「もう妖怪なんてやめるっ!」
私、多々良小傘が何故そのような悲壮なる決意をするに至ったのか。
まず、それをお話したいと思います。
私は唐傘お化けなどをやっておりまして、お化けなどと言うからには人を驚かすことが私の仕事であるわけです。
そんなわけで、私は人を驚かすために日々活動していたわけですが、残念ながらそれはまったく上手くいっていませんでした。
それもそのはずで、私の暮らすこの幻想郷では空を見れば天狗が気持ちよく青空を駆けており、川に行けば水の中で暑い日差しを悠々とやり過ごしている河童の姿を見ることもあり、さらには町中でも妖怪を見かけることは決して珍しいことではありません。
ようするに、妖怪が一杯いるわけです。
人間達にとっても最早それは当り前のことで、人里には妖怪を対象にしたお店がある程です。
そんな環境で育った人々は大変肝が据わっており、私のようなちんまりとした妖怪が物陰から突然現れたところで驚いてはくれません。
無論、私もこのような状況に対して何もせずただぐうたらと毎日を過ごしていたわけでなく、偉大なる先輩方から驚かし方を学ぶべく、多くの怪談を読み漁ったりもしました。
温故知新、古きをたずね新しきを知る。
小さな事からコツコツと。
そんな努力を忘れない、勤勉な私なのでした。
しかし、そのような私の涙ぐましい努力も異様なほどに妖怪適応度が高い幻想郷住民に対しては殆ど効果がありません。
工夫を凝らし、色々な方法で驚かそうとしましたが、返ってくるのは好機の視線ばかり。
それどころか、相手にもしてもらえないことも多々ありました。
このように私の活動は往々にして失敗ばかりで、繊細な私の心は鰹節のようにガリガリと削られていくばかりです。
いよいよ精神的限界を感じた私は、自尊心を浪費していくだけの日々に終止符を打つため、一大決心をしたのです。
妖怪として生きることは諦めて――再び、道具として生きていこうと。
思い返すのは遠き日々、空に向かって高々と掲げられ悠然と雨を弾いていたあの頃、ただの道具だった――あの頃のこと。
他人が聞けば、それは決して羨む様なことではないかもしれません。
それでも。それでも私にとって、それはとてもとても満ち足りた時間だったのです。
◆◆◆◆◆
「弾幕ごっこ」をご存知だろうか?
これは妖怪と人間との争いを「遊び」で決着をつけるという、実に効率良い決闘方法だ。
この決闘方法では強さだけでなく、弾幕の美しさも競うことになる。
この美しさを競うといったところがポイントで、それによって人間は何千年も生きたような大妖怪とも対等に渡り合えるようになったのである。
実に素晴らしいことだと思う。
中でも取り分け素晴らしいのは弾幕である。
時には夜空を美しく飾り、酒の肴に、寂しい夜のお供にと大活躍だ。
斯くいう私もいつぞやの異変の時には永遠亭の主としてこの「弾幕ごっこ」で侵入者達を迎え撃ち、数々の華々しい弾幕を展開したものである。
私の誇る宝物である「難題」をモチーフとしたスペルカードの数々、それはもう私の清らかな心を映し出したかのように美しい弾幕なのだが、ここでお見せできないのが残念だ。
だが、いくら美しさを競うと言っても、実際には弾幕の撃ち合いによって勝敗を決めることになる。
華麗に相手の弾幕を避け、グレイズし、自らの弾を叩き込む。
実にシンプルである。
けれど今、私はそのシンプルな決闘について大いに頭を悩ませている。
最初は苦戦していた弾幕も、何度も見れば嫌でも慣れるというもの。
同じ弾幕は二度通用しない――とまでは言わないが、回数を重ねるごとに難易度が下がっていくのは周知の事実。
それに、どんなに美しいものでも毎日見ていれば飽きもする、カレーだって一週間も続けば精神的にもお腹一杯だろう。
つまり何が言いたいかというと――同じスペルカードばかりを使い続けるのはどうかと思うのだ。
勿論、私だって新たなスペルの開発はしていたし、「新難題」として実用もしている。
しかしそれも最早過去の話。
いい加減、新たな弾幕が必要だと思うのだ。
このようにブランクが開いてしまったのは、戦う機会が無かった事も起因している。だがここは幻想郷である。いつ何時異変が起こって、弾幕ごっこをすることになるかわかったものではない。
備えあれば憂いなし。
その時のためにも、新たなスペルカードの開発をしておく必要があるのだ。
そう思い立って、私はアイディアを考え始めたのだが、
「……何も思い浮かばないわ」
これがまったく上手くいかない。
そもそも、私は殆どの弾幕を自分の所持する珍しい品々を元に作成してきたので、完全なオリジナルのスペルなど殆ど考えたことがないのである。ネタになるアイテムが無ければ何も出来ない。
完全にお手上げである。
「……やはり、アイテム探しから始めるべきね」
そう考えた私は、新たな弾幕のネタとなるアイテムを探すべく、一人永遠亭を抜け出した。
◇◇◇◇◇
現在、私は道具屋『香霖堂』の棚にならんでいます。
勿論、妖怪ではなく一つの道具として、人の姿ではなく傘の姿で、です。
語れば短い話ですが、ここに至るまでには様々な苦労がありました。
何しろ私は腐っても妖怪です。自ら店頭に置いて欲しいと言っても、置いてくれるお店があるはずもありません。
それに、私としては普通の道具屋に並べられることには些か抵抗がありました。
私のような唐傘が並べられるとなれば、当然そこには他の傘、新品でぴかぴかの若々しい我が後輩達も並べられている筈です。
それに対して私はといえば、流行とは程遠いなすび色の古ぼけた唐傘なのです。
未だ世の苦労も知らない後輩達、彼らのことは愛おしくも思いますが、それと比べられることを想像すると胸がきりきりと痛みます。
故に、熟考に熟考を重ねた結果、私はこの『香霖堂』に置いて頂くことにしたのです。
半妖である森近霖之助さんなら妖怪にも理解があるのではないかという期待もありましたし、聞いた所に拠ればここの商品は殆ど全てが拾い物とのこと。きっと私でも他の傘に見劣りすることは無いと思ったのです。
その思惑は見事に的中しました。
「別に構わないよ。君が道具として生きると決めたなら、道具屋として出来る範囲の協力はさせて貰うよ。買われる相手は保障しかねるが――君がそれでもいいって言うならね」
事情を話すと店主は快く了承してくれましたし、幸運なことに『香霖堂』には私の他に傘は一本も売られていなかったのです。
しかし、問題もありました。
このお店、想像以上にお客が来ないのです。
たまにお客が来たと思えば、黒白。
今度こそお客かと思えば、紅白。
ひたすらに黒白紅白黒白紅白黒白紅白黒白紅白黒白紅白黒白紅白黒白紅白黒白紅白です。
思いっきり二択でした。
しかも彼女達は、お客というよりは店主のお友達といったご様子。
買って頂ける可能性は限りなく低いように思われます。
そんな状態が一ヶ月程続き、季節が梅雨に差し掛かった頃、とうとうチャンスが訪れたのです。
「ごめんください」
凛とした声と共に、若干立て付けの悪い戸がガラガラと音を立てて開きました。
まず目に入ったのは艶やかな黒い髪。続いて見えたのは、そこから覗く白い肌。
「店主、いるかしら?」
そういいながらゆったりとした動作で所狭しと置かれた道具の中を進んでいきます。
その優雅な立ち居振る舞い、透き通るような澄んだ声。
それら全てから隠し切れない高貴さが漂っており、その方の生まれの良さを物語っています。
きっと私では及びも付かないような、貴いお方に違いありません。
この店で初めて見る、黒白紅白以外のお客様。
彼女は、私を買ってくれるでしょうか。
私は彼女のほっそりとした白い手が私の手元を握る姿を想像しました。
黒髪の少女が私を差して、雨の中をそっと優雅に歩いていくのです。
いいなっ、いいなっ!
思い描いた光景の美しさに、ほうっと溜息が零れます。
いいなぁ……、こんな人に使って欲しいな。
私は強く願ったのでした。
◆◆◆◆◆
「ごめんください」
そう言いながら、頑なに私の入店を拒む戸を無理矢理に引き開く。
私は少し、疲れていた。
それというのも、この誰が得をするのかわからない日本独特の湿度の高い気候のせいであろうと思われる。
肌にまとわり付くむわっとした空気が、歩を進める度に私の体力を奪っていくのだ。
私は疲れた体を労わりながら、のっそりと緩慢な動きで店の奥へと向かう。
「店主、いるかしら?」
店内は薄暗く、外にいるよりは幾分涼しい。地震がきたら雪崩を起こしそうな棚を眺めながら私は呼びかけた。
「ああ、君か」
そうして顔を上げた白髪の男、彼がこの道具屋『香霖堂』の店主、森近霖之助である。
客が来たというのに、ニコリともせずに立ち上がる。
「ええと……一月振りってところかな、随分久しぶりだね。出口はあちらだよ」
「相変わらず、無愛想な店員ねー」
この店には何度も足を運んでおり、もう常連といっても差し支えないと思うのだが、接客らしい接客を受けたことが無い。
本当に商売をする気があるのか疑わしいところだ。
「接客というものについて学ぶ必要があるわね」
「その必要はないさ。僕だってお客が来ればきちんと接客ぐらいはする」
「今まさに、目の前にお客様がいらっしゃるわけだけど」
「それは気づかなかったな。どこにいらっしゃるのか是非とも教えていただきたいね」
「はい、ここに」
「この店では、買い物をする気の無い冷やかしは客とは呼ばないんだよ」
「なんと」
どうやら、私の購買暦に文句があるらしい。
おかしな話である。私はちゃんと買い物をしたことがあるというのに。
この事実を断固として主張しなければなるまい。
「失礼ね、私はちゃんと買い物をしたことがあるでしょう?」
「ああ、たったの一度きりだけどね」
店主が呆れながらに指摘する。
「それでも事実に変わりはないわ」
「ふむ。君はこれまでに何度この店を訪れたか覚えているかい?」
「残念ながら。私は今に生きると決めているの」
「なるほど、実は僕も覚えていない」
しかし、と店主は続ける。
「君がこの店に来るのは凡そ月に3、4回だ。そして、君が初めて訪れたのは大体三年ほど前……つまり、控えめに考えても、これまでに百回はご来店頂いている訳だよ」
「あら、別に感謝する必要はないわよ? 私が好きで来ているだけなんだから」
「感謝するわけないだろう。僕が言いたいのは、それだけ店に来ていながら、君はたったの一度しか買い物をしたことが無いという事実だよ! 確率にすると、君が購入する可能性は1パーセントにも満たない!」
親の敵でも見るかのように、憎々しげにこちらを睨む。
まったくもって心が狭いことこの上ない。
もう少しおおらかに生きられないのだろうか。
「あら、怖い」
「惚けたって無駄さ。さ、お帰りはあちらからどうぞ」
と言いながら、店主は出口を差し示す。
「そう言わないで頂戴。今日は本当に買い物に来たのよ」
偏屈の上に偏屈で塗り固めたような店主の無愛想な顔がぴくりと反応する。
「とはいっても何時も通り、珍しい物を探しているわけなんだけどね」
私だって、今まで何の努力もしてこなかったわけではない。ちょくちょくこの店を訪れていたのは今日と同じ目的――すなわち、難題となり得るような珍しい道具を探すためだ。
普通の店にはそんな物が転がっているはずもないし、自らの足を使って探そうという程の気力も無い。
そうなると、外界から流れてきた道具まで扱うこの店は私にとってはまさにうってつけであった。
「あのねえ。いつも言っているけれど、君のコレクションに並ぶような物はそうそう出てきやしないよ」
確かにその通り。
むしろ、簡単に出てきてしまっては私としても困るというものだ。
私とてたかだか一ヶ月やそこら来ていなかったからと言って、神宝クラスのものがおいそれと入荷しているとは思わない。
だがしかし、今日の私には考えがあった。
「ねえ、店主」
「……なんだい?」
不審な匂いを嗅ぎ取ったのか、訝しげに店主が答える。
「今日はね。奥の倉庫――見せて頂きたいのだけれど」
「だが断る」
即答だった。
「なんで!?」
「なんでも何もないだろう。何のために倉庫があると思っているんだい? あそこのはね、売り物じゃないんだよ」
「それにしたってもうちょっと考えてくれても――」
「駄目なものは駄目だよ」
その強固な意志そのままに、毅然とした口調で店主は言い切った。
「勿論、それなりのお金は払うわよ?」
「駄目だね」
「ついでに、他の道具を買い取ってもいいわ」
「お断りだね」
「どうしても?」
「駄目だ!」
「見るだけでいいから!」
「嫌だよ!」
「そこをなんとか!」
「君も大概しつこいなあ!」
ぜえはあと二人で荒い息を吐きながら呼吸を整える。
まさか、ここまで強固に断られるとは思いもよらなかった。
奥の倉庫とは、その名の通りこの店の奥にあるらしい倉庫のことだ。
この店は魔法道具から外界の品物まで手広く扱っている。それというのも「道具の名前と用途がわかる」という店主の能力を活用するためということだが、名前と用途がわかっても使い方はわからず、そして使い方のわからない道具は用を成さない。
しかし、店主も日々を無為に過ごしているわけではないらしく、その道具達の使い方の研究には余念がない。
そうしていると中には使い方が判明する物もあるということだが、そういった使い方の判明した道具の殆どは件の倉庫へ仕舞われてしまう。
つまり、彼が本当に気に入った道具が店頭に並ぶことは無く、それらは全て奥の倉庫へ置かれることになるわけだ。
その倉庫を見れば、私が求めるようなものもきっとあるに違いない――私はそう踏んだのである。
それに、店主の過剰な程の反応を見ると、私に見せられない程の貴重なものがあるのではないかと思えてならない。
なんとかならないだろうか?
私が考えを巡らせていると、呼吸を整えた店主が言った。
「……別に、伝説に残っているような大層な道具でなくてもいいのかい?」
「と、いうと?」
「つまりさ、何かしら謂れのあるような、古い道具なら何でも構わないんだろう?」
何でも構わない――というと些かハードルが下がりすぎなような気もするが、倉庫が駄目なら何でも見ておきたいという気持ちもある。
この際だ。ここはとりあえず店主の提案に乗ってみるべきか。
「……そういうからには、それなりの物なんでしょうね?」
「勿論さ」
自信ありげに答える。
「それでは――ご案内しようか」
そう言って、店主はにやりと口の端を歪めて笑った。
◇◇◇◇◇
先ほどの少女は、店の奥で店主となにやらごにょごにょと話し込んでいます。
私は彼女が一体どんな物を所望しているのか気になって仕方がありませんでした。
果たして私が買ってもらえる可能性があるのかどうか――それがどうしても知りたかったのです。
しかし、いくら耳を澄ましても二人の声は聞き取れず、私はやきもきするばかりです。
傘の姿のままでは動くことも出来ませんし、店主の手腕を信じて待ち続けるほかに出来ることはありません。
妖怪時代、驚かすために物陰で人が訪れるのを待ち続けていた私です。待つことは得意中の得意なのです。話し込むとは言っても高々数分程度、それくらい私にとってはあっという間だと――そう思っていたのです。
ですが、今回はちょっと勝手が違いました。
胸はどくんどくんと高鳴り、一分一秒がやたらと長く感じるのです。
ここに至るまで一ヶ月もの間この棚に並べられていたわけですが、それよりも遥かに長い時間を過ごしていたようにすら思えます。
そうやって、私が忍耐力とにらみ合いを続けていると、不意に奥から聞こえていた二人の話し声が途切れました。
おや、と思って耳を澄ませば、ひたひたと二つの足音が近づいてきます。
どうやら、お話は終わったようです。
一体あの少女は何を買うつもりなのでしょうか――私は、買って頂けるのでしょうか?
明日への希望を見出すべく、私が買ってもらえる可能性を必死に探しましたが、それはどうにも心許ない結果に終わりました。私はどうしても、道具としての自分にそれほどの価値があるとは思えなかったのです。
しかし、それでも私は諦めません。この際どんな理由でも構わないから、買って貰える可能性はないかとひたすらに探し続けます。
それは当然、この機会を逃せば次はいつになるかわからない、そんな焦りも確かにありました。でも、それよりもなによりも、この少女に、この黒髪の女の子に使って欲しいという思いが私を駆り立てたのです。
勿論、そんな可能性が見つかったからといって買ってもらえるとも限りません。頭ではわかっていましたが、私はどうしてもそれを探すのをやめることが出来ませんでした。
そうして私が祈るように自分が買ってもらえる可能性を数えていると、足音は、私の前でぴたりと止まりました。
どくん、と鼓動が一際高まるのを感じます。
「さあ、これがさっき話した道具だよ」
そう言って、店主は私を手で示したのです。
◆◆◆◆◆
さて、店主はああ言っていたけれど――実際の所はどうなのかしら?
正直に言えば、あんまり期待はしていない。
もしもそんな大層な物があったとすれば、真っ先に売りつけそうなものである。
それに、先ほども言ったようにこの森近霖之助という男は、気に入った道具は倉庫に仕舞いこんで私物化してしまう。
つまり、店に並んでいる以上はその網から零れた物ということであり、それに大きな期待が持てるかというと――やっぱりそんなことはないのである。
今もちらちらと棚を確認しているが、新しい道具もちらほら散見しているものの、条件を満たすような道具は見当たらない。
まあ、外れの場合でも、その時はその時で再び倉庫狙いで粘ればいい。
そんな事を考えていると、
「さあ、これがさっき話した道具だよ」
店主が歩を止めて、一つの道具を指し示した。
それは、
「……傘?」
傘だった。
どこからどう見ても、ごくごく普通の唐傘だった。
「ええと、これが?」
「ああ、そうだよ」
店主は自信たっぷりである。
色は紫――よりはちょっと濃い、例えて言うならなすびのような色で、店主の言うように確かに古い、結構な年代物であるように思える。……思えるのだが。
「ただの唐傘じゃないの」
そう、それは年代物というだけで、何の変哲もないただの唐傘であった。
しかし、そんな私の指摘にも、店主の自信は崩れない。
「なるほど、君にはそう見えるのか。僕にはとてもそうは思えないのだけれどね」
「騙そうたってそうは――」
「いやいや、そんなつもりは毛頭ないさ。ただもう一度よく見てくれないか。何か、感じるものがあるはずだよ」
そう言われて、私はじっと傘を観察する。
「そんな事言われても別に何も……ん? これは?」
近づいて、実際に手にとってみる。
触れた部分から確かに感じるこの感触は……妖気!?
「これって――?」
「どうやら、気付いてもらえたようだね」
そう言って得意げに笑う。
「ちょっと、これはどういうことなの?」
「僕にも詳しくはわからないさ。なにしろ、僕にわかるのはその道具の名前と用途だけだからね。由来まではわかりはしないんだ。それの名前は唐傘だし、用途はご存知のように『雨を凌ぐ』っていうだけさ。でもね――僕が半分妖怪だからかな? その傘には、何か他の道具とは違った印象を受けたのさ」
確かに店主の言うとおり、見た目はただの傘にしか見えないし、普通の人間から見れば間違いなくその通りのものでしかないだろう。
しかし、確かに感じるこの妖気は、この傘がただの傘ではないと示している。
なるほど、これならば――!
「どうかな。お気に召したかな?」
「……えぇ、実に素晴らしい傘ね」
どんな歴史のある道具なのかはわからない。
しかし、この傘には間違いなく特別な何かがある。そう思わせるだけの要素がたっぷりある。
「さて、それでは道具は気に入っていただけたようだし――」
私の手から唐傘を取り、
「――値段交渉といこうか?」
そう店主は囁いた。
◇◇◇◇◇
し、信じられません!
私は夢でも見ているのでしょうか?
私はこれまでの長い傘人生の中で、持ち主に褒められた事なんて一度もありませんでした。
しかし、あの黒髪の少女は私を抱き上げて、
「……えぇ、実に素晴らしい傘ね」
と、確かに言ってくれたのです!
こんなにも嬉しいことはありません。
思わず嬉しさの余り大声で叫び出しそうになりましたが、その衝動はギリギリの所でなんとか押さえ込みました。
いまや私はただの傘。
ただの傘は喋ったりはしないのです。
それは勿論この少女もそう思っているはずで、もし変な真似をして妖怪だとばれてしまっては、これまでの苦労が水の泡です。
折角気に入ってもらえたこの少女にも――私が妖怪だとばれてしまえば、きっと嫌われてしまうに違いありません。
私は道具として生きるという事を改めて認識し、何が起こっても喋らず、動かず、道具らしく生きていこうと固く誓いました。
いよいよ妖怪としての自分を捨て去らねばならないと思うと一抹の寂しさも感じますが、これから訪れるであろう明るい日々を思えばなんてことはありません。
私の決心は、岩のように固いのです!
そうです。迷うことなどありません。
どうせ――あのまま妖怪として生きていても、誰にも相手にされず、ただ辛い日々が続いていくだけなのですから……。
胸の奥にちくりと走るか細い痛みは、気のせいに違いないのです。
そうして私が喜んでぽわぽわしたり決意を固めたりしていると、
「いくらなんでも高すぎるわ!」
という叫び声が聞こえました。
そこでようやく我に帰った私は、目の前の二人に意識を戻しました。
「そうかな? 僕はそうは思わないが」
「だって――百万なんて! それで普通の傘が何本買えると思っているの?」
ええと、一体何のお話でしょうか。
百万……はて、何のことでしょう?
「確かに君の言う通り、それだけあれば普通の傘が何本も買えるだろうね――『普通』の傘なら」
店主が少女に向かって平然とした様子で言いました。
「でも、それにしても百万『円』は高すぎるわよ!」
円? 百万円?
これはもしかして、私の値段、なのでしょうか?
百万円……私が?
えぇぇぇぇぇぇぇっ!?
驚きの余り叫びそうになりましたが、自制心を総動員してなんとか踏みとどまります。
これは一体どういうことなのでしょうか。ただの古びた唐傘である私が百万円とはとても信じられません。
「そんなことはないさ。この傘にはそれ位の価値があるよ――それは、君にだって十分わかっていることだと思うが?」
「くっ」
私にそれだけの値段をつけて頂けたことは、実に誇らしいことです。
しかし――、
「それにしたって、もうちょっと常識的な値段にしてくれてもいいんじゃない?」
――彼女は、納得していないご様子です。
「それに、その傘の価値がわかる人間がそんなにいるとは思えないわ。それはつまり、それだけ売りづらいって事になるんじゃないかしら?」
「確かにその通りだ。しかし、君は知らないかもしれないが、世の中にはそういった狭い市場の中でこそ高い価値を認められる道具が数多くあるんだよ。これも同じことじゃないかな?」
私の価値を認めて頂けたのは本当に喜ばしいことです。
しかし、私は――私は、ただ誰かに使って欲しいのです。
値段なんて、タダ同然の捨て値でも構いません。
ですからどうか、私を彼女に売って頂けないでしょうか。
そんな願いを込めて、店主をじっと見詰めます。
無論、そんなことをしても気付いてはもらえないし、例え気付いたとしても店主にはそんなことをする理由はないのかもしれません。
それでも、そう願わずにはいられなかったのです。
「むむぅ……。こんな値段で買ったら永琳に何て言われるか……」
少女は未だに悩んでいるご様子です。
店主は――、
「……」
――黙ったまま私を見詰め、何か考え込んでいるようです。
そうして、やがて顔を上げると、意を決したように口を開きました。
「わかったよ。そこまで悩むというのなら、僕だって鬼じゃない。君の言う適正な価格とやらにしようじゃないか」
「へっ?」
そんな店主の言葉に対して、まさに虚を突かれたいった感じに、少女がぽかんとした表情で声を上げました。
驚いたのは少女だけではありません。私だって、これにはびっくりしました。
まさか、私の願いが届いたのでしょうか?
「そうだな――値段は、そう、2980円でどうだろう?」
「安っ!?」
突然の大幅値下げ。
マリアナ海峡も驚きの大暴落です。
しかし、私は嬉しくて仕方がありませんでした。
だってこれで――
「……うん。それなら、是非買わせて頂くわ」
――私は少女の傘になれるのですから。
◆◆◆◆◆
そうして値段交渉が終わると、店主は支払いはこちらでと、私を奥へと呼び寄せた。
「どうしたの? わざわざこんな所に呼び寄せて」
「あぁ、いや……あっちだと少しばかり都合が悪くてね」
回りには商品なのかがらくたなのか判別のつかないような品々が所狭しと置かれている。ようするに、先程傘を見ていた場所と何ら変わったところはない。
しいて違う所を挙げるとすれば、普段店主が使っていると思われる机が道具達の中に埋もれるようにして鎮座しているが、まさか支払いはここで行うという決まりがあるわけでもないだろう。
一体、何の用があるんだろう?
まったく見当がつかない。
私はそこにたまたま置いてあった七色に輝く円盤――店主の言う所に寄れば記録を保存する道具であるらしい――を眺めながら、店主に訊ねた。
「それで、何か用があるんじゃないの?」
「……そう。ちょっと聞いておきたい事があってね」
そう言って、先程の傘をちらりと横目に見遣りながら続ける。
「君が普段から珍品を集めているのは勿論知っていたけれど――一体何のために、わざわざそんなものを集めているんだい?」
「あら、話したことはなかったかしら?」
「聞いた事があるような気もするのだけどね。折角、道具を売ることになったんだ。それがどう使われるのか、改めて聞いておきたいと思ったのさ」
別段隠すような話でもないだろう。
私は掻い摘んで、事の次第を店主に話した。
「なるほどね。スペルカードのために……」
「えぇ。まあ、多分に趣味も入ってるのだけどね」
「それはつまり――普通の傘として使うことはない。そういうことかな?」
「まあ、そうね。別に、だから使わないというわけではないんだけど、あの傘は随分古い物のようじゃない? 古い物をわざわざ使う理由もないでしょう。だからといって乱暴に扱うつもりもないけれど――まあ、骨董品みたいなものね」
何かしら特別な能力があるなら兎も角、あれはただの傘である。
道具は、新しければ新しいほど良い。
使えなくなった道具は厄介物だし、古くなった道具は新しいものと取り替えないと使い勝手が悪いものである。
あえて古いものを使い続ける理由も無いだろう。
ありふれた話ではないかもしれないが、これといって特に面白い話でもない。
少なくとも、私はそう思っていた。
しかし――、
「……」
――何か考え込むように俯いた店主の表情は、真剣そのものである。
私にはどういうことだかさっぱりわからなかったが、話しかけるのも憚られて、ただ黙ってその様を眺めていた。
そうして岩のように硬く黙り込んでいた店主が、ぽつり、と静かに語り始める。
「君も知っての通り、僕には一風変わった能力がある」
彼の能力――道具の名前と用途を知ることができる力。
「僕がね、こんな道具屋を始めたのは、その力を十分に活用することが出来ると思ったからだ。魔法道具や外界から流れてくる品々――そういった道具は、普通の人間から見ればがらくたにしか見えないような物も多々あるんだ」
そう、確かにそれはその通りである。
例えば、私の目の前にあるこの円盤。これは歴とした道具であることは間違いないのだが、私にも正確なところはわからない。生粋の幻想郷の住民ともなれば尚更であろう。
「しかし、僕ならその名前と用途がわかる。僕なら能力を使って、その未知の道具達をより相応しい場所へ送ることが出来ると、そう思ったのさ」
「なるほどね。そういった意味では、この店は格好の場所といえるでしょうね」
営業スタイルは兎も角として、だけども。
「道具っていうのは、何かしらの目的のために役割を担って生まれてくるものだよ。だというのに、中にはその役割を忘れられてしまう物もある。それを忘れられた道具は――役割を果たせなくなった道具は、ただのがらくたさ」
まさか、このニコリともしない無愛想な道具屋がそんな事を考えているとは想像もしていなかった。
能力のことは知っていたけれど、この店は道楽でやっているものだとばかり思っていた。
「当然、中には例外もある。例えば骨董品とかね」
実用を考えれば新しいことに越したことは無い。
だが、古い道具にも、それはそれで新たな価値が生まれるものである。
現役を退き、資料や美術品としての価値が。
「しかし、もし――もしもだよ。もし、道具に意思があったとすれば、どうだろう? その道具の担う役割とは道具にとって、一体どんなものなんだろうか?」
「……は?」
何を言い出すのだろうか、この男は。
突然の店主の発言に、私は眉を顰めた。
「なに、ちょっとした例え話だと思ってくれればいい。もし道具に心があったとすれば、その役割を果たすことは道具達にとってどういうことなんだろうか。君はどう思う?」
店主の意図は皆目検討もつかなかったが、ほんの少し、ちょっとした遊びだと思って考えてみる。
義務、仕事――いくつかの言葉が頭に浮かぶが、どれもいまいちしっくりと来ない。
「……あなたは、どう思うの?」
お手上げとばかりに店主へ訊ねる。
「僕かい。僕は――そう、『生甲斐』かな」
「生甲斐……」
「そう、生甲斐だよ。僕達が目的を成し遂げたときに喜びを感じるように、きっと道具もそうだろうと、僕は思うんだ」
それは、何とも予想外の答えであった。
しかし、こうして言われてみると、それ以外の答えも無いようにも思える。
「だとすれば、いくら骨董品といえども使われなくなるということは、それは果たして道具達にとって幸せな事だと言えるのだろうか。それは、不本意なことなんじゃないか? ……だからね。実を言えば最初はあの傘を、君に売るつもりはなかったんだ」
「……えっ?」
「具体的なことは知らなかったけど、君が普通の使い方をしないであろうことは容易に想像がつく。僕としてはそんな相手よりも、道具を道具らしく扱ってくれる相手に買って欲しいと思ったのさ」
……そういう、こと。
つまり、最初に言ったあの値段は――
「百万っていうのは、私を諦めさせるためのはったりだったというわけね……」
「そういうことさ、悪かったね。……最初はただ、普段から冷やかしばかりの不良顧客に、ちょっとばかりお灸を据えてやろうと思っただけだったんだけど」
「でも、それじゃ――」
それじゃ、何故あの値段に下げたの?
その言葉を最後まで言い切る前に、
「さあてね? ただ、あの道具がそれを望んでいる――そんな風に思えただけさ」
店主が先回りしてそう答えた。
「……そう。それでも、あれの使い道はかわらないわよ?」
「好きにすればいいさ。結局の所、道具を使うのは人間なのだから。でも――」
そこで、言葉が途切れる。
「……なによ?」
「今日は、ちょうど日差しも強いようだし。せめて、この帰り道くらいは日傘の代わりにでも使ってみたらどうかな?」
果たしてそんなことに意味があるのか、なんともいえない微妙な提案だ。
私はそれを聞かなかった振りをして、
「お代、ここに置いておくわね」
そう言いながら机の上にお金をおいた。
そのまま何も言わずに出て行こうとするが――ふと、背後から視線を感じ、そちらへ振り向く。
当然のことながら、そこには誰もいなかった。
だがしかし――先程までそこにあったはずの七色に輝く円盤の姿が見当たらない。
いつの間に、店主は仕舞ったというのだろう?
◇◇◇◇◇
上へ下へ、右へ左へ。
ゆらゆらと揺れる景色を眺めながら、私は幸せな気持ちに浸っていました。
空を見上げれば何処までも続く青空――とはいかず、彼方には黒々とした雨雲が見えるものの、今は太陽が我が物顔で照り付けています。
私は精一杯に腕を伸ばし、その燦然と輝く太陽の光を大きく広げた傘布で受けていました。
その下には、太陽から隠れるように一人の少女が身を潜めており、淡い桃色の袖から伸びた細い手は、私の手元をしっかりと握っています。
傘を買ったばかりの子供が喜びのあまり晴天の中で傘を差す――なんていうのは、全国の傘達があこがれるお話ではありますが、今回はどうもそれとは違うようです。。
今回はこの日差し、それを避けるための日傘の代わりといったところでしょうか。
それは本来の私の役割とは違いますが、晴れある傘復帰戦の第一回です。
これが嬉しくない筈がありません。
今はまだ雨は降っていませんが、空模様を見る限りではすぐにでも初仕事の機会が訪れるやも知れません。日傘の代わりでは傘として働いているという実感もまだ薄いものではありますが、そうなれば話は別です。
仮に今回駄目だったとしても、何も焦る必要はありません。
以前は配色のせいで捨てられてしまった私ではありますが、この少女には気に入って頂けたようです。きっと、大切に使って頂けるに違いありません。
ならば、今焦らずともこの先に必ず活躍できる日が訪れることでしょう。
唯一つ心配な事といえば、彼女があまり積極的に出掛けるタイプとは思えないことです。
しかし、贅沢は言っていられません。
今再び、こうして人の手に握られている事それ自体が、以前の私を鑑みれば奇跡のようなものです。
なんと幸せなことでしょう。
本当に、喜ばしい限りです。
しかし――その筈なのに、再び胸の奥がちくんと針を刺したように痛みます。
これは、一体どういうことなのでしょうか。
傘として、これ以上の幸せは望むべくもありません。
ではこれは――この気持ちは、一体何なのでしょう。
未練、なのでしょうか。
妖怪としての自分に、まだ未練があると、そういうことなのでしょうか。
そんな筈がありません。
だって私は、妖怪として生きていくことに絶望して、今の道を選んだのですから。
今更、未練なんてあるはずがないのです。
けれど頭ではそう思っていても、痛みはじくじくと胸の奥に広がっていくばかりで、少しも治まる気配はありません。
結局、結論は出ないまま、ただ悶々とした気持ちが積もっていきます。
わからないことをいつまでもうじうじと考えていても仕方ありません。
今はただ、この幸せを噛締めていよう。
私はそう、思いました。
◆◆◆◆◆
私は、先程店主の言ったその通りに、購入したばかりの傘を差しながら帰り道を歩いていた。
しかし、勘違いしないで頂きたいのだが、これは店主に言われたからそうしているわけではない。
何しろこの日差しである。
何の対処もなしに長時間こんな光に晒されれば日焼けするのは避けられない。
だから、手近にあった物で何とかしようと思っただけのことだ。
当然、来るときと同様にさっさと空を飛んで帰るという選択肢もあるにはあったが、やはりこの日差しだ。唯でさえ参っているというのに、わざわざより一層憎き太陽へ近づくなんて馬鹿げている。
そう、それだけ。
特に深い意味なんてない。
今更、少しでも傘らしく使ってやろうとか、そんなことは少しも思ってはいない。いないのである。
そもそも、道具とは人に使われるために生まれるものである。
それが何であれ、どのように使おうと人の勝手なはずだ。
そのはずだ。
だというのに――だというのに、この気持ちは何だろう?
どうにも煮え切らない、胸にまとわり付くこの感じ。
頭ではこれでいいと確かに思っているはずなのに、どうしてもその気持ちを振り払うことが出来ない。
罪悪感――だとでもいうのだろうか?
香霖堂を出てからの道中ずっと、私はそのことばかりを考えている。
ありもしない道具の気持ちなんてものに振り回されるなんて馬鹿げているし、自分の考えが間違っているとは思わない。
しかし考えれば考えるほど、胸に残ったしこりは重さを増していくばかりで、少しも気持ちは楽にならない。
どういうことだ。理不尽ではないか。
私はただ自分の欲しい物を買って、好きなように使おうと思っているだけなのに、何故このような、不安な気持ちにならねばならないのか。
そもそも、店主の話からして納得がいかないのだ。
古い物を大切にする。実に素晴らしいことだ。
使われることが道具にとって生甲斐だというなら、それもいいだろう。
しかし、だとすれば――それはいつまで続くというのか。
私達がいつまで古い道具を使えば、道具達の気が済むのか。
壊れるまで新しい物に目を向けず、ひたすら使い続けろとでも言うつもりなのか。
そんなの、ふざけている。
そんな事を考えながら、傘をくるくると回す。
不思議なもので、最初に見たときはなんと格好の悪い傘だろうと思ったが、いざこうして自分の物になってみるとそれも何だか愛嬌があるように思える。
改めて見れば、この傘もそんなに悪くないのではないか。そんな風に、思えた。
たまになら、うん、たまにちょっと使うくらいなら――いや、駄目だ。
これではただ店主の言葉に踊らされているだけではないのか。
自身の正しさに自信を失い、他人の意見に流されているだけ、肝心な部分を人任せにしているだけではないのだろうか。
そうだ。最初から結論は出ていたはずだ。何も迷うことはない。
この傘は元々スペルカードのために買ったものだし、古い物を無理に使う必要などない。道具とは人が作ったものであり、それをどう使おうと人の勝手だ。それでいいのだ――初めからそのつもりだったのだから。
私がそう結論した瞬間、
「――あら、ごきげんよう。こんな所で会うなんて奇遇ね」
不意に、これ以上ないくらいに胡散臭い声が耳に届いた。
◇◇◇◇◇
「――あら、ごきげんよう。こんな所で会うなんて奇遇ね」
声が聞こえたその時、私は空中を眺めていました。
なのでその瞬間もちょうど目にすることが出来たわけですが、それは余りにも唐突で、いくらここが幻想郷といえどもにわかには信じ難い光景でありました。
突如として空間がぱっくりと口を開き、その中から紫色のドレスを纏った金髪の少女が現れたのです。
私は突然の出来事にただただ呆然とする外なかったのですが、私の持ち主である少女はそれほど動じた様子もなく、平然とした様子で挨拶を返しています。
「ごきげんよう、八雲紫。……しかし、奇遇とはよく言ったものね?」
「……何のことかしら?」
「あら、惚けるつもり?」
少女の声は相手を警戒しているのか、どこか緊迫した色がありますが、対する相手は余裕そのもので怪しい微笑を浮かべています。
「今、スキマから現れたでしょう。そんなことをしておいて、奇遇も何もあったものではないと思うのだけど?」
「ふふ、ご明察ね。確かにその通りです。貴方、香霖堂からの帰りでしょう? あそこは私もよく通っていまして、今日も少し顔を出そうと思っていたのですよ。ちょうど貴方が出てきた所でしたので、声を掛けさせて頂いた次第ですわ」
「……ふぅん」
怪しむ態度を隠そうともせずに、少女は金髪の――八雲紫と呼ばれた少女へと訝しげな視線を送っています。
お話を聞く限りでは、どうやら顔見知りの様子ではありますが、余り仲が良いともいえないようです。
突然空中から現れたこともそうですが、何よりもその掴み所のない微笑からは、底知れない不気味さを感じます。
妖怪である私ですらこのように感じるのですから、少女が警戒するのも無理のない事かもしれません。
「……ところで、貴方が持っているその傘ですが」
「……傘?」
私っ!?
いきなり集まった二つの視線に私の心臓がばくばくと高鳴ります。
「えぇ、その傘です。香霖堂で購入した物とお見受けしますが――」
「確かにその通りだけど、それが何か?」
「ふふ、そんなに警戒しないでくださいな。ただちょっと気になったもので……。これは興味本位で聞くのだけれど、貴方は、それをどうするつもりなのかしら?」
私を、どうするのか?
これは、一体どういう意味でしょうか。
私の知る限りでは、傘にはそれ程多くの使い道は無いように、というかむしろ一つしかないように思えます。
「……何故、そんなことを?」
少女が、警戒を解かないまま八雲紫に尋ねます。
「だって不思議じゃありませんか。あの店で扱っているものはその殆ど全てが拾い物、新品なんて一つもありませんわ。傘なんて、人里にでも行けば新品の物が幾らでも買えるというのに、わざわざあの店で買うなんて」
……確かに、その通りです。
私自身、その点は不思議に思っていました。
元々、新品と比べられれば見劣りすることはわかっていました。だからこそ、あの店を選び、僅かな可能性に賭けたのです。
しかし、この少女は元々何かを探しに来ていた様に思えます。
もし最初から傘を探していたというのなら、人里の、新品を扱っている普通のお店に行くはずです。
では、この少女は一体どんな理由で香霖堂に訪れたのでしょうか?
何故――私を買ってくれたのでしょう?
ただ単純に気に入ったという理由以外の何かがそこにはあるように思えます。……でも、
――実に素晴らしい傘ね。
彼女は、確かにそう言ってくれたのです。
例え理由がそれだけではなかったとしても、それだけは間違いのない事です。
きっと、どんな事情があるにせよ、大切に使ってくれるに違いありません。
私はそんな自信と少しの興味を胸に宿らせて、静かに彼女の言葉を待ちました。
少しの逡巡の後に、ようやく少女が口を開きます。
「別に、大した理由じゃないわ。……ほら、貴方は知っていると思うけど、私はスペルカードを自分の持つ難題――珍しい道具をモチーフにしているでしょう? 新しいスペルカードを考えるのに、新たな道具が必要だと思ったのよ」
「それはつまり、別に傘として使いたいわけではないと、そういうことかしら?」
僅かに迷いながら、それでもはっきりとした口調で少女が言います。
「えぇ、そうよ。貴方の言った通り、ただ使いたいというだけなら新品を買うわ。普段は、倉庫にでも仕舞っておくつもり」
「……成程、よくわかりましたわ」
――ああ、どうやら私は、とんでもない勘違いをしていたようでした。
◆◆◆◆◆
一体このスキマ妖怪はどういうつもりなのか。
これは確かに珍しい傘かもしれないが、果たして妖怪の賢者とも言われた八雲紫が興味を示す程の物だろうか? 私には、とてもそうは思えない。
あるいは、何かしら秘密があるのかもしれない。
私の知らないような、何かが。
「ねえ、ちょっとお願いがあるのですけど――」
私が思案に耽っていると、唐突に紫が言った。
「――その傘、譲っていただけないかしら?」
「……いきなり、何を言っているの?」
不可解さ、ここに極まれり、だ。
「特に深い意味はありませんわ。ただ……貴方よりも、私が使った方が相応しいかと思いまして」
色も紫ですし、と自らの服をつまんでひらひらと揺らす。
果たして本気で言っているのか――それも正直よくわからない。
だが、
「……私よりも相応しい? そんなこと、あるはずないでしょう」
私とて、そうまで言われて黙っていられるほどお人よしではない。
「本当に、そうかしら?」
すっと、何の前触れもなくいつの間にか眼前へと迫り、瞳を覗き込みながら紫が言う。
突然のことに私は動揺し、思わず一歩、下がってしまう。
「……な、何をもって、そんなことをいうのかしら?」
売り言葉に買い言葉と条件反射的にそう応えたものの、自分でもわかる程に混乱した有様が言葉の端々に滲み出てしまっている。
そんな私の様子にはお構いなしに、まるで生徒に教える教師のようにゆっくりと紫が語る。
「道具には、持って生まれた役割というものがあります。それを全うすることが道具にとっての幸せであり、あるべき姿です。そして、そうした使い方が出来る者こそ、その道具を持つに相応しい人物ということですわ」
「貴方も、道具に心があるとか言い出すのかしら? 古い物が新しい物に取って代わっていくのは当然のこと。それに、道具は人間が作ったもの――それをどう使おうと、人間の勝手でしょう?」
そう――それが私の、結論だ。
しかし紫は、悠然とした態度で続ける。
「そんなことはありません。それにこれは道具に限った話でもないの。人間には人間の、そして妖怪には妖怪の果たすべき役割というものがありますわ。役割とは、すなわちその者の本質です。それから外れた者に訪れるのは――不幸な末路だけ」
不幸な――末路。
「例えば、ご存知のように私には藍という式がいるけれど、彼女がその真価を発揮するのは私の命令どおりに動いている時。それが式としての藍の果たすべき役割だから」
「あら、彼女はあなたにとってただの式でしかないのかしら? 私は、てっきり家族のようなものだと思っていたけれど」
ただ黙って紫の言うことを聞き続けるのも癪なので、口を挟んでみる。
内容に意味なんてない。
ただ腹が立って、何でもいいからいちゃもんをつけたかったのだ。
「ふふっ、勿論、家族よ。こう考えたら如何かしら? 藍は式でもあり家族でもある。他人から見ればただの式だし、私から見れば家族でもある。役割が一つだけとは限らないでしょう?」
「そのAでもありBでもあるっていうのが格好いいのは思春期の間だけらしいわよ?」
「問題ありませんわ。だって私は――永遠の少女ですもの」
にんまりと怪しく笑いながら、紫は言った。
悔しいけれど、どうやら私の言葉ではこのスキマ妖怪はびくともしないらしい。
「それじゃあ、道具に付き合って、いつまでも同じ物を使えって言うの?」
「さぁ……?」
「さぁ、って……」
やはり、ふざけているのか?
「そんな事に、答えなんてありません。お好きなようにすれば良いと思いますわ」
「言っていることが、矛盾しているわ。私は、私の好きなようにしているじゃないの!」
そんなわたしの問いかけに、紫は耳元で囁いた。
「――本当に?」
言葉に、詰まる。
それを否定することなんて簡単だ。ただ一言「そうだ」と言ってやればいい。
それなのに私の口は重く閉じたまま、何も言い返すことは出来なかった。
「……さて、ご理解いただけたようですし、その傘、譲っていただけますね?」
そう言いながら、ゆったりと手を差し伸べる。
だが、勿論。
「そう易々と、この私が言うことを聞くと思う?」
そうだ、私にだって矜持がある。
はいそうですかと自分の買ったものを譲れるわけがない。
それに――、
「こう見えても、この傘は結構気に入っているのよ。だから――貴方には譲れないわ」
「あら、それは困りましたわ」
そんな事を、明らかに困っていない顔で言う。
「それでは、こうしましょう。ここは一つ、幻想郷らしく――スペルカードによる決闘で決めるというのはどうかしら?」
「望むところよ!」
私は堂々とそう答えた。
答えた、のだが――
「どうかしら。もうそろそろ諦めがついたのではなくて?」
「くっ……」
決闘が始まって数分、私のスペルカードはことごとく破れ、残り一枚という所まで追い詰められていた。
紫はどうかと言うと、無傷ではないものの、まだカードの枚数にも余裕があり、それははっきりと態度にも表れている。
正直に言って、旗色はかなり悪い。
「ふふ、貴方のスペルも悪くはないのですけれど――残念ながら、少々見飽きてしまいましたわ」
まさしく、それが今の戦況の主な原因である。
私の用意しているカードは殆ど全て、以前の異変の際に彼女に見せている。
それに対して私は、彼女の使うスペルカードを殆ど知らなかったのだ。
今回の目的はその弱点の補強であったはずなのに、それが原因でこうして弱点を露呈してしまうとは、何とも皮肉な話である。
必死に弾幕を避ける私を見詰めながら、彼女は静かに口を開く。
「先程、道具に心がある――などと言っていたけど、仮にあったとしたらどう違うのかしら? 仮にあったとしても、そんなことはわかりません。わからないなら、無くても結局は同じでしょう? 決めるのは――貴女なのです」
「だから、そうしているでしょうにっ!」
「いいえ、貴女には何も見えていない――いえ、見えない振りをしている。いつまでそうしているつもりなのかしら?」
この期に及んで、何を言っているのだろう。
私には、何も見えていない?
「……言ってくれるじゃないの――舐めないで頂戴」
最早ただの意地である。
私は生粋の意地っ張りさんなのであった。
「なら、見極めて御覧なさい――この結界を!」
紫が新たなスペルカードを宣言する。
それは――、
「これが、話に聞いた『弾幕結界』……」
彼女を象徴するような紫色の弾幕が、私を囲うように弧を描きながら幾重にも展開されていく。
「くっ、このままじゃ――」
配置されていく弾幕をすり抜けながら、外へ外へと向かう。
そうして私が抜け切った所で、配置されていた弾幕達が中心に向かって収束――そして、拡散。
あの場に踏みとどまっていては間違いなく被弾していただろう。囲われきってしまえば、逃げ場など何処にもありはしない。
しかし、そうやって安心したのも束の間、気が付けば既に次の弾幕がくるくると私の周りを回転しながら配置され始めている。
「早く、抜けないと――」
しかし、今度は間に合わない。
「なら……蓬莱の弾の枝!」
スペルカード宣言と共に、七色に輝く弾幕が広がっていく。
それは紫の弾幕結界を相殺し、その場に残るは消し損なった微かな残滓のみ。
勿論、そんなものには当たらない――が、これでもう、後は無い。
しかも、既に新たな結界が私の周りには敷かれ始めている。
外で、もっと外へ逃げなくては!
「く――はっ!」
弾に触れるか触れないか程の隙間を縫って、漸く外へと辿り着く。
そして、再び収束、拡散。
しかし、それを避けきっても直ぐに新たな結界が展開される。
結界は収束と拡散を繰り返し、今やその密度は停止状態でも抜けがたいほどになっている。
それでも急がなくては。少しでも逃げるのが遅れれば、最早躱すことは不可能なのだから。
服の上を掠めていく弾の感触を感じながら、慎重に弾幕の間を進んでいく。
「よ――しっ!」
なんとか、本当にギリギリの所で結界を抜け切った。
これなら――あるいは、凌ぎきれるかもしれない。
再び拡散していく弾幕を避けながら私はそんなことを考えていた。
だが、
「なによ、これ……」
再度展開され始めた結界を見て、私は愕然とするほかに無かった。
かつて無いほどの密度で展開される弾幕には、何処をどう探しても隙間なんてものは微塵も無く、とても抜けられるものとは思えない。
だが、幾ら隙の無いように思えても、これは一応ルールに則った、必ず避けられるはずの弾幕だ。何処かに抜け道があるはずなのだ。
その抜け道を必死に探す――が、
「そんなの、何処にもないじゃないの……」
矢張りというべきか、私にはそれを見つけることは出来なかった。
――見極めて御覧なさい。
今頃になって、紫の言葉が頭を過ぎる。
一見避けることは不可能に思えるほどの圧倒的な密度を誇るこの結界。しかし、これには必ず抜け道が存在する。そしてそれこそが――このスペルの本質なのだ。
この弾幕そのものが、絶対に回避が不可能な攻撃と遊びである弾幕との境界を表している。そして、それを避けるということは、その境界を見極めることに他ならない。
見えないけれど、確かに存在するはずの抜け道――それが、私には見つけられなかった。
結局の所、八雲紫の言うように私には何も見えていなかったのだろう。
……いいや、答えならば直ぐ目の前にあったのだ。この抜け道のように。
ただ、私が見て見ぬ振りを続けていただけだ。
――お好きなようにすれば良いと思いますわ。
道具を扱う上で本当に大切なことは、道具の気持ちなどではない。
その道具に対する自分の気持ちなのだ。
自分の行いを正当化しようといくら理屈を重ねた所で、自分を騙すことは叶わない。
そうだ。
認めなければならない。
店主の話を聞いた後、私はあの傘をそのまま倉庫の中で眠らせることを、やはり申し訳ないと心のどこかで感じていた。
そして、そう思ってしまったのなら、もうどうしようもないのだ。
自分の思うまま、感じたままに振舞うほかにないのである。
それが大事だと思ったのなら、精一杯にそれに報いなければならない。
そう、私は――古ぼけていてボロボロの、しかしどこか愛嬌のあるあの傘を、使ってあげたいと思っていた。
しかし、それも既に手遅れである。
私は迫りつつある弾幕が描く模様の美しさに見惚れながら、静かに被弾の時を待った。
◇◇◇◇◇
私は、なんと間抜けだったのでしょうか。
それがまったく見当外れのものだとは露知らず、一人で勝手に勘違いをして喜んで――本当に、バカみたいです。
少女は、私を傘としてではなく、あくまで別の目的で購入したに過ぎませんでした。
考えてみればそれは当然のことです。
私のような時代遅れの古ぼけた傘が、今更誰かに必要にされるはずがないのですから。
「ねえ、ちょっとお願いがあるのですけど――」
私が今更ながら真実を知って落ち込んでいると、八雲紫さんの声が聞こえました。
「――その傘、譲っていただけないかしら?」
「……いきなり、何を言っているの?」
本当に、何を言っているのでしょうか。
「特に深い意味はありませんわ。ただ……貴方よりも、私が使った方が相応しいかと思いまして」
「……私よりも相応しい? そんなこと、あるはずないでしょう」
果たして彼女がどんなつもりでそんな事を言い出したのか――それは私にはまったくわかりませんでした。
何しろ彼女は未だにあの不敵な笑みを浮かべたままで、その表情からは何の考えも読み取ることは出来ません。
ですが、それが本心でないのは間違いないでしょう。
……だって、私のようなボロボロの傘を欲しがるような人が居るはずがないのです。
「本当に、そうかしら?」
突然間近で囁かれた言葉に心臓がびくんと跳ねます。
今のは――もしかして、私に向かって言ったのでしょうか?
「……な、何をもって、そんなことをいうのかしら?」
しかし、間もなく聞こえた少女の言葉によって、それが二人の会話によるものだと気付きます。
そう、今の私はだたの傘。その私が話しかけられるはずがありません。余りにもいいタイミングで聞こえたため、つい勘違いをしてしまいました。
そんな私の混乱にはお構いなしに、紫さんが語ります。
「道具には、持って生まれた役割というものがあります。それを全うすることが道具にとっての幸せであり、あるべき姿です。そして、そうした使い方が出来る者こそ、その道具を持つに相応しい人物ということですわ」
道具としての、幸せ。
それはきっと、紫さんの仰る通りなのでしょう。
私だって、唯の傘であったあの頃にそうな風に過ごせていたら、どれだけ幸せだったかわかりません。
勿論、今それを想像してもそれは実に嬉しいことで、幸せな気持ちで一杯になります。
しかし、何故でしょうか。
それを考えると、幸せな気持ちと同時に、胸の奥にちくんと痛みが走るのです。
「道具は人間が作ったもの――それをどう使おうと、人間の勝手でしょう?」
「そんなことはありません。それにこれは道具に限った話でもないの。人間には人間の、そして妖怪には妖怪の果たすべき役割というものがありますわ。役割とは、すなわちその者の本質です。それから外れた者に訪れるのは――不幸な末路だけです」
妖怪には、妖怪の……。
欠けていた物が、ぱちんと胸にはまる音が聞こえたような気がします。
そうでした。
今の私は傘であり――そして、どうしようもなく妖怪でもあったのです。
如何に道具として生きようと妖怪である自分を否定してみた所で、事実には抗いようがありません。
例え道具としての幸せを掴んだとしても、妖怪としての私は置いてけぼりのままです。
それで、本当に幸せになれる筈がなかったのです。
そんな当然のことに、私は今更ながら気付きました。
「例えば、ご存知のように私には藍という式がいるけれど、彼女がその真価を発揮するのは私の命令どおりに動いている時。それが式としての藍の果たすべき役割だから」
「あら、彼女はあなたにとってただの式でしかないのかしら? 私は、てっきり家族のようなものだと思っていたけれど」。
「ふふっ、勿論、家族よ。こう考えたら如何かしら? 藍は式でもあり家族でもある。他人から見ればただの式だし、私から見れば家族でもある。役割が一つだけとは限らないでしょう?」
「そのAでもありBでもあるっていうのが格好いいのは思春期の間だけらしいわよ?」
「問題ありませんわ。だって私は――永遠の少女ですもの」
道具でもあり、妖怪でもある。
そんな事が、許されるのでしょうか?
そんな風に生きても――いいのでしょうか?
しかし、その疑問に答えてくれる人は何処にもいません。
私は――どうすれば、いいのでしょうか。
「それじゃあ、道具に付き合って、いつまでも同じ物を使えって言うの?」
「さぁ……?」
「さぁ、って……」
「そんな事に、答えなんてありません。お好きなようにすれば良いと思いますわ」
答えなんて――無い?
でも、私だって、精一杯に考えたつもりで、この道を選んだのです。
考えに考え抜いて、道具として生きる方が幸せだと――そう、思ったのです。
「言っていることが、矛盾しているわ。私は、私の好きなようにしているじゃないの!」
「――本当に?」
再び、あの囁きが耳に響きます。
本当に――そうだったのでしょうか。
自分でも最早よくわかりません。
私は本当に心の底から道具として生きたいと思っていたのでしょうか?
ただ妖怪として生きるのが嫌になって、逃げていただけなのかもしれません。
本当は――本当は、妖怪としての自分だって、捨てたくなんかなかったのかもしれません……。
「さて、ご理解いただけたようですし、その傘、譲っていただけますね?」
ゆっくりと、紫さんがこちらへと手を差し伸べました。
それを見て私は、どきどきとしながら少女の挙動を注視します。
私は――まだ、彼女に未練があるようです。
道具としての、自分にも。
私は……っ。
そうして迷い続ける私の耳に、彼女の声が響きます。
「そう易々と、この私が言うことを聞くと思う?」
初めて聞いた時と変わらない、凛とした声。
どこか自信ありげに、堂々と彼女が言い放ちます。
「こう見えても、この傘は結構気に入っているのよ。だから――貴方には譲れないわ」
その言葉を聞いた瞬間に――私の気持ちも固まったのでした。
どちらも捨てられないというのなら、無理に選ぶ必要なんてなかったのです。
道具として、そして妖怪としても生きればいい。
それは決して楽な道ではないかもしれません。しかし、私にはそれ以外の道は無いように思えたのです。
「あら、それは困りましたわ」
そう言う紫さんにはまるで困った様子は見られません。
「それでは、こうしましょう。ここは一つ、幻想郷らしく――スペルカードによる決闘で決めるというのはどうかしら?」
「望むところよ!」
彼女の提案に、少女は声高々に応じました。
応じた、のですが――。
「どうかしら? もうそろそろ諦めがついたのではなくて?」
「くっ……」
決闘が始まって数分後、少女はすっかり追い詰められていました。
二人の行っている決闘はスペルカードルールによるもので、それは以前に私もやったことがあります。ですが、このお二人の放つ弾幕はその密度、量共に私のものとは比べようが無いほどに凄まじいものでありました。その華麗さも勿論素晴らしく、時には見蕩れてしまうほどでした。
それは一見すると互角、同等の物であるように思えましたし、美しさにおいても私には甲乙付けがたいように思えます。
しかし、戦況は着実に紫さんの有利な方向へと傾いていきました。
「ふふ、貴方のスペルも悪くはないのですけれど――残念ながら、少々見飽きてしまいましたわ」
どうやら紫さんは少女の放つ弾幕を、見たことがあるようです。
つまり、それは既に攻略法を知っているということに他なりません。
少女の不利に進んでいくのは当然の結果でした。
私は何も出来ず、ただ歯がゆい思いをするばかりです。
「先程、道具に心がある――などと言っていたけど、仮にあったとしたらどう違うのかしら? 仮にあったとしても、そんなことはわかりません。わからないなら、無くても結局は同じでしょう? 決めるのは――貴女なのです」
わからないのなら、無くても同じ――確かにそうなのかもしれません。
こうして少女の傍にいても、何も出来ないのなら居ないのも同じこと。
私は道具なのに、少女の役に立ちたいと思うのに、何もできずただ傍観をしているだけ。
「だから、そうしているでしょうにっ!」
「いいえ、貴女には何も見えていない――いえ、見えない振りをしている。いつまでそうしているつもりなのかしら?」
そう、私も、何もわかっていなかったのです。
自分の、気持ちさえも。
……でも、今は違います。
私にも――私にも、出来ることがある筈です!
「……言ってくれるじゃないの――舐めないで頂戴」
「なら、見極めて御覧なさい――この結界を!」
その言葉と共に、紫色の弾幕が私達を囲います。
「これが、話に聞いた『弾幕結界』……」
弾幕結界。そのスペルカードはその名に相応しく、圧倒的なまでの密度を持ちながら、それでいて計算しつくされた美しい模様を描いていきます。
少女も必死に避け続けますが、二度目にはスペルカードを使ってしまい、更に続く三度目、四度目と回を重ねるたびに、状況は苦しくなっていく一方です。
そして、5度目に展開された弾幕結界、それは――
「なによ、これ……」
――まったく隙間の無い、完全な包囲網であるように思えました。
スペルカードによる決闘では、そのルール上どんな弾幕でも必ず避けられるように作られているはずです。
しかし、
「そんなの、何処にもないじゃないの……」
少女の呟きの示すとおり、そんなものは何処にも見当たりません。
いえ、きっと避ける方法はあるのでしょう。
でも、それを今すぐに見つけることは、少女にも、勿論私にも不可能であるように思えました。
このままでは、少女は負けてしまう――そうなれば、私は少女の下を離れることになってしまいます。
折角、自分が本当にしたいことがわかったかもしれないのに。漸く、心から使って欲しいと思える人に会えたのに――そんなのは、嫌です!
ですが、弾幕はその勢いも衰える事無く、既に目前へと迫ってきています。
これを避けることなんて、到底出来るようには思えません。
だったら、方法は一つしかありません。
しかしそんなことをしては、私の正体は間違いなくばれてしまうでしょう。
ですが――私はっ!
いよいよ弾幕が少女に当たろうとした瞬間、
「からかさ驚きフラーーッシュ!!!」
精一杯の大声と共に、私は弾幕を放ちました。
◆◆◆◆◆
私は、ただただぼんやりと空を眺めていた。
いつの間にか太陽は姿を隠し、辺りはどんよりと暗い雲に覆われている。
先程まで空一杯に広がっていた紫の弾幕も、今はどこにも見当たらない。その上、八雲紫本人の姿も何処を探しても見つからなかった。
「一体、何だったのよ……」
結局何がしたかったのか、本気であの傘が欲しかったのか、それすらもわからないままである。
傘といえば、
「最後の、あの瞬間……」
私がすっかり諦めていたあの時、手に持ったこの傘が眩いばかりの光を放ち、目前まで迫った弾幕を打ち消したのだ。
じっと、睨むように傘を見る。
普通の傘に、あのような芸当は出来ないだろう。
それでは、この傘が何か特別な力をもっているのか。そんな特殊な傘なんだろうか――いいや、回りくどい真似はもうやめよう。
そう、幾らなんでも私だっていい加減に気付いている。
「……ねえ、いつまでそうしているつもり?」
問いかけてみるが返事は無い。
「ほら、もうわかっているから正体を現しなさい」
そういいながら、ゆっくりと空中に向かって傘を放る。
傘はくるくると回転しながら地面に向かって落ちていき――地上に着くころには、大きな傘を持った一人の少女へとその姿を変えていた。
「……やっぱり、そういうことだったのね」
付喪神。
長い歳月を経た道具は心を持ち、妖怪になることがあるという。
道理で妖気を感じるはずである。
当然、店主もそれには気付いていたのだろう。もしかしたら――八雲紫も。
「話には聞いていたけど、まさか道具屋で売っているとはね」
目の前に現れた少女は、私から逃げるように傘の後ろに身を潜めている。
「何か、言うことはないのかしら?」
そうしてただじっと少女を見詰め続ける。
やがて、沈黙に耐え切れなくなったのか、おどおどと少女が口を開いた。
「あ、あのっ」
漸く見せたその顔は、申し訳なさそうに俯いていたけれど、やっぱりどこか愛嬌のある、可愛らしい顔だった。
「騙すような真似をして、ごめんなさい……」
「まったくね」
私の一言に、少女の体が面白いくらいにびくっと跳ねた。
「ご、ごめんなさいっ! でも、別に悪戯をしようとか、そういう目的でやったわけじゃないの!」
しかし、それでも彼女は必死な面持ちで話し続ける。
「それじゃあ、何故こんなことを?」
「そ、それは――」
一瞬、躊躇しながらも、
「私、本気で傘になろうって思ったの!」
響き渡るような大声でそう言った。
「……そんなこと言ったって、貴方妖怪なんでしょう?」
「そうだけどっ、でも本気なの!」
確かに、彼女の瞳は真剣そのもので、冗談を言っているようには見えなかった。
だがしかし、そんなことを私に話して、一体どうなると言うのだろう。
この子は――私に何を期待しているのか。
「……なるほど。まあ、前途多難な道でしょうが、頑張りなさい」
確認も済んだ。もう、話すことは何も無い。
そうして話をうちきって、彼女にくるりと背を向ける。
空模様も随分と怪しくなってきた。
降られる前に、さっさと永遠亭に帰らなければ。
しかし、そうして背を向けた私に向かって、尚も少女は背後から話し続ける。
「そうじゃなくてっ、私……私っ、貴方に使って欲しくて!」
「は……?」
思わず、振り返ってしまった。
「駄目、かな……?」
「いや、あなた……。自分で何を言っているかわかっているの?」
「……はい!」
少女は、泣きそうな、どうしようもなく思いつめた顔で私を見詰めている。
「……ふざけないで頂戴。妖怪だとわかっているような傘を、使えるはずが無いでしょう?」
そう言って、再び少女に背を向ける。
「本当に、駄目……?」
一歩、竹林に向かって歩を進める。
「私、ちゃんと大人しくしてるから!」
そういう問題ではないだろう。
また一歩、進む。
「家のお手伝いもしちゃうよっ!」
……くどい。
また一歩。
「何でも、するからっ!」
何故、この少女は私に拘るというのか。
傘として生きたいのなら、また香霖堂にでも並んでいればいいだろう。
一体何を考えているのだろう。
「私っ、貴方に使って欲しいのっ!」
……本当に、わからない。
そして、私はもう一歩――という所で、
「……あ」
ぽつり、と小さな雨粒が私の頬に落ちた。
それと共に、ぽつぽつと小さな雨音が少しずつ辺りに聞こえ始める。
やがて雨音の間隔は狭まっていき、気がついたときには――私は土砂降りの中に立っていた。
ああ、まったく、寄りにもよってこんな時に……。
これではもう、どうしようもないではないか。
ああもう、本当に――どうしようもない。
……ここまでお膳立てされてしまっては、意地を張っているのが馬鹿みたいではないか。
「……ねえ、貴方」
「ひゃぃっ!?」
突然の声に驚いたのか、振り向いた先では少女が心底吃驚したというような顔をしていた。
妖怪の癖に、自分が驚いてどうする。
「酷い、雨ね」
「は、はぁ……」
少女は、どんな反応をすればいいかわからないといった様子で、その大きな傘を胸に抱きながらもぞもぞとしている。
「それで――いつまで私を濡らしておくつもりなのかしら」
「……えっ」
何を言っているのかわからない、そんな表情で彼女が見返す。
「あのね、こんな状況で傘がすべきことなんて決まりきっているでしょう。貴方は――私の傘なんでしょう?」
「……あ」
辺りには、ただ雨音だけが満ちている。
「で、でもっ、私は妖怪で――」
「別に、いいじゃないの。貴方は妖怪でもあり傘でもある。他人から見れば妖怪だし、私から見れば――傘でもある」
「……でも、それが格好いいのは思春期の間だけなんじゃ?」
そういえば、この子もあの場にいたのだった。
よりにもよって、何故あんな下らない問答を覚えているのか。
「……それこそ何の問題もないわ。だって私は、正真正銘、まじりっけなしの――永遠の少女だもの」
そう、嘘偽り無い、文字通りの。
「……うんっ」
答えを聞いて満足したのか、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「そういえば、まだ貴方の名前を聞いていなかったわね」
「私の名前は小傘、多々良小傘だよっ」
「そう、私は蓬莱山輝夜よ。それじゃあ――小傘、いきましょうか」
「うんっ!」
そして竹林に、紫色の花が咲く――。
私、多々良小傘が何故そのような悲壮なる決意をするに至ったのか。
まず、それをお話したいと思います。
私は唐傘お化けなどをやっておりまして、お化けなどと言うからには人を驚かすことが私の仕事であるわけです。
そんなわけで、私は人を驚かすために日々活動していたわけですが、残念ながらそれはまったく上手くいっていませんでした。
それもそのはずで、私の暮らすこの幻想郷では空を見れば天狗が気持ちよく青空を駆けており、川に行けば水の中で暑い日差しを悠々とやり過ごしている河童の姿を見ることもあり、さらには町中でも妖怪を見かけることは決して珍しいことではありません。
ようするに、妖怪が一杯いるわけです。
人間達にとっても最早それは当り前のことで、人里には妖怪を対象にしたお店がある程です。
そんな環境で育った人々は大変肝が据わっており、私のようなちんまりとした妖怪が物陰から突然現れたところで驚いてはくれません。
無論、私もこのような状況に対して何もせずただぐうたらと毎日を過ごしていたわけでなく、偉大なる先輩方から驚かし方を学ぶべく、多くの怪談を読み漁ったりもしました。
温故知新、古きをたずね新しきを知る。
小さな事からコツコツと。
そんな努力を忘れない、勤勉な私なのでした。
しかし、そのような私の涙ぐましい努力も異様なほどに妖怪適応度が高い幻想郷住民に対しては殆ど効果がありません。
工夫を凝らし、色々な方法で驚かそうとしましたが、返ってくるのは好機の視線ばかり。
それどころか、相手にもしてもらえないことも多々ありました。
このように私の活動は往々にして失敗ばかりで、繊細な私の心は鰹節のようにガリガリと削られていくばかりです。
いよいよ精神的限界を感じた私は、自尊心を浪費していくだけの日々に終止符を打つため、一大決心をしたのです。
妖怪として生きることは諦めて――再び、道具として生きていこうと。
思い返すのは遠き日々、空に向かって高々と掲げられ悠然と雨を弾いていたあの頃、ただの道具だった――あの頃のこと。
他人が聞けば、それは決して羨む様なことではないかもしれません。
それでも。それでも私にとって、それはとてもとても満ち足りた時間だったのです。
◆◆◆◆◆
「弾幕ごっこ」をご存知だろうか?
これは妖怪と人間との争いを「遊び」で決着をつけるという、実に効率良い決闘方法だ。
この決闘方法では強さだけでなく、弾幕の美しさも競うことになる。
この美しさを競うといったところがポイントで、それによって人間は何千年も生きたような大妖怪とも対等に渡り合えるようになったのである。
実に素晴らしいことだと思う。
中でも取り分け素晴らしいのは弾幕である。
時には夜空を美しく飾り、酒の肴に、寂しい夜のお供にと大活躍だ。
斯くいう私もいつぞやの異変の時には永遠亭の主としてこの「弾幕ごっこ」で侵入者達を迎え撃ち、数々の華々しい弾幕を展開したものである。
私の誇る宝物である「難題」をモチーフとしたスペルカードの数々、それはもう私の清らかな心を映し出したかのように美しい弾幕なのだが、ここでお見せできないのが残念だ。
だが、いくら美しさを競うと言っても、実際には弾幕の撃ち合いによって勝敗を決めることになる。
華麗に相手の弾幕を避け、グレイズし、自らの弾を叩き込む。
実にシンプルである。
けれど今、私はそのシンプルな決闘について大いに頭を悩ませている。
最初は苦戦していた弾幕も、何度も見れば嫌でも慣れるというもの。
同じ弾幕は二度通用しない――とまでは言わないが、回数を重ねるごとに難易度が下がっていくのは周知の事実。
それに、どんなに美しいものでも毎日見ていれば飽きもする、カレーだって一週間も続けば精神的にもお腹一杯だろう。
つまり何が言いたいかというと――同じスペルカードばかりを使い続けるのはどうかと思うのだ。
勿論、私だって新たなスペルの開発はしていたし、「新難題」として実用もしている。
しかしそれも最早過去の話。
いい加減、新たな弾幕が必要だと思うのだ。
このようにブランクが開いてしまったのは、戦う機会が無かった事も起因している。だがここは幻想郷である。いつ何時異変が起こって、弾幕ごっこをすることになるかわかったものではない。
備えあれば憂いなし。
その時のためにも、新たなスペルカードの開発をしておく必要があるのだ。
そう思い立って、私はアイディアを考え始めたのだが、
「……何も思い浮かばないわ」
これがまったく上手くいかない。
そもそも、私は殆どの弾幕を自分の所持する珍しい品々を元に作成してきたので、完全なオリジナルのスペルなど殆ど考えたことがないのである。ネタになるアイテムが無ければ何も出来ない。
完全にお手上げである。
「……やはり、アイテム探しから始めるべきね」
そう考えた私は、新たな弾幕のネタとなるアイテムを探すべく、一人永遠亭を抜け出した。
◇◇◇◇◇
現在、私は道具屋『香霖堂』の棚にならんでいます。
勿論、妖怪ではなく一つの道具として、人の姿ではなく傘の姿で、です。
語れば短い話ですが、ここに至るまでには様々な苦労がありました。
何しろ私は腐っても妖怪です。自ら店頭に置いて欲しいと言っても、置いてくれるお店があるはずもありません。
それに、私としては普通の道具屋に並べられることには些か抵抗がありました。
私のような唐傘が並べられるとなれば、当然そこには他の傘、新品でぴかぴかの若々しい我が後輩達も並べられている筈です。
それに対して私はといえば、流行とは程遠いなすび色の古ぼけた唐傘なのです。
未だ世の苦労も知らない後輩達、彼らのことは愛おしくも思いますが、それと比べられることを想像すると胸がきりきりと痛みます。
故に、熟考に熟考を重ねた結果、私はこの『香霖堂』に置いて頂くことにしたのです。
半妖である森近霖之助さんなら妖怪にも理解があるのではないかという期待もありましたし、聞いた所に拠ればここの商品は殆ど全てが拾い物とのこと。きっと私でも他の傘に見劣りすることは無いと思ったのです。
その思惑は見事に的中しました。
「別に構わないよ。君が道具として生きると決めたなら、道具屋として出来る範囲の協力はさせて貰うよ。買われる相手は保障しかねるが――君がそれでもいいって言うならね」
事情を話すと店主は快く了承してくれましたし、幸運なことに『香霖堂』には私の他に傘は一本も売られていなかったのです。
しかし、問題もありました。
このお店、想像以上にお客が来ないのです。
たまにお客が来たと思えば、黒白。
今度こそお客かと思えば、紅白。
ひたすらに黒白紅白黒白紅白黒白紅白黒白紅白黒白紅白黒白紅白黒白紅白黒白紅白です。
思いっきり二択でした。
しかも彼女達は、お客というよりは店主のお友達といったご様子。
買って頂ける可能性は限りなく低いように思われます。
そんな状態が一ヶ月程続き、季節が梅雨に差し掛かった頃、とうとうチャンスが訪れたのです。
「ごめんください」
凛とした声と共に、若干立て付けの悪い戸がガラガラと音を立てて開きました。
まず目に入ったのは艶やかな黒い髪。続いて見えたのは、そこから覗く白い肌。
「店主、いるかしら?」
そういいながらゆったりとした動作で所狭しと置かれた道具の中を進んでいきます。
その優雅な立ち居振る舞い、透き通るような澄んだ声。
それら全てから隠し切れない高貴さが漂っており、その方の生まれの良さを物語っています。
きっと私では及びも付かないような、貴いお方に違いありません。
この店で初めて見る、黒白紅白以外のお客様。
彼女は、私を買ってくれるでしょうか。
私は彼女のほっそりとした白い手が私の手元を握る姿を想像しました。
黒髪の少女が私を差して、雨の中をそっと優雅に歩いていくのです。
いいなっ、いいなっ!
思い描いた光景の美しさに、ほうっと溜息が零れます。
いいなぁ……、こんな人に使って欲しいな。
私は強く願ったのでした。
◆◆◆◆◆
「ごめんください」
そう言いながら、頑なに私の入店を拒む戸を無理矢理に引き開く。
私は少し、疲れていた。
それというのも、この誰が得をするのかわからない日本独特の湿度の高い気候のせいであろうと思われる。
肌にまとわり付くむわっとした空気が、歩を進める度に私の体力を奪っていくのだ。
私は疲れた体を労わりながら、のっそりと緩慢な動きで店の奥へと向かう。
「店主、いるかしら?」
店内は薄暗く、外にいるよりは幾分涼しい。地震がきたら雪崩を起こしそうな棚を眺めながら私は呼びかけた。
「ああ、君か」
そうして顔を上げた白髪の男、彼がこの道具屋『香霖堂』の店主、森近霖之助である。
客が来たというのに、ニコリともせずに立ち上がる。
「ええと……一月振りってところかな、随分久しぶりだね。出口はあちらだよ」
「相変わらず、無愛想な店員ねー」
この店には何度も足を運んでおり、もう常連といっても差し支えないと思うのだが、接客らしい接客を受けたことが無い。
本当に商売をする気があるのか疑わしいところだ。
「接客というものについて学ぶ必要があるわね」
「その必要はないさ。僕だってお客が来ればきちんと接客ぐらいはする」
「今まさに、目の前にお客様がいらっしゃるわけだけど」
「それは気づかなかったな。どこにいらっしゃるのか是非とも教えていただきたいね」
「はい、ここに」
「この店では、買い物をする気の無い冷やかしは客とは呼ばないんだよ」
「なんと」
どうやら、私の購買暦に文句があるらしい。
おかしな話である。私はちゃんと買い物をしたことがあるというのに。
この事実を断固として主張しなければなるまい。
「失礼ね、私はちゃんと買い物をしたことがあるでしょう?」
「ああ、たったの一度きりだけどね」
店主が呆れながらに指摘する。
「それでも事実に変わりはないわ」
「ふむ。君はこれまでに何度この店を訪れたか覚えているかい?」
「残念ながら。私は今に生きると決めているの」
「なるほど、実は僕も覚えていない」
しかし、と店主は続ける。
「君がこの店に来るのは凡そ月に3、4回だ。そして、君が初めて訪れたのは大体三年ほど前……つまり、控えめに考えても、これまでに百回はご来店頂いている訳だよ」
「あら、別に感謝する必要はないわよ? 私が好きで来ているだけなんだから」
「感謝するわけないだろう。僕が言いたいのは、それだけ店に来ていながら、君はたったの一度しか買い物をしたことが無いという事実だよ! 確率にすると、君が購入する可能性は1パーセントにも満たない!」
親の敵でも見るかのように、憎々しげにこちらを睨む。
まったくもって心が狭いことこの上ない。
もう少しおおらかに生きられないのだろうか。
「あら、怖い」
「惚けたって無駄さ。さ、お帰りはあちらからどうぞ」
と言いながら、店主は出口を差し示す。
「そう言わないで頂戴。今日は本当に買い物に来たのよ」
偏屈の上に偏屈で塗り固めたような店主の無愛想な顔がぴくりと反応する。
「とはいっても何時も通り、珍しい物を探しているわけなんだけどね」
私だって、今まで何の努力もしてこなかったわけではない。ちょくちょくこの店を訪れていたのは今日と同じ目的――すなわち、難題となり得るような珍しい道具を探すためだ。
普通の店にはそんな物が転がっているはずもないし、自らの足を使って探そうという程の気力も無い。
そうなると、外界から流れてきた道具まで扱うこの店は私にとってはまさにうってつけであった。
「あのねえ。いつも言っているけれど、君のコレクションに並ぶような物はそうそう出てきやしないよ」
確かにその通り。
むしろ、簡単に出てきてしまっては私としても困るというものだ。
私とてたかだか一ヶ月やそこら来ていなかったからと言って、神宝クラスのものがおいそれと入荷しているとは思わない。
だがしかし、今日の私には考えがあった。
「ねえ、店主」
「……なんだい?」
不審な匂いを嗅ぎ取ったのか、訝しげに店主が答える。
「今日はね。奥の倉庫――見せて頂きたいのだけれど」
「だが断る」
即答だった。
「なんで!?」
「なんでも何もないだろう。何のために倉庫があると思っているんだい? あそこのはね、売り物じゃないんだよ」
「それにしたってもうちょっと考えてくれても――」
「駄目なものは駄目だよ」
その強固な意志そのままに、毅然とした口調で店主は言い切った。
「勿論、それなりのお金は払うわよ?」
「駄目だね」
「ついでに、他の道具を買い取ってもいいわ」
「お断りだね」
「どうしても?」
「駄目だ!」
「見るだけでいいから!」
「嫌だよ!」
「そこをなんとか!」
「君も大概しつこいなあ!」
ぜえはあと二人で荒い息を吐きながら呼吸を整える。
まさか、ここまで強固に断られるとは思いもよらなかった。
奥の倉庫とは、その名の通りこの店の奥にあるらしい倉庫のことだ。
この店は魔法道具から外界の品物まで手広く扱っている。それというのも「道具の名前と用途がわかる」という店主の能力を活用するためということだが、名前と用途がわかっても使い方はわからず、そして使い方のわからない道具は用を成さない。
しかし、店主も日々を無為に過ごしているわけではないらしく、その道具達の使い方の研究には余念がない。
そうしていると中には使い方が判明する物もあるということだが、そういった使い方の判明した道具の殆どは件の倉庫へ仕舞われてしまう。
つまり、彼が本当に気に入った道具が店頭に並ぶことは無く、それらは全て奥の倉庫へ置かれることになるわけだ。
その倉庫を見れば、私が求めるようなものもきっとあるに違いない――私はそう踏んだのである。
それに、店主の過剰な程の反応を見ると、私に見せられない程の貴重なものがあるのではないかと思えてならない。
なんとかならないだろうか?
私が考えを巡らせていると、呼吸を整えた店主が言った。
「……別に、伝説に残っているような大層な道具でなくてもいいのかい?」
「と、いうと?」
「つまりさ、何かしら謂れのあるような、古い道具なら何でも構わないんだろう?」
何でも構わない――というと些かハードルが下がりすぎなような気もするが、倉庫が駄目なら何でも見ておきたいという気持ちもある。
この際だ。ここはとりあえず店主の提案に乗ってみるべきか。
「……そういうからには、それなりの物なんでしょうね?」
「勿論さ」
自信ありげに答える。
「それでは――ご案内しようか」
そう言って、店主はにやりと口の端を歪めて笑った。
◇◇◇◇◇
先ほどの少女は、店の奥で店主となにやらごにょごにょと話し込んでいます。
私は彼女が一体どんな物を所望しているのか気になって仕方がありませんでした。
果たして私が買ってもらえる可能性があるのかどうか――それがどうしても知りたかったのです。
しかし、いくら耳を澄ましても二人の声は聞き取れず、私はやきもきするばかりです。
傘の姿のままでは動くことも出来ませんし、店主の手腕を信じて待ち続けるほかに出来ることはありません。
妖怪時代、驚かすために物陰で人が訪れるのを待ち続けていた私です。待つことは得意中の得意なのです。話し込むとは言っても高々数分程度、それくらい私にとってはあっという間だと――そう思っていたのです。
ですが、今回はちょっと勝手が違いました。
胸はどくんどくんと高鳴り、一分一秒がやたらと長く感じるのです。
ここに至るまで一ヶ月もの間この棚に並べられていたわけですが、それよりも遥かに長い時間を過ごしていたようにすら思えます。
そうやって、私が忍耐力とにらみ合いを続けていると、不意に奥から聞こえていた二人の話し声が途切れました。
おや、と思って耳を澄ませば、ひたひたと二つの足音が近づいてきます。
どうやら、お話は終わったようです。
一体あの少女は何を買うつもりなのでしょうか――私は、買って頂けるのでしょうか?
明日への希望を見出すべく、私が買ってもらえる可能性を必死に探しましたが、それはどうにも心許ない結果に終わりました。私はどうしても、道具としての自分にそれほどの価値があるとは思えなかったのです。
しかし、それでも私は諦めません。この際どんな理由でも構わないから、買って貰える可能性はないかとひたすらに探し続けます。
それは当然、この機会を逃せば次はいつになるかわからない、そんな焦りも確かにありました。でも、それよりもなによりも、この少女に、この黒髪の女の子に使って欲しいという思いが私を駆り立てたのです。
勿論、そんな可能性が見つかったからといって買ってもらえるとも限りません。頭ではわかっていましたが、私はどうしてもそれを探すのをやめることが出来ませんでした。
そうして私が祈るように自分が買ってもらえる可能性を数えていると、足音は、私の前でぴたりと止まりました。
どくん、と鼓動が一際高まるのを感じます。
「さあ、これがさっき話した道具だよ」
そう言って、店主は私を手で示したのです。
◆◆◆◆◆
さて、店主はああ言っていたけれど――実際の所はどうなのかしら?
正直に言えば、あんまり期待はしていない。
もしもそんな大層な物があったとすれば、真っ先に売りつけそうなものである。
それに、先ほども言ったようにこの森近霖之助という男は、気に入った道具は倉庫に仕舞いこんで私物化してしまう。
つまり、店に並んでいる以上はその網から零れた物ということであり、それに大きな期待が持てるかというと――やっぱりそんなことはないのである。
今もちらちらと棚を確認しているが、新しい道具もちらほら散見しているものの、条件を満たすような道具は見当たらない。
まあ、外れの場合でも、その時はその時で再び倉庫狙いで粘ればいい。
そんな事を考えていると、
「さあ、これがさっき話した道具だよ」
店主が歩を止めて、一つの道具を指し示した。
それは、
「……傘?」
傘だった。
どこからどう見ても、ごくごく普通の唐傘だった。
「ええと、これが?」
「ああ、そうだよ」
店主は自信たっぷりである。
色は紫――よりはちょっと濃い、例えて言うならなすびのような色で、店主の言うように確かに古い、結構な年代物であるように思える。……思えるのだが。
「ただの唐傘じゃないの」
そう、それは年代物というだけで、何の変哲もないただの唐傘であった。
しかし、そんな私の指摘にも、店主の自信は崩れない。
「なるほど、君にはそう見えるのか。僕にはとてもそうは思えないのだけれどね」
「騙そうたってそうは――」
「いやいや、そんなつもりは毛頭ないさ。ただもう一度よく見てくれないか。何か、感じるものがあるはずだよ」
そう言われて、私はじっと傘を観察する。
「そんな事言われても別に何も……ん? これは?」
近づいて、実際に手にとってみる。
触れた部分から確かに感じるこの感触は……妖気!?
「これって――?」
「どうやら、気付いてもらえたようだね」
そう言って得意げに笑う。
「ちょっと、これはどういうことなの?」
「僕にも詳しくはわからないさ。なにしろ、僕にわかるのはその道具の名前と用途だけだからね。由来まではわかりはしないんだ。それの名前は唐傘だし、用途はご存知のように『雨を凌ぐ』っていうだけさ。でもね――僕が半分妖怪だからかな? その傘には、何か他の道具とは違った印象を受けたのさ」
確かに店主の言うとおり、見た目はただの傘にしか見えないし、普通の人間から見れば間違いなくその通りのものでしかないだろう。
しかし、確かに感じるこの妖気は、この傘がただの傘ではないと示している。
なるほど、これならば――!
「どうかな。お気に召したかな?」
「……えぇ、実に素晴らしい傘ね」
どんな歴史のある道具なのかはわからない。
しかし、この傘には間違いなく特別な何かがある。そう思わせるだけの要素がたっぷりある。
「さて、それでは道具は気に入っていただけたようだし――」
私の手から唐傘を取り、
「――値段交渉といこうか?」
そう店主は囁いた。
◇◇◇◇◇
し、信じられません!
私は夢でも見ているのでしょうか?
私はこれまでの長い傘人生の中で、持ち主に褒められた事なんて一度もありませんでした。
しかし、あの黒髪の少女は私を抱き上げて、
「……えぇ、実に素晴らしい傘ね」
と、確かに言ってくれたのです!
こんなにも嬉しいことはありません。
思わず嬉しさの余り大声で叫び出しそうになりましたが、その衝動はギリギリの所でなんとか押さえ込みました。
いまや私はただの傘。
ただの傘は喋ったりはしないのです。
それは勿論この少女もそう思っているはずで、もし変な真似をして妖怪だとばれてしまっては、これまでの苦労が水の泡です。
折角気に入ってもらえたこの少女にも――私が妖怪だとばれてしまえば、きっと嫌われてしまうに違いありません。
私は道具として生きるという事を改めて認識し、何が起こっても喋らず、動かず、道具らしく生きていこうと固く誓いました。
いよいよ妖怪としての自分を捨て去らねばならないと思うと一抹の寂しさも感じますが、これから訪れるであろう明るい日々を思えばなんてことはありません。
私の決心は、岩のように固いのです!
そうです。迷うことなどありません。
どうせ――あのまま妖怪として生きていても、誰にも相手にされず、ただ辛い日々が続いていくだけなのですから……。
胸の奥にちくりと走るか細い痛みは、気のせいに違いないのです。
そうして私が喜んでぽわぽわしたり決意を固めたりしていると、
「いくらなんでも高すぎるわ!」
という叫び声が聞こえました。
そこでようやく我に帰った私は、目の前の二人に意識を戻しました。
「そうかな? 僕はそうは思わないが」
「だって――百万なんて! それで普通の傘が何本買えると思っているの?」
ええと、一体何のお話でしょうか。
百万……はて、何のことでしょう?
「確かに君の言う通り、それだけあれば普通の傘が何本も買えるだろうね――『普通』の傘なら」
店主が少女に向かって平然とした様子で言いました。
「でも、それにしても百万『円』は高すぎるわよ!」
円? 百万円?
これはもしかして、私の値段、なのでしょうか?
百万円……私が?
えぇぇぇぇぇぇぇっ!?
驚きの余り叫びそうになりましたが、自制心を総動員してなんとか踏みとどまります。
これは一体どういうことなのでしょうか。ただの古びた唐傘である私が百万円とはとても信じられません。
「そんなことはないさ。この傘にはそれ位の価値があるよ――それは、君にだって十分わかっていることだと思うが?」
「くっ」
私にそれだけの値段をつけて頂けたことは、実に誇らしいことです。
しかし――、
「それにしたって、もうちょっと常識的な値段にしてくれてもいいんじゃない?」
――彼女は、納得していないご様子です。
「それに、その傘の価値がわかる人間がそんなにいるとは思えないわ。それはつまり、それだけ売りづらいって事になるんじゃないかしら?」
「確かにその通りだ。しかし、君は知らないかもしれないが、世の中にはそういった狭い市場の中でこそ高い価値を認められる道具が数多くあるんだよ。これも同じことじゃないかな?」
私の価値を認めて頂けたのは本当に喜ばしいことです。
しかし、私は――私は、ただ誰かに使って欲しいのです。
値段なんて、タダ同然の捨て値でも構いません。
ですからどうか、私を彼女に売って頂けないでしょうか。
そんな願いを込めて、店主をじっと見詰めます。
無論、そんなことをしても気付いてはもらえないし、例え気付いたとしても店主にはそんなことをする理由はないのかもしれません。
それでも、そう願わずにはいられなかったのです。
「むむぅ……。こんな値段で買ったら永琳に何て言われるか……」
少女は未だに悩んでいるご様子です。
店主は――、
「……」
――黙ったまま私を見詰め、何か考え込んでいるようです。
そうして、やがて顔を上げると、意を決したように口を開きました。
「わかったよ。そこまで悩むというのなら、僕だって鬼じゃない。君の言う適正な価格とやらにしようじゃないか」
「へっ?」
そんな店主の言葉に対して、まさに虚を突かれたいった感じに、少女がぽかんとした表情で声を上げました。
驚いたのは少女だけではありません。私だって、これにはびっくりしました。
まさか、私の願いが届いたのでしょうか?
「そうだな――値段は、そう、2980円でどうだろう?」
「安っ!?」
突然の大幅値下げ。
マリアナ海峡も驚きの大暴落です。
しかし、私は嬉しくて仕方がありませんでした。
だってこれで――
「……うん。それなら、是非買わせて頂くわ」
――私は少女の傘になれるのですから。
◆◆◆◆◆
そうして値段交渉が終わると、店主は支払いはこちらでと、私を奥へと呼び寄せた。
「どうしたの? わざわざこんな所に呼び寄せて」
「あぁ、いや……あっちだと少しばかり都合が悪くてね」
回りには商品なのかがらくたなのか判別のつかないような品々が所狭しと置かれている。ようするに、先程傘を見ていた場所と何ら変わったところはない。
しいて違う所を挙げるとすれば、普段店主が使っていると思われる机が道具達の中に埋もれるようにして鎮座しているが、まさか支払いはここで行うという決まりがあるわけでもないだろう。
一体、何の用があるんだろう?
まったく見当がつかない。
私はそこにたまたま置いてあった七色に輝く円盤――店主の言う所に寄れば記録を保存する道具であるらしい――を眺めながら、店主に訊ねた。
「それで、何か用があるんじゃないの?」
「……そう。ちょっと聞いておきたい事があってね」
そう言って、先程の傘をちらりと横目に見遣りながら続ける。
「君が普段から珍品を集めているのは勿論知っていたけれど――一体何のために、わざわざそんなものを集めているんだい?」
「あら、話したことはなかったかしら?」
「聞いた事があるような気もするのだけどね。折角、道具を売ることになったんだ。それがどう使われるのか、改めて聞いておきたいと思ったのさ」
別段隠すような話でもないだろう。
私は掻い摘んで、事の次第を店主に話した。
「なるほどね。スペルカードのために……」
「えぇ。まあ、多分に趣味も入ってるのだけどね」
「それはつまり――普通の傘として使うことはない。そういうことかな?」
「まあ、そうね。別に、だから使わないというわけではないんだけど、あの傘は随分古い物のようじゃない? 古い物をわざわざ使う理由もないでしょう。だからといって乱暴に扱うつもりもないけれど――まあ、骨董品みたいなものね」
何かしら特別な能力があるなら兎も角、あれはただの傘である。
道具は、新しければ新しいほど良い。
使えなくなった道具は厄介物だし、古くなった道具は新しいものと取り替えないと使い勝手が悪いものである。
あえて古いものを使い続ける理由も無いだろう。
ありふれた話ではないかもしれないが、これといって特に面白い話でもない。
少なくとも、私はそう思っていた。
しかし――、
「……」
――何か考え込むように俯いた店主の表情は、真剣そのものである。
私にはどういうことだかさっぱりわからなかったが、話しかけるのも憚られて、ただ黙ってその様を眺めていた。
そうして岩のように硬く黙り込んでいた店主が、ぽつり、と静かに語り始める。
「君も知っての通り、僕には一風変わった能力がある」
彼の能力――道具の名前と用途を知ることができる力。
「僕がね、こんな道具屋を始めたのは、その力を十分に活用することが出来ると思ったからだ。魔法道具や外界から流れてくる品々――そういった道具は、普通の人間から見ればがらくたにしか見えないような物も多々あるんだ」
そう、確かにそれはその通りである。
例えば、私の目の前にあるこの円盤。これは歴とした道具であることは間違いないのだが、私にも正確なところはわからない。生粋の幻想郷の住民ともなれば尚更であろう。
「しかし、僕ならその名前と用途がわかる。僕なら能力を使って、その未知の道具達をより相応しい場所へ送ることが出来ると、そう思ったのさ」
「なるほどね。そういった意味では、この店は格好の場所といえるでしょうね」
営業スタイルは兎も角として、だけども。
「道具っていうのは、何かしらの目的のために役割を担って生まれてくるものだよ。だというのに、中にはその役割を忘れられてしまう物もある。それを忘れられた道具は――役割を果たせなくなった道具は、ただのがらくたさ」
まさか、このニコリともしない無愛想な道具屋がそんな事を考えているとは想像もしていなかった。
能力のことは知っていたけれど、この店は道楽でやっているものだとばかり思っていた。
「当然、中には例外もある。例えば骨董品とかね」
実用を考えれば新しいことに越したことは無い。
だが、古い道具にも、それはそれで新たな価値が生まれるものである。
現役を退き、資料や美術品としての価値が。
「しかし、もし――もしもだよ。もし、道具に意思があったとすれば、どうだろう? その道具の担う役割とは道具にとって、一体どんなものなんだろうか?」
「……は?」
何を言い出すのだろうか、この男は。
突然の店主の発言に、私は眉を顰めた。
「なに、ちょっとした例え話だと思ってくれればいい。もし道具に心があったとすれば、その役割を果たすことは道具達にとってどういうことなんだろうか。君はどう思う?」
店主の意図は皆目検討もつかなかったが、ほんの少し、ちょっとした遊びだと思って考えてみる。
義務、仕事――いくつかの言葉が頭に浮かぶが、どれもいまいちしっくりと来ない。
「……あなたは、どう思うの?」
お手上げとばかりに店主へ訊ねる。
「僕かい。僕は――そう、『生甲斐』かな」
「生甲斐……」
「そう、生甲斐だよ。僕達が目的を成し遂げたときに喜びを感じるように、きっと道具もそうだろうと、僕は思うんだ」
それは、何とも予想外の答えであった。
しかし、こうして言われてみると、それ以外の答えも無いようにも思える。
「だとすれば、いくら骨董品といえども使われなくなるということは、それは果たして道具達にとって幸せな事だと言えるのだろうか。それは、不本意なことなんじゃないか? ……だからね。実を言えば最初はあの傘を、君に売るつもりはなかったんだ」
「……えっ?」
「具体的なことは知らなかったけど、君が普通の使い方をしないであろうことは容易に想像がつく。僕としてはそんな相手よりも、道具を道具らしく扱ってくれる相手に買って欲しいと思ったのさ」
……そういう、こと。
つまり、最初に言ったあの値段は――
「百万っていうのは、私を諦めさせるためのはったりだったというわけね……」
「そういうことさ、悪かったね。……最初はただ、普段から冷やかしばかりの不良顧客に、ちょっとばかりお灸を据えてやろうと思っただけだったんだけど」
「でも、それじゃ――」
それじゃ、何故あの値段に下げたの?
その言葉を最後まで言い切る前に、
「さあてね? ただ、あの道具がそれを望んでいる――そんな風に思えただけさ」
店主が先回りしてそう答えた。
「……そう。それでも、あれの使い道はかわらないわよ?」
「好きにすればいいさ。結局の所、道具を使うのは人間なのだから。でも――」
そこで、言葉が途切れる。
「……なによ?」
「今日は、ちょうど日差しも強いようだし。せめて、この帰り道くらいは日傘の代わりにでも使ってみたらどうかな?」
果たしてそんなことに意味があるのか、なんともいえない微妙な提案だ。
私はそれを聞かなかった振りをして、
「お代、ここに置いておくわね」
そう言いながら机の上にお金をおいた。
そのまま何も言わずに出て行こうとするが――ふと、背後から視線を感じ、そちらへ振り向く。
当然のことながら、そこには誰もいなかった。
だがしかし――先程までそこにあったはずの七色に輝く円盤の姿が見当たらない。
いつの間に、店主は仕舞ったというのだろう?
◇◇◇◇◇
上へ下へ、右へ左へ。
ゆらゆらと揺れる景色を眺めながら、私は幸せな気持ちに浸っていました。
空を見上げれば何処までも続く青空――とはいかず、彼方には黒々とした雨雲が見えるものの、今は太陽が我が物顔で照り付けています。
私は精一杯に腕を伸ばし、その燦然と輝く太陽の光を大きく広げた傘布で受けていました。
その下には、太陽から隠れるように一人の少女が身を潜めており、淡い桃色の袖から伸びた細い手は、私の手元をしっかりと握っています。
傘を買ったばかりの子供が喜びのあまり晴天の中で傘を差す――なんていうのは、全国の傘達があこがれるお話ではありますが、今回はどうもそれとは違うようです。。
今回はこの日差し、それを避けるための日傘の代わりといったところでしょうか。
それは本来の私の役割とは違いますが、晴れある傘復帰戦の第一回です。
これが嬉しくない筈がありません。
今はまだ雨は降っていませんが、空模様を見る限りではすぐにでも初仕事の機会が訪れるやも知れません。日傘の代わりでは傘として働いているという実感もまだ薄いものではありますが、そうなれば話は別です。
仮に今回駄目だったとしても、何も焦る必要はありません。
以前は配色のせいで捨てられてしまった私ではありますが、この少女には気に入って頂けたようです。きっと、大切に使って頂けるに違いありません。
ならば、今焦らずともこの先に必ず活躍できる日が訪れることでしょう。
唯一つ心配な事といえば、彼女があまり積極的に出掛けるタイプとは思えないことです。
しかし、贅沢は言っていられません。
今再び、こうして人の手に握られている事それ自体が、以前の私を鑑みれば奇跡のようなものです。
なんと幸せなことでしょう。
本当に、喜ばしい限りです。
しかし――その筈なのに、再び胸の奥がちくんと針を刺したように痛みます。
これは、一体どういうことなのでしょうか。
傘として、これ以上の幸せは望むべくもありません。
ではこれは――この気持ちは、一体何なのでしょう。
未練、なのでしょうか。
妖怪としての自分に、まだ未練があると、そういうことなのでしょうか。
そんな筈がありません。
だって私は、妖怪として生きていくことに絶望して、今の道を選んだのですから。
今更、未練なんてあるはずがないのです。
けれど頭ではそう思っていても、痛みはじくじくと胸の奥に広がっていくばかりで、少しも治まる気配はありません。
結局、結論は出ないまま、ただ悶々とした気持ちが積もっていきます。
わからないことをいつまでもうじうじと考えていても仕方ありません。
今はただ、この幸せを噛締めていよう。
私はそう、思いました。
◆◆◆◆◆
私は、先程店主の言ったその通りに、購入したばかりの傘を差しながら帰り道を歩いていた。
しかし、勘違いしないで頂きたいのだが、これは店主に言われたからそうしているわけではない。
何しろこの日差しである。
何の対処もなしに長時間こんな光に晒されれば日焼けするのは避けられない。
だから、手近にあった物で何とかしようと思っただけのことだ。
当然、来るときと同様にさっさと空を飛んで帰るという選択肢もあるにはあったが、やはりこの日差しだ。唯でさえ参っているというのに、わざわざより一層憎き太陽へ近づくなんて馬鹿げている。
そう、それだけ。
特に深い意味なんてない。
今更、少しでも傘らしく使ってやろうとか、そんなことは少しも思ってはいない。いないのである。
そもそも、道具とは人に使われるために生まれるものである。
それが何であれ、どのように使おうと人の勝手なはずだ。
そのはずだ。
だというのに――だというのに、この気持ちは何だろう?
どうにも煮え切らない、胸にまとわり付くこの感じ。
頭ではこれでいいと確かに思っているはずなのに、どうしてもその気持ちを振り払うことが出来ない。
罪悪感――だとでもいうのだろうか?
香霖堂を出てからの道中ずっと、私はそのことばかりを考えている。
ありもしない道具の気持ちなんてものに振り回されるなんて馬鹿げているし、自分の考えが間違っているとは思わない。
しかし考えれば考えるほど、胸に残ったしこりは重さを増していくばかりで、少しも気持ちは楽にならない。
どういうことだ。理不尽ではないか。
私はただ自分の欲しい物を買って、好きなように使おうと思っているだけなのに、何故このような、不安な気持ちにならねばならないのか。
そもそも、店主の話からして納得がいかないのだ。
古い物を大切にする。実に素晴らしいことだ。
使われることが道具にとって生甲斐だというなら、それもいいだろう。
しかし、だとすれば――それはいつまで続くというのか。
私達がいつまで古い道具を使えば、道具達の気が済むのか。
壊れるまで新しい物に目を向けず、ひたすら使い続けろとでも言うつもりなのか。
そんなの、ふざけている。
そんな事を考えながら、傘をくるくると回す。
不思議なもので、最初に見たときはなんと格好の悪い傘だろうと思ったが、いざこうして自分の物になってみるとそれも何だか愛嬌があるように思える。
改めて見れば、この傘もそんなに悪くないのではないか。そんな風に、思えた。
たまになら、うん、たまにちょっと使うくらいなら――いや、駄目だ。
これではただ店主の言葉に踊らされているだけではないのか。
自身の正しさに自信を失い、他人の意見に流されているだけ、肝心な部分を人任せにしているだけではないのだろうか。
そうだ。最初から結論は出ていたはずだ。何も迷うことはない。
この傘は元々スペルカードのために買ったものだし、古い物を無理に使う必要などない。道具とは人が作ったものであり、それをどう使おうと人の勝手だ。それでいいのだ――初めからそのつもりだったのだから。
私がそう結論した瞬間、
「――あら、ごきげんよう。こんな所で会うなんて奇遇ね」
不意に、これ以上ないくらいに胡散臭い声が耳に届いた。
◇◇◇◇◇
「――あら、ごきげんよう。こんな所で会うなんて奇遇ね」
声が聞こえたその時、私は空中を眺めていました。
なのでその瞬間もちょうど目にすることが出来たわけですが、それは余りにも唐突で、いくらここが幻想郷といえどもにわかには信じ難い光景でありました。
突如として空間がぱっくりと口を開き、その中から紫色のドレスを纏った金髪の少女が現れたのです。
私は突然の出来事にただただ呆然とする外なかったのですが、私の持ち主である少女はそれほど動じた様子もなく、平然とした様子で挨拶を返しています。
「ごきげんよう、八雲紫。……しかし、奇遇とはよく言ったものね?」
「……何のことかしら?」
「あら、惚けるつもり?」
少女の声は相手を警戒しているのか、どこか緊迫した色がありますが、対する相手は余裕そのもので怪しい微笑を浮かべています。
「今、スキマから現れたでしょう。そんなことをしておいて、奇遇も何もあったものではないと思うのだけど?」
「ふふ、ご明察ね。確かにその通りです。貴方、香霖堂からの帰りでしょう? あそこは私もよく通っていまして、今日も少し顔を出そうと思っていたのですよ。ちょうど貴方が出てきた所でしたので、声を掛けさせて頂いた次第ですわ」
「……ふぅん」
怪しむ態度を隠そうともせずに、少女は金髪の――八雲紫と呼ばれた少女へと訝しげな視線を送っています。
お話を聞く限りでは、どうやら顔見知りの様子ではありますが、余り仲が良いともいえないようです。
突然空中から現れたこともそうですが、何よりもその掴み所のない微笑からは、底知れない不気味さを感じます。
妖怪である私ですらこのように感じるのですから、少女が警戒するのも無理のない事かもしれません。
「……ところで、貴方が持っているその傘ですが」
「……傘?」
私っ!?
いきなり集まった二つの視線に私の心臓がばくばくと高鳴ります。
「えぇ、その傘です。香霖堂で購入した物とお見受けしますが――」
「確かにその通りだけど、それが何か?」
「ふふ、そんなに警戒しないでくださいな。ただちょっと気になったもので……。これは興味本位で聞くのだけれど、貴方は、それをどうするつもりなのかしら?」
私を、どうするのか?
これは、一体どういう意味でしょうか。
私の知る限りでは、傘にはそれ程多くの使い道は無いように、というかむしろ一つしかないように思えます。
「……何故、そんなことを?」
少女が、警戒を解かないまま八雲紫に尋ねます。
「だって不思議じゃありませんか。あの店で扱っているものはその殆ど全てが拾い物、新品なんて一つもありませんわ。傘なんて、人里にでも行けば新品の物が幾らでも買えるというのに、わざわざあの店で買うなんて」
……確かに、その通りです。
私自身、その点は不思議に思っていました。
元々、新品と比べられれば見劣りすることはわかっていました。だからこそ、あの店を選び、僅かな可能性に賭けたのです。
しかし、この少女は元々何かを探しに来ていた様に思えます。
もし最初から傘を探していたというのなら、人里の、新品を扱っている普通のお店に行くはずです。
では、この少女は一体どんな理由で香霖堂に訪れたのでしょうか?
何故――私を買ってくれたのでしょう?
ただ単純に気に入ったという理由以外の何かがそこにはあるように思えます。……でも、
――実に素晴らしい傘ね。
彼女は、確かにそう言ってくれたのです。
例え理由がそれだけではなかったとしても、それだけは間違いのない事です。
きっと、どんな事情があるにせよ、大切に使ってくれるに違いありません。
私はそんな自信と少しの興味を胸に宿らせて、静かに彼女の言葉を待ちました。
少しの逡巡の後に、ようやく少女が口を開きます。
「別に、大した理由じゃないわ。……ほら、貴方は知っていると思うけど、私はスペルカードを自分の持つ難題――珍しい道具をモチーフにしているでしょう? 新しいスペルカードを考えるのに、新たな道具が必要だと思ったのよ」
「それはつまり、別に傘として使いたいわけではないと、そういうことかしら?」
僅かに迷いながら、それでもはっきりとした口調で少女が言います。
「えぇ、そうよ。貴方の言った通り、ただ使いたいというだけなら新品を買うわ。普段は、倉庫にでも仕舞っておくつもり」
「……成程、よくわかりましたわ」
――ああ、どうやら私は、とんでもない勘違いをしていたようでした。
◆◆◆◆◆
一体このスキマ妖怪はどういうつもりなのか。
これは確かに珍しい傘かもしれないが、果たして妖怪の賢者とも言われた八雲紫が興味を示す程の物だろうか? 私には、とてもそうは思えない。
あるいは、何かしら秘密があるのかもしれない。
私の知らないような、何かが。
「ねえ、ちょっとお願いがあるのですけど――」
私が思案に耽っていると、唐突に紫が言った。
「――その傘、譲っていただけないかしら?」
「……いきなり、何を言っているの?」
不可解さ、ここに極まれり、だ。
「特に深い意味はありませんわ。ただ……貴方よりも、私が使った方が相応しいかと思いまして」
色も紫ですし、と自らの服をつまんでひらひらと揺らす。
果たして本気で言っているのか――それも正直よくわからない。
だが、
「……私よりも相応しい? そんなこと、あるはずないでしょう」
私とて、そうまで言われて黙っていられるほどお人よしではない。
「本当に、そうかしら?」
すっと、何の前触れもなくいつの間にか眼前へと迫り、瞳を覗き込みながら紫が言う。
突然のことに私は動揺し、思わず一歩、下がってしまう。
「……な、何をもって、そんなことをいうのかしら?」
売り言葉に買い言葉と条件反射的にそう応えたものの、自分でもわかる程に混乱した有様が言葉の端々に滲み出てしまっている。
そんな私の様子にはお構いなしに、まるで生徒に教える教師のようにゆっくりと紫が語る。
「道具には、持って生まれた役割というものがあります。それを全うすることが道具にとっての幸せであり、あるべき姿です。そして、そうした使い方が出来る者こそ、その道具を持つに相応しい人物ということですわ」
「貴方も、道具に心があるとか言い出すのかしら? 古い物が新しい物に取って代わっていくのは当然のこと。それに、道具は人間が作ったもの――それをどう使おうと、人間の勝手でしょう?」
そう――それが私の、結論だ。
しかし紫は、悠然とした態度で続ける。
「そんなことはありません。それにこれは道具に限った話でもないの。人間には人間の、そして妖怪には妖怪の果たすべき役割というものがありますわ。役割とは、すなわちその者の本質です。それから外れた者に訪れるのは――不幸な末路だけ」
不幸な――末路。
「例えば、ご存知のように私には藍という式がいるけれど、彼女がその真価を発揮するのは私の命令どおりに動いている時。それが式としての藍の果たすべき役割だから」
「あら、彼女はあなたにとってただの式でしかないのかしら? 私は、てっきり家族のようなものだと思っていたけれど」
ただ黙って紫の言うことを聞き続けるのも癪なので、口を挟んでみる。
内容に意味なんてない。
ただ腹が立って、何でもいいからいちゃもんをつけたかったのだ。
「ふふっ、勿論、家族よ。こう考えたら如何かしら? 藍は式でもあり家族でもある。他人から見ればただの式だし、私から見れば家族でもある。役割が一つだけとは限らないでしょう?」
「そのAでもありBでもあるっていうのが格好いいのは思春期の間だけらしいわよ?」
「問題ありませんわ。だって私は――永遠の少女ですもの」
にんまりと怪しく笑いながら、紫は言った。
悔しいけれど、どうやら私の言葉ではこのスキマ妖怪はびくともしないらしい。
「それじゃあ、道具に付き合って、いつまでも同じ物を使えって言うの?」
「さぁ……?」
「さぁ、って……」
やはり、ふざけているのか?
「そんな事に、答えなんてありません。お好きなようにすれば良いと思いますわ」
「言っていることが、矛盾しているわ。私は、私の好きなようにしているじゃないの!」
そんなわたしの問いかけに、紫は耳元で囁いた。
「――本当に?」
言葉に、詰まる。
それを否定することなんて簡単だ。ただ一言「そうだ」と言ってやればいい。
それなのに私の口は重く閉じたまま、何も言い返すことは出来なかった。
「……さて、ご理解いただけたようですし、その傘、譲っていただけますね?」
そう言いながら、ゆったりと手を差し伸べる。
だが、勿論。
「そう易々と、この私が言うことを聞くと思う?」
そうだ、私にだって矜持がある。
はいそうですかと自分の買ったものを譲れるわけがない。
それに――、
「こう見えても、この傘は結構気に入っているのよ。だから――貴方には譲れないわ」
「あら、それは困りましたわ」
そんな事を、明らかに困っていない顔で言う。
「それでは、こうしましょう。ここは一つ、幻想郷らしく――スペルカードによる決闘で決めるというのはどうかしら?」
「望むところよ!」
私は堂々とそう答えた。
答えた、のだが――
「どうかしら。もうそろそろ諦めがついたのではなくて?」
「くっ……」
決闘が始まって数分、私のスペルカードはことごとく破れ、残り一枚という所まで追い詰められていた。
紫はどうかと言うと、無傷ではないものの、まだカードの枚数にも余裕があり、それははっきりと態度にも表れている。
正直に言って、旗色はかなり悪い。
「ふふ、貴方のスペルも悪くはないのですけれど――残念ながら、少々見飽きてしまいましたわ」
まさしく、それが今の戦況の主な原因である。
私の用意しているカードは殆ど全て、以前の異変の際に彼女に見せている。
それに対して私は、彼女の使うスペルカードを殆ど知らなかったのだ。
今回の目的はその弱点の補強であったはずなのに、それが原因でこうして弱点を露呈してしまうとは、何とも皮肉な話である。
必死に弾幕を避ける私を見詰めながら、彼女は静かに口を開く。
「先程、道具に心がある――などと言っていたけど、仮にあったとしたらどう違うのかしら? 仮にあったとしても、そんなことはわかりません。わからないなら、無くても結局は同じでしょう? 決めるのは――貴女なのです」
「だから、そうしているでしょうにっ!」
「いいえ、貴女には何も見えていない――いえ、見えない振りをしている。いつまでそうしているつもりなのかしら?」
この期に及んで、何を言っているのだろう。
私には、何も見えていない?
「……言ってくれるじゃないの――舐めないで頂戴」
最早ただの意地である。
私は生粋の意地っ張りさんなのであった。
「なら、見極めて御覧なさい――この結界を!」
紫が新たなスペルカードを宣言する。
それは――、
「これが、話に聞いた『弾幕結界』……」
彼女を象徴するような紫色の弾幕が、私を囲うように弧を描きながら幾重にも展開されていく。
「くっ、このままじゃ――」
配置されていく弾幕をすり抜けながら、外へ外へと向かう。
そうして私が抜け切った所で、配置されていた弾幕達が中心に向かって収束――そして、拡散。
あの場に踏みとどまっていては間違いなく被弾していただろう。囲われきってしまえば、逃げ場など何処にもありはしない。
しかし、そうやって安心したのも束の間、気が付けば既に次の弾幕がくるくると私の周りを回転しながら配置され始めている。
「早く、抜けないと――」
しかし、今度は間に合わない。
「なら……蓬莱の弾の枝!」
スペルカード宣言と共に、七色に輝く弾幕が広がっていく。
それは紫の弾幕結界を相殺し、その場に残るは消し損なった微かな残滓のみ。
勿論、そんなものには当たらない――が、これでもう、後は無い。
しかも、既に新たな結界が私の周りには敷かれ始めている。
外で、もっと外へ逃げなくては!
「く――はっ!」
弾に触れるか触れないか程の隙間を縫って、漸く外へと辿り着く。
そして、再び収束、拡散。
しかし、それを避けきっても直ぐに新たな結界が展開される。
結界は収束と拡散を繰り返し、今やその密度は停止状態でも抜けがたいほどになっている。
それでも急がなくては。少しでも逃げるのが遅れれば、最早躱すことは不可能なのだから。
服の上を掠めていく弾の感触を感じながら、慎重に弾幕の間を進んでいく。
「よ――しっ!」
なんとか、本当にギリギリの所で結界を抜け切った。
これなら――あるいは、凌ぎきれるかもしれない。
再び拡散していく弾幕を避けながら私はそんなことを考えていた。
だが、
「なによ、これ……」
再度展開され始めた結界を見て、私は愕然とするほかに無かった。
かつて無いほどの密度で展開される弾幕には、何処をどう探しても隙間なんてものは微塵も無く、とても抜けられるものとは思えない。
だが、幾ら隙の無いように思えても、これは一応ルールに則った、必ず避けられるはずの弾幕だ。何処かに抜け道があるはずなのだ。
その抜け道を必死に探す――が、
「そんなの、何処にもないじゃないの……」
矢張りというべきか、私にはそれを見つけることは出来なかった。
――見極めて御覧なさい。
今頃になって、紫の言葉が頭を過ぎる。
一見避けることは不可能に思えるほどの圧倒的な密度を誇るこの結界。しかし、これには必ず抜け道が存在する。そしてそれこそが――このスペルの本質なのだ。
この弾幕そのものが、絶対に回避が不可能な攻撃と遊びである弾幕との境界を表している。そして、それを避けるということは、その境界を見極めることに他ならない。
見えないけれど、確かに存在するはずの抜け道――それが、私には見つけられなかった。
結局の所、八雲紫の言うように私には何も見えていなかったのだろう。
……いいや、答えならば直ぐ目の前にあったのだ。この抜け道のように。
ただ、私が見て見ぬ振りを続けていただけだ。
――お好きなようにすれば良いと思いますわ。
道具を扱う上で本当に大切なことは、道具の気持ちなどではない。
その道具に対する自分の気持ちなのだ。
自分の行いを正当化しようといくら理屈を重ねた所で、自分を騙すことは叶わない。
そうだ。
認めなければならない。
店主の話を聞いた後、私はあの傘をそのまま倉庫の中で眠らせることを、やはり申し訳ないと心のどこかで感じていた。
そして、そう思ってしまったのなら、もうどうしようもないのだ。
自分の思うまま、感じたままに振舞うほかにないのである。
それが大事だと思ったのなら、精一杯にそれに報いなければならない。
そう、私は――古ぼけていてボロボロの、しかしどこか愛嬌のあるあの傘を、使ってあげたいと思っていた。
しかし、それも既に手遅れである。
私は迫りつつある弾幕が描く模様の美しさに見惚れながら、静かに被弾の時を待った。
◇◇◇◇◇
私は、なんと間抜けだったのでしょうか。
それがまったく見当外れのものだとは露知らず、一人で勝手に勘違いをして喜んで――本当に、バカみたいです。
少女は、私を傘としてではなく、あくまで別の目的で購入したに過ぎませんでした。
考えてみればそれは当然のことです。
私のような時代遅れの古ぼけた傘が、今更誰かに必要にされるはずがないのですから。
「ねえ、ちょっとお願いがあるのですけど――」
私が今更ながら真実を知って落ち込んでいると、八雲紫さんの声が聞こえました。
「――その傘、譲っていただけないかしら?」
「……いきなり、何を言っているの?」
本当に、何を言っているのでしょうか。
「特に深い意味はありませんわ。ただ……貴方よりも、私が使った方が相応しいかと思いまして」
「……私よりも相応しい? そんなこと、あるはずないでしょう」
果たして彼女がどんなつもりでそんな事を言い出したのか――それは私にはまったくわかりませんでした。
何しろ彼女は未だにあの不敵な笑みを浮かべたままで、その表情からは何の考えも読み取ることは出来ません。
ですが、それが本心でないのは間違いないでしょう。
……だって、私のようなボロボロの傘を欲しがるような人が居るはずがないのです。
「本当に、そうかしら?」
突然間近で囁かれた言葉に心臓がびくんと跳ねます。
今のは――もしかして、私に向かって言ったのでしょうか?
「……な、何をもって、そんなことをいうのかしら?」
しかし、間もなく聞こえた少女の言葉によって、それが二人の会話によるものだと気付きます。
そう、今の私はだたの傘。その私が話しかけられるはずがありません。余りにもいいタイミングで聞こえたため、つい勘違いをしてしまいました。
そんな私の混乱にはお構いなしに、紫さんが語ります。
「道具には、持って生まれた役割というものがあります。それを全うすることが道具にとっての幸せであり、あるべき姿です。そして、そうした使い方が出来る者こそ、その道具を持つに相応しい人物ということですわ」
道具としての、幸せ。
それはきっと、紫さんの仰る通りなのでしょう。
私だって、唯の傘であったあの頃にそうな風に過ごせていたら、どれだけ幸せだったかわかりません。
勿論、今それを想像してもそれは実に嬉しいことで、幸せな気持ちで一杯になります。
しかし、何故でしょうか。
それを考えると、幸せな気持ちと同時に、胸の奥にちくんと痛みが走るのです。
「道具は人間が作ったもの――それをどう使おうと、人間の勝手でしょう?」
「そんなことはありません。それにこれは道具に限った話でもないの。人間には人間の、そして妖怪には妖怪の果たすべき役割というものがありますわ。役割とは、すなわちその者の本質です。それから外れた者に訪れるのは――不幸な末路だけです」
妖怪には、妖怪の……。
欠けていた物が、ぱちんと胸にはまる音が聞こえたような気がします。
そうでした。
今の私は傘であり――そして、どうしようもなく妖怪でもあったのです。
如何に道具として生きようと妖怪である自分を否定してみた所で、事実には抗いようがありません。
例え道具としての幸せを掴んだとしても、妖怪としての私は置いてけぼりのままです。
それで、本当に幸せになれる筈がなかったのです。
そんな当然のことに、私は今更ながら気付きました。
「例えば、ご存知のように私には藍という式がいるけれど、彼女がその真価を発揮するのは私の命令どおりに動いている時。それが式としての藍の果たすべき役割だから」
「あら、彼女はあなたにとってただの式でしかないのかしら? 私は、てっきり家族のようなものだと思っていたけれど」。
「ふふっ、勿論、家族よ。こう考えたら如何かしら? 藍は式でもあり家族でもある。他人から見ればただの式だし、私から見れば家族でもある。役割が一つだけとは限らないでしょう?」
「そのAでもありBでもあるっていうのが格好いいのは思春期の間だけらしいわよ?」
「問題ありませんわ。だって私は――永遠の少女ですもの」
道具でもあり、妖怪でもある。
そんな事が、許されるのでしょうか?
そんな風に生きても――いいのでしょうか?
しかし、その疑問に答えてくれる人は何処にもいません。
私は――どうすれば、いいのでしょうか。
「それじゃあ、道具に付き合って、いつまでも同じ物を使えって言うの?」
「さぁ……?」
「さぁ、って……」
「そんな事に、答えなんてありません。お好きなようにすれば良いと思いますわ」
答えなんて――無い?
でも、私だって、精一杯に考えたつもりで、この道を選んだのです。
考えに考え抜いて、道具として生きる方が幸せだと――そう、思ったのです。
「言っていることが、矛盾しているわ。私は、私の好きなようにしているじゃないの!」
「――本当に?」
再び、あの囁きが耳に響きます。
本当に――そうだったのでしょうか。
自分でも最早よくわかりません。
私は本当に心の底から道具として生きたいと思っていたのでしょうか?
ただ妖怪として生きるのが嫌になって、逃げていただけなのかもしれません。
本当は――本当は、妖怪としての自分だって、捨てたくなんかなかったのかもしれません……。
「さて、ご理解いただけたようですし、その傘、譲っていただけますね?」
ゆっくりと、紫さんがこちらへと手を差し伸べました。
それを見て私は、どきどきとしながら少女の挙動を注視します。
私は――まだ、彼女に未練があるようです。
道具としての、自分にも。
私は……っ。
そうして迷い続ける私の耳に、彼女の声が響きます。
「そう易々と、この私が言うことを聞くと思う?」
初めて聞いた時と変わらない、凛とした声。
どこか自信ありげに、堂々と彼女が言い放ちます。
「こう見えても、この傘は結構気に入っているのよ。だから――貴方には譲れないわ」
その言葉を聞いた瞬間に――私の気持ちも固まったのでした。
どちらも捨てられないというのなら、無理に選ぶ必要なんてなかったのです。
道具として、そして妖怪としても生きればいい。
それは決して楽な道ではないかもしれません。しかし、私にはそれ以外の道は無いように思えたのです。
「あら、それは困りましたわ」
そう言う紫さんにはまるで困った様子は見られません。
「それでは、こうしましょう。ここは一つ、幻想郷らしく――スペルカードによる決闘で決めるというのはどうかしら?」
「望むところよ!」
彼女の提案に、少女は声高々に応じました。
応じた、のですが――。
「どうかしら? もうそろそろ諦めがついたのではなくて?」
「くっ……」
決闘が始まって数分後、少女はすっかり追い詰められていました。
二人の行っている決闘はスペルカードルールによるもので、それは以前に私もやったことがあります。ですが、このお二人の放つ弾幕はその密度、量共に私のものとは比べようが無いほどに凄まじいものでありました。その華麗さも勿論素晴らしく、時には見蕩れてしまうほどでした。
それは一見すると互角、同等の物であるように思えましたし、美しさにおいても私には甲乙付けがたいように思えます。
しかし、戦況は着実に紫さんの有利な方向へと傾いていきました。
「ふふ、貴方のスペルも悪くはないのですけれど――残念ながら、少々見飽きてしまいましたわ」
どうやら紫さんは少女の放つ弾幕を、見たことがあるようです。
つまり、それは既に攻略法を知っているということに他なりません。
少女の不利に進んでいくのは当然の結果でした。
私は何も出来ず、ただ歯がゆい思いをするばかりです。
「先程、道具に心がある――などと言っていたけど、仮にあったとしたらどう違うのかしら? 仮にあったとしても、そんなことはわかりません。わからないなら、無くても結局は同じでしょう? 決めるのは――貴女なのです」
わからないのなら、無くても同じ――確かにそうなのかもしれません。
こうして少女の傍にいても、何も出来ないのなら居ないのも同じこと。
私は道具なのに、少女の役に立ちたいと思うのに、何もできずただ傍観をしているだけ。
「だから、そうしているでしょうにっ!」
「いいえ、貴女には何も見えていない――いえ、見えない振りをしている。いつまでそうしているつもりなのかしら?」
そう、私も、何もわかっていなかったのです。
自分の、気持ちさえも。
……でも、今は違います。
私にも――私にも、出来ることがある筈です!
「……言ってくれるじゃないの――舐めないで頂戴」
「なら、見極めて御覧なさい――この結界を!」
その言葉と共に、紫色の弾幕が私達を囲います。
「これが、話に聞いた『弾幕結界』……」
弾幕結界。そのスペルカードはその名に相応しく、圧倒的なまでの密度を持ちながら、それでいて計算しつくされた美しい模様を描いていきます。
少女も必死に避け続けますが、二度目にはスペルカードを使ってしまい、更に続く三度目、四度目と回を重ねるたびに、状況は苦しくなっていく一方です。
そして、5度目に展開された弾幕結界、それは――
「なによ、これ……」
――まったく隙間の無い、完全な包囲網であるように思えました。
スペルカードによる決闘では、そのルール上どんな弾幕でも必ず避けられるように作られているはずです。
しかし、
「そんなの、何処にもないじゃないの……」
少女の呟きの示すとおり、そんなものは何処にも見当たりません。
いえ、きっと避ける方法はあるのでしょう。
でも、それを今すぐに見つけることは、少女にも、勿論私にも不可能であるように思えました。
このままでは、少女は負けてしまう――そうなれば、私は少女の下を離れることになってしまいます。
折角、自分が本当にしたいことがわかったかもしれないのに。漸く、心から使って欲しいと思える人に会えたのに――そんなのは、嫌です!
ですが、弾幕はその勢いも衰える事無く、既に目前へと迫ってきています。
これを避けることなんて、到底出来るようには思えません。
だったら、方法は一つしかありません。
しかしそんなことをしては、私の正体は間違いなくばれてしまうでしょう。
ですが――私はっ!
いよいよ弾幕が少女に当たろうとした瞬間、
「からかさ驚きフラーーッシュ!!!」
精一杯の大声と共に、私は弾幕を放ちました。
◆◆◆◆◆
私は、ただただぼんやりと空を眺めていた。
いつの間にか太陽は姿を隠し、辺りはどんよりと暗い雲に覆われている。
先程まで空一杯に広がっていた紫の弾幕も、今はどこにも見当たらない。その上、八雲紫本人の姿も何処を探しても見つからなかった。
「一体、何だったのよ……」
結局何がしたかったのか、本気であの傘が欲しかったのか、それすらもわからないままである。
傘といえば、
「最後の、あの瞬間……」
私がすっかり諦めていたあの時、手に持ったこの傘が眩いばかりの光を放ち、目前まで迫った弾幕を打ち消したのだ。
じっと、睨むように傘を見る。
普通の傘に、あのような芸当は出来ないだろう。
それでは、この傘が何か特別な力をもっているのか。そんな特殊な傘なんだろうか――いいや、回りくどい真似はもうやめよう。
そう、幾らなんでも私だっていい加減に気付いている。
「……ねえ、いつまでそうしているつもり?」
問いかけてみるが返事は無い。
「ほら、もうわかっているから正体を現しなさい」
そういいながら、ゆっくりと空中に向かって傘を放る。
傘はくるくると回転しながら地面に向かって落ちていき――地上に着くころには、大きな傘を持った一人の少女へとその姿を変えていた。
「……やっぱり、そういうことだったのね」
付喪神。
長い歳月を経た道具は心を持ち、妖怪になることがあるという。
道理で妖気を感じるはずである。
当然、店主もそれには気付いていたのだろう。もしかしたら――八雲紫も。
「話には聞いていたけど、まさか道具屋で売っているとはね」
目の前に現れた少女は、私から逃げるように傘の後ろに身を潜めている。
「何か、言うことはないのかしら?」
そうしてただじっと少女を見詰め続ける。
やがて、沈黙に耐え切れなくなったのか、おどおどと少女が口を開いた。
「あ、あのっ」
漸く見せたその顔は、申し訳なさそうに俯いていたけれど、やっぱりどこか愛嬌のある、可愛らしい顔だった。
「騙すような真似をして、ごめんなさい……」
「まったくね」
私の一言に、少女の体が面白いくらいにびくっと跳ねた。
「ご、ごめんなさいっ! でも、別に悪戯をしようとか、そういう目的でやったわけじゃないの!」
しかし、それでも彼女は必死な面持ちで話し続ける。
「それじゃあ、何故こんなことを?」
「そ、それは――」
一瞬、躊躇しながらも、
「私、本気で傘になろうって思ったの!」
響き渡るような大声でそう言った。
「……そんなこと言ったって、貴方妖怪なんでしょう?」
「そうだけどっ、でも本気なの!」
確かに、彼女の瞳は真剣そのもので、冗談を言っているようには見えなかった。
だがしかし、そんなことを私に話して、一体どうなると言うのだろう。
この子は――私に何を期待しているのか。
「……なるほど。まあ、前途多難な道でしょうが、頑張りなさい」
確認も済んだ。もう、話すことは何も無い。
そうして話をうちきって、彼女にくるりと背を向ける。
空模様も随分と怪しくなってきた。
降られる前に、さっさと永遠亭に帰らなければ。
しかし、そうして背を向けた私に向かって、尚も少女は背後から話し続ける。
「そうじゃなくてっ、私……私っ、貴方に使って欲しくて!」
「は……?」
思わず、振り返ってしまった。
「駄目、かな……?」
「いや、あなた……。自分で何を言っているかわかっているの?」
「……はい!」
少女は、泣きそうな、どうしようもなく思いつめた顔で私を見詰めている。
「……ふざけないで頂戴。妖怪だとわかっているような傘を、使えるはずが無いでしょう?」
そう言って、再び少女に背を向ける。
「本当に、駄目……?」
一歩、竹林に向かって歩を進める。
「私、ちゃんと大人しくしてるから!」
そういう問題ではないだろう。
また一歩、進む。
「家のお手伝いもしちゃうよっ!」
……くどい。
また一歩。
「何でも、するからっ!」
何故、この少女は私に拘るというのか。
傘として生きたいのなら、また香霖堂にでも並んでいればいいだろう。
一体何を考えているのだろう。
「私っ、貴方に使って欲しいのっ!」
……本当に、わからない。
そして、私はもう一歩――という所で、
「……あ」
ぽつり、と小さな雨粒が私の頬に落ちた。
それと共に、ぽつぽつと小さな雨音が少しずつ辺りに聞こえ始める。
やがて雨音の間隔は狭まっていき、気がついたときには――私は土砂降りの中に立っていた。
ああ、まったく、寄りにもよってこんな時に……。
これではもう、どうしようもないではないか。
ああもう、本当に――どうしようもない。
……ここまでお膳立てされてしまっては、意地を張っているのが馬鹿みたいではないか。
「……ねえ、貴方」
「ひゃぃっ!?」
突然の声に驚いたのか、振り向いた先では少女が心底吃驚したというような顔をしていた。
妖怪の癖に、自分が驚いてどうする。
「酷い、雨ね」
「は、はぁ……」
少女は、どんな反応をすればいいかわからないといった様子で、その大きな傘を胸に抱きながらもぞもぞとしている。
「それで――いつまで私を濡らしておくつもりなのかしら」
「……えっ」
何を言っているのかわからない、そんな表情で彼女が見返す。
「あのね、こんな状況で傘がすべきことなんて決まりきっているでしょう。貴方は――私の傘なんでしょう?」
「……あ」
辺りには、ただ雨音だけが満ちている。
「で、でもっ、私は妖怪で――」
「別に、いいじゃないの。貴方は妖怪でもあり傘でもある。他人から見れば妖怪だし、私から見れば――傘でもある」
「……でも、それが格好いいのは思春期の間だけなんじゃ?」
そういえば、この子もあの場にいたのだった。
よりにもよって、何故あんな下らない問答を覚えているのか。
「……それこそ何の問題もないわ。だって私は、正真正銘、まじりっけなしの――永遠の少女だもの」
そう、嘘偽り無い、文字通りの。
「……うんっ」
答えを聞いて満足したのか、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「そういえば、まだ貴方の名前を聞いていなかったわね」
「私の名前は小傘、多々良小傘だよっ」
「そう、私は蓬莱山輝夜よ。それじゃあ――小傘、いきましょうか」
「うんっ!」
そして竹林に、紫色の花が咲く――。
八意先生の実験体になる恐怖にプルプル震えたり、白う詐欺さんにころころ騙されたりして
頬を涙で濡らす彼女を容易に想像してしまう……
というのは冗談で、ホントいいお話でした!
妖怪としてだけではなく道具としての存在意義にも価値を見出すという、
小傘ちゃんならではの設定は、結構目から鱗でした。
輝夜が茄子色の唐傘をさしている姿もびっくりするほど違和感がありませんし、
いいコンビになりそうだなぁ、この二人は。
道具について小傘を通して考えを改める輝夜
最初は妖怪の自分を捨てるが、やっぱりどっちも大切だ、と思いうことに気付く小傘
自分の作品で小傘の立ち位置を考えてましたが、永遠亭に居座ってるのがいいかも……と思ってみたり(殴
――数年後、妖夢が永遠亭を訪れた際、急な夕立に、鈴仙が普段使ってる茄子色の古い傘を借りたりしたのは別の話……ってとこまで妄想した。
いっそみんなに使いまわされるといいよ!なーんて。
もっと評価されるべき。
ところでこのまま永遠亭に持って帰ると、コメディ的展開しか思いつかない私はいかんのでしょうか?
とても良かったです。
それにしてもいい話「でした。道具「にも気持ちがあるかもって話は小さい頃は聞いてましたが最近では全く聞かないのでいいなって二十歳になって思いました。
あと小傘ちゃんはかわいすぎるのが原因なんだとおもいます。