Coolier - 新生・東方創想話

藤の淡海(後)

2010/09/04 02:56:24
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※藤の淡海(前)の続きです。
※歴史上の人物などが登場します。  








 藤原不比等が貴族として政界に姿を現したのが三〇歳前後と思われる。

日本書紀の巻三〇、持統三年(六八九年)の条に『以淨廣肆竹田王。直廣肆土師宿禰根麿。大宅朝臣麿。藤原朝臣史。務大肆當麻眞人櫻井。穂積朝臣山守。中臣朝臣臣麿。巨勢朝臣多益須。大三輪朝臣安麿。爲判事。』と記されている。
 
 直廣肆(じきこうし)の藤原朝臣史が判事に任ぜられた、という記述だ。直廣肆とは従五位下のことで公卿の一番下のランクである。(七〇一年の大宝律令施行以後は数字を使った位階になる。)
 
 これが藤原不比等が初めて歴史に名を出した一文である。
 
 『藤原朝臣史(ふじわらのあそんふひと)』と記されていることに注目してみる。

 同族の大嶋(おおしま)は六八三年には中臣姓で登場しているが、六八五年には藤原姓に変わっている。
 とすると、藤原姓を授けられた鎌足の実子たる不比等が、史書に登場する四年ほど前には朝廷のどこかに存在したはずだ。
 
 さらに出世していくためには『内舎人』から下積みをしなければならないから、二〇歳前後(六七八年前後)には宮仕えを始めていたであろうと考えられる。



 稗田阿礼が天武天皇崩御寸前に、『帝記』『旧辞』の暗誦を始めたとすれば両者の年齢は近づいてくる。

 阿礼も二○歳の乙女の頃。
 同年代の好男子が云々、という話ではなく、敗戦側の忘れ形見として官庁勤めを始めた不比等への、阿礼の目は複雑だった。
 
 かつては権力を中臣鎌足の嫡子であるはずなのに、ひたすら隠遁生活をしたあげく一般官人に混じって宮仕えである。
「ああ、あの内大臣の息子が今となっては……」という哀れみの視線も多かっただろう。
 
 だが阿礼は違った。

(”あの”内大臣の息子がただで終わるはずがありません)

 壬申の戦乱も、自分が少女であった頃の鎌足の活躍も、生々しく記憶に残っている阿礼である。
 涼しげな顔の不比等が、父に似たうちに大きな炎を秘めているのをどことなく感じていたのだ。

 後に太安万侶を加え、古事記編纂の大事業に取り掛かるとき、彼は帝に寵愛された権力者として阿礼の前に姿を現すことになる。

 


 藤原不比等=稗田阿礼説を唱えた梅原猛は、「柳田は、いささか田舎の炉部屋で語られる昔話を聞きすぎて、稗田阿礼もそういう昔話の好きな婆さんであると想像したのだろう」と一断している。柳田はフィールドワークを通して古老から昔話を収集し民俗学の資料としている。
 
 梅原は国家事業である歴史書編纂に「大切な仕事に女性が表面に立って任用されたことは、日本書紀、続日本紀を通じてあまり例がない」と述べる。
 高い記憶能力については「あまりに非合理的すぎるからである。だいいち、当時すでに漢字をつかって日本語を表現する方法も相当発達していたことは、万葉集の歌を見れば分かる」と言い切った上で、当時の政界の実力者であり歴史学に長じていた不比等の存在を当てはめて論を展開している。

 同一人物説というより稗田阿礼不在説といったほうがいい。

 弘仁三年(八一二年)頃、『弘仁私記』にいきなり稗田阿礼は天鈿女命であると書かれるのも不自然だし、
 猿女君と稗田の関係が『西宮記』の一文だけでは心もとない。古事記編纂という大事業に関わった割りには稗田阿礼も稗田氏も活躍がない。というより登場がない。日本書紀にも存在は認められない。

 しかし、古事記序文に書かれている以上、
 天鈿女命の後裔か、猿女君と同族か一概に断ずることはできないが……男性か女性か断ずることはできないが……一人の記憶力のいい官人やその生まれ変わりがいたことは本当だろうと信じ、ここではこれ以上問わない。















 上白沢慧音なる神獣の少女は、古今東西の古典を引用して帝王学を不比等に講義した。

 「人にものを教えるのが好きなのだ」

 そう微笑む彼女に応えるようにして不比等を勉学に励んだ。
 
 不比等の才能に気づいた彼女は「良き生徒だ」とますます可愛がってくれた。
 内舎人として仕官が決まり、都に行くことになった時も喜んでくれたのを覚えている。
 その後も、仕事の合間を縫って文を送った(田辺家の人間に森に置いておけと命じた)。そしてその度、膨大な量の返事が返ってきた。

 不比等は政界で頭角を現し始める。 
 日々は多忙を極め、文を送る暇もなくなってきた。

 六八九年に正史に『藤原朝臣史』として登場した時は、すでに持統天皇と草壁皇子、幼き日の文武帝に接触していたであろう。
 草壁皇子から黒作懸佩刀(くろつくりかけはきのたち)を賜るのもこの頃だ。

 清濁合わせ飲む政争に関与し、不比等の政治家としての才能は開花していく。

 大津皇子は反逆罪を疑われ自宅にて死を命じられた。妃は悲嘆のあまり後を追い、二つの遺体が折り重なるように転がっていたという。
 太政大臣高市皇子(たけちのおうじ)も文武帝の即位直前に急死している。

 
 六九六年、再び彼が正史『日本書紀』に登場した時は『藤原朝臣不比等』となっていた。

『この不比等のおとどの御名より始め、なべてならず御座しましけり。「ならび等しからず」とつけられ給へる名にてぞ、この文字は侍りける。』

 平安時代後期に記された『大鏡』にはこう記されている。



 ”等しく比べるものがいない”



 政治家としての強烈な自意識に裏打ちされた名前だった。
 不比等が政界に名を知られ始め、他者を圧倒していった。
 ついには重鎮として君臨する。

 この頃、すでに慧音と文を交わすこともなくなっていた。











 不比等は自邸で月を睨み付けるように見上げる。

「かぐや姫、お前にこの国はやらぬ」

 私の国作りの邪魔はさせぬ。

 不比等は瞳を見開き、この世の全てをもぎ取るように指一本一本を握りなおした。



 ―――ただ何故だろう。



 上白沢慧音の堅苦しいながらも慈母のような振る舞い、声、筆跡。
 そして都の外れで待つ、慎ましやかな妻と元気な娘。



 無性に彼女たちが懐かしかった。

 
 両の手は血で汚れているけれど、
 私はまだ人間でいられる。


  
 孤独でありながら、国を背負った男の戦いの始まりだった。









※ ※ ※ ※ ※

 満月の夜を疾走するひとつの影。
 不比等の間者、金輪今国(かなわのいまくに)の手には竹筒が握られている。
 竹筒の中に揺れる赤い液体。
 
 不死者との戦を左右する枢機の品、と彼の主人は言った。

 爪黒の鹿の血。

 密封した竹筒に入れて変色しないようにしてある。
 鹿は古来より王者と共に描かれ神性を持つ生き物とされる。

 その血が波打っている。握った容器の中に液体が波打つ感触は、気持ちのいいものではなかった。
 邪気のない鹿の瞳を思い出した。一刀のもとに仕留め、首から血液を採集した。最後まで鹿は健気な黒い瞳を濡らしながら痙攣していた。

 懐にはもう一本の竹筒が入っている。
 こちらはまだ空である。
 もうひとつ。
 さらにこの空の竹筒に注がねばならない必要な血液がある。


 疑着の相を持つ女の生き血。


 その二種の血液が揃って初めて不死者への有効打となりえる武器が完成する。

 不比等の頭脳には、かくも恐ろしい知識が内包されているのか。


 今宵は満月。
 何が起きてもおかしくない。
 人を狂わせる月光が金輪の精神を不安定にさせた。

 暗殺に隠密。
 主人のためには人一人を消すことも厭わない。
 夜陰に紛れて行うそれらの活動は満月の夜は不適である。

 だがそれ以上に、満月から降り注がれる、穢れ無き燐光を避けてきたのではないか。
 髪を抜け頭蓋を貫いて、脳髄に刺さった光により正体を無くすのを本能的に怖れていたのではないか。

 月の支配する世界は人の世界ではない。日の光の下とは全く違うシステムで構成された世界だ。

 猶予はない。
 不比等は全幅の信頼を寄せて調達を金輪今国に一任した。飼いならされた間者は、その信頼に対して誇りを持って死ねる駒である。


 ―――決して不比等に分がある戦いではない。
 不死者との戦いまでに手には入れなければ黒星。

 今宵のうちに、この両手と剣の刃が血で染まることになる。
 打ち鍛えられた長剣ではなく、四寸三分ほどの片刃の刀子である。蕨手刀と呼ばれる片手用の武器で、奈良時代後期のものが今も残っている。

 刃が肉を裂き内臓を抉る光景が、予定された事実のように感じた。

 まるで演者のようである。
 その方が心の持ちようも安定してくるものだ。
 台詞とト書きに従って行動すればよい。



 時は満月夜。壇は新益の都。

 妖怪変化が笛の音色と共に書割の奥から現れる。

 何が起きてもおかしくはない夜の世界。









 刹那。









 屋敷から、

 絹を裂くような、

 女の悲鳴












 役者は揃った。
 
 荒事役者は剣を抜いてひのき舞台へ飛び込んだ。























 讃岐造の屋敷は、誰も入れぬよう警備も厳重にされてあった。
 奥に住まう姫が侵入を防ぐ結界を施したというのもある。

 月の技術をごくごく簡単に応用したに過ぎなかったが、この世界には強力な魔術となって作用する。
『月の頭脳』と呼ばれた薬師から習った薬方の技術も役に立った。

 次の十五夜。
 彼女と月の使者たちが降りてくるはずだ。
 同じ罪を犯した彼女からの情報。約束。
 穢土に落ちた頃は、彼女との邂逅の時ばかり夢見てきた。

 しかし、今の楽しみを途中で放棄するのも惜しい。
 
 特にあの男、藤原不比等。
 彼はどう出てくるか。

 求婚の文は挑戦的で熱烈でありながら、古今の詩文を引用し知性と教養がここかしこに見えるものだった。
 宝を所望した返事はもう届いているだろう。


『蓬莱の玉の枝』


 月の都にしか存在しない優曇華の花。権力という穢れを吸い美しい玉の実を枝につける。

「ああ……」

 あの強固な意志を持った人間を、蔑み、虐め、見下し、さらに地面に這い蹲らせる想像をして、唇を吊り上げ妖艶な紅を舐めた。
 帝とて手のひらで動かすことのできる権力者。
 権威より権力を取る小賢しさがまたたまらない。

 ……やはり地上は面白い。

 彼の犬が嗅ぎまわっているもの承知している。
 私が斬っても突いても逝かない不死者であることも先方は承知しているはずだ。

 恐らく地上の人間からしてみれば月の人間は神のような存在だ。
 穢れの無い世界。彼等が恐れ敬う神は穢れを嫌い、力でもって彼等に畏怖を与える。

 神と人間。
 無限の蓬莱人と有限の人間。

 この埋めようのない圧倒的な懸隔。



 藤原不比等―――貴方はどうするのかしら?













※ ※ ※ ※ ※

 五衛府の将軍、高野大国(たかののおおくに)が兵を率いて讃岐造の屋敷に着いたのは、辺りが暗くなってからだった。
 今夜は八月十五日の夜。月が雲に隠れていても、松明の本数は少なかった。
 竹林に入り陣を張る。

 当時の文官の姿は唐制そっくりであったが、武官は袖を縫わず唐の武官とは違ういでたちである。徴用された兵士もいたが、大伴氏などの軍事氏族。九州南部の隼人族。渡来系の武官氏族。壬申の大乱を生き残ってきた兵士の子孫たちは屈強であった。
 刀剣は金属であるが、矢じりには研磨された石を用いている。黒曜石は石器の材料として広域で流通しており、ガラス質で断面は非常に鋭い。
 黒曜石を矢じりにした矢は、鉄板すらも貫通する強度がある。

 接近戦は原始的であるという概念があるかもしれないが、貴重な金属を使う剣を用いた白兵戦より、投石や弓矢を用いた中・遠距離戦こそ古代の戦闘のメインだった可能性がある。日本刀が誕生してからも、大量の鉄、水、炭を使うそれは高価で、戦において弓矢の占める割合は大きかった。
 兵士たちは皆、大きな丸木弓を背負っている。鎧は挂甲。弓を扱いやすいよう胸部や肩は鎧板で覆わず、肩から甲を垂らしている。

 高野大国は衛門府に属する兵等を指する武官である。飾りのある兜を被り馬に乗っていた。

 今回の進軍には藤原不比等という政界の重要人物が背後に控えている。
 宝物を入れた長櫃を運ぶ者や、武装していない近侍の者もいる。

 彼は覆いをした輿に乗っていた。傘のような覆いで、華美な装飾が施されている。
 馬に跨る兵と一線を設けるためであり、昼は日光、今は流れ矢の類を防ぐためのでもあった。

「お主は死なずの敵と戦ったことはあるか」

 陣地で輿から降りた不比等はまず、そう問うた。
 大国はその問いの意味が理解できなかった。
 目の前の大貴族に対して、分からないという意図を伝える方法が分からない。大国も高位の武官だが生来の格そのものが違っているように思えた。

「ないか。私もない」

 不比等はにやりと微笑んだ。その表情は緊張が浮かんでいるように見えた。

 衣服も軍装ではない。冠をかぶり儀礼に出るような皺ひとつない浅紫の衣である。
 緊張しながら衣服を整えるその姿は、婚礼を前にして強張る新郎のようでもあった。

「不死というからには、もしかしたら神なのかもしれんのう」

 この男は、誰に対しても――本当に緊張というものを見せない男に違いない。高野大国は思った。
 微笑む為政者が、緊張を演技しているのではないか、そう感じたからだ。
 さも焦っている男を独り言を呟きながら演じているのだ。

 彼の目に、千を超える無骨な軍隊は映っていない。

 恐らく。
 屋敷にいる人智を超えた敵。
 そのことを思いつめている。

「ならば神すら殺せばよいではないか。不死の怪物、不死の神。不死が存在する数だけ、殺す方法がある」


 覇道を阻む障害の一切を駆逐する。


 忠僕、金輪今国は二種の血液を手に入れ帰還した。
 一本の竹筒に入れて混合させ、さらにその中に神木から削りだした笛を入れる。
 これが不死者を倒す必殺の魔術となりえるだろうか。


 屋敷には幾重にも結界が張られてあった。

 私を誰だと思っている。


「天岩戸をこじ開けし祝詞を唱えた天児屋根命二十四世孫、藤原不比等ぞ」


 不比等は門の前で叩頭した。立礼である。


「『高天原に神留り坐す 皇親神漏岐 神漏美の命以ちて 八百万神等を 神集へに賜ひ
神議りに議り賜いひて 我が皇御孫命は 豊葦原水穂国を 安国と平けく知ろし食せと 事依さし奉りき』 」


 朗々と読みあげられる聖なる文言。言句を唱えた瞬間、そこは聖場となり神の構築した理屈の領域となる。
屋敷の外壁を覆う空気が変化した。

 ―――試練の扉をたった一枚開けたに過ぎない。

 鬼が出るか蛇が出るか。まつろわぬ者共の気配が溢れてきている。

「行くぞ」

 高野大国を始めとする数人の武官。金輪今国ら忍びの術を会得した間者。神祇官。陰陽師。法僧。
 後の部隊は、まるで屋敷を警護するように幾重にもなって取り囲んだ。

 愛しの花嫁への求婚が始まった。
 

 以降、かぐや姫を”迦具夜比売”でもなく”赫奕姫”でもなく、”輝夜”姫と記すことにする。

























※ ※ ※ ※ ※ 






 結界の中に住む讃岐造の翁と嫗は平伏して、不比等とその配下を迎えた。

 本来なら目を合わせることすら適わぬ相手である。
 大伴御行に始まる公卿を思い煩わせる姫の態度は、この老人たちの神経をさぞすり減らしていることだろう。

 憔悴していた。
 竹林の奥で慎ましやかに暮らしていた老夫婦には大きな心労となっているに違いない。
 同時に子のいない二人の、娘への愛情とが胸の中で葛藤しているはずだ。

「輝夜姫に取り次ぐことは適わぬか」

 もはや彼女は老いた両親の言うことを、素直に聞くことも少ないそうだ。

「……今夜にでもすぐ結婚のお返事を頂きたい」

 閨の準備をしておいても構わない、そう丁寧な口調に告げた。
 本当に準備をしにいったのか、老いた身体を休めにいったのか、老夫婦は部屋を出て離れへ向かった。


 さて、実力行使と行こうではないか。


「符を貼れ」


 最初に動いたのは陰陽師だった。道教の秘術を取り入れた陰陽師は様々な護符を駆使した。
 正対化霊天真坤元霊符が、屋敷を走る気脈の点に貼られた。 許真君という神仙の符だが、天の気と地の気を合い寄らせる万能符である。

 律令では陰陽師は陰陽寮に属する技術官僚として定められており、その呪術の漏洩に関しては処罰が下された。
 正倉院文書には陰陽師の能力、出勤日などの勤務評定が残されている。

 仏教も国家の管理化に置かれ、私度僧は厳しく取り締まられた。
 民間宗教・土着信仰も取り締まられ、各国に律令に定められた国幣社が置かれた。官寺も各地に建立される。

 神道は神祇官の管轄である。神道は仏教や陰陽道とは違い、天皇を中心とした国家運営の根幹である。
 神祇官の長は、不比等の同族(はとこ)の中臣意美麻呂(おみまろ)が勤めていた。

「政事の藤原、神祇の中臣」という職能の区分は、同時に藤原不比等が両権を手にすることであった。意美麻呂から続く中臣氏は大中臣氏、藤波氏と姓を変えながら神祇伯や伊勢祭主を世襲した。伊勢祭主は、神社の本宗たる伊勢神宮にのみ置かれる神職で、近代以後は華族が任じられる。
(現在の伊勢祭主は池田厚子氏(順宮厚子内親王)。今上天皇の姉で、夫は旧岡山藩池田家第十六代目当主、池田隆政氏)

 豪族連合のまとめ役に過ぎなかった古代の大王(おおきみ)が、信仰と権力を得る天皇になるには、
 為政者たちの血の滲むような試行錯誤が必要だったのだ。


『大王の世紀は終わった。
 壬申の乱離のはてに、父鎌足のあとをうけ、
 律令という法と、
 それにもとづく制度と、
 強力な官僚機構によって、
 はじめて体系的な国家「日本」をつくりあげた稀代の政治家』

 朝日評伝の上田正昭の『藤原不比等』の帯にはそう大きく書かれている。
 中央集権化とは国の隅々まで天皇を中心とする支配体制に組み込むことである。天皇の下に公卿が置かれ、さらに下の各役所へと繋がる上意下達機構。

 諏訪の神への神前供物は天明四年、菅江真澄が絵で残している。
 松の棒に串刺しにした兎。耳裂け鹿。茹でた鹿肉と鹿の脳みそを茹で熱湯に浸した脳和。
 血がかかっただけで本殿を建て直し、神経質なまでの潔斎を求めた朝廷神道の神と、根本的に信仰の体系が異なっていたことが分かる。


 出雲、諏訪、”国譲り”を経て打ち立てられた王権の完成。
 豪族連合の支配から、神道の長である天皇を中心とした朝廷神話の支配体制への移行。
 天皇とその神々への信仰の体系化。

 去年の七〇〇年六月。藤原不比等は大宝律令を完成させた。

 刑部親王(おさかべしんのう)などの皇族。
 田辺史百枝(たなべのふひとももえ)田辺史首名(たなべのふひとおびな)白猪史骨(しらいのふひとほね)など田辺家や史の名を持つ者。
 薩弘格(さつこうかく)などの唐人。
 後に遣唐使に選ばれる粟田朝臣真人(あわたのあそんまひと)。
 調伊美伎老人(つきのいみきおきな)など多数の渡来系氏族を率いての大事業であった。
 調(つき)氏は、後漢の霊帝の末裔と称し、応神天皇の時代、朝鮮半島南部の伽耶から渡った比較的古い帰化人である。
 
 
 壬申の大乱の勲に縛られない官人たちが不比等に魅かれ集まった。東アジアの頭脳が、日本の律令政治に向けられていた。

 律令制は武士の台頭により有名無実化していくが、それでも位階などの順序は権力者に授与され(名乗り)、弾正、刑部など律令機構の名を名乗り武将たちは支配を強めた。明治になると完全に廃止され、新しく天皇を中心とした支配機構として組みなおされる。

 ――――そして昭和二〇年(一九四五年)、敗戦を迎え天皇の政治権が完全に消滅する。
 天皇制という過去の制度を振り返った時、学者たちは藤原不比等という怪物に直面せざるを得ないのである。


 日本の歴史を規定したといってもいい、飛鳥の国家制度。
 言い換えるなら幾つもの古代の神が支配する世界ではない。
 人が認めた、人の益する神が支配する人のための世界。

 冷徹なまでの神、仏、信仰、人間の生に関する哲学が無ければ、ここまでの改革は不可能だったはずだ。





 そのような世界に。

 反旗を振り回す一人の女の居場所など、許せるはずがない。




「『天津宮事以ちて 天津金木を本打ち切り末打ち断ちて 千座の置座に置足はして 天津菅麻を本刈り断ち末刈り切りて 八針に取裂きて……』」

 大祓詞。
 中臣祭文とも呼ばれる祝詞が読み上げられる。
 祝詞では天孫が光臨し、日本を治めるまで過程が語られる。
 経文の詠唱や悪魔の召還とも違う、日本式の呪術の詠唱。

 つまり言霊。
 天孫が治めるこの国は正等なものであること。穢れ無きものであること。
 とうとうと、せつせつと、たんたんと、言霊に乗せて説明し、紡ぎだす。

”この御世に穢れたお前の住む場所はない。”

 釈迦やキリストの聖句を紡ぐのではなく、使役する悪魔に命令するのでなく、「……と宣る」と宣言するのである。




 そこに。








「さすが藤原大納言。
 
 穢れなき存在も穢れにまみれた存在も…………その匙加減はあなた次第というわけかしら」






 女の、生まれた時から人の上に立つの当然であるような、人の前に立ち、人を跪かせる高貴な一声。



 不比等は声の方向を向く。

 屋敷内を占領するように移動した兵士や配下の者は身構える。いや、身体が動かない。
 いつの間にか部屋の間切りが倒れて、無くなり奥まで通じている。
 
 御簾がかかっている。
 顔を伏せて座る侍女たちは兵士たちと同じだ。不躾な兵士たちを萎縮させる、高貴な姫の一声に身体を動かすことができない。

「これでも呪術の類を使ったわけじゃないんだけど、下々の者たちは自分の立場を弁えているようね。さすが言霊の国だわ」

 まさに姫の声だった。百官を前に詔を下す王の声でありながら、無垢な少女の声でもある。
 顔を伏している女や兵であるが、結局御簾が降りているため顔を見ることすらできない。

「輝夜姫……」

「そうよ、今夜は戦争にでも来たの? 冠軍大将軍さま」

 不比等は対極に位置するように御簾の正面に座した。それだけで神経が刀で削ぎ落とされていくようであり、一歩一歩が重い。
 それなのにこの声はどこまで無邪気なのだろう。なぜこの無邪気さがここまで兵や陰陽師らに威圧感を与えるのだ。

「お望みの品を持って参った。私の何よりも強い結婚の意志だと思っていただきたい」

 不比等は台詞を淡々と唱えるように語った。
 蓬莱の玉の枝を求めて、難波の港より出港して、広い海のなか彷徨い続けたこと。
 ある時は風に流され知らない国に流れ着き、鬼のようなものに殺されかけたこと。
 行き先も分からずただ海に沈むのみと思えた航海。
 食料が尽きて、草の根を喰らい、貝を食べ、耐え忍んだこと。
 病気にかかったこと。
 蓬莱山と思しきところでたどり着き、天人のような女性に会ったこと。
 玉でできた橋を渡り、美しい玉を実らせた枝を見つけ持ち帰ったこと。

 数年に及ぶ荒行のような空想上の冒険を聞かせた。

 茶番であった。
 信用してもいないし、信用させようとも思っていない。

 お互いに腹を探り合い、垂れ下がった御簾で二人の視線が激突していたのである。
 武器を構えを踏み込みを開始するまでの、視線だけで繰り広げられる戦争。

 と。


「有難く受け取っておこうかしら。その『偽物』も」

 
 隠しもしない本性。いきなりの大上段から打ち込み。
 正三位、藤原朝臣大納言に対してかけられた言葉ではない。恐れ知らずの頭の弱い格下ならば妄言で片付けられ、一瞬にして捕らえられ刑場の露と化す。

 殴られたような衝撃が襲った。不比等は汗を握る。この姫は普通ではない。

「私はあなたが負けて残念がる顔が見たいの。練られた凡策が、さらに上をいく幾重もの策で、徒労に終わる様を見たいの」

 不比等の予想を超えた情け容赦ない一言であった。
 一応の婚礼の挨拶として、屋敷に運ばれてきた葛篭も、”用意した”蓬莱の玉の枝の箱も、蓋すらも開けられていない。

 この数歩離れたところにいる少女と自分の間が、途方もなく広がっているように見えた。
 まるで神前だ。社へ登る数段の階段が、御神体と神官を隔てる僅かな距離なのに、存在する世界の違いにより圧倒的な距離になる。

「……なぜ分かったかって? 理由はふたつ」

 不比等は輝夜を見据えたまま動かない。
 ――と、どこからか六人の男がふらふらと覚束ない足取りで部屋に入ってきた。
 目は虚ろで、焦点が定まっていない。

 漢部内麿である。漢人を祖と称する渡来人集団は幾つもの氏族に分かれて畿内に住んでいた。
 その中で細工に携わった技匠たちもいたのである。

「見知った顔でしょう? そんなせこい渡来人に突貫で贋作頼むから……
 お代が欲しくて――こんな屋敷くんだりまで請求しに来るなんて、ねぇ」


「……そして、更にもうひとつ」輝夜姫は続けた。


「私はそれの本物を所有している。 いえ……もう”いただいた”と言うべきかしら。 
 ねぇ、金紫光禄大夫殿。いかに本物そのままの贋作を作るためとはいえ、見張りをつけていたとしても……実物を職人如きに預けるのはどうかと思うわ」

 不比等は面をあげ両眼を見開いた。

 御簾の向こうで何かを取り出すような音。御簾の下から細腕が差し出されれる。
 そうして置かれた箱は螺鈿細工が施された唐物のようで縦長であった。
 猩猩色の紐が解かれ、上半分の蓋の部分がゆっくりと持ち上げられる。呆気に取られている者も、全員の視線がそこに集中する。
 箱の下半分の土台の部分には鉢が置かれ、一本の枝が差し込まれていた。

「あなたは何故このような神宝を所有しているのでしょう。あなたの祖神が天孫と共に下った時に持ってきたものかしら?」

 枝の部分は見すぼらしい。
 が、そこから別れた小枝には七色の玉がぶら下がり、淡く輝いているのだ。
 誰もが見たことも無い造形で、妖しげな光沢を放っている。

「これが『優曇華』。決して咲かない植物が……ほら、穢れを吸ってこんなに綺麗な『蓬莱の玉の枝』になっている。……ご存知?」」

 単に想像力の豊かな者や、文書で伝説や神話、外国の秘宝を知る者はいるだろう。だが、それらは所詮頭の中で生み出した想像の産物に過ぎない。
 それらは、明らかに質量を持った存在として、目の前に置かれていいものではない。
 中臣家の数ある宝物のうちのひとつではなかったのだ。

 不比等は「地上」という聞きなれない単語に違和感を覚え、頭を制御して御簾の向こうを睨みつけた。


「……どう。これで結婚のお話はご破算。ああ……いい目つきねぇ……、でもね。まだ足りない……まだ足りないわ……分かってる。
 あなたほどの人間を屈服させるにはこの程度の茶番じゃ足りないなんてことは、分かりきっているもの」

 御簾の向こうの声は震えている。
 こちらの反応を見て心底楽しんでいる。悶える恍惚とした女のようであった。黒髪が衣と擦れる音が官能的ですらあった。

 結構。結構だ。茶番で返されたとはいえ、この求婚もまた茶番。
 例え輝夜姫が理解のできない存在として立ちはだかろうとも。得体のしれない不死者であろうとも。
 私はここに藤原不比等としてまだ立っていられる。

「その偽物の方も見せてくれないかしら。未開人の作品の方が前衛芸術みたいで良かったりするのよ」

 不比等は御簾向こうに無邪気な少女が微笑んでいるのが見えた。

「―――お主、何者」

 不比等が放った言葉の先。双眸の見据える先。
 恐らく普通の者ならば、まさしく今の兵たちのように射竦められるに違いない。
 低音でよく通る声は、他者を威圧する剛剣のような貫禄を伴う。

 しかし、輝夜はこの世界の論理とは違う世界の出身だった。


「その前に。ちょっといいかしら」


 その視線を軽く避わすことができたのは御簾によって遮られているからではない。
 不比等の支配する世界には属さぬ人間だからこそ――なのではないか。
 決して困惑を外に出すことはない。


「帝がここに来るって知ってるかしら?」


 ここにきて、不比等と輝夜の会話の内容が頭に入っている者はいない。

 ミカドという単語。下々の兵にとっては名を口にするのも憚られる高貴な存在。
 天武帝より強化された現人神思想。
 神道の祭祀者の長であり、その存在自体が神に等しい。

 第四十二代天皇。文武帝。

 祖父は天武天皇。祖母は持統天皇。
 夫妻の実子である父、草壁皇子は即位の日を迎えることなく薨じたので、不比等や祖母持統天皇の後ろ盾で文武帝は若くして即位していた。
 若き天皇が今、この竹林に御幸しようとしている。

「帝は射芸が好きだから……狩りとでも言ってこの屋敷にいらっしゃるの。以前から人を使わして熱烈に交渉なさっているわ」

 それにしては冷めた言い方だ。果たして神に等しいこの国の王に求婚されて、このような過去形にして語ることができるのか。
 帝の身分であるから自分からここに来るとは大事である。天皇の立つ場所は常に清浄でなければならない。現代においても地方訪問の際には、道路が工事され建物が改築されることがある。
 しかも交渉、というからには輝夜は断りの返事をしているのである。
 不比等が何よりも悔やまれるのは、輝夜姫に接触しようとしている帝に気づくことができなかったことだ。
 天武の諸皇子や長屋王を始めとする同年代の彼等の息子たちが、文武帝のライバルとして政界に影響を及ぼし初めている。
 文武帝には不比等の娘である宮子(賀茂比売との娘)が嫁いでおり、不比等の権力のバックボーンとなる大事な帝であった。
 その帝が妖しげな女と接触するなど、決してあってはならない事態である。

「これは貴方の手落ちだと思うわ。ここに来る使者は中臣房子といったから、あなたの一族でしょう?」

 悔やまれる。
 まず帝にそのような下界の出来事が耳に入っているとは思わなかった。それを遮断できていた自信があった。
 それに房子が中臣氏の傍系の傍系だったとしても有用な情報源だったはずだ。

 何より自分が帝の側にいた。それに嫁がせた宮子。文武帝の乳母であった県犬養三千代(あがたのいぬかいのみちよ)は皇族の夫と離婚し、不比等の四番目の妻になっていた。帝に関する情報を一番握っていたと信じきっていたのか。

 そして、帝が輝夜に求婚しているとはどういうことか。

 天皇が入内させようとしている女に、臣下である藤原不比等が求婚しているのである。
 輝夜の屋敷に、大量の人員・宝物を抱えてやってきた藤原不比等の存在が、事実として帝の耳に入り、他の貴族や官人、皇子たちの知るところになったら。

 大伴御行のように噂ではすまされない。衛門府の兵を連れているのだ。国家の兵であり帝の兵。私兵ではない。
 政界の第一人者である藤原不比等だ。帝も不比等に強く逆らうこともないだろうし、官人は支配下にある。
 だが人の口というものは止められるものではない。
 本来なら大罪である事実を、人々は影に日向にあげつらうだろう。反対派の人間ならこれが好機とばかりに弾劾するだろう。

 宝物を奪われ、偽物を看破された上に醜態。
 同時にこの事態を招いたという事実は、覇道を歩んできた大物のプライドを大きく傷つける。
  
 飛鳥の人間では受容しきれない人間の出現。
 不比等の目は憎悪に燃え、見開かれた瞳は不動明王の忿怒の相が映るようであった。


「――あぁ……いい……素晴らしいわ… もっと辱めに身体を奮わせて……
 ああ……たまらない。ねぇ、あなたは素晴らしいわ。あなたは王である帝より能筆で有能。股肱の臣でありながら孤高の権力者。
 そんなあなたの龍すらも射殺すような視線…… ねぇ、そこ。御簾をあげなさない、大納言様に失礼だわ。直接お顔を見せて……」


 放心した侍女が意識を取り戻したかのように、動くと―――

 おう、と空気が爆発したような気合が発せられた。



「否や。 朝敵に屈してはならぬ」


 
 びくん、と兵たちの身体震えた。
 金縛りが解けたように正体を取り戻し、今自分の立っている位置、持っている武器を握り締めるように確認した。
 近くに控えていた金輪今国も同様であった。

 輝夜はまたも口角を上げ、笑みを浮かべる。

「金輪、笛を持て」

 不比等の激に、間者の不動心の精神が意識の支配下に置かれた。
 主の命令に応じるように、懐の中の竹筒を取り出す。
 二つの液体を入れた容器より大きい。

 割ると同時に混ざりきらない二色のおぞましい赤黒の液体が飛び出した。
 いや、そこから飛び出したのは液体だけではない。

 一丁の笛。
 疑着の相を持つ女の生き血と爪黒の鹿の血に浸された魔笛である。

「そうよ、そうでないと。藤原亜槐。 あなたは最後の一手まで打ち尽くして、敗れ去らなければならない…… 無聊の時間を、あなたの人生で燃やして頂戴」


「抜かせ、化生の女が」

 不死の人間など化け物。
 気迫は身体に漲り、筋肉が唸り、血の奔流が洪水のように暴れる。
 どんな妖怪でも一刀のもとに斬り伏せられる。
 どんな妖怪も祝詞の一言で否定できる。

「 私の国、私の帝に手を出させるか」

 草壁皇子が世を去った時、剣と共に幼き文武帝(軽王)を託された。
 蒲柳の質であり、即位できずに去った皇太子は、母、持統女帝の執念を体現することはなかったが、息子を忠臣不比等に任せたのだ。
 年齢的に言っても文武は、不比等の息子と言っても差し支えない。母は乳母であり不比等の妻である県犬養三千代だ。

 御簾が上げられ、二人の傑物が見えようとした時であった。
「え?」御簾の紐を握っていた女の顔が一瞬困惑の相になった。
 御簾が女の手を離れ、浮く。
 その事実が確認できたのが一瞬。










 閃光。













 昼のような明るさが屋敷を包み、満月を十倍にでもしたくらいの光量が目を焼いた。

 それと同時に締め切っていた格子、戸が勝手に開く。
















「暇つぶしが過ぎるというものだわ、輝夜」











 いつの間に現れたというのだろう。頭から兎の耳のようなものを生やした、奇怪な衣を着けた人間が宙に浮いている。
 今昔物語集の『竹取の翁、見つけし女の児を養へと語(こと)』の章では「その迎へに来れる人の姿、この世の人に似ざりけり」とある。


 ――――その中の一人、大きな耳のない装束の違う女がいる。深紅と深青を、左右に分けた衣装である。


 尊顔とでも称揚したくなるような高貴な美しい顔を見たのは何人だろう。
 女性は微笑みながら、照らされた輝夜の座に立った。
 その様は空を滑るようであり不比等の脇を通り過ぎた。

「せっかく楽しいところだったのに。××」
「こちらに来るのが遅くなったわ…… もうお遊びの時間は終わりよ。罪は許され帰郷する時間」

 兵は弓矢を握る手、身体を一切動かすことができなかった。力任せに放たれた兵の矢も明後日の方向に落ちた。痺れたように動かない。
 金輪今国も笛を持ったまま固まったようであった。
 彼等は声によって金縛りにされているのではない。

 不比等すらも像のように仁王立ちしたまま動けなかった。
 明らかにこの、場にそぐわぬ風に軽口を叩く女の術である。

「ふーん、許されちゃうのね」輝夜が視線を不比等に移すと、女は矢を正面から打ち込むような視線で不比等の両目を見据えた。

「天児屋根の子孫か、人間。穢れたものね」

 天児屋根の名の扱いが神に対するものでなかった。

「分かりやすく貴方の知る名前で答えましょう。私は八意思兼神。輝夜姫は月の貴人。全てあなた達とは違う次元の世界に住んでいる」

 日本神話では皇室の祖神、天照大神。その孫、瓊瓊杵(ににぎ)が高天原より 葦原中国(日本国土)に降りる。
 五伴緒神と呼ばれる五柱の神、さらに三種の神器を携えた三柱の神も天照大御神の命により瓊瓊杵に従う。

 五伴緒神には天児屋根命(あまのこやねのみこと)、天鈿女命(あまのうずめのみこと)、布刀玉命(ふとだまのみこと)、石凝姥命(いしこりどめのみこと)、玉祖命(たまのおやのみこと)。
三柱の神は八意思兼神(やごころおもいかねのかみ)、天手力雄神(あまのたぢからおのかみ)、天石門別神(あめのいわとわけのかみ)。




 ここに天児屋根命の二十四世孫と八意思兼神が相見たのである。




 帝の系譜はどうなるか。
 高千穂霧島に降りた瓊瓊杵の曾孫が神日本磐余彦(かむやまといわれひこ)。
 彼は畿内に入り初代帝、神武天皇として即位する。

 その系譜が”幾許の謎”を孕みつつも、昭和六十二年一月七日に明仁親王が即位し現代の百二十五代今上天皇へと連なる。

 文武天皇は四十二代目である。

 不比等も神代の系譜に近い貴人であろう。
 しかし目の前に立っているのは間違いなく同じ人ではないことを確信していた。
 無理もない。今、編纂している古事記に登場する神が目前に佇立しているのだ。

「今年の今日のこの夜月の魔術が完成した世界。
 天照の世界に生きる者は、何人も逆らうことができません。 私たちは月夜見王の世界に生きる者。この……輝夜姫は今より月の世界に帰る」

 月夜見命は天照大御神の弟神。太陽と月は対を成す。


 今年、大宝元年(西暦七〇一年)四月一日。日蝕が確認されている。

 欠けた太陽に人々は恐怖した。三月には三日間地震が続き六月は雨が降らなかった。
 つい前日の八月十四日は播磨・淡路・紀伊の三国が大風と高潮により農地は甚大な被害を受けた。
 太陽神、天照大御神の系譜にいる帝の治世のバランスが崩れた期一年。太陽は欠け、月の系譜を称する知識の神が降臨したのだ。

「酷いわ、せっかく死ねるところだったのに。彼は次の一手を打とうとしていたのよ。貴方も死ねたかもしれないのに」


 そうだ。疑着の相を浮かべた女の生き血と爪黒の鹿の血に浸された魔笛。

 私はまだ手札がある。笛の描かれた一枚の絵札がある。

 吹けば不死者は正体を無くし、刃の一刺しを致命傷として受け入れる。



「――――おう、帰らせるか。 私はまだ負けてはおらぬ」


 この男は意思の力で術を破ったか。
 ただ力任せに矢を射るような出鱈目なものであったとしても、彼は動いた。声を発した。

 彼の双眸には敵意を剥き出しにした荒々しい火炎が燃え盛っていた。
 穢土に生きる矮小な人間の精一杯の反抗であった。やせ我慢であった。

 輝夜の顔は喜色満面。
 しかし、八意思兼神は違う。
 ただ涼やかに微笑んだ。先ほどの一瞬の表情の変化が嘘だったように。
 不比等を有って無いものとしていた態度が変わる。空気が変わる。
 初めて不比等を認識し攻撃対象として捕捉する。

 好奇心旺盛な輝夜の興味をひいた存在として、地上の人間に対して「認める」という一欠片程の評価をした。

 そして月の帰還の障害という属性が付与されるなら、することはひとつ。


「………なら、私が貴方に敗北の一撃を与えましょう。貴方も精一杯渾身の一撃を放ちなさい」

 二人は不比等の方に向き直る。正面から見据える。頭頂から股を結ぶ中心線で唐竹割りにされるような悪寒。

 こんな敵と相対するなど、誰が予想したか。

「そこな従者、緊縛は解いた。落ちた笛を拾いなさい。藤原不比等、剣を抜きなさい」

 ふっと体が軽くなり金輪今国は幻から覚めた。目の前で主人と神とが繰り広げる現実感のない押収の場に、いきなり放り出された。
 操られるように笛を拾い、口唇を血液が滴る笛に近寄せる。

 不比等は両刃の鉄剣を抜き切っ先を相手に向け、正眼の構えをとった。不比等の意識は鮮明だ。明確な殺意を持って、冷たい柄を握る。
 八意思兼神の女は、宙を撫でるように指を動かし、出現した弓を構えた。矢を持ち弦を引いた。どこに仕舞っていたのか。矢筒も最初から持っていない。
 今更これくらいのことで不比等は心乱さなかった。
 
 千載一遇の好機。
 女は神だろう。いや、この時不比等の頭に、彼女が神であるという事実は吹き飛んでいた。ただ目の前にある人外の怨敵だ。
 強者と弱者の境界は曖昧模糊としている。強い弱いは一本の帯の上にある。
 一歩及ばぬ弱者も百歩及ばぬ弱者も、運と武器によってその境界を突き抜けることができるのだ。
 相手の腕は未知数。
 しかし死ぬ・死なずは隔絶した両岸にある。復活する不死者には一切の武器も必殺とは成りえないだろう。
 女は魔笛を必殺の武器とは考えていないのだ。不死に対する圧倒的な自信があるのだろう。
 確かに有効とは分からない。試したこともないのだから。

 ただ、千仞の谷を超え、一寸でも対岸に届く一手であれば、不死者が殺人可能になる。



 八意永琳(表現上永琳に統一する)は思った。
 確かに。確かに月の頭脳と呼ばれるほどの深淵な知識のプールには、あの二種類の血で浸された魔笛が、不死者に対する有効打、とある。

 不死の怪物や人間がいる分だけ仕留める方法がある。
 つまり。あの魔笛が蓬莱の薬を服用した蓬莱人を葬る有効な一撃であるかどうか。蓬莱の薬に弱点があるかどうか。
 竜血を浴びた勇者の、菩提樹の葉一枚分の弱点を突ける槍か。 冥符の川ステュクスに浸された戦士の踵骨腱を切れる剣か。

 実際のところ分からない。蓬莱人は自分と輝夜のみ。蓬莱の薬は完成した。しかし、服用した人間を葬る薬の完成とはまた別である。
 確かに研究したし、実験薬らしきものも作った。だが試していない。試せていない。サンプルは自分と自分だけの姫の二人。
 第一あれほど禁忌とされた蓬莱の薬効を打ち破る薬など、存在するのかどうかも疑っている。

 だが、月の魔術が支配するこの空間で、意志の力によって拘束を引きちぎった、あの岩戸の前で美しい祝詞を唱えた天児屋根の子孫の、あの地上の支配者然

とした男の紡いだ地上の魔術なら――――万に一つ、那由他に一つ、不可思議の向こうに成功する可能性があるのではないか。

 もし彼の魔術が成功して、私と姫が、不死の呪縛から解き放たれるのであればそれは敗北だろうか?
 月の頭脳は最後のギリギリまで決定を保留する。

 そして手元には一枚の鬼札がある。不死の対岸に迫る一寸の刃を前に、岸自体を一寸下がらせる、予め用意した藤原不比等にしか効かない限定の鬼札。
 いや、そんな札を切らずとも月の技術や屋敷を包囲した玉兎を用いれば、一瞬で勝敗は決する。

 それをしないで、この切り札を使うか否か。
 月へ帰還しても、結局私は実験薬を飲むことはできないだろう。輝夜に飲ませることはなしないだろう。
 なら、この男との”勝負”に賭けてみてもいいのではないか。
 限りなく藤原不比等の勝率が低いのこの勝負に賭けてみてもいいのではないか。

 八意永琳は弓を引き絞る。
 不比等の切っ先は永琳の喉元へ向く。


「吹け、金輪」


 一瞬の間もなく耳の裂けるような禍々しい音。不比等は踏み込む。突くか斬るか。
 振りかぶる。弓ごと女の体を切り裂こうとする。
 何だろうこの音は。恐ろしく不快にさせ醜悪で汚らしい穢れの高音。このまま聞いていて良いのか悪いのか。
 永琳はまだ動かない。事実、弓矢という飛び道具である以上まだロスできる時間はある。

 輝夜の方を向いた。
 剣を振りかぶり迫る不比等の方を一心不乱に見ている。


 ―――その顔の何と楽しそうなことだろう。笛の音が耳を抉っているはずなのに。


 月にいた時には絶対に見ることのできなかった表情だ。こんな穢れの地で寸秒過ごしただけというのに、何があったのだろう。
 この男にどんな魅力があるというのだろう。この地の人にどんな魅力があるというのだろう。

 ……ちくりと胸に生まれるどろりとした感情。

 疑着。
 穢土の人間に対する、目の前の男に対する小さな小さな嫉妬。

 藤原不比等。

 決めた。
 あなたは負ける。つまらない一枚のカードであなたは、惨敗する。
 私と姫が栄光の勝者になるわけではないけど、
 このカードによって、あなたは完全に哀れな敗残者になる。












「疑着の相を持つ女の生き血」














 八意永琳が、風に吹かれ落ちる木の実のようにぽつりと言った。












「女の生き血は、酒屋の三輪のものよ」
































 三輪が貴人のような妖しげな女人を接遇したのは、満月の光を一層強く感じていた時であった。
 いくら満月とはいえ夜間に客人が訪れることはまずなかった。

「名前はどうでも良いのですが」と前置きした上で彼女は橘と名乗った。生まれは信之阿智祝の一族だという。
 信は信濃。阿智は渡来系の名字だ。祝(ほふり)は下級神職だが、どうも信認しがたいように思えた。

 姫のようなその振る舞いを見ても、当時辺境に近い信濃の出身にしては訛りや泥臭さがない。
 橘姫は三輪を指名し、重要な用件として家の者を下がらせた。
 数人の侍女を連れていたので三輪の家は賓客として彼女等を理解した。

「このような夜分に押し寄せてしまいましたことを、大変申し訳なく思います」

 口ぶりは決して上からのものでなく腰が低い。
 こちらはただの酒屋の娘である。
 付き従う幼い官女らも額に花鈿と呼ばれる模様をかき、髪を頭の高い形にまとめて、まるで着飾った兎たちのようであった。

 橘と名乗る女性自体も二色の異なる布地を左右に組み合わせた珍しい衣をまとっていた。

「要件はさして難しいものではありません。今度婚礼に用いるお神酒を用意してもらいたいのです」

 橘姫の口調は淡々と、それでいて有無を言わさぬ迫力があった。

「この度、私が……いえ私の仕える姫君が良縁を結ばれます」」

 ここで彼女はくす、と笑った。清楚な女人にしては凶悪な笑みである。
 三輪は大人しく静かな女性だが、決して愚鈍なわけではない。
 真夜中に現れる女たち。彼女の口から紡ぎだされる一句一句が、噂で人を哂うような真実味の少ないものに思えた。

「……それはおめでとうございます。我が家で醸造する酒は、神前酒において右に出るものはいない、と自負しています。
当日お屋敷まで持参したく思いますが、お相手様の名前を伺ってもよろしいでしょうか」

 ここで橘姫は笑ったのだろうか。
 灯りが揺れて彼女の表情が隠れたのだ。

「………園原求女」

「えっ」

「本名、藤原不比等」

 驚きと不快感が一度に体を襲ったような感覚だった。
 何故そのことを知っている。
 ここに通う背の君、娘にとっては大事な父親。

 彼が身分を隠しているであろうことは確信していた。三輪が秘密の女であったからだ。

 だがそれを。
 秘密に夜に通ってくることを。
 そして彼が私にすら言わぬ、いつか言ってくれるであろうそのことを。
 なぜ貴方が知っているのか。

「驚くでしょう。見目のいい只の官人だと思うていた男性が、今をときめく大納言様なのだから」

 彼女がただの酒の注文をしにきたのではない。
 この時代は一夫多妻制。財力のある男性は幾らでも女性を囲うことができた。
 別の妻の家にたまたま婚礼用の酒を求めてきた、ここまで言われてはそんな偶然など存在しないことは明らかだ。

「藤原様は今回の婚礼を期に、もうこちらにはいらっしゃらないと言っております」

 ――三輪の精神は横殴りされたように平衡を崩した。
 受け止めきれない現実をいきなり叩きつけられる。

 あ、あ、あ、あ………
 
 可愛い娘の小さな身体の重みが、自分の意識が、全てが何枚もの過去写真のようになって奈落の底へばら撒かれたような感覚。

「思えば当たり前のことでしょう。彼は多忙を極め、政務に追われている。
 もともと、帝に侍る高位の彼が、身分の低い貴方の元へ通うこと自体が弾劾されるべきことです。
 貴方とは住む世界が違うのです。雲泥の差どころではありません。
 今までがおかしかったのです。それこそ財も権力もある者の”戯れ”以外に何があったというのでしょう。
 彼には望めば、妻すらも差し出す貴族がいるくらいの人間です。
 またうちの姫君に手を出されたことが戯れでないことを祈りますが、藤原様のお気持ちは貴方から完全に離れたと言ってよいでしょう。
 ……貴方も覚悟していたのはでないですか? 」

 三輪は目を閉じていた。食いしばるように。
 他人の不幸は蜜より甘い。侍女たちが下卑た嘲りの視線を送っているのが分かったからだ。

「また付け加えますと、うちの姫君も決して身分の高い女人ではありません。にも関わらず、今、藤原様は大層姫に熱をあげていらっしゃいます。
 身分、女人として魅力………どちらをとっても藤原様がこちらを選ぶ理由はないのでしょう。早く諦めになるよう。
 ああ、お神酒は最高級のものをお願いいたします」


 最後、貴人の女は一言付け加える。







「今宵は満月。くれぐれも嫉妬に狂って取り乱すことのないように」









 地獄へ誘うひとつの言霊。

 気づくと女たちは姿を消していた。赤と青を組み会わせた人影は消えている。
 彼女たちは月の狂気を届けに来ただけなのだ。

 ――――三輪は倒れ伏す。

 人のものとも思えぬ嗚咽が漏れた。

 次に三輪が顔を上げたとき、それは大人しく慎ましい女性の顔ではかった。
 修羅の如く激しく歪んだ魔の形相。


 袖を喰い、引き裂いた。
 髪はざんばらになり、乱れ、床を這った。


 嫉妬と執心に燃え、月に狂わされた女の成れの果ての顔。








 ―――これこそが疑着の相。







 三輪は駆け出した。

 扉を破り、侍女の控えた部屋へなだれこみ暴れた。

 最初、侍女や家族たちは目の前の化生が三輪だとは気づかなかった。
 が、これが優しい三輪の、慣れ親しんだ優しい女性の変わり身という現実に気づいたとき。

 壊れた一家は断末魔のような悲鳴を上げたのだ。




 そこに飛び込んできた荒事役者、金輪今国。

 一瞬の出来事。

 鬼女が苦悶に歪んだ荒事役者の剣によって退治されるという、三文芝居は幕が閉じられる。


 最前席にいた娘は幕が閉じても涙も流せず拍手もできなかった。

 顔面にかかった母の真紅の血液が涙のように、頬を伝ったからだ。





 古代、律令制において深赤と深青は禁色であった。


 






※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 笛の音は止み、剣は振り下ろされることなく刃は月光を反射していた。
 血塗られた笛は従者の手から抜け落ち、間抜けほど高い音を立てて転がっていった。


 まことか。


 金輪の方を向くことなく、不比等は問うた。
 月から舞い降りた二人と対峙する不比等の表情は、金輪の方から伺うことは出来なかった。
 怒気を孕むでもなく、絶望を匂わせるでもなく、ただ一言の問いだった。

 金輪は答えることができない。沈黙を守っている時点で肯定したのと同義であるのに。
 月の頭脳から放たれた一言を嘘言として、そのまま剣を振り下ろすこともできたろう。
 しかし、不比等の攻撃は月人に届くことはなかった。

 永琳の表情は変化することはなかった。
 一枚のカードで勝負は決した。剣の一振りが蓬莱人の不死身を証明することもなかった。
 彼の魔術は蓬莱人に届くことなく、人間不比等の敗北は決定した。
 玉兎たちの弾丸に倒れることなく、永琳や輝夜の術に倒れることなく、女が描かれたたった一枚の絵札によって不比等の動きは封じられた。

「なーんだ」

 輝夜は今にも倒れ伏しそうな不比等を見下ろすようにして、溜息をついた。
 強烈な光の陰になって、こちらからも表情を伺うことはできない。顔は俯き、剣を振り上げたその有様は不気味ですらある。

 不比等にとって、それほどまでに三輪の存在は大きかった。
 国の領袖としてではなく、ただ一人の男として微笑む妻と微笑む娘を愛することができたという事実。

 これこそが、朝政の一線に立つことができた理由ではなかったか。

 石上麻呂や阿部御主人、皇子たちに至るまで、心の奥底では何を考えているか分からない怪物だ。
 賀茂、蘇我など豪族出身の妻たちにいつ裏切られるか………夫より家をとるか不安で堪らなくなる瞬間がある。不比等が権力争いから離脱した瞬間、それは現実におこり得る。

 それでも人間は捨てたものじゃない。彼らだって人間だ、怪物ではない、と納得できなければ権力の瘴気が漂った孤独な伏魔殿で息ができるか。

 あの妻や娘がいなくて、自分が権力に取り憑かれた魔物ではないと信じられるか。

 ああ――慧音、私はどこで間違えた。この国を唐に負けない大国にするために骨を折ってきたはずではなかったか。
 ただ国のために働き力闘すれば、徳のある王者として………再びお前に会えるんじゃなかったのか。

 もはや三輪はいない。………自分の信頼した間者によって、生き血を搾り出して絶命した。
 恐らく地上の頭脳を遥かに凌駕する、神の知恵の策略によって。




 終わるのだろうか。
 この国の歴史は終わるのだろうか。
 唐や朝鮮に責め滅ぼされるのだろうか。
 月の王の系譜に王権が切り替わるのだろうか。
 藤原家を圧倒する豪族によって、再び戦乱が巻き起こるのだろうか。
 敗北を喫した地上の権力者。












 否―――それでも。それでもなお………









「私は諦めることができない」


 月光が狂い咲きする世界にぽとりと産み落とされた言葉。

 輝夜は鉢に突き刺さった蓬莱の玉の枝を見た。
 玉の輝きに小さな違和感を覚える。
 
 不比等は未だ絶望の淵に立つ、顔の彫られていない彫像のようであった。

 しかし、聞こえぬほどに小さな何かを呟かなかったか。



「………やはり私は諦めることはできぬ」



 今度は明確な意思を持って不比等の言葉は紡がれた。


 その瞬間、紅、橙、黄、緑、青、藍、紫、七つの玉が一層強い輝きを放つ。

 月では決して見ることができない光が煌々と輝きを増し、瞼を焼き頬を照らしていく。

 その光のなかで永琳は輝夜の顔を見ることができた。
 先ほど溜息をついていた仏頂面とは違う―――「ああ……素晴らしいわ」輝夜の唇は開き、瞳は瞬き、喜悦の表情を浮かべて、視線は一人の男の顔を射抜いていた。

「ああ………これが…」

 玉の光に照らされ、不比等の顔が二人の前に晒された。輝夜の顔もまた輝きを取り戻していたのだ。


「私が負けて溜まるか、この国を獲られてたまるか、化け物どもに」


 しわがれた男の声だった。

 権力に取り憑かれた魔物。皺一本一本まで光に照らされた、生々しい魔物の顔であった。
 冷酷無比な権力の鬼のそれである。
 だが泣いた赤鬼か権力の鬼か。
 号泣だ。
 凶相の張り付いた顔面であるが、不比等の心は軋みをあげ、大雨が降っていた。
 別離の涙である。吾は今宵より鬼となる。

 ――――ねぇ、父様。今日も明日もいらっしゃいますか。
 ―――その名に恥じぬ人物となるのだ、史。

 神獣の少女の笑顔、身分の低い妻や娘の顔が―――心の端に住んで懊悩を癒していた女たちの微笑みが、煙のように消え去っていくのである。同時に不比等の人間としての何かも葬られた。鬼は自らの弱さを食いちぎられ、疵痕を焼いて止血したのだ。
 豪雨は煙を消し去り、轟く雨音は野獣の咆哮であった。
 
 不比等に目覚めたのは仏性ではなく、生々し過ぎるほどの人間の自我であった。
 伏魔殿の魔を食い破る、日の本の国に君臨する権力の怪物が一匹。仁王の如く立っていた。



「何が神だ。我が意に沿わぬ神はいらぬ。祀る神は私が決める。民が崇める神は私が作る」



 鬼気迫る声は、人のものとは思えず。
 閻魔の宣告、あるいは夜叉の猛った声である。
 それでも人間が人間であるゆえの、おぞましいほどの執念が言霊となってほとばしる。
 
 永琳は怯むことなく口を開いた。

「……あなた達からしてみれば私たちは神に等しき力を持っている。地上の民は月夜見命も八意思兼神も現に神と崇め奉っている。月には都が開かれ、さらにやんごとなき神々がいる。豊玉毘売命、玉依毘売命……。訪れた人間が竜宮城と夢想したまま眠りにつくこともできる世界。それこそ天照大御神の座する高天原と等しく」

 永琳は決して怒りを覚えたわけではない。矮小な人間が権力の妄執という穢れに取り付かれて、世迷い言を発してるに過ぎない、という目だった。

「人間、思い上がりも甚だしい。あなたたちは穢れに満ちている」

 だが不比等の眼窩の陰は、その穢れすらも肯定し自らのものとしてくようであった。「―――黙れ、不死の化け物め」




「いいか……そう"する"のだよ。この私が。

 神代からの歴史を暗記する女を使って。

 歴史に長ずる史たちを使って。

 この世に坐す神は帝のみでよい。私は語り継がれる歴史を遺して形と成す。

 そこに、お前たち月から降りた不死者の頁はない。高天原に坐し科野や秩父の社に祀られる八意思兼神という神の頁しかない」







 天から下った神(天神)や、地にいた神(地祇)を祖とする氏族、それ以前より日本にいた氏族を日本神話の系図にまとめて、皇権の強化をはかった部分もあったのではないか、と多くの学者は指摘する。
 まつわぬ民は歴史から抹殺され、東国の御社宮司(ミジャグジ)、『常陸風土記』の夜刀神などの蛇神や『摂津国風土記』、『豊後国風土記』の土蜘蛛のように登場し退治される。 今となっては小さな信仰となって残る場合もある。
 『日本書紀』『古事記』の景行天皇紀は、ほとんど日本武尊(ヤマトタケル)の支配神話で占められている。出雲や熊襲のまつろわぬ集団を騙し討ちにする。

 日本書紀とて不比等の影響を受けている、とも上田正昭は指摘している。
 中国史のようにそれが歴史書の編纂である、と言ってしまえばそれまでだが、ひとりの男の、執念の支配を正当化する史書が編纂されたのだ。

 だが、何より特筆すべきなのが、易姓革命が起きず王朝が今日まで変わっていない以上、その男の目論見が未だ破られていない、ということではないか。






 閃光の中でも見開かれた眼。
 権力者の双眸の光は肉食獣の目のように、二人をねめつける。

 輝夜は喜悦の表情のまま、不比等の目を見つめ返した。「お前たちにこの国はやらぬ」不比等の視線はそう言っていた。

 不比等が構築する地上の理屈、論理、支配、神話。そこでは輝夜と永琳は穢れ無き月の神の一族ではない。
 独自の精錬技術を持ち、朝廷とは違う文化を持つ、蝦夷や土蜘蛛と同等のまつろわぬ”穢れた”存在なのだ。

 東北で信仰を受ける土着神や、妖怪、精霊と同じく弾圧され、陰日向で生きることを余儀なくされる瑣末な存在。


 私が書物を遺すだけでは足りぬ。だが私の子孫が枝葉のように拡がり、全ての地、全ての民、全ての信仰を支配する。そこに貴様らの寄る辺はない。

 人間が増え、国の隅々まで彼等の文明が行き渡った時に忘れ去られる幻想の存在。

 明治から昭和にかけて柳田國男は、学問としてそれを残そうとした。
 神隠しにあい異郷の淵を覗きかけた彼が、結局寄る辺としたのは帝(昭和天皇)という支配の側であった。幻想が現となるか夢となるか、両方の世界が見えるゆえに己の居場所に苦悩した者たちが明治にはいたのである。

 神によって”穢れ”を宣告された不比等が、その穢れた権力によって、”穢れたもの”を作り出し追い出し駆逐する。

 月の世界の住人は、だからこそ穢土なのだ、とまた地上を見下ろすだろう。
 
 神も仏も怖れぬ不比等の冷徹な宗教思想がないと適わない改革であろう。
 この時代はまさに神の畏怖と人の信仰が隣にあった時代なのである。
  
 もともと仏教は政治哲学として輸入されたという背景がある。
 神道は宗教か、という疑問はよくなされる。
 だが信仰の対象を権力が握った時、
 政治と宗教が結びついた時、そこでは不死の霊鳥が語るような残忍な”国譲り”が行われるのである。
 明治維新を経て、国家神道として天皇の地位は現人神として再確認される。
 全国の稲荷神社に”正一位”という位階(神階)が天皇により与えられ、境内の石に彫られているのを見ることができる。国民に、稲荷神のさらに上に立つ神としての明治天皇の位置を示したのである。
 
 明治の世になって、西洋の論理を内包した支配はもはや一片の幻想が存在する余地もなかった。

 日本を作った男、天皇制を作った男と称される飛鳥時代の一人の男。

 それが、後の蓬莱人藤原妹紅の父親の姿であった。                   
 














 輝夜はやがて、堪えきれなくなった。
 
 ―――人間はかくも穢れていて素晴らしい。


「 素晴らしい……ああ、素晴らしいわ。

 あなたはやっぱり素敵な人。ああ、これが地上の人間なのね?

 ねぇ、永琳見てよ。こんなに玉が光ってる。眩しいくらい。
 ぜーんぶ、彼から出た穢れを吸って輝いているのよ……こんな綺麗な光が月の都で見れるかしら?
 穢れのない月では絶対咲かない蓬莱の玉の枝が、優曇華の華が、穢土ではこんなに美しく光るのよ? これを欲して人間は争うのね?
 
 ああ……分かる。
 こんなに美しいんだもの。でも何で? 何であなたはこんなに力を欲するの? どうせ短い人生じゃないの。分からない。分からないわ。永琳、分かる?
 私は全然分からない。怖いわ、理解できない。助けて永琳。地上の人間が分からない。 穢れを滲み出してまで、醜く執着してまで欲しいのものがあるの?
 
 手に入れてどうするの? 手に入れなきゃ死んじゃうの? 面白いわ。 月で考えてたどんな問題よりも面白い。地上ってこんなに面白い所だったのね? 
 うん、そう、男たちからの手紙も侍女たちの悩みも、おじいさん、おばあさんの昔話もいまいち共感できないんだけど、すっごく面白かったもの。
 月でお姫様してた時から退屈退屈な人生だったけど、やっぱりここに落とされて良かった。地上に来て本当に良かったわ、永琳!」









 永琳は、輝夜の勝負に乗っかり、輝夜の為に協力し、輝夜の為に勝利した。

「………………」

 ―――ここで勝者と敗者を決定することに意味があったのだろうか。

 輝夜は地上でも権力者を巻き込む厄介な悪戯をしていた。

 月のいたころから天真爛漫で我侭放題であったお姫様の魅力を知っている。
 彼女の理解者であり友人であり侍従であり師でもあった永琳も不死の身体である。
 蓬莱の薬を作成し、輝夜と一緒に飲んだ。しかし輝夜は罪を問われ、地上に落とされ同じ名前、同じ姿で生まれ変わった。
 永琳は無罪。恩赦を伝える月の使者として、再び輝夜の前に立った。ここに来るまで永琳は輝夜に対する葛藤を抱き、月で生活していたのだ。




「ねぇ、永琳。私、地上に留まるわ。もう暇で退屈な月の都になんか戻りたくない」




 永琳は……黙って頷く。
 それを拒否することができなかったのだ。

 地上はいかに穢れた地であるかを語るのは無駄であろう。輝夜はその穢れに価値を見出しているのだから。

 目の前の求婚者に心を奪われているのだから。

 それなら月から逃れ、地上の民からも逃れ………悪くないかしら。彼女と一緒なら。

 まだまだ人が全てを支配するのは先のことになりそう。
 穢れにまみれて、地上で生活してみるのも良いかもしれない。
 きっと輝夜を喜ばせるような妖怪、人間がいるに違いない。
 輝夜が胸をときめかす所なら、そう……権力の有無、穢れの有無、なんてどうでもいいのかもしれない。
 それこそ穢れなきものに対する、醜い執着だ。


「分かったわ、私の輝夜」


 再びの閃光。目を焼き視界が白く明滅するほどの光。
 その間に行われたのは月の兎たちへの一方的な虐殺。


 不比等が目を開き、兵たちが身体の自由を取り戻した時、その場にあったのは二人の女人でもなく耳を生やした人間たちでもなく、
 ―――封がされた壷と文だけであった。




























 壷のひとつは文と一緒に帝に献上された。

 若い文武帝は悲しんだが、不比等はそれに専心することを許さなかった。
 律令が施行され、法に詳しい博士が各地に派遣され新制度を講義した。これからが大切な時期である、帝は一層徳をもって政治に励まれるようと進言した。
 一切の妥協なく政道を歩む、というのだろうか。

 不比等が公務に臨むときは鬼気迫るものがあった。より貪欲に一族の支配を確かなものにしていった。



 この年、文武帝は、不比等の長女宮子との間に首(おびと)皇子を授かる。
 自らの血縁である待望の天皇候補であった。宮子にかかる不比等の心理的圧力は相当なものであっただろう。皇子が即位すれば不比等は帝の祖父である。文武天皇の他にいた二人の妻の身分のランクが落とされている。

 長女宮子は父による大きな精神の負担があったのだろうか、産後病床から離れることができず、ついに三十六年間、息子と対面することがなかった。

 同じ宮殿にいるのに母と会えない―――聖武天皇として即位した首皇子は、
 何かを求めるように、何かから逃れるように都を転々と移動させ、仏法に深くのめり込みんだ末に、奈良東大寺に巨大な盧舎那仏を建造することになる。

 さらに不比等と四番目の妻、県犬養三千代(あがたのいぬかいのみちよ)との間に三女安宿媛(あすかひめ)が生まれ、同い年の聖武天皇と結婚し、非皇族出身の初の皇后、光明皇后になる。
 藤原四兄弟に権力が集中した。姉妹がそれぞれ父子と結婚した形になるが、当時別に珍しいことではない。母が違えば兄妹でも婚姻できた時代。現に不比等も異母妹の五百重娘(いおえのいらつめ)と結婚し、四男藤原麻呂を儲けている。

 不比等の娘は他に、宮子と同母の長屋王に嫁いだ次女、長娥子(ながこ)がいる。長屋王が失脚させられた時は子供と一緒に助命される。
 この次女という特定も角田文衛による。

 そして四女の多比能(たびの)。五女の大伴古慈斐(おおとものこしび)室。


 都の片隅に住んだ三輪とその娘の存在は、正史には記されていない。

 怒涛のように推し進められる不比等の政治改革の陰に埋もれてしまったように。いや、存在すら忘れ去られて消し去られたたように。

 讃岐造の屋敷から帰還した不比等が―――かの酒屋の家に訪れることはあったのだろうか。



 恥じて深い山中に入って行方不明になり生死すら分からなくなった、という記述は、 政治の頂点に君臨した六三歳の不比等が、
『七二〇年平城京の四十八箇所の寺で一日一夜薬師経が読みあげられたにも関わらず病死に至り、正一位太政大臣を贈られた』という最後とは矛盾する。彼は陵に入らず、火葬を遺命したとされる。

 山中に消え入りそうなほどまでに叩きのめされた不比等の精神は、危ういところで均衡を保っていたのではないか。
 異世界の住人と関わった記憶の一切を、危険なほどの起爆剤にして再び歩みだすことができた。それはまた子孫にとっても修羅の道であったけれども。

 ――――遺された娘は、あの後一瞬でも不比等の頭に浮かぶことがあったのだろうか。

『扶桑略記』には不比等の父ともされる天智天皇が、馬で山科へ遠出したが帰還せず履いていた沓だけが発見されたが、本人はついに見つからなかった、という記述が残されている。













※ ※ ※ ※ ※


 不比等から始まる藤原一族の栄華の歴史の始まりである。
 藤原四兄弟はそれぞれ南家、北家、式家、京家の祖になり、次男の藤原房前(ふささき)を祖とする北家は権勢を極めた。

 房前の子、魚名(うおな)の流れからは平将門を追討し、三上山を七巻きする大百足を倒した英雄、藤原秀郷が出てくる。
 鵺を退治した源頼政の母は藤原南家の出身である。不比等の子孫は、確かに妖怪を退治していった。

 秀郷の六代孫からは源平の戦いで有名な奥州藤原氏、四代孫の藤原公光(きみみつ)は佐藤氏の祖となる。この公光から四代下ったのが”佐藤義清”、後の西行法師である。不比等から数えて十五代目である。

 房前の子、真楯(またて)は母を皇族に持ち、彼の子孫は藤原家嫡流として続いていくことになる。藤原道長が有名であろう。

 平安後期、藤原忠通からは
『近衛』『鷹司』『九条』『一条』『二条』の「五摂家」に別れる。
(現鷹司家当主、鷹司尚武氏は伊勢神宮大宮司、元NEC通信システム社長)


 その下の公家格には、源氏から出た『久我(くが)』『広幡(ひろはた)』を加え、
 藤原氏の『三条』『西園寺(さいおんじ)』『徳大寺』『花山院』『大炊御門(おおいのみかど)』『菊亭(きくてい)』『醍醐(だいご)』
 の家が「九清華」として武士の時代にあっても現代にあっても存在し続けた。

 
 五摂家筆頭の近衛家三十代目当主は、太平洋戦争下、第三四・三八・三九代内閣総理大臣を務めた近衛文麿である。
 その孫は七十九代総理大臣細川護熙氏である。(ちなみに当時の内閣官房副長官が鳩山由紀夫氏。連立与党の新生党代表幹事が小沢一郎氏)
 九清華も第一二・一四代内閣総理大臣、西園寺公望を輩出している。

 五摂家九清華家でも、徳川家や皇族、旧藩主家を養子に加えたりしており厳密には直系ではない。


 ただ不比等の系譜は、それこそ枝葉のように分岐し、現代もこの地に生きている。
 ある者は権力の頂点にいただろうし、ある者は支配される側の庶民に落ちただろうし、まつろわぬ民や妖怪と交わり、異郷へ流れていった者もいるだろう。


 歴史に載らぬ不比等と三輪の娘の今後の人生は想像に任せるしかない。

 
 竹取物語の完全な底本は一五九二年の武蔵元信旧蔵本が最古である。話の枝葉が異なり、帝を桓武天皇とする『富士山大縁起』や、帝を天武天皇とする『古今和歌集序聞書三流抄』などがある。『無量寿禅寺草創記』においてはかぐや姫が浅間の大神(木花咲耶姫)となった、とまで書かれている。

 バナナ型神話、課題婚型神話として似た物語は世界各地に存在する。ただ竹取物語においては、最後に課題をクリアして姫と幸せになるのは、帝でもなく勇敢な騎士でもなく貧乏だが賢い村の若者でもない。誰も幸せにならない結末を迎えるのである。

 車持皇子という不比等の変名から、反藤原氏の立場の人間が著した(あるいは説話を参考に著した)との定説があるが、ならなぜ”皇子”なら良かったのだろうか。むしろ皇族に模する方が危険ではないのか。
 
 我々の知る竹取物語と、史書の歴史と、誰も知らない歴史を絡めることはできない。


 記録に残らぬ「歴史」は、歴史喰いが食べることもできない。

 暗誦者が見なかった”歴史”は、語られることもない。

 不死者となった少女は、どんな『歴史』に自分の価値を見出したのだろうか。











※ ※ ※ ※ ※

 
 月が中空に浮んでいた。

 日が落ちると昼間の熱気が嘘だったように温度が下がる。
 祭りの本番はこれからとも言える。昼間資材が積みあがっていた屋台が開き、香ばしい匂いが漂ってくる。
 薄闇の中で道沿いの提灯に火が入ると、どこからか笛や太鼓の音が聞こえてきた。
 人の足も増え、子供たちが固まって駆けて行く。

 妹紅は里の外周……と言わないまでも森に近く、比較的灯りが少ないところを巡回していた。
 茂みから聞こえてくる夏虫の鳴き声と、遠くから聞こえる笛や太鼓の音が合わさり、ちょうどいいくらいの音量だった。
 里と森の境界線にいる、という事実はどこか昔を思い出すような気分だった。
 いや、夏の夕方はいつだってこんな気分だったような気がする。

 薄闇から夜の世界になる。月が雲に隠れている時も明るい。
 花火が打ちあがった。その度に歓声があがる。
 持ち場を何度も歩いていると、誰が落としたのかゴミも落ちているようで、その度に拾って特設されたゴミ箱に投げ込んだ。

 交代の時間が近くなり、里の外れにある家の前を通りかかると、一人の男の子が飛び出してきて、全速力で村の中心部へ走っていった。

「おや、慧音」

 男の子の後から、出てきたのは上白沢慧音だった。
 微かな明かりに照らされて分かるのは、慧音の透き通るような白い肌だ。同じような髪と肌の色を持つ妹紅もそうだが、照明の小さい闇の中で見ると確かに人が羨むような美人である。自分もこう見られているのかな、と妹紅はふと思った。

 だが、儚げな美人、という印象を持ってしまったのは何故だろう。
 いつもどおり落ち着いた所作であるが、照明による陰影以上に陰りがあった。

「やあ、慧音……何でここに」
「補習だよ。さっき出てった子……櫓の上で一曲笛を吹く役になっていてね。練習にばかり精を出していたから、勉強が進んでなかったんだ」
「直前まで縛ることないじゃない」
「本番はまだまだ先だ、大丈夫」

 いつものように二人並んで、歩き出した。
 竹林で案内役をやっていて気づくのは、相手の歩く速さに合わせて歩く、というのは意外に難しいということだった。
 妹紅と同じくらいの背格好の人間でも、折れた竹を跨ぐのにかかる時間が違うのである。

 しかし、慧音との歩みは自然で、歩幅こそ違うが無意識に真横に並べるほどであった。

「そうなの? 本番がまだまだ先ったって、とんでもない速さで走ってったよ、あの子」
「博麗神社の催し物を見たいんだろう」

 ああ、と妹紅が相槌を打った。オペラだか歌舞伎だか能だがをやるという話は聞いている。妖怪や鬼を巻き込んでの大活劇らしい。河童が舞台装置を作って、天狗が宣伝してまわっていたけど、子供なんかも見にいくんだなぁ、とぼんやり考えた。

「……ねぇ、慧音。ひょっとして補修の範囲は日本史の律令制あたりかね」

 いつもの世間話のように話題を提供したつもりだった。しかし最後で発音が歪み、変な修正をしてしまった。

 慧音ははっとしたように立ち止まる。いや、歩みが止まったのは一瞬だった。
 何より表情が一瞬固まったのが、妹紅には印象的であった。

 ねぇ、慧音―――妹紅がもう一度声をかけようとした時だった。


「おやおや、ご両名」


 ひたひたと小柄な少女の影が近づいてきた。
 稗田阿求である。

「慧音殿を探していました。ぜひ博麗神社の催し物を見ていただきたいと思いまして」
「ああ……わざわざありがとうございます。阿求殿がネタを提供なさったとか。しかも結構な手の込みようだそうですね……」
「いえいえ、急ごしらえですからね。私は台本の提供と訳だけです。人形浄瑠璃なのに、人が舞台に立ったり、人形の中に人形が入っていたり、はたまた舞台の梁に登って糸で操ったり……私は関与していませんよ」
 
 ハハ、と妹紅と慧音は乾いた笑い声を出した。

「………して、演目は?」

 慧音は訪ねた。
 先ほどの陰りを隠すように、日常の他愛もない世間話をする世界に早く戻りたがるように。

 阿求は―――





「『妹背山女庭訓』ですよ」





 ああ、やはり。

 慧音の喉が鳴った音がした。すぐ横であったので汗の吹き出る音まで聞いたような気もした。
 
 上白沢慧音の生涯の唯一の後悔をあげるとしたら―――あの少年に関わったことではないか。

 孤独の淵を彷徨っていた彼の師となり姉となり、古今東西の知識を与えて恐ろしい王にしてしまったことではないか。
 何故私はあそこまで関わってしまった。
 何故私は彼の心に気付くことができなかった。
 慧音にとっては、君臨する者も支配される民草も、等しく愛すべき人間であった。

 残忍な”国譲り”を引き起し、神や人間、妖怪は区分けられ住処を失った。近代西欧で構築された支配システムは厳しい線引きでもあった。

 歴史は、小さな湧き水が大河となって大地を削るように系譜として続いていく。
 そこの小さな湧き水の側にいたのは確かに私の姿だった。
 親の罪が子の罪でないことは分かる。子の罪が親の罪でないことも分かる。
 しかし、かの男を、意識の前に出した時―――慧音は、後ろめたい陰に小さく、小さく震えるのである。

 いつの間にか―――どういう切欠があったのか――上白沢慧音の”笑顔”が彼の心から消え去ってしまったという事実が、彼女の意識を抉るのである。

 決して慧音は、侵略と制圧の政道だけを教えたわけではなかったのに。

 慧音は妹紅から、月の呪いを受けた経緯を聞いている。
 史書に記されない事実を本人の口から聞いたのだ。
 奇しくも、律令編纂に関わった調伊美伎老人(つきのいみきおきな)と調岩笠(つきのいわかさ)は「つき」を姓に持つ同族であったが、岩笠の死は史書に残ることはなかった。
 
 妹紅が、不死の化生として人里に定住できなかった過去がある。
 それこそが、自分の父親の施政と知った時に、妹紅は胸が張り裂けんばかりの悲痛を感じただろう。
 妹紅から過去を聞いた時、慧音はその迫害の一端を担っていたのではないか、という憂慮を胸に飼い続けていたのである。

 鳳凰の火の羽を撒き散らし殺し合う妹紅を見て、慧音も胸を焦がしたのである。

(慧音………)
 
 妹紅は意外に冷静だった。
 何より気を揉んだのは慧音の、今の儚げな肌色だった。

「ええ、やはり見所は、園原求女に扮する淡海公――藤原不比等の荒事っぷりでしょう」
 
 阿求は、妹紅と慧音より一歩先を歩いていた。
 表情を伺い知ることはできない。

「……ねぇ、慧音」

 妹紅が何を言ってもいいかも分からず横を向いた。
 
 ―――だが、





「慧音殿。藤原不比等様をあまり侮ってはいけませんよ」
  





 阿求がぐるりと振り向き真っ直ぐ慧音を見据えたのである。

 見上げるような体勢だが、心惑う慧音の姿勢を正すようであった。


「私だって阿礼の頃の記憶を完璧に保ってるわけじゃありません、ですが、私は官庁で彼と一緒に仕事をしていたのです。
 …………彼は慧音殿のお説教如きで人生変わるほどヤワな性分じゃありません。 始めて会った時は、若手官僚に過ぎない彼が……次に会った時は、遥か上のエリートです。八階級を一気に駆け上った時には腰を抜かしました。」

 慧音は動けなかった。
 阿求は能筆であるが、能弁な印象などなかった。

 いつしか阿求の語気は荒くなったれども、冷静に冷静に彼女は語った。


「それに―――彼が罪を犯したなら私も同罪なのです。古事記編纂に関わっていたんですから……
 さらに言うなら、どこからかの屋敷から帰って以来、実娘である宮子様まで追い詰める―――まるで鬼のように変心した彼の傷を癒せなかったも私の罪なのです」





 阿求はその後も、上司の仕事ぶり、優秀さについて語った。ひとつひとつ自分の目で見た、耳で聞いた具体例を列挙しながら。



 
 ―――ああ、彼女も不比等を知る人であったのだ。自分の知らない不比等を知っているのだ。
 激動の時代において彼の魅力にとりつかれた、当時の官人の一人であったのだ。

 慧音はかつて不比等を見上げていたであろう阿礼の、目の前の阿求の瞳を見た。


 妹紅は黙って阿求を見ていた。
 
 彼女の知らない父の顔である。

 一三〇〇年。外の世界で父はどのような扱いを受けているのだろう。
 もう幻想の淵に立っているのだろうか。史書に記される人物であっても、子孫にとっても遠い昔の事実である。

 藤裔で藤原を名乗る嫡流はもういない。
 妹紅が藤原の名を冠しているのは、妹紅が妹紅である以上の意味があった。父に対する、ある証明である。

 親というものが、娘に不毛な生など望んでいないことに気付くのに三〇〇年はかかった。


 歴史に捕らわれすぎるなよ、歴史の半獣殿。



 ―――人間たちの支配から逃れて……幻想郷ができて、私が慧音たちと会えたとしたら、その人には感謝しなきゃいけないね。
 
 ―――私は生きるのが楽しい。千年も千五百年も生きて、輝夜と会えて戦うのが楽しいね。



 まるで独り言のようであった。
 阿求には聞こえても良いようにはしたけれども。
 
 膨大な過去持つを少女は、目の前の未来に歩みを向ける術も知っていた。



「………見に行こうじゃないか。歴史モノならこの三人以上に楽しめるメンツがいるかって感じだよ」


 妹紅は、慧音と阿求の肩をぽんと叩いて歩き出した。

 それは三人の見た不比等とはまた違う、浄瑠璃作家が見たもうひとつの不比等でもある。

 

 

 

 
 段々と照明は明るくなり、活気が大きくなっていく。
 花火を撒き散らしている会場らしき舞台が見えてくる。



「『……おのれ、藤原淡海!!』」



 威勢の良い掛け声。やんややんやと楽しむ見物客。

 夜空を舞台に演じられる破天荒な舞台。

 月が出ていた。
 
 ある者は狂う月。ある者は喜ぶ月。ある者は酒を飲んで歌う月。ある者は秋の豊穣を願う月。
 
 兎が遊ぶ月。蛙が遊ぶ月。

























 我々は外の人間である。
 
 不比等の構築した世界に住む人間である。

 それなら彼の敗北は、果たして敗北であったろうか。

 この国にかけた不比等の魔術は未だ解けていないのである。

 

 
 











 我々は、藤原不比等をどう見るか。

 
 




 
 考察といっても「こう考えたら面白いんじゃねーの」が前提です。
 ただ史実と一緒に扱うと「ああ、○○が本当に昔(今も)いたんじゃねーの」という気分にさせてくれるような気がします。

 そういった印象を本小説で感じていただけたら幸せでございます。
 


 幾つか引用をして実在の人物も登場いたしましたが、本人やその子孫、ご家族が不愉快な思いをされたとしたら、それはひとえに私の責任です。
 また、歴史、政治、宗教において何かを提言するつもりは髪の毛ほどもございません。

 最後に読んでいただいた皆さんに感謝を。

2010/09/07 修正
ハマ
[email protected]
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コメント



0.460簡易評価
1.100名前が無い程度の能力削除
とてつもなく面白いと感じました
月人と地上のメンタルの違いや理不尽さなどは本当に秀逸に描かれていて読んでいて楽しかったです
そうか妹紅とゆゆ様は遠い血縁だったのか…
4.20名前が無い程度の能力削除
前編と合わせて七割ぐらいまでは非常に面白かったのに、輝夜達が出てから一気に茶番になりました。
もうただただ残念です。
7.無評価ハマ削除
>1さん
ありがとうございます。
不比等のメンタリティが制度として現代日本に影響を及ぼしたのであれば、娘である妹紅とどこか親近感が沸きませんか?
1さんが藤原の血をひいていても不思議ではありません。
最後まで読んでいただきありがとうございました。

>4さん
輝夜登場あたりから歴史分が少し抜けて、描写が人中心になりますからね。
私も読み返しリズム等に違和感を感じたので、なるべくシンプルにするようにちょっと変更してみました。
ご意見ありがとうございます。
12.100名前が無い程度の能力削除
竹取物語モノで一番面白かったかもしれない。

藤原不比等の生々しい人間性と輝夜の差が逆に恐ろしかったです。
歴史の記述はあっても結構読みやすかったですし。

色々と考えさせられました。勉強になります。
13.100名前が無い程度の能力削除
藤原不比等に始まる「二重権力構造=無責任の構造=支配する側にとりもっとも都合良い構造」は、
丸山真男はじめ政治学者、歴史学者らにたびたび指摘され、
そして実際の政治家や軍民の官僚たちが便利なものとして、連綿と受け継いできましたな。今もなお……

妹紅は父(?)がその礎を築いた日本の歴史をどう生きて、かつ見つめて来たのか
不比等に発する秩序が整い、成熟し安定した江戸時代など、妹紅がどう流れ歩いていたのか気になります
14.100名前が無い程度の能力削除
凄いですね。
次回作にも期待。

宗教の話のところが面白かったです。
16.100名前が無い程度の能力削除
密度の濃い内容で面白かったです。
妹紅は父親のことをどう思っていたんでしょうね
17.無評価ハマ削除
>12さん
余りにもったいないお言葉でございます。こんなマニアックなのに。
歴史の記述を読んで、もしかして本当にあったんじゃね?、と思っていただければこれに勝る幸せはありません。

>13さん
私たちは寿命があって過去の記述を見て「歴史」と思うのですが、ずっと事件の現場にいて未来永劫生きる妹紅と我々とは「歴史」の概念自体が違うんでしょうね。
妹紅に「その時どう思った?」とインタビューしたとして、その答えを想像するだけで収穫がありそうですね。
不比等の対する視線も時代時代で違うと考えると面白いです。

>14さん
宗教色は薄めになっております…いえいえそんなことよりありがとうございます。
ご期待ください!と胸を張って言いたいですね。

>16さん
当初は五人全部書いたのですが、余りに男祭りになったので削りました。
もっと密度も濃くなったら全体がもっと長くなりそうなので……
妹紅はきっと父親大好き、不比等も妹紅が大好き、だと思ってにやにやしています。
18.40Manchot削除
 まずは、歴史物の長編という難事を為され、お疲れさまでした。
 かなり綿密に下調べをし、また論証された上で書かれた物と推察します。これだけの物を組み上げるのに掛かった労力は相当なものであったでしょう。

 さて、早速ですが感想の方に入っていきたいと思います。少々辛口ではありますが、ご勘弁願いたく。
 まずは文章についてです。少し期になったのは地の文が少しぶれているということ。三人称とはいえ、その中心となる視点が動いてしまっていては、理解しにくくなってしまいます。ハマ様の文章にはそれが散見され、理解を少し妨げているようにも思えました。
 また誰が何をしたのかということがいまいち把握しづらく、ストーリーを追いにくくなっていた印象も受けました。恐らく視点の動きが多かったことと、ハマさまの文章が少し情報不足だったことが理由かな、と思います。
 この物語ではキャラの描写も少なめで、一体どういうキャラ性だったか、というのが掴みにくかったように思うのです。

 次いで、歴史の知識の扱い方について。この作品を書かれるにあたっては、先も述べた通り相当の史料を博捜したものと思います。しかし、正直に言うならばこの知識を、いまいち使いこなせていないように思われるのです。
 ハマさまはこの物語の中で、史料の引用による論証を行っています。論文の要領ですね。この論証による史実の推理という作業は、歴史学的で面白いところではあります。その一方で、必ずしもこの方法が物語を紡ぐにあたって良かったか、というとちょっと疑問でもあるのです。
 物語を描くには確固たる舞台を置いた方が、物語が映える場合が多いです。箱庭がきちんと作り上げてあれば、その中で動くキャラクターたちもより現実味を帯びるわけです。歴史学的論証を物語に組み込んだことは、確かにメタ的要素を取り込めて味が出ますが、同時に箱庭建設中を露呈してしまうことにもなります。それは物語を霞ませる危険がある。故に、物語を進めておくには、史料を読みこんだ知識とその論証に基づき、ある程度舞台として、"物語内での史実"を確定してしまった方が良かったように思えるのです。
 それと連動する話にもなるのですが、この物語では物語を逸脱する情報が少し多かったかな、とも思います。史料の引用などは雰囲気構築に力を持っていた、と思います。しかしその一方で少し露出の情報が多く、焦点がぼやけていたというようにも思えるのです。持てる知識の量は物語を紡ぐにあたって充分ですが、表に出た量は少し多かったかな、と。
 知識は舞台を築くに必要な道具ですが、道具故に表にはあまり出さぬ方が良い、と思っているのです。


 こう書いてみると、かなり辛口の感想になってしまいました。お気を悪くなされたら申し訳ないです。

 しかし、決して面白くなかったわけではないのです。輝夜や永琳といった月人の解釈。史実と竹取物語と東方との整合性。そして、史実上での不比等の位置付けと、竹取による位置付けのすり合わせ。不比等も、ただ歴史上の人物という所を越え、史実と東方と竹取物語との間を綺麗に渡り歩いて輝いております。個人的には、「妹背山女庭訓」と絡めてくることには驚かされました。
 史料の精読による知識が物語を底流していて、独特の雰囲気を表していたように感じます。そしてその知識の底流を中核として紡がれる物語は、地に足を付けて広がり、確とした作品世界を描いていたように思えました。


 最後になりましたが、斯様な力作を拝見する機会を与えて頂いたこと、感謝至極でございます。
 この小文が少しでも役に立てれば、幸いなことはございません。ますますのご活躍を期待しております。
19.100名前が無い程度の能力削除
浅学な私には、気のきいたコメントは書けませんが大変面白かったです。
竹取物語や日本史の教科書をもう一度読んでみようと思います。