清浄に、清潔に、清々に存在する静界にして浄土の都。
まるでそれが正常であるように。正決であるように。正々であるように。正解であるように存在する常土の地。
静かに、ただ静かに、だけれど確かに存在している息吹の無数。死のように清浄で無のように清潔で無意識のように清々な矛盾のような静界。浮かんだ意識さえ掻き消えてしまいそうだ。
不変を否応なく思わせる浄土の都、しかし今晩は、いつにも増して静かなように思える。まるで狂乱の凶兆のようだった。
今夜は満月。
月の魔力が最も満ち足りる日。
「……久しぶりね、この都も」
依姫は、特に感慨がある風でも無いように、ぽつりと呟いた。
地上人との戦争に、一応の折り合いは付いた。理を曲げたその影響を利用して攻め入り、見事形勢逆転した。今は再び膠着状態、しかしその膠着は地上人に打つ手が無いための膠着であり、だから長く続いた戦争も一段落したと言っても良いのだった。
重く気だるい体を引きずり久方ぶりに都に帰ると、依姫は苦笑してしまった。
なにも、変わってない。
都に入った瞬間、戦争なんて本当は起こってないのではないだろうか、と思えたぐらいだった。
宮殿の自室で、なにをするでもなくベッドに横たわっていた。特にしたいことも無い。貴重な休みだ、体力と気力を回復させることに努めよう。
「…………」
姉は、この間の地上に逃げ出した兎――レイセンと言ったか――との受け答えの失態を埋めるために、あちこち走りまわり必要以上に労に徹している。失態に顔を歪める姉なんて、初めて見た。
「……寝る」
安息を感じていると、様々のあれこれが頭に浮かんでくる。それを振り払い今は寝ようと思ったが、結局目を瞑っては開くことを繰り返すばかりだった。
予定通り、順調だ。
月讀は、月の神は、なんの感慨も無くそう思った。
順調だ。障害は何一つとして無い。
今のところは。
私は、彼女と違って凶兆を予見するような力は、頭脳は持っていないから、先のことは何も分からない。
だけれど。
私の全てを賭けて、この地を守ってみせよう。
月の神の名に賭けて。
地上人との戦争は一段落したが、しかしその後の処理や備えやらで休んでいる暇は無かった。失態を少しでも償おうと、前より忙しくなったくらいだ。
豊姫は逃げ出した兎――レイセンと言ったか――との交信をフラッシュバックのように思い出し、歯ぎしりを立てた。悪態が喉まで出かかったが、なんとか抑える。あれからこんなことがもう何百回も続いていた。
決して話術が優れていたわけではない。だが、必要な事を筋道通りに必要なだけ言って切り上げるという、対応しようのない無駄の無さがあった。
しかし、対応しようが無かろうがどうだろうが、失態は失態。今から考えれば、苦し紛れだが方策が無かったわけでもないのに。
「……くそ」
思わず、声が漏れてしまった。
指示を出し、思考し、自ら動く。他のことなど考える余裕など無いはずなのだが、しかし、考えてしまう。
先日のあの惨状。
今、都の外にいるという意味。
捨て駒。
……だからなんだ。
だからなんだというのだ。
捨て駒は必要なのだ。ならば、失態を犯した私こそがそれに相応しい。月の都に属している時点で、私は駒ですと言っているようなものなのだ。苦情を嘆くほうが間違っている。
――妹は、無理矢理都に戻したけれど。
怒るだろうなぁ、私が都に戻した事を知ったら。
まあ、いい。妹の真っ直ぐな怒りを受け止められるのも姉の特権だ。
妹の責任を負えることだって、姉の特権だ。
……まあ、でも、できうる限り生きることを努力しよう。妹の喜びと憂いに満ちた泣き顔は、ぜひ拝みたいものだ。
時は遡り。
嘲るように見下し、無関心なように見下ろす。
意味不明に存在し、理不尽にそこに在る。
夢のように揺らぐようで、幻想のように霧散するよう。
しかしそこに確かに。
妖艶に。
妖艶に。
彼ら彼女らはその災悪に戦慄し、恐々し、しかし剣を手に取りだがそれもすぐに終わった。
流れた血を死体で拭うように見せしめ魅せしめ、彼女は彼ら彼女らに有情で非情な条件を提示し、彼ら彼女らはそれを首を絞められた鵜のように飲んだ。
彼女は別れの言葉を口にし、消えた。
彼女が去ると、まるでその一場面が無かったかのように、まるで彼女の存在が無かったかのように錯覚したが、残虐の跡は確かに残ったのだった。
彼ら彼女らは、ただ茫然と宙空を見上げていた。
「…………」
眠れない。どころか、横になっていることすら苦痛になってきた。
様々が浮かぶ中で、とりわけ鮮明に明確に色鮮やかに浮かぶのは、姉のいつもの微笑みだった。ふっと目の前の景色が消えては、こちらを振り向き笑う姉の姿が浮かぶ。
「…………」
会いたいな、と思った。
会わなくてはいけない、という脅迫的な想いまで、まるで荒波のように襲ってきた。
会いたい。
会わなくちゃ。
行かなきゃ。
会いたい。会いたい。会いたい。
「……駄目だ」
なんだろう、急性のシスコンだろうか。想いがはち切れそうだった。
寂しい、のだろうか。
甘えたいのかもしれない。
「連絡、してみようかな」
ぽつりと、呟いた。邪魔になるだろうけれど、それでも。
いつもならばそんな甘えは自分に許さないのだが、しかし今は不思議と、不自然に、そういった自制心が喪失したように微塵も湧かなかった。
また、姉の姿が浮かぶ。柔らかく微笑む姉の姿。
ベッドから跳ね起き、宮殿の外へと駆け出した。
己の力に確信があった。
程々の、しかし確かな確信。
プライドに関係すること無い自負があり、意識したうぬぼれも持っていた。
命を賭してその力を使えば、大切な者の一人くらいなら守れると、何者からからも守ることができると、そう思っていた。
嗚呼。
自負も、うぬぼれも、確信も、脆く崩れ堕ちていってしまった。
『×――――』
一瞬、無線機から何かが聞こえたような気がした。豊姫は素早く無線機を口元に当てた。
「どうしました?」
応答が、無い。
「……どうしました?」
応答は、無かった。予感よりも確かな寒気を感じた。
その場にいた他の者はそこに待機させ、応答が皆無だったその場に向かう。私の能力は、一人のほうが都合が良かった。
そして、その場に到着して。
そこは、あの晩の再現だった。
バラバラに分けられた死体の海。
胸が詰まるような臭い。
もうなにも無いはずなのに、死体の海から震えあがるような威圧感を感じる。
そして。
その死体の海の上で、彼女は宙に腰掛けて、私を見下ろしていた。
あ。
駄目だ、これ。
私は死ぬ。
彼女の姿を確認した瞬間、全てを放棄した。いや、思い知った、か。終わりを、思い知った。
彼女を視界に入れた瞬間、まるで強大な暴力のように強制的に、神を想った。
私と彼女とでは、根本的な存在位置が違う。
流れる金の髪。
異様に白い肌。
奈落のように深い金色の瞳。
そんな視覚的なものではなく、その存在自体が、異端。そう、異端。
異端の意味を、思い知らされた。
まるで浮かぶ意識のように曖昧で澄んだ水面のように美しく想いのように繊細で感情のように力強く空想のように幻想で、そして夢のように現実。
「今晩は」
透き通り渡るような声で、彼女は声を発した。
あれが声を発するということが信じられなかった。
「今晩は、と言ったのだけれど」
「…………」
当然、彼女に対して準備はしていた。それも、昨日やそこらで造った代物では無い。こちらは今もまだ戦時中なのだ。そういった手段も、持っている。
例えば、ここは私の結界範囲内で、私はなんの予備動作も無しに指定した空間を正確に裂くことができる。そしてそれを一つ目の手とし、すかさず新しい結界を張り、その結界内の空間を亜空間に破棄するという、戦闘が始まる前に終わらせるという絶対を誇る二重の手。
例えば、最終手段も持っている。自分自身を糧とし発動する最終結界。道連れの封印。私の全てを賭けた封印。異次元閉鎖を基本とする私の最終術式。
駄目だ。
意味が無い。
勝負を展開することすらできない。
始まりのその前すら無い。
死力を尽くすことすら、叶わない。
……これが、超越というものなのか。
彼女が扇子をこちらに向けた。
うねりのたうつような闇の叫び声が響いたような気がした。
「月讀様」
音も無くやってきた『信望者』に、月讀は視線を向けた。しかし、その目はいったいどこを見ているのかは分からない。そこを見ながらどこか別の次元を遠く眺めているようだった。
「先程依姫から報告が。豊姫と連絡がつかないようです」
「そうですか」
月讀はゆるりと、頷いた。あらかじめ予想しきっていたような、来ましたか、とでもいうような態度だった。
「分かりました」
「失礼します」
『信望者』は去っていった。
「…………」
たとえ月の都に攻め込まれようが、この内ならば大丈夫だ。万が一も有り得ない。時間は私達に味方している。どれだけ強大な力をぶつけてこようが、なにも心配はいらない。都の守りは盤石絶無だ。
月の神は天井を仰ぎ、目を瞑った。
何を想ったのか。
使い捨てられた駒への情だろうか。
これからの戦争の仮想だろうか。
月の都の行く末だろうか。
それとも。
――眠ったように、目を閉ざし続けた。
「出して!!」
依姫は、まるで正気を失ったかのように叫び続けた。
「出しなさい!!そこを、退け!!」
「いけません」
月の都の守衛は、荒くれる依姫を遮り続ける。
「今は、都から出ることも入ることもできない状況です。月の神の、命令です」
「捨て駒にする気か!?外にいる者全員を!!」
「落ち着いて、ください」
守衛はあくまで、感情を殺した声で、言う。
「…………。…………………………………………。…………くそ」
手に掛けた刀からずるりと腕が堕ち、力無く俯いた。今にもへたり込んでしまいそうだったが、かろうじで、藁で支えられたように、不安定に不自然に、立っていた。
「……持ち場に戻ってください。もうじき、この都にも攻撃を仕掛けてくるでしょう」
「…………」
依姫はなにか呟いたが、その声は誰にも認識できなかった。
これだけ紫が攻め立てようと、月の都の優勢は、僅かばかりも揺るがない。
絶対絶無の守り。月の気紛れと月の神が張った結界、しかもそれを破ろうと、月の都の内部は結界そのものなのだ。攻める者には制約と束縛を架し、守る者には加護と払いが与えられる。流血による穢れも、都の中では格段に軽減されるのだ。
そして、月の内部は月の神の援護範囲内。たとえ紫が地上の妖怪を引き連れ攻め込もうが、神の力の前では泡沫同然だ。紫も援護に回り月の神の援護を無効にしようが、都内部の結界でその他の月の兵に瞬く間に殺されてしまう。まったく意味が無い。
だから今考えられるような、月の神が考えているような紫の策は、地上の有象無象に月の兵を相手させ、その有象無象が全滅するまでの僅かな間に月の神と死合い決着を付けるという窮余の一策。ここでも、月に時間が味方している。
だが、しかし。
それは、その考えは、どうしようもなく、取り返しのつかないまでに甘かった。
もしも、もしも月讀が、あの日の月影の説教を教訓としそれを視野に入れ相手の策を考えていたのであれば、違う結末もあったかもしれない。
『どうせ、幻想の郷を陥落させることだって失敗に終わるわ。そこを世界としその世界を情念の底から愛すような存在によってな』
その言葉の意味を、もっとよく熟慮し熟考し突き詰め思案し思念し思い巡らすべきだった。
簡単な答えだ。あまりにも分かりやす過ぎる手掛かり。もう答えを言ってしまっているようなものだ。
そこを世界としその世界を情念の底から愛したのはいったい誰だというのだ。
そこを世界としその世界を情念の底から愛したその者は、何をしようとして、何をしたのか。
『さて、ここで問題や、月讀ちゃん』
『月讀ちゃんみたいな思想を持つ者は、世界で月讀ちゃんただ一人か?』
『そう、思うか?』
『ええか、月讀ちゃん。奪うということは、奪われるっちゅう可能性を自分から作り出すいうことや。壊すということは、壊されるっちゅう可能性を自分から作り出すこと』
全てを教えていたというのに。
『月讀ちゃん。ちょっと、他を見下しすぎちゃう?』
……いや、見下しすぎていたのではなく、あまりにも他に目を向けなかったから、か。
それが見下すということだと、彼女ならそう言いそうだけれど。
『私が何言いたいか分かるか?』
『分かりません』
貴方のことなんて何一つ理解できないと。
紫と対等かあるいはそれ以上の脳髄を持つ姉の言葉、思考の理解を放棄した時点で、月讀の敗北は運命づけられていたのだろう。
その結末の原因は。
彼女が月の神であったからか。
それとも、――彼女が、人のようであったからか。
どのような意味でも戦わない。それが八雲 紫が弄した、陰惨で残虐な、おぞけの限りを尽くした策だった。
「――――――!」
ビシッ!
鋭い亀裂音が、頭の中に響いた。
月讀はくしゃりと髪を握り、ため息を吐いた。
来た。本当に。
姉の結界を、乗り越えてきた。
脅迫は、本当だったのか。
そうなると、兎の協力者、いや兎を協力者とした者は、やはり八意 永琳か。ということは、あちらの戦力にあの薬師も加わっていると思ったほうがいい。そんな可能性考慮したくもないが、不運の状況からしてそれは当然の流れだろう。
だが、しかし、それでもこちらの優位は揺るがない。単純な戦力的に見ても、月と地上を繋ぐ彼女を除けば、たとえ八意 永琳が加わろうとおそらく五分だろう。問題無い。
静かに、扉が開くのを待つ。
この部屋の入り口はあそこだけ。どんな術を用いようと、外からの干渉は無効化される。そして当然、申し訳ないが、ここはあらゆる意味で私に有利なように造られている。制限と制約。知覚と認識。そんなレベルではない。ここは別の場所なのだ。
言うまでも無く全力で叩き潰させてもらう。誠に申し訳ないが。月の神と呼ばれた力の全てを余すことなく見せましょう。
貴方方は喰われろ。
私達は、それを糧に生きるから。
コツ、コツ、コツ、コツ。
中央広場の石段に腰掛け、己の延長のような存在である刀で体を支え俯きながら、規則正しいリズムで足を鳴らす。
コツ、コツ、コツ、コツ。
誰もいない中央広場。そこで一人依姫は、異様な雰囲気を漂わせていた。
コツ、コツ、コツ、コツ。
まるで、狂人のように。
コツ、コツ、コツ、コツ。
何かを憎むように、何かを待ち侘びるように。
コツ、コツ、コツ、コツ。
規則正しく、足を鳴らす。
コツ、コツ、コツ、コツ。
カツン。
顔を上げる。
混濁した目で、それを見た。
ビシリッ!
鋭い亀裂音が一つ。
そして、彼ら彼女らは現れた。
皆同じような格好をしている。
相当な人数だ。百はどう見ても越えている。
皆、手には武器が。
瞳には闘志、あるいは殺意が。
得体の知れない雰囲気を醸し出していた。できれば、できなくとも近づきたくないような、根本を揺さぶるような嫌な気配。
結界は破られた。
依姫は素早く抜刀し、侵入者に躍りかかった。
同時に、どこに潜んでいたのか、あちらの数を優に超える月の兵が突然現れた。
怒号が、月の都を振動させた。
斬りかかる。
叫び声も感情も集約させた刃を殴りつけるように、しかし熟練のその先の先に到達した速度と軌道で。
しかし。
最良の形で直撃したはずの刀は、斬りかかった彼女の肩を数センチ抉っただけだった。
「――――!!」
堅い、なんてものじゃない。
なんだ、こいつは。
こいつら全員、こんな体質なのか?
「くっ―――」
一旦引き、反撃をかわしながら、呪詛を唱える。
「十七夜の守護を!!」
刀が、白蒼の光に包まれる。
胴体を薙ぎ払う。重い。鉛より重い手ごたえだ。
「くうっ―――」
だが、最後まで振り切れた。
真っ二つになった彼女は、内臓を撒き散らしながら地面に堕ちていった。
まず一人目。
あとどれだけでも切り裂いてやる。
姉の姿が、また脳裏によぎった。
しかし。
「―――なっ……」
がくんと、膝が崩れた。
一撃ももらっていないはずなのに。
かたかたと膝が細かに震え、そしてすぐにそれは収まった。
「な……んだ?」
確かめてみるが、体のどこにも異常はない。なんだったのだ?
右から剣が振るわれてきた。屈んでかわす。
ふっと息を吐き、切り替える。今は、こいつらを殲滅することだけを考えていればいい。
斜め下から刀を振るう。剣を振るった彼の首が吹き飛んだ。
「な……こんな……」
いくら待てども、彼女が来ることは無かった。
扉はいつまでも開かない。
一人きりの神の部屋。
「馬鹿な……こんな……こんな手を……」
待てども来ない死合うべき相手。
不審に思い、外の状況を確認してみれば。
おぞけの具現が、そこには在った。
「それは、それは禁じ手だろう!!」
自分のことは完全に棚に上げて、月讀は叫んだ。
今、月の都に攻め込み戦っている彼ら彼女らのことを、月讀は知っていた。
天人。
地上に住む、天界の住人だ。
勝負は、始まる前に終わっていた。
月が最も忌避するもの、それは。
穢れ。
その地に寿命をもたらすほどに、月にとって穢れは弱み。存在の核心を揺さ振られ、どうしようもなく変質する。
天人は、仙人と違い己の穢れを払い滅し生き永らえているわけではない。命を狩りに訪れる死神を殺しまたは追い払い無理矢理生きている。いくら穢れの少ない天界に住んでいようが。
彼ら彼女らは、穢れだらけ。
そんな者の血が染み込めば、月の都といえど、寿命が縮まる程度の影響で済むわけがない。
全滅することが前提の、穢れた策。
どうしようもない。どうすることもできない。
月讀の力であれば、穢れを残すことなく消し去ることができるだろう。だが、八雲 紫に縛られている。部屋の外に出れば、場の条件はほぼ対等となる。しかしそうなれば、戦いが長引いてしまう。戦いが終わるころには、月の都も終わっている。
時間の有利を、嘲笑うかのように収奪された。
穢れは地のみに止まらず、民にも影響を与えるだろう。寿命をもたらすなんて悠長な影響ではない。寿命が終わる程の影響が出る。
駄目だ。どうしようもない。
終わった……?
「言わんこっちゃない」
突然の聞きなれた声に、はっと顔を上げる。
窓辺に、いた。
こちらを静かに見つめて。
月影が、そこにいた。
「だから言ったやろ」
「…………」
「終わりや」
姉のその宣告に、がくんと自分の内の何かが落ちこんだ。
終わりを、悟らされた。
嘘でしょう?
これで終わり?
「呆気ないけど、こんなもんやろ」
茫然と、気が遠くなった。
気付く。
見れば、姉の腕の中で、赤子がすやすやと眠っていた。
「あ……」
「知ってるか?この子?月夜ちゃん、っていうねんけど」
「…………」
「不思議な子でのん、なかなか成長しないねん。まるで時が止まったように、の。これは、強大な力を自分でコントロールできるようになるための準備期間だと私は思うねんけどな。いや封印期間、か。しばらくすれば普通に成長すると思うで」
「…………」
「どうする?ちなみに外ではなんか金髪のエロっぽい姉ちゃんが待ってるけど」
「…………」
しばらく、姉と目を合わせず黙って座っていた。
立ち上がる。
姉に、我が子に歩み寄る。まるで怯えるように。恐れるように。
「かはは。よう考えてみれば、こんなに近づくのはいったい何年ぶりやろうな」
「…………」
眠る我が子の頬に、触れてみる。
体温を感じる。
温かい。
髪をすく。
白銀に輝くその髪を。
「どうする?」
もう一度、問うてきた。
手を引き、握り締め、答える。
「……その子と一緒に、逃げてくれませんか?」
「なんや育児放棄かいな」
「私に母である資格は、ありませんよ」
「それを育児放棄って言うねんけどな」
「…………」
「母である資格があろうがなかろうが母は母だっちゅの。家族であるかどうかは別としてな。見てみい。月讀ちゃんに瓜二つやん、この子」
「…………」
「なんや自分に似て可哀そうにとか思っとんの?自分を卑下するのは勝手だけど、この子を卑下するのはやめえや。綺麗な顔立ちしとるやん。これは将来、とんでもない美人さんになるで」
「……ええ、そうですね」
我が子を見下ろして、月讀は頷いた。
「きっと、この子は美人になります」
「……なんでその愛しみを向けられないかねえ。そんな難しいことなのかねえ」
「…………」
「それじゃ、もう行くから。今なら理が綻んでるから、適当なとこに落ちれるやろ」
「……はい。さよなら」
「さよならじゃねーわ」
げしっ、と月讀の脛を蹴り飛ばす月影。
「……なんでしょう」
「なんでしょう、じゃないっつの。ほれ」
腕に抱いた赤子を、月讀に差し出した。
月讀はしばらく動かなかったが、やがて、我が子を受け取った。
「抱いてやり」
「…………」
怖々、恐る恐る、腕の中に抱きしめた。
すやすやと眠る、その息使いが伝わってくる。
鼓動を感じる。
意識を、感じる。
姉に、赤子を返した。
「……ま、月の都を捨てて我が子と生きる、とは言えんか。まあ、ええわ。よくないけど」
軽くため息を吐き、そして、
月讀の額に口付けした。
「…………」
「じゃあのん」
背を向け、去っていく姉。
「……さよなら」
外に待機しているであろう彼女をまったく気にすることなく大きな音を立て扉を蹴り開け、月影は去っていった。
「…………」
月讀は、扉をじっと見つめたままそこに佇んでいた。
さすがに、月の兵皆が異変に気付いていた。
重くなる体。
吐き気を催す。
気が遠くなりかける。
状況は優勢なはずなのに、まるで呪われたように蝕まれていく。理由が分からないことが、疲労に拍車をかける。
なぜ天人が月との戦争に、しかも殺され役として戦っているのか。
もちろん、紫の指示、いや、脅迫だ。
永琳に持ちかけたのと同じように、天人にも取引を持ちかけた。
その内容は。
『死神を半数殺すから、月との戦争に参加しろ』
例によって、悪質な取引だった。
しかも例によって、続きがある。
『もし断ったなら、お前達を無差別に半数殺す』
ぐちゃぐちゃになった数十体の死体を弄びながら、紫は言ったのだった。
皆殺し、ならまだしも。
無差別に半数。
自分かもしれないし、家族かもしれない。助かるかも。助からないかも。
絶対的な力を見せつけられた彼ら彼女らに、その宣告は、意思が、精神が、高いプライドが、折れるに十二分だった。
これがそれから先数百年経っても解決されない死神の神員不足の原因であり、月面戦争がその元凶だったのだ。
天人の人口減少も、これが原因。
ただ、本当に半数殺したのかどうかは紫以外誰にも分からないが、死神が激減したのは事実だ。魂狩りの本隊はとてもじゃないが天人に構っている余裕など無くなり、生を狩ることを専門としない、神の紛い物みたいな連中が天人の相手をすることになってしまった。
結果、天人が死神に殺されるなんてことは余程のことがなければ起こらない状態になり、天界はまさに楽園のように栄えたのだった。……当然、月面戦争の記憶は紫によって消されている。
閑話休題。
まるで茶番劇だった。全力を尽くし奥義を秘技を駆使し相手を切り捨て殴り飛ばし絶命させようと、あちらもこちらも不利になる。それを分かっていながらも、両者とも振り抜く手を止めることはできない。僅かに戦力は月の兵のほうが上回ってはいるが、その差は僅かばかり、一旦退くことすらできない。絶妙なバランスでその茶番劇は成り立っていた。
戦いは初めから終わっていた。
その場の誰もが薄々とでもそれに気付いている。
それでも戦争は続く。
強大な力を持って生まれた。
生まれて初めて目にした風景を、今でも鮮明に鮮烈に、よく覚えている。
父や母や親族などの有象無象は霞んでいる。ただ、ただ一人、鮮やかに。
駄目だったか。
そんな風な、残念とでもいうような、苦笑のような表情で私を見下ろす、姉。
なぜそんな表情をするのか、私には分からなかった。
姉は私に本当に良くしてくれた。ちょっと変わっていたけれど。無償の愛情を注いでくれたし、困ったときには助けてくれたし、様々を教えてくれた。
そのうちに私は、月の神としての教育を受けるようになった。
そして、そうして成長しているうちに、なぜあの日姉があんな表情をしていたか、理解した。
超越者と非超越者の違いも。
姉は、生まれたその時から有能だったのだ。生まれたその時から知性と理性を兼ね備えていた。力を隠す術を心得ていたし、力は隠さなければいけないということも知っていた。
超越者は、最初から超越者として生まれてくるのだ。始まり以前で完成しているからこその、超越。
超越した姉は自由奔放にふらつき、優秀な私は神となった。
次第に私は、姉を避けるようになってきた。
なぜだろう?
妬みからだろうか。羨望したから、しているから、彼女を見るとずきりとなにかが痛むのだろうか。
それとも。
恨みから、だろうか。
自分を月の神という役割から助けてくれなかったことからの。
これ以上無く、勝手な話だけれど。
姉に大好きですと微笑んで心の底を伝えることをできなくしたことを、我が子に最愛を向ける事をできなくしたことへの。
手を差し伸べて、くれなかったことへの。
本当に、勝手な話だ。
「今晩は」
今更のように扉が開き、彼女は現れた。
流れる金の髪が美しかった。目も美しい金色に輝いていたが、底無しの湖を思わせる深さがあった。怪しく、輝いている。
一目見て、ああ一部の能力では確実に私を上回っているなと直感した。戦えば、どうだろう、五分、いや月の都に縛り付けられているという補正でほんの僅かにこちらが優勢か。この部屋の中であれば、歴然とこちらが優勢だ。
まあ、もう戦う必要は無いけれど。
「私は八雲 紫」
静かに扉を閉めて、彼女は名乗った。
「投了してくださる?」
「……はい」
「そう。ありがとう」
なんの感慨も感じさせない声で言って、指で空間をなぞり、指に沿って裂けた空間に乗って宙に腰掛けた。
「これからどうするつもりですか?」
分かり切ったことを、尋ねる。
扇子を扇ぎながら、抑揚の無い声で答える彼女。
「月を、幻想郷に有利に働くように作り直します」
「……民は、皆殺しですか?」
分かり切っていようと、続ける。
しかし。
彼女の答えは、予想に反するものだった。
「いいえ」
「…………え?」
「月の民は生かしておきます。殺しはしません」
「…………」
どういう、ことだろうか?
殺さないというその答え、しかしそれに良い予感はまったくしない。
「……しかし、月の都は穢れすぎた。月の民がこの地で生きていけないほどに」
「月から穢れを浄化すればいい」
彼女はこともなげに言った。それができれば、苦労はしない。
「どうやって?」
「穢れを消し去ることは不可能。消し去れば、月の魔力にも影響を与えざるを得ない。それ以前に月の魔力を消し去ることなんて不可能だし、ね」
「ではどうする?」
「負えばいい」
答えは、一言だった。
やはり声の調子は変えずに。平坦な口調で。
しかし。
私を凍りつかせるには、十分な答えだった。
頭が、真っ白になった。
手が、体が、震え始める。
ああ、そんな手があったのか。
考えもしなかった。
考えたくもない。
そんな発想が当然のように浮かぶ脳髄なんて、持ちたくもない。
最初から最後まで、おぞましい。
姉は。
姉は、この結末を予見できていたのだろうか。
……考えるまでもないな。
「どうしますか?嫌なら嫌で、私は全然構わないのだけれど」
「…………」
負う。
月の穢れを。
その意味。
月の魔力と混ざり合った穢れは、もはや月の魔力そのもの。月に寿命をもたらし、清浄な存在である月の民にも深刻な影響を与える。
大がかりな術式を使えば穢れを払うことはできる。できるが、月の魔力は月の根本、仮に穢れを払おうが、すぐに穢れが湧いて出る。意味が無い。
ではどうするか。
負えばいい。
誰かが月の悉くの穢れを永続的に負い、それを体内で浄化すればいい。
そんな巫山戯た真似が、私にならできる。
それなら術式は永続であるし、月の穢れは私が存在する限り浄化されるけれど。
けれど、それは。
完全に、人であることをやめるということだ。
正しく、月の神になるということ。
月から湧き出る膨大な穢れをその身に宿せば、もう誰とも会うことができなくなる。会えば、その者はたとえ地上人であろうと絶命する。過ぎた穢れは猛毒と化す。穢れを浄化することに全ての力を使うため、全ての力を失うことにもなる。
生きている意味は、月のためただ一つとなる。その他一切を許されない。
永遠に。
「どうしますか?」
「…………」
震えてはいたけれど。
絶望してはいたけれど。
悲しいけれど。
苦しいけれど。
答えは、最初から決まっていた。
「……………………。……負いましょう」
「重畳」
言って、彼女は懐から何かを取り出し、私に近づき手渡してきた。
砂のようなものが入った、術式による封がされた小瓶だった。
これはなにかと聞くまでもない。
蓬莱の薬。
永久と須臾の禁忌。
「八意 永琳は、どうしました?」
「手を貸してはくれなかったわ。力ずくね」
「そうですか」
「心配しなくとも、生きてるわよ」
「そうでしょうね」
「じゃ、私はもう行くわ。これから天人を回収して月の民を眠らせて記憶を改変しないといけないし。ついでに術式はこっちで用意してあげるから、後は自分でやって頂戴。ああそうそう、外で襲った月の兵のお偉いさんは数人残しておいたわ。そのほうが都合がいいし」
「そうですか」
「それじゃ、さよなら」
「さよなら」
とんっ、と裂けた空間から軽やかに地に降り、くるりと背を向けひらりと手を振り、伝えることだけを伝えて彼女は去っていった。
いつものように独りきりになった部屋で、いつものように目を瞑り指を組み座る月讀。
これからは、永遠に独りきりだろう。誰とも会わず、しかし関係は続く。
信仰を唯一とし生きる、完全なる神。
これが、世界を壊そうとした咎。報い。
私は、なんのためにそんな覚悟をするのだろうか。
私は、月の都を好いているのだろうか?
大切に想っているのだろうか?
愛しみを抱いているのだろうか?
私はこの世界を、情念の底から愛しているのだろうか?
封を解き、薬を一飲みで飲み干した。
月の神の加護が消えた都、紫はそれを比喩表現で無く一瞬で制圧した。
辺りは天人の、僅かには月の兵の、肉塊、肉塊、肉塊、それを飲むような血の海。
そして僅かに、あるいは致命的に、あるいはまったく傷付いていない、蝕まれ、それに耐えながらも紫に圧倒され倒れた月の兵の山。
惨状というならこういうものをいうのだろう。皆が皆正しく悲惨だ。現在も、その後も。――約一名を除いて。
その後紫にいいように改変される月の都と月の民。
しかし、改変された月の都はその後、平穏の具現のように平和な世界となった。民は健全に笑い、想い合い愛しみ合い、今日も満ち足りた日が過ぎてゆく。皆が平和で、皆が幸せ。皆を除く皆が。
幸せの代償も犠牲も知らずに生きてゆく。べつに、ごく普通のことだった。
まあ、終わってはいたけれど。
終わった幸せというのも、幸せには違いないだろう。
こうして月面戦争は終結した。文字通り、終結したのだ。
楽園のように終わった民が沢山、永遠のように終わった神が一つ。
最初から終わっていた、戦争さえ繰り広げられなかった戦争。
幻想とお伽噺の戦争。
若き頃の八雲 紫の独り舞台。
物語が閉じてしまったから、だからこれで閉幕だ。
――歌が聞こえる。
美しい歌声だ。
切なく、儚く、触れれば壊れてしまいそうなくらいに繊細な、しかし力強い、幻想のような歌声。
歌は辺りに静かに流れる。空を掬えばその手に取れそうなような、実体があるかのようなその音は、流暢に、絶え間なく流れ続ける。
血塗れの大地を見下ろしながら、美しい蒼を望みながら、紫は歌う。
愛しむように。
純愛するように。
本当に上機嫌そうに。
やがて歌声は、最後に空間を震わせ、消えた。
万雷の拍手が沸き起こることが然るべきであろうその歌に、しかし拍手は皆無だった。
舞台には、歌姫だけが立っていたのだから。
後日談
「なんだか、呆気無いわね」
白玉楼、縁側。
紫の持ってきた塩辛をむぐむぐとのんびり食べながら、幽々子は言った。
「結局、目に見えるような変化はほとんど無かったし、実感無かったな。それに、締まり方もなんだか、味気ないというか、なんというか。面白みが無いような」
「塩辛を酒も水も飲まずにそれ単体でむぐむぐ食べるやつのような面白みなんて誰も求めてないのよ」
「なんで?美味しいじゃない」
「さいですか」
突っ込みを放棄し、はーあとため息を吐き晴れ渡る蒼い空を仰ぐ紫。
「ん?なんかお疲れ?」
「お疲れよ」
至って普通な調子でそう答えたが、よく見れば、紫の目尻には濃い隈が浮き出ていた。
「なんで?今の話に、紫が苦労する部分なんてあったっけ?」
「あのね、物語が終わっても世界が終わるわけじゃないのよ。物語の後始末が大変だったの」
「後始末?」
むぐむぐと口を動かしながら首を傾げる幽々子。
「……なんのために私は月の都を壊したのよ」
「え?あー……あ!ああそうかはいはいそうだったわね」
「……まったく」
ため息を吐き、塩辛を幽々子の目に突っ込む紫。
「辛いッッ!!」
「失明してしまえ」
「があああああああああ!!!!」
慌ててお茶で目を洗う幽々子。
「きったな……。ていうかそれ私のお茶だし熱くないの?」
「こないだ目からお茶を飲めることを発見したの」
「化け物」
脱力したように肩を落とし、塩辛一つまみ口へ放る。
「辛」
「で、その後の後始末のお話は?」
「もういいわよ」
「気になるわ」
「はあ……。まず、理のほつれを利用して、地上人が月に攻め入ったという事実を無かったことにしたわ」
「無かったことにって……。そんな簡単にできることなの?」
「全然」
「威風堂々とした自慢ありがとうございます」
「いえいえ。ま、ほんとなんでもありみたいな状況だったからねぇ。世界が終わってしまうような状況だったから」
「実感は無かったけどね」
「無いほうがいいわよそんなの。で、次に理の捻じれを元に戻したわ」
「それこそ、そんな簡単に戻せるものなの?」
「……こればっかりは、蛇口を捻るのとは違うからね。時間をかければ難しくはないんだけど、一発で元に戻さなきゃいけなかったし。力技で元には戻せたけど、力の三分の二を持ってかれたわ」
「え」
「力の三分の二を、消失しちゃった」
「……………………」
さすがに沈黙する幽々子。
「……元に、戻るの?」
「戻っても、二分の一程にしか戻らないでしょうね。それでも、幻想郷を維持するためには元の五分の三程度の力は必要。だから」
「だから?」
「冬は冬眠するわ」
「は?」
「高燃費高出力型に切り替える」
「……そか」
そっかそっか、ふーん、と、なんだか寂しそうに俯き、足をぱたぱたと動かす幽々子。
「冬には、会えないんだ」
「寂しい」
「うん……」
「以外ね、あなたがそんなことを言うなんて」
「…………」
しゅんと、俯く幽々子。
紫は、苦笑して、しかしまんざらでもなさそうにそんな幽々子を見つめていた。
「……塩辛」
「おい今なんか聞こえたぞ」
「え?いや塩辛って」
「……お前にとって私は美味しいものを持ってきてくれる人かそうかそうか」
「いや私には妖夢がいるし」
「……最高よあなたは」
言って、残りの塩辛をまとめて口に放り込む紫。
「ああ」
「ああ、じゃないわ……辛っ!」
「もうお茶無いわよ」
「……ったく」
「それで、その後は?」
「……あとは死体の片付け、月の民と天人の記憶改変」
「あー、そこなんだけどさ」
手を小さく上げて話を遮る幽々子。
「なに?」
「天人ってさ、輪廻から外れ俗世に別れを告げて欲を捨てた不老不死を獲得した清浄の存在じゃなかったっけ?」
「……あなた冥界の管理人よね」
呆れ顔の紫。幽々子は恥じらう様子も無く、両手を広げる。
「いや、そういう諸々には疎くて」
「まったく……。……まあ、そういう勘違いも仕方ないかもね。特にあなたは」
「む、失礼な」
「天人が冥界の端の上に勝手に巣を造って住んでるのは知ってる?」
「無視しないでよ。まあ、それは知ってるわ」
「それからまず間違いなのよ」
「え?そうなの?」
「そんなことして許されるわけないでしょ。まああれらがやったのも許されることじゃないんだけど。天人はね、上空の冥界の領域を、少しだけ引き延ばしたのよ」
「ご法度じゃないそれ」
「しばらくそれに気付かなかった管理側は今更だしべつに誰にも迷惑かけてないし追い出すの面倒くさいしってことで黙認したのよ」
「適当ねぇ。…………あ、ああ!もしかして、だから私に冥界の管理人なんていう役を与えたの?」
「そういうこと」
「はあん」
「だから、天界というのは曖昧な位置にあるのよ。そこらより清浄だけれど、冥界ほどには清浄ではない。冥界ほどに結界が明快でもない」
「あ、今のちょっと面白かった」
「だから」
「無視しないでって」
「だから天界というのは厳密には冥界ではないけれど、それでもその地の穢れの度合いは地上と比べれば歴然と低い。さてここで問題」
「じゃじゃん♪」
「天人と仙人の違いはどのような点でしょう」
「……んー、仙人が天人になることもあるのよね」
「その通り」
「………………………………んー」
「時間切れー」
「早いよ」
「正解は、その身に溜めこんだ穢れを払い滅しているか溜めこみ続けるかという点でした」
「ん?どういうこと?」
「仙人っていうのは、一日の大半をその身に溜めこんだ穢れを払い滅す儀を行って過ごしているの」
「退屈そうな毎日ねー」
「老衰とはすなわちその身に溜めこんだ穢れが許容量を超えたために起こる現象」
「へー」
「へー、じゃないわよ。それくらい知っときなさいよ管理人」
「今覚えた」
「……だから、仙人は毎日欠かさず身の穢れを払い滅し生き永らえているわけ。それに穢れを払い滅すという高等な術を使うため修業を怠らないし、修行でその身に力を取り込んだ仙人の肉は食うだけでその者の格を上げるため色々な者に狙われるし、死神の相手もしなくちゃいけない」
「大変なことだらけじゃない」
「そう。だから仙人になるような人間は、変わったやつが多いわね。そして、それに比べて天人は――」
「……ああ、なるほど。清浄な地に在るから穢れを払う必要が無いし、修行も必要無いから肉が美味くもないしむしろ過ぎた穢れで不味いし、それに、ああそうか、集団だから死神の恐怖も軽減するのか」
「そういうこと。だから天人は不老不死じゃない。穢れが過ぎれば死ぬし、首を跳ねられれば死ぬ。仙人が天人になるというのは、何らかの方法で天界へ移住するだけ。でも仙人は集団に属すことを嫌う変わったやつばかりだから、それは滅多に無いけどね。ちなみに死者が天人になるというのはただの風説」
「ふうん。でも、欲を断ち切ったっていうのは?」
「欲には穢れが付き纏うからよ。食らえばそれの穢れを取り込むし、子を作れば誕生という穢れが生まれる。常に最高級の食事を取る事ができるなんて言われてるけど、あそこ不味い桃ばっかよ」
「私天界には絶対に住まないと今誓った」
「誰に」
「妖夢に」
「あ、そう。まあ、天国を連想させる場所だから、そういう俗世的な尾ひれが沢山付いたんでしょうね。で、まあ集団とはいえ対死神のために程々の修業は積んでるし、仙人の丹のようなものも食べてるから常人よりは穢れを溜めこめる絶対量が多い、だから天人は穢れだらけってわけ」
「なーるほど」
自分の管理地の問題の事情に納得顔で頷く幽々子。
「何か質問は?」
「特に無いわ。話の続きをどうぞ」
「次に、月の都の土地整理」
「土地整理?」
「穢れを浄化するっていっても、浄化できる量には限りがあるからね。そのために真・月の都以外は完全に潰しちゃって、土地を詰めたのよ。そのほうが私も管理しやすいし」
「はあん」
「それで月の都を中心として徐々に浄化効果が弱まっていくようにして。どれだけの範囲を浄化できるかは、月の神次第ね」
「見たところ、どれくらいの範囲を浄化できそうなの?」
「多分、月の裏全体、くらいかしらねぇ」
「……それって、ものすごく広いんじゃないの?」
「ほんと、戦わずに済んでよかったわぁ。まあだから、管理っていう面のほうが理由としては強いかしらね」
「はあん」
「それから月を幻想郷に有利に働くようにするための下準備をしてから、月の神のために術式を組んでそれを月の神が発動したのを見取って、それで無事帰ってきてお終い」
「はあ。それだけのこと、よく一晩でこなせたわね」
「もう力を削ぎ取られちゃってたからね、満月の夜にしか地上と月を渡せないから必死だったわ」
「へえ。……あれ、ていうかもし昨日が満月じゃなかったらどうするつもりだったの?タイミングが合ってたからよかったものの」
「次の満月まで、月でじっとしてるしかないわね」
「し、締まらない……」
「まあ然るべきタイミングってやつよ」
「悪は倒されて然るべき、ねえ」
「そういうこと」
紫は頷き、幽々子は肩を竦めた。
ちょうどそこに妖夢が買い物から帰ってきて、こちらに駆けてきた。
「夕飯食べてく?」
「やめとく」
即答だった。
それきり会話は途切れ、妖夢が淹れたお茶を啜りながら、また気紛れのように花を咲かせた寒桜を二人眺めながら時は過ぎていった。
「……私じゃなかった」
日が暮れ始め、空が鮮やかな紅に染まり始めた頃、ぽつりと、独り言のように紫は呟いた。
「ん?」
「私じゃなかったのよ」
「……なにが?」
「月の神のための術式を組んだのは、私じゃなかった」
「…………?」
首を傾げる幽々子。紫を見やると、幽々子はさらに首を傾げた。俯き、想い耽るように目を細めたその横顔は、まるで何かに恐怖しているように思えたからだ。その表情を照らす夕日がそう見せたのだろうか?
「……私じゃなかったって、じゃあ誰がやったのよ」
「おそらく、古くからの月の都の結界を張った者よ」
「者よ、って、誰だかは分からないの?」
「分からない」
ふっ、と、まるで自分を落ち着かせるように紫は息を吐いた。
「ただ」
「ただ?」
「……あの術式は完璧だった。少なくとも私から見れば、完成していた。その術式自体が永久機関のように力を持っている。月の神の負担を最小限に抑える。そして、彼女が取り込んだ穢れは、そのまま彼女の力となる」
「力となる?」
「あの術式は彼女を守る。どうしようもなく。彼女は力を失ったのではなく、無敵となった」
「無敵、って。それ、不味いんじゃないの?」
「ただし月の神の部屋限定で、ね。彼女はもうあそこから出ることはできないし、あの部屋の外に影響を及ぼすこともできない」
「なら安心」
「そして、なによりあの術式には無駄が無い。圧倒的なまでに、絶対的なまでに無駄が無いのよ。完全っていうのは、一切の無駄が無いという意味。……私には、あの術式は完全であるように思えた」
「…………。……なぜ、その人は戦争に参加しなかったのかしら」
「分からない。だけれど――」
湯呑みを持つ手に、力が込められる。
そのためか、その手は少し震えていた。
「だけれど、もしそれが今回の物語に関わっていたなら、……私達は終わっていた」
「…………」
ああ、そうか。と幽々子は理解する。
恐怖ではなく。
異怖か。
終焉と呼ばれた存在に、畏怖の念を抱かせた存在。
想像したくもなかった。
「まあ、結局参加しなかったんだからいいじゃない。結果良ければ全てオーライよ」
「……そうね」
紫は頷き、お茶を啜った。
「でも、その術式を使ったの?なんか仕掛けられてるかもしれないのに」
「いいのよ。それは私なりの敬意の表れだから」
「敬意、ねえ」
苦笑いしながら、金鍔焼きを頬張る幽々子。
「幽々子様、紫様」
と、ぱたぱたと妖夢がなんだか上機嫌に微笑んで駆けてきた。
「どうしたの?」
「ちょっと早いですけど、お夕飯にしませんか?今日の料理は上手くできたと思います!」
「ああごめんなさい私――」
去ろうとする紫の背をがしっと掴み引き止める幽々子。
「妖夢の自信作よ。味わっていきなさい」
「いや今日はちょっと」
「味わえ」
「……締まらない」
「幻想郷の締め方なんて、こんなもんでしょう」
「…………確かに、ね」
紫は苦笑し、藍色に染まり始めた空に浮かぶ月を仰ぎ、ため息を吐いた。
「ここは幻想郷。今日も美しく残酷で、幻想のように空想のようにゆるりゆるりと穏やかに和やかに冷たく廻る最果ての世界――」
「そんな世界の物語の締めはお酒でも楽しんでればいいのよ」
「違いない」
紫はくつくつと笑い、次第に明瞭になってゆく月をじっと見つめた。
淡くしかし霊妙に輝き浮かぶ月は、今日も変わらず美しい。
お終い。
その後の小話
一
今回の物語を逸話にしたい。
そんないつもの気紛れで、阿礼の者に“架空”の逸話として後世に残すように“頼みこんだ”。
しかしそれには当然問題が。架空の逸話など書き綴るものかと騒ぐ阿礼の者はさておき、物語をそのまま残せば不都合な点が多すぎる。うーむと刹那頭を悩ませた紫は、そうだどうせならこの物語も幻想郷に有利に働くようにしようといつものろくでもない閃きを閃いた。
こうしてできたのが後世に伝えられる、幻想郷が月に惨敗したという物語だった。その”噂“はなぜか瞬く間に人間の間で広がった。そしてその噂が風に乗り水と流れ大地に染み込み、妖怪の間でも広がったのだった。
それ以来、妖怪たちは自分のテリトリーを越えて攻め入ることは少なくなった。
ここは幻想郷。あらゆる意味で平和な世界。
逸話の題名は、『幻想月面戦争』とした。
まさに幻想の戦争。言うまでも無く、悪質で性悪な皮肉だ。
二
紫は高らかに、捩れるように、腹の底から心の底から涙を流しながら笑いに笑いに笑いそして笑った。
高慢に得意げにただの扇子を自分に突き付ける、人形のように人間な彼女を。
三
「…………………………………………あかん」
いつかどこかの時間軸。
「これは、あかん」
彼女は頭を掻きながら、空前絶後の失敗を犯したような表情で、そこに立ち尽くしていた。
「月夜ちゃん、どっかに落としてもた」
なんかカッチョイイノ出来ちゃいましたよという、そんな印象
全編を通して楽しめたか、カッチョヨサを味わえたかと言えば、必ずしもそうじゃないんだけど
原作のある種の支離滅裂さ(褒め言葉)を味わい尽くした昨今では、これは新鮮
読み終われば、読んで良かったなと素直に思えた長編でした
突拍子もないようでありながら、意外なほど原作の設定と整合するところがある…そんな感じが好きです
おかげで今日は睡眠不足になりそうです、なんとかしてください
自業自得ですね、ごめんなさいw
ゆゆ様と紫様の会話が面白すぎるwww
ゆゆ様可愛いよゆゆ様
ゆゆ様の過去話…だと?読むしかないじゃないかw
月影様の関西弁に若干違和感を感じるところがありますね
…というか、落としたってあんたなにやってんのおぉぉぉ!?w
さすがにそれはちょっと、と思わせるようなこともこの紫ならやってのけそうだ
物語があっちこっちいくから少々まとまってない部分とかも目立ってたけど、それを補って余りあるキャラ作りだったと思う
一番気にいってんのは紫と幽々子の会話だなやっぱり
次作も楽しみにしています。
オリキャラが登場し幻想郷らしくない深刻な事件を描いた作品であるはずなのに、なぜか東方らしさを感じる不思議な作品でした。自作も楽しみにしています。
能力も同系等だし、それよりなにがなんでも最愛の世界を
守るっていう思考がそっくり。
月読は最愛の我が子にそれと知らず会えていたんだな。
結局、月影は妹の世界も姪の世界も等しく護ったってことか。
なんか語られてない部分のが興味深いな。
でも語らないのがいいんだろうなぁ。
あと儚月抄は矛盾点多すぎてそれこそ因果律や時間ループ、
もしくは全部嘘でしたってくらいしなけりゃ辻褄合わないw
ただそのお陰で妄想楽しいのも事実ですよね。
しかし時間軸をガン無視してるのとキャラ達のその後が語られていないのが不十分。
特に月の民達。
依姫と豊姫がその後(戦争直後、または最中で記憶改竄されていない時)、そしてオリキャラの姉妹。
特に月影はどうしているのかがまったく語られていないのはおかしいと思います。
事後はしっかりと固めておくこと。
それが出来てれば満点でした。
しかし壮大な作品であることは変わり無い。