不老不死であるはずの藤原妹紅がこの世を去るとは、一体誰が想像できただろうか。
「それでは本日の授業はここまでとしよう。皆、気をつけて帰りなさい」
私がそう告げるや否や、教え子たちは「慧音先生さようなら」だの「また明日ね」等と叫びながら、勢いよく寺小屋から寒空の下へ飛び出していく。
「待ちなさい。挨拶は相手の眼を見てするものだ」
咄嗟に叱りつけたが、彼らはどうせ聞いてはいないだろう。遊びの予定で頭が一杯の子供たちに、教師の小言が届くわけはないのだ。
「妖怪に気をつけて!日が暮れる前には家へ戻りなさい」
大声で呼びかけると、教え子たちも手を振って応えた。
子供たちの姿が見えなくなるのを見届け、私も帰り支度に取り掛かる。
黒板を絞った雑巾で拭きあげ、授業で使う資料やチョークなどを手早くまとめる。外套を羽織り、換気の為に少し開けていた窓を閉める。
後は帰るばかりだ。
「…が、その前に」
私は外套のポケットから煙草とマッチを取り出す。紙の小箱を軽く揺すり、飛び出した一本を咥え,マッチを擦る。
「む」
火を灯すべく息を吸い込んだ拍子に、すぼめた唇から煙草を落としそうになった。
まだ器用に吸うことはできない。
__妹紅は__私はふと考えてしまう。
妹紅は片方の手で煙草を支え、もう一方の手の指先に小さな炎を宿して,上手く火を点けていた。
そういえば最初に二人で煙草を吸ったのも、こんな年の瀬の寒い日だった。
そんな事をあてもなく考えていると、何故だか無性に遣る瀬無く感じられた。気を紛らわすべく、私は鼻から口からぷぅぷぅと煙を吐いた。
コツコツ、と窓ガラスを叩く音がした。
慌てて吸っていた煙草を後ろに隠し持ち、顔を上げると、そこには見知った少女の笑顔があった。稗田家の当主である。
私が寺子屋の中に入ってくるように手招きすると、彼女は持っていた籠を抱えあげ、指差した。買い物の途中のようだ。
「何故隠したのですか?」
内側から窓を開けてやると、御阿礼の子が尋ねてきた。煙草のことであろう。
「忘れ物をした子が戻ってきたのかと思ったんだ。」
窓から、長くなった灰を外へと落とす。
「子供たちの前では吸わないようにしている」
「何故ですか」
「悪影響を与えては困る。それに、体に悪いからな。」
私としては至極真っ当なことを言ったつもりであったが、何が面白いのか、御阿礼の子はくすくすと笑いだした。
「おかしいかな」
憮然として聞き返す。
「いえ、何もおかしくはありませんよ。殊勝なことだと思います」
でも、と御阿礼の子は続ける。
「差し出がましいようですが、それならいっそ吸うこと自体をお止めになられては?」
「それができれば苦労はないよ。それにね」
短くなった煙草の先から、白煙が上る。煙はしばらく上がると、冬の風に吹かれて散った。
「ほら、煙草の煙はなんとなく線香のそれに似ている。彼女への焼香は、こっちのほうが似合うだろう?」
御阿礼の子が返事をせずに何やら神妙な顔をしているので、私は話題を変えることにした。
「それはそうと、随分買い込んだみたいだな」
「ああ、これですか」
御阿礼の子が抱える籠には、野菜や卵が詰め込まれていた。
「今夜はお鍋にしますよ。先程、妖怪の賢者より牛肉も賜りました。幻想郷ではなかなか手に入りませんから」
「それは豪勢だね。お客さんでも来るのかい?」
何気なく聞くと、目の前の少女は眼を見開き、口を半開きにしてみせた。驚いているらしい。表情豊かな子である。
「何を仰っているんですか?」
「え」
「もしや、今日が何の日かお忘れなのですか?」
「あっ」
咄嗟に振り返り、寺子屋の壁に掛った暦を確かめる。
そうだ、何故忘れていたのか。
「そうですよ」
御阿礼の子が小さく溜息をつく。
「今日は『妹紅を偲ぶ会』の日ですよ」
「妹紅は気に食わない奴だったわ。でも、居ないとなると、もっと癪に障るものね」
という蓬莱山輝夜の発言を契機に「妹紅を偲ぶ会」は発足した。会員は蓬莱山輝夜、御阿礼の子、そして私である。
発足当初は故人を偲んでしめやかに執り行われていた会ではあるが、近頃は「偲ぶ」を名目にした宴会になりつつある。
故人の命日の時期も年末に近いとあって、忘年会の良い口実になるのだ。
妹紅が居なくなってから、他人との付き合いに疎くなっていた輝夜にとって、良い刺激になっているのだろう。彼女も大いにはしゃぐ。
私としては複雑な気分であるが、まあ、許そう。
例年は永遠亭で行われていた「偲ぶ会」ではあるが、今年は本人のたっての希望もあり、稗田家で行われることになっていた。
宵の口。私は稗田家を訪れた。
一服した後、外套のポケットに煙草とマッチをしまう。
鍵が掛かっていないので勝手に居間に上がると、そこには輝夜の姿があった。
整えられた眉や切れ長の瞳、透き通るような肌の白さ…同性としては若干悔しいが、何度見てもその美しさには感嘆せざるを得ない。
その美貌が時の帝を魅了した、というのも十分に頷ける話だ。
そしてその珠のような麗人は…炬燵に入り込み、背を丸めて麦酒を舐めていた。
「遅かったじゃない」
輝夜が私を一瞥して言う。御阿礼の子は奥の台所で、なにやら忙しそうにしている。
「御阿礼の子が手ずから馳走を振舞って下さるというのに、お前は何故寛いでいるのだ?」
「お姫様だからよ」
俄かに険悪な雰囲気が漂う。炬燵を挟んで視線がぶつかり合う。
その時、奥から御阿礼の子が現れた。手に盆を持ち、盆には皿が載り、皿には可愛らしく切られた沢庵が盛りつけられていた。
「あれ、慧音さん」
御阿礼の子が微笑む。
「いつの間にいらしていたんですか。さあ、そんなところに突っ立っていないで、どうぞ炬燵に入って温まってください。
外は寒かったでしょう」
卓上に皿を置くと、御阿礼の子は私の外套を脱がせにかかった。
「いや、何か手伝おう」
「いいんですよ、気を遣わなくても。楽になさってください。
申し訳ないのですが、お鍋が出来上がるのにもう少しかかりそうなんです。
それまで麦酒でも飲んで待っていてください。あ、この沢庵を肴にしてください。
私、沢庵大好きなんです。
えっと、麦酒足りなくなりましたら声かけて下さい。井戸に沈めて冷やしてあるので。私がとってきますよ」
そこまでを一気にまくしたてると、彼女は鼻歌を歌いながら台所へと戻って行った。
私はしばし呆然としていたが、勧めてもらった手前もあるので、もぞもぞと炬燵に潜り込む。
「御阿礼の子はやけに張り切っているな」
私がそう呟くと、輝夜が答えた。
「御阿礼の子というのは、百数十年に一度しか生まれない。また、その生涯は短い。
寝る間も惜しんで幻想郷縁起の編纂にあたるのが常らしいわ。
当然、家に客を招いて騒ぐことなど滅多にないでしょうね」
「…そうか。だからお前は敢えて手伝いを」
「麦酒飲む?」
私が言いかけたのを遮り、輝夜がすすめてくる。
硝子の杯を手にすると、輝夜が注いでくれた。
初めにきめ細やかな泡がたてられ、後から注がれる琥珀色の液体が、静かに泡を盛り上げていく。
「すまんな」
感謝と謝罪両方の意味を込めて私が言うと、輝夜はフンと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
頬が薄い桜色に染まっているのは、酔いの為だけではあるまい。
「お鍋、できましたよ」
向こうから、御阿礼の子の無邪気な声が聞こえてきた。
厚手の手袋をはめた御阿礼の子が、ぐらぐらと煮え立つ大鍋を運んできた。
鍋の中には、所狭しと並べられた牛肉、長ネギ、白滝、豆腐…
「関東風すき焼きですよう」
御阿礼の子が胸を張る。
「これは旨そうだな」
「美味しそう。でも、関東風なのね」
「嫌なら私が代わりにいただこう」
「食べないとは言っていないわ」
やり合う私たちに、卵が手渡される。
料理が美味しいと、酒量も多くなる。麦酒瓶は次々と空いていった。
とき卵の絡んだ牛肉を口に放り込みながら、輝夜が言う。
「にぇい、むぐ、けーね」
「食べるか喋るか、どちらかにしなさい」
輝夜が口の中の牛肉を飲み下す。勿体無い。もっと味わって食べるべきだ。
「ねえ、慧音」
「うん?」
「妹紅の遺品、取りに来ない?」
箸が止まる。
「貴女には言ってなかったけれど、竹林の炭焼き小屋にあった妹紅の遺品、実は永遠亭で預かっているの。貴女さえよければ…」
「いや、預けておこう。」
杯の中の麦酒を飲み干し、私は答える。
「手元に置いても、余計なことを考えてしまうだろうからな」
「そうかもしれないわね。まあ遺品といっても、衣服や吸いさしの煙草とかなのだけれど」
煙草。
そう聞くと、なにやら口元がむずくなってきた。
そういえば先程稗田家に入る前に吸ったきりである。そろそろ限界だ。
「吸ってもいいかな。料理と酒が美味しいと、つい煙草も、ね」
「勿論!」
御阿礼の子と輝夜が同時に答えた。
「お酒が入ると、いつもお吸いになられますよね」
「てっきり禁煙したのかと思って、内心凄く焦…いや、なんでも無いわよ」
「どうぞどうぞご遠慮なさらず」
「さあさあ」
何故二人がここまで喫煙を勧めるのか理解できなかったが、吸わせてもらえるならありがたい。
私は着てきた外套のポケットを探る。
「あれ、おかしいな」
煙草はあった。しかしどういうわけか、マッチが無い。どこかに落としたのだろうか。
「マッチ無い?」
「持っていないわ」
「持ちあわせていませんね」
何かおかしいとは感じつつも、私はその正体が掴めなかった。
「まあ、いいか」
そして酔っていた私は煙草を咥え、うかつにも
指先から点した炎で、火をつけた
「あ」
一瞬の後、しでかした過ちに気付いたが、もう後の祭りであった。
「ふふ、あはは、あーはっはっは」
輝夜が笑い転げる。
「いやあ、引っかかりましたね」
御阿礼の子も手を打って喜ぶ。そして懐からマッチを取り出す。
「マッチは私が預からせていただきました。先程外套を脱がせた時に。こっそりと」
私だけが憮然としている。
「やっぱり」
呼吸を整えた輝夜が言う。
「普段は上手に慧音の真似をしていても、お酒が入るとすぐに尻尾が出るわね」
「ねえ、妹紅」
慧音が逝ったのは二百年程前の、今日だった。
その日、私__藤原妹紅は、筍の柔らかく煮たものを持参して慧音の家を訪れた。
慧音は顎や歯が弱り、食も細くなっていた。せめて好物だけでも食べさせようと、スキマ妖怪に無理を言って取り寄せてもらった、季節外れの筍だった。
いつまでも布団にくるまって起きようとしない慧音に私は業を煮やし、揺すり起こそうとしたところ、体は既に冷たくなっていた。
大往生であった。
「阿求が慧音の遺書を届けに来てくれたのは、そのひと月後くらいだったかな」
沢庵を齧っていた御阿礼の子が笑う。
「妹紅さん、大分お酒を召されているでしょう?当時私はもう『阿求』ではなく、十代目でしたよ」
「あれ」
輝夜が口を挟む。
「今って何代目だったかしら?」
「十一代目です」
十代目の御阿礼の子が竹林を訪ねた時、私は生気の無い目で、ただ人形のように座っていたという。
泣き、怒り、喚いた末に、涙すら枯れ果てていた。
「私が死んだら、少し時間を開けてから妹紅を訪ねてほしい。
直後に尋ねると、やつあたりに巻き込まれるかもしれない。そうだな、ひと月もしたら気が抜けて大人しくなっているかもしれない」
と、慧音は言っていたそうだ。憎らしいほどに、私の良き理解者だった。
ひったくるようにして遺書を受け取った私は、その文面のあまりの短さに拍子抜けしてしまった。そこには
「これからは、上白沢慧音となって生きなさい」
とあった。
それからが大変だった。
里に下りた私は、慧音の服を身に纏い、慧音として生きていくことになった。寺子屋で教え、里を守ることが使命となった。
慧音の守り育て慈しんできたものを、私が継ぐことになったのだ。
かくして藤原妹紅は消え、上白沢慧音は不死となった。
「最初はどうなることかと思いました。でも妹紅さんはすぐ里に馴染みましたよね。流石です。
あ、麦酒無くなりましたね。とって来ます」
御阿礼の子が席を発つ。
しかし、私は知っている。
御阿礼の子が里の家を一軒一軒訪ねて事情を説明し、私を里に受け入れるよう説得していたことを。
「貴女がやっていた竹林の案内も、結局無駄だったということが分かったのよね」
輝夜が口の周りに麦酒の泡をつけたまま、悪態をつく。
「貴女がいなくなった後も、散歩中のうちのウサギ達が、勝手に道案内をしているようだし」
けれど、私は知っている。
輝夜がウサギ達に頭を下げ、竹林のパトロールを依頼したことを。
私が安心して竹林を去ることができるように__と。
「そうだな」
私は微笑む。
「幸運だったよ」
最初は余所余所しかった子供たちも、徐々に私に慣れてくれた。
「藤原さん」と呼びかけてきた子供たちが、初めて「慧音先生」と呼んでくれた時の嬉しさは、今も忘れられない。
彼らが長じて産み育てた子供たち…つまり二世代目の子供たちは、私のことを最初から
「慧音先生」と呼んでくれた。
百年もたつと、私が上白沢慧音であることを疑う人間はいなくなっていた。
「妹紅を偲ぶ会」が始まったのは、ちょうどその頃であった。
私が慧音として里に馴染んでいくことに、寂しさを覚えた輝夜が言いだしたのだ。
目的は慧音の死を悼むこと。そして私に、己が妹紅であるという事実を自覚させることである。
「なにせ貴女はすっかり慧音に成りきり、妹紅は死んだと言い張るのだから」
御阿礼の子が運んできた麦酒を飲みながら、輝夜が言う。
「毎年趣向を凝らした罠を仕掛ける我々も大変なのよ。貴女にその苦労が理解できるかしら?」
御阿礼の子が継いで話す。
「今年の罠は、寺子屋で煙草を吸っている妹紅さんを見て、咄嗟に思いついたんですよ。
確か去年は、永遠亭の種火が切れたと騙りましたよね。ふふ。」
ひとしきり食べ終わった後の鍋を覗いて、御阿礼の子が言う。
「そろそろ、おじやにしましょうか」
「先月、教え子の最期を看取ったらしいわね」
輝夜が沢庵を頬張る。バリボリと音を立てて食べる姿に、情緒は感じられない。
「さっき御阿礼の子から聞いたわ」
「ああ、その話か。聞きたい?」
「聞きたい」
「教え子__といっても既に八十近い翁でね、以前から体調を崩していたようで、気にはなっていたんだ。
家人が呼びに来て『最期にどうしても先生に会いたい』と言うそうだから、出かけて行った」
私も沢庵漬けを齧る。土が香るような、優しい味がした。
「病床の彼は酷く咳き込んでいてね、それでも私が来たということでようやく上半身を起こした。
頬はこけて皺だらけになっていたけれど、私を見て笑った顔には少年時代の面影が見てとれて、それが無性に悲しかった」
輝夜は黙って私の話を聞いている。
「色々話をしたんだが、顔色が悪くなってきたので寝かせることにした。
すると彼が酷く真剣な顔になって、しっかりと私の手を握り、最後に一つだけ言い残したいことがあるから耳を貸してほしいと言うんだ。」
「…彼はなんと言ったの?」
「彼は小声でこう言ったんだよ。『先生、私の初恋の人は、実は先生だったんですよ』って。
馬鹿なことを言うもんじゃないと叱りつけると、彼はへへっと笑って布団に潜り込み、眠ってしまった。
それきり眼を覚まさなかったよ」
神妙な顔つきをする輝夜に向かって、私は努めて明るく言った。
「永く生きてきたが、あんな感情を抱いたのは初めてだ。独り竹林にいたら、決して経験することはなかった。
人との交流から生まれる歓び、哀しみ。それが慧音の遺した物なんだろうな。」
おじやを食べる頃になると皆汗をかいていたので、窓を開けることにした。室内に流れ込んでくる冷気が心地良い。
輝夜が水のように流し込んでいったため既に麦酒は無く、御阿礼の子が日本酒を出してくれた。
輝夜はそれさえもすいすいと呑みほしてゆく。
「ねえ、妹紅」
「うん?」
「考えたのだけれど、貴女、そろそろ慧音を名乗るのを止めにしてもいいんじゃないかしら?」
私は笑って答える。
「何を言うかと思えば。慧音の遺志に背くわけにはいかないよ。それに」
「私が慧音を名乗る限り、慧音が忘れ去られることは無い。
死んだのは竹林の妹紅、生きているのは里の慧音。それでいいじゃないか」
「そう、そこなのよ」
輝夜が箸で私を指す。
「貴女が慧音となるなら、妹紅はいなくなってしまう。貴女の存在は否定されてしまう。
あの優しい慧音がどうしてそんな残酷な指示をだしたのか。私はこの二百年来、ずっと考えてきたのよ。」
「今度はお前が難題を出される側にまわったわけか」
「妹紅さん。輝夜さんは大事なお話をされているんですよ。茶化したら、めっ」
御阿礼の子が私をたしなめる。
「多分ね」
輝夜が話を続ける。
「慧音は焦っていたのよ。自分の命は尽きようとしている。なのに妹紅はちっとも里に馴染もうとしない。
無理に里に住まわせても、自分がいなくなったらきっと妹紅は竹林に帰ってしまう。
そうしてまた孤独な日々を送る…」
「ならば妹紅には酷な話だが、重しを付けてしまえばいい。自分を生かし続けると言う幻想が、妹紅を里に留めるだろう、ってね。
勿論、全部私の憶測よ」
そんなこと、考えもしなかった。
「でも、もう貴女は里を捨てて竹林に帰るつもりはないでしょう?」
「ない。私はこの里が好きだ。これからもここで生きよう」
「なら無理に慧音を名乗る必要はないわ。妹紅に戻ればいい。貴女の、いえ、我々の胸の内に慧音は生き続けるわ。それで充分じゃない。
そうしたほうが、慧音も喜ぶと思う」
「しかし」
私は躊躇う。
「いきなり妹紅を名乗るのはどうなのだろう。里の人々も困惑するだろうし」
「では、しばらく妹紅と慧音両方を名乗られては如何ですか?」
御阿礼の子が提案する。
「二つ名前を持つことなんて、珍しくないでしょう?
私は御阿礼の子ですが、先程妹紅さんは私を阿求と呼びました。古くからの神々の中には、未だに私を阿礼と呼ぶ方もいます。」
「うん、それがいいんじゃない?」
輝夜がまた一杯、自分の杯を空にする。
「慧音も妹紅も、一つの肉体で共に生き続ければいい。」
窓から、小さく白いものが舞い込む。
「あら、初雪ね」
輝夜がそれを杯に受ける。
「或いは師走ですから」
御阿礼の子が呟く。
「この雪は、様子を見に来た慧音先生なのかも知れませんね…妹紅さん?」
私は返事もできずに、考えていた。
妹紅と慧音、両方を名乗って生きていく…思いもよらなかったそのアイデアは、しかし、とても魅力的に感じられた。
「そうそう、会の名前も変えなくてはならないわね」
輝夜が言う。
「『妹紅再誕を歓び、慧音を偲び、永久に二人が共に在らんことを期す会』
略して『もこけーねの会』なんて如何かしら?」
「酷い略称だな」
私は煙草を咥え、もう一度指先から火を点し、紫煙をくゆらせる。
もうその動作に後ろめたさは感じない。私は慧音であり、同時に妹紅なのだから。
きっと歓びは倍増し、哀しみは半減するだろう。「二人」が共にあれば叶わぬことなど何もない。
「これからは、ずっと一緒だ。」
煙を吐き出した私の口の中に、雪が舞い降りた。
「それでは本日の授業はここまでとしよう。皆、気をつけて帰りなさい」
私がそう告げるや否や、教え子たちは「慧音先生さようなら」だの「また明日ね」等と叫びながら、勢いよく寺小屋から寒空の下へ飛び出していく。
「待ちなさい。挨拶は相手の眼を見てするものだ」
咄嗟に叱りつけたが、彼らはどうせ聞いてはいないだろう。遊びの予定で頭が一杯の子供たちに、教師の小言が届くわけはないのだ。
「妖怪に気をつけて!日が暮れる前には家へ戻りなさい」
大声で呼びかけると、教え子たちも手を振って応えた。
子供たちの姿が見えなくなるのを見届け、私も帰り支度に取り掛かる。
黒板を絞った雑巾で拭きあげ、授業で使う資料やチョークなどを手早くまとめる。外套を羽織り、換気の為に少し開けていた窓を閉める。
後は帰るばかりだ。
「…が、その前に」
私は外套のポケットから煙草とマッチを取り出す。紙の小箱を軽く揺すり、飛び出した一本を咥え,マッチを擦る。
「む」
火を灯すべく息を吸い込んだ拍子に、すぼめた唇から煙草を落としそうになった。
まだ器用に吸うことはできない。
__妹紅は__私はふと考えてしまう。
妹紅は片方の手で煙草を支え、もう一方の手の指先に小さな炎を宿して,上手く火を点けていた。
そういえば最初に二人で煙草を吸ったのも、こんな年の瀬の寒い日だった。
そんな事をあてもなく考えていると、何故だか無性に遣る瀬無く感じられた。気を紛らわすべく、私は鼻から口からぷぅぷぅと煙を吐いた。
コツコツ、と窓ガラスを叩く音がした。
慌てて吸っていた煙草を後ろに隠し持ち、顔を上げると、そこには見知った少女の笑顔があった。稗田家の当主である。
私が寺子屋の中に入ってくるように手招きすると、彼女は持っていた籠を抱えあげ、指差した。買い物の途中のようだ。
「何故隠したのですか?」
内側から窓を開けてやると、御阿礼の子が尋ねてきた。煙草のことであろう。
「忘れ物をした子が戻ってきたのかと思ったんだ。」
窓から、長くなった灰を外へと落とす。
「子供たちの前では吸わないようにしている」
「何故ですか」
「悪影響を与えては困る。それに、体に悪いからな。」
私としては至極真っ当なことを言ったつもりであったが、何が面白いのか、御阿礼の子はくすくすと笑いだした。
「おかしいかな」
憮然として聞き返す。
「いえ、何もおかしくはありませんよ。殊勝なことだと思います」
でも、と御阿礼の子は続ける。
「差し出がましいようですが、それならいっそ吸うこと自体をお止めになられては?」
「それができれば苦労はないよ。それにね」
短くなった煙草の先から、白煙が上る。煙はしばらく上がると、冬の風に吹かれて散った。
「ほら、煙草の煙はなんとなく線香のそれに似ている。彼女への焼香は、こっちのほうが似合うだろう?」
御阿礼の子が返事をせずに何やら神妙な顔をしているので、私は話題を変えることにした。
「それはそうと、随分買い込んだみたいだな」
「ああ、これですか」
御阿礼の子が抱える籠には、野菜や卵が詰め込まれていた。
「今夜はお鍋にしますよ。先程、妖怪の賢者より牛肉も賜りました。幻想郷ではなかなか手に入りませんから」
「それは豪勢だね。お客さんでも来るのかい?」
何気なく聞くと、目の前の少女は眼を見開き、口を半開きにしてみせた。驚いているらしい。表情豊かな子である。
「何を仰っているんですか?」
「え」
「もしや、今日が何の日かお忘れなのですか?」
「あっ」
咄嗟に振り返り、寺子屋の壁に掛った暦を確かめる。
そうだ、何故忘れていたのか。
「そうですよ」
御阿礼の子が小さく溜息をつく。
「今日は『妹紅を偲ぶ会』の日ですよ」
「妹紅は気に食わない奴だったわ。でも、居ないとなると、もっと癪に障るものね」
という蓬莱山輝夜の発言を契機に「妹紅を偲ぶ会」は発足した。会員は蓬莱山輝夜、御阿礼の子、そして私である。
発足当初は故人を偲んでしめやかに執り行われていた会ではあるが、近頃は「偲ぶ」を名目にした宴会になりつつある。
故人の命日の時期も年末に近いとあって、忘年会の良い口実になるのだ。
妹紅が居なくなってから、他人との付き合いに疎くなっていた輝夜にとって、良い刺激になっているのだろう。彼女も大いにはしゃぐ。
私としては複雑な気分であるが、まあ、許そう。
例年は永遠亭で行われていた「偲ぶ会」ではあるが、今年は本人のたっての希望もあり、稗田家で行われることになっていた。
宵の口。私は稗田家を訪れた。
一服した後、外套のポケットに煙草とマッチをしまう。
鍵が掛かっていないので勝手に居間に上がると、そこには輝夜の姿があった。
整えられた眉や切れ長の瞳、透き通るような肌の白さ…同性としては若干悔しいが、何度見てもその美しさには感嘆せざるを得ない。
その美貌が時の帝を魅了した、というのも十分に頷ける話だ。
そしてその珠のような麗人は…炬燵に入り込み、背を丸めて麦酒を舐めていた。
「遅かったじゃない」
輝夜が私を一瞥して言う。御阿礼の子は奥の台所で、なにやら忙しそうにしている。
「御阿礼の子が手ずから馳走を振舞って下さるというのに、お前は何故寛いでいるのだ?」
「お姫様だからよ」
俄かに険悪な雰囲気が漂う。炬燵を挟んで視線がぶつかり合う。
その時、奥から御阿礼の子が現れた。手に盆を持ち、盆には皿が載り、皿には可愛らしく切られた沢庵が盛りつけられていた。
「あれ、慧音さん」
御阿礼の子が微笑む。
「いつの間にいらしていたんですか。さあ、そんなところに突っ立っていないで、どうぞ炬燵に入って温まってください。
外は寒かったでしょう」
卓上に皿を置くと、御阿礼の子は私の外套を脱がせにかかった。
「いや、何か手伝おう」
「いいんですよ、気を遣わなくても。楽になさってください。
申し訳ないのですが、お鍋が出来上がるのにもう少しかかりそうなんです。
それまで麦酒でも飲んで待っていてください。あ、この沢庵を肴にしてください。
私、沢庵大好きなんです。
えっと、麦酒足りなくなりましたら声かけて下さい。井戸に沈めて冷やしてあるので。私がとってきますよ」
そこまでを一気にまくしたてると、彼女は鼻歌を歌いながら台所へと戻って行った。
私はしばし呆然としていたが、勧めてもらった手前もあるので、もぞもぞと炬燵に潜り込む。
「御阿礼の子はやけに張り切っているな」
私がそう呟くと、輝夜が答えた。
「御阿礼の子というのは、百数十年に一度しか生まれない。また、その生涯は短い。
寝る間も惜しんで幻想郷縁起の編纂にあたるのが常らしいわ。
当然、家に客を招いて騒ぐことなど滅多にないでしょうね」
「…そうか。だからお前は敢えて手伝いを」
「麦酒飲む?」
私が言いかけたのを遮り、輝夜がすすめてくる。
硝子の杯を手にすると、輝夜が注いでくれた。
初めにきめ細やかな泡がたてられ、後から注がれる琥珀色の液体が、静かに泡を盛り上げていく。
「すまんな」
感謝と謝罪両方の意味を込めて私が言うと、輝夜はフンと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
頬が薄い桜色に染まっているのは、酔いの為だけではあるまい。
「お鍋、できましたよ」
向こうから、御阿礼の子の無邪気な声が聞こえてきた。
厚手の手袋をはめた御阿礼の子が、ぐらぐらと煮え立つ大鍋を運んできた。
鍋の中には、所狭しと並べられた牛肉、長ネギ、白滝、豆腐…
「関東風すき焼きですよう」
御阿礼の子が胸を張る。
「これは旨そうだな」
「美味しそう。でも、関東風なのね」
「嫌なら私が代わりにいただこう」
「食べないとは言っていないわ」
やり合う私たちに、卵が手渡される。
料理が美味しいと、酒量も多くなる。麦酒瓶は次々と空いていった。
とき卵の絡んだ牛肉を口に放り込みながら、輝夜が言う。
「にぇい、むぐ、けーね」
「食べるか喋るか、どちらかにしなさい」
輝夜が口の中の牛肉を飲み下す。勿体無い。もっと味わって食べるべきだ。
「ねえ、慧音」
「うん?」
「妹紅の遺品、取りに来ない?」
箸が止まる。
「貴女には言ってなかったけれど、竹林の炭焼き小屋にあった妹紅の遺品、実は永遠亭で預かっているの。貴女さえよければ…」
「いや、預けておこう。」
杯の中の麦酒を飲み干し、私は答える。
「手元に置いても、余計なことを考えてしまうだろうからな」
「そうかもしれないわね。まあ遺品といっても、衣服や吸いさしの煙草とかなのだけれど」
煙草。
そう聞くと、なにやら口元がむずくなってきた。
そういえば先程稗田家に入る前に吸ったきりである。そろそろ限界だ。
「吸ってもいいかな。料理と酒が美味しいと、つい煙草も、ね」
「勿論!」
御阿礼の子と輝夜が同時に答えた。
「お酒が入ると、いつもお吸いになられますよね」
「てっきり禁煙したのかと思って、内心凄く焦…いや、なんでも無いわよ」
「どうぞどうぞご遠慮なさらず」
「さあさあ」
何故二人がここまで喫煙を勧めるのか理解できなかったが、吸わせてもらえるならありがたい。
私は着てきた外套のポケットを探る。
「あれ、おかしいな」
煙草はあった。しかしどういうわけか、マッチが無い。どこかに落としたのだろうか。
「マッチ無い?」
「持っていないわ」
「持ちあわせていませんね」
何かおかしいとは感じつつも、私はその正体が掴めなかった。
「まあ、いいか」
そして酔っていた私は煙草を咥え、うかつにも
指先から点した炎で、火をつけた
「あ」
一瞬の後、しでかした過ちに気付いたが、もう後の祭りであった。
「ふふ、あはは、あーはっはっは」
輝夜が笑い転げる。
「いやあ、引っかかりましたね」
御阿礼の子も手を打って喜ぶ。そして懐からマッチを取り出す。
「マッチは私が預からせていただきました。先程外套を脱がせた時に。こっそりと」
私だけが憮然としている。
「やっぱり」
呼吸を整えた輝夜が言う。
「普段は上手に慧音の真似をしていても、お酒が入るとすぐに尻尾が出るわね」
「ねえ、妹紅」
慧音が逝ったのは二百年程前の、今日だった。
その日、私__藤原妹紅は、筍の柔らかく煮たものを持参して慧音の家を訪れた。
慧音は顎や歯が弱り、食も細くなっていた。せめて好物だけでも食べさせようと、スキマ妖怪に無理を言って取り寄せてもらった、季節外れの筍だった。
いつまでも布団にくるまって起きようとしない慧音に私は業を煮やし、揺すり起こそうとしたところ、体は既に冷たくなっていた。
大往生であった。
「阿求が慧音の遺書を届けに来てくれたのは、そのひと月後くらいだったかな」
沢庵を齧っていた御阿礼の子が笑う。
「妹紅さん、大分お酒を召されているでしょう?当時私はもう『阿求』ではなく、十代目でしたよ」
「あれ」
輝夜が口を挟む。
「今って何代目だったかしら?」
「十一代目です」
十代目の御阿礼の子が竹林を訪ねた時、私は生気の無い目で、ただ人形のように座っていたという。
泣き、怒り、喚いた末に、涙すら枯れ果てていた。
「私が死んだら、少し時間を開けてから妹紅を訪ねてほしい。
直後に尋ねると、やつあたりに巻き込まれるかもしれない。そうだな、ひと月もしたら気が抜けて大人しくなっているかもしれない」
と、慧音は言っていたそうだ。憎らしいほどに、私の良き理解者だった。
ひったくるようにして遺書を受け取った私は、その文面のあまりの短さに拍子抜けしてしまった。そこには
「これからは、上白沢慧音となって生きなさい」
とあった。
それからが大変だった。
里に下りた私は、慧音の服を身に纏い、慧音として生きていくことになった。寺子屋で教え、里を守ることが使命となった。
慧音の守り育て慈しんできたものを、私が継ぐことになったのだ。
かくして藤原妹紅は消え、上白沢慧音は不死となった。
「最初はどうなることかと思いました。でも妹紅さんはすぐ里に馴染みましたよね。流石です。
あ、麦酒無くなりましたね。とって来ます」
御阿礼の子が席を発つ。
しかし、私は知っている。
御阿礼の子が里の家を一軒一軒訪ねて事情を説明し、私を里に受け入れるよう説得していたことを。
「貴女がやっていた竹林の案内も、結局無駄だったということが分かったのよね」
輝夜が口の周りに麦酒の泡をつけたまま、悪態をつく。
「貴女がいなくなった後も、散歩中のうちのウサギ達が、勝手に道案内をしているようだし」
けれど、私は知っている。
輝夜がウサギ達に頭を下げ、竹林のパトロールを依頼したことを。
私が安心して竹林を去ることができるように__と。
「そうだな」
私は微笑む。
「幸運だったよ」
最初は余所余所しかった子供たちも、徐々に私に慣れてくれた。
「藤原さん」と呼びかけてきた子供たちが、初めて「慧音先生」と呼んでくれた時の嬉しさは、今も忘れられない。
彼らが長じて産み育てた子供たち…つまり二世代目の子供たちは、私のことを最初から
「慧音先生」と呼んでくれた。
百年もたつと、私が上白沢慧音であることを疑う人間はいなくなっていた。
「妹紅を偲ぶ会」が始まったのは、ちょうどその頃であった。
私が慧音として里に馴染んでいくことに、寂しさを覚えた輝夜が言いだしたのだ。
目的は慧音の死を悼むこと。そして私に、己が妹紅であるという事実を自覚させることである。
「なにせ貴女はすっかり慧音に成りきり、妹紅は死んだと言い張るのだから」
御阿礼の子が運んできた麦酒を飲みながら、輝夜が言う。
「毎年趣向を凝らした罠を仕掛ける我々も大変なのよ。貴女にその苦労が理解できるかしら?」
御阿礼の子が継いで話す。
「今年の罠は、寺子屋で煙草を吸っている妹紅さんを見て、咄嗟に思いついたんですよ。
確か去年は、永遠亭の種火が切れたと騙りましたよね。ふふ。」
ひとしきり食べ終わった後の鍋を覗いて、御阿礼の子が言う。
「そろそろ、おじやにしましょうか」
「先月、教え子の最期を看取ったらしいわね」
輝夜が沢庵を頬張る。バリボリと音を立てて食べる姿に、情緒は感じられない。
「さっき御阿礼の子から聞いたわ」
「ああ、その話か。聞きたい?」
「聞きたい」
「教え子__といっても既に八十近い翁でね、以前から体調を崩していたようで、気にはなっていたんだ。
家人が呼びに来て『最期にどうしても先生に会いたい』と言うそうだから、出かけて行った」
私も沢庵漬けを齧る。土が香るような、優しい味がした。
「病床の彼は酷く咳き込んでいてね、それでも私が来たということでようやく上半身を起こした。
頬はこけて皺だらけになっていたけれど、私を見て笑った顔には少年時代の面影が見てとれて、それが無性に悲しかった」
輝夜は黙って私の話を聞いている。
「色々話をしたんだが、顔色が悪くなってきたので寝かせることにした。
すると彼が酷く真剣な顔になって、しっかりと私の手を握り、最後に一つだけ言い残したいことがあるから耳を貸してほしいと言うんだ。」
「…彼はなんと言ったの?」
「彼は小声でこう言ったんだよ。『先生、私の初恋の人は、実は先生だったんですよ』って。
馬鹿なことを言うもんじゃないと叱りつけると、彼はへへっと笑って布団に潜り込み、眠ってしまった。
それきり眼を覚まさなかったよ」
神妙な顔つきをする輝夜に向かって、私は努めて明るく言った。
「永く生きてきたが、あんな感情を抱いたのは初めてだ。独り竹林にいたら、決して経験することはなかった。
人との交流から生まれる歓び、哀しみ。それが慧音の遺した物なんだろうな。」
おじやを食べる頃になると皆汗をかいていたので、窓を開けることにした。室内に流れ込んでくる冷気が心地良い。
輝夜が水のように流し込んでいったため既に麦酒は無く、御阿礼の子が日本酒を出してくれた。
輝夜はそれさえもすいすいと呑みほしてゆく。
「ねえ、妹紅」
「うん?」
「考えたのだけれど、貴女、そろそろ慧音を名乗るのを止めにしてもいいんじゃないかしら?」
私は笑って答える。
「何を言うかと思えば。慧音の遺志に背くわけにはいかないよ。それに」
「私が慧音を名乗る限り、慧音が忘れ去られることは無い。
死んだのは竹林の妹紅、生きているのは里の慧音。それでいいじゃないか」
「そう、そこなのよ」
輝夜が箸で私を指す。
「貴女が慧音となるなら、妹紅はいなくなってしまう。貴女の存在は否定されてしまう。
あの優しい慧音がどうしてそんな残酷な指示をだしたのか。私はこの二百年来、ずっと考えてきたのよ。」
「今度はお前が難題を出される側にまわったわけか」
「妹紅さん。輝夜さんは大事なお話をされているんですよ。茶化したら、めっ」
御阿礼の子が私をたしなめる。
「多分ね」
輝夜が話を続ける。
「慧音は焦っていたのよ。自分の命は尽きようとしている。なのに妹紅はちっとも里に馴染もうとしない。
無理に里に住まわせても、自分がいなくなったらきっと妹紅は竹林に帰ってしまう。
そうしてまた孤独な日々を送る…」
「ならば妹紅には酷な話だが、重しを付けてしまえばいい。自分を生かし続けると言う幻想が、妹紅を里に留めるだろう、ってね。
勿論、全部私の憶測よ」
そんなこと、考えもしなかった。
「でも、もう貴女は里を捨てて竹林に帰るつもりはないでしょう?」
「ない。私はこの里が好きだ。これからもここで生きよう」
「なら無理に慧音を名乗る必要はないわ。妹紅に戻ればいい。貴女の、いえ、我々の胸の内に慧音は生き続けるわ。それで充分じゃない。
そうしたほうが、慧音も喜ぶと思う」
「しかし」
私は躊躇う。
「いきなり妹紅を名乗るのはどうなのだろう。里の人々も困惑するだろうし」
「では、しばらく妹紅と慧音両方を名乗られては如何ですか?」
御阿礼の子が提案する。
「二つ名前を持つことなんて、珍しくないでしょう?
私は御阿礼の子ですが、先程妹紅さんは私を阿求と呼びました。古くからの神々の中には、未だに私を阿礼と呼ぶ方もいます。」
「うん、それがいいんじゃない?」
輝夜がまた一杯、自分の杯を空にする。
「慧音も妹紅も、一つの肉体で共に生き続ければいい。」
窓から、小さく白いものが舞い込む。
「あら、初雪ね」
輝夜がそれを杯に受ける。
「或いは師走ですから」
御阿礼の子が呟く。
「この雪は、様子を見に来た慧音先生なのかも知れませんね…妹紅さん?」
私は返事もできずに、考えていた。
妹紅と慧音、両方を名乗って生きていく…思いもよらなかったそのアイデアは、しかし、とても魅力的に感じられた。
「そうそう、会の名前も変えなくてはならないわね」
輝夜が言う。
「『妹紅再誕を歓び、慧音を偲び、永久に二人が共に在らんことを期す会』
略して『もこけーねの会』なんて如何かしら?」
「酷い略称だな」
私は煙草を咥え、もう一度指先から火を点し、紫煙をくゆらせる。
もうその動作に後ろめたさは感じない。私は慧音であり、同時に妹紅なのだから。
きっと歓びは倍増し、哀しみは半減するだろう。「二人」が共にあれば叶わぬことなど何もない。
「これからは、ずっと一緒だ。」
煙を吐き出した私の口の中に、雪が舞い降りた。
ほんとうに上白沢慧音という人は。と、実在の人であるかのように思ってしまいました。
最後まで読み進めた後、最初から読み直すと中盤までのシーンが全く違ったものになるのが非常に面白かったです。
切なくて暖かな気持ちになれました。ありがとうございました。
けーねももこーも、やっぱりどこまでも不器用なんですね。
面白かったです。
引き込むものがあります。
ストーリーから朱(AKA)氏のSSを思いだしたりしました。
>3さん >10さん >12さん >14さん >22さん
お読みいただきありがとうございます。
コメントいただけてとても嬉しいです。
今後とも宜しくお願い致します。
>3さん
拙い伏線?のようなものをちらほらと張っておいたので、読み返していただけて光栄です。
作者冥利に尽きます。
>10さん
完璧な以心伝心・相思相愛もいいけれど、互いを想う気持ちが不器用で微妙に噛み合わない、
というのも私の好むシチュエーションだったりします。
>12
輝夜をツンデレにしたくて…つい
>14
ありがとうございます。
因みに、一発出てきたアイデアに対して学問とは、友情とはというテーマを絡めて大不評をいただいた2作目もありますので、
お暇な際に覗いていっていただけると幸いです
>22
朱氏の該当作品を読んで参りました。
氏のssに懸ける熱意に感服しました。
細やかな心理描写を通して一つの主題を掘り下げていく。そういう方法もあるのですね。
勉強になります。
亡き人を想う寂しさと温かさが心に染み入りました。
細かいようですが行頭には全角スペース、…は二つ単位で使っては如何でしょうか(ご存知の上で今のスタイルなのであればすいません)。
もこけーねの会と申したか
上でも書かれてますけど、読み終わった後にまた最初を読むとまた違った思いがありますね。
永久に二人が共に……ってのがいいなあ。
最初の一文で何事かと思い、読み終えてなるほど。
少し寂しい雰囲気を感じさせつつ、前向きな内容なのが堪らないです。
>>32さん
アドバイスありがとうございます。特に意識はしていませんでした……。
できるだけ読みやすい構成を目指していこうと思っておりますので、今後ともご指導よろしくお願いします。
百点を入れさせて下さい
がんばってください。
あ、あと思ったのは、煙草って言うとシガレット、いわゆる紙巻き煙草を想像すると思うんだけども、これはまだまだ世間じゃ現役だから、煙管にした方が良いかも。
殆ど呑んでる人は居ない=半幻想入りだし、物が和風だからもっと雰囲気を出せると思う。
死別の悲しみがやけに爽やかで愛しい。