霧雨魔理沙は空を飛ぶ。
何処を目指しているわけでもなく、ただ、風を切って飛ぶ。
本日やけに元気の良いあのくそったれのお天道様が沈むまで、
正面から涼しい風を受け続けていたかった。
要するに、暑いのだ。
いっそのこと、川でも湖でもいいから素っ裸で飛び込んでしまいたいところだったが、
さすがにそれは乙女としてどうかと思い直す程度の理性は残っていた。
知り合いに見つかれば笑いものだろうし、河童に尻子玉でも抜かれてはたまらない。
取り立て急いでいるわけでもないので、風を切るといっても人の走る倍程度の速度だ。
節約は大事である。魔力を大切にね。
何とはなしにふらふらと紅魔館前の湖まで来てしまった。あの寒い氷精はいるだろうか。
からかって氷の塊でも投げさせれば少しは涼しくなるかもしれない。
しかし期待は裏切られた。だだっ広い湖の何処を探してもあの青い服は見当たらない。
澄んだ湖の底を漂うなにやら微かに陽光を反射する球体を見つけてようやく、
それがチルノのいる場所だとわかった。
「氷の……潜水艦か?便利だなあ、ちくしょう」
妖精に呼吸の穴は必要ない様だ。気泡が昇らないことも、見つかりにくさを助長していた。
魔理沙には残念な話だが、チルノは自分を氷の中に閉じ込めて水底をただ転がっているだけなので、
そもそも人間を連れまわせるようには出来ていない、というのがこの氷球の正体である。
「これじゃ呼ぼうにも声は届かないな。次を当たろう」
紅魔館。窓の少ない風通しの悪い館である。
日本の気候を無視した造りのその館は普通なら住人総蒸し焼きになっているところであろう。
そうならないのはおそらく居候の魔女のおかげ。だとすれば彼女のいる図書室はきっと快適に違いない。
門番は寝ているのか目を開かない。
このままそーっと……と通り過ぎようとしたところで、魔理沙はりいん、という音と共に周囲を弾幕に囲まれた。
「涼しげな風鈴の音を聞かせてあげるのでお引き取りください」
「まったく涼しげになれる気配がしないんだが」
「心頭滅却すれば火もまた涼し、ですわ」
「つまりお前の弾幕が実はちっとも涼しくないって言ってるんだな」
「下手に動き回るとヤケドするのさ!」
妖怪『紅美鈴』
カラフルな弾幕の包囲網。りいん、りいん、という音と共に色を紅に変えた弾が向きを変えて移動する。
向きのわかりやすい弾なのがせめてもの親切だろうか。
魔理沙が弾幕メモに記すところの、ストレスタイプの弾幕、といったところか。
狭い弾の隙間をじりじりと移動させられる魔理沙の耳には、風鈴のような音など耳障りにしか聞こえなかった。
程なくしてへろへろと魔理沙が墜落し、天を仰いで息を吐く。
「うげえ、こんな日に飛び回らせてくれないなんて、鬼め悪魔め妖怪め~」
「飛んで火に入る夏の虫だったみたいね。ちなみに中に入るのはもっとお勧めできないけど」
○美鈴―魔理沙● 決まり手:環境利用闘法
パチュリーのいる図書室は今、水で満たされているらしい。魔理沙の想像を超えていた。
○すべて、と魔女の豪語する本は、魔法の泡に包まれた彼女の手に渡るとまったく水に濡れていないという。
美鈴は泡に包まれて入れてもらえたようだが、
突撃!隣の本ルパンで知られるところの魔理沙では泳いでお帰り、と追い返されるところだろう。
「とんだ無駄足だったぜ。あとは――」
「心頭滅却出来る方法でも覚えてく?」
――と美鈴が言うと気の力やらなんやらで本当に出来そうだが、
これ以上立ち止まっていると技を覚える前に倒れてしまいそうだ。
魔理沙は後ろ手にひらひらと手を振ってノー、サンキューを伝え、のろのろと箒にまたがって紅魔館を後にする。
「うーあー」
情けない声を上げながら箒にうつぶせになって飛ぶ魔理沙。
その表情は子供が風呂上りに扇風機の前で口を開けている様と同様ではあるが、
残念(?)ながらその声は細切れにされることなく後方へ流れてゆく。
不意に魔理沙を捕らえるシャッター音。
「いーやーほんと暑い暑い、弾幕ごっこどころじゃないですね」
いつのまにか、自称清く正しい烏天狗の射命丸文が風を巻き起こしながら涼しげな顔で併走していた。
取材モードなのか、色々な角度で写真を撮ろうとちょこまか位置取りを変えて貼り付くのが鬱陶しい。
不覚だった。このパパラッチにバテバテの阿呆面を撮られるとは。新聞の一面にでもするつもりか。
それともコラージュか、幻想郷一の美少女魔法使いのアイコラ画像でも作るつもりか。
虚ろな目で口をぽかんと開けている顔なんて格好の餌食じゃないか。
「なにやら失礼なことを想像された気がしますが……その様子だと相当茹だってますね、
いい画が撮れましたし、お礼に扇いであげましょうか」
「何もかも吹き飛ばされそうだから遠慮しとくぜ……」
「ここだけの話、熱中症の注意喚起の取材なんですけどね。霊夢さんも虫の息のようですし」
「霊夢が?」
「裸で転がってました。
今日は休業だって返事をする余裕はあったみたいなので撮るだけ撮って引き上げましたけど」
「裸で、ってちょっと待て。それも載せるつもりなのか」
珍しく真面目な内容の新聞かと思ったらこれだ。ああ、幻想郷の倫理観はどうなってしまうのか。
「心配しなくても文々。新聞はいつも健全で真面目です。
あと、霊夢さんなら色気なんてカケラもない絵面でしたので安心して良いですよ。では、私はこれで」
それはそれでどうなんだ、と思う反面、自分以上に暑さにやられている霊夢というのも珍しいと思い、
文を見送った後、魔理沙は博麗神社を覗いてみることにした。
飛び続けて風に当たった分、何とか気力を取り戻したところで神社が見えてきた。
「かえれー、くろくてあつくるしいのかえれー」
霊夢だったと推測される人体がドロワーズ一枚で髪にリボンもつけずに畳にうつぶせに転がっている。
なるほどこれは色気のない裸だ。
「せめて服は着ようぜ、年頃の娘として」
「いやー、あついー」
重症だ。
顔を畳に押し付けて左右にぐりぐり転がして駄々をこねる様は可愛いが、
これからも変わらず友人として接するに当たってせめて服ぐらいは着ていて欲しい。
「よしわかった。服着たら涼しいところへ連れてってやる」
正直場所に当てはないが、飛び回るだけでも楽になるだろう。
身体をほとんど動かさずに飛べる私たちだ。最悪レースでも吹っかければ気が紛れるだろう。
……と、考えたところで、ゆらりと立ち上がった霊夢を見る魔理沙の顔が引きつる。
「ぷふ、す、すまん。やっぱりそのまま暗くなるまで寝てて良いぜ……へひっ」
霊夢の額から鼻、あご、胸を通ってお腹まで、見事な横縞が刻まれていた。
魔理沙は噴出さないように必死で顔を歪める。
しかし、その味のある表情に気づいたのか、
ふらふらと洗面所に向かった霊夢が何食わぬ顔で着替えて戻ってきたときには、
さすがに我慢の限界だった。
「ぶっは、おい、ちょっと待てよ、鏡で見てきたんじゃないのかよそれ、
天狗に撮られても知らないぜ、もう撮られてるけど、あは、あはははは」
顔に入った横縞は消えていないのだ。テレンスで弟なダービーのようだ。
直後の悪寒。
さすがに怒るか。
霊夢は服を着たな。
ええい、ままよ。
――この間0,5秒
ひとしきり笑った後、冷や汗とニヤニヤ笑い浮かべて魔理沙は箒を掴んで外へ飛び出す。間一髪。
「そう、けんかを売りにきたのね」
魔理沙の立っていた場所には彼女を押しつぶし損ねた人間大の陰陽玉が転がっており、
霊夢はお払い棒を叩きつけて魔理沙の逃げた方角へバウンドさせる。
境内上空をくるくると飛び回る魔理沙にからかわれていると思い、いっそう腹を立てた霊夢が、
頬をリスのように膨らませて追いかける。
「あっはははは、神社で死体ごっこしてるよりずっといいぜ!」
ヤケクソである。が、結果オーライでもある。止まりさえしなければ風はいつまでも涼しい。
魔理沙と霊夢が空を飛ぶ。
何処を目指しているわけでもなく、ただ、風を切って飛ぶ。
本日のそれは、ただ、日が沈むまでの暇つぶし。生き物は暑さに弱いのだ。
夏の猫はすごいんだぜ
なんかもう、溶けてるみたいにぐにゃーって床にねそべってる
それにしても暑いなあ…