01.
最大、約三時間。
それが、私と一輪が一日に言葉を交わす時間。
空を飛べば、一輪の居る船へ辿り着く。船はぐるぐると幻想郷中を移動しているのに、不思議と目を瞑っても船へと辿り付ける気がする。
けれど、そうそう良い事ばかりじゃあ、ない。
「ああ、小傘。怪我は治ったみたいね」
「うん、一輪が手当てしてくれたから」
「それは良かった。……ああ、小傘。悪いんだけど」
「うん、良いよ。一輪、いつも忙しそうだもんね。また来るね」
「ああ、ごめん」
最大だから、零もある。今日は顔を合わせる事が出来たから、まだ良いほうだ。昨日は全く会うことさえ出来なかった。それに比べたら、まだマシ。一輪が私に会ってくれるだけ、まだ幸せ。
私と違って、一輪には家族みたいな存在がいる。船は遊覧船として人里の客を招く事も有れば、その逆もしかり。人里に信仰を求め歩く事もある。船だけじゃない。家族の為に家事をしているのは専ら一輪だ。きっと一輪は優しいから、皆に頼られているのんだろう。そう思うと、ちょっと誇らしく思えて、ちょっと寂しくも感じた。
初めて私が一輪に会ったのは、UFO異変の時だった。私は異変に何の関係もないから、よく分からなかったけれど、どうやらその時に一輪はこの幻想郷に来たみたい。大きな船と他の人と一緒に。一輪はそれを“家族のようなものだ”と言っていた。私には家族がいた記憶がないからピンと来なかったけれど、それは凄く大切な物だと言う事だけは分かった。きっと一輪にとっての家族は、例えば私にとってのこの唐傘だったりするのかもしれない。
或いは、私にとっての一輪が、一輪にとっての家族なのかも知れない。
そのUFO異変の際、私がふらふらと空を飛んでいたら、向こうから緑の巫女がやってきて私をぼかすかにしていった。突然の事で何がなにやらわからなかくて、まるで交通事故にでもあった気分だった。膝やら脛やらを酷く擦りむいて、服も数ヶ所解れてしまっている。自慢の唐傘もそんな私を見てどこか虚ろげな表情だ。
でも、どうやらその日の私はよっぽど運が悪かったらしく、直後に今度は赤い巫女がやって来た。幻想郷の巫女は有無も言わさず妖怪を倒すみたいで、既に弱っている私を一瞥したかと思うと、おもむろに懐から紙を何枚か取り出して、何かを呟いた。それが“スペルカード”と言う奴だと言う事は、後日知ったけれど。
ともかく、私は二人の巫女に、突然一方的にこてんぱんにされたのだ。そして、まるでボロ布の様になった私を手当てしてくれたのが、一輪だった。それが最初の出会い。誰かに包帯を巻いて貰ったのも、誰かと一緒にご飯を食べたのも。両方とも私にとっては初めての事で、未だにあのときの事は忘れられない。私の隣を誰かの体温が留まることが、こんなにも嬉しい事だなんて――最も、流石に夜は自分の家で寝たけれど。
それから私は、毎日の様に一輪の元を訪れた。幸運にも、幻想郷へ早く慣れる為に、船は様々な形で人里と交流をはかってくれていた。そんな中、尼として一輪が人々の悩みを聞いているのを知った私は、口実も手に入れる事が出来たのだ。妖怪として、どうしても人を驚かせたいと言う私に一輪は、何度も親身になって答えてくれた。未だそれが実現出来て居ないのが口惜しいけれど、心のどこかでは、それよりも一輪に会える事の喜びを感じていた。
けれど、毎日毎日私の言葉を聞いてくれるわけじゃあ、ない。
「じゃあ、私は帰るね。また明日来るね」
「ごめん」
「良いよ、気にしないで」
踵を返して、空飛ぶ船を後にする。今振り返ったら、一輪は私を見てくれているのだろうか。やっぱりもう仕事に追われて、甲板にさえ居ないかも知れない。どうだろう。どうだろう? 気になるけど、怖くて見られない。
会いたいけれど、会えない。
話したいけれど、話せない。
振り返りたいけど、見られない。
この感情は、一体なんだろう。
明日会ったら、聞いてみようか。今度はいつもの相談とは違う内容を。
どうして私は、一輪に会いたくなるの? って。
一日最大三時間。
それが私と一輪の関係。
02.
三時間の始まりは、大抵昼をすぎた辺りからになる。
船内の様子は外からは分からない。なので私に出来る事と言えば、そっと空中から甲板を伺うことだけだった。大抵甲板には白い帽子を被った人が居る。後は時々虎の様な人がきょろきょろと周囲を見渡しながら、また何処かへ消えていくと言った光景がままあるけれど、今日はそのどちらも見られなかった。その代わりに、一番私の会いたい人がそこに居た。
「一輪っ」
「ん、ああ、小傘」
丁度何処かへ出かけるところだったらしい。
「買い物?」
「ん、夕食をね」
「私もついていって良い?」
「ああ、良いよ」
「やったっ」
最近ちゃんと話せていなかったから、神様がご褒美でもくれたのだろうか。一輪と一緒に出かけられるなんて、嬉しい。
「そんなに嬉しい事かねぇ」
「嬉しいよ! 一輪とお出かけだもん!」
ぶんぶんと傘を振り回しながらそう返す私に、苦笑する一輪。ゆるゆると高度を下げ、人里へと降り立つ。雨なんて全く降りそうにない快晴だけれど、唐傘お化けなのだから仕方ない。幻想郷の住民も、今更私の様なぽっと出のお化けの一人や二人(果たしてお化けの単位が人で正しいのかどうか、それは私には分からない)、驚くような事ではないのだろう。それはどうかと思うけれど。
そして二人で人里を巡る。その最中も私は一輪の斜め後ろをぴったり歩く。
「ねぇ一輪、今日は何を作るの?」
「ん。ああ、カレーだよ」
「かれー?」
「ああ、水蜜が“毎週金曜日はこれじゃないと嫌だ”って我侭を言うからね」
「ふぅん」
水蜜、と言う人が誰を指すのかはわからなかったけれど、あの船の家族の誰からしい。既に一輪が持参してきた買い物鞄には「かれー」に使うらしき野菜が購入されている。
「何で毎週金曜日なの?」
「さぁ。生きてる頃の風習じゃない?」
「ふぅん」
幻想郷には妖怪や幽霊が少なくないので、その人もその類なのかも知れない。
私は船に何度も足を運んでいるし、一輪以外の人を見た事もあるけれど、会話をした事はなかった。船の様子を伺い、一輪が居たら声を掛ける。居なかったら帰る。最大三時間、一輪が夕食を作りに向かう頃には帰る。それが二人の関係だったから。
「さぁ、買う物はこれで終わり。帰ろうか」
「うん」
一輪の両手を塞ぐ買い物鞄。ぎゅうぎゅうに物が入っていていかにも重そう、と言うわけではない。けれど何故だかそれが気になった。一歩足を大きく踏みだして、隣に並んで。右の荷物を持ってあげようか。そんな思いつきが私の中で芽を出し、むくむくと育っていく。それを育てるかの様に一つごくりと、私は決意と共に唾を飲み込んだ。
「い、一輪っ」
「ん、うわっ」
思い切り地面を蹴り、両足で着地する。と同時に私の右手と一輪の左手の甲が触れあった。たった一瞬の事なのに、それだけでドキドキが止まらない。汗をかいているのはこの天気の所為でも、或いはジャンプをしたからだけではない。それを誤魔化すように、私は一輪に言う。
「二つも荷物持って、大変でしょ。片方持ってあげる!」
一輪が何かを言う前に、むんずと袋を持った。
「良いよ、小傘だって傘を持ってるじゃない」
「良いの、一輪はいつも頑張ってるから、ちょっとでも楽させてあげたいの」
「……そっか。ありがとう」
「うん!」
私の右手と、一輪の左手。同じ袋が上下に揺れる。
そうして船へ戻るべく、空を飛ぶ。僅かに吹く風が心地良い。ついこの間まで夏だった暦も今は秋、見れば妖怪の山の裾から夜を告げる色が滲み始めている。それを見て、思わず私は寂しくなった。あの終わりの色が頭のてっぺんまで昇った時、私はまた一人で家の天井を眺めているのだ。
三時間の内の何分が、私達の会話なのだろうか。
何かを言おうと色々と考えて、けれど言葉は出てこなかった。頭に浮かぶのは、船に着いたらお別れだと言う事だけ。焦れば焦るほど、却って何も思いつかないのだ。小さかった船の影はやがて私達を飲み込むほどの大きさになり、それに反比例して緩かった飛行速度が、より一層零に近づいてゆく。じわじわと諦めの感情が、私の中に広がっていくのが分かった。
見れば甲板には幾つかの人影があり、どうやらそれは船の家族らしい。隣の一輪の表情が、ほんの僅かに緩むのが分かった。言葉にならない思いが、小さく小さくと積もり重なっていく。
「おお、一輪が帰ってきた」
「ただいま。はいこれ夕飯の材料。厨房に持って置いといて」
「何で私が」
「……卵が入ってるから、星には持たせないで」
「あー。なるほど。分かったよ」
「えっ。ちょっと。どう言う意味ですか?」
そんなやり取りを私は空に浮いたまま、ぼんやりと眺めていた。
と、そんな時、一輪が私の方を振り返った。
なんだろう。
「小傘」
「なに?」
「荷物」
「あ、そうだね。ごめんね」
差し出された一輪の手に、そっと買い物鞄を渡す。それを受け取った一輪は、「ありがとう」とだけ言うと、再び甲板へ戻ってしまった。
空が傾いてゆく。いつもの手を振る時間へと。
「一輪、どうして私には荷物を運ばせないんですか?」
「ん。いや、別に他意はないけど」
「ご主人、そう言って先週卵を割ったのは誰だっけ?」
「うー」
空が傾いてゆく。いつもの家へ帰る時間へと。
甲板の内と外と言うだけで、こうも一輪が遠く見えるなんて。
ひらひらと控え気味に手を振って、声を掛けるべきかどうか考えたけれど。きっと気付かれそうにないので、黙って立ち去る事にした。ぐっと口を噛み締めて、踵を返す。
きっとあと数十分もすれば船には良い香りが漂うに違いない。その香りはまるで私を寄せ付けない様に焚かれたお香か何かで、それを感じる度にどうしようもなく自分が独りだと言う事を思い出してしまう。だからせめてそれだけは感じない様に早めに帰る事にしよう。
目で一輪との距離を感じ、
耳で一輪の声を遠く感じ、
振った手にも気付かれないなら。
せめて一つくらい、今の自分に逆らいたい。現状を変えられない自分に逆らいたい。
自分の家の方角を探す。空は急激に色を濃く染め、紅から藍へと滲んでいる。まるで船から逃げる様に、その薄景色の中に飛び込む。人里を通り過ぎ、妖怪の山を少し通り過ぎたその辺り。周囲には背の高い雑草や木が生えていて、その他には何も無い。家の壁も半分は隠れていて、茶色の屋根が見えるくらいだ。その中で玄関と、一つだけある窓の周りだけ草が毟られていて、却って不自然に見えるくらいだ。
そんな玄関の扉を開ける。立地も家の見た目も、お世辞にも良いとは言えない。加えて物の少ないこの家で、私は普段から鍵などは掛けていない。あって鍵をなくすくらいなら、最初から掛けないほうがマシだろう。
そして今度は扉を閉める。開けた時より強く、夕暮れの空にまで音が聞こえる様に。そこでずるずると膝から崩れ落ちた。一際長い溜息が、口から零れる。体は疲れていない。けれど心が疲れてしまったのだ。
玄関の冷たさを感じながら、傘を壁に立てかけて目を瞑る。まず一輪の顔が浮かんで、続いて人里が浮かび、そして甲板での景色を思い出す。そして頭の中で場面を巡る度に、じくじくと心が疼く。痛くはないけれど、気持ち良くもなかった。何と呼べば良いのか分からない感情が、誰にもぶつけられないまま私の中に溜まっていく。けれど空の両手は、唯カリカリと石の床を滑るだけだった。
と、そんな時だった。
「ねえ、良い加減こっち来たら?」
「っ!?」
私以外誰もいるはずのない家の中から、気だるそうな声が聞こえたのだ。思わず私は驚いて、変な声を出してしまった。
そんな私の反応にくすくすと笑いながらも、声の正体は尚姿を見せず、話し続ける。
「あんたはそれでもお化けなのか。驚かすよりも驚くほうが上手じゃないか」
「だ、誰なの? 勝手に人の家に入り込んで」
「そうさ、ここはあんたの家さ。だったらさっさとこっちに来なよ」
「……」
誘う様に声が言う。溜息を突いていた喉が、今度は唾を飲み込む。幾らか逡巡した所で、ようやく重い腰を上げた。
ぎし、と、廊下が一つ音を立てる。自分の家にも拘らず、そんな些細な音さえも消す様に歩きながら、私は居間に向かった――ものの、そこには誰も居ない。様に、見えた。
「こっちこっち」
「え、わっ」
右側から声がして、思わず私は声を出して驚いた。
開け放たれた窓の桟に腰を掛け、悠然と足を組む少女。暗い部屋と同化する様に、何故かその輪郭がぼやけて見えた。
「……ぬえ」
「あんたお化け、っていうか妖怪向いてないわ」
開口一番に、なんて酷い事を言うのだろうか。思わず私はむっとしてしまった。するとぬえはそんな私の表情を見て、ますますけらけらと笑った。そして何時の間にか手に持っていた湯呑みを傾ける。その湯呑みは間違いなく私のだろうし、どうせ中身も私の家にあるお酒か何かだろう。ぬえはそんな奴なのだ。
正直な話、私はあまりぬえが好きではない。それは今言った傍若無人な所であったり、人を食ったような性格だったりするけれど、一番嫌な所はそんなぬえが私よりも人を驚かすのに長けているからだ。ぬえが人を驚かす度、或いはこうして私をからかうたびに、私は私の存在意義というものを考えさせられてしまう。私が幾度も驚かせようとして失敗した光景を、ぬえはにやにやといやらしい笑みを浮かべながらやってのけるのだ。果たして私にもっとお化けとしての力が有れば、一輪は振り向いてくれるだろうか。
「分かってるじゃん。自分がへたれな事に」
「だ、誰が」
「あんたの考えてることなんて大概誰にだって分かるよ。
『ああ、誰も私に驚いてくれないなぁ。これじゃあお腹も空くし一輪が振り向いてくれないわ、いやん』」
「放っておいてよ」
「まぁ私からすれば、あんな堅物のどこが良いのかは分からないけど。まぁ好き嫌いは自由だし? 私はあんたがへたれてるのを見てるだけで楽しいから良いんだけ――」
「馬鹿にしないでよ!」
思わず私は叫んでいた。弱い月光の中、ぬえの姿は完全には見えない。珍しい形をした翼と瞳、そして釣りあがった口から見える白い歯だけが浮かんで見える。
ぐっと涙が出そうになるのを堪えながら、ぬえを睨み付けた。けれどぬえはそんな私を見て、ますます嫌な笑みを浮かべる。
「それはあんたの事? それともあの堅物の事?」
「うるさい」
「笑ったり怒ったり泣いたり、忙しいねぇ」
「うるさい」
「そんなにあいつに迷惑を掛けるのが嫌なのか?」
「うるさい!」
ぬえの声を掻き消すように私は叫び、次に視界からぬえを消すべく目を瞑った。一つばかり床に雫が落ち、丁度私の素足に垂れる。その温度に、益々私はいやな気分になった。どうして私がこんな奴にからかわれなくちゃならないのだ。そして何故こんな奴に、一輪を馬鹿にされなくちゃならないんだ!
しん、と、静寂が部屋に広がる。自分で叫んだのにも関わらず、思わず私は疑問に思い、再び目を開けた。そこには当然ぬえがいて、窓に腰を掛けたまま、今度は空を眺めていた。先程までの嫌な笑みも雰囲気もない。見れば口元をむにゃむにゃと動かしていて、何かを言い淀んでいる様だ。と、話しかけようかと思ったその時、ぬえが口を開いた。
「あー……えっと。小傘」
「え、うん、何?」
小さく押し殺したような、或いは、どう話しかけようか。そう迷いながら、ぬえが言った、様に思う。先程とのあまりの違いに、ついつい私も応対してしまった。ぬえは口を動かして言葉を探しながらも、視線だけは空に固定している。気になった私は、ひょいとぬえの脇から顔を出し、その空を見上げた。
「あ。船……」
そこにあったのは、一輪が居る船だった。雲ひとつない澄んだ空に、上空百メートルあたりに、ぽつんと浮かぶ遊覧船。背景には眩いほどの星が散りばめられ、そのまた上に下弦の月が揺れている。船はどこへ行くわけでもなく、ただその場に留まっていて、まるで私に見つけて欲しがっているようだった。
「ぬえはあれを見てたの?」
「……まぁ、ね」
私にその場を譲る様に、ぬえが窓からひらりと降りた。そして今度はちゃぶ台に座り、胡坐をかいた。そんなぬえに行儀が悪い、と言うと、うっさい、と一蹴されてしまった。
「なぁ、小傘」
「なに?」
振り返らずに、私は空をみたまま返事をした。幾らかの空白が生まれる。またもぬえは言葉を選んでいるらしい。別段急かすわけでもなく、私はぬえの言葉を待った。
「お前はお化け、妖怪じゃん」
「うん、そうだね」
「で、ここは幻想郷なんだからさ」
「知ってるけど……」
ぬえが頭をかく音がする。またも言葉を選んでいるのか、ひょっとしたら私の返事に違う物を期待していたのかもしれない。だとしたら、果たしてぬえは私に何を期待しているのだろうか。
「だから、つまり。もっとわがままで、いいんじゃないかな」
ぬえの言葉の真意を掴めず、私は振り返った。けれど何時の間にかぬえ自身も私に背をむけていたらしく、翼しか見る事が出来なかった。
「ここは幻想郷、どいつもこいつも自分中心の馬鹿ばっかがいる場所なんだ。そりゃあんたみたいのもいるけど、それはどっちかって言うと少数派だと思うんだ。
あんな堅物に二人も三人も惚れる奴がいるとは思わんけど、あんた、そんな優等生やってたら、乗り遅れるかもよ?」
ぽかんと、開いた口が塞がらなかった。
「……もしかして、私にそれを言いに来たの?」
「帰る」
驚いた。お化けとして驚かされてばかりなのはどうかと思うけれど、これには本当に驚いた。
ちゃぶ台の上に立ち上がって、一目散に帰ろうとするぬえの腕を何とか掴み、詳しい事を聞こうとしたら、逆に人差し指で鼻を押された。
「んむっ」
「言っとくけど別にあんたの為じゃないし! あの馬鹿に頼まれただけだし! 私に文句言わないでよね!」
矢継ぎ早にそう言われ、私は何も言い返せない。視界数センチに、突然怒りだしたぬえの赤い顔がドアップで映る。私が何をしたと言うのか。しかも文句を言おうにも、私はぬえの言う“あの馬鹿”と言うのが誰の事なのか分からない。あまりぬえと親しくないので、ぬえの友人など、思いあたらないのだ。
「わ、分かったけど。“あの馬鹿”って、誰のこと?」
「決まってるでしょ、ひじ……」
今度は突然黙り込んでしまった。と思うと、いきなり私の頬をつねってきた。
「い、いふぁい」
「帰る!」
そして今度こそぬえは帰ってしまった。
頬をさすりながら、私はその場に崩れ落ちる。何もそこまで痛かったわけではないけれど、あまりにも全てが突然の事だったので、訳が分からなかったのだ。頬を膨らましたりさすったりして、先程までのやり取りを振り返る。そうして思い出すのは、ぬえのあの言葉だった。
「もっとわがままで、か……」
言われてみれば確かにそんな気もする。
好かれようとしてではなく、嫌われない様に。そんな風に、自分を殺して一輪に会っていた。
一日僅か三時間。たったの三時間。
それが私と一輪の会って良い時間だなんて、誰が決めたのだろう?
一輪に何か言われたわけではない。家事を始めようとする、あるいはそうしたがっている一輪の様子を感じて、私が私に勝手に線引きをしただけなのだ。悪戯に時間を引裂いて、一輪に嫌われない様にと。一輪にとって、相手をしていても疲れない奴でいようと。そう私は思っていたけれど。
家族のいない私に、家族の重みは分からない。家族と好きな人、どちらを優先させるべきかなんて、分からない。けれど、仮にそれに答えが有るとして、そしてそれが家族だとしても。それが一輪に会ってはいけない理由にはならない、と、思う。思いたい。
立ち上がって、窓へと近づく。そこには変わらず星空と月があり、その景色に埋まる様に船がたゆたっていた。その船を見て、決心する。
「……うん」
明日は朝から一輪に会いに行こう。そして一緒にくっついて回るのだ。
そして私が食べたい物を勝手に買い物鞄に放り込んで、船に帰ったらご飯の匂いを服に染み込ませるのだ。夜は……夜は、うん、またそのときに考えようか。ちょっとそれは流石に、ね。
「よし! 寝よう!」
そうと決まれば夜更かしは厳禁だ。私は三つに折っただけで畳に置かれたままの布団を勢い良く広げる。そしてその上に身を投げた。
そしてものの数分で、私は夢の世界へと旅立っていった。
03.
ぼんやりと空を眺める。船で感じる風は地上よりもやや冷たく、熱気を持った頬にちょうど良い。何にも遮られていないのにも関わらず、冬へ向かいつつある暦に従う様に、太陽は自身を主張する事無くただその場に浮かんでいるだけだった。
しかし至極あっさりと船にいるものだ。我ながらそう思う。今朝この船に来た時の事を思い出す。
――あっ、一輪。おはよう!
――ん。ああ、おはよう……どうしたの、こんな朝から。
――あのね、一輪。先に言っておくけどね? 今日の私は、ワガママだから!
――え? わ、分かった。
船の朝は早いらしく、訪れたときには既に朝食は終わっていた。なので今はタイムスケジュールに則って言えば掃除をする時間らしい。掃除道具を取りに行く、と言って、一輪は一度姿を消した。
暫く甲板で空を眺めていると、やがて一輪が戻ってきた。両手には二本の箒と一つのバケツを持っている。恐らくバケツの中には雑巾等が突っ込まれているのだろう。私はすぐに駆け寄って、一輪から箒を受け取った。見るとバケツには既に水が張ってあり、中には雑巾が二枚沈んでいる。
「じゃあ、まずは掃こうか」
「うん」
箒で掃いてゴミを取り、雑巾で磨く。特に会話もなく、黙々とこなす。そう長くかかることなく、すぐにそれらは終わった。
「ありがとう。助かったよ」
「ううん。そんなに酷く荒れてるわけでもなかったから。普段から一輪が掃除してるからだね」
そして今度は私がバケツを持った。すると一輪が一度考える様に止まる。その理由は私にもすぐに分かった。
実は私は船の中には一切入った事がない。せいぜいこの甲板で最大三時間、一輪と言葉を交わすだけだった。なので一輪も片付けは自分でやるつもりだったのだろう。右手には箒を持ち、左手にバケツを持とうとした所で、それが私の手に収まっているのを見て、やがて一輪は言った。
「片付けは私がやるよ」
「今日の私はワガママだもん。ふ、船の中にだって入るよ!」
そんな一輪を制する様に私は慌てて甲板の扉の前に立ち塞がった。一輪の目を見ようとして、けれど直接は見られなかったので、口許あたりをきゅっと見上げる。対して一輪も、どうして私を説得しようか考えているようだった。その表情は言葉を探しているからか、私の瞳を通して、どこか遠くを見ている様だった。そうして私達は見つめ合っているようで見つめていない、奇妙な対峙をする事となった。
やがて数分の沈黙の後、先に折れたのは一輪だった。開いた左手で頭を掻きながら諦めた様に言う。
「分かった。でも、今日だけだからね」
「うん!」
扉だけ開けて、一輪に先に入る様に促す。先に入っても左右のどちらに行けば良いか分からなかったし、実は初めて入る船の中にドキドキしているのもあった。なので、いつも人里でそうしている様に、一輪の後を付いて行こうと思って――頭を振った。
後ろではなく、隣に並ばなくちゃ。
なにせ今日の私はワガママなのだから。もう十分に一輪の後ろ姿は網膜に焼き付いているし、そろそろ次は横顔を見つめたいと思う。
バケツの水を零さない様に、一輪の隣に並んだ。幸い一輪は気が付いていないものの、ちらちらと一輪の顔を見上げたり、廊下の先をみたりと視線が落ち着いてくれない。
そしてその後も他の場所を掃除したり、洗濯物を干したりと、時間に追われながら手伝いをした。真面目な表情の一輪を見るととても話しかける気にはなれず、ぽつぽつと言葉を交わす程度だった。本当はもっと話したかったけれど、未だワガママを言い切れない自分がもどかしい。
そして時刻は夕方になっていた。今は船を降り、昨日と同じく人里に立っている。言うまでも無く、食材を買う為だ。今日は傘を船に置いてきたので、互いの手に一つずつ買い物鞄が握られている。昨日より風は少しだけ強く、そして冷たい。思わず普段烏足の自分を恨めしく思った。最も、冬はもっとそうなるけれど。
カランカランと下駄を音立てながら、私は船での昼食のやり取りを思い出す。そして一輪に話しかけた。
「散々な目にあったよ」
「まさか姐さんまで加わるなんて」
船の内部に入るのは初めてな私にとっては、顔を見た事はあっても、一輪以外の人と話すのも初めてになる。それはつまり向こうにも同じ事が言えた。
「おお、何度か甲板で見た顔じゃん」
と白い帽子が言えば、
「あなたが小傘ですか」
と虎の様な人が言い、
「一輪は真面目だから苦労すると思うけど。まぁ、頑張ると良いよ」
と鼠の様な人に言われた。そして最後に締めくくる様に、
「私が聖です。あなたの事は、あの子から聞いてるわ。ふふ、頑張ってね」
と言われた。はて、どこかでつい最近聞いた名前だけれど、気の所為だったか。
そして私は白い帽子の人に矢継ぎ早に質問されながら昼ご飯を食べたのだ。おかげで喉をちゃんと通らなかった。白い帽子の人に隠れて虎の様な人もやたら変な事を聞いてくるし、気が気では無かった。その中でずっと笑っていた聖さんがやけに印象に残っている。
「一輪は助けてくれなかったし」
「悪かったよ」
ちなみに、その昼食が終わった後、虎の様な人は、鼠の様な人にずるずると引きずられて何処かへ消えていった。廊下の角を曲がって消えるまでの間ずっとこちらに助けを求めていたけれど、誰一人助ける事は無かった。良かったのかと聖さんに聞いた所、“あれがあの二人の通じ方なのです”と笑顔で言われてしまったので、それ以上は深く聞かない事にした。
一方白い帽子の人は、そんな二人を笑った後、ちょっと人に逢ってくる、と言って何処かへ行ってしまった。そんな彼女の事も聖さんは笑顔で見送り、台所へと消えて行った。そして入れ替わる様に台所から一輪が出てきた。少し不服そうな顔をしている辺り、恐らく聖さんが食器を洗うと言ったのだろう。頑固と言う感じはしなかったけれど、あの笑顔でずいと寄られたら私も断れないような気がする。
そして時間は今へと針を進める。その間も一輪の表情は冴えず、私の問いかけにも言葉は少なかった。そんな一輪を見て、いつしか私も話す言葉を失ってしまった。やがて風だけが私達の間を駆け抜けていく。私と一輪の間には僅かにだけれど確実に距離があり、そこを風が通る度に、今日の自分の行動を振り返ってしまう。そして私は心の中で決めた。
――ワガママは、次で最後にしよう。
ぬえの言った事が間違いだったとは思わない。おかげで船の中にも入れたし、一緒に昼ご飯も食べられた。それは昨日までの私では叶わない事だ。だから感謝もしている。
けれど、どうだろう。今こうして歩いている道は、昨日の道と同じだろうか。鞄の中は空なのに、昨日より足取りが重くないだろうか。近づいたはずなのに、より言葉が少なくなっている。一輪の横顔を見つめるはずだった私の視線が 下へ下へと下がって行き、ついに自らの爪先を眺めるまでに至った時、一輪が言った。
「夕食。何にする?」
「え?」
「言われたでしょ、姐さんに」
「ああ……」
そう言われて、船を出る直前の事を思い出す。甲板に出た時に、後ろから聖さんが現れて言ったのだ。
「二人とも。ちょっと良いかしら?」
「姐さん、どうしました?」
「ええ。夕食なのですが、小傘さんも食べていくでしょう?」
躊躇いながらも頷く私に、笑顔で二つばかり頷いた聖さんは、続けて言った。
「そう、良かった。なら夕食は小傘さんの好きな物にしましょう」
「え?」
「え?」
思わず、私と一輪は言葉を重ねてしまった。恐らく表情も同じ様になっていただろう。ぽかんとしながら聖さんの言葉の真意を計るも、残念ながら分からなかった。
「さぁ小傘さん、なんでも好きな物を買って来てくださいね」
見ているこちらが冷汗を掻きそうなほど、良い笑顔である。どうにもこうにも、逆らう事さえ許されない気がした。そうして立ち止まっていた私達は、先ほどの虎の様な人とは逆に背中を押されながら、気が付いたら甲板とまで押しやられたのだ。ひらひらと手を振る聖さんに見送られ、と言うよりも、半ば追い出される様に船を後にして、そして今に至るのだ。
二人して人里の道端で立ち止まる。脳裏に眩しく笑う聖さんを浮かべて、揃って溜息を吐いた。道行く人々が何かと振り返るけれど、それに構う気さえ起きなかった。
「それで、どうする?」
一輪の言葉に、私は我に帰った。
「どうする、って?」
「や、夕飯だよ。小傘は何が食べたい?」
「うんっと。えっと」
暫く逡巡して、思いついた。思いついた、けれど。これは言っていいものなのか。
もう一度ちらりと一輪の横顔を見上げる。それに気が付いたのか、一輪に見返され、つい目を逸らしてしまった。むぐむぐと口を動かして、仕方なく言う。
「……か」
「か?」
「かれー……」
「……」
「……」
何ともいえない気まずい雰囲気が二人の間に流れる。それもそのはず、カレーは昨日の皆の夕食なのだから。二日続けて夕食が同じメニューだったら、誰だって今の一輪の様な微妙な表情を浮かべるに決まっている。そして私はそれを知っていて、カレーと言ってしまったのだ。
「こ、こんにゃくカレー!」
「いや、それはどうかな……」
食べた事のない料理と言うのもあった。けれど、それ以上に、昨日から頭に残っている料理だったのだ。
一輪と私の繋がりなんて、あの時の異変で出来た傷だけしかない。その傷も今はとうに癒え、目にはもう何も見えないのだ。そんな消えてしまいそうな曖昧で希薄な糸を、多くも無い会話で結ぶ作業でもって、私達は繋がっていられる。
そんな私よりも遥かに強い糸を結ぶ、一輪と家族達の事を、私は良く知らない。唯一知っている名前は聖さんだけだし、その聖さんを含めた他の人が普段何をしているのかも分からない。どんな会話をして、どんな事で喧嘩をしているのかも分からない。もしかしたらそこでは一輪は私には見せないような表情を浮かべて、私には聞かせない声を出すのかもしれない。そう思うと、何故だか胸が軋むのだ。そしてそんな一輪を、私は見たい。家族そのものにはなれないけれど、そんな存在に近づきたい。
そうなれる様に。だから私は、カレーを選んだ。
言葉にならない感情を双眸に浮かべながら、ぐっと一輪を見上げる力を強める。そんな私に、諭す言葉でも探していたのだろうか、やがてそれも諦めて、観念した様に言った。
「……うん、分かった。良いよ、カレーにしよう」
「ほ、本当?」
どうせあの馬鹿は毎日がカレーでも食べるだろうし、と一輪がぼやきながら頷く。それを受けて、思わず私はその場で飛び上がってしまい、周囲の人達の微笑ましい目で我に戻る。
「恥ずかしいからやめなさい、全く」
「んぅ、ごめん」
ぽりぽりと一つ頭をかいて、つい舌を出す。これは私の癖みたいなもので、意味は無い。次いで空の鞄をぶんぶんと振り回し、ぴったりと一輪の傍に寄ってみた。私の頭の右側が一輪の肩に擦れ、じんじんと心地良い熱が内側へ広がっていく。そんな私を見て、一輪は何かを言おうとして、けれど口を閉じた。そして虚空を見て一度考え込み、再び私を見ながら口を開く。
「こんにゃくでも何でも良いよ、小傘の好きな物を買いな。私が上手に作ってあげるから」
どこかその顔が優しく見えて、思わず私は泣きそうになった。気付かれない様に奥歯をぐっと噛み締めて視界を保つ。その癖目線は徐々に下へと下がっていき、先程まで見えていた妖怪の山も、今は裾が僅かに視界の端に引っ掛かる程度だ。緩やかな足取りの中で時折擦れ合う右肩がもどかしい。左手でぎゅうと強く鞄を握り、次いで心の中で約束を破る。
――もっと、ワガママを言いたいよ。
秋の風が二人の間を通らない様に、私は一輪の手を握った。
突然の事に一輪が足を止め、つられて私も足を止める。俯いた私に一輪の表情は見えない。と同時に、多分に一輪にも、私の思いは見えていないのだろう。
この手を離されたら、拒絶をされたら。きっと私は立ち直れない。これは一世一代の私のワガママなのだ。
感情と緊張が混ざり、次いで一輪の反応が怖くなる。最後に右手の温度だけを残して、周囲から喧騒が消えた。耳鳴りが徐々に大きくなっていき、やがて頭の中まで駆け巡った時に、私の右手が動いた。
「小傘」
良く見ると、動いているのは私の右手ではなく、一輪の左手だった。一方的に私に握られていた一輪の左手が、それに応えてくれる様に握り返してくれたのだ。その瞬間、無音だった世界が崩れ落ち、もとの喧騒ある人里に戻った。
「や、ごめん。ちょっとびっくりした」
苦笑する一輪の姿に口をパクパクとさせながら、けれど私は言葉が出なかった。噛み締めすぎた奥歯が痛み、これが現実だと言う事を教えてくれる。そして、そう思えば思う程、何故だか急に身体が熱く感じた。顔が赤くなるのを自分で感じて、見上げた一輪の顔から目を逸らす。どこを見たら良いのかが分からなくなり、周囲を落ち着きなく見渡すと、そこには私を穏やかに笑う無数の視線があった。そこではたと気付く。否、思い出す。ここが人里だと言う事に。
つまりは、人の往来の中手を繋ぐ私達は、周囲の目線の格好の的になる訳で。
つまりは、皆はそんな私達を見て笑っている訳で。
「あら、一輪に小傘さん」
そこまで考えて、突然後ろから話しかけられる。思わず驚いた私は声にならない声を出しながら飛び上がった。
八百屋の前、見知った顔がそこに一つ。
「あら、一輪と小傘さん」
「姐さん」
そこに居たのは、聖さんだった。手には真っ赤な林檎が握られている。蜜がたくさん詰っていそうで、良く熟れているようだ。よほどその林檎が気に入ったのか、にこにこと笑顔を浮かべながら、私と一輪を見た。対して私は落ち着きなく一輪と聖さんを交互に見るくらいしか出来なかった。
するとそんな私を見て、聖さんが微笑み、
「あらあら。顔が真っ赤ですよ? まるでこの林檎みたい」
そう言うと、私の頬にぴとりと林檎を当てた。ほんのりと冷たさが伝わるものの、それ以上に自分の顔の赤さを指摘され、余計にいたたまれなくなってしまった。もしかして自分は何かとんでもない事をしてしまったのではないか。何も考えずに行動してしまったけれど、人前で手を繋ぐ事は、実はかなりマズかったのではないか。そんな気がしてしまう。そんな私を見て聖さんは更に優しく笑い、そして私にその林檎を手渡した。思わずきょとんとする私だったものの、
「良かったら、その鞄に詰めて貰えませんか? 私、手ぶらで来てしまったもので」
そう聖さんに言われ、合点がいった。そして幾つかの林檎を鞄に納める。皮付きの状態にも拘らず林檎は仄かに香り、私の鼻をくすぐった。
「姐さん、ちょっと良いですか」
そんな中、一輪が言葉を発した。先ほどまで私に向けていた僅かな笑みさえ消え、再び真面目な表情をしている。それを見て、聖さんも一つ首を縦に振り、次いで私の右手が軽くなるのを感じた。どうやら二人で話したい事があるようだ。何を話すのかは私には分からなかったし、それを止める権利は私には無いけれど、緩む右手に名残惜しさを感じてついつい一輪を見上げてしまった。とはいえ、
「すぐ戻るから」
と言われてしまっては、それ以上駄々をこねるわけにもいかない。寂しさを覚えながら、私は一輪の左手を離した。何時の間にか汗ばんでいた右手に風が当たる。それを何故だか心地良くは思えず、そしてそう思う自分が余計に嫌だった。
やがて二人は店の角を曲がって、私の視界から消えていった。そこでようやく私は周りの視線から解放され、遅れて往来に本来の喧騒が戻る。往来と言っても、波の様に人が居るわけでは無い。通りは波と言うよりは、どちらかと言うと穏やかな川のそれだし、秋とは言え肌寒いと言うわけでもない。しかしその中で私だけが、中州の様に立ち止まっていた。買い物に行こうにもお金は持っておらず、行きつけの店がある訳でも無い。そんな中で、私の視線は二人が曲がって行った店の角に固定されていた。
勿論、盗み聞きをしたいわけではない。けれど、この人々と喧騒の中で立ち止まり続けるのもどうかと思った。そこで私は躊躇いながらも数歩ずつ、あの二人が曲がった店へと向かい、そしてその壁に背を預けて待つことにした。恐らくこの角を曲がり、幾らか行った草陰辺りで話をしているのだろう。人里と言っても、一歩道を逸れればそこには草や木があり、それを奥へと進めばやがては森に繋がるのだから。
後ろに回した両手で鞄を持ち、ぼんやりと空を見上げる。太陽が自分の遥か背後にあるおかげで眩しくはなく、長さ数十センチの日陰にすっぽりと身を隠すと、存外に涼しい。土で出来た店の壁も相まって、熱を帯びていた身体がひんやりと冷えていくのを感じた。そうして冷静になった頭に、人里の喧騒は遠く聞こえる。ふとその中に、ある声を聴いた。それは私にとって一番聞き慣れた声でもあった。どうやら、ふたりは割と近い場所で話をしているようだ。殆ど風の来ないこの場所に、風は声を運んでくれない。その為、断片的にさえ二人の会話の内容は分からず、声がするという事が分かる程度にしか声は聞こえてこない。声を聞きたくて来たわけでは無いけれど、一度聞こえてしまった以上、気になってしまうのも事実だ。そこで私は、二人がどの程度離れた場所にいるのかだけを知ろうとして、角から顔だけを少し出した。
そして私は、見てしまった。
一輪が、聖さんに頭を下げているところを。
頭を下げた一輪が、聖さんに何かを言っていて、聖さんも神妙な面持ちでそれを聞いていた。その口は確かに「小傘」と言う動きをしており、つまりは一輪が私の事で聖さんに謝っていると言う事だ。
――私がワガママ言ったから。
私のワガママが聖さんを、そして一輪を困らせてしまった。思考は震え、何時の間にか開けっぱなしにしていた口の中が乾く。思わず後ずさりをして、手に持っていた鞄を落としてしまった。その瞬間音がして、二人が私に気づく。頭を上げた一輪が何かを言おうと私の方に歩を進める。近づかれる分だけ、私は後ろに下がり、そして踵を返して、全力で走った。どうして良いのか分からずに、思わず私はその場から逃げた。
後ろで一輪の声がしたけれど。
私はその声から逃げた。怖くなって、逃げ出した。
それはきっと、
自分の所為だと分かっているからだ。
ああ、こんなことになるなら。一輪にあんな思いをさせるなら。
恋なんて、しなければ良かった。
私なんて、いなければ良かった。
04.
転がる様に家に帰り、けれどどうして良いのか分からず、しかも拭いても拭いても涙が止まってはくれず。とどのつまり、私は唯泣く事しか出来なかった。脳裏には鮮明にあのシーンが蘇り、眼を閉じてもそこには頭を下げている一輪が居た。いっそ壁に頭を強く打ってしまえば、楽に気絶できるかとも思うけれど、そんな勇気もなく、結果として私は昨日のぬえの言葉を思い出さずにはいられなかった。映像は一輪で、声がぬえ。私の心は深く抉られ、ただただ畳をかきむしるくらいしか出来ない。
何時間そうしていただろうか。
ようやく私の眼から涙は止まり、あの嫌な合成の光景も脳裏から消えつつある。或いは考えない様にしているだけかもしれないけれど、それはそれで間違っていないような気もした。何故ならこの思いは叶う事は無く、もう一輪に会う事は無いのだから。皮肉にもそう考えると少し気が楽になった。
壁に背中を預けなおして、ぼんやりと天井を眺める。灯りの点かないこの家にも、平等に夜は来る。その為天井は灰色から黒の中間でもって、はっきりとその姿を見せてはくれない。まるで昨日を思い出しそうになり、ふと周囲を見渡した。
「まさか、ね……」
ひょっとしたらまたどこかでぬえが様子を伺っているのではないか、そんな気がしてしまい、思わずそんな行動を取ってしまったものの、流石に今日はいないようだ。最も、万が一居たとしても、今日は黙ってお忠告とやらを聞く気はしない。このやり場の無い感情の掃きだめになって貰おう。
「そうだよ、元はと言えばぬえが“ワガママになれ”だなんて言ったからだ」
ぬえがあんな事を言わなければ。あんな言葉に唆されなければ。
今日も昨日までの日々と同じ様に、笑って手を振れたかもしれない。或いはそれが続いて、もしかしたら本当に今日の様に隙間風の寒さに震えない日が来たのかもしれない。少なくとも、この思いを終わらせる必要は無かった。だとしたら、悪いのは誰だ?
両手の握り拳に自然に力が篭る。そして歯を強く食いしばり、
ふっと、笑みが零れた。
全身の力を一気に抜く。そして床にごろりと寝転がった。大の字になり、天井を再び眺める。心なしか天井は先程より低く感じ、見えなかった染みの二つ三つが分かるほどだった。単に夜に目が慣れたのかもしれないし、そうでないとすれば、この心の晴れ間に関係しているのだろう。その心の晴れ間はどこから来たのかと考えると、やはりそれはぬえの言葉と、今日の思い出だった。
船を掃除して、お昼ご飯を食べて、買い物をしようとして。
たったそれだけの事。たったそれだけの事なのに――どうしてか心が暖かい。
昨日までは見られなかった一輪の表情や、知らなかった一輪の癖、一輪の体温。全部が全部、昨日までの臆病な私には知り得なかった事だろう。別れ際に気付かれない様に手を振る私に、一輪は笑ってなどくれないだろう。そしてそれを知ってしまった私は、結局の所、
「やっぱり好きだよ……」
この思いを捨てる事は出来なかった。
枯れたはずの涙が再び溢れ、目の横を滑り落ちていく。見えていた天井は、あっという間に曇り空へと化けていった。視線を天井から壁へと、横に移していく。辿り着く先は開け放たれた窓で、右半分から空が見える。左半分は雨戸を閉めていて、唯黒いだけだ。きっと上空にはまだ船が星空に混じってたゆたっているのだろう。そう思い、持ち上げた上半身を一度床に戻し、
「…………ん?」
再度持ち上げた。
私の家、雨戸あったっけ。
一分きっかり考えて、けれど首を縦に振ることが出来なかった。はてこれはどう言うことなのだろうか。
今度は上半身だけではなく立ち上がり、窓へ一気に近づく。そして窓から顔を出して、左側を見る。
「……」
「……」
「…………」
「…………」
「…………こんばんは」
「…………はい、こんばん、うわぇ!?」
一輪が雨戸になっていた。いや、違う。雨戸が一輪だった。それも変だ。
雨戸だと思っていたのは、一輪の後ろ姿だった。夜だったので、見間違えたのか。いや、それよりも色々と重要な問題があるような気がする。
「な、なんで一輪が雨戸になって私の家にいるの!?」
「や、雨戸になったつもりはないんだけど。まぁ、それに近い事はしてたかな」
「どういうこと?」
「や、その。実は少し前からここに居たんだ。唯、何と言うか、ノックする雰囲気じゃなくて」
ああ、つまり――
「……見てたの?」
「うん」
「……聞いてたの?」
「うん」
どうやら私は、最悪な所を見られていたらしい。
すると一輪は続けていった。
「確かに今日の小傘はいつもと違うと思ったけど、それがあいつの差し金だったとはね」
あいつ、と言うのは恐らくぬえの事を言っているのだろう。そしてきっと、一輪は勘違いをしている。
「一輪、それは違うよ。ああ、うん、違わないんだけど、そうじゃないよ」
眉を顰める一輪。それもそうだ、否定しているのかしていないのかイマイチはっきりしない、そんな曖昧な言葉だから。
言葉が纏らないまま、私は言葉を続ける。
「確かに私はぬえの言う通りにして、色々とワガママを言っちゃった。ごめんね、迷惑だったよね。
でも、あれは全部、紛れも無く私のしたい事だったんだよ。
一緒にご飯を食べたり、手を繋いだりしたかった。もっと一杯一輪に話し掛けて、もっと一杯一輪の言葉を聞きたかったの。……これだって、立派なワガママだよね?」
「……」
一度溢れ出した思いは止まってくれず、堰を切った様に流れ出る。言葉と一緒に、何度出したか分からない涙までもが頬を伝って、床を濡らした。鼻を啜る音できっと一輪も気付いているだろう。けれど、一輪は何も言わず、私の言葉を聞いてくれた。
「ごめんなさい。私、凄いワガママだから。嫌な奴だから。一輪と一緒にいたくなるの。一輪が船の人達と仲良くしているのを見ると、羨ましくなっちゃうの。黙って別れ際に手を振るだけなんて、嫌なの!」
両手で拭っても拭いきれない涙が落ちていく。
「ごめんなさい、わ、私、一輪の事が……好きなんです。ごめ、ごめんなさ」
「小傘!」
一輪の声に、びくりと肩を震わせた。
窓の桟に手をかけ、一輪が私を見ている。その目は怒っている様でもあり、泣いている様にも見えた。
「頼む、謝らないでよ。寧ろ謝らなくちゃいけないのは私なんだ。
私、小傘の気持ちに気付いてた。でも、気付かないようにしてた。
……姐さん、居るでしょう? 姐さんがつい最近まで魔界に閉じ込められてたのは、知ってるよね?」
少し俯きながらも、私は頷いた。最近どころか、今日聞いた話だ。お昼ご飯の時に、船の人達の話を色々と聞いた中に、聖さんの過去の話を聞いた。そしてその絆に嫉妬しそうになったのだ。ほとほと私は嫌な奴だ。
「分かってる。こんなの言い訳にもならないことくらい。こんな最低な言い訳あり得ないって事くらい。でも聞いて欲しい。
ようやく全員揃ったんだ。何度夢見たか分からないくらい、この日々を待ってたんだ。なのに、さぁこれからって時に、私だけ恋愛をするのが良いのかどうか分からなくて」
なるたけ自然になるように、私は笑った。つもりだ。
「うん。一輪は優しいから。多分それで、間違ってないんだと思う」
「違う。間違ってる。そんなの、間違ってるのよ!」
いよいよ一輪の表情は険しくなり、窓の桟にかけた手に力が入っている事がありありと見てとれた。それはまるで先程までの自分を見ているようで、何故だか酷く哀しく見えた。
「謝らなくちゃならないのは私の方。小傘を拒絶しようと思えば、何時でも言えた。でも私は言わなかった。かと言って小傘の気持ちを受け入れる事も出来なかった。
最低で卑怯な奴だよ、私は。船の皆にも小傘にも、どっちにも嫌われない様に、中途半端な事ばっかりしてた。謝って済むとは思っていないけれど、でも、言わせて欲しい。
小傘、本当に、ごめん。ごめんなさい」
濁流の様に一気に語った一輪はそう言って歩を下げたかと思うと、突然頭を下げた。思わずそれに私は驚き、窓から顔を出した。
「い、一輪っ。やめてよ、一輪は何も悪くないのに!」
「本当に、ごめん。小傘、好きだ」
「一りっ……」
時が止まった、様に感じた。
頭を下げたまま、一輪が言葉を続ける。
「こんな時に言う事じゃないし、もう小傘は私の事なんかどうでも良くなったかもしれないけど。でも、もう自分に嘘はつかない。小傘、好きだよ」
「ほ、本当に?」
「人里で、私が姐さんに頭を下げてるのを見たでしょう。あれは別に小傘の事を謝ってたんじゃないよ。寧ろ逆。丁度私の部屋の隣に、空き部屋があるんだけどね? そこを小傘の部屋にしてあげたくて」
「え、え?」
「小傘と一緒に暮らしたい、そう姐さんにお願いしてたのよ。一緒にって言っても、二人じゃないけど。でも、今日みたいな日が続けば良い、そう思って」
足の力が抜けて、その場にぺたりと座りこんだ。慌てて一輪を呼ぶ。
「一輪、ちょっと」
「駄目、かな? そりゃ、そうか」
「一輪、ちょっと」
「あ、え?」
窓の外に見える様に、手を必死にバタバタと動かす。それにようやく一輪が気付いてくれたようだ。見上げるとそこには一輪の顔があった。
「な、何やってるの?」
「こ、腰が……」
「腰が?」
「腰が、抜けちゃって……立てない。手、引っ張って」
そんな私を見て、真一文字に結ばれた一輪の唇が、歪んだ。そして音が漏れた。
「ぷっ……ふふっ……」
「あ、ひ、酷い! 笑うなんて!」
「だ、だって……」
「だっては私の台詞だよ! 私だって一輪の事好きなのに、同じ事言われたから安心して腰が抜けちゃったんだもん!」
「そ、そっか、まだ私の事……え? 本当に?」
ぽかんとしながら一輪が手を差し伸べる。きっとほとんど無意識だったか、そうでなければ私の言葉に意識がいってしまったのか。私に手を握られても何の反応も無かった。そして私はある事を思いつく。そのまま立ち上がりながら、さらに目的地点を伸ばし、
「ずっと好きだからね!」
思い切り一輪を抱き締めた。壁が邪魔して首に手を回すくらいにしかならなかったものの、それで良かった。
その時、ふとある事に気が付く。
「一輪……服、濡れてる?」
「ああ、ここに来るまでにずっと走ってたから」
思えば一輪は私の家を知らない。昼に人里で私が逃げてからずっと、それこそ夜の今になるまで探してくれていたんだろう。そう思うと、本当に嬉しくてぎゅうと一輪をまた強く抱き締めたくなった。
「なかなか見付からなくてさ。ついさっきまでまるで違う場所を探してたんだけど、あいつが教えてくれたよ」
あいつ、と言うのは誰だろうか。私の頭の中にあの珍しい翼の持ち主が出てきたけれど、まさか違うだろう。何時だってあいつは気まぐれで妖怪の中の妖怪をいくような天邪鬼なのだから。
でも、まぁ。そんな気分になる事もあるのかもしれない。あいつの考えている事なんて、私には分からない。だから今は素直にそれを良かったと想う事にしよう。
「それで小傘、一つ相談があるんだけど」
「うん、なに?」
「今晩、泊めてくれないかな? 実は姐さんに、
“小傘さんと仲直りするまで、船に帰ってきてはなりません”
って怒られちゃってさ。せっかくだから、一緒に眠ろうかな、なんて」
「え、あ、え? いや、でも、いきなりそんな事言われても!」
咄嗟に一輪から離れる。両手をせわしなく動かし、急に出てきた汗を拭いながら弁明を続けた。
「やっぱり、嫌かな?」
一輪、さては分かっていて言っているのかな。
「あ、いや、そう言うわけじゃないけど! でも、私の家、電気点かないし! 布団一つしか無いし! ボロいし!」
「夜なんだから電気はいらないよ」
一輪が笑う。その笑い方は今までみた事がない、何と言うか、私をからかっている様な表情だった。実際、私をからかっているのだろう。あいつにも言われたけれど、どうして私がからかわれる側になるのだろうか。
やがて返す言葉が思いつかなくなり、つまりは一輪の言葉に頷くと言う事になり、気が付けば、
「はい、おやすみ」
私と一輪は隣同士で横になりながら、窓の外を見ていた。
先程までは気付かなかったものの、満天の星空の中に、昨日と同じく船がたゆたっている。月は下弦から有明へと向かっている頃だろうか。いずれにせよ、後数日で新月になろうとしている月の光は弱々しく、にも拘らず、くっきりと船の姿が見てとれた。まるで私と一輪に見つけて欲しいかのように。もしそうだとすれば、私は船に何を言えば良いのだろうか。言って言葉が届くとは思えないけれど、何かを言わないといけない気がした。
そして私は、ありがとう、と言おうとしてやめた。代わりに、
「おやすみなさい」
一輪の手を握りながら、そう言った。瞑った目に、もう嫌な光景は出てこない。出てくるのは、空に浮かぶ船だけだ。
一つころんと寝返りを打って、一輪の腕にしがみつく。眠りを妨げない様に、それでいて体温を逃がさない様に。今度こそ秋風が体に染みない様に。
この目を次に覚ました時には、一日中全てが私達共通の時間になるのだ。
そう出来る様に、明日の私がもっと良い子でいられる様に。
だから、おやすみ。今日は、おやすみ。
小傘×一輪とは珍しい。マイナーカプの話が多い神田たつきちさんならではの組み合わせ。
聖が良い性格してるw
神田さんの書くカップリングはいつも初々しい可愛さに溢れていて大好きです!
毎回新しい新天地を読めて最高です
どうしてこんなマイナーカプを綺麗に料理できるんですか!
お腹いっぱいです!
誤字ですよ~
傍若無尽→傍若無人
日本の箒→二本の箒
怒り出した?
>同乗する事
同情?
(違ってたらすいません…orz
ニヤニヤが止まりません!
一輪さんはちょっと堅物だけど良い娘なのでやっぱり幸せになるべきだと思います。
雲山君は……。ごめん、空気読んで二人の上空で待機。
なんだか、そんな歳でもないのに、わが子の成長を見守っているような、そんな気持ちになりました。
ラストでは、笑みを抑えることができず、いっそ泣きそうなほどに嬉しかったです。
神田さんの文章力(っていうのかな?)がとても上手なおかげでもあるのでしょう。
とにかくすばらしいお話でした。
あまり馴染みの無い一輪×小傘の話でしたが、楽しく読ませてもらいました。
そして聖とぬえのオマケ話もすごく良かったです。
私はひじぬえも大好きなので、ぜひともこの2人中心の作品もお願いします。
小傘と言ったらヘタレかお巫山戯キャラという先入観があったためか、
一人の女性として内面までしっかり書かれた作品に、最初違和感があったのですが、
それも読んでるあいだ引き込まれてしまい、気にならなくなりました。
心理描写が細かくて、感情移入できます。それだけにハッピーエンドでよかったです。