「なあ、霊夢」
縁側で隣に座る魔理沙に呼びかけられたとき、私はうつうつと春の日差しにまどろんでいた。何分ほど居眠りしていたのだろうか、三十分か、一時間か、いや一分ほどかもしれない。少なくとも、眠る前よりも随分神妙な声色で声をかける魔理沙に、私は少しびっくりした。浮雲と一緒に浮かんでいるような気分だった私の思考は、一気に地面すれすれまで降下する。
「今、私たちは十と少しばかりしか年をとっていないわけだ。妖怪からしたら赤子のようだし、ましてや幻想郷創立前から生きてる紫にとっちゃ、まるで豆粒みたいにちっさい存在だ」
珍しいシリアスな雰囲気に、私は面白がって返答をしなかった。春風の起こすかすかな木々の囁き以外は、ほとんど無音の空間だ。構わず、魔理沙は言葉を続ける。縁側に寝そべっている私からは、庭に生える桜のほうを向いている魔理沙の顔色を窺い知ることは出来ない。
「何十年も経って、この木がもっと大きくなって老木と言われるくらいになって、私たちがうんと年をとったとき、この幻想郷は変わってるのかな。私たちは、どんな世界を見るのかな」
少しだけ顔を上げて、空を仰ぐような仕草をとる魔理沙。うららかな日当たりの中で、彼女の被る魔法少女帽子は、光に隔絶されたようにつややかに漆黒を灯している。
しばしの沈黙が流れる。眠気はいつの間にかどこかへ飛んでいた。気だるい身体を起こして、魔理沙の横顔を見る。帽子を目深に被っていて、やはりその表情は知れない。泣いているわけでもないが、笑っているようにも見えない。
一つ、ため息をついて、私は答えるように口を開く。
「さっき、こんな夢を見たんだけどね――」
アリス・マーガトロイドは急いでいた。普段の冷静な彼女からは想像もつかないほどに、ひどく慌てた様子で。それは百病百毒の潜む魔法の森を、いつもは飛んで移動する彼女が、今日に限って走って渡っていることからも知れる。周りを飛び交う三体の人形が、迫り来る化け物生物から彼女を護衛しつつ、心配そうに彼女の様子を窺う。ドレスの裾が泥に汚れるのも構わず走る彼女は、作られて以来生活を共にする人形たちから見ても異常だった。
「ああ、アリス。ようやく来たか」
魔法の森の入り口が近づいて来ると、聞きなれた男の声が聞こえた。魔法の森に店を構える優男、森近霖之助。同じ地域に住む者として、面識はそれなりにある。何度か店に道具を買いに行くこともある。
霖之助は泥に塗れたアリスの姿を見て驚いたようだった。清楚で冷たい外面の彼女が、ここまで焦るとは思いもよらなかったのだ。それだけ、彼女のことを大切に思っているということだろうか。霖之助は小さく笑う。
「それで、あいつ、は」
肩で息をして、顔も上げずにぜいぜいと言葉をつむぐアリス。まさか、ここまで走ってきたのか、と霖之助は驚く。香霖堂とアリスの邸宅は結構遠い上に、幻覚キノコのせいで地面を歩くのでは通常の二倍近い時間がかかる。彼女なら、それくらいはわきまえているだろうに。それほどまでに、か。
「中だ。ちょっと危ない状態だから、早く顔を見てやるといい。竹林の女医が来てる」
「紫様、様子を見に行かなくていいのですか?」
不可視の森の邸宅で、九尾の式神、藍はソファに座る紫に声をかける。幻想郷の主である紫の安寧のため、結界に守られた幻想郷内にさらに結界を張り、周囲の喧騒から隔離されたこの邸宅は、常に静寂を保っている。
が、藍は心底落ち着かない気分だった。森の中ゆえに太陽光は通らず、薄暗い部屋の中で、紫がティーカップをソーサーに落とす音だけが聞こえる。悠長な動きに、藍は心中のざわめきを隠しきれなかった。耐えかねた藍はまたもや口を開く。
「紅魔の吸血鬼の睨みでは、そろそろ」
「知っているわ。でも、私はこれから用事があるの」
「方便です」
この非常時に焦りの色一つ見せない紫に、藍は不信感すら抱く。あれほど懇意にしていた彼女に、何故今になってこれほどまでに冷たくするのか。心の中では、今すぐにでも境界を通じて彼女の元に生きたいはずだろうに。
「顔の一つくらい見せたって」
「幻想郷は全てを受け入れる」
はっと藍は口を閉じる。厳かな、たしなめるような物言いが、自然と藍の口をつぐませる。後ろから紫に話しかけている藍は、紫の顔を見ることができない。声色からは、その感情の機微が読み取れなかった。この方は、何を考えているのだろう。
「それはそれは、残酷な話ですわ」
そう言って紅茶を一度に飲み干し、ゆっくりと立ち上がる紫。境界を開き、消える瞬間、藍は何故か紫の肩が震えているように見えた。
「そろそろ駄目ね。もってあと数時間かしら」
枕元で脈拍を計るのは竹林の名医、八意永琳。そっけない言い草にアリスは沸き立つ。
「そんな、蓬莱の薬とやらでどうにかならないの?」
「無茶を言わないでほしいわ。蓬莱の薬は禁薬、常人に使うことは許されないし、今使っても手遅れ」
悔しそうに唇を噛むアリスを、霖之助は見つめる。アリスに比べて霖之助はいたって冷静そのものだった。というのも、今日危篤の知らせを聞いたアリスと違い、店にたまたま来た吸血鬼から、彼女が近いうちに倒れる運命にあることを聞いていたからだ。そのときは霖之助もかなり慌てたが、いずれこうなることは知れていたことだし、今更驚くことでもなかった。
それでも、旧知の友がこうやって床に伏せる姿を見るのは悲しい。
「私に出来ることといえば、彼女の身体を騙してこの数時間だけ、自由に行動させることくらいだわ。全盛期のころとまでは言わないけれど、今よりはずっと楽にしてあげられる」
「それで、それでもいいわ。楽になるなら」
「それには及ばないぜ」
床から聞こえる声に、一同が振り向く。老い枯れ、顔中を皺に包まれた彼女は、苦しそうな顔で何とか上体を起こす。危険を察知した永琳が、とっさに彼女の身体を支える。
「起きてはいけない! まだ危険な状態を脱してるわけではないのよ!」
「へへ、そりゃ嘘だ。むしろ私は元気すぎるくらいだぜ。若いころみたいだ」
彼女は静かに、その枯れ木の枝のように細く枯れた指先を、永琳の手に置く。力こそ篭ってはいないが、強い意志を見た永琳はその体から手を離す。年相応に弱弱しく、屑折れてしまいそうな彼女だったが、その言葉尻は強く、到底強がりには見えなかった。それでも、ふらふらと身体を揺らす彼女の姿は心もとない。
「……あなたの意識がどれだけはっきりしても、過信できない。薬は飲んでもらうし、どこへ行くにも私たちが同行する。最後に行きたいところはある?」
言いながら、薬物投与の準備のために注射針を用意する永琳。やれやれ、という風に皺塗れの顔を歪ませた。霖之助は驚いた。先ほどまで死んだように眠っていた彼女が、今、まるで少女のように笑ったのだ。もう久しく見ていない表情に、霖之助はひどく懐かしく、そして寂しい気持ちになった。
アリスはといえば、静かに音も漏らさずに泣いていた。やはり、今日の彼女は彼女らしからない。冷酷な人間だとずっと思っていたが。こんな状況でも泣くに泣けない自分のほうが冷酷じゃないか。
「行きたいところか。そうだな」
ざわめくように、さえずるように、ささやくように。
「霊夢のところに、霊夢に会いたいかな」
魔理沙は、小さく呟く。
「こんなところにいていいのかしら。身体に障るわよ」
「いいの。この風が好きだから」
「そう、ならいいわ」
「……そろそろ、かしらね」
「私が見れる運命は『決まった未来』であって、『未来意志』ではないわ。だから、聞かれても私は答えられない」
「そう。でも私の運命はあと二時間なのよね」
「…………」
「きっとあいつは来る。私はお茶の用意でもするわ」
「……吸血をしたから、吸血鬼の力でその二時間、あなたは自由に動ける。全盛期のころとまでは言わないけれど、今はずっと楽でしょう?」
「ええ、ありがとう。二時間、私には長すぎるわね」
「……私はもうお暇するわ。じゃあ、元気でね、霊夢」
「そっちこそ」
「……紫」
香霖堂の奥、霖之助が寝泊りしている場所に、永琳、霖之助、アリスの三人が立ち呆けていた。三人の視線は誰かの眠っていた形跡のある布団の、その枕元に立っている紫に向けられている。永琳は驚愕、霖之助は無表情、アリスは怒り、それぞれの顔をそれぞれの感情が染める。
「何で、何でこんなことをしたのよ! 突然出てきて、突然……!」
怒りのまま、紫の襟元をつかんで恫喝するアリス。その目は、狂気とも言えるまでに見境を失っていた。当の紫は、無表情のままアリスを見下ろすように、あざけるように見つめる。
「薬剤は投与したけど、まだ危ない状態よ。どこに送ったか知らないけど、下手をすれば」
「下手なんてしないわ。私は彼女の行きたいところに送ってあげただけよ」
そう言って、アリスの手を払う。怒りと悲しみに顔を歪めたアリスの表情を見た紫は、気まずそうに目を背ける。永琳は、仕事を終えたとでも言うかのように、帰りの身支度を整えていた。それを見咎めたアリスが、きっ、と永琳を睨む。
何て冷たい奴だ、と思ったのだろうが、霖之助はそうは思わなかった。事実永琳はやれることは全て尽くしたし、永琳は、紫を胡散臭いと思いながらも信用はしている。紫の選択ならば、疑いの余地はない、と納得しているのだ。
それに、霖之助はアリスが来る前、永琳が臥せった魔理沙を見て、実に悲しそうな顔をしたのを知っていた。永琳とて、幻想郷から人が一人死んでいくのを、悲しいと思わないわけがない。ましてや、彼女は医者だ。あらゆる手を尽くしても救えない人間がいることを、悔しく思わないわけが無い。
「私を魔理沙のところに送ってよ。今生最後の別れも出来なかったのに」
「それは無理ね。あなたは邪魔になるわ」
「邪魔ですって?」
「そう。彼女が何故、神社を選んだか。何故今際の時に霊夢と会うことを選んだか。察しなさい」
冷たく言い放つ紫。アリスは静かに、顔を覆って膝をついてさめざめと泣き出した。もう会えないというのに、魔理沙に何もしてやれなかったことが悔しいのだろう。紫は既に境界の向こうに消えていた。どこへ行ったかは分からない。恐らく、次の巫女を探しに行ったか。絶望に包まれた部屋の中で、少女の慟哭ばかりが響く。
ああ、こんな感情になったのはいつぶりだろうか。僕だって、魔理沙に別れの言葉の一つもかけてやれなかったというのに。霖之助は眼鏡を外す。死に逝く幼馴染を想って、とめどなく流れる涙の筋を何度も拭き取る。
風が止んだ。ざわめき続けた桜の枝葉が、ぴくりとも動かなくなる。数十年前、同胞と埋めた桜の苗は、長い時を経て、こんなにも大きくなってしまった。それでも、今も鮮明にあの時のことを覚えている。不思議な話だ、と霊夢は微笑む。
「よう」
久しい声が耳に染みる。幾つかの瞬きの後、桜の木の横には、懐かしい幼馴染が立っていた。白黒の服は、老いても彼女の金髪によく映える。魔理沙はゆっくりとこちらに向かって歩いてくると、いつものように、いつかのように、縁側の霊夢の隣に腰を下ろす。
「お茶の用意は出来てるわ」
「ああ、サンキュ」
お茶を差し出した私に、慣れない礼を言う魔理沙。いつもは言わないはずだが、今日に限ってどうしたか。可笑しくなって霊夢は思わず大笑いする。
「何だよ、そんなに可笑しいか」
「だって、今日に限ってどうしたのよ。お礼なんて。魔理沙らしくもない」
「最後くらいいいじゃんか」
最後、と妙にしんみり言う魔理沙。ふう、と霊夢はため息一つついて縁側に寝転ぶ。こうも真面目な魔理沙はいつぶりに見ただろうか。まさか、魔理沙のほうから『最後』なんて言葉が聞けるとは思わなかった。魔理沙らしくない。弱弱しい言葉だった。
「パチュリーに本も返していない。アリスには迷惑かけっぱなし。霖之助のツケは払えてない。まったく、私って奴は死に際まで適当だな」
「魔理沙らしくっていいじゃない。何弱弱しくなってるのよ」
縁側に寝転ぶ霊夢からは、魔理沙の顔を窺うことは出来ない。魔理沙は、ちょっと魔法少女帽子のつばをつまんで、帽子を目深にかけなおしたようだった。本当、魔理沙らしくない。表情を隠すような仕草だ。
「覚えてるか、霊夢。ずっと昔、こうやって縁側で話したこと」
「何十年経っても、幻想郷は変わらないって?」
「そうだ。実際、幻想郷は変わらない。知っている奴は何人か減ったが、それでも私たちの生きるここは何も変わらず営みを続ける。やっぱり、私たちが死んでも、ずっとそうなのかな」
「……そうね。きっと変わらないわ」
「それって、すっごい寂しいことじゃないか?」
枯れ木のようになった魔理沙の腕が、かすかに震えているのが見えた。泣いているのかどうかは分からない。彼女の声は決して揺れていなかった。彼女の震えが、死の悲しみか、恐怖か、どちらによるものかは霊夢には分からなかった。
霊夢は重い身体を上げて、縁側に身体を起こす。身体はさっきより動かなくなった。死期は段々近づいているのだろう。時間は確認していないが、もう一時間は経ったと思う。
「紫がいつか言ってたわ。『幻想郷は全てを受け入れる。それはそれは残酷な話ですわ』って」
「それがどうかしたか? そんなの、諦めの言葉じゃないか。誰かが悲しんでも、苦しんでも、その末に死んだって、幻想郷は全て受け入れて存在し続ける」
「違うわ、諦めの言葉なんかじゃない。確かにこの幻想郷中で、私たちはちっぽけに死んでいくわ。でも、幻想郷はその死を受け止めて、次の世代につないでくれる。私たちが生きていた証を、ずっと遺してくれる。この神社に、皆の心に、この野山に、桜に、幻想郷と言う土地に。私たちは、死んでも誰かの糧になり続ける」
魔理沙は喋らない。黙って、霊夢の言葉に耳を傾ける。
「私、さっき、こんな夢を見たんだけどね。私が生まれて、魔理沙と出会って、そして老いて死ぬまで。短い人生で、短い夢だったわ。でも、私はその短い人生で、色んな人と出会ったわ。笑い、語り、戦い、生きたわ。私は人生で、色んな人に『私』を遺せた」
「私もさ、誰かに『私』を遺せたかな」
唐突に口を開く魔理沙。その顔は涙に歪んでいた。帽子のつばで、鼻から上を見ることは出来ないが、幾筋も、幾筋も涙が魔理沙の頬を撫でる。いつかに見た、少女のころの彼女の泣き顔のように。
「きっとね」
そっけなく霊夢は返す。溢れるように泣く魔理沙の手を、それとなく握ってやる。火がついたように、魔理沙は激しく泣く。
春風が吹く。ささやかに頬に触れる花びらが心地よい。霊夢はもう一度縁側に寝転ぶ。
「ああ、私もう、眠いわ。ちょっと寝るわね」
まぶたが重い。居眠りをするように、霊夢は目を閉じた。何故か、目を閉じても光を照らしたようにまぶたの裏が明るかった。太陽光とはまた違う光のようだ。まるで、光のベールに包まれているかのように。
「そうか。私ももうだいぶ眠いんだ」
きしきしと木の軋む音がして、霊夢の横に魔理沙も寝転ぶ。目を閉じてしまったので様子は分からないが、きっとそうだろう。ふああ、と欠伸をする音が横から聞こえる。脳裏で、霊夢は昔のように帽子をアイマスク代わりにして、鼾を立てる魔理沙を思い出す。くすりと笑いが漏れる。
「そう。じゃあ一緒に寝ましょう。昔みたいに。それで、昔の夢を見るの」
「そうだな。そりゃいいや」
昔、霖之助さんにこんな外界の話を聞いたことがあった。『邯鄲の夢』。ある男が栄枯盛衰を極め、幸福な人生を送る夢を見たが、その夢を見ていた時間は、キビを蒸す時間にも足らなかった。人生の儚さを示した話だと、彼は言っていた。
私の人生も、ほんの一時間ほどの夢に収まってしまうほど、短くて儚い。だが私はそれでも無駄な人生を送ったとは思わない。私たちは確かに幻想郷に生き、誰かに『私』を遺し続けた。それだけで、十分意義のある人生だったと思う。
意識が混濁し始めていた。まどろむように。たゆたうように。
きっと、私たちはまた夢を見るのだ。私がさっき見たような、平和で、短い夢を。夢の中でまた魔理沙と弾幕ごっこをして遊ぶのだ。
そして遊び疲れて、夢から覚めるまでの。ほんのひとときのおやすみ。
「それじゃ、じゃあな。霊夢」
「じゃあね。魔理沙」
縁側で隣に座る魔理沙に呼びかけられたとき、私はうつうつと春の日差しにまどろんでいた。何分ほど居眠りしていたのだろうか、三十分か、一時間か、いや一分ほどかもしれない。少なくとも、眠る前よりも随分神妙な声色で声をかける魔理沙に、私は少しびっくりした。浮雲と一緒に浮かんでいるような気分だった私の思考は、一気に地面すれすれまで降下する。
「今、私たちは十と少しばかりしか年をとっていないわけだ。妖怪からしたら赤子のようだし、ましてや幻想郷創立前から生きてる紫にとっちゃ、まるで豆粒みたいにちっさい存在だ」
珍しいシリアスな雰囲気に、私は面白がって返答をしなかった。春風の起こすかすかな木々の囁き以外は、ほとんど無音の空間だ。構わず、魔理沙は言葉を続ける。縁側に寝そべっている私からは、庭に生える桜のほうを向いている魔理沙の顔色を窺い知ることは出来ない。
「何十年も経って、この木がもっと大きくなって老木と言われるくらいになって、私たちがうんと年をとったとき、この幻想郷は変わってるのかな。私たちは、どんな世界を見るのかな」
少しだけ顔を上げて、空を仰ぐような仕草をとる魔理沙。うららかな日当たりの中で、彼女の被る魔法少女帽子は、光に隔絶されたようにつややかに漆黒を灯している。
しばしの沈黙が流れる。眠気はいつの間にかどこかへ飛んでいた。気だるい身体を起こして、魔理沙の横顔を見る。帽子を目深に被っていて、やはりその表情は知れない。泣いているわけでもないが、笑っているようにも見えない。
一つ、ため息をついて、私は答えるように口を開く。
「さっき、こんな夢を見たんだけどね――」
アリス・マーガトロイドは急いでいた。普段の冷静な彼女からは想像もつかないほどに、ひどく慌てた様子で。それは百病百毒の潜む魔法の森を、いつもは飛んで移動する彼女が、今日に限って走って渡っていることからも知れる。周りを飛び交う三体の人形が、迫り来る化け物生物から彼女を護衛しつつ、心配そうに彼女の様子を窺う。ドレスの裾が泥に汚れるのも構わず走る彼女は、作られて以来生活を共にする人形たちから見ても異常だった。
「ああ、アリス。ようやく来たか」
魔法の森の入り口が近づいて来ると、聞きなれた男の声が聞こえた。魔法の森に店を構える優男、森近霖之助。同じ地域に住む者として、面識はそれなりにある。何度か店に道具を買いに行くこともある。
霖之助は泥に塗れたアリスの姿を見て驚いたようだった。清楚で冷たい外面の彼女が、ここまで焦るとは思いもよらなかったのだ。それだけ、彼女のことを大切に思っているということだろうか。霖之助は小さく笑う。
「それで、あいつ、は」
肩で息をして、顔も上げずにぜいぜいと言葉をつむぐアリス。まさか、ここまで走ってきたのか、と霖之助は驚く。香霖堂とアリスの邸宅は結構遠い上に、幻覚キノコのせいで地面を歩くのでは通常の二倍近い時間がかかる。彼女なら、それくらいはわきまえているだろうに。それほどまでに、か。
「中だ。ちょっと危ない状態だから、早く顔を見てやるといい。竹林の女医が来てる」
「紫様、様子を見に行かなくていいのですか?」
不可視の森の邸宅で、九尾の式神、藍はソファに座る紫に声をかける。幻想郷の主である紫の安寧のため、結界に守られた幻想郷内にさらに結界を張り、周囲の喧騒から隔離されたこの邸宅は、常に静寂を保っている。
が、藍は心底落ち着かない気分だった。森の中ゆえに太陽光は通らず、薄暗い部屋の中で、紫がティーカップをソーサーに落とす音だけが聞こえる。悠長な動きに、藍は心中のざわめきを隠しきれなかった。耐えかねた藍はまたもや口を開く。
「紅魔の吸血鬼の睨みでは、そろそろ」
「知っているわ。でも、私はこれから用事があるの」
「方便です」
この非常時に焦りの色一つ見せない紫に、藍は不信感すら抱く。あれほど懇意にしていた彼女に、何故今になってこれほどまでに冷たくするのか。心の中では、今すぐにでも境界を通じて彼女の元に生きたいはずだろうに。
「顔の一つくらい見せたって」
「幻想郷は全てを受け入れる」
はっと藍は口を閉じる。厳かな、たしなめるような物言いが、自然と藍の口をつぐませる。後ろから紫に話しかけている藍は、紫の顔を見ることができない。声色からは、その感情の機微が読み取れなかった。この方は、何を考えているのだろう。
「それはそれは、残酷な話ですわ」
そう言って紅茶を一度に飲み干し、ゆっくりと立ち上がる紫。境界を開き、消える瞬間、藍は何故か紫の肩が震えているように見えた。
「そろそろ駄目ね。もってあと数時間かしら」
枕元で脈拍を計るのは竹林の名医、八意永琳。そっけない言い草にアリスは沸き立つ。
「そんな、蓬莱の薬とやらでどうにかならないの?」
「無茶を言わないでほしいわ。蓬莱の薬は禁薬、常人に使うことは許されないし、今使っても手遅れ」
悔しそうに唇を噛むアリスを、霖之助は見つめる。アリスに比べて霖之助はいたって冷静そのものだった。というのも、今日危篤の知らせを聞いたアリスと違い、店にたまたま来た吸血鬼から、彼女が近いうちに倒れる運命にあることを聞いていたからだ。そのときは霖之助もかなり慌てたが、いずれこうなることは知れていたことだし、今更驚くことでもなかった。
それでも、旧知の友がこうやって床に伏せる姿を見るのは悲しい。
「私に出来ることといえば、彼女の身体を騙してこの数時間だけ、自由に行動させることくらいだわ。全盛期のころとまでは言わないけれど、今よりはずっと楽にしてあげられる」
「それで、それでもいいわ。楽になるなら」
「それには及ばないぜ」
床から聞こえる声に、一同が振り向く。老い枯れ、顔中を皺に包まれた彼女は、苦しそうな顔で何とか上体を起こす。危険を察知した永琳が、とっさに彼女の身体を支える。
「起きてはいけない! まだ危険な状態を脱してるわけではないのよ!」
「へへ、そりゃ嘘だ。むしろ私は元気すぎるくらいだぜ。若いころみたいだ」
彼女は静かに、その枯れ木の枝のように細く枯れた指先を、永琳の手に置く。力こそ篭ってはいないが、強い意志を見た永琳はその体から手を離す。年相応に弱弱しく、屑折れてしまいそうな彼女だったが、その言葉尻は強く、到底強がりには見えなかった。それでも、ふらふらと身体を揺らす彼女の姿は心もとない。
「……あなたの意識がどれだけはっきりしても、過信できない。薬は飲んでもらうし、どこへ行くにも私たちが同行する。最後に行きたいところはある?」
言いながら、薬物投与の準備のために注射針を用意する永琳。やれやれ、という風に皺塗れの顔を歪ませた。霖之助は驚いた。先ほどまで死んだように眠っていた彼女が、今、まるで少女のように笑ったのだ。もう久しく見ていない表情に、霖之助はひどく懐かしく、そして寂しい気持ちになった。
アリスはといえば、静かに音も漏らさずに泣いていた。やはり、今日の彼女は彼女らしからない。冷酷な人間だとずっと思っていたが。こんな状況でも泣くに泣けない自分のほうが冷酷じゃないか。
「行きたいところか。そうだな」
ざわめくように、さえずるように、ささやくように。
「霊夢のところに、霊夢に会いたいかな」
魔理沙は、小さく呟く。
「こんなところにいていいのかしら。身体に障るわよ」
「いいの。この風が好きだから」
「そう、ならいいわ」
「……そろそろ、かしらね」
「私が見れる運命は『決まった未来』であって、『未来意志』ではないわ。だから、聞かれても私は答えられない」
「そう。でも私の運命はあと二時間なのよね」
「…………」
「きっとあいつは来る。私はお茶の用意でもするわ」
「……吸血をしたから、吸血鬼の力でその二時間、あなたは自由に動ける。全盛期のころとまでは言わないけれど、今はずっと楽でしょう?」
「ええ、ありがとう。二時間、私には長すぎるわね」
「……私はもうお暇するわ。じゃあ、元気でね、霊夢」
「そっちこそ」
「……紫」
香霖堂の奥、霖之助が寝泊りしている場所に、永琳、霖之助、アリスの三人が立ち呆けていた。三人の視線は誰かの眠っていた形跡のある布団の、その枕元に立っている紫に向けられている。永琳は驚愕、霖之助は無表情、アリスは怒り、それぞれの顔をそれぞれの感情が染める。
「何で、何でこんなことをしたのよ! 突然出てきて、突然……!」
怒りのまま、紫の襟元をつかんで恫喝するアリス。その目は、狂気とも言えるまでに見境を失っていた。当の紫は、無表情のままアリスを見下ろすように、あざけるように見つめる。
「薬剤は投与したけど、まだ危ない状態よ。どこに送ったか知らないけど、下手をすれば」
「下手なんてしないわ。私は彼女の行きたいところに送ってあげただけよ」
そう言って、アリスの手を払う。怒りと悲しみに顔を歪めたアリスの表情を見た紫は、気まずそうに目を背ける。永琳は、仕事を終えたとでも言うかのように、帰りの身支度を整えていた。それを見咎めたアリスが、きっ、と永琳を睨む。
何て冷たい奴だ、と思ったのだろうが、霖之助はそうは思わなかった。事実永琳はやれることは全て尽くしたし、永琳は、紫を胡散臭いと思いながらも信用はしている。紫の選択ならば、疑いの余地はない、と納得しているのだ。
それに、霖之助はアリスが来る前、永琳が臥せった魔理沙を見て、実に悲しそうな顔をしたのを知っていた。永琳とて、幻想郷から人が一人死んでいくのを、悲しいと思わないわけがない。ましてや、彼女は医者だ。あらゆる手を尽くしても救えない人間がいることを、悔しく思わないわけが無い。
「私を魔理沙のところに送ってよ。今生最後の別れも出来なかったのに」
「それは無理ね。あなたは邪魔になるわ」
「邪魔ですって?」
「そう。彼女が何故、神社を選んだか。何故今際の時に霊夢と会うことを選んだか。察しなさい」
冷たく言い放つ紫。アリスは静かに、顔を覆って膝をついてさめざめと泣き出した。もう会えないというのに、魔理沙に何もしてやれなかったことが悔しいのだろう。紫は既に境界の向こうに消えていた。どこへ行ったかは分からない。恐らく、次の巫女を探しに行ったか。絶望に包まれた部屋の中で、少女の慟哭ばかりが響く。
ああ、こんな感情になったのはいつぶりだろうか。僕だって、魔理沙に別れの言葉の一つもかけてやれなかったというのに。霖之助は眼鏡を外す。死に逝く幼馴染を想って、とめどなく流れる涙の筋を何度も拭き取る。
風が止んだ。ざわめき続けた桜の枝葉が、ぴくりとも動かなくなる。数十年前、同胞と埋めた桜の苗は、長い時を経て、こんなにも大きくなってしまった。それでも、今も鮮明にあの時のことを覚えている。不思議な話だ、と霊夢は微笑む。
「よう」
久しい声が耳に染みる。幾つかの瞬きの後、桜の木の横には、懐かしい幼馴染が立っていた。白黒の服は、老いても彼女の金髪によく映える。魔理沙はゆっくりとこちらに向かって歩いてくると、いつものように、いつかのように、縁側の霊夢の隣に腰を下ろす。
「お茶の用意は出来てるわ」
「ああ、サンキュ」
お茶を差し出した私に、慣れない礼を言う魔理沙。いつもは言わないはずだが、今日に限ってどうしたか。可笑しくなって霊夢は思わず大笑いする。
「何だよ、そんなに可笑しいか」
「だって、今日に限ってどうしたのよ。お礼なんて。魔理沙らしくもない」
「最後くらいいいじゃんか」
最後、と妙にしんみり言う魔理沙。ふう、と霊夢はため息一つついて縁側に寝転ぶ。こうも真面目な魔理沙はいつぶりに見ただろうか。まさか、魔理沙のほうから『最後』なんて言葉が聞けるとは思わなかった。魔理沙らしくない。弱弱しい言葉だった。
「パチュリーに本も返していない。アリスには迷惑かけっぱなし。霖之助のツケは払えてない。まったく、私って奴は死に際まで適当だな」
「魔理沙らしくっていいじゃない。何弱弱しくなってるのよ」
縁側に寝転ぶ霊夢からは、魔理沙の顔を窺うことは出来ない。魔理沙は、ちょっと魔法少女帽子のつばをつまんで、帽子を目深にかけなおしたようだった。本当、魔理沙らしくない。表情を隠すような仕草だ。
「覚えてるか、霊夢。ずっと昔、こうやって縁側で話したこと」
「何十年経っても、幻想郷は変わらないって?」
「そうだ。実際、幻想郷は変わらない。知っている奴は何人か減ったが、それでも私たちの生きるここは何も変わらず営みを続ける。やっぱり、私たちが死んでも、ずっとそうなのかな」
「……そうね。きっと変わらないわ」
「それって、すっごい寂しいことじゃないか?」
枯れ木のようになった魔理沙の腕が、かすかに震えているのが見えた。泣いているのかどうかは分からない。彼女の声は決して揺れていなかった。彼女の震えが、死の悲しみか、恐怖か、どちらによるものかは霊夢には分からなかった。
霊夢は重い身体を上げて、縁側に身体を起こす。身体はさっきより動かなくなった。死期は段々近づいているのだろう。時間は確認していないが、もう一時間は経ったと思う。
「紫がいつか言ってたわ。『幻想郷は全てを受け入れる。それはそれは残酷な話ですわ』って」
「それがどうかしたか? そんなの、諦めの言葉じゃないか。誰かが悲しんでも、苦しんでも、その末に死んだって、幻想郷は全て受け入れて存在し続ける」
「違うわ、諦めの言葉なんかじゃない。確かにこの幻想郷中で、私たちはちっぽけに死んでいくわ。でも、幻想郷はその死を受け止めて、次の世代につないでくれる。私たちが生きていた証を、ずっと遺してくれる。この神社に、皆の心に、この野山に、桜に、幻想郷と言う土地に。私たちは、死んでも誰かの糧になり続ける」
魔理沙は喋らない。黙って、霊夢の言葉に耳を傾ける。
「私、さっき、こんな夢を見たんだけどね。私が生まれて、魔理沙と出会って、そして老いて死ぬまで。短い人生で、短い夢だったわ。でも、私はその短い人生で、色んな人と出会ったわ。笑い、語り、戦い、生きたわ。私は人生で、色んな人に『私』を遺せた」
「私もさ、誰かに『私』を遺せたかな」
唐突に口を開く魔理沙。その顔は涙に歪んでいた。帽子のつばで、鼻から上を見ることは出来ないが、幾筋も、幾筋も涙が魔理沙の頬を撫でる。いつかに見た、少女のころの彼女の泣き顔のように。
「きっとね」
そっけなく霊夢は返す。溢れるように泣く魔理沙の手を、それとなく握ってやる。火がついたように、魔理沙は激しく泣く。
春風が吹く。ささやかに頬に触れる花びらが心地よい。霊夢はもう一度縁側に寝転ぶ。
「ああ、私もう、眠いわ。ちょっと寝るわね」
まぶたが重い。居眠りをするように、霊夢は目を閉じた。何故か、目を閉じても光を照らしたようにまぶたの裏が明るかった。太陽光とはまた違う光のようだ。まるで、光のベールに包まれているかのように。
「そうか。私ももうだいぶ眠いんだ」
きしきしと木の軋む音がして、霊夢の横に魔理沙も寝転ぶ。目を閉じてしまったので様子は分からないが、きっとそうだろう。ふああ、と欠伸をする音が横から聞こえる。脳裏で、霊夢は昔のように帽子をアイマスク代わりにして、鼾を立てる魔理沙を思い出す。くすりと笑いが漏れる。
「そう。じゃあ一緒に寝ましょう。昔みたいに。それで、昔の夢を見るの」
「そうだな。そりゃいいや」
昔、霖之助さんにこんな外界の話を聞いたことがあった。『邯鄲の夢』。ある男が栄枯盛衰を極め、幸福な人生を送る夢を見たが、その夢を見ていた時間は、キビを蒸す時間にも足らなかった。人生の儚さを示した話だと、彼は言っていた。
私の人生も、ほんの一時間ほどの夢に収まってしまうほど、短くて儚い。だが私はそれでも無駄な人生を送ったとは思わない。私たちは確かに幻想郷に生き、誰かに『私』を遺し続けた。それだけで、十分意義のある人生だったと思う。
意識が混濁し始めていた。まどろむように。たゆたうように。
きっと、私たちはまた夢を見るのだ。私がさっき見たような、平和で、短い夢を。夢の中でまた魔理沙と弾幕ごっこをして遊ぶのだ。
そして遊び疲れて、夢から覚めるまでの。ほんのひとときのおやすみ。
「それじゃ、じゃあな。霊夢」
「じゃあね。魔理沙」
誤字報告
生きたいはず→行きたいはず
屑折れて→頽れて