八雲紫という妖怪がいる。
性格は人情に欠け、神出鬼没、その上境界を操るという絶大な能力を持つ。
また、超人的な頭脳を誇り、知識、経験も豊富である。
真に厄介なことこの上ない。
幻想郷には多くの妖怪がいるけれど、最も関わりたくない妖怪は誰かと聞けば、その名を挙げる者も多いだろう。
斯く言う私だって、彼女を知識人として尊敬はしていても、友人になりたいかと聞かれれば、それは甚だ疑問であった。
境界の妖怪、八雲紫。
そんな彼女に私が本当の意味で出会ったのは、幻想郷縁起の執筆が一段落ついてから一月ほど過ぎた日のこと。
人と妖が交わるという、逢魔時。
夜が降りてこようとしている、昼と夜の境界線上で――私達は、初めて出会ったのだ。
◇◇◇
「ふうっ……」
私は読んでいた本をぱたんと閉じると、目の前に広がるこげ茶色をした机の上に静かに置いた。
その表紙には『幻想郷縁起』と大きな文字で記されている。
しかしこれは私、稗田阿求が今世で直接に書き記した『幻想郷縁起』ではない。いや、内容は私が書いたものなのだが、私の直筆ではない――ようするに、幻想郷では珍しい印刷された本なのである。
先日、ようやく幻想郷縁起の執筆に一応の区切りがつき、あとは私が転生の準備を始めるまで改訂し続けるだけとなった。
その噂を嗅ぎ付けて何人かの物好きな連中が訪れたが、その中には好奇心旺盛な天狗達の姿もあった。そして、幻想郷縁起を読み終えた天狗の一人が言ったのだ。
「これは実に面白いですね! 阿求さん、これ、うちで出版してみませんか?」
――と。
特に断る理由もなく、私は天狗達の提案を受け入れ、こうして幻想郷縁起初の製本された本が生まれることになったわけである。
これには、私なりの思惑というものもあった。
私は以前から一つの不安を抱いていた。人が妖怪に襲われることも殆どなくなった幻想郷において幻想郷縁起を書き続ける必要性があるのか――ということではなく、幻想郷の住民、人里に住む人間達にそもそもこの本は読まれているのだろうか、と。
必要性以前の問題である。
先ほども言ったように、印刷を行ったのは今回が初めての試みである。つまり、これまでの幻想郷縁起は基本的に一冊しか存在しない。実物を見たことはないけれど、写本を行い配布していたこともあったようだ。しかし、それも結局は手作業である。その数などたかが知れている。
内容だって、お世辞にも読みやすいとは言いがたいものである。
ようするに、これまでの幻想郷縁起は物理的にも、文章的にも、決して人々に優しいとは言えないような代物だったのだ。
転生を経て記憶を失っているとはいえ、一応の筆者である私ですらそう思うのだ。他人がどう感じるかはお察しだろう。
現に、私が転生してから幻想郷縁起の閲覧を希望した人間の数はそれ程多くは無い。具体的な数字を出すことも勿論可能だが、切なくなるので伏せておく。
そんなことを考えていた私にとって、今回の天狗たちの提案はまさに渡りに船であった。
製本を行い配布することによって、それまで抱えていた物理的な障害を取り除こうというわけである。
しかし、元のままでは少々読みづらいところもあったため、いくつかの点について内容の割愛、修正などを行い、読みやすくアレンジをした。
そうして完成した本が本日届いたので、配布前に最後の確認をしていたのである。
幸いにして誤字脱字もなく、このまま問題なく配布できそうだ。
ふと外を見てみれば、あたりはすっかり暗くなり始めている。
本が届いたのがちょうど三時位だったから、随分と長い間読んでいたことになる。
私は思いっきり背伸びをしてから、机の上に置いてあったもう一冊の本に手を伸ばす。
本を読んだ後だというのにまた本か、と呆れる方もいるかもしれない。しかし、待ってほしい。私は、この本の続きを読むのを心から楽しみにしていたのだ。続きが気になって気になって仕方ないのである。
こちらもちゃんと印刷された本だが、勿論、幻想郷縁起ではない。それどころか――これは、幻想郷の本ですらない。
そう、この本は『外の世界』の本なのだ。
これは幻想郷縁起の取材のために香霖堂を訪れた際、手に入れたものである。
店主が、
「これは珍しい『外の世界』の本だよ。普通の人に理解するのは難しいかもしれないが、君のような知識人にはぴったりなんじゃないかな」
と言って勧めてきたのだ。
人里にある本は既に一通り読んでしまっていた私は、喜んでそれを購入したというわけである。
読み始めた当初は幻想郷とはまったく違った世界観に戸惑ったものの、慣れてくるとそれもまた面白い。自分の知らない世界について想像しながら読み進めていくのは、なかなかどうして楽しかった。
内容はというと、これは外の学生――大学という所で学ぶ者達のことを外ではそう呼ぶらしい――達が、かつて殺人事件の起こった孤島を訪れ、奇妙な連続殺人に巻き込まれるという、いわゆる『ミステリ』であった。
そもそも『ミステリ』という単語自体が初耳であったのだが、この物語の登場人物の台詞によれば、この本はまさしく『ミステリ』なのである。登場人物自らが自分が登場する本について語るというのだから、これもまた面白いものだ。
世界観のズレや見知らぬ単語達に慣れてしまった後は、ページを捲る手はすいすいと進んでいった。
一人、また一人と犯人の毒牙にかかり、学生達は倒れていく。そうして生き残った学生達も僅かとなり、これからどうなる――という所で出来上がった幻想郷縁起が届き、一旦読書を中断せざるを得なかったというわけだ。
先が気になるというのも致し方ないことだろう。
読書のお供にと用意していた紅茶はすっかり冷えてしまっているし、折角のお茶請けも手付かずのまま放置してある。
そう、二つの饅頭が……。
「――そういえば、今日もやっぱり柚子饅頭ですか」
なんとなく、一人つぶやく。
そうなのだ。
小説の中で起こっている殺人事件程ではないが、少し前からちょっと変わったことが私に起こっていた。まあ、大したことではないのだが、 それは――
「あら、読書中かしら?」
――唐突に、本当に唐突に声が響いた。
少し驚いたものの、それを態度に出すことなく、出来るだけ平静を装い声にこたえる。
「これはこれは、どういったご用件でしょうか、紫様」
そう言いながら振り返った先には――私が予想した通りに、境界の妖怪、八雲紫が怪しげに微笑みながらスキマから顔を覗かせていた。
「そのような所からではなく、正門から来て頂ければ、ちゃんと御もてなし致しましたのに」
「いいのよ、別に大した用事ではないし」
というか、私の心臓に悪いので止めて欲しい。
神出鬼没にも程があるだろう。
「それに、訪れる度に貴女の家の者を怯えさせるのも申し訳ありませんしね」
「あら、紫様は妖怪なのですから、そうであるのが当然ではありませんか。何も気にする必要はありませんよ」
「秘してこそ花と言うでしょう? 妖怪だって、年中驚かしてばかりでは有り難味も薄れるというものです」
そんなものだろうか。
妖怪でない私にはいまいちよくわからない。
「まあ、その内に貴女にもとびっきりのサプライズをお届けしましょう」
出来れば、その申し出は謹んで辞退したい。
私は曖昧に微笑みながら、さっさと話を進めることにした。
「と、ところで、ご用件の方は?」
「ああ、そうでした」
すっかり忘れていたという様子でぽんと手を打つ。
「何でも――幻想郷縁起を、印刷して配布するそうですね?」
「はい、その通りですが……」
何か、問題があるのだろうか。
幻想郷縁起の完成時に八雲紫が内容の確認をすることは毎回のことであったが、今回の内容については既に確認済みのはずである。
そちらに問題がないとすれば――印刷すること自体に問題が?
もしそうだとすれば、これは一大事である。
八雲紫がやめろと言うのなら、残念だが配布は取り止めざるを得ないだろう。
私が不安そうに見つめていると、それに気づいたのか、彼女はくすくすと笑いながら言った。
「そんな顔をしないで下さいな。別に配布を止めにきたわけではありませんよ。ただ――」
「ただ?」
「――ただ、配布予定の本について、改めて内容の確認をさせて頂きたいだけです」
内容の――確認。
どうやら心配は杞憂のまま終わったようだ。
ひとまず、ほっと胸をなでおろす。
「基本的には、先日お見せしたものと内容は同じですが……」
「でも、違うところもあるのでしょう? でしたら、やはり確認しておかねばなりませんわ」
「なるほど、わかりました」
私は机の上に置いたまま放置していた幻想郷縁起を手に取り、両手で彼女に差し出した。
「どうぞ、ご確認ください」
「えぇ、それじゃあちょっと、失礼しますね」
言い終わると同時にスキマがにゅうっと縦に伸びた。彼女はそこから身を乗り出すと、小さくぴょこんとジャンプして、軽やかに畳の上に着地する。
そのまま私の手から本を受け取ると、
「読書中だったのでしょう? 終わったら声をかけますから、私に構わず続けてくださいな」
そう言って私の隣に座り込み、私の返答も聞かずに幻想郷縁起を読み始めた。
◇◇◇
私に構わず続けてください――そう言われても、正直困る。
だって、そうだろう。
なにしろ相手は大妖怪、八雲紫である。
そんな存在が直ぐ隣にいるというのに、読書に集中できるはずがない。
彼女の目の前ではどんな面白い小説でも頭に入ってこないだろう。そう思っていたのだが――実際のところ、全然そんなことはなかった。
確かに最初は気になっていたものの、一度読み始めてしまうと八雲紫のことはすっかり頭から消え去り、ただひたすら小説に没頭するだけであった。
ページを捲る度に視界へ飛び込んでくる文字たちに引っ張られるように、ぐんぐんと読み進んでいく。
一気読みだった。
そうして、最後のページを読み終えると、
「……ふぅっ」
大きく満足の息を吐き、私は本を閉じた。
実に、実に素晴らしかった。
今の気持ちを、どうやって言葉にすればいいだろう?
読んでいる最中にはいくつか不自然な点が目に付いたりもしていたし、私なりに犯人を予想してみたりもしていた。
しかし、それら全てがあっさりとどこかに吹き飛んでいってしまったのだ。
後に残ったのは純粋な驚きと、清清しい読後感だけ。
今までたくさんの本を読んできた私だけれど、こんな経験は初めてのことだった。
そうやって読み終えたばかりの本を抱きしめながら思いを巡らせていると、ふと真横から重たい視線を感じた。
「……?」
ちらりと横を見遣ると、八雲紫が射殺さんばかりの鋭い目つきでこちらを睨んでいた。
「ひっ……!?」
思わず、声が漏れる。
なんだろう――これは一体、どういうことだ?
私は何か、彼女を怒らせるような事をしただろうか?
必死に原因を考えるが、まったく思い当たらない。ただただ混乱するばかりである。
「あ、あのっ!」
考えても埒が明かない。そう思った私は、思い切って声をかけた。
「あの……紫様?」
しかし、いくら呼びかけても当の本人は何も言わずに、ただこちらを睨みつけるだけである。
そう、ただ私の顔をじっと――いや、違う。
改めて見てみれば、彼女の視線は私にではなく、それよりも若干下へ注がれている気がする。
一体、何を見ているのだろう。
「……あぁ、ごめんなさい」
ちょうどその時、ようやく八雲紫が口を開いた。
「どうかなさいましたか?」
手元を見ると、幻想郷縁起が閉じて置かれている。
どうやら、確認は既に終わっているようだ。
まさか、読書に夢中になって放置してしまったことを怒っているのだろうか。
「す、すいませんっ! つい、読むのに夢中になってしまって……」
「いえ、そんなこと別に構いませんわ。幻想郷縁起も、確かに確認しましたよ。特に問題はありません――それよりも」
と言葉を切り、
「その本は……?」
私が抱えている本を指で示した。
「この本――ですか?」
「その本――です」
彼女が先ほど睨みつけていたのは、どうやら私ではなくこの本だったようだ。
「この本が、どうかしましたか?」
「見たところ、外の本のようですが」
「あ、はい。これは香霖堂で購入したのですよ」
「すいませんが、見せて頂いても構いませんか?」
「えぇ、勿論です」
手に持っていた本の表紙を彼女に見せる。
「……なるほど、やっぱり『十角館の殺人』ですか――これは、名作をお読みになりましたね」
そう言って、彼女は柔らかな微笑を浮かべた。
「えっ!? 紫様、この本をご存知なのですか?」
確かに、境界の妖怪である八雲紫ならば、読んでいても不思議はない。
しかし、なんという偶然の一致だろうか。
このちょっとした運命の悪戯に私が驚いていると、
「勿論です! 読んでいるに決まっているじゃありませんか!」
と、大きな声で彼女が言った。
「は、はぃ……?」
予想外の反応にきょとんとする私、しかし彼女はそれに構わず心底嬉しそうに話を続ける。
「やっぱり日本のミステリーにおいてもっとも有名な作品の一つですからね。私としては、押さえておいて然るべき作品だと思うのです。それは確かに色々な問題もありますし、最近の作品に読みなれていると新鮮味は薄れるかもしれません。しかし、それでも発表当時のことを鑑みれば――」
「ちょ、ちょっとまってください!?」
いきなり勢いよく語り始めた彼女に慌ててストップをかける。
「あの、申し訳ありませんが、何を仰っているのかさっぱりで……」
楽しそうに喋る彼女を止めるのはやや心が痛んだが、内容がさっぱりわからないのだから仕方ない。
適当に話を合わせる事もできないことはないが、それも失礼というものだろう。
「……あ、これは申し訳ありませんでした。私としたことが、同士に出会えたのがあんまり嬉しくって、つい……」
……同士?
もしかして、彼女は何か勘違いをしているのではないだろうか。
私は『ミステリ』を読むのは初めてだし、勿論その愛好家というわけでもない。
申し訳ないけれど、このことははっきりと告げる必要がありそうだ。
「あのですね、紫様」
「はい、なんでしょう?」
「私は、この『ミステリ』という種類の本を読むのは、今回が初めてなんですよ」
話していた時の楽しそうな顔を思い返すと、それを告げるのは少々つらい。
だがしかし、矢張り嘘を吐くわけにはいかないのだ。
「……そうだったのですか。これは、私としたことが少々先走りが過ぎたようですね」
彼女はそう言って恥ずかしそうに微笑むが、その表情には隠しきれない寂しさが感じられた。
余程、自分と同じ趣味を持つ者の存在が嬉しかったのだろう。
考えてみればそれは当然のことで、この幻想郷でこういった本を読んでいる者がそうそういるはずはないのである。なにしろ、幻想郷と外の世界とは大結界によって隔絶されているのだから。
僅かながらも可能性がある所といえば、この本を購入した香霖堂、あるいは紅魔館の大図書館と言ったところだろうか。しかし、店主にそういった様子は見られなかったし、紅魔館の住人達と八雲紫に付き合いがあるという話も聞いたことがない。
もしかしたら八雲紫は――今日初めて、その幻想郷では珍しい趣味について語ったのかもしれない。
そう思うと、なんだか胸の奥がきゅっと締め付けられるような、そんな気がした。
「あ、あの、紫様!」
気がつけば、口が勝手に動いていた。
「……はい?」
「確かに私は『ミステリ』を読むのは初めてでしたが、大変面白い本だと思いました。これは……他にも、こういった本があるのでしょうか?」
「えぇ、それは勿論、ありますが……。それが何か?」
こちらの意図がわからないといった様子で彼女が答える。
「つまり、ですね。もし紫様がお持ちでしたら他の作品も読んでみたいな、なんて……」
言った。
言ってしまった。
言ってしまった以上、もう、後戻りは出来ない。
この後どんな展開が待っているのか、それは私にだって容易に想像がつく。
しかし、彼女の寂しそうな顔を見ているとなんだかどうしようもなく切なくて、私は黙っていることが出来なかったのだ。
「興味がおありですか! それなら、今度お持ちいたしますよ!」
先程とはうって変わって、花が咲いたように明るい表情で彼女は言った。
「そうして頂けると有難いです」
自ら面倒事を背負い込んでしまった感は否めないが、彼女の嬉しそうな様子を見ていると、それもいいかと思えてくる。
言ったかいがあるというものである。
「ですが……」
「……どうしたのです?」
表情を曇らせた彼女に私が尋ねる。
「ミステリーの蔵書はかなりの量になるのですが、大丈夫でしょうか?」
……かなりの量?
不安が、むくむくと湧き上る。
「……大体、どれくらいあるのですか?」
「そうですね。……優に5百冊はくだらないかと」
一日一冊で約一年半。
なんだかあたまが、くらくらする。
「……やはり、やめておきますか?」
心配そうに、まるで怯えた子供のような瞳で彼女が見る。
あの大妖怪、八雲紫が、である。
そんな彼女の様子を見て――、
「いえ、それだけあれば楽しみが尽きませんね!」
――勿論、私に断れるはずも無かった。
◇◇◇
さて、結局どうなったかというと。
「うーん、まずは何がいいかしら……。どうせならクラシックから入るべきかしらね。時代背景もそんなに違和感ないでしょうし、ミステリーはパロディも多いものね……」
一度に数百冊もの本を読めるはずもなく、彼女のお勧めを何回かに分けて持ってきてもらう事になった。
それは良いのだが――、
「あの、紫様。そこまで悩まなくとも良いのでは……?」
――彼女は妙に張り切ってしまい、私にどんな順番で読ませるべきなのか考え始めてしまった。
しかも、それがなかなか決まらない。
「順番というのは重要なものなのですよ。それ次第で後に読む本の印象が変わることも多々ありますし、慎重に考えねばなりません!」
と、八雲紫が力説する。
そうして私のために悩んでくれるのは有難いのだが――正直、非常に面倒である。
さっさと決めてくれないものだろうか。
「まあでも、あなたの場合は最初に読んだのが十角館ですものね――本当に幸運だと思います」
「……そうなのですか?」
当事者だからか、あまりそういった自覚は無い。
「えぇ。最初に合わない作品に当たってしまって、それでミステリーから離れてしまう人も多いですからね。そういう意味では、十角館はまさにうってつけと言えるでしょう――読んでみて如何でしたか?」
「んっと、そうですねぇ……」
今日、読んだばかりの本のことを思い返す。
「外の世界の本ということで最初は戸惑いましたが、それを想像しながら読み進めるのも楽しかったし、とても面白かったです。特に、そうやってそれまでに積み上げてきた世界が『たった一言』で一瞬にして崩れ去っていく様は、実に素晴らしかった。そしてそれが終わった後には、これまで見ていた世界がまるで別の顔をして、やっぱりそこにあるのです。あそこを読んだ時の感動は、何とも言葉には代え難いですね……」
私の話を聞き、彼女は満足そうに頷いた。
「どうやら、見事に騙されたようですね」
「えぇ、してやられてしまいました」
私は少し照れながら言った。
「それは別に恥ずかしい事ではありませんよ。貴女のように素直に読み、筆者の思惑通りに騙されるのが、ある意味では一番正しいミステリーの読み方だと思います」
「……そうでしょうか?」
「勿論です。ちょっと羨ましいですね――私には、絶対に出来ない読み方ですもの」
「それって、どういう……?」
「私は、ミステリーで騙されたことが一度も無いのです。どんなに難しいトリックでも、どんなに意外な犯人でも、必ずわかってしまうのですよ」
そう言う彼女は、少しだけ寂しそうだった。
「ですから、私のミステリーの楽しみ方は、普通の方とはちょっと違うかもしれません」
超人的な頭脳を持つという八雲紫、確かに彼女ならばどんな複雑極まりない謎であっても、いとも簡単に解き明かしてしまうのだろう。
それは、私などからしてみれば単純に羨ましいことだ。
しかしそれは、私が『十角館の殺人』を読んだ時の驚き、爽快感、そういったものを味わうことが出来ないということでもある。
それは――とても、勿体無いことのように思える。
「では、紫様はどんな読み方をするのですか?」
「そうですね。謎を解き、犯人を当てるというのは勿論そうなのですが、伏線から作者の意図を読み取り舌鼓を打ちながら読み進めていくのもなかなか楽しいですよ――けど、心底騙されたときの楽しさに比べれば、矢張り及ばないでしょうね……」
そう言う彼女はやっぱり寂しそうで――、
「そんなことはないと思いますっ!」
――私は、思わず叫んでいた。
「……あ、阿求?」
私の突然の行動に、彼女は目をぱちくりとさせて驚いている。
「そんな読み方があっても良いではないですか、本の楽しみ方は人それぞれである筈です。それに、先程の本でも言っていました! 『ミステリ』は読者対作者の論理のゲームだと。それならば、貴女は誰にも負けない名探偵ということではないですか。それは――」
と、そこで一旦話を切る。
意図的なものではない、一気に喋ったせいで息が切れただけである。ちょっと格好悪い。
彼女はというと、そんな私をじっと見つめながら続きを待っている。
「それは?」
「……それは、とても――素敵なことだと思います」
そうして私が言い終えると、彼女は優しく微笑みながら言った。
「……ありがとう。そう言うあなたも、とても素敵だと思います」
そこで、ふと思った。
今日までに、こんな風に笑う彼女を見たことがあっただろうか、と。
思い返せば、八雲紫と今日ほど長い時間を過ごした事は一度も無い。
今日見た、彼女の寂しそうな顔、楽しそうな顔、そして今のような笑顔――どれもこれも、初めてばかりだ。
どういうことだろう、彼女と会うのは今日が初めてというわけではないのに。
「……どうしましたか?」
「わっ!」
いつの間にか、少し離れて座っていたはずの彼女が私の目の前に居た。
しかも、どういうわけか彼女の右手が私の頭の上に置かれている。
なでなでと手が動く感触がくすぐったい。
まるで優しく子供を撫でる様に――というか、そのままである。
私は、何故か頭を撫でられていた。
「こ、子供扱いしないでくださいっ!」
稗田なめんな、と喉まで来ていた言葉はそのまま飲み込み、私は彼女に不当な扱いの即刻中止を申し出た。
「あら、ごめんなさい」
手はどけたものの、まったく反省した様子は無い。
というかむしろ、妙に嬉しそうである。
「……なんだか上機嫌ですね?」
「当然でしょう? だってようやく、私の趣味について語り合える相手が見つかったんだもの。藍は趣味に合わないって言うし、霊夢と幽々子なんか、勧めても読んですらしてくれないのよ!」
「は、はぁ……」
今日ここに至るまでには、彼女なりの苦労があったらしい。
「それにしても、私が名探偵とはね――そんなこと、考えたことも無かったわ。これで本当に事件でもあれば面白いのだけれど」
「殺人事件が起きても困りますよっ」
「ふふ、別に殺人事件とは限りませんわ。日常の中にある不思議な出来事――そんな謎は、ないかしら?」
「そうは言ってもそんなにお手軽に謎があるわけも――」
と、言いかけたところでずっと放置していた柚子饅頭が目に留まった。
……あった、謎が。
「紫様、ありましたよ」
「何がです?」
「謎が、です」
私はにんまりと笑って言った。
「……それで、その謎とはどんなものなんですか?」
私は黙って机の上に鎮座している、若草色をした柚子饅頭を指差した。
そんな私の様子を見て、怪訝そうに彼女が尋ねる。
「その饅頭がどうかしたの?」
「これが、謎なのです」
ますますもって訳が解らないといった様子の彼女に、私はゆっくりと説明を始めた。
◇◇◇
事の始まりは、ちょうど半年前のことだった。
しかし、当初私はこの事件――事件というと大仰だが、便宜上そう呼びたいと思う――が起こっていた事に気づかず、おかしいと思い始めたのはそれから更に2週間が過ぎてからだった。
それくらいに、事件自体はささやかなものである。
稗田家では、百年近く続いているという人里で一番の老舗和菓子屋『風鈴』――幻想郷に和菓子屋はここしかないので一番なのは当然である――で、家の者全員のお茶請けを毎日購入している。
そのメニューは、毎回店員のお任せということで、買い物に行っている者も中身についてはまったく関知していない。
私の分だけは皆の分とは別に包装されており、そうして買ってきたお茶菓子を部屋まで届けてくれるのだ。暖かい紅茶と一緒に。
そして、そのお茶菓子に事件は起こったのだ。
とは言っても、別にお茶菓子に毒が含まれていたとかそういうわけではない。
おかしいのはお茶菓子ではなく、その種類である。
包装されているお茶菓子は毎回二つなのだが――、
「――その中に、必ず『柚子饅頭』が含まれているのですよ」
「……なんだか、しょーもない話ねぇ」
それまで黙って話を聞いていた彼女が、頬杖をつきながら言った。
「そんな実も蓋も無いこと言わないで下さいよっ!?」
下らないと言えばまったくもってその通りなのだが、当事者からしてみれば実に不思議な話なのだ。
大体、誰のために話していると思っているのだろうか、このスキマは。
「ちなみに、柚子饅頭は『風鈴』の名物でもなんでもありません」
つまり、あえて柚子饅頭を選ぶような理由は、少なくとも表面上は無いというわけだ。
さらに付け加えると、柚子饅頭は私の好物の一つでもあるのだが、これは別に話さなくてもいいだろう。
それを誰かに話したことはないし、明らかに関係ないし。
「えーと、この場合は、その『原因』を答えればいいのかしら?」
「もしかして、もうわかったのですか!?」
「いえ、まだよ。ちょっと情報が足りないわ……。いくつか質問をさせてもらってもいいかしら?」
「えぇ、構いませんよ」
なんだか本当に自分がミステリーの世界に入り込んでしまったようで、ちょっとドキドキしてくる。
「他の稗田家の者にも、同じようなことがが起きているのかしら?」
「いいえ、それとなく確認したことがあるのですが、他の人は全員普通みたいです」
直接尋ねるのはなんとなく抵抗があったので、お茶の時間にこっそりと覗いて来たのだ。
その時も、私のお茶菓子にはやっぱり柚子饅頭があったのだが、他の者の分には一つも入っていなかった。
「……ちなみに、貴女はその和菓子屋とは何か関係が?」
「まったくありません」
私は、間をおかずに断言する。
「あら、やけにはっきり言うのね。忘れてるだけとか、そんなことはないのかしら?」
「確かに普通ならそういうこともあるのでしょう。しかし、私に限ってそんなことはあり得ません。何故なら私は九代目御阿礼の子、稗田阿求なのですよ。この私が言うのです」
ここで一応説明をしておくと、稗田阿礼の生まれ変わりである歴代の御阿礼の子は、阿礼が持っていたという求聞持の能力――すなわち、見た物を忘れないという力を受け継ぐことが出来る。
そして、私は九代目御阿礼の子である。
当然ながら私もまた、その能力を持っている。
他の人間ならいざ知らず、私に限って忘れたなどということはあり得ない。
生まれた時分から見たものは全て、私の記憶にしっかりと刻み込まれている。
「……それもそうね。それじゃあ、それは間違いないわね」
「えぇ、こっそりとお店に行って顔も見てきましたから、間違いありません」
私の言葉に、八雲紫が怪訝そうに眉をひそめる。
「……あなた、そんなことまでしていたの? 随分暇なのねー」
「だって、気になるじゃないですかぁ……」
私だって年頃の娘なのだ。たかが饅頭といえど、自分の身近にこんな不思議なことが起これば気にもする。
繊細な乙女心である。
「そんなに気になるなら、直接聞いてみれば良かったではないですか」
そんな私の乙女心を一切無視して、彼女が言う。
まったく、これだから年寄りは――と、言いたい衝動をぐっと堪えて、私は応える。
「……それくらいで、騒ぎ立てるのもどうかと思いまして」
実際問題、たかだか饅頭のことである。
そんなことでいちいち店まで出向いて、店員に尋ねるのもちょっと気が引けるというものだ。
しかも、私はこれでも人里で有数の名家である稗田家の当主であり、九代目御阿礼の子としても名が知れている。
その私がわざわざ店に出向いて問いただせば、相手を無駄に萎縮させてしまうかもしれない。
それに――
「――それに、もしこのお菓子に何か意味があったのなら、それに気づかず訪ねて行くというのも、なんだか申し訳なくて……」
そう、この事件には何か意味があるかも知れないのだ。
特に意味が無いのなら別にいい。しかし、もしもこれに何かしらのメッセージが込められているというのなら、それを知らないまま訪ねて行くのは――どうしても、気が進まない。
「ですから、是非紫様に解き明かして欲しいのです」
これは、私の本音である。
彼女に話したのは、それは勿論、彼女のためだ。
しかし、出来ることならこの謎を解き明かして欲しいと思う。
これに何か意味があるのなら――それを、知りたい。
「……やっぱり、わかりませんか?」
しかし、彼女は俯いたまま黙り込んでおり、私の問い掛けには応えない。
いくらミステリーの愛好家で謎を解くのが得意と言っても、結局それは小説の中の出来事だ。
超人的頭脳を持つ彼女でも、現実の事件ではそう上手くはいかないのだろうか。
一人そんなことを考えて沈んでいると、不意に不敵な声が耳に届いた。
「いいえ、もう大体わかりましたよ」
「えっ?」
彼女の不意打ちとも言えるような言葉に私は呆気にとられ、間抜けな返事をしてしまう。
そうして呆然としている私に、彼女はにっこりと笑いながら言い放つ。
「考えられる答えは――たった一つしかありませんわ」
こうして、予想していたよりもずっと早く、とびっきりのサプライズとやらは私に届けられたのだった。
◇◇◇
「……本当に、わかったんですか?」
彼女には悪いけれど、どうにも半信半疑である。
「嘘を吐いてどうするのですか」
「で、でも、たったあれだけの情報で?」
自分で言うのも何だが、大した情報は提供していないような気がする。
「そんなことはありませんよ。既に、必要な情報は全て得ています」
と、事も無げに彼女は言うが、にわかには信じがたい。
「あっ! あれですか、境界を操る能力で――」
これしかない、と私は思ったのだけれど、その発言は彼女のデコピンで中断された。
「痛っ!?」
一見すると普通の人間と変わらない彼女だが、やっぱり妖怪である。
軽く指を弾いたようにしか見えなかったのに、物凄い衝撃が頭に走る。
めちゃくちゃに、痛い。
「なにするんですかぁっ!?」
か弱い少女の大切なおでこに行った狼藉に対し、断固とした態度で抗議する。
「貴女が失礼な事を言うからいけないのですよ。この八雲紫、ミステリーに対してそのようなアンフェアな手段は使いません」
そう言う彼女だが、本当にそうだろうか。
私の手前、解らず仕舞いでは格好がつかないから能力を使って情報収集をした。それは、ちょっとありそうな話であるように思える。
そうやって私が疑いの眼差しで彼女を見ていると、
「……まったく、仕方ないですね。それでは早速、謎解きと参りましょうか」
苦笑しながら彼女が言った。
「はい、お願いします!」
あの饅頭にどんな意味があったというのか――それがいよいよ解き明かされるのである。
自然と、鼓動も早くなっていく。
「まず、どこから話しましょうか――そうね、この事件のターゲットは他の誰でもない、稗田阿求であることは間違いないですね」
確かにそれは間違いない。
しかし、何だか今更と言った感じがする。
「あら、何だか不満そうな顔ね?」
どうやら、思ったことが表情に出てしまったらしい。
私は慌てて弁解する。
「いえっ、別にそんなことは!」
「別にいいのよ。でもね、これはこの謎を解くには重要な事なのですよ」
「そうなのですか?」
「えぇ。それに、最初の段階では他の可能性も考えられましたしね。稗田家全体がターゲットであるとか――しかし、柚子饅頭が届けられるのは貴女だけ。しかも、それが店の者によって貴女専用に仕分けされたものなら間違いないでしょう」
なるほど、そういう可能性もあったか。
「しかし、そのターゲットである筈の貴女は、まったく身に覚えが無いと言う。その上、貴女の場合これは殆ど間違い無いと言えますわ」
「はい」
お店の事は知っていたが、買い物に行った事もなければ、店員の顔すらこの事件の前までは知らなかった。
事件前のあらゆる記憶を手繰ってみても、関連しそうな事柄は一つも出てこない。
「そう仮定すると、普通ならここですっかり手詰まりとなるわけですが――あなたの場合、『普通』ではありません」
「はい?」
普通、ではない?
一体、何の事を言っているのだろうか。
「紫様、それは求聞持の能力の事を言っているのですか?」
「いいえ、違います」
求聞持の能力でないとすれば、彼女は私のどこが『普通』ではないと言っているのか。
私の持つ、普通ではないモノ。
「……あっ」
そうだ。
もう一つ、ある。
求聞持の能力以外で、私にある『普通』とは違った点。
それは――
「……転生のことでしょうか?」
――それ以外には、考えられない。
「えぇ、その通りです」
『風鈴』の創立は凡そ百年前である。となると、該当するのは――先代、阿弥か!
彼女は、柔和な微笑みを浮かべながら続ける。
「もし『今の貴女』にまったく身に覚えが無く、それが間違いないというのなら――原因は、転生前の貴女にあるとしか考えられません」
なるほど、確かに理屈は通っている。
だがしかし、だ。
「けれど紫様、先代の阿弥が転生したのは、今から百年も昔のことです。妖怪の感覚では、大したことの無い時間かもしれませんが……」
人間にとって、百年はあまりに、長い。
その当時生きていた人間が、今の幻想郷で未だに生きているとは思えない。
仮にそんな人物が居たとしても――記憶とは、薄れていくものだ。
幻想郷を揺るがすような大事件ならまだしも、私に起こったのは、毎日柚子饅頭が届く、ただそれだけのことである。
そんな些細とも言えるようなことが、百年もの時の流れに耐えられるとはとても思えない。
しかし、そんな私の指摘を聞いても、彼女は微笑みを絶やさない。
「確かに貴女の言うとおりです。記憶とは薄れていくもの――これには、逆らいようがありません」
矢張りそうかと私は肩を落とすが、彼女の話にはまだ続きがあった。
「ですが、それが記録であるならば、どうでしょうか?」
記録……?
それは、まさか。
「幻想郷縁起っ!?」
私の言葉に、彼女は満足そうに頷いた。
そうか、確かにそれならあり得るかもしれない。
幻想郷縁起なら――、
「……あ」
――しかし、私は気づいてしまった。
それは、絶対にあり得ないということに。
「……あの、紫様」
「何かしら?」
折角、私のために推理してくれたというのに、それが間違っていると私自身の口から言わねばならないのは、正直辛い。
けれども、真剣に取り組んでくれた彼女のためにも、それを隠しておくわけにはいかない。
「先代の幻想郷縁起には柚子饅頭のことは勿論のこと、和菓子屋『風鈴』のことも、一言たりとも記載されていないはずです」
そう私は言い切った。
これは、先程私が『身に覚えが無い』と言ったのと同じ位に間違いの無いことなのだ。
つまり、理屈は同じである。
私には求聞持の能力があり、そして今世の幻想郷縁起執筆のために、歴代の幻想郷縁起を何度も読み返しているのだ。
そのような記載が無いことは、わざわざ幻想郷縁起を確認するまでも無く、絶対に間違いの無いことだ。
そもそも幻想郷縁起は歴史書、しいては妖怪の資料である。
人里の和菓子屋について、記述されているはずがなかったのだ。
これは事実なのだから曲げようが無い。しかし、わざわざ推理してくれた彼女に申し訳がない、と私がしょぼくれていると――
「痛っ!?」
――突如、おでこに激しい痛みが走った。
見れば、八雲紫が私の目前に掌を突き出している。
これは――また、デコピンか!
「何するんですかっ!?」
痛みに任せてがあああと吼える。
しかし、彼女はまるで意に介さず、デコピンをしたらしい右手を空中でひらひらと泳がせている。
「まったくもう、硬い頭ねー。指先がちょっと痛いじゃないの」
「私の方が痛いですよっ!?」
「それに、中身の方も――ちょっと硬すぎるわね」
「……はぃ?」
そんな私の反応をみると、彼女は呆れたように言った。
「大体ね、貴女が悪いのですよ。……いいですか? 私達は、前提に基づいて、論理を重ね、一つの結論に至ったのです。それによって得られた結論は、事実と同じくらいの重みがあるのですよ。もしも事実がそれに沿わないなら――前提か、事実の方が間違っていると疑わなければなりませんわ」
事実と同じくらいの――重みが。
しかし、そう言われても私はいまいち釈然としない。
前提、つまり私と和菓子屋に何の関係も無いという事を指しているのだろうが、それについては絶対の自信がある。
そして事実の方、先代の幻想郷縁起に和菓子屋の記述が無いことも、疑う余地の無いことだ。書庫から先代の幻想郷縁起を引っ張り出してきて調べても、きっと結果は変わらないだろう。
やっぱり私には、いまいちよく、わからない。
「ええと、それはつまり……どういうことなのでしょうか?」
私は早々に匙を投げ、彼女へと問い掛ける。
「それでは、前提について考えて見ましょうか。とはいっても、これについては特に考え直すところもありませんね。貴女の記憶に間違いはないのでしょうし、それ以外の点もきっとその通りなのでしょう――では、事実の方はどうでしょうか?」
「私には、こちらも疑う余地はないと思うのですが」
「果たして本当にそうかしら? 貴女の記憶に間違いがないとしても、何か、見落としている事があるのではありませんか?」
「見落としている、こと……?」
「そう、例えば――仮に和菓子屋が幻想郷縁起を読んでいたとして、それは『貴女が読んだ幻想郷縁起』と本当に同じものなのかしら?」
「そんなの、同じ本に決まって――」
――実物を見たことはないけれど、写本を行い配布していたこともあったようだ。
「――あ、あぁっ!? 写本っ!?」
「多分、それですね」
確かに、先代の幻想郷縁起の写本が配布されていたとしてもおかしくは無い。
「で、でもっ、実際の幻想郷縁起には書いてなかったのに、写本に書いてある筈が――」
「あら、そうかしら。私の友達に配布する本の内容を原本と変えてしまうような子もいますからね。有り得ないとは言えないのではなくて?」
そう言って、くすくすと笑いながら私を見る。
「うぅっ……」
ああ、なんだか妙に恥ずかしい。
実は、確認が二度手間になったことを恨んでいたりするのだろうか?
しかしそれでは――まさか本当に、写本の方には和菓子屋のことが書かれているのだろうか。
そう思うと今すぐに確かめたいという欲求に駆られるが、残念ながら写本は稗田家には一冊も残ってはいないのだ。
それどころか、その所在も、現存しているかどうかすらも把握していない。
彼女の推理通りなら、件の和菓子屋には当然あるのだろうが、まさか直接行って確かめるわけにもいかない。
打つ手が無いと思うと、ますます欲求は強くなる。
しかし、こればかりはどうしようもない。本当に困った。
「どうやら、お困りのようですね?」
そんな私の様子を見て、楽しくてたまらないといった風に彼女が問う。
「はい。ですが確認のしようがないのですから、仕方ありません」
「ふふ、諦めるのにはまだ早いですよ」
そう言うと、彼女は空中に向かって無造作に手を投げ出した。すると、
「さて、どこにあるかしら……」
手の先にスキマが現れ、彼女はその中に手を突っ込むと、ごそごそと何かを探し始めた。
「……一体何をなさっているのですか?」
「勿論、写本を探しているに決まっているじゃないですか」
「えっ、ある場所を知っているのですか!?」
稗田家ですら所在を把握していないというのに。
「そういうわけじゃないけど、ちょっと心当たりがあってね」
「このスキマは、どちらに繋がっているのです?」
「人里の寺子屋ですわ」
ああ、なるほど。
慧音さんは授業の為にと里中の資料を掻き集めていたらしいし、あそこなら確かにあるかもしれない。
「……あんまり荒らさないで下さいね?」
あんまり散らかしては、慧音さんに申し訳ない。
「えぇ、勿論ですよ――っと、これかしら?」
そう言いながら彼女がスキマから取り出した本には、表紙に大きく『幻想郷縁起』と記されていた。
「見せてくださいっ!」
「っと、ちょっと、落ち着きなさいってば!」
彼女の手から本を奪い取ると、私は食い入るように読み始めた。
どうやら、基本的な内容は私が読んでいる幻想郷縁起と大きくは変わらないようだ。しかし、実際に執筆した時期と写本した時期に多少の開きがあるのか、微妙な内容の修正、加筆などが見受けられる。
兎も角、確かに写本と原本の内容には差異があった。
これは、本当に当たりかも知れない。
そう思い、意気込んで該当する部分を探していく。
「……あった」
果たして、それは第四章・独白の最後に書かれていた。
以下に、その部分を抜粋する。
『今、幻想郷は激動の時代を迎えつつある。
昨今では、人間達はこれまでに無かったような力を持ち始め、あれ程に恐れていた妖怪達の事もすっかり怖がらなくなった。
それどころか、その存在を否定する輩まで現れる始末である。
それに比して、妖怪達の力は衰弱の一途を辿っている。
この幻想郷においてすら、その影響は火を見るよりも明らかである。
本当に、このまま妖怪達は消え去ってしまうのか。実際のところ、私にはわからない。
人間にとって、それが正しい選択であるのかどうかすら、私にはわからない。
しかし、それが多くの人間が選んだ回答であることは間違いないだろう。
存在を否定され、人間達の社会から追い出された妖怪達。
果たして彼らが今後どうなるのか、それは彼ら自身の回答にかかっている。
彼らはこの現状を受け、どのような答えを導き出すのだろうか。
残念なのは、私にはその回答を、その結果を見届けることが出来ないということだ。
その答えが、妖怪、しいては人間達にとっても幸せなものであることを祈るばかりである。
しかし、次の転生の準備を始めるまでは、まだ少しばかりの余裕がある。それが始まるまでは、幺樂団の演奏でも聴きながら私(*3)の好きな柚子饅頭を愉しみ続けたい。
八代目阿礼乙女 稗田阿弥
*3 阿弥になってから好きになった。和菓子屋『風鈴』の饅頭は絶品である。』
「まさか、本当に書いてあるとは思いませんでした……」
「ありましたか、私にも見せて下さいな」
私から本を受け取ると、まじまじと紙面を見つめながら呟く。
「確かに書いてありますね。……それにしても、貴女にしろ阿弥にしろ、私に黙って内容を変えるなんて随分ひどいじゃありませんか」
責めるように、私を見る。
やっぱり、恨んでいましたか。
「私の場合、こちらの確認が済んだらご報告するつもりだったのです」
と、自分の件について一応言い訳をしておく。
まあ、阿弥も私なんだけれど、それについては時効ということで許して欲しい。
「しかし、よくわかりましたねぇ……。写本の事も最初からわかっていたんですか?」
誤魔化すように――というわけではないが、疑問に思っていた事を口にする。
「いえ、幻想郷縁起を直接見た訳ではないだろうとは思っていましたが、写本であるとまでは考えていませんでした。そもそも、その存在すら今日まで知りませんでしたし」
「では、何故あれ程の自信を持って、別の手段がある筈だと……?」
私は、一度間違えてから気づいたけれど、彼女は一体どのようにしてその結論に至ったのだろう。
「逆に考えてみれば良いのですよ。先程も言った様に、和菓子屋が幻想郷縁起を読んだのは間違いのないことです。では、仮に和菓子屋が読んだ幻想郷縁起が原本であったなら、どうなるでしょう?」
「特に、不都合はないと思いますが……」
柚子饅頭の記載が無いという事を除けば、だが。
一体何が問題なのだろう?
「不都合ありますよ。だって、幻想郷縁起は基本的には一冊しか存在しない筈です。そしてそれは、ここ、稗田家で管理されているではないですか。もし、読みたいという方が現れたら貴女はどうしますか?」
「そうですね。相手の人物を確認してから書庫にお通しするでしょう……あっ!?」
「そう、もし幻想郷縁起を読もうとすれば、稗田家に――しいては、貴女に関わらずにはいられないのです。しかし貴女は、店の者とは一切関係がないと言いましたね。そうなると、原本を読んでいるというのは非常に疑わしい」
なるほど、そういうことだったか。
「根拠はそれだけではありません。そもそも、本当に阿弥が書いた幻想郷縁起にそんな記述があったなら、真っ先に貴女が気づいているはずです。結構、気にしていたようですし――後は、その事を示唆すれば、貴女ならその『別の手段』に気づく筈だと思いました」
確かに、本当に幻想郷縁起に書いてあったのなら、きっと何ヶ月も前に気づいていただろう。
現に、記述が無いことには直ぐに気づいたのだから。
「しかし、それにしても……」
「……なんですか?」
「いえ、貴女も阿弥も、何故わざわざ食べ物の話題を最後に持ってくるのかと……」
放っておいて欲しい。
別にいいじゃないか、食べ物の事を書いたって。
「でも、良かったではないですか。これで、貴女の不安も少しは軽減されるでしょう?」
「えっ、私の不安……ですか?」
「はい。幻想郷縁起が本当に読まれているのか――心配だったのでしょう?」
「……お気づきでしたか」
「これまでそんな様子が無かったのに、突然製本して配布するというのですから、何かあったのだろうと勘繰りたくもなりますよ」
しかし、そんな私の不安とは裏腹に、百年も前に書かれた幻想郷縁起が未だにこうして読まれているのだ。
たとえ記憶は薄れても――記録は、残る。
私の書いた幻想郷縁起も、百年の時を超えて誰かに読んで貰えるのだろうか?
そう考えると、なんだか胸の奥がぽわぽわと暖かくなるのを感じる。
「まあ、謎も解けたことですし。今度はこっそりと覗くなんてことはせずに、正面から堂々と買い物に行くといいですよ。……好きなんでしょう? 柚子饅頭」
「何故それをっ!?」
柚子饅頭は阿弥だけでなく、私の好物でもある。
しかし、それを誰かに話したことは一度も無い。
今回も、話の筋とは関係ないと思ったので伏せていたのだが……。
「いやいや、阿求。嫌いなものを半年間も黙って食べ続けるような物好きは居ないと思いますわ」
「そ、それもそうですね……」
「それに、相手の方もきっと喜んでくれると思いますよ?」
「……そうでしょうか?」
それについては、いまいち自信が持てない。
今まで一度も自分で買いに行ったことがないのに、突然訪れて驚かせてしまわないだろうか。
私の弱気を見て取ったのか、彼女が自信たっぷりに言う。
「勿論ですよ。和菓子屋は半年前に幻想郷縁起を読んで、きっと今代の御阿礼の子、つまり貴女も柚子饅頭が好物に違いないと思ったのでしょう。だから、貴女に届けられる注文が入ったときには、その好物を毎回選んで包んだのです。貴女に少しでも喜んで貰おうと……。そんな貴女が買いに行って、嬉しくないはずがありません」
「でも、それは……結局、想像に過ぎないではありませんか」
確かに彼女の言う通り、和菓子屋が柚子饅頭を包んだのは幻想郷縁起を読んで私の好物だと思ったからだろう。
しかし、それと私が行って喜んでもらえるかはまた別問題だ。
私はどうしても、そんな不安を拭い去ることが出来なかった。
「……そうですね。確かにこれは、推理ではありません。何の根拠も無い、ただの想像に過ぎないのかもしれません。しかし、それは――」
と、そこでわざとらしく、話を切る。
私はなんだか焦れったくて、待ちきれずに続きを促した。
「それは、なんですか?」
「……それは、とても――素敵なことだと思いませんか」
そう言って、彼女は朗らかに笑った――。
性格は人情に欠け、神出鬼没、その上境界を操るという絶大な能力を持つ。
また、超人的な頭脳を誇り、知識、経験も豊富である。
真に厄介なことこの上ない。
幻想郷には多くの妖怪がいるけれど、最も関わりたくない妖怪は誰かと聞けば、その名を挙げる者も多いだろう。
斯く言う私だって、彼女を知識人として尊敬はしていても、友人になりたいかと聞かれれば、それは甚だ疑問であった。
境界の妖怪、八雲紫。
そんな彼女に私が本当の意味で出会ったのは、幻想郷縁起の執筆が一段落ついてから一月ほど過ぎた日のこと。
人と妖が交わるという、逢魔時。
夜が降りてこようとしている、昼と夜の境界線上で――私達は、初めて出会ったのだ。
◇◇◇
「ふうっ……」
私は読んでいた本をぱたんと閉じると、目の前に広がるこげ茶色をした机の上に静かに置いた。
その表紙には『幻想郷縁起』と大きな文字で記されている。
しかしこれは私、稗田阿求が今世で直接に書き記した『幻想郷縁起』ではない。いや、内容は私が書いたものなのだが、私の直筆ではない――ようするに、幻想郷では珍しい印刷された本なのである。
先日、ようやく幻想郷縁起の執筆に一応の区切りがつき、あとは私が転生の準備を始めるまで改訂し続けるだけとなった。
その噂を嗅ぎ付けて何人かの物好きな連中が訪れたが、その中には好奇心旺盛な天狗達の姿もあった。そして、幻想郷縁起を読み終えた天狗の一人が言ったのだ。
「これは実に面白いですね! 阿求さん、これ、うちで出版してみませんか?」
――と。
特に断る理由もなく、私は天狗達の提案を受け入れ、こうして幻想郷縁起初の製本された本が生まれることになったわけである。
これには、私なりの思惑というものもあった。
私は以前から一つの不安を抱いていた。人が妖怪に襲われることも殆どなくなった幻想郷において幻想郷縁起を書き続ける必要性があるのか――ということではなく、幻想郷の住民、人里に住む人間達にそもそもこの本は読まれているのだろうか、と。
必要性以前の問題である。
先ほども言ったように、印刷を行ったのは今回が初めての試みである。つまり、これまでの幻想郷縁起は基本的に一冊しか存在しない。実物を見たことはないけれど、写本を行い配布していたこともあったようだ。しかし、それも結局は手作業である。その数などたかが知れている。
内容だって、お世辞にも読みやすいとは言いがたいものである。
ようするに、これまでの幻想郷縁起は物理的にも、文章的にも、決して人々に優しいとは言えないような代物だったのだ。
転生を経て記憶を失っているとはいえ、一応の筆者である私ですらそう思うのだ。他人がどう感じるかはお察しだろう。
現に、私が転生してから幻想郷縁起の閲覧を希望した人間の数はそれ程多くは無い。具体的な数字を出すことも勿論可能だが、切なくなるので伏せておく。
そんなことを考えていた私にとって、今回の天狗たちの提案はまさに渡りに船であった。
製本を行い配布することによって、それまで抱えていた物理的な障害を取り除こうというわけである。
しかし、元のままでは少々読みづらいところもあったため、いくつかの点について内容の割愛、修正などを行い、読みやすくアレンジをした。
そうして完成した本が本日届いたので、配布前に最後の確認をしていたのである。
幸いにして誤字脱字もなく、このまま問題なく配布できそうだ。
ふと外を見てみれば、あたりはすっかり暗くなり始めている。
本が届いたのがちょうど三時位だったから、随分と長い間読んでいたことになる。
私は思いっきり背伸びをしてから、机の上に置いてあったもう一冊の本に手を伸ばす。
本を読んだ後だというのにまた本か、と呆れる方もいるかもしれない。しかし、待ってほしい。私は、この本の続きを読むのを心から楽しみにしていたのだ。続きが気になって気になって仕方ないのである。
こちらもちゃんと印刷された本だが、勿論、幻想郷縁起ではない。それどころか――これは、幻想郷の本ですらない。
そう、この本は『外の世界』の本なのだ。
これは幻想郷縁起の取材のために香霖堂を訪れた際、手に入れたものである。
店主が、
「これは珍しい『外の世界』の本だよ。普通の人に理解するのは難しいかもしれないが、君のような知識人にはぴったりなんじゃないかな」
と言って勧めてきたのだ。
人里にある本は既に一通り読んでしまっていた私は、喜んでそれを購入したというわけである。
読み始めた当初は幻想郷とはまったく違った世界観に戸惑ったものの、慣れてくるとそれもまた面白い。自分の知らない世界について想像しながら読み進めていくのは、なかなかどうして楽しかった。
内容はというと、これは外の学生――大学という所で学ぶ者達のことを外ではそう呼ぶらしい――達が、かつて殺人事件の起こった孤島を訪れ、奇妙な連続殺人に巻き込まれるという、いわゆる『ミステリ』であった。
そもそも『ミステリ』という単語自体が初耳であったのだが、この物語の登場人物の台詞によれば、この本はまさしく『ミステリ』なのである。登場人物自らが自分が登場する本について語るというのだから、これもまた面白いものだ。
世界観のズレや見知らぬ単語達に慣れてしまった後は、ページを捲る手はすいすいと進んでいった。
一人、また一人と犯人の毒牙にかかり、学生達は倒れていく。そうして生き残った学生達も僅かとなり、これからどうなる――という所で出来上がった幻想郷縁起が届き、一旦読書を中断せざるを得なかったというわけだ。
先が気になるというのも致し方ないことだろう。
読書のお供にと用意していた紅茶はすっかり冷えてしまっているし、折角のお茶請けも手付かずのまま放置してある。
そう、二つの饅頭が……。
「――そういえば、今日もやっぱり柚子饅頭ですか」
なんとなく、一人つぶやく。
そうなのだ。
小説の中で起こっている殺人事件程ではないが、少し前からちょっと変わったことが私に起こっていた。まあ、大したことではないのだが、 それは――
「あら、読書中かしら?」
――唐突に、本当に唐突に声が響いた。
少し驚いたものの、それを態度に出すことなく、出来るだけ平静を装い声にこたえる。
「これはこれは、どういったご用件でしょうか、紫様」
そう言いながら振り返った先には――私が予想した通りに、境界の妖怪、八雲紫が怪しげに微笑みながらスキマから顔を覗かせていた。
「そのような所からではなく、正門から来て頂ければ、ちゃんと御もてなし致しましたのに」
「いいのよ、別に大した用事ではないし」
というか、私の心臓に悪いので止めて欲しい。
神出鬼没にも程があるだろう。
「それに、訪れる度に貴女の家の者を怯えさせるのも申し訳ありませんしね」
「あら、紫様は妖怪なのですから、そうであるのが当然ではありませんか。何も気にする必要はありませんよ」
「秘してこそ花と言うでしょう? 妖怪だって、年中驚かしてばかりでは有り難味も薄れるというものです」
そんなものだろうか。
妖怪でない私にはいまいちよくわからない。
「まあ、その内に貴女にもとびっきりのサプライズをお届けしましょう」
出来れば、その申し出は謹んで辞退したい。
私は曖昧に微笑みながら、さっさと話を進めることにした。
「と、ところで、ご用件の方は?」
「ああ、そうでした」
すっかり忘れていたという様子でぽんと手を打つ。
「何でも――幻想郷縁起を、印刷して配布するそうですね?」
「はい、その通りですが……」
何か、問題があるのだろうか。
幻想郷縁起の完成時に八雲紫が内容の確認をすることは毎回のことであったが、今回の内容については既に確認済みのはずである。
そちらに問題がないとすれば――印刷すること自体に問題が?
もしそうだとすれば、これは一大事である。
八雲紫がやめろと言うのなら、残念だが配布は取り止めざるを得ないだろう。
私が不安そうに見つめていると、それに気づいたのか、彼女はくすくすと笑いながら言った。
「そんな顔をしないで下さいな。別に配布を止めにきたわけではありませんよ。ただ――」
「ただ?」
「――ただ、配布予定の本について、改めて内容の確認をさせて頂きたいだけです」
内容の――確認。
どうやら心配は杞憂のまま終わったようだ。
ひとまず、ほっと胸をなでおろす。
「基本的には、先日お見せしたものと内容は同じですが……」
「でも、違うところもあるのでしょう? でしたら、やはり確認しておかねばなりませんわ」
「なるほど、わかりました」
私は机の上に置いたまま放置していた幻想郷縁起を手に取り、両手で彼女に差し出した。
「どうぞ、ご確認ください」
「えぇ、それじゃあちょっと、失礼しますね」
言い終わると同時にスキマがにゅうっと縦に伸びた。彼女はそこから身を乗り出すと、小さくぴょこんとジャンプして、軽やかに畳の上に着地する。
そのまま私の手から本を受け取ると、
「読書中だったのでしょう? 終わったら声をかけますから、私に構わず続けてくださいな」
そう言って私の隣に座り込み、私の返答も聞かずに幻想郷縁起を読み始めた。
◇◇◇
私に構わず続けてください――そう言われても、正直困る。
だって、そうだろう。
なにしろ相手は大妖怪、八雲紫である。
そんな存在が直ぐ隣にいるというのに、読書に集中できるはずがない。
彼女の目の前ではどんな面白い小説でも頭に入ってこないだろう。そう思っていたのだが――実際のところ、全然そんなことはなかった。
確かに最初は気になっていたものの、一度読み始めてしまうと八雲紫のことはすっかり頭から消え去り、ただひたすら小説に没頭するだけであった。
ページを捲る度に視界へ飛び込んでくる文字たちに引っ張られるように、ぐんぐんと読み進んでいく。
一気読みだった。
そうして、最後のページを読み終えると、
「……ふぅっ」
大きく満足の息を吐き、私は本を閉じた。
実に、実に素晴らしかった。
今の気持ちを、どうやって言葉にすればいいだろう?
読んでいる最中にはいくつか不自然な点が目に付いたりもしていたし、私なりに犯人を予想してみたりもしていた。
しかし、それら全てがあっさりとどこかに吹き飛んでいってしまったのだ。
後に残ったのは純粋な驚きと、清清しい読後感だけ。
今までたくさんの本を読んできた私だけれど、こんな経験は初めてのことだった。
そうやって読み終えたばかりの本を抱きしめながら思いを巡らせていると、ふと真横から重たい視線を感じた。
「……?」
ちらりと横を見遣ると、八雲紫が射殺さんばかりの鋭い目つきでこちらを睨んでいた。
「ひっ……!?」
思わず、声が漏れる。
なんだろう――これは一体、どういうことだ?
私は何か、彼女を怒らせるような事をしただろうか?
必死に原因を考えるが、まったく思い当たらない。ただただ混乱するばかりである。
「あ、あのっ!」
考えても埒が明かない。そう思った私は、思い切って声をかけた。
「あの……紫様?」
しかし、いくら呼びかけても当の本人は何も言わずに、ただこちらを睨みつけるだけである。
そう、ただ私の顔をじっと――いや、違う。
改めて見てみれば、彼女の視線は私にではなく、それよりも若干下へ注がれている気がする。
一体、何を見ているのだろう。
「……あぁ、ごめんなさい」
ちょうどその時、ようやく八雲紫が口を開いた。
「どうかなさいましたか?」
手元を見ると、幻想郷縁起が閉じて置かれている。
どうやら、確認は既に終わっているようだ。
まさか、読書に夢中になって放置してしまったことを怒っているのだろうか。
「す、すいませんっ! つい、読むのに夢中になってしまって……」
「いえ、そんなこと別に構いませんわ。幻想郷縁起も、確かに確認しましたよ。特に問題はありません――それよりも」
と言葉を切り、
「その本は……?」
私が抱えている本を指で示した。
「この本――ですか?」
「その本――です」
彼女が先ほど睨みつけていたのは、どうやら私ではなくこの本だったようだ。
「この本が、どうかしましたか?」
「見たところ、外の本のようですが」
「あ、はい。これは香霖堂で購入したのですよ」
「すいませんが、見せて頂いても構いませんか?」
「えぇ、勿論です」
手に持っていた本の表紙を彼女に見せる。
「……なるほど、やっぱり『十角館の殺人』ですか――これは、名作をお読みになりましたね」
そう言って、彼女は柔らかな微笑を浮かべた。
「えっ!? 紫様、この本をご存知なのですか?」
確かに、境界の妖怪である八雲紫ならば、読んでいても不思議はない。
しかし、なんという偶然の一致だろうか。
このちょっとした運命の悪戯に私が驚いていると、
「勿論です! 読んでいるに決まっているじゃありませんか!」
と、大きな声で彼女が言った。
「は、はぃ……?」
予想外の反応にきょとんとする私、しかし彼女はそれに構わず心底嬉しそうに話を続ける。
「やっぱり日本のミステリーにおいてもっとも有名な作品の一つですからね。私としては、押さえておいて然るべき作品だと思うのです。それは確かに色々な問題もありますし、最近の作品に読みなれていると新鮮味は薄れるかもしれません。しかし、それでも発表当時のことを鑑みれば――」
「ちょ、ちょっとまってください!?」
いきなり勢いよく語り始めた彼女に慌ててストップをかける。
「あの、申し訳ありませんが、何を仰っているのかさっぱりで……」
楽しそうに喋る彼女を止めるのはやや心が痛んだが、内容がさっぱりわからないのだから仕方ない。
適当に話を合わせる事もできないことはないが、それも失礼というものだろう。
「……あ、これは申し訳ありませんでした。私としたことが、同士に出会えたのがあんまり嬉しくって、つい……」
……同士?
もしかして、彼女は何か勘違いをしているのではないだろうか。
私は『ミステリ』を読むのは初めてだし、勿論その愛好家というわけでもない。
申し訳ないけれど、このことははっきりと告げる必要がありそうだ。
「あのですね、紫様」
「はい、なんでしょう?」
「私は、この『ミステリ』という種類の本を読むのは、今回が初めてなんですよ」
話していた時の楽しそうな顔を思い返すと、それを告げるのは少々つらい。
だがしかし、矢張り嘘を吐くわけにはいかないのだ。
「……そうだったのですか。これは、私としたことが少々先走りが過ぎたようですね」
彼女はそう言って恥ずかしそうに微笑むが、その表情には隠しきれない寂しさが感じられた。
余程、自分と同じ趣味を持つ者の存在が嬉しかったのだろう。
考えてみればそれは当然のことで、この幻想郷でこういった本を読んでいる者がそうそういるはずはないのである。なにしろ、幻想郷と外の世界とは大結界によって隔絶されているのだから。
僅かながらも可能性がある所といえば、この本を購入した香霖堂、あるいは紅魔館の大図書館と言ったところだろうか。しかし、店主にそういった様子は見られなかったし、紅魔館の住人達と八雲紫に付き合いがあるという話も聞いたことがない。
もしかしたら八雲紫は――今日初めて、その幻想郷では珍しい趣味について語ったのかもしれない。
そう思うと、なんだか胸の奥がきゅっと締め付けられるような、そんな気がした。
「あ、あの、紫様!」
気がつけば、口が勝手に動いていた。
「……はい?」
「確かに私は『ミステリ』を読むのは初めてでしたが、大変面白い本だと思いました。これは……他にも、こういった本があるのでしょうか?」
「えぇ、それは勿論、ありますが……。それが何か?」
こちらの意図がわからないといった様子で彼女が答える。
「つまり、ですね。もし紫様がお持ちでしたら他の作品も読んでみたいな、なんて……」
言った。
言ってしまった。
言ってしまった以上、もう、後戻りは出来ない。
この後どんな展開が待っているのか、それは私にだって容易に想像がつく。
しかし、彼女の寂しそうな顔を見ているとなんだかどうしようもなく切なくて、私は黙っていることが出来なかったのだ。
「興味がおありですか! それなら、今度お持ちいたしますよ!」
先程とはうって変わって、花が咲いたように明るい表情で彼女は言った。
「そうして頂けると有難いです」
自ら面倒事を背負い込んでしまった感は否めないが、彼女の嬉しそうな様子を見ていると、それもいいかと思えてくる。
言ったかいがあるというものである。
「ですが……」
「……どうしたのです?」
表情を曇らせた彼女に私が尋ねる。
「ミステリーの蔵書はかなりの量になるのですが、大丈夫でしょうか?」
……かなりの量?
不安が、むくむくと湧き上る。
「……大体、どれくらいあるのですか?」
「そうですね。……優に5百冊はくだらないかと」
一日一冊で約一年半。
なんだかあたまが、くらくらする。
「……やはり、やめておきますか?」
心配そうに、まるで怯えた子供のような瞳で彼女が見る。
あの大妖怪、八雲紫が、である。
そんな彼女の様子を見て――、
「いえ、それだけあれば楽しみが尽きませんね!」
――勿論、私に断れるはずも無かった。
◇◇◇
さて、結局どうなったかというと。
「うーん、まずは何がいいかしら……。どうせならクラシックから入るべきかしらね。時代背景もそんなに違和感ないでしょうし、ミステリーはパロディも多いものね……」
一度に数百冊もの本を読めるはずもなく、彼女のお勧めを何回かに分けて持ってきてもらう事になった。
それは良いのだが――、
「あの、紫様。そこまで悩まなくとも良いのでは……?」
――彼女は妙に張り切ってしまい、私にどんな順番で読ませるべきなのか考え始めてしまった。
しかも、それがなかなか決まらない。
「順番というのは重要なものなのですよ。それ次第で後に読む本の印象が変わることも多々ありますし、慎重に考えねばなりません!」
と、八雲紫が力説する。
そうして私のために悩んでくれるのは有難いのだが――正直、非常に面倒である。
さっさと決めてくれないものだろうか。
「まあでも、あなたの場合は最初に読んだのが十角館ですものね――本当に幸運だと思います」
「……そうなのですか?」
当事者だからか、あまりそういった自覚は無い。
「えぇ。最初に合わない作品に当たってしまって、それでミステリーから離れてしまう人も多いですからね。そういう意味では、十角館はまさにうってつけと言えるでしょう――読んでみて如何でしたか?」
「んっと、そうですねぇ……」
今日、読んだばかりの本のことを思い返す。
「外の世界の本ということで最初は戸惑いましたが、それを想像しながら読み進めるのも楽しかったし、とても面白かったです。特に、そうやってそれまでに積み上げてきた世界が『たった一言』で一瞬にして崩れ去っていく様は、実に素晴らしかった。そしてそれが終わった後には、これまで見ていた世界がまるで別の顔をして、やっぱりそこにあるのです。あそこを読んだ時の感動は、何とも言葉には代え難いですね……」
私の話を聞き、彼女は満足そうに頷いた。
「どうやら、見事に騙されたようですね」
「えぇ、してやられてしまいました」
私は少し照れながら言った。
「それは別に恥ずかしい事ではありませんよ。貴女のように素直に読み、筆者の思惑通りに騙されるのが、ある意味では一番正しいミステリーの読み方だと思います」
「……そうでしょうか?」
「勿論です。ちょっと羨ましいですね――私には、絶対に出来ない読み方ですもの」
「それって、どういう……?」
「私は、ミステリーで騙されたことが一度も無いのです。どんなに難しいトリックでも、どんなに意外な犯人でも、必ずわかってしまうのですよ」
そう言う彼女は、少しだけ寂しそうだった。
「ですから、私のミステリーの楽しみ方は、普通の方とはちょっと違うかもしれません」
超人的な頭脳を持つという八雲紫、確かに彼女ならばどんな複雑極まりない謎であっても、いとも簡単に解き明かしてしまうのだろう。
それは、私などからしてみれば単純に羨ましいことだ。
しかしそれは、私が『十角館の殺人』を読んだ時の驚き、爽快感、そういったものを味わうことが出来ないということでもある。
それは――とても、勿体無いことのように思える。
「では、紫様はどんな読み方をするのですか?」
「そうですね。謎を解き、犯人を当てるというのは勿論そうなのですが、伏線から作者の意図を読み取り舌鼓を打ちながら読み進めていくのもなかなか楽しいですよ――けど、心底騙されたときの楽しさに比べれば、矢張り及ばないでしょうね……」
そう言う彼女はやっぱり寂しそうで――、
「そんなことはないと思いますっ!」
――私は、思わず叫んでいた。
「……あ、阿求?」
私の突然の行動に、彼女は目をぱちくりとさせて驚いている。
「そんな読み方があっても良いではないですか、本の楽しみ方は人それぞれである筈です。それに、先程の本でも言っていました! 『ミステリ』は読者対作者の論理のゲームだと。それならば、貴女は誰にも負けない名探偵ということではないですか。それは――」
と、そこで一旦話を切る。
意図的なものではない、一気に喋ったせいで息が切れただけである。ちょっと格好悪い。
彼女はというと、そんな私をじっと見つめながら続きを待っている。
「それは?」
「……それは、とても――素敵なことだと思います」
そうして私が言い終えると、彼女は優しく微笑みながら言った。
「……ありがとう。そう言うあなたも、とても素敵だと思います」
そこで、ふと思った。
今日までに、こんな風に笑う彼女を見たことがあっただろうか、と。
思い返せば、八雲紫と今日ほど長い時間を過ごした事は一度も無い。
今日見た、彼女の寂しそうな顔、楽しそうな顔、そして今のような笑顔――どれもこれも、初めてばかりだ。
どういうことだろう、彼女と会うのは今日が初めてというわけではないのに。
「……どうしましたか?」
「わっ!」
いつの間にか、少し離れて座っていたはずの彼女が私の目の前に居た。
しかも、どういうわけか彼女の右手が私の頭の上に置かれている。
なでなでと手が動く感触がくすぐったい。
まるで優しく子供を撫でる様に――というか、そのままである。
私は、何故か頭を撫でられていた。
「こ、子供扱いしないでくださいっ!」
稗田なめんな、と喉まで来ていた言葉はそのまま飲み込み、私は彼女に不当な扱いの即刻中止を申し出た。
「あら、ごめんなさい」
手はどけたものの、まったく反省した様子は無い。
というかむしろ、妙に嬉しそうである。
「……なんだか上機嫌ですね?」
「当然でしょう? だってようやく、私の趣味について語り合える相手が見つかったんだもの。藍は趣味に合わないって言うし、霊夢と幽々子なんか、勧めても読んですらしてくれないのよ!」
「は、はぁ……」
今日ここに至るまでには、彼女なりの苦労があったらしい。
「それにしても、私が名探偵とはね――そんなこと、考えたことも無かったわ。これで本当に事件でもあれば面白いのだけれど」
「殺人事件が起きても困りますよっ」
「ふふ、別に殺人事件とは限りませんわ。日常の中にある不思議な出来事――そんな謎は、ないかしら?」
「そうは言ってもそんなにお手軽に謎があるわけも――」
と、言いかけたところでずっと放置していた柚子饅頭が目に留まった。
……あった、謎が。
「紫様、ありましたよ」
「何がです?」
「謎が、です」
私はにんまりと笑って言った。
「……それで、その謎とはどんなものなんですか?」
私は黙って机の上に鎮座している、若草色をした柚子饅頭を指差した。
そんな私の様子を見て、怪訝そうに彼女が尋ねる。
「その饅頭がどうかしたの?」
「これが、謎なのです」
ますますもって訳が解らないといった様子の彼女に、私はゆっくりと説明を始めた。
◇◇◇
事の始まりは、ちょうど半年前のことだった。
しかし、当初私はこの事件――事件というと大仰だが、便宜上そう呼びたいと思う――が起こっていた事に気づかず、おかしいと思い始めたのはそれから更に2週間が過ぎてからだった。
それくらいに、事件自体はささやかなものである。
稗田家では、百年近く続いているという人里で一番の老舗和菓子屋『風鈴』――幻想郷に和菓子屋はここしかないので一番なのは当然である――で、家の者全員のお茶請けを毎日購入している。
そのメニューは、毎回店員のお任せということで、買い物に行っている者も中身についてはまったく関知していない。
私の分だけは皆の分とは別に包装されており、そうして買ってきたお茶菓子を部屋まで届けてくれるのだ。暖かい紅茶と一緒に。
そして、そのお茶菓子に事件は起こったのだ。
とは言っても、別にお茶菓子に毒が含まれていたとかそういうわけではない。
おかしいのはお茶菓子ではなく、その種類である。
包装されているお茶菓子は毎回二つなのだが――、
「――その中に、必ず『柚子饅頭』が含まれているのですよ」
「……なんだか、しょーもない話ねぇ」
それまで黙って話を聞いていた彼女が、頬杖をつきながら言った。
「そんな実も蓋も無いこと言わないで下さいよっ!?」
下らないと言えばまったくもってその通りなのだが、当事者からしてみれば実に不思議な話なのだ。
大体、誰のために話していると思っているのだろうか、このスキマは。
「ちなみに、柚子饅頭は『風鈴』の名物でもなんでもありません」
つまり、あえて柚子饅頭を選ぶような理由は、少なくとも表面上は無いというわけだ。
さらに付け加えると、柚子饅頭は私の好物の一つでもあるのだが、これは別に話さなくてもいいだろう。
それを誰かに話したことはないし、明らかに関係ないし。
「えーと、この場合は、その『原因』を答えればいいのかしら?」
「もしかして、もうわかったのですか!?」
「いえ、まだよ。ちょっと情報が足りないわ……。いくつか質問をさせてもらってもいいかしら?」
「えぇ、構いませんよ」
なんだか本当に自分がミステリーの世界に入り込んでしまったようで、ちょっとドキドキしてくる。
「他の稗田家の者にも、同じようなことがが起きているのかしら?」
「いいえ、それとなく確認したことがあるのですが、他の人は全員普通みたいです」
直接尋ねるのはなんとなく抵抗があったので、お茶の時間にこっそりと覗いて来たのだ。
その時も、私のお茶菓子にはやっぱり柚子饅頭があったのだが、他の者の分には一つも入っていなかった。
「……ちなみに、貴女はその和菓子屋とは何か関係が?」
「まったくありません」
私は、間をおかずに断言する。
「あら、やけにはっきり言うのね。忘れてるだけとか、そんなことはないのかしら?」
「確かに普通ならそういうこともあるのでしょう。しかし、私に限ってそんなことはあり得ません。何故なら私は九代目御阿礼の子、稗田阿求なのですよ。この私が言うのです」
ここで一応説明をしておくと、稗田阿礼の生まれ変わりである歴代の御阿礼の子は、阿礼が持っていたという求聞持の能力――すなわち、見た物を忘れないという力を受け継ぐことが出来る。
そして、私は九代目御阿礼の子である。
当然ながら私もまた、その能力を持っている。
他の人間ならいざ知らず、私に限って忘れたなどということはあり得ない。
生まれた時分から見たものは全て、私の記憶にしっかりと刻み込まれている。
「……それもそうね。それじゃあ、それは間違いないわね」
「えぇ、こっそりとお店に行って顔も見てきましたから、間違いありません」
私の言葉に、八雲紫が怪訝そうに眉をひそめる。
「……あなた、そんなことまでしていたの? 随分暇なのねー」
「だって、気になるじゃないですかぁ……」
私だって年頃の娘なのだ。たかが饅頭といえど、自分の身近にこんな不思議なことが起これば気にもする。
繊細な乙女心である。
「そんなに気になるなら、直接聞いてみれば良かったではないですか」
そんな私の乙女心を一切無視して、彼女が言う。
まったく、これだから年寄りは――と、言いたい衝動をぐっと堪えて、私は応える。
「……それくらいで、騒ぎ立てるのもどうかと思いまして」
実際問題、たかだか饅頭のことである。
そんなことでいちいち店まで出向いて、店員に尋ねるのもちょっと気が引けるというものだ。
しかも、私はこれでも人里で有数の名家である稗田家の当主であり、九代目御阿礼の子としても名が知れている。
その私がわざわざ店に出向いて問いただせば、相手を無駄に萎縮させてしまうかもしれない。
それに――
「――それに、もしこのお菓子に何か意味があったのなら、それに気づかず訪ねて行くというのも、なんだか申し訳なくて……」
そう、この事件には何か意味があるかも知れないのだ。
特に意味が無いのなら別にいい。しかし、もしもこれに何かしらのメッセージが込められているというのなら、それを知らないまま訪ねて行くのは――どうしても、気が進まない。
「ですから、是非紫様に解き明かして欲しいのです」
これは、私の本音である。
彼女に話したのは、それは勿論、彼女のためだ。
しかし、出来ることならこの謎を解き明かして欲しいと思う。
これに何か意味があるのなら――それを、知りたい。
「……やっぱり、わかりませんか?」
しかし、彼女は俯いたまま黙り込んでおり、私の問い掛けには応えない。
いくらミステリーの愛好家で謎を解くのが得意と言っても、結局それは小説の中の出来事だ。
超人的頭脳を持つ彼女でも、現実の事件ではそう上手くはいかないのだろうか。
一人そんなことを考えて沈んでいると、不意に不敵な声が耳に届いた。
「いいえ、もう大体わかりましたよ」
「えっ?」
彼女の不意打ちとも言えるような言葉に私は呆気にとられ、間抜けな返事をしてしまう。
そうして呆然としている私に、彼女はにっこりと笑いながら言い放つ。
「考えられる答えは――たった一つしかありませんわ」
こうして、予想していたよりもずっと早く、とびっきりのサプライズとやらは私に届けられたのだった。
◇◇◇
「……本当に、わかったんですか?」
彼女には悪いけれど、どうにも半信半疑である。
「嘘を吐いてどうするのですか」
「で、でも、たったあれだけの情報で?」
自分で言うのも何だが、大した情報は提供していないような気がする。
「そんなことはありませんよ。既に、必要な情報は全て得ています」
と、事も無げに彼女は言うが、にわかには信じがたい。
「あっ! あれですか、境界を操る能力で――」
これしかない、と私は思ったのだけれど、その発言は彼女のデコピンで中断された。
「痛っ!?」
一見すると普通の人間と変わらない彼女だが、やっぱり妖怪である。
軽く指を弾いたようにしか見えなかったのに、物凄い衝撃が頭に走る。
めちゃくちゃに、痛い。
「なにするんですかぁっ!?」
か弱い少女の大切なおでこに行った狼藉に対し、断固とした態度で抗議する。
「貴女が失礼な事を言うからいけないのですよ。この八雲紫、ミステリーに対してそのようなアンフェアな手段は使いません」
そう言う彼女だが、本当にそうだろうか。
私の手前、解らず仕舞いでは格好がつかないから能力を使って情報収集をした。それは、ちょっとありそうな話であるように思える。
そうやって私が疑いの眼差しで彼女を見ていると、
「……まったく、仕方ないですね。それでは早速、謎解きと参りましょうか」
苦笑しながら彼女が言った。
「はい、お願いします!」
あの饅頭にどんな意味があったというのか――それがいよいよ解き明かされるのである。
自然と、鼓動も早くなっていく。
「まず、どこから話しましょうか――そうね、この事件のターゲットは他の誰でもない、稗田阿求であることは間違いないですね」
確かにそれは間違いない。
しかし、何だか今更と言った感じがする。
「あら、何だか不満そうな顔ね?」
どうやら、思ったことが表情に出てしまったらしい。
私は慌てて弁解する。
「いえっ、別にそんなことは!」
「別にいいのよ。でもね、これはこの謎を解くには重要な事なのですよ」
「そうなのですか?」
「えぇ。それに、最初の段階では他の可能性も考えられましたしね。稗田家全体がターゲットであるとか――しかし、柚子饅頭が届けられるのは貴女だけ。しかも、それが店の者によって貴女専用に仕分けされたものなら間違いないでしょう」
なるほど、そういう可能性もあったか。
「しかし、そのターゲットである筈の貴女は、まったく身に覚えが無いと言う。その上、貴女の場合これは殆ど間違い無いと言えますわ」
「はい」
お店の事は知っていたが、買い物に行った事もなければ、店員の顔すらこの事件の前までは知らなかった。
事件前のあらゆる記憶を手繰ってみても、関連しそうな事柄は一つも出てこない。
「そう仮定すると、普通ならここですっかり手詰まりとなるわけですが――あなたの場合、『普通』ではありません」
「はい?」
普通、ではない?
一体、何の事を言っているのだろうか。
「紫様、それは求聞持の能力の事を言っているのですか?」
「いいえ、違います」
求聞持の能力でないとすれば、彼女は私のどこが『普通』ではないと言っているのか。
私の持つ、普通ではないモノ。
「……あっ」
そうだ。
もう一つ、ある。
求聞持の能力以外で、私にある『普通』とは違った点。
それは――
「……転生のことでしょうか?」
――それ以外には、考えられない。
「えぇ、その通りです」
『風鈴』の創立は凡そ百年前である。となると、該当するのは――先代、阿弥か!
彼女は、柔和な微笑みを浮かべながら続ける。
「もし『今の貴女』にまったく身に覚えが無く、それが間違いないというのなら――原因は、転生前の貴女にあるとしか考えられません」
なるほど、確かに理屈は通っている。
だがしかし、だ。
「けれど紫様、先代の阿弥が転生したのは、今から百年も昔のことです。妖怪の感覚では、大したことの無い時間かもしれませんが……」
人間にとって、百年はあまりに、長い。
その当時生きていた人間が、今の幻想郷で未だに生きているとは思えない。
仮にそんな人物が居たとしても――記憶とは、薄れていくものだ。
幻想郷を揺るがすような大事件ならまだしも、私に起こったのは、毎日柚子饅頭が届く、ただそれだけのことである。
そんな些細とも言えるようなことが、百年もの時の流れに耐えられるとはとても思えない。
しかし、そんな私の指摘を聞いても、彼女は微笑みを絶やさない。
「確かに貴女の言うとおりです。記憶とは薄れていくもの――これには、逆らいようがありません」
矢張りそうかと私は肩を落とすが、彼女の話にはまだ続きがあった。
「ですが、それが記録であるならば、どうでしょうか?」
記録……?
それは、まさか。
「幻想郷縁起っ!?」
私の言葉に、彼女は満足そうに頷いた。
そうか、確かにそれならあり得るかもしれない。
幻想郷縁起なら――、
「……あ」
――しかし、私は気づいてしまった。
それは、絶対にあり得ないということに。
「……あの、紫様」
「何かしら?」
折角、私のために推理してくれたというのに、それが間違っていると私自身の口から言わねばならないのは、正直辛い。
けれども、真剣に取り組んでくれた彼女のためにも、それを隠しておくわけにはいかない。
「先代の幻想郷縁起には柚子饅頭のことは勿論のこと、和菓子屋『風鈴』のことも、一言たりとも記載されていないはずです」
そう私は言い切った。
これは、先程私が『身に覚えが無い』と言ったのと同じ位に間違いの無いことなのだ。
つまり、理屈は同じである。
私には求聞持の能力があり、そして今世の幻想郷縁起執筆のために、歴代の幻想郷縁起を何度も読み返しているのだ。
そのような記載が無いことは、わざわざ幻想郷縁起を確認するまでも無く、絶対に間違いの無いことだ。
そもそも幻想郷縁起は歴史書、しいては妖怪の資料である。
人里の和菓子屋について、記述されているはずがなかったのだ。
これは事実なのだから曲げようが無い。しかし、わざわざ推理してくれた彼女に申し訳がない、と私がしょぼくれていると――
「痛っ!?」
――突如、おでこに激しい痛みが走った。
見れば、八雲紫が私の目前に掌を突き出している。
これは――また、デコピンか!
「何するんですかっ!?」
痛みに任せてがあああと吼える。
しかし、彼女はまるで意に介さず、デコピンをしたらしい右手を空中でひらひらと泳がせている。
「まったくもう、硬い頭ねー。指先がちょっと痛いじゃないの」
「私の方が痛いですよっ!?」
「それに、中身の方も――ちょっと硬すぎるわね」
「……はぃ?」
そんな私の反応をみると、彼女は呆れたように言った。
「大体ね、貴女が悪いのですよ。……いいですか? 私達は、前提に基づいて、論理を重ね、一つの結論に至ったのです。それによって得られた結論は、事実と同じくらいの重みがあるのですよ。もしも事実がそれに沿わないなら――前提か、事実の方が間違っていると疑わなければなりませんわ」
事実と同じくらいの――重みが。
しかし、そう言われても私はいまいち釈然としない。
前提、つまり私と和菓子屋に何の関係も無いという事を指しているのだろうが、それについては絶対の自信がある。
そして事実の方、先代の幻想郷縁起に和菓子屋の記述が無いことも、疑う余地の無いことだ。書庫から先代の幻想郷縁起を引っ張り出してきて調べても、きっと結果は変わらないだろう。
やっぱり私には、いまいちよく、わからない。
「ええと、それはつまり……どういうことなのでしょうか?」
私は早々に匙を投げ、彼女へと問い掛ける。
「それでは、前提について考えて見ましょうか。とはいっても、これについては特に考え直すところもありませんね。貴女の記憶に間違いはないのでしょうし、それ以外の点もきっとその通りなのでしょう――では、事実の方はどうでしょうか?」
「私には、こちらも疑う余地はないと思うのですが」
「果たして本当にそうかしら? 貴女の記憶に間違いがないとしても、何か、見落としている事があるのではありませんか?」
「見落としている、こと……?」
「そう、例えば――仮に和菓子屋が幻想郷縁起を読んでいたとして、それは『貴女が読んだ幻想郷縁起』と本当に同じものなのかしら?」
「そんなの、同じ本に決まって――」
――実物を見たことはないけれど、写本を行い配布していたこともあったようだ。
「――あ、あぁっ!? 写本っ!?」
「多分、それですね」
確かに、先代の幻想郷縁起の写本が配布されていたとしてもおかしくは無い。
「で、でもっ、実際の幻想郷縁起には書いてなかったのに、写本に書いてある筈が――」
「あら、そうかしら。私の友達に配布する本の内容を原本と変えてしまうような子もいますからね。有り得ないとは言えないのではなくて?」
そう言って、くすくすと笑いながら私を見る。
「うぅっ……」
ああ、なんだか妙に恥ずかしい。
実は、確認が二度手間になったことを恨んでいたりするのだろうか?
しかしそれでは――まさか本当に、写本の方には和菓子屋のことが書かれているのだろうか。
そう思うと今すぐに確かめたいという欲求に駆られるが、残念ながら写本は稗田家には一冊も残ってはいないのだ。
それどころか、その所在も、現存しているかどうかすらも把握していない。
彼女の推理通りなら、件の和菓子屋には当然あるのだろうが、まさか直接行って確かめるわけにもいかない。
打つ手が無いと思うと、ますます欲求は強くなる。
しかし、こればかりはどうしようもない。本当に困った。
「どうやら、お困りのようですね?」
そんな私の様子を見て、楽しくてたまらないといった風に彼女が問う。
「はい。ですが確認のしようがないのですから、仕方ありません」
「ふふ、諦めるのにはまだ早いですよ」
そう言うと、彼女は空中に向かって無造作に手を投げ出した。すると、
「さて、どこにあるかしら……」
手の先にスキマが現れ、彼女はその中に手を突っ込むと、ごそごそと何かを探し始めた。
「……一体何をなさっているのですか?」
「勿論、写本を探しているに決まっているじゃないですか」
「えっ、ある場所を知っているのですか!?」
稗田家ですら所在を把握していないというのに。
「そういうわけじゃないけど、ちょっと心当たりがあってね」
「このスキマは、どちらに繋がっているのです?」
「人里の寺子屋ですわ」
ああ、なるほど。
慧音さんは授業の為にと里中の資料を掻き集めていたらしいし、あそこなら確かにあるかもしれない。
「……あんまり荒らさないで下さいね?」
あんまり散らかしては、慧音さんに申し訳ない。
「えぇ、勿論ですよ――っと、これかしら?」
そう言いながら彼女がスキマから取り出した本には、表紙に大きく『幻想郷縁起』と記されていた。
「見せてくださいっ!」
「っと、ちょっと、落ち着きなさいってば!」
彼女の手から本を奪い取ると、私は食い入るように読み始めた。
どうやら、基本的な内容は私が読んでいる幻想郷縁起と大きくは変わらないようだ。しかし、実際に執筆した時期と写本した時期に多少の開きがあるのか、微妙な内容の修正、加筆などが見受けられる。
兎も角、確かに写本と原本の内容には差異があった。
これは、本当に当たりかも知れない。
そう思い、意気込んで該当する部分を探していく。
「……あった」
果たして、それは第四章・独白の最後に書かれていた。
以下に、その部分を抜粋する。
『今、幻想郷は激動の時代を迎えつつある。
昨今では、人間達はこれまでに無かったような力を持ち始め、あれ程に恐れていた妖怪達の事もすっかり怖がらなくなった。
それどころか、その存在を否定する輩まで現れる始末である。
それに比して、妖怪達の力は衰弱の一途を辿っている。
この幻想郷においてすら、その影響は火を見るよりも明らかである。
本当に、このまま妖怪達は消え去ってしまうのか。実際のところ、私にはわからない。
人間にとって、それが正しい選択であるのかどうかすら、私にはわからない。
しかし、それが多くの人間が選んだ回答であることは間違いないだろう。
存在を否定され、人間達の社会から追い出された妖怪達。
果たして彼らが今後どうなるのか、それは彼ら自身の回答にかかっている。
彼らはこの現状を受け、どのような答えを導き出すのだろうか。
残念なのは、私にはその回答を、その結果を見届けることが出来ないということだ。
その答えが、妖怪、しいては人間達にとっても幸せなものであることを祈るばかりである。
しかし、次の転生の準備を始めるまでは、まだ少しばかりの余裕がある。それが始まるまでは、幺樂団の演奏でも聴きながら私(*3)の好きな柚子饅頭を愉しみ続けたい。
八代目阿礼乙女 稗田阿弥
*3 阿弥になってから好きになった。和菓子屋『風鈴』の饅頭は絶品である。』
「まさか、本当に書いてあるとは思いませんでした……」
「ありましたか、私にも見せて下さいな」
私から本を受け取ると、まじまじと紙面を見つめながら呟く。
「確かに書いてありますね。……それにしても、貴女にしろ阿弥にしろ、私に黙って内容を変えるなんて随分ひどいじゃありませんか」
責めるように、私を見る。
やっぱり、恨んでいましたか。
「私の場合、こちらの確認が済んだらご報告するつもりだったのです」
と、自分の件について一応言い訳をしておく。
まあ、阿弥も私なんだけれど、それについては時効ということで許して欲しい。
「しかし、よくわかりましたねぇ……。写本の事も最初からわかっていたんですか?」
誤魔化すように――というわけではないが、疑問に思っていた事を口にする。
「いえ、幻想郷縁起を直接見た訳ではないだろうとは思っていましたが、写本であるとまでは考えていませんでした。そもそも、その存在すら今日まで知りませんでしたし」
「では、何故あれ程の自信を持って、別の手段がある筈だと……?」
私は、一度間違えてから気づいたけれど、彼女は一体どのようにしてその結論に至ったのだろう。
「逆に考えてみれば良いのですよ。先程も言った様に、和菓子屋が幻想郷縁起を読んだのは間違いのないことです。では、仮に和菓子屋が読んだ幻想郷縁起が原本であったなら、どうなるでしょう?」
「特に、不都合はないと思いますが……」
柚子饅頭の記載が無いという事を除けば、だが。
一体何が問題なのだろう?
「不都合ありますよ。だって、幻想郷縁起は基本的には一冊しか存在しない筈です。そしてそれは、ここ、稗田家で管理されているではないですか。もし、読みたいという方が現れたら貴女はどうしますか?」
「そうですね。相手の人物を確認してから書庫にお通しするでしょう……あっ!?」
「そう、もし幻想郷縁起を読もうとすれば、稗田家に――しいては、貴女に関わらずにはいられないのです。しかし貴女は、店の者とは一切関係がないと言いましたね。そうなると、原本を読んでいるというのは非常に疑わしい」
なるほど、そういうことだったか。
「根拠はそれだけではありません。そもそも、本当に阿弥が書いた幻想郷縁起にそんな記述があったなら、真っ先に貴女が気づいているはずです。結構、気にしていたようですし――後は、その事を示唆すれば、貴女ならその『別の手段』に気づく筈だと思いました」
確かに、本当に幻想郷縁起に書いてあったのなら、きっと何ヶ月も前に気づいていただろう。
現に、記述が無いことには直ぐに気づいたのだから。
「しかし、それにしても……」
「……なんですか?」
「いえ、貴女も阿弥も、何故わざわざ食べ物の話題を最後に持ってくるのかと……」
放っておいて欲しい。
別にいいじゃないか、食べ物の事を書いたって。
「でも、良かったではないですか。これで、貴女の不安も少しは軽減されるでしょう?」
「えっ、私の不安……ですか?」
「はい。幻想郷縁起が本当に読まれているのか――心配だったのでしょう?」
「……お気づきでしたか」
「これまでそんな様子が無かったのに、突然製本して配布するというのですから、何かあったのだろうと勘繰りたくもなりますよ」
しかし、そんな私の不安とは裏腹に、百年も前に書かれた幻想郷縁起が未だにこうして読まれているのだ。
たとえ記憶は薄れても――記録は、残る。
私の書いた幻想郷縁起も、百年の時を超えて誰かに読んで貰えるのだろうか?
そう考えると、なんだか胸の奥がぽわぽわと暖かくなるのを感じる。
「まあ、謎も解けたことですし。今度はこっそりと覗くなんてことはせずに、正面から堂々と買い物に行くといいですよ。……好きなんでしょう? 柚子饅頭」
「何故それをっ!?」
柚子饅頭は阿弥だけでなく、私の好物でもある。
しかし、それを誰かに話したことは一度も無い。
今回も、話の筋とは関係ないと思ったので伏せていたのだが……。
「いやいや、阿求。嫌いなものを半年間も黙って食べ続けるような物好きは居ないと思いますわ」
「そ、それもそうですね……」
「それに、相手の方もきっと喜んでくれると思いますよ?」
「……そうでしょうか?」
それについては、いまいち自信が持てない。
今まで一度も自分で買いに行ったことがないのに、突然訪れて驚かせてしまわないだろうか。
私の弱気を見て取ったのか、彼女が自信たっぷりに言う。
「勿論ですよ。和菓子屋は半年前に幻想郷縁起を読んで、きっと今代の御阿礼の子、つまり貴女も柚子饅頭が好物に違いないと思ったのでしょう。だから、貴女に届けられる注文が入ったときには、その好物を毎回選んで包んだのです。貴女に少しでも喜んで貰おうと……。そんな貴女が買いに行って、嬉しくないはずがありません」
「でも、それは……結局、想像に過ぎないではありませんか」
確かに彼女の言う通り、和菓子屋が柚子饅頭を包んだのは幻想郷縁起を読んで私の好物だと思ったからだろう。
しかし、それと私が行って喜んでもらえるかはまた別問題だ。
私はどうしても、そんな不安を拭い去ることが出来なかった。
「……そうですね。確かにこれは、推理ではありません。何の根拠も無い、ただの想像に過ぎないのかもしれません。しかし、それは――」
と、そこでわざとらしく、話を切る。
私はなんだか焦れったくて、待ちきれずに続きを促した。
「それは、なんですか?」
「……それは、とても――素敵なことだと思いませんか」
そう言って、彼女は朗らかに笑った――。
終始和やかな雰囲気ながらも、二人の背景や他の人とは違う立場ゆえの悩みや抱えている不安などを描写しているところもうまいと思います。
ゆかりんがスキマから突然現れてペースをもっていかれるとか、阿求が意外にカワイイことを考えているなど個人的にグッとくるポイントが多く、楽しく読ませていただきました。
存在そのものがミステリーなゆかりんがミステリ愛好家というのも面白いですね。
ちゃんと二人の能力を生かしつつミステリーに仕立てるところは本当に
上手いですね。
だが、あえて言おう。
アガサクリスティー初め、読んでる最中には絶対に犯人が分からない(というか情報が足りない)ミステリーは多いと思うぞ。