――暑いから、ちょっと音速超えてくる。
魔理沙はそう言って行ってしまった。
霊夢は縁側でお茶を飲みながら思った。
ばかじゃないの?
でもそんなばかさがちょっぴり羨ましかったり。
◆
「おおおおおおおおおおおおおおおおおぁぁぁぁぁぁぁあああああ!」
私は叫びながら上を目指す。箒にしがみついて、上を見上げる。雲の隙間から青い空が見える。
私は加速する。
空を目指して加速する。
雲を超えて、雲を抜ける。
サングラス仕様のゴーグル越しに太陽が見えた。
光る太陽、目掛けて、私は昇る。
昇る。
ごうごうと風の鳴る音が耳元でする。
だけど気にしない。
雲を突き破る。最速で昇る。
箒の切っ先は真っ直ぐに。
そして、私は雲の上へ。
眼下に広がる雲海を、されどなんの感慨もなく見つめる。私に今必要なのは速さだ。速さがあればなんでもできる。そんな気がする。
だから、私はここにやってきた。
障害物もなにのないここへ。雲の上へ。
加速するには最適な場所だろう。
辺りを見渡して、なにもないことを確認すると、私は結界の端っこに移動する。
端っこから端っこまで。
それまでに音速を超えられるかどうか。
それが、勝負だ。
勝手な一人の勝負だ。
私は、ただ、最速であるとするための勝負だ。
私の中の、限界との勝負だ。
誰より遅くても構わないけれど、私は私より速くなくてはならない。
だから、私はここを飛ぶ。
その名のままの、最高の速度で。
とん、と背中に小さな衝撃。そこを手で触ると、なにもないのに押し返されるような感触。どうやら、ここが結界の端っこらしい。
私はなにもない雲海の上で腕を組む。
ゴーグルを額にずらして、目を閉じる。そのまま身体を反らして、風に身を委ねる。落ちていきそうな身体を、けれどぎりぎりに保つ。
このまま落ちて行けたら、気持ちいいんだろうな。と、思う。だけどしない。死にたくはない。
だから、落ちない。
リラックス。
反らした身体を元に戻して、大きく息を吸う。
そして、自分が緊張していることに気がついて、苦笑い。手が震えてるじゃあないか。そんなに限界に挑戦するのが怖いってのか。
いいや、そんなことはない。
怖いなんてことがあるもんか
皮手袋に包んだ手をぎゅっと握り締める。
怖くない。
怖くない。
ただ、私は最高速を目指すだけだ。
だから、大丈夫。
そう思うと、自然に震えは収まった。
収まったら、あとは飛ぶだけ。
空を翔けるだけ。
手袋を再度、はめ直す。箒の柄をしっかりと握り締める。ゴーグルを下ろして目の前を見据える。
なにもない。邪魔するものはなにもない。なにをしようと、誰にも憚られない。ならば大丈夫。私は飛べる。
誰よりも速く。
自分よりも速くなれる。
だから――
一瞬、目を瞑る。
考えることはない。おおきく息を吐く。
そして目を見開いて、空を見る。
遠く、高くに太陽はある。
さぁ、行くか。
準備は万端。一切の心配はない。
ぎち、と軋みを上げて、魔力が唸りをあげる。
視点は正面に固定。私は前しか見ない。きっとそれ以外に余裕なんてなくなる。
そうして、一瞬、後ろに引っ張られる感覚のあと、私は前に飛び出す。
急加速はしない。
加速に身体を慣らしていく。じりじりと加速。
頭が後ろに引っ張られる感覚。
加速。
加速。
加速。
加速。
加速。
そして私は星になる。
昼の空を翔ける一個の星になる。
加速する。
身体が引っ張られる。
落ちていきそうな感じ。
だけど気にしない。
ひゅ、と風が過ぎていく。
加速するに従って、身体を箒に伏せていく。
体勢を低く、低く、空気抵抗を減らす。
流れていく景色。
変わらない景色。
青い景色。
空の景色。
雲を眼下に眺めながら。
空を頭上に眺めながら。
ゆっくりとゆっくりと。
加速していく。
加速、していく。
ぎ、ち。
音。
広がっていく。
視界が狭まっていく。
前しか見えない。
速度をあげる。
耳が痛い。
さらに加速。
耳に響く。
知るかそんなもん!
気にせず速度を上げる。
星になる。空を翔ける流星。星を散らしながら疾る流星。星を落しながら疾る流星!
ぐんぐん加速する。
ばたばたと髪がなびく。風に遊ばれる。風に遊ばれる? 遊ばれている。
そんなの認められるか!
私はさらに速度を上げる。
遊ばれているだけなんて、認められない。
私が風で遊んでやる。
だから、私は加速する。
空を翔ける。
他の事は考えない。
ただ、その事のみに集中する。
ぎゅり、と箒を強く、強く握り締める。
青い空が流れていく。
一片も変わらない景色が加速していく。
世界が後ろに素っ飛んでいく。
まだ足りない。
速さが全然足りない。
もっと、もっと速さを――!
「なにをやってるんですか?」
声。
声?
速度を落として、ちら、と横を見ると、そこに文屋がいた。呆れたように空を滑空しながら話しかけてきた。
「見ての通りだ」
「なんですか?」
「音速を突破しようと思ってな」
「音速?」
「ああ、音よりも速く飛びたいんだ」
「無謀ですね、また」
やれやれ、と首を振る。
「そうだ、だけど、飛びたいんだよ」
「どうしてですか」
「いや」
だってさ、
「今日は暑いだろ?」
にやり、と笑いかけてやる。文屋もにやりと笑い返す。
ああ、そうか、こいつもわかるのか。同じく速さを求めるこいつにも。
霊夢にはばかみたいと言われた。あいつはのんびり行くタイプだからな。だから、私は速く行く。
暑いから空を行く。
実に正しい。
なにに対して正しいのかわからない。
けれど、私は今、なによりも正しい。
暑いから空を飛ぶ。
暑いから氷を喰う。
なにが違う。
全然、なにも違わない。
だから――
「ご一緒しても」
「もちろんだ」
そうして、あいつはぶわり、と大きく羽ばたかせた。応えるように、私も魔力を唸らせる。
真正面を睨むように見据える。
一緒に飛ぶのなら、私は負けてられない。
なによりも速く、誰よりも速く。
私は加速する。
速度を上げろ。
速く速く。
加速する景色。
後ろに素っ飛ぶ青色。
雲海が流れていく。
不定形な雲が、一瞬で形を変えていく。
風が痛い。
額にぱしぱしと当たる風。
気にはしない。
気にしている暇も惜しい。
私はさらに加速する!
一歩前を行く天狗の背中。
届かない?
届かせる!
あいつは風を操る。
だったら勝てないんじゃないか? そんな思考は打ち切ってしまえ。
私は飛べばいい。
ただ最速に、私の出せる最高速で。
魔力が吹き出る。背面から、光になって溢れる。
流星になる。
流れ星になる。
動悸がさらに激しくなる。
どっど。どっどっど。心臓から血液がありえないような速度で駆け巡る。血管を走る血が熱い。熱に浮かされる。ぼうっとなる。電撃が走るように、びりびりと身体中に衝撃が走る。脳からの電流が遅い。
私は身体を低くする。抵抗を少なく、限界まで少なくする。
駆け巡る血液が身体を刺激する。
ぞわ、と皮膚が粟立つ。
興奮しているのか、なんなのか、わからない。
ばちばちと額が痛い。
もっと低く!
循環する速度が上がる。血液が高速で身体中に流し込まれる。脳みそがアドレナリンを放出しているのか、痛みはない。なくなった。だから、あとは翔けるだけ。
空を翔けて、限界を破るのみ。
自然と、声が出た。
「あ、ああああああああぁぁぁあぁぁぁぁぁぁあああああぁ!」
叫ぶ。
なんにもならないけれど、ただ叫ぶ。
文も、同じようにして叫んだ。
空に吐き出すようにして叫んだ。
どっくん、どっくん。心臓の音が聞こえる。
目の前が真っ白になる感覚。
だけれど、気絶なんてしない。
してたまるものか。
私は先を見る。
文は、もう私を見る余裕なんてない。
私も、文を見る余裕なんてない。
ただ、互いに前を見た。
前へ、前へ、手を伸ばすかのように、速度を上げる。
じくじくとする感覚。
どこか怪我した?
知るもんか!
翔ける。疾る。もっと速度を。
ぱじり。
音。抵抗は一瞬。
その先へ、私は加速する。
音が置いていかれる。
ぱき、と音がした気がした。
つぅ、と額から頬に流れる血。
額を割った?
そんなことは気にしない。
私はただ、ただただ、前へ加速する。
速度を上げて、これ以上ないってくらいに最高に最高速で、私は笑みを浮かべた。確実に風で引きつった笑み。だけれど最高の笑顔って自信を持って言える笑顔。
――だから、それで十分だ。
そうして、私は、全魔力を正面への衝撃吸収に回した。
がっつん、と衝撃。
隣を見ると、文も同じように風をクッションにして、結界にぶつかってた。
顔を見合わせて、笑った。
落ちながら、笑った。
私はぎゅっと手を握る。
限界を突破したぜ、と胸を張って言える気がした。
だから、この高揚感をそのままに、私は落ちていく。
幻想郷に向かって、真っ逆さまに。
◆
「ばかじゃないの?」
「いや、面目ない」
くるくると頭に包帯を巻かれながら、魔理沙は謝るようにして言った。欠片も謝る気なんて持ち合わせちゃいないけれど、一応、そうしておいた。
「それに、あんたまで」
「いやいや、たまたまですよ」
「なぁ」
「あんたらはばかよ」
べしり、と霊夢は文の頭を叩いた。
魔理沙を振り返って、聞いた。
「で、どうだったの?」
「ああ、突破した」
魔理沙は、手をぎゅっと握り締めて、笑った。
そう、と霊夢は笑いながらお茶を出した。
「ばかだけど、ちょっと羨ましいわ」
「お前も行くか?」
「行く気が起きたら」
「そんなこと絶対にないだろう?」
魔理沙は笑って言った。
文は笑っていた。
二人して顔を見合わせて、くくく、と笑った。
「なによ、気持ち悪い」
「いや、なぁ」
「ですよねぇ」
そうして文は申し合わせたように、手の平を前に出し、魔理沙はそれに向かって拳を打ちつけた。
ぱしん、と大きな音が鳴った。
霊夢はそれを意味がわからないような顔をして見ている。
わからなくていいのだ。
ただ、それだけのことなんだから。
いつか連れてってやるぜ? と魔理沙がウインクつきで言うと、霊夢は笑って、その気が起きれば、と言った。
そいつは残念、と魔理沙は己の手の平に拳を打ち付けた。
包帯に巻かれた額を触って、にやり、と笑みを浮かべた。
傷が残ればいいのに、と思った。
だってこれは、ある種の称号なのだから。
[了]
音速も夏の暑さも突き抜けました。
勢いを感じさせる描写だった。清清しいばかに乾杯。
冬読めば俺の心が真っ赤に燃える!
一度で二度おいしいんですね?
わかります!
今はもうそんな事は出来ないし、それでいいと思っていますが、
ぶつかってくる風と共に自分の中の何かが千切れ飛んでいく感覚、
そんな懐かしいものを思い出させてくれた作者様とその作品に感謝を。