私、魂魄妖夢は未熟者だ。
桜。零れ桜達。
土色の細い梢から可憐な花弁が風もなく舞い落ちる。
それは静謐な雪が音を吸い取るように白玉楼の音を攫っていく。
残るは穏やかな午後の陽光と花びらと揺らめく花びらの影。
白玉楼は幽界の一角に居を構えており、
高名な詩人が臨終の間際に見た絢爛たる楼閣と同名に恥じぬ風光明媚の所である。
殊に桜の季節となれば筆舌に尽くしがたい絶景が広がる。
二百由旬に桜が綻び、天地が花弁に満ち満ちる。
そこに一陣の風が舞うのなら花吹雪が轟轟と吹きすさぶのだ。
立ち並ぶ木々。勝手気ままに爛漫と根を張る桜達だが、ある一角は一本の桜を除き一切が近づかない。
それはその一本の桜を恐れるかのように。
その桜の名は西行妖。
一際大きななりの癖に花はつけずに、茶色いひび割れた樹肌であるから何やら朽ちた亡骸を想起させる。
この桜こそが長命の冬と短命の春の首謀者である。
ある日のこと、書架を巡られていた幽々子様はとある書物を発見される。
そこには西行妖が何者かによって封印されていることが記述されており、
幽々子様は私に封印を解くために"春"を集めることを命じられる。
その意に従った私は幻想郷の春を掻き集めた。
春を奪われた自然は当然雪解けを迎えることも無く、地上は雪に閉ざされることとなる。
計画は順調に進み、あと僅かばかりの春で西行妖が花開くという段階で、
春が来ないことに腹を立てた巫女達に頓挫されられる憂き目を見る。
かくして幻想郷に春が戻った。
麗らかな春の一日でも私の心は迷っていた。
それは自らの未熟さに由来した。
常日頃、主の幽々子様から未熟である事をなじられるがこれ程までに歯がゆく思ったことはない。
先の騒動、即ち西行妖の復活の企みであるが、これを阻止されたこと。
加えて西行妖が妖怪桜であることを知らずに封印を解こうとしたこと。
この二重の失態が私の心に暗く影を差していた。
魂魄家は代々幽々子様にお仕えしてきた一族である。
先代の従者、魂魄妖忌、私のお祖父様が白玉楼を去り私がその役目を継ぐことになった。
未だ修行中の身であったため、剣、心構え、その他諸々。
何もかもが未熟であったがそれを盾に今回の失態を許してもらおうと考えるのは罷り成らぬことである。
今回は運良く大事に成らずに済んだが、もし幽々子様に何かあれば代々の魂魄家従者に申し訳が立たない。
腰に携えた二振りの刀。楼観剣と白楼剣。
いずれも市井に喧伝される名刀、妖刀に劣らぬ一品である。
歴代の魂魄の剣士に受け継がれてきた、この二振りを振るう力量はあるのだろうか。
果たして自分如きが幽々子様をお守りできるのだろうか。
そのようなことが胸中で去来し、その度に柄を強く握りしめた。
春霞に陽光は遮られ、鍔は暗い鈍色であった。
「妖夢、お茶とお菓子のお代わりはまだかしら」
「はい、只今お持ちします」
引き伸ばされた冬のせいか足早に春が去っていこうとした。
そんな短命の季節を味わおうと連日そこここで宴は催されている。
こたびの茶会もその趣旨に乗っ取ったものである。
白玉楼の一隅には茶室がある。
こざっぱりとしているが、左右から覆いかぶさるように滝桜が押し寄るために寂寥であることはない。
「相変わらずに幽々子は食べるわね。花より団子は貴方のための言葉よね」
「酷いわ紫。折角のお菓子ですもの。存分に味合わなくては勿体無いわ」
長閑な暖かい縁側で幽々子様とご親友の紫様は仲睦まじくお喋りをされている。
「そう仰るのであれば紫様は春眠暁を覚えずでしょうに。毎年起こす身にもなって下さいよ」
側には私と式神の藍様が控えて、時折お二人の話に加わらせて頂く。
「お待たせしました。お代わりになります」
「ありがとう妖夢。あらこんなところに美味しそうなお餅が……」
「むう、それは私の半霊ですよ。食べたらお腹壊しますよ」
穏やかな春陽が梢から零れて地に斑を描く。
「以津真天……。以津真天……」
「以津真天……。以津真天……」
声は唐突に聞こえた。
か細い、ともすれば聞き逃す程の、しかし聞き捨てるにはあまりにも底冷えする声が夜のさざ波のように響いてくる。
そして肌を刺す濃密な殺意。
この白玉楼には数多の幽霊がいるがいずれも温厚であり、このような剣呑たる気配を有してはいない。
急いで私は庭先に飛び出てお二人をお守りしようとする。
幽々子様と紫様は室内へと逃げ込み、側には藍様が付き従い符を手にする。
「何奴ッ! 姿を現せッ!」
柄に手を掛け、じっと構える。
耳の奥で血潮がざわめく。鼓動が高鳴り、一拍毎に緊張が強まる。
「以津真天……。以津真天……」
「以津真天……。以津真天……」
再び声。
先程より一層暗澹と、陰々滅々たる声はあちこちから聞こえてくる。
肌がチリチリと焦げ付くような視線を隠すこと無くこちらに向けている。
桜は変わらないというのに満開の花弁を血みどろと錯覚してしまう。
「姿を現せッ! ここが白玉楼と知っての狼藉かッ!」
不吉なものを切り捨てるように私は叫ぶ。
果たして影より零れてきたのは無数の亡霊。
幽霊と亡霊はその性質が著しく異なる。
幽霊とは森羅万象に宿る霊魂であり、死すれば必ず幽霊に至るのに対し、
亡霊は強い怨念故に死しても尚、その感情に縛られる者たちである。
亡霊たちは墓地より這い出ててきたかの如く、屍蝋めいて不気味なほど白い。
幽霊が煩悩を捨て去った清浄な白であるなら、
亡霊たちのそれは沸騰して吹きこぼれんとする感情の汚泥である。
一様にその容貌には苦悶の表情が張り付いている。
「憎いィィィ……」
「怨めしい……。怨めしい……」
「寒いんだ……。寒いんだよォォォ……」
どれもこれもが恨み言を吐き捨てる。
亡霊は一様に危険である。
妬み嫉みを晴らすためであるなら、誰であろうとも容赦はしない。
人一人恨み殺すことなど造作も無い。
ましてこれ程の大所帯、如何に幽々子様や紫様といえども剣呑極まる事態である。
「亡霊よ去れ。ここは貴様らが居て良い場所ではない。
輪廻の果てに涅槃へと至りたいのであれば、その荒ぶる心を静めろ」
大人しく去るのであるなら良し。いかに醜悪に成り果てようとも無闇矢鱈に切り捨てるつもりは無い。
そんなどこか間抜けな部分が心に居座っていたのだろう。
「西行寺の娘だ……」
「忌ま忌ましい一族……。許さまじ……」
「ああ……。返せよォ……。俺の体ァァァ……」
その呪詛を聞いた時、私は刹那といえども放心した。
幽霊は生前の強い憎悪を原動力にさ迷い、その感情を雪ぐためには相手を選ばない。
私はてっきり亡霊たちの感情、渦巻く憎悪、が戦か飢饉の何らかの災いによって生まれ、
絢爛たる桜の下で生を謳歌する我々を妬んでいるのだと考えた。
しかし先の亡霊の発言は幽々子様に対する紛れもない憎悪であった。
亡霊たちは尚増え続け、夥しい憎悪が茶室を覆わんとしている。
これ程までの亡霊に幽々子様は何故恨まれねばならないのか?
私にはその理由が皆目見当がつかない。
「以津真天……。以津真天……」
「以津真天……。以津真天……」
尚も怨嗟の声を上げ続ける亡霊ども。
問答は止めだ。今は眼前の敵を注視する。
獣が飛びかかる前の撓む独特な震えが亡霊に現れる。
楼観剣の鯉口を切り、迫る決闘に備える。
張り詰めた弓の弦のような緊張が全身を駆け巡る。
柄の菱目の硬さを感じながら、固唾を呑む。
一陣の風が桜並木から通り抜けた。
瞬間、亡霊どもは津波のように茶室へ、幽々子様へと押し寄せる。
地を埋め尽くす亡霊で一面、白に染まる。
私はぐっと腰を落とす。
深く呼気を繰り返し、その度に熱く血が滾り私の隅々にまで行き渡る。
鼓動は荒ぶり、丹田には気が横溢する。
事情は寸分も分からない。果たして亡霊どもを駆り立てるものは何なのか。
それでもおいそれと貴様らを進ませる程、魂魄妖夢は呆けてはいない。
白色の呪詛が雪崩れ込む。
刹那、一筋の閃光が走る。後からやって来る快い風音。
剣風に巻き込まれ桜の花弁が舞い上がる。
振り切った楼観剣には一切の淀みは無く、鋭い光輝を発する。
ようやく己が斬られたことに気がついたのか、最前線をひた走る亡霊が断末魔を上げ霧散する。
「妖怪が鍛えた楼観剣。その冴えを駄賃に彼岸へと渡ってもらう」
亡霊どもの津波は途切れ、散り散りになりながらも殺意は衰えない。
上段に構え、未だ怨恨濃い相貌を浮かべる亡霊たちと対峙する。
仲間を切り捨てられても亡霊たちは退くことを知らない。
またも突貫を試みる亡霊。
うねりを上げて押し寄せる亡霊どもへ私も又駆ける。
再び閃光が走る。
渾身を込めて振り抜くということはしない。猛然と迫る亡霊の白い霊魂に刃を向けるだけ。
それだけで楼観剣は白い身体をするりと斬り捨てる。
目まぐるしく体捌し、次々と斬り捨てその度に銀光を瞬かせ、激流を疾走する。
戦風がびゅうびゅうと吹きすさび、私は一陣の旋風と成る。
間もなく最後の一匹を過たず切り捨てる。
「幽々子様、紫様。お怪我はございませんか?」
直ぐ様振り向きお二人の安否を気遣う。
藍様が大丈夫であることを目配せして伝えられるがその顔色は硬い。
茶室の奥には蹲り目尻に涙を溜めた幽々子様と幽々子様の震える肩を抱きしめる紫様。
その痛ましい光景に抜き身の刀を手にしたまま、ただ呆然とする。
戦風に巻き込まれたのだろう。茶室を覆う桜の花弁は皆浚われ、後は細い茶色の枝だけであった。
剣戟の音がする。
木剣の打ち合う高い快い音が波紋のように響き渡る。
清廉な陽を受けて葉桜は斑に影を落とす。
小さな魚影のような影を踏みしめる二人の剣士。
その姿は対称的だ。
片や女、片や男。
片や幼子。片や老人。
在りし日の白玉楼にて魂魄妖夢と魂魄妖忌は打ち合っていた。
未だ妖忌が頓悟せずに西行寺幽々子の従者であった頃である。
そして妖夢がまだ未熟であることを許された時でもあった。
このころ妖夢はようやく裳着(もぎ)を済ませたばかりであり、いまだ甘え盛りである。
そんな彼女に妖忌は剣を教える事以外無かった。
頭を撫でてやる代わりに檄を飛ばす。
可愛らしいめかしをさせるわけ無く青痣を与える。
その尋常ならざる行為に白玉楼の住人は一様に苦言を呈した。
ある使用人などは妖忌の主人たる幽々子に直接申し立てたほどである。
すると幽々子はやや困った顔をして
「妖忌は不器用な人だから。きっと可愛がりたいと思っているのよ。でもそうは出来ないの。不器用だから」
と言うだけで、妖忌には何一つ咎められることは無かった。
妖夢はこの祖父の修行に泣き言を言わずに従ってきた。
連日の修行の為、両の手の平の薄く柔らかい皮がべろりと丸々剥けてしまったことがある。
赤々とした肉から血が滲み、微かに触れただけで激しい痛みが苛んだ。
それでも妖夢は嗚咽が出そうになる度に自らの腕にがぶりと噛み付き、これを耐えた。
果たしてこの孫娘と祖父をこのような苛烈な修行に至らしめたのは何であったのか。
妖忌にとって己の技全てを受け渡すことが唯一の愛情と信じてたやもしれぬし、
それを授かるのが孝行の手段であると考えていた、いじらしさが妖夢にあったかもしれない。
妖夢が正眼に構える。
切っ先の向こうには構えること無く泰然自若たる様子の妖忌。
既に老齢に至るが細身ながらも抜き身の刀を思わせる佇まい。
ゆらりとした着流しから漂う気配は並大抵では無く、攻めあぐねる妖夢。
じりじりと万力のように圧が空気に掛かっていく。
耐えきれず飛び出し一直線に妖忌へと進む。
剣先が妖忌を捉える範囲に踏み込んだ瞬間に放たれる逆袈裟斬り。
更にその斬撃に隠れて短刀を突き出す。
息もつかせぬ連撃はしかし妖忌をかすること無く虚空を斬る。
その無防備な腹を振り上げるよう放たれる拳。
真芯に強烈な一撃を見舞われ浮かび上がる妖夢。
受け身を取れず地面に激突し、二度三度跳ね上がる。
「妖夢、立て」
慈悲の言葉をかけずに酷薄な声色で命令する妖忌。
もんどりを打ちながらも立ち上がろうとするが途中反吐を吐く妖夢。
「立て」
再び声。底冷えとする声色。
妖夢は幾度反吐を堪えようやく立ち上がる。
その視線の先には先程と変わらぬ師の姿。
長く激流に削られた巌の如き顔には冷厳が居座っており気色は伺えない。
妖忌は問う。
「何故お前の剣は儂に当たらぬ」
「私の剣が遅いからです。お祖父様の剣のように早ければ敵はおりません」
「たわけ。早ければ良いならばそこらの妖怪に振らせた方が余程早い。妖夢よ。敵を斬る前にまず己の内にある敵を斬れ。意より速き剣を謳った剣客は山ほどいたが、儂はそれを全て切り捨ててきた。意を除き速きものは無い。意からすれば稲光も牛歩に等しきものだ。だからこそ意を征せ。意を以てして敵を斬れ。努々忘れるな。お前が意を征さぬ限り、なまくらの剣しか振るえぬことを」
「ならばどうすれば意を征することが出来るのでしょうか」
「迷いが意を曇らせる。曇った意が切っ先を霞ませる。迷いこそが剣をなまらせる」
この海千山千の老人は続けて問う。
「妖夢、何故我らは剣を振るわねばならない」
「剣を修めることで白玉楼を、幽々子様を、そして多くを守れるからです」
この妖夢の答えに妖忌はカカッと笑った。
「ほう、剣とは活人に至る道とな。これは異なことを言う。であるなら合戦は極楽か? 老いも若きも男も女も遮二無二に剣を振るうことが至福か?儂がお前に教え込んだものはそれほど有難みのあるものか?そんな出鱈目があるものか。お前に教え込んだものは所詮殺人術に過ぎんわ。肉を断ち、骨を断ち、命を断つ。正真正銘の修羅の技だ。大方、どこかの本に書かれていたのを盗み見た言葉だろう。こまっしゃくれるな」
あまりにも無骨な答えに妖夢はたじろぐ。
妖忌はずいと一歩にでて自分の手を孫娘の頭へと乗せた。
節くれだつ枝のような手で不器用に動かすものであるから、
撫でるというよりは押さえつける格好になってしまう。
それでも妖夢はこの祖父の挙措がたまらなく嬉しい。
「妖夢、ゆくゆくはお前も白玉楼をお守りする役目を仰せつかるだろう。敵を斬ることをあろう。その時は心で敵を斬れ。曇りなき心で、全てを承知した上でなければならぬ」
その言葉の真意を僅かでも妖夢は理解していただろうか。
今はただ為すがままに頭をもみくちゃにされている。
それは昔日の話。未熟であることが許された頃。
葉桜の鮮やかな色がつややかに光っていた。
幸福な幕間は突如として閉じてしまい、私はがばりと布団を跳ね除けた。
しばしぼんやりと辺りを見渡す。
見慣れた机と本棚と箪笥。後は何も無い。
我が部屋ながら殺風景なものだな、とまだ本調子でない頭が思う。
寝ぼけ眼でつい先程の夢を思い浮かべる。
あれはまだお祖父様がいらした頃の一幕だ。
あの頃は連日連夜お祖父様から厳しい修行を受けたものだ。
同い年の女の子とは到底比べ物にならない程にどこかしこに手傷を負っていた。
身体も筋張っていて、何だか野獣の子が思い浮かんでやけに恥ずかしかった思い出がある。
今はそこそこに成長して、同世代の女の子と遊んでも不恰好にはならないはずだ。
それでも心は変わってないのだなと思う。
昔はお祖父様がいた。
迷うことも許されたし、間違えても厳しいながらも指導をしてくれた。
幸せな時代であったのだろう。
今はお祖父様はいない。
未熟なまま、ただ私は途方にくれる童と変わりはしない。
私は未だお祖父様の言葉を理解出来ずにいる。
亡霊の件より既に三日が過ぎた。
幽々子様はいまだ体調は優れない。
幽々子様は亡霊でいらっしゃるがそれは先日襲い掛かってきた、呪い撒き散らす亡霊と異なり、
温厚な気性の持ち主である。
幽々子様は生前の記憶を無くされている。
平素は別段それを気にされることもないが、時折物憂げに沈み、過去のご自身を想起される。
それは決まって、桜がまだ小さな可愛らしい蕾を着け始め、梅雨の生暖かい雨が花弁を浚うまででの間である。
たまに幾棟もある蔵から古文書を取り寄せては熱心に調べられている。
西行妖の復活の又、ご自身の過去に何らかの関連があるのではないか、という淡い期待が込められていたのだろう。
試みは全て失敗し、結局手掛りを得られることもなく、全ては忘却の彼方へと。
だからこそであろう。
幽々子様に害をなそうした亡霊どもの絶叫じみた言葉が一際強烈であったのだ。
誰も彼もが幽々子様への憤怒で満たされていた。
身に覚えのない激怒に晒されること、それは即ち生前の幽々子様の所行をまざまざを知らしめることである。
一様に幽々子様に吐き捨てる呪詛は鬼気迫り、幽々子様と亡霊との並々ならぬ因縁を漂わせ、
そして幽々子様の生前に剣呑たるものが横たわることの証左であるのだ。
待ち焦がれた記憶が実は血生臭い瘴気を放っているとしたら。
幽々子様の悲しみは計り知れない。
こんな今だからこそ何とかして幽々子様を元気付けたいが、生憎と功を奏さない。
しかし幸いなことに紫様と藍様が逗留されることになり、幽々子様を慰めになられている。
幽々子様と紫様は昔からのご友人同士であり、気心も知れるのだろう。
やはり自分に出来ることはないのであろうか。
ともすれば沸き上がってくる陰鬱な気持ちを抑え、
私は寝間着を脱ぎ、乱暴に着替え、まだ闇が残る廊下を渡り厨房へと向かった。
「妖夢、いつもありがとう」
朝餉が終わり縁側で佇まれていた幽々子様がそう仰た際に、
私はどう答えたら良いか分からずに呆然とするよりなかった。
「西行妖の時もそう。良く働いてくれましたね。思えば少しごたついてあなたにお礼を言うことも忘れてしまったわ」
「幽々子様、私はあなたの従者でございます。日頃の未熟を責められこそすれ、お褒めの言葉は勿体無くあります」
そうは答えたものの私は戸惑いを隠せなかった。
幽々子様は先の亡霊騒ぎでやはりお疲れになっているのだ。
春の麗らかな美景を見つめられる幽々子様の頬は青白く、ほつれた髪の幾筋がそれに沿っている。
「幽々子様、ご安心下さい。必ずや私がお守り致します」
未熟者の言葉など誰が信用できるのか、その言葉はただの音となって遠くへ消えていく。
四半刻が沈黙で埋め尽くされただろうか。
幽々子様がポツリポツリと語り出す。
「ねえ妖夢、もしも、もしもよ。罪を償うことが出来るとしたらそれがどんな事でも償うべきかしら。私の生前の記憶はありません。ですがそれを理由に生前は消えません。私に憎悪を振りまいたあの亡霊たち。正しくあれが私の罪なのでしょう。一つ一つに深い怨念が刻み込まれた相貌の亡霊が。でもね、どうすれば私はあの罪に許しを乞うことができるでしょうか。その冷ややかな魂に私はどう報いればよいのでしょう。屍肉を烏に貪れる骸のように私も彼らの憤怒を受けるべきなのかしら。妖夢、私分からないの。ねえどうすれば良いのかしら」
幽々子様はじっと私を見つめられる。
瞳は濃く長い睫毛が縁取り、その黒目には私の姿が映る。
どうしたか訳か、その姿が幼き頃の、夢の私の姿を写したかと思えば、
瞼が閉ざされ一筋の涙が頬を流れた。
私はどう申し上げれば良いのだろうか。
ただ私は涙ぐむ幽々子様の肩を抱き寄せ、
「亡霊は私が斬り捨てます。だから幽々子様はご安心下さい」
と申し上げたが、幽々子様は私の胸に埋めるとシャツを涙で濡らされた。
押さえ込んだ嗚咽がやけに耳に残った。
「幽々子を泣かしてくれましたわね」
幽々子様が泣き止まれた後に気まずく去り、
逃げるように白玉楼を小用を見つけては慌しく歩き回っていた。
ある角を曲がると声がして扇子が目の前に突き出された。
袖口で口元を隠された紫様であった。
琥珀色の瞳にはいつもなら胡散臭さが漂っているのだが、どうやら今はそれも薄れてしまったようだ。
「未熟者ねえ、うちのも大概だと思うのですけど、幽々子も大変ね」
大方先程のやり取りを盗み見たのだろう。
主の痛切な嘆きを僅かでも晴らせぬ従者など笑い種もいいところだ。
しかしそんな私をなじるよりかは幽々子様のお側に居らした方がいいのではないか。
自身のことを棚に上げ沸々と怒りが込み上げてくる。
「でしたら紫様はこんな未熟者になどかまけられておらずに、幽々子様と居らした方がよろしいのでは」
慇懃無礼にそう吐き捨てる。
従者として主のご友人にこのような物言いはご法度極まるものであるが、
自身のもどかしさが自制を忘れさせる。
思えば幽々子様と紫様の付き合いはさぞ長いのであろう。
私が物心が付くか付くまいかという年頃には既にお二人が睦まじくお喋りをされていたのを覚えているし、
私が生まれるお祖父様の代からずっと知己であったと聞く。
ならば私のような者よりも、紫様のような親密な間柄の方に任せたほうが良いのではないだろうか。
思えば思うほど幽々子様の側にいるのは自分ではないような気がしてくる。
「あら怖い怖い。なまくらといえども剣を振るわれたら恐ろしい」
「どういう意味でしょうか、紫様」
その言葉に毒が含まれていることぐらいは私にも分かる。
紫様は恐ろしいお方だ。
それは妖怪としての力ではなく、心の深淵を覗き込み平素隠している本性を引きずりだすあの物言いである。
一言二言、短い言葉を放つや否や、ちくりと心に毒を刺す。
気づけば苦しみ呻きながら、心が嘔吐する。奥底に沈んでいる本性を吐き出されるのである。
そして自身の本性といやが上にもまざまざと見せ付けられることになる。
それを知っていて尚、私は紫様に食らい付く。
そして当然の如く、私は毒をくらう。
「ねえ、先の亡霊の正体に当たりが付くかしら。あんな多くの亡霊が呼び寄せられたのですから、さぞ幽々子に恨みがあるのでしょうね。でもおかしくはないかしら。だってそんな恨みつらみがあるのならさっさと幽々子の所に行けば良いのに。亡霊が怖じ気づくことを見たことはお有りかしら。私も長く生きておりましたがそんな亡霊一度たりとも見たことはございません。では何故今まで亡霊が幽々子を襲わなかったのか。いえ、襲えなかったのか。つい最近まで厳重に封印されていたものがあったでしょう。誰かさんが血眼になって封印を解きたかったものに、それだけではなく他のものも封印されていたとしたら。死へと誘う妖怪桜、西行妖。その忌まわしい花弁に吸い取られた命は果たして如何ほどか。ならばこそ、それに付き纏う亡霊もそれは夥しいものになるでしょう。西行妖の封印が解かれることはありませんでした。それでも西行妖によって命奪われた不憫な骸の亡霊が解かれたとするならば……。西行妖と"何らかの"関係がある幽々子を見つけたとなれば……。幽々子だって愚物じゃありませんわ。きっと亡霊どもは西行妖と、そして幽々子の生前にただならぬ関係があるくらい察しているわ。そして幽々子はひたすらに考えているわ。どうすれば罪を償えるか。事情も碌に分からず、それでも尚怒れる亡霊を静めようとしようと。可哀想な子よ。まず自分が辛いでしょうに。そんな事すら察することが出来ないのは、なまくらの剣ぐらいじゃなくって。それを未熟者と呼ばずして何と呼びましょうか」
紫様の糾弾は私の芯を打ち砕いた。
辛うじて形を持ちこたえていたものが粉砕されてしまったのだ。
「本当なら少しあなたに少し教えておきたいことがありましたの。私と幽々子は長い付き合いですから、幽々子が知らない幽々子のことをあなたにお教えしようかと。でも気が変わりましたわ。これ程の腑抜けだとは。見所があると思ったのですが私の早とちりでしたわ。では御機嫌よう」
紫様はそう仰ると霞のように去ってしまわれた。
残ったのは蹲り、必死に嗚咽を答える愚か者。
私は馬鹿だ! 大馬鹿者だ!
私は幽々子様が生前に良からぬ事と因縁があったこと、ただそれだけに心悩ましている。
おぞましい亡霊の恐怖に慄かれていると考えていたのだ。
しかし実際はそんな亡霊にどうすればあがなうことが出来るかを考えておられたのだ。
定かではない己の生前の罪に健気に心を痛めて。
幽々子様の繊細なお気持ちをどうして汲んでやれることが出来なかったのだろうか。
長い間、そのままひたすらに私を罵倒し続けた。
握りしめた拳から血が止めどなく流れる。
一枚の桜の花弁が血溜まりに落ち、赤黒く染まった。
幽々子様に初めてお会いしたのは私が六、七歳の時、春だったと記憶している。
その頃はお祖父様からの修行が始まったばかりであり、
慣れぬ木剣の握りしめて私の手は血マメがいくつもでき、潰れ、悲惨な有様であった。
その日も型をやり終え、新しく出来た血マメに顔をしかめながら軟膏を塗りたくっていた。
何故このように苦しまねばならぬのだろうか、自身の役目を理解できずに愚痴を零していたのがやけに印象が強い。
春といえども午後の日差しは強い、木陰で休む私はウトウトと知らず眠りこけていた。
眠っていたとはいえどこか意識は醒めているもので、薫る風に一際芳しいのを捉えた時私はハッと起きた。
幹に寄りかかっていて寝ていたのに、目覚めれば仰向けに寝かされている。
庭先であるから寝具など有りはしないのにやけに心地良い。
霞む眼が晴天の美月を捉えると、私は人生というものに対する真理を悟った。
それはたゆたう人生において標となる、ある起点めいたものへの確信である。
私が月と見間違えたのは幽々子様のお顔であった。
美しい白い肌にうっすらとした微笑を浮かべ、匂い立つような気品が感じられる。
当時は幽々子様の名前すら知らずにいたのだが、私が剣を振るうとなればこのお方の為であると茫漠と、
しかしはっきりとした力強さで信じた。
私は幽々子様に膝枕をして頂きながら眠りこけていたのだ。
そんな夢心地から醒めると直ぐ様体を起し、拙く丁重に礼を申し上げた。
幽々子様は幼子の似合わぬことが面白かったのか、クスクスと笑われる。
私は恥ずかしくなり、赤面し顔を伏せる。
そんな子供の恥ずかしさに心を痛まれたのか、スッと腰を落とされ私の背丈と合わせられる幽々子様。
白魚の指で私のおとがいをそっと持ち上げられる。
「私は西行寺幽々子と申します。あなたのお名前は?」
「こ、魂魄妖夢です……」
深い艶やかな瞳に覗かれ、私は阿呆のように答える。
幽々子様は私を抱え上げると膝に抱き、私の為にお話をして下さった。
それは私が知るどんな物語よりも美しく、情緒豊かに紡がれる。
雲雀のさえずりに誘われ、私は再び夢へと微睡んだ。
これが私と幽々子様の初めての出会いである。
その後も時折お祖父様の目を盗んでは幽々子様の所へと赴き、「幽々子お姉ちゃん」とせがんでは遊んで頂いた。
子供の時分、私は人見知りな気質であった。
初対面は勿論、普通ならば気兼ねなく話が出来るほどの時間が流れても、
私は俯き、ぼそぼそと二言三言ささやくほどであった。
しかし何故だか幽々子様に限りそんな事はなく、年相応の無邪気さで幽々子様に甘えていた。
それは如何なる理由か、幼い私は深く考えることもせずに幽々子様の優しさに惹かれると思っていた。
それを知ることになるのはお祖父様が白玉楼を去ってからである。
その頃には私は幽々子様の従者となり、昔みたく「幽々子お姉ちゃん」と呼べる間柄ではなくなっていた。
子供のある種の無垢な愛し方(ただ自己の愛をぶつけ、同等の愛が帰ってくると確信するあの傲慢な愛だ)も無くなり
、そっと忍ばせる影に隠れた思慕を覚え、ただひたすらに幽々子様のお世話をさせて頂いた。
ある日、私は小用の為、夜半を過ぎ静寂が降り積もる縁側を歩いていた。
私が板張りの床を踏みしめる度にギシギシと鳴り、静かな夜を引き裂いていく。
しかし波濤のように沈黙が押し寄せ、音を拭い去り、再び夜は静寂に満たされた。
そんな静かな夜であった。
白玉楼の広大な枯山水庭園の望める廊下を渡っていた時である、何気なく庭を見れば庭全体が白く浮かび上がる。
枯山水の白砂は月光を浴びて美しく照り返す。他には何も無い。
ただ白色の大地が仄かに瞬き、寂寞が広がるだけである。
その中央に幽々子様が佇んでおられた。
白く冴えたお顔に桜色の髪がなびきかかっている。
柔らかな線を描いて茫然と佇立され、瞳を伏して虚空を見つめられる。
「美しいお方……」
こぼれ出た言葉こそ幽々子様に魅せられ続けた理由であった。
幽々子様は花である。
野原を埋め尽くす鮮やかな花ではない。幽玄に咲く孤独な、ひどく美しい花である。
誰もそれを愛でることも手折ることも能わず、花は孤独に咲き続ける。
私はその美しさに魅せられたのだ。初めて出会った日から今までずっと。惹かれ続けていたのだ。
そして願ったのだ。せめてお側にいられることを。
私は幽々子様をお守りすることが自身に課せられた役目であると確信した。
白玉楼の一角には優麗とは異なる赴きの道場がある。
簡素でありながら無骨な屋台骨をむき出しにして、
質実剛健を絵に描いた道場は長年魂魄家や使用人が武道の修練でざわめかしていた。
しかし今は私がただ一人仮想敵と切り結んでいる。
木剣が虚空を斬る。
仮想敵がのた打ち回るのを尻目に更なる敵へと斬りかかる。
息もつかせぬ速さで次々と斬り伏せていく。
木剣が振るわれる度に顔中に張り付いた汗が飛沫となり散っていく。
袈裟斬りからのなぎ払い、突きへと連続して繰り出す。
渾身を込めて振り下ろし、最後の一つを打ち倒す。
勢いそのまま倒れこみどかりと寝転がる。
新鮮な空気を求めて獣のように激しく呼吸を繰り返す。
紫様の叱責から何とか立ち上がった私はこの道場へと赴いた。
後はひたすらに仮想敵と切り結んでいた。
午後から開始したが今はもうとっぷりと日が暮れて、採光窓からは望月が中天にかかっているのが伺える。
通常の修練とは常軌を逸したこれはもはや八つ当たりに過ぎない。
散り散りなった心を心頭滅却の境地へと至らんとするために木剣を振り回していたが、
一向に効果は得られず、ましてや神聖な道場を私利私欲に用いたことに情けなくなってくる。
振りきれば振りきる程、剣先は鈍り霞んでいく。
果て無き泥中を進むような心持ちで、迷いの無い晴れ晴れとする一閃が求めるが無為であった。
「幽々子様の従者には相応しくない」
そんな言葉が何度も繰り返し私を苛み続けた。
どれほどそうしていたのか。
火照っていた身体がすっかり冷え切ってしまい、汗を吸った服が張り付く不快感がある。
流石にこれには耐えきれずに汗を拭こうと上体を起すと、
「はあい、少しは頭が冷えましたかしら」
という声とタオルが飛び込んできた。
視界を覆う布を払いとると、上半身だけの紫様がいらっしゃった。
空間の境界を操作され、スキマと呼ばれる狭間から乗り出した紫様は私の半霊に器用に乗りかかっている。
「それ……私の半霊です……」
叱責のこともあり憮然としながら指摘する。
「あら失敬」
そう仰るとするりとスキマから這い出て、半月のスキマの上に座られる。
「それで我武者羅に剣を振るい得られることはございましたか」
平素のように胡散さと微笑をない交ぜにして紫様は問う。
「私は未熟者です。私が幽々子様に出来ることなどありはしません。幽々子様のお側にいる資格など無いのです」
とどの詰まりはそうなのだ。
私が幽々子様の側にいることを私が望んでいるだけであり、幽々子様はそれを必要とされてはいない。
私が無様な剣を振り回す度に幽々子様は剣風で傷つかれる。
そうであるならお側にいる必要はない。
傷つけてしまうのなら、悲しませてしまうのなら、側にいるべきではないのだ。
そう考えていると、
「たわけ」
と短く一蹴された。
「そもそもあなたに幽々子の悲しみを癒すことを誰が求めました?あなたのような幼い者がそのように考えるのは傲慢ですわ。幽々子の悲しみは幽々子が癒さねばなりません。それが如何に残酷であろうとも。あなたが出来るのは共に悲しみに浸ること。共に泣くこと。共に生きること。そして幽々子を守ること。受け継いだ楼観剣と白楼剣はその為に」
「守る……守るですか……。それが出来ないからこそ私は……」
何が出来るというのだろうか、何を成せるというのだろうか。
何も出来ないというのに、何も成せないというのに。
私には何も分からない。果たして斬り捨てるべきは敵は誰なのか。
襲いかかる亡霊ですら幽々子様は受け入れようとされる。
ならば亡霊を斬ることは正しいことであるのか。
私には分からない。
「あなたは少々勘違いされている。未熟な土壌が花を育てられぬように、未熟な信念しか持たないあなたは幽々子を守れやしない。あなたは覚悟が足りない」
風が舞う。
私と紫様の間をスッと足早に通り抜けていく。
その風に運ばれてきたのだろう、まだ芽を着けたばかりの葉桜の青々しい香りが漂う。
何故か懐かしいと感じる。あの昔日の、お祖父様がいらっしゃたあの時代の香りがする。
「善も悪も一切合切を承知して斬るという覚悟。例えそれが道理に背いていたとしてもそれを押し通す覚悟。有象無象の迷いを断ち斬る覚悟が」
ようやく合点がいった。お祖父様の言葉の意味が。
お祖父様が何故迷いを捨てれたのかが。
つまりは背負ったのだ、ありとあらゆる悪行を。
幽々子様を攻め立てるありとあらゆるものから守るために。
それは卑怯なことだ。
どれほど道理が向こうにあり、どれほど罪がこちらにあろうとも、それを無視してただ斬り捨てる。
きっと一振りする度に心が鮮血を流す修羅の道だ。
それでも幽々子様の悲しまれるのが嫌だから、涙を流されるのが嫌だから。
ただ一人、お慕いする人が守りたいから。
我武者羅に剣を振るい続ける覚悟がそこにある。
「おじいちゃん……おじいちゃん……」
ただ嬉しくて。あの無骨な手を、不器用な撫で方を思い出して。
一筋の涙がそっと零れた。
顎から滴り落ちた涙は風に浚われ霧散した。
後は私が、魂魄妖夢がいた。
事態は唐突であった。
肌を刺すような殺気とむせ返る憎悪を隠すこともなく漂わせた者がいるのを感じた。
この気配には覚えがある。
紫様もおおよそは検討がつくらしく、目を合わせるや否や、
「大方、先日の意趣返しといった所でしょうね。しかも今度は大勢で。いやねしつこい亡霊は」
と顔を伏せられて頭を振り、困惑した様子を表した。
私は直ぐ様、側に置いてある楼観剣、白楼剣を手に取り、腰に差す。
再びあの亡霊が現れたというのであるなら幽々子様が危ない。
幽々子様をお守りせんと道場を飛び出そうとする私を紫様が止めた。
「ねえ妖夢、あなた幽々子を守るつもりなのね」
それは紫様の問であった。多くを含んだ問だ。
どこまでも真剣に、どこまでも真摯に見定める声色が存在した。
「はい、私は幽々子様をお守りします」
私は未熟者だ。それでも幽々子様をお守りたい。
例え未熟な剣しか振るえなくとも、未熟な心しか持たなくとも。
それでもこの気持ちはまやかしじゃない。未熟な私の持つ唯一はこれだから。
迷いはもう無い。
毅然と紫様に答える。
一礼して去ろうとするのを再び紫様が呼び止める。
「少々お待ちくださいな、こちらの方が近道ですわ」
紫様が指を鳴らすと、油を垂らしたように歪む景色が飛び込んでくる。
果たして境目が解きほぐれ混沌を呈した時、音もなくスキマが生じていた。
スキマの中では極彩色が跳梁している。
「ささ、近道ですわ」
紫様は一層胡散臭い笑みを湛えて、私にスキマへと飛び込むことを勧めてくる。
「うっ……」
いきなりの申し出に鼻白むがここは時間が惜しい。
怯える心を静め、なんとか決心をつける。
気を確かに、一目散にスキマへと走りだす。
紫様はすれ違いざま、
「昼の事は訂正するわ。真っ直ぐで素直で。とても素敵よあなた」
と小声で私に仰った。
返事をする間もなく私はスキマへ飛び込んだ。
後はただ幽々子様の元へと推参するのみである。
幽々子は予感があった。
それはこんな春の夜に起こる。
深く深く沈んでしまった何かが戻るかのように泡立ち、知らず知らずに胸がざわめく。
見えぬ糸を辿るが如く迷うこと無く歩む。
覆いかぶさる桜の道を抜け開けた場所に出る。
終端は西行妖であった。
西行妖の大樹を恐れるかのように他の木々は立ち寄らない。
だからこそ、その威容は際立ち、辺りは静謐な墓場を思わせた。
そう墓場である。だからこそ彼らがいることは極々自然なことだ。
それは男である。それは女である。
それは赤子である。それは老人である。
それは人である。それは畜生である。
それは地獄そのものである。
それは西行妖によって死した者たちである。
桁外れに多い亡霊どもが西行妖の辺りを漂うために満開を思わせる。
その一つ一つが激怒に震え、それらが折り重なり地響きのようである。
幽々子は知らない。何ゆえ彼らが死に至ったかを。
それでもその怒気が全て自分に注がれているのであるから、
生前の自身との繋がりを、おそらく血と憎悪が横たわる繋がりを漂わせた。
幽々子は彼らを哀れであると思う。
彼らとて望んで成った訳ではなかろう。温かな血が通う幸福な時代があったはずだ。
それでも理不尽に奪われてしまったのだ。
だからこそ幽々子はその荒ぶりを癒してやりたいと考えた。
それが如何なる事であるかも承知した上で。
「以津真天……。以津真天……」
「以津真天……。以津真天……」
亡霊が囁き、重なっていく。
十が一に、百が一に、千が一に。
結合を繰り返し、ひたすらに巨大になっていく。
それは幽々子への、西行妖への白色の怨嗟であった。
肥大していく度に形態を大きく変じていく。
鋭く剣先のような爪。屍肉を啄む嘴。白く虚無を見据える瞳。夜天より尚黒い翼。小山ほどの体躯。
それは古より伝えられる怪鳥そのものであった。
咆哮を上げる怪鳥。轟音が木々を震わせる。
叫びは呪いとなり、草木は朽ちていく。
怪鳥はようやく見つけた怨敵に狂喜し、いななく。
その度に無慈悲な呪いは幽々子を傷つけた。
「飽きたらぬ、それではまったく飽きたらぬ……」
怪鳥のそこかしこから声が聞こえ、更なる凶行を望む。
赤黒い奇形の嘴を幽々子へと狙いを定める。
その嘴に突き刺されたのであるなら幽々子といえども絶命は免れない。
怪鳥が傷のような笑みを浮かべ、幽々子へと突進する。
嘴が月光に浴び、禍々しく輝く。
しかし激震を轟かせる怪鳥の前進が、
「生憎だがそのお人にこれ以上近づくのは止めてもらおう。お前達は少々無骨だ。近づきたくば花蝶になって出直して来い」
月夜を突き破った剣士によって遮られた。
天より躍り出た剣士は手にした剣で怪鳥の首を斬り落とす。
頭を失った怪鳥は二歩、三歩駆けた後に勢い良く倒れこむ。
着地した剣士は直ぐ様、幽々子の側へと駆け寄り、怪鳥と対峙する。
美しい刃紋を浮かび上がらせた楼観剣を掲げ、
鋼色の瞳には決意を宿し、
凛とした振る舞いで、
西行寺幽々子の従者、魂魄妖夢が立つ。
幽々子様へと襲いかかる怪鳥を見つけるや否や、切り捨てた。
茶室の時より随分と変わった敵を見据える。
首を斬り落としたが絶命には程遠いようだ。
怪鳥は痙攣を繰り返し、新たな頭が生えつつある。
「幽々子様、ここは危険です。どうか安全な所へとお逃げください」
「妖夢……、どうして……どうして私を……」
「幽々子様……」
振り向けば幽々子様は呆然とされていた。
その瞳には涙。
「私は彼らに酷い事をしたのかもしれないのよ。それなのにあなたに守られる資格なんて……」
ああ、また幽々子様を泣かせてしまった。
私はやっぱり未熟者だ。
お祖父様なら、紫様なら、他の人ならもっとうまくできるかもしれない。
誰も傷つかず、誰も悲しまない、そんな方法があるのかもしれない。
「幽々子様、これは私の我侭なんです。やっぱり幽々子様に傷ついてほしくないんです。幽々子様は大切なお人だから」
そう我侭なことだ。
誰かを幸福に守るために、誰かを犠牲にすることは。
きっと幽々子様のお気持ちも悩ますだろう。
それでも幽々子様には幸せでいて欲しい。
随分と自分勝手な言い分だ。
その癖、撤回する気なんてないから救いがたい。
「悲しいじゃありませんか、死してもそんな辛い目に会わなければならないなんて。笑ってください。いつものように暢気に」
幽々子様は花だ、美しい花だ。だけどそれは孤独な花だ。
ひっそりと誰にも知られず静かに綻び、散るそんな寂寥の美しさだ。
だからいつか咲いて欲しい。
燦々と照らす陽光の下、幸せに多くの花と共に。
「申し訳ございません、卑怯なことを申してしまいました。でも私は幽々子様の従者なのです。たとえ千の敵を斬り捨てても幽々子様には笑っていただきたいのです」
その言葉こそが魂魄妖夢の覚悟であるから。
「妖夢、あなたを傷つけてしまうわ」
「構いません」
「泣かせてしまいますわ」
「元から泣き虫ですから」
「罪で汚れてしまうわ」
「幽々子様を悲しませるよりずっとましです」
膝を屈し頭を垂れ、臣下の礼を取る。
これは誓いだ。迷わぬよう、惑わぬよう、幽々子様をお守りする誓いだ。
どれほどの罪に塗れようとも、どれほどの痛みが苛んでも。
幽々子様をお守りするため。
だから、
「幽々子様、私はあなたをお慕いしております」
愛しき人よ、泣かないでください。
「分かりました。妖夢。ですが私もあなたの主。あなたの罪も私が背負います。だからお願い。いつか許されるその日まで私を守って。そして共に生きて」
傅く私に覆いかぶさる幽々子様。
滂沱と流される涙が乾いた大地を湿らせる。
「……御意」
幽々子様の温かな涙が零れ、私の頬へとかかる。
涙は直ぐに流れ、後は温もりだけが残った。
「以津真天……。以津真天……」
「以津真天……。以津真天……」
再生を終えたのか、新たな頭をこしらえて怪鳥は呪いを囁きながら立ち上がろうとする。
斬りつけられて激怒する怪鳥は全身を張り詰める。
もう幾ばくも猶予はない。
臨界点を迎えれば後は剣風が吹き荒れるだけだ。
「幽々子様、早くお逃げください」
「でも妖夢、あなたは……」
「ご安心下さい。必ずやあなた様の元に戻りますから」
精一杯の力を込めて微笑む。
幽々子様は沈痛な表情を浮かべられ、しばしの逡巡の果てに
「待っています。必ず帰ってきなさい」
と言い残し、母屋の方へと走って行かれた。
その後ろ姿が夜闇に消えるまでじっと見守った。
もう大丈夫だ。心配することはもう無い。
後は敵を斬り捨てるのみ。
怪鳥は去りゆく幽々子様を追い縋ろうとするが、
途中、獲物を携え殺気を迸らせる私を認めるとその矛先を私へと向けた。
楼観剣を下段に構え、来る一瞬に備える。
刃紋が場の緊張に冴え、不気味なほどの光沢を湛える。
対する怪鳥は白く煮凝る瞳をこちらに向け、鼻息荒く見据える。
骸めいた西行妖と夜天に穿たれた月を背に私と怪鳥は対峙する。
二つの闘気が渦となり、戦場を包み込む。
断末魔の絶叫を上げ怪鳥は突撃してくる。
地の兵法家は知らぬ。これ程の化物と如何に死合えばいいのか。
彼らに伝わる定石の一切が奴には通じぬ。
微傷さえも容易く彼らの命を刈り取っていく。
では術はないのか。否。
ここは幽界。刮目せよ。
この此岸と彼岸の狭間にて天地を絶する剣技を知れ。
荒ぶる怪鳥が間合いへと入る。
彼我の差、十尋。それで充分だ。
貴様らが怨恨の果ての亡霊ならば。此処が死臭逆巻く修羅場ならば。
斬魔の剣で調伏するのは道理。
紫電一閃。
旋風となった私が怪鳥の背後で楼観剣を振り終える。
神速を以てして駆けるのであるのなら二百由旬も一尺に等しい。
あまねく全てが私の間合い。
四方八方の現の世の全てを斬り伏せる。即ち現世斬。
一瞬の遅れ、怪鳥が絶叫を上げ夜を震撼させた。
腹から尾部までを横一文字に斬り裂かれ、そこから血飛沫の代わりに霊魂が零れる。
それでも闘志を衰えさせず、振り向きざま翼をはためかせ刃のような羽を放つ。
羽の一つ一つが亡霊であり、毒蛇の動きで私に喰らいつこうとする。
満腔の怨念を浮かべ、うねりを上げ押し寄せる亡霊ども。
その白色の怒涛に私は前へと駆ける。
躱せるものは屈み、飛び越え、躱せぬものはするりと斬り捨てる。
死骸と悲鳴を置き去りにし、ただ疾駆する。
振り下ろされる鉤爪を峰で受け止め火花が上がる。
耳側を大顎が通り過ぎ背筋が泡立つ。
戦風が吹き荒れ、それに触れたのならば忽ち細切れにされてしまう。
それを否とするなら自らもまた戦風となるより無い。
荒ぶりは高鳴り、剣風は激しく、血肉が濃霧となる。
死に物狂いで弾幕を掻い潜れば、絶好の機会を伺っていた怪鳥が嘴を突き落とす。
轟雷が激突した如く天地が揺れる。
大木の幹のような嘴は直撃はおろか、かするだけで容易く四肢を砕く。
怪鳥の嘴は確かに私を貫いた。
しかしそれは幻影。私に偽装した半霊にすぎない。
半霊は霞となりて消えてゆく。
怪鳥は辺りを睥睨し私を見つけんとするが立ち込める土煙がそれを許さない。
嘆きのように一陣の突風が吹きつける。
土埃が去っていき、やって来たのは桜吹雪。
月光を浴び、麗しく舞う花弁。
果たして風光明美の帳の向こうに怪鳥は魂魄の真髄をみるだろう。
私は楼観剣と白楼剣の双剣を構える。
しかしこれでは足りぬ。
怪鳥を構成する亡霊は膨大であり、如何に斬りつけようとも征するには至らない。
故にこの妖怪が鍛えし楼観剣と白楼剣、一斬りすれば十匹殺し、
二斬りすれば二十匹殺し、ならば無尽の剣戟を以てして怪鳥を滅する。
半霊が再び私を模す。
五つの半霊と私の都合六つの剣士が怪鳥を取り囲む。
魂魄家は代々半人半霊の家系である。
生者でなく、死者でない我々のみ振るえる秘剣が存在する。
極限まで練り上げた霊魂と共に、生死の極限の果てにて凄絶なる剣法へと変貌する。
そして今、六根清浄斬が此処に顕現する。
怪鳥へと疾駆する。
眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根。その全てを断ち斬る。
六つより放たれた斬撃は寸分違わず重なり、一つの奔流と化す。
剣風に巻き込まれた桜の花弁が微塵となる。
渾身を込めた一閃が怪鳥を斬る。
刹那の間隙。
再び一陣の風が吹き怪鳥を崩していった。
柔らかな風が去ると後は虚無が残った。
戦いは終わった。
思い出したように呼吸を繰り返す。
狂ったように鼓動が脈打ち、意識が明滅するのを必死に抑える。
私は楼観剣と白楼剣を収めると、姿勢を正し一礼した。
「来世で幸せになって下さい」
あまりにも卑怯な物言いであることは自覚している。
それでも願わくば幸せに生きて欲しい。
そう思っていると膝が地についた。
死闘によって根こそぎ体力が果てたのだろう。
どうしようかと悩む間もなく意識を失った。
西行妖に風が吹く。
吹き荒れていた剣戟の熱は失せ、再び静寂の夜へと戻ろうとしていた。
果たしていつからいたのであろうか、八雲紫がそこに立つ。
死骸のような西行妖を見上げる瞳には如何なる感情を宿すのか。
深い琥珀色の瞳からは窺い知ることは出来ない。
紫は事態の顛末を把握している。
何ゆえ亡霊が幽々子を襲うのか、あの忌まわしき宿業すらも熟知している。
事態の終息を望むのであれば、より迅速に成せたはずだ。
彼女にはそれだけの力がある。
それでも彼女はただ傍観者であり続けた。
それは自身が幽々子を守るべきではないと考えたからだ。
守り手は他にいる。
側で倒れる銀髪の少女へと眼を向ける。
先程の戦いが嘘のように穏やかな顔つきをしている。
紫は妖夢を抱きかかえる。
従者であるならば幽々子を守ってもらわなくてはならぬ。
確かに妖夢は敵を打ち倒した。しかしこれで終わりではない。
これから先、幾度も戦場を駆け抜けなくてはならない。
ましてや意識を失っていては及第点をやる訳にはならない。
妖夢と幽々子の前途多難を予見し、知らず紫に苦笑が浮かぶ。
それでも今は安らかに。
「頑張りなさいな、未熟者さん」
謀略家の紫らしからぬ純情な祈りであった。
陽光が白玉楼を照りつけている。
満開の桜は緑したたる葉桜へと装いが変えていた。
その影の下で陽気に騒ぐ人妖がいた。
老若男女、皆盃を手に飲めや歌えやの大盤振る舞い。
私はその酒精と乱痴気の嵐に巻き込まていた。
事は少し前にさかのぼる。
怪鳥を打ち倒したものの、そのまま倒れてしまった私を紫様が母屋へと運んで下さり、
私は三日間も眠りこけて過ごしていた。
しかし夢から醒めると幽々子様の説教が待っていた。
なにせ格好をつけてこの様である。
ここぞとばかりに普段の私の心構えから始まりこんこんと説教を頂き、
そんな様子に紫様が茶々を入れるから余計混迷を極め、要はしこたま怒られた。
そして私に対する恨み辛みを全て吐き出した幽々子様は舌の根も乾かぬ内に宴会を催すと仰た。
こうして今に至るのだが、なにせ今年の春が短いのは私達の責任でもあるので茶化されるわ、
からかわれるわ、果ては強い酒を飲ませられるわで散々であった。
隙を見て辛くも逃げ出し、人影のまばらな木陰で休める。
薫る風からは爽やかな初夏が感じられる。
幹に背を預ければ酩酊が誘い、うつらうつらと夢現を味わう。
そうして私は美月を捉える。
かつて幽々子様とお会いした時をまるきり取り出してきたように、
幽々子様は座られ、その膝に私の頭が載せられる。
意識がハッキリとしてくるがそのままでいる。
遠く騒がしい歓声がやけに心地良い。
流れる穏やかな気配。
「ねえ妖夢、私の従者でいてくれるかしら」
「はい、何時までもお側におります」
梢から零れた光が私達を照らした。
春霞がかき消されて、後は二人がいた。
私、魂魄妖夢は未熟者だ。
それでも私は幽々子様の従者である。
面白く見ました
ケケケケケケケケケケ