「私が、ゆゆこさまに傘を差してさしあげます!」
妖夢がそう言って聞かないものだから、私はその言葉を受け入れることにした。
和傘を手渡すと、妖夢は喜々としてそれを開き、私の頭上へと差し向ける。少しでも私の役に立てることが、心底嬉しいみたいだった。
しかし、2人が充分に入れる大きさのこの和傘は、かなり重量がある。妖忌に鍛えられているとは言え、幼い妖夢にいつまでも持たせておくのは酷だろう。ましてや、妖夢の背丈は私の胸元までしかないのだ。妖夢からすれば、腕を常に真っ直ぐ伸ばし、傘を高く掲げ上げていなければならない。
だから私は、適当な所で傘を持つ手を替わってやるつもりで歩いているのだった。
私はゆっくりと、妖夢の小さな歩幅に合わせるように歩みを進める。
ただの散歩だから、急ぐ必要もない。妖夢の差す傘に守られながら、私はのんびりとした気分で散歩を楽しんでいた。
「ゆゆこさま、ぬれてはいないですか?」
「大丈夫よ」
上目遣いに訊ねる、純真な瞳。それは、かすかな胸の痛みさえも覚えてしまうくらいに真っ直ぐだった。
その真っ直ぐさはまさに、愚直と言うに相応しいのかも知れない。けれど、そのひたむきな様子を見ていれば、愚かなどという言葉を使うことは私には出来なかった。
妖夢は、私に雨が当たっていないかを気にするように、時折こちらに視線を向けてくる。そのたびに大丈夫よと微笑んでやるのだが、それでも妖夢はこちらに気を回すことをやめなかった。
それはすなわち、自身の足元に注意が向いていないことと同義だった。
「妖夢、足元に気を付けなさい」
地面がぬかるんでいるうえに、重い和傘を持ちながらずっと不安定な姿勢で歩いているのだ。加えてよそ見までしていたら、いつ転んでしまってもおかしくはなかった。
「私はだいじょうぶです!」
にぱっと、夏のお日様みたいな笑顔を私に向ける。雨降りの日には余りに不釣合いな眩しさだった。
そうやって、私のことを心から慕ってくれるのはとても嬉しく思う。思うけれど、その前にもう少し自分自身の周りをちゃんと見て欲しい。
ほら、妖夢の歩く先に大きなぬかるみが。
「妖夢、前を見なさい」
「えっ?」
何のことですか? と無邪気な表情で首をかしげる。
そんなことをしていたからだろう。前に向き直るのが僅かに遅れてしまう。その1歩分の間が、命取りだった。
「わっ!」
ぬかるみに踏み込んだ妖夢の右足が、前に滑る。不意のことに、妖夢は身体のバランスを取ることが出来ない。傘を手放し、そのまま泥の上に尻餅をついてしまう――直前で、私はどうにかその腕を掴まえることが出来た。間一髪である。
妖夢には可哀想だが、転倒を想定しておいて良かったと思う。
妖夢は呆然としたままで、自身の身に何が起こったのか、すぐには理解出来ていない様子だった。足元を見て、私の顔を見て、そして最後に私に支えられている腕を見る。そこでやっと、我に返ったようだった。
「も、もうしわけございません!」
それは、そのまま泥の上で土下座でもしてしまいそうな勢いだった。
慌てて自らの足で立ち上がろうとするが、足はぬかるみに踏み入ったまま。またしても滑ってしまう。
「落ち着きなさい」
なおも足をバタつかせる妖夢だったが、私が冷静に注意するとようやく大人しくなる。掴まえていたその腕を持ち上げてやって、妖夢はどうにか両の足で立ち上がることが出来た。
無事に地に足が着いて、妖夢はほっと一安心する。しかしそれも一瞬のことで、すぐさまその表情に影が落ちる。
「もうしわけ、ございません……」
苦しそうな表情で、改めて謝罪の言葉を口にする妖夢。今度は、消え入りそうなくらいに声がしぼんでいた。
不注意だったとは言え、別に私は怒ってなどいない。妖忌ならば一喝している場面かも知れないが、元々は私のためにしてくれたことが始まりだったので、責める気など起こりもしなかった。
だからそんなに申し訳なさそうにしなくてもいいのだけれど、生来より生真面目な妖夢は、必要以上に自分を責めてしまう。それは、妖夢が何か失敗をするたびに繰り返されて来たことだった。
だから逆に、こういう時はどうすれば良いかも私は分かっていた。
「別にいいわよ。でも、これからは気を付けなさいね」
「……はい」
諭すように言ってその頭を撫でてやると、強張った表情が少しだけ和らいでゆく。妖夢は大人しく、私の好意を受け止めていた。
こんな風にいい子をしてやると、素直に嬉しそうにしてくれる。それは、妖夢が子供らしいありのままの表情を見せてくれる数少ないひとときだった。妖忌の厳しい修行を受けて来たとは言え、この子はまだまだ幼いのだということを、あらためて実感させられる。
妖忌からすれば、私は甘いのかも知れない。
けれど、別に妖忌に合わせる必要もない。私は私のやりたいように妖夢と接しているだけなのだから。
そうして妖夢のおかっぱ頭に触れたことで、互いに雨に濡れていたことに今更ながら気付く。
私は落ちていた傘を拾い、妖夢の頭上にかざしてやる。さすがにもう、妖夢に持たせてやることは出来なかった。
「あ……」
雨音に紛れて聞こえた、妖夢の声。
恐らく今になって初めて、傘を手放していたことに気付いたのだろう。そして、私を雨に濡れされてしまったことにも。
妖夢はもはや言葉を発することが出来ず、ただ悔しそうに唇を噛むばかりだった。
結局自分は何も出来ていない――そんな風に思っていることが、手に取るように分かる。
「今日は、もう戻りましょうか」
出来るだけ優しく言ったつもりだったが、返事はなく、かすかに頷くのみだった。もしくは、ただ俯いてしまっただけかも知れない。
私はゆっくりと、その小さな背中を撫でてやる。けれど、今にも泣きそうなその表情が晴れてくれることはなかった。
*
「……なぁんてことがあったの、妖夢は憶えてる?」
「憶えてません」
「あらあら」
私は毅然として突っぱねたが、幽々子様はどこか含んだような笑みをたたえたままだった。
本当は、私だってちゃんと憶えている。幽々子様はどうせ、そのこともお見通しなのだろう。なのだけれど、そんな恥ずかしい過去の話を持ち出されては、私としては全力で否定したくもなる。相変わらず、幽々子様は私をからかうのがお好きなようだった。
何故そんな昔話になったかと言えば、今まさに、その時と同じ状況を迎えているからだった。
と言っても転んだ訳ではなく、あくまで幽々子様と雨の中を並んで歩いているだけに過ぎない。もちろん、傘は私が差している。
少なくともあの頃よりは背も伸びているし、筋力だってついている。傘を持つことなど何の苦労もない。今更あんな恥ずかしい失態は犯すまい。
「あの時の泣きそうな妖夢の顔を、私はよーく憶えてるのにねぇ」
「幽々子様、その記憶とやらを切ってしまってもよろしいですか?」
「いいわよー切っても。ほらほら」
ころころと笑いながら頭をこちらに差し出す幽々子様。もはや何を言っても、幽々子様の掌の上から抜けられそうになかった。
まあ、何をどうしようが幽々子様に丸め込まれてしまうのはいつものことなのだけれど。
「でも、懐かしいわねぇ。妖夢がちっちゃかった頃」
幽々子様は微笑みを浮かべたまま、霧雨に霞む遠くの空を見やる。
私のちっちゃかった頃――当たり前だけれども、そんな頃の記憶など、ほとんどが夢のように曖昧だった。
だから、どんな些細なことでもちゃっかり憶えているだろう幽々子様は、私にとってはある意味恐怖の対象である。
その細められた瞳の向こうには、私のどんな――恐らくは恥ずかしい――姿が映っているのだろう。
「妖忌にどやされて、私に泣き付いて来たりとか」
それはきっと、何度となくやっている。
恥ずかしいことではあるけれど、私も憶えていることなので反論は出来ない。修行中のお師匠様が、それだけ厳しく怖かったのだから。
「そんなことがあった夜なんか、妖忌に内緒で私の寝床に潜り込んで来たりとかもしてたわねぇ」
そんなことは……確かにあった。
その頃の幽々子様は、普通に優しかった。きっと、今とはまた違った意味で私を子供扱いしていたのだろう。だから当時の私は、けっこう幽々子様に甘えていたところがあった。
ただ、それ以上のことは何もなかったはずだ。
「で、そんな時、私にすがりながら寝言で『おかあさん……』とか言ったり」
「ちょ!」
何を言うのだ幽々子様は。
「さすがにそれはありません!」
「あらそうかしら?」
「ないったらないです!」
いや、前の2つはともかくこれは絶対にない。
しかしいくら否定しても、幽々子様は私をからかうような笑みを絶やすことはなかった。
「……嘘、ですよね?」
臆病な聞き方になってしまったのが、我ながら情けない。
それでも幽々子様は何も言わず、袖で口元を隠しながら妖しく微笑むばかり。その表情からは肯定も否定も読み取れなかった。
何と言うか、ずるい。これでは私も逃げ道がないではないか。
「さあ、ね」
結局、うやむやにされた。
私としてはあくまで否定したいのだけれども、このままこの話が流れてくれるならそれでも良かった。そもそも寝言であるのなら、私は真偽を語りようがないのだから。
「でもまあ私としては、あの雨の日のことを妖夢が憶えてないことの方が残念ねぇ」
幽々子様が話題を戻す。本当は憶えているけれど、今更そうとは言いづらかった。
「あの話には続きがあるんだけど、それも妖夢は憶えてないんでしょうねぇ……」
何も言えずに私が黙っていると、幽々子様は聞こえよがしに言う。けれど咎めている風ではなく、どちらかと言えば私を試しているように思えた。
私はそっと、幽々子様の表情を窺い見る。
そこには私をからかうような笑みはなく、ただただ、柔らかく微笑みを浮かべる幽々子様がいた。それは、不思議と懐かしさを感じさせるような表情だった。
思い出をなぞるように、幽々子様はとうとうと語り始める。
雨は、相変わらずしとしとと静かな音色を奏でていて。
記憶の向こう側にある景色でも、同じように雨は降り続いているのだろう。
*
雨が降っていた。
秋の長雨とはよく言ったもので、ここしばらくはぐずついた日が続いている。
時には晴れ間を見せて欲しいと思うのだが、残念ながら今日もそんな気まぐれは起きてくれなかった。
私は日に1回、散歩に出ることにしている。よほどの悪天候でない限りは欠かすことのない、日々の習慣となっていた。
今日もそのつもりで戸口まで来たは良いのだけれど、さて、どうしたものかと思う。
傍らには、無言で立ち尽くす妖夢。
従者としてここまでついては来たものの、昨日の失敗を思えば、傘を持ちますなどとは言い出せない――そんなところだろう。
「妖夢も、一緒に来る?」
「……はい」
そう助け舟を出してやると、俯き加減の表情に少しだけ明るさが差す。
口には出さないけれど、それで良いのよと私は思う。無理な背伸びなんてすることはない。私のために尽くしてくれようとするその気持ちだけで、十分なのだから。
私は傘を広げ、妖夢をその中へと招き入れる。すると妖夢は、身体を密着させるように私に寄り添って来た。そして甘えるように、頭をちょっとだけ私の方へと寄せて来る。
立場をわきまえてか、普段の妖夢はあまり身体を触れさせて来ることはない。でもこういう時だけは、雨を言い訳にして、私にくっ付いて来るのだった。
そのことを指摘してしまえばきっと、従者としてあるべき距離を取ってしまうだろう。けれど、そんな妖夢がとても微笑ましいので、私はそのままにしてやることにした。
さらさらと、静やかな雨が降り注ぐ中を、私たちは並んで歩く。
雨音というのは不思議なもので、無音の時よりも、よりいっそう静寂というものを感じさせてくれる。
会話はなくとも、こうやって一緒に歩いているだけでも私は満足だった。
やがて、昨日妖夢が転びそうになった場所に差し掛かる。
ちらりとその横顔を窺い見ると、やはりと言うべきか、妖夢は少し悔しそうにその場所を凝視していた。
「……ほんとうは、お師匠さまがしてたみたいに、私が傘を持ってさしあげたいんです」
正面を向いたまま、妖夢が独り言のようにつぶやく。この子は、私のために何かしていないと気が済まないのだろうか。まあ、問うまでもなくそうなのだろう。
妖夢が言うように、雨の日は、妖忌が私に傘を差していた。そして妖夢は、小さな傘を持って私や妖忌に寄り添う。それが、かつての私たちの姿だった。修行中を除けば、妖忌は孫想いの優しいおじいちゃんだったし、私にとっては頼りになる従者だった。
けれど、妖忌はもういない。全ては、幼き妖夢に託されてしまったのだから。
だから妖夢が、いついかなる時も妖忌の代わりを務めようとするのはよく分かる。けれどやはり、まずは己の身の丈を理解するべきだろう。
ただ、それをどう伝えたら良いのか、少々悩ましいところだった。
「そんなに、無理しなくていいのよ。貴方はまだ小さいんだから」
「でも、ゆゆこさまをお守りするのが私の仕事なんです。小さいも大きいもありません」
妖夢は、そうやって子ども扱いされることが不服であるように唇を尖らせる。
「でも、今の自分に何が出来て、何が出来ないかを知るのも大事なことよ」
「……」
俯き加減になって黙ってしまう。
妖夢は恐らく、必死になって今の自分に出来ることを探しているだろう。けれど、幼い妖夢に出来ることは決して多くはない。
私がそれで構わないと思っていても、妖夢自身がそれを是としないことは明らかだった。
少々酷だっただろうか。
「私って、なんにもできないですよね……」
「……」
今度は、こちらが黙ってしまう番だった。私は思考を巡らせて、どうしてやろうかと考える。
何かしらの答えを提示するのは簡単だろう。けれども、手を差し伸べてやるのはもう少し待ってみる。今の妖夢がどういう答えを見い出すのか、見てみたかった。拗ねたり困ったりしている妖夢も可愛いことだし……というのは、あくまでおまけである。
止まない雨の中を、私たちは黙ったままゆっくりと歩く。妖夢は必死になって、私に伝えるべき言葉を頭の中でひとつひとつ繋いでいるようだった。
「お師匠さまと比べたら、まだまだ何もできないですけど……、でも、お師匠さまを目標にがんばっていれば、いつかはお師匠さまみたいになれるかな、って思ってます」
お師匠さまみたいに――それは、ことあるごとに妖夢の口から発せられる言葉だった。
妖夢にとって妖忌は、いつまでも“お師匠さま”なのだろう。たとえ、修行半ばで突然いなくなってしまったのだとしても。
妖忌も罪なものである。こんなに可愛い孫を放ってどこかへ消えてしまうのだから。
「……私は、ゆゆこさまの傘になりたいんです」
妖夢の言葉を心の中で噛み締めていると、不意にそんな声が聞こえた。傍らの妖夢が、こちらを見上げながら真剣な面持ちで想いを伝えようとしている。
「私の傘に?」
「はい。雨の日はこの和傘みたいに、晴れの日は日傘みたいになって、ゆゆこさまをお守りしたいのです」
こちらを向いてそう告白する妖夢は、ちょっと照れたような表情をしていた。けれど、それ以上に嬉しそうだった。どうやら、本当に伝えたかった言葉はこちららしい。
「お師匠さまをお手本にしていれば、いつかそんな風になれるかな、って思ってます」
真っ直ぐな瞳。迷いなく、私のために尽くそうとする気持ちがそのまま伝わってくる。
本当に、健気な子である。
それはある意味で、妖夢の幼さがそうさせているのかも知れない。
本当にそうなれるのかとか、何年くらいかかるのかとかを一切勘案しない、ただただそう在りたいという意志だけが妖夢を後押ししているのだから。
もちろん、妖夢もいつまでも幼い訳でもない。
けれど、そんなひたむきな姿をいつまでも見ていたいと私は思うのだった。
妖夢の気持ちは受け取った。後は、私がそれに応えてやる番だった。
「そうね、妖夢も頑張れば、妖忌みたいになれるかもね」
「はい」
「ただ、今の貴方が100年200年頑張っても、妖忌にはまだまだ敵わないわね」
「……そう、ですよね」
希望に満ちていた妖夢の表情に影が差し、また俯いてしまう。もちろん、妖夢のやる気を削ぎたくてそんなことを言った訳ではなかった。
「でも、今でも妖夢の方が勝ってるところが、一つだけあるわね」
「えっ?」
驚いたようにこちらを向く。そんなところが一つでもあるとは思っていなかったらしい。
私はにっこりと妖夢に笑いかける。そして、思いのままを伝えてやることにした。
「そうやって、私のために尽くそうとする、前向きな心よ。少なくともそれだけは、貴方は妖忌よりもずっとずっと強く持ってるわ。
だから、もっと胸を張りなさい」
妖夢はぽかんとして私の顔を見ている。私の言葉がすぐには呑み込めていないみたいだった。私が妖夢を真っ直ぐに褒めるのは滅多にないことで、意外に思ったのかも知れない。
けれど、それも少しだけのことだった。
間もなく、妖夢の顔に笑顔が広がってゆく。まるで、つぼみが花開くみたいにゆっくりと、そして確かに。
「はい。ありがとう、ございます……」
はにかみながらそう答える妖夢の頬は、ほんのりと朱に染まっていた。
こんなに嬉しそうにしてくれたのだ。珍しくも褒めてやって、良かったと思う。
ただ、妖忌をダシにしてしまったことには、心の中でちょっとだけ謝っておく。一応悪気はない。
けれど、少なくとも私は嘘は言っていない。
妖夢が常に、私のために前向きに頑張っているのに対して、妖忌はどこか後ろを向いているようなところがあった。
もちろん、私を守ることに後ろ向きだった訳ではない。どちらかと言えば、自分自身に対して後ろ向きだった。後悔とか自責の念とか、どこか悟ったような妖忌の瞳に、時折そんな影が差すのを私は幾度か目にしている。理由は知る由もない。
ただ、それを妖夢に言ってしまう必要はないだろう。
妖夢にはただひたすらに、前を見ていて欲しいのだから。
「じゃあ、はい」
私はそう言って、手に持っていた傘を妖夢に差し出す。不意のことに、妖夢は私に疑問の目を向けた。
昨日のことを思えば、戸惑ってしまうのも仕方のないことだろう。でも私は、さっきの妖夢の告白を少しでも叶えさせてやりたかった。
もちろん、最初から無理をさせることはしない。子供の手を引くように、少しずつ前に進めさせれば良いのだから。
「大丈夫よ」
微笑みながらそれだけを言うと、妖夢も笑顔を浮かべて頷いた。
傘を受け取ると、妖夢は小さな手で柄をぎゅっと握る。昨日のように離したりはしまいと、小さくても健気な意志がそこには込められていた。
「今日も、少しの間だけ、私のために傘になって頂戴」
「はいっ、ゆゆこさま!」
満面の笑みを浮かべて、妖夢は元気いっぱいに返事をする。雨降りの中でも良く通る、突き抜ける青空のような清々しい声だった。
その瞳は真っ直ぐ前を見据えていて、私の傘になれていることへの嬉しさで満たされているのだった。
*
「なぁんてことがあったのも、忘れちゃったのかしらねー」
「……」
思わず、言葉に詰まる。私は、こちらを向く幽々子様と目を合わせることが出来なかった。
もちろん、そんな出来事があったこともちゃんと憶えている。雨の中転びそうになったことと、傘になりたいと告白したことの二つは、私の中ではひとつながりの思い出として仕舞われているのだから。
むしろ私の中では、転びそうになったことよりも、翌日の告白の方が気恥ずかしい思い出だった。
ただ、さっきはつい強い口調で憶えてないと言ってしまったのだけれど、いくら恥ずかしかろうと、それと同じことは今回は出来なかった。今の話を否定してしまえば、あの告白をした過去の私をも否定してしまうのだから。
幽々子様の視線を感じる。それでも、私は何も言うことが出来なかった。
沈黙はもはや、それ自体が意味を持つ返事だった。けれど、主に対してそんな返事は失礼極まりない。
もう、白状するしかないだろう。
「憶えて、いますよ。ちゃんと」
「あらあら、本当に?」
幽々子様が驚いたような顔をする。でも、どこかわざとらしい。やっぱり、私がちゃんと憶えていることはお見通しなのだ。
「幽々子様が私のことを褒めて下さった、とてもとても貴重で思い出深い日でしたからね」
「あらあら、それじゃあ普段の私が妖夢をいじめてるみたいじゃない」
「違うのですか?」
「違わないわよぉ。これも愛の鞭よ。妖夢がちゃあんと私の傘になってくれるように、鍛えてあげてるのよ」
そのことを言われてしまうと、私はうまく返事をすることが出来なかった。
考えてみれば、とても恥ずかしい告白をしたものだと改めて思う。幼かったが故に成し得たことで、今ではそんなこと口に出して言えるはずもない。私とて、成長すればそれなりにすれてしまうのだから。
けれど、その頃の思いだけは今も変わっていない。
果たして今の私は、幽々子様の傘たり得ているのだろうか。私は自らに問い掛ける。
幽々子様に降ろうとする雨粒を多少なりとも防げているが、まだまだ頼りない傘だ。
敵わない相手も少なくないだろう。それでも、一日一日を積み上げてゆく中で、私は確かに成長しているのだ。
まだまだお師匠様には遠く及ばないけれども、一歩を踏み出すたびに、その背中に近付けているはずである。私は己の生が続く限り、この歩みを止めるつもりはないのだった。
そう決意を新たにした時だった。不意に、私の頭に何かが触れる感触がした。
「幽々子様?」
気が付くと、幽々子様がぽんぽんと、私の髪を撫でてくれていた。強くはなく、それでいてしっかりと私に触れようとするような、絶妙な力加減。そう言えば、幼かった頃は時々こうしていい子をしてくれてたなと思い出す。
今となっては何だか気恥ずかしいけれど、私はその手を心地良く受け止めていた。
いつからか、幽々子様がこんな風に頭を撫でてくれることはなくなっていた。きっと、もはやその必要がなくなったからだろう。
見上げるように、幽々子様のお顔に目を向ける。
頭を撫でてくれる時、幽々子様はとても穏やかな表情を向けて下さる。ふわりと微笑む様子は、どこか懐かしさが込み上げて来るような表情で――。
不意に、その表情が記憶の中のそれと重なる。私は突き上げられるように、昔のことを思い出していた。
私の頭へと伸びる手。白くて、指の先までとても綺麗で、私はそんな幽々子様の手に憧れを抱いていた。
そして、その手でいい子をしてくれるのが、私は大好きだったのだ。
髪に触れる感触、頭のてっぺんからゆっくりと後ろに下りてゆく動き、――そして、そうしてくれる時の幽々子様の柔らかな表情。そのどれもが、昔そうしてくれた時と全く同じだった。
あの頃から今に至るまで、ずっと変わることなく、私は幽々子様に優しく見守られている。そのことを、私は胸に染み入るように実感するのだった。
思いがけず、目の前がじわりと霞む。
いや、こんなことで泣いていてはいけない。主に気弱な涙など見せる訳にはいかないのだから。
私はぎゅっと目を瞑り、涙を強引に引っ込める。
そして今一度目を開ける。するとそこには、相変わらず暖かな笑みを浮かべる幽々子様がいるはずで……。
……あれ?
心なしか、幽々子様のお顔がいつもより遠く感じられる。ちょうど、私が幼かった頃のように。
それだけじゃない。傘が、幽々子様の頭に掛かっている。いつの間にか腕が下がっていたかと思ったが、そんなことはなかった。
まさか、小さい頃に戻ってしまった訳でもあるまい。
不思議に思い、ふと足元を見ると。
幽々子様が少しばかり、地面から浮き上がっていた。
「幽々子様、何浮いてるんですか!」
「あら、ばれた?」
「当たり前じゃないですか! 見れば分かります」
「今はちゃんと、足元が見られるようになってるのねぇ」
「っ!」
言葉に詰まる。今ここでそれを言うのは卑怯だと思う。
どうして幽々子様は、私をからかいつつも、こうして意味のある言葉を投げ掛けることが出来るのだろう。
やはり、幽々子様には敵わないと思わざるを得なかった。
「当たり前です。いつまでも未熟な訳じゃないんですから」
「あらあら、頼もしい限りね」
そう。そして、からかうと同時に私の背中を前向きに軽く押してくれる。
何だかんだ言って、そんな幽々子様が大好きで。
私はいつまでも、そんな幽々子様と共に生きていくのだろうと思うのだった。
こういう主従関係はやっぱり良いなぁ
そして、かわいらしい妖夢。
>「私はだいじょうぶです!」
>にぱっと、夏のお日様みたいな笑顔を私に向ける。
かわいい。そしてこけるみょん。
心がこしょばゆい
良いものを読ませていただきました。
そしてきっとゆゆさまはどんな時もみょんのことをずっと見守ってるんだろうなあ
またゆゆみょんの話が読みたくなってきたぞ( ̄ー ̄)ニヤリ
SS全体に包まれるような、あったかい雰囲気が最高です。
今の妖夢がちょっぴり生意気なのが、成長しつつも幼い感じになってて、ぐっときます。
いい幻想を見させていただきました。
それから「今はちゃんと、足元が見られるようになってるのねぇ」の部分が
冒頭のシーンと上手いこと繋げられていて感心しました。
これは良いゆゆみょん。
もちろん妖夢も可愛いですね。
いつまでもこういう主従関係、続いてほしいです。