「それ、里の冬祭の優待券でしょう?」
「流石に優秀なメイド長は何でもご存知だな」
テーブルに置かれているのは薄青の小さな紙。
テーブル越しに向かい合うのは二人の少女。
メイド長の十六夜咲夜は、無造作に置かれた紙片と客人の顔とを興味深げに見比べる。
一方、客人の霧雨魔理沙は、そんな視線を意識する余裕もないかのように行儀悪く頬杖をついていた。
* * *
久しぶりに暖かくなった冬の一日、昼食時を少し過ぎた紅魔館。
珍しいことに大人しく正門を潜り訪ねて来た魔理沙の目的が、他ならぬ自分であると聞いて咲夜は少なからず驚かされた。
とはいえ、それも一瞬の事。
すぐに実務を重んじる従者の本分に戻り、年少の客人を自室へと案内する。
「できれば、先に教えてくれると有難いわ。多少は片付けないといけないもの」
礼儀正しく予約を入れる客では無い事を知りつつ、そう断りながら部屋の戸を開く咲夜。
魔理沙が咲夜の部屋を訪ねるのは初めてではなかった。
咲夜に与えられている個室は、他のメイド達と比較すれば上等なのかもしれないが、豪華という程ではない。最低限の生活品は備わっていて、部屋主の性格を反映して整理も行き届いてはいるものの、年頃の少女の部屋としてはいささか殺風景すぎるのでは、と魔理沙は以前から思っている。
その魔理沙が席に着いたテーブルにしても、先の住人が残していったという飾り気のない四つ足だった。
瞬く間に――時を操ったのだろう、人の血は入っていない「人間用の」お茶とお菓子が用意されて、魔理沙の前に置かれたカップに琥珀色の液体が注がれた。
「はいどうぞ」
「あ、ああ、ありがとうな」
殊勝に礼を述べて暖を取るようにカップを掌で包む魔理沙。だが注がれた紅茶には未だ口を付けずにいた。
日が差したとはいえ紛れもなく冬の一日、外からの客はそれを何より有り難く思うはず。
まして、目の前にいるこの行儀の悪いお嬢様ときたら、いつもは勧める前に空かしてしまって、すぐ図々しくお替わりをせがむというのに。
「私も座るわよ、ゲストの手前で悪いけど」
「咲夜の部屋じゃないか、座ってくれないと私が居心地悪いぜ」
軽口もそこそこに慌てて許可する客の常ならぬ様子に、咲夜は怪訝な思いを深めながら向かいの席に腰を下ろした。どうやらこの様子では長引きそうだ。
まるで面接に来たかのように、妙に姿勢正しく咲夜と正対する魔理沙。金褐色の瞳が緊張からか、咲夜の視線を受け止めかねるように幾度も瞬きしている。
金の髪と銀の髪を挟んで紅茶の香気が揺れて、質素な部屋の空気に溶けていった。
語らない客、用件を待つメイド長。静粛のうちに過ぎて行く無為の時間。
「それで?」
やむなく切り出した咲夜に、小動物を思わせる様子でびくりと反応した魔理沙は、何かを探すように咲夜の顔や胸元にせわしなく目線を走らせ、やや調子の外れた声で話題を切り出した。
「あ、あー、メイド長、今日は随分とお洒落じゃないか?」
「私はここ数年来この格好だけれど……貴方がそう言うのなら、そうなのかしらね」
小首を傾げてそう応じた咲夜の声は素っ気なく、明らかに間を取ろうと試みた魔理沙にとっては無情とも言えた。
二の句が継げずに魔理沙は言葉に詰まり、辺りに再び沈黙が襲って来た。
どうにも煮え切らない客の有様に、咲夜はさすがに困った表情で腕を組み直し、不作為を咎めるように魔理沙をじっと見つめる。
上背の優れた咲夜に見下ろされた魔理沙は、大いにうろたえて椅子に座り直したり、髪先を意味も無くいじったりと右顧左眄した挙句、ようやく観念したように二枚の紙をテーブルに置いたのだった。
”白天祭 ~ 夜空に輝く街路をご一緒に”
お洒落な飾り文体で書き彩られた招待状。
咲夜はそれを示されて、少なくとも上辺には表情を変えなかった。
白天祭。
収穫の季節が終わり冬も深まろうとする頃、里で夜祭が行われる。
大通りの街路樹を明かりと装飾とで飾りたて、見物に来る客の為に屋台が立ち並ぶ。
里人は勿論のこと、お祭り好きの人妖も方方から集まりなかなかの賑わいとなるのだが。
「行くだけなら無料なんだけどさ、これを持ってると料理が安く食えたりして――」
どこか説明書を読むような魔理沙の解説をさりげなく制して、咲夜は諒解の意を伝えた。
相手が先刻承知と知り、勢いに任せて話そうとした魔理沙は拍子抜けして、気負いを持て余したように押し黙った。
そして今度は咲夜までもが、魔理沙の行為の真意を測ろうと思索の海に埋没する。
今日幾度目かの静寂は、しかし咲夜の声によって比較的早く破られた。
「二枚あるって事は、誰かと一緒にということかしら?」
その簡潔な問い掛けに対する魔理沙のリアクションは驚くほど大きく、傍目に見ると滑稽であり微笑ましくすらあった。「いや、それが」と返答につまった後、慌てて紅茶を勢いよく喉に流し込んで咳き込み、自分をまじまじと凝視する咲夜の視線に気づいて頬を真っ赤にした挙句、目深に抑えつけた帽子の鍔の影に逃げ込んでしまった。
「はい、没収」
「あっ」
逃がさじとばかりに咲夜が触れた刹那、(魔理沙曰く)魔女のアイデンティティたる帽子はあっさりと取り上げられてしまう。また時間を操ったのだろう。
「ず、ずるいぞ!」
逃げ場を失ってすっかり狼狽した未熟な魔女は半ば本気で怒ったように口を尖らせたが、瀟洒なメイド長は瀟洒で素敵な笑顔で先を促した。
魔理沙は役者の違いを思い知り、抗議の気力も失せたかのように脱力してしまった。
「二人は二人なんだけど、その、違うって言うかそうだというか何というか」
収まりの悪い、しかし綺麗な光沢の髪をわしゃわしゃとかき回しながら、魔理沙は埒も無くあーうーと唸っている。
今日の魔理沙はどこまでもはっきりとしない。
しかしその唸り声の狭間に「あいつら一方的に押しつけて行って」「少しはこっちの都合も」という単語が混ざった辺りで、不意に咲夜は得心がいき、口元に理解の微苦笑を刻んだ。
「なんだ、誘われたのね……二人から同時に」
魔理沙はいかにもばつの悪そうな顔で、赤みの残ったままの頬をかいていた。
* * *
「残念だわ、お誘いに来たものと思って身構えたのに」
自分で自分の早とちりが可笑しかったのか、咲夜はくすくすとまだ笑い止まずにいた。
魔理沙は頬を朱に染めて謝ったり怒ったりと忙しい。
「だ、だから悪かったって言ってるだろっ!」
「そうねぇ、期待させておいてちょっと酷いと思うわ」
やや癖のある前髪を揺らせて魔理沙から大仰に顔を逸らし、わざとらしく掌を額に押し当て嘆き悲しむ風を装う咲夜。
「多忙な日々にふと舞い降りた一条の光。抑えきれない喜びに胸を躍らせたそのすぐ後で、失意のどん底に突き落とされるなんて、ああ、何て可哀相な十六夜咲夜……」
「ああっ!説明はするつもりだったんだよ、ちょっと、遅れただけで!」
訪ねてきた友人が、緊張した面持ちで二枚のチケットを取り出したら、誰だって自分を誘いに来たと思って当然だ。そこに思いが至らずに先に説明をしなかったのは、明らかに魔理沙の手落ちと言える。
ただ、それは眼前の問題が魔理沙にとってはいささか深刻で、とてもそこまで気を回らせる余裕を失っていたのだろう――と、咲夜は年少の友人を心中で弁護し許す事にした。
「はぁ……」
ようやく落ち着いた場の中で、心の底から吐き出すような深い溜息を漏らす魔理沙。
悩める乙女を前に自分のカップにも紅茶を注ぎながら、咲夜は半ばその頭痛の種に羨望するかのようだった。
「ふふ、もて過ぎるのも考えものかしら?」
魔理沙は返事の代わりにもう一度、今度は力なく溜息を繰り返した。
らしくない、その様子を眺めながら、咲夜は脳裏で思考を巡らせる。近頃に魔理沙の会話に登場した人の名前、風に伝わる里の噂、美鈴との四方山話。整理された頭脳を持つ彼女には、さほど悩むことなく「その二人」の候補は浮かんできた。
ははあ、あの二人か。どうしてどちらも奥手に見えて、熱烈なアプローチでないの。
他人目にもひしと感じ取れる真摯な想いと、目の前で思い悩む魔理沙のギャップがどこか初々しく、咲夜は肩を竦めて瀟洒なメイド長らしからぬ、少し意地悪な瞳で途方に暮れている客人の顔を覗き込んだ。
「で、どちらなの?」
「……たのむ、勘弁してくれ」
自分を支える気力すら使い果たしたように、テーブルに突っ伏した魔理沙の口から絞り出すような声が漏れる。
「あらら、相当重症なのね」
弱々しい声音に半べそが混じっていたので、咲夜はそれ以上いじめるのを止めた。
(それにしても、ねぇ)
魔理沙がここまで思い詰める所を見ると、単純な遊びの一日に誘われたとは到底思えない。
まだ恋にさして敏感とも思えないこの子をして、気付かざるを得ないほど深刻な意思表示が含まれていたのだと、そう思うべきなのだろうか。
咲夜はそう推察し、意外な事態の重さに彼女もまた心の中で深い溜息をついたのだった。
――時計の長針は、それから一周りほど回っていた。
日差しの照らす窓枠に戯れている鳥達の声。
幾度かティーカップに注がれる紅茶と、香ばしい焼き菓子の香り。
「……で、妹様が怒ってお嬢様の召し物に全部自分の名前を書いてしまったのよ」
「ははは、でもそれはレミリアが悪いぜ」
咲夜はあえてその話題から距離を置いた。紅魔館で最近あった愉快な出来事、お茶請け菓子の味の秘訣。そのお喋りに特別な意味は無かったが、でも大切な意味はあった。
魔理沙の胸にわだかまる物を、少しでも言葉と共に出せたら。
他愛ないやりとり。けれど鬱然と固くなった心を湯煎して一時とはいえ癒してくれる会話。
巧みな話そのものだけでなく、自分を気遣ってくれる咲夜の心配りが嬉しく、憂鬱を抱えてやってきた魔理沙も、やがてぎこちないながらも笑いを浮かべられるようになっていた。
「私、あの二人は、友人だとずっと思っていて」
ようやくたちこめていた空気の重しがとれた頃、魔理沙はぽつりと呟くように語り始めた。
憂愁に眉目を陰らせて思い悩む魔理沙は、いつもの――ただ旺盛な挑戦心と好奇心そのままに突き進む彼女を知る者ならばはっとするような、大人びた魅力を帯びていた。
だが、あの屈託のない笑顔と弾けるような躍動感と比べれば、やはり精彩を欠いた姿と言わざるを得ないのだった。
「それは、たまには喧嘩もするけど、でも大切な友人なんだ」
「……ええ、そうね」
俯きがちな魔理沙の姿を深い瞳に捉えたまま、咲夜は控えめな賛意を示した。
咲夜は霧雨魔理沙という少女を良く知っている。そして二人の事も、魔理沙ほどではないにしろ分かっているつもりだ。
そう、確かに魔理沙にとってあの二人は友人。
嫌いであろうはずはなく、でもだからと言って彼女達の感情に付き合えるほど深くもなく、どちらか片方を選ぶ、あるいは拒むという事が、そもそも想像の外にあったのだろう。
「私は好きなんだよ、嘘じゃなくて」
それも偽りのない本当の事。
けれど今の魔理沙の気持ちから出る「好き」という言葉は、たとえ悪意ではなくとも二人を傷つけるだろう……。
咲夜は事情をほぼ正確に理解してはいたが、知る事と解き明かす事の間に存在する大きな隔たりに、ただ無力を感じるしかない。
一方の魔理沙は、今まで意識したことのない心の領域、どう選択してもこれまでの日常が変わらざるを得ない予感のする未知の扉を前にして、虚しく立ち尽くしているのだった。
「どうすればいいのかなぁ」
「光栄に思うべきなのでしょうね」
「えっ?」
紅茶の漣をじっと見つめていた咲夜が静かに口を開き、魔理沙はその言葉に反応して思わず顔を上げた。
「相談されるにしては正直軽い話でないけれど、打ち明けてくれたのは、信頼あっての事と解釈していいのよね?」
目の前に座る咲夜の表情はどん底の魔理沙よりはまし、といった程度で、我侭な主の難題を朝飯前に片付けるいつもの完全で瀟洒な従者の面影はなかったが、無責任な部外者の顔もまたしていなかった。
期待に添える添えないを別として、頼られたという事実に誠実に向き合おうとする年長者の姿がそこにある。
「咲夜は、私より大人だから」
痛みを共有してくれているかのような咲夜の姿に、魔理沙は感謝して、同時に申し訳なさも感じて目を伏せた。
「私が知らないことでも知ってるんじゃないかって、そう思ったんだよ」
「ふふふ、過分な評価、光栄ですわ。ただ、この件に関してはどうかしら」
自嘲気味に漏らして、咲夜は魔理沙が置いたチケットを手に取り、慈しむようにそっと握りしめた。
「このチケット、どちらも片端を切り取っていて…ペアチケットの半分ということね」
それぞれ別々の半身とはぐれた二枚のチケット。
それは隣にいるべき人を探しえず一人途方にくれているような、そんな物悲しさがあった。
「これを渡すという事……大げさに聞こえるかも知れないけど、本当に自分の心の半分を貴方に預けたような気持ちで、抑えきれない期待と、それと同じくらいの不安を抱いて魔理沙の返事を待っているのかもしれない」
魔理沙は力なく肩を落として、握りしめたままのカップを見つめていた。
結局、悪意とは異なる意味で好意も心の重荷たりえる点では変わりないのだろうか?
だとしたら、人の感情というもののやり場の無さに咲夜は憮然たる思いがして、逃れるように窓から覗く庭の木々へ目線を移した。
日々に強まる寒さに葉はとうに散り、鮮やかだった紅の色は去って孤独な梢だけがひっそりと身を寄せ合っていた。
「貴方が二人を大切に思いやる気持ちがあるとしても、いえ、あるならばなおのこと、自分の気持ちに正直になるべきだと私は思うわ」
軽々と答えられない問いに若干の躊躇をしつつも、咲夜はそう言った。
「あなたが本当にどちらかが好きならば迷うことはない、でも問題はそうでない時……」
「好きでないなんて、そんな」
口を開きかける魔理沙に対して咲夜は諭すように、しかしきっぱりと首を振った。
「魔理沙がさっき言った通り。貴方があの子達を嫌いではないのは分かる。好きという言葉が嘘でないことをも、私、良く知っている。でもね、嫌いでなくとも、好きであったとしても、あの子達の抱いている「好き」の深さが、貴方とあまりに隔たりすぎているとしたら――それはやっぱり、すれ違っているという事なのよ」
咲夜の忠告は真摯ではあったが苦みも伴っていた。
魔理沙は記憶を確かめるように、そっと瞳を閉じる。
瞼の裏に映る二人は、はにかみながら、真っ直ぐな笑顔を自分に向けてくれていた。
私は二人をどう想っている?二人のどちらが?それよりもっと別の誰か?
たとえ誰か一人を選んだとしても、その決意は相手の想いさを受け止められる程なのか?
魔理沙には――少なくとも今の魔理沙には分からなかった。
「もちろん、今はそうでなくともささやかな付き合いの内に想いが深まっていく、それも普通の事。というより、それこそが多くの人にとって望ましい心の育み方なのだけれど、だけど……」
魔理沙は唇を噛み、エプロンの端を握りしめた。
「どちらを選ぶとか選ばないとか、そんな風に考える事が出来なくて、できるなら三人で一緒にって――でも、あの時のあいつらの真剣な目が、どうしてもそういう答えを許してくれない、そんな気がしたんだ」
「そうね、もし二人同時でなかったら、同時でさえなかったら……小さな一歩から始めても良かったのだけれどね、魔理沙」
口に出さずとも十分に察することの出来る、魔理沙の螺旋にもつれた感情を見て取り、咲夜も名状しがたい表情を浮かべた。
また言葉を失ってしまった二人。
答えはなかった、今の咲夜と魔理沙のすぐ側には。
随分と長い間を置いて咲夜が口を開いたのは、助言というよりもまったく彼女の感情を口にしたというだけだったかもしれない。
「私は付き合いが悪いから知人も少なくて。特に人間の友人はね……だからこそ、知り合えた数少ない人達には幸福でいて欲しいのだけれど」
それまで自分の事に手一杯だった魔理沙は、咲夜の言葉にはっとして、改めて自分より少しだけ年上である従者の素性を省みた。
十六夜咲夜。幼い悪魔に仕え、紅い館に住まう人間の従者。
そして咲夜の世界は、まさにその紅魔館の内に完結してしまっていて、それ以外の関わりは極端に少ない。日用の雑貨を求めて里に降りることも時にはあるようだが、そこから人の輪が広がるという程でもないようだ。
(何故だろう?)
魔理沙は咲夜について、好ましい点を幾つも挙げる事が出来る。硬質の、まず美貌と称していい容姿の持ち主で、今がまさに年頃の少女。洗練された立ち振る舞い、仕事に対する誠実な責任感。張り詰めたところばかりでなく、案外天然で面白い奴だという事も、魔理沙は知っていた。
「お嬢様と、そしてこの紅魔館があれば、私はそれで十分よ」
咲夜が幾度かそう口にしたのを魔理沙は聞いたことはあった。それは嘘ではないだろうが、その満足と新しい知己は両立したっていいはずなのだ。
魔理沙は、知性はともかく感情的には多分に子供めいていたので、自分が見つけた素敵な何かは他人に見せてやりたいと単純に思ってしまう。
要するに、この愛され親しまれるに値する咲夜という少女が過少に評価され放置されている事が納得いかないのだ――咲夜当人がそれを欲しているかは、また別の問題として。
(里の奴らだって、「時折目にする美人さん」なんて遠巻きに仰ぎ見るくらいなら声の一つだってかけてお知り合いになればいいんだ。まったく、横着で意気地の無い連中だ)
何者かが咲夜に与えたかのような理不尽に対する、半ば義憤めいたものすら湧いてきた。
そんな魔理沙の心境を知ってか知らずか、咲夜はほろ苦い笑みを浮かべて魔理沙の横髪にそっと触れた。
「魔理沙は常に追いつ追われつの好敵手にして友人がいて、昔からのお兄さん代わりの人がいて、喧嘩友達もいて、こうして憎からず思ってくれる子達もいて――私からすると、何もかも欠けたものが無いかのように、そう思っていたのだけれど……それでも、難しいものね、人間って」
咲夜にそんな気が無い事を承知しつつ、魔理沙は自分が不当に満たされた立場にあるような感覚に囚われて居心地が悪かった。
勿論、咲夜はあくまで魔理沙という少女の在りようを率直に素晴らしいと述べただけで、そこに自分と比較をしての妬み嫉みはない。
まったく人それぞれの境遇と悩みを抱えているのだと、ただそう思っただけだった。
「私は魔理沙が傷つく事も、誰かを傷つける事も望まないわ、けれど」
完全で瀟洒な従者、紅魔館自慢のメイド長。咲夜はそこで不意に言葉を切った。
魔理沙の視線がそれにつられて咲夜に向き直る。咲夜は、それを確認した上でようやく先を続けたように、魔理沙には見えた。
「恋は夢心地で、そして怖いものだから」
まるで咲夜と違う、別の誰かが発しているような重い声だった。
「相手を本当に想っているのに、ただそれだけなのに」
魔理沙には、咲夜が心の奥底の淀みから何かを汲み上げるような、そんな努力をしつつ言葉を続けているように見えた。
「――取り返しがつかないほど、互いを傷つけてしまう事があるから」
自分の言葉を噛み締めるように、咲夜は瞑目して唇を結んだ。
「咲夜、お前……」
気圧されて、怯みに似たものすら覚えて唖然と見つめる魔理沙の視線に気付いて、咲夜はようやく自分がどんな顔で話をしていたのか思い至ったらしい。
暗示が解けたように二三度瞬きをして、おどけたように片目をつむってみせた。
「ごめんなさい、私が深刻にしちゃったら本末転倒ね」
「いや、いいんだ、咲夜。大事な事なのは分かるよ、私にも」
自分は咲夜に、語らせざるべき事を強いてしまったのではないか、言いしれぬ罪悪感に揺れ動きながら、魔理沙はそう応えるのがせいぜいだった。
“私はそれで十分よ”
魔理沙は思う。
咲夜の言葉を、自分はまったくの寡欲と都合良く解釈していなかっただろうか。
あくまで人間としての自分を、同じ人間に受け容れてもらいたいと願い、それが必ずしも叶わなかった――あるいはそんな過去を負って、今の咲夜がここにあるのかもしれないというのに。
荒涼とした高嶺に一輪咲く花はあくまで気高く、孤独を嘆いたりはしない。
けれどだからといって、共に群れる喜びを知らないのではなく、望んでいないのでもないのだ。
自問自答を繰り返す魔理沙。だがお互いにとって幸福な事に、その葛藤に咲夜は気付かなかった。ただ独り自分の思惟の先を追いかけ、窓から降りてくる眩く温かみの乏しい冬の陽光に目を細めていた。
「魔理沙も恋に恋をしたら分かるかもね。他の何もかもが見えなくなる、そんな――」
銀色の髪が陽光と溶け合い、同化してしまうような一枚の絵画。
けぶるような咲夜の横顔に、魔理沙は呼吸を忘れて吸い込まれる思いがした。
――まるでその甘さと苦さを知り尽くしているかのような。
魔理沙はやっと理解した。
自分が無意識に知っていた事を、今理解した。
生まれて初めての悩みを抱え途方に暮れた時、自分は何故最初にこの年上の少女の顔を思い浮かべて、助言を請おうと思ったのか?
恋をしたことのない人間が、自分に向けられた心の重さを理解するのは難しい。
想いを拒絶されたことのない人間に、その痛みを慮るのは難しい。
(だから、私は真っ先に考えたんだ)
咲夜ならば。
きっと咲夜ならばその味を知っているのだろう、と。
そしてそれは正しかった。
大人びた咲夜の横顔を見るうちに、何か気恥ずかしく、自分の愚痴が子供めいたものに思えてきて、魔理沙は急に落ち着かなくなった。
こんな状況でも、負けっぱなしはやっぱり彼女の性に合わないのだ。
「こ、恋色魔法使い、甘くみてもらっちゃ困るぜ?」
「ふふ、そうだったわね」
腕を組んで口を尖らせる魔理沙に、咲夜は頷きつつ微笑んだ。
* * *
やがて紅茶のポットも空に近くなる。
柱時計をちらと見てカップの残りを飲み干し、会釈して席を立つ魔理沙。
「私、そろそろ帰るよ」
「あら、新しいのを煎れようと思ったのに」
魔理沙は頭を振って、多忙なメイド長様の邪魔をしては悪い、などと柄にも無く殊勝な、どこまで本気なのか分からない返事をしてスカートに落ちたクッキーのカスを払う。
咲夜も強いて引きとめず部屋の戸を開いて、帰宅する客を廊下へと誘い自らもまた玄関まで見送った。
外に出るとまだ時間は昼間だというのに、やはり冬の日は落ちるのが早い。ほうっと小さな息を吐いて、魔理沙は帽子を被り直す。
手にした箒に跨りかけて、魔理沙は不意に咲夜の方を向き直った。
「咲夜、その、ありがとうな」
あの後も会話は続き、それまでと比べれば魔理沙も前向きで、建設的な方向に話は進んだものの、複雑な心のパズルを全て解き明かすには、冬の日の午後は短すぎた。
「もう少し、具体的な助言が出来たら良かったのだけど」
「いや、それはいいんだ」
決して問題が解決したわけではない。結局は魔理沙自身が悩みながらも決めなければならないことだと確認したに留まった。
けれどそれでも、魔理沙は今日ここに来て良かったと思った。
「ええと、ここのところちょっと気が滅入ってたし、久しぶりに心が和んだというか……よ、要するに、紅茶が美味しかった!」
「魔理沙」
ぎこちなく礼を述べて照れ隠しにそっぽを向こうとした魔理沙を、咲夜は自分でも気付かぬ内に呼び止めていた。
「なんだよ」
「……いえごめんなさい、何でもないわ」
口を濁した咲夜に、今度は魔理沙のほうが何かを言いたげにその顔を見つめていたが、それも長いことではなかった。別れの手を振って飛び立つと、心に蟠る物を振り払おうとするかのように、精一杯力強く空を駆けていく。
金の髪と白黒のドレスが薄水色の海に溶けていくまで、咲夜はその後姿を見送っていた。
部屋に戻るとそこは、いつもの見慣れた殺風景だった。
唯一、来客の名残として置かれているティーセットを片付けようとして、その途中で咲夜は物憂げに手を止め、闊達さに欠ける動作で椅子に腰を降ろしてしまった。
夕刻からの本格的な仕事を再開するまでの束の間の暇。
多忙なメイド長はその貴重な時を、何するでもなくぼんやりと頬杖をついていた。手持ち無沙汰に耐えかねたようにカップを手に取りはしたものの、その中身を口にする気にもなれない。
とうに温くなり香気の抜けた紅茶。
覗き込むとそこ映るのは、何とも冴えない自分の顔。
深い溜息と共にエプロンポケットをまさぐって、取り出した二枚の紙片をテーブルに置くと、咲夜はつまらなげに指先で突つくのだった。
「せっかく少し元気になれたのに、悩みの種を二つから三つに増やすのは可哀相だもの……ね?」
(おわり)
おもしろかったです。
咲マリもっと流行れ~
GJ
まぁ本人達は凄い真剣なんですが
よければ次回は4Pで。