墨を流したかのような漆黒の宵闇を、月明かりが照らす
その小さく朧気な明りの下で、その屋敷には多くの人間が群がって来ていた
彼等は老若男女を問わず、虚ろな目をして生気を失っているかのように感じる
それらの人々は、一心不乱に一樹の桜の樹に向かっていく
山深い山中にある屋敷でありながら、その樹は圧倒的な存在感を持っていた
人が数人で取り囲めるほどに太い幹、地面に確りと根を生やし、黒々とした幹がその生命力の高さを伺わせる
満開に咲いた墨染めの桜は、まさに天を覆いつくさんかのように、月明かりの下咲き誇っている
ある者は門を打ち壊し、ある者は塀を乗り越え、亡者たちは桜の元へ向かう
まるで桜に引き寄せられるように、目に生気を失った亡者達が群がっていく
一人は怨嗟の言葉を吐き、一人は嘆きの言葉を吐き、それらの者はひれ伏して桜に祈りを奉げる
やがて、祈りが桜に届いたのか、その者達はそのまま地面に突っ伏し、ピクリとも動かなくなった
…と思うや、身体からまるで人魂のような光が飛び出たかと思うと、そのまま桜に吸い込まれていった
桜の樹は、自らに取りすがる者達の怨嗟や嘆きの声を聞くと、次々にその者達の魂を喰っていった
その度に、桜は美しさを増し、夜中でありながら篝火を焚いているかのような光がその桜を包んだ
そして、その光に導かれるように、次々と亡者たちは桜の樹に集まっていく…
「やめて…、これ以上、人の命を奪わないで…」
その様子を見ながら、一人の少女が哀願とも懇願とも言えない悲痛な叫びを繰り返す
少女は涙で目を腫らし、声の続く限り亡者たちを止めようとするものの、その声は亡者には届かない
亡者の腕を掴み、桜に近づけまいとするが、無駄だった
亡者は少女を振り払い、まるで吸い寄せられるかのように桜に向かって突き進んだ
「もうやめて、これ以上、お父様の愛した桜の樹を穢さないで…」
少女の嗚咽の混じった声が屋敷の庭に響く…
だが、それは何の意味もないことだった。亡者たちは桜の樹にひれ伏し、次々に命を吸い取られていく
少女の叫びも虚しく、次々に桜の樹は人々の命を喰っては美しく輝きを増していく
夜が明けるころには、そこに集まった数百、数千と云う命を喰らい尽くし、屋敷の庭は骸で溢れた
「なぜ、なぜ貴方は私を苦しめるの…?」
少女は、その骸に囲まれた桜の樹に縋りつきながら泣いた
無論、樹は何も答えはしなかった。やがて、朝の光が山を照らして行くと、一夜限りの満開を迎えた桜は一斉に散り始めた
数千、数万、数億、数兆…
数え切れぬほどの花弁が、亡者たちの亡骸に降り注ぐ
少女の頬を、胸を、花弁が埋め立てていく。桜の花弁に埋もれながら、少女は自分がこのまま花弁に溶けてなくなるような感覚を覚える
なぜなら、この桜は少女自身にとって、分身のようなものだからだ
まるで母の胸に抱かれるように、まるで父の背中におぶわれるように、暖かな感触が少女を包んでいく
そう、少女にとって、この桜はまさにもう一人の自分だったのだ
愛する者を失った彼女の心が、この桜を人の命を奪う妖怪桜に変えてしまったのだ…
「あなたは、私がどんなことをしても封印して見せます…。それが、私自身の責任…。私自身のけじめ…
その時まで、美しく咲き誇るがいいわ…
ねえ…、『西行妖』」
「…は!」
目を覚ました蓬莱山輝夜は、ひどい寝汗をびっしょりとかいている
空には満月に満たない月が輝き、雲ひとつ無い闇夜を照らしている
輝夜は不思議な夢を見た。山の中にある大きな屋敷に、大きな桜の樹が生えていた
その桜の樹は満開を迎えたばかりで、まるで神々しいまでの美しさを誇っていた
その桜の樹に、まるで生気を失った亡者のようなものがすがりつき、次々に命を吸い取られていくのだ
そして、その命を吸い取りながら、その桜は美しさを増していった
そして、あの少女…
「どっかで見たような気がするけど…」
霞がかった記憶は頼りなく、少女の顔を詳細に思い出せない
どこかで会った事がある気がするものの、どうにも記憶の糸が切れてしまう
どうしても記憶が繋がっていかない…
「どうしたんだよ、輝夜…」
輝夜の傍らで寝ていた藤原妹紅が目を覚ました
ここは平安京の中にある宿坊である
現代に伝わる…
丸竹夷二押御池
姉三六角蛸錦
四綾仏高松万五条
雪駄ちゃらちゃら魚の棚
六条三哲通りすぎ
七条越えれば八九条
十条東寺でとどめさす
…の丸竹夷でいえば、姉三の姉小路と三条通辺りである。京都守護(後に六波羅探題)がある五条大路はすぐそこだった
この宿坊で過ごし、京都守護に忍び込んで情報を集めることが目的である
「………」
輝夜はしばし放心していた。どうにも、あの夢は心に刺さっている
なんともいえないイヤな気持ちではあるが、誰かが自分に助けを求めているようにさえ感じていた…
輝夜は深呼吸をしながら、その夢を反芻する
あの夢の出来事を頭の中でリピートする
「輝夜…?」
妹紅が不思議そうに輝夜を見る
輝夜にしては珍しく、真剣に何かを思い出そうとしているらしい
「おい、輝夜ったら!」
妹紅は輝夜を激しく揺さぶった
「ああ!、もう、うるさいわね!、思い出せなくなっちゃったじゃないの!」
その瞬間、輝夜は妹紅の手を振り払った
どうやら、思い出せなかったらしい
「なんだよ、ぼ~っとしてるかと思ったら、急に喚いたり」
輝夜の気まぐれはいつもの事ではある
しかし、今日のはいつになく真剣だった
「もう、本当にデリカシーがないんだから。これだから、ガサツ娘はイヤなのよ」
輝夜はぷんぷんと怒りながら、喚き散らす
「悪かったな、まったく、何事かうなされて人を起したクセに」
輝夜の怒りが伝染したのか、妹紅もぷんぷんしながらそっぽを向いた
二人は背中を向け合うように座り込む
相変わらず、どっちも意地っ張りだった
「『西行妖』…」
ふと、妹紅が呟いた
「なによ、それ…」
輝夜が聞き返す
「お前が言ったんだよ、寝言で魘されながら…
『西行妖』がどうとか、桜がどうだとか…」
妹紅が言った。輝夜が魘されていた間の寝言を、妹紅は覚えていた
輝夜は確かに言ったのだ…
『西行妖』
…と
「ああああ!!!」
その言葉を聴いた瞬間、輝夜は思い出した
あの夢の中で出てきた景色、夢の中で見た屋敷、そして、桜の樹…
冥界の宴会で何度か見かけた事がある、あの桜…
目を見張るような美しさを誇る冥界の桜の中で、唯一花をつけないあの桜…
その地下には、ある人物が封印されているとされる、あの桜…
そして、輝夜の中でパズルのピースが嵌った
「白玉楼…、西行法師…、鎌倉時代…」
輝夜はいても立ってもいられなくなった
布団を跳ね除けると、宿坊を飛び出した
「おい、待てよ輝夜!」
突然飛び出した輝夜を、妹紅は慌てて追い駆けた
夜の平安京を、二人の少女が駆けて行いった
二人は、夜の闇の中へと消えていった…
~白玉楼~
朝の光を浴びる白玉楼の南庭では、桜が満開を迎えていた
まるで天を覆い尽くさんとするかのように、その桜はまばゆいばかりに咲き誇り春の訪れを知らしめている
これは幽々子が集めた、この世を儚んだ者、この世で結ばれることのなかった者達の魂が宿っているのだという
彼等の魂は、この白玉楼の桜の花弁として新しい生を得るのだという
満開を迎えた桜は、誇らしげにその花弁を広げ、その美しい様を魅せている
唯一つ、白玉楼を見下ろすかのように聳え立つ一樹の桜…『西行妖』を除いて
「この『西行妖』は、幽々子様の父上が身罷られた寺に咲いていた物を移植したものだ…」
幽々子は夜明けまで能力を使った上、白玉楼の桜に舞いを奉納した疲れでぐっすりと眠ってしまっている
幽々子が眠りについたのを確認すると、妖忌はこの『西行妖』の事を優曇華に話し始めた
河内弘川寺で身罷った西行はかの地で荼毘に付されたが、彼がこの地で愛でたこの『西行妖』だけはこの白玉楼に譲られた
この時代で、すでに樹齢は千年を超えていようかという姥彼岸であった
無論、今の大阪府から京都盆地までこんな巨木を移植するのは当時では大変なことであった
だが、その寺にはどうしてもこの巨木を置いておく事ができなかった
それは、この『西行妖』が、西行法師の死後、妖怪桜として人々の命を奪うようになった…というためだ
「そんな…、樹が人の命を奪うなんて…」
優曇華が言った。確かに、普通に考えて樹がまるで意思を持ち、人の命を奪うなどあり得ないことである
見れば、確かに樹齢千年を超えるというその姿は、見ようによっては妖怪のような姿に見えないことは無い
だからといって、どうやって樹が人を殺せるというのか…?
「そうだな、しかし、本当なのだ…。お父上が亡くなられてから、この桜の下で次々と人々が命を落とした
まるでこの樹に魅入られたかのように、自ら命を絶ってな…」
妖忌の口調は淡々としていたが、微かに手元が震えている
妖忌ほどの剣士でも、その状況を思い出しただけで震えが止まらないというのか
「この桜の樹は、人を死に誘うだけの妖怪桜となってしまった。そうして、この白玉楼に移植された…
しかし、それからも人の命を奪い続けた…。わしの娘の命さえな…」
「え―――!?」
妖忌の言葉に、思わず優曇華は絶句する
妖忌の娘…、それはつまり妖夢の母親のことだ。幽々子と歳が近く、真の姉妹のように育った
決して現世で結ばれぬ恋に落ち、沢に身を投げたという…
「この屋敷に『西行妖』が封印されて、間もなくのことであった」
妖忌が震える手を無理やり抑え付ける
妖忌にとっては、耐え難い苦痛の記憶である
道ならぬ恋に引き離された妖忌の娘は、屋敷では抜け殻のようだった
それが『西行妖』が白玉楼に移植されてからは、その桜にとり憑かれたかのようになった
生気を失った目で、その桜の傍を離れなくなった
そして、彼女はあの日、その桜の一枝を持って白玉楼を出奔した
今から思えば、あれは駆け落ちなどではなかったのだ
相手を道連れに、その命を『西行妖』に奉げようとしていたのだ
追手に追われた彼女達の跡には、桜の花弁がまるで葬列のように落ちていたという
そして、二人は沢に身を投じ、死を選んだ
「そして、それから満月が近くなると、あの桜に魅入られた者が次々とあの桜の樹の下で命を落すようになった
あの桜は、例えどんな年でも必ずある日を迎えなければ満開に咲くことは無い
その如月の望月の頃…つまり、幽々子様のお父上の命日の日だ…」
そういうと、妖忌は大きな溜息をついた
『西行妖』は、旧暦の二月十六日の日に必ず一斉に満開を迎えるのだという
そして、その日こそ『西行妖』の力が最も強くなる日である
満開を迎える『西行妖』の妖力に引き寄せられるように、多くの老若男女が白玉楼に集まり命を落す
人生に絶望した者、不治の病に冒された者、生きる望みを失った者…
様々であるが、心に傷を負ったものを中心に『西行妖』に引き寄せられるのだという
「そんな、それなら切って処分すればいいじゃないですか!」
優曇華が言った。確かに、そんな危険な樹は切ってしまったほうがいいに決まっている
しかし、妖忌はゆっくりを首を横に振った
「無駄だ、あの妖怪桜は切ることもできぬ。今までも何人もの者があの桜に挑んだ
いずれも腕に覚えのある者ばかりだが、あの桜に傷をつけることすらできなんだ
害意を持ってあの樹に向かうと、たちまち命を吸い取られてしまうのだ
高名な修験者や陰陽師が調伏しようとしたが、全て返り討ちにあった」
妖忌が言った。これまでも幾人もの人間が『西行妖』を切り倒そうとしたが、誰も切り倒せなかった
名のある修験者や陰陽師も、強力な『西行妖』の妖力にあらゆる術を跳ね返され、死んでいった
その強力な妖力に守られた『西行妖』は、誰も破壊することも封印することもできないのだ
「そんな…」
優曇華は顔を見上げる。窮屈なくらいに首を曲げないと、全体を見ることができない
黒々とした太い幹、確りと地面に生えた根、自らの重みで折れそうなほどに曲がった枝、小さな蕾が所々に満開の日を心待ちにしている
この立派な桜の樹が、人の命を奪っていくなど、言葉で言われても信じられない
しかも、この『西行妖』が満開を迎えるという旧暦二月十六日は、もう間もなく訪れるのである
「どうすれば、この『西行妖』を止めることができるのですか」
優曇華が言った。だが、妖忌は何も言わなかった
妖忌には分かっていた。この『西行妖』を止める手立てなどありはしないということを…
「もはや、どうしようもない…。わしは疲れた…、少し休む」
そういうと、妖忌は自分の部屋へ向かった。彼自身も幽々子が帰るまで起きて待っていたのだ
一人、南庭に取り残された優曇華は、一人で『西行妖』を見上げる
満開に咲き誇る白玉楼の桜たち。それを見守るように、その巨木は蕾をつけたまま佇んでいる
この桜が満開に咲くと、多くの者の命を奪ってしまうという
急に、優曇華は不安になった。この感覚は、あの時の感覚に似ている
あの月面戦争の時の感覚に…
優曇華は夢想する。あの時、自分が逃げ出さずに戦っていたら…
多くの同胞は死なずに済んでいたかもしれない。だが、同時に優曇華は多くの妖怪の命を奪っていただろう…
それは、優曇華自身が背負わなければならない業だった
優曇華は、戦っていても、逃げ出しても、その業から抜け出すことはできなかったのだ
優曇華は急に怖くなった。結局、自分自身もこの桜と同じではないのか…
『西行妖』が、ただ存在しているだけで多くの者の命を奪ってしまうように、自分自身も敵であれ味方であれ多くの者を死なせる業を背負っていたのだ
優曇華は、急に怖くなった。そして、まるで逃げ出すように『西行妖』に背を向けた…
~????????~
『もろともに 我をも具して 散りね花 うき世をいとふ 心ある身ぞ』
それは、現世の理を全て超えてしまったような世界であった
昼とも夜ともつかぬ曖昧な空間、縦横前後左右、あらゆるものが意味を失っている
自分がどこにいるのか、いや、そもそも自分自身が存在しているのかさえ分からなくなるような奇妙な空間
常人なら、とても半日と持たず発狂してしまいそうな空間に、八雲紫はいた
彼女は友人の父である西行法師の歌を詠んだ
散り往く花にわが身を重ね、この世の穢れを厭う唄である
八雲紫は幻想郷が成立した時から存在している妖怪である
最も強力な『境界を操る力』と、万識の智慧を持った妖怪の賢者。それが八雲紫だ
彼女が知らぬことは無く、故に彼女が悩むことは無い
ありとあらゆる知識を手に入れた彼女は、あらゆることの答えを知っているのだ
だから、どんなことが起こっても、それにどう対処すればいいのか知ってる
彼女が悩むことなどないのだ
「紫様…」
その空間に外の世界の光が漏れる。彼女の式神である八雲藍がその空間に入ってきたのだ
それにも紫は顔色一つ変えない。彼女に命令を出したのは紫自身だった
だから、当然、藍がその答えを持ってくることも知っている。何一つ驚くには値しないことだ
「紫様が言われていた件を調べて参りました…」
そういって、藍は紫に近づこうとするが、紫はピクリとも動かなかった
「あの白玉楼にいたウサギは、この世界のウサギではありませんでした
あのウサギは他の世界、月の都から来たウサギです」
紫に近づいた藍は、つぶさに自分の調べた情報を紫に告げた
紫は、藍に優曇華の正体を調べさせていたのである
「…そう、この世界の者ではないと思っていたけど、月の都ね…」
興奮しながら伝える藍に対し、紫は思いのほか沈着に答えた
この世に紫の知らぬ存在はない。だが、紫はあのウサギの存在を知らなかった
だとすれば、あのウサギがこの世界の住人でないことはすぐに察しがついた
別に驚くようなことではなかった
「そういえば、天武天皇の御世に月の都から姫君が降りてきた事があったわね…
五〇〇年ほど前の話だけど…」
ふと、思い出したように紫が呟いた
壬申の乱で皇位に就いた天武天皇の御世、竹取の翁という人物が光る竹の中から小さな姫君を見つけ出した話である
その見つけられた姫君とは、いわずもがな蓬莱山輝夜のことである
結局の所、五〇〇年前にも月の都から人が降りてきているのであるから、今さらウサギ一匹降りて来たとて不思議ではない
「もういいわ、ありがとう。自分の役目に戻って頂戴…」
「はい…、紫様…」
紫が藍に微笑みかける。藍は安心したようにその空間から出て行った
「月の都…、穢れた地上を捨て月に浄土を求めた月読命の住まう理想郷…」
紫は目を閉じ、少しずつ過去の記憶を遡っていく
日の本の国の成立に関わる歴史を少しずつ紐解いていく…
月読命…
古事記によれば、イザナギが黄泉国から逃げ帰ってきたとき、天照大御神や須佐之男命と共に生まれた神である
醜い争いの果てに身に穢れを溜め、寿命を持ち、いずれ訪れる死に恐怖しながら生きる地上を嫌い、月移り住んだ神である
その月の都には、地上ではありえないほどの繁栄を見せ、地上ではありえないほど進歩した技術を持っているとされる
なにより、穢れのない浄土にすむ月の都の住人には寿命が無く、働くこともせず遊びながらくらせるのだという
一説には、ツクヨミの国を黄泉国と同一視する者もいるというが、これは仏教の極楽浄土の思想が混ざったものであろう
或いは、月の都の存在を地上の人間に知られぬようにするための、一種のカムフラージュかもしれない
あのウサギは、その穢れなき浄土から来たというのだ…
「穢れ無き楽園…、そこで暮らすことが幸せかしら…?」
誰に言うでもなく、紫が呟いた
紫の脳裏には、親友の幽々子の姿が浮かぶ
彼女は幸せだろうか…?、それとも不幸であろうか…?
彼女は父の死をきっかけに『死を操る能力』を得たが、それは彼女にとってなんの益もないものだった
あれは今から何年前になるだろうか…?。不思議な力を持つものがいると知って紫は白玉楼を訪れた
みすぼらしい老婆の格好をしたのは、彼女がどういう性情を持つ人間かを知りたかったからだ
彼女はそんなナリをした怪しい老婆にも優しく接してくれた。そして、紫は彼女に自分の櫛の歯を与えた
櫛は古来から別れを招く呪力を持っているとされているが、同時に魂の宿る頭に飾るものであるため、自分の分身として旅立つ人に渡したりもした
古来、天皇は斎宮として都を旅立つ皇女を見送る儀式で、『別れの櫛』を手ずから髪に差し別れの言葉をかけた
紫が幽々子に渡したのは、見た目はみすぼらしいが、かつてイザナギが黄泉醜女から逃げる時に投げた櫛の歯である
幽々子はそれを理解し、それを大切に持っていた。ただ持っていただけでなく、それの持つ意味も、その価値も全て含めて理解していたのだ
そうして、紫と幽々子は親友となった
この世に存在するありとあらゆる物を知っている紫にとって、その物のありのままを受け入れる幽々子の性格は心地よいものであった
彼女と居る時は、妖怪の賢者としてでなく、ただの八雲紫として過ごすことができた
幻想郷で最も強大な力を持ち、全ての万能の知識を持つ紫は、ある者からは恐れられ、またある者からは崇拝された
紫の力を恐れる者、紫を崇拝する者、紫の力を自らの力にせんとする者、彼等の思いは様々だったが、幽々子だけは違った
この世界で、唯一彼女だけが他の者に接するのと同様に自分に接してくれたのだ
「幽々子…」
知らず知らずの内に、紫の頬を涙が伝う…
紫はこの世に存在するあらゆる物を知っている。当然、幽々子がなぜ食事を絶っているのかも、そして『西行妖』は並みのやり方では封印できないと言う事を
それを知った時、彼女はどう思ったのだろうか…
そればかりは、紫にさえ分かるものではなかった
しかし、それでも幽々子はいつもと変わらず暮らしを続けている
恐らく、彼女のやろうとしていることを理解しているのは、この世で自分だけだろう
そして、紫はそれに対してなにもすることができぬ…
決して乱れることのないはずの紫の心が揺らいでいる…
それは、あのウサギのせいだ…
あのウサギが現れなければ…、彼女の心がこれほど千々に乱れることはなかった
今まで、決してありえぬはずだった事が、彼女の存在がもたらされたことによって、初めて可能になりつつある…
空間にスキマが開き、そこには満月になりかけの微かにかけた月が輝いていた
紫はスキマから這い出ると、何処かへ消え去ってしまった…
~白玉楼~
その日、幽々子は夕刻まで姿を現さなかった
昨夜の疲れがでているのであろうと、優曇華は幽々子の部屋には近づかなかった
妖忌も、明け方まで起きていた。老体には堪えるのか、姿は見えない
優曇華は一人、妖夢に離乳食を与えていた
妖夢は面白がって優曇華の耳を引っ張るが、どうしてもあの『西行妖』の事が頭から離れなかった
あの妖怪桜は、これからも人の命を奪い続けるだろう
その強力な妖力故に退治することもできぬ。ようやく、優曇華はこの白玉楼がこんな山奥にひっそりとあることの理由が分かった
幽々子はきっと、あの妖怪桜が居る限りこの白玉楼を離れることはできぬだろう
こんな寂しい山の中でずっと暮らさなければならないのだ
使用人がいないのは、きっと幽々子が暇を出したのであろう
これ以上、身内から『西行妖』の犠牲者がでないように…
でも…、しかし、彼女もまた人間である
命ある限りの人間なのである
彼女は、自分が死んだ後、一体この屋敷とあの桜をどうするつもりなのであろう…
熟々と思いを巡らす優曇華、頭の中に永夜異変の時の情景が思い浮かぶ…
あの時、幽々子は妖夢と一緒に永遠亭に乗り込んで来たものだった
危うく優曇華は兎鍋にされて食われる所だった…
亡霊とは、この世に未練が残って通常よりも強く具現化した幽霊の姿だと聞いている
その割に、なんの悩みもないようなお気楽なお姫様のような印象を受けた物だった
そういえば、幻想郷では冥界にあったはずの白玉楼が、ここでは京都の山奥に建っている
どうやって冥界に移築したのであろうか…?
「………」
「―――!?。なに!?」
優曇華の耳に、微かに人の声が聞こえた
ウサギの耳は人間のそれよりもはるかに発達している
こんな広い屋敷でも、屋内で起きた音なら聞こえてしまう
「幽々子さんの部屋だ!」
優曇華は妖夢をおいて部屋を飛び出した
いくつもの部屋を、まどろっこしい気持ちで通り抜けていく
幽々子の部屋に近づくにつれ、その声がハッキリしていく
間違いなく、それは幽々子の呻き声だった、しかも、かなり苦しそうな声である
「幽々子さん!」
優曇華が部屋を開けると、そこには身を捩りながら苦しそうに悶える幽々子の姿があった
口からは大量の吐瀉物を吐き出し、腹部を押さえながら苦しんでいる
「大丈夫ですか、確りして下さい!」
優曇華が幽々子取りすがる。吐瀉物が器官を詰まらせないように横向きにし、呼吸が楽になるよう衣類を緩める
吐瀉物は黄色から緑掛かった胃液…。緑色は胃の中で出血を起している証拠だ
腹部を触診すると、押し返すような弾力がある。目が完全に充血し、熱も酷い
「どうしました幽々子様!」
妖忌が慌てて部屋に飛び込んできた
寝起きの姿のまま、幽々子の部屋に駆け込んできたようだった
「何かの中毒症状です!、お湯を沢山と清潔な布を一杯用意してください!」
幽々子の診断をしながら、優曇華が指示を出す
永琳から学んだ医学が、こんな形で役に立つとは思わなかった
「わかった…」
妖忌はとるものも取りあえず、急いで厨に向かった
何かの中毒症状であることは間違いない、胃洗浄が必要だと感じた
だが、同時に疑問が沸き起こる…
幽々子はもう二年以上、食事をしていない
…ということである
なんの中毒症状であれ、注射器もないこの時代では経口摂取しか考えられない
しかし、ずっと食事をしていない幽々子にどうして中毒症状が起こるのか…?
「―――!?」
ふと、幽々子の掌を触った優曇華。その掌の感触に違和感を感じた
足の方も触って見る。やはり、そこにも同様の違和感があった
「う…、ううう…」
その違和感を訝しむ優曇華を横目に、幽々子が痛みを訴える
「幽々子さん、どこが痛むんですか!」
耳元で大きな声で優曇華が聞く。幽々子は喉を抑える
「咽頭灼熱感…、それに血圧の低下…」
幽々子の手首を触れながら、その血の巡りが低下していくのを感じる
「―――!?」
幽々子の腕を戻そうとして、再び優曇華が違和感を感じる
(この症状…、まさか…)
脳裏に巡る思いを振り払う。幽々子は脱水症状を起しかけている
激しい嘔吐を繰り返し、筋肉も痙攣を起している
「何にしても、点滴を…点滴を…」
点滴をしようとするが、ここは平安時代の日本
そんな医療器具などあるはずもない
どんなに永琳の元で修行したとはいえ、機材の不足はどうしようもない
永琳印の傷薬も、外傷には効いても中毒症状には効果がない
だが。優曇華は考えた。今、幽々子を救えるのは自分しかないのだ
「そうだ!」
優曇華は厨房に飛んだ。厨房では、妖忌が竈に火を熾し湯を沸かしていた
「確か、この屋敷の塩は赤穂の天然塩でしたね」
そういいながら厨を探る優曇華、0.9%生理食塩水を作るつもりらしい
第二次大戦中、日本やドイツの兵士は、輸血用の血液が足りなくなると海水を四分の一に薄めて代用血液を造っていたという
天然塩なら、人間の体液に合わせた輸液を作り出すことができる
それにしても、それを作ったとしてどうやって体内に摂取させるつもりなのか…
大量に吐瀉している現状では、経口摂取は不可能である
「…幽々子さんは、よくこんな症状を起こされるんですね」
優曇華が作業をしながら言った
「そうだ…、だが、こんなに激しい症状は初めてだ…」
やはり、優曇華の予想した通りだった
だとすれば、あの違和感は…
「煮沸消毒、急いでください」
そういって優曇華が取り出したのは、ギヤマンの水差しであった
そうして、屋敷にかけられていた簾から葦の茎を一本引き抜いた
先端を火であぶり、小刀で鋭く切り上げた。これが注射針と液管を兼ねることになる
なんとか急ごしらえながら点滴ができ、幽々子の症状も落ち着いていた
気付けば、外は暗くなっていた
作った輸液とギヤマン、葦の茎を持って幽々子の部屋に戻る
妖忌がギヤマンに穴を空け、その穴に葦の茎を通す
隙間を丁寧に埋めて、輸液で満たす
空気が入らない様に、慎重に優曇華が静脈を探し葦の茎を差した
永琳の元で磨いていた腕もあって、一回で優曇華は葦を差せた
月が中天に浮かぶ頃、なんとか幽々子の症状は持ち直してきた
しかし、予断は許されない状況である
「すまぬ、世話になってしまった…」
玄米の握り飯を作ってきた妖忌が言った
二人とも、今日はほとんど食事をする機会がなかった
「いいえ、こう見えても医者の卵ですから…」
優曇華は、その大きな握り飯を頬張った
医療とは体力勝負だと永琳も言っていた。赤ん坊の頭ほどもある握り飯を優曇華はすぐに平らげた
「それより、聞きたいことがあります…
確か、幽々子さんのお父さんは、奥州藤原氏と関わりがありましたね…」
唐突に、優曇華が聞いた
「ああ、西行様は保延三年に鳥羽院の北面の武士として奉仕していた故な…」
妖忌が答える。その三年後に西行は出家している
「そして、晩年になって奥州へ向かわれましたね…」
さらに、優曇華が重ねて聞いた
西行が晩年に奥州へ向かったのは、東大寺再建の勧請の為である
すでにこの時、西行は還暦を過ぎていた。藤原秀衡は感激し砂金を奈良に送ったとされる
「ああ、確かに西行様は奥州へ向かわれた…。まだ九郎殿と佐殿との対立が続き不安定な情勢であったのだがな」
西行法師が奥州へ向かったのは、一一八六年。源九郎義経が衣川館で自害するのが一一八九年である
あの時は、義経と頼朝の間で戦が起こると、民衆は恐々としていた頃である
これは歴史家の間では有名な話ではある
「…その時、西行さんは、奥州から書物のような物を持って帰りませんでしたか?」
優曇華が確信に迫ることを聞いた
優曇華が、先ほどから気にかけていることである
「はて…。西行様はいつも着の身着のまま、心赴くままに旅をされていた…
しかし、仏心に篤いお方であったゆえ、経典などは拝借してきたやもしれぬ」
妖忌ははっきりとは答えなかった
…というよりも、答えを知らないと言った方がいいだろう
わざわざ京都から現在で言う岩手県まで行って、手ぶらで帰ってきたりするだろうか…
「確か、西行さんは弘法大師に傾倒していましたね?」
さらに、しつこく優曇華は聞いてくる
そんなことは、西行法師をちょっとでも知っていればわかることである
「うむ、高野山にも入ったし、讃岐の国まで大師の遺跡を巡礼したりもしておる」
当たり前のように、妖忌が答えた
弘法大師・空海は真言密教の開祖にして、高野山に金剛峰寺を開いた人物である
日本史を習っていれば、誰でも知っていることである
「そうですか…」
そういって、優曇華は白玉楼の庭に出た…
幽々子を触診して幾つか気付いたことがある
それが、違和感となって優曇華の心に刺さっている
幽々子の掌と足の裏には、皮膚が角化している所があり、爪の萎縮、皮膚の剥離などが見られた
そして、幽々子の血の巡りを調べた時に見た、幽々子の脇…
幽々子の脇には、黒く色素が沈着していた
急激な嘔吐や、腹部の張り、喉の焼け付くような痛み…
きちんとした医療施設で診断したわけでもない。あくまでも優曇華の初見でしかない
しかし、優曇華には、この世で最高の医師に師事していたという自負もある
幽々子が見せたこの症状…、それは…
『ヒ素中毒』
…によるものだと、優曇華は診断した
しかも、脇の下に黒い斑点が見えるのは慢性化したヒ素中毒である
砒霜の毒は、人類が知っている毒物の中でトリカブトと並んで入手しやすく、とりわけ多く使われてきた薬物である
日本では『石見銀山の鼠捕り』などでもお馴染みである
そして、暗殺などでも多く使用されている
だが、この毒の用途は鼠捕りや暗殺だけではない
「まさか、そんなはずがない…。そんなはずは…」
優曇華は、自分の頭の中に浮かんできた考えを、必死で否定した
だが、全ての状況証拠がそれを物語っている
砒霜の毒 奥州藤原氏 真言密教…
それぞれはバラバラであるが、ある一つのキーワードを使うと、それが見事に繋がるのだ
「信じたくない、そんなこと、信じたくない」
優曇華は頭を振るが、それでも頭にこびり付いた思いが消えるはずもない
優曇華の頭に、幽々子の顔が過ぎる
あの笑顔を絶やさない彼女が、あの心優しい彼女が、そんな事を考えるのか…
優曇華の心は、プレッシャーに潰される寸前であった
縺れた足を無理に動かし、部屋へ戻ろうとする
優曇華の頭には、もうその言葉しか残っていない
砒霜の毒 奥州藤原氏 真言密教。この三つの言葉を繋げるキーワード
それは…
『即身成仏』
…であった
前者であれば、私に言わせれば『独り善がりがすぎて東方のSSとしては読者を完全に置いてけぼり! もうちょっと読者に読ませる努力が足りないor空回りしてる』の言葉に尽きますし、後者であれば私からは何も言うことがありません。
なのでフリーレスかつ匿名でコメントしても無意味です。
「。」をつけない理由もまともに答えが返ってきてません。
ここに投稿する事で一体誰が得してるんだろうね。