Coolier - 新生・東方創想話

東方六十年後

2010/08/28 15:35:35
最終更新
サイズ
36.12KB
ページ数
1
閲覧数
1405
評価数
3/28
POINT
1320
Rate
9.28

分類タグ


 あれから、六十年たった。
 十六夜咲夜は、死んだ。
 東風谷早苗も、死んだ。
 六十年という時間は、そういうものなのだ、と。
 彼女は、そう思っていた。


       1


 魔法の森の中を、彼女は歩いていた。
 木々はうっそうと繁っていて、木陰はどこまでも暗い。
 その、太陽の当たらない道を、彼女は黙々と進んでいく。
 彼女の服装は、頭の上からつま先まで、黒一色だった。
 襟と袖の部分だけが灰色になっていて、それがごくわずかに、彼女の昔の衣装の名残を示していた。
 歩くあてなど、ない。
 歩く意味など、ない。
 まるで夢遊病の患者のように、おぼつかない足取りで、彼女は歩き続ける。
 かろうじて木がとぎれて、光が当たっている場所に着いたときのこと。
「久しぶりね、アリス」
 彼女の足が、止まる。
 細い首がぎこちなく動いて、その声の主へと向けられる。
「どうしたの? アリス、大丈夫?」
 声の主は、紫色の髪をした少女だった。髪の色と良く似た、丈の長い服を着て、片手に分厚い本を持っている。
「ちょっと、聞こえているの? アリス・マーガトロイド」
 そこまで言われて、ようやく、彼女は思い出した。
 自分の名前が、アリス・マーガトロイドであることを。
「パチュリー・ノーレッジ……」
 まるで、自分の意志とは無関係であるように、アリスの口が勝手に動いて、紫の少女の名前をつむぎだした。
「そう、わたしはパチュリーよ。本当に大丈夫なの、アリス?」
 少しずつ、アリスの頭が回転しはじめる。目を動かし、周囲を確認し、自分の居る場所が、紅魔館の近くにある、湖のそばであることを確認した。
 どうやら、いつの間にか、ずいぶん長い道のりを歩いていたらしい。
「……大丈夫よ、パチュリー」
 アリスはそう答えてみせたが、大丈夫ではないことは、双方ともに理解していた。パチュリーが何かを言う前に、アリスは言葉を続ける。
「パチュリー、あなたこそ、外に出ても大丈夫なの?」
「ええ、大丈夫よ。喘息の発作は、ここ最近はまったく出ていないわ。八意永琳の薬を、毎日忘れずに服用しているからね」
 アリスは軽く眉をしかめた。思い出すのに、いくばくかの時間が必要だった。
 ……そう、そうだ。そうなのだ。
 パチュリーは、『六十年前のあの日』いらい、真面目に永遠亭で喘息の治療を受けていて、その症状は大幅に改善されていた、そのはずだった。
「そう、よかった、わね……」
「ありがとう」
 アリスは視線を動かして、湖の方を見つめた。
 風がないのか、湖面は鏡のようになめらかだった。まるで湖の生物すべてが、死に絶えてしまったかのような静けさを漂わせている。
 その湖の先へと、アリスは焦点を合わせる。
 そこにあるべき真っ赤な館は、見えない。
 館の全体を包み込むかのように、紅色の霧が出ているのだ。
 その光景は、数年前からずっとそうだった。
 十六夜咲夜が死んだときから、その館の主は、紅霧で館を隠すようになった。
 まるで、外界と館とを隔てるかのように。
 館の主、レミリア・スカーレットは、ずっとそうしていた。
 きっと、これからもずっとそうするのだろう。
 アリスが、『六十年前のあの日』からずっとこうしてきたように。
 あの日。六十年前の、あの日。
 アリスは、その日に起こったことを、今でも鮮明に覚えていた。


       2


 六十年前の、あの日。
 いちにちの作業を終えて、まさにアリスはベッドに入ったところだった。
 何のまえぶれもなく、それは起こった。
 家全体を揺るがすような、すさまじい音と振動。
 ベッドからなかば放り出されたかたちのアリスは、慌てて窓の外を見た。
 その目に飛び込んできたのは、魔法の森を大地から星空へと貫く、光の柱。
 直感的に、すぐにアリスは理解した。
 なにかの魔力が、暴走したのだ、と。
 光の柱は、霧雨魔理沙の家がある、まさにその方向だった。
 この上なく嫌な予感を感じながら、アリスは夜の森の中を駆け抜けた。
 空を飛んで、その光景を上から見ることもできた。
 だが、それは怖くてできなかった。
 空を飛べば、想像している予想図がすぐに確認できてしまう。
 そのことが恐ろしくて、ただひたすらにアリスは走った。
 転び、つまずき、アリスは泥まみれになった。
 やっとの思いでたどりついた魔理沙の家の前で、アリスは立ちすくむ。
 魔理沙の家があった場所から天へと伸びる、光の柱。
 あまりのまぶしさに、魔理沙の家がどうなっているのかもわからない。
 暴走した、おびただしいまでの魔力の余波が、自分の方にも降りかかってきて、アリスはその身を守るのがやっとだった。
 それでもアリスは、声を枯らして、必死に魔理沙の名前を呼び続けた。
 あまりにも強い光が、ようやく収束し始めたところで、幻想郷の人間や妖怪たちがその場へと集まってきた。
 光の柱が消えさったとき、そこに残されていたのは、がれきの山だった。
 魔理沙の家だったもの、の残骸。
 最後にやってきた八雲紫は、その残骸の中にある、ひとつの物体を指さした。
 黒焦げになった、奇妙な形のかたまり。
「これが、霧雨魔理沙ね」八雲紫が、言った。
「そう」博麗霊夢が、小さくうなずく。
「本当に?」十六夜咲夜が、訊く。
「まちがいないわね」西行寺幽々子が、そう断言する。
「何かの実験で、魔力が暴走してしまった?」東風谷早苗が、小首をかしげる。
「おそらくは、ね。実験に失敗したのでしょう」八意永琳が、応じる。
 アリスは、ただ呆然として、その会話を聞いていた。
 パチュリーが、そっとアリスの体を支えてくれていた。

 アリスがはっきりと覚えているのは、そこまでだった。
 それからのことは、よくわからない。
 呆然としたままのアリスを、パチュリーと誰か(たぶん、咲夜だろう)が家まで送ってくれた、ような気がする。
 誰か(たぶん、霊夢と早苗だ)が、霧雨魔理沙の葬儀の準備を、てきぱきとしていた、ような気がする。
 自分の家にあった椅子と同化したかのように、ただ座り込むだけのアリスを、パチュリーが必死に説得していた、ような気がする。
「葬儀には、参列してあげるべきよ」
「気持ちは、痛いほどによくわかる」
「みんな心配しているわ。お願いだから、ね?」
 半ば強引に、まるで着せ替え人形のようにして、アリスは喪服を着せられた。
 襟と袖の部分だけが灰色をした、黒一色の喪服。
 黒焦げのかたまりが、棺桶へと押し込まれる光景を、アリスは呆然として眺めていた。
 みんなが、それぞれに祈りをささげはじめる。
 やがて、地面に掘られた穴に棺桶が降ろされて。
 パチュリーに支えられながら、アリスも手で土をすくいとり、棺桶にそれをかけた。
 涙は、出なかった。
 一滴も、出ることはなかった。
 アリスは、ただ理解できなかった。
 なにひとつ、受け入れることができなかった。
 そのときから、アリス自身の記憶は、おぼろげなままだった。
 六十年間、ずっと。
 今も、そう。ずっと、おぼろげなまま。


       3


 どれほどの時間、アリスは記憶の海をたゆたっていたのだろう。
 あの日のことは、まるで昨日のことのように覚えている。
 それから、六十年間。
 アリスはどうやって過ごしてきたのか、まったく覚えていない。
 そして。
 これからもずっと、アリスはそうやってあいまいなまま過ごしてくのだろう。
 再び、アリスはあてもなく歩くために、その足を動かしかけたところで、
「ちょっと待って、アリス」
 パチュリーに呼び止められた。
 細い首を不自然に傾けて、うつろな目だけでパチュリーを見たアリスに、彼女は言った。
「ついさっき、博麗の巫女がわたしのところに来たわ」
 博麗の、巫女?
「これで三回目になるのだけど、あなたに用があるみたいなの、アリス」
 博麗の巫女は……代が何度か変わって……いまはたしか……なんて名前だったかしら……。
「何度も来るところを見ると、かなり大事な用みたいね。あの子、ほら真面目でしょう?」
 思い出したわ。たしか、真面目だけが、取り柄の巫女でしょ。
「そう言わないの。努力家だし、誠実だから、里の人たちからも慕われているみたいよ」
 誠実だっていうなら、用がある向こうから来るべきね。
「もう来たみたいよ。でも、あなたに会えなかったようね」
 は?
「そう言っていたわよ。あの子が嘘をつくとは思えないから、アリス、あなた家にいなかったのでしょう? いままでどこに行っていたの?」
 ……わからない。
「まあ、いいわ。とにかく、大事な用みたいだから。神社まで行ってあげたら?」
 面倒だわ。
「それとも、何度も家まで押し掛けられる方がいいの?」
 ……仕方、ないわね。

 それからのこと、アリスは、人間の里の中を歩いていた。
 その姿を見かけた人間たちが、眉をひそめて道をゆずった。
 アリス・マーガトロイドは、妖怪に分類される。だが、人間を襲ったりはしない。それは昔からそうだし、この六十年間もそうだった。
 それでも、ぼさぼさの髪に、かびくさいぼろぼろの喪服をきて、うつろな目でよろよろと歩くアリスを見て、人間たちは彼女を避けていくのだった。
 別に、アリスはなんとも思わない。
 なにも感じない。
 なにも感じないことすら、自分で理解していない。
 ただ、ごくわずかに残る昔の記憶だけを頼りにして、神社へと歩いていく。
 どこをどう通ったのかもわからないままで、アリスは境内へとたどり着いた。
 そこでは、博麗の巫女が、ほうきで掃きそうじをしていた。
 現在の、何代目かの、博麗の巫女。
 年齢は十代半ば。外見は……昔の、霊夢に似ていないこともない。
 性格は、パチュリーが言った通りだ。
 くそ真面目で、なんの面白みもない。とにかく、いけすかない。
 その博麗の巫女が、アリスの姿を認めた。そうじの手を止めて、ほうきを持ったまま深々と頭をさげる。
「あ、アリスさん、いらしてくださったんですね。お待ちしておりました」
「……なんのよう?」
 善人づらした博麗の巫女を見て、アリスはここに来たことを早くも後悔していた。
「すいません、実は大事な用があって、何度かアリスさんのおうちの方に……」
「だから、なんのよう?」
 博麗の巫女が、ひどく申し訳なさそうな顔をした。それに構わず、アリスは続ける。
「あんたが呼んだんでしょ」
「あ、いえ、わたしじゃないです」
「はぁ?」
 アリスの暗い圧力に困惑しながら、博麗の巫女がこたえる。
「アリスさんをお呼びしたのは、大おばさまです」
「……は?」
 『オオオバサマ』という単語を頭の中で変換して、それが誰であるのか理解するのに、いささかの時間が必要だった。
「まさか……」
 アリスの声に、いままでにない乱れが生じる。
「はい、そうです。お呼びしたのは、霊夢おばさまです」
 アリスは、まるで巨大なハンマーで、頭を殴られたような気がした。
「ええと、その、大おばさまは年なので、アリスさんのおうちまで行くのが大変なので、アリスさんに来てほしい、ということで、わたしがアリスさんをお呼びしようと……」
 博麗の巫女の説明の言葉が、アリスの左耳から右耳へと、ただ通過していった。


       4


 アリスはこの六十年間、博麗霊夢と会っていない。
 六十年前のあの日。
 アリスは、理解してしまったのだ。
 人間というものが、ひどく脆く、弱い生き物であることを。
 簡単に失われてしまうものである、ということを。
 そして、ひとたび失われたとき、恐ろしいほどの衝撃に自分は襲われるのだ、と。
 アリスは怖かった。
 これ以上の衝撃を受けるのが、ただ怖かった。
 人間は、妖怪であるアリスよりも、必ず先に死ぬ。先にうしなわれる。
 それが怖かったから、アリスは逃げた。
 人間とかかわらないようにして、自分の家へ、魔法の森へと引きこもった。
 だから、霊夢とも、魔理沙の葬儀の日いらい、会っていない。
 その霊夢が、アリスを待っているのだ、という。
 アリスは霊夢と会わなくてはいけないのだ、という。
 あれから六十年たって、霊夢はまだ生きている。
 博麗霊夢だけが、まだ生きている。
 十六夜咲夜は、死んだ。
 東風谷早苗も、死んだ。
 それら人間の葬儀の話があっても、アリスはずっと避けてきた。
 知らないふりをしていた。
 気づかないふりをしていた。
 それなのに。
 そうしてきたのに。
 唯一生き残っている霊夢が、アリスを待っているのだ、という。
「帰るわ」
 きびすを返したアリスを、博麗の巫女が必死に呼び止めた。
「あ、待ってください! 会ってください、そうしないと、大おばさまが、自分からアリスさんの家に自分で行くって言って、きかなくって」
 アリスの足が止まる。その声が、震えた。
「……いったい、れいむはどういうつもりなのよっ」
「わ、わたしにも、わかりませんよぉ」
 アリスは、深い、どこまでも深いため息をついた。百かぞえられるくらい、たっぷりと時間が経過した後で、ようやくアリスは声をしぼり出した。
「……どこに、いるの?」
「母屋の方で、お待ちしています」
 博麗の巫女が無邪気に笑ってみせた。
 それが、ただの八つ当たりに過ぎないとわかっていても、巫女の笑顔を殴りたい気持ちを我慢するのに、アリスはかなりの努力が必要だった。
 アリスは、母屋の方へと、がむしゃらに足を動かす。
 よりによって、あの若い巫女に、足が震えていることを悟られたくなかったからだ。
 母屋の手前まで来て、若い巫女の死角に入ったところで足を止める。
 荒い息をととのえるために、何回か深呼吸をくりかえす。
 『霊夢が自分を待っている』
 その事実を突き付けられてから、アリスは自分のコントロールを失っていた。
 いや、ちがう。
 この六十年間の、うつろさを、おぼろげな状態を、失ってしまった。
 まるで昔のような、さまざまな感情が戻りつつある。
 その感情の中でも最大のもの、『恐怖』がアリスに戻りつつある。
 だが、ここまできたら後戻りはできない。
 ぶるぶると首を左右に振ると、アリスは意を決する。
 その細い首をのばし、母屋の様子をうかがった。


       5


 ……いた。
 母屋の、縁側に敷かれた座布団の上に、ひとりの人間が正座ですわっている。
 その人間は女性だった。かなりの高齢のようで、老婆といってよい。
 髪は真っ白。服装は巫女服を着ていたが、さっきの若い巫女が着ていた、腋が見える構造の服ではない。胴体と袖がつながっている、いわゆる普通の巫女服だ。
 他には人影は見当たらない。だとすれば、これが博麗霊夢のはずだが……。
 小さい。
 こんなにも、霊夢は小さかっただろうか、とアリス・マーガトロイドは愕然とした。
 おそるおそる足を動かして、その人物の前へと移動する。
 霊夢らしき人物は座りこんで、目を閉ざしたままだ。
「……れいむ」
 返事はない。
「ねえ、れいむ。れいむなんでしょ?」
 やはり、返事はない。
 不意に、黒い恐怖にアリスの心がわしづかみにされた。
 あわてて、その人物の肩をつかんで揺らす。
「ちょっと、れいむ! 大丈夫なの!」
「……およ?」
 その老婆が目を開く。
 老婆は、ゆっくりと目をこすったあとで、不意に、にやりと笑った。
「あら、アリスじゃない。久しぶりね」
「もう、れいむったら、びっくりさせないでよ、死んでるのかと思ったじゃない……」
 言葉の後半部分を、アリスは飲み込んだ。口にしてはいけない言葉だ、と思ったからだ。
「おおげさね。とりあえず、お茶でもいれるわ。座って待ってて」
 そう言うと、よっこらっしょ、っと霊夢は立ち上がった。
 自然な言葉。自然な動作。自然な空気。
 六十年。
 六十年ぶりの、アリスと霊夢の再会。
 それなのに、霊夢はあまりにも自然だった。
 まるで、六日ぶりの再会であるかのような、自然で当たり前の対応。
 霊夢の小さな背中を、アリスは呆然として見つめていたが、あわてて我に返った。
「あ……あ、わ、わたしがやるわよ。れいむは座ってて」
「……およ?」
 年なんだから、という言葉を、アリスはのどの奥で飲み込んだ。

 博麗神社の母屋は、以前と同じだった。
 適当に置かれたちゃぶ台も、その上のお皿に盛られたおせんべいも、すこしほこりのかぶった戸棚も、その戸棚の中のお茶っ葉の場所も。
 何もかもが同じ。
 六十年前と、同じ。
 何も変わることがない。
 そう、それは、いま、縁側に座ってお茶をすすっている霊夢自身も。
「あー、お茶がおいしいわね」
 隣に座っているアリスは、不思議な気持ちで、お茶を飲む霊夢を見ていた。
 霧雨魔理沙が死んだのに。
 十六夜咲夜も死んだのに。
 東風谷早苗さえ、死んだのに。
 六十年も、たっているのに。
 博麗霊夢は、変わらない。
 外見以外は、何も変わっていないのだ。
 アリスの肩から、すこしだけ力が抜けた。
 霊夢との再会を、あれだけ恐れていた自分自身が、すこし莫迦莫迦しかった。
「ところで、アリス」
 不意に、霊夢が言う。
「な、なによ」
「おさいせんは入れたんでしょうね?」
 やっぱり、霊夢は変わっていなかった。アリスは小さくため息をつく。
「……財布を家に忘れてきたわ」
 霊夢の、露骨なまでの舌打ちが返ってくる。
「ごめんなさい」
 なぜ自分は謝っているのだろう、とアリスは内心で小首をひねった。何か言い返してやろう、と考えたところで、大事なことを思い出す。
「そういえば、れいむ。わざわざ呼びだすなんて、なんのようなの?」
「……およ?」
「およ、じゃないわよ。パチュリーから聞いたわ。わたしにようがあるんでしょ?」
「……ああ、そうだったかもしれないわね」
「かもしれない、って……」
 六十年たっても、自分は振り回されているな、とアリスは嘆息した。
「そうそう、思い出したわ。アリスにお願いがあったのよ」
「なぁに?」
「妖怪退治をして欲しいのよ」


       6


 アリスの反応は、かなり遅れた。
「……いま、なんて?」
「退治よ、妖怪退治」
「なんで、わたしが? 境内にいる巫女に頼めば良いじゃない」
「あの子じゃ勝てないかもね」
 霊夢が、湯のみを縁側に置いた。少しだけ、アリスの顔が真面目になる。
「そんなに強い妖怪なの?」
 霊夢は、ゆっくりと首を振った。
「そもそも、妖怪なのかどうかもわからないわ」
「……どういうこと?」
「もしかしたら、元は人間だったのかも」
 そうつぶやく霊夢を横目で見たまま、アリスは前髪をかき上げようとして、髪がぼさぼさであることに気づき、慌てて直しながら訊いた。
「はっきりしないわね。れいむは確認していないの?」
「わたしは噂しか聞いていないわ」
「……それだけで、あの巫女じゃ勝てない、ってわかるわけ?」
「勘よ、勘。久しぶりにピンときたのよ。間違いないわ」
 霊夢の勘は良く当たる。当然、アリスはそのことを知っている。
 おそらく才能だけで言えば、境内にいる現在の若い巫女は、霊夢の足元にも及ばないだろう。現在の巫女がどんなに努力しても届かないほどに、霊夢の才能や勘の良さは、ずば抜けているのだ。人間離れしている、といってもよいかもしれない。
「まあ、心配いらないわ。アリスだったら、片手で勝てるでしょうよ」
 おかまいなしに、霊夢は断言した。
「……それも、勘?」
「もちろん」
「本当に、わたしがやるの?」
「よろしくね」
「まだ、やるなんて言ってないわよ」
 霊夢の返事は、ない。
「ちょっと、れいむ?」
「……………」
「れいむ?」
「……すぅ……すぅ」
「急に寝るなっ」
 そう叫んだアリスは天をあおいだが、頭の中では半分以上あきらめていた。
 博麗霊夢にはかなわない。
 そのことを、心のどこかで再確認していたのだ。
 
 ぶつぶつと文句を言いながらも、アリスは、いったん家に帰った。
 すこし傾いている玄関の扉をあけ、ほこりまみれの床をずかずかと歩くと、人形たちの部屋へと向かう。
 いきおいよく扉をあけると、舞い上がったほこりと、こもったかびのにおいとに襲われて、アリスはけほけほとむせこんだ。
 人形たちの部屋には、大量の手足、胴体、そして首がころがっている。
 この六十年間、アリスはただ一体の人形すら完成させることができなかった。
 思い立って人形を作ろうとしても、どうしても途中で投げ出してしまう。
 だから、できそこないの部品だけが床に散乱することになる。
 アリスは、それらを無視して、その視線を棚へと向けた。
 『まあ、心配いらないわ。アリスだったら、片手で勝てるでしょうよ』
 霊夢の言葉が、よみがえってくる。
 そう聞いてはいたものの、ここにきて、アリス本来の慎重さが、かすかに取り戻されていたのかもしれない。
 棚に手を突っ込んだアリスは、ほこりまみれの上海人形を手に取った。
 この子さえいれば、十分だろう、とうなずくと、アリスは家を出た。
 霊夢に教わった方向へと、飛び立っていく。
 記憶があやふやなのではっきりしないが、空を飛ぶのも六十年ぶりなのかもしれない。
 アリスはすこしふらふらとしながら、目的地をめざした。


       7


 見つけるのは、簡単だった。
 魔法の森の、端っこの方。
 木々がなぎ倒されていて、地面がむき出しになっている。
 その中心に、そいつはいた。
「元は人間だったかもしれない妖怪、ね」
 アリスは、鼻で笑った。その目標に関しては、アリスには知識があった。
 牛の頭に、人間の体。
 たしか、ミノタウロスとか言ったはずだ。
 知能の低い、ただの乱暴者。
「こんなやつ程度にも、今の巫女は勝てないのかしら。まあ、幻想郷では珍しい相手かもしれないけどね」
 アリスはぶつぶつとつぶやきながら、相手の目の前に降り立つ。
「さっさと終わらせるわ」
 問答無用で、アリスは弾幕を放った。かつて七色を操った彼女からは考えられない、黒一色の弾幕。牛の頭にそれが直撃して、アリスは黒い笑みを放った。
 だが、すぐにその笑顔が凍りついた。直撃をくらったはずの化け物が、アリスめがけて突進してきたからだ。
 化け物の右手には、光る何かがある。
 それがカードの形をしていたので、思わずアリスは叫んでしまった。
「どうしてこんなやつが、スペルカードを使うのよっ」
 バックステップして距離をとりながら、アリスは体勢を立てなおそうとする。
 牛頭の化け物は知能が低いはずなのに、なぜスペルカードを持っているのか。
 いや、そもそも幻想郷にきて日が浅いはずなのに、なぜスペルカードルールを知っているのか。
 アリスの知らない間に、かなり以前からこの化け物は幻想郷に来ていたのだろうか。
 いや、それなら霊夢がとっくに気づいて、退治するべく動いているはずだ。
 わからないことだらけだったが、とにかくアリスは化け物のスペルカードに備えた。
 正直なところ、アリス自身も戦闘は久しぶりなので、いまひとつ勘が取り戻せていない。
 化け物の頭から、白い閃光が放たれる。
 アリスは十分な余裕をもって、それを避けた。
 繰り返し放たれる閃光を、次々にかわしていく。
「しょせんは牛頭、単純に撃っているだけね」
 一定間隔で放たれる白い閃光は、完全にアリスだけを狙っている。単純すぎる自機狙いの攻撃を、鼻で笑いながらアリスはかわしていった。
 その閃光が終わったところで、今度はアリスがカードを高くかかげた。
「今度はこっちの番。これで終わりね。『魔彩光の上海――』」
 アリスは最後まで言い終えることができなかった。
 たった一回の大きな跳躍で距離を詰めてきた化け物が、その巨大なこぶしを、アリスめがけて振り下ろしてきたからだ。
「に、肉弾戦? ちょ、ちょっと、スペルカードルールを守りなさいよっ」
 アリスの怒声に、化け物は咆哮で応じた。かろうじてこぶしによる攻撃をかわしたアリスに、今度は丸太のような足による蹴りが襲いかかる。
「なんなのよ、こいつっ」
 直接の物理攻撃をするつもりなのか、それとも弾幕で戦うつもりなのか。
 化け物の意図がつかみ切れず、アリスは困惑した。
 それでも、アリスは本気を出さなかった。
 アリスの、悪い癖が出たのだ。
 相手よりも、わずかに上回る力で勝とうとする悪癖。
 ふたたび、アリスは黒一色の通常弾幕を放つ。
 それが、化け物の牛の頭部に当た――らない。
 直前で跳ね返ると、全弾がアリスの方に飛んできた。
「反射ようの結界を張っている?」
 アリスは反射的に、左腕をあげて顔を守った。
 その瞬間。
 一気に間合いを詰められた。
 死角から襲いかかった丸太のような足が、アリスの腹部にめり込む。
「がぼっ」
 その奇妙な音が、自分の口から漏れた音であることにアリスが気づいたのは、数メートルも蹴り飛ばされて、地面に叩きつけられてからだった。
 何かがのどに詰まっている感覚に、アリスが咳き込むと、大量の血がその口からあふれ出た。


       8


 胃壁が破れた? それとも、肋骨が折れて肺に刺さった?
 ごぼごぼと血を吐きながら、アリスは妙に冷静な頭で分析した。
 近づいてくる化け物から離れようと、よろめきながらもバックステップしたところで、牛の頭から、白い閃光が放たれた。
 ぎょっとして、ギリギリのところでアリスがかわした時、目の前には巨大なこぶしがあった。
 かろうじて顔をかばった左手ごと殴り飛ばされ、再びアリスの体が数メートルの距離を飛ぶ。
 気がつけば、左腕の感触が、ない。
 アリスは初め、左腕がちぎれたのかと思ったが、そうではなかった。
 喪服の袖のところから、肉とも骨ともつかない物体が飛び出している。
 アリスの左腕は、完全につぶされていた。まったく動かない。
「こいつ……おかまいなしとはね」
 物理的な暴力だけではない。
 弾幕だけでもない。
 ルール無用で、その両者を完全に組み合わせている。
 さらに白い閃光がきらめく。
 口と腕から血を流しながらアリスがそれをかわした。
 牛の形をした顔が、笑ったように見えた。
 白い閃光が時計回りに放たれる。
 当然、アリスも時計回りに回避する。
 回避した先では、化け物のこぶしが待ち構えている。
 アリスはそのこぶしを、ぎりぎりのところでかわしそこねた。
 おでこを強くこすられるようにこぶしがかすめて、アリスの額がぱっくりと割れた。大量の血があふれだして、それが目に入り、たちまちのうちにアリスの視界を奪っていく。
 まずい、とアリスは思った。
 この化け物は、戦い慣れている。戦い方が、うまいのだ。
 白い閃光による弾幕と、こぶしや足による直接攻撃。
 この二種類をたくみに組み合わせて、じわじわとアリスを追い詰めていく。
「……れいむのやつめ」
 なにが、『アリスだったら、片手で勝てるでしょうよ』だ。
 はじめから本気を出していても、これは勝てない相手だったかもしれない。
 アリスの頭の中にある、どこか冷静な部分がすでに自分の敗北を悟っていた。
 逃げないといけない。
 そう判断してアリスは身をひるがしたが、すでに遅かった。
 すさまじい蹴りが、今度はアリスの腰を襲う。
 腰から下が、真横にずれたような感覚があった。
 悲鳴ではなく、がぼがぼという血を泡立てるような音が、アリスの口から放たれる。
 体が一回転して、地面とまともに衝突する。痛みというよりは、衝撃のようなものが、アリスの脳内を白黒の明暗に点滅させた。
 そして、立ち上がろうとして、アリスは自分の足が動かないことに気づいた。
 もっというと、下半身全体がしびれたように動かないのだ。
 さっきの一撃で、背骨が折れたか、脊椎が脱臼したかで、結果的に、中にある脊髄の神経がやられたのだ、とアリスは理解した。
 とうぜん立てなくなったアリスは無様に転び、したたかに顔を地面にぶつけてしまった。
 額からほとばしる血が容赦なく両目に流れ込み、完全に何も見えなくなった。
 暗い。真っ暗。
 つぶされた左腕は、動かない。
 壊された下半身は、麻痺していうことをきかない。
 かろうじて生きている耳から、牛の頭が発するうなり声が聞こえてくる。
 この状況で、動かせるのは右腕一本だけ。
 そんなもので、一体どうしろというのか。
 牛頭のうなり声が、すぐそばまで近づいてきて、アリスは、自分が殺される、と悟った。
 この戦闘の流れから考えて、相手は容赦する気はないだろう。
 間違いなく、アリスは殺される。
 あまりにも、あっけない最期だ。
 
 視界を奪われたアリスは、闇の中で考える。
 これで、いいのかしら?
 ――いいでしょ。この六十年間だって、死んでいたようなものだし。
 このまま、終わっていいのかしら?
 ――いいでしょ。どうせすることだってないわ。人形ひとつ、まともにつくれないのに。
 でも、まだ、自分は何もしていないわ。このままじゃ……。
 ――このままじゃ?
 魔理沙に笑われてしまうわ。叱られてしまうかも。
 ――何いっているの? 魔理沙は、もうとっくに……。
 わたしは認めてない。そんなの、わたしは、認めていないんだもの!
 
 このままでは終わりたくない、とアリスは願った。
 死にたくない、とアリスは叫んだ。
 死にたくない。
 死にたくない。
 死にたくない。
 化け物のうなり声がひときわ大きくなって、まさにその大きなこぶしがアリスめがけて振り下ろされようとした瞬間。
 ふわり、とアリスの体が浮いた。

 
       9


 アリスのちょうど真下から、化け物のこぶしと地面が衝突する音が聞こえた。
 アリス自身の体は、ぐらぐらと揺れている。
 何が起きたのか、アリスは懸命に理解しようとした。
 どうやら、自分の近くに何かがあって、そのおかげで宙に浮くことができて、化け物の攻撃を間一髪でかわすことができた、らしい。
 そう理解したアリスはまだ動く右腕を動かして、自分の近くにある何かに、必死にしがみついた。
 すでに左腕はつぶされ、腰は壊され、視界は奪われている。
 アリスは、右手の感覚に全神経を集中させた。
 その右手の指先から、伝わる感触。
 ごわごわとした布。
 ほのかなぬくもり。
 そして、かすかに感じ取れる鼓動。
 それらすべてに、アリスは覚えがあった。
 指先が、がくがくと震える。
「ま、まさか……」
 目の見えないアリスの鼓膜を、聞きなれたはずの声がふるわせた。
「まったくアリスは、ドジなんだから困るぜ」
 空を飛ぶ、このスピード。
 この洋服。
 このぬくもり。
 この鼓動。
 そして、この声。
 間違いない。間違えるはずがない。
 目が見えなくても、声だけでも、右手の感触だけでも、間違えるなんてありえない。
「魔理沙! 魔理沙なんでしょう?」
「大声出さなくても聞こえてるぜ」
「あ、ああ……どうして……どうしてよ?」
「そんなことより、次がくるぜ」
「つぎ?」
 言い終わらないうちに、アリスの頭の横を、巨大なエネルギー波が通り過ぎていくのが、感覚だけでわかった。さっきまでの経験から、それが化け物の放つ白い閃光である、と理解できた。
 暗闇の中で、アリスのからだが、時計回りに動き始める。
「魔理沙、そのまま時計回りに回避しちゃだめよ!」
「わかってるぜ」
 アリスのからだが宙で急停止して、反時計回りに動き始める。
 魔理沙が切り返しをおこなったのだ、とアリスは理解した。
「距離をとって! もっと! あの化け物、踏み込みが早いのよ!」
「大丈夫だって」
「大丈夫なら、わたしはこんな無様な格好をしてないわよ! とにかくぶっ放して!」
「おいおい、何をだよ」
 空中を高速移動しながら、会話は続けられている。
「もちろんスペルカードよ! マスタースパークを打って! 手加減無用よ!」
「あー、そりゃ駄目だぜ」
「どうしてよ!」
「八罫炉、故障中なんだ」
「はあ?」
「なんかさ、夜中にさ、急に暴走しちまったんだ。まいっちまうよな」
「そ……それって……ねえ、まさか……」
 『六十年前のあの日』の、あのときの……。
 アリスの右手が、魔理沙の服を、ぎゅうっと強くにぎりしめた。
 
 ぐるりぐるりと、アリスの頭の中がまわりはじめる。
 出血のせいか、アリスはかなりもうろうとしていた。
 たった今、かわしている、この会話。
 アリスはケガのせいで、とうに意識をうしなっているのかもしれない。この会話は、実はアリスの妄想にすぎないのかもしれない。
 それともアリスは、すでに化け物に殺されているのかもしれない。この会話は、実は死人同士の会話なのかもしれない。
 なにが本当で、なにが嘘なのか。
 アリスには、もうわからない。
 なにも、わからない。


       10


「おい、アリス、何かスペカは残ってないのか?」
 不意に訊かれて、アリスの意識が、あわてて魔理沙のところにもどってきた。
 これが本当でも嘘でも死人の会話であっても、魔理沙に訊かれた以上は、答えなくてはいけないのだ、とアリスは感じていた。
「え? ああ、スペルカードはもうないの。上海人形だけは、まだ残ってるはずだけど……」
「そうか、だったらまあ、心配いらないな。スペカなんていらないぜ」
「む、無理よ。通常弾幕は跳ね返されるわ!」
 するどく風を切る音が、アリスの耳元を通り過ぎていった。
 おそらくは、化け物のこぶしか足かが、空を切った音なのだろう。魔理沙は攻撃をうまくかわしてくれているようだったが、目の見えていないアリスにとっては、音でしか判断できないので、恐ろしいことこの上ない。
 暗闇の恐怖にかられて、アリスは思うままに叫んだ。
「逃げて構わないわ、魔理沙! いえ、逃げなさいよ!」
「おおげさだぜ、アリスは。いいから、上海を呼び戻せよ」
「ちょ、ちょっと! どうするつもりなの?」
「これをやるのは、あれだ、永夜抄のとき以来だな」
「え? ……まさか……マリス砲?」
「アリス、上海を前に出して、レーザーをぶっ放すんだ。人妖切り替えのタイミングは、こっちでとってやるからさ」
「ちょっと、わたしはこんな状態なのよ? 本当にやるの?」
「だって早くしないと、あの霊夢が来ちまうぜ」
 魔理沙にけろりと言われて、アリスは血にまみれた唇を噛んだ。
 
 魔理沙は、いつだって勝手なことを言う。
 いつだって勝手にアリスの家までやってきて、
 勝手にお茶を飲みたいと言いだして、
 勝手に一方的な話をしはじめて、
 勝手に人のものを借りていって、
 そして、最後は勝手に死んでしまった。
 いつだって、アリスのことを引っかき回していくのだ。
 いつだって、自分勝手。
 いつも、自分勝手。
 そしてアリスは、いつだって、魔理沙なら仕方ない、と思ってしまう。
 それがいつものことだから。
 今だって、なんだか仕方がないように思えてきて、言われたとおりにする。
「ああん、もう! 上海、こっちに来て!」
 『シャンハーイ』
 下の方から応答が聞こえてきて、アリスは感覚だけで、上海人形を魔理沙の前に設置する。
「ぶっ放せ!」
「わかってるわよ!」
 最後の気力をふりしぼって、アリスは上海レーザーを放つ。
 不意に、アリスの両側に強力な魔力が発生した。一定間隔でわきおこるそれが、魔理沙のマジックミサイルであると、アリスは判断できた。
 自分の前方から、化け物の咆哮が聞こえてくる。
 それはさっきまでのものとは、明らかに違っていた。
 苦痛の強いうねりが感じられ、悲鳴のようにも感じられる。
「効いてるのね?」
「ああ、いけそうだぜ!」
 それに対してアリスは、こたえることができなかった。
 アリスの感覚は、急激にうしなわれつつあった。
 残っていた気力と体力、そして魔力を、すべて上海人形に流し込んだからだ。
 頼みの右腕の感覚さえ、おぼろげなものになりつつある。
 さっきまで明瞭だった、魔理沙の声さえ聞きとりにくくなっていた。
「魔理沙、いま、なんて言ったの?」
「……」
「よく聞こえないのよ!」
「……」
「魔理沙、ねえ魔理沙」
「……」
「魔理沙! 魔理沙! 魔理沙ったら!」
 そこでアリスの意識は、完全に途切れた。


       11


 アリスが目を開いたとき、そこにうつったのは、見覚えのある天井だった。
 古ぼけた、木組みの天井。
 六十年前に、何度も目にしたことがある。そう、ここは博麗神社の母屋だ。
 アリスが視線を横に動かすと、そこには正座をしている老婆がひとりいた。
「あら、目が覚めたのね、アリス。ちょっと寝すぎじゃない?」
「……どれくらい?」
「丸三日、ってところかしら」
 アリスは、包帯だらけの自分のからだを眺めた。額の血は止まっていて、左腕もかすかだが感覚が戻り始めている。下半身のしびれは、きれいに治っていた。
 妖怪であるアリスは、人間よりも、傷が治るのが早い。
 アリスは、布団のうえに、ゆっくりと上半身を起こした。霊夢から湯のみを受け取り、中に入っていた白湯をひとくち飲んでから、おもむろにたずねた。
「あの化け物、どうなったの?」
「封印されたみたいね」
「どうやって?」
「……およ? あなたが封印したんでしょ?」
「はぁ?」
「あの子が、『封印の術式はアリスさんのものに間違いない』って言ってたわよ」
 あの子、というのは、現在の博麗の巫女のことだろう。ただ、もちろん、アリスはそんな話は信用できなかった。
「そんな……そんなはずはないわ」
「あら、あの子が嘘をつくとは思えないけどねぇ」
「嘘よ。ありえないわ。あの巫女が嘘つきなのよ」
「こらこら、ぼろぼろになって倒れていたアリスをここまで運んできたのはあの子なんだから、そんなこと言わないの。それに気になるなら、あとで自分で調べに行ったら? 封印の術式を誰がほどこしたのか、すぐに確認できるでしょ?」
 アリスは、しばらく沈黙したまま、霊夢の顔を眺めていた。
 博麗霊夢の表情は笑顔だったが、どこかかすかに黒いものが混じっている、ようにアリスには感じられた。
「ねえ、れいむ。確認したいんだけど」
「なぁに?」
「あなた、こうなること、わかってたんじゃないの?」
「……およ?」
「およ? じゃないわよ。あの化け物退治に行った先で、なにが起こるのか……いえ、わたしが誰と出会うのか、わかってたんでしょう?」
「なんのことやら、さっぱりね」
「れいむの言うとおりだったわ。『アリスだったら、片手で勝てるでしょうよ』ね。もう最後の方には、右手しか動かせないような状況だったから。そういう意味では、片手だけで勝ったようなものよ」
「あらあら」
「全部、わかってたんでしょう、れいむ。あえてわたしを選んで退治に行かせたのも、何が起こるのか知っていたからなんでしょう」
「まあまあ」
「ごまかさないで。わたしにとっては、とても大事なことなのよ」
 アリスは、深呼吸してから、真剣な表情で言った。
「本当のことを言って、れいむ。お願いよ」
 霊夢の返事は、ない。
「ちょっと、れいむ?」
「……………」
「れいむ?」
「……すぅ……すぅ」
「急に寝るなっ」
 そう叫んだアリスは、思わず笑ってしまった。
 アリスが笑ったのは、六十年ぶりだった。
 あまりに久しぶりだったから、笑い方を忘れていて、ほほの筋肉が痛かった。
 あまりに痛かったから、がまんできなくて、目にうっすらと涙が出てきた。
 アリスは、そっと、右手で顔をおおった。
 霊夢は、そんなアリスの様子を、薄目をあけて見ていた。
 にやり、と霊夢が笑った。


       12


 その日も、パチュリー・ノーレッジは、湖そばの木陰で本を読んでいた。
 そこに、ひとりの人物が、向こうから歩いてくる。
 まるで夏空を思わせる、突き抜けるような青色のワンピース。
 襟と袖の部分は、透けるように曇りのない白色をしている。
 丁寧に整えられた金色の髪の毛は、太陽のようなまぶしい輝きを放っていた。
 ブーツの足音も軽やかに、躍動感あふれる歩調で、その人物は近づいてくる。
 六十年前とまったく同じ服装をしたその人物を、パチュリーは黙って見つめていた。
「あら、パチュリー。久しぶりね」
「……アリス・マーガトロイド」
「どうか、したの?」
 パチュリーは、紫色の頭を、ゆっくりと振った。
「……いいえ、べつに。ほら、ケガをした、って、噂で聞いていたから」
「ケガはすぐに治ったから、心配いらないわ。ただ、家の掃除に手間取って、時間がかかってね」
「あら、そう」
「ずっと、まともに掃除していなかったから。六十年ぶんの汚れを落とすの、結構たいへんだったわ。おかげでちょっとした、筋肉痛よ」
 パチュリーは小さくうなずくと、視線をアリスの右手にうつした。
「ところで、それは何?」
「何、って。ほうきに決まってるじゃない」
「なんで、ほうきを持っているの?」
「魔法使いなら、ほうきを持ってて当然でしょう? そんなことも知らないの?」
 アリスの肩の上で、『バカジャネーノ』と上海人形がうそぶいた。
「……上海を見るのも、久しぶりね」
 まばたきを繰り返したパチュリーに、アリスが笑顔で言った。
「ねえ、パチュリー」
「なぁに?」
「あなたは、わたしがとうとうおかしくなった、と思うかもしれないけど――」
 アリスの目の中にある、青色の瞳が、まるで宝石のようなきらめきを放っている。
「――わたし、魔理沙に会ったわ」
 パチュリーは、そのアリスの視線を、真正面からうけとめた。
「そう。安心したわ」
「安心?」
「頭がおかしくなったの、わたしだけじゃなかったみたいだから」
 アリスの目が、ひとまわり大きくなる。
「パチュリー……もしかして、あなたも?」
「あの図書館、ちょっと変なのよね」
 パチュリーは、左手であごを触って、空を見上げてから続けた。
「知らない間に、本の位置が変わっていたり……わたしひとりしかいないのに、他にも本をめくる音が聞こえてきたり……ひどいときには、本がなくなっていたり……あとは小悪魔が、誰かがいるとかいって、騒いでいたり……」
 パチュリーはアリスに視線を戻すと、右手の本をかかえなおした。
「根拠はないけど、直感的に、それは魔理沙のしわざだ、とわたしは確信していたわ。……だから、あの図書館にいると、落ちついて本を読めなくって。わたしがこうして外で本を読んでいるのも、そういう理由だったんだけどね」
 パチュリーは、最後に、にっこりと笑った。
「アリス、あなたも会ったっていうのなら、間違いじゃないのかもね」
 アリスは、上海人形と一緒にしばらく腕組みをした後で、つぶやいた。
「もしかして、魔理沙は、自分が死んだことに、気づいていないんじゃないの?」
「かもしれないわね。突然の事故だったでしょうから」
「つまり……幽霊になっちゃったの?」
「亡霊、という表現の方が、適切かもしれないわね。どっちも同じようなものだけど」
「三途の川を渡りそこねたのかしら?」
「もしくは、巫女の葬儀のやり方がいいかげんで、成仏したくてもできなかったのかも」
「あ、その可能性は高そうね」
 アリスとパチュリーは、ふたりでくすくすと笑った。そのあとで、アリスがぱしん、と両手を合わせる。
「そうだ、久しぶりに、博麗神社で宴会をしましょうか」
「……宴会? 博麗神社で?」
「そ。れいむだって、毎日寝ているだけじゃ退屈でしょうし。あのままじゃかわいそうよ」
 パチュリーが、ちいさくうなずいてから、少しまじめな顔になった。
「レミィを……レミリアを、誘ってもらえる? ……あのままじゃ、いけないと思うから」
 パチュリーの視線の先には、紅魔館を隠す、紅色の霧が存在していた。
 光も通さないその濃い霧の向こうで、パチュリーの友人は、今でもただ苦しみ続けている。
「わたしがなにを言っても、ダメなの。でも、アリス、あなたなら……誰よりも苦しんだあなたの言葉なら、レミィにも、きっと、届くと思うから……」
 アリスが軽やかにウインクをした。
「お安い御用よ。じゃ、さっそく行きましょ。ほら、善は急げ、ってことでね」
 アリスとパチュリーは、ふたりで肩を並べて、大きく一歩を踏み出した。
 吹き抜ける風が、やさしくふたりのほほを撫でていった。
                                                                     (了)
お疲れさまです。

初投稿になります。
自分の思うがままに、好き勝手に書いてしまいました。
また、横書きに慣れておりませんので、色々と不手際があるかもしれません。
大目に見ていただければ幸いです。

今後ともよろしくお願いいたします。

※2011.11.15 メールアドレスを修正しました。
高橋A全
[email protected]
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.1040簡易評価
4.90名前が無い程度の能力削除
ありきたりだけど面白かったです。
「うー」がなぜ引きこもっているのか
続きを期待します。
10.90名前が無い程度の能力削除
人間組死亡後やバトル描写のある作品って個人的に好きじゃないんですが最後まで読んでしまった。面白かったです。
13.100名前が無い程度の能力削除
早苗は現人神だから、死んだら神になるんじゃ?
29.90名前が無い程度の能力削除
新機能「おまかせ表示」のおかげで良い作品に出会うことができました。
心の傷から再び立ち上がって半歩を踏み出す物語というのが、個人的には大好物です。
ラストシーンのアリスは、六十年前よりもいい顔をしてるんじゃなかろうかと思いました。