それはほんの三年程前の話。
真白で銀鏡の世界。白雪が蝶の様に舞い降り死に絶え、辺りを埋め尽くす。
辺りといっても彼女の周辺は勝手知ったる彼女だけの庭だけなのであるが、そんなことは当の本人は微塵も介した様子がない。
そんな閉じた庭が西行寺幽々子の世界であり、其れ以外の事柄にはてんで興味が無かった。
それに、此んな呆れた俗世でも飽きない最大にしてたった一つの疑問が目の前に鎮座していた。
其れは一本の大木。雄々しく枝を蠢かせる棘々(おどろおどろ)しい枯れ木である。
この桜は、なに……?
それだけを考えて幽々子は桜を見る。
違う、と幽々子は否定した、之は桜などではない、とも。
桜が咲かない桜なんて桜ではないと彼女は考えていた。
「ねぇ――教えて。アナタはどんな色の花が咲くの?」
生まれたてに赤子を触る様な仕草で幹を撫でてみる。
冷たくて湿っていると、確かに感じた。
まるで私みたいだね、と彼女は孤高に浸り自己を慰め思う。
「きっと素晴らしい桜が咲き誇るに違いないわ」
唯枯れ木を風に梳かせるばかりで桜は何も言わない。
悍ましい自然の音が鳴り響き続け、恰も其れが返答だと云わんばかりに。
故に彼女は考え巡り――辿り着いた。
尤も彼女が『悪魔的な(その)思考』に至るまでに時間はかからなかった。
養分が足りないならば、私が運べばいいのだ……と。
「そう、そうだわ。咲かないなら、私が咲かせればいいんだ!」
さも面白い遊びを思いついた童子のように少女は顔を綻ばせた。
其れは見るものがいたら背筋が凍るほどのとても美しい妖しい微笑だったが、その笑みを見た者は誰もいないということは幸か不幸か。
「お嬢様。御身体に障ります。どうか部屋の中へ」
幽々子の聞きなれた男性の声がした。
声の主を確かめるべく彼女は振り向き、
「――――――」
幽々子はやっぱりと一人納得した。
こんな不躾なことを促す奴は一人しか居ないと分かりきっているのだが、それでも彼を直視した。
彼の緑を基調とした着流しが風に流れ、頭巾とした白い布には同じ色の落下物がぽつぽつと付着していた。
雪が積もる……そんな当たり前の事柄も飄飄とした物腰の彼にはとても似合っていると幽々子は子供ながらに思っていたが、そんなことを伝えたことはなかったしこれからもそんな間違いは起こさないだろう。
その男―――魂魄妖忌が幽々子の側に近寄ってきた。
幽々子はまたつまらない事を……と、思う反面、少しだけ喜んでいる自分が腹立たしかった。
「私が何処にいようと私の勝手でしょう。庭師風情は黙りなさい」
幽々子は意図的に感情を破棄したような声色を出した。
彼女は唯一の感情表現であるような気がしていた。
無関心こそが関心をもつ術であると。
現(うつつ)においては愛など滑稽な病だと……そんな莫迦莫迦しい病など排除するに限る。
「そうもいきません。旦那様不在の時は貴女の面倒をみるように仰せつかっていますので」
「…………」
彼女は小さく舌打ちのしたのだが、彼には届かなかったのか平生と変わりない屈託の無い笑みを浮かべていた。
否、正確には届いていたのだが、あえて彼が聞き流したことに気付かなかった。
其れほどまでに幽々子は幼く拙かった。
「さぁ、御飯も出来ていますのでお上がり下さい」
「上がって下がるなんて器用な真似は出来ないわ」
「また屁理屈を……」
何が嬉しいのか微笑みながら、幽々子の手を半ば無理やり握り屋敷の中へ連れ戻した。
「む……」
彼女も強引に振りほどくことはせず渋々、彼に導かれるがままに帰宅した。
それが三年前の出来事―――。
―――そして今。
彼女は三年前と同じように月光と粉雪を背負い、桜の前に佇んでいた。
痛覚など当に死に絶えたと云わんばかりに極寒を物ともせずに。
或いは……『痛みを知る』という感覚さえも既に壊死していたのかもしれない。
恍惚に浸る幽々子の頬には糸雫の紅い蝶――それは蝶などではなく人の体液である。
彼女の足元には満足気に往生している人の屍。
幽々子が殺したのは誰の目にも明らかだった。
『死』を一瞥する彼女の瞳には生気など宿らず、黒色の帯が巻かれたように唯唯見る。
然し乍、彼女はそんな極細な死などにはてんで興味がなかった。
其れほどまでに彼女はこの三年、『摘み殺(と)る』という行いしかしてこなかったのだから仕方のないことだと云うことも出来る。
彼女は、もはや笑いを隠すこともせず、一人透き通るような声で哂った。
……もう少しだ、と。
絶頂の前のもどかしいさも今は心地の良い愉悦へと変わっていくのが彼女には堪らなかった。
背筋がこそばゆく、故に齢十四の少女は快楽というものを知る。
―――死という甘美な怨嗟は何ものにも代えがたい養分となる。
偶然の悪戯か、彼女は死を誘うことが出きる。
従いて。
三年前と異なり、枯れ木が蠱惑の蕾が幾つも抱えている。
最早枯れ木と称するのも烏滸がましいのかもしれない。
人肉の様な桃色と、墨を垂らしたかの如き黒が混じり合う成り損ないは完全へと孵化を求める。
くすくすくす――と彼女は二度哂った。
……あと少し……あと少しで咲く。
クスクスクスと闇夜に冷ややかな鶯の鳴き声とも取れる音が舞う。
真冬の寒風も彼女にとっては涼風も同義。
黒くゆるりとした癖っ気のある髪がそよそよと流れた。
そんな彼女は月に無慈悲に抱かれる。
「嗚呼、今宵も綺麗な朧月夜――――――」
●
喧騒だった。
人の温もりを自然と感じることができる、と人々は束の間寒さを忘却することが出来る。そんな活気に満ち溢れた賑やかな町を歩く。
『彼ら』もまたこの街路を闊歩していた。
陽気とは一切関わりがないという涼やかな顔で。
真白な太陽が弱々しく若葉色の彼と薄空色の彼女を照らす。
彼らは民家の並びを歩く。整備がされたとはいえ、まだまだ貧富格差のある家々を見渡せば如何に彼女たちの住む屋敷が豪勢なものかが一見して分かるだろう。
その家と家の間の路を歩む。
一歩を進む度に雪駄が味気の無い砂利道を咬む。
「…………ッ」
唐突に肌寒い季節風が魂魄妖忌の体を掠める。
僅かに顔を顰める。
「大丈夫ですか? 幽々子御嬢様」
粉塵は彼と、一歩先を進む少女にも振りかかっていた。
黒い癖っ毛のある髪の毛に茶色の粉末が降りかかっていた。
そんな些細な屑事柄なんて、幽々子は彼と違い怖じける事無く歩みを再開する。
そのはずなのに、しかしその場で止まっていた。
そして、
「ねぇ、庭師。あれは何?」
言いながら幽々子は町の一箇所を指さした。
彼が指し示す方向を見れば、街に一角。
何人かの女が人形を操り偽りの言葉を言い放っている。
「あれは旅芸人でございます。どうやら人形劇をしているようですね」
「へぇ」
彼女はさも面白くなさそうに応答した。
しかし声色とは裏腹に頬が釣り上がっているのが見て取れた。
目が爛々と輝き年相応の顔だ。
そんな幽々子に妖忌は、
「……鑑賞なさいますか?」
待ち合わせをしているというのに、と、妖忌は無駄な提案をした自分を自嘲した。
魂魄妖忌がこのような提唱をしたのには理由があった。
そもそも理由もなしに彼が人にものを薦めることなどは殆どと言っていいほどない。
それが本当に他人にとって望むものかどうかは別にして、だが。
「最近は短歌(うた)の学で忙しいでしょう。どうです? 羽休めをされては」
……正直、彼は幽々子が怖かった。
半人半霊の彼が怖がる一人の少女は、生まれ乍らにして孤高というか……無意識に他人と触れ合うことを億劫と感じる質であった。
また彼女自身もそれを自覚しているのか、敢えて態度を変えるということはしてこなかった。
それは彼女の肉親にも問題があると妖忌は考えてもいた。
幽々子の母は死別しているし、唯一の親である父上もふらりと木の葉のように出家してしまい、幽々子は父の愛情を一切に受けていないのだ。
少なくとも彼の知る女子は、ということなのだが父上に対しては異様な執着を持つものであった。
そこまで考えて妖忌の頭にはちらつく少女の影がいる。
……いつまで縛られているつもりだろう。
彼は覚えている……否、忘れたくても忘れられない記憶。
自分を半人半霊にした少女の事。
今と違い帝直属の兵という肩書きを持っていた頃の話。
その日はとても暑い夜に彼は彼女と出会った。
―――藤原の性を名乗る少女と。
彼女は勝気で何にでも自分の思い通りに成らないと気が済まない少女だった。
自分が少し悪戯(からか)えば、天女の如き無垢な顔を膨らませ怒る。
でもとても怖がりで、見ているものを愉快にさせる可愛い少女だった。
彼女を一目見れば貴族の娘だということが分かるほど長い黒髪を持っていた。
いや、全身から薫る刃を思わせる高貴な雰囲気を察するだけでも十分だろう。
『自分を助けるために庇った(蹴飛ばした)少女』は、あれからしっかりと薬を焼いてくれただろうな。
責任感の強い娘であった、と、数百年たっても思い焦がれている。
彼は強く願った。
あの世でもう一度彼女に逢いたいと。
妖忌はまた、きっと長く生きていれば彼女の輪廻と巡り逢えるだろうなどとも思っていた。
さて、と彼は自分の思い出回想を綴じた。
視点を遠くから、隣で共に立つ少女に戻す。
だが、傍らに佇む少女は違った。
彼女は暇さえあれば幽霊と戯れ、しかもその殆どが悪霊の類であり、日替な咲もしない桜の枯れ木を一日中眺めるような狂人と思しき行いばかりしていた。
其れが、彼にはとてつもない異様な行い(もの)に思えた。
―――人を拒絶し、人成らざる者を理解する。
だから、これは彼の身勝手な価値観の押し付けに過ぎなかった。
せめて普通の童のような顔を見たいという……本当に自慰以外の何ものでもない行動。
そんな心の片隅の願望が彼にそう提案をさせたのだ。
が、少女は冷めた瞳で彼を見やり、
「興味ないわ」
言い捨てる。
……が、それも妖忌は予想できた。
何故ならば、それもこれも幽々子が彼の提案に従ったことなど殆ど無いのだ。
天の邪鬼とも思わせるように正反対の行動ばかり取る。
その仕草は……否、その仕草だけが彼が彼女を年相応の少女と認識出来る唯一の瞬間だった。
嗚呼そういえば……と彼は思い出す。
彼女が自分の忠告に従ったこともあったな、と。
……あれは確か三年程前に彼が幽々子に真冬に部屋に入るように促した時だったか。
まぁ些細な出来ことだろう。
さてはて人として歪なのは半人半霊の自分であるのか、それとも西行寺幽々子であるのかと妖忌は一人思案する。
彼の日常とは下世話なことを考えては諦める日々であった。
●
西行寺幽々子は興味はあった。
しかしそれは人形劇など虚構の世界などでは断じて無かった。
ただ一人。
人間風情の中にひとりだけ匂いが違う。
下衆な女人共の中で咲き誇る高貴な花。
そんな薫を振り撒く人が混じっていたことが幽々子には不可解だった。
傀儡女などに転落する御人であるのか……と懸念するほどであった。
狐の面を被った、恐らくは自分と同じ年頃の少女。
主役となる人形に討伐される妖怪の役の人形を操る少女は、こちらには気づかないだろう。
何よりも彼女にとって不愉快なのは、彼女からは生死の気配が一切ないのだ。
其れは今まで幽々子が体験したことがない居心地の悪い、喩えようもない不愉快な感覚だった。
それっきり彼女は考えないようにした。
暗雲を振り払うべく彼女はやや早歩きを心がけ、彼女は目的すら分からぬ場所へと歩み始めた。
●
芸が終わり、それぞれの時間を過ごす。
もう誰そ彼時が近づいている。証拠に近い何処かで黒鴉が阿呆阿呆と哭く。
少女は身につけていた狐の面を放り投げ、宛てがわれた部屋に腰をおろした。
その少女は部屋の片隅でじっと蹲り視線を宙にさ迷わせるだけだった。
彼女には世俗に興味がないどころか内心では塵界だと罵ってさえいた。
他の女のように、貴族の男に娶られるなんて下世話な事は考えもしないし、ましてや夜遊などもってのほかだ。
今日もまた、冥夜に暮れるまでじっとしてよう。
彼女は、彼女が莫迦にしている女たち以上に莫迦な時間を過ごしているという自覚はあった。
だが決して改める気には成らなかった。
少女は改めてしまったら、何かが崩壊してしまいそうで怖った。
西日が彼女に降り注ぐ。
ほんのり暖かい香りが漂いそうな光は彼女のみ成らず部屋全体を朱色に染め上げる。
そして。
今日はいつもと違った。
傀儡女仲間の一人が、彼女に話を振った。
「ねぇ新入……貴女、何処でそんな芸を身につけたの?」
女は彼女に興味を持ったように目を輝かせ、話しかける。
彼女は与り知らないかもしれないが、それはこの旅芸者の誰もがもつ疑問だった。
転がり込むように此処に来て、早数年。
妖怪狩りを兼用するその彼女は、身の上を一切語らず、唯淡々と己の仕事をこなすのみである。
そんな摩訶不思議な少女をもっと知りたいと思うのは人として至極当然の考え方だった。
彼女は表舞台に出る時は絶対に面を装着し、素顔を覗かせることは決してない。
つまり、素顔を観られては不味いのだろうという憶測がいつしか定説、定理として浸透していた。
「生まれつきさ」
問われた彼女は振り返らずに涼やかに返した。
「そうかしら、生まれつきにして琴(きん)の琴が上手に引けて、文字も上手い。それに大和和歌を一九間違えずに諳んじることが出きるなんて……まるで一昔前の貴族の娘よ?」
面白いね、と女は笑った。
「可笑しいことはないでしょう」
彼女は若干声を低くし、ぶっきらぼうに答えた。
「気を悪くしたのなら謝るわ。だって『藤原』なんですもの。勘ぐるのも無理はないじゃない」
「…………」
少女は目尻を上げ睨んだ。
が、一向に効果はないが故に、それを会話切りの合図と決めつけ『藤原』と呼ばれた少女は再び顔を背けた。
それを悟ってか、
「藤原といえば、貴女……義清ってご存知?」
と、話題を変えた。
『藤原』は嫌々ながらもゆっくりと言葉を選び、
「ああ、あの『西行』だろう。才色兼備の」
「知ってるなら話が早い! この町の彼の御屋敷に何でも奇っ怪な桜があるんですって」
「奇っ怪?」
「風の便りなんだけど『生気を吸い取る』らしいわ」
「――――――なるほど」
女は凍りついた。
人はこんなにも醜悪な笑いが出来るものなのか、と。
「……ッ! あ、あたし用事思い出したからまたね!」
話を始めた女は戦慄し、一方的に逃げる。
麗しい顔を醜く歪ませて微笑む少女は――それこそ彼女には妖怪の類に見えた。
●
宵が包みかける町を歩く影が二つ。
二つの影、西行寺幽々子と魂魄妖忌は一軒の宿の暖簾をくぐった。
ここである人物と出会うためにだ。
妖忌はもうちょっと早く辿りつけるかと予想していたのだが、意外にも時間が掛かってしまったことに少しの申し訳なさを感じながらも、ゆっくりと歩いた。
自分らは武士の孫娘と、その庭師なのだ。威風堂々としてなくてどうだというのだ。そして、彼は一室の戸を引いた。
喧騒とは程遠い張り詰めた弓を思い出すほどの物静かな部屋。
静寂が包みこみ、宛ら幽境と例えるのが相応しいだろう。
その部屋の座椅子に鎮座し、負けず劣らず静寂を保っている女の姿が。
軽く目を閉じ、正座する女性……外見(そとみ)だけでの判断ならば、妖忌と変わらない歳か、少し上ぐらいの容姿。
にもかかわらず百戦錬磨と云うべきか、悠久の時を渡り歩いたかの様な……年と不釣合な気配を感じた。黒の蘭風味な着物がそれにより一層拍車をかけている。
何よりも眼につくのは彼女の胸にあしらった純白の白蓮を紋が宛ら穢土の如きであった。
「……まったく」
が、そこまで考えて、魂魄妖忌は内心苦笑する。
年不相応な少女は私の傍らにもいるじゃないか、と。
あいかわらずに無表情を崩すこと無く、西行寺幽々子は女を視界に入れる。
決して見るのではなく、ただ認知するだけの作業をする。
不愉快かな、とも妖忌は思った。
妖忌はもし幽々子が贔屓にしている桜の除霊などを頼んだと彼女が知ったら、今よりももっと弄(ひねく)れてしまうのではないかとつまらない懸念し、無駄だと思いつつも、
「お嬢様、ちょっとだけ席を外して頂けないでしょうか?」
「…………」
幽々子はじっ、と妖忌を睨み後に、
「いいわ」
と、部屋を緩慢な動作で後にした。
この一連の動作に妖忌は目を見張った。
……なぜこうもあっさりと自分の頼みごとを聞き入れてくれるのだろうか。
何か間違ったものでも拾い食いをしたのでは、とさえ勘ぐり、あとで問いただそうと決意した。
「さて」
妖忌は、彼女を見送り再び目の前に鎮座する女を見た。
すると見計らったように女と視線が交錯した。
女の澄んだ蒼眸が妖忌の両眼を射抜く。
「こんにちは。先日の件はありがとうございます」
「いえいえ。妖退治は僧の努め。何よりも武家の方直々とあらばお受けするのが筋というものですわ」
柔和な笑みを返してくれた。一目で分かるほど嘘偽りで塗り固められた微笑だった。
「…………」
妖忌は細部を端折りながら、告げた。
最近、多発する突然死の魂が白玉楼の大木に集まる。
半人半霊だからこそ、彼には鮮明に魂の軌跡を辿ることが出来た。
それだけなら可愛いものであった。何故ならばあの屋敷の廻りはもともと幽界と近い場所であるし、亡者の魂が集まるのも無理はないと、妖忌は解釈をしていた。
ところが、そのように思い込んでいた放置していた仕舞いには桜の木のもとで名のある歌人達が次々と自決していくのである。
彼には何が何だか分からないが故に彼女を頼った。
除霊や妖怪退治を専門にしている聖白蓮と名乗る女を。
「なるほど」
と、僧は対峙する妖忌に聞こえるように呟いた。
「では、早速ですが今夜、伺ってもよろしいでしょうか?」
「えっ……ああ構いませんが」
早急に解決してくれるのはありがたいが、些か急すぎではあるまいかなと妖忌は些か呆れた。
「ありがとうございます。フフ、大丈夫ですよ、今夜は下見です。処置は明日にでも。あっ、そうだ」
さも得意げに思い出したふりをした。
「…………?」
「もしよければこれを貰って頂けないでしょうか? ……弟者がくれたものなんですが、自分はどうも苦手で……」
言いながら、白蓮は一つの紺色の袋包みを妖忌に渡した。
袋を覗けば、歪な形の石のようなものが幾つか入っていた。
「之は希少なものでは……いいのですか?」
「ええ。待たせてしまったお詫びに娘さんにどうぞ。……では、私は仕度がありますので今宵にまた……」
「はい、お願いします。……では失礼します」
妖忌が部屋から出ると、幽々子は戸口から少し離れた場所で待機していた。
いつもの無表情から、眉がつり上がった怒り顔へと変わっていたこと以外はだが。
妖忌は苦笑いをしながら、さっそく『貰ったもの』をあげなければと思い、
「お待たせしましたお嬢様」
「いと待った」
早速之を渡す時がきたと、内心苦笑ものだった。
「お詫びに之を……」
そういって、先程頂いた物を手渡した。
其れは、透明感のある樹液を固めたかのような色をしていた。
「庭師、之はなに?」
「鼈甲飴という甘い食べ物ですよ。ご存じないですか?」
「…………」
小さくコクリと頷く少女をみて、また不思議そうに琥珀色の飴を覗き込む彼女が微笑ましくて、妖忌は堪らず笑ってしまった。
「む」
「いえいえ、別になにも」
つい意地悪したくなってしまった。
「ふん、庭師の癖に生意気。……これはそのまま食べればいいの?」
「ええ、口の中に入れて転がすようにして溶かすのです」
「不味かったら承知しないわよ」
幽々子はぶつくさ文句を言いながらも興味津々に口の中に透き通る硝子玉にも似たものを放りんだ。
「…………」
「如何ですか?」
幽々子の左右の頬が膨らんだり萎んだりするのを観察しながら妖忌は尋ねた。
「…………」
「――――――いと美味」
「それは良かった」
無表情に視える彼女の笑いは、妖忌を悩ませた。
……もしかして、自分は飴に負けているのだろうか。
「……もう一個欲しい」
「はい、どうぞ」
●
口内に甘い花の蜜のような味が広がる。
幽々子はこんなに美味しいものがあるのかと感嘆していた。
きっと蝶が花に群がるのは此の味の虜になってしまっているのね、などとも結論づけた。
ところで、と彼女は躊躇いがちに飴を含む口を開いた。
「アイツは誰だったの?」
幽々子は顔を顰めながら側にいる庭師に尋ねた。
何故だか、とても嫌な感じがしていた。
首筋に蛭が這い回る様な、ぬるりとした胸糞悪い感覚。
彼女の生涯において経験したことのないような、ある種先見的な悪寒を今まさに彼女は感じていた。
「最近頭角を現してきた封術師です。妖退治が専門の―――」
「私、あの人が嫌いよ」
「え?」
「奴―――妖怪退治が専門なのに、妖怪の腐臭を撒き散らしているんですもの」
幽々子のそんな詭弁は、自分を覆い隠す建前に過ぎない。
「それは……退治すると触れ合う訳ですから致し方ない事かと」
この件に関しては彼も薄々感づいているのかも知れない、と彼女は推測する。
が、それはそれで的外れではある。
……そうではない。
恐らくは彼女は心の奥底では気づいている……其の正体に。
嫌悪の根源はそんな卑下事ではないのだ。
「…………」
幽々子は尚も険しい顔を崩さなかった。
違う。
根本からして違うのだ。そもそも論点が狂ってる。
聞きたいのはそんな事じゃない。
「アイツに……あの桜を退治させるの?」
彼女は恐る恐るを装いながら口を開いた。
「え……ええ、処分の程は分かりませんが、それ相応の処置を下すかと……」
「それは……何時かしら」
彼女は極めて平生を装い、庭師に尋ねた。
「先程の打ち合わせでは明日ということになりました。今晩から下見にくるということです」
彼女もいつかはこんな日がくるかと思っていたが、余りにも早過ぎると身勝手にも憤慨していた。
今までの行為が白日に曝されるのは一向にかまわない。
だけど……
――せめて咲くまで待っててくれてもいいじゃない!
もう少しなのに……。
「――――――」
「お嬢様。如何なされました」
「五月蝿いッ!」
「……やれやれ」
『笑い事じゃない!! この莫迦! 空け庭師!』 と彼女が罵倒を思うも、それを口にしないのは彼女自身、自分は利口でなく利己だからであると分かりきっていた。
人の気も知らないで……。
幽々子は彼女自身の内心が冷え切っていくのが分かった。
そして決意をする。
これは。
手段を選んでいる場合ではないわね。
ガリッと飴を砕く。
西行寺幽々子は本当の意味で彼女は白玉楼に歩み始めた。
●
紺碧の闇。即ち宵である。
荘厳に聳える社にも似た屋敷の庭園に二人の影があった。
暗雲の隙間から差し込む月光が少女と女性を照らす。
彼女たちは今なお咲かない桜の下にいた。
一人は十四歳ぐらいの少女。水色の着物を纏い、仏頂面を崩すこと無くただ隣にいる女を横目で睨む。
そんなことを意に介さず黙々と巨樹を触ったり撫でたりして触診しているのは黒色の布を纏う年は二十そこそこと思わる女であった。
「これが、問題の木ですか」
「……ええ」
消え入りそうな声を白蓮は然程意に介さず、悠々と問題の妖を眺めた。
「へぇ……なるほどなるほど」
白蓮は眼を細めながらも考察した。
―――おかしいわねぇ。
話によると人を死に導く邪悪な巨木を想像していたのだけれど、そのような怨念は感じ取れない。
抑、これ自体は食べ物を欲しがる赤子のようなものだ。
畢竟妖怪自体からは自らの生を喰らうなどという行為は見て取れない。
事実として己を害する彼女が目の前にいるのだ。私が殺されないはずがない。
「と、なると……」
彼女は隣にいる、西行法師の娘をちらりと見やる。
白蓮は内心合点と、目を細めた。
……元凶は此の少女なのねぇ。
彼女が推理すればするほど全ての言動の数々に一致する。
「クスッ―――なるほどなるほど」
さて、彼女をどう説得したらいいのかしら。
と、彼女が思案をしていた時だ。
「何か分かりましたか?」
幽々子の庭師が白蓮に近寄る。
「えっと名前は、たしか……妖忌様だったかしら?」
「そうですが……」
「ええ、そうですわね。色々と分かりましたわ。……そこで妖忌様にお願いしたいことがあるのですが」
「自分にですか?」
なんとも間抜けな呆けた顔をしている妖忌を尻目に、白蓮は淡々と演技を続けた。
「はい。恥ずかしながら私、先程の旅館に陰陽札を忘れてきてしまいましたので……申し訳ありませんが、妖忌さん、取りに行ってくださいませんか?」
「え、でも……」
「私はその間に、術式を施しておきますので……」
妖忌は訝しむも効率を考えたのか、一度強く頷いてその場を立ち去った。
単純な人、と胸の内で白蓮は彼を小馬鹿にした。
それとも私を信頼でもしているのかしらね、と彼女は嘲りさえした。
無論、彼女は道具を忘れるなど無用心なことはない。
要するに白蓮は彼が邪魔だっただけだ。
聞くところによれば、妖忌はかなりの剣術の使い手という。
そんな彼が血気盛んに忠義を振りかざせば『無駄な犠牲』が出てしまうと懸念した結果だった。
「さて、と――――――そこにいるのはどなたですか?」
上に向けて声を放つ。
「死を吸う桜か。哂わせるな」
突如音が響く。
それは、発音……人の鳴き声。
音は真上から――即ち言の葉は粉雪に混じり舞い降りた。
そこには文字通りまねかれざる客がいた。
●
幽々子は声のした方を見た。
其こには彼女が大事にしている桜の枝に腰掛ける『何か』がいた。
「――――――」
声は出なかった―――出せなかった。
彼女は思う。
恐らくは人だろう、と。
だが、あまりにも……あまりにも美しすぎる。
惜しげも無く月光に白髪混じりの長髪を晒し、狐の面を横にずらし、幽々子と白蓮を観察する。
双眸は紅く蝋燭のように揺らめき、幽々子と白蓮を視姦した。
白い着物の隙間から見える手足もまた宛ら蝋のように真白で……人間の其れではない。
そんな幽々子の畏れなど眼中に無いかのように、
「妾一人殺めない妖怪桜など、存在する意すらないな」
淡々とした様子で、桜の下の少女になど目もくれず唄を歌うように少女は毒づいた。
そして天女の如き緩慢かつ優雅な動作で雪原に舞い降りる。
そう、彼女こそが今日の昼に自身の不愉快を与える張本人であったことであったが、幽々子はそのことには気がつく暇も無かった。
「…………貴女はなんなの?」
当然の疑問が口を衝いて出る。
が、白髪の少女は、
「妾のことか。唯の傀儡女だよ」
言いながら、得体のしれない女はそっと樹の幹に触れた。
「…………?」
須臾、女は目を見開き後に眉を潜め、
「さっきからそこの女が『なるほど』を連呼するばかりだった理由がようやく分かった。そういうことか……」
そう言って喉の奥で虫が引っ掻くようにくくく、と嘲笑(わら)うばかりだった。
否、正確には笑い声がしたというだけで笑ったかどうかは分からない。
が、確かに幽々子には心から笑ったかのように聞こえた。
だったら、と問いかける。
「何が可笑しいの?」
「いいや、別に。気に障ったなら謝るさ……。しかし、誠至極残念だ」
「――――――」
「貴女には死相が見える……近日中に不幸に遭わなければいいけど――違うか、貴女自身が死相を振りまいていたりして……」
再び狂気を孕んだ声を発した。
「次に逢うときは多分……駄目だろうね。じゃあ、今宵も良い夢を」
そう言い残し彼女は立ち去った。
否、立ち去ろうとした。
「待ちなさい」
先程から黙り込んでいた白蓮が立ち去る傀儡女に静止を呼びかける。
「貴方様を最近この界隈で妖を退治しているという傀儡女とお見受けしますが……」
白蓮はなにやら怒気を抑えた声で傀儡女の正体を突き止めようとした。
其れに対し傀儡女は悪びれもなく答えた。
「よく知ってるね。だからどうだというの?」
傀儡女は挑発するかのように目を細めた。
対して白蓮は真剣な瞳を輝かせ、
「話が有ります。一先ず屋敷の外へ出ていただけませんこと?」
「――――――」
「………………」
沈黙を沈黙で押し殺し、時が流れる。
それだけで、傀儡女は白蓮の意思を汲み取ったのか、
「――――――いいよ。それでお前の気が済むなら」
聞き分けのない子供を慰めるかのような声色を撒き散らし……兎も角、傀儡女は彼女に従った。
幽々子は何も理解できなかったが、体中に走る悪寒が何かを告げている。
彼女が爪を咬むとうっすらと血が滲み、滴り、一滴は純白の雪を汚し消えた。
ただ、彼女らを見送る。
二度と帰ってくるなと呪詛にも似た祈りを込めて、唯唯憎悪混じりに睨みつけるだけしか彼女はこの場に置いて抵抗する術が無かった。
●
白蓮は屋敷から少し西に行った所にある川辺に傀儡女を誘う。
せせらぎが彼女の心を沈める役割をするには重すぎだ。
「この辺りでいいでしょう」
「で……私に用ってなんなんだ?」
至って淡泊に傀儡女は聞いた。
「単刀直入に聞きます……幽々子をどうするつもりですか?」
白蓮も感じ取ったように、目の前にいる少女も気づいているはずだ。
彼女は、面と向かい合う少女が幽々子の能力と妖桜についてのことを感づいている前提で話を進める。
「どうするって……何を言ってるんだ?」
傀儡女は質問の意図が分かりませんと顔に書き、聞き返す。
「惚けないでください! 貴女も分かっているんでしょう……殺しているのは彼女だと……」
「嗚呼―――そんなことか」
顔を歪め心底、胸糞悪いと云わんばかりに、
「殺すに決まってんだろ? 妖に掛ける情けなど塵一つもない」
一瞬で吐き捨てた。
「―――――ッ! 彼女はまだ人です! 人足る心身があります!」
「ほう、人を自由に死に至らしめる力を持ち、その力を己の欲のままに使う奴が人の心……哂わせてくれるじゃないか」
言い返せない部分も確かにある。
だけど、それでも否定しなくてはならない。
白蓮は自らの理想たる『平等世界』を掲げるためには、『妖怪退治』などと云う莫迦げた言葉を捩じ伏せなければならないのだ。
「きっと……今の彼女は妖怪です。ですが、我々で人に戻してあげることが出来る……!」
ですから、
「私と貴女で協力を――」「巫山戯るな、ンな畜生にも劣る行為は御免被る」
白蓮は今度こそ、体中の血が煮えたぎるのが分かった。
気泡となり、吹き出しそうになり、それを堪える。
奥歯がカチカチと鯉口を切ろうとするのを必死に耐えた。
そんな静かな怒りを知ってか知らずか、目の前の少女は嘲笑し、
「よほど気に障ったと見えるな。だけど、言い直しはしない。お前が真実から眼を背けるなら妾が語ってやる。そんなもの塵芥にも劣る。それにな―――あのまま放置しておけば、あの側近の庭師もいつ殺されるか分かったもんじゃないしな」
庭師の単語に若干の力が篭ったが、白蓮はそれが何を意味するのか理解出来ない。
「妾は妖に情けをかけたことなど一度もないし、これからもする気はない」
「貴女はそこまで妖に恨みがあるのですか……?」
恐ろしくも、白蓮は問いかけた。
そこまで妖を憎む理由はなんなのか、と。
其れを理解しなければ、到底、
「……さぁな」
それは即答だった。
傀儡女はゆっくりと前傾し――彼女の喉の奥から薄気味悪い声が這い出す。
「ウッククッ……見当はずれも甚だしいな。妾は妖怪に恨みなど無いさ。それどころか、同じ類だとさえ思っている」
「では貴女は何故!?」
今度こそ白蓮は声を荒らげた。
恨みもないのに一抹の憐憫なく殺すなど……それこそ、妖怪――否妖怪にも劣る行為なのではないのかとさえ思った。
「それを探すために殺すのか……殺してるから探してるのか……どっちだろうな? それは本当に妾自身分かりはしないさ」
宛ら雲のように掴み所のない返事を贈る傀儡女。
道化のようにさもお手上げだと云わんばかりの仰々しい動作をし、嘲る。
「だったら、その呪縛から逃れるべきです。こんなことを続けていたら貴女自身、人ではなくなりますよ……!」
「――――――」
彼女は許せなかった。
何だそれはと、怒りを通り越し呆れさえもあった。
唯唯彼女が許せない、その一心だった。
故に気づかない。
「貴女はまだ人です! だから―――」
たった『一言』で余裕綽々だった傀儡女が豹変した。
熱が一気に冷め、口が真一文字に結ばれ、瞳が氷のように凝固していくのが。
無表情とも違う、無情という表情の変化だった。
「お前は……人殺を容認するのか?」
「そうでは有りません……!」
彼女は声を荒げ、自らの信条を歌う。
「私は、人も妖も平等な世界を目指したい。唯それだけです!」
声高らか謳う白蓮。
少女はそれを真顔で受け止め、
「平等って何?」
「え?」
予想外の質問に白蓮は耳を疑った。
「そ、それは……。両者が互いを認め合い、共に歩み寄ることです……!」
「そうか。では妖と人との関係は平等だと、お前は云うの? 争い事は無くすと……」
「そうです」
「ハハハハッ……! こいつは傑作だッ!」
傀儡女は一粲で一蹴した。
「どんなに平等を謳おうとも、必ず例外綻びは現れる。私のようにな……。お前の語る世界は理想だ。さぞ崇高で穢れない世界でしょうね、それは。だけどさ――――――人って醜いんだぜ?」
誰に向けて言っているのか、対象は恐らく自分ではないと白蓮は感じた。
「きっと耐えられないよ。そんな浄世には……」
「そんなのは唯の憶測です、やってみなければわかりません!」
「分かるよ」
白蓮は切り捨てられた。己の夢と理想を。
「確かに全てが全て、人が醜いとは言わない。中には掛け値なしで他人を助ける莫迦がいる」
傀儡女は目を細め、白蓮をも通り越し嘗てを見た。
その双眸は自嘲憐憫貶みを一即多にした人間の負を表しているような、ある種の畏怖を白蓮に植えつけた。
「だけどな。そんな奴を平気で私利私欲のために滅ぼす奴もいるんだ」
自嘲気味に傀儡女は笑い、目を細め、白蓮を眇めた。
「あなたは間違ってる」
「妾からしたら、お前が間違ってるんだ」
「貴女も生あるものなら分かるでしょう!?」
刹那、傀儡女の瞳は憂いを帯び、しかし次には三度嘲り笑った。
「生死など……妾には関係ない。唯『此処に在る』」
白蓮は決意した。
……もう会話は無駄だろう、ならば。
「ならば私は貴女を止めなければなりません。もはや妖怪桜など関係ありません……」
「……ほらな。結局莫迦の一つ覚えのように力で解決だ」
「貴女の方こそ莫迦ですか? 私は封術師―――何の策もなく勝負などしませんよ」
そう言い切り白蓮は己の武器―――即ち錫杖を地面に突き刺した。
それと同時に目の前の少女は自らを紅蓮に餐わせた。
傀儡女が大気を燃やすのと同時に白蓮は蒼い封印壁を自身の周囲に張り巡らせた。
紅蓮が辺りを包む。
涼し気な小川が一瞬で蒸発し、紺碧の闇が緋色で埋め尽くされる。
そんな中にも白蓮の周囲だけは平生と同等を保っていた。
自分はこの結界の中に在る限り、炎の熱など感じない。
加えて、地の力を借りているため封壁の負荷もない。
あの傀儡女との持久勝負となっている。
周囲の外では轟轟と逆巻く炎が蹂躙している。
躍動する火蛇は白蓮を喰らわんと回転し、弾かれ、斃れる。
が、諦めずに二度三度と襲い、向きを反転させられる。
――――――可笑しいぐらい一つ覚えね。
守ってるだけで、傀儡女はどんどんと気力が萎えていく。
さて、そろそろ時間も頃合いかしら。もう結構な時間がたったと思うけど……、
「残念だけど――――――将棋で謂う詰みだな」
傀儡女が呟いた直後、
「――――――ぇ?」
彼女は最初、世界が傾いたと思った。
否……正確には傾いてなどいない。
いないのだが、事実視界は傾いている。
だが、それは辺りではない。
故に白蓮は気づいた。
そうか―――傾いているのは自分なのだ、と。
白蓮は地面に臥せ、荒い息が静寂に包まれる世界には騒音以外の何ものでもなかった。
苦しいと感じる。
真綿が首を締め付けるかのように息苦しい。
幽境にぜぇぜぇと間抜けな息遣いが自分の声として聞こえる。
「さっきからお前、妾の事唯の人だと思ってただろう? それ違うよ」
「!? …………お、前……! 自分が妖怪だとでも謂うのか!!」
最後の力を質問に宿し、ぶつけた。
「妖怪より質が悪い……お前らの云うところの『不老不死』というやつだ……それに、もう一ついいことを教えて上げる」
それを極あっさりと返答する少女は、前と後とで何も変わらない。
彼女の世界が暗転する。
……ゆっくりと、沼に沈むように、本当にゆっくりと暗くなる。
「炎は空気を食べて生きてるのよ……って、もう聞こえてないかぁ……」
それが彼女が聞いた最後の音だった。
●
傀儡女は彼女の命を奪うことまではしなかった。
別段、傀儡女――藤原末妹にとって目の前に臥す女など道端の百足と同じぐらいの価値しかなかった。
倒れた彼女を放置し、一瞥することも無しに元来た路をもどる。
目指すは死を誘う嬢が住む化物屋敷へと、突き進むのみ。
「待っていてくれ……」
誰かの名を小さく祈るように何度も呟いた。
●
『其れ』を避けることが出来たのは幽々子にとって幸運以外の何ものでもなかった。
文字通り炎で作られた火矢は幽々子の髪の先端を焦がすだけで、肌には掠りさえしなかったのだから。
が、その幸運を噛み締める余裕など彼女からは当に消え失せていた。
失敗を忌々しく呟く声は彼女には聞こえないほどに。
「初撃を躱せたのは幸か不幸か……まぁ―――どっちでもいいか。どうせ死ぬんだし」驚愕に目を見開く
少女を射抜く綺羅星のように眇めた瞳は嬲るように彼女を観察する。
隻眼は、幽々子をまっすぐに射ぬいた。刹那幽々子は死を垣間見た。
「白蓮さんは……」
頼りたくない奴の姿が見えないことに不安になり、つい幽々子は彼女の安否を確認してしまった。
「無駄だよ。あの女はいないよ」
「えっ……なんで……」
「邪魔だもの」
冷淡に言い放つ傀儡女は言葉以上に冷酷な笑みを顔に貼り付けて幽々子に近づく。
「だってそうだろう? ―――あいつさ、お前を事も有ろうに説得しようとしたんだ。喜劇だよな」
「何を騙っているの……?」
「お前だろ、殺してるの」
迂闊といえば迂闊だった。
端的に言えば西行寺幽々子は己以外を見くびりすぎていたのだ。
確かに彼女自身が人とは一線を画した世界の住人だ。
有名な歌人、西行法師の実の娘であり地位も在る。
下衆な輩とは完全に隔離された屋敷での教育受けたし、近い未来(さき)は父と同じく歌人への路を約
束されたも同義だった。
加え、さらに他の歌人よりも一歩秀出てることが在るとすれば、霊と接触できる霊的会話能力と生きとし生けるものを死へと誘う死神の如き能力(ちから)。
故に。
彼女が驕り見下すこと自体が自然であり必然。
しかし唐突あっけなく気付かされた。
齢十四にして、否遅すぎる気づきと思慮は狂騒へと羽化し蝕む。
嗚呼……自分も下賎な民(ほかのひと)と同じなのだ、と。
ある種悟りのような心境が彼女を渦巻き取り囲み――彼女の心を殺すのだ。
不幸なのは、それに気がついたのがこの瞬間だということぐらいであろう。
そう、幽々子をさらに上回る、異形の怪物と称するのが相応しい少女と相対するこの瞬間まで気がつかなかった身の上を恨むしか無かった。
「なら、お前は化物だ―――化物なら退治しなくちゃな……!」
凛とした声色はそれこそ幽々子を殺す刃物のように突きつけられる。
彼女は恨んだ。
なんで……あと少しなのに。
あと一瞬を待ってくれないの……!!
それは自分勝手な思い。
「お前なんか……」
「嫌いだ…………!!」
ようやくにして、幽々子は彼女と同じ舞台に立てる人間と対峙したのだ。
それが彼女にとって望んだのか望まないのかは別にして、だが。
幽々子は目の前の女の死を強く願った。
要はそれで事足りるのだ―――嗚呼なんて簡単。
自らに溺れ酔わなければなければ呑まれる。
目の前の女狐は口を下弦の月のように象った。
その笑いでさえ幽々子は死にゆく女の最後の笑みとして享受するだけの余裕があった。
自分の唇に触れてみれば醜くもつり上がっていることが分かり、なお一層彼女を陶酔させるには一役かっていた。
幽々子はこと排除するという一動作に関しては右にでるものは居ないだろう。
大事なのは人生(かてい)で無く死(けっか)なのだ。
―――さぁ、彼岸を渡りなさい―――
彼女が願えば死(それ)は叶う。
そう、叶わなかったことがないのだ。
だからこそ理解できない。
なにも変化が無いことに。
悠然とこちらへと狂刃を向ける少女が。
―――――――――?
――――――なんで?
不思議に思った。
彼女は平然と私の方に歩いてくるのだろう。
余りに不思議だったため、幽々子の顔は笑みのまま凍りついた。
瞳の色彩は真逆に恐怖に支配されている事に彼女自身は気がつけない。
「どうした? 何かしたのか?」
「なんで……! どうして……!?」
余裕は既に困惑へと彩られ、答えの分かりきった問を女にぶつける。
「生憎で悪いが死なないからな―――お前にとっての『天敵』というやつだ。残念だったわね」
世の不条理を強く逆恨みした。
否。之を恨まずに何を恨めというのだろうか。
●
胸騒ぎを感じ、妖忌が引き返した時には全てが遅すぎた。
「……!? 白蓮さん!?」
妖忌が川辺に倒れている人影に気づき近寄ってみれば、それは先程まで自分と会話していた女だった。
思わず抱き上げて呼吸を確かめる。
「……良かった。気を失ってるだけか」
事情が事情だけに妖忌は彼女が死んでいると思った。
それが懸念だと分かると安堵の溜息を―――吐き出しそうな自分を戒めた。
「何が起こった――――――ッ!?」
唐突に妖忌の足元が揺らぐ。
無謬を司るはずの大地が蠕動する。
這い回る蛇の上に立っているような錯覚が妖忌を襲い、白玉楼(やしき)にどす黒い光が満ち溢れるのに気づいた。
白玉楼から天に掛け怪しげな光明が湧き出流る。
それを認識した瞬間、彼の体は動いていた。
疾走(はし)る。
何か。
何か自分には思いもよらないことが起こっていると……妖忌は直感した。
そして。
彼は親しみ慣れた庭園に足を踏み入る。
「……っ」
そこはそんな安堵できる場所ではなかった。
真っ先に妖忌が感じたのは異臭。
腐臭などと語るも生ぬるいほどの魔臭が五感を奪おうと妖忌に絡みつく。
人が焼け爛れる臭い、人肉の腐敗が連鎖する。
堪らず妖忌は吐瀉物を撒き散らした。
が、それすらもすぐに埋もれる。
見渡せども、泥土の如く定かではない。
妖忌が懸命に振り払い耐えるも、失われることのない臭いは確実に彼を犯す。
そして彼は光を見つけた―――否、そこにだけ黒紫煙が入り込めないと思われる二つの空間。
二つの空間には二人の人物がいた。
西行寺幽々子。
自分が護らなければならない人である。
だが妖忌には不可解な点があった。
一つは彼女の周囲は靄が避けるように取り巻いているのに、その一歩外へ出れば一層深い闇が渦巻いているのだ。
もう一つは、幽々子が今まで見たことのないような形相で、必死に何かを振るっているということだ。
が、妖忌にはどうでも良かった。
彼女が無事ならばそれで。
そして、もう一人は、
「―――――――――」
黒色の霧などお構いなく、縦横無尽に駆ける少女。
痩躯が動くたびに、銀光する髪が揺れ、舞い落ちる髪の一本一本がまるで白鴉の羽かと見紛う。
宛ら紫電の様に、文字通り飛翔し降下し風圧で亡者を薙ぎ払う。
「――――――」
違う、妖忌が驚愕したのはそんなことではない。
あれは―――何百年前(いつ)のことだっただろうか……
―――俊馬(じだい)は駆ける……遥か悠久の時へと。
『痛っ……!?』
『――?』
『あ、拙っ―――!』
『其方、名は何と申されるのですか?』
『…………』
『其の艷やかな髪色……嘸、名のある方の嬢とお見受けしますが……』
『……藤原末妹』
『……藤原? あの……?』
『なにか悪いのですか……!? 大体、汝らは妾に用はないのでしょう! 早々に―――』
『いえ、別に。唯そんな粗末な小袖で登山とは、寒かろうと思いまして……どうぞ』
『要りませんっ。施しを受けるくらいなら此処で絶えます!』
『それでは悲しみますよ、主に小生が―――。誰か水竹筒を……はい』
『ど、どうして……妾は汝らのその……壺を奪いに来た……さ、山賊……そう! 山賊なのです!』
『…………。はははっ、これはこれは山賊殿でしたか。では隙あらば小生達から奪いとってください』
『ど、どういうことですか……?』
『共に歩めば、小生たちが寝ているときなどに奪えるかも知れませんよ?』
『そ、それは妾に汝らと共に歩めと……そう申すのですか?』
『ええ』
『――――――』
『…………どうします?』
『フン、其の言葉を後悔させてあげます……』
『ほら。山賊殿、足が遅くなっていますよ?』
『う、五月蝿いです! 大体、兵士と妾では……息も苦しいですし……』
『仕方ない……ほい』
『ひゃぁ……ち、痴れ者っ! 人を荷物みたいに担ぐんじゃありませんっ! 放しなさい!』
『小生達から置いて行かれてもいいんですか?』
『五月蝿い! 黙りなさい!』
『…………』
『…………本当に黙らなくてもいいです……』
『わかりました』
『担ぐことは認めますけど……揺れないようにしなさいです』
『合点承知』
『―――!? 虚け者! わざと揺らさないでください!』
『汝(なれ)、岩笠と名乗りましたね……汝らは何故(なにゆえ)この壺を山頂まで運ぶのですか?』
『あまり詳しいことは語れませんが……勅命なのです、帝からの』
『帝……もしかして輝夜の……』
『何か……申されましたか?』
『い、いえ、別に何でも有りません! えっとその……』
『?』
『もし、あれでしたら、終わった後……助けてくれたお、お礼に……褒美を取らせてあげてもいいのですよ……!』
『有り難き幸せでございます……ですが』
『…………?』
『其方は山賊ですよね?』
『…………。…………!? 今のは無しです! 忘れてください!』
『ははははっ……そうですか忘れましょう』
『むぅ……』
『まったく……あいつら、何が気を利かせた、だよ……まったく……』
『…………? 何がですか? あ、もしかして妾と二人だけで見張り番は心もとないのですか!?』
『い、いや……そんなことじゃなくてですね……』
『じゃあなんなのですか?』
『…………其方にはまだ早い』
『……? ほら、そんな遠くいては焚き火で暖まれないじゃないですか、近う寄りなさい』
『あ、ああ。忝ない』
『…………』
『――――』
『…………』
『――――』
『…………妾の方こそ助けてくれて忝ないです。お礼を言わせてください』
『いえいえ』
『あの……妾、嘘ついていました』
『…………』
『実は山賊じゃないんですっ! 騙していました……御免なさい』
『えーそうだったんですかー驚きましたぁ』
『……なんですか、それは!? も、もしかして……』
『藤原って名乗ってたしなぁ……』
『知ってたなら知ってたって言いなさい! 私の一人莫迦じゃないですか! ……ふん、まあいいです』
『……え?』
『帝直属の兵ならば、きっと父上も許してくれるはずです』
『えっと、何を?』
『新枕です』
『…………!? そ、そんな同衾なんて認めません!』
『……ぅ~。岩笠殿は妾が嫌いなのですか?』
『そ、そういう訳じゃないんです! 唯……その……今は駄目です!』
『む……では帰ってからにします……』
『そういうことじゃないですって……! こら、笑うな!』
雪崩れ込む記憶。
それは過去の置き土産であり、彼をゆっくりと、しかし確実に支配していく。
束縛する鎖であり、振り払う術は時間による忘却でしか無い。
岩笠―――それは妖忌(かれ)の嘗ての名。
そして少女に面影――否、そんな五里霧中なものではない。
彼女は――藤原末妹なのだ。
曾て、妖忌が護ろうと思った少女。
が、欠片はゆっくりと、しかし着実に紡がれる。
――あの時、彼が持っていた薬はなんだったのだろうか。
木花之咲夜姫(あのおんな)が告げた言葉が真実だとしたら。
そして其れを彼女が服用したとすれば納得がゆく。
岩笠の自分が心から待ち望んだ邂逅であるが故に嬉しくないはずがない。
否、嬉しいと感じてはいけないとやり場のない怒りを妖忌は必死に耐えた。
歯軋りを脳髄に反響させながら。
●
白石が敷き詰められ、平生ならば厳かな雰囲気の庭園は既に黒く塗り固められていた。
それは宵がかりも理由の一つであるが、もっと
文字通り死屍が具現し、二度目の不完全な命を与えられた真黒な魍魎がさ迷う。
闇から這い出る人形(ひとがた)はそれこそ、単なる化物の有様だと妖忌は忌々しく思う。
標的はただ一人……他に人が居ないため、宛ら餌に群がる鯉だった。
餓鬼が餌を喰おうとするも一線でなぎ払われる。
「妾に近づこうなどと百年早いわ―――愚者が」
『者(ひと)』として扱うのが最低の節度と思い、彼女は気色の悪い彼らを妖怪扱いはしなかった。
一人殺すも次は二人で咀嚼しようとする。
二人を焼き殺せば、次は四人で圧殺しようとする。
四人の頭を切り払えば、八人で一斉に手を奪おうとする。
八人を袈裟斬りにすれば、十六人は――――――数は無量に増える。
鈍色の軌跡が斬殺し、灼熱の炎の螺旋が焼殺し、幾多の編み込まれた赤と灰が鏖殺する。
もう百以上を数え止め、それでも女は疲れた顔色一つ見せない。
作業とは得てして感情を殺すものだ。藤原末妹は慣れている。『殺す』という作業に……恐らくは幽々子以上にだ。
今の彼女はそれこそ、無謬に殺し尽くす。
そこに疑念は無く、思念感情なども湧くはずもない。
故に彼女は唯唯突き進むのみ。そこに感情など無い。
「貴女は……ッ!?」
彼女とは逆に怯え焦り、顔面蒼白になっていくのは西行寺幽々子である。
幽々子は、まさか自分がこんな生死の境界に立つとは思いもしなかった。
今まで名家の姫として大切に傅かれてきたのだ。
戦闘経験など無きに等しく、死神の行使も一方的な暴力と略奪だったが故、殺合いの駆け引きなどというものは彼女の知識には無かった。
しかし、そんな彼女にも状況は分かる。
両者の距離は確実に近づきつつ在る。
今の幽々子に自衛は出来ない。
屑共(あくりょう)を使役し、彼女が地に臥せるのを待つしか出来ないのだ。
なにせ殺しても死なない。
即ち勝負は、幽々子が近づかれて死ぬか、それまでにあの女が力尽きて倒れるかという至極単純な絵図でもあった。
ならばこそ、苛烈窮まりない。
月の影が跋扈し、喉を焼く紅蓮が謳歌する世界を地獄絵図と謂わずしてなんと謂おうか。唯一穢れをしらない幼子のように清純を保っているのは、雄々しく聳える桜のみであった。
「…………っ!?」
幽々子の背中が其れに触れた。
彼女は思わず振り返る。
が、対峙する藤原末妹が刹那の隙を見過ごすはずもなかった。
「――――――!!」
「来ないでっ……!」
時が停留する。
『彼』の決断を待つかの如く。
●
彼は想った。
もしも。
出会った時から、この物語が描かれていたのだとしたら神とはなんと残酷な仕打ちをするのだろうか。
自分が人を助けたいという偽善こそが、彼女を助けたことが罪だとでも謂うのだろうか。自分は……『そんなことは無い』と、今でも自信を持って云えるのだろうか。
無謬で愚直な忠誠心を取り、嘗て心奪われた少女に刃を向けるのか。
自分は、どうすればいいのだ。
「――――――」
もしも出会わなければ自分は……。
自分は――――――。
時間が無い。
悩んでいる間にも片方の命は蝕まれていく。
砂時計が上に上がることなど卦して無く。
流れない雲など存在せず。
そう―――故に彼は決断せねばならなかった。
どちらかを裏切り、どちらかを救う。
其れだけが唯一の彼にとっての選択なのだから。
だとしたら。
私は幽々子お嬢様を助け―――【赦サナイ 赦サナイ 改竄ハユルサナイ】
――――――!
彼は聞く。第三者の声……女のせせら哂う黄色い声を。
―――六百六十二項目依訂正有―――
彼の幽々子の庭師なる人物
彼の足は『竦んで動けない』
彼の腕は『震えて動けない』
彼の瞳は『怖くて逸らせない』
之は貴方の定められた歴史(うんめい)です。
●
灼熱の剣が幽々子の胸から生えていた。
●
「嫌……死にたくない……」
地に臥す少女は心から願った。
眼も虚ろ、白く透き通るような肌は下衆な土に穢れながらも彼女は生を願った。
悶え、苦しみ、浅ましく這い回る蛆虫のように後ずさる。
蠕動を終え桜まで辿りつき溶けるように死ぬのだ。
……死?
そもそも死とは何なのだろう――取るに足らない疑問が幽々子の脳で螺旋を象る。
自分は死を導く異形である筈だ。
それなのに……自分は何故死ななければならないのだろう。
死。
生き物が生き物でなくなること。
其れが死。
如何成る生物も死からは逃れられない―――しかし例外もいた。
なぜ、自身は死ななければならないのだろう。
死すらも超越した存在のはずなのに、と考えれば考えるほど憤りが彼女を支配する。
支配されたところで、既に行動を起こすことは出来ない。
【幽々子は知らない。死は誰にでも平等に訪れるのだ。例外は無く故に無謬】
彼女は朦朧とした意識の中でもはっきりと其れを聞き取ることが出来た。
―――アナタはだれ?
【ええ、しがない歴史家です】
―――歴史家?
【残念ですけど、アナタは今日この日この瞬間に死ぬことは定められていました】
―――嫌ッ!!
【残念ですけど、歴史は絶対】
少女は確かに見た。
庭師と同じ――否、庭師よりももっと淡色の装束を身に付けた幻獣を。
そいつの顔は伺い知れないし、知らない顔だと幽々子は勝手に思った。
関係の無いことだった。
そいつの薄ら哂いや、手にした人皮の歴史書の意味など。
今の彼女には一切合切関係はないのだから。
●
まるで蚯蚓だな、と藤原は思う。
嫌、嫌とまるで子供の様に駄駄を捏ねるようにして這い回る少女をゆっくりと追いかける。
速度は歩程度で十分だと彼女は考え、故に歩いた。
か細い白い吐息が、霜雪へと掻き消えてゆく。
そんな氷の粒は宛ら死化粧だと、藤原はまた思う。
「死にたくないよ……ネェ……」
この場においても幽々人として、他人を頼るという術が欠落していることに少々の驚きを感じ得ながらも、
「哀れだな、死人嬢」
憐憫など一抹も宿していない瞳で女は幽々子を見下した。
紅の双眸は彼女に視点を合わせ……しかし彼女を直視せず。
藤原末妹はゆっくりと一振りの刀を少女――否、其の妖怪の胸に突き刺した。
「―――――――――!」
叫び声が木霊する。
まるで綺麗な歌声を奏でるように。
それは唯唯綺麗な悲鳴。
喩えるなら慣れ親しんだ琴の琴の音。
ゆっくりと波紋し掻き消える――刹那無常の音だ。
鮮血の吐瀉物を吐き散らし、悶え苦しむ彼女は生を渇望し、そして絶命した。
故に、西行妖は幽々子の呼びかけに応じた。
●
魂魄妖忌は見てしまった。
真っ白な花弁が、鮮やかな赤に染まるその刹那を。
幽々子の綺麗で無垢な体が血という廃液に侵される過程をも。
彼女の顔もまた白い顔に血化粧を纏う。
瞬きも出来ず、息を吐くことも出来ずその瞬間を見ていた。
たった今自分の主君の娘を殺した女と対峙している。
幽々子風に例えるのならば、妖忌にとって彼女を覚えていることこそが『病(あい)』であり、蝕みは確実に死を意味するのだ。
相手は当の昔に自分のことなど忘れているのだろうと、彼は何度も念じ暗示した。
偽り騙ることでまずは自分を殺す。
そして……かつて愛した者を殺すのだ。
妖忌は緊張を押し殺し、震えること無く脇差に手をかけ腰を落とす。
彼は一瞬を待つ。居合いによって刹那で切り捨てる、その時間を。
ゆっくりと口を開く少女「岩笠」彼女を睨む―――。
「――――――え」
今この女は何と言った。
「岩笠……だよね。よかった」
彼女の口から吐出されるのは甘言。
嗚呼―――あの日、あの時に聞いた声色とまったく同じ。
間違えるはずなど無い。
だから――息が詰まった。
体が震え景色が揺らぐ。
眩暈がし体がぐらりと地に膝を突きかけそうなまでに魂魄妖忌の脳を揺さぶる。
嘘だろうと何人も言い切れることができない。
だが、彼がこの状況で喜ぶというのは有り得ない事象である。
「妾――私は、片時もお前のことを忘れたことはなかった」
まさか再び巡り逢えるとは思わなかったけど、と自嘲しながらも岩笠の方を見た。
僅かに揺らめく白髪から覗く顔はあまりにも優しく、あどけなく、柔らかかった。
彼があの夜に出会った時と同じように狂おしいほど愛しい表情。
彼らを包む雪景色は変わらないのに、何故か――温かい。
「急に、なにを……!」
突っ張る彼に粉雪が降り積もる。
「此処で出会ったときから分かっていたさ。二刀流使いなんてそうそう居ないしね」
そう言って彼女は彼を対面した。
十六夜月を頭上に輝かせ彼女は、月華を仰ぐ。
白い肌がより一層強調され、蠱惑を匂わせる。
「私はね。『生まれてこなければ良かった』んだ」
ぽつりと呟いた。
「私が生まれてこなければ、父と母は幸せに過ごせていただろう。
私が生まれてこなければ、お前は半霊になることもなかった。
私が生まれてこなければ、人に疎まれることもなかった。
私が生まれてこなければ、多くの妖を滅することはなかった。
私は――生まれてきてはいけなかった存在なんだよ」
弱々しく吐露する彼女は、先程までの威勢が綺麗に失せていた。
妖忌は彼女に声を掛けようと、
「――――――」
何もいうことが出来ない。
「私は、何のために生まれたのかなぁ……」
それは。
彼女の心の底からの声だったのかもしれない。
「だから私は殺(さが)し続けるさ。自分の生まれた意味を知るために」
そして背を向けたまま、続ける。
「あとさ、もしもの話。私の罪が赦された時は私の髪を梳いで欲しいな」
表情は伺いしれない。
しかし彼には彼女が泣いていることだけは理解できた。
それはとても悲しく、震えた声色だった。
岩笠は何か、言わなければならないと思った。
このまま見送っては駄目だと、言葉を紡ぐ。
「約束する―――それと」
「…………何?」
「自分も、君のことを片時も忘れたことはなかった」
「ハハッ……あははははは……! 莫迦な男だ、本当に……っ、本当に空け者だ……そんなんだから女の私に蹴落とされるんだぞ!」
藤原末妹は泣きながら大笑した。
悲しく、暖かい空気で場が弛緩していくのが分かる。
「では、去らば……また逢う日まで」
彼女は涙を目に貯めて振り向いた。
後に妖忌に一粲を贈る。
まるで……待ち人を見つけた時の様な目映い笑顔で。
「また逢うことなんて無いと思、う――――――けど――――――
―――、
―――――――――
――――――――――――ぇ?」
言い残し立ち去ろうとした彼女の胸には一本の刃物が刺さっていた。
まるで、幽々子の死を再現したかのように。
否、刃物といえば語弊がある。
凝視すればそれの正体は刃の様に鋭い木の枝であった。
彼女の胸を貫き嬲る枝は、宛ら薔薇の如き禍々しいまでの突起で溢れていた。
「――――!」
魂魄妖忌―――否、岩笠彼女の名前を呼ぶが返事はない。
枝の付け根を追って見てみれば、
「――――――」
桜、否妖怪と謂うべきものが身を捩らせ『動いている』のだ。
枝の一本一本が触手の様に蠢き捕食対象を探し、身を趨らせる。
「下衆がッ! そんなにも生に喘ぐか……」
藤原末妹が毒付くが、毛ほども介さない。
彼女が抵抗として熾した炎も瞬く間に失われていく。
炎は喰らうべき餌が無ければ生きられないのだから消滅は必須。
「恨、恨……ッ――――――!」
野太い、猛々しい鳴き声を挙げ―――桜が哭く。
「幽々子様……」
妖忌は直感的に彼女だと理解した。
が、幽々子の死体はいつの間にか大木に寄りかかり、巨樹に抱きかかえられるようにして座っている。
居眠りでもしているかのように穏やかな顔で、しかし微塵その矮躯を動かさない。
確かに死んでいるのだ。
「―――――――――」
幽々子が泣いているのだと彼らが答えに行き着いたときは手遅れであった。
「ぅ……ぁぁあ……!!」
藤原末妹がゆっくりと植物に咀嚼されていく。
粘着質な樹液に彼女が犯させる度に苦悶の声が滲む。
そのたびに、桜は妖艶に瞬き輝き惑わす。
魅惑の墨桜は咲いて散ってまた咲く。僅か一瞬で輪廻を超越する。
嗚呼―――なんて、なんで。
自分が気づいていればこのような自体にはならなかったのではないのか。
幽々子の事。
大切なお嬢様。
仏頂面で無口無愛想、ああ言えばこう言う女の子……だけど、とても寂しがり屋な少女。そんな彼女に気付いてあげられれば、そもそもの原因は無かったのではないのだろうか?
或いは、藤原末妹。
彼女を一人を身勝手な自尊心だけのために一緒に行こうと言わずに、下山させればよかったのではないの。
もしも――――――もう止めよう。
妖忌は決意し、柄に手をかける。
そして、
【彼は意を決して刃を引きぬく―――ことも出来ない】
妖忌の目の前には女が薄気味悪い笑いを浮かべていた。
否、実際にはいないのだが、妖忌には確かに認知(み)える。
青白い髪を戦(そよ)がせる長身の女がいるような錯覚をした。
雪のような女を睨む。
【禁止ですよ。彼女はここでは死なないのですから。貴方は黙って見ていナサイ】
「歴史の改竄者……!」
【貴方が動かなくても、剣は現れますよ】
「囀るなよ……!」
引きぬく。
手の延長には確かに鈍色の光。
見慣れた二本の鋼が携えられていた。
須臾に亡者の如き枝を切り捨てる。
妖―――幽々子へと彼は果敢に斬りかかる。
が、どれだけ妖忌が剣を振るおうとも、一歩も進むことは出来ない。
其れ所か、逆に追い詰められている。
彼はその事実も冷静に受け止めていた。
如何に二刀流の彼でも無数の枝(つるぎ)が相手では多勢に無勢だと悟っている。
では、何故戦うのか?
何故剣を振るうのか?
その理由は分からなかった。
それこそ、
「理由なんて後から追いついてくる―――」
理由を求めるために振るっていた。
この先に何があるのか?
何もないのか?
彼にも誰にもわからない。
だけど妖忌は今は唯、出来るだけのことをすると誓った。
その結果自分が滅びようとも構わないとさえ思った。
結果として一瞬で決着はついた。
小太刀を振るう左手に巻きつく枝。
正面からは人の腕ほどある、宛ら丸太と揶揄してもいいものが一直線に妖忌の胸を貫く。後悔はない、といえば嘘になる。
出来れば助けたかった。
出来れば誰も失いたくなかった。
自分の無力を強く呪った。
「――――――」
が、阻む刃は彼の目の前に現れた。
「…………?」
「―――助太刀します」
女の声が響き渡った。
共に嵐が巻き起こる。
其れは暴風。其れは花弁。其れは――桜。
先程まで見ていた墨染桜とは似ても似つかぬ、淡い白い桜花。
純白の欠片が吹き荒れる。
渦のように散り乱れ、魂魄妖忌の視界を塞ぐ。
しかし視界の端に確かに捉えたそれは、人形の影。
桜吹雪の渦中に佇む女性を彼は確かに見た。
旋風は魂魄妖忌の胸を叩き、不安と不信を駆り立てる。
女性は、
「『サクヤサン』も、もっと時間と場所をしっかりと定めて欲しいなぁ」
と、愚痴を呟きながら場にそぐわない演技かかった動作で頭を掻いた。
彼女のもう一方の手には古い文字盤がしっかりと収まっていた。
それを大事そうに懐に仕舞い、今度は凛とした口調で妖忌に向かって口を開いた。
「その身は既に曇り一つ無き刃だと……私に教えてくれたのは貴方なのでしょう?」
彼女は一度だけこちらを振り向いた。
無論、彼は誰にもそんな偉そうな忠告をしたつもりはない。
そう反論しようとした。
だが幼さの残る横顔から覗く瞳は魂魄妖忌を縛り付ける。
そして彼に背を向け、傍らに携えた刀に手を添える。
その一瞬。
彼女の口元が釣り上がり下弦の月を象る。
其れは慈愛とも憐憫とも区別のつかぬ笑みだった。
「この場に限り私は―――貴方の剣になろう」
鯉口を切る音が二つ。つまりは、
―――二刀流。
一つは彼女の背丈ほども在る、長細い黒光りする刀。
もう一つの刀が小刀に見えるほどの異様なまでに長い太刀。
両刀とも刃紋は流麗に波を彩り、また刀身も月光を綺麗に写す鏡のように磨きあげられていた。
逆に柄は浅黒く汚れており、幾百年も使い込まれている。
そして緑の痩躯は俊馬の如く駆ける。
「――――――」
洗練された太刀筋で、幾千幾億の樹木の刃を切り裂いていく。
女は鯉が撥ねるが如く疾走する。動けば白銀の長髪が風を搦める。
彼女の手にした銀鉛が空を撫でる度に狂気は朽ちていく。
殺陣の様に美しく完成された戦のような狩りであった。
之を剣舞と謂わずしてなんと謂おうか。
妖忌は、舞を踊る彼女を見つめることしか出来ない。
桜(あっち)が妖怪なら、彼女(こっち)は化物だ。
魑魅魍魎など足蹴にし、死の触手を切り殺し、妖櫻に差し迫る。
だがしかし、魂魄妖忌が驚いたのはそのことだけではない。
余りにも似すぎている……と。
彼は目を見開いていた。
彼が物心付いた時から、今日まで欠かすことの無かった鍛錬。
二刀流という歪な流派を歪に完成させた独特の動き。
彼女がその流派の行末、つまるところ修行の結果を映しているかのようだった。
動きの一矢が彼の追いかけていた太刀筋そのものである。
彼の太刀を無骨な滝だと喩えるならば、彼女は流麗な小川の様なものであり決して力押しをするものではない。
妖忌は彼女の動きを目に焼き付ける。
自分はこの極地まで辿りつけるかどうかはわからないが、脳裏に刻みこむ。
いつか、やがて何時かはと。
そして―――死合いは結ばれる。
さも簡単と云わんばかりに彼女は幽々子の元まで辿り着いた。
その間は実際には一瞬か刹那か須臾か……。
だが、彼には永遠の様に感じられた。
彼女が死体に再び刃を突き立てる瞬間。
「ご覚悟を―――幽々子御嬢様」
そう呟いたような気がした。
●
妖夢は幽々子の死体を桜のすぐ側に埋めてやり、其れ以上は何も弄らなかった。
が、そんな彼女に呼びかける人がいる。
「お前は何者……」
問いかける男に、妖夢は何も言わなかった。
彼女が知る妖忌とは似ても似つかない、青年の彼にこれ以上何も語ることが出来なかった。
彼女は後悔をした。
……先程も、あのような教えを語るつもりもなかった。
けれど。
彼女は後に自分を未熟と諌める青年は今――自分よりも遥かに未熟なのだから、と言い訳をした。
もともと妖夢は、自分は何も言う権利がないと思っていた。
師は常に完全無欠で気さくで、憧れの人であって欲しいという、自分の中の偶像の押し付けを彼女は選んだために。
だけど……
それでも、妖夢は自分が師に何かをしてあげたいと思ってしまった。
結果として、
「貴方は……」
言葉を慎重に選び、
「貴方は間違ったことはしていないです」
と、なんとも身勝手な解釈を彼にした。
そして、
「では行先(みらい)で会いましょう―――ってあら?」
声よりも早く、妖夢は蜉蝣の様に生じ消失した。
サラサラと海岸の砂の様に溶け逝く。
夜空に溶ける彼女の欠片を見送る妖忌は、何を思うのか。
後には、何も残らない。
其れを見上げることが出きる影は一つ。
―――魂魄妖忌唯一人。
彼が、見上げる空には季節外れの桜と雪。
桃色と白が入り乱れる百花繚乱な風景を唯唯視界に収める。
常人であったならば何と素晴らしい絶景だろうと、絶賛するだろう。
さも此処が極楽浄土と勘違いをさせるほどの景色だった。
しかし妖忌は美しいとは思えなかった。
彼にはこの場は地獄以外の無いものでもなかった。
彼にとってはこの風景こそが、恋しい人々の殺哀(ころしあい)の果てであり、絶望の切り口に過ぎない。
鬼哭啾啾の有様をみて、常人の雅など共有できるはずもなかった。
天高く聳える銀色のお月様。
無常にも彼には自身を嘲笑う神の様に思えた。
「―――自分(あなた)は間違ったことはしていない」
口に出してみれば何とも滑稽な言葉であろうか。
一人悲しみに揺れ、気づく。
まるで眠っているかのように、仰向けに斃れている少女に歩み寄った。
彼女を救うことで、自らも救済されたがっている自分に気付いて妖忌は死にたくなった。
●
「――――――」
藤原が再び目を覚ました場所は、夢と同じでとても温かかった。
荒い息が部屋に響き渡るのを自分で聞き、まるで獣だと自己嫌悪した。
――彼女が目を覚ました場所は寝具の中。
そしてゆっくりと起き上がり、黎明に晒される己の体を一瞥すれば、文字通り『傷一つ無かった』。
……その事実には哂うしかなかった。
不老不死という輪廻律を壊す存在である自分を幾度呪っただろうか。
幾千幾億、不老不死の薬を飲んだことを後悔しただろうか。
その後悔を幾度以上韜晦しただろうか。
彼女が考えれば考えるほど、自分自身が嫌いになっていく。
自分が嫌いな自分が他人に愛される筈もなく、故に諦める。
決意とは裏腹に諦めきれずに、想い焦がれ身を焼かれそうになる。
焼かれ、感情にゆっくりと灰を積もらせていく。
袋小路の思考は永遠に繰り返される。
恐らくは、覆いきれなく成ったときが彼女の死である。
これから未来永劫解消はできないだろう。
「そんなことを考えても仕方ない……」
涙を堪え偽る。
握り拳が震え、まるで子供だ、と自嘲した。
精一杯の虚勢だと分かりきっていながらも、末妹は見栄を捨てたら自分には何も残らないと決めていたのだから、それが彼女の死にゆく世界に対する全身全霊の抵抗だった。
「…………」
寝息のする方を見れば、魂魄妖忌なる者が寝ているのが分かった。
―――違う、と彼女は末妹は否定する。
……彼は彼女の中ではいつまでも岩笠なのだ。
藤原末妹は嬉しかった。
きっとまた彼が助けてくれたのだと、心が満たされていくのが分かった。
そこまで考えて、否定した。
違う。
彼は唯、目の前で女の形をした自分が死ぬところを見たくなかっただけなのだ。
そうじゃなければ、誰が主を殺した人間を助けようものか。
決して、『私』だからではないのだ……。
岩笠が眠っている場所は彼女が寝ている場所とは少し離れた渡り廊下の縁だった。
胡座をかき、ゆっくりとした一定の呼吸を繰り返していた。
藤原末妹は思う。
きっと彼は私のために外で寝ていたのではない。
―――だって彼が『化物(わたし)』のような者に気を使う必要などないのだから。
ましてや私は彼の主を殺した者。寝首を狩られても仕方が無いのに……。
恐らくは、悩んでいる途中で疲れて憔悴しきってしまったのだろう。
「まだ寝ているのかな……?」
……自分は、彼を愛したいのか愛されたいのか。
彼女は渇望した。
故に寝ている岩笠の顔にゆっくりと顔を近づけ、
「――――――、駄目だよね」
引き離した。
「こんなの、駄目……」
痛みを知ることを愛だと謂うのならば。
愛を知ることを憎しみだと謂うのならば。
そんなものは未来永劫不必要だ。
思い、彼女は寝具を綺麗に片付け立ち去った。
未来(いつか)笑い会える日など、永遠にこないと疑わず。
藤原末妹は礼など不要と思い、早々と白玉楼を立ち去った。
●
魂魄妖忌が目を覚ましたときには日は真上に居座っていた。
正確には高く登ったからこそ目覚めたのだが、そんな些細なことは彼にはどうでもいいことだった。
寝過ぎたことに苛立ちながら隣の部屋を伺えば、もう藤原末妹の姿は見えない。
簡単に片付けられた布団の一式を見て、また旅立ったのか、と決めつけた。
―――貴方は何一つ間違ったことをしていない。
間違ったことはしていない、なんて。
なんて―――傲慢なのだろうか。
そんなありふれた慰みを言われた彼は、余計に罪悪を膨らませた。
彼は自身がどのように足掻いても、二人を救うことが出来なかったのだと宣告されたも同義だからである。
故に、彼もまた目を細めただ沈黙を守るのみ。
そして。
呆ける彼は見つける。
紺色の巾着袋を。
紐を緩め、中から固形物を取り出す。
それを口に放り込み、
「――――――いと美味」
とても美味だった。
ゆっくりと口の中に甘味が広がり、満たしていく。
甘くて、美味しくて、訳も無く涙が出た。
悔恨を具現したかのような漿液が頬を伝うのが妖忌自身分かった。
声が聞こえる。懐かしくも、聞けない声が。
「庭師」
「はい、なんですか。お嬢様」
振り返れど影は存在しなかった。
【歴史は輪廻し轉がる――不幸を探す猟犬の如く】
●
「――――――」
不愉快にもさっぱりと妖夢は目覚めた。
ずっと、ずうっと……眠っていたような気がする、と有りもしないことを思った。
喩えようのない覚醒を脇に置き、寝具から抜け出す。
深く考えても仕方がないと彼女は見切りをつけ、普段着に着替えた。
起きるのを見計らったように、幽霊が妖夢の寝室を訪れた。
「……こんな時間に客人ですか。どなたでしょう?」
妖夢が幽霊に尋ねると、その人の名前を答えてくれた。
「……四季映姫様が、ですか。まったく白玉楼の管理も大変です……」
妖夢は思う。
幽々子様は全く大変そうに見えなかったのに……白玉楼二代目当主というのも厄介なものです。
眠気はどこまでも眠気。
彼女は願った。
―――再び寝たら夢の続きが見れるかな。
第一章 終劇