「……暑い」
私は紙に筆を立てたまま頭を垂れた。
時は七の月をとうに越えた八月半ば頃。
生きとし生けるものすべての気力と活力を枯渇させんばかりの猛暑が連日続いていた。
吊された風鈴が一度、風に揺られて涼やかな音色を響かせる。
縁側の障子は開け放され、そこから裏の襖へと流れるは日光で焼け焦げた香ばしい空気ばかりであった。
この風鈴も、耐え難い夏を乗り切るために人の手によって作られた知恵の結晶であるのだが、今となっては新たな世界の有り様によって必要とされなくなった過去の遺物でもある。それは早い話、現代の夏の気温はすでに音一つで紛らわせられる範疇を越えていた。
私は書きかけの書道紙から筆を放して置き、汗で張りつく着物の感触に不快感を覚えながら屋敷の奥へと歩んだ。
熱を帯びた外気が屋敷の隅々まで行き渡っているためか、どこに行けども暑さは差して変わらない。歩く度にひやりとする床板のかすかな冷気だけが唯一の救いである。
氷の妖精をそそのかして作った冷凍庫がある台所までくる頃には、首もとから背中にかけて濁流ができあがっていた。もうしばしの辛抱であると自身に言い聞かせ、冷蔵庫から予め用意しておいた紅茶入りの瓶を取り出して
「ごきげんよう」
声がした。
振り返ってみれば、私のすぐ後ろに一人の女性が佇んでいた。
白のドレスに紫の前掛け。ナイトキャップのような帽子を被り、緩やかにウェーブした金色の頭髪が艶やかで思わず見とれそうになる。
容姿を一言で表せば絶世の美女。しかし、その美しくも怪しげに映る微笑や仕草の一つ一つが人間離れした異質な雰囲気をまとっており、初対面であっても彼女が妖怪であることを本能で気づけてしまいそうであった。
「……心臓に悪いですから、突然背後に立つのは止めてください」
「そうかしら、そのわりにはちっとも驚いたふうには見えないわ」
慣れっ子だからだ。言うまでもなく、不本意であるが。
「折角訪ねてきたのに誰も出迎えがなかったものだから。無礼を承知であがらせていただきましたわ」
開いた扇子で口元を隠しながら優雅に微笑む様子に、反省や申し訳なさなど微塵も感じられなかった。
そんな、声も姿も、その存在すべてが作りものであるような、何が現でどこまでが夢なのかさえも疑わしく、胡散臭いとすら思わせる空気を漂わせた妖怪、八雲紫が私の前に顕在していた。
八雲紫は神出鬼没の妖怪である。
何の前触れも予兆も感じさせず、何時どこで何をしていようともその姿を現すのである。
似通った事象にはテレポートや瞬間移動などの名称で呼ばれているが、彼女の扱う能力と比べれば、それらなど子供のおもちゃにも等しい。
彼女はこの世のものすべてに存在する境界を操る妖怪である。
その歴史は古く、最初にして最古の幻想郷縁起にさえもその存在が記されている。
また、幻想郷が結界によって外の世界と隔離された事にも深く関わっており、そのことから妖怪賢者の一人として幻想郷中にその名が知られている。
その八雲紫は今、私が西瓜を用いて創作した紅茶を試飲しているところであった。
先日、屋敷に物資を届けにくる稗田家御用達の商人から、いつも贔屓されている礼にと、私一人では運べないほど大きな西瓜をいくつも頂戴したのである。その西瓜のいくつかは、大量の氷水を入れた桶の中に浮かべて庭に出してあった。少しでも屋敷に入る空気が冷やされればと思い、氷水を用意したついでとして、大きすぎて冷蔵庫に入らない西瓜を冷やしているわけである。その際、一応の客人に手伝いを乞う事になってしまったわけだが。
「今日はどのような用件でいらっしゃったのですか?」
私と向かい合うように座り、グラスをくるくると揺らしながらどこか遠くを見つめているような神妙な面持ちに、私は何か重大な用件があるのではと思い、自然と気が引き締まる。
しばらく、双方ともに言葉は出てこず、外で喧しいほどに鳴き散らす蝉の音が一層大きく感じた。
不意に、閉じられていた八雲紫の口がゆっくりと開かれる。
「こうして、お茶を共にするのは何時ぶりだったかしら」
私の質問には答えず、昔話を語るような緩やかな語調で逆に問いかけられた。
「私の記憶が正しければ、そんなにしみじみと話されるほど長い時間は経っていないはずですが。一月ほど前にも、こうして現れた貴女にお茶をお出ししたと思います」
記憶が正しければ、などと、私に限ってはそんな曖昧なものではない。私は一度見聞きしたことは忘れない、御阿礼の子としての能力を持っている。もちろん、彼女もそれをわかっていると知ってのことだ。
「そうね。確かに貴女とは、つい最近こうして一緒にお茶を交わしたわ」
でも、と付け足し、八雲紫は手にしていたグラスを卓に置いて私のそばへとにじり寄った。
「なぜだか、そんな気にさせるのよ」
彼女の白く流れるような曲線を描いた腕が伸び、そっと泡を掴むに優しく私の頬を撫でた。
「貴女は、稗田阿求」
八雲紫が顔を寄せて囁くように言葉を紡ぐ。
「幾年の時を得て今もあり続ける御阿礼の子。九代目阿礼乙女、稗田阿求としてここにある貴女」
頬に触れていた手が後ろ手に回され、柔らかに髪を撫で上げられた。かと思えば、そのまま後頭部をおさえられ、徐々に彼女の元へと引き寄せられていく。
吐息がかかりそうな距離まで互いの顔が間近になる。このまま唇を重なり合わせてしまいそうな艶めかしさに恐怖を感じる一方、まるでそれを望んでいるかのように、私に抵抗しようという気が起きなかった。
「これからも、この先も、貴女はその時の貴女として、私を受け入れてくれるのかしら」
ふうっ、と息を吹きかけられ、先ほど口にしていた飲料とは別の甘い香りが私の鼻を擽った。その香りに、私の理性は段々と不確かなものへ誘われていくようだった。いっそのこと、このまま身をゆだねてしまおうか。そんな気さえ起こしてしまいそうほどに、私の心は揺さぶられていた。
「それとも、あの日あの時、あなたであった記憶が、私を受け入れるのかしら」
ぼんやりとする意識の中で、私は理解する。
彼女は、今は亡き先代の私を見ているのだ、と。
御阿礼の子としてある私。その時その瞬間に存在していたその頃の私。私が今、稗田阿求であるように、別の存在としてあった頃の私を。それは、例えばそれは、今の私が女としてあるように、いつかの時を男として存在していた頃に。すでに失ってしまった私の記憶にある、彼女と私の繋がりを、八雲紫は求めているのかもしれない。
しかし、
もし、そうだとして、
今の私にどうしろというのか。
「離してください」
私は彼女の体に手を当て、それ以上の接近を制した。
ガラス玉のような濁りも混じり気もない彼女の瞳が私を見つめる。黒い瞳の中に映る私は、まるで深い闇の中をさまよっているかのようであった。
しばし、言葉もなく見つめ合ってから、不意に彼女はくすりと笑って静かに私を解放した。
「残念、私とのキ……接吻をお望みかと思ったのですが」
「今のは言い直す必要があったのですか」
彼女の冗談に付き合うことで上辺だけでも平静を装う。
一息つき、心身ともに落ち着きを取り戻してから、今度は私が、彼女の目を射抜くようにまっすぐ見据えた。
「私は、稗田阿求です」
私には過去がある。
御阿礼の子であるがゆえに、転生を繰り返す身であるがために、私には多くの時を生きてきた軌跡がある。それでも、私は私であり、他の何者にもなることはできない。何者の代わりにもなれない代わりに、阿求としてあり続けること。それが、今の私である。
「そうね。貴女は稗田阿求。命短し、されど一人の乙女なり。それはそれは紛れもない現ですわね」
先ほどまで澄み切った水面のような輝きを見せていた彼女の瞳が、今は少しだけ寂しげに映った。それも一瞬のことで、一度瞼を降ろして次に開いた時には、いつもの彼女、存在を掴みきることができない、妖怪八雲紫がそこにいた。
「それはそれとして、私は貴女といい関係を築いていきたいのですわ。今の貴女のことも、私は結構気に入ってますのよ」
「私も、永い時を生きられる友人ができることを喜ばしく思います」
友人、と強調して私が言うと、またも八雲紫は微笑んだ。
卓に置いたグラスを手に取り、残っていた紅茶を飲み干すと、どこからか取り出した綺麗なレースのハンカチで口元を拭った。
「そろそろ帰ろうかしら。お茶、美味しかったわ」
そう言って立ち上がりかけたところ、何かに気づいたように今さっき使ったハンカチを広げはじめた。そして何かを確認すると、笑みを浮かべながら、ほら、とハンカチを裏返してそれを私の眼前に晒した。
白いレースのハンカチには、唇の形をした口紅が綺麗に残されていた。おそらく先ほど拭った際にでも付着したのだろう。ただそれだけなのに、何が面白くてこんなものを見せるのか。そう思い、私が彼女へと視線を移そうとした瞬間。
「っん」
ハンカチを口に押しつけられた。
視界が一瞬奪われ、次に見た時の彼女の顔は、悪戯に成功して喜ぶ妖精のそれであった。
「何のつもりですか」
「鏡、いるかしら」
私の問いかけには一切応じずに、ただ、ただ愉快そうに八雲紫は微笑んでいた。
私はそれを無視して、まだ汚れのない部分で口を拭うと、白いハンカチに擦れた紅が加わった。
さすがに文句の一つでも口にしようかと考えたところ、それを察してか
「あげるわ」
と言って、八雲紫はハンカチの所有権を譲渡した。
しばし、所々が紅くなったハンカチを眺めて思案する。そして、ハンカチ自体はとても高価なものなので、よく洗った後にでも使おうと思い、私はそれを畳んで懐に仕舞った。
そんな私の様子を面白がってか、しばらく八雲紫から笑みが絶えることはなかった。
ひとしきり笑ってから、顔を覆い隠していた扇子をぱちりと閉じた。
「では、私はこれにて」
私にそう告げ、立ち上がって背を向けたかと思えば、その場に佇んだまま八雲紫は動こうとしない。
「一つだけ」
そう前置きして、彼女は後を続ける。なんとなくではあるが、彼女が尋ねようとしていることが何であるかを私は理解していた。
「貴女は、私のことをどう思っているのかしら」
振り返らず、私に背を向けたまま彼女は尋ねる。
その問いかけに対して、私が返すべき答えはすでに決まっていた。
「貴女が思っているほど、嫌いではありません。ただ」
一旦言葉を切り、佇む彼女の後ろ姿を眺めた。改めて見る彼女の背中は、はじめて会って頃よりも、だいぶ小さいように思えた。それはまるで、普通の人間の少女であるかのように。
「貴女を想っていた頃ほど、好きでもありません」
彼女の髪が微かに揺れ、僅かに横顔が伺えた。
微笑む彼女の顔は、満足そうでありながらもどこか憂いを含んでいるようで、私には、それが今にも崩れてしまうのではないかと思えた。
「またいつか、お邪魔にきます。その時までごきげんよう、阿求」
彼女は右手に携えた扇子を一振りして空間にスキマを開いた。そして彼女、八雲紫は、私の前に現れた時と同様に、音もなくその姿を消し去った。
あとに残された痕跡は、彼女が使ったグラスが一つと、懐に仕舞ったハンカチが一枚。
グラスに触れると、ひんやりとする中で、まだ彼女の温もりが感じられた。
ふう、と私は自然にため息をついていた。
結局、あの妖怪が何を目的として私の元を訪れたのかわからないままであった。もっとも、この幻想郷においてはあの妖怪に限ったことではないが。とはいえ、そういった類の奇々怪々のように、不明瞭であることはなんであっても気持ちのいいものではない。
一際強い風が吹き、ちりんちりん、と風鈴が立て続けに鳴った。
外を見れば、まだ日は高い位置にあり、日が沈むにはだいぶ時間を用いるだろう。それでも、あの太陽は一日の内の半分しか顔を見せていないのだ。少ない時間、けれどもそれは、生きるものにとってなくてはならない存在であり、それがあることで、人々の糧となっている。
大きく、あまりにも眩しすぎるその存在に、私の中に少しばかりの嫉妬心が生まれた。
果たして、私はあのような存在になれるのか。誰かに必要とされる存在として残ることができるだろうか。それは、御阿礼の子としての能力を持っていても、私が知る由もないことには何の意味もなさない。
それならば、残された時間の限り、私が次に生まれ変わった後も、しっかりと記憶しておけるほどに、私は私の役目を果たそう。そして、ここで培った友との記憶も、一緒に来世に伝えよう。それが稗田阿求に許された最上の権利なのだから。
ならばと思い、私は早速幻想郷縁起に取りかかろうとしたところ、視界の端に映った、正確には映らなかったそれに気がついた。
「あ」
庭の片隅に置いていた、桶いっぱいの氷水に浮かんでいたはずの西瓜が一つ残らず無くなっていた。名探偵でなくても犯人の目処はつく。あのスキマ妖怪に違いなかった。証拠はなくとも確証はある。なにより、妖怪でもあれだけの西瓜を一度に、それもここまで近くにいた私に気づかれることなく持ち出すのは不可能である。それをこの短時間で容易に行える者など、私が出会った妖怪の中ではただ一人。それこそが動かぬ証拠であった。
私は幻想郷縁起に記す内容を書きとめるのに用いる記録用紙を取り出して、八雲紫に関する項目について筆を走らせた。
書いた内容は、非常に手癖が悪く、強欲な妖怪である、と。
「阿求様」
また声がした。
見ると、屋敷を出ていた使用人の者が帰ってきていた。
「ただいま戻られました。何かご厄介事等はございませんでしたでしょうか?」
不法侵入の妖怪がいたこと、危うくファーストキスを奪われるところだったこと、その妖怪に西瓜を盗まれたこと等、そんな妖怪との珍妙な交流のことなど、わざわざ使用人たちに知らせる必要はない。
「いえ、何も。強いてあげるなら、暑いです」
「はい。今日は一段とお暑い日だと、天狗の者も申しておりました」
天狗は空高く飛ぶものだ。太陽に近づく分暑さが増すおかげで、妖怪とはいえ堪えるのだろう。
私は二つ置かれたグラスを盆に乗せ、それを不思議そうに眺めていた使用人に手渡した。
「屋敷の者たちにも、しっかり水分を取るように伝えてください」
それで納得したのだろう。私から盆を受け取り、では、と言って彼女は部屋を後にした。
使用人が去ってからしばらくして、私は再びため息をついた。
なぜ彼女、八雲紫がなぜ私の元を訪れたのか。その理由を、私は今、ようやく理解することができた。
覚えているのと理解しているのとでは話が異なる。故に、私は墓参りのために屋敷を出ていた使用人が帰るまで、そのことに気づくことができなかった。
今は八月の中頃、お盆の時期である。
きっと彼女自身、私に告げられるまでもなく理解していたのだろう。私は私であり、たとえ生まれ変わりであっても、過去の私ではないことを。
ちりん、と一度だけ風鈴が鳴いた。
紫と阿求の求める距離感が互いに噛みあわないところが切なく感じました
目の前に作中の情景が浮かんでくるようで、惹きこまれてしまいました。
とても面白かったです
誤字・脱字なども見当たらず、
初投稿でこれだけのお話を書けるのは素晴らしいです。
気になった点は、紫が「キス」を言い直すのは何か深い意味が
あるのかな?というところと、紫が西瓜を持っていった事が
単なる泥棒なのか、それとも紫なりに何か阿求に対する思いが
あるのかな…といまいち読みきれないところです。
まあ自分の読解力のなさ故かもしれませんが…
でも、寿命があまりにも違う二人のやりとりからくる、
なんともいえない物悲しさはとても良かったです。
これからの創想話での活躍を楽しみにしております。
素敵なお話でした。
2人のやりとりがなんかいい。
紫と先代との間になにかあったかのように思わせる演出もニクい。
西瓜泥棒と唇泥棒(未遂)のゆかりんはなかなかww
ハンカチを押しつけるところが色っぽくてため息が出ちゃいました。