月面戦争。
幻想の郷と、月の都との、戦争。
お伽噺の世界の戦争、しかしその内実は、ただの血と肉に塗れた俗世的なものでしかなかった。
凄惨で、残虐ですらない、直視に堪えない、目も当てられないくらいに惨憺で、目を背けても脅迫的に崩壊感のような吐き気に襲われるような、その存在を知ってしまったことを呪ってしまうまでの惨劇。幻想などと口が裂けても言えないように忌まわしい、おぞましい、卑しい、下卑た、愚劣で卑劣に満ち満ちた、――戦争だ。
この物語にはハッピーエンドが存在する。
しかしこの物語には、この物語どころか一つの世界の終わりが存在する。
バッドエンドなんて、そんな言葉でその終わりを表現することに嫌悪を催すほどの終わりが存在する。
さあ、醜悪な劇は始まる。
月の民は劣等な愚者。
幻想郷の妖怪共は観客ですらない。
この劇の役者は一人だ。
この劇は、若き日の幻想郷の賢者の一人、八雲 紫の独り舞台だ。
――と、劇の開演、その前に。
まずは、序章から始めるとしよう。
八雲 紫の独り喜劇だけを語ったって、それはただ始まりとお終いがあるお話でしかないのだから。物語というのならば、まずは、劇が始まる原因、要因となった事の発端から語ることにしよう。
始まり。
――歌が聞こえる。
美しい歌声だ。
切なく、儚く、触れれば壊れてしまいそうなくらいに繊細な、しかし力強い、幻想のような歌声。
歌は辺りに静かに流れる。空を掬えばその手に取れそうなような、実体があるかのようなその音は、流暢に、絶え間なく流れ続ける。
やがて歌声は、最後に空間を震わせ、消えた。
万雷の拍手が沸き起こることが然るべきであろうその歌に、しかし拍手は皆無だった。
舞台には、歌姫だけが立っていたのだから。
「観客なら居るわよ」
ぱちぱちぱち、と。
一つの賞賛の音が鳴った。
「いたの?」
たった一人の観客へと振り向き、わざとらしく驚いたように手のひらを広げる歌い手。観客は、ため息を吐いて歌い手の隣へと腰を下ろした。
「誰の家だと思ってるのよ」
「私のじゃなかったっけ?」
「私の家よ」
「そうだったわね」
歌姫は笑い、目の前に咲き誇る、見事の一言に尽きる桜の木へと視線を移した。
「……歌の代金には、上等なお酒を貰いましょう」
「代金だなんて。風情の欠片も無いわね」
「風情はこの場所だけで十分よ」
「あ、そう。ああ、御摘みは団子でいいわね」
「……それ日本酒よね?」
「そうだけど」
「なんで団子なのよ」
「腹に溜まるし美味しいし」
「風情の欠片も無いわね」
「風情は私という存在だけで十分よ」
「あ、そう」
歌姫は仕方なさそうに首を振り、酒に手を伸ばした。
「……美味しい」
「お酒だからね」
「花見酒だしね」
静かに笑い合う。その様子は、二人の容姿も相まって、非常に風情に溢れていた。
金髪の歌姫に、あやふやな姫君。
二人は縁側に並んで座りながら、酒と団子を愉しんだ。
「紫」
「なに?幽々子」
「もう一曲、お願いするわ」
「代金は?」
「お饅頭」
「いいでしょう」
そして再び、歌は辺りに流れ始めた。
静かに。清らかに。
美しい歌声は、浄土の地では良く響く。
「限界です」
「……そうですか」
「前線が滅されました。ここまで突破されるのも時間の問題かと」
「…………」
「いかが、致しましょう」
「…………」
「ご指示を。月讀様」
「……仕方、ありません、ね」
「喰わなければ、喰われるだけです」
限界だ。
限界だった。
なんだこれは?
私は何をしている。
一体全体、これにどんな意味があるというのだ。
殺し、殺され。
狂い、狂わせ。
終りが見えない。
終りが見えても希望は見えない。
意味が分からない。
ああ、だめだ。私は狂ってしまう。
何故、私は戦うのか。
理由が無い。
なんにも無い。
空っぽだ。
生きている意味が分からない。ただ、血みどろ。
もう疲れた。
逃げよう。
……どこに?
どこに逃げればいい。
死のうか。
死んじゃおうか。
いいや、どうせなんにも無いし。
疲れたし。
自殺しよう。
と。
ふと、思い付いた。
単純で明快な答えに、辿り着いた。
「あ、あは、あはは、あはははははははははははは…………」
狂ったように、一人笑う。
そうだ。なんでこんな簡単な答えに気付かなかったのか。
地上だ。
地上に逃げよう。
彼らの地、彼の地、地上に逃げよう。
いま、すぐに。
「ばいばい皆。頑張って血塗れになっててください」
さようなら。
二度と戻ってきません。
さようなら。
さようなら。
「今日は満月が明るいわねぇ……」
誰かは呟いた。
世界のどこかの場所で。
隠された、密室で。
「しかも紅い満月、か。多くの狂気を感じるわ」
竹林。
天を突くような竹が、身を寄せ合って並んでいる。
誰かに凭れかかり、軋み、軋ませながら。
「良かった。無事薬の材料は取れたことだし、早く戻らなければ。姫様が退屈してしまう……」
一人呟きながら、竹林の隙間を急ぎ足で縫うように歩く。竹林には、呼吸をする者は彼女以外誰もいないようであった。
と。
「あら?」
密集した竹の群れを抜けたところで、
「…………」
開いた空き地に横たわる、一匹の兎が視界に入った。
いや、ただの兎ではない。人の形をしている。妖怪兎か。しかしただの妖怪兎が、この竹林のこの場所まで踏み込んでこれるはずがなかった。
「…………」
兎は、月兎だった。
背の高い雑草の中に紛れた月兎は、血塗れだった。
「……やれやれ。なぜこんなところに……」
彼女はため息を吐き、月兎に近寄った。
「もし。……もしもし」
呼びかけてみるが、返事は無かった。軽く揺すってみる。
「もしもし。聞こえますか?聞こえたら返事を……」
そこで、月兎は目を覚ました。
紅い瞳が、こちらを見つめる
紅い。
まるで、今晩の満月のように。
「……貴方はなぜ、ここにいるの?」
静かな声で、尋ねる。場合によっては始末しなければならない。
「…………」
「聞こえる?」
「……助けなくていいです」
「は?」
月兎は、うわ言のような口調で話し始めた。
「助けなくていいです。だから、私に何も見せないでください。お願いします。お願いします……」
「…………」
「殺されてもいいです。だけど殺すのはやめてください。私を見ないでください。私に構わないでください。私は逃げるんです。逃げるんです。逃げなきゃ。血塗れは嫌です。肉塗れは気持ち悪いです。殺しに意味なんてありませんよぅ。私は貴方を殺す。じゃないと私は逃げられないんです。逃げるために殺すんです。許してなんか言わないから、叫び声を上げるのをやめてくださいよぅ。耳触りなんです。耳触りだから貴方を殺すんです。許してください、許してください、なんでもしますから。お願いします。なんでもしますから……。だから私を見ないでください。聞かないで。感じないで。お願いだから……。なんでもするから……」
涙を流しながら懇願する月兎の独り事は、支離死滅だった。
支離死滅だった、が。
と、次の瞬間。
ふっと。
なんの前触れもなく、月兎は消えた。
「…………!?」
少し、動揺が走った。
が、次の数瞬には落ち着きを取り戻した。
あの怪我で、動くことができるはずもない。彼女は月兎がいた場所に近づき、手を差しだした。
案の定、柔らかい感触があった。視覚的に消えただけだ。
「…………」
彼女は一刹那だけ考え、
「やれやれ」
見えない月兎を、傷口が広がらぬよう慎重に抱き上げ、背負った。
「……やめてください。やめてください。なんでもしますから。なんでも言う事を聞きますから……」
ぶつぶつと呟き続ける月兎に、彼女は優しい声で、言った。
「安心しなさい。私達も逃げ続ける者だから」
しかし月兎には、彼女の言葉は届かなかったようだ。
館に戻るまで、ずっと彼女は懇願し続けていた。
「咎重き 桜の花の 黄泉の国 生きては見えず 死しても見れず」
歌い上げた短歌の余韻を味わうように、八雲 紫は目を閉じ、風の音を聞いた。
「なにそれ?」
そんな雰囲気をぶち壊すように、西行寺 幽々子はバリバリと音を立てながら煎餅に齧りつきながら、どうでもよさそうに聞いた。
「……存在がなんだって?」
「風流でしょう?亡霊よ、亡霊」
「風流っていうのは、涼しいって意味じゃないのよ」
「涼やかって意味でしょう?」
「涼しいと涼やかの違いが分からないようだから、あなたは風流というものに無縁なのよ」
「へっくしょいっ!」
「うぜえ……」
紫は顔を顰め、幽々子から煎餅を引っ手繰った。
「あ、なにすんのよ」
「煎餅も私に食べられたほうが幸せでしょう」
「意味が分からん」
「分からないままでいなさい」
ぽりぽりと煎餅を齧る紫の耳を、幽々子は齧った。思い切り。
「いっだーーーっ!!な、なにすんのよ!?」
「食われたら喰うわ」
「どんだけ食い意地張ってんのよ!あなた幽霊でしょう!どこまで風情が無いのよ!」
「紫おいしい。食べちゃいたい」
「そ、その言葉に性的な意味を全く感じないとは……」
恐ろしい子……。
そう呟いて、紫は幽々子の目に煎餅を突っ込んだ。
「だあああぁああぁあーーーーー!!!!」
「耳を噛まれたら目を潰すわ」
「どんなよそれ!?自業自得因果応報なんて言ったらぶっ飛ばすわよ!!」
「いや幽々子なら目からでも飲食できるかと思って」
「そんなわけないでしょ!あ、染みる!醤油が染みて痛い!」
「ざまあみろ」
「あ、でもなぜかお煎餅の味を感じる……」
「あんた目に味覚があるの!?」
驚愕の紫。
幽々子は涙を流しながら井戸へと向かって走っていった。
「ほんと、あの子は計り知れないわ……。死んでから特に」
一人ごちる紫。幽々子は丁寧に目を拭っているのか、なかなか帰ってこなかった。
結局、幽々子が帰ってくるまで、紫は煙管を取り出し、一服する間があった。
てくてくと歩いてくる幽々子に、紫は呼びかける。
「どうしたの?目の裏にカスでも入った?」
「紫」
「なに?」
「目で水を飲むことはできるのね」
「あんたもう化け物よ!!」
紫の良く通る声が、柔らかく日の差す冷たい冬の陽気に響き渡った。
「寒桜、寒桜、なにを思うて咲き乱れるのか。貴方の舞は悲痛で蠱惑で私を酔わす。貴方の乱れは私の色欲」
「寒桜、寒桜、もう少しだけ咲いておくれ。悲痛に踊る、貴方が愛しい」
そんな歌を詠み上げながら、今日も二人は冥界の縁側で酒を楽しむ。寒桜は散る気配さえ見せず、咲き乱れている。
「寒桜、寒桜、泣いておくれ。咽び泣く貴方も美しいから」
「寒桜、寒桜、死んでおくれ。血を流さぬ貴方は醜いから」
「お休みなさい」
「お休みなさい」
二人揃ってそう言うと、突然一陣の風が舞い踊り、寒桜の花弁を凄惨に撒き散らした。
その様子は、とても美しかった。
「……自然が空気読んだ」
「きっと傍から見れば私達が風を起こしたと思われるでしょうね」
「今のちょっとしたミラクルでしょ」
「やっぱり桜は風情の塊ね」
「塊って……。また風情の無い」
言って、酒を煽る紫。その様子には、風情を感じた。
幽々子も酒を仰ぎ、息を吐く。と、先ほど舞い上がった花弁の一枚が御猪口に舞い降りてきて、酒の上に漂った。ぼやけた彼女に淡い赤はとてもよく似合っていた。
「私ね、風情って、昔は風邪を引いたときに欲情することだと思ってたの」
「……あ、そう」
いきなり何を言い出すんだこいつは、という顔で紫は幽々子を見やったが、彼女は神妙な顔つきで酒に浮かぶ花弁を眺めていた。
「そのことを妖忌に言ったら引かれた」
「ふうん……。ていうかそんなこといつ言う機会があったのよ」
「妖忌が風邪を引いたことがあってね、そのときに『どうしても我慢できなくなったら仕方ありませんが、我慢できなくなったときはせめてそのことを言ってください』って言ったら」
「…………」
「それから一ヶ月無視され続けた」
「妥当な罰だわ」
「あと、私が風邪を引いたときはいつも付きっきりで看病してくれたのに、それも無くなった」
「…………」
「私は風邪を引いたときに欲情なんて、少ししかしないのに」
「少しはするのかよ」
「男の人は女の人に比べて性欲が強いって聞いてたから、気を使っただけなのに……」
「無知は悲劇ね」
「ねえ紫」
幽々子は真剣な表情のまま、紫を見やった。紫は表情を変えず、ただ黙っている。
「妖忌がどこに行ったか、知らない?」
「知らないわ」
「本当に?」
「本当に」
「そう」
幽々子は残念そうにそう言って、酒に浮かぶ花弁に視線を戻した。
幾度目かの質問かも分からないのに、それでも落ち込んでいる。
それを切っ掛けにしばらく会話が途絶えたが、
「幽々子様」
という声で、二人ははっと我に返った。
振り返ると、半人半霊の少女、白玉楼の使用人、魂魄 妖夢がそこに立っていた。
「追加の茶菓子です」
そう言って、幽々子に何かが乗った盆を差し出した。幽々子はそれを受け取り、珍しそうに妖夢を見上げた。
「珍しいわね。あなたがこの時間に起きてるなんて」
「目が覚めちゃったんです」
「そう。茶菓子、ありがとう」
「いえ」
妖夢ははにかんで微笑み、一礼して早足に去っていった。
「……いい子ね」
「でしょ」
「でも」
茶菓子に目を落とす紫。
「まだ良くはならないのね」
「……うーん、まだもう少し掛かるようね」
妖夢が持ってきた盆に載せられていたのは、お茶っぱが入った袋だった。もちろんそれは茶菓子ではないし、そのままでは食べられない。
「大分良くはなったんだけど」
「まあね。前はあの子、茶菓子とか言って文鎮を山ほど載せてきたほどだったし」
「時間の問題よ」
「そうね」
紫は頷き、また酒を煽った。
しばらく何事か考えるように黙っていたが、やがて、
「ねえ、幽々子」
と、特になんでもなさそうに隣に座る亡霊に声を掛けた。
「なに?」
「妖夢ちゃんって、今年で幾つだっけ?」
「え?うーん」
幽々子はちょっと考えてから、
「十六ね」
と答えた。
「じゃあ幽々子」
「ん?」
「その前の年は?」
「え?うーん」
ともすれば馬鹿にしているとも取れるようなそんな質問にも、幽々子は少し考える時間を必要とした。
そして、
「十六ね」
答えた。
「そう」
「それが?」
「いえ。べつになんでも」
「ふうん?」
不思議そうに首を傾げる幽々子だったが、それ以上は追及しなかった。
紫は俯き、絶対に聞き取れないような小声で、呟く。
「ごめんなさいね。私があげれるヒントはこれだけよ」
と。
もちろん幽々子には聞こえていなかったし、聞こえていたからといってどうなったわけでもないだろう。
それに、妖夢の秘密はこの物語には関係しない。それはまた、別のお話だ。
だからこれらは、ただの雑談。嵐の前の、穏やかな日和。
「……って、あんたなにしてんのよ」
「いや、折角妖夢が持って来てくれたお茶っ葉だし、お酒に混ぜてみようかなと」
「あーあー……。折角私が持ってきた上等なお酒が……」
「まあまあ。試した人がいないだけで実は美味しかったり不味いうぇえ」
「死ね」
…………。
…………。
………………………………。
……ここは?
どこ?
私は。
兎。
奴隷。
人形。
どうして?
倒れて。
それから……。
………………………………。
体を起こす。
鈍い痛みが体中に走ったが、どうでもよかった。
「あら、おはよう」
声をかけられる。
誰から?
視界がぼやけて、なにも見えない。目を擦る。
段々と、映像が感覚に飛び込んできた。目の前には、白髪の、長い髪を後ろで太い三つ編みにまとめた知的そうな女性が座っていた。
辺りを見渡す。
家。広い、屋敷のようだ。
「ぐっすり眠れたようね。疲れはとれた?」
「…………」
疲れ。
そういえば、痛みはあるがだるさは感じない。頭も正常に回転している。靄がかかったような感覚は、ない。
「どう、して……?」
どうして私はここにいるのですか?という意味で尋ねたつもりだったが、彼女は苦笑して、
「どうしてでしょうね」
と言った。
「ただ、私は一応医者だから。気紛れかもね」
医者。
ということは、この体の痛みからも分かるように、私は大怪我を負っていたところを、彼女に助けられたのか。
「ここは……?」
「ここは永遠亭。姫様の屋敷です」
「永遠亭……」
聞かない名前の屋敷だ。月にそんな屋敷があっただろうか?
と、そこで。
「ぐ、ぐぅ……っ」
錐で刺されるような鋭い痛みが、脳髄に走り抜けた。
「大丈夫?」
「ぐ、ううぅうぅぅううぅう……!」
痛い。
頭が壊れそうだ。
そして、思い出した。
月から逃げ出したこと。
戦争から逃げ出したこと。
沢山の仲間を見殺しにしたこと。
そして――。
頭痛は止まった。しかし、脳髄が脈打っているような感覚がある。熱い。
「これ、鎮静剤」
「……ありがとう」
差し出された小さな玉状の薬を受け取る。しかし、すぐには飲まない。助けてもらったことが分かっても、警戒心は解けなかった。
「あなたは?」
「私は八意 永琳。姫様の付き添い人よ」
「……ヤゴゴロ」
なんだか、どこかで聞いたことのある名だった。どこで、だっけ……。
そんな私を見て、彼女は微笑んだ。
「聞いたことあるかしら?随分昔、輝夜姫様と共に、月の護者数名を殺して地上に逃げた不死の犯罪者の名前を」
「…………!」
ああ、そうだ。
八意 永琳。そして蓬莱山 輝夜。
許されざる禁忌を犯した重罪人。
「貴方の名前は?」
彼女、永琳は、あくまで優しく聞いてきた。
あくまで、優しく。
…………。
いいか、殺されても。
どうせ救われた命だ。
正直に、話そう。
「私の名前は、レイセン。月の兎です。月からは、逃げ出してきました」
「逃げ出して?月での生活が嫌になったの?」
「はい。もう、戦争の日々は、嫌なんです」
「戦争?」
彼女は、訝しげな表情になった。そう、昔なら考えられないことだっただろう。
「地上の人間が攻めてきました」
「…………」
彼女は、押し黙った。
「月の地に旗を立て、この地を占領すると言いだし、そして月の都に戦争を仕掛けてきました」
「…………」
「地上の最新兵器の脅威は想像を絶していました。月の都では戦争が起こっているのです」
「……信じがたいわね。いつから戦争が?」
「一年と半月前から」
「一年と半月……」
「私は逃げ出しました。羽衣を奪い、地上へと。噂程度に聞いていた地上の御伽草子の世界へと、ふらふらと」
「……なるほど。貴方は有能なのね」
「はい、私は有能です。だから、いつも戦争では最前線でした」
「…………」
「有能なことは無能なことよりも悲惨かもしれません。しかし今回はそれが役に立った。無意識の内に波長を捉え掴み、そしてここにやって来れたのでしょう。限界の状態だからこそ、できた芸当ですが」
「……そう」
「月の裏一面に広がる月の都。その都の一割が落とされました。決着は時間の問題でしょう。しかし私は決着なんて付けたくなかった」
「…………」
「だから、逃げてきました」
話し終えて、彼女の眼をじっと見据えた。
「私を殺しますか?」
「……まさか」
彼女は薄く、微笑んだ。
「本当は事情次第で始末しようと思っていたけれど、その必要は無いようね。それに私は、医者だしね」
とん、と額を小突かれ、私は布団に倒れ込んだ。
「今は休みなさい。貴方に必要なのは、休息よ」
「……ありがとう」
今は、か。
私に必要なのは休息、か。
では、この後私がすべきことはなんだろう?この語私に必要なものはなんだろう?
……今は、休息が必要。
彼女に渡された薬を、飲み込む。途端に、嘘のように全身の痛みが引いた。その代わり、抗い難い睡眠欲が襲ってきた。
眠い。
「お休みなさい」
お休みなさい。
次に起きた場所が、戦場ではありませんように。
「月讀様、準備が整いました」
「そう。戦状は?」
「変わらず。都の二割を落とされるのも時間の問題です」
「そう。……では、始めなさい」
「はい」
深々と一礼して、彼女の『信望者』は音もなく去っていった。
「…………」
一人静かな部屋に残された彼女は、それから、なにをするでもなく目を瞑り、まるで祈るようにそこに佇んでいた。
少し時間は遡り。
紅い満月が宙に浮かぶ夜。紅い満月は妙な立体感を持ってしてそこに存在していた。宙の一点、ただそこに存在するだけで、世界の色さえも豹変させていた。
そんな奇異の夜空を背景に、紫は宙に裂けたスキマに腰掛け、紅い光に照らされ異色を放つ幻想郷の夜を見下ろしていた。
なんだか上機嫌そうに。
切なく、儚く、触れれば壊れてしまいそうなくらいに繊細な、しかし力強い、幻想のような歌声で高らかに歌いながら。
本当に上機嫌そうに。
――彼女は、この広く狭い、幻想のように美しく儚く優雅で優美な、幻想のように残酷で冷酷で無情な無慈悲の原想の郷を見渡せば、それだけでいつだって上機嫌なのだ。
彼女はこの郷を愛している。
愛しく、愛しみ、純愛している。
最愛と言ってもいいくらいに。
深く、愛している。
『紫は、幻想郷をまるで恋人のように語るわよね』
と、これは彼女の親友、幽々子がいつだか少し呆れたように、とても愉快そうに口にした言葉。まったく、その通りだ。
まるで恋人に歌い聞かせるように、嬉しそうに、幸せそうに、無邪気に微笑みながら、彼女は旋律を口ずさみ続けた。
目覚める。
しばらく倒れたまま、薄く目を開きながら、なにも考えずぼーっとしていた。次第に、意識が覚醒してくる。これだけ深く眠っていたということは、どこかの民家に潜り込み休んでいたのか。薄らぼんやりと今の状況を思い浮かべ、目を開く。
視界に飛び込んできたのは、高い、半壊も崩壊もしていないきちんとした小奇麗な屋敷の天井だった。
視覚を得るのと同時に、感覚も覚醒した。
温かい。
清潔な、温かく柔らかな布団に包まれ、私は眠っていた。
「…………?」
体を起こす。
辺りを見回す。誰もいない広い部屋。静かな部屋。爆音も、悲鳴も聞こえない。
ああ、そうか。と、やっと、思いだした。私は逃げ出してきたんだ。そして、かつて『月の頭脳』と呼ばれた逃亡者に助けられた。ふっと、一息吐く。
嫌な夢を見た気がする。
目覚めた瞬間その幻想は霧散し消えてしまったけれど、脳の奥底で何かが渦巻くような不快な感覚があった。
しかし、意識は乱れていたが、まるで纏わり付くような倦怠感は綺麗に消えていた。体のあちこちを確認してみると、傷も綺麗に消えていた。
「おお、お目覚めか」
血の気が一気に引いた。
唐突に掛けられた声、しかもその声は襖の向こうから掛けられたのではなく、背後から、しかも比喩で無く、私の耳元で発せられた音だった。
布団を跳ねのけ、三メートルほど前に飛び退き、反転する。指を人間が使う拳銃のような形にして、声の主に突き付けた。
「うおう、機敏」
しかし声の主は慌てる様子もなく両手を広げ、茶化すようにそう言っただけだった。
いつの間にか私の背後にいたのは、少女だった。
あちこちにぴょんぴょん跳ねた黒髪、華奢な体躯、飾り気の無い、しかし上品な布を素材にした服、人参のネックレス、――そして。
頭上でぴょこぴょこと踊る、兎耳。
「お前――」
「おう?」
「お前も、……逃げてきたのか?」
「うん?」
彼女ははてと首を傾げたが、「あ、あーあー」と呟き、人差し指を立て、如何にも閃いたというようなポーズをとった。一々動作が大袈裟な子だ。
「違うって。私は、地上の兎」
「……地上の?」
「そう。妖怪兎。兎は月だけにいるものだと思った?」
「…………」
正直、思っていた。
「地上の兎、か」
「そうそう。それで、この屋敷に仕える兎でもある」
「……なるほどな」
ペットか。
どこでも兎の待遇は同じだなと思い呟いた言葉だったが、そう呟いた瞬間、腹を思い切り蹴られた。
「ぐっ、ふっ……!」
「そういう言い方は良くない」
頬を膨らませる様子は可愛らしかったが、蹴りには遠慮も容赦もなかった。思わず前のめりに倒れ込む。
「私は好きでここに仕えてるんだよ。条件付きでもあるしね」
「……条、件?」
息をゆっくりと吸いながら、どうにか聞き返す。彼女は私の隣に座り、私の背を撫でながら話を続けた。そういう優しさは持っているらしい。
「そ、条件。私は地上の、この幻想郷の兎達のリーダーみたいなものをやっててね。最近、私についてくる妖怪兎の数が増えすぎちゃってねぇ。だから、私達の労力と引き換えに、ここを兎の宿にしてくれって頼んだわけ」
「……なるほど」
考えてみれば、これだけ広い屋敷を二人で成り立たせるというのは無理な話か。……いや、月の頭脳と呼ばれたあの人なら、どうとでもできたかもしれないな。
「所詮、兎だからねぇ。私達だけで一つの里を作ろうなんてのは、土台無理なお話だったのさ。そこに、偶然迷い込んだ竹林で偶然見つけた秘密の屋敷。これはもう運命だねぇ」
「……運命、か」
では、偶然迷い込んだ竹林で偶然出会った逃亡者に助けられたのも、運命だろうか?
「あ、そうそう。目が覚めたら永琳様の部屋に来るように言っといてって言われてたんだった。この部屋出て右出て角三つ曲がってそこから四番目の部屋」
この屋敷はどれだけ広いのだろう?空間を広げてあるのか?
「分かった」
「じゃ、私はこれで」
ぴょんと立ち上がり、背を向ける彼女。
「っとと。もう一つ」
しかし、まだなにか忘れていた言伝でもあったのか、一歩も歩かない内に軽快な動作でくるりと反転し、座っている私に手を差し伸べてきた。
「私はてゐ。因幡 てゐ。貴方の名前は?」
私はなんとなく、彼女の手を取った。
「私はレイセンだ」
「そう。よろしく、レイセン」
言って彼女は微笑み、私の手をぐいと引いた。意外に強いその力で私は立ち上がったが、彼女はまだ私の手を離さなかった。
「永琳様の部屋分かりにくいし、そこまで一緒に行ったげるよ。行こう」
そして私は彼女、因幡 てゐに手を引かれながら、歩き出した。なるほど、リーダーと言うだけあって、不思議な、引く付けるような魅力を彼女は持っていた。
「……呼び名はてゐ、でいいのか?」
「うん、いいよ」
「てゐの力は、存在レベルを下げる能力なのか?」
「うん?」
私と並んで歩く彼女はその問いにきょとんとした表情になったが、すぐにケタケタと笑った。
「違うよ。あれは寝起きであなたが呆けてただけだよ」
「……そうか」
「ま、でも、幸せは傍に在っても気付かないって言うしねぇ」
「幸せ?」
「そう、私は他者に幸せを送る能力を持っているのよ。素敵でしょう?」
言って、彼女は妙に悪戯っぽい笑顔を浮かべた。
「それは、素敵な能力だな」
「でしょう?」
「てゐを見れば、良い事でも起こるのか?」
「そう、私を見つければ良い事が起こる。人間限定だけどね」
「人間限定か」
「そう。人間でないと、そんな能力本気で信じてくれないから」
「信じる?それが重要なことなのか?」
「重要よ。私を見れば幸せになるっていうのは、この幻想郷じゃ割かし有名なのよ。私を見た人間は、私という要因によって、たとえ意識していなくとも、心の底から幸せになれると想うことができる。心の底から幸せが訪れると想っている者には、幸せが訪れるものなのよ」
「……なるほど」
「そういう信仰じみた願掛けっていうのは、人間の本能の一つなのよ」
「ふうん。でも、想うだけで幸せが訪れるものなのか?」
「そんなものよ。心の底からそう想うことがどれだけ難しいか、想像してみるだけで分かるでしょう?」
「……確かに、そうだな」
私には、絶対に不可能だ。
「さて、ここで問題」
ちゃらん♪
そんな音を発して、彼女は人差し指を立てた。そんな彼女の表情は、やはり悪戯っぽい笑顔だ。
「誰が、私を見れば幸せになれる、なんていう噂を流したでしょうか?」
「…………」
なるほど、ね。
生き残るための工夫にも、色々な方策があるものだ。
触れれば壊れてしまいそうな蝋細工のような椅子に腰掛け、まるで蝋人形のような彼女は目を瞑り、そこに確かに存在していた。しかし、傍から見れば、その月であるにも関わらず何故か月の光が差し込んでいる不思議な薄暗い部屋に、彼女の存在を認めることはできないだろう。彼女は極端に存在という概念が希薄だった。
呼吸どころか、意思すら、生命の鼓動をも微塵も彼女から感じ取ることができない。
長い白髪。蝋のような肌。華奢というより、ただ単純に細いという印象を受ける体躯。覗き込めば、静かな暗い輝きを認められる瞳。細い眉に、薄い唇。その佇まい。
一目で、彼女が越した存在であることを思い知らされる。
畏怖を、畏敬を、そして戦慄を。
まるで、神のような。
「入りなさい」
突然、彼女は声を上げた。
と、彼女が声を掛けると、一見壁のようにしか見えない扉が、音もなく開いた。
入ってきたのは、白装束を纏った彼女の『信望者』だった。信望者は素早く床に両膝を落とし、顔を伏せ、信仰するように彼女と向かい合った。
「月讀様。地上、幻想郷へと使いの者が向かいました」
まるで抑揚を感じさせない声で、信望者は言った。
「結果は?」
「…………」
信望者は、まるでそれを口にするのは己の存在そのものが恥であるとでもいうような、自分を呪うような、償えない羞恥の罪に慄くような沈黙で、答えた。
「……不備、という状態ではないようですね」
「……はい。申し訳、ございません」
羞恥を絞り出したかのような声を出し、信望者は更に顔を深く伏せた。
「どのような状況なのですか?」
「使いの者が幻想郷の者に囚われ、恐らくこちらの情報を全て余すことなく暴露してしまいました」
「…………」
さすがに、沈黙する彼女。
「……なぜ、全てを暴露したと?」
「先程、使いの者が見つかりました。海辺で、百八つの欠片に分けられた死体として」
「…………」
彼女は、そこでやっと薄目を開け、次の策を思索するように、しばらく自分の蝋のような指先を眺めていた。
その間、信望者は身動き一つせず顔を伏せたままだった。
「……ふむ。そうですね。あちらには彼の地と此の地を繋ぐことができる者がいる、か。厄介なことになりました」
「…………」
「思ったより、時間が掛かるかもしれません。これ以上人員を割く余裕はないことですし、私が結界を張っておきましょう。幻想郷の者が攻め込んでくれば、すぐにそれと分かるように」
「申し訳ございません」
「いえ。これからは睨み合いになるでしょうね。新しい使いは送らなくて結構です」
「招致しました」
「ただ、今回の失態、随分と報告が遅れたのですね」
「…………」
信望者はやはり身動き一つしなかったが、羞恥による緊張が、更に増したかのようだった。
「見栄を張りたいというのは分かります。それだけ貴方は私に尽くしてくれているという証拠でもある。でも次からは起きた不備はすぐに報告するように」
「申し訳、ございません」
「行きなさい」
「はい」
そして、深々と一礼して、彼女の『信望者』は音もなく去っていった。
「…………」
彼女は再び目を瞑り、希薄に、しかし確かにそこに存在し続けた。
再び時間は遡る。
「ねえ幽々子」
「なに?」
「なに、それ」
心底不可解な表情で、紫は『それ』を指差した。
ゼラチン質の、赤と白と緑が混じった、気味の悪い物体。それを、幽々子は嬉しそうにもしゃもしゃと食べていた。
「ああ、これ?」
うふふ、と心底嬉しそうに微笑み、その物体をまるで敬うように持ち上げ、自慢げに自慢する。
「妖夢の手料理よ!素敵でしょう!」
「……ふう、ん」
反応に困る紫。
「なんて料理なの?それ」
「豆腐と紅生姜とヨモギの葉を塩で味を調えたゼラチンで固めた、妖夢特性羊羹よ」
「あの子は天才ね……」
壮絶なセンスを感じる作品だった。
「美味しいの?」
「食べてみる?」
「……一口」
「はい」
幽々子からナイフを受け取る。
「……ナイフ?」
「それじゃないと切れないから」
「…………」
一欠片だけ切り取り、口に放り込む。
「…………」
「どう?」
「宇宙を感じるわ」
「でしょう?」
「銀河系が見える……」
遠い目の紫。その金色の瞳に、天の川が映るようだった。
「あの子は才能があるわ。将来が楽しみでしょう?」
「そうね」
深く突っ込まず肯定する紫。実際、将来、今よりずっとまともになった彼女の料理が楽しみなのかもしれない。
「ふふ、剣の腕だって確かだし、あの子は素敵な子になるわ」
「まるで母親ね」
「みたいなものでしょう」
愛しげにそう言って、妖夢特性羊羹を頬張る幽々子。
「あんまり食べると成仏するわよ」
「確かに、溢れんばかりの愛情に昇天しちゃいそうだわ」
親馬鹿。
呟いて、煙管を取り出す紫。
「あれ、マッチがない。幽々子、マッチ貸して」
「持ってないわよ。妖夢は出払ってるから、どこにあるかも分からないわ」
「自分の家の物の場所くらい覚えてなさいよ」
「この前マッチを見かけたのは、確か漬物の中だったわね」
「…………」
妖夢特性羊羹を見やる紫。
「それは大丈夫よ。多分」
「多分、ねえ」
「最近はほんと、そういうことが少なくなってきたのよ」
「それは重畳」
言って、諦め煙管を仕舞おうとしたそのとき。
「幽々子様、只今戻りました」
笑顔満点の妖夢が、手を振りながらこちらに駆けてきた。胸になんとか収まるくらいの大きさの、麻の袋を大事そうに抱き締め抱えながら。
煙管を取り落とす紫。
刹那、硬直していたが、すぐに、あちゃあ。という表情になる幽々子。
「幽々子様、ただいまです」
二人の前に立ち止まり、幸せそうに微笑む妖夢。
「おかえり、妖夢」
あちゃあ、という表情のまま微笑む幽々子。
「…………」
額に手を当て、空を仰ぐ紫。
「……妖夢、それはなに?」
妖夢が大事に抱えている、どす黒い赤い液体が滴る、どす黒い赤に染まった、生臭い麻の袋を指差す幽々子。
妖夢は照れ臭そうに、しかし自慢げに、二人に明らかに肉の塊が入ってそうな袋を突きだした。赤い液体が二人の顔に跳ねた。
「兎です!兎を捕まえました!」
「あ」
「兎ね」
ほっと、気の抜けたような表情になる二人。
「今日は兎鍋ですよ!」
「そう、それは楽しみね」
安堵に胸を撫で下ろしながら、妖夢から袋を受け取る幽々子。
「でも、随分大量だったのねぇ――って、あう……」
袋を開けた瞬間、幽々子の表情は凍りついた。
紫も、袋を覗き込む。
「おもっくそ人肉じゃん……」
「うん……」
しかも。
その人肉は、百幾つの欠片に、バラバラに切り刻まれていた。常人の神経ならば、それは直視すれば発狂してしまうレベルだった。
「え、ええ?う、兎ですよう、その子は!」
しかし、妖夢は慌ててぶんぶんと手を振り、殺人を否定した。
「ちゃんと、兎の耳が生えてましたもん!!」
「……とすると、妖怪兎、かな?」
「んー、でも、最近、妖怪兎見ないのよねぇ。謎の大量失踪を遂げたとかなんとか?」
「ふむ……?」
首を傾げる二人。ほぼ液体になっている破片をよく見てみると、なるほど、兎耳だと思われる部品が確かにあった。
「ていうか妖夢、兎をこんなに切り刻んじゃったら、鍋にできないじゃない」
この場面で常識的な注意をする幽々子。
「え、あ、すみません……」
しゅんとうなだれる妖夢。そんな妖夢に幽々子は笑顔で、
「いいのよ、最終的にちゃんとできれば。今日はこれでスープでも作りましょうか」
「やめろ。甘すぎでしょう」
幽々子から袋をぶんどる紫。
「紫も食べる?」
「食べんわ。……ふむ、ふむ。言われてみれば、人間のものとはちょっと違う。が、妖怪のものってわけでもなさそうねぇ。うーん。…………うん?」
「どうしたの?」
「これ……」
袋に手を突っ込む紫。
「え、そのまま……?」
「お前と一緒にするな。――ほら、これ」
袋から手を引き上げ、どす黒い赤に染まった手を日の光にかざす。
なにかを摘まんでいるようだった。
「布……じゃないの?」
「妖夢、水を汲んで来て」
「は、はい!」
不安な表情をしていた妖夢はびくっと震え、まるでばね仕掛けの人形のように井戸へと走り出した。
「……あんまり怖がらせないでくれる?」
少しいらつき顔を見せ、紫を睨む幽々子。
「べつに怖がらせてなんていないでしょう。私ってそんな怖そうに見える?」
「物腰がいけないのよ。もっと私みたいにおおらかに構えればいいのに」
「あなたみたいには嫌」
そんな雑談をしている内に。
「お待たせしました」
ロープを切り取り、井戸の桶ごと水を持ってきた妖夢がこちらに駆けてきた。
至近距離で、石に躓き、転んだ。
桶一杯の水が、紫の全身を濡らした。
「…………」
「…………」
「…………」
「……布の血は取れたんだし、いいじゃない」
「ふざけろ」
水がかかった状態から微動だにしない紫。
その目の前で青ざめ、カタカタと震える妖夢。
「す、すみません……。あの……」
「いいのよ、妖夢。元はといえば自分で水を汲みに行かなかった紫が悪いんだから」
「甘すぎじゃない?」
「私は妖夢には、羊羹くらいには甘いのよ。あなたは塩辛だけど」
「ぶっ飛ばすぞ」
「妖夢、タオルを持ってきて」
「は、はい!」
全速力で、逃げるように駆けていき、妖夢はあっという間に見えなくなった。
「……まあいいわ。許してあげる」
髪から伝う水滴を跳ね退けながら、仕方なさそうに紫は言った。
「さすが紫。海のように心が広い」
「ありがと」
「あとあの塩辛、今度また持ってきてよ」
「はいはい。それより、今はこれよ」
滝のような水を被り、大体こべり付いた血が落ちたその布を、再び日にかざす。
どす黒い赤が落ちた部分が、微かに、しかし日の光が当たった状態でも分かるくらいに確かに、白銀に輝いていた。
「……なに、それ?」
首を傾げる幽々子。
紫はふふっと笑い、その不思議な布を握り潰した。
「あの子は、私に水をぶっかけたという罪が帳消しになるくらいの、重要で重大なモノを持ってきたのかもしれないわ」
「重要で……重大なこと?」
「ええ」
空を見上げ、不敵に笑いながら、睨む。
「夜が落ちてくるくらいに重大な、ね」
「おはよう。よく眠れた?」
「……ええ。体の調子も良くなった。ありがとう」
「いいのよ」
なんでもなさそうにそう言って、着物の手入れを続ける彼女。薄く静かに煌めく、流れるような布を使ったその着物は、きっと地上で最上級の一品だ。もしかしたら、布からなにから全て彼女が一から作り出したのかもしれない。
月の頭脳。絶無の薬師。理具現。白銀の弓。超越。現象否定。湾曲世界。そして、――蓬莱人形。
様々なあざなを持つ彼女。その超絶無比の頭脳もさることながら、戦闘能力という点でもずば抜けていた。彼女と双璧を成す者など、月の神以外に存在しないだろう。神と同列。それくらい、彼女は超越していた。
「私はただの薬師よ」
しかし、噂で聞いたところ、それが彼女の口癖だったらしい。神と同列の薬師が、ただの、だなんて失笑すらできない。
そんな彼女であるから、きっと彼女の部屋は薬やら実験器具やらでごった返していると思っていたのだが、しかし予想に反し、その部屋は普通の畳部屋だった。
「実験道具などは、無いんですね」
「実験なんて、する意味が分からないわ」
なるほど。彼女は神と同格だったな。
着物の繕いが終わり、丁寧にそれを折り畳み、脇に退け、「さて」と彼女は立ち上がった。
「折り目が付いてしまうんじゃないですか?」
「その布に折り目なんて付かないわ。はい、貴方はこれに座りなさい」
言って、金属製の、背もたれ無しの移動式の椅子をよこす彼女。彼女は背もたれのある、やはり金属製の椅子に腰掛けた。そして、金属製の机に肘を付き、こちらを見やった。
他人のセンスに口出しするつもりはないが、畳の部屋と、鋭い銀色に輝く机椅子、恐ろしいまでのミスマッチだった。どう考えても違和感があった。異物感と言ってもいい。どうやら彼女は、そういったことは気にしない人間らしい。
……人間、か。
「……よく見てみれば、この椅子の座の部分、金属では無いですね」
椅子の座面に触れて、気付く。硬質で、光沢が無く、鉄のように冷えてはいない。
「私のオリジナルの素材よ。気にしないで」
ふうん。
他の部分もただの鉄ではないのだろう。その椅子は異様に軽かった。
「さて、レイセン」
正面に座った私を、静かに見つめる彼女。威圧感は無いが、静かな、少しでも超越した者特有の、飲まれてしまうような雰囲気があった。べつに敵対しようというわけではなかったが、一応、彼女の存在感に飲まれないように気を付ける。
「はい、これ」
何かを手渡された。
「…………?」
受け取る。
白く細かい粒子みたいなものが漂う液体が入ったコップだった。
「これは?」
「独白剤。自白剤とも言う」
「…………」
まあ、これくらいは当然か。
自白は一時間に渡って続いた。らしい。その間の記憶は無かった。
「なるほどねぇ。ふむ……」
彼女は一瞬思案顔になったが、まあいいか、とどうでもよさそうに呟き、さっさと思考を切り替えた様子だ。今の月の事情など、どうでもいいのだろう。
「さてレイセン。貴方さえよければ、ここで住み込みで働かないかしら?私の助手として」
「……いいんですか?」
「まあ、貴方に害意が無いのは分かったしね。というより、ここの存在を知ってしまった以上、ただで帰すわけにはいかないのよ。ここは幻想郷――この地の名なんだけれど――でも秘境、幻想の幻影みたいな場所なのよ」
「……なるほど」
徹底した逃亡だ。
「どうする?」
もちろん、願ってもない申し出だ。答えはここに来たその時から決まっている。
「お願いします。私にできることであれば、なんでも申し付けてください」
「決まりね」
――これでは、月にいたときと同じではないのか?月の住人のペットから、彼女のペットに変わっただけじゃないか。
自分の中で、そんな声がした。
馬鹿馬鹿しい。ペットでも下僕でも構わない。私は戦争が嫌で嫌でたまらなかっただけだ。
「そうと決まれば、貴方に名前をあげなきゃね」
「名前?」
「地上での名。こういうことは、大切なのよ?」
そんなものだろうか。
まあ、どうでもいいか。
「その、地上での私の名というのは、もう決まっているのですか?」
「待って。今考えるから」
……適当だな。
彼女はしばらく腕組みをして黙り、そして。
「……そうねぇ。貴方の月での名前、レイセンっていうのは漢字でどう書くの?」
「カタカナです」
「それじゃ、それに漢字を当てはめて、鈴に、仙人の仙で、鈴仙ね」
「…………」
適当だなぁ。
そんなんでいいのだろうか。
「それから、愛称」
「愛称?」
「そう。うーん、そうね……。…………。優曇華院、なんてどうかしら」
「――うど、え、うどん、え、ん?え?」
なに?
なんか今聞こえた。
「優曇華院。三千年に一度花を開き,そのときに如来が現れるとされる優曇華の花に、病院の院で優曇華院。どうかしら」
「…………」
ギャグだろうか?
もしかしたら、彼女は気さくでユーモアのある人間なのかもしれない。
ここは肯定するのが正解だろうか。そうすれば、「冗談よ」と彼女は薄く笑って他の愛称を提案し直すかもしれない。どうだろう。
「……いいのでは?」
「じゃあ、それで決まりね」
頷く彼女。ギャグじゃなかったのか。軽く絶句する。
と、そこで思いなおす。ここは地上。もしかしたら地上では、そのような愛称が一般的なのかもしれない。そのための、地上での名。ああ、きっとそうだな。
「じゃあ、私は貴方のことは、うどんげ、と呼ぶことにするわ」
「…………」
愛称から愛称を作り出した……。
絶句。
絶倒。
信じられん。
私には地上人のことは理解できないかもしれない、と不安になる。早くも先は真っ暗闇に濃霧状態だった。
「貴方は私のことを、師匠、と呼びなさい」
「師匠、ですか」
なんのだろう。
ふう、と息を吐く。なんだか、ずっと夢見心地だった。
ここは、本当に存在しているのか?私は夢を見ているだけじゃないのか?本当は戦場で眠り呆けているだけじゃないのか?
幻想郷。
性質の悪い冗談ではないだろうか。
「とりあえずうどんげ、早速仕事よ」
「はい、なんなりと」
「最初の仕事は、出迎えよ」
「出迎え?」
「そう」
彼女、師匠も立ち上がり、微笑み、私の前を歩きだした。
「我らが姫様の、お帰りよ」
「月讀様、先程争いの最前線に何者かの式が」
「その式は?」
「式としての機能停止と共に滅しました」
「そう」
彼女は細いため息を吐き、天井を見上げた。
「やれやれ……」
「月の住人が攻めてくる?」
「まだ可能性の話だけどね」
散り果ててしまった桜の木を眺めながら、紫はのんびりと団子を食べながら、別段焦った様子も切迫している様子もなく、ゆったりとそう言った。
「なに、それ?」
「こないだの人型兎の中に入ってた布切れ、覚えてる?」
「ああ、あの綺麗な。それが?」
「あれは月の秘法、月明りの羽衣よ」
「月明りの羽衣」
「そう。ルーナの飛羽とも、月の法衣とも言う」
「飛羽……。月と地球を行き来できる道具、とか?」
「ご明察」
紫はぱちぱちと拍手し、最後の一つの団子を頬張ろうとしたところを幽々子にぶん盗られた。
「……正確には、月と地球を行き来できるだけの道具じゃないんだけどね。まあ使い方の一つが、位置情報の記憶媒体みたいなものと考えて頂戴」
「位置情報の記憶媒体?」
「そう。超正確な位置情報の記憶を引っ張り出すことができるの」
「記憶を引っ張り出す……ってどういうこと?」
「元々、地上人も月の民も、同じ地上人だったのよ」
「へええ。そうなんだ」
「そうなの」
「ていうか、私は月に人間がいるということ自体信じられないのだけれど」
「人間、ねえ。あれらを人間と呼んでいいんだか。まあとにかく、月明りの羽衣は月と地上とを橋渡しできる道具。それを持った人型兎」
「月には兎がいるというけれど、人型だとはねぇ」
「さて、これらから推測できることは?」
「うーん」
幽々子は顎に人差し指を当て、暫く考えながら煎餅をバリバリ頬張り続けた。
「あんたは常に何か食べてないと発狂する体質なの?」
「……偵察、かな」
紫の突っ込みは無視して、答える。紫はため息を吐き、ぬるくなったお茶を一口すすった。
「……ご明察。偵察は下っ端の仕事。いつの時代も、ね」
「でも何のための偵察だったのかしら?」
「それを調べるために、こっちもこないだ下っ端を送ったわ」
「大丈夫なの?そんな露骨な真似して。式でしょ?すぐ気付かれるわよ」
「そう。そこで、妖夢ちゃんのお手柄が効いてくる」
「どういうこと?」
「この前の月兎の残骸を、月に放り投げてやったわ」
「悪趣味ね」
「どう見たって拷問の跡。自分たちの情報が相手に全て漏れてしまったと考えるのも仕方が無い。で、膠着状態」
「なるほどねぇ。どうでもいい札はどんどん使える状況、ね」
「しかもこっちがほぼ一方的にね」
「は?なんで?」
「月では戦争が起こっていた」
「戦争?」
「そう。戦争」
お茶をすすりながら、のほほんと言う紫。
「しかもなんと驚き、地上と月の大戦争よ」
「はあ!?」
驚愕の声を上げる幽々子の反応に満足したのか、紫は薄く微笑んだ。
「地上の技術も馬鹿にできないわねえ」
「ちょ、ちょっとまって。そんなに、そんなに急速に技術が発達するものなの?こないだ紫が話してくれた話じゃ、全然全くそこまで、月に旅行がてら戦争に行けるどころか、地球上の近所にだって満足に移動できるレベルじゃ無かったじゃない」
「そうよ。私達から見た表の世界は、ね?」
「は?」
「月と地上では、時間どころか時空がズレているの。浦島ってお話、知ってる?」
「え、あー、浦島と神仙世界の美女がいちゃつくっていうあの?」
「そう。それに出てくる蓬莱山には、表の世界と時間のズレがあった。月と地上は、それと比較にならないレベルの時空のズレがあるのよ」
「あー、なる。……って、待ってよ。それだと可笑しいでしょ。それだと、なんでこの幻想郷と月とにはズレが無いの?というかそんなズレが生じてる場所と場所が繋がるわけないじゃない。現世と彼岸じゃあるまいし」
顔を顰める幽々子。紫は空になった茶器を幽々子のと交換しながら、頷く。
「確かに、普通ならそうね。でもここは普通じゃない。幻想の地。此の地の果て。それに……」
「それに?」
「ここはね、かつて月の民が月に旅立った場所でもあるの」
「ほお」
感嘆に近い声を上げる幽々子。
「それは、驚き」
「でしょう。元々幻想郷は、外との世界と隔絶するために作られたようなものなの。だから、そういう曰くのある地の方が、隔絶した世界を作るには好都合だった」
「なるほどねぇ」
「だから、この幻想郷と月には時間のズレが無い。滅茶苦茶なように思えるかもしれないけど、地上と月は理によって強く繋がっているのよ」
「はあん。じゃあ、月に攻め込んでる地上人は、私達から見れば未来人か」
「そうなるわね」
「ふうん。……ああ、そうか」
ぴんと人差し指を立てて、納得顔になる幽々子。
「もしかして、月の民って今劣勢?」
「ご明察」
「はあん。……ん?でも地上を内側から壊す作戦なら、月と地上の時間はズレてるから意味無いんじゃ。……あれ?でも今地上を壊しとけば、月に地上人が攻め込むという未来は無かったことに……。いやそんな馬鹿な」
「そこまで気付けば大したものよ。幽々子のわりには」
「ありがとう紫」
言って、紫の脇腹をど突く幽々子。
「いえいえ」
しかし紫は平気な顔で、しかし少しだけ深刻そうな表情で、今は太陽が支配している空を見上げた。
「――月の民はね、理を曲げようとしているのよ」
「理を、曲げる?」
「そう。幻想と幻想で繋がれた幻想の糸を使ってね」
深いため息を吐く紫。
「はっきり言って、破綻しているわ。意味が分からない。何がしたいのかは分かっても、その意味も意義も分かっても、それでも、思わず冷笑、失笑してしまうくらいに愚かしい。憐れみすら感じそうだわ。――狂ってる」
「……そんなに月の民は劣勢なの?」
「劣勢劣勢。もう事実上決着していると言ってもいいくらいに劣勢」
「それはそれは……」
ご愁傷さま。
呟く幽々子。
「それにこの幻想郷も巻き込まれちゃ敵わないわよ。早くご愁傷しろって感じね」
「でもあっちは必死でしょうね」
「まあね。情報が漏れたと思ってるあちらさんにできることは限られてるだろうけど、まあ、用心に越したことはない」
幽々子の分のお茶を飲み干し、ふう、と一息吐き、数時間後には丸い鏡が浮かんでいるであろう、まだ青い空から視線を外した。
「それにしても、ふふ」
なにやら嬉しそうに微笑む幽々子。
「どしたの?」
「妖夢のお手柄かぁ」
「ああ、そうね。今度あの子にお礼言わなくちゃね。私に水をぶっかける罪を犯したとしても、それでも感謝が有り余る」
「ふふ」
「あの子は今買い物?」
「ええ。今日は鍋よ」
「へえ。私も頂こうかしら」
「どうぞ。妖夢自慢の鍋をしっかりと味わなさい」
「……お暇するわ」
「味わえ」
丁度タイミングよく、妖夢があちらから手を振りながら元気よく駆けてきた。
その手には、大きく膨れた買い物袋。
中身はどう見ても練り菓子。
青ざめる紫だった。
幻想の郷と、月の都との、戦争。
お伽噺の世界の戦争、しかしその内実は、ただの血と肉に塗れた俗世的なものでしかなかった。
凄惨で、残虐ですらない、直視に堪えない、目も当てられないくらいに惨憺で、目を背けても脅迫的に崩壊感のような吐き気に襲われるような、その存在を知ってしまったことを呪ってしまうまでの惨劇。幻想などと口が裂けても言えないように忌まわしい、おぞましい、卑しい、下卑た、愚劣で卑劣に満ち満ちた、――戦争だ。
この物語にはハッピーエンドが存在する。
しかしこの物語には、この物語どころか一つの世界の終わりが存在する。
バッドエンドなんて、そんな言葉でその終わりを表現することに嫌悪を催すほどの終わりが存在する。
さあ、醜悪な劇は始まる。
月の民は劣等な愚者。
幻想郷の妖怪共は観客ですらない。
この劇の役者は一人だ。
この劇は、若き日の幻想郷の賢者の一人、八雲 紫の独り舞台だ。
――と、劇の開演、その前に。
まずは、序章から始めるとしよう。
八雲 紫の独り喜劇だけを語ったって、それはただ始まりとお終いがあるお話でしかないのだから。物語というのならば、まずは、劇が始まる原因、要因となった事の発端から語ることにしよう。
始まり。
――歌が聞こえる。
美しい歌声だ。
切なく、儚く、触れれば壊れてしまいそうなくらいに繊細な、しかし力強い、幻想のような歌声。
歌は辺りに静かに流れる。空を掬えばその手に取れそうなような、実体があるかのようなその音は、流暢に、絶え間なく流れ続ける。
やがて歌声は、最後に空間を震わせ、消えた。
万雷の拍手が沸き起こることが然るべきであろうその歌に、しかし拍手は皆無だった。
舞台には、歌姫だけが立っていたのだから。
「観客なら居るわよ」
ぱちぱちぱち、と。
一つの賞賛の音が鳴った。
「いたの?」
たった一人の観客へと振り向き、わざとらしく驚いたように手のひらを広げる歌い手。観客は、ため息を吐いて歌い手の隣へと腰を下ろした。
「誰の家だと思ってるのよ」
「私のじゃなかったっけ?」
「私の家よ」
「そうだったわね」
歌姫は笑い、目の前に咲き誇る、見事の一言に尽きる桜の木へと視線を移した。
「……歌の代金には、上等なお酒を貰いましょう」
「代金だなんて。風情の欠片も無いわね」
「風情はこの場所だけで十分よ」
「あ、そう。ああ、御摘みは団子でいいわね」
「……それ日本酒よね?」
「そうだけど」
「なんで団子なのよ」
「腹に溜まるし美味しいし」
「風情の欠片も無いわね」
「風情は私という存在だけで十分よ」
「あ、そう」
歌姫は仕方なさそうに首を振り、酒に手を伸ばした。
「……美味しい」
「お酒だからね」
「花見酒だしね」
静かに笑い合う。その様子は、二人の容姿も相まって、非常に風情に溢れていた。
金髪の歌姫に、あやふやな姫君。
二人は縁側に並んで座りながら、酒と団子を愉しんだ。
「紫」
「なに?幽々子」
「もう一曲、お願いするわ」
「代金は?」
「お饅頭」
「いいでしょう」
そして再び、歌は辺りに流れ始めた。
静かに。清らかに。
美しい歌声は、浄土の地では良く響く。
「限界です」
「……そうですか」
「前線が滅されました。ここまで突破されるのも時間の問題かと」
「…………」
「いかが、致しましょう」
「…………」
「ご指示を。月讀様」
「……仕方、ありません、ね」
「喰わなければ、喰われるだけです」
限界だ。
限界だった。
なんだこれは?
私は何をしている。
一体全体、これにどんな意味があるというのだ。
殺し、殺され。
狂い、狂わせ。
終りが見えない。
終りが見えても希望は見えない。
意味が分からない。
ああ、だめだ。私は狂ってしまう。
何故、私は戦うのか。
理由が無い。
なんにも無い。
空っぽだ。
生きている意味が分からない。ただ、血みどろ。
もう疲れた。
逃げよう。
……どこに?
どこに逃げればいい。
死のうか。
死んじゃおうか。
いいや、どうせなんにも無いし。
疲れたし。
自殺しよう。
と。
ふと、思い付いた。
単純で明快な答えに、辿り着いた。
「あ、あは、あはは、あはははははははははははは…………」
狂ったように、一人笑う。
そうだ。なんでこんな簡単な答えに気付かなかったのか。
地上だ。
地上に逃げよう。
彼らの地、彼の地、地上に逃げよう。
いま、すぐに。
「ばいばい皆。頑張って血塗れになっててください」
さようなら。
二度と戻ってきません。
さようなら。
さようなら。
「今日は満月が明るいわねぇ……」
誰かは呟いた。
世界のどこかの場所で。
隠された、密室で。
「しかも紅い満月、か。多くの狂気を感じるわ」
竹林。
天を突くような竹が、身を寄せ合って並んでいる。
誰かに凭れかかり、軋み、軋ませながら。
「良かった。無事薬の材料は取れたことだし、早く戻らなければ。姫様が退屈してしまう……」
一人呟きながら、竹林の隙間を急ぎ足で縫うように歩く。竹林には、呼吸をする者は彼女以外誰もいないようであった。
と。
「あら?」
密集した竹の群れを抜けたところで、
「…………」
開いた空き地に横たわる、一匹の兎が視界に入った。
いや、ただの兎ではない。人の形をしている。妖怪兎か。しかしただの妖怪兎が、この竹林のこの場所まで踏み込んでこれるはずがなかった。
「…………」
兎は、月兎だった。
背の高い雑草の中に紛れた月兎は、血塗れだった。
「……やれやれ。なぜこんなところに……」
彼女はため息を吐き、月兎に近寄った。
「もし。……もしもし」
呼びかけてみるが、返事は無かった。軽く揺すってみる。
「もしもし。聞こえますか?聞こえたら返事を……」
そこで、月兎は目を覚ました。
紅い瞳が、こちらを見つめる
紅い。
まるで、今晩の満月のように。
「……貴方はなぜ、ここにいるの?」
静かな声で、尋ねる。場合によっては始末しなければならない。
「…………」
「聞こえる?」
「……助けなくていいです」
「は?」
月兎は、うわ言のような口調で話し始めた。
「助けなくていいです。だから、私に何も見せないでください。お願いします。お願いします……」
「…………」
「殺されてもいいです。だけど殺すのはやめてください。私を見ないでください。私に構わないでください。私は逃げるんです。逃げるんです。逃げなきゃ。血塗れは嫌です。肉塗れは気持ち悪いです。殺しに意味なんてありませんよぅ。私は貴方を殺す。じゃないと私は逃げられないんです。逃げるために殺すんです。許してなんか言わないから、叫び声を上げるのをやめてくださいよぅ。耳触りなんです。耳触りだから貴方を殺すんです。許してください、許してください、なんでもしますから。お願いします。なんでもしますから……。だから私を見ないでください。聞かないで。感じないで。お願いだから……。なんでもするから……」
涙を流しながら懇願する月兎の独り事は、支離死滅だった。
支離死滅だった、が。
と、次の瞬間。
ふっと。
なんの前触れもなく、月兎は消えた。
「…………!?」
少し、動揺が走った。
が、次の数瞬には落ち着きを取り戻した。
あの怪我で、動くことができるはずもない。彼女は月兎がいた場所に近づき、手を差しだした。
案の定、柔らかい感触があった。視覚的に消えただけだ。
「…………」
彼女は一刹那だけ考え、
「やれやれ」
見えない月兎を、傷口が広がらぬよう慎重に抱き上げ、背負った。
「……やめてください。やめてください。なんでもしますから。なんでも言う事を聞きますから……」
ぶつぶつと呟き続ける月兎に、彼女は優しい声で、言った。
「安心しなさい。私達も逃げ続ける者だから」
しかし月兎には、彼女の言葉は届かなかったようだ。
館に戻るまで、ずっと彼女は懇願し続けていた。
「咎重き 桜の花の 黄泉の国 生きては見えず 死しても見れず」
歌い上げた短歌の余韻を味わうように、八雲 紫は目を閉じ、風の音を聞いた。
「なにそれ?」
そんな雰囲気をぶち壊すように、西行寺 幽々子はバリバリと音を立てながら煎餅に齧りつきながら、どうでもよさそうに聞いた。
「……存在がなんだって?」
「風流でしょう?亡霊よ、亡霊」
「風流っていうのは、涼しいって意味じゃないのよ」
「涼やかって意味でしょう?」
「涼しいと涼やかの違いが分からないようだから、あなたは風流というものに無縁なのよ」
「へっくしょいっ!」
「うぜえ……」
紫は顔を顰め、幽々子から煎餅を引っ手繰った。
「あ、なにすんのよ」
「煎餅も私に食べられたほうが幸せでしょう」
「意味が分からん」
「分からないままでいなさい」
ぽりぽりと煎餅を齧る紫の耳を、幽々子は齧った。思い切り。
「いっだーーーっ!!な、なにすんのよ!?」
「食われたら喰うわ」
「どんだけ食い意地張ってんのよ!あなた幽霊でしょう!どこまで風情が無いのよ!」
「紫おいしい。食べちゃいたい」
「そ、その言葉に性的な意味を全く感じないとは……」
恐ろしい子……。
そう呟いて、紫は幽々子の目に煎餅を突っ込んだ。
「だあああぁああぁあーーーーー!!!!」
「耳を噛まれたら目を潰すわ」
「どんなよそれ!?自業自得因果応報なんて言ったらぶっ飛ばすわよ!!」
「いや幽々子なら目からでも飲食できるかと思って」
「そんなわけないでしょ!あ、染みる!醤油が染みて痛い!」
「ざまあみろ」
「あ、でもなぜかお煎餅の味を感じる……」
「あんた目に味覚があるの!?」
驚愕の紫。
幽々子は涙を流しながら井戸へと向かって走っていった。
「ほんと、あの子は計り知れないわ……。死んでから特に」
一人ごちる紫。幽々子は丁寧に目を拭っているのか、なかなか帰ってこなかった。
結局、幽々子が帰ってくるまで、紫は煙管を取り出し、一服する間があった。
てくてくと歩いてくる幽々子に、紫は呼びかける。
「どうしたの?目の裏にカスでも入った?」
「紫」
「なに?」
「目で水を飲むことはできるのね」
「あんたもう化け物よ!!」
紫の良く通る声が、柔らかく日の差す冷たい冬の陽気に響き渡った。
「寒桜、寒桜、なにを思うて咲き乱れるのか。貴方の舞は悲痛で蠱惑で私を酔わす。貴方の乱れは私の色欲」
「寒桜、寒桜、もう少しだけ咲いておくれ。悲痛に踊る、貴方が愛しい」
そんな歌を詠み上げながら、今日も二人は冥界の縁側で酒を楽しむ。寒桜は散る気配さえ見せず、咲き乱れている。
「寒桜、寒桜、泣いておくれ。咽び泣く貴方も美しいから」
「寒桜、寒桜、死んでおくれ。血を流さぬ貴方は醜いから」
「お休みなさい」
「お休みなさい」
二人揃ってそう言うと、突然一陣の風が舞い踊り、寒桜の花弁を凄惨に撒き散らした。
その様子は、とても美しかった。
「……自然が空気読んだ」
「きっと傍から見れば私達が風を起こしたと思われるでしょうね」
「今のちょっとしたミラクルでしょ」
「やっぱり桜は風情の塊ね」
「塊って……。また風情の無い」
言って、酒を煽る紫。その様子には、風情を感じた。
幽々子も酒を仰ぎ、息を吐く。と、先ほど舞い上がった花弁の一枚が御猪口に舞い降りてきて、酒の上に漂った。ぼやけた彼女に淡い赤はとてもよく似合っていた。
「私ね、風情って、昔は風邪を引いたときに欲情することだと思ってたの」
「……あ、そう」
いきなり何を言い出すんだこいつは、という顔で紫は幽々子を見やったが、彼女は神妙な顔つきで酒に浮かぶ花弁を眺めていた。
「そのことを妖忌に言ったら引かれた」
「ふうん……。ていうかそんなこといつ言う機会があったのよ」
「妖忌が風邪を引いたことがあってね、そのときに『どうしても我慢できなくなったら仕方ありませんが、我慢できなくなったときはせめてそのことを言ってください』って言ったら」
「…………」
「それから一ヶ月無視され続けた」
「妥当な罰だわ」
「あと、私が風邪を引いたときはいつも付きっきりで看病してくれたのに、それも無くなった」
「…………」
「私は風邪を引いたときに欲情なんて、少ししかしないのに」
「少しはするのかよ」
「男の人は女の人に比べて性欲が強いって聞いてたから、気を使っただけなのに……」
「無知は悲劇ね」
「ねえ紫」
幽々子は真剣な表情のまま、紫を見やった。紫は表情を変えず、ただ黙っている。
「妖忌がどこに行ったか、知らない?」
「知らないわ」
「本当に?」
「本当に」
「そう」
幽々子は残念そうにそう言って、酒に浮かぶ花弁に視線を戻した。
幾度目かの質問かも分からないのに、それでも落ち込んでいる。
それを切っ掛けにしばらく会話が途絶えたが、
「幽々子様」
という声で、二人ははっと我に返った。
振り返ると、半人半霊の少女、白玉楼の使用人、魂魄 妖夢がそこに立っていた。
「追加の茶菓子です」
そう言って、幽々子に何かが乗った盆を差し出した。幽々子はそれを受け取り、珍しそうに妖夢を見上げた。
「珍しいわね。あなたがこの時間に起きてるなんて」
「目が覚めちゃったんです」
「そう。茶菓子、ありがとう」
「いえ」
妖夢ははにかんで微笑み、一礼して早足に去っていった。
「……いい子ね」
「でしょ」
「でも」
茶菓子に目を落とす紫。
「まだ良くはならないのね」
「……うーん、まだもう少し掛かるようね」
妖夢が持ってきた盆に載せられていたのは、お茶っぱが入った袋だった。もちろんそれは茶菓子ではないし、そのままでは食べられない。
「大分良くはなったんだけど」
「まあね。前はあの子、茶菓子とか言って文鎮を山ほど載せてきたほどだったし」
「時間の問題よ」
「そうね」
紫は頷き、また酒を煽った。
しばらく何事か考えるように黙っていたが、やがて、
「ねえ、幽々子」
と、特になんでもなさそうに隣に座る亡霊に声を掛けた。
「なに?」
「妖夢ちゃんって、今年で幾つだっけ?」
「え?うーん」
幽々子はちょっと考えてから、
「十六ね」
と答えた。
「じゃあ幽々子」
「ん?」
「その前の年は?」
「え?うーん」
ともすれば馬鹿にしているとも取れるようなそんな質問にも、幽々子は少し考える時間を必要とした。
そして、
「十六ね」
答えた。
「そう」
「それが?」
「いえ。べつになんでも」
「ふうん?」
不思議そうに首を傾げる幽々子だったが、それ以上は追及しなかった。
紫は俯き、絶対に聞き取れないような小声で、呟く。
「ごめんなさいね。私があげれるヒントはこれだけよ」
と。
もちろん幽々子には聞こえていなかったし、聞こえていたからといってどうなったわけでもないだろう。
それに、妖夢の秘密はこの物語には関係しない。それはまた、別のお話だ。
だからこれらは、ただの雑談。嵐の前の、穏やかな日和。
「……って、あんたなにしてんのよ」
「いや、折角妖夢が持って来てくれたお茶っ葉だし、お酒に混ぜてみようかなと」
「あーあー……。折角私が持ってきた上等なお酒が……」
「まあまあ。試した人がいないだけで実は美味しかったり不味いうぇえ」
「死ね」
…………。
…………。
………………………………。
……ここは?
どこ?
私は。
兎。
奴隷。
人形。
どうして?
倒れて。
それから……。
………………………………。
体を起こす。
鈍い痛みが体中に走ったが、どうでもよかった。
「あら、おはよう」
声をかけられる。
誰から?
視界がぼやけて、なにも見えない。目を擦る。
段々と、映像が感覚に飛び込んできた。目の前には、白髪の、長い髪を後ろで太い三つ編みにまとめた知的そうな女性が座っていた。
辺りを見渡す。
家。広い、屋敷のようだ。
「ぐっすり眠れたようね。疲れはとれた?」
「…………」
疲れ。
そういえば、痛みはあるがだるさは感じない。頭も正常に回転している。靄がかかったような感覚は、ない。
「どう、して……?」
どうして私はここにいるのですか?という意味で尋ねたつもりだったが、彼女は苦笑して、
「どうしてでしょうね」
と言った。
「ただ、私は一応医者だから。気紛れかもね」
医者。
ということは、この体の痛みからも分かるように、私は大怪我を負っていたところを、彼女に助けられたのか。
「ここは……?」
「ここは永遠亭。姫様の屋敷です」
「永遠亭……」
聞かない名前の屋敷だ。月にそんな屋敷があっただろうか?
と、そこで。
「ぐ、ぐぅ……っ」
錐で刺されるような鋭い痛みが、脳髄に走り抜けた。
「大丈夫?」
「ぐ、ううぅうぅぅううぅう……!」
痛い。
頭が壊れそうだ。
そして、思い出した。
月から逃げ出したこと。
戦争から逃げ出したこと。
沢山の仲間を見殺しにしたこと。
そして――。
頭痛は止まった。しかし、脳髄が脈打っているような感覚がある。熱い。
「これ、鎮静剤」
「……ありがとう」
差し出された小さな玉状の薬を受け取る。しかし、すぐには飲まない。助けてもらったことが分かっても、警戒心は解けなかった。
「あなたは?」
「私は八意 永琳。姫様の付き添い人よ」
「……ヤゴゴロ」
なんだか、どこかで聞いたことのある名だった。どこで、だっけ……。
そんな私を見て、彼女は微笑んだ。
「聞いたことあるかしら?随分昔、輝夜姫様と共に、月の護者数名を殺して地上に逃げた不死の犯罪者の名前を」
「…………!」
ああ、そうだ。
八意 永琳。そして蓬莱山 輝夜。
許されざる禁忌を犯した重罪人。
「貴方の名前は?」
彼女、永琳は、あくまで優しく聞いてきた。
あくまで、優しく。
…………。
いいか、殺されても。
どうせ救われた命だ。
正直に、話そう。
「私の名前は、レイセン。月の兎です。月からは、逃げ出してきました」
「逃げ出して?月での生活が嫌になったの?」
「はい。もう、戦争の日々は、嫌なんです」
「戦争?」
彼女は、訝しげな表情になった。そう、昔なら考えられないことだっただろう。
「地上の人間が攻めてきました」
「…………」
彼女は、押し黙った。
「月の地に旗を立て、この地を占領すると言いだし、そして月の都に戦争を仕掛けてきました」
「…………」
「地上の最新兵器の脅威は想像を絶していました。月の都では戦争が起こっているのです」
「……信じがたいわね。いつから戦争が?」
「一年と半月前から」
「一年と半月……」
「私は逃げ出しました。羽衣を奪い、地上へと。噂程度に聞いていた地上の御伽草子の世界へと、ふらふらと」
「……なるほど。貴方は有能なのね」
「はい、私は有能です。だから、いつも戦争では最前線でした」
「…………」
「有能なことは無能なことよりも悲惨かもしれません。しかし今回はそれが役に立った。無意識の内に波長を捉え掴み、そしてここにやって来れたのでしょう。限界の状態だからこそ、できた芸当ですが」
「……そう」
「月の裏一面に広がる月の都。その都の一割が落とされました。決着は時間の問題でしょう。しかし私は決着なんて付けたくなかった」
「…………」
「だから、逃げてきました」
話し終えて、彼女の眼をじっと見据えた。
「私を殺しますか?」
「……まさか」
彼女は薄く、微笑んだ。
「本当は事情次第で始末しようと思っていたけれど、その必要は無いようね。それに私は、医者だしね」
とん、と額を小突かれ、私は布団に倒れ込んだ。
「今は休みなさい。貴方に必要なのは、休息よ」
「……ありがとう」
今は、か。
私に必要なのは休息、か。
では、この後私がすべきことはなんだろう?この語私に必要なものはなんだろう?
……今は、休息が必要。
彼女に渡された薬を、飲み込む。途端に、嘘のように全身の痛みが引いた。その代わり、抗い難い睡眠欲が襲ってきた。
眠い。
「お休みなさい」
お休みなさい。
次に起きた場所が、戦場ではありませんように。
「月讀様、準備が整いました」
「そう。戦状は?」
「変わらず。都の二割を落とされるのも時間の問題です」
「そう。……では、始めなさい」
「はい」
深々と一礼して、彼女の『信望者』は音もなく去っていった。
「…………」
一人静かな部屋に残された彼女は、それから、なにをするでもなく目を瞑り、まるで祈るようにそこに佇んでいた。
少し時間は遡り。
紅い満月が宙に浮かぶ夜。紅い満月は妙な立体感を持ってしてそこに存在していた。宙の一点、ただそこに存在するだけで、世界の色さえも豹変させていた。
そんな奇異の夜空を背景に、紫は宙に裂けたスキマに腰掛け、紅い光に照らされ異色を放つ幻想郷の夜を見下ろしていた。
なんだか上機嫌そうに。
切なく、儚く、触れれば壊れてしまいそうなくらいに繊細な、しかし力強い、幻想のような歌声で高らかに歌いながら。
本当に上機嫌そうに。
――彼女は、この広く狭い、幻想のように美しく儚く優雅で優美な、幻想のように残酷で冷酷で無情な無慈悲の原想の郷を見渡せば、それだけでいつだって上機嫌なのだ。
彼女はこの郷を愛している。
愛しく、愛しみ、純愛している。
最愛と言ってもいいくらいに。
深く、愛している。
『紫は、幻想郷をまるで恋人のように語るわよね』
と、これは彼女の親友、幽々子がいつだか少し呆れたように、とても愉快そうに口にした言葉。まったく、その通りだ。
まるで恋人に歌い聞かせるように、嬉しそうに、幸せそうに、無邪気に微笑みながら、彼女は旋律を口ずさみ続けた。
目覚める。
しばらく倒れたまま、薄く目を開きながら、なにも考えずぼーっとしていた。次第に、意識が覚醒してくる。これだけ深く眠っていたということは、どこかの民家に潜り込み休んでいたのか。薄らぼんやりと今の状況を思い浮かべ、目を開く。
視界に飛び込んできたのは、高い、半壊も崩壊もしていないきちんとした小奇麗な屋敷の天井だった。
視覚を得るのと同時に、感覚も覚醒した。
温かい。
清潔な、温かく柔らかな布団に包まれ、私は眠っていた。
「…………?」
体を起こす。
辺りを見回す。誰もいない広い部屋。静かな部屋。爆音も、悲鳴も聞こえない。
ああ、そうか。と、やっと、思いだした。私は逃げ出してきたんだ。そして、かつて『月の頭脳』と呼ばれた逃亡者に助けられた。ふっと、一息吐く。
嫌な夢を見た気がする。
目覚めた瞬間その幻想は霧散し消えてしまったけれど、脳の奥底で何かが渦巻くような不快な感覚があった。
しかし、意識は乱れていたが、まるで纏わり付くような倦怠感は綺麗に消えていた。体のあちこちを確認してみると、傷も綺麗に消えていた。
「おお、お目覚めか」
血の気が一気に引いた。
唐突に掛けられた声、しかもその声は襖の向こうから掛けられたのではなく、背後から、しかも比喩で無く、私の耳元で発せられた音だった。
布団を跳ねのけ、三メートルほど前に飛び退き、反転する。指を人間が使う拳銃のような形にして、声の主に突き付けた。
「うおう、機敏」
しかし声の主は慌てる様子もなく両手を広げ、茶化すようにそう言っただけだった。
いつの間にか私の背後にいたのは、少女だった。
あちこちにぴょんぴょん跳ねた黒髪、華奢な体躯、飾り気の無い、しかし上品な布を素材にした服、人参のネックレス、――そして。
頭上でぴょこぴょこと踊る、兎耳。
「お前――」
「おう?」
「お前も、……逃げてきたのか?」
「うん?」
彼女ははてと首を傾げたが、「あ、あーあー」と呟き、人差し指を立て、如何にも閃いたというようなポーズをとった。一々動作が大袈裟な子だ。
「違うって。私は、地上の兎」
「……地上の?」
「そう。妖怪兎。兎は月だけにいるものだと思った?」
「…………」
正直、思っていた。
「地上の兎、か」
「そうそう。それで、この屋敷に仕える兎でもある」
「……なるほどな」
ペットか。
どこでも兎の待遇は同じだなと思い呟いた言葉だったが、そう呟いた瞬間、腹を思い切り蹴られた。
「ぐっ、ふっ……!」
「そういう言い方は良くない」
頬を膨らませる様子は可愛らしかったが、蹴りには遠慮も容赦もなかった。思わず前のめりに倒れ込む。
「私は好きでここに仕えてるんだよ。条件付きでもあるしね」
「……条、件?」
息をゆっくりと吸いながら、どうにか聞き返す。彼女は私の隣に座り、私の背を撫でながら話を続けた。そういう優しさは持っているらしい。
「そ、条件。私は地上の、この幻想郷の兎達のリーダーみたいなものをやっててね。最近、私についてくる妖怪兎の数が増えすぎちゃってねぇ。だから、私達の労力と引き換えに、ここを兎の宿にしてくれって頼んだわけ」
「……なるほど」
考えてみれば、これだけ広い屋敷を二人で成り立たせるというのは無理な話か。……いや、月の頭脳と呼ばれたあの人なら、どうとでもできたかもしれないな。
「所詮、兎だからねぇ。私達だけで一つの里を作ろうなんてのは、土台無理なお話だったのさ。そこに、偶然迷い込んだ竹林で偶然見つけた秘密の屋敷。これはもう運命だねぇ」
「……運命、か」
では、偶然迷い込んだ竹林で偶然出会った逃亡者に助けられたのも、運命だろうか?
「あ、そうそう。目が覚めたら永琳様の部屋に来るように言っといてって言われてたんだった。この部屋出て右出て角三つ曲がってそこから四番目の部屋」
この屋敷はどれだけ広いのだろう?空間を広げてあるのか?
「分かった」
「じゃ、私はこれで」
ぴょんと立ち上がり、背を向ける彼女。
「っとと。もう一つ」
しかし、まだなにか忘れていた言伝でもあったのか、一歩も歩かない内に軽快な動作でくるりと反転し、座っている私に手を差し伸べてきた。
「私はてゐ。因幡 てゐ。貴方の名前は?」
私はなんとなく、彼女の手を取った。
「私はレイセンだ」
「そう。よろしく、レイセン」
言って彼女は微笑み、私の手をぐいと引いた。意外に強いその力で私は立ち上がったが、彼女はまだ私の手を離さなかった。
「永琳様の部屋分かりにくいし、そこまで一緒に行ったげるよ。行こう」
そして私は彼女、因幡 てゐに手を引かれながら、歩き出した。なるほど、リーダーと言うだけあって、不思議な、引く付けるような魅力を彼女は持っていた。
「……呼び名はてゐ、でいいのか?」
「うん、いいよ」
「てゐの力は、存在レベルを下げる能力なのか?」
「うん?」
私と並んで歩く彼女はその問いにきょとんとした表情になったが、すぐにケタケタと笑った。
「違うよ。あれは寝起きであなたが呆けてただけだよ」
「……そうか」
「ま、でも、幸せは傍に在っても気付かないって言うしねぇ」
「幸せ?」
「そう、私は他者に幸せを送る能力を持っているのよ。素敵でしょう?」
言って、彼女は妙に悪戯っぽい笑顔を浮かべた。
「それは、素敵な能力だな」
「でしょう?」
「てゐを見れば、良い事でも起こるのか?」
「そう、私を見つければ良い事が起こる。人間限定だけどね」
「人間限定か」
「そう。人間でないと、そんな能力本気で信じてくれないから」
「信じる?それが重要なことなのか?」
「重要よ。私を見れば幸せになるっていうのは、この幻想郷じゃ割かし有名なのよ。私を見た人間は、私という要因によって、たとえ意識していなくとも、心の底から幸せになれると想うことができる。心の底から幸せが訪れると想っている者には、幸せが訪れるものなのよ」
「……なるほど」
「そういう信仰じみた願掛けっていうのは、人間の本能の一つなのよ」
「ふうん。でも、想うだけで幸せが訪れるものなのか?」
「そんなものよ。心の底からそう想うことがどれだけ難しいか、想像してみるだけで分かるでしょう?」
「……確かに、そうだな」
私には、絶対に不可能だ。
「さて、ここで問題」
ちゃらん♪
そんな音を発して、彼女は人差し指を立てた。そんな彼女の表情は、やはり悪戯っぽい笑顔だ。
「誰が、私を見れば幸せになれる、なんていう噂を流したでしょうか?」
「…………」
なるほど、ね。
生き残るための工夫にも、色々な方策があるものだ。
触れれば壊れてしまいそうな蝋細工のような椅子に腰掛け、まるで蝋人形のような彼女は目を瞑り、そこに確かに存在していた。しかし、傍から見れば、その月であるにも関わらず何故か月の光が差し込んでいる不思議な薄暗い部屋に、彼女の存在を認めることはできないだろう。彼女は極端に存在という概念が希薄だった。
呼吸どころか、意思すら、生命の鼓動をも微塵も彼女から感じ取ることができない。
長い白髪。蝋のような肌。華奢というより、ただ単純に細いという印象を受ける体躯。覗き込めば、静かな暗い輝きを認められる瞳。細い眉に、薄い唇。その佇まい。
一目で、彼女が越した存在であることを思い知らされる。
畏怖を、畏敬を、そして戦慄を。
まるで、神のような。
「入りなさい」
突然、彼女は声を上げた。
と、彼女が声を掛けると、一見壁のようにしか見えない扉が、音もなく開いた。
入ってきたのは、白装束を纏った彼女の『信望者』だった。信望者は素早く床に両膝を落とし、顔を伏せ、信仰するように彼女と向かい合った。
「月讀様。地上、幻想郷へと使いの者が向かいました」
まるで抑揚を感じさせない声で、信望者は言った。
「結果は?」
「…………」
信望者は、まるでそれを口にするのは己の存在そのものが恥であるとでもいうような、自分を呪うような、償えない羞恥の罪に慄くような沈黙で、答えた。
「……不備、という状態ではないようですね」
「……はい。申し訳、ございません」
羞恥を絞り出したかのような声を出し、信望者は更に顔を深く伏せた。
「どのような状況なのですか?」
「使いの者が幻想郷の者に囚われ、恐らくこちらの情報を全て余すことなく暴露してしまいました」
「…………」
さすがに、沈黙する彼女。
「……なぜ、全てを暴露したと?」
「先程、使いの者が見つかりました。海辺で、百八つの欠片に分けられた死体として」
「…………」
彼女は、そこでやっと薄目を開け、次の策を思索するように、しばらく自分の蝋のような指先を眺めていた。
その間、信望者は身動き一つせず顔を伏せたままだった。
「……ふむ。そうですね。あちらには彼の地と此の地を繋ぐことができる者がいる、か。厄介なことになりました」
「…………」
「思ったより、時間が掛かるかもしれません。これ以上人員を割く余裕はないことですし、私が結界を張っておきましょう。幻想郷の者が攻め込んでくれば、すぐにそれと分かるように」
「申し訳ございません」
「いえ。これからは睨み合いになるでしょうね。新しい使いは送らなくて結構です」
「招致しました」
「ただ、今回の失態、随分と報告が遅れたのですね」
「…………」
信望者はやはり身動き一つしなかったが、羞恥による緊張が、更に増したかのようだった。
「見栄を張りたいというのは分かります。それだけ貴方は私に尽くしてくれているという証拠でもある。でも次からは起きた不備はすぐに報告するように」
「申し訳、ございません」
「行きなさい」
「はい」
そして、深々と一礼して、彼女の『信望者』は音もなく去っていった。
「…………」
彼女は再び目を瞑り、希薄に、しかし確かにそこに存在し続けた。
再び時間は遡る。
「ねえ幽々子」
「なに?」
「なに、それ」
心底不可解な表情で、紫は『それ』を指差した。
ゼラチン質の、赤と白と緑が混じった、気味の悪い物体。それを、幽々子は嬉しそうにもしゃもしゃと食べていた。
「ああ、これ?」
うふふ、と心底嬉しそうに微笑み、その物体をまるで敬うように持ち上げ、自慢げに自慢する。
「妖夢の手料理よ!素敵でしょう!」
「……ふう、ん」
反応に困る紫。
「なんて料理なの?それ」
「豆腐と紅生姜とヨモギの葉を塩で味を調えたゼラチンで固めた、妖夢特性羊羹よ」
「あの子は天才ね……」
壮絶なセンスを感じる作品だった。
「美味しいの?」
「食べてみる?」
「……一口」
「はい」
幽々子からナイフを受け取る。
「……ナイフ?」
「それじゃないと切れないから」
「…………」
一欠片だけ切り取り、口に放り込む。
「…………」
「どう?」
「宇宙を感じるわ」
「でしょう?」
「銀河系が見える……」
遠い目の紫。その金色の瞳に、天の川が映るようだった。
「あの子は才能があるわ。将来が楽しみでしょう?」
「そうね」
深く突っ込まず肯定する紫。実際、将来、今よりずっとまともになった彼女の料理が楽しみなのかもしれない。
「ふふ、剣の腕だって確かだし、あの子は素敵な子になるわ」
「まるで母親ね」
「みたいなものでしょう」
愛しげにそう言って、妖夢特性羊羹を頬張る幽々子。
「あんまり食べると成仏するわよ」
「確かに、溢れんばかりの愛情に昇天しちゃいそうだわ」
親馬鹿。
呟いて、煙管を取り出す紫。
「あれ、マッチがない。幽々子、マッチ貸して」
「持ってないわよ。妖夢は出払ってるから、どこにあるかも分からないわ」
「自分の家の物の場所くらい覚えてなさいよ」
「この前マッチを見かけたのは、確か漬物の中だったわね」
「…………」
妖夢特性羊羹を見やる紫。
「それは大丈夫よ。多分」
「多分、ねえ」
「最近はほんと、そういうことが少なくなってきたのよ」
「それは重畳」
言って、諦め煙管を仕舞おうとしたそのとき。
「幽々子様、只今戻りました」
笑顔満点の妖夢が、手を振りながらこちらに駆けてきた。胸になんとか収まるくらいの大きさの、麻の袋を大事そうに抱き締め抱えながら。
煙管を取り落とす紫。
刹那、硬直していたが、すぐに、あちゃあ。という表情になる幽々子。
「幽々子様、ただいまです」
二人の前に立ち止まり、幸せそうに微笑む妖夢。
「おかえり、妖夢」
あちゃあ、という表情のまま微笑む幽々子。
「…………」
額に手を当て、空を仰ぐ紫。
「……妖夢、それはなに?」
妖夢が大事に抱えている、どす黒い赤い液体が滴る、どす黒い赤に染まった、生臭い麻の袋を指差す幽々子。
妖夢は照れ臭そうに、しかし自慢げに、二人に明らかに肉の塊が入ってそうな袋を突きだした。赤い液体が二人の顔に跳ねた。
「兎です!兎を捕まえました!」
「あ」
「兎ね」
ほっと、気の抜けたような表情になる二人。
「今日は兎鍋ですよ!」
「そう、それは楽しみね」
安堵に胸を撫で下ろしながら、妖夢から袋を受け取る幽々子。
「でも、随分大量だったのねぇ――って、あう……」
袋を開けた瞬間、幽々子の表情は凍りついた。
紫も、袋を覗き込む。
「おもっくそ人肉じゃん……」
「うん……」
しかも。
その人肉は、百幾つの欠片に、バラバラに切り刻まれていた。常人の神経ならば、それは直視すれば発狂してしまうレベルだった。
「え、ええ?う、兎ですよう、その子は!」
しかし、妖夢は慌ててぶんぶんと手を振り、殺人を否定した。
「ちゃんと、兎の耳が生えてましたもん!!」
「……とすると、妖怪兎、かな?」
「んー、でも、最近、妖怪兎見ないのよねぇ。謎の大量失踪を遂げたとかなんとか?」
「ふむ……?」
首を傾げる二人。ほぼ液体になっている破片をよく見てみると、なるほど、兎耳だと思われる部品が確かにあった。
「ていうか妖夢、兎をこんなに切り刻んじゃったら、鍋にできないじゃない」
この場面で常識的な注意をする幽々子。
「え、あ、すみません……」
しゅんとうなだれる妖夢。そんな妖夢に幽々子は笑顔で、
「いいのよ、最終的にちゃんとできれば。今日はこれでスープでも作りましょうか」
「やめろ。甘すぎでしょう」
幽々子から袋をぶんどる紫。
「紫も食べる?」
「食べんわ。……ふむ、ふむ。言われてみれば、人間のものとはちょっと違う。が、妖怪のものってわけでもなさそうねぇ。うーん。…………うん?」
「どうしたの?」
「これ……」
袋に手を突っ込む紫。
「え、そのまま……?」
「お前と一緒にするな。――ほら、これ」
袋から手を引き上げ、どす黒い赤に染まった手を日の光にかざす。
なにかを摘まんでいるようだった。
「布……じゃないの?」
「妖夢、水を汲んで来て」
「は、はい!」
不安な表情をしていた妖夢はびくっと震え、まるでばね仕掛けの人形のように井戸へと走り出した。
「……あんまり怖がらせないでくれる?」
少しいらつき顔を見せ、紫を睨む幽々子。
「べつに怖がらせてなんていないでしょう。私ってそんな怖そうに見える?」
「物腰がいけないのよ。もっと私みたいにおおらかに構えればいいのに」
「あなたみたいには嫌」
そんな雑談をしている内に。
「お待たせしました」
ロープを切り取り、井戸の桶ごと水を持ってきた妖夢がこちらに駆けてきた。
至近距離で、石に躓き、転んだ。
桶一杯の水が、紫の全身を濡らした。
「…………」
「…………」
「…………」
「……布の血は取れたんだし、いいじゃない」
「ふざけろ」
水がかかった状態から微動だにしない紫。
その目の前で青ざめ、カタカタと震える妖夢。
「す、すみません……。あの……」
「いいのよ、妖夢。元はといえば自分で水を汲みに行かなかった紫が悪いんだから」
「甘すぎじゃない?」
「私は妖夢には、羊羹くらいには甘いのよ。あなたは塩辛だけど」
「ぶっ飛ばすぞ」
「妖夢、タオルを持ってきて」
「は、はい!」
全速力で、逃げるように駆けていき、妖夢はあっという間に見えなくなった。
「……まあいいわ。許してあげる」
髪から伝う水滴を跳ね退けながら、仕方なさそうに紫は言った。
「さすが紫。海のように心が広い」
「ありがと」
「あとあの塩辛、今度また持ってきてよ」
「はいはい。それより、今はこれよ」
滝のような水を被り、大体こべり付いた血が落ちたその布を、再び日にかざす。
どす黒い赤が落ちた部分が、微かに、しかし日の光が当たった状態でも分かるくらいに確かに、白銀に輝いていた。
「……なに、それ?」
首を傾げる幽々子。
紫はふふっと笑い、その不思議な布を握り潰した。
「あの子は、私に水をぶっかけたという罪が帳消しになるくらいの、重要で重大なモノを持ってきたのかもしれないわ」
「重要で……重大なこと?」
「ええ」
空を見上げ、不敵に笑いながら、睨む。
「夜が落ちてくるくらいに重大な、ね」
「おはよう。よく眠れた?」
「……ええ。体の調子も良くなった。ありがとう」
「いいのよ」
なんでもなさそうにそう言って、着物の手入れを続ける彼女。薄く静かに煌めく、流れるような布を使ったその着物は、きっと地上で最上級の一品だ。もしかしたら、布からなにから全て彼女が一から作り出したのかもしれない。
月の頭脳。絶無の薬師。理具現。白銀の弓。超越。現象否定。湾曲世界。そして、――蓬莱人形。
様々なあざなを持つ彼女。その超絶無比の頭脳もさることながら、戦闘能力という点でもずば抜けていた。彼女と双璧を成す者など、月の神以外に存在しないだろう。神と同列。それくらい、彼女は超越していた。
「私はただの薬師よ」
しかし、噂で聞いたところ、それが彼女の口癖だったらしい。神と同列の薬師が、ただの、だなんて失笑すらできない。
そんな彼女であるから、きっと彼女の部屋は薬やら実験器具やらでごった返していると思っていたのだが、しかし予想に反し、その部屋は普通の畳部屋だった。
「実験道具などは、無いんですね」
「実験なんて、する意味が分からないわ」
なるほど。彼女は神と同格だったな。
着物の繕いが終わり、丁寧にそれを折り畳み、脇に退け、「さて」と彼女は立ち上がった。
「折り目が付いてしまうんじゃないですか?」
「その布に折り目なんて付かないわ。はい、貴方はこれに座りなさい」
言って、金属製の、背もたれ無しの移動式の椅子をよこす彼女。彼女は背もたれのある、やはり金属製の椅子に腰掛けた。そして、金属製の机に肘を付き、こちらを見やった。
他人のセンスに口出しするつもりはないが、畳の部屋と、鋭い銀色に輝く机椅子、恐ろしいまでのミスマッチだった。どう考えても違和感があった。異物感と言ってもいい。どうやら彼女は、そういったことは気にしない人間らしい。
……人間、か。
「……よく見てみれば、この椅子の座の部分、金属では無いですね」
椅子の座面に触れて、気付く。硬質で、光沢が無く、鉄のように冷えてはいない。
「私のオリジナルの素材よ。気にしないで」
ふうん。
他の部分もただの鉄ではないのだろう。その椅子は異様に軽かった。
「さて、レイセン」
正面に座った私を、静かに見つめる彼女。威圧感は無いが、静かな、少しでも超越した者特有の、飲まれてしまうような雰囲気があった。べつに敵対しようというわけではなかったが、一応、彼女の存在感に飲まれないように気を付ける。
「はい、これ」
何かを手渡された。
「…………?」
受け取る。
白く細かい粒子みたいなものが漂う液体が入ったコップだった。
「これは?」
「独白剤。自白剤とも言う」
「…………」
まあ、これくらいは当然か。
自白は一時間に渡って続いた。らしい。その間の記憶は無かった。
「なるほどねぇ。ふむ……」
彼女は一瞬思案顔になったが、まあいいか、とどうでもよさそうに呟き、さっさと思考を切り替えた様子だ。今の月の事情など、どうでもいいのだろう。
「さてレイセン。貴方さえよければ、ここで住み込みで働かないかしら?私の助手として」
「……いいんですか?」
「まあ、貴方に害意が無いのは分かったしね。というより、ここの存在を知ってしまった以上、ただで帰すわけにはいかないのよ。ここは幻想郷――この地の名なんだけれど――でも秘境、幻想の幻影みたいな場所なのよ」
「……なるほど」
徹底した逃亡だ。
「どうする?」
もちろん、願ってもない申し出だ。答えはここに来たその時から決まっている。
「お願いします。私にできることであれば、なんでも申し付けてください」
「決まりね」
――これでは、月にいたときと同じではないのか?月の住人のペットから、彼女のペットに変わっただけじゃないか。
自分の中で、そんな声がした。
馬鹿馬鹿しい。ペットでも下僕でも構わない。私は戦争が嫌で嫌でたまらなかっただけだ。
「そうと決まれば、貴方に名前をあげなきゃね」
「名前?」
「地上での名。こういうことは、大切なのよ?」
そんなものだろうか。
まあ、どうでもいいか。
「その、地上での私の名というのは、もう決まっているのですか?」
「待って。今考えるから」
……適当だな。
彼女はしばらく腕組みをして黙り、そして。
「……そうねぇ。貴方の月での名前、レイセンっていうのは漢字でどう書くの?」
「カタカナです」
「それじゃ、それに漢字を当てはめて、鈴に、仙人の仙で、鈴仙ね」
「…………」
適当だなぁ。
そんなんでいいのだろうか。
「それから、愛称」
「愛称?」
「そう。うーん、そうね……。…………。優曇華院、なんてどうかしら」
「――うど、え、うどん、え、ん?え?」
なに?
なんか今聞こえた。
「優曇華院。三千年に一度花を開き,そのときに如来が現れるとされる優曇華の花に、病院の院で優曇華院。どうかしら」
「…………」
ギャグだろうか?
もしかしたら、彼女は気さくでユーモアのある人間なのかもしれない。
ここは肯定するのが正解だろうか。そうすれば、「冗談よ」と彼女は薄く笑って他の愛称を提案し直すかもしれない。どうだろう。
「……いいのでは?」
「じゃあ、それで決まりね」
頷く彼女。ギャグじゃなかったのか。軽く絶句する。
と、そこで思いなおす。ここは地上。もしかしたら地上では、そのような愛称が一般的なのかもしれない。そのための、地上での名。ああ、きっとそうだな。
「じゃあ、私は貴方のことは、うどんげ、と呼ぶことにするわ」
「…………」
愛称から愛称を作り出した……。
絶句。
絶倒。
信じられん。
私には地上人のことは理解できないかもしれない、と不安になる。早くも先は真っ暗闇に濃霧状態だった。
「貴方は私のことを、師匠、と呼びなさい」
「師匠、ですか」
なんのだろう。
ふう、と息を吐く。なんだか、ずっと夢見心地だった。
ここは、本当に存在しているのか?私は夢を見ているだけじゃないのか?本当は戦場で眠り呆けているだけじゃないのか?
幻想郷。
性質の悪い冗談ではないだろうか。
「とりあえずうどんげ、早速仕事よ」
「はい、なんなりと」
「最初の仕事は、出迎えよ」
「出迎え?」
「そう」
彼女、師匠も立ち上がり、微笑み、私の前を歩きだした。
「我らが姫様の、お帰りよ」
「月讀様、先程争いの最前線に何者かの式が」
「その式は?」
「式としての機能停止と共に滅しました」
「そう」
彼女は細いため息を吐き、天井を見上げた。
「やれやれ……」
「月の住人が攻めてくる?」
「まだ可能性の話だけどね」
散り果ててしまった桜の木を眺めながら、紫はのんびりと団子を食べながら、別段焦った様子も切迫している様子もなく、ゆったりとそう言った。
「なに、それ?」
「こないだの人型兎の中に入ってた布切れ、覚えてる?」
「ああ、あの綺麗な。それが?」
「あれは月の秘法、月明りの羽衣よ」
「月明りの羽衣」
「そう。ルーナの飛羽とも、月の法衣とも言う」
「飛羽……。月と地球を行き来できる道具、とか?」
「ご明察」
紫はぱちぱちと拍手し、最後の一つの団子を頬張ろうとしたところを幽々子にぶん盗られた。
「……正確には、月と地球を行き来できるだけの道具じゃないんだけどね。まあ使い方の一つが、位置情報の記憶媒体みたいなものと考えて頂戴」
「位置情報の記憶媒体?」
「そう。超正確な位置情報の記憶を引っ張り出すことができるの」
「記憶を引っ張り出す……ってどういうこと?」
「元々、地上人も月の民も、同じ地上人だったのよ」
「へええ。そうなんだ」
「そうなの」
「ていうか、私は月に人間がいるということ自体信じられないのだけれど」
「人間、ねえ。あれらを人間と呼んでいいんだか。まあとにかく、月明りの羽衣は月と地上とを橋渡しできる道具。それを持った人型兎」
「月には兎がいるというけれど、人型だとはねぇ」
「さて、これらから推測できることは?」
「うーん」
幽々子は顎に人差し指を当て、暫く考えながら煎餅をバリバリ頬張り続けた。
「あんたは常に何か食べてないと発狂する体質なの?」
「……偵察、かな」
紫の突っ込みは無視して、答える。紫はため息を吐き、ぬるくなったお茶を一口すすった。
「……ご明察。偵察は下っ端の仕事。いつの時代も、ね」
「でも何のための偵察だったのかしら?」
「それを調べるために、こっちもこないだ下っ端を送ったわ」
「大丈夫なの?そんな露骨な真似して。式でしょ?すぐ気付かれるわよ」
「そう。そこで、妖夢ちゃんのお手柄が効いてくる」
「どういうこと?」
「この前の月兎の残骸を、月に放り投げてやったわ」
「悪趣味ね」
「どう見たって拷問の跡。自分たちの情報が相手に全て漏れてしまったと考えるのも仕方が無い。で、膠着状態」
「なるほどねぇ。どうでもいい札はどんどん使える状況、ね」
「しかもこっちがほぼ一方的にね」
「は?なんで?」
「月では戦争が起こっていた」
「戦争?」
「そう。戦争」
お茶をすすりながら、のほほんと言う紫。
「しかもなんと驚き、地上と月の大戦争よ」
「はあ!?」
驚愕の声を上げる幽々子の反応に満足したのか、紫は薄く微笑んだ。
「地上の技術も馬鹿にできないわねえ」
「ちょ、ちょっとまって。そんなに、そんなに急速に技術が発達するものなの?こないだ紫が話してくれた話じゃ、全然全くそこまで、月に旅行がてら戦争に行けるどころか、地球上の近所にだって満足に移動できるレベルじゃ無かったじゃない」
「そうよ。私達から見た表の世界は、ね?」
「は?」
「月と地上では、時間どころか時空がズレているの。浦島ってお話、知ってる?」
「え、あー、浦島と神仙世界の美女がいちゃつくっていうあの?」
「そう。それに出てくる蓬莱山には、表の世界と時間のズレがあった。月と地上は、それと比較にならないレベルの時空のズレがあるのよ」
「あー、なる。……って、待ってよ。それだと可笑しいでしょ。それだと、なんでこの幻想郷と月とにはズレが無いの?というかそんなズレが生じてる場所と場所が繋がるわけないじゃない。現世と彼岸じゃあるまいし」
顔を顰める幽々子。紫は空になった茶器を幽々子のと交換しながら、頷く。
「確かに、普通ならそうね。でもここは普通じゃない。幻想の地。此の地の果て。それに……」
「それに?」
「ここはね、かつて月の民が月に旅立った場所でもあるの」
「ほお」
感嘆に近い声を上げる幽々子。
「それは、驚き」
「でしょう。元々幻想郷は、外との世界と隔絶するために作られたようなものなの。だから、そういう曰くのある地の方が、隔絶した世界を作るには好都合だった」
「なるほどねぇ」
「だから、この幻想郷と月には時間のズレが無い。滅茶苦茶なように思えるかもしれないけど、地上と月は理によって強く繋がっているのよ」
「はあん。じゃあ、月に攻め込んでる地上人は、私達から見れば未来人か」
「そうなるわね」
「ふうん。……ああ、そうか」
ぴんと人差し指を立てて、納得顔になる幽々子。
「もしかして、月の民って今劣勢?」
「ご明察」
「はあん。……ん?でも地上を内側から壊す作戦なら、月と地上の時間はズレてるから意味無いんじゃ。……あれ?でも今地上を壊しとけば、月に地上人が攻め込むという未来は無かったことに……。いやそんな馬鹿な」
「そこまで気付けば大したものよ。幽々子のわりには」
「ありがとう紫」
言って、紫の脇腹をど突く幽々子。
「いえいえ」
しかし紫は平気な顔で、しかし少しだけ深刻そうな表情で、今は太陽が支配している空を見上げた。
「――月の民はね、理を曲げようとしているのよ」
「理を、曲げる?」
「そう。幻想と幻想で繋がれた幻想の糸を使ってね」
深いため息を吐く紫。
「はっきり言って、破綻しているわ。意味が分からない。何がしたいのかは分かっても、その意味も意義も分かっても、それでも、思わず冷笑、失笑してしまうくらいに愚かしい。憐れみすら感じそうだわ。――狂ってる」
「……そんなに月の民は劣勢なの?」
「劣勢劣勢。もう事実上決着していると言ってもいいくらいに劣勢」
「それはそれは……」
ご愁傷さま。
呟く幽々子。
「それにこの幻想郷も巻き込まれちゃ敵わないわよ。早くご愁傷しろって感じね」
「でもあっちは必死でしょうね」
「まあね。情報が漏れたと思ってるあちらさんにできることは限られてるだろうけど、まあ、用心に越したことはない」
幽々子の分のお茶を飲み干し、ふう、と一息吐き、数時間後には丸い鏡が浮かんでいるであろう、まだ青い空から視線を外した。
「それにしても、ふふ」
なにやら嬉しそうに微笑む幽々子。
「どしたの?」
「妖夢のお手柄かぁ」
「ああ、そうね。今度あの子にお礼言わなくちゃね。私に水をぶっかける罪を犯したとしても、それでも感謝が有り余る」
「ふふ」
「あの子は今買い物?」
「ええ。今日は鍋よ」
「へえ。私も頂こうかしら」
「どうぞ。妖夢自慢の鍋をしっかりと味わなさい」
「……お暇するわ」
「味わえ」
丁度タイミングよく、妖夢があちらから手を振りながら元気よく駆けてきた。
その手には、大きく膨れた買い物袋。
中身はどう見ても練り菓子。
青ざめる紫だった。
時折感じられるカリスマと風流、その全てを台無しにする態度やボケツッコミの割合が好きだ
書き方が上手いとは思わないんだけど続きが楽しみになるね