「ふ、ぅ……」
よろよろと覚束ない足取りで、霊夢はベランダへと出た。
誰もが酒を勧めてくるせいで他の人妖より酒が回るのが早いのだ。顔見知りが多いとこういうことになってしまう。普段の宴会ならのらりくらりとかわすことができたが、生憎と今回のような招かれた立場ではそう言い逃れできないのであった。
すっかり熱に浮かされてしまったな、と霊夢はガラスから透けて見える中を見る。そこでは多くの見知った顔が楽しく酒をあおっていた。冷たい夜風に吹かれながら、楽しそうな奴ら、とぼんやりとした頭で思った。
「……元気な奴ら。こっちはもうへろへろよ」
いつからこんなに酒に弱くなってしまったのか。実際は間を置かずに大量の酒を飲まされてしまったからだろうが、しかし主観としてはどうしても自分が酒に弱くなってしまったとしか思えない。
元々が少女のそれなのだからそこまで強くなくて当然なのだが、あまり働かない頭ではそんな常識すらも浮かばない。もう飲んでいる様を見るのも嫌になって、霊夢は部屋から背を向け闇の中に浮かぶ霧の湖へと目を落とした。
静かにたゆたう水面。虫の声だけが耳に届く中で、丸い月の姿を映す。幻想的な風景は酔いを醒ましてくれるようにも思えて、こんな景色を我がものにできるレミリアが、ほんの少しだけ羨ましく思えた。
そんな時だ。がちゃり、とベランダと部屋を結ぶ扉が開いたのは。
誰が来たのか、と顔を向ける。するとそこにはスーツ姿の射命丸文がにやにやと頬を歪めて立っていた。
「おやおやこれはこれは。どんな下戸がいるかと思えば……どこぞの博麗の巫女じゃあありませんか」
「……何しに来たのよ。茶化しに来ただけなら帰りなさい。今本当に気持ち悪いから」
「あや。そうでしたか。それは失礼……いや、本当に意外だったものでして」
霊夢の言葉に文は目を丸くし、しかし帰ろうともせずそこにじっと立っている。あんまりにも間抜けな様子の彼女に、霊夢はうざったそうに口を開いた。
「……あーもう。なんなのよ。何か用があるなら早く言いなさいな」
「と、言われましても……用、用、うーん……?」
「馬鹿にしてんの?」
「いえいえそんなことは! ……あ、じゃあこうしましょう。霊夢さんの介抱をしにきました」
「……なにそれ。誰が頼んだのよ」
「いやぁ苦しそうじゃないですか霊夢さん。ですからお助けしましょうと。万一のことがあったら大変ですしね」
いいことを思いついた、とでも言うかのように誇らしげに胸を張る文。対照的に霊夢ははぁ、と尚も暗い溜息を吐く。
「――怪しい」
「は?」
「怪しい、っつってんのよあんたが。いきなりそんな優しくなるし。あとその服装も全体的におかしい」
「へ? この服が?」
霊夢に指摘されて文はきょろきょろと自らの体を見回す。ビッシリと着こなされた黒いスーツ。ご丁寧にネクタイまできっちり締めてある。
服装自体には何らおかしいところはない。しかし、
「あんた、なんでスーツ着てんのよ」
「はぁ……いえ、正装ですから。これ」
「正装って……なんで?」
「なんでも何も。紅魔館のパーティですよ? 西洋のこういった宴会では正装をすると決まっているのです。知りませんでしたか?」
「知ったこっちゃないわよ。第一それとあんたがスーツを着る理由には繋がらない。ちゃんと決まりごとを守るような奴でもなかったでしょうに」
「あぁ……それはですね、ほら、木を隠すには森の中、と言いまして。こうした方がバレにくいんですよ。それに加えて男装ですから、更に見つかりにくくなるというわけでして」
そう言って文は部屋の中を指差す。確かに文の言う通り、幻想郷のいい加減な奴らにしては珍しくちゃんとした服装だ。あの魔理沙までもがきちんとしたドレスに身を包んでいる。郷に入っては郷に従え、ということなのかもしれない。
「それに引き換え、あなたはなんですかあなたは」
「私? ……何か問題でもあるわけ?」
そして文が更に指差した先――霊夢の服装は至っていつもと変わらない、普段通りの巫女装束であった。
いつも通りだけに大して違和感はないのだが、それはいつも通りの風景の中での話。今のように周囲がきちんとした正装に身を包んでいると、一人だけ巫女装束の彼女はとても浮いているように見えるのである。
当人がさして気にしていないように見えるのが幸いか、しかしそれが原因であるとも言う。
「いくらなんでも周りを見ればおかしいと分かるでしょうに……もうちょっと考えましょうよ、ね」
「なによ。私にとってはこれが正装よ」
「いやそんな屁理屈こねられましても」
「そんなことより。あんた、さっき“バレにくい”って言ってなかった?」
「……はい?」
「バレにくい、ってことは何か隠してるってことよねぇ……まぁどうせあんたは取材目的で来たんだろうけど。……あ、そっか。あれね。どうせ呼ばれてない――」
霊夢の言葉を遮って、あははー、と乾いた笑いを漏らす文。直後目にも止まらぬ速さで霊夢に近付き口を塞ぐと、しー、と空気の漏れるような音を唇の端から呟いた。
「だめですようそんなこと言っちゃあ。どこぞの悪魔がデビルイヤーで嗅ぎ付けるか分かったもんじゃないです」
「もごもご……ちょ、っと、やめなさ……っ、やめろこの馬鹿」
拘束を無理やり力尽くで引き剥がす霊夢。ぜーはーぜーはーと肩で息をしている。やはり天狗の力で押さえ込まれては霊夢とても敵わないようだ。
「はぁ、はぁ……別に大丈夫よ、ばらすなんてことはしないし……面倒臭いし。だからそんな焦るな」
「あら、そうでしたか。それは失礼しました」
特に悪びれもせずに文は肩をすくめて言う。これもいつものことだ。いつだって反省する様子なんか見せない。
分かり切った反応に霊夢はもう一度大きく呼吸すると、呆れたような口調で言った。
「っていうか……それ、逆に目立ってんじゃない」
「へ? マジですか?」
「マジもマジマジ。顔知れてるし服変えた程度でばれないわけないじゃない。そもそも私にばれてる」
「えー。でも霊夢さんとはぁ、ほらぁ、私と霊夢さんの仲じゃないですかぁ」
「やめろ寄るな鬱陶しい」
体をすり寄せてくる文を必死に霊夢は手で押し返す。
どうしてこいつはいつもこんな無駄にスキンシップを求めてくるのだ。ただでさえ暑いと言うのに、暑っ苦しいったらありゃしない。
そんな風に冷たくあしらう霊夢に、文はむーと唸り返した。
「冷たいですねぇ……まぁそういうのが霊夢さんらしいんですけど」
「あんたはいっつも近過ぎんのよ。なに? もう酔っ払ってるわけ?」
「まさか。天狗が酔っ払うなんてこと、鬼と飲み比べでもしない限りはないですよう」
天狗はうわばみだ。余程のことがない限り、それこそ鬼でも相手にしない限り酔っ払うなんてことはまずないだろう。
だから文の言っていることは嘘ではないと霊夢でも分かる。
分かるだけに、タチが悪い。
「……はぁ。はいはい、もういいわよ。戻りなさい」
「へ? だから私は霊夢さんの介抱――」
「だからあんたと喋ってる内に酔いも冷めてきたっつってんのよ。ただすぐに戻るとまた同じことになりそうだから、もうしばらく休んでようと思って。だからあんたはもうお役御免」
「……ふむ」
霊夢の言葉に文は腕組み、目をつぶって何度も頷く。しかしそのすぐ後に「いやいやいやいや」と呟き、何度も何度も首を横に振った。
「いや、戻りませんよ」
「はぁ?」
「だってつまんないじゃないですか。霊夢さんいないし」
「…………」
霊夢はその言葉に面食らい、苦々しげに表情を歪ませ、徐々に半笑いを浮かべ、最後にははぁ、と深い溜め息を吐いた。
「あんたねぇ、よくもまぁ……あぁもういいわ」
「いいんですか。じゃあこのままいることにしますね」
「はいはい。勝手になさい」
投げやりな口調で霊夢が言うと、文は気分良さそうにその隣に、霊夢と同じように手すりに背中を預ける。
一連のやり取りでやや熱くなった体を冷ますように、肌を撫でるように風が吹く。
けれど会話は途切れ、二人の間に会話はない。一転して静まり返った空気に、文はがさごそと懐を漁り始め、握り拳大の小さな箱とライターをひょいと取り出した。
「……煙草。よろしいですか――ってそう言えば」
「別に構わないわよ。さっきも言った通り、気分も大分楽になってるし」
「そうですか。じゃあ遠慮なく」
そう言って一本だけ取り出し口にくわえると、かちりとライターで火を灯す。
そうしてためらいなく深く吸い込み、肺の中にじんわりと染み込む煙を味わい、そして息の尽きるまで吐き出す。
吐き出された煙は緩やかに吹く風に流され、宵闇の中へじんわりと溶け込んで行く。
見慣れた光景。至福の時。
全身に染み渡るヤニの香りを楽しんでいると、霊夢がなんとも釈然としない表情でいることに気付いた。
「どうしたんですか? やはり煙草はお嫌いで?」
「いや、別に煙自体は慣れちゃったからどうでもいいんだけど……あんた、いっつも吸ってるわよねぇって」
「ふむ。まぁ、手に入れようと思えば簡単に手に入れられますからねぇ。すぐ手の届くところに嗜好品があれば、それを嗜んでしまうのも仕方のないことです」
煙草も、ライターも、香霖堂へ行けば全て置いてある。買おうと思えばいつでも買える。そんなものがあれば手を出さないわけにはいかない。
ましてや天狗だ。妖怪なのだ。怠惰に過ごす平坦な日々には、ちょうど良い暇潰しとも言えよう。
何より文は、とうの昔にニコチンの味を知ってしまっていたのだから。
「そう言えば霖之助さんも吸ってたわね……でも体に悪いんじゃないのそれ?」
「体に悪い、なんて理由で止めるくらいだったら最初からやってません」
「……それもそっか」
上手く丸め込まれたような気がしつつ、霊夢はすごすごと引き下がる。
煙の香りにはもう慣れた。いつも隣で吸ってくる奴がいるから。慣れたくなくとも慣れてしまった。
けれど、実際に吸ったことはない。
流れてくる煙をたどる。
その先には静かに目を閉じた文。
時折手に持った携帯灰皿に、とんとんと灰を落としている。
いつもと違った黒いスーツを着こなして、黒の中に橙色を灯しながら白い煙を吐き出す彼女は、まるで――
「……ねぇ、ちょっと」
「はい?」
「それ。一本ちょうだい」
投げやりにぞんざいに、言い捨てるかのように霊夢は左手を突きだす。
予想外の行動に文は目を見開くが、しかし何も言わず、素直に煙草を一本握らせた。
黙って渡されるとは思っていなかったのか、霊夢も意外そうな顔をしてそのままフィルターを口にくわえる。
「……珍しいわね。何か言ってくるかと思ったんだけど」
「んー? 何をですか?」
「いや……別に、何もないならいいんだけど」
「そうですか。変な霊夢さん」
「変とはなによ」
ごちゃごちゃと呟くが、言葉が続くことはない。
元々霊夢が掘り返した話だ。元々文に話すことなどなかったのだろう。あのお喋り鴉が珍しいとも思うが、しかし決してないというわけではない。
所詮は気紛れのかたまりのような奴なのだ。
「ん」
「……なんですか、また手を差し出して……まだ何か欲しいって言うんですか」
「そうじゃないわよ。火」
「火? ……あぁ、霊夢さんは普段煙草吸われないんでしたっけね。失敬失敬」
ぽりぽりとこめかみを掻いて文は苦笑する。
そうしてライターを取り出そうとするが、はた、と立ち止まる。
ただ普通に火をくれてやるのも面白くない。どうせなのだし、何か趣向を凝らした方が面白いのではないか。
ふむ、と逡巡し、霊夢の顔を見つめる。そしてにやりと口元を歪めた。
「なにしてんのよ。ほら、さっさと――」
「ん」
「――――!?」
霊夢は驚きに目を見開く。それもそのはず、なんの前置きもなく、なんの躊躇もなく、いきなり文が顔を間近に寄せてきたからだ。
突然のことに硬直し、体を引くことすらできない。唇の端に吸い口を引っ掛けて、じっと自らの瞳を見つめてくる彼女を見ていることしかできなかった。
「……なんですか? ほら、そちらももっと顔を寄せて――」
「ちょ、ちょ、ちょっと! 何しようとしてんのよ!」
「何って……火ですよ、火」
ほら、とひらひら見せ付けるは煙草。暗闇の中でぼんやりと、手の動きに合わせて光の線を残すそれは、ともすれば蛍の光のようにも見えそうだった。
その行動でようやく火を移すということに気付いた霊夢は、けれど眉をひそめていた。
「いやそりゃ見れば分かるけど……素直にライター渡せば済むことじゃない。ほれ」
「え? いやいや霊夢さん、それじゃあつまらないじゃないですか。ねぇ?」
「ねぇ、って……」
「どうせ減るもんじゃなし。いいじゃないですか、この程度の戯れ」
そう言ってにこりと笑う。
こういう時の文は引き下がることがない。どこまでも酔狂で享楽的なのだ。言った通りのまま、「この程度の戯れ」としか考えていないのだろう。
それが少しばかり癪だったが、ぐだぐだ言ったところでつまらない。減るものではないのも確かである。それにあの様子では、ライターを引っ張り出すより従った方が楽なのは間違いない。
仕方ない、と霊夢は再度煙草をくわえた。
「ほれ」
「最初からそうしていればいいんです。……服、灰が落ちないように気を付けて下さいね」
「ん。分かった」
その返事でとんとんと灰を落としてから、文はもう一度顔を近付ける。
急速に縮まる距離。先と先とが触れ合う直前に、霊夢は思わず目をつぶってしまう。
密になった二人は、傍目からにはまるでキスを交わしているようだった。
「何度か吸って下さい。そしたら火が移りますから」
「ん」
霊夢がこくりと頷く。程なくしてじり、という音と共に、煙を出しながら火は燃え移る。
文の顔が離れてから、やれ吸うぞとばかりに思いっきり息を吸い込むと、途端に流れ込んでくる煙に霊夢は思いっきりむせた。
「げほっ! えほっ、えほっ……」
「あやややや。大丈夫ですか霊夢さん?」
「えほっ、げほげほっ……だ、大丈夫に決まってるでしょ、このくらい……」
大丈夫と口では言いつつも、傍目からは全く大丈夫なように見えない。涙目になって何度も鼻をすすり、辛そうに咳き込んでいるのである。どこをとっても大丈夫ではなかった。
あぁ、吸い始めはこうなるんだよなぁと文は苦笑する。
「まぁ、そんなに急いで吸わなくても大丈夫ですから……威勢は買いますけど、ね」
「うぎぎ……」
悔しそうに歯噛みする。とんだ醜態をさらしてしまったのだから仕方があるまい。
その後も咳き込みながら何度も肺に煙を落としこもうとするが、依然として結果は変わらず。
それでも挑戦することをやめない彼女に、どこか既視感を覚えた。
最終的に諦めふかすだけになってしまった霊夢。吸い方が浅い上に煙の色も明らかに薄い。
文のような愛煙家と比べるのはどうにも公平ではないが、優雅にたっぷりと煙を体に溜め込み吐き出す彼女の隣にいれば、どうしても見比べてしまうものだ。
それを霊夢自身分かっているからこそ、こんなにも躍起になっているのかもしれない。
あるいは、追い付こうとしているのか。
「……あんたさぁ、よくこんなもん吸えるわよね。本当信じらんない」
「慣れるもんなんですよ。なんだってそうです」
「慣れるもん、ねぇ……どうしたって慣れる気がしないけど」
ぷかりぷかりと、煙が浮かぶ。
口から吐き出された白い煙は混ざりあい、闇の中へと溶け込み消える。
そんな様子を、二人は他人事のようにぼんやりと眺めていた。
「どうします? これ吸い終わったら戻りますか?」
文が問う。
ガラスの向こうには、至って変わらない風景。
きっとあそこに戻れば、自分たちも同じように酒を浴びることになるのだろう。
数瞬逡巡したように、けれど瞳には大した迷いもなく、ほんの一呼吸だけ置いて霊夢は答えた。
「もう一本、吸ってから決めるわ」
よろよろと覚束ない足取りで、霊夢はベランダへと出た。
誰もが酒を勧めてくるせいで他の人妖より酒が回るのが早いのだ。顔見知りが多いとこういうことになってしまう。普段の宴会ならのらりくらりとかわすことができたが、生憎と今回のような招かれた立場ではそう言い逃れできないのであった。
すっかり熱に浮かされてしまったな、と霊夢はガラスから透けて見える中を見る。そこでは多くの見知った顔が楽しく酒をあおっていた。冷たい夜風に吹かれながら、楽しそうな奴ら、とぼんやりとした頭で思った。
「……元気な奴ら。こっちはもうへろへろよ」
いつからこんなに酒に弱くなってしまったのか。実際は間を置かずに大量の酒を飲まされてしまったからだろうが、しかし主観としてはどうしても自分が酒に弱くなってしまったとしか思えない。
元々が少女のそれなのだからそこまで強くなくて当然なのだが、あまり働かない頭ではそんな常識すらも浮かばない。もう飲んでいる様を見るのも嫌になって、霊夢は部屋から背を向け闇の中に浮かぶ霧の湖へと目を落とした。
静かにたゆたう水面。虫の声だけが耳に届く中で、丸い月の姿を映す。幻想的な風景は酔いを醒ましてくれるようにも思えて、こんな景色を我がものにできるレミリアが、ほんの少しだけ羨ましく思えた。
そんな時だ。がちゃり、とベランダと部屋を結ぶ扉が開いたのは。
誰が来たのか、と顔を向ける。するとそこにはスーツ姿の射命丸文がにやにやと頬を歪めて立っていた。
「おやおやこれはこれは。どんな下戸がいるかと思えば……どこぞの博麗の巫女じゃあありませんか」
「……何しに来たのよ。茶化しに来ただけなら帰りなさい。今本当に気持ち悪いから」
「あや。そうでしたか。それは失礼……いや、本当に意外だったものでして」
霊夢の言葉に文は目を丸くし、しかし帰ろうともせずそこにじっと立っている。あんまりにも間抜けな様子の彼女に、霊夢はうざったそうに口を開いた。
「……あーもう。なんなのよ。何か用があるなら早く言いなさいな」
「と、言われましても……用、用、うーん……?」
「馬鹿にしてんの?」
「いえいえそんなことは! ……あ、じゃあこうしましょう。霊夢さんの介抱をしにきました」
「……なにそれ。誰が頼んだのよ」
「いやぁ苦しそうじゃないですか霊夢さん。ですからお助けしましょうと。万一のことがあったら大変ですしね」
いいことを思いついた、とでも言うかのように誇らしげに胸を張る文。対照的に霊夢ははぁ、と尚も暗い溜息を吐く。
「――怪しい」
「は?」
「怪しい、っつってんのよあんたが。いきなりそんな優しくなるし。あとその服装も全体的におかしい」
「へ? この服が?」
霊夢に指摘されて文はきょろきょろと自らの体を見回す。ビッシリと着こなされた黒いスーツ。ご丁寧にネクタイまできっちり締めてある。
服装自体には何らおかしいところはない。しかし、
「あんた、なんでスーツ着てんのよ」
「はぁ……いえ、正装ですから。これ」
「正装って……なんで?」
「なんでも何も。紅魔館のパーティですよ? 西洋のこういった宴会では正装をすると決まっているのです。知りませんでしたか?」
「知ったこっちゃないわよ。第一それとあんたがスーツを着る理由には繋がらない。ちゃんと決まりごとを守るような奴でもなかったでしょうに」
「あぁ……それはですね、ほら、木を隠すには森の中、と言いまして。こうした方がバレにくいんですよ。それに加えて男装ですから、更に見つかりにくくなるというわけでして」
そう言って文は部屋の中を指差す。確かに文の言う通り、幻想郷のいい加減な奴らにしては珍しくちゃんとした服装だ。あの魔理沙までもがきちんとしたドレスに身を包んでいる。郷に入っては郷に従え、ということなのかもしれない。
「それに引き換え、あなたはなんですかあなたは」
「私? ……何か問題でもあるわけ?」
そして文が更に指差した先――霊夢の服装は至っていつもと変わらない、普段通りの巫女装束であった。
いつも通りだけに大して違和感はないのだが、それはいつも通りの風景の中での話。今のように周囲がきちんとした正装に身を包んでいると、一人だけ巫女装束の彼女はとても浮いているように見えるのである。
当人がさして気にしていないように見えるのが幸いか、しかしそれが原因であるとも言う。
「いくらなんでも周りを見ればおかしいと分かるでしょうに……もうちょっと考えましょうよ、ね」
「なによ。私にとってはこれが正装よ」
「いやそんな屁理屈こねられましても」
「そんなことより。あんた、さっき“バレにくい”って言ってなかった?」
「……はい?」
「バレにくい、ってことは何か隠してるってことよねぇ……まぁどうせあんたは取材目的で来たんだろうけど。……あ、そっか。あれね。どうせ呼ばれてない――」
霊夢の言葉を遮って、あははー、と乾いた笑いを漏らす文。直後目にも止まらぬ速さで霊夢に近付き口を塞ぐと、しー、と空気の漏れるような音を唇の端から呟いた。
「だめですようそんなこと言っちゃあ。どこぞの悪魔がデビルイヤーで嗅ぎ付けるか分かったもんじゃないです」
「もごもご……ちょ、っと、やめなさ……っ、やめろこの馬鹿」
拘束を無理やり力尽くで引き剥がす霊夢。ぜーはーぜーはーと肩で息をしている。やはり天狗の力で押さえ込まれては霊夢とても敵わないようだ。
「はぁ、はぁ……別に大丈夫よ、ばらすなんてことはしないし……面倒臭いし。だからそんな焦るな」
「あら、そうでしたか。それは失礼しました」
特に悪びれもせずに文は肩をすくめて言う。これもいつものことだ。いつだって反省する様子なんか見せない。
分かり切った反応に霊夢はもう一度大きく呼吸すると、呆れたような口調で言った。
「っていうか……それ、逆に目立ってんじゃない」
「へ? マジですか?」
「マジもマジマジ。顔知れてるし服変えた程度でばれないわけないじゃない。そもそも私にばれてる」
「えー。でも霊夢さんとはぁ、ほらぁ、私と霊夢さんの仲じゃないですかぁ」
「やめろ寄るな鬱陶しい」
体をすり寄せてくる文を必死に霊夢は手で押し返す。
どうしてこいつはいつもこんな無駄にスキンシップを求めてくるのだ。ただでさえ暑いと言うのに、暑っ苦しいったらありゃしない。
そんな風に冷たくあしらう霊夢に、文はむーと唸り返した。
「冷たいですねぇ……まぁそういうのが霊夢さんらしいんですけど」
「あんたはいっつも近過ぎんのよ。なに? もう酔っ払ってるわけ?」
「まさか。天狗が酔っ払うなんてこと、鬼と飲み比べでもしない限りはないですよう」
天狗はうわばみだ。余程のことがない限り、それこそ鬼でも相手にしない限り酔っ払うなんてことはまずないだろう。
だから文の言っていることは嘘ではないと霊夢でも分かる。
分かるだけに、タチが悪い。
「……はぁ。はいはい、もういいわよ。戻りなさい」
「へ? だから私は霊夢さんの介抱――」
「だからあんたと喋ってる内に酔いも冷めてきたっつってんのよ。ただすぐに戻るとまた同じことになりそうだから、もうしばらく休んでようと思って。だからあんたはもうお役御免」
「……ふむ」
霊夢の言葉に文は腕組み、目をつぶって何度も頷く。しかしそのすぐ後に「いやいやいやいや」と呟き、何度も何度も首を横に振った。
「いや、戻りませんよ」
「はぁ?」
「だってつまんないじゃないですか。霊夢さんいないし」
「…………」
霊夢はその言葉に面食らい、苦々しげに表情を歪ませ、徐々に半笑いを浮かべ、最後にははぁ、と深い溜め息を吐いた。
「あんたねぇ、よくもまぁ……あぁもういいわ」
「いいんですか。じゃあこのままいることにしますね」
「はいはい。勝手になさい」
投げやりな口調で霊夢が言うと、文は気分良さそうにその隣に、霊夢と同じように手すりに背中を預ける。
一連のやり取りでやや熱くなった体を冷ますように、肌を撫でるように風が吹く。
けれど会話は途切れ、二人の間に会話はない。一転して静まり返った空気に、文はがさごそと懐を漁り始め、握り拳大の小さな箱とライターをひょいと取り出した。
「……煙草。よろしいですか――ってそう言えば」
「別に構わないわよ。さっきも言った通り、気分も大分楽になってるし」
「そうですか。じゃあ遠慮なく」
そう言って一本だけ取り出し口にくわえると、かちりとライターで火を灯す。
そうしてためらいなく深く吸い込み、肺の中にじんわりと染み込む煙を味わい、そして息の尽きるまで吐き出す。
吐き出された煙は緩やかに吹く風に流され、宵闇の中へじんわりと溶け込んで行く。
見慣れた光景。至福の時。
全身に染み渡るヤニの香りを楽しんでいると、霊夢がなんとも釈然としない表情でいることに気付いた。
「どうしたんですか? やはり煙草はお嫌いで?」
「いや、別に煙自体は慣れちゃったからどうでもいいんだけど……あんた、いっつも吸ってるわよねぇって」
「ふむ。まぁ、手に入れようと思えば簡単に手に入れられますからねぇ。すぐ手の届くところに嗜好品があれば、それを嗜んでしまうのも仕方のないことです」
煙草も、ライターも、香霖堂へ行けば全て置いてある。買おうと思えばいつでも買える。そんなものがあれば手を出さないわけにはいかない。
ましてや天狗だ。妖怪なのだ。怠惰に過ごす平坦な日々には、ちょうど良い暇潰しとも言えよう。
何より文は、とうの昔にニコチンの味を知ってしまっていたのだから。
「そう言えば霖之助さんも吸ってたわね……でも体に悪いんじゃないのそれ?」
「体に悪い、なんて理由で止めるくらいだったら最初からやってません」
「……それもそっか」
上手く丸め込まれたような気がしつつ、霊夢はすごすごと引き下がる。
煙の香りにはもう慣れた。いつも隣で吸ってくる奴がいるから。慣れたくなくとも慣れてしまった。
けれど、実際に吸ったことはない。
流れてくる煙をたどる。
その先には静かに目を閉じた文。
時折手に持った携帯灰皿に、とんとんと灰を落としている。
いつもと違った黒いスーツを着こなして、黒の中に橙色を灯しながら白い煙を吐き出す彼女は、まるで――
「……ねぇ、ちょっと」
「はい?」
「それ。一本ちょうだい」
投げやりにぞんざいに、言い捨てるかのように霊夢は左手を突きだす。
予想外の行動に文は目を見開くが、しかし何も言わず、素直に煙草を一本握らせた。
黙って渡されるとは思っていなかったのか、霊夢も意外そうな顔をしてそのままフィルターを口にくわえる。
「……珍しいわね。何か言ってくるかと思ったんだけど」
「んー? 何をですか?」
「いや……別に、何もないならいいんだけど」
「そうですか。変な霊夢さん」
「変とはなによ」
ごちゃごちゃと呟くが、言葉が続くことはない。
元々霊夢が掘り返した話だ。元々文に話すことなどなかったのだろう。あのお喋り鴉が珍しいとも思うが、しかし決してないというわけではない。
所詮は気紛れのかたまりのような奴なのだ。
「ん」
「……なんですか、また手を差し出して……まだ何か欲しいって言うんですか」
「そうじゃないわよ。火」
「火? ……あぁ、霊夢さんは普段煙草吸われないんでしたっけね。失敬失敬」
ぽりぽりとこめかみを掻いて文は苦笑する。
そうしてライターを取り出そうとするが、はた、と立ち止まる。
ただ普通に火をくれてやるのも面白くない。どうせなのだし、何か趣向を凝らした方が面白いのではないか。
ふむ、と逡巡し、霊夢の顔を見つめる。そしてにやりと口元を歪めた。
「なにしてんのよ。ほら、さっさと――」
「ん」
「――――!?」
霊夢は驚きに目を見開く。それもそのはず、なんの前置きもなく、なんの躊躇もなく、いきなり文が顔を間近に寄せてきたからだ。
突然のことに硬直し、体を引くことすらできない。唇の端に吸い口を引っ掛けて、じっと自らの瞳を見つめてくる彼女を見ていることしかできなかった。
「……なんですか? ほら、そちらももっと顔を寄せて――」
「ちょ、ちょ、ちょっと! 何しようとしてんのよ!」
「何って……火ですよ、火」
ほら、とひらひら見せ付けるは煙草。暗闇の中でぼんやりと、手の動きに合わせて光の線を残すそれは、ともすれば蛍の光のようにも見えそうだった。
その行動でようやく火を移すということに気付いた霊夢は、けれど眉をひそめていた。
「いやそりゃ見れば分かるけど……素直にライター渡せば済むことじゃない。ほれ」
「え? いやいや霊夢さん、それじゃあつまらないじゃないですか。ねぇ?」
「ねぇ、って……」
「どうせ減るもんじゃなし。いいじゃないですか、この程度の戯れ」
そう言ってにこりと笑う。
こういう時の文は引き下がることがない。どこまでも酔狂で享楽的なのだ。言った通りのまま、「この程度の戯れ」としか考えていないのだろう。
それが少しばかり癪だったが、ぐだぐだ言ったところでつまらない。減るものではないのも確かである。それにあの様子では、ライターを引っ張り出すより従った方が楽なのは間違いない。
仕方ない、と霊夢は再度煙草をくわえた。
「ほれ」
「最初からそうしていればいいんです。……服、灰が落ちないように気を付けて下さいね」
「ん。分かった」
その返事でとんとんと灰を落としてから、文はもう一度顔を近付ける。
急速に縮まる距離。先と先とが触れ合う直前に、霊夢は思わず目をつぶってしまう。
密になった二人は、傍目からにはまるでキスを交わしているようだった。
「何度か吸って下さい。そしたら火が移りますから」
「ん」
霊夢がこくりと頷く。程なくしてじり、という音と共に、煙を出しながら火は燃え移る。
文の顔が離れてから、やれ吸うぞとばかりに思いっきり息を吸い込むと、途端に流れ込んでくる煙に霊夢は思いっきりむせた。
「げほっ! えほっ、えほっ……」
「あやややや。大丈夫ですか霊夢さん?」
「えほっ、げほげほっ……だ、大丈夫に決まってるでしょ、このくらい……」
大丈夫と口では言いつつも、傍目からは全く大丈夫なように見えない。涙目になって何度も鼻をすすり、辛そうに咳き込んでいるのである。どこをとっても大丈夫ではなかった。
あぁ、吸い始めはこうなるんだよなぁと文は苦笑する。
「まぁ、そんなに急いで吸わなくても大丈夫ですから……威勢は買いますけど、ね」
「うぎぎ……」
悔しそうに歯噛みする。とんだ醜態をさらしてしまったのだから仕方があるまい。
その後も咳き込みながら何度も肺に煙を落としこもうとするが、依然として結果は変わらず。
それでも挑戦することをやめない彼女に、どこか既視感を覚えた。
最終的に諦めふかすだけになってしまった霊夢。吸い方が浅い上に煙の色も明らかに薄い。
文のような愛煙家と比べるのはどうにも公平ではないが、優雅にたっぷりと煙を体に溜め込み吐き出す彼女の隣にいれば、どうしても見比べてしまうものだ。
それを霊夢自身分かっているからこそ、こんなにも躍起になっているのかもしれない。
あるいは、追い付こうとしているのか。
「……あんたさぁ、よくこんなもん吸えるわよね。本当信じらんない」
「慣れるもんなんですよ。なんだってそうです」
「慣れるもん、ねぇ……どうしたって慣れる気がしないけど」
ぷかりぷかりと、煙が浮かぶ。
口から吐き出された白い煙は混ざりあい、闇の中へと溶け込み消える。
そんな様子を、二人は他人事のようにぼんやりと眺めていた。
「どうします? これ吸い終わったら戻りますか?」
文が問う。
ガラスの向こうには、至って変わらない風景。
きっとあそこに戻れば、自分たちも同じように酒を浴びることになるのだろう。
数瞬逡巡したように、けれど瞳には大した迷いもなく、ほんの一呼吸だけ置いて霊夢は答えた。
「もう一本、吸ってから決めるわ」
びぃえるのポーズ集の表紙にあったイメージしかなかった俺が残念。とても、きっと似合う。
まさにハードボイルドではないですか。
不意をつかれた気分だったけど、良かった。とても良かったぞぞおおお!!
大変面白かったです。
最近は、新しい話を投稿されていないみたいですね。
でも、誤爆さん、私はあなたの新作楽しみに待ってます!