それは絨毯の様に敷き詰められた白銀の大地であった。
香り立つ夕靄を纏う幻想的な光景。
思わず見惚れてしまう様な白い世界。
自分の掌の上に広がるそれに満足気に頷くひとりの神。
しかし、まだこれでは未完成。
向かい側に座って眺めていたもうひとりが促す様に彼女を見た。
琥珀色の瞳に込められた期待に応えるべく、神は己の左手の世界にもう一つ奇跡を加える。
右手を掲げたその瞬間、天から大地へ一筋の黄金がたおやかに降り注いだ。
そういえば何処ぞの聖書には、救世主が飢えを救う為に蜜を降らせたと言う一説が在ったような。
ふと脳裏によぎった一幕に、もしかしたら似たような情景だったのかもしれないとふと笑う。
マグマの如く熱い流動は大地に絡まり輝きを増し、世界には黄金の海が生まれた。
天地創造。
まさしくこの言葉が相応しい。
どちらからともなく嘆息が漏れた。
「どうかしら?」
「完璧だぜ」
出来栄えを上から眺めていたふたりの神は、その言葉と共にそれぞれ妖怪と人間に戻る。
「久しぶりに作ったわ。カレーなんて」
「その割には手際が良かったな。私なんか見てただけだぜ」
暮れなずむ霧の湖のほとりで、手頃な流木を椅子代わりにそれぞれ腰掛けるふたりの影。
夕焼け色をした髪の女性が持つ器を、津々と覗き込むエプロンドレスの少女。
紅魔の門番・紅美鈴と、普通の魔法使い・霧雨魔理沙のおよそ半刻程の創世記であった。
◆
カレーライス。
よそい終わった右手の杓子を鍋に戻し一度軽く掻き混ぜると、ふうわりと湯気が舞った。
沈みかけた湖畔の夕日を惜しむように、くるりくるりと渦を描いて夏の空へ溶けていく。
まだまだ暑さの残る刻限ではあったが湯気から伝わる熱に不快感は無い。
湖から少し風が吹いた。
湯気は幾分速さを増して、足元に生えている黄色い花が追いかけるように波を打つ。
美鈴は鍋から立ち昇る白い螺旋を幾らか眺めた後、対面に座っている少女へ器を差し出した。
日に焼けた少し大きな手で多目に盛られたそれは些か重かった様で。
差し出された左手に少し小さな両手で応え、静かに丁寧に引き寄せる。
この重さが嬉しかった。
渡された皿を大事に大事に持ち、一度深く深く深呼吸する。
快活で刺激的な香辛料と、肉・野菜の逞しい大地の匂いが鼻腔を駆け巡り、
少し遅れてふっくらと炊き上がった白米の甘い艶やかな香りが優しく続いた。
五感が冴える。
口内に溜まった唾液を音を立てて飲み込み。
湿らす様に一舐めした唇が潤いはにかむ。
蕩けた瞳の中にはきらきらりと星が輝いた。
少女の白い頬が暖かく染まったのは熱い湯気の所為だけでは無いだろう。
カレーライス。
魔理沙は幸せな顔になった。
いい顔をするなぁ。
どうにも眩しく腹の虫も刺激された美鈴は、魔理沙から目線を外し自身の分を用意する。
飯盒からご飯、鍋からカレーをよそう度に天高く昇る湯気。負けないくらいに高く盛った。
「味の方はどう?」
我ながらうまく出来た筈と表情に出さない程度には自賛しつつ。
先に食べ始めているであろう魔理沙に出来栄えを確認してみる。
だから、下げていた目線を少女に合わせてみて驚いた。
鬼の様に強引で、天狗の様に狡猾で、吸血鬼の様に我儘な彼女がである。
カレーを膝の上にちょこんと乗せ、美鈴がよそい終わるのを待っていたのだ。
既に一杯目を食べ終わり御代わりに手を出すくらいかと思ったら、なんとも律儀に行儀が良い。
そういえばお嬢様育ちと聞いたことがあるが、妖怪じみた彼女の人間らしさを新鮮に感じた。
「まだ食べてないぜ?」
「遠慮せずにさっさと食べちゃって良かったのに」
「いただきますをそろって言うから美味いんだ」
しかし、ふと気付いてしまった。
余裕を感じさせる台詞の裏に隠れた感情。
爛々と輝く二つの琥珀の瞳は雄弁に語っていた。
そう、主人に「待て」と命じられていじらしく従う犬のそれに酷似した瞳。
まさしくお預けを必死に耐えている健気な痩せ我慢である。
次々変わる魔理沙の印象に噴出しそうになるのを美鈴は堪えた。
「どうしたんだ?」
「いや、何でも……ないわ」
ばれたらきっと魔理沙は怒るであろう。
美鈴は素早く匙を用意し目配せをする。
美味しい食事は相応な雰囲気で食べるべきなのだ。
決して魔砲や星屑が飛び交う戦場は似つかわしくない。
深く息を吸い込んだ美鈴に、目配せに気付いた魔理沙が続く。
彼女が言った美味しい食べ方。それは美鈴にも覚えがあった。
紅魔館ではマナー上、音を立てることに厳しい。
食事前に神に祈ることも色んな意味でありえない。
と、いうかお嬢様が面白半分に試したことがあるが一回で飽きていた。
静寂こそ美徳なテーブルでは、誰もが静かに食べ始め、誰もが静かに食べ終わる。
それがどうにも寂しくて仕方がない。
なので門前での昼食時は必ず言う様にしているのだ。感謝を込めてあの言葉を。
おそろいのお下げを揺らし微笑むメイド長の顔を見ると、美味しいご飯はさらに美味しくなった。
いつかは皆の揃ったテーブルで、揃った声で言えたらと思う。
揃った分だけ、感謝を伝えられた分だけ、感謝を受け止めた分だけ、絶対ご飯の美味しさは増す筈だ。
霧雨魔理沙はそれを知っている。
それが何故だろう、とても嬉しかった。
だから今日はいつもより元気な声で。
紅魔館の皆に見せ付けるくらい揃った声で。
今この時をより楽しく過ごす為に感謝を込めて。
あと、ちょっとした誤魔化しも含めて。
夕日の落ちた湖畔に響いた大きな大きな「いただきます」に、寝ていた氷精が水に落ちる音のおまけが付いた。
◆
満腹である。
余裕を持って作られたカレーを全て平らげたふたりは、ごろんと身体をなげうった。
食べてすぐ横になると牛になるなんて良く聞くけれども。
魔理沙は、慧音みたいになるんなら良いかもな、と自分の胸に手を当てながらへへと笑う。
美鈴に至っては、道草を食えるなんて中々良い生活よね、と牛になった後のことまで考えているのだから手に負えない。
幻想郷の住人はタフなのである。
空には、吸い込まれそうな程の夜が広がっていた。
「何だか意外だぜ」
「ん?」
「お前料理できるんだな」
唐突な魔理沙の疑問に、何だそんなこと、と美鈴は笑った。
「キャンプは元々好きなのよ。まあ、キャンプというかは野外活動?」
「路上生活か」
「殴るよ?」
笑顔のまま拳を硬く握り振り上げたのを見て、魔理沙は黒い帽子を手で押さえながら転がって逃げる。
もし美鈴が路上生活をする様になるのであれば、原因は間違いなく目の前の魔法使いだろう。
手の丁度届かない絶妙な位置で止まった魔理沙を多少恨みがましく見るが、その視線もそ知らぬ顔だ。
石でも投げつけてやろうかしらん、と手元をまさぐったがそこにあるのは草だけだったので諦めた。
「美味かったぜ」
魔理沙が伸びをしながら言った。
カレーの味を思い出しながらか、先程の幸せそうな顔で言うのだから卑怯なものである。
「そりゃ良かった。あんたのリクエストだしね。これで不味いとか言われたら当分合わせる顔がないわ」
「お、何だ。図書館入りたい放題じゃないか」
「顔合わせない様に気配を読み取って戦うの。私の能力は伊達じゃないわよ?」
「お客様には気を使うものだぜ?」
「お客様だったら気を使わなくてもいいのよ」
ふたりは顔を合わせて笑う。
「カレーの材料があって良かったわぁ。特にルー。咲夜さん買い溜めしてたのね」
美鈴も負けじと伸びをした。
たわわに隆起した胸の丘陵を魔理沙はジロリと見やる。
「通りで香霖堂にないわけだ。戦犯ものだな」
「お陰で今食べられたのだから良いでしょ?」
「鶏と卵だぜ」
「親子カレーかぁ。美味しそうね」
美鈴の伸ばした指の先にこつりと何かが当たった。
ふと見ると今日一番の収穫物である鉢に移した黄色い花々。
そのまま掴んでゆっくりと引き寄せ、美鈴は胸の上に鉢を置く。
小さく可憐な花冠がまるで挨拶をするように揃って揺れるのを見て口元が和らいだ。
「探してたのよこの子」
魔理沙は美鈴の胸から顔へ目をやると、慈愛に満ちた表情にぶつかり思わず見惚れた。
柔らかそうな五枚の花弁をひとさし指でちょんと触って揺れを止めながら、キスをする様に香りを嗅ぐ。
高くすっと通った鼻から唇を通る柔らかな曲線が大人の完成された美しさを醸し出す。
「いい香り」
目の前で言葉を紡ぐ形の良い唇に、今度は思わず顔を逸らした。
まぁ手に入って良かったじゃないか、と続けようとしたが上手く舌が回らなくもごもごと口ごもる。
美鈴は朗らかな顔をして身体ごと鉢を魔理沙の方に向けた。
「本に載っていたのをパチュリー様に教えてもらってからずっと狙っていたの」
「パチュリーが? 珍しいな、魔法の生成に使えるような花じゃないぞ、これ」
「妹様に似合う花が無いかって聞いたらね、懸命に探してくれたわ」
あの方、妹様大好きだしね、とクスクス声が漏れる。
顔を戻し花と美鈴を視界入れてふと思う。確かに魔理沙にも心当たりがあった。
暴れる、物を壊す、うるさい、と散々愚痴をこぼしてくるものの、実際あの魔女が妹を見る目は温かいのだ。
そして当の妹も満更ではない御様子。
ある日図書館で見た光景が脳裏をよぎった。
本を読み聞かせている大図書館の魔女の膝の上に乗り、安心した表情で微笑むフランドール・スカーレット。
七色の羽が物語を紡ぐ声に合わせて揺れるのを愛おしそうに見つめているパチュリー・ノーレッジ。
本棚越しから声をかけようとした魔理沙は、静かにその場を去った。
邪魔してはいけない気がした。
気がしたのもあるが、自分が居るときには見せてくれない顔を見て少し悔しかったと言うのもある。
「星色をした可愛らしい花。紅い屋敷に映えると思わない?」
門番の表情が、いつか見た魔女のそれと重なった。
まぁ、な。と短く相槌を打つ。
「でも言う程真っ赤っかって訳でも無いだろう?花壇とかやけにカラフルだぜ」
「そりゃ、気を使ってるんだもの。折角庭を弄らせてもらってるんだから、綺麗にしたいじゃない」
シエスタを嗜むことが多い美鈴だが、園丁としての拘りも多いようだ。
鼻息荒く言い放った台詞に、鼻先の花が同意するかのように頷いた。
おん? とそれに気付いた美鈴は、些か恥ずかしそうに息を整える。
くっくと笑う魔理沙に合わせ苦笑いした後、表情を直して彼女に言った。
「だから今回は助かったわ、魔理沙」
「うぃ?」
「花の場所。教えてくれて。態々案内までしてもらったし」
「あ、あー……。うん」
急に言われた礼の言葉に思わず反応が鈍った。
よくよく考えれば凄い話だと思う。
紅魔館の門番とこうして野外で飯を食いながら寝っころがっているなんて。
門前で少しぐらいの立ち話なら良くしてはいたものの、今日はほぼ一日中一緒にいる。
ふたりきりでだ。
この不可思議な一日も、元を探れば昨日唐突に決まったものだった。
いつもの様に侵入者対門番の苛烈なごっこ遊びが、真夏の直射日光の様な魔砲によりけりが付いた後のこと。
館には当たらない様にそれの進路を何とか逸らして座り込んでいた美鈴が、通り過ぎようとする魔理沙の袖をちょいと掴んだ。
勝負が付いたのに何事かと口をへの字に振り返ると、赤い髪を少し傾け申し訳なさそうに美鈴は尋ねた。
――この花を探しているんだけど……。
妖精門番に持ってこさせた本を広げて指をさす。
そこに載っていたのが今鉢に移された黄色い花であった。
――湿地帯に生えているって書いてあるんだ。魔法の森辺りとかで見かけたことない?
魔理沙はその花を良く知っていた。ここまで来る際に湖畔に群生しているのが空から見えるからだ。
それを伝えてやったところ、美鈴は魔法使いの衣装に負けないくらい目を白黒させた。
そんなに近くにあるとは思っていなかったのであろう、門から離れられない妖怪の一寸した限界である。
くふふ、と口端を歪めてやると、何かを思いついたのか、やおらと美鈴は両肩を掴んできた。
何をするのだと内心の動揺を閉じ込めて睨み付けてやったら、この門番はとんでもないことを言い放ったのだ。
――ねえ、キャンプしようか?
何を言っているのだコイツは、と思ったものの、ものめずらしさと食事は全て向こう持ちだというので行くことにしたのだが。
それにしても中々凄い切り出し方だよなぁ。
魔理沙が更に思考の海へ浸ろうとしていると、無言になったのを心配したのか美鈴が顔を覗き込んできた。
魔理沙は慌てて口を開いた。
「気にするなよ。というか、案内したっていうよりかは無理やり連れてこられた感じだがな」
「良い気分転換になるでしょ。何だかんだで貴方も引きこもりの気があるじゃない」
「酷い言い掛かりだな。魔理沙さんは健康的で行動的なインドア派だぜ?」
「しかし、まさか本の記述が間違っていただなんてね。こんな近くにあるとは思わなかったわ」
「スルーかよ」
言葉の掛け合いで調子を取り戻しつつ、魔理沙は美鈴と同じように目の前の花を指でつついた。
「湿地帯というのは、まぁ、間違いではないんだが。水の多いところだったらこいつは多分どこでも育つ」
「調査不足のまま記述されたのが幻想入りしたのかしら」
「あるいは外と違う適応をしたのかも知れんがな。本だけの情報に頼っていると時々大失敗するんだ。やっぱり時には自分で調べることも大切だぜ」
「パチュリー様に聞かせたいわ」
「じゃあ講義しに言ってやる。門は顔パスで頼むな」
「今でもある意味顔パスなんだけどね」
顔パスじゃなくて、顔スパかな? と余りにも下らない事を口走ったので、とりあえず美鈴の額を叩く。
マスタースパーク程ではないが、良い音が響いた。
「しかしなぁ……」
一つ疑問なところがある。
何事、と美鈴は少し赤くなった額を魔理沙に近づけた。
「お前って昨日の今日であっさり休みが取れるもんなのか?」
紅魔館の住人には基本休みが無いと聞く。妖精メイド然り、人間メイド長然り、無論妖怪門番も然り。
年中無休で身を粉にして我侭吸血鬼に尽くしていると、どこぞの本には載っていた。
それが、この門番は今日一日丸ごとオフにして往復半刻も掛からない様な場所でキャンプと来たもんだ。
因みにメイド長には今朝さくっと許可を取ったらしい。カレーの材料の持ち出しの方が手間取ったとか何とか。
――いや、夕飯に何が食べたいなどと聞かれたので、ならカレーが良いと言ったのは私だけども……。
魔理沙は、この門番首になるんじゃないかと他人事ながら柄にもなく心配なんぞしているのだ。
「大丈夫よ」
美鈴はそれはそれは痛快な顔をした。
「あなたがここにいるのだもの。他に仕事なんてないわ」
対して魔理沙は何とも言えない顔になった。
◆
ちゃぷり。
高く昇った月の、吸血鬼好みでは無い淡い白い光が夜空に溶けだし交じり合った頃。
湖は夜の闇を湛え己の中に星をも光らせる。
空と地の境界も曖昧で、自分がまるで天体の中心に居るのではないかという錯覚をしてしまう程である。
ちゃぷり。
水面に波紋が広がる。
この事実だけが境界の向こう側に行こうとする自分を護ってくれていた。
水を濯ぎ、汚れを落とした食器達を乾いた布で丁寧に拭く。
水仕事もこの時期は気持ち楽である。
一通りの洗い物を済ませ、美鈴は就寝用に張った天幕へ戻ってきた。
「よう、湖は汚さなかったか?」
風通しの良い場所へ食器を並べていると、天幕の入り口をひらりと上げて帽子を脱いだ魔理沙が顔を出す。
すっかりと寛いだ格好である。首もとのボタンは外し、エプロンも中に畳んで置いてある。
星色の癖っ毛を眺めながら、美鈴は拗ねた様に口を尖らせた。
「きちんと油物は拭き取ってから洗いましたよぅだ。というか、あんたも手伝ってくれてもいいじゃない?」
「わたし、たべるひと。おまえ、あらうひと」
「人じゃないもん。妖怪だもん」
「だもん、とかいうなよ。子供っぽいぜ」
「正真正銘の子供が目の前にいるからね。合わせてあげてるの」
「おっと、どこにそんな美少女ちゃんがいたかしらん?」
「あんたも口調変よ」
ふぅ、と美鈴は溜まった悪い気ごと空気を吐き出す。
魔理沙はごそごそと外に出てきて美鈴の隣に座った。
何だか紫煙を纏っている様に見えたが、どうにも煙草のそれでは無い。
「何かしら。不思議な香りがするわ」
「魔理沙さん特製虫除けの香だぜ。これで虫刺されは心配無しだ」
魔理沙が指差した方に隙間から煙を漂わすキノコ型の陶器があった。
「準備がいいわね」
「アウトドアの常識だぜ」
「じゃあこれからキャンプするときは魔理沙を連れて行きましょう」
「食器は洗わないからな」
「洗わせて見せるわ」
変なところでやる気だすなよ、と魔理沙は笑いながら、しかし、どこか不思議な顔をした。
星が一筋流れて落ちた。
虫の音も、風も、一瞬止んだ。沈黙が広がる。
とろける様な闇の中、お互いの体温を強く感じた。
「なぁ」
「んー?」
「何で私を誘ったんだ」
髪の毛を弄りながら、面白そうに、さりとて不安そうに。静寂を破って魔理沙が尋ねた。
魔法が解けたように風が吹いた。熱く篭った何かをさらって行く。
サイドのみつあみを解き、風を受けてふわふわ揺れる豊かな金髪。
美鈴も倣ってみつあみを解き髪を風に絡ませると、サラリと解けた赤髪が逆らうことなく素直に流れた。
「結構長い付き合いでしょ?」
たなびく髪をそのままに、美鈴は魔理沙の方を向く。
「でも、実際顔を合わせている時間なんてあんまりなかったって気付いてさ。ちょっと寂しいじゃない?」
「はぁ?」
「魔理沙の帽子を脱いだ姿だって碌に知らなかったってこと」
少し大きな手が魔理沙の髪をクシャリと撫でた。
「ん……」
長い指が金糸を優しく梳いていく。こそばゆいが、何故だか振りほどこうとは思わなかった。
魔理沙は暫く指の感触を味わった。猫の様に目を細めて、髪の行く末をひとに任せる。
少しがさついていて、硬くて、それでも温かくて、大らかな、そんな手であった。
充分に堪能した頃、美鈴はゆっくりと手を離した。
「話したかったのよ、あんたと。門番と泥棒とかじゃなくて、ゆっくりさ。」
「……」
「だからあんたが花のこと知ってるって聞いて運命かと思ったわ。私は館からそれほど離れられないけど、それも目と鼻の先じゃない」
「運命か。お前の主人の差し金だったら嫌だぜ?」
「だとしたら、敬愛するお嬢様により深く忠誠を誓うわね。やっぱりお嬢様は素晴らしいわ」
「行き過ぎたヘンチマンほど怖いものはないな」
「ふふっ」
多少飽きれた様な魔理沙の顔。離した手を下へ移す。
「あんたがさ。あんたと紅白が来てから皆変わったのよ」
その手を魔理沙の頬へ持っていき、ぷくっとした輪郭をなぞる様に撫でる。
魔理沙の心臓の鼓動が一瞬早まった。
美鈴はそのまま掌を更に下へ、魔理沙の両手を包むようにかたくかたく握り。
「妖精達は元から愉快に過ごしてるけどね。お嬢様も、パチュリー様も、小悪魔ちゃんも、咲夜さんも、あんたらが来るのを楽しみにしてる」
一呼吸。噛締めるように。そして。
「何よりフランドール様も、貴方が来て、笑うことが多くなった。外に興味を持って下さったわ」
熱く。熱く。
「感謝してもし足りないくらいに感謝してるの。今まで言う機会を逃していたけれども……」
胸に秘めていた言葉を口にした。
「本当にありがとう。魔理沙」
目と目を合わせ全てをはきだした美鈴は、握った手を解いた。
魔理沙の手は赤かった。
全身が熱かった。
熱に浮かされたようなその身体を必死に押さえ、ふい、と横を向いて空色の瞳から目を逸らす。
感謝されることには慣れていないし、そもそも、誰かの為に何かをした覚えはない。
ただ、遊びに行っていただけなのだ。この様な感謝はどうにも身を持て余す。
そして、何だろう。その真っ直ぐな瞳は誰かに似ているような気がした。見ていられなかった。
「…んぁあ!もう!!」
星色の髪を両手でぼりりと掻き回し、じろりと向き返って其のままの反動で美鈴の額を掌で強かに打ち付けた。
流石の武術家も、きゃん、などと鳴き声を上げて仰け反る。
なにすんのよぅ、という空色の涙目を無視し魔理沙は立ち上がった。
「私はお前達の為にしてあげたことはないし、これからも何もしない!」
「所詮私のやっていることは、お前や妖精達を蹴散らして館に侵入して!」
「図書館でレミリアとパチュリーの漫才を聞きながら咲夜の紅茶を飲んで!」
「帰り際フランに見つかって軽く揉んでやりつつ、巻き込まれた子悪魔を笑ってやる程度のことでしかないんだ!」
恨まれる覚えはあっても感謝される筋合いはないぜ、と一息で捲くし立てる。
そして、一際大きく息を吸い、一際大きく吐き出した。
急なことに呆気にとられた美鈴は、ポカンとした顔でそれを見つめる。
頬にうっすら紅を差し眉間に皺を寄せた魔理沙の顔を暫く眺めた後、とうとう耐え切れなくなったのか思い切り噴き出した。
憮然とする魔理沙をよそに笑って、笑って、笑い止んで、例の瞳で、言った。
「そんな貴方だから好きなのよ。皆も、私も」
魔理沙は目をこれでもかと見開いて、倒れるのではないかと思うくらい身体をわなわなと震わせた。
カレーをよそった時の様な湯気が見えるくらい顔を上気させ、それを隠そうと帽子の鍔を探した手が思い切り空を掴む。
機械的に開閉を繰り返す掌は行き場を失い、我慢は限界を超した。
声にならない声をあげ、両の手で美鈴の頭を鷲掴むと、思い切り掻き乱す。
少女の華奢な腕のどこにそんな力があるのかと驚く位の強さで、加減をせずに赤い髪をぐしゃぐしゃにした。
妖怪なので痛くはないが何ともくすぐったい。
漏れ出す笑いに、眼に零れそうなほど潤いを溜めた魔理沙の手が加速する。
「いや、ちょっと、本気で、くすぐっ・・・! いや、あぁん!! やめ、ちょっ! まっ!!」
やめてー、という懇願にも耳を貸さず狂乱は続き、引きつった嬌声だけが木霊した。
……。
長いような短いような時間、もう正しい判断も出来ないくらい疲弊して息を切らしたふたりがそこに居た。
揃って後ろへ倒れこむ。
冷たい大地が気持ち良い。火照り切った身体の熱を吸収してくれた。
目の前に広がった満天の星空が瞬くのを見て、何だか笑われている様に感じた。
暗い明かり中、お互いの息の音がよく響く。どうせなら笑い声をかき消せれば良いな、と魔理沙は思う。
ふと隣を見る。息の上がった美鈴が居た。目が逝っている。やり過ぎたか。
いやいや、このくらいなら生温い。恥ずかしい思いをさせてくれた門番風情に、本来ならば魔砲の一発もくれてやるところだ。
いい気味だと笑ってやる。
そのとき魔理沙は気付いた。美鈴のその向こうにあるもの。例の黄色い花。
鉢の上で愉快そうに五枚の花弁を揺らしていた。
――ああ、なんだ。
皆笑っていたんだな。魔理沙は恥ずかしさを通り越した清々しさに満たされていった。
流星のような五角形が弧を描く。
これからあの庭園で美鈴が育てるのであろう、フランドールの為の花。
真っ直ぐとした、誰かに似た瞳で魔理沙は見つめる。
「フランも幸せものだな」
「喜んでくれるかしら?」
鈴の様な声が耳を撫でた。美鈴が気付いたようだ。
「そりゃ喜ぶだろうよ」
ぶっきらぼうに、でも本心で言う。
美鈴が破顔した。
「明日が楽しみだわ。妹様の薔薇の隣に早く植えたいわね」
「え?」
「ん?」
それが、その黄色い花が妹様の花になるんじゃないのか? 魔理沙は些か混乱した。
美鈴が頼んでパチュリーが探した、妹様に似合う花だと言っていた筈だが。
「そうよ」
美鈴はカラッと言った。
「妹様の薔薇に似合う貴方のような花を探していたの。そっくりでしょ。星の様な可愛い花」
紅魔館の皆の、しかもフランドール様の花なんて真っ先にあるに決まってるじゃない。
そんなあっけらかんとした声をよそに、ふらりと幽鬼のように立ち上がった魔理沙。
真っ赤に染まった顔を星色の髪で隠して。
いぶかしむ様に見つめる美鈴に向かって、第二ラウンドが、始まった。
◆
湖畔にふたり。妖怪と人間。
明日にはまた、門番と泥棒。
今日の、今日だけの不思議な関係を、ふたりは存分に楽しんだのであった。
こんな二人も、すごく良いですね。
めーりんまじ女神。
やばい。良かったです。