美味(まず)いなぁ。
美味(まず)いなぁ。
私はがりがりと肉を齧りながら思う。ああ、不味(うま)い。舌から得られる情報と、脳が感じる情報が一致しない。美味い筈なのに、不味いと感じる。どうしてだろうか。これは間違いなく美味い肉だ。舌触りも良いし、柔らかい。良い肉の筈なのに、どうしてこんなに不味いんだろう。美味しくない。これっぽちも美味しくない。舌は美味しいと伝えてるのに、私はそう認識したくないのだ。
ああ、美味(まず)い。
どうしてこうなったんだっけ?
考えを巡らせるのが億劫だ。面倒くさい。頭が回らない。実際にぐりぐりと頭を回してみたけれど、一向に答えは出てこない。何時からだっけなぁ。何でこんなに面倒になっちゃったんだっけなぁ。がりがりがり。不味いなぁ。美味しくないなぁ。でも分かることはある。私が悪いんだ。それだけは確かだ。けれど、何に対して私は悪びれてるんだろうか。よく思い出せない。頭がぼんやりしてて、霧がかった森を歩いているかのようだ。
何したっけなぁ。
何したっけなぁ。
どうにも、思い出すのを拒否しているように、私の頭は答えを出さない。がりがりがり。ごっくん。不味い。そう思うと、とたんに食い物は不味くなる。舌からも、脳からも、この食い物は不味い、と烙印を押されてしまうのだ。だから、この肉はもう不味い肉だ。
不味い肉はもういらない。
私はその肉を、骨ごと放り捨てる。窓硝子を割って、外に落ちた。割れた窓から、森が見える。瘴気に包まれた、魔法の森。ああそうだ。その光景で、ようやく私は思い出せた。思い出して、泣きたくなる。泣きたくなって、笑い転げたくなった。いっその事、殺して欲しくなった。それか私を火の中にくべてしまいたくなった。責め苦を受け続けたくなった。永遠に苦しんでも良いと思えた。それくらいの事なのだ、私にとっては。
だから、あの肉が不味いのも、必然なのだ。
もう私は、美味しい肉など喰えないのだろう。
ああ、くそ。
どうしてああなっちゃったかなぁ。私が弱いからかなぁ。だからこうなったんだろうなぁ。いやだなぁ。嫌だなぁ。反吐が出るよ。もう嫌だなぁなんて通用しないよ。嫌だって言っても意味なんてないよ。ああ、でも、もしやり直せるなら、やり直したいよなぁ。
あの日の前日に戻って、私の頭を引っ叩いて、その後に釜に落として煮込んでやりたいよ。けど、どうしようもない。どうしようもないのだ。過去は永遠。戻れない。だからこそ後悔するしかないのだ。
ああ、ああ、ああああ、でも、でもでもでも、私の意思がもっと強ければ、あんな事もしなかったんだろうな。私は弱い人間だから。どうして分からなかったんだろうなぁ。どうしてだろうなぁ。
ああ――本当に。
私は弱い。
泣きたいよ。泣けないよ。死にたいよ。死ねないよ。じゃあどうしろってんだよ。知るかよ、一人で膝を抱えて部屋の隅で倒れてろよ。誰も助けてくんねぇからさ。ああ、その通りだ。だから、私は出来る限り過去を思い出して、後悔の念に浸ろう。
あの日。
霧雨魔理沙と言う人間(私)が博麗霊夢を喰った日のこと。
◇――止めてくれ―→◆
もうずっと手遅れだった。
それは明快で明確に異様で、けれど唐突に偶然に当然に必然だった。そうなることは明らかで、だけどそれを止める人は誰もいなくて、だから私はそうなって、だから霊夢はああなった。全ては私が悪い。悪いは私。無情だね無常だね無上だね。私なんて、消えてなくなれ。死ねよ死ねよ死んじまえよ。頭の中でマーチ。止めてくれ気持ち悪い。繰り返すな壊れてんのかよ。だろうな壊れてんのよ。
私は、何時の頃からか、霊夢の指先を目で追うようになっていた。
家の中をぱたぱたと走り回って掃除をしている時も。ご飯を作る時も。お茶を飲んで和んでいる時も。お茶菓子をひょいと摘み上げる時も、私はずっとその指を視線で追っている。初めの頃は、舐めてみたい、しゃぶりたい、何て思って変態かと突っ込んだけれど、今は全然違う。指先を眺めては、齧りたい。噛み潰したい。味わいたい。どんな味なのだろう、と考えるようになっていた。明らかに常軌を逸した考えだ。私は、自分が心底気持ち悪いと思った。
そんな時、霊夢にじっと見られて、
「どうしたの?」
と、問われて、答えに窮して、何時も「何でもない」と返してた。
それでも私は霊夢の指先を眺めて、霊夢はそれを気にもしなかった。
異常であることは確実なのに、霊夢は何の気も回さない。そんな奴だとは分かってるからこそ、こういうときくらいは何かが欲しかったりもするのだが、私は自分が何を欲しいのか何て分からなかった。
そんな私を見て、霊夢はさぞ気味が悪かったろうに(だって自分の指を舐めるように目で追ってるんだぜ?)、知らん顔してお茶を啜るのだ。お茶菓子の煎餅に伸ばした手を見つめて、私もそれをとって、齧る時は霊夢の指を想像した。がり、と甲高い音がした。まるで、骨が折れるような音だった。我ながら気持ち悪い想像だ。
「魔理沙、あんた最近大丈夫なの?」
「ああ、大丈夫さ。私はいつも通り」
「そう」
今思えば、この会話の時に、霊夢は気がついていたんだろうな。そうとしか思えないもの。
そうして、その日もいつも通りに過ぎていくのだった。けれどその日は、いつもと明らかに違ってて、私はその強烈な違和感にくらくらと眩暈がした。
頭が痛くて堪らなくて、私はベッドに飛び込んで頭を抱えて悶えた。けれど頭痛は治まらない。悶えて暴れて、ベッドが軋みを上げて、眼がちかちかしてきて、そこで頭痛はぴたりと止んだ。私は頭を抱えたまま、座り込んだ。汗だくの服が、肌に張り付いて気持ちが悪い。
それらを全て脱ぎ捨てて、深く息を吐いた。
タオルを持って、風呂場に向かい、その途中の廊下にある鏡がどうしてか気に入らなくて、私は思い切り殴りつけた。かしゃん、と鏡が割れて、破片が散らばった。手が痛い。切れてしまったようだ。ぽたり、と血が滴る。私は傷口に口をつけて、舌を這わせた。どうしてか、それが気持ち良かった。広がる味が心地良くて美味しかった。それが気持ち悪くて、頭をがりがりと爪で引っ掻いた。ぶつり、と肌が裂けて、そこから血が流れた。
早くシャワーを浴びたいと思った。全部全部流してもらいたかった。流して流して、今日のことなんてなくしたかった。そんな訳なかった。一日一日が大事だ。大切だ。思い出だ。消したくなんてない。どうせなら私を消せよ。
そして泥のように眠りたかった。つきん、と頭痛が一瞬だけ走る。涙が出た。
どうしてそうなったのか、検討もつかなかった。
けれど、今なら分かる。
魔法の森と言う瘴気の強い森に住んでいて、そこでまともに生活出来るなんて、どこかおかしいに決まっているのだ。そもそも普通の人間がここで生きていける訳がない。
まともじゃないんだよ、初めから。
魔法の森に育つ植物はまともな植物よりも、おかしな植物の方が多い。だろうな。瘴気を浴びて毎日育つんだから。では人間ならどうだ?
瘴気を毎日のように吸っていたのだ、私は。だから、きっとそうなるしかなかったんだろう。もう限界だったんだろう。許容量を超えたんだろう。花粉症みたいなものだよ。軽いな。笑えるな。死にたくなるな。消えたくなるな。泣きたくなるな。
もう私はまともな人間じゃないってことだ。
シャワーを浴びながら、私は壁に手を打ち付けた。ぽきりと枝を折るように軽い音がした。気にもしない。
その後、着替えて、ベッドに倒れ込んだ。何も考えたくなかった。髪を乾かしもせずに眼を閉じた。私の意識は真っ暗に塗り潰される。泥沼に漬かるような。
夢さえも見ない深い眠り。
起きても何も変わらない。
変わらずに気分は悪かった。
水を一口含んで、顔を洗った。寝汗が気持ち悪くて、シャワーを浴びた。昨日殴った場所はそのままだった。ちらりと見た私の手は、もうどこにも傷跡の形跡がなかった。泣きたい。だけれど、それは流れない。流れないからこそ、私は泣きたいのだ。
着替えて背伸びをする。外の天気は晴れ。朝露に濡れた草花がきらきら輝いてた。けれど、私の頭は変だった。それをきれいだと、余り思わなかったのだ。私の頭がおかしいのか、それとも世界がおかしいのか。まぁ確実に私の頭がおかしいのだけれど。
箒を片手に空へ向かう。気分転換がしたかった。
このままじゃあ、押し潰されてしまうと思ったからだ。空を往けば、少しは気分も和らぐんじゃないだろうか。風を浴びれば、少しは多少は和らぐと思う。思うだけ。
魔法の森を抜けて、空へ行き、瘴気の海から抜けて、ようやく少しは楽になった気がした。本当の魔法使いなら、あれぐらいはどうってことないのだろう。むしろ力を増していく。だけど私は人間だ。人間でしかないのだ。職業:魔法使いの人間だ。単なる人間なのだ。耐えられる訳がないのだ。
じりじりと衰弱していくだけなのだ。
空を飛びながら、風が流れていくのは気持ちが良い。頬に当たる風や髪をすり抜けていく風。秋の風が心地良い。涼しい風。意識を風に移すことで、全て忘れようと懸命にする。髪の毛をふわりと揺らす風が気持ち良くて、心地良くて、気持ち悪くて。ああくそだめだ。気持ち悪くない気持ち悪くない気持ち悪くない! 風が気持ち良いんだよ。飛ぶだけで全てを忘れさせてくれるんだ。
飛んでるだけで良いんだ。他のことを考えるなよ。ほら楽しいじゃないか。
風が気持良い……んな訳ない。
ふと視線を下に下ろす。人里の外れの道を女の子が歩いてて、ああ可愛いな、と思うと同時に、ああ美味しそうだな、なんてあるまじきことを考える。美味そうな訳ないだろうが。美味(まず)い筈だよあれは。いいや不味(うま)いに決まってんじゃないかよ。何考えてるんだよ。
振り切るように逃げた。
最高速で逃げた。
私の思考から、逃げたかった。
だけど思考は常について回るのだ。
首から上を切り落としたくなった。
くそったれめ。
結局その後、部屋の中の閉じ篭って鍵を掛けて、ぶるぶる震えて膝を抱えてた。泣きたくて泣きたくて泣けなくて泣けなくて、涙が滲んで流れなかった。少しだけ落ち着いたら、風呂に入って、シャワーを浴びた。昨日打ち付けた痕が生々しくて、私は泣いた(泣けなかった)。何てこったろうな。何だろうな何だろうな。泣けないよ、私は。泣きたくないよ、私は。
多分、誰かに助けて欲しかったんだろうな、その時は。気がつけよ。気がつかなかったのかよ。どうしてだよ。分かんないよ。訳分からねぇよ。なぁ。
◇―→◆?
その日は、そのうちに眠ってしまった。気がつかないうちに意識が消えてしまった。泥沼に沈んでいくかのような肌が粟立つような眠りだった。鳥肌が止まらなかった。ぞくぞくとしたものを抱え込んだまま、身体は眠りについた。意識の消え去って、裸のままに暗闇に包まれた。
起きたくなかった。このままで、一生を過ごしてしまいたかった。それも良いと思えた。残念だよ。
何も考えないのが良かった。それが一番だった。心地良かった。
けれど世は無常。朝はやってくるし、私は起きてしまうのだ。
起き上がって、べとついた肌が不快で、シャワーを浴びた。薄い胸を滴っていく雫が、まるでこの間の血のように見えた。ぽたぽたぽたり。落ちていく、血。血液。真っ赤。あかぁい。砕けた壁。折れた指。治った指。指。滴る血液。血、血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血。肉が、潰れて、骨が、砕けて。ああ、あ、ああああ? あ? あー、あーああー? 私の? 誰の。血?
いかん。思考がずれた。おかしい。私はおかしい。決定的だ。
きっと誰が見てもそう思う。私が見てもそうなのだから。全く流してくれない。シャワーの意味がない。後から後から思考がだだ漏れで、すっきりしない。冷たいシャワーが針を刺すようで肌に痛い。
壁に拳を打ちつけた。
壁が砕けて、手が砕けた。笑えない。痛い。
それから、私はまた部屋の隅っこに戻った。私が私でなくなる気がしたのだ。どこに向かってるのか分からない。不安定さが気持ち悪い。私は何を考えて行動しているのだ。不明。知らない。私の考え? どこ?
瘴気を吸って、それでもここに居ようとするのがそもそもおかしかったんだ。そんなことになっても、この場所を離れることが出来なかった。
部屋の隅で、耳を塞いで目を瞑って、何も見ない、何も聞かないで過ごした。その日も終わって、その次の日も、その次の日も、その次の日もだ。私はずっと震えてた。そのまま自分がどうにかなってしまいそうだった。むしろどうにかなりたかった。私があることが憎らしかった。
窓の外に茂る森が、せめてもの救いだったのかもしれない。外を人が歩いていたら、間違いなく私は飛びつくのだろう。だから良かった。ここで見ず、聞かずで過ごせば良い。
私が語りかけてくる。
――素直になりなよ。
そんなの知るかよ。
――楽だよ。
知るかよ。
――楽になれる。
知るかよ。
意味なんてない受け答え。けれど、そうしていると、ある意味で楽でもあった。無意味なことに時間を割いて、自分を押し込めるのに役立った。自問自答は楽しかった。楽になれた気がした。
けれども私はもう手遅れで、だからだろうか、私が信用できる人間のところに向かったのだ。それはただ一人しかいない。もっとも身近である知り合い(友人)として博麗霊夢が浮かんだのも、また当然のことなのだ。もうそのこと以外考えられなかった。助けて欲しかった。救って欲しかった。手を差し伸べて欲しかった。と言ってもまぁ霊夢にそれを期待してもしょうがなかったのだが。
とにかく私は走った。飛べばいいのに走った。何故だか分からなかった。自分の中の不安を解消したかったのか、もう分からない。けれど、私は走ったのだ。森の中を駆け抜けて、博麗神社に一直線に駆け込んだ。
玄関の戸を叩いて、霊夢を呼ぶ。がしゃん、がしゃん、と不吉な音を扉は立てる。私は戸口を叩き続けた。やがて血相を変えた霊夢が顔を出す。そして私を見て安心して、いつものように「あら? 魔理沙。どうしたの?」なんて小首を傾げて言った。
私は言った。「助けてくれ! 助けてくれよ! 霊夢!」そう言って、詰め寄った。
霊夢は狼狽しながらも私に聞き返してくれた。
「いったいどうしたのよ?」
この辺りから、私の記憶は怪しい。憶えてないのかも知れない。必死だったからか、それとも、霊夢の動作に心を奪われていたからか分からない。その後、私は事情を話したのだ。確か「私の中に私じゃない私がある。どうにも消せない。私は怖い。消してよ。殺してよ。ねぇ助けてよ」そんなことを言ったように思う。霊夢は察してくれて、私を家に呼び込んだ。そこからはもう何も憶えてない。
気がついたら、私は血の海に沈んでて、目の前には事切れた霊夢がいて、私の手は血で真っ赤で、私の口は血の味がして、私は私は私は私はだから、逃げ出した。そこから逃げ出した。けれど、ただ事実だけがあった。私がやった。私が食った。私が。私が! もう何も考えたくなかった。逃げて逃げて、自分の部屋でがたがた震えた。
肩を引っ掴んで、自分を守るようにして震えた。
何も考えたくなかった。
どうして霊夢の所に行ったんだろなぁ。私一人で抱え込めば良かったのに。なぁ。
◆―――→◇(無理)
そんなことがあった。
口の中の肉を飲み込む。不味い。がりがりがり。響く音。ああくそ。ああくそ。どうしてそうなったのか。そうしてそうならなきゃならなかったのか。ああ、私が悪い。
霊夢を頼った私が悪い。私はずっと引き篭もってれば良かったのだ。こんな形で人間止めてどうするんだ。ああ、もう嫌なのに。私はここから消えたいのに、後悔の念が邪魔をする。腹立たしい。泣きたい。泣けない。
ああ、でも、もうじき消える。
私は消えることが出来る。
がりがりがり。
消えられるのだ。ここから。
がりがりがりがり。
ああ、くそ美味(まず)いなぁ。どうしてこんなに不味いんだろなぁ。これもまた苦痛だけど大したことじゃない。苦痛なんて慣れてる。ああほら、もうそろそろ喰い終わる。
がりがりがりがりがり。
不味い。
不味いなぁ、私。
ほら、あと少し。
あと少しでいなくなれる。
それじゃあ、ばいばい。
[了]
久し振りに気持ち良く寝れそうです。
他にも作品あるのかもしれないがあなたの作品で読んだのはこれが初。いい感じの狂気をありがとうございますm(_ _)m
ラストの魔理沙は自分で自分を喰ったのかね。
もしそうならそりゃまず(美味)いわな
そういう絶妙な狂気をありがとうございます。