Coolier - 新生・東方創想話

くるりと回って元に戻って、そしてそのまま逃げ出して

2010/08/08 20:16:09
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――忘れない。あの時の感覚を、私は一生。

――私の首を自らの手で締め上げた、あの感触を。




時は誰が支配しているのだろうか?

そう問われたならば、私はきっと「時計」だと答えるだろう。

なぜなら、この世のどこにも時計以外に時間を示してくれる物がないからだ。

だから、時計が正午を指していれば、それがどんなに暗かろうとそれはきっと昼。逆もまた然り。

まあ、あくまで昼夜の認識の曖昧な私の主観での話だけれど……



――誰もいない廊下で一人っきり。無音の空間の中でゆっくり歩みを進める。

別に急ぐ必要もない、私に関しては時間などいくらでも自由にできるのだからのんびり歩いても誰も咎める人もいようはずもない。

腰につけた銀の懐中時計が針を進める音が微かに聞こえる。

物心付いた時には既に私の手の中にあったこれは、質素な作りで蓋にあたる部分に申し訳程度に装飾がしてある程度で

見る者を驚かせるような細工がある訳でもない。けれども長い時間の中でも一度も止まることなく回り続ける。

けれど私は、どうにも惹かれるところがあって手放す気にはならなかったのだ。

それはいつでも歩き続け、止まった世界の中でも私と同じ時を進んでくれる貴重な友だ。

片時だって手放したことはないと、そう言っても過言ではないだろう。

カッチン、カチリ、チッチッチッ。

踏み出す足から伝わる振動と足音に合わせて放つ音を多彩に変える。

それを聞きながら過ごす。

それが私の毎日だ。




――その日もいつもと同じだと思っていた。

いつも通り時間を止めて道を歩く。踏みしめる廊下は私の足音を遠くまで響かせる。

普段通り。

特に行事がある訳でもない、かといって暇でもないそんな日であるはずだった。

けれど、一つだけが違った。それだけが違った。

時の音が聞こえない。

止まった世界において、私の足音が独唱する。

それを彩るものは何一つもありはしなかった。

初め疲れているせいだと思った。

疲れは本人の気付かぬところで様々な不調をきたす。

十分にありえる話だろう。

けれど、今日の目覚めはすこぶる良くて、疲れなど一切残っておらず、爽やかという単語が似合うほどだった。

私は聞き慣れた音の聞こえないその言い知れぬ違和感と物足りなさ、そしてどこからか湧いてくる不安を押し隠すことしかできなかった。

心の中で、カチン、カチリ、といつもの音を記憶から引き出して鳴らす。

ずっと聞いてきたはずの音なのに。

それなのに……何故だか、その輪郭が今になってみると、急に曖昧なものになってしまっているのだった。

廊下に私の足音だけが静かに響く。

その寂しさに思わず早足になってしまうのだった。


――扉を開く。

普段通りの私を強く意識してながら。


踏み出した足が、廊下から部屋の中へと境界を跨ぐ。

それに合わせて、私の視線もドアのノブから、ベッドの縁に腰掛ける主へと僅かの引っ掛かりもなく移る。

室内の橙に光る照明に顕にされたその表情へと視線を留める。

まだ眠たいのだろうか、ぼんやりとした顔をしていた。

今日はやけに早起きだな、なんてことをぼんやりと思いながら、私は気を引き締めるために一度伸びをする。

そして、普段ならば見ることのできない主の表情を横目に、持ってきた紅茶とカップを机へと置く。


私だけが移ろい行くことができる世界は、誰しもが無防備な愛らしさを表層へと浮かび上がらせてしまう。

皆のそんな姿を見るのが、私の中の小さな楽しみの一つであったりする。

生活の中で、ともすれば見逃してしまうような、ささやかな表情たち。

それは一瞬の輝きを内包していて、私を惹きつけて止まないのだ。


けれども、時々だ。

そんな感情の塊であるはずの顔たちが、無機物に見えてしまうこともある。

作られたものであるはずのない無意識の思い。

それが酷く淡白に思えてならないのだ。

そんな時、私はもう一人の私に縋る。

無機物のはずの時計の音が、世界に感情を、魂を与えて行くのだ。

共に言葉を聞き、共に変化する表情を見てきたからこそ、そんなことができるのだろう。

私はそう思いたい。いや、そう思う。



陶器はお互いぶつかり合うと甲高い声を放つ。

いつもは意識しないそれが、今日はやけに耳についた。

音を立てないようにと気を付けてはいるのだが、どうしてか指先が震えてしまったのだ。

だが、そんな些細な失敗を咎めるような者はだれも居はしない。

今ここに生きて活きているのは私だけなのだから。そこにいる主でさえ、この瞬間は彫像となんら差はない。

白いテーブルに陶器が実によく映える。

自分の仕事の成果を確かめるように自分で頷く。

心なしか、いつもより早く準備ができた気がするのは気のせいか……

そんな疑念が頭を過るが、まあそれはいいだろう。



さて、用意は整った。



――後は…………

言わずもがな、時を戻すだけ。

大それた能力だけあって、特殊な手順を踏まなければならないように思われがちだが、実際はそうではない。

普段は何気なく行っているその行為となんら変わりはないのだ。

手を挙げる方法を誰かに教えてもらうことがないように、私はその方法を何の苦もなく行う。

そう、誰にでもできるとても簡単なこと。


息を吸って意識を胸の辺りに集める。たったそれだけのこと。

いつもなら、これで時は再び歩き出す。

そう、いつもなら。

だが、今日はいつもと一緒ではないのだ。

時の音が聞こえないのだから。

それでも私は期待する。いつもの日常を。



しかし、主は動く気配を見せなかった。石造のようにどこか朧げな視点で虚空を見詰めたまま、瞬きの一つすらしない。

おかしいなそう思い、近くの時計に目を向ける。

秒針が止まっていた。

近づいて目を凝らして見る。

だが、幾ら待てども、壁に掛けられた時計の針は動かない。

もしかしたら壊れてしまっているのかもしれないな。

そう思い、懐中時計を取り出す。

やはり、それも止まったまま。

この時になって初めて、私は時を動かせないことを認めたのだった。

特に驚きはなかった。

きっと、どこか心の深いところでは気付いていたのだろう。

そんな気がした。



――瞼を押し開く。

ああ、目が覚めてしまったな、と少し倦怠感を覚えながら目を擦る。

辺りは薄暗く、天井が霞んで見える。

いや、もしかしたら私の目が霞んでいるのかも知れない。

どっちにしろ大差はないかと、鼻で吐き捨てる。

一応の努力として、目を擦りながら身体を起こす。

包み込むように握り締めた手の内にある懐中時計は、未だに振動を伝えてはこない。


ベッドから降りて伸びをする。

背中から踵までの筋が軋むのを感じた。

カーテンを引いて窓を開けると、薄暗い部屋に僅かな月光が差し込む。

再び天井を見上げる。

今度は、はっきりとその姿を捉えることができるのだった。

窓から左手を突き出してみる。

握り締めたり、開いたりしてみたが、文字通り空を掴むだけであった。

幾ら待てども、風は一切感じない。

理由は分かっている。

ここに、私以外に動くものなど在りはしないからだ。


軽く服を叩いて整える。


何度これを繰り返したことだろう。

懐中時計を掴む手と、空を掴む手を見比べながら、私は部屋を出た。



憂鬱な気持ちを抱えて廊下を行く。

いつもはそっと静かに歩くようにと心掛けているのだが、今だけは床を踏み抜いてやろうと言わんばかりの力を込めて踏みしめる。


そうすれば、長く続くこの回廊に足音が響き渡る。


その音だけが、無音のこの世界に響く唯一のものだ。

自らの足音を、自らに届ける。

なんとも虚しいことだ。

反響し幾重にも聞こえるそれが、時折、人の嘆く声に聞こえるのは、私の気のせいだろうか。

きっと本当に、私の気のせいなのだろうが、どうしてもその考えを捨てることはできなかった。



人は皆、一度は世界を止めることを夢想する。

それは当たり前のこととも言えるだろう。人間が生きていられる時間には限りがあるのだから。


では?

そこで考えてみるとしよう。

時が止まった世界で人は何をするのだろうか、を。

他愛もない悪戯をする者もいれば、まだ見ぬ場所を探しに旅立つ者もいるかもしれない。

自らが世界の支配者だと良からぬ勘違いをする者すらいるだろう。

当たり前の如く、自らの欲を叶えようとする者が大半だろう。

勿論、考えることは多種多様。

しかし、最終的に皆の考えの行き着く先は決まっている。


その答えは私だけが知っている。

そして、的中している絶対の自信がある。

それは、実に単純明快な答え。



再び世界を動かす。

如何なる考えの持ち主であろうと、結局は止まった世界のつまらなさに気付くだろう。

止まる。つまり変化がないのだ。

そうなれば、やはりいつかは飽きが訪れる。

そして、正しい世界に帰ろうとする。

正しい世界。それは変化のある世界。

私もそうだ。

特に、私はこの世界に慣れている。

それは幸か不幸かは定かではないが、恐らく他の誰よりも早くにその考えに辿り着いたであろうことは間違いない。


――重厚な扉を両手で押し開ける。

大きくて重低音な軋みを立てて開いていく。

耳を通り脳に伝わる独特な音は不快である。

けれども、わざと私はそれをしっかりと感じるように押していく。

この感覚が「動いている」のだと実感させてくれるからだ。

そうして、部屋に入る。

目に映るのは圧倒的な数の棚。

その棚には、これまた、隙間一つないほどに本が詰められている。

訪れる度に増えているように思える蔵書量に、感心するやら呆れるやらしたものだ。

人間には一生かけても読み切れない本達も、ずっと前から仲間を増やすことはなくなっている。

しかし、それはあくまでも私の主観での話であって、私以外からしてみれば、今でも増えているに違いない。

なんだかちぐはぐだな、と頭を二、三度掻いて、奥へと進む。


林立する本棚の間を抜けて行けば、少し開けた場所へと辿り着く。

幾度となく辿った道。最初の内こそ思うところもあったが、今では何の感慨も湧いてはこない。

その空間の中央には数人用の長机があり、この空間の主人の姿も見える。


――失礼します


そう、声を掛ける。

彼女はもちろん、応答することはない。

勿論、分かり切っていることだ。それでも、私は声を掛けたいと思うのだ。


彼女の鼓膜を揺らすことのなかった声は。

広い部屋にただ一つの音として、広がっていく。

邪魔するものなどありはしないのに、何一つ残せず消えていく。

唯一、変化を与えられたのだとしたら、それは私の耳へと伝わったことだろう。

小さな棘のような切ない思いが、私の胸に食い込んだ。

それなのに。それなのに……

相も変わらず、目の前の人物に変化はない。

胸元まで本を持ち上げ、半目に書かれた文字を見つめている。



そう、彼女は動かない。


一カ月? 一年? 一日?

私にこの姿のみを見せ続ける。

けれども、彼女にとって、それは一瞬にすら成りはしない。

だから、仕方のないことなのだ。全て。

席を離れて、そこら辺りの棚から無作為に本を抜き出す。

この中に、世界を在るべき姿に戻す方法が記されているだろうか。

淡い望みだという自覚はある。

しかし、それに期待をする。せざるを得ないと言うべきか。

その願いの裏には、きっと、辛い事実が潜んでいるのだろうと感づいてはいる。

それでも、これが私にできる、唯一無二の努力なのだ。

だから。

諦めることはしない。





――本を机の上に置く。

分厚い塊はそれ相応の重量を持っていて、机の上に置かれていた珈琲の水面を少し揺らすのだった。

右へ左へと移動する波を見つめる。

幾重にも生まれた波紋は縁に当たって跳ね返り、お互いの存在を無へと返すのだった。


そういえば、この珈琲を淹れたのはいつだったか。

本当の世界ではきっと数刻すらも経っていないのだろうが、私には随分と昔の、遥か遠い思い出に感じるのだった。


静かに横たわる水面。

それを、カップの縁を指先で弾いて起こす。

寝ぼすけな珈琲は、慌てたように飛び起きるのだった。


――まだ、私の世界が正常だった頃。

目の前の彼女に頼まれて珈琲を運んで来たことがあった。

場所が場所だけに、いつも気を引き締めるようにしているのだ。

あの日も、零して本を汚したら大変だと、慎重に置こうとした。

その時だ。

チリンと軽快な音がした。

静寂が常のこの場所に似つかわしくない金属音。

何だろうと不思議に思って辺りを見回したけれど、変わったものは見受けられない。

一人、首を傾げる私に、彼女はすっと人差し指を向けてきた。

その指の導くままに視線を動かしていけば、私の腰へと辿り着く。

そこから垂れる銀の鎖。

そして懐中時計。

なるほど、と私は一人で納得した。

別に難しい話ではなく、少し頭を働かせれば自ずと理解できようことだ。

先程、カップを置くときに、前傾姿勢になった。

その時に、弛んだ鎖と時計がぶつかったのだろう。

時計を手にとって眺めて見る。

銀色の縁が輝いて、星を作り出していた。

手首を捻ってみると、その光が移動して光の輪を作り上げていた。

その反射光を頬に受けながら彼女は眩しそうに顔を顰めながら口を開いた。

独り言のように早口な言葉は聞き取り辛いものがあるけれど、そこに含まれた楽しげな音色は容易く聞き分けられた。

「鈴みたいね」

「鈴ですか?」

「寧ろ、首輪と言った方がいいかしら」

いまいちしっくりこない、と眉を顰める。

すると、彼女は右手の人差し指で私の首を指し示すのだった。

面と向かって指差されると少したじろいでしまうのは仕方ないことだろう。

「掛けてみて」

言われた通りに、首からぶら下げる。

意図は全く分からなかったが、一応言われた通りにする。

幸い、鎖は長めのものを使っていたので首に一巻きしても余るくらいだった。

見栄えを良くするために、時計が胸元に来るように調整する。

皮膚と触れ合う冷たい感触。

それは、冬の日の凍えた手の感触に似ている。

そんな素肌に触れる鎖の予想外の冷たさに、思わずくしゃみをしてしまって。

それで笑われたことは、私の中でなかったことにした。


「……これで良いですか?」

鏡がないから自分がどのような恰好なのか分からないのが、少々不安だ。

「ええ、それでいいわよ」

そう言って彼女は口元を覆い隠すように手を当てる。

「後ろ向いて……」

言われるがままに彼女に背を向ける。

すっ、と風の音がして、背後に気配を感じる。

真後ろに立たれるのはどうにも心許ないものだと思う。

「……あの、何なんですか?」

私が不安に駆られてそう尋ねた瞬間、首元の鎖が揺れる。

手をそこへ運ぶと、指先に触れるものがあった。

それは私から体温を奪うものではなくて、私と同じように温かなものだった。

わざわざ確認しなくても分かる、そんな柔らかな感触だった。

「……貴女はやっぱり犬ね」

彼女の声は普段より音程が高く、言葉尻が詰まった感じだ。

「笑ってないで、鎖から手を放して下さい」

私が咎めるように言うと、ごめんなさいね、と言って手が引っ込められる。

全く、人を何だと思っているんだと、憤慨する。

口を尖らせて抗議してみるが、彼女の目線は既に本へと戻っていた。

やれやれと両手を挙げて主張してから、首から懐中時計を外そうとして、私の手は止まる。

なんということだ……


「あの、ちょっといいですか?」

「どうしたの?」

「これ、外すの手伝ってくれません? 絡まってしまって……」


そう、これも全て、味気ない時間に振り掛けるささやかな調味料。

少し辛い気もするが、十分に及第点は超えている。

料理好きの私が言うのだから、間違いはない。


彼女が笑う。

私も笑う。

華やかに、とは言えない二つの声が、それでも見劣ることのない声が、空間を満たした。




――ああ、本当に随分と昔のことのように思える。

珈琲の水面が再び眠りに落ちる。

折角淹れたのに、こうして放置されているのを見るとやるせない気分になる。

胸の奥に置いてある侘しさという蝋燭が溶け出して、短くなる。

カップをくるりと回して彼女の方へと取ってを向ける。

それでも彼女はカップに手を伸ばさない。

正確には伸ばせない、か。

彼女は気付いてすらいないのだから。

残り少なくなった砂時計の砂上を見ているような寂静さに堪えられなくなって。

もう一度、くるりと回して、元に戻した。


懐中時計を取り出す。

手の中で存在感を放つそれに、鎖を軽くぶつける。

チリンという音が私の耳だけに届いて、それから消えていった。



――ページを捲る。

小難しい文体に難解な専門用語が並んでいる。

ない頭を必死に働かせてみるが、半分も理解できてはいないのだろうことは自分自身が一番分かっている。

それでも毎回、途中で投げ出したくなる気持ちを抑えて必死に文字を辿る。

けれども、そう長くは集中していられないもので、一冊読み切れたころには疲労困憊。

次を開こうという気にはならない。


溜息を吐いて本を床へと積み上げる。

目頭を押さえると、眼球が癒されるような気がして心地良かった。


とても疲れた。

別に本を読むのは苦手でもなければ嫌いでもない。


ただ、内容が私にとって難解なのだ。

けれども、私はそれを読まなければいけない。

それしか縋るものがないからだ。



溺れた世界で本に縋る女。

絵にするには少々難がありそうだな。

そんなことを思った。




――動かない彼女に別れの声を掛ける。

届くことはなくても、やはり届いて欲しいと願う気持ち。

それを隠すつもりも、ごまかすつもりもない。



さて、気分転換でもしようか。


砂岩程度に固まった首を、ぐるりと回して私は再び本棚の林へと足を向けるのだった。





――私の足音が本棚に跳ね返される。

一人で歩いているのに二人分の足音が聞こえるのは、なんとも不思議な気分だ。

来た時とは別のルートを通って扉へ向かう。


もちろん、理由あっての行動だ。


並び立つ本棚の内の一つを左に曲がれば、見慣れた本の背表紙達が並ぶ。

ここが私の目的地だ。

他と全く変わりのない本棚と本棚の間。

そこに私がわざわざやってきた理由。


それは、ここのもう一人の住人に会うためだ。


赤い髪に黒い羽が特徴的な彼女が私の目的だ。


私は彼女の本名を知らない。

彼女にとって名前は非常に大事なものらしく、誰にも教えないようにしているそうだ。


そんな、名前さえ知らないような彼女だけれど、私にとっては大切な友人だ。




歩き寄る。

本を取ろうとしていたところだったのだろうか。

顔と同じか、やや高いくらいの位置に手のひらが開かれた状態で静止している。

普段なら、気に留めることもない、当たり前にありふれたこの動作。

だが、今の私にはそれが全く異なったものに映る。


片手を挙げたその体勢を、挨拶しているのだと考えるようにした。

そうすることで、乾いた砂のように流れる心に水を注いで固めるのだ。


人の気も知らないで、どことなく抜けた表情を浮かべる彼女は、彫像のように僅かな振るえさえもなく静止している。

そんな彫刻品を生み出す私は、彫刻家とでも言ったところか。

どうせなら、凄腕の頭文字も付けておこう。


今の私には笑えない冗談だ。


――彼女と同じように片手を挙げて挨拶を返す。

もう何度となく繰り返してきた動作だ。

本棚の方を向く彼女に私の姿は見えないだろう。


それでも構わない。


そう思う。


彼女の横に並び距離を調節する。

肩と肩の間は、一人分の空間。


それから、彼女に倣って本棚の方へ身体を向ける。



目の前にある本たちに自我があれば、私のことを笑うだろうか?

それとも、哀れむだろうか?

そのどちらでもないことを願う。


指で背表紙を撫でるようにしながら口を開く。

「元気にしてた?」

私の問い掛けに彼女は答えない。

身じろぐような反応を見せることもなく、ただただ、無表情だ。


「さっき本を読んだのだけど、慣れないものね。目が疲れたわ」


眼前の本棚から適当に本を抜き取り、気の向くままにページを捲る。

紙の擦れる音が、夜に落ちる雫の音のように、広がった。


石像に話し掛けるなんて愚かだ。


自ら嘲笑する。

けれども、話しかけたい自分がいるのも事実だ。

ああ、嘆かわしい。


相反する感情にうろたえる私を他所に。


横目に見た彼女は、やはり動かないのだった。




――以前、彼女と二人で今みたいに肩を並べて本の整理をしたことがあった。


とは言っても、本棚の一つに何冊かの本を仕舞う程度の内容だったのだが。

左手に三冊の本を抱えて、右手でそれを差し入れていく。

なんとも容易い作業だ。

余裕が生まれれば、口が緩くなるのも仕方ない。

「私ね、ずーっと考えていたのよ」

「突然どうしたんですか」

彼女の方に顔を向けて、目元を見詰める。

しかし、彼女は本棚から目を逸らすことはなかった。


しばらくの間、視線を送り続けてみても一向にこちらを向く様子が見られなかったので、諦めて私も手元の本へ視線を戻す。

そして、言葉を続ける。

「あなたは何で、小悪魔、なのか」

そう、ずっと気になっていた。

どう見ても普通の悪魔にしか思えない。

「そうですねー。本、片付けるのを手伝ってくれたお礼に、教えてあげます」

彼女は手に残った最後の本を仕舞うと、こちらへ向き直った。

私も急いで残りの本を揃えて小脇に抱えて、彼女の方へと身体を捻る。


それを待っていてくれたのか、対面すると彼女は一度頷くのだった。

特別ですよ、と言うと、口に右手の人差し指を当てる。

それから左の手を顔の横まで持ち上げる。

手のひらをこちらに向けて。


「いいですか、まず皆さん勘違いをしてるんですよ」

彼女は左手のひらに右手の人差し指で文字を書く。

「実はですね。この小の字、文字じゃなくて記号なんです」

「……は?」

「見てください。まず、このlの部分、これが人の身体です。それから、左右の/\の箇所が翼です」

悪魔に見えるでしょう。

そう言って彼女は誇らしげな表情を浮かべる。


それに対して私の表情筋は強張っていた。

笑みを作ることも眉を顰めることもできず、ただただ、無表情。

言い換えれば、呆けた顔。


何と声を掛けたものかと思案していると、急に彼女が顔を綻ばせた。

そして、一つ手を叩く。

ぱちんと軽快な音が響いた。

私が何ごとかと首を捻れば、彼女は一人でクスクスと笑い出した。


「冗談ですよ。一度あなたのそんな表情見てみたかったんですよ」


彼女は柳だ。

私が吹かせる風を軽く受け止めて、素知らぬ顔でくるりと回して。

それから私への元へと戻してくる。



意味の分からないことをやって人を煙に巻いて楽しむ。

そんな意地の悪さも彼女の持ち味なのだろう。

僅かの間も置かず彼女は、からかってごめんなさい、と頭を掻いて舌を出す。

わざとらしいその仕草に私も思わず頬が弛んだ。

実害などありはしないのだから、こちらとしては怒る訳もなし。

ただ、対応に困るだけなのだ。

そして結局のところ、他愛もない冗談で済ませてしまえる程度のことだ。

「なるほど、あなたが小悪魔な理由が分かった気がするわ」

私は呟いて、残りの本を棚に挿し入れた。



――本を閉じる。

題名すら書かれていない表紙を指先で叩けば、コツン、という音が鈴の音のように軽やかに広がった。

それと同時に感じた指先に感じた、虫に刺されたようなむず痒さが後を引いていた。

それを左手に持つ。

それから右手でそれを掴み取り、本棚へと戻す。

あるべき場所に戻りたがっていたのか、引っ掛かることもなく滑るように納まるのだった。

ほっ、と息を吐く。

身体の向きを変えて彼女を見る。

相も変わらず不動の姿を。


右手を伸ばす。

私の手のひらと彼女の手のひらが合わさる。

小さくぱちんと音がする。

一瞬だけ生まれたその音色は、泡の弾ける時のそれと同じものだった。

「冗談、じゃない、か」

それは私の呟きと溶け合い。

それから、霞んでいった。




――扉を閉める。


それと同時に私の口が開いた。


しばらく間をおいて、欠伸なのだと自覚する。

何もしていないのに、随分と疲れてしまった。

少し眠ろう。

先程、起きたばかりだと言うのに重たくなった頭。

こめかみを人差し指と親指で押さえると、少しだけ軽くなったような気分になった。

そんなことしながら、私は足を進めた。


――肉厚の扉を押し開く。


薄明かりに照らされた室内は小綺麗だが、逆に印象に残るものはない。


そんな部屋中で唯一、目を引くのが天蓋付きの大きなシングルベッドだ。


私はそこへ歩み寄る。

音を立てないように静かに。


無論、走り回ろうが、どうせ私以外の誰に聞こえる訳でもないのだが、大切なのは気持ちだ。


ベッドの縁に座る。

腰を捻って枕元を覗き込む。

そこに見えるのは金色の髪の毛。

私はそれを手で軽く梳く。

サラサラとした流水に手を浸すような感覚が指に心地良かった。


「失礼します」

そう言って、私は身体をベッドへ押し込む。

横を向いて眠る彼女の隣に寝転がる。

背中を丸めている彼女を後ろから覆うように包み込む。

服越しに感じる彼女の肌の温度。

それは私の身体だけではなく、もっと、ずっと深いところまで伝わるのだった。

人肌恋しく求める私は、親とはぐれた幼童、とでも言ったところか。






――ずっと前、今とは逆。

彼女が私の部屋に訪ねて来たことがあった。

これから就寝しようという時に、ノックの音が響いた。

こんな時間に誰だろうと、煩わしい気持ちを抑えながら扉を開くと、枕を抱えた彼女が俯いていた。

今まで一度も彼女が私の部屋に来ることなどなかったのでとても驚いた。


どうしたのかと問えば、一言返してきた。

「寂しい」

詳しく聞いてみると、どうやら今日開かれた宴会が堪えたらしい。

皆が思うように話し、弾み、騒ぐ宴。

それはそれは楽しいものだった。

だからこそ、それが終焉を迎えた後の喪失感も相応のものがある。

精神が成熟しているとは言えない彼女にとって、それは私が思う以上に寂しいものだったのだろう。

意外と可愛らしいところもあるのだなと思う。

「どうぞ」

彼女を部屋に招き入れる。


すると、他のものには目もくれずにベッドへと潜り込むのだった。


頭まですっぽりと覆って、中で丸くなっているのが見て取れた。

失礼します、と一声掛けて私もベッドへと入る。


身体にまだ冷たい布が纏わり付く。

それは思ったよりも寒くて、一つ身震いをしてしまった。

両手を頭の上で組む。

顔を横に向ければ、ベッドと掛け布団の盛り上がった隙間に金色が見えた。

言わずもがな、彼女の頭頂部である。

それをしばらく見つめていると、大人しかったのが急にもぞもぞと動き始めた。

そして次の瞬間、脇腹に電流が走った。

予想外の衝撃に何事かと布団を剥ぐと、彼女が私の脇腹をつついているではないか。


どかーん、という効果音を自らの口で発する姿は小憎らしくも愛らしくものであった。

再び彼女の指が私の脇腹を捉える。

それと同時に私の口からあられもない声が飛び出す。

くひゃ、なんて言葉はこの時初めて口にした気がする。


彼女は私の反応に気を良くしたのか、怒涛の攻撃が始まったのだった。



――大きく息を吐く。

ただ寝るだけのはずが、何故こんなにも疲弊しているのだろう。

実に面倒くさいことだ。

けれども、だ。

隣から発せられる、嬉しそうな笑い声を聞いていると疲れすらも心地良く思えた。

実に不思議なものだ。

そんなことを考えていると、胸の辺りに何かが触れる感触がした。


一体なんだと目を向ければ、彼女が頭を押し当てていた。


暴れた後の身体には暑苦しく感じたが、振り解く気は起きなかった。

静かに横たえた身体の内で、心の臓だけがその動きを早めていた。


「……良い音ね」

彼女は、気のせいなのでは、と疑う程に小さな声量で言う。

本人としても、独り言のつもりだったのかもしれない。

それでも、私の耳は確かにそれを捉えたのだった。

「そうですか?」

「うん。綺麗な命の時計の針の音」

私の身体に回された腕に少しばかり力が込められる。

その感触は、肩を指圧された時のように、心地良く芯に届くのだった。

「私たちみたいに過去を刻まない素敵な時計」

そこまで言うと彼女は再び胸に額を押し付けてきた。

私は何と返したら分からなくて、ただ黙っているしかなかった。



心臓の音が聞こえる。


私から発せられて、彼女の身体をくるりと回って私の方へと戻ってくる。



その音は子守唄のような温かな質を持っていた。

それに合わせるように彼女の声が重なる。

「ありがとね」

「いえ、気にしないで下さい」

目を閉じながら呟く彼女に毛布をかけてやる。

私の上半身が露出した状態になるが、不思議と寒くはなかった。


「寂しくなったらいつでも私のところに来てね」

お礼のつもりなのかそんなことを言う。

「ありがたいですわ」

とは言っても行く機会なんてないだろうが。


「また、くすぐるけどね」


思い出したように彼女が付け加える。

そして、とてもおかしそうに笑った。


その声を聞いていると何故だか面白く思えてきて、気付けば私も笑っていたのだった。




――自らの胸に手を当ててみる。

確かに鼓動を感じるが、あまりにも感覚が曖昧過ぎて、心臓がどこにあるか分からない。


それが石粒が靴に入り込んだような不快感を生み出した。

何故、私の心臓はもっと強く動かないのだろうか。

そんな意味の分からない思いが心を支配していた。


横に眠る小さな身体に頭を押し当ててみる。

何の音も聞こえない。

心臓の拍動も血液の脈動も、呼吸の音さえもない。



この世界を牢獄と呼ぶつもりはない。

私一人を捕らえるには大き過ぎるだろう。



ただ、誰とも関わることのできない、こんな世界に押し込められて、初めて彼女のことが少し分かった気がした。



それがどうにも寂しくて、私は彼女の脇腹を人差し指でつつく。

柔らかい感覚と確かな弾力が指先から伝わってくる。

普段感じることのない感触は新鮮でなかなかに面白いものだった。



そうして、私の途切れ途切れの笑い声が部屋に木霊した。




――眠い目を擦りながら部屋を出る。


全身に行き渡っている気だるさを押し出すように伸びをする。


両手を組んで手のひらを上に向けて突き出す。


ぐっ、と筋が伸びる。

そして、力を抜けば溜息と気だるさが零れ落ちた。


少しばかり軽くなった足の向かう先は玄関だ。


扉を抜ける。

景色が広がる。

真正面に浮かぶ月は綺麗な円を描いている。

その完成された姿は多くの者を惹き付けるだろう。

だが、私にとっては月は突き。

一向に沈まないその存在は心を大きく穿った。

いつか、この張りぼてのような月がその輝きを取り戻した姿を見ることができるのだろうか。

穿たれた心に水溜りができた。


中庭を進めば左右の色合い豊かな花壇が目を楽しませてくれる。

ただ、その花たちは風に揺れることもなければ、虫と戯れることもない。

私には、まるで造花のように見えるのだった。


一つの花の前にしゃがみ込む。

生憎、名称は知らなかったが、赤い花弁の花だ。


右手の親指の腹と中指の爪を重ね合わせる。

お互いに軽く力を込める。

そして、親指をずらせば、中指が弾けた。


私の中指は花の茎に当たり、揺らす。

揺れた花は更に隣の花に触れて動かす。

そんな連鎖が四、五輪と踊らせるのを見届けて私は再び歩き出すのだった。




――やがて門へと到る。


整然と植わった木々の葉が、月の明かりを反射して青白く光っている。

そんな景色を眺めながら私は塀に凭れ掛かる。


「ご苦労様」


そう、横に佇む彼女に声を掛けた。


まあ、声を掛けたところで返答がないのは、最早承知の上だ。

それでも私が止めないのは、そうすることで何かが変わるのを期待しているからなのだろう。

若しくは、単純に寂しいからなのかも知れない。


自分で自分を分析すると案外恥ずかしいものだ。

何をやっているのだろうと、自分に対して溜息が出た。

「ねえ、あなたもそう思うでしょ」

横目に流しながら、そう尋ねる。


中途半端に俯いた彼女の頭。

その上に乗せられた帽子がずり落ちそうになっている。


瞼を下ろす。

視界が遮られ、黒く染まる。


鋭敏になる聴覚、嗅覚、触覚。

けれども、それらに何ら伝わってくるものはなかった。

ただ一つ、嘘吐き、と私の口から放たれた音だけを拾った。


――お疲れですか?

仕事の合間に、なんとなく空を見上げていたら、彼女にそう声を掛けられた。

暑いと暖かいの中間の日差しが大地へと吸われる。

手持ち無沙汰の腕は、何とはなしに時計を掴んでいる。

「別にそういう訳じゃないんだけどね」

本当に何の感情もなく顔を上げていただけだった。

「そうですか」

彼女は目を細めると、私に倣って空を仰いだ。

「いい天気ですね」

「そうね」

自分でも驚くくらいに気のない声が喉を通り抜けた。

白い雲が空の蒼を透過して水色を作り出している。

「こんな日には自然の声が良く聞こえます」

彼女は端から見ても分かる程に深く息を吸った。

そして、静かに音もなく吐き出す。

足元へ目を向ければ、小さな葉の欠片を咥えた蟻が彷徨っていた。

水筒にしては少々大き過ぎるそれを抱えて帰路についているのだろう。


私も彼女の言う通り、自然の声とやらに耳を傾けてみるとしよう。

目を閉じながら息を吸う。


さらさらと風が木の葉を揺らす音が聞こえる。

なんとも爽やかな音だ。

その音に混じってどこかで鳥のおしゃべりする声が聞こえる。

枝に止まった鳥たちを幻視してみる。



なるほど、悪くはない。

そんな世界に不自然な音が混じる。

人工物の、かちり、かちり、という無粋な響きは身体に時間の経過を伝えてくる。

やっぱりもう一人の私には風流さは分からないようだ。

いや、私も柄じゃないか。

首を一振りして目を開ける。


「そろそろ行くわ」

「そうですか」

頑張って下さい。

そう言って彼女は頬を上げる。

「時々、耳を澄ませてみてください」

きっと、落ち着くと思います。


そう付け加えるのだった。



――目を閉じて、耳に意識を集中する。

辺りは静けさに包まれていて、僅かな音でも響くに違いない。


だが、いくら耳を澄ましてみても風の音もなければ野鳥の鳴き声が聞こえる訳でもない。

あの時、聞こえた時計の音すらもない。

まさしく静寂の一言で表すことができるだろう。

全く馬鹿なことだ。

生彩を欠いた、この箱庭に何かを求めることが間違いなのだ。

所詮は私が弄ることでしか形を変えない玩具なのだ。


そんな世界の中で、私が石を蹴飛ばす音だけが、やけに大きく聞こえた。



――空には白いはずの雲が、夜に染められて灰色に変色していた。


横の彼女に向き直る。

「そろそろ行くわ」

投げやりに言葉を贈る。

別に彼女のせいではなかったのだから、この態度はいけないなと反省する。

彼女は相変わらず、微動だにしない。



そんな姿を眺めていて、ふと思い立った。


腕を伸ばす。

向かう先は彼女の帽子だ。

人差し指と中指で挟むようにして取る。

実際に手にすると、意外にしっかりした生地だなと少し驚いた。

縁に人差し指を掛けてくるくると回す。

金の装飾が目の前を通り過ぎる度に煌めく。

空中に金色の線を引く絵筆。

しばしの間、私の視線はそれから離れることはなかった。

指を動かすのを止めると、帽子は徐々にその勢いを失って行く。


そして、くるりと回って元に戻った。

私に装飾を見せるように止まったそれを一撫でする。


「頭に、龍か」

そんな私の呟きは自然と混じることなく取り残されるだけだった。


虚空へと吸い込まれるそれを見届けることもせず、帽子を彼女の頭に返して、離れるのだった。



――静止した水が目に映る。

飛散し霧のように細かくなった雫は風に流されていたのか、私のいる方向と反対側へ流れていた。


中庭の中央に設けられた噴水。

周りは肩程の高さの生け垣に囲われた場所だ。

ここは私のお気に入りの場所だ。

何故なら、ここからは館を見ることができるだけでなく、首を傾ければ時計台が、振り向けば門が見えるからだ。


私は噴水へと歩み寄る。

その途中、身体を躍らせて一回転すれば館の全てが見れた。

縁に腰を落ち着ける。


空を仰げば月が見えた。


丸い形を眺めていると、あることが思い浮かんだ。


時が止まる。或いは時計が止まる。


生き物が死を迎えた際、これらの表現を使うことがある。



私はうなだれた。

同時に納得もした。

今まで私以外の存在が止まっているものだとばかり思っていた。

だが、それは逆だったのだろう。

私を置き去りにして世界は進んでいるのかもしれない。


そう、私だけが時に取り残されて……

時間から取り残された私に一体何ができるのだろう。

閉じられた部屋の中で幾ら叫んでも伝わるものなど、ありはしない。


空を仰いだまま、視界を黒く染めた。


そのまま身体を前へと倒して頬杖をつく。


なんとも言えない、倦怠感のようなものが私を覆っていた。

その時、軽快な音が響いた。

なんだろう、と思えば、服から時計が零れ落ちていた。


手に取ってみても、やはりその鼓動は伝わって来ない。


時計の縁をなぞる。

滑らかな金属の肌触りは冷たさと心地良さを同時に与える。

指はやがて突起物へと辿り着くのだった。


――竜頭。

時計のネジを巻くためのつまみ。

その表面に指を這わせる。

今まで、時間を調節することなんてなかったので、その存在を意義を忘れていた。

言うなれば、装飾程度にしか捉えていなかったのだ。

滑り止めに削られた凹の感触がなんとも微弱なくすぐったさを与えてくる。


……それにしても、こいつも随時と意地の悪い奴だ。

今までずっと一緒に過ごしたというのに、私を置いて行ってしまうなんて。


竜頭を捻る。

今まで一度も使ったことのない、その装置は錆び付いたように固かった。


力を込める。

爪の先が白くなるほどに捻り続けると、一瞬の手応えの後、先程までが嘘のように、急に軽くなるのだった。


少し浮いた頭を捻っていく。

すると、首が現れた。


今まで見たことない部品に、私は少なからぬ興奮を覚えた。

捻り続けると、再び固いものに当たる。

使い方など知らないはずなのに、私の手は自然と首へと伸びていた。


細い首を指先で締め上げる。

すると、首は僅かに伸びて、かちり、と小さな音がした。


首をくるりと回す。

針が時を遡る。

ということは、反対側へ回せば、針が進むのだろう。


手を止めて、呼吸を意識してゆっくりにする。

目を瞑り、腕を胸に押し付けて、心臓の拍動を感じる。


私は、静かに手を動かした。

曖昧な鼓動に合わせて針を動かす。

まるで時計と私が一人になったようだった。

針が進む。

くるりと回る針は元の位置を越えて行く。

時が進む。



――その時、頬に冷たいものを感じた。

動かす手を止めて、触ってみるが何もなかった。

小さく溜息を吐いた。

果たして何に対する落胆だったのか。

それは自分でも具体的には分かってはいなかった。

ただ、緊迫の山を越えた心は酷く疲弊していた。


立ち上がって、尻を叩く。

その時、音が聞こえた。

木の板を爪でこするような音。

間違うことはない。それは、絶え間ない水の音。

目を開けて振り返れば、噴水から水が噴き出ていた。


風が吹いて私の髪を揺らす。

散った葉が、私の前を横切った。


私の心は震えていた。

身体という大地を揺らして河を生み出す。


くるりと一回転。

今までの人生で何度も見たことがある景色なのに、この上なく素晴らしいものだと思った。


腕に寄り添うように鎖が踊る。

それに釣られて手元の時計へと視線を流す。

短針も長針も秒針も動いてはいなかった。

私は、それを握り締めて一言、呟いた。

「ごめんなさいね」


何に対する謝罪なのか、私の中で明確なものはなかったが、どうしてか口から零れたのだった。

「ごめんなさいね」

再び繰り返す。

時計はくるりと動かず元には戻らない。

竜頭を捻ってみても、やはり針は動かないままだった。




☆☆☆☆☆☆☆☆☆



――時は巡り行く。


長い夜の中、見上げた空にはあの世界で見たように淡白な光を放つ月が浮かんでいる。

透き通った空は、写真のようにどこか完成された情景だ。

私はそれに向けて鼻を鳴らして切り捨てる。


写真は嫌いだ。

止まった世界を思い出す。

そんなものの一部となるのは絶対に御免だ。


私の前を行く主は、振り返って何かを言いた気に私に一瞥を投げる。

私はそれに薄い笑いを返す。

すると、彼女はくるりと回って元に戻るのだった。


果たしてもう一度世界が閉ざされた時、私はどうすればいいのだろうか。

もう身代わりになってくれるものはない。

例えば、この身が不死になったとしたら。

止まった世界で一人死に逃げることもできずに在り続けるのか。

それはきっと、私には荷が重過ぎる。

だから、せめてもの逃げ道を残しておこう。


私は、くるりと回ってそれから前へと進むのだった。
目指したのは、ほのぼのとダークの混ざった物語。

ここまで読んで下さってありがとうございました。

誤字訂正追加。ありがとうございます。


2.(奇声を発する程度の能力)様
読んでいただいてありがとうございます。こうしてコメントしていただくと、書いて良かったなあ、としみじみ思います。

10.様
二つの世界。同じ場所でも時に、違ったものになり得るんですよね。そんな雰囲気を味わっていただけたなら幸いです。

12.様
目指した話になっていたでしょうか。上手いと自ら言うことはできませんが、気持ちだけは十分に込めて書きました。

13.(コチドリ)様
望む世界へと戻った後に、再び止まった世界へと閉じ込められる運命にあるのか否かは、ご想像にお任せいたします。

15.様
時計の音と心臓の音は似ているのかもしれませんね。命の磨耗を具象化した時計には皆何かしらの想いがあるのかも知れません。

24.様
自ら意外に動くことのないというのはやっぱり怖ろしいものだと思うのですよ。その一端でも感じていただけたでしょうか。

25.(即奏)様
情景描写。読者の方々に止まった世界を感じて欲しくて頑張ってみました。褒めていただいて、ありがとうございます。

29.様
ありがたいお言葉ありがとうございます。すごいうれしいです。楽しんで頂けたならよかったです。

30.(euclid)様
わざわざコメントありがとうございます。どちらの世界もある種の美しさがあると思います。
もえてドーン
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コメント



0.930簡易評価
2.100奇声を発する程度の能力削除
おおう…これは凄い!いかん、素晴らしすぎて言葉で表せない…
とても良かったです!
10.100名前が無い程度の能力削除
時が止まった世界の寂寥感と紅魔館の暖かい雰囲気が同居していて良い空気を感じました。
しばらく余韻に浸れそうです。
12.100名前が無い程度の能力削除
誤字報告。

○脇腹
×脇原

ほのぼのとダークって混ぜられるんだな、と感動しました。
13.100コチドリ削除
とてもとても複雑な気分です。
ハッピーエンドとバッドエンドどちらがお好み?
と問われれば、ノータイムでハッピーエンドを選ぶ人間です、私は。

この物語の咲夜さんは一応自己の望む世界に帰って来られた。
単純に割り切ればこれはハッピーエンドで、私は喜ばなくてはいけないんですよ。
しかし彼女がそれまで閉じ込められていた完璧に孤独な世界が損なわれたことを
凄く残念がっている自分がいるのもまた事実なんですよね。

うーむ、このような悩ましい作品を投稿して下さった作者様に心からの感謝を。
そして自分勝手な八つ当たりは百も承知で少しばかりの非難を。
15.100名前が無い程度の能力削除
一人だけ取り残される、というのは非常に辛いことですよね。
他の姿が見えていれば余計に。

そういえば、昔は時計の針の音だけが聞こえてくるのが嫌いだったなぁ、なんて思い出しました。
咲夜さんとは逆ですが、どちらにしろ時計の音っていうものには特別なものがあるんだろうな、と思います。
24.100名前が無い程度の能力削除
時計の音だけが深夜に聞こえてくるのが不気味で仕方が無かった
25.80即奏削除
咲夜の生に幸の多くあらんことを。
豊かな情景の描写がどれも素敵でした。

誤字報告をば。

>いつもと通り時間を止めて道を歩く。
→いつも通り時間を止めて道を歩く。

でしょうか。
28.100名前が無い程度の能力削除
貴方の書く作品はどれも美しくて好きです
30.80euclid削除
随所に散りばめられた、くるりと回っては元に戻っていくもの達。
しかし時計は元に戻らず。
そしていつかは彼女も……。

美しい静の世界と穏やかな動の世界。優しい対比がよかったです。
(最後のシーンに誤字一つ)
32.90名前が無い程度の能力削除
これは面白い。
時計の竜頭をいじるところでどきどきさせてくれて、このオチ。
SF風なのが好きな私にツボでした。