、やがてわたしを殺すに違いない。
だからその前にどうしても。
もう一度やり直そうとは言えない。わたしはやり直したいけれど。
あまりに遠くへ来てしまった。全てはわたしの思慮不足だ。
困ったな……。謝ることも償うことも出来ない過ちって、意外と身近にあるものだった。
どうしよう。困ったな……。
不意に脳裏に再生するのはあなたと過ごした時間ばかり。
二人で並んで歩いて。
笑って。
泣いて。
怒って。
眠って。
手をとって。
また並んで歩いて。
悲しみも怒りも怯えも、春も夏も秋も冬も、わたしのそばにはあなたの姿があった。
すごく嬉しかった。力強かった。
そうだ。考えれば考えるほど思い知らされる。
わたしはあなたに引っ張ってもらわないと駄目なこと。隣にあなたがいてくれないと上手に歩けないこと。
叶わないとは思うけれど、やっぱりもう一度あなたに会いたいな……。
もう一度あの猫みたいな目で笑ってほしいな。
また名前を呼んでほしいな。本名じゃなくてもいいから。いつもみたいにメリーって。
だんだん悲しくなってきた。胸が痛いよ。
何でこんなことになっちゃったんだろう。
何て馬鹿なわたし。呆れて涙も出てこないや。
ごめんね蓮子。
もしももう一度会えたなら、その時はこの想いを伝えるね。
あぁ、この際だから告白するけど。
蓮子、あなたは最高の友人だった。大好き──
〆
誰かに呼ばれた気がして目を開けると柑子色の空が飛び込んできた。
意識は霞がかかり、ぼんやりと今が夕方なんじゃないかと思った。
どうやら地面に寝ているようなのだが、不自然に呼吸が乱れている。寝過ごした時間を取り戻すため、駅から大学まで走った時を思い出す。
はて、わたしは何をしたのだろう。こんなに息が切れるような運動をした覚えは露ほどもないのだが。
身体の不調はまだある。
胃のあたりがむかむかして吐き気がするのである。
これについても全く心当たりはなかった。一体わたしはどうしたというのだろうか。
少し考えてみようかとも思ったが、どうにも意識がはっきりとしないせいで頭の回転も鈍化していたので止めた。
仕方なしに上体を起こしてみると、途端に込み上げてくる吐き気で思わず口元を押さえる。涙が出てきた。
「……何なのよ」
そのまましばらく動けず、ようやく吐き気が引いていったのを見計らってわたしは毒吐く。
わけが分からない。当事者に心当たりがないのだから、誰に文句を言っていいのか分からなかったのだが、こんな満身創痍な状態に対して文句の一つもつけてやりたくなったのだった。
呼吸は未だ乱れたままである。心臓は必死になって伸縮を繰り返し、全身に不足した酸素を血液に乗せて送り続けている。
わたしは吐き気が襲ってこないことを慎重に確認しながら緩慢な動きで立ち上がると、改めて周囲を見回した。
ぐるりと自分を取り囲むのは針葉樹林だ。何という木かは知らないがいずれも背が高く、鋭い葉を広げて地面へ降り注ぐはずの陽光を遮っている。空を見上げていないと夕方であることも知れないほどである。
葉や木々の隙間から細く射し込む光を眺めながら、不意によくこうして空を見上げる少女がいたことを思い出した。
名前は……そう、蓮子だ。宇佐見蓮子。
「蓮子、──ッ!」
その名前が呼び水となったのか。刹那、頭の中で情報が爆発的に蘇った。いや、正確には解凍されたのかもしれない。いずれにせよ、そのある種の情報バーストは海馬に蓄積された過去を次々に引っ張り出してきた。
目が回る。そのせいで一旦は治まった嘔吐感が再び込み上げてきた。しかも今度は頭痛のおまけ付きである。とても立っていられない。
わたしは膝から崩れるように地面へ蹲り、暴力的なそれらが引くのをじっと待った。
頭の中から無理矢理記憶を引きずり出されていく。手品で万国旗を引き出す要領に似ているかもしれない。
記憶は単体では存在しない。必ずその前後、あるいは類似する情報とリンクが繋がっている。呼び出された記憶がそこに紐付けられた別の記憶を引き出す。そんな連鎖の果てにわたしが見たのは神社での記憶であった。
〆
それは最後の記憶。わたしが罪を起こした瞬間を記録したもの。秘封倶楽部のメリーとして、最愛の親友に対する裏切りを働いた瞬間の記憶。
あの夜、わたしは蓮子に相談もせずもう一度博麗神社に向かった。目的は一度目に感じた不快感の原因を暴くこと。
神社の境内には、これまでに対峙してきたあらゆる境界にはない威圧感が満ちていた。通常の境界ではそこまでの存在感は考えられない。空間のひび割れのような小さなものもあれば人が通り抜けられる程度のものまで見たことがあるが、どれほどの大きさであろうと博麗神社で感じたものとは何というか、次元が違うものを感じた。
境界とは異質のものなのか。それとも単に珍しいタイプの境界なのかは分からない。けれどいずれにせよ、その違和感がわたしの好奇心を激しく揺さぶったことは純然たる事実だったのである。
そして深夜、わたしは境内に足を踏み入れた。
境内は時間から隔絶されているのかと思うほど、以前訪れた時と全く同じ姿を見せてくれた。条件が同じならばあるいは寸分違わぬ経験が出来るかもしれない。そう思いわたしは心を弾ませた。
正直を言えば、夜中に一人で出歩くことには不安があり、蓮子に声をかけようかとも考えた。加えて一度怖い思いをした場所である。それでも一人で赴いたのは、いつも前を見ている蓮子に対する嫉妬からわたしだってやれば出来るのだ、と彼女に証明したかったからである。
救いようがないほど短絡的で幼稚な思考をしたものだと自分でも驚いている。だがわたしが常々感じていたパートナへの劣等感はすでに水面下において無視出来るものではなくなっていたこともあり、一念発起したわけだ。
──思えばここで、わたしは気付くべきだった。
自分が迂闊に飛び込んだのは世界と世界が直接背中合わせになっているような巨大な境界の淵であることに。
けれどわたしはそれに気付けなかった。漠然とした危険を感じながらもその危険から目を背けた。大丈夫。もう少し情報を集めて考察すれば。そんな意地やプライドばかりが先行し、自分の足元を全く見ていなかった。
そして結果的に、その慢心と怠慢が足元を掬い、歯車を大きく違えさせた。
一つ歯が飛んだ歯車は尚も回り続ける。決定的な異常を抱えたまま。そしてそれは次の歯車へ影響を及ぼし、その次の歯車へ。次へ、次へ、次へ……。
次々と連鎖した異常はやがて果てへと至り、狂いに狂った因果を成立させてしまう。歪んだ結果──それは境界の突破という形でわたしを襲った。
初めに抱いたのは「まさか」という驚愕で、次に「これはまずい」という焦燥であった。
自分が境界に半身を埋めてしまったことに気付いた時には全てが間に合わなかった。
もう駄目だということは、どういう訳かすぐに悟った。ではどうすればいいのか。せめて何かをこの場に残さなければ自分はただ迷惑だけを残して消えることになってしまう。それだけは避けたいと思った。
境界に捉まった左半身は死んだように動かせなかった。わたしはほとんど無意識で残りの手をスカートのポケットに突っ込むと、指先に触れたものを引き抜いた。
マスコットなどの装飾のないシンプルなデザインをした私物の携帯電話である。わたしは電話をするかメールを打つことを一瞬考えたがそんな悠長なことをしている暇はなく、画面も見ずに携帯を操作して、音声メモの録音開始ボタンを押し込んだ。
録音可能な時間は短い。何を吹き込むかなど決まっていなかった。わたしは現状を適確に説明してやれば、せめて蓮子の役に立つかもしれないと思い息を吸い込んだ。
しかし喉まで上がった言葉を口にすることは出来ず、代わりにわたしの口をついて出たのは別の台詞だった。
「──蓮子、ごめんね」
出てきたのは謝罪の言葉。しかしそれは、何よりも今のわたしが一番伝えなければならない言葉のように思えた。
最初の一言が出た後はするすると言葉が出てきた。吹き込んだのは蓮子への謝罪とこれまでの謝辞。
今生の別れに残す言葉としてはあまり気の利いたものではない。こんなことなら普段から練習しておくべきだったかも、と一人自嘲した。どうせいつか人は死ぬ。練習をしていたって無駄じゃないだろう。
そして、わたしの言葉はエンドマークを待たずして、録音時間の超過という物理的な制約によって最後まで残すことは叶わなかった。悔しいが、これ以上やりようもない。
「ごめんね。またいつか……どこかで逢いましょう」
吹き込むはずだった最後の言葉を境内へ放ち、わたしは携帯電話を放った。
乾いた音を立てて石畳へ転がった携帯を見つめたまま、わたしは意識ごと完全に境界へと沈んだ。
〆
次に目を開けると、吐き気や頭痛などの身体の不調は綺麗に消えていた。
立ち上がるとまだ空は柑子色だ。どうやら不快感に耐えるうちに眠ってしまったらしいが、それほど長い時間ではないらしかった。
すっかり気分を持ち直したわたしは改めて自分が境界を通り抜けたことを思う。
まず浮かんでくるのはとんでもないことをしてしまった、という恐怖と後悔である。境界を越えた結果がどうなるのかは全くの未知であるし、自分がやってきた、ないしいなくなった世界ではどのような影響があるのかも皆目見当がつかない。
だが分からないながらも一つだけ、決して好ましい変化が起こることはない。
以前蓮子がわたしの特別な能力について語ったことがあった。
それによると、世界の境界を見るというのは「こうかもしれない」もしくは「こうだったかもしれない」という別の可能性によって成り立った世界を視覚的に観測しているのだという。あくまで物理学の範疇で彼女が組み立てた仮説だが、多世界解釈を立証できる可能性があるとか何とかで大変嬉興奮した様子で語っていたことを覚えている。
わたしは物理学など、基礎の基礎くらいしか分からないので曖昧に頷くことしか出来なかったが、どうやらわたしの能力は科学世紀においても、解明出来ないものであるらしいことはよく理解出来た。
そしてその境界を超えるという行為は、文字通り可能性の世界へ飛び移ることになり、わたしという存在は丸々世界を渡る。そうなれば、元いた世界からはわたしが消え去り、新たに移動した世界にいるかもしれないわたし自身とバッティングするかもしれない。
抽象的にしか分からないのだが、これは危険だ。仮に同じ世界の中に同じ存在が重なった場合、それは正常に存在出来ないように思えるのだ。片方が弾き出されるか、融合するかしなければ二重に存在することは出来ないはず。
それについては、蓮子がこんなことを言っていた。
「本当にこの世界が無数に枝分かれしているモデルであると仮定する。そのうちの一つの世界で重大なエラーが起きたとすると、そのエラーを修正するために世界が変化するのよ」
「重大なエラーって?」
「うーん、そうねぇ。例えば悪い宇宙人や未来人がタイムマシンに乗って過去の偉い人とかを殺したり……とか?」
「歴史が変わるってことね。要するにタイムパラドックスってやつ?」
「そうそう、それ! で、ここからがちょっとややこしいんだけど。改竄しちゃった過去によっては世界を壊しちゃう事態も考えられるわけね」
「それじゃあ、わたしたち皆死んじゃうじゃない」
「う、うん……まぁ結果的にはそうなるわね。本当はもっと深刻なことが起こるって言われてるけど、便宜上そんな理解でいいと思う」
「何か馬鹿にされた気分なんだけど」
「気のせいよメリー。それでもしも修理の効かないような大ダメージを世界が被ったときには、その世界はそこで閉じちゃうの。つまり、今メリーが言った、皆死んじゃうっていうのも、あながち間違いじゃないわけね」
「すごく救いのない話になってきた。その話って長いの?」
「もうちょっとだって。つまり何が言いたいかというと、世界は一本ではないの。普通の人には分からないだけで、実は他にもいっぱいあるんじゃないかってことよ」
「あ、ひょっとしてパラレルワールドの話かしら? 最近読んだ小説にそんな話があったような──」
「小説の話なんて鵜呑みにしちゃ駄目よメリー。あんなのは所詮作り話なんだから」
「身も蓋もないこと言うわね」
「今は物理学の話をしているのよ! で、パラレルワールドの話だけど、あれは多世界解釈とは厳密には違うから、今はパス。わたしが言っているのは世界は点じゃなくて線だってことね。確かに一瞬一瞬を切り取れば、それは点だけど、時間は連続して流れてる。点が連続していれば線になるでしょ」
「えっと、何かだんだん蓮子が言いたいことが分かってきたような気がするけど、要するに、わたしの目は可能性を見ているわけで、もし境界を越えようものなら、皆死んじゃうかもってこと?」
「ふむう。だいたい合ってるわ。しっかしメリー、あんた論理をものともしない理解の仕方するわね……」
「そう? ふふッ、ありがと」
──確か、このような話だったと思う。
わたしは閉じていた目を開けた。額に気持ち悪さを感じて手の甲で拭うと、いつの間にかいたのか、大量の汗がついていた。思い出しながら自分がしたことの重大さに気付いた故であろうか。
「まだ、……まだ決まった訳じゃ、ないわ」
そうだ、まだ確証はない。通り抜けてしまった境界の向こう側、つまりこの世界を破壊してしまうほどこの世界がズレたとは限らない。
それを、確かめるのだ。確かめなければ、わたしは自分の軽率さを呪うことさえ出来ない。
わたしは、普段から蓮子がそうするように空を見上げた。柑子の夕空はすでに紺青へ変わり、深い夜の到来を予見させた。
じきに星が姿を現し、誰にも知られずに時を刻むのだろう。それに気付いてあげられるのはただ一人、宇佐見蓮子だけだ。
視線を戻し、わたしは不安な足取りで木々を縫うように斜面を下り始める。夜が訪れれば身動きが取れなくなってしまう。そうなる前に最低限一晩の宿くらいは見つけなければならない。今後の動向を決める時間を稼ぐ意味において、それは急務といえた。
すぐ横を風が通り抜ける。山の深緑の香りを運んできたそれは、まるで帰る場所があるかのように木々の間に間に散っていった。
光が薄まっていく。
夜が──近い。
〆
いくらも進まぬうちに日は完全に落ち、辺りは静寂と暗闇に包まれた。
そして、人工的な刺激のない空間から、わたしが明かりを見つけたのは、方向感覚をなくしてからしばらく経った頃であった。
眼前には樹木と闇だけが広がっていたのだが、ふいに、それが途切れ視界が開けた。
暗闇の中を勘だけで歩いてきたわたしは、支えにしていた幹から手を離し、倒れこむようにして鬱蒼とした森を抜けた。
どうやら山の中腹に位置する丘のようである。その一画だけ樹木は生えておらず、そこから傾斜が急になっているので視線を下ろせば麓まで見渡せる。天気のいい日中であれば、さぞ絶景であることだろう。
しかし真っ黒な風景に現を抜かしている場合ではない。注目すべきはその下方、ちょうど山の麓に見て取れる明かりである。
暗くて鮮明ではないが、風と踊るようにゆらりゆらりと揺れるそれは火のものだった。
「……あれ、村……?」
わたしは目を懸命に細めてその周囲を探るが、火の光量では全容を照らし出すにはあまりに足りない。
薄ぼんやりと浮かび上がる建築物にはどこかで見覚えがあった。円形テントのようなシルエットをした建物が五棟ほど寄り添うように建っている。確か昔何かの本で見かけたような気がするのだが。
そうしているうちに、目が遠くを見ることに慣れてきたのか、記憶から該当する建物が見つかったからか。わたしはそれらが何であるかを知った。
「そんな……ピットハウス?!」
目を剥いた。
そんな馬鹿な。だって竪穴式住居が広く建てられていたのは確か平安中期から後期頃までのことだ。遺跡公園にある複製でもない限り、わたしの知る日本には現存などしていない。
天地が逆転したような激しい眩暈に襲われ、堪らず地面にへたり込んだ。
頭の中ではある現実を肯定する自分と否定しようとする自分が対立し、せめぎ合っている。論点はたった一つ。目の前の現実を認めるか否か。
受け入れなければ、ここはどこかの団体に管理されたテーマパークで。
受け入れれば、ここは一千数百年を遡った古代の日本で。
前者はまだいい。しかし後者には絶望しかない。時間はそれと等しい時間でしか埋められない。
気が遠くなりそうだ。
認めたくはない。認めるわけにはいかない。認めればわたしは気でも狂うだろうから。
しかし思う。どうしたところで、千年の時は超えられない。それこそ、もう一度境界を、世界を跨ぐ他に時間を縮める術はない。他に手はない。だから諦めろ。たった一度の過ちを、一生悔やみながら惨めに死んでいけ。自らが撒いた種を抱いて朽ち果てろ、と。
途端に涙が溢れてきた。これは生への執着だ。どんなに躓いても、いかに絶望しても、人は生きたいと願う。それが例え他人を陥れ、搾取することであっても、個は他を駆逐して生に固執するの。
果たしてそうまでして生きようとする価値が、わたしにあるのかどうか。それを判断出来るのは自分か、それとも他人か。観測点は定まらない。
大小全ての希望を一つ一つ丁寧に唾棄された気分だった。
「……蓮子。わたし、どうしよう……」
無駄なのは分かっている。
ここでどんなに泣いて彼女に助けを求めても、わたしたちの間には時間と空間という絶対的な壁が聳えている。何をしたところで、全ては無駄な足掻きに成り下がる。
どうしようもないのだ。
ならば今は眠ろう。
好転を願うのではなく、この現状が夢であることを祈りながら。
せめて、泡沫の夢を。
〆
結局、一睡も出来ぬまま朝を迎えた。
無理にでも眠ってしまおうと目を閉じると、思考が緩慢になるどころか、逆に活発にあれやこれやと活動を始めて、いくら目を閉じてじっとしていても、一向に眠気の類は訪れなかった。
思考が活発になっていたとはいえ、現状を打開するという意味においては、結果らしい結果など何も出ていないに等しかった。特に元の世界へ戻る方法などは壊滅的とすらいえた。
一応、思いついたことは思いついたのだが、まず境界ありきの話のためにそもそも前提条件を満たせない。都合よく目の前に人が通り抜けられるくらいの境界があればいいのだが、そう簡単に境界など見つかるものではない。
加えると、何に縁のある土地なのかも分からない現状では、当りをつけて探索するのもあまりに現実的でない。
千年以上の時間を飛び越える方法について、わたしが思いついたのは、やはり境界を何度も通り抜けながら蓮子のいる世界、元いた世界へ辿り着くことくらいだ。
どの裂け目がどんな場所、時間軸へ繋がっているのかは抜けてみないと分からない。しかも、時間と空間は無数に存在するとなれば、奇跡を起こしたとしても、天文学的な回数をこなさなければなるまい。実際には不可能といっても過言ではないプランだ。
そして境界を探す上で必須なのが生活基盤、つまり衣食住の確保だ。
村があるということは、少なくとも人間は生活しているはずで、潜り込めば幾多の苦渋が待っていたとしても何とか生活は可能かもしれない。
だが、これにも問題がある。
まず一つ。わたしの容姿は目立ちすぎる。
この世界が古代日本ならば、わたしのような髪や瞳の色をした人間など知らないはずだ。そんな人間がいきなり村へ下りてきて、一緒に生活しようなどと言ったところで、快く迎え入れてくれるはずもなく、それどころか鬼だ妖怪だと騒がれ酷い目に遭わされてしまうかもしれない。
加えてもう一つ。因果律を極力保存する必要がある。
誰にも遭遇していない現状では、この世界に対してそれほど大きな影響を及ぼしてはいないかもしれない。
けれど、それを押して迂闊にこの世界の住人と接触すれば、蓮子の言っていたように世界が閉じてしまう可能性もある。そんなことになれば、わたしはこの世界に住まう全ての有機、無機物を破壊することになる。
考えるだけでも身体に震えがきた。冗談じゃない。そんな危険な真似、わたしには出来ない。そんな危険を冒すくらいならば、いっそわたしは誰にも知られぬよう、ひっそりとこの山で死んだ方がマシだ。
「また、堂々巡りね……」
何度も辿った思考経路の終着点にわたしは辟易し、背にしていた幹へ後頭部を預けた。
闇を払った朝の空は、そんな鬱憤を笑うかのように青々と突き抜けている。雲一つない快晴だった。
そんな清々しい空に、何だか無性に腹が立ち、わたしは乱暴に立ち上がった。寝ていないせいで足元がふらつく。
おぼつかない足取りで丘の先へ歩み出たわたしの目に、引き込まれそうな絶景が映りこんだ。遠く白む山麓と、周りを取り囲む山々に太陽の柔らかな光が反射して、目が眩むような鮮やかな緑色が映えている。そしてその麓、現実を叩きつけるかの如くはっきりと──小さな村が存在していた。
「……は、ははッ」
思わず乾いた笑いが漏れた。
あぁ、やっぱりこれが現実だった。これでもう疑いようもなくなった。思い知った。わたしは今、途方もない時を遡った世界にいるのだと。
最後の悪あがきのつもりで一度きつく目を瞑り、ゆっくりと開いてみる。
けれど、見える光景に何ら変化はなく、相変わらず自らの営みに精を出す人々の姿が、小さく確認できるだけだった。
人が暮らしている。そう思った瞬間、枯れたと思っていた感情が堰を切ってあふれ出した。
夢中のように弛緩していた全身が強張り、呼吸も細かく震えだす。数秒後には、遅れてきた熱いものが視界を歪ませた。
「あ、あぁ……わたし、わたし……どうしよう。どうしよぉ……ねぇ、誰か教えて。助けてよぉ……!」
噴出す火山のように、一度込み上げた気持ちは涙となって次々にあふれ出てきた。
どうして、自分がこんな目に遭わなければいけないのだろう。
自分がいけないことをしたからか。
許してもらえるだろうか。
いつかは、その時が来るかもしれない。でも、今じゃない。
こんなに辛くて悲しいのに、どうして誰も助けてくれない?
自業自得だからだ。他人の勝手な過ちまで背負ってくれるお人好しなんているはずがない。
……本当にそうか?
本当にそんなお人好しで、リスクも顧みずに赤の他人を助けるような人間はいない?
いない、はずだ。
それが赤の他人ではなく、唯一無二の親友のためならば?
それでも……いない、と思う。
それはどうだろう。本当は一人だけ、わたしには心当たりがあるのではないか?
でも、それに頼ってしまえば、また自分は変われないままじゃないか。自分だって出来るんだということ、彼女に証明してやるのではなかったのか?
確かにわたしはまた駄目だった。大見得をきった挙句、こうして懲りずにみっともなく、他人に助けを乞うている。
それでもわたしは変わりたい。変えたいのだ。
頼れる都合のいい誰かに寄りかかり、それが当然とばかりに甘い汁を吸って満足する。そんな自分を今度こそ憎む。決別する。
こんな事態に立ち至って初めて気付いた。本当にどうしようもない状況になってようやくそう思えた。
わたしは──やり直したい。
本当に駄目な自分。それに気付きながらも、自分の足で立つ努力さえしなかった。その真に唾棄すべき怠慢を、今是正する。
何度失敗しても、わたしは本当の意味で彼女の隣にいたい。互いに支え合える関係でありたい。
わたしは改めねばならないのだ。二人で一つの秘封倶楽部、そう言ってくれた彼女に報いるために。
今回失敗したことは事実かもしれない。でも、わたしはまだここにいる。生きている。生きているのなら次がある。次があるのならもっと上手くやればいい。それでも駄目だった時はもう一度。何度だって、やり直せばいい!
そうだ。生きていさえすれば、繰り返しさえすればいつかは絶対に成功する。
例えそれが、千年の時を超えるものだとしても。
未来の失敗を過去から変えるのだ。今のわたしなら……いや、今のわたしだから出来る方法で。
どんな方法を使ってでも、わたしはもう一度宇佐見蓮子に辿りつく。
──そう、どんな手段を使ってでも、必ず。
〆
目尻に冷たいものを感じて目を開けた。何だか今回はとても懐かしい夢を見ていたような気分だ。
身体を起こすと普段よりも背中が張っている。少し寝すぎたのかもしれない。
「あ、お目覚めですか?」
まだ半分眠っている目を擦っていると、そんな声と共に、音もなく障子が滑った。夕方のこのいい時間に寝室を訪ねてくるのは、一人しかいない。わたしは視線だけを廊下に向け、板の間に立つ式に言った。
「藍、あなたが家にいるということは、やっぱり寝坊かしら」
藍と呼ばれた少女は、変わったデザインの白い服に、青い前掛けのようなものをしており、身体で隠せないほど立派な金色の尻尾を持っていた。化け狐でありわたしの式神、八雲藍だ。
藍は無邪気な笑顔を作ると「そういえば紫さま」
「何か天狗が忙しそうにしていましたよ。ひょっとして、何か事件でしょうか」
「ふうん、面白いことでもあったのかしらね」
言いながら、わたしは極々小さな、とある期待に胸が高鳴っていた。
もう遠く霞んでしまったが、それでも決して忘れることの出来なかった想いがあった。
どんなに季節が回っても、どれ程辛いことがあっても、少しずつ色褪せていっても、それだけはずっと忘れることなく大切にしてきた。
気が遠くなるような年月が経ってしまった。もっとも、この身を人の枠から外してからは、時間の流れをそれほど気にしたことはなかったけれど。それを加味しても、ずいぶんと永い間待ち焦がれたものだった。
今この時、悠久からすれば何でもないほんの一瞬に、わたしの悲願を成就させる数奇が巡ってきたかもしれない。
「ちょっと、行ってみましょうか」
わたしが立ち上がると、慌てた様子で藍は「いえいえ。話を聞いてくるくらい、わたしがいきます」と止めに入る。何故だろう、わたしが首を突っ込むと都合が悪いみたいな態度だ。
けれど困ったことに、わたしは天邪鬼だ。止めろと言われると、俄然やる気になってしまう性分だ。
「いいじゃない。散歩でもしたい気分なのよ」わたしはあくまで自分が出張る姿勢を崩さずに言う。
うんうんとしばらく唸った藍はぽん、と手を叩きこう言った。
「分かりました。しかし、わたしも同行させてくださいね。ご主人様のそばにいるのは、式の役目でもあるんですから」
梃子でも動かない、という気迫を感じさせる目だった。ここまで言わせて断るのも意味がないし、無駄な労力になる。わたしは首を縦に振った。
さて、そうと決まれば出かけるとしよう。
とはいえ、馬鹿正直にお出かけの準備をしてから、玄関に向かう必要はない。そんな経験、気まぐれを起こした数度しかない。出かけよう、そう考えるだけで全て事は済むのだ。
わたしは自然な動きで足を踏み出した。
すると目の前の空間がばくり、とまるで口を開くかのように裂けた。裂け目からは無数の『目』がこちらを窺っている。ありとあらゆる境界は、わたしの意のままになる。遠いあの日から。
出口はどこに繋げよう……いや、どこでもいいか。どうせやることは決まっているのだし、行かねばならない場所も、すでにわたしは知っている。
ずっとやってきたことである。いちいち考えなくても、ある程度は道順も把握していることだし、問題ないだろう。
「さて、それじゃ出かけましょうか。藍」
「はいッ!」
そうして、わたしたちは裂け目へ踏み込む。
気の遠くなるような時を過ごしてきた。
目を覆いたくなるような結果もあった。
今度は、どこまで迫れるだろう。
わたしはただ、人知れずもどかしさと焦燥を抱いて、静観するだけだ。
けれど──
──願わくば、わたしの幻想(ゆめ)の果てへ届きますように。
──ごめんなさい。
あなたは許してくれるだろうか。
わたしはあなたを裏切ってしまった。悲しませてしまっただろう。
どうかわたしのことは忘れてほしい。わたしはあなたを忘れられないけれど。
きっかけはほんの些細な興味。あるいは掃いて捨てる程度の使命感もあったかもしれない。
きっと大丈夫、一人でも大丈夫。何の根拠もなくそう思っていた。
現実はいつだって優しく笑いかけてくれるわけではない。時には容赦なく牙を剥く。
油断すればたちまち呑みこまれ、後には負の万感だけが取り残される。
その残滓はやがて形を変えてあなたに降りかかることになるだろう。
だからどうか。
どうか。
わたしのことは忘れてほしい。
許してくれとは言えない。ただ謝りたいだけ。
ごめんなさい。
わたしはあなたに途方もない心配を押し付けた。
今のわたしには償う方法が見つからない。胸のうちを焦がす後悔が滔々と炎を揺らし、やがてわたしを殺すに違いない。
だからその前にどうしても。
もう一度やり直そうとは言えない。わたしはやり直したいけれど。
あまりに遠くへ来てしまった。全てはわたしの思慮不足だ。
困ったな……。謝ることも償うことも出来ない過ちって、意外と身近にあるものだった。
どうしよう。困ったな……。
不意に脳裏に再生するのはあなたと過ごした時間ばかり。
二人で並んで歩いて。
笑って。
泣いて。
怒って。
眠って。
手をとって。
また並んで歩いて。
悲しみも怒りも怯えも、春も夏も秋も冬も、わたしのそばにはあなたの姿があった。
すごく嬉しかった。力強かった。
そうだ。考えれば考えるほど思い知らされる。
わたしはあなたに引っ張ってもらわないと駄目なこと。隣にあなたがいてくれないと上手に歩けないこと。
叶わないとは思うけれど、やっぱりもう一度あなたに会いたいな……。
もう一度あの猫みたいな目で笑ってほしいな。
また名前を呼んでほしいな。本名じゃなくてもいいから。いつもみたいにメリーって。
だんだん悲しくなってきた。胸が痛いよ。
何でこんなことになっちゃったんだろう。
何て馬鹿なわたし。呆れて涙も出てこないや。
ごめんね蓮子。
もしももう一度会えたなら、その時はこの想いを伝えるね。
あぁ、この際だから告白するけど。
蓮子、あなたは最高の友人だった。大好き──
〆
誰かに呼ばれた気がして目を開けると柑子色の空が飛び込んできた。
意識は霞がかかり、ぼんやりと今が夕方なんじゃないかと思った。
どうやら地面に寝ているようなのだが、不自然に呼吸が乱れている。寝過ごした時間を取り戻すため、駅から大学まで走った時を思い出す。
はて、わたしは何をしたのだろう。こんなに息が切れるような運動をした覚えは露ほどもないのだが。
身体の不調はまだある。
胃のあたりがむかむかして吐き気がするのである。
これについても全く心当たりはなかった。一体わたしはどうしたというのだろうか。
少し考えてみようかとも思ったが、どうにも意識がはっきりとしないせいで頭の回転も鈍化していたので止めた。
仕方なしに上体を起こしてみると、途端に込み上げてくる吐き気で思わず口元を押さえる。涙が出てきた。
「……何なのよ」
そのまましばらく動けず、ようやく吐き気が引いていったのを見計らってわたしは毒吐く。
わけが分からない。当事者に心当たりがないのだから、誰に文句を言っていいのか分からなかったのだが、こんな満身創痍な状態に対して文句の一つもつけてやりたくなったのだった。
呼吸は未だ乱れたままである。心臓は必死になって伸縮を繰り返し、全身に不足した酸素を血液に乗せて送り続けている。
わたしは吐き気が襲ってこないことを慎重に確認しながら緩慢な動きで立ち上がると、改めて周囲を見回した。
ぐるりと自分を取り囲むのは針葉樹林だ。何という木かは知らないがいずれも背が高く、鋭い葉を広げて地面へ降り注ぐはずの陽光を遮っている。空を見上げていないと夕方であることも知れないほどである。
葉や木々の隙間から細く射し込む光を眺めながら、不意によくこうして空を見上げる少女がいたことを思い出した。
名前は……そう、蓮子だ。宇佐見蓮子。
「蓮子、──ッ!」
その名前が呼び水となったのか。刹那、頭の中で情報が爆発的に蘇った。いや、正確には解凍されたのかもしれない。いずれにせよ、そのある種の情報バーストは海馬に蓄積された過去を次々に引っ張り出してきた。
目が回る。そのせいで一旦は治まった嘔吐感が再び込み上げてきた。しかも今度は頭痛のおまけ付きである。とても立っていられない。
わたしは膝から崩れるように地面へ蹲り、暴力的なそれらが引くのをじっと待った。
頭の中から無理矢理記憶を引きずり出されていく。手品で万国旗を引き出す要領に似ているかもしれない。
記憶は単体では存在しない。必ずその前後、あるいは類似する情報とリンクが繋がっている。呼び出された記憶がそこに紐付けられた別の記憶を引き出す。そんな連鎖の果てにわたしが見たのは神社での記憶であった。
〆
それは最後の記憶。わたしが罪を起こした瞬間を記録したもの。秘封倶楽部のメリーとして、最愛の親友に対する裏切りを働いた瞬間の記憶。
あの夜、わたしは蓮子に相談もせずもう一度博麗神社に向かった。目的は一度目に感じた不快感の原因を暴くこと。
神社の境内には、これまでに対峙してきたあらゆる境界にはない威圧感が満ちていた。通常の境界ではそこまでの存在感は考えられない。空間のひび割れのような小さなものもあれば人が通り抜けられる程度のものまで見たことがあるが、どれほどの大きさであろうと博麗神社で感じたものとは何というか、次元が違うものを感じた。
境界とは異質のものなのか。それとも単に珍しいタイプの境界なのかは分からない。けれどいずれにせよ、その違和感がわたしの好奇心を激しく揺さぶったことは純然たる事実だったのである。
そして深夜、わたしは境内に足を踏み入れた。
境内は時間から隔絶されているのかと思うほど、以前訪れた時と全く同じ姿を見せてくれた。条件が同じならばあるいは寸分違わぬ経験が出来るかもしれない。そう思いわたしは心を弾ませた。
正直を言えば、夜中に一人で出歩くことには不安があり、蓮子に声をかけようかとも考えた。加えて一度怖い思いをした場所である。それでも一人で赴いたのは、いつも前を見ている蓮子に対する嫉妬からわたしだってやれば出来るのだ、と彼女に証明したかったからである。
救いようがないほど短絡的で幼稚な思考をしたものだと自分でも驚いている。だがわたしが常々感じていたパートナへの劣等感はすでに水面下において無視出来るものではなくなっていたこともあり、一念発起したわけだ。
──思えばここで、わたしは気付くべきだった。
自分が迂闊に飛び込んだのは世界と世界が直接背中合わせになっているような巨大な境界の淵であることに。
けれどわたしはそれに気付けなかった。漠然とした危険を感じながらもその危険から目を背けた。大丈夫。もう少し情報を集めて考察すれば。そんな意地やプライドばかりが先行し、自分の足元を全く見ていなかった。
そして結果的に、その慢心と怠慢が足元を掬い、歯車を大きく違えさせた。
一つ歯が飛んだ歯車は尚も回り続ける。決定的な異常を抱えたまま。そしてそれは次の歯車へ影響を及ぼし、その次の歯車へ。次へ、次へ、次へ……。
次々と連鎖した異常はやがて果てへと至り、狂いに狂った因果を成立させてしまう。歪んだ結果──それは境界の突破という形でわたしを襲った。
初めに抱いたのは「まさか」という驚愕で、次に「これはまずい」という焦燥であった。
自分が境界に半身を埋めてしまったことに気付いた時には全てが間に合わなかった。
もう駄目だということは、どういう訳かすぐに悟った。ではどうすればいいのか。せめて何かをこの場に残さなければ自分はただ迷惑だけを残して消えることになってしまう。それだけは避けたいと思った。
境界に捉まった左半身は死んだように動かせなかった。わたしはほとんど無意識で残りの手をスカートのポケットに突っ込むと、指先に触れたものを引き抜いた。
マスコットなどの装飾のないシンプルなデザインをした私物の携帯電話である。わたしは電話をするかメールを打つことを一瞬考えたがそんな悠長なことをしている暇はなく、画面も見ずに携帯を操作して、音声メモの録音開始ボタンを押し込んだ。
録音可能な時間は短い。何を吹き込むかなど決まっていなかった。わたしは現状を適確に説明してやれば、せめて蓮子の役に立つかもしれないと思い息を吸い込んだ。
しかし喉まで上がった言葉を口にすることは出来ず、代わりにわたしの口をついて出たのは別の台詞だった。
「──蓮子、ごめんね」
出てきたのは謝罪の言葉。しかしそれは、何よりも今のわたしが一番伝えなければならない言葉のように思えた。
最初の一言が出た後はするすると言葉が出てきた。吹き込んだのは蓮子への謝罪とこれまでの謝辞。
今生の別れに残す言葉としてはあまり気の利いたものではない。こんなことなら普段から練習しておくべきだったかも、と一人自嘲した。どうせいつか人は死ぬ。練習をしていたって無駄じゃないだろう。
そして、わたしの言葉はエンドマークを待たずして、録音時間の超過という物理的な制約によって最後まで残すことは叶わなかった。悔しいが、これ以上やりようもない。
「ごめんね。またいつか……どこかで逢いましょう」
吹き込むはずだった最後の言葉を境内へ放ち、わたしは携帯電話を放った。
乾いた音を立てて石畳へ転がった携帯を見つめたまま、わたしは意識ごと完全に境界へと沈んだ。
〆
次に目を開けると、吐き気や頭痛などの身体の不調は綺麗に消えていた。
立ち上がるとまだ空は柑子色だ。どうやら不快感に耐えるうちに眠ってしまったらしいが、それほど長い時間ではないらしかった。
すっかり気分を持ち直したわたしは改めて自分が境界を通り抜けたことを思う。
まず浮かんでくるのはとんでもないことをしてしまった、という恐怖と後悔である。境界を越えた結果がどうなるのかは全くの未知であるし、自分がやってきた、ないしいなくなった世界ではどのような影響があるのかも皆目見当がつかない。
だが分からないながらも一つだけ、決して好ましい変化が起こることはない。
以前蓮子がわたしの特別な能力について語ったことがあった。
それによると、世界の境界を見るというのは「こうかもしれない」もしくは「こうだったかもしれない」という別の可能性によって成り立った世界を視覚的に観測しているのだという。あくまで物理学の範疇で彼女が組み立てた仮説だが、多世界解釈を立証できる可能性があるとか何とかで大変嬉興奮した様子で語っていたことを覚えている。
わたしは物理学など、基礎の基礎くらいしか分からないので曖昧に頷くことしか出来なかったが、どうやらわたしの能力は科学世紀においても、解明出来ないものであるらしいことはよく理解出来た。
そしてその境界を超えるという行為は、文字通り可能性の世界へ飛び移ることになり、わたしという存在は丸々世界を渡る。そうなれば、元いた世界からはわたしが消え去り、新たに移動した世界にいるかもしれないわたし自身とバッティングするかもしれない。
抽象的にしか分からないのだが、これは危険だ。仮に同じ世界の中に同じ存在が重なった場合、それは正常に存在出来ないように思えるのだ。片方が弾き出されるか、融合するかしなければ二重に存在することは出来ないはず。
それについては、蓮子がこんなことを言っていた。
「本当にこの世界が無数に枝分かれしているモデルであると仮定する。そのうちの一つの世界で重大なエラーが起きたとすると、そのエラーを修正するために世界が変化するのよ」
「重大なエラーって?」
「うーん、そうねぇ。例えば悪い宇宙人や未来人がタイムマシンに乗って過去の偉い人とかを殺したり……とか?」
「歴史が変わるってことね。要するにタイムパラドックスってやつ?」
「そうそう、それ! で、ここからがちょっとややこしいんだけど。改竄しちゃった過去によっては世界を壊しちゃう事態も考えられるわけね」
「それじゃあ、わたしたち皆死んじゃうじゃない」
「う、うん……まぁ結果的にはそうなるわね。本当はもっと深刻なことが起こるって言われてるけど、便宜上そんな理解でいいと思う」
「何か馬鹿にされた気分なんだけど」
「気のせいよメリー。それでもしも修理の効かないような大ダメージを世界が被ったときには、その世界はそこで閉じちゃうの。つまり、今メリーが言った、皆死んじゃうっていうのも、あながち間違いじゃないわけね」
「すごく救いのない話になってきた。その話って長いの?」
「もうちょっとだって。つまり何が言いたいかというと、世界は一本ではないの。普通の人には分からないだけで、実は他にもいっぱいあるんじゃないかってことよ」
「あ、ひょっとしてパラレルワールドの話かしら? 最近読んだ小説にそんな話があったような──」
「小説の話なんて鵜呑みにしちゃ駄目よメリー。あんなのは所詮作り話なんだから」
「身も蓋もないこと言うわね」
「今は物理学の話をしているのよ! で、パラレルワールドの話だけど、あれは多世界解釈とは厳密には違うから、今はパス。わたしが言っているのは世界は点じゃなくて線だってことね。確かに一瞬一瞬を切り取れば、それは点だけど、時間は連続して流れてる。点が連続していれば線になるでしょ」
「えっと、何かだんだん蓮子が言いたいことが分かってきたような気がするけど、要するに、わたしの目は可能性を見ているわけで、もし境界を越えようものなら、皆死んじゃうかもってこと?」
「ふむう。だいたい合ってるわ。しっかしメリー、あんた論理をものともしない理解の仕方するわね……」
「そう? ふふッ、ありがと」
──確か、このような話だったと思う。
わたしは閉じていた目を開けた。額に気持ち悪さを感じて手の甲で拭うと、いつの間にかいたのか、大量の汗がついていた。思い出しながら自分がしたことの重大さに気付いた故であろうか。
「まだ、……まだ決まった訳じゃ、ないわ」
そうだ、まだ確証はない。通り抜けてしまった境界の向こう側、つまりこの世界を破壊してしまうほどこの世界がズレたとは限らない。
それを、確かめるのだ。確かめなければ、わたしは自分の軽率さを呪うことさえ出来ない。
わたしは、普段から蓮子がそうするように空を見上げた。柑子の夕空はすでに紺青へ変わり、深い夜の到来を予見させた。
じきに星が姿を現し、誰にも知られずに時を刻むのだろう。それに気付いてあげられるのはただ一人、宇佐見蓮子だけだ。
視線を戻し、わたしは不安な足取りで木々を縫うように斜面を下り始める。夜が訪れれば身動きが取れなくなってしまう。そうなる前に最低限一晩の宿くらいは見つけなければならない。今後の動向を決める時間を稼ぐ意味において、それは急務といえた。
すぐ横を風が通り抜ける。山の深緑の香りを運んできたそれは、まるで帰る場所があるかのように木々の間に間に散っていった。
光が薄まっていく。
夜が──近い。
〆
いくらも進まぬうちに日は完全に落ち、辺りは静寂と暗闇に包まれた。
そして、人工的な刺激のない空間から、わたしが明かりを見つけたのは、方向感覚をなくしてからしばらく経った頃であった。
眼前には樹木と闇だけが広がっていたのだが、ふいに、それが途切れ視界が開けた。
暗闇の中を勘だけで歩いてきたわたしは、支えにしていた幹から手を離し、倒れこむようにして鬱蒼とした森を抜けた。
どうやら山の中腹に位置する丘のようである。その一画だけ樹木は生えておらず、そこから傾斜が急になっているので視線を下ろせば麓まで見渡せる。天気のいい日中であれば、さぞ絶景であることだろう。
しかし真っ黒な風景に現を抜かしている場合ではない。注目すべきはその下方、ちょうど山の麓に見て取れる明かりである。
暗くて鮮明ではないが、風と踊るようにゆらりゆらりと揺れるそれは火のものだった。
「……あれ、村……?」
わたしは目を懸命に細めてその周囲を探るが、火の光量では全容を照らし出すにはあまりに足りない。
薄ぼんやりと浮かび上がる建築物にはどこかで見覚えがあった。円形テントのようなシルエットをした建物が五棟ほど寄り添うように建っている。確か昔何かの本で見かけたような気がするのだが。
そうしているうちに、目が遠くを見ることに慣れてきたのか、記憶から該当する建物が見つかったからか。わたしはそれらが何であるかを知った。
「そんな……ピットハウス?!」
目を剥いた。
そんな馬鹿な。だって竪穴式住居が広く建てられていたのは確か平安中期から後期頃までのことだ。遺跡公園にある複製でもない限り、わたしの知る日本には現存などしていない。
天地が逆転したような激しい眩暈に襲われ、堪らず地面にへたり込んだ。
頭の中ではある現実を肯定する自分と否定しようとする自分が対立し、せめぎ合っている。論点はたった一つ。目の前の現実を認めるか否か。
受け入れなければ、ここはどこかの団体に管理されたテーマパークで。
受け入れれば、ここは一千数百年を遡った古代の日本で。
前者はまだいい。しかし後者には絶望しかない。時間はそれと等しい時間でしか埋められない。
気が遠くなりそうだ。
認めたくはない。認めるわけにはいかない。認めればわたしは気でも狂うだろうから。
しかし思う。どうしたところで、千年の時は超えられない。それこそ、もう一度境界を、世界を跨ぐ他に時間を縮める術はない。他に手はない。だから諦めろ。たった一度の過ちを、一生悔やみながら惨めに死んでいけ。自らが撒いた種を抱いて朽ち果てろ、と。
途端に涙が溢れてきた。これは生への執着だ。どんなに躓いても、いかに絶望しても、人は生きたいと願う。それが例え他人を陥れ、搾取することであっても、個は他を駆逐して生に固執するの。
果たしてそうまでして生きようとする価値が、わたしにあるのかどうか。それを判断出来るのは自分か、それとも他人か。観測点は定まらない。
大小全ての希望を一つ一つ丁寧に唾棄された気分だった。
「……蓮子。わたし、どうしよう……」
無駄なのは分かっている。
ここでどんなに泣いて彼女に助けを求めても、わたしたちの間には時間と空間という絶対的な壁が聳えている。何をしたところで、全ては無駄な足掻きに成り下がる。
どうしようもないのだ。
ならば今は眠ろう。
好転を願うのではなく、この現状が夢であることを祈りながら。
せめて、泡沫の夢を。
〆
結局、一睡も出来ぬまま朝を迎えた。
無理にでも眠ってしまおうと目を閉じると、思考が緩慢になるどころか、逆に活発にあれやこれやと活動を始めて、いくら目を閉じてじっとしていても、一向に眠気の類は訪れなかった。
思考が活発になっていたとはいえ、現状を打開するという意味においては、結果らしい結果など何も出ていないに等しかった。特に元の世界へ戻る方法などは壊滅的とすらいえた。
一応、思いついたことは思いついたのだが、まず境界ありきの話のためにそもそも前提条件を満たせない。都合よく目の前に人が通り抜けられるくらいの境界があればいいのだが、そう簡単に境界など見つかるものではない。
加えると、何に縁のある土地なのかも分からない現状では、当りをつけて探索するのもあまりに現実的でない。
千年以上の時間を飛び越える方法について、わたしが思いついたのは、やはり境界を何度も通り抜けながら蓮子のいる世界、元いた世界へ辿り着くことくらいだ。
どの裂け目がどんな場所、時間軸へ繋がっているのかは抜けてみないと分からない。しかも、時間と空間は無数に存在するとなれば、奇跡を起こしたとしても、天文学的な回数をこなさなければなるまい。実際には不可能といっても過言ではないプランだ。
そして境界を探す上で必須なのが生活基盤、つまり衣食住の確保だ。
村があるということは、少なくとも人間は生活しているはずで、潜り込めば幾多の苦渋が待っていたとしても何とか生活は可能かもしれない。
だが、これにも問題がある。
まず一つ。わたしの容姿は目立ちすぎる。
この世界が古代日本ならば、わたしのような髪や瞳の色をした人間など知らないはずだ。そんな人間がいきなり村へ下りてきて、一緒に生活しようなどと言ったところで、快く迎え入れてくれるはずもなく、それどころか鬼だ妖怪だと騒がれ酷い目に遭わされてしまうかもしれない。
加えてもう一つ。因果律を極力保存する必要がある。
誰にも遭遇していない現状では、この世界に対してそれほど大きな影響を及ぼしてはいないかもしれない。
けれど、それを押して迂闊にこの世界の住人と接触すれば、蓮子の言っていたように世界が閉じてしまう可能性もある。そんなことになれば、わたしはこの世界に住まう全ての有機、無機物を破壊することになる。
考えるだけでも身体に震えがきた。冗談じゃない。そんな危険な真似、わたしには出来ない。そんな危険を冒すくらいならば、いっそわたしは誰にも知られぬよう、ひっそりとこの山で死んだ方がマシだ。
「また、堂々巡りね……」
何度も辿った思考経路の終着点にわたしは辟易し、背にしていた幹へ後頭部を預けた。
闇を払った朝の空は、そんな鬱憤を笑うかのように青々と突き抜けている。雲一つない快晴だった。
そんな清々しい空に、何だか無性に腹が立ち、わたしは乱暴に立ち上がった。寝ていないせいで足元がふらつく。
おぼつかない足取りで丘の先へ歩み出たわたしの目に、引き込まれそうな絶景が映りこんだ。遠く白む山麓と、周りを取り囲む山々に太陽の柔らかな光が反射して、目が眩むような鮮やかな緑色が映えている。そしてその麓、現実を叩きつけるかの如くはっきりと──小さな村が存在していた。
「……は、ははッ」
思わず乾いた笑いが漏れた。
あぁ、やっぱりこれが現実だった。これでもう疑いようもなくなった。思い知った。わたしは今、途方もない時を遡った世界にいるのだと。
最後の悪あがきのつもりで一度きつく目を瞑り、ゆっくりと開いてみる。
けれど、見える光景に何ら変化はなく、相変わらず自らの営みに精を出す人々の姿が、小さく確認できるだけだった。
人が暮らしている。そう思った瞬間、枯れたと思っていた感情が堰を切ってあふれ出した。
夢中のように弛緩していた全身が強張り、呼吸も細かく震えだす。数秒後には、遅れてきた熱いものが視界を歪ませた。
「あ、あぁ……わたし、わたし……どうしよう。どうしよぉ……ねぇ、誰か教えて。助けてよぉ……!」
噴出す火山のように、一度込み上げた気持ちは涙となって次々にあふれ出てきた。
どうして、自分がこんな目に遭わなければいけないのだろう。
自分がいけないことをしたからか。
許してもらえるだろうか。
いつかは、その時が来るかもしれない。でも、今じゃない。
こんなに辛くて悲しいのに、どうして誰も助けてくれない?
自業自得だからだ。他人の勝手な過ちまで背負ってくれるお人好しなんているはずがない。
……本当にそうか?
本当にそんなお人好しで、リスクも顧みずに赤の他人を助けるような人間はいない?
いない、はずだ。
それが赤の他人ではなく、唯一無二の親友のためならば?
それでも……いない、と思う。
それはどうだろう。本当は一人だけ、わたしには心当たりがあるのではないか?
でも、それに頼ってしまえば、また自分は変われないままじゃないか。自分だって出来るんだということ、彼女に証明してやるのではなかったのか?
確かにわたしはまた駄目だった。大見得をきった挙句、こうして懲りずにみっともなく、他人に助けを乞うている。
それでもわたしは変わりたい。変えたいのだ。
頼れる都合のいい誰かに寄りかかり、それが当然とばかりに甘い汁を吸って満足する。そんな自分を今度こそ憎む。決別する。
こんな事態に立ち至って初めて気付いた。本当にどうしようもない状況になってようやくそう思えた。
わたしは──やり直したい。
本当に駄目な自分。それに気付きながらも、自分の足で立つ努力さえしなかった。その真に唾棄すべき怠慢を、今是正する。
何度失敗しても、わたしは本当の意味で彼女の隣にいたい。互いに支え合える関係でありたい。
わたしは改めねばならないのだ。二人で一つの秘封倶楽部、そう言ってくれた彼女に報いるために。
今回失敗したことは事実かもしれない。でも、わたしはまだここにいる。生きている。生きているのなら次がある。次があるのならもっと上手くやればいい。それでも駄目だった時はもう一度。何度だって、やり直せばいい!
そうだ。生きていさえすれば、繰り返しさえすればいつかは絶対に成功する。
例えそれが、千年の時を超えるものだとしても。
未来の失敗を過去から変えるのだ。今のわたしなら……いや、今のわたしだから出来る方法で。
どんな方法を使ってでも、わたしはもう一度宇佐見蓮子に辿りつく。
──そう、どんな手段を使ってでも、必ず。
〆
目尻に冷たいものを感じて目を開けた。何だか今回はとても懐かしい夢を見ていたような気分だ。
身体を起こすと普段よりも背中が張っている。少し寝すぎたのかもしれない。
「あ、お目覚めですか?」
まだ半分眠っている目を擦っていると、そんな声と共に、音もなく障子が滑った。夕方のこのいい時間に寝室を訪ねてくるのは、一人しかいない。わたしは視線だけを廊下に向け、板の間に立つ式に言った。
「藍、あなたが家にいるということは、やっぱり寝坊かしら」
藍と呼ばれた少女は、変わったデザインの白い服に、青い前掛けのようなものをしており、身体で隠せないほど立派な金色の尻尾を持っていた。化け狐でありわたしの式神、八雲藍だ。
藍は無邪気な笑顔を作ると「そういえば紫さま」
「何か天狗が忙しそうにしていましたよ。ひょっとして、何か事件でしょうか」
「ふうん、面白いことでもあったのかしらね」
言いながら、わたしは極々小さな、とある期待に胸が高鳴っていた。
もう遠く霞んでしまったが、それでも決して忘れることの出来なかった想いがあった。
どんなに季節が回っても、どれ程辛いことがあっても、少しずつ色褪せていっても、それだけはずっと忘れることなく大切にしてきた。
気が遠くなるような年月が経ってしまった。もっとも、この身を人の枠から外してからは、時間の流れをそれほど気にしたことはなかったけれど。それを加味しても、ずいぶんと永い間待ち焦がれたものだった。
今この時、悠久からすれば何でもないほんの一瞬に、わたしの悲願を成就させる数奇が巡ってきたかもしれない。
「ちょっと、行ってみましょうか」
わたしが立ち上がると、慌てた様子で藍は「いえいえ。話を聞いてくるくらい、わたしがいきます」と止めに入る。何故だろう、わたしが首を突っ込むと都合が悪いみたいな態度だ。
けれど困ったことに、わたしは天邪鬼だ。止めろと言われると、俄然やる気になってしまう性分だ。
「いいじゃない。散歩でもしたい気分なのよ」わたしはあくまで自分が出張る姿勢を崩さずに言う。
うんうんとしばらく唸った藍はぽん、と手を叩きこう言った。
「分かりました。しかし、わたしも同行させてくださいね。ご主人様のそばにいるのは、式の役目でもあるんですから」
梃子でも動かない、という気迫を感じさせる目だった。ここまで言わせて断るのも意味がないし、無駄な労力になる。わたしは首を縦に振った。
さて、そうと決まれば出かけるとしよう。
とはいえ、馬鹿正直にお出かけの準備をしてから、玄関に向かう必要はない。そんな経験、気まぐれを起こした数度しかない。出かけよう、そう考えるだけで全て事は済むのだ。
わたしは自然な動きで足を踏み出した。
すると目の前の空間がばくり、とまるで口を開くかのように裂けた。裂け目からは無数の『目』がこちらを窺っている。ありとあらゆる境界は、わたしの意のままになる。遠いあの日から。
出口はどこに繋げよう……いや、どこでもいいか。どうせやることは決まっているのだし、行かねばならない場所も、すでにわたしは知っている。
ずっとやってきたことである。いちいち考えなくても、ある程度は道順も把握していることだし、問題ないだろう。
「さて、それじゃ出かけましょうか。藍」
「はいッ!」
そうして、わたしたちは裂け目へ踏み込む。
気の遠くなるような時を過ごしてきた。
目を覆いたくなるような結果もあった。
今度は、どこまで迫れるだろう。
わたしはただ、人知れずもどかしさと焦燥を抱いて、静観するだけだ。
けれど──
──願わくば、わたしの幻想(ゆめ)の果てへ届きますように。
文章自体は読みやすく、すんなりと入ってきました。
ただ、無粋ではありますが、リアリティに欠けると思いました。
果たして世界を滅ぼすかもしれないという事態に一人の少女が直面して、こうしてられるかなあ、とか。
境界を渡った後、何も確かめようとせずに憶測だけで行動できるのかなあ、とか。
行動や心理に説得力を持たせると、ぐぐんとよくなりそうです。