小夜めいた軒先の誘蛾灯に、儚げな虫達が群がっている。
アパートの中はもう夜だった。闇に目が慣れる前に、カーテンの内側に蓄積された夏の暑さが肌を汗ばませた。西日に透けたその向こうに、降りしきるひぐらしの声。深い吐息を丸一日分落とした。
まだ、わずか一週間。なのにあっという間に虚無感が育って、疲れ切り声を出す気力もない。
蓮子、蓮子と友達に呼び止められるたびに、求める声でないことを知ってがっかりした。その落胆が疲れになる。平静を装って先生の話し声に耳を傾けていても、気づけば心だけ違うところに一人歩きしていたり。
一日がひどく早かった。今から過ごす、明くる朝までの夜の時間が異様に長いくせに、キャンパスを歩いている日中の時間は風みたいに流れていく。はずればかりの神経衰弱のようだ。ただ「寂しい」と、一言だけ自分に正直になれたら、もうちょっと楽だったかもしれないけれど。
ずっと平気な顔をしているのは、意外に疲れるのだと知った。
◆
その日は、雨だった。
まるで梅雨が戻ってきたような、肌寒い雨。
浅葱色の傘を片手に、電車で一駅だけ京都の街を離れた。たたんだ傘の先が作る水溜まりに、持て余した視線を溶かして捨てる。
視線はやがて車窓に上り、斜めに流れる水滴に移ろうと、最後は灰色の洛の街を眺めた。まるで箱庭のようなその古都と、新しい学舎が見せる蒼白い壁。
生まれて初めて、宇佐見蓮子は神様を信じようとした。
声なき声の呼びかけに、古びた列車の振動だけが呼応する。
――今日こそは、彼女に逢えますように。
陰鬱な天気のお陰で、洋菓子屋さんに他の客は居らず、目的の物はあっさり買うことが出来た。あっという間の買い物を終え、周囲を包む世界はクリームの匂いからまた小糠雨になる。
雨の表通りは土の匂いがした。人影は無かった。使われなくなって無造作に束ねられたラバーの電線が側溝に半分身を埋めていて、ずっと昔の朽ち果てた工事車両にしなだれかかっている。区画整理にも壊されきれずに残った小さな神社、ひび割れたアスファルトの裂け目、旧式の電光式道路標識。古びた駅の壊れた券売機。まるまる一つ封鎖されて、風化した昔のプラットホーム。
カーキ色の古い電車に揺られて、上り列車の窓に洛の街はあっという間に見えてくる。たった二個こっきりが寂しく肩を寄せ合うケーキ箱の、光らぬその金色のリボンを、帰り道の間に細い指で何度もなぞった。
京都駅までのたった一駅、人気のない焦茶色の座席で、指は何度も意味のない往復を繰り返す。モノクロームの向こう街。まるで別の世界が、あちこちに覗いている気がした不思議な街。
あんな街は、本当は一人じゃ勿体ない。
できることならやはり、彼女と歩いてみたかった。
けれど今日、その人は居ない。
古都は朝よりも雨に煙り、モノクロームに沈んでいる。まるでデッサンの木炭で刷いたみたいに、箱庭めいて平坦に見えた。
◆
それは、守られることの無かった約束。
また明日ねと、笑顔で交わしたバイバイ。
バイバイ。
そう言って、小さく手を振った後も、級友はまるで自分達が悪かったと言わんばかりの顔をした。
笑い方さえ忘れているのに、時々無理に明るく振る舞おうとするから、よけい暗い自分が際立つと分かっている。分かっていてもそうするしかなかった。級友達もまた、無力だと分かっている言葉を空虚に投げつづけて、慰めたつもりになっていた。
ねえ元気出して、などと、手垢の付いた言葉は失速する。力ないキャッチボールは、手許にすら届かない。
最後には親しげな、「バイバイ」の一言。
日が変われば再会出来ることを保証された、明るいさよならの言葉。
病院の診察室の前、リノリウムの上で別れを告げてから七日間。もう居るはずもないと分かっているキャンパスに、気づけば幻想を追いかける自分が居た。
――逢いたい。
希望を抱けば落胆の可能性が生まれる。求めれば求めるほど寂しさになると分かっていたのに、モノクロームのキャンパスをちょっと離れただけで辿り着く感情はたった一つ。
――逢いたい。
それだけしかなかった。
◆
雨足は次第に強まった。十五時を過ぎた頃には風が出た。
パステルの傘が玄関先でいくつも咲いては遠ざかり、物憂げな人待ち顔が代わる代わる横に並んで、すぐに目を輝かせて誰かに手を振る。
ブランド物の真っ黒な傘を差した宇佐見蓮子は、ケーキの箱だけ絶対濡れないように、その腕の中で大事に抱えた。
モノクロームの新緑。沈んだ街並みの色。蝉の声も、夏色も、すべて雨が奪っている。学生の日常だけが、地上の何にも縛られない明るい帚星のように、いつもの笑い声で追い越す。
その声に混じっていれば、今にも思いきり肩を叩かれそうな錯覚を感じた。
――逢いたい。
宇佐見蓮子の日常は何ら変わっていない。キャンパスに行って学友に混じり、バイバイを言って、雨が降れば傘だって差す。
ただ、いきなり消えた友達の部分だけぽっかりと穴が空いているのを否定しようがなかった。
帳のような雨が降り続けている。心の穴は暗くただ拡がるばかりで、何かを考えることすら面倒くさくなっていた。
短い光芒が、モノクロームの中を少し横切る。
対応など、出来るはずがなかった。
――あっという間の出来事だった。
時代遅れの大型車が真横を通り抜け、蓮子の真横で大きな水溜まりを踏みつける。
モノクロームの傘で守れなかったのは、それが風に煽られ飛ばされたから。丸めた背を咄嗟に向けたのは、その内側でケーキを庇ったからだった。
……。
ハンカチを貸してくれる者が居た。
怪我を心配してくれる者、遠ざかる車を大声で非難する者。
雨中の大学に、パステルの傘がいくつも寄り集まる。雨風を遮る体温の群れに囲まれても、素直にありがとうさえ言えない今の自分を呪うばかり。
苦し紛れの笑みで、逃げるようにその場を立ち去る。
雨の寒さが少し遠ざかり、裏腹の寂しさが倍以上に高まっていく。
◆
――逢いたい。
けれど、彼女は今日も居なかった。
守られることの無かった約束。
また明日ねと、笑顔で交わしたはずのバイバイ。
しばらくお友達には逢えないよと告げた医者にとって、「しばらく」はどれくらい長いのだろう。いつになったら、しばらくはしばらくじゃ無くなるんだろう。
蓮子はずっと待っている。
一週間待ち続けた。
バイバイで繋ぎ止めた明日が、まだ来ない。
人は誰もが、冷たい雨の中にいて、モノクロームの世界にパステルの傘を上手に差して生きている。
だから、あの子が持って行ってしまった傘を返してくれない限り、灰色の雨はいつまでもしのげない。神様が居るのなら、雨をしのげる傘が欲しい。
返して欲しい。
この日常に、いつしかかけがえの無くなっていた少女を。
骨の歪んだ黒い傘の中に、ケーキを閉じ込めて歩いた。
逢いたい。
逢いたい。
もう一度だけでも、良い。
――マエリベリー・ハーンは、もう病院にすら居ない。
◆
グレーに沈んだ京の街。一夜の夢だったように、後の祭の寂しさに変わる。
何度も通ったアパートに、必死で守り抜いたケーキを運びきった。金色のリボンに少し泥がついてしまったけれど、箱さえ開けなければ分からない。
ケーキは買ったままの美しさで、箱の中にある。
箱さえ開けなければ、そこにケーキは必ず残っている。
――逢いたい。
何度も通ったあのアパートに、メリーは居る。
黄色の歩行者信号。一方通行の赤い標識。今は流行らない化学性の街灯が案の定故障して、誘蛾灯のように点滅する小さな辻の角。
歪んだ路側の白線。地下水道の穴を埋めた痕。まだ空にある電線。
古びた木造の二階、何度も二人でお喋りをした想い出の場所。
蓮子は迷わなかった。
あの子は、メリーはきっと、ここで待っているはずだ。
――突然途絶えてしまった日常が、戻ることを一途に信じて。
扉の前で振り返った街は、モノクローム。
とうとう心の糸は切れて――その暗い部屋に繋がる扉を、蓮子は、ノックした。
「きゃあああああああ!! ちょっと、来ないでって言ったじゃないの蓮子!!」
「こらっ、抵抗しないの……えいっ!」
「いやあッ!」
開閉の攻防になった襖を健康体の腕力で無理矢理ねじ伏せ、布団に逃げ帰って敵将が籠城したところを無情にひっぺ返す。
「……きゃああああッりんごみたい! メリー可愛い!」
「うるさぁい!」
最後までメリーが隠そうとしたその顔は、果物のように膨らんだ頬っぺたが特徴的。その理由ならば、誰より蓮子がよく知っている。
メリーを病院に連れて行ったのは彼女だからだ。そしてその病名と「しばらく逢えなくなる」との旨を、夕方無人の待合いロビーで医師から告げられた唯一の人物が彼女だからである。
「うわすっごーい……噂には聞いてたけどすっごいわね。一週間も経っちゃったからもう見られないと思ってたけど、来てみてホント良かった」
見世物にされたメリーが、当然愉快な筈はない。
「何で来たのよ! 逢っちゃダメって言われなかった!?」
「残念でした。健康手帳を調べてみたらば、何と子供の頃にやってたみたいなのよ私」
あっけらかんと告げた蓮子。
メリーは、がっくりとうなだれた。
一度でも罹かった者には面会謝絶を決して強要できないその病気の性質が、今の彼女には残酷だ。童女のように膨らんだ頬を、それでもメリーはしつこくそっぽへ向ける。
「恥ずかしい……こんな歳になっておたふく風邪なんて自分が嫌いになる」
「気にしないでメリー。ちゃんと他の子達には内緒にしてあげてるから」
「当たり前よ。けど貴方に知られたのが一番の痛恨なのよ」
臍を噛むメリーの肩が、そこで不意にぐっと掴まれる。
抵抗の間もなくくるりと身体を回され、また蓮子は吹きだす。
「ああもうああもう、かわいいッ」
「ねえ蓮子ホント一回鼻血とか流してみたい? ねえ貴方一体何をしに来たの!?」
「いや何って、メリーのおたふく風邪を見に来たに決まってるじゃない。熱があるときは悪いと思って、ちゃんと一週間も待ってあげたのよ」
「そんなに楽しみにしてたの!?」
「うん」
「……そんなに、私のおたふく風邪が、楽しみだった?」
涙目のメリーに、蓮子は満面笑みで頷く。
「うん」
「死ね」
ひどいわ、と抗議の声を上げた蓮子には間髪を入れずメリー渾身の体当たりが炸裂した。ひとたまりもなく相棒が畳にひっくり返った隙に掛け布団を引っ被って、メリーは今度こそかたつむりに擬態する。
「ねぇ、メリーったらあ。もっと見せて魅せて、メリーさんのお顔ぉ」
「………………」
蓮子がゆさゆさ揺する布団は、軽い岩のようにただ揺られるばかりだった。
静まり返った室内。
四角く切り取られた世界の中には、モノクロームの街で見つけられなかった懐かしい安心が漂っていた。
布団を揺する手を止めて、蓮子はふっと笑う。
「ねぇメリー。これ、お土産。置いておくわね」
「……?」
大きな芋虫が蠢き、布団が何やら悪戦苦闘した。
最終的には、鼻から下を布団に埋めて目だけ出すというメリー苦心の作戦が展開される。
蓮子が置き去った紫色の紙箱を芋虫は眺め、その口を閉じる金色のシールの上に、のたくった筆記体の文字を読んだ。
「……向日町の『アルコバレーノ』じゃない。あそこすぐ売り切れでしょ、よく買えたわね」
「さすがメリー大先生、甘い物には詳しいじゃない」
「お見舞い?」
「まあね」
甘い生クリームの匂いが濃厚に漂うのは、今も昔も上等なケーキの証だ。
おたふく風邪でも鼻は利くのか、妙に幸せそうな顔のネジが緩んでいる。
「ありがとう……随分遠くまで出掛けたものね。それとも、何か用事でもあったのかしら」
「別に。メリーのためにケーキを買おうと思ったから行っただけ」
「……ほんと?」
「うん」
「ふうん」
へへ、と胸を張ってみせてから、蓮子は背を向ける。
「それ、どっちもメリーのだから」
「ありがと……って、え? 二個買ってきてあるのに?」
怪訝そうな声に、力無い笑いで蓮子は答える。
「うん。いいの」
淡泊に呟いて、来訪者は暗がりに沈んだドアノブに手を掛ける。
「――蓮子」
患者の声が、追いすがった。
「蓮子。ねえ、蓮子ったら!!」
一際強い声で、蓮子の首がようやく少し振り向く。
「蓮子さ、もしかして」
「何よ」
「寂しかったんじゃない?」
悪戯っぽい顔で、メリーが笑う。
ドアノブを握っていた蓮子の指が、ほどける。止まった。モノクロームの景色に繋がるドアが、しばらくの間開かずの扉になって蓮子に通せんぼする。チクタクと刻む置き時計の音に乗って、焦りすぎた一日が現実からようやく追憶へと変わる。
「……寂しかった? ばか、そんな訳ないじゃないの」
ドアノブを握り直して、蓮子は高らかに笑う。
「あら、違うのかしら」
「当たり前よ、残念でした。メリーのおたふく面を一目拝みたくて、ちょっと押しかけてみただけよ!」
喋っていく内に、気持ちはどんどん明るくなっていった。
本音はもちろん、言葉とは少し違う。ほっぺた以外いつも通りのメリーの顔が、何だかひどく懐かしい顔に見えた。今ここにあるメリーの顔を見て、今ここにある声を聞いた瞬間、突っ張っていた何かが急に緊張を失ったのだ。
止まっていた手に力を籠めて、ドアノブを回す。その瞬間、有彩色を纏った目映い光が暗い部屋の中へと飛び込んできた。蓮子は目を瞑り、メリーも目を瞑る。
光に呼びだされるように、おたふく風邪の患者が布団から立ちあがる。
「わあ眩し――雨、上がったのね。今日一日、ずっとひどいお天気だったのに」
しゃっと音を立てて、玄関と逆側の窓のカーテンをメリーが開けた。
双方向から等しく光芒が流入し、逆光を失った部屋の中でメリーが息を呑む。
「蓮子、ちょっとどうしたのよ、その服!」
ぐっしょりと濡れそぼり泥だらけの背中は、メリーの素っ頓狂な叫び声にも微動だにしなかった。英雄のように佇んで、宇佐見蓮子は玄関口から夕焼けを見つめる。
メリーが足音を立てて駆け寄ろうとした時、ようやく蓮子はくるくるっと振り返って、満面の笑顔でメリーを迎え撃った。
「あは。やっぱおたふくメリー、おたふくかわいい」
「――きゃっ!?」
思わぬ逆襲にあって、我に返ったメリーはまたしても叫ぶ。逃げ慣らされた兵士のように布団へ潜り込んで、そのままかたつむりに逆戻りする。
そのまま、暫しの時間が流れた。
部屋の中にぽつり取り残された、黄昏色の布団のかまくら。物音一つ立てない沈黙の攻防を経て、哀れな被害者が恐る恐ると顔を出す。
「もうっ、蓮子のバ……!」
――そして被害者の叫びは、言い終えることを世界に許されなかった。
目をむいて睨んだ先に、黄昏色の世界へと繋がった無人の玄関を見るのである。
夕暮れの風で、ドアが小さく揺れ動いていた。ぎし、ぎしと、静かな部屋に古びた音が木霊している。
◆
不思議な夢を見ていた気がする。
だからだろうか、何となく「バイバイ」すらも言えなかった。
空色の水溜まりを浮かべた見慣れた道も、今はその先が知らない場所へ続いている気がする。
モノクロームの街に出鱈目な絵の具が降りかかって、雨上がりの乱暴な光できらきらと輝かされている。あのモノクロームだった世界は、例えば世界の昼と夜、ただの晴れと雨の二面性などではなく、夢と現みたいに、裏表を結界で繋いでいる別個の世界なんだろうと蓮子は思った。
世界が一つある限り、並行する世界はどこかに必ずある。
ある種の秩序であるとか、ある種のエントロピーのために存在している。
平穏に丸まった世界で、時折歪む部分の辻褄を合わせるために、モノクロームはどこかに存在している。
世界にも心にも。
東空、霧雨のキャンパスに描かれた七色は確かに瞭然としている。
西から光、東には雨。蓮子が見た空の弓は子供の落書きのように、分かりやすく七色で街を跨いでいる。
虹は必ず、雨雲の下にしか架からない。
虹の下には、だからいつもモノクロームがある。
(了)
深読みしたら悪い予感しかしないからハッピーエンドだと思うことにしたい
おたふくメリーが可愛い話だ。
という催眠を誰かかけてください。
雨音とか聞きながら感傷に浸っていたい気分です。
構成の素晴らしさと最後の色の鮮やかさに参りました。
とてもおもしろかったです。
ちゅっちゅ
きっとクラスメイト達もおたふく風邪だけでこんなに心配する優しい人達なんだね
ハッピーエンドだと信じたい。
最初の深刻そうな蓮子はどこ行った!
おたふくメリーさん……さぞかし辛かったでしょうね(苦笑)