ずっと変わらないと思っていた。
いいえ、ずっと変わって欲しくないと思っていた。
自分の運命を受け入れている、なんて公言していたけれど、それは真っ赤な嘘だった。
こんなにも居心地の良い世界なのに、どうして自分は退場しなければならないのか?
そんな疑問を、私は持ち始めていた。
始めは小さな違和感から。
――でも、その違和感が今では、私を食い殺すほどに大きく成長している。
昨日があり、明日があり、明後日がある。
とても普通のことで、でも決して普通ではないコト。
そんなことさえ忘れて、私は諦めたフリをしていたんだ。
~~~永劫回帰~~~
今日は墨のノリが悪いな、と顔をしかめて、彼女は筆を置いた。こんな状態で書いても、良い作品は生まれない。紙の無駄遣いになるだけなのは明白だ。
「仕方ないか」
言って立ち上がると、途端に寒さが足元をかすめ、その小さな体がぶるりと震えた。
今年の寒さは異常だ――そう思わなければやっていられないほど、今の気温は低く感じられた。
足には足袋が履かれていたが、それがどれだけ防寒に貢献しているのか、傍からでは確認しようも無い。
しかし今の彼女の震え方から察するに、足袋があまり役に立っているとは思えなかった。
「うー、寒い」
ぶるぶると小刻みに体を震わせながら、彼女――稗田阿求は廊下に出た。
きしり、と木製の廊下が軋みをあげる。他に誰もここを往来する者がいないせいか、桐で出来た廊下は凍り付いているかのように冷たかった。
「ううぅ、やっぱりスリッパ貰おうかしら……」
彼女は前に紅魔館にあがらせてもらった時のことを思い浮かべた。
あそこはこの屋敷とは違い(むしろ幻想郷であそこだけ文化が違う)、西洋の物がメインで構成されている。中でもスリッパなる利器は、この廊下の冷たささえも遮ってくれそうだった。当時はやんわりと断りを入れたが、今となっては惜しいことをしてしまったと悔やんでいる。
音も立てず廊下を渡り、辿り着いたのは台所だった。墨のノリが悪く、仕事がはかどらない上にこの寒さではやっていられない。
阿求は慣れた手つきで食器棚から急須と湯呑みを取り出すと、それをテーブルの上に置いた。
次いで柄杓でやかんに水を入れていく。水は桶に入っており、寒いからと予め汲んでおいたものだった。
やかんに水を半分ほど入れると、竈の上に載せ、火を焚き始めた。
夏であれば最悪に感じる作業も、この季節では苦にならないのだから不思議なものだ――阿求は薄く笑って火口を眺めた。
お茶の準備が整い、掘り炬燵に足を入れようとした、まさにその時だった。
「なんだ、今日は紅茶じゃないのか」
寒気を中に入れまいと、しっかり閉じていた障子が何者かによって開かれた。
驚いて見上げると、そこに立っていたのは魔理沙だった。
「あ、貴方でしたか。びっくりした……」
「なんでびっくりするんだ? 幻想郷の中で知り合いじゃないヤツなんていないだろう?」
開けた障子はそのままに、魔理沙は被っていた尖がり帽子を脱ぎながら中へと入ってきた。そして主人よりも先に炬燵へと足を突っ込み、暖かさを満喫する。
「あーあったかい。外は寒さがヤバすぎるぜ」
「は、はぁ……」
魔理沙――霧雨魔理沙とまともに話をするようになってから早十年以上が経とうとしていたが、阿求はいまだに彼女に馴染めずにいた。
どちらかと言えば常識人な阿求には、非常識で自由奔放な魔理沙を理解することが出来ず、また、魔理沙を本当に理解している人間や妖怪は、この幻想郷内において一人もいないのではないだろうか、と推測していた。
事実、彼女の自由っぷりに手を焼いていると耳にすることは多いが、ありがたられている話は殆ど聞かない。
そんな魔理沙はずうずうしくも、たったいま阿求が用意した急須と湯呑みを自分の方へと引き寄せ、急須の中身を注ぎ、まるで我が物顔でそれを口へと流した。
「あっついなー」と顔をしかめたものの、すぐに急須に手をつけ二杯目を注ぎ始めた。
いつものこととは言え、相変わらずの横暴ぶりに阿求の開いた口は塞がらなかった。
もう二十を過ぎ、三十が目前だという年頃になっても、霧雨魔理沙の心は何も変わっていなかった。何も成長していないように見える。
「あ、あのー……」
引きつった顔のままで阿求が声を出した頃には、お茶請けの煎餅に手が伸びていた。もちろん魔理沙の手が。
「ん?」と邪気の無い返事をする魔理沙に、「ええと……」と阿求は困惑の色を浮べるしか出来なかった。
まるで反省していない、というか、悪気が全く無い。良心以前の問題だった。
前々から、どうしたら魔理沙をまともにすることが出来るのか、と友人から相談されていた阿求だったが、こう考えるとその答えが出てくる。
――自分の行いに間違いなど無いと思っているから、当然謝るなんてことはしないし、止めようとも思わない。だから矯正は無理だ。間違いを間違いだと思っていない相手に、間違いを正せと言う方が無理な話なのだから。
つまり自己中心的な性格なのだ、彼女は。その度合いが人のレベルを超えているだけのことで。
阿求は仕方なく、自分の湯呑みを用意するために立ち上がった。もともと体の芯から温まろうとしてお茶を用意したのだから、その目的を果たさなければ。
湯呑みを片手に居間に戻ってくると、魔理沙が何故か急須を持ち上げていた。
なんだろうと首を捻りかけた時、
「おかわり」
「は……?」
「だからおかわりだよ。もう中身からっぽだ」
冗談でしょう? そう言う代わりに彼女の口から出た言葉は――
「何しに来たんですか?」
◇
「ってことなんだよ」
「はぁ……」
新しくお茶を用意し、掘り炬燵で魔理沙の話を聞くこと十分。ようやく事態が飲み込めた阿求だった。
「つまりこの時間になっても霊夢さんが起きないから、ここへ来た、と」
「そうそう。あそこに行けば草餅とか食えると思って、こんなクソ寒い中飛んできたって言うのにさ。酷いと思わないか?」
「は、はぁ……」
酷いのはその頭の中でしょう、と言いたくなったのを阿求は堪えた。
「でもなんで餅なんですか?」
「なんでって言われてもな。食べたかったから、としか答えようが無いぜ」
あっけらかんと答える魔理沙に、阿求は言葉を詰まらせた。一体この言葉を聞いて何と返せば良いのだろう? 疑問だった。
「そんなことより。阿求、お前も老けたなぁ」
「老――――」
「霊夢のヤツもそうだけどな。なぁ、阿求は結婚とかしないのか?」
突然すぎる魔理沙の台詞に、阿求は手にしていた湯呑みを落としそうになった。
「な、何を突然……」
「突然、ってわけでもないだろ。もう三十路前だぜ? 普通のヤツなら結婚するだろ。霊夢は巫女だからしないだろうけど」
「まぁ……それはそうですけど」
湯呑みをテーブルの上に置き、阿求は深呼吸一つした。魔理沙の突飛な発言は今に始まったことではない、と自分に言い聞かせながら。
「そう言う魔理沙さんは結婚されないんですか?」
「わ、私か? んー、向こうが振り向かないしなぁ」と魔理沙は照れたように髪を掻き乱した。
「あれ、もしかしてお慕いしているお方でも……?」
「――まぁ。いない、って言えば嘘になるけど。でもまぁ、私は人間じゃ無くなっちゃったし、今更だぜ」
きしし、と笑うその横顔が、少し寂しげだった。
人間じゃ無くなった、というのは言葉通りの意味だ。彼女は魔法使いであり、魔法の研究のために長い年月がどうしても必要だった。そこで自身に魔法をかけたのである。
食べ物を摂取しなくても死なない魔法。
永遠に歳をとらない魔法。
この二つの、呪いのような魔法を会得し、彼女は人間ではなくなった。歳はとらなくなったが、永遠ではない。いずれ朽ち果てる運命ではあるが、それでも人間の寿命のそれよりも随分と長い年月を生きることが出来るだろう。
故に、人間に非ず。
人間ではないから、人並みの幸せなど手に出来ないだろう、と魔理沙は言った。
そんなことはない、そんなはずはない――そう声をかけたかったが、声は出なかった。 阿求自身、魔理沙の言葉に、どこか覚えがあった。
――そう、転生を繰り返してきた、自分の身上のことだ。
「幻想郷縁起をまとめるのもいいけどさ」魔理沙は帽子を手に立ち上がって、「後悔だけはしちゃ駄目だぜ?」
「――――」
ぱたん、と障子が閉じられた。
阿求はしばらく動けなかった。魔理沙の立ち去った場所を眺め続けるだけで。
「――後悔、か」搾り出すように出てきた言葉を、もう一度口にした。「――後悔」
不思議な響きだな、と思った。
後悔、後悔、後悔。
私には縁の無い言葉。生まれてきた意味を、生まれた瞬間から決められている私には、後悔などありはしない。
何故って? 決められた線路を走る列車が、線路通りに走ることに疑問を抱かないように。私もまた、生まれてきた意味を決定されていて、それに従っているだけなのだから。列車と同じだ。
でも、と阿求は目を閉じる。
最近よく夢を見る。
自分の友人たちと笑い合っている夢、お祭りを遠くから見ている夢、誰かが死んでいく夢、みんなと一緒に何かを作っている夢――その全てが、私の瞳に映されていた。
それは決して生産目的のための風景ではなく、稗田阿求という個人の全てだ。感情や考え、経験、そういったもの全てだ。それは線路からでは拾えないモノ。線路から見ているだけでは得られないモノ。
じゃあ、幻想郷縁起をまとめている、この稗田阿求という人間は一体何なんだろう?
本を作る機械でもなく、だからといって人間のような寿命を持たず、そして人間として扱ってもらえるかも怪しい、この微妙な存在。
下手をすれば私は、人間側ではなく妖怪側に属する生命体なのかもしれない。個を保って転生を繰り返している人間など、いやしまい。
そうか、私は妖怪か――それでもいいと思った。生きられるのなら。
そうだ、生きたい。私は生きていたい。一人だけ早くに逝ってしまうなんて、耐えられない。
何故? 今までの自分は耐えてきた。そんな余計な考えは持っていなかったからかもしれない。
では何故、今は持っている?
そこまで考えて、急に怖くなってきた阿求は、目の前に置かれた湯呑みに手をつけ、一気にお茶を飲み込んだ。お茶はすっかり冷めていて、体が温まるとは到底思えなかった。
それでも、と急須の中身を矢継ぎ早に湯呑みに注ぐ。今度のお茶はぬるかった。冷えきっているよりはマシだが、それでも体は温まらない。
「どうしよう、私……」
言って、阿求は項垂れた。
世界は怖いほどに静まり返っている。
2
――夢を、見た。
日傘を差して優雅に歩く、一人の女性。長い金髪が蜃気楼のように揺らめいている。
私はその隣で寄り添うように歩き、笑っていた。
楽しそうな私。
楽しそうな誰か。
木の葉が道一杯に広がっていて、永遠に続いていると思わされる道程を着飾っている。 赤色の葉、黄色の葉、剥き出しの枝たち。それらの中をひたすら二人で歩いていく。
特に変わった出来事があるわけではない。特に変わった何かがいるわけでもない。
どこまでも続く、穏やかな道を、■と歩いているだけ。ただそれだけだ。
そう、ただそれだけ――それだけのはずなのに、どうしてこんなにも悲しいのか。
それが解らない。
あんなに楽しそうに自分が笑っているのに。あんなに楽しそうに■が笑っているのに。どうしてこんなにも、胸が痛いのだろう。
道の向こうに黄金色の光が見えた。
どうやらあそこが出口らしい。
隣にいる■が私に微笑みかけてきた。だから私も微笑み返した。
それが夢の――夢の、終わりだった。
◇
「ん……」
阿求は朦朧とする意識のまま、なんとか重い瞼を持ち上げた。
ぼやけながらも天井が見える。見慣れた天井だ。それが幾分彼女の心を落ち着かせた。
「ぅ、ん……」と、ふらつく頭を右手で制しながら起き上がる。
そこではたと気が付いた。視界がぼやけているのは寝起きだから、という理由だけではないことに。
「涙……?」
ぱたっ、と言う音と共に、一粒の涙が布団へと落下した。慌てて目尻を拭う。
「やだ、なんで」
すぐには理由が浮かんでこなかった。けれど少しの時間でその理由に到達した。
夢のせいだ、と。
「…………」
両手を目の前で広げてみた。少ししわの寄った、見間違うはずもない自分の両手。女の子らしい手だ、と祖父が笑っていたのを思い出し、また涙が流れた。
「あの夢は一体……」
自分と笑いあう誰か。夢の中ではわかっていたのに、名前が浮かんでこなかった。そして目覚めた今となっては、それが誰であるかさえわからない。
脆くて、どこか懐かしい、そんな夢だった。
彼女は自分の袖で目を擦ると、そのまま無言で立ち上がった。布団から出ると寒さが全身に襲ってきたが、堪えて部屋を出る。
障子を開けて廊下に出るとすぐ、真っ白な世界が目に飛び込んできた。
――雪だ。
「綺麗……」
ほう、と吐いた息が一瞬で白く染まる。
庭はこれ以上無いほどに真っ白になっていた。
雪が積もったせいで飛石や鹿威しの姿は見事に消えていた。代わりにふっくらとした雪だけが、そこに残っている。
足元の方に目を向けてみると、犬走りまで雪が覆っていた。この調子でいくと縁束の姿が見えなくなるほど雪が積もっていることだろう。
「結構降ったのね」
他人事のように呟いて、阿求は長い廊下を歩き出した。
厚い雲に覆われた灰色の空の下、顔を洗いに井戸場へと向かう。寒かったが、それよりも今は思考をクリアにし、泣き跡を消してしまいたかった。
井戸は孔口を始め、その殆どに雪が積もっており、釣瓶の桶も例外なく積もっていた。 いや、積もっていたのではなく、埋まっていた、という方が正しいかもしれない。
雪をどけて使用しようかと考えたが、この寒さの中、素手で雪を掻き分けようとは思えなかった。
仕方なく阿求は土間へと足を向けた。あそこには井戸水を汲んでおいた桶をいくつも並べてある。この寒さで凍っていなければいいけれど、と思いながら身を縮めて歩き始めた。
「すっきりした」と言って、阿求は手拭で顔を満遍なく拭いた。冷水は心地良かったが、この手拭の温もりも心地が良い。
「ふぅ」
水気が無くなると、顔と手に仄かな熱が帯びたような気がした。どことなくぽかぽかしているように感じる。
空の桶の中に手拭を放ると、彼女は身支度を整えるために自室へと向かった。変な夢を見たいせいか、人との会話を楽しみたい気分だった。
阿求はもう一度廊下に出て庭を見渡した。
以前紅魔館の中を散策して、こんなに風通しの悪い建物で良く息が詰まらないなぁと感じていたが、逆に考えてみると保温性は高そうだった。
それにこうして部屋を移動する際にその都度外に出なくても、建物の中を移動すればいいのだから、冷気にあたらなくても済む。夏の熱気はごめんだが、冬ならあの建物で過ごすのも悪くなさそうだ。
普段の面影が全く残らない庭を見渡して、阿求は「本当、綺麗……」とこぼした。
吐息が白に染まり、すぐに大気に溶け込んでいく。
「こんなに綺麗なら」阿求はくすりと笑って、「雪見宴会でも開こうかしら」と冗談っぽく口にした。
でも、それくらいの価値はありそうね。
口には出さず、彼女は心の中でもう一度微笑んだ。
――機会があれば、雪見宴会も悪く無さそうだ、と。
◇
雲に押し潰されそうな空模様を見ながら、阿求は永遠亭へと向かっていた。
永遠亭は『迷いの竹林』と呼ばれる竹林の中にある。
以前はその複雑な竹林のせいでよく迷い込んだものだが、すっかりと道を覚えてしまった今では、迷うことさえない。ただ、今日は大雪の影響で思うように前に進めず、体感時間的に普段の倍はかかったような気がした。
何度も雪に足をとられ、転びそうになりながらも、ようやく永遠亭に辿り着いた。
広大な敷地を有している永遠亭も、その殆どが雪に覆われ、真っ白である。
肩口が上下に揺れ、いかにも疲労困憊といった表情をしている阿求は、とりあえず呼吸だけでも落ち着けてから――自分の今の表情を把握していないせいもあり――中に入ろうと思った。
しかしそんな時に限って、目の前に一匹のウサギが姿を現した。雪と同じ色をした毛を持つ、そこいらにいそうなウサギだった。
「ウサギ?」
そう言えば、と思い出す。
最近来ていなかったせいで忘れていたが、この永遠亭の主たる蓬莱山輝夜は、ウサギを拾っては飼っていたのだった。
ウサギは紅い瞳でこちらを見上げたかと思うと、鼻をもぞもぞと動かして、またどこかへと行ってしまった。
「面白いウサギね」
阿求は疲労も忘れてその後ろ姿を目で追った。
すると後ろから声をかけられた。
「あら、珍しいわね」
少しばかり驚いて振り向くと、そこに顔見知りが居た。というよりは、今日の目的の一人だった。
「お久しぶりです。輝夜さん」
「ええ、お久しぶり。どうしたの? こんな大雪の日に」
雪がとけてから来れば良かったのにと言いながら、輝夜が手招きをする。
阿求はそれに従って歩き始めた。ぎゅむぎゅむと雪を踏み分ける音が二つになったせいか、少し妙な気持ちになりながら輝夜の後をついていく。
「永琳さんは元気にしているかしら」
「ええ、とても。と言うか、永琳が元気無い日なんて有り得ないわよ」
コロコロと笑う輝夜の姿に、阿求は自然と苦笑いを浮べていた。他でもない、彼女の変わりようの無さを改めて実感したせいだ。
自分は老いてきていて、もう死が目前だと言うのに。
蓬莱山輝夜は、羨ましいほどに変わっていない。
「今日は永琳が目当て?」
「あ……」
どこかへと飛んでいっていた精神を慌てて引き戻し、阿求は口早に答えた。
「ええと、永琳さんも、かな」
「永琳も、ってことは、私も?」
「はい。ちょっとお話がしたくて」
「それは構わないけど。何か重要なことでもあったのかしら?」
何気なく話を振った輝夜だったが、阿求は表情を固くして唇を横一文字に結んだ。
脳裏に死のイメージが横切った。
「阿求?」
「あ、いえ、なんでもないです……」
俯き加減でそう返事をした。けれど態度は雄弁に物語っている。
――何でもない、わけがない、と。
そんな彼女を輝夜は訝ったが、それ以上追及することなく歩行を再開した。阿求もそれに続いた。
「はい、お茶」
「どうも」
「永琳は調合作業が残っているらしいから。とりあえず待っていてくれる?」
「あ、はい」
差し出された湯呑みを手にすると、阿求はそっと口を付けた。暖かい緑茶だった。
家からここまでの道のりは決して近いものではない。冷え切った体には、この上なくありがたい差し入れだ。
「それで、話しと言うのは何かしら」
自身も腰を落ち着けた輝夜が、静かに切り出してきた。阿求は湯呑みから口を離し、姿勢を改めた。
「実は」
今しがたお茶を飲んだと言うのに、口を開いた先から乾いてくる。それも極度に、カラカラになるほどに。
「お願いがあって来たのです」
「お願い?」
「はい。輝夜さんにはお話をしていなかったかもしれませんが、私は三十まで生きられません」
「――――」
輝夜の息を呑む気配が伝わってくる。阿求は今にも震えだしそうな両手に力を込めて、拳に変えた。
ここから先は、もっと強い意志で臨まなければならない。
「転生の件についてはお聞きになっているかもしれませんが、稗田阿求としての私の人生は、ここいらでお終いです」
「――そう」
「はい。そして転生には百年ほどの時間がかかりますので、次に逢えるとしても百年後――それも阿求ではなく、次の継承者として、です」
「……そう。それで?」
「実は、」
ごくりと唾を飲み込んだ。
阿求にとって今からの告白は、初めて打ち明かす自分自身の闇の部分、本当なら言いたくないことだ。
しかし――言わなくては。
機会は、そうは訪れない。
「私は、転生するのが辛いのです。生まれ変わる度に、親しかった人々がいなくなっている……。好きだった人々がいなくなっている……。それが辛くて悲しいのです」
最後の方はもう、嗚咽交じりだった。泣かないようにと固めた拳の上に、特大の涙の粒が落ちていく。
輝夜は押し黙っていた。何を言うわけでもなく、ただ息を殺して阿求を見据えている。
「だから……っ、だから私を、覚えていて欲しいのです。そして、ここからいなくならないで欲しいのです。永遠な貴方になら、それが出来るはずだからっ……!」
泣き縋るような台詞。両手はいつの間にか開かれ、阿求自身の目を覆っていた。その合間から流れ落ちていく涙を拭おうともしない。
泣き続ける阿求に、輝夜は一声もかけることなく、ただただ沈黙を貫き通した。
◇
「そこにいるんでしょ? 永琳」
「はい。輝夜」
輝夜に言われてか、物陰から永琳が出てきた。その顔には微笑が張り付いている。
「出て来れば良かったのに」
「そんな雰囲気では無かったじゃないですか」と言って、永琳は輝夜と対峙するように腰を下ろした。
「おかげで私が悪者みたいじゃない」
「事実悪者じゃないですか。あんな意地悪をして」
「意地悪なんてしていないわ」
「いいえ、輝夜は意地悪でした」
きっぱりと断言する永琳に、輝夜はむっとした顔つきで反論した。
「どこら辺が意地悪だって言うの?」
「慰めの言葉くらいかけてあげれば良かったじゃないですか」
「顔も出さなかった永琳には言われたくないわ」
「まぁ、それはそうですが……」
輝夜の反撃に永琳は乾いた笑みを浮かべたが、すぐに元の表情に戻して話しを続けた。
「深刻そうでしたね」
「そうね。でも、転生すると言うのに、些か贅沢じゃないかしら。結局は私と似たようなものだと思うけれど」
「それでもやはり、ずっと生き続ける輝夜とは違いますよ。輝夜はその人の最期を看取ることが出来ますが、彼女は転生する間は誰とも会えませんから、生まれ変わった時には誰もいない、と言う状況です。それがどれだけ苦痛なことなのかは彼女にしかわからないと思います。
しかし今は、妖怪ともうまくやっている状態ですし、前回よりも悩みの深さは浅くなっているはずですが。妖怪は長生きですから。不便なことに変わりはありませんけどね」
「本当よね。泣くほどでも無いと思うのだけれど。さっきは本当に何を言っていいかわからなかったわ。それに次回もそのまだ次回も、私たちはきっといるでしょうし」
「だから今回は意地悪したんですか?」
くすりと月の賢者が笑う。
「輝夜が何も言ってくれそうになかったから、帰ってしまったのでは?」
「永琳が来なかったからに決まっているでしょう?」
困った顔を向ける輝夜に、永琳は前髪を掻きあげながら、
「まぁまぁ、稗田阿求は輝夜を妬んでいるんですから」
「妬む? どうして?」
「そんなの、決まっているじゃないですか」
永琳はこれ以上無いほどの笑みを浮べて言った。
「輝夜、貴方が永遠だからですよ」
3
――夢を、見た。
目の痛くなるような、紅。それが夕陽だと気が付くのに、いくらかの時間がかかった。
世界を燃やしつくさんとする業火のように輝く紅の球体。見ていて目に染みたけれど、不思議と目が逸らせなかった。
私の隣には■が座っている。二人で夕陽を眺めている。もうどれくらい経ったのかわからないほどに。
不意に、彼女が言った。
「私がいるわ」
私は聞いた。
「本当?」
彼女はゆっくりと頷いた。
「だから安心して」
でも、と私は反論する。
「みんなどこかへいってしまうかもしれない」
彼女がくすりと笑う。
「大丈夫。私がいる限り、ここは無くならないから」
本当? と口にして、夢が破れた。
◇
にゃーん、と間の抜けた声のせいで意識が覚醒した。
「……ん?」
何か大事な夢を見ていた気がするのに、一体誰が夢の邪魔をしてくれたのか。
阿求は内心苛つきながら、少しだけ瞳を開けた。これで大したことが無かったら、即座に二度寝を敢行しようと思った。
しかし少しだけ開いたはずの瞳は、その視界にあるものを納めたおかげで完全に開かれた。
「――――」
思わず息を呑んだ。視界に入ってきた、というよりは、自身の目の前に、ソレはいた。
「…………」
物凄く眠そうに目を細めるソレは、丸々と太った猫だった。
阿求が見つめているというのに、ひげが微動するだけでその場から動こうとさえしない。白色と茶色と黒色の三色が絡み合った毛色を持つ、三毛猫だった。
「……貴方」
阿求はぽそりと猫に声をかけてみた。しかし三毛猫は細めていた目を更に細くさせただけだった。
もう瞳は完全な横棒になっていて、とても目が開いている、とは言いがたい。
眠ってしまったのだろうか。それでも阿求は続けた。
「どこから来たの?」
ここは阿求の個室であって、寝る時は障子や襖の類は全て閉じている。入り込める場所など無いはずだ。
布団から見渡した感じ、障子たちも開いている様子は無い。完全な密室のはずだった。
しかし現に猫はここにいる。阿求の目の前に。
前足を揃え、ぼてっとした体がそこにのっかかっている。耳は垂れて、見ればどこか申し訳なさそうな顔をしていた。
阿求は鼻から息を吐いて、弾みをつけて起き上がった。わざと勢いよく起きてみたが、三毛猫は不動だった。ひげすら動かない。
困ったな、と呟いて、阿求はもう一度室内を見渡した。
まさか障子を破って強行突入してきたのではないかと思っていたが、襖も障子も、元のままだった。
「どこから入ったのかしら」
乱れた後ろ髪を二、三度掻いて、今度は立ち上がった。猫は動かない。本当に一寸たりとも動かない。それが阿求の心をほぐした。
「可愛いわね、貴方」と、阿求は微笑んだ。
顔は不細工なことこの上なかったが、そののんびりとした雰囲気や佇まいが気に入った。何より太っているおかげか、丸まっている姿がどこか情けなくて、ついつい頬が緩んでしまう。
「朝食作るけど、食べる?」阿求が言った。
「…………」
猫は答えない。動かない。
「答えないか」
苦笑する阿求だったが、猫は当然だろと反論するようにぶすっとしていた。
◇
「はい、どうぞ」
作った料理を自室に運ぶと、匂いのせいかこれまで不動だった猫が、急に面を上げた。
「これが魚だってわかるの?」
楽しげに聞く阿求だったが、猫はそんな言葉には興味も示さず、一目散に茶碗めがけて寄ってきた。
茶碗はまだ彼女の手の中だったが、猫の視線はまっすぐに茶碗に伸びている。阿求の顔など一瞥もしない。
盆の中の茶碗の一つが、猫の朝食だった。
鯉を塩焼きにし、丹念にほぐしたものに白いご飯を混ぜた、いわゆる猫飯だ。量こそ少ないものの、鯉は贅沢品である。恐らくは気に入ってくれることだろう。
出来立ての猫飯を太った三毛猫の足元に置くと、猫は運んできた阿求に断りも無くガツガツと食べ始めた。
「もう、意地汚いわね」
よほどお腹がすいていたのだろうか、と阿求は考えてみた。さきほど微動だにしなかったのは、空腹のために動けなかったのではないか?
考えても正解などわからない。それでも考えて、想像するだけで世界が広がって面白かった。
阿求自身も食事をとろうと、お盆にのった残りの茶碗たちを卓袱台に置いていく。
彼女の朝食は猫の鯉料理とは違い、味噌汁と大根の漬物、そしてご飯だけという質素っぷりだった。
「いただきます」と、阿求が食事前の礼をすると、猫がくしゃみをした。
驚いてそちらを向くと、猫は苦渋に満ちた表情を作っていた。
どうやらくしゃみの時に歪めた顔が元に戻らないらしい。眉間にシワを寄せたままの三毛猫の姿を見て、阿求は吹き出した。
「ふふっ、ひどい顔」
文句あるのか、と猫が睨んできた。
「あら、ごめんなさいね」と、阿求はまるで母親のように軽くかわす。
しばらく阿求を睨んでいた猫だったが、溜め息一つ吐くと、またもその場で丸くなった。
は、と大きな欠伸をして。
「まるで主人気取りね」
阿求は笑顔を貼り付けたまま、箸に手をつけた。
◇
今日は家の中を大掃除しようと決めていた阿求だったが、書斎や台所の掃除を終え、自室に来ると、途端にやる気が萎えてしまった。
理由はたった一つ。
部屋の真ん中に位置する卓袱台の上に、三毛猫が丸まって爆睡していたからだ。
障子を強く閉じて大きな音を出しても、まるで気がつかない。うつらうつらと舟を漕ぐこともなく、目をきつく閉じて達磨のようになっていた。
「おーい、起きろー」
身を屈めて耳元で声をかけてみるも、効果は無かった。代わりにいびきが聞こえてきた。
阿求は驚いた。人間のいびき自体あまり聞いたことの無かった彼女だが、猫がいびきをするのを聞いたのは初めてだった。
ぐぅー、ぐぅーと伸びのある変わったいびきが聞こえてくる。
「……猫っていびきするのね」
呆れと好奇を半々に感じながら、阿求は立ち上がった。
このまま起こそうとすれば手荒なことをしなければならないし、そうした時、この猫が何を仕出かすかわかったものではない。
触らぬ神に祟り無し、起こさぬ猫に祟り無しである。
「しょうがない。先に廊下を済ませよう」
わざと障子を強く閉じてみたが、やはり室内からは物音一つしなかった。
◇
大体の部屋の掃除が終わり、廊下へと出た阿求は、反射的に瞳を閉じた。咄嗟に手をかざして目を保護する。目に光が突き刺さり、痛みを感じたからだ。
「う……」
呻き声を一つ。
そして徐々に光に目を慣らしていき、完全に瞳を開ききった彼女は、知らず声を漏らしていた。
「……きれい」
思わずうっとりした表情を浮べる。見つめる先には、太陽に照らされた雪景色があった。
普段から見慣れているはずの庭だと言うのに、こうして太陽光が雪で乱反射していると、別世界のモノのように見える。
白というよりは銀に染まった雪が庭を覆い尽くしている。先日見た雪化粧とはまた違った美麗さが、阿求の心を捉えていた。
――と、その時。
彼女の脳裏を、ある映像が横切った。
『世界を燃やしつくさんとする業火のように輝く紅の球体』だ。
それが今朝見た夢であることに思い至るまでに、それほど時間はかからなかった。
時間にして分にも満たないほどの時間だ。
「――夕陽」と、阿求は焦点の定まらない瞳で庭を見つめながら呟いた。
そのすぐ上空では白い光を放散させる太陽が煌いている。光を受けた雪が、阿求の体を照らしあげている。
「夕陽」と、今度は確かな声で言葉にした。
踵を返し、阿求は自室へと向かった。何かを思い出したように足早に。
そして障子を開け、颯爽と自室に入ると、猫に向かって優しく声をかけた。
「ねぇ。これからお出かけしない?」
猫は眠そうな顔をしながらも、ゆっくりとその重そうな体を両足で持ち上げた。
◇
「で、なんで私を呼んだんだよ」
白く長い髪をなびかせながら阿求の前を歩く少女は、むすったれた顔で言った。
「面倒臭い」
「す、すみません。思いついたのが貴方だったので……」
阿求はさきほどから、ずっと苦笑いを浮べっぱなしだった。この相手といると疲れる、と顔に書いてある。
「しかも夕陽を見るためだけに呼び出す、と」
「しょ、少々気になることがありまして……」
彼女の答えに、白髪の少女はフン、と鼻を鳴らした。どうやら完全にご機嫌斜めの様子である。
白髪の少女は、名を藤原妹紅と言う。
この幻想郷において不死者は二名いるが、そのうちの一人が妹紅だった。
もう一人は蓬莱山輝夜である。
輝夜は永遠の時間を手にする不死者に相応しい、安穏とした性格だが、妹紅は感情の起伏が激しかった。
永遠の時間を持っているのに、心に余裕というものが見られない――それが阿求の、妹紅に対する印象だった。
「まぁいいけどさ。暇だったし」
「本当、すみません。流石に私一人で妖怪の山に登るのはちょっと怖くて」
「それなら登らなきゃいいのに。何でわざわざ山に登るんだ? 夕陽なんて屋根の上からでも見れるだろ」
「屋根の上……」と、阿求は苦笑を浮べたまま頬を引きつらせた。
流石にその発想は無かった。庭から眺めるのではなく、屋根によじ上って眺める。なんとも斬新な発想だった。
そして阿求は更に想像してみた。妹紅が屋根に上って寝転び、夜空を観賞する……。なるほど、凄く様になっている。
きっと普段からそういう生活をしているのだろう、すんなりと提案してくるあたり(しかも想像しても違和感が全く無い)、可能性は高い。
「まぁ、とやかく言うつもりは無いけどさ」
道に転がっている小石を蹴飛ばしながら、妹紅は更に歩幅を広げて歩き始めた。
目的地である妖怪の山を目指して。雪もいい感じに溶け出しており、歩くのには苦が無さそうに思われた。
妹紅の後ろを、阿求が小走りでついていく。カゴのような木編みの手提げ鞄を手にして。
その鞄の縁から、丸っとした猫の首がはみ出ていた。
◇
山に登り始めてから一時間と少しで頂上まで辿り着いた(妹紅の飛行能力を活かして)。
防衛目的で妹紅に同行を求めたが、襲い掛かってくる妖怪は特にいなかった。だからといって楽観視出来るような場所ではないが。
何せ『妖怪の山』の妖怪たちは、侵入者とみなした者は誰であれ即刻排除しにかかることで有名だ。
幻想郷では名の知れた阿求ではあるが、山の妖怪たちから見れば立派な部外者である。 力尽くで追い出されてしまうのではないか、と危惧するのは当然と言えた。
妹紅は頂上付近の大岩で休むと言い、今山頂には阿求と猫の一組だけしかいない。他の妖怪や人間は、誰一人としていなかった。
「うわぁ……」
妖怪の山から見渡す景色は、それこそ言葉では言い表すことの出来ない感動を阿求に与えた。
普段は屋敷にて幻想郷縁起の編纂をしたり、紅茶を飲みながら音楽に耳を傾けたりする生活が中心であるため、こうして自然と触れ合う機会は非常に少ない。有ったとして、屋敷の庭くらいなものである。
故に、彼女の心は震えた。
鳥のさえずりこそ聞こえては来ないが、幻想郷を一望出来る場所なだけに、様々なモノが目に入ってくる。
あの鳥居は博麗神社だ、あの煙が濛々としているところが紅魔館に違いない、森は魔法の森だろう、魔理沙たちの家は見えるだろうか――
普段生活している世界だというのに、ここから見渡す幻想郷は、どこか違う国のモノに見えた。全てが煌いていて、漲る活力を体中で感じとっているような錯覚に陥った。
陽はもうじき白から紅へと色を変えるだろう。もう傾き始めている。まるで咲かせて間もないのに、急速に衰える花のように。
震える胸中、震える四肢で、阿求は見続けた。
空を、木々を、人々を、故郷を、幻想郷そのものを。
木編みの手提げ鞄に納まっている猫も動かない。身じろぎ一つせず阿求の横にいる。目を細めたまま、もうじき夕陽へと姿を変える太陽を追い続けている。
――そうして幾時間が経った。
紅蓮の炎を連想させる、真っ赤な夕陽が幻想郷の土へと沈んでいく。
夢の景色と同一で、けれど決して同じじゃない現在。
隣にいるのは■ではなく、太った三毛猫一匹だ。夢とは違う。
それでも、阿求は涙を流していた。
理由はわからない。自分でも定かではない。ただひたすらに悲しくて、涙が止まらない。
沈んでいく夕陽が悲しいのか、でなければ沈んでいく夕陽のように、終わっていく自分の命が悲しいのか。
それとも――
虚う心で幻想郷を旅する阿求に、突如強い風が吹き付けた。
「きゃ、っ」
突風だった。
冷たい、生命を根こそぎ奪っていかんとする魔風のような飄。咄嗟に目を閉じ、髪を押さえる。
「だ、大丈夫だった?」
風が収まったのと同じタイミングで、彼女は手提げ鞄の方へと目をやった。今の風は結構強かった。猫は大丈夫だろうか、と。
しかしそこに、三毛猫の姿はなかった。
「あれ? どこいったの?」と、焦りを含んだ声を発する。ぐるりと周りを見渡してみたが、山頂にいる気配が無い。
そんな馬鹿な、と阿求は唇を噛み、妹紅のいるであろう大岩へと急いだ。
「妹紅さん!」
阿求の声で振り向いた妹紅は眠っていたのか、瞳が半分ほどしか開いていなかった。
生返事で応対し始める。
「んー、どうした」
「猫、見なかった?」
「猫ぉ?」訝る表情を面に出したかと思うと、妹紅はゆっくりと立ち上がった。「お前、一緒だっただろ」
「ど、どこにもいないの」
「はぁ? 鞄に押し込んでただろ」
前髪に手を突っ込み、掻き乱した。面倒くさいと、今にも言い出しそうな顔つきだ。
しかし阿求も引き下がらない。妹紅に縋りつくように、話を続ける。
「それが、急に風が吹いてきて。目を開けたらいなくなっちゃったの」
「鞄は?」
「鞄はちゃんとあったんだけど、中にいないの。どうしよう、落ちちゃったのかも……」
肩を落とし項垂れる阿求を見て、妹紅は複雑な心情をそのまま顔に出した。どうすりゃいいんだ、と舌打ちをして。
「とりあえず山頂から見てみるか」
言うが早いか、妹紅は山頂へと登っていった。
◇
「そんなに落ち込むなよ。どうせ野良だったんだろ?」
もう何度慰めの言葉を口にしただろう。いい加減ネタ切れだった。
「うん、でも……」と、阿求も何度目になるかわからない後悔の言葉を口にした。
妹紅は自身の飛行能力を使い、山のてっぺんから麓まで、調べられるだけ調べてみたのだが、結局猫は見つからなかった。
途中、出会った烏天狗に聞いてみたものの、知らぬ存ぜぬを通されてしまい、そうだよな、と頷くしかなかった。
「猫なんて他にいくらでもいるじゃないか。別に飼ってたわけでもないんだろ? だったらもういい加減に諦めろよ」
妹紅にしてみれば何気ない一言だったが、阿求は過敏に反応した。
「……でしょ」
「あ?」
「貴方には私の気持ちなんてわからないわ!」
振り向きざまに、妹紅は見てしまった。阿求の泣き顔を。
「お前……」
「あ……わ、わたし……」
言ってはいけないことを言ってしまった。
ぼろぼろと涙を流しながら、阿求は申し訳無さで一杯になった。
どうしてこんなことを言ってしまったのだろう、自分は最低だ、と自責の念を感じながら。
「ご――ごめんなさい……!」
混乱極まる自身の心と頭から逃げ出すように、彼女は駆け出した。
「あ、おい!」
妹紅の制止も聞かず、手提げ鞄も放って、すっかり暗くなった道中を駆けて行く。
妹紅は追いかけてこない。
これでいい、これこそが望んでいた展開だ。妹紅に追いかけられたら、簡単に捕まってしまう。
そうなった時、私は彼女に返す言葉を持っていない。だからこれでいい、これでいいんだ。
「はっ、はっ、」
すぐに切れる呼吸。しかしそれも無視して阿求は走り続けた。
自分が今どこを走っているかも把握していない。ただ、足の向かうまま動くままに走る。
何も考えてはいない。いや、何も考えまいと、思考に楔を打った。今はただ、止まってはいけない、という強迫観念だけで闇夜の中を突き進んでいく。
それこそ、全てから逃げるように。
◇
両足が限界を迎え、とうとう阿求は地に膝をついてしまった。
「っは、――はぁ……っ」
ガクガクと笑う両脚。心臓は張り裂けそうなほど活動し、それこそ吐き出してしまいそうだった。
冬だと言うのに全身汗だらけで気持ちが悪い。酸素が行き渡っていなかったせいか、脈打つ頭痛がたまらなかった。
「げほっ、げほっ」
大きく肩を揺らし、震える手で胸を押さえる。
なんだかとても胸が苦しい。
走りすぎのせいかもしれない。
「ふ、うっ、はあ、っ――」
……おかしい。
呼吸がおかしい。いくら無茶をして全力疾走したからといって、ここまで呼吸が整わないのは何故だ。
「ふっ、ふっ、はぁ、はぁ……」
リズムをとって呼吸してみるものの、苦しさは解消されない。
一体どうしてしまったのか?
雪解けのせいでぬかるんだ地面を、ずるずると両手で這うように進む。
目の前は黒一色で何も見えない。真実、そこは空虚なのだろう。それでも動かずにはいられなかった。
「く、苦し――――」
切れ切れする呼吸の中、彼女は必死に手を伸ばし、
「たすけ……て」
ついに意識を手放してしまった。
◇
――夢を、見た。
でもこの夢は、いつものあの夢ではない。
だって■が姿を現さない。
だからこれはただの夢だ。普通に見ることが出来る、朝起きたら全て忘れてしまう、普通の夢。
だと言うのに、私は夢に囚われたままでいる。もうずっと、ここにいる。
気がついたのは何時間前だったか。もう忘れてしまったけれど、随分と長い時間、ここにいる。
私だけしかいない。
■もいなければ、他の人もいない。私だけの夢。
ここには何も無かった。真っ白で、自分まで真っ白な世界。全てが白いから、ここはもしかしたら雪の中なのかもしれない。そういえば今日は雪が降っていた。
――そうだ、私はきっと、雪に埋もれてしまっているんだ。
そう考えると妙に納得出来た。そもそも、自分が白いだなんて、鏡も無いのにどやって確認したのか。そんなの無理に決まっている。
いくら夢の世界だからと言って、
「あれ?」
でも、そうなると、なんて変な事態なんだろう。
私は今、こうして意識を持っているし、自分を確認するには鏡が必要だと言う、常識的な考え方もしている。
でも、私は自分が白いと言うことを、何故か知っていた。夢の中で目が覚めた時から知っていたのだ。理由はわからない。それこそ夢だから、なのだろう。
では夢の世界で、こうして確固たる自分自身の意識を持っているのはおかしくないだろうか?
夢は自分で操作出来ないから夢というはずだ。意識なんて無いから、いつも変な夢を見る。意識があって自在に夢を操れるなら、悪夢など見はしない。
そうなると、ここは夢の世界では無い、ということになる。すると浮上する問題がある。
一体ここはどこなのか、ということだ。
夢の世界ではなく、かと言って現実の世界でさえないだろう。
そもそも現実的に考えて、雪に埋もれているなんて状況は有り得ない。もし埋まってしまったのなら、すぐに這い出ようとするはずだ。
それにこうして考えたからこそ気がついたのだけれど、ここでは感覚が無い。
意識はあるけれど、感覚がまるで感じられない。
寒いとも感じないし、痛くも無い。匂いも無いし、何も聞こえてこない。
「んん?」
声は出ているような気がするけれど、これは私の思考なのだろう。
声が聞こえているだけで、実際は音を拾っていない可能性が高い。
そう言えば体を動かす自由も無いようだ。拳を作ろうとしても、何も実感が沸いてこないのでは作りようが無い。
果たして――ここはどこなのだろう?
あまりにも白すぎて、何も視認出来ない。誰かに意見を求めたくても、どこにも人なんていなかった。
それからまた時間が流れた。
もう時間を意識するだけ無駄な気がしてきた。
だってここには何も無いし、誰も居ないし、何も出来ないのだから。
一日二十四時間しか無いとしても、時間を把握する必要が無い。
全ては停滞しているのか、無限なのかはわからないけれど、活動していないのに時間を知る意味は無いからだ。
そしてここには時計も無い。時計が無いから時刻もわからない。だからどれだけここにいるかもわからない。
そう、それこそ――永遠に、私はここにい続けるのかもしれない。
そう、それこそ――ここは、死後の世界なのではないだろうか?
「――――」
不吉なことを考えたと言うのに、何の感慨も湧いてはこなかった。
ついに心まで白くなったのだろうか? そう思い込んだ時だった。
「痛……っ!」
急に、頬に鋭い痛みを感じた。
何事かと思った瞬間、白が黒へと反転した。
◇
「――お。起きたか」言って安堵の息を漏らす誰か。阿求はぐらつく意識の中、何とか瞼を開いて、声の主を凝視した。
「……慧音、先生?」
搾り出した言葉は酷く掠れていて、彼女の声では無いように感じられる。
「おお、ちゃんと意識もあるな」
阿求が見たのは、薄い水色をした長髪の女だった。
頭に冠のような物をのせており、胸元には赤いリボンが几帳面に結ばれている。
慧音、と言うのが彼女の名前だった。
「ここは……?」と、阿求が小さく口を動かす。慧音は屈んでいた身を起こし、ぴしりと背筋を伸ばして返事をした。
「ここは私の家だ。今日はもう、ここに泊まっていくといい」
「え……?」
いまひとつ要領を得ないと言った顔をする阿求に、慧音は苦笑を漏らして説明し始めた。
「あれだけの惨事だったのに覚えが無いか。まぁ、簡潔に言うと、泥まみれになって倒れていたんだよ。覚えてないか?」
「私が……倒れていた?」
さて、と首を少し横に倒す。「覚えが無いわ……」
「そうか。私は今日、久しぶりに香霖堂の方に行っていてな。その帰りに貴女を見つけたという訳だ」
泥まみれでね、と付け加えて、慧音は続ける。
「雪もちらつく中、一体あんなところで何をしていたんだか。とりあえず熱は無さそうだが、明日になったらわからんな」
「……ご迷惑を、おかけしました」
謝りはしたものの、阿求にとっては、まさに青天の霹靂だった。
倒れていた? 一体何故?
それに、今日の行いを思い返そうとしても、一つたりとも思い出せなかった。
今日の朝ご飯から昼間の行動から、何一つ思い出せない。私は今日一日、何をしていたのか。
「風呂も用意したんだが。しんどそうだしな、今日はもうそのまま寝るといい」
「はい……」
「ゆっくりな」と言って、慧音は立ち上がった。「何かあったら遠慮なく呼んでくれ。起きていれば対応する」
「ありがとうございます」
「では」
襖が閉まっていく音がする。
阿求はそっと瞳を閉じた。今日のことを出来るだけ詳細に思い返そうと思ったからだ。
しかしいつまで経っても襖の閉まりきった音がしない。何故、と阿求がそちらを向くと、まだそこにいたのか、慧音が言葉を発した。
「その……さっきはすまなかったな。はたいてしまって。おやすみっ」
早口で言い切ると、逃げるようにばたばたと去っていく。
阿求はしばらくの間呆然としたが、気がつけば笑っていた。同時に、肩の力も抜けていった。
◇
翌日、慧音の予見通りに阿求は風邪を引いた。
「見事に予感的中だったな」
にやりと笑って、慧音は持ってきた衣服を阿求に手渡した。
泥に塗れてしのびなかったと言い、昨晩のうちに洗濯したと言う。
洋服と和服を繋ぎ合わせたような、少しばかりカラフルなソレを、阿求は咳き込みながら受け取った。
「す、すみません。洗濯までしてもらっちゃって……」
「なぁに、大した労力ではないよ」
手を横に振り、気にするなと付け加える。「そんなことより、本当に大丈夫か?」
慧音の言葉はもっともだった。何せ阿求は、風邪をこじらせたと言うのに帰宅しようとしているのだから。
「大丈夫ですよ。ちょっと咳がひどいくらいで」
言っている傍から、ゴホゴホと咳をする。その様子を間近で見ている慧音は、「どうもそうは見えないんだが」と難しい顔をした。
慧音が難色を示す理由の一つに、悪天候が挙げられた。
今日は一昨日と同程度の降雪量が見込まれている。既に外はボタン雪が吹雪いていて、視界も悪い。救いがあるとすれば、まだ雪はそれほど積もっていない、と言うことくらいか。
それでも慧音が阿求の愚行を止めないのは、それなりに安心できる材料があったからだった。
すぐ隣から衣擦れの音が聞こえてくる。阿求が着替えをしているのだろう。慧音は座ったまま反対側を向いて、壁にかけてある時計に目をやった。
「遅いな、妹紅のやつ」
時計の針は十時十分を示していた。いつもならもう三十分くらいは早く、ここへと来ているというのに。やきもきする慧音は、自分の意識とは無関係に眉根を寄せた。
「ただ食いの時は早いのに、こうやって頼みごとをしようとすると来ないのは何故だ」
むぅと唸りつつ腕を組む。
慧音は寺小屋の先生を勤めている。そのおかげか、こうして腕組をしていると、威厳が全身から滲み出てきているようだった。
「私なら一人でも帰れますから、お気遣い無く……」
声は慧音の上から聞こえてきた。彼女は首を折って上を向いた。その様は、横から見た時のユリの花のように見える。
そして目先に黒い物体を認めた。
「着替え、早いな」と言って、目の前にあった黒い物体、もとい衣服を受け取った。
彼女が昨日、阿求に貸したものだ。
「毎日脱ぎ着していますから」
衣服が視界から消えると、すぐそこに阿求の笑顔があった。不意に互いの瞳と瞳が向かい合う。
すると殆ど同時に、二人はぴたりと静止してしまった。まるで不味いものを見てしまった時のように。気まずさから、前進も後退も出来ないでいる。
呼吸さえも止まっていそうな静謐の中、
「――――ぁ」
声を先に出したのはどちらか。それを合図に、慧音は首を元に戻し、阿求はすぐ横にあった襖に視線をはしらせた。異性同士ではないにせよ、気恥ずかしさがあったためだった。
「そ、それにしても」慧音が早口で言った。「本当に遅いな、妹紅」
「で、ですね」
上擦った声で返事をする阿求。そこから会話が途切れ、微妙な空気が漂い始めた。
しかしそんな状態は、五分と続かなかった。襖越しに大声が飛んできたからだ。
「おーい慧音、いないのか?」
「も、妹紅!」
驚きを隠せぬまま慧音が名を呼んだ。同時に、場から逃げ出すように、とすとすと足音を響かせながら玄関口へと向かっていく。
開かれた襖。部屋から慧音の姿が完全に消えると、阿求は苦笑を漏らして自身も後についていった。
「何でお前がここにいるんだ?」
開口一番に飛んできた言葉は、阿求の予想通りのものだった。いかにも妹紅らしい一言である。
玄関から侵入してきた冷たい空気のせいか、はたまた緊張が解けたせいか、阿求はゴホンと大き目の咳をした。それを横目で見つつ、慧音が切り出した。
「実は今日、妹紅に頼みがあってな」
「頼み?」察しがついたのか、妹紅は阿求の方へと首を捻った。顔に面倒くさいと貼り付けてある。
「実は彼女を自宅まで連れて行って欲しいんだ」
「えー、面倒だよ、それは。昨日も……」
言いかけて妹紅は口を噤んだ。ここで反論すると、それなら朝食抜きだ、と慧音に言われかねない。
「しょうがないな……」前髪を掻きむしり、妹紅は慧音たちに背を向けた。「ほら、行くならさっさと行くぞ」
阿求と慧音は、互いに苦笑した顔を向け合った。
◇
「助かりました」
白い吐息と共に吐き出された謝礼の言葉を、妹紅は鬱陶しそうに手で払った。
「いい。とりあえず腹が減ったから、すぐ戻るよ」
「あ、せっかくですし、お茶でも……」
「私は腹が減ったんだ。じゃあな」
くるりと背を向けて、妹紅は来た道を戻り始めた。髪を縛っているリボンが大きく揺れている。
阿求はその様子をじっと見ていたが、妹紅の姿が見えなくなる直前、「ゲホッ、ゲホッ」と咳き込んだ。
喀血しているわけでもないのに、じんわりと口内に血の味が広がった。
面を上げた時には、すでに妹紅の姿は地平の彼方へと隠れてしまっていた。
「寒い……」
ようやく本音を吐いて、阿求は屋敷の中へと入っていった。
◇
湯浴みをするにも火を焚く力が残っていなかった阿求は、それでも体を温めようと台所へと向かった。
かまどを使う気力が無かったため、土間の隅にあった七輪に目をつけた。やかんに火をつけ木炭を燃やし、水を沸騰させた。
「ぐすっ」
人差し指で鼻を擦り、七輪の前で背を丸める。
こうして火の近くにいるだけでも暖かい。やかんの中身が煮え立つ音が聞こえてくると、彼女は名残惜しそうに立ち上がった。
「よい、しょ」
やかんを持つ手が震える。
何とかお湯をこぼすことなく茶碗の中に注ぐことに成功した阿求は、やかんを流しに置き、乾燥させた紅茶の葉を入れた小さなザルを、茶碗へと浸けた。
無色透明なお湯が濃い茶色になったのを確認すると、その茶葉を流しのやかんの中に放り、棚から小さな瓶を取り出した。久しぶりに使うせいか、瓶の蓋は思った以上に硬かった。渾身の力を振り絞り、蓋を開ける。
「わっ!」
蓋が開いた反動で倒れそうになったが、なんとか足で踏ん張り、堪えた。ひとまず倒れ
なかったことに安堵の息を漏らし、瓶を茶碗の前まで持っていく。
瓶の中には黄色の液体が入っていた。液体、と言うよりは、とろみがついているので半液体、もしくは半固体と言うのが正しいだろう。阿求は瓶をそのまま斜めに傾けて、中身を茶碗へと垂らした。
ゆっくりと時間をかけて黄色い何かが茶碗へと落ちていく。
底で一旦溜まってから、気泡と共に紅茶へと少しずつ浸潤していくそれは、砂糖のように甘い蜂蜜だった。
風邪には滋養が一番だと考えていた阿求は、蜂蜜で栄養を摂取しようとしていたのだった。
「ふう」
紅茶を淹れるのがこんなにもしんどいなんて――阿求は溜め息を吐いた。
瓶の蓋を軽く閉め、ティーカップを掘り炬燵の方へと持っていく。炬燵は暖かくなかったが、炬燵を囲う布団のおかげでそこまで寒くは無かった。
「あったかい……」と目を細めて、阿求は息を吐いた。自分自身でも驚くほどに長い吐息だった。
長い長い吐息が終わると、次に彼女はティーカップを両手で包むように掴んだ。
カップは熱かったが、不思議と持ち続けていられた。
おそらく体が冷えているからだろうと思った。でなければ、熱さですぐに手を離しているはずだ。さもなければ体温が高すぎて平気なのかもしれない。
たっぷりと紅茶の熱を楽しんだ後、阿求はカップに唇を付けた。
そしてゆっくりと紅茶を口の中へと入れていく。まるで重篤な病人に、慎重に水を飲ませるかのように。
「――美味しい」
素直な感想だった。
美味しい。それもこの上なく。
今までの紅茶人生で最高の出来だった、と断言出来るほどに。
たとえ専用の道具ではなく、それこそザルや茶碗を代用にしたとしても、ここまでの味を引き出せるとは夢にも思わなかった。驚きで自然と目を見開いていた。
紅茶を飲み終えると、若干ではあるが、体が温まったような気がした。蜂蜜のおかげで栄養も得られた気がする。
しかしそれらは全て気がするだけであって、本当に効用があるかはわからなかった。
寒気を感じ、咳も止まる兆しを見せない現状からすれば、本当にただの気のせいなのかもしれない。
それでも病は気からだ、と阿求は思い込むことにした。
そして寝てしまえば気を煩うことも無い。果報は寝て待て、の要領である。寝てしまえば考えること自体しなくなるのだから、悩むことも無くなるのは当然だ。
先人の知恵を頭の中で反芻させながら、彼女は立ち上がった。寝床へと向かうために。
そうして廊下に出て、はたと疑問を感じた。
――そういえば今日、私は一体何をしていたのだっけ?
4
――夢を、見た。
一匹の猫と■と私。
まるで春のような陽気に、思わず顔がほころんだ。自分でもわかるほどに。
■は相変わらず日傘をさしている。
こうして野外の長椅子――それも木陰にいる――に腰をかけているのだから、日傘など差さなくてもいいと思うのだけれど。
猫はぽっちゃりとした三毛猫だった。
茶色と黒色と白色が点在していて、何かのシミのように見える。これをシミだと言ったら怒るかもしれない。
そんな他愛の無いことを考えるだけでも、自然と笑みがこぼれた。
私は言った。
「いい天気ね」
■は答えた。
「そうね。いい天気だわ」
目の前には大きな池がある。水は黒くて底なし沼のよう。それでも蓮の花がたくさん浮いていて、不思議と神聖さを感じさせた。
光さえも呑み込んでいるかのような黒い池を眺めていると、■が喋りかけてきた。
「もうすぐね」
「え?」
「季節は移ろいゆくわ。人も然り。不変なモノなんて、どこにもありはしない」
難しいことを言うなぁ。
「急にどうしたの?」
聞いてみると、■はふと笑みを翳らせて、その小さな唇で何かを囁いた。
それを聞こうと身を乗り出したとき、にゃーん、という鳴き声が聞こえた。
三毛猫か、と思った途端、夢が終わりを告げた。
◇
「起きたかい?」
阿求がその妙に重い瞼を開けると、そこには何故か見知らぬ人間がいた。
「……だれ?」
そう尋ねると、相手は酷く驚いた顔をした。
「もう何度も逢ってるのに、忘れたのかい?」
肩にかかるくらいの赤い髪をがりがりと掻き乱し、その女性は信じられない、と呟いた。
「ごめんなさい。本当にわからないの」と消え入りそうな声で阿求は謝罪した。彼女の中では、本当に見覚えの無い相手だったのだ。
彼女の見知らぬ女性は、大袈裟に深い溜め息を吐いて見せ、それから素性を明かした。
「はぁ……。転生しすぎて記憶障害にでもなったのかねぇ……。
――小町。小野塚小町だよ」
「おのづか……こまち?」
阿求は眉を動かして考える素振りを見せたが、しばらくして首を横に振った。
「知らないわ。そんな人」
「――――何?」
小野塚小町と名乗った女は、眉をひそめて阿求を睨むように見つめた。
にわかには信じられないと、表情が物語っている。
「本当にわからないのかい?」
「ええ……これっぽっちも」
まだ風邪を引き摺っているのか、寝たまま力なく答える阿求に、小町は大いに困惑した。
幻想郷縁起を綴り続けてきた少女には、一度見聞きしたことは忘れない、という能力が備わっている。
だと言うのに、何度も逢っているはずあたいを覚えていないのは何故なのか。
小町は阿求がふざけているのだと思った。でなければ説明がつかないからだ。
目の前にいるのは間違いなくあの稗田阿求で、転生に何度も立ち会ってきた小町にしてみれば、顔見知り以上の関係だと言えた。
その阿求が、あたいをわからないだって?
「自分の名前はわかるかい?」
「稗田、阿求」
「だよね」と小町は嘯いて、今度は懐から三枚ほどの写真を取り出した。
「これが誰だかわかるかい?」
横になったまま起き上がる気配も無い阿求の目の前で、小町はまず一枚目の写真を広げた。
そこには小さな赤い頭巾を被り、大きな黒翼を広げた少女が映し出されていた。射命丸文の姿だった。
しかし阿求は静かに瞳を閉じると、「知らない方だわ」と息を吐くように答えた。
「じゃあこれは?」
取り出したる二枚目の写真には、ピンク色の日傘をさし、緑色の短髪を手の甲で払う少女が映っていた。顔には微笑が浮かんでいる。風見幽香の姿だった。
しかし阿求は何も喋らず、首を左右に振った。どうやら見覚えが無いらしい。
小町は鼻から息を吐き出すと、最後の一枚を広げた。
「流石にこの人はわかるだろ?」
顔の近くまで写真を突きつけられ、阿求は少し困った顔をしたが、その写真を見て呟いた。
「知ってるわ、この人なら」
阿求の言葉に、小町は「本当か!」と声を大にした。
その写真に写っていたのは、人差し指を立てて口を大きく開けている少女だった。頭にえらく立派な冠をのせており、髪は左右アシンメトリーでセミロングほどの長さである。 毅然とした態度をとっている場面を映されていたのは、四季映姫・ヤマザナドゥだった。
「四季様は流石に忘れ、」
言いかけた小町だったが、「名前はわからないけれど」と言う阿求の台詞で、言葉を失った。
ぬか喜びだった、と気が付いた時にはもう、先ほど作った拳から力が抜けていた。
興奮の熱が冷め切り、後に残ったのは脱力感だけだった。
「せっかく転生の話をしに来たのに、こんなのアリ……?」
◇
「わかりませんね。魂にも傷は無いみたいだし。……転生の件について話をしたかったのですが、これはそうも言っていられない状況ですね」
眉根を寄せ合い、うーんと唸りながら阿求を診察するのは、小野塚小町の上司たる四季映姫・ヤマザナドゥその人だった。
小町からの連絡を受けて、今しがた稗田宅に到着したところだった。
四季映姫の左手には悔悟の棒が握られており、彼女が閻魔であることを一目で知ることが出来る。
「やっぱり四季様でもわかりませんか?」と小町が横から顔を覗かせた。四季映姫はすかさず手で小町を払いのけた。
「私の眼では見つけられそうにもありませんね。……仕方ありません、浄玻璃の鏡を使いましょうか」
言って懐から取り出したるは、一枚の手鏡だった。面は水晶で出来ており、裏は八角形の囲いであしらわれている。
それを阿求の前にかざす。
小町はごくりと喉を鳴らした。
浄玻璃の鏡は、その使用を閻魔の名を持つ者だけに限定している、言わば秘奥の道具だった。
一死神である小町にとっては、奇蹟を目の当たりにするのにも等しい。
「蛇が出るか、鬼が出るか……」興奮した声色で小町が言った。
――伝承に曰く、浄玻璃の鏡が映し出すのは、対象の人生と心情、更にはその対象が世界に対して及ぼしてきた全ての事象だと云う。
浄玻璃の鏡に映し出せない真実は無く、また一点の間違いも無い。故に秘中の秘の扱いを受けている。
閻魔はこの鏡を使い、審判を行うのである。悪人なら地獄行きを、善人なら冥界行きを告げる。
「ん……」
阿求の幽かな吐息と共に、心胆寒からしめる音が四季映姫の鼓膜を震わせた。
――ぱきん、と。
まるで窓ガラスにヒビが入った時のような、脆い音が彼女の耳を侵す。
「え!?」
嫌な予感を抑えつつ、四季映姫は全力で阿求に向けていた鏡を裏返した。
まさかと思うが、そんなまさか。
しかし嫌な予感というものは、得てして的中するものである。
「う、嘘……ッ!?」と四季映姫は悲鳴を上げて、顔を思いっきり引きつらせた。「冗談でしょ!!?」
わなわなと肩を震わせながら手鏡を凝視する。
態度が豹変した四季映姫を見て、小町も顔を覗かせた。
「どうされました?」
「ど――ど、どど、」
「お、落ち着いてくださいよ。一体何が、」
「落ちついてなんていられません!」四季映姫が吼えた。「これが落ち着いていられますか!」
「え? え?」
小町は困惑の表情を浮べた。一体自分の上司はどうしてしまったのか、と首を傾げている。
惚ける小町の態度が癪に障ったのか、四季映姫は紅くなった顔を更に紅くさせて、悔悟の棒を彼女にバシバシとぶつけながら言い散らした。
「割れたのですよ!? あの浄玻璃の鏡が! 有り得ない!……というか、有り得ては駄目です、絶対!」
「ちょっ、四季様、落ち着い、」
「だから――これが落ち着けますか!? いいえ、断じて落ち着けません。浄玻璃の鏡ですよ? そこいらの人間が作った鏡では無いのです! 割れるなど……割れるなど、あってはなりません!」
はぁ、はぁと肩で呼吸しながら、四季映姫は再び阿求の方へと向き直った。
これほど彼女らが騒ぎ立てていると言うのに、阿求は変わらず小さな呼吸を繰り返しているだけである。
「……っ、」短く唸って、四季映姫は浄玻璃の鏡を見つめた。
鏡には、上部の斜め右端から、下部の斜め左端に渡って一本のヒビが入っている。綺麗な斜め一文字だ。
こうして見ると、何の変哲も無い一本のヒビではあるが、閻魔たる四季映姫には、にわかには信じられない出来事であった。
神器とも囁かれる浄玻璃の鏡。間違って落としたところで割れる代物ではない。水晶で出来た面には傷一つ付いたことは無いし、ましてや割れるなど、他の閻魔から聞いた事も無い。もちろんこれまで見てきたどの文献にも載ってなどいない。
一体何がどうなっているのか――四季映姫は鏡と阿求を交互に見つめ、奥歯を鳴らした。いくら考えてみても原因が見当たらない。
「……仕方ありませんね」
彼女は一旦言葉を区切り、語気を強めて小町に指示を出した。
「私は一度帰ります。貴方は八意永琳に助けを請いなさい」
「え? 永琳って……あ、四季様!」
言いかけた小町よりも早く、四季映姫は外へと出て行ってしまった。
◇
四季映姫の指示通り、小町は迷いの竹林を抜けて八意永琳を連れてきた。四季映姫と別れてから丁度半刻が過ぎていた。
「どうだい? 稗田阿求は」
「…………」
阿求の手首を持ち、指を当てて脈を診ている永琳に、小町の声は届いていなかった。ただひたすらに無心になって脈をとり続けている。
布団に身を包んでいる阿求は、小町の素人眼から見ても好ましくない顔色をしていた。 肌には血色が無く色白としており、唇はカサカサに乾ききっている。浅い呼吸を繰り返すだけで、呼びかけにも応じない。
傍から見ても死に体だった。
それでも死の気配が濃厚と言う訳でもない。
見かけは死にかけているが、魂は健在だ――それが死神の瞳から視た診断結果だった。
だが永琳は魂を視るのではなく、あくまで肉体の方を見ている。
魂がいくら健全でも、肉体が死滅してしまえば元も子も無い。逆も然り。だからこそ肉体に関しては無知な小町は、こうして大人しく横から見守っている。
時間だけが無為に過ぎていく中、小町はじっと待っているのが苦痛になってきていた。 もう脈診だけで五分以上かかっている。
身の置き場が無いと感じ始めていた小町は、思いつくままに阿求の左手を握った。こうしていれば、少しは自分の熱が阿求に行き渡り、血色が戻ってくるのではないか、と淡い期待を込めて。
しかしいくら長いこと手を握っていても、肌に赤みが戻ってくる様子は無かった。
永琳は阿求の手首から手を離すと、今度はその首筋に手を添えた。どうやら首の血流から脈を診るようだ。小町は邪魔をしないようにと阿求の体から離れた。
そうして二、三分が過ぎた頃、永琳がようやく口を開いた。
「わかりません」
簡潔だった。
あまりにも簡潔すぎて、小町は反射的に聞き返していた。「わかりません?」
「ですから原因です。どうしてこうなったか、まるで見当も付かない」
永琳は溜め息を吐いた。搾り出すような――それこそ肺の中の空気を全て出し尽くしてしまうかのような溜め息を。
それから申し訳なさそうな顔つきで言った。
「いま確実に言えることは、相当衰弱しているということだけです」
「衰弱……」
「言葉の通りです。症状としては老衰に限りなく近いでしょう。脈も死脈がはっきりと出ています。高齢の方が、その天寿を全うされる時に出る脈です」
「じゃ、じゃあ……」表情を硬くしながら、小町は口を動かした。「死ぬ、ってことかい?」
「……最悪は」
永琳が言い終えるが早いか、小町は口を開いた。
「それは今すぐに、という訳では無いよね?」
「無論です。ですが天寿がいつ尽きるかは、予測も出来ません。もしかしたら急変してすぐに逝ってしまうかもしれませんし、逆にこのまま何事も無かったかのように生き続けるかもしれない」難しい顔つきで永琳は言った。「衰弱している原因さえわかれば、対処しようもあるのですが」
「す、衰弱ならさ」上擦った声で小町が問うた。「栄養とれば大丈夫なんじゃないのかい?」
「そうかもしれません。ですから処方は栄養価の高い薬草を中心にしますが、根本的な原因が掴めていない以上、無意味かもしれない」
答えながら視線を逸らす永琳に、小町は詰め寄ろうとした。
何だよそれ、医者って言うのは肉体を治してくれる者のことを言うんじゃないのか、と。
だがそれは叶わなかった。誰かが合図も無しに障子を開けたからだ。
二人は咄嗟にそちらを振り向いた。
「あ、四季様……」気まずそうに小町が呟く。
現れた四季映姫は永琳に軽く会釈すると、鋭い眼光を以って小町の方を見た。
「小町、帰りますよ」
「え?」
「いいから、帰り支度をなさい」
「で、でも、」しどろもどろになる小町を、四季映姫は一喝した。「早く!」
「は、はい……」
彼岸では、閻魔の言う事は絶対だった。
故に下っぱの死神である小町は、不承ながらも身を縮こませて退散する他に道が無かった。
小町が部屋から出て行くのを待って、四季映姫は永琳と向き合った。
「どう言うことですか?」と聞いてきた永琳に、「今はまだ話せません」と四季映姫は返した。
「憶測の域から出ないことを話しても、有害な情報になるだけですから」
彼女の言葉に、永琳は神妙に頷いた。
「それもそうですね。いいでしょう、ここでのことは誰にも話しません」
「そうしていただけるとありがたいですが……」
「他に何か?」涼しげな顔で永琳が追及する。「ここで診たことを全て忘れろ、とでも?」
「出来ればそうしていただきたいですが、そんな術を持ってはいないでしょう?」
彼女の言う通りだった。
ある一部の記憶だけを綺麗さっぱり消す薬や方法などありはしない。消すか消さないかの二択しかない。
ではどうすればいいですか、と言う永琳の問いに、四季映姫は笑って答えた。
「簡単なことです。彼女を看病してあげてください」
顎で示す先には、横たわった阿求の姿があった。
◇
閻魔が審判をする間、その裁判所に着いた小町は、さっそく四季映姫に疑問を投げかけた。
「一体どういうことですかね?」
いかにも不満を込めた部下の一言に、四季映姫は眉を吊り上げた。
「どういうこととは?」
「あたいに、稗田阿求の転生の件について話し合って来いと言ったのは四季様だったはずですが?」
「それが?」どうしたのかと問い返す。
小町は一瞬言われたことが理解出来ず、呼吸を止めたが、すぐに吹き返した。
「それが、って、そんなので納得すると思いますか?」
小野塚小町の言い分は、至極まっとうなものだった。四季映姫の台詞は、必要だから買って来いと言われたものを、言いつけ通りに買ってきた相手に、そっくり返品して来いと言っているようなものだ。それも有無言わさずに。
憤慨に身を震わせかけた小町が頬を紅潮させた時、
「その必要が無くなっただけですが」と、嘲笑うような声がした。
瞬間、小町はそれが目の前にいる四季映姫のモノだと認識出来なかった。
今までに聞いたことも無いような、冷酷な声だった。いつもの、棘があっても暖かな声色ではない。
「四季様――?」
小町は自身でも気付かないうちに、半歩後ろに下がっていた。様子のおかしい四季映姫に慄いて。
彼女は簡単に怖気づくような肝の小さな者ではなかったが、冷静に四季映姫について振り返ってみると、生者が揃って震え上がるほどの人物だったことに行き当たった。
四季映姫・ヤマザナドゥは彼岸の主であり、閻魔がその正体だ。本来、恐れて平伏すべき相手であって、決して馴れ合うような相手ではない。
「小町」
呼ばれて、びくりと小町の肩が揺れた。顔中の筋肉が硬化し、うまく動かせない。それでも何か答えなければと、「な、なんでしょう」震える声ながらも返事をした。
その一呼吸後、四季映姫は冷め切った瞳を向けつつ、緩慢に問い質した。
「――貴女、死は怖い?」
「え?」
あまりに唐突な問いかけに、小町は訝る気持ちを抑えることが出来なかった。
自分の上司は今、何と言ったのか?
死ぬことが無い身である者同士の会話とは思えない。かと言って四季映姫が無意味な質問をしてきているとも思えない。
小町は慎重に言葉を選び、答えた。
「死は――どうなんでしょうか。死んだこともありませんし、死ぬこともありませんから、わかりませんね」
最善な回答のような気がした。死者の魂を運ぶ死神に死は無い。
死者を審判する閻魔にも死は無い。だから畏れも無ければ恐れも無い。
だが答えを聞いた四季映姫はせせら笑いをしていた。
何故、と小町が心の中で呟くのと同時に、またしても四季映姫が問いかけてきた。
「では、自分の存在が消えてしまうとしたら?」
「――――」
今度の質問は、またしても難解なモノだった。
死ぬ、と言う表現と、消える、と言う表現は、寿命の存在する人間にとっては同一の意味なのだろうが、彼女ら不死者は違う。
人間は死ぬことにより自我が消失するため、死のうが消えようが意味は同じになるが、死なない者にとっては消えることだけが自我の消失を意味する。
故にこの質問は、人間に対し、死ぬのが怖いか、と問うのと同じ意味合いを持っている。
小町が難解に感じたのは、まさにこの部分だった。
脆弱な肉体基盤しかない人間は、それこそ死に対する恐怖を常に身に纏っているのだろうが、不死者は『消える』ことでしか死なない(死ぬと言う表現とはまた違うか)。
そして『消える』と言う状態は、果たしてどのようなモノなのか、想像したこともなかったからだ。
もし地獄が何らかの形で消滅する出来事があれば、その時に死ぬのかもしれない。
しかしどうすればそんな事になるのか、さっぱり思い描けなかった。
「そう、そうです」小町の思考を乱すように、四季映姫が言った。「もし自分が消えてしまうとしたら、どうですか?」
返答に窮しているのをわかっているであろうに、四季映姫は重ねて問うてくる。
小町は自分の髪の片方の房を握りつぶしながら唸った。いくら考えてもわからない、と言った様子で。
すると恐怖の閻魔様は諦めたように苦笑いをして、
「どうやら意地悪が過ぎましたね。忘れてください」
「え? ……四季様?」
「単なる暇潰しです。久々に貴女の焦る姿を見たくなりまして」
今度の笑顔は本物だった。嘲笑なんかではなく、いつものあの笑顔だ。
「お、驚かせないでくださいよ」
「別に驚かせたつもりはないのですが」
悔恨の棒を肩たたきに使いながら、さらりと言う。
「最近緩んできていたみたいだったので、引き締めが必要かなと思いまして」
四季映姫の言葉に心当たりがあったのか、小町はうっと短く唸った。
楽園の閻魔には全てお見通しなのだった。
「昼寝するのもいいですが、キチンと仕事はなさい」
「あたっ!」
悔恨の棒で小町の頭を打つと、四季映姫は小さく微笑んだ。
◇
閻魔宮、その自室で四季映姫は思案に沈んでいた。
案件は、半日前に交わされた話し合いについてだった。
「稗田阿求から手を引きなさい」
割れた浄玻璃の鏡について調べ物をしようとしていた彼女に、相手が言い放った言葉だ。
――稗田阿求から手を引け。
つまり記憶の欠落や、極度の衰弱の症状が見られる阿求を見捨てろと言うことだ。
今まで何度も御阿礼の子の転生を操作してきた四季映姫にとってその発言は、許容しがたいモノだった。
「何故ですか」
彼女は強硬な態度で臨んだが、相手はさも気にしていない様子で言った。
「それは今にわかります。貴方はただ、見ていればいいのです」
「それを私が了承するとでも?」
「しなければしないでもいいですが、その場合、貴方の行動は確実に徒労に帰すでしょう」
ですから黙って手を出さないでいただきたい――それが相手の要求だった。
こうして振り返ってみると、話し合いですらなかったなと、四季映姫は鼻で笑った。
これは話し合いではなく、一方的な要求だ。取り様によっては恐喝とも言える。
だが、その真意がわからなかった。
相手にとっても稗田阿求は有益な人物であるはずだし、何より付き合いも長いはずだ。 それなりに情も移っていることだろう。そんな相手を見殺しにする……その理由が見当たらなかった。
もしかしたら、ここ最近で憎悪を買うようなことを阿求がしたのかもしれないが、それにしても冷酷すぎる感じが否めない。
このことが公に露見すれば、恐らく相手は幻想郷の中で非難の的になるだろう。そんな愚かしいことを、頭の切れるあの人物がするとは思えなかった。
「ふぅ……」
一本の巨大な黒檀から作られたと言われる長机の上で両肘をつき、彼女は掌の上に顎を乗せて溜め息を吐いた。
阿求を見捨てろと言うことだけでも謎なのに、その相手はもう一つの謎を残していった。
それが、「死は人間の特権です」と言うものだ。
死が特権? そんな馬鹿な。
死にたくなくて罪を犯すのが人間だ。死にたくなくて泣き叫ぶのが人間だ。それなのに特権? それこそ意味不明だった。
だからこそ、彼女は部下である小野塚小町に聞いてみたのだ。死が怖いか、と。
まともな返事を期待していたわけではなかったが、大筋としては彼女の想定通りだった。
――そう。それこそが『考えもしなかったからわからない』と言うリアクションである。
四季映姫自身、己の死についてあれこれ考えたことが無かった。
だからこそ小町の困窮は理解出来た。
不死者に死の概念は、無い。死への想いは死ぬ者のみがもっているモノだ。不死者にはそれが無い。
そう考えると、相手の言う特権とやらは死ぬ者にしかわからないことになる。閻魔であり不死者である四季映姫には解けない問いだ。そして恐らく、その相手にも。
「あー……」
頭が痛くなってきた、と四季映姫は机に突っ伏した。
どうやら頭を使いすぎたらしい。額に手を当てると、微熱があるような気がした。
「やめよう」と言って、彼女は席を立った。
これだけ必死に考えてみたが、まるでわからなかった。相手が手を引けと言って来た理由も、死を特権だと言った理由も。
――それもそうか、と彼女は今更ながらに思った。
相手は他でもない■■■だ。理解出来る相手なら、とうの昔に理解出来ていただろう。 今日と言う日まで理解出来なかったのは、つまり相手が、自分では理解に及ばない人物であると言うことに他ならない。
時間を無駄にしたかなと思いつつ、四季映姫は自室から出て行った。
5
「人は忘れる生き物なのよ」
物凄く寂しそうな双眸で、■が私を見つめている。
もう何度も■の夢を見ているのに、私は彼女の名前を思い出せないでいた。
名前が思い出せない――でも、誰かはわかる。
誰かわかるから、こうして警戒もせず話し合えている。
「そうね。普通の人はそうだわ」
そして私は普通ではない。
求聞持の能力を持つ私は、見聞きしたことは一生涯忘れない。
だと言うのに、「貴女も一緒よ」と■は泣きそうな顔でそう言った。
「え?」
「貴女も人間でしょう?」
「それは……まぁ」
言われてみれば変な話だ。
私は人間で、だけど忘れることはない。
彼女の言う通り、忘れる生き物が人間だというのなら、忘れることの無い私は人間ではないと言うことになる。
人間じゃないとすると、妖怪の類になるのだろうか?
「うーん」
こめかみをこりこりと指で押さえつけていると、目の前で立っている■が手を差し伸べてきた。
「え?」
疑問を口にしつつも、私は自分の手を差し出していた。考える間もなく、ごく自然に。まるで新郎に導かれる新婦ように。
「――私が」彼女は言った。「貴女を人間に戻してあげる」
「な、」
驚きで声を上げると、夢の世界が割れた。
◇
「なに?」と言う自身の声で、稗田阿求は目を覚ました。
「……あれ?」
開ききらない瞼を擦りながら周囲を見渡す。
まだ夜のようだった。もしくは未明か。
どちらにせよ辺りには漆黒が広がり、起床するには早すぎるように思われた。
それにしても、自分の寝言で目が覚めるなど、生まれて初めてのことだった。
よく自分のいびきで目が覚める人がいるとは聞くが、寝言で目が覚める人はいるのだろうか?
「ん……」
阿求はぶるっと体を震わせた。
起き上がる際に布団をどかしていたのだが、おかげで体が冷えてしまったらしい。布団を被りなおし、彼女は再び床に就こうと体をもぞもぞと動かした。いくらなんでも、今から起きて活動するのは早すぎる。
その時、枕元に何かがあるのに気がついた。
目を凝らして視てみると、どうやらそれは何かの袋のようだった。大きさは人の頭一つ分で、四角い形から紙袋だと推測する。
実際に手にとってみると、袋はガサッと音を立てた。
手触りも紙に近く、この袋が紙袋であることは、どうやら間違いないようだ。
ではどうしてこんなところに紙袋があるのだろうか?
すぐに確認してみたかったが、光源が無い。これだけ暗いと中身の確認も出来ない。
「んー……」
それでも気になるものは気になる。灯篭に火をつけようかと考えたが、火種は土間の方まで行かないと無い。
ここからあまり動かずにこの紙袋が何であるかを確認したい。
そんな欲望から、彼女は部屋を見回した。すると真っ先に目に入ったモノがあった。
――障子だ。
正しくは、障子に映っていた月だった。
「ああ、」と阿求は紙袋を手にして立ち上がった。
「それにしてもコレ、なんだろう?」
障子を開け放つと、そのまま廊下に出て縁側へと向かった。
落縁の手前までやってくると、落縁までは出ずに手前の廊下で腰を下ろした。流石にこの寒さで庭まで出たくは無かった。
廊下にいる時点でどこにいようともあまり関係無いように思えたが、イメージ的に少しでも家屋側に居たほうが暖かいような気がしたのだ。
吐く息が白い。
見上げると、これまた立派なお月様が空に浮かんでいた。彼女の読み通り、月は輝いていた。
まるで白髏のような白さだ。十分すぎるほどの明るさだ、これで紙袋の正体がわかる。
さっそく紙袋を検分することにした。
阿求は折り畳まれた口を丁寧に解いていった。
口は長方形で、折り畳まれたせいで付いた折り目を、両手の人差し指と親指で伸ばしていく。そうして箱状になったのを確認してから、すぐに中を覗き込んだ。
「なに? これ」
中にあったのは、いくつかの丸っこい何かだった。
手に取り、目を細めてみる。
白い月のせいか、丸い何かは真っ黒で、艶のようなものが見て取れた。
白光を反射しているのか、照りも白い。
こうして手に取ってみたものの、球体の正体がまるで掴めなかった。
阿求はもう一度良く紙袋の中を覗いてみた。何か見落としているのかもしれないと思ったからだ。
するとその直感通り、袋と同化するように、内側の側面に何か紙切れがくっついていることに気が付いた。
それを剥ぐようにして取り出してみる。
「ええと……」と呟きながら紙切れを確認すると、そこに、小さくも力強い筆跡で何か文章が書かれていた。
阿求はその文に――それこそ食い入るように――目を通した。
『起きるのが辛そうだったので、文面にて失礼します。診察した結果、栄養失調の兆候が見られましたので、この丸薬を置いておきます。また明日伺います。 八意永琳』
短い文面を読み終えると、阿求は無意識に五本の指を前髪に突っ込んでいた。
「なに……これ……」
顔をしかめて、もう一度文を読み直してみた。
今度はゆっくりと、先よりも神経を尖らせて読んでいく。一字一句、暗記出来るほどの集中力を動員して。
だが何度読み返してみても、文章に変化は無かった。理路整然と書かれた永琳の手紙に狂いは見られない。
「永琳……?」
何かを思い出したかのように、阿求の目が見開かれた。しかし次の瞬間には、目は元通りになった。いや、むしろ細まった。そして首を傾げながら、
「永琳って……誰かしら」
記憶の糸を手繰り寄せようと試みたものの、彼女の脳内に『八意永琳』なる人物は記憶されていなかった。
だからこその困惑だった。見知らぬ誰かがこの屋敷に居たと言うだけでも不気味なのに、更に私を診察した?
「なんで?」
訳がわからなかった。
私はこうして元気にしている。特別悪いところなんて無い。怪我も疾病もしていない。痛い場所も無いし、健康そのものだ。
それなのに何故、診察なんてされなければならないのか。一体誰が八意永琳なんて者を呼んだのだろうか。
「……っ」
わからないことが多いせいか、頭がくらっとした。
咄嗟に廊下に手をついたおかげで倒れはしなかったものの、世界が揺れて見える。
――まさか、と彼女は思った。
本当に、この置手紙の内容通り、私は栄養失調なのだろうか。栄養失調だから眩暈が起きたのかもしれない。有り得る話だ、矛盾はしていない。
では私が栄養失調だと仮定しよう。そうした場合、何故私は栄養失調になったのだろう?
日々の健康状態にはある程度気を使っていた。
飢えるほど貧しい生活を送っていたわけではないし、偏食をしていたわけでもない。いたって健康的な食生活を送ってきたと、自分なりに解釈出来る。
そう考えると、やはり栄養失調とは考えられない。何の栄養素が足りないかはわからないが、診察してもらうほどのことではなかったはずだ。
しかし八意永琳の文面から推察するに、彼女は医者であり、その医者が栄養失調だと言う。
本当に永琳なる者が医者なのだとしたら、彼女が嘘をつく理由が無い。
いや――一つだけあるか。
八意永琳が嘘をつく理由があるとすれば、私を殺そうとしている、と言うものだろう。 紙袋の中には丸薬が同封されていた。
彼女はそれを栄養失調のための薬だと謳っているが、殺害が目的だとするならば、これ以上無い理由付けだ。
医療に関して無知な患者は、医療の専門である医者の言葉を鵜呑みにするしかない。
この薬を飲めば治ると告げられれば飲むしかないし、こう言うことをやれば治ると告げられればそれ通りにやるしかない。
つまり患者にとって医者の言葉は、神の言葉なのだ。
そうだ、それならば辻褄が合う。
知らぬ間にここへやってきたのも、私が寝ている隙に毒薬を置いていくためで――ああいや、でも、そんな怪しい薬を、一体どこの誰が飲む?
朝目覚めて、見たことも無い薬が枕元にあって、見知らぬ誰かから「飲め」と置手紙をされていて、そんな怪しさしか残らないような薬を、一体どこの誰が飲むだろうか。
誰も飲まないだろう。
「ああ……」
堂々巡りだ、と阿求は項垂れた。
八意永琳は知らないが、彼女が医者であることは、まぁ本当なのだろう。そして私が栄養失調なのも。
そもそも、私を殺そうとしているのなら、私が眠っている間に薬を喉奥に流し込んでしまえば、それで事足りる。それを失念していた。
だからこそ認めるのだ、永琳なる者は医者なのだと。
とは言え、全てが信じられるわけではない。
事実、私は医者を呼んでいない(覚えが無い、と言うべきか)。
しかも八意永琳について全くと言っていいほど知識が無い。顔もわからない。
永琳と言う名前で女だと決め付けているけれど、男かもしれない。つまり性別すらわからないでいる。
そんな素性の知れない相手が作った薬を飲むと言う方が間違いだ。
だから、この丸薬は飲まない。
少なくとも明日(もう今日か)、永琳とやらがここに再び現れるまでは飲まないことにする。
疑わしきを疑うことは恥に非ず、とは昔の偉人の台詞だ。
深く思考の海に沈んでいた意識を浮上させると、阿求は紙袋を持って立ち上がった。
まだまだ白い夜は続きそうだ、と寝所へと足を向けて。
◇
ガタガタという物音で目が覚めた。
「ん……?」
親族は呼んでいないはずだけれど、と不思議がっていると、声が聞こえてきた。
「あら本当。暖かいわね、掘り炬燵って」
「だろう? 早く霊夢も家につけろって」
がくり、と頭が垂れた。
どうやら我が家に来た客人らしい。
声から察するに、霧雨魔理沙と博麗霊夢だ。そう見当をつけて、阿求は諦めたように溜め息一つ吐いた。
「……起こされちゃったな」
寝足りない感があったが、来客のおかげで眠気が吹き飛んでしまったし、何より幻想郷最恐の二人組みがやってきしまったからには対応しなければ。どんな惨事を引き起こされるかわかったものではない。
音も立てず阿求は立ち上がり、掘り炬燵のある居間へと静かに向かった。
「でもこれって焚かなきゃいけないんでしょ? 面倒だわ」
「そりゃそうだが、この温もりには勝てないぜ」
「うーん……」
阿求の姿にも気がつかないまま、霊夢と魔理沙は居間を賑やかしていた。
「薪なら拾ってきてやるぜ」
「そう言って、いつも最初だけじゃない」
「いや、掘り炬燵にしてくれるなら薪をじゃんじゃんと――」
「そんなことしなくていいから、その懐に仕舞ってあるブツをくれればいいのよ」
「懐に何かあったか?」
「八卦炉。それがあれば火を起こす面倒も無いし」
「そ、それは無理だって! お前なぁ、これがどれだけ大事なものか知ってて、」
「……あのぅ」と見かねた阿求が、ぼそっと口を挟んだ。
すると談話をしていた二人が、弾かれたようにそちらを振り向いた。
「――なんだ、阿求か」
「な、なんだって言われても……」
ここは私の家ですし、と言ったところでこの二人に常識が通用するとは思えなかった。 何と切り出せばいいだろうか……そう考え巡らせていた彼女だったが、
「どうも。お久しぶりね」
先に霊夢に挨拶をされて、はたと気が付いた。そう言えば彼女らに挨拶をしていなかった、と。
二人があまりにも自然体でここにいるものだから、まるで住人のような近親感が湧いて、挨拶するのも忘れていた。
魔理沙には先日逢っていたが、霊夢には久しく逢っていない。明らかに礼を欠いている。
阿求は慌てて挨拶を返した。
「え、ええ。お久しぶりですね、本当に」
「最近神社の方に来ていないけれど。体調でも悪くした?」
「あ……えっと」
目線を泳がせる阿求。
霊夢は笑いながら言った。
「もう先が短いんだから、無理はしないでね」
「――――」
空白が産まれた。
しん、と大気が凍る。
霊夢は表情を崩さない。魔理沙も隣で笑っている。阿求だけが表情を凍てつかせた。
二の次が出てこない彼女に反し、霊夢は朗らかな笑顔のまま話を続ける。
「貴方があっちに行っている間に、私はいなくなっちゃうと思うから、今日はそのお別れの挨拶に来たのよ」掘り炬燵で足をばたつかせながら、霊夢が淡々と口にした。
それは何よりも明確な、死出への挨拶だった。
「あ、」
阿求はようやく意味を理解した。
――ああ、さっきの冷笑は、老い先の短い私にではなく、彼女自身に向けられたものだったのだと。
「そ、そうですか」
乾いた口でそう受け応えするのが精一杯だった。正直、霊夢の澄んだ瞳を直視するのが辛い。
阿求――稗田阿求は、稗田阿礼が転生を繰り返してきた末に生まれた、言わば阿礼本人である。
求聞持の能力を有し、幻想郷縁起をまとめてきた張本人でもある。そんな彼女には、転生への悩みが一つだけあった。
それは人間関係についてだ。
死んでその後、転生するまでに百数十の年月が要求されるが、人間はそれほど長寿ではない。
六十持てば良い方だ。彼女が転生を終える頃には、親しかった人々は彼岸の彼方へと旅立ってしまっている。
転生し終わり、彼女が御阿礼の子として神事を終える頃には、周りには見知った人間は誰一人としていない。それこそ身内にさえ。
それがどれ程の孤独感を生むかは、本人である阿求にしかわからない。
しかし、と阿求は今になって考えた。
いや、考えることですらないことに、今更ながら至れたと言うのが正しいか。
そう――人間の寿命は短い。彼女の寿命の方が短いであろうが、彼女は転生することが出来る。
だが普通の人間に、転生など出来はしない。彼女だからこそ閻魔に許されたのだ。幻想郷縁起を編纂する、御阿礼の子だからこそ。
つまり、今、目の前にいる博麗霊夢は、二度と幻想郷へは戻ってはこられない。
死とはそう言うモノだ。
そんな簡単なことさえ棚に上げ、自分は一体何に対して思い悩んでいたのだろう。
阿求は自分自身に対し、急に嫌気がさした。
恥ずかしいと、震える右手で胸を押さえる。
矮小な自分を見ないで――そう表情に出して、阿求は斜め下を向いた。
魔理沙は沈黙を守っている。
霊夢は阿求の表情を読み取れなかったのか、笑顔を崩さない。
「それで? 結局、縁起は公開するの?」
会話が続行された。阿求は面を上げられない。それでも何とか声を喉から絞り出した。
「……そのつもり、です」
「そう。それで答えが得られると良いわね」
霊夢の台詞に、阿求は肩をびくつかせた。幻想郷縁起を公開する――その真意を伝えたことは無いはずだ。それなのに、なんで知っているのか、と。
咄嗟に面を上げるとそこに、大人びてしまった霊夢の横顔があった。
艶のある、女の横顔。憂いを含んだ、色気のある女の横顔だ。
それを見てしまったがために、阿求はまた何も言葉を紡げなくなってしまった。
どうしてそのことを知っているのですか、と問い質したかったが、半ば口を開いただけで声にはならなかった。
代わりに、「私は長生きするけどな」と魔理沙が場違いなほど明るい声で言った。
「正真正銘の魔法使いだし」
「そうね。アンタは良いわよねぇ、お気楽で」
「なら一緒に魔法使いやるか? 長生き出来るぜ」
「私はパス。そこまで長く生きてもすることないし」
言って、霊夢は寝転んだ。魔理沙もそれに続いて寝転んだ。
「暖かくて気持ち良いわね」
「そうだな。やっぱり博麗神社にも必須だぜ」
「そうね……考えておくわ」
屋敷の主たる阿求を放り、部外者二名は浅い眠りに就いた。
取り残された阿求は一人庭に出て、陽が傾くまで空を眺め続けていた。
◇
今度宴会を催すから――そう言い残していった霊夢と魔理沙がいなくなった昼下がり。またも来客が阿求の屋敷に現れた。
「調子はどうですか?」
阿求の顔を見るなり、調子を尋ねたのは八意永琳だった。
「薬はもう飲みましたか?」
「…………」
問われても阿求は動かない。じっと永琳を見つめている。
「どうかしましたか?」
彼女の視線が気になったのか、永琳は少し表情を曇らせて言った。
「何かありましたか?」
すると阿求は冷めた瞳を永琳に向けて、「棄てました」とはっきりとした口調で答えた。
「棄てた……?」
怪訝そうな表情を形作る永琳に、阿求はもう一度、同じ言葉を口にした。
「棄てました」
「と、言うと?」
寄せていた眉根を離し、無表情さをアピールするかのように、永琳は目を細めた。
阿求は変わらず冷めたままの瞳で永琳を見つめつつ、放り投げるように言葉を紡いだ。
「そのままの意味です。だって私、八意永琳なんて人、知りませんから」
「――――――」
息を呑む音が聞こえた。
どうやら驚いているらしい、と阿求は目の前の女をつぶさに観察した。一挙手一投足、その全てを見逃さない、とばかりに。
しかし肝心の観察対象は、「そうですか」と言って、踵を返していた。
「あ、ちょっと」
慌てて引きとめようとしたが、踵を返したはずの女がまた、ぐるりと正面を向いてきたせいでぎょっとした。
「、あ」
「何か?」
すまし顔だった。まるで見下すような視線が阿求に突き刺さる。
「う」と阿求は短く唸っていた。女の雰囲気が、さっきとはまるで違っていたからだ。
女――八意永琳はそのまま眼球だけをぎょろりと動かし、阿求の頭の天辺から足の爪先までを見回した。
それこそ、五体を唾液に塗れた舌で舐め回すように。
観察していたはずが、観察される側に回った阿求はといえば、ただひたすらに息を殺しているだけだった。
ぐっと拳に力を入れてはいたが、微動さえ出来ずにいる。
それは永琳から醸し出されている威圧的な気配と言うよりは、周りの空気が緊迫したから、と言ったほうが正しいと思われた。
彼女を取り囲む空気たちが膠着し、行動を制限しているように感じる。
「稗田阿求」
名を呼ばれ、阿求は弾かれたように永琳の方を向いた。
「な……に?」
自分の声とは思えなかったが、とりあえずは声帯が震えてくれたと、阿求は胸をなでおろした。なんとか会話にはなりそうだ。
しかしそう思ったのも束の間だった。
「貴方もしかして――立ち返るつもり?」
立ち返るつもり?
永琳は確かにそう言った。何か確信めいた響きを言葉に持たせて。
立ち返る……立ち返ると言うのはつまり、
「元戻し――」
言って、阿求はぐらついた。精神的に揺れたためではなく、肉体的に揺れたためだった。
「ちょ、ちょっと!」
冷酷ともとれる目をしていたのにも関わらず、永琳は血相を変えて倒れかかった阿求の体を両腕で支えた。
しかし阿求は白目を剥いたまま、がくりと頭を垂らした。
「阿求!」
腹の底から吐き出されたような永琳の大声も、意識を失った阿求には届いていなかった。
6
――夢を、見た。
誰かが涙を流している。
声を押し殺して泣いている。
悲しそうな声で嗚咽を漏らしている。
泣かないで、と言ってあげたかった。
でも、それは叶わない。理由はわからないけれど、声が出ないのだ。どれだけ頑張っても、声帯が震えてくれない。
泣かないで、と抱きしめてあげたかった。
でも、それは叶わない。理由はわからないけれど、体が動かないのだ。どれだけ頑張っても、一寸も動かない。
■が震えている。
胸が痛い。目が痛い。息が苦しい。
でも私は、何も出来ないでいる。
一緒に泣いてあげることも、一緒に慰め合うことも出来ない。
今の私は、木偶の坊。糸の助けが無いと何も出来ない、憐れな人形だ。
それでも、感情があるのがせめてもの救いだった。
悲しいと思っている自分が。
どうにかしたいと思っている自分が。
自我があると認識出来るだけで、安心出来た。
――ああ、私は私だ。
でも、と私は思う。
■が大事なはずなのに、自分が自分であることに確証が持てただけでこんなにも安心しているのは、結局自分が大事なだけではないか、と。
本当は■なんてどうでも良くて、自分さえ良ければそれで良いと思っているのではないだろうか?
■が振り向いた。
私も振り向いた。
目が合う。瞳の奥が見える。幽かに焦点が揺れて――
――夢が霧散した。
◇
「気が付きましたか」
まどろむ意識の中、はっきりとした声が阿求の耳に入ってきた。
「……ん?」と喉を震わせ、ゆっくり瞳を開けていく。
「良かった、気が付いたのですね」
どうやら自分は気遣われているらしいと感じ取った阿求は、襲い掛かってくる睡魔を跳ね除けるように、ゆっくりと鉛のような体を起こした。
「あ、まだ起きては――」言いかけた相手に、阿求は手を突き出した。「大丈夫ですから」
「おお、起きたか」と別の声が聞こえてきた。
回復しきらない視力をもどかしく思いながら、阿求は目を細めて相手を確認した。
ボヤケたピントではあるが、おおよそのことは見える。
「顔色は悪そうだけど、これ、大丈夫なのか?」
こちらを指差しているであろう相手は、頭の天辺に大きなリボン(みたいなもの)をしていた。赤いもんぺをはいていて、髪は長そうだった。誰かはわからない。
「大丈夫ではありません。だからこそ倒れたのですよ」とは最初の声の主の台詞だ。
一風変わった服装をしている。なんというか、赤と青のクロスを繋ぎ合わせている、と表現するのが正しいか。
帽子らしきものを被っているが、そこには赤い十字の印が入っている。こちらも誰かはわからない。
「ええと……」
困惑した様子で、阿求は声を漏らした。「だれ……ですか?」
「誰って、お前――」
言い淀んだもんぺの女を、変な服装の女が睨んだ。
どうやら力関係は後者に傾いているらしい。そんな推測をたてつつ、阿求は追究を重ねた。
「それで、誰なのでしょう? すみませんが、お医者さんでしょうか?」
阿求の疑問はもっともなモノだった。彼女らはたった今、阿求のことを『倒れた』と表現した。
そして阿求は床に寝かされていた。身を案じてもいる。口ぶりからして永琳を医者だと思うのは、極々自然な流れだった。
「あ、私は八意永琳です。貴方の仰る通り、医者です。そしてこちらが、」永琳が言い終えるより早く、「妹紅。藤原妹紅」と妹紅が短く答えていた。
「やごころえいりん……。ふじわらもこう……」
顎に人差し指を当て、眉を八の字にして阿求は呟いた。するめいかを噛むように、ゆっくりと、そしてじっくり脳内で言葉を咀嚼する。
やがて言葉たちが電気信号として消化されると、阿求は面を上げた。
「それで、なぜ私は倒れていたのでしょう? 何も思い出せないのですが」
「何故倒れていたのか」と永琳は復唱し、目を泳がせた。隣にいる妹紅も、急にそわそわとし始めた。
「何故かと言うと」永琳は阿求に向き直り、そして彼女の目を覗き込み、何かを探るように「突然――そうですね、貧血の症状と同じです。あのような状態になったのです」と答えた。
「突然、ですか」
「はい」
永琳はきっぱりと断言した。
妹紅も相槌を打っている。
「そ、そうですか。すみません、本当に何も思い出せなくて……」
阿求は後ろ髪を強く掻いた。
何も思い出せない自分に腹が立っているのかもしれない。
「まだ記憶に混乱が見られるようです。寝ていてください」
医者にそう言われては仕方が無い、と阿求は唇を噛みながら体を布団に沈めた。
本当はまだ色々と知りたいこともあるのにと、無念さを顔に滲ませて。
「薬などは今から用意しますから。どうぞ、ごゆっくり」
釈然としない様子の阿求だったが、布団に入って横になり、医者である永琳に薬を出してもらえると聞いて安心したのか、すぐに寝息を立て始めた。
その様を眺めていた妹紅が、ぽそりと言った。
「本当に覚えてないみたいだな」
妹紅の嘯きに、永琳は一度だけ大きく頷いた。
◇
「で、どうするんだ?」
屋敷の塀にもたれかかり、もんぺに手を突っ込みながら妹紅が言った。
「重症みたいだけれど」
妹紅の言辞に対する回答を用意していたのか、永琳はすんなりと言葉を返した。
「それについてですが。閻魔に睨まれていますので、私には何も」
出来ません、とまでは言わなかったが、諦めたような表情から、それを察することは出来た。
そして妹紅は当然のやりとりとして質問をする。
「閻魔?」
「はい」
「四季映姫のことか?」
「はい」
何で閻魔が干渉してくるのか? そう言いたげな顔を妹紅はしている。
永琳は彼女の無言の質問に対し、声帯を震わせて答えた。
「理由は定かではありませんが、わざわざ出向いてきたところを見ると、転生の絡みなのでしょう。死相も出ていましたし、寿命から考えても不自然なことではありません」
「転生、か」
妹紅と阿求はそれほど親しい仲ではなかったが、顔見知り程度の付き合いはあった。
だが阿求との会話で転生について語られたことは一度としてない。
それでも妹紅が稗田阿求の正体を知っているのは、偏に文々。新聞のおかげだった。
今より二十年ほど前に刷られた記事によって、妹紅は阿求の転生についての知識を得ていた(慧音の入れ知恵も多少介入しているが)。
だからこそ声のトーンが一つ落ちたのだ。永琳の言わんとしていることが半ば理解出来てしまったがために。
「四季映姫が一体何をしようとしているのかはわかりませんが、記憶を失うと言う一連の阿求の行動は、閻魔も手を焼いているようです」
「ってことは、異常時ってことか」
「おそらくは。手の内ならば、私を呼ぶ必要がありませんからね」
ですが、と永琳は続ける。
「結局は何をしたいのかが見えてこないので、こちらとしてはどうしようも。口外無用と言われてしまうと、記憶を失うこと自体に意味があるとしか思えないのですが、それにしても利点が見出せないのです」
「記憶を失って得すること……」
黒目を目尻の方に命一杯動かし、妹紅は腕を組んで考え耽った。
「…………」
彼女には無くしたい記憶が山ほどある。それこそ分厚い小説のページ数ほどに。
綺麗さっぱり消去出来ればどれだけいいだろうと、今でも良く思う。
だが分別無く記憶が無くなると言うのは困る。
大半が忘れたいモノばかりだとしても、中には決して忘れたくない記憶もある。
だから無作為に記憶が無くなるのだとしたら、彼女は全力でその事態を拒絶することだろう。恐らくは目の前にいる医者に、どうにかしてくれと嘆願する。
記憶が無くなると言うことは、つまるところ自分が無くなるのと同義だ。
どんな生物であれ、自分に確信を持てなくなっては生きていけない。
『自分』を持っているからこそ、『生きている』と認識出来るのだから。
ともすれば、やはり欠点はあっても利点など無いではないか。
妹紅は溜め息を吐いた。
「やっぱり考えてもわからないな。記憶を無くしていいことなんて有りはしない」
「無いこともないのですが」永琳は考え込むような仕草をし、「もう寿命も残されていない状態でソレをしても意味が無いように思えるのです」と、目を丸くする妹紅に言った。
「一体何のことだ?」
「記憶の改竄ですよ。もしくは刷り込みというモノです」
普通のことのように話す永琳に、妹紅は壁から身を離し、背筋を真っ直ぐにして問わざるを得なかった。
「なんだよ、それ」
「そのままの意味ですよ。阿求――もとい御阿礼の子はなべて求聞持の能力を持っています。そして幻想郷縁起を編纂している人物でもある。つまり、歴史を残している側の人間なのです」
「それが? そんなの、今に始まったことじゃないだろう」
「その通りです。転生はもう何度も行われていますし、縁起の資料も膨大でしょう。そして阿求の寿命から考えて、今回の縁起はもうほぼ完成しているはずです」
「もったいぶらないでくれ。結局何が言いたい?」
「ですから、残る歴史を改竄しよう、と誰かが考えているのではないか、と」
「残る歴史……?」と妹紅は眉をひそめた。
言っている意味がいまいちわかっていないようだ――そう受け取った永琳は、面倒だと思いながらも説明した。
「歴史と言うのは、生けとし生ける者たちが過ごしてきた総時間そのものを指します。が、記録と言うのはそうではありません。あたかも後世に『こうだった』と錯覚させるために用いられる場合もあるのです」
輝夜の時のように、と永琳は心の中で呟き、話を続ける。
「真実を残すのが記録ではなく、記録が真実を生み出すのです。何せ過去のことですから、大抵の場合は検証不可能でしょう。なので、記録は事実上の『残る歴史』なのです。私たちが今こうして話していることは、まぁ記録に残ることは無いでしょう。私たちは、歴史の一部でありながら『残らない歴史』として消えていく。けれど記録が残っているのなら、それを見た後世の人々は信じ込むはずです。ああ、昔はこんな事件があったんだ、こんな人物がこんなことをしたんだと」
「……ってことは、」
「そうです。誰が何のためにかはわかりませんし、推測の域は出ませんが、恐らくは何者かが幻想郷縁起を改竄しようとしているのでしょう。不都合を書かれた、何者かが」
「それが閻魔だと?」
「わざわざ私を呼び、倒れた阿求の診察をしろと言い出したのは閻魔ですし、口を噤めと言ったのも閻魔です。疑う余地はあるように感じられなくもないですが、神である彼女にそんなことをする必要は皆無のはずです」
「じゃあ、誰なんだ?」
妹紅の問いに永琳は答えられない。
答えられるのなら問題はとうに解決している、とでも言いたげな顔をした。
「私が現時点で言えることは、四季映姫は阿求の転生について何かしら行動をしようとしていたはず、と言うことと、恐らくは四季映姫以外の者が阿求の記憶や縁起の記録をどうにかしようとしている、と言うことの二点です。二点目については、先ほども言いましたが、彼女自身が記録に抵触する必要が無いと言う前提で考えると、四季映姫を通じて何者かが変えたがっている、としか考えられませんが、それが誰なのかまでは……」
「そうやって聞くと」言いながら、妹紅は再び塀に背を預けた。「その誰かさんは四季映姫よりも立場が上ってことになるな」
「そうですね。しかも刷り込みにはそれなりに時間もかかるでしょうし。記憶を無くしたとしても、それまで培ってきた人格の全てが全て消し飛ぶわけじゃないでしょうから、洗脳するにも時間が――」
そこまで言って、永琳はふっと失笑した。馬鹿馬鹿しい議論だ、と嘲笑するような声色で。
「どうした?」
妹紅が発問する。
永琳は表情を緩めて、
「戯言でした」
「戯言?」
要領を得ないと言う顔で反問する妹紅に、永琳は掌を振って応答した。
「輝夜の敵討ちです。まさかここまで華麗に引っかかってくれるとは思いませんでしたが。いや、本当に真に迫っていて、私まではまりかけてしまいましたよ」
「なに……?」
「ですから。これは戯言なのですよ、妹紅。貴方、一週間前の事を覚えているかしら?」
話の軸が飛びすぎてついていけない、と妹紅は困惑を超えて唖然としている。そんな彼女の様相を見ているのがほとほと面白いのか、永琳はくっくっと笑った。
「輝夜に銀杏の汁をぶっかけたこと、忘れたかしら?」
「――――な」
言われて思い出したのか、驚きながら身を乗り出す。「まさか、お前」
「そのまさかですよ。貴方は輝夜に悪戯のつもりであんなことをしたのだと思いますが」
満面の笑みを浮べて、永琳は心の内を述懐した。
「その服を洗うのは私です。――もうわかりましたか? ええ、そうですよ藤原妹紅。これは私の八つ当たりです」
「ば、」
馬鹿野郎、とでも叫びたかったのだろうが、それよりも先に、永琳の言葉が響いた。
「引っかかってくれてありがとう。感謝するわ」
「――――」
ぎり、と歯軋りする音が聞こえてくる。相当に悔しがっているのが見て取れた。
もうちょっとまくしたてれば暴れ出すだろうか?
そう考えながらも、永琳は大人な対応をする。
「ですが、阿求の症状に偽りはありません」
「え?」
永琳の狙い通り、妹紅の全身から力が抜けた。
怒りよりも疑念が勝ったからだろう。
「記憶を無差別に無くしています。先ほども聞いたでしょう? 私の名前も、貴方の名前も覚えていなかった。自忘症とでも名付けますか」
「じぼうしょう……?」
「自分の自に忘れる、で自忘症。ボケと同じですが、若い人がかかる症例を見たことも聞いたことも無いので、便宜上として名前を作ってみました」
「……で? ボケと同じなら放っておくしかないんじゃないか?」
「ですから」コホンと咳払いをして、永琳が吐露する。「求聞持の能力を持っている彼女がそういう事態に陥ること自体がおかしいと言っているのです」
「む」
「求聞持の能力は、一度見聞きしたことを忘れない、と言うものです。ならばそう簡単に記憶障害にかかるとは思えないでしょう? 外部からの衝撃で脳の一部が死んでしまい、そうなったのならわからなくもないですが、そんな痕跡さえありません。そして閻魔のあの一言です。一芝居打ちたくなるのは仕方無いと思いませんか?」
「ならない!」妹紅は吼えた。
「冗談です。――と、言うことで、耳を貸してください」
「な、なんでだよ」
「閻魔に聞かれたら困りますから。さぁ」
物凄く嫌そうな顔をした妹紅だったが、乱暴に「わかったよ!」と吐き棄てると、永琳の口元へと耳を突き出した。
「ほら」
「では耳を拝借して……」
ごにょごにょと、永琳は自分の推理を打ち明けた。
◇
「準備はどう?」
「バッチリだよ。ほら、こんなにたくさん用意したんだから」
「アリスは?」
「私の方も大丈夫。パチュリーも手伝ってくれるみたいだし」
「そう。じゃあ魔理沙は?」
「愚問だぜ。今までで一番デカいのを打ち上げてやるよ!」
「文は――」
「私ならいつでもどこでも準備OKですよ。取材は時間とタイミングが勝負ですから」
「となると、咲夜は?」
「料理の前準備してるってさ。あたいはもう準備できてるけどね」
「みんな早いわね」
「私たち」「三人も」「OKです」
「――みんな、聞くまでも無かったわね」
「そりゃそうだぜ霊夢。幻想郷で宴会嫌いなヤツはいないからな」
「まぁそれもそうね」
「あとは何かあったか?」
「あとは――」
7
――夢を、見た。
「時間が無い」
柔らかな、けれど意を決したような声で■が私に言った。
「時間?」
「そう、時間。もうすぐそこにまで影が来てしまっている」
影、影とはなんのことだろうか。わからないけれど、それよりも気になることを質問してみる。
「貴女の名前、なんだったかしら」
「――――」
「どうしても思い出せないの」
悲しいことに、と付け加えた。
どうやら私は究極のお惚けさんらしい。大事な人の名前を忘れてしまうなんて、普通は有り得ない。
でも私は忘れてしまった。思い出せない。だから尋ねたのだけれど、■は答えてくれなかった。
代わりに、「大丈夫。怖くは無いわ」と言われた。
「何のこと?」
私の質問には答えず、わからないことばかりを■が言う。
「みんな経験することだから。きっと、大丈夫」
「え?」
「だから」
■が顔を近づけてきた。
――見覚えのある顔だ。
淑女のように上品で気高さの窺い知れる顔の作りに、入念な手入れが行き届いている長髪。
大きな瞳は薄い金色をしており、宝石でも埋め込まれているかのよう。
こんなにも身近な場所に顔があると言うのに、私はいまだに■の名前を思い出せないでいる。
彼女のことは確かに知っていて、喉まで出掛かっているのに、はっきりと名を呼ぶことが出来ない。
「安心して」
逝ってらっしゃい。
「どういう――」
声も私も■も、突然現れた闇に攫われていった。
◇
――長い夢を見ていた、ような気がする。
「……ううん」
自然と目が覚めた。壁掛け時計に目をやると、まだ六時半と早かった。
障子からは薄光こそ射してくるものの、太陽はまだ地平線から顔を出した程度なのだろうと思われた。
少なくとも阿求は、経験則から照らし合わせてそう思った。
「んんっ」
体を起こし、右腕を左手で掴んで伸びをする。
何故か背中に小さな痛みが走ったが、伸びをし終えると収まった。
きっと、ずっと同じ姿勢で寝ていたせいで筋肉が膠着したのだろうと分析して、阿求はそのまま立ち上がった。
今日は妙に体が軽く感じられた。昨日までの体の重さが嘘のようだ。
「昨日?」
口にして、彼女は首を傾げた。はて、そういえば昨日は何をしていたのだろうか、と。
少しばかり唸って考えてみたが、「まぁいいか」と放り投げた。
どうせ退屈な毎日の繰り返しだ、特に変わったことなど無かったに違い無いと歩みを進める。
障子を開けて外に出ると、彼女の予想通り、太陽はやっとこさ山からはみ出る程度だった。
もう何分かすれば全体が出てくるのだろうが、今しばらくは薄暗いままに違いない。
「さぶっ」
今日も相変わらず冷え込んでいた。
昨晩は雪が降らなかったようだが、先日までの残り雪が気温を下げているようだった。
掘り炬燵に火種を放り、温め、台所で紅茶を淹れると、阿求は机の上に突っ伏した。
「んー……」
目は完全に覚めたはずだったが、こうして暖かいものに囲まれたせいか、睡魔が引き返してきたようだった。
気だるさに包まれていく感覚がある。このまま二度寝してしまおうか――そう考えたが、
「おーい!」
無神経な声で、今度こそ完全に、神経の末端まで覚醒した。
「はーい!」
半ば投げやりな声を出して、阿求は玄関へと足を運んだ。こんな朝早くから一体誰だ、と心の中で愚痴りながら。
玄関に着くと、「お。ちゃんと起きてたな」と偉そうに言われた。魔理沙だった。
「な、なんですか? こんな朝早くから」
「早いか? 普通だぜ」
「え? だってまだ七時にも……」
反論は受け付けないらしい。間髪入れず魔理沙が声を発した。
「そんなことより、早く支度してくれ」
「はい?」
「これから宴会なんだ」
「宴会って……」
阿求の顔が引きつる。その顔を見て、魔理沙は満足そうに笑った。
「主役はお前さんなんだよ」
◇
魔法と言うのは便利だと聞いたことがあったが、これほどまでとは思わなかった、と阿求は感動していた。
阿求の屋敷からここまで、魔理沙の操る魔法の箒で一分とかからなかったからだ。
初めて乗る空飛ぶ箒を、阿求は飛行中ずっと食い入るように見つめていた。
「着いたぜ」
「博麗神社?」
到着場所は神社だった。どうやらここで宴会をやるらしいと考えながら、阿求は境内を見回した。
「来たわね」と聞き慣れた声が背のほうから聞こえてきた。
振り向くと、竹箒を持った霊夢がいた。魔理沙の魔法の箒と同じだ。
もしかしたら魔理沙のアレは、霊夢からのプレゼントなのかもしれない。
「ようこそ、博麗神社へ」
「お招き、ありがとうございます」
小さくお辞儀をして、阿求ははにかんだ。霊夢も笑みを浮べた。
「あ、もう来てるじゃんか」
大きなかめを二つ、両腕で持ち上げながら話しかけてきたのは、酒好きで名の通った伊吹萃香だった。
ねじくれた二本の大きな角と、鬼とは思えぬ幼い風貌が彼女の特徴だ。
そしてその横では鴉天狗であり新聞記者である射命丸文が、熱心に萃香に付きまとっている姿が見られた。
きっと鬼の腕力について取材でもしているのだろう。
「もう大丈夫なのか?」
手に大きな箱を抱えながら、通り過ぎさまに慧音が聞いてくる。
阿求は少し困った顔をしながら、「おかげさまで」と短く答えた。
それは良かった、と急ぎ足で過ぎ去っていく。
みんながみんな、朝早くだと言うのに何かしら動き回っていた。
これらが全て宴会のためだと思うと、阿求は目頭が熱くなってきた。
私のことを忘れないで、と輝夜の前で泣いた日のことを思い出す。
「ああ……」
私は忘れられてなどいない。
こうしてみんな、私のことを想ってくれている。
そう思えるだけでも、幸福を感じずにはいられなかった。
「中に行きましょうか」霊夢が手を引く。「外は寒いでしょ」
「あ、でも」と、阿求はやんわりと断りを入れた。「ここでみんなを見ていたいから」
その言葉を聞いた霊夢と魔理沙は顔を向き合わせ、それから霊夢が言った。
「わかった。じゃ、私たちも準備があるから」
「じゃあな」
「ええ。ありがとう」
阿求の気持ちを汲んだのだろう、二人は彼女をその場に残し、境内の方へ向かっていった。
それから阿求は適当に座れる場所を探すと、宴が始まる時間まで、そこで動き回る人々を眺め続けた。
網膜に焼き付けようとしているのか、終始目を細めたままで。
◇
『稗田阿求さん お別れ会』と大きく書かれた幕の下で、宴会は行われた。
本来ならこのような大人数の場合は外で行うのだが、今回は冬での開催と言うこともあり、霊夢の家の中で行われた。
「へいへいへい! もっと呑みなよ!」
異様にテンションの高い萃香が、いつも宝物のように持っている瓢箪を慧音の口へと突っ込む。
「んん~!?」
ばたつく慧音だったが、頭を押さえつける鬼の力は相当なモノだ。
おいそれと解けるようなモノではない。
ゴクゴクと何度か酒が喉を通っていく音を聞いて、萃香は満足げに瓢箪を口から抜いた。
「こ、殺す気かっ!」
解放された慧音は怒気を発したが、萃香は反省の色一つ無く、「なはははっ」と笑うのみだった。
宴会には、それこそ幻想郷中の住人が集まっているようだった。中でも目をひいたのがレミリア・スカーレットの存在だ。
いつもどこかしら浮いた感じがあるが、こうして酒の場になると余計に目立つ。
レミリアは洋酒を飲んでいるようで、ボトルが机の上に置かれているのが見える。
隣には紅美鈴の姿があった。彼女はレミリアに酒を注ぎつつ、自分は骨付き肉を喰らっていた。
かなり酔っているようで、傍目から見てもフラフラしている。
阿求は少しばかり心配になったが、集まっている面子が面子だ。多少の騒ぎは難なく止められるだろう。
咲夜は台所で調理を続行しているのだとか。妹のフランドールは来ていないようだった。
「はかない命わぁ、世界の片隅で~♪」
場に響き渡る歌声は、ミスティア・ローレライのモノだ。プリズムラバー三姉妹の演奏と相まって、本当に儚い気分になってくる。
それでも宴会の喧騒が落ち着かないのが凄い、と阿求は心底感心した。
それから宴会は更にヒートアップしていき、アリス・マーガトロイドとパチュリー・ノーレッジの魔法使い両名による人形劇は、酔い潰れた面々の呻き声で台無しになってしまった。
「どれだけ呑んでるのよ……」
アリスは肩を落としたが、阿求にしてみれば素晴らしいの一言に尽きる人形劇だった。 題目は『蝶の夢』だったか。
蛹から見事孵化して大空を羽ばたくも、傷ついて蛹に戻りたいと願う、と言ったストーリーだった。
「予想通りと言えば予想通りだけどね」
言って、乾いた咳をしながら上段から降りてくるパチュリーを追いかけるように、アリスも降りてきた。
指に嵌めていた金属の指輪のようなモノを外し、道具をいそいそと片付けにかかる。
本当なら近寄って挨拶したかったが、ここからでは少し遠い。なので阿求はあとで感想を述べようと心に思い描いた。
そうこうしているうちに、一時間が過ぎ四時間が過ぎ、気が付けば夕方に差し掛かっていた。
冬の太陽は沈むのが早い。もうすぐ三時半だが、光はもはや薄く淡いものになりつつあった。
これから夕陽になっていくのだろう、時の流れの無常さを感じる。
「もうお別れかぁ……」
大声量で進行していく宴会の中、誰にも聞かれることのない声量で、阿求は呟いた。
振り返れば本当に短い一生だった。繰り返してきた転生の中で、これほどまでに濃密な時間を過ごした御阿礼の子がいただろうか。
残念ながら転生前の記憶が無い故に知る由は無いが、恐らくはいなかっただろう。
きっと他の御阿礼の子たちは、もっと事務的に生きていたに違いない。
妖怪とも相容れなかった時代に生まれていたのだから。
それこそ、幻想郷縁起のためだけに生きていたはずだ。
けれど私は違う。妖怪との友人も出来たし、縁起も妖怪と直接やりとりをして書き綴った。
何よりこれほどの平和を甘受している時代に生まれたのだ、一緒であるわけが無い。
そうだ、私には妖怪の友人が――。
「――――」
息を呑んだ。
思考に空白が産まれ、それが違和感として阿求の心を一瞬にして蝕む。
「友人?」
言葉にしてみて、阿求は一層違和感を強めた。
自然と『妖怪の友人』と言う言葉を吐いたが、はて、妖怪に友人などいただろうか?
見知った者ならたくさんいる。それこそ縁起を書くときに手伝ってもらった者や、向こうから「こう言う風に書いてくれ」と頼みにきた者もいた。彼らを含めれば、かなりの見知り合いがいると言えるだろう。
しかし友人となると話は別だ。
特別親しくしている妖怪はいない。
そんな覚えは――少なくとも自分自身には――無い。人間の友人さえ極めて少ないくらいだ。
では、この思考の空白は一体なんだろう?
確かに私は今、自分で妖怪の友人がいると断言していた。
何か核心めいたモノがあるからこそ、そう思ったに相違ない。でなければあんなにすんなりと、経験として残っているような考え方はしないはずだ。
「……っ」
不意に襲ってきた頭痛に顔をしかめた。それでも思索を止めない。
――私は、何か大切なことを忘れているのではないだろうか?
「大丈夫か?」と声をかけてきたのは、■■■■だった。
あれ、なんで、見覚えがあるのに、こんなにも知っている人なのに――名前が出てこないの?
「顔色が悪そうだが」
背の高い、■■先生が私を気遣ってくれている。あれ? まただ。なんで知っているのに、名前、出てこな――。
「あ、おい!」
「誰か!」
どさり、と畳の上に、阿求は倒れこんだ。
◇
「残念ながら」
八意永琳の一言で、その場に居た全員が、肩を落とした。
◇
――夢を、見ている。
「これでお別れ」
差していた日傘を閉じながら、彼女は言った。
「お別れ? なんで?」
「仕方ないわ。貴方は人間ですもの」
当然のことのように言ってくれる。
でも、事実なんだから仕方が無い。
■のように妖怪とは体のつくりも違うし、寿命だって違うのだから。
「私も妖怪になりたいわ」
「どうして?」
面白い冗談を言う子供に向けるような眼差しで、■が私を見つめてくる。
「どうしてって言われても。妖怪になれば、ずっと貴女と一緒にいられるじゃない」
「……そうね」
会話が途切れてしまった。
隣で座る■は沈黙を守るだけで、私も何を話したら良いかわからなくて、ただ押し黙るしかなかった。
ここは夢の世界なのだと、わかっている。私にはわかっている。恐らく、彼女にも。
けれどここには風もあって匂いもあって、温もりもあるし五感もある。
通常、夢と呼ばれるモノはただの映像だけのはずだけれど、ここにはちゃんと現実と同じものが全て揃っている。
もしかしたらここは夢の世界なんかじゃなくて、現実の裏側の世界なのかもしれない。
長いこと思いを巡らせていた私に、長いこと遠くを見つめていた■が声をかけてきた。
「人間は忘れる生き物なの」
その台詞には聞き覚えがあった。
「そうね」と相槌を打つ。
「貴方は今まで忘れられなかったのでしょう?」
「求聞持の能力があったから」
「だからね」
神妙な相貌で私を見て、「体感してもらいたかったの。残りの時間で」
「体感?」
「そうよ。覚えてないでしょうけど、貴方は『忘れる』と言うことを体験したはずよ」
「忘れる……」
そんな覚えは一切無かったけれど、とりあえず聞いてみる。
「それで?」
「それで、って言われても困るんだけど」
彼女は少し困ったような笑みをこぼして、「これから本物の人間になる貴方には、いい経験になったと思うのだけれど」と、良くわからないことを言ってくれた。
「本物の人間?」
そんなことを言われても、私は普通に普通の、それこそ本物の人間なのだけれど。でも、■はそうは思っていない様子で話をしているようだった。
「そうよ。今から貴方は本物の人間になるの。求聞持の能力も無く、型のある輪廻転生も行われない、本来あるべき姿の人間に」
「それって――」
何だか嫌な予感がする。
この先のことは聞いてはいけないと、脳が警鐘を鳴らしている。
それでも私は踏み込む。いや、これは踏み込まなければいけないことなのだ。
でないと、永遠にこの国から出られない予感がある――
「どう言うこと?」
腋の下に汗をかきながら問い質す私に、■は立ち上がって、私を見下ろすように視線を定めて答えた。
「私は貴方の願いを受け入れただけ。これは他でもない、貴方が願ったことよ」
「私が願った――?」
身に覚えが無い、とはこのように使うのが正しいか。
彼女の言っていることに、私は全く覚えが無かった。だから聞く羽目になる。
一体何を、と。
「普通の人間になりたいと。だから私は手を尽くしたの」
「普通の――人間?」
「そう、普通の人間。御阿礼の子としてではなく、能力も無く短命でもない普通の人間としての生を、それこそが本物の人間の在り方だと言っていた。もう思い出せないかもしれないけれど、貴方は切に望んでいた」
「――――、ぁ」
……思い、出した。
思い出した。思い出してしまった。何もかもを。
「そうだ、」だから私はそれを、「元戻し」と呼んでいた。
「元戻し。良い言葉だと思うわ」
元戻し――輪廻転生の理を元に戻し、根付いた求聞持の能力を元に戻し、寿命を元に戻す。
そう、それこそが、私の願いだった。
「全部思い出したようね」言って、■はまた日傘を広げた。そして私に背を向ける。
「次に逢うときは、お互いに気付かないかもしれないわね」
それが人間ですものね、と彼女は囁いて、振り向きもせず歩き始めた。
「あ、」
行ってしまう。大事な私の友人が。妖怪の友人が。
「あ――あ、」
何か言わないと。
早く言葉にしないと、聞こえなくなってしまう。見えなくなってしまう。これっきり逢えないかもしれないのに、別れの挨拶一つ出来ないなんて……!
「ゆかりさんっ!」
言った。どうしても思い出せなかった■の名前を、ありったけの声を振り絞って叫んだ。
「また、今度ね!」
何故か歪む視界。その先にある彼女の――八雲紫の背中を見送りながら、私は手を振った。
「ごきげんよう」と、紫さんが振り向かずに答えてくれた。
――夢は、そこで終わってしまった。
8
「――――」
自分の幽かな心音で意識を取り戻した。
と同時に、波打つ視界の中、霊夢さんの姿を認めた。
「阿求!」
大きな声だなぁと思いつつ、体を起こそうと思った。けれど体はぴくりとも動かなかった。
「ぁ……、」
おまけに声までうまく出せなかった。これでは何も出来ない。おかげで私は大いに困惑する羽目になった。自分は一体どうしてしまったのかと。
「死んじゃうなんて駄目だよ!」
涙声になりながら、誰かが私の体を揺すっている。
……ああ、萃香さんだ。捻じれた二本の大きな角、澄んだ大きな瞳。間違いない。
それに私が死ぬ?
――あ、そうだった。私の寿命はもう、風前の灯なんだった。
「しっかりしろ!」とは慧音先生だ。
相変わらず心配性だ。
私は大丈夫だと言うのに。
もう苦しむことも、痛むことも、忘れることも無いのだから。
「なに寝てるんだよ。ほら、猫を探さなきゃだろ」
猫? ああ、あの三毛猫のことか。今頃何をしているのかなぁ……。最期まで見つからなかったな、あの子。
そういえば、妹紅さんの泣き顔は初めて見るかもしれない。
「私、わかる?」
なんとも情けない顔をしているのは、いつも平穏無事な顔をしていた輝夜さんだった。どうやら私の手を握ってくれているらしい。
とても暖かい。
「…………」
私から目を離し、そっぽを向いているのは魔理沙さんだ。
尖がり帽子を目深く被っていて表情まで読み取れないけれど、肩口が揺れているのは見て取れた。
自由奔放で無神経だと思っていたけれど、結構気にする性質なのかもしれない。
「お別れですね」
私の髪を手櫛ですいているのは、微笑を顔に貼り付けている永琳さんだった。
そういえば最近倒れてばかりいたけれど、毎回のように彼女が診てくれていたんだっけ。
感謝しなきゃ。
でも、もう時間が無いから、せめて笑顔だけでも。
視界は揺れて、透明な何かが波打って全てが見えにくかったけれど、最期に色々なものが見れて嬉しかった。
他人の泣き顔なんて、もう何年も見ていなかった気がする。
「……、」
ありがとう、と一言みんなに言いたかったけれど、どうやら今の私にはそれすら許されないらしい。
唇が少しばかり動くだけで、喉からは何も出てこなかった。
そのことがとても悲しくて、私は最期だと言うのに涙を流してしまっていた。
「な、泣くなよ!」と妹紅に怒鳴られた。「お前に泣かれたら、みんな泣いちゃうだろう!」
自分が泣いていることは棚に上げて、言っていることはまさしく正論なのでたちが悪い。
そんなことを言われてしまったら、後は笑うしかないじゃないですか。
「そ、そうだ」再び妹紅が言う。「それでいいんだよ」
嬉しそうな笑顔。でも、落涙は続行中だ。
その相反する状態が重なって、彼女の顔をおかしくさせている。
みんながみんな同じような顔をしているから、違和感は全然無いけれど。
「何か言い残すことは?」
永琳さんが優しく言ってきた。
遺言――は、考えてなかった。
と言うか、遺言書はもう一ヶ月以上前に書き上げて棚の中に仕舞ってある。
もう寿命が尽きることを知っていたから、予め用意していた。私が死んだら、稗田家の親類が公開してくれることだろう。
あと遣り残したことと言えば、幻想郷縁起の公開か。そう言えばそちらは用意してなかったな……。
でも、
「――――」
声が出ないし、指先さえ動かせない今の状況じゃ、本当にどうしようもない。なので、縁起の公開は次の転生後に――。
「、」
駄目だ、それは。
……そう、そうだった。
私はもう固定された転生を放棄したのだった。
もう、御阿礼の子としては転生しない(出来ないと言うべきか)。
次の転生は普通の人間、本物の人間と一緒だ。紫さんにそう願ったのは自分自身だって言うのに、どうして失念していたのだろうか。
それに……何だか物凄く眠くなって、きた。
「あ、」と永琳さんの驚いた顔が見える。目を開いて、けれど口は小さく開かれている。
「……だ……ら!」
誰かが何かを喋っている。けれどうまく聞き取ることが出来ない。
あぁそうか――これが死なんだ。
「――――」
やっぱり出ない声と、やっぱり動かない体を惜しみながら、私は最後の御阿礼の子として、精一杯の笑みを作って――。
◇
「今頃、閻魔様はカンカンだと思うわ」
まるで染め抜いたかのような、漆黒の夜空だった。星の一つも出てはおらず、蟲の鳴き声一つ無い。
八意永琳はその静謐なる黒の世界の中、言葉を続けた。
「今回の阿求の異変は、全て貴方の仕業ね?」
追及するような口調では無い。どちらかと言えば友愛の響きが聞き取れる声色で、永琳は闇の奥へと言葉を投げた。
それに対し、闇からの応答があった。
「仕業、と言うのは美しくないわね。せめて振る舞い、と言ってくれないかしら」
くすくすと笑い声を漏らしながら答える誰か。
その誰かに向かって、永琳は会話を続行した。
「どちらでも意味は同じよ。そんなことより、確認したいことがあるのだけれど」
「ふふ、釣れないわね。で、なにかしら?」
「どうして先の無い人間に、あんなことをしたの? そのまま安らかに眠らせてあげれば良かったと思うのだけれど?」
その問いに、闇の向こうから返ってきた答えは、「月の賢者にはわからないかもしれないわね」と言う冷めたモノだった。
永琳は思わず眉端を吊り上げていた。
「私にはわからない、と?」
「言い方が悪かったかしら。貴方だけではなくて、月の住人には、と言う意味よ」
「それは何故かしら。地球人であれ月人であれ、感情そのものにそれほどの相違は無いと思うのだけれど」
永琳が言い終わるのを見計らっていたのか、彼女が一呼吸置こうとしたのを阻止するかのように、闇から言葉が飛んできた。
「いいえ、有ります。それも決定的に違う」
確信に満ちた声には、敵意のようなものが含まれていた。
外見は柔らかな膜に包まれているが、中身は悠久の怨恨が詰まっているような、意味深な言葉だった。
面を食らった永琳は黙り込み、闇の奥からは続きが舞い込んでくる。
「死と言う概念は、頭で理解出来るようなものじゃないわ。畏れ――それは心の奥底で眠っていて、針で刺さない限り動かないの。貴方たち月人にはその針が無い。そう、貴方たちが言う『穢れ』こそが針なのよ」
じゃり、と砂を擦る音が聞こえた。呆けていた永琳がその音で我に返ると、闇の中で何かしらの輪郭が見え隠れしているのが見えた。ぼやけて不確実な、けれど確かな気配が、すぐそこにある。
「月には穢れが無い。だからこそ長寿で傲慢で、完成度が高いのよ。それくらい、賢者たる貴方にならわかっていることでしょうに」
「それは、」言いかけた永琳だったが、言葉を飲み込んだ。
ここで否定の言葉を吐くは、月から逃げ続けている自分の存在を否定することに繋が る。
輝夜のために逃亡している、と言えば聞こえは良いが、結局それは自分のためなのだ。自分がそうしたいから、名分として輝夜の名前を借りているだけ。
――本当は、あの無感動な世界に嫌気がさしていただけなのだから。
「でも」誰かが言った。「貴方の言っていることも正しいわ」
「え?」
「だってそうでしょう? 弱っている相手に、過度な負荷は毒だわ」
辛かったに違いないわ、と闇の奥から自嘲気味な声が聞こえてくる。
「だからこれは、完全に私の自己満足。ちゃんとした名分はあるけれど、結局は私が満足したいがために、阿求に苦役を課したの」
それは、今しがた永琳が脳裏に思い浮かべていたことと酷似していた。
闇の向こう側にいる誰かは、こう言った。
――忘れると言う事がどれだけ怖くて、どれだけ大切な事なのかを教えたかった、と。
人間は忘れたくないことでも、月日が経てば忘れてしまう。
それが命よりも大切なモノであっても、時間の経過と共に薄れ、ぼやけてはっきりと思い出せなくなる。
人間とはすべからくそう言う風に出来ている。だからこそ、日々記憶を保とうと努力を重ねているのだ。
「短時間とは言え、記憶の大切さを教えたかったのは本当よ? そして再考させる時間でもあった。貴方はこうなることを願っていたけれど、本当に良いの? ってね」
じゃり、と一際大きな音が世界に染み込んでいく。
そちらを注視する永琳の瞳に、人の姿が映った。
髪の色が金をしているせいか、薄っすらとその部分だけ明るく見える。
「八雲、紫」と永琳が平坦な声で言った。
「お久しぶり、で合っているかしら」
八雲紫と呼ばれた金髪の女性は、くすっと笑うと、「お前はお行き」と言って腰を落とした。
一体何をしているのかと首を捻った永琳だったが、にゃーん、と言う鳴き声で、なるほどと納得した。
「これが妹紅の言っていた」
「懐いちゃってね。ほら、お行き」
紫の手から放たれ、もう行けと促しているのにも関わらず、ソレは全く動こうとしていない。
「暗くて良く見えないけれど、本当に太っているの?」
「その通り。光があればいいんだけど」
そんなに都合よく用意なんてしていないわ、と紫が口にした時だった。
ドン、と言う音が聞こえたかと思うと、体中に震動が走った。――花火だ。
「綺麗ね……」
噛み締めるように言葉を発する紫。
バチバチバチ、と音を立てて消えていく花火はしかし、次弾によって存在を隠された。
ドン、バチバチ、ドドン、バチバチバチ――一体何発打つのかと思うほど、夜空に打ち上げられていく花火の群れ。咲く花の種類も、それこそ多種多様だった。
「魔理沙ね」
永琳は思い出したように呟いた。そう言えば宴会の準備をしている時、今まで出一番デカいのを打ち上げてやる、と息巻いていたのを思い出して。
「本当に綺麗……」
花火が夜空で炸裂すると、一緒に光も撒き散らされた。赤や青や白の光が、上がっては地上の方へと落ちてくる。
その明かりのおかげで、永琳は紫の足元に何かあるのに気が付いた。
「あら」と目を細める永琳に、本当に丸々と太った猫はそっぽを向いた。
どうやら医者は嫌いらしい、と永琳は心の中で苦笑して、目線を空へと戻した。
そして一言。
「こうやって、みんないなくなっていくのね」
紫は頷かず、答えず。
猫と共に花火の明かりを頬で受けながら、いつまでも空を眺めていた。
それこそ星守る犬のように。
◇
「しっかし幻想郷縁起って、こんなに分厚かったんだな。もうちょい固ければ、これで人殺せるぜ」
「そりゃそうよ。妖怪だけでも相当な数だもの。それと、本を悪用しない」
「んなことより、あとどれだけ配ればいいんだ?」
「そんなの、私に聞かないでよ。配れって言い出したの紫なんだから」
「アイツ、自分の能力使えばあっという間なのになぁ、くそう」
「人間の里とかにはあんまり近寄りたくないみたいだから、まぁしょうがないじゃない」
「霊夢、お前ってさ。前々から思ってたんだけど」
「なによ」
「気のせいかもしれないが、凄く紫の肩入れするよな。アイツ妖怪なのに」
「べ、別に。私には妖怪とか閻魔とか関係ないし」
「最恐の博麗霊夢様だからな」
「はいはい。いいから手を動かしなさいよ、手を」
「あ~あ、本気で面倒だぜ……」
「それは私もよ。でも、この縁起を見てると、満更でもなくならない?」
「まぁ……な。阿求の形見みたいなもんだし」
「でしょ? だから黙って配らない?」
「了解。でも、文たちも今頃必死に配ってるんだろうな。印刷したのアイツなのに」
「そうね。でも本当に大変なのは――」
――配った後、つまり感想を回収する時よ。
霊夢の言葉に、魔理沙は盛大に溜め息を吐くしかなかった。
(永劫回帰 / 了)
どうしても忘れてしまうこと
どちらが辛いのか、考えたこともなかった。
とてもテーマ性のある小説だと思いました。
最後の方はそんなことも考えず涙腺緩みっぱなしでしたがw
もう寝なきゃと思いつつ全部読んでしまいましたw
閻魔に圧力かけたところがそうで、もっというと紫と思われるキャラと最初から仲がいいという設定に入っていけなかった。
部分部分はよくできているが、全体でみるとスムーズではなかったようにも感じた。
力作お疲れ様でした。
そして無くなっていく記憶。
どうしようもなく切ない。
大いに泣かせてもらいました。
話もとても良かったです。
復帰一作目お疲れ様でした。
また次回も頑張ってください!
深いお話をありがとうございました。
やはりみぞれさんの良いところはテーマや設定の深堀だと思います。
次回作も期待しています。
お疲れ様でした。
泣かせてもらいましたし、愉しませてもらいました
ありがとうを送りたい
自分の寿命もあっという間なんだろうなぁ……