八坂神奈子は降り注ぐ雨を割って飛ぶ。
湿度の高い空気は容赦なく神の身に纏わりついた。水滴はいやらしい温度で辺りに停滞する。ひどく蒸し暑い。
雨を弾いたとしても、この不快感はどうすることも出来ない。
髪も衣服も背負った注連縄もぴりりと乾いており、綻び一つないというのに、辺りを包むこの湿気のせいで何もかも覇気を失ってしまっている気がする。
全く、酷い雨であった。
轟音が憂鬱な思考をさらに加速させる。
鼓膜に直接打撃を与えるかのような雷鳴と視界さえ狭めてしまうほどの雨。空は薄暗く、雲の色は淀んだ灰色である。
強風は気にならない。
けれどもこんな空では息が詰まる。厚い雲を斬り裂き進めば、先の見えない闇に呑まれていくような感覚すらおぼえる。
雨は七日間絶えず降り通しだった。
梅雨はもう二週間も前に明けており、「龍神の宣言」としての落雷もあったというのに。
この幻想郷において「常識」などという概念を持ち込むなど愚かの極み。
けれどもこの豪雨は、風の神・八坂神奈子をもってしても「常識外れ」としかいいようがない。大小の川は氾濫し、落雷によって木々が倒された。
人里のあらゆる機能は麻痺し、地上の妖怪達も身動きがとれない。
何を荒ぶるのか龍神よ。
多くの人妖は嘆いた。
梅雨は終わったのではなかったのか? と。
だが仕方が無いものだと、どこか割り切ってもいた。
これが神の在り方、これが自然というもの。
なぁに災害が起きてもすぐ復興してゆけるさ。
……幻想郷の住人は皆大らかな心を持つものだなと関心する。
しょうがない、しょうがないと、あの博麗の巫女ですら諦めている。
「異変」でないのだとすれば、どうにかしようとも思わないし、そもそも打つ手など何処にもないのだ。
(本当に? )
八坂神奈子はそうは思わない。
連日、空を睨むように見上げる。昼夜問わない雷鳴に舌打ちを噛み殺す。
苛立ちは今朝方、ついに周囲に怒気となって漏れ出した。
我慢の限界だった。
諏訪子は早苗を引っ張りそそくさと部屋から退散した。――瞬間、持っていた杯がバラバラに砕け散った。零れてしまった酒と陶器の欠片とを畳に叩きつけると、雷雨の中へと飛び出していた。あとは一直線に上昇し、今に至る。
(愚かな龍神よ。一体何が気に食わないのだ? )
同じ神という立場がそう思わせるのかもしれない。
神奈子は幻想郷の最高神に途方もない怒りを抱いていた。勿論、自然そのものとして万人の信仰を得た龍神と己では神格が違う。けれども、龍神が本来どういう存在であるのか、神奈子は知っていた。
龍神は多大な信仰を受け巨大になり過ぎたのだ。信仰は神の力を強化させるが、行き過ぎた信仰を得た神は自身の力に対して必ずと言っていいほど驕る。
愚かな神はやがて破滅をもたらすだろう。
(もうすぐか)
こうして高みに飛んだとて、龍神に直接会えるなどとは神奈子は思っていない。普段は高い空に溶け込んでいる龍神はめったな事では姿を現さない。以前幻想郷に現出したのは大結界を張った時だというから、とてもじゃないが今回のような(龍神にとっての)些細な事では姿を見せないだろう。
けれども、この事態だけは収束させたかった。
神奈子が目指したのは雲海である。
稲妻が空にでたらめな線を描き、連続して雷鳴が轟いた。
気付けば前後左右すべてが灰色の雲に覆われ閉ざされている。
ここは雷雲の巣。
彼女らの住処である。
(さぁて。面倒なことになるかねぇ)
神奈子は唇を舌先で舐めて湿らせた。苛立ちはあるが、心の何処かで高揚も感じていた。気が張り詰めてゆく感覚は身体に馴染むようで心地よい。
「誰かいるかい」
呼び掛けは普通の言葉を選ぶ。仰々しい口調はあまり好きではない。
「は、……ここに居ります」
すっ、と気配が降り立つ。
雲の合間に隠れ、彼女らは周囲を取り巻くように控えていた。あくまで姿は見せない。
巣を目指した段階で彼女らは自分の存在を目ざとく察知していたのだろう。
七人、か。
これは大層な歓迎だ。まぁ風の神たるこの八坂神奈子が直々に来てやっているのだ。これぐらいは当然ともいえる。
応じたのは落ち着いた女の声だった。
龍神の下僕ども、彼女らは一般的には「龍宮の使い」と呼ばれる。神奈子もこうして直接話すのは初めてである。
龍宮の使いの間には緊張と畏れが入り混じった空気が微弱に流れていた。
神に対する定型句の挨拶の後、声が問い掛けてくる。雷雨の轟音の中でも彼女の静かな声は不思議とよく響いた。
「山の神、そして風の神たる神奈子様。本日は暗き雲海にどのような御用でしょう」
「挨拶はどうでもいいが、まず姿を見せるのが礼儀ってもんじゃないかね? 」
「いいえ、偉大なる神の前で我々のような者が姿を晒すなど……」
ふん、と神奈子は鼻を鳴らす。神に対してこんなかしこまった態度を取る妖怪など、幻想郷にはもはやこいつら以外居ないんじゃないだろうか? 丁寧な態度を装った明らかな警戒が不快だった。やはり気に食わない連中である。
「おまえ達の長に会いたいのだけれど」
今度は明確に彼女らに緊張が走った。
「龍宮の使い」のトップがどこまでの権限を持つのか、神奈子は知らない。ただの探りだった。龍宮の使いは聡いというから、今の言葉だけで用件を察知したかもしれないが。
しかし声の主は決して動じない。巧みに感情を押し殺しているようだった。
「申し訳ありませんが、ただいま長は少々遠方の天に居りまして。数日の猶予を頂ければ呼び寄せますが」
「いまは一刻とて惜しいんだよ」
「……では、わたくしがこの場を代表して伺いましょう。御用向きによっては長と急ぎ連絡を取ります。如何でしょうか? 」
「ああ、それでいい」
頷く。ただし、と条件を一つ加える。
声の主には姿を現すよう告げた。
やはり隠れられたままではあまりいい気分はしない。
稲妻がまた一つ。雲の中から龍宮の使いが現れる。
空中のことではあるが、彼女は帽子を取り膝を折って控えていた。このあたりの作法も、神奈子はよく分からない。
顔を伏せている為、その表情は伺えなかった。
彼女は一言で表せば「無」そのものだった。まるで感情が見えてこない。なるほど、荒ぶる神の相手にはこういう者が宛がわれるのか。
「別に普通にしてくれればいいよ。話辛くてかなわない」
その姿一つ捉えるのに、いちいちこうして姿勢を解いていかなきゃならない。面倒だった。それでも女はようやく顔を上げ、神奈子の正面に立った。
緋色の淵を持った優美な羽衣は龍宮の使いの象徴である。同じ桃色と緋色のブラウスに黒いロングスカート。一見天女めいた佇まいではある。が、絡みつくようなねっとりとした濃厚な気は、彼女が妖怪に他ならないことを示している。肩口で切り揃えられた髪は瑠璃色。蒼い髪も空に住まう妖怪によく見られるものだ。
熟した果実のような深紅の瞳が、穏やかに微笑みかける。
気持ち悪い。
神奈子は直感的にそう思った。
彼女が偽りの気持ちで笑顔を見せているのが容易く分かったし、なによりも背後の荒れ狂う天候との兼ね合いが酷いものだった。 雷雲の中で優雅に靡く羽衣だけが浮付いた色彩で映る。
「龍宮の使い、永江衣玖と申します」
「君は彼女らの上役? 」
彼女ら、というのは未だ雲の合間に控えている他の使い達の事だった。衣玖と名乗った使いは淡々とした口調で応じる。
「いいえ、ですがこの中ではわたくしが一番の古株ですので」
なるほど、と神奈子は納得する。確かに姿を現した衣玖と比べてみると、姿を隠しているにも関わらず、緊張や畏れといった感情を覗かせる程度の使いはまだ未熟……といったところか。
もっとも、これだけの殺気を浴びせてみても、取り乱したり逃げ出さないだけでも流石は龍神に仕えている者達だ。
神の正面に無防備で立っているというのに眉一つ動かさない衣玖に至っては、度胸の据わり方が違う。
神奈子はニヤリと笑った。彼女らの微細なところを観察するうちに、少しばかり気持ちに余裕が生まれたように思う。
「じゃあ、君以外は下がっていいよ」
「……宜しいので? 」
衣玖の顔色は変わらなかったが、そんな風に確認してきた。自分達が無礼を働いたという自覚はあるのか。
怒れる神がみすみす味方を逃がすとは思っていなかったのだろう。
「私みたいなのを相手させるのは可哀想だと思ってね」
衣玖が無言で合図をすると、煙のように使い達の気配が消えた。己の殺気に充てられて随分と参っている個体も居たようだったから、使い達にとっては渡りに船だった筈だ。
もっとも、そんなことで衣玖自身が恩義を感じてくれるということはないだろう。
噂に聞く通り天の住人に近しい者たちは一筋縄ではいかないようだ。
浴びせる殺気は緩めない。
「随分可愛いのが居たね。新入りかい 」
「ええ、些か未熟なようです」
「君は平気? 」
「慣れておりますので」
衣玖は平然と言い放った。初めて彼女自身の感情を覗いた気がした。
最初の応対は儀礼的なものでしかない。
この女にはこちらが「神」であるという畏れも、気負いも、ありはしない。
慣れているか。面白い。この場に残った以上、交渉はきちんとしてもらわねばならない。
「じゃあ本題に入ろうか。――一体どういうつもりだ? 」
風がゴウ、と巻き起こる。
それは降りしきる雨の軌道を歪め、彼女へと襲いかかる。衣玖は動かない。長い羽衣とスカートだけがばさばさと音を立てて荒れ狂う風を受け止めていた。
「何のことでしょう?」
「これだけの被害が出ているというのに何故龍宮は動かなかった! 」
怒声が空気を震わす。
神奈子の怒りは頂点に達していた。
雨はもはや自然現象だからと片付けられない領域に達している。これを事前に把握していた筈の龍宮の使いは、何故か今回の件に関して何の警告も人里に行わなかった。
それによってどれだけ被害が拡大したか。
これは「龍神の意思」なのか、あるいは「龍宮の思惑」か。まずは確かめる必要がある。
「そう仰られましても……我々に何の御言葉もございませんでしたし」
龍宮の使いは心外とばかりに言う。
これが彼女らの見解か。
実に分かりやすい怠慢である。
「いいや、龍神の言葉が無くともおまえ達には分かっていただろう。今度の雨が幻想郷にどれだけの打撃を与えるのか」
神奈子はそれが許せなかった。確かに龍神の言葉を伝える事のみが龍宮の使いの役割なのだろう。だがそれが杓子定規に過ぎるのだ。地上の事などまるで関係ないとばかりの態度はあのいけ好かない天人どもと一緒ではないか。
龍宮の使いはあくまで緩やかな笑みを絶やさない。
「我々に龍神の御言葉なく警告をせよ、と? 面白い事を仰る」
「おまえ達の本分は幻想郷の被害を少しでも抑えることではないのか」
「ふふふ、それは違いますよ神奈子様。我々は龍神を見守ることのみが使命。地上への警告はあくまで余禄に過ぎないのです」
それに、と衣玖は涼しい口調で続けた。
「わたくし達が警告をしたとて……どれだけの人妖がわたくし達の言葉を間に受けましょう。地震・火事・動乱や内紛……何度警告したとてヒトは全く学習しませんからね」
龍宮の使いの本性見たり。
これが彼女の紛れもない気持ちなのだろう。
衣玖の言うことも一理あった。龍宮の使いなど人里では「災いの前兆」として忌むべきものとされていたし、そもそも「神への畏怖」という概念がヒトの世界から薄れて久しい。 それは神奈子が外の世界で身をもって知ったことだった。
そんな中、見返りもなく人々に警告していくことは確かに過酷だろう。彼女らは聖者ではないのだ。
しかし、衣玖の考えはただの開き直りに過ぎないのではないか。状況を変える力を持って尚、動かない怠惰など神奈子は許せなかった。
心の信仰が失われ、儀礼的な信仰だけが残る。するとどうなるか。
「中身」の伴わない神ほど、馬鹿らしい存在はない。そうなればもう害を撒き散らすだけ、人々に疎まれるばかりだ。もはや神ではないモノに成り果ててしまう。龍神とて、例外ではない。
「ふん……貴様らの認識など、その程度か。何の力も無いくせに龍神の癇癪に便乗して高みの見物など。恥を知れ」
「どのみち龍宮の使いに出来ることなど何もございません。どうとでも仰って下さいな」
「だから天人などに下る羽目になる」
「それは実に耳に痛い御言葉。……事実ですので尚更、堪えます」
衣玖は苦笑するのみだった。言葉とは裏腹、神奈子の言うことなどまるで堪えていない。
龍宮の使い達は自らの存在を冷徹なまでに客観視している。
けれども彼女らは、まるで主体性を持たない。龍神に仕える身でありながら天人の権力に付き従うのもそれゆえだ。
流されるまま、役目を機械的にこなすだけ……それが龍宮の使いという種族だった。
あまりにも遠い存在である。
神奈子には到底、彼女らが理解出来そうになかった。
「今度の龍神のお戯れ……あと三日もすれば収まりましょう。神奈子様のご心配には及びません」
暫くの沈黙の後、衣玖は淡々と告げた。
彼女の表情から、もはや何の色も見出せない。衣玖はこれで終いにしたいといった口調だった。
「三日だと?! 何を悠長な事を! あと半日でも続けば川が氾濫する……ッ」
反射的に神奈子は声を荒げていた。
幻想郷で一番の大河が氾濫する。
それが今日、上空から神奈子が見極めた結果だった。そうなれば人里の被害はより深刻なものとなるだろう。ここで龍神を何とかしなければ死者の数は二倍にも三倍にもなってしまう。
だが、龍宮の使いは――
「それがどうしたっていうんです? 」
衣玖は笑った。状況にそぐわない、幼い少女のような笑い方だった。
神奈子はゾッとした。神の身ながらに畏れた。「天」が「地」に抱く、あまりに愚かな優越感を。
「お優しい神奈子様。神奈子様は人間がお好きですか? この幻想郷では非力な人間など一々救いきれたものではありませんよ」
「貴様ッ」
思わず衣玖の襟首に掴み掛っていた。
感情の制御が出来ないのは、事実を言い当てられたからか。確かに人間は弱い。それに彼女を責めてもこの状況は変わらない。
どこかで冷静な己も居たが、もはや、眼前の女は怒りをぶつける矛先でしかなかった。
衣玖は抵抗もせず静かにこちらを見やり、耳元で囁いた。
「人身御供」
「な、」
彼女の宣告は忌まわしいものだった。そんなものは時代錯誤も甚だしい、大昔の悪習だ。しかし。
(神ならば誰しも知っている……)
それが最も確実、かつ効果的な方法であるということは!
衣玖の口元から笑みが消えない。まるで彼女自身が生贄を所望する神の如く。歌うように告げる。
「もちろん未通の女でないと駄目ですよ。川に投げ入れなさい。風の神の元で儀式を行うのでしたら、たちどころに雨は止むでしょう」
(だが、そんなこと)
多数を助ける為に犠牲を出す?
出来るわけがない。出来るわけがない!
曇天を見上げる。降りしきる雨は相変わらず神の身を避けて落ちてくる。
ああいっそ、雨に打たれてしまいたかった。
痛みを感じない筈の胸がちくりと疼く。
無力感に苛まされているのは、外でも幻想郷でも同じことだった。風の神であるこの身を持ってすら、信仰を維持することも出来ず、そればかりか災害を抑える術もない。
一体なんの為の神か。今の自分の存在こそ恥ずべきではないのか。
間近にある衣玖の表情に憐れみめいたものが浮かんだ。あるいは諦めのようなものだろうか。
「出来ないでしょう、神奈子様。それが普通です。通常の感覚です。誰しもそんな方法は望みません。ですが、事実、これを為せば多くの人命は救われるでしょうね」
「……誇りばかりでは…誰も救えないということか……」
神は万能であるべきだと思っていた。不可能なことなど何一つないと、本気でそう信じていた時期もあった。
外の世界で打ち砕かれ、ここ幻想郷でも尚。
己はどうしようもなく非力な神だった。
間違いなく、私という神は存在している。
一体何の為に?
私に出来ることとは、なんなのだろう。
「驕っていたのは龍神ではなく、私の方だったか……」
衣玖の襟首を掴んでいた掌はとうに力が抜けていた。今は彼女の胸元にただ拳を当てているのみだ。衣玖はその拳にそっと己の掌を重ねる。彼女の繊細な手は意外なほどに温かかった。
「申し訳ございません、出過ぎた真似を」
「いや、いい」
衣玖の言葉は熱くなった頭を冷やしてくれた。自分が何に対して怒りを感じていたのか。認めたくはなかったけれど、それが今、はっきりと分かった。
理由なく荒ぶる龍神にではなく。
怠惰な龍神の使いにではなく。
己自身の無力さに憤っていたのだ。
衣玖がためらいがちに言う。
「ですが……わたくしが申し上げたのは…」
「ぜんぶ、君の本音なんだろう?分かるよ」
衣玖の言葉は全て彼女自身の偽らざる気持ちだったと思う。嘘であるならば、ここまで心を揺らされる事はなかった。その真の感情は彼女の偽りの微笑みよりも、ずっとずっと真っ直ぐに響いた。
彼女の鼓動とぬくもりを感じる。
神は弱音を吐かない。神は何者にも縋らない。
けれど、今は沈黙を守る彼女の優しさが身に染みた。
美しい羽衣がふわりと肩に掛けられる。
気付けばゆっくりと抱き寄せられていた。
衣玖は母を思わせる仕草で神奈子の頬をそっと撫ぜていく。
優しい手だ。水の底に落ちてゆくような感覚をおぼえる。
何も考えずに絶望に浸るのは心地良かった。
衣玖の瞳は澄んだ硝子細工のような綺麗な緋色で……
「ッ!? 」
瞬間、猛烈な違和感が神奈子を襲った。
「澄んだ紅い瞳」? 馬鹿な、はじめに見た時、彼女の瞳は深く沈んだ色彩だった筈だ――まさか!
衣玖の細い首を片手で無造作に掴む。
「っ……神奈子様、何を…!」
衣玖は初めて動揺を見せた。構わず首を絞めていけば、衣玖は恐怖に身を竦ませた。瞳が驚愕に見開かれる。
(気のせい? でも今確かに……)
バチンッ
手に衝撃が走った。衣玖が無意識に放電したのだろう。大した抵抗にもなっていないが。
妖怪は肉体よりも精神に依存する。それに衣玖は強妖の部類だろう。神の手を持ってしても、これくらいで消滅することはない。
「う、くぅ、いや…いや…あぁ」
衣玖の頬に涙が伝う。手は緩めない。
パリパリと乾いた音を立て周りは帯電し始める。神奈子にも幾度も電撃は襲いかかるがそれには無言で堪える。
「はぁっ……くぅぅ……」
途切れ途切れに声を上げる衣玖は、発熱に喘ぐ幼子のようだった。髪は乱れ、美しい背が弓なりに反らされる。あの澄ました顔は見る影もない。弱い者に手を掛ける背徳感が神奈子の背をじわじわと這い上る。それは何処か甘美な感覚を伴っていた。壊れてしまうかもしれない。しかし不思議と確信めいたものがあった。もう、すぐそこまで来ている。
覗きこむ己の瞳は「蛇」。
そして――
衣玖の見開かれた瞳に「龍」が降りる。
『やめよ、八坂神奈子』
声と同時、それまでとは比べ物にならない強い電撃が神奈子を襲う。力に弾き飛ばされ、それでも何とか身を翻し体勢を立て直した。
衣玖を見やる。彼女は喉を押さえ、こちらを恨めしそうに見ていた。
紅い瞳が爛々と輝く。声は彼女自身のものであるというのに、纏う気がまるで変わっている。一帯の雨も、雷も、すべてが彼女の操るものになる。
やはりそうだ。龍神は衣玖の身体を借りて、こちらの様子を伺っていたのだ。
『馬鹿力が。殺す気か』
「ふん……眷属の命が脅かされれば出てくるだろうと思ったさ」
『この娘はわたしの所有物なのでね』
龍神は衣玖の帽子をもの珍しそうに弄び、被り直した。それからスカートを持ちあげて揺らめかせてみたり、自らの胸に触れてみたりしている。よほど感触が気にいったのか。揉みしだき始める。
阿呆である。
だが、これでようやく自分と同じ次元に龍神が居る。
神といっても、所詮実体はこんなものだ。人々に尊敬され畏れられ……馬鹿馬鹿しい。
それでも自分達は「神」であり続ける。
すぅ、と息を吸う。
神奈子は幻想郷の最高神に吐き捨てた。
「この…大馬鹿者ッ……周りをよく見ろ、あんまり調子に乗ってるとブッ飛ばすよ! 」
編み込んだ風の力を弾幕として頭の中で思い描く。相手が誰であろうと関係ない。龍神といえど力づくで捩じ伏せてやる。
「大体梅雨はとうに終わったと…! 」
『まぁ聞け』
龍神は顎に手をやり髭を撫でるような仕草をする。龍神は男神なのか女神なのか……その動作の一つ一つが衣玖の身体によってなされている。どうにも違和感があった。
『最初は外の世界の人間への制裁として豪雨を起こしたのだ。ところがどんなに降らせても大して水も流れない。人間が堪えた様子もまったくない。おかしいと思ってわたしはじゃんじゃん降らせた。すると』
龍神は言葉を区切って、こちらを伺うように見てくる。負けじと睨み返せば、龍神はため息を吐いた。
『なんと豪雨の大半が幻想郷に及んでいたのだ。つい先程気付いた事だが。どうやら大結界の歪みは相当おかしな事になっているようだ。だからこれ以上の文句は結界の管理者に言え』
「なっ?!」
『こちらの雨が止み、あちらからの雨の流失が止まり、隙間妖怪とその式の手により結界が完全修復される。それに費やされる日数の予測はおおよそ三日だ』
そこまで一気に言い、龍神は自信満々に胸を反らす。龍宮の使いが「あと三日」と告げたのはこのことだったのだ。
とにかく、真実はそんなものだった。
「じゃあ雨は、止むんだね」
『じきにな。生贄を所望するまでもない。惜しいことだが』
「そうかい――なら、いいんだ」
神奈子は静かに言った。一気に力が抜けるのを自覚する。
もやもやしたものは残るが、大事にならないのならそれに越したことはない。
藁をも掴む思いだったとはいえ、衣玖には悪いことをしてしまった。
彼女があえて煽るような態度を取ったのは恐らく、己に冷静さを取り戻させるためだろう。
(風の神を鎮める為か……完敗だよ、衣玖)
龍神はいたずらめいた表情を浮かべ人差し指を立て真っ直ぐに天を示した。
緋色の衣がふわりと空を舞う。
『折角の龍宮の使いの身体だ。お前に一つ警告してやろう』
雨は徐々に小降りに変化していく。重苦しい雷雲こそそのままだが、視界がだんだんと開けてきていた。
龍神は語る。
『永江衣玖は真実を話さなかった』
『龍神は雨を降らせるだけ、気紛れに独り言を呟くだけ。その中で何を人間達に警告するかは龍宮の使い自身が決める』
『そう……神の行為すら人妖は都合の良いように解釈し利用するのだ……なんと愚かな』
龍神は自嘲の笑みを浮かべた。
愚かと断じて、それでも龍神は自らの身体――衣玖の身体――を抱き締め、愛おしげに撫ぜる。
『八坂神奈子。風の神、我が同胞よ。お前も気をつけることだ。身近な者に、裏切られぬよう』
一度は殆どの力を失った自分。
諏訪子の顔が、そして早苗の顔が思い浮かんだ。
二人との絆は、そんなにやわなものではない筈だ。神奈子はそう信じていた。
信仰は何の為に?
神は誰の為に在る?
その言葉を残し、龍神の意識は不意に消えた。
崩れ落ちる龍宮の使いを神奈子は慌てて抱きとめる。
衣玖から龍神の気配は消え去っていた。
何も言うことが出来なかった。幻想郷の最高神の問い掛けはあまりに重く、神奈子の心を掻き乱していた。
「ひどい御方です……神奈子様…」
暫くすると胸の中で衣玖が目を醒ました。声に力はなかったが、無事のようだ。身体を助け起こすと、彼女は自分の力で宙に立った。
彼女は、今の会話を聞いていたのだろうか?
「すまない、痕が残っただろう」
つい誤魔化すようなことを言ってしまった。
衣玖の頤を掴み上向かせて確かめる。けれども白い首筋には何の痕跡も残っていなかった。
「おそらく、龍神が癒して下さったのでしょう」
「……優しいんだね。龍神は」
そう言うと、衣玖は頷いて曖昧な微笑みを見せた。恥じらったのか彼女の頬が僅かに桃色に染まる。
可愛いな、と初めて思った。
この娘は間違いなく龍神を想っている。龍神もまたそうであろう。
なのに、どうして。
「こういうことは、よくあるのかい」
「龍神はときにわたくし達の眼を使い、世界を観察することがあります。身体全部を使役されるのは稀な事ですが」
「今の会話は聞こえていた? 」
衣玖は首を振る。
「いいえ。残念ながら」
「そう」
(龍宮の使いは龍神の言葉を利用している……例えば天人に優先的に預言することで?)
それが彼女らの生き残る為の術か。龍神にとっては彼女らの行為が許し難い裏切りと感じるのだろう。それでも現状は黙認せざるを得ない。
あの龍神でさえ、どうにもならない事があるのだ。
「直接交渉は上手くいったご様子ですね」
「う……ん」
衣玖は空を見上げて言う。当然、歯切れの悪い返事しか出来なかった。
雷雨は完全に収まっている。あとには一面の重い雲ばかりが残った。
「好き勝手な事散々言われたけれど」
「そうなのですか?」
「とりあえず、帰る」
衣玖から背を向けると、彼女は不思議そうな視線を向けてきた。
また会えるといいね、そう告げると衣玖は最初と同じく綺麗な仕草で一礼してみせるのだった。
「私には龍神みたいな力はないけどさ」
一人きりになって、ぽつりと呟いた。
先程、頭の中で構成した弾幕をもう一度想い浮かべてみる。
神奈子は思い切りそれを上空へ向け解き放った。
縦横無尽に風が舞い、分厚い雲を花の様に散らしてゆく。
暴風はやがて収まり、その余韻は穏やかに空を撫でていく。
雨雲は裂けて、七日ぶりの青い空が現れた。
「それでも、何かやれることあるって、思いたいじゃないか」
幻想郷に陽が差す。それは地に落ちた雫に反射してきらきらと光る。
久しぶりの晴天はひどく眩しく感じた。あらゆる生き物が動き出す本当の朝を迎える。
風がまた吹きはじめた。
風の音は次第に大きくなる。それはやがて己の鼓動と同化し、心地良く拍子を刻む。
胸の中に大切な者達の姿が浮かぶ。
護りたい。その気持ちはいつだって変わらなかった。
(信仰があるから神が在るんじゃない、逆だ。ヒトを信じているから、神でいられるんだよ……)
衣と注連縄が強い風を受けてはためく。
積乱雲がゆっくりと泳いでいく。
八坂神奈子は雲間から覗く大空を見上げて飛んだ。在るべきところへと。
湿度の高い空気は容赦なく神の身に纏わりついた。水滴はいやらしい温度で辺りに停滞する。ひどく蒸し暑い。
雨を弾いたとしても、この不快感はどうすることも出来ない。
髪も衣服も背負った注連縄もぴりりと乾いており、綻び一つないというのに、辺りを包むこの湿気のせいで何もかも覇気を失ってしまっている気がする。
全く、酷い雨であった。
轟音が憂鬱な思考をさらに加速させる。
鼓膜に直接打撃を与えるかのような雷鳴と視界さえ狭めてしまうほどの雨。空は薄暗く、雲の色は淀んだ灰色である。
強風は気にならない。
けれどもこんな空では息が詰まる。厚い雲を斬り裂き進めば、先の見えない闇に呑まれていくような感覚すらおぼえる。
雨は七日間絶えず降り通しだった。
梅雨はもう二週間も前に明けており、「龍神の宣言」としての落雷もあったというのに。
この幻想郷において「常識」などという概念を持ち込むなど愚かの極み。
けれどもこの豪雨は、風の神・八坂神奈子をもってしても「常識外れ」としかいいようがない。大小の川は氾濫し、落雷によって木々が倒された。
人里のあらゆる機能は麻痺し、地上の妖怪達も身動きがとれない。
何を荒ぶるのか龍神よ。
多くの人妖は嘆いた。
梅雨は終わったのではなかったのか? と。
だが仕方が無いものだと、どこか割り切ってもいた。
これが神の在り方、これが自然というもの。
なぁに災害が起きてもすぐ復興してゆけるさ。
……幻想郷の住人は皆大らかな心を持つものだなと関心する。
しょうがない、しょうがないと、あの博麗の巫女ですら諦めている。
「異変」でないのだとすれば、どうにかしようとも思わないし、そもそも打つ手など何処にもないのだ。
(本当に? )
八坂神奈子はそうは思わない。
連日、空を睨むように見上げる。昼夜問わない雷鳴に舌打ちを噛み殺す。
苛立ちは今朝方、ついに周囲に怒気となって漏れ出した。
我慢の限界だった。
諏訪子は早苗を引っ張りそそくさと部屋から退散した。――瞬間、持っていた杯がバラバラに砕け散った。零れてしまった酒と陶器の欠片とを畳に叩きつけると、雷雨の中へと飛び出していた。あとは一直線に上昇し、今に至る。
(愚かな龍神よ。一体何が気に食わないのだ? )
同じ神という立場がそう思わせるのかもしれない。
神奈子は幻想郷の最高神に途方もない怒りを抱いていた。勿論、自然そのものとして万人の信仰を得た龍神と己では神格が違う。けれども、龍神が本来どういう存在であるのか、神奈子は知っていた。
龍神は多大な信仰を受け巨大になり過ぎたのだ。信仰は神の力を強化させるが、行き過ぎた信仰を得た神は自身の力に対して必ずと言っていいほど驕る。
愚かな神はやがて破滅をもたらすだろう。
(もうすぐか)
こうして高みに飛んだとて、龍神に直接会えるなどとは神奈子は思っていない。普段は高い空に溶け込んでいる龍神はめったな事では姿を現さない。以前幻想郷に現出したのは大結界を張った時だというから、とてもじゃないが今回のような(龍神にとっての)些細な事では姿を見せないだろう。
けれども、この事態だけは収束させたかった。
神奈子が目指したのは雲海である。
稲妻が空にでたらめな線を描き、連続して雷鳴が轟いた。
気付けば前後左右すべてが灰色の雲に覆われ閉ざされている。
ここは雷雲の巣。
彼女らの住処である。
(さぁて。面倒なことになるかねぇ)
神奈子は唇を舌先で舐めて湿らせた。苛立ちはあるが、心の何処かで高揚も感じていた。気が張り詰めてゆく感覚は身体に馴染むようで心地よい。
「誰かいるかい」
呼び掛けは普通の言葉を選ぶ。仰々しい口調はあまり好きではない。
「は、……ここに居ります」
すっ、と気配が降り立つ。
雲の合間に隠れ、彼女らは周囲を取り巻くように控えていた。あくまで姿は見せない。
巣を目指した段階で彼女らは自分の存在を目ざとく察知していたのだろう。
七人、か。
これは大層な歓迎だ。まぁ風の神たるこの八坂神奈子が直々に来てやっているのだ。これぐらいは当然ともいえる。
応じたのは落ち着いた女の声だった。
龍神の下僕ども、彼女らは一般的には「龍宮の使い」と呼ばれる。神奈子もこうして直接話すのは初めてである。
龍宮の使いの間には緊張と畏れが入り混じった空気が微弱に流れていた。
神に対する定型句の挨拶の後、声が問い掛けてくる。雷雨の轟音の中でも彼女の静かな声は不思議とよく響いた。
「山の神、そして風の神たる神奈子様。本日は暗き雲海にどのような御用でしょう」
「挨拶はどうでもいいが、まず姿を見せるのが礼儀ってもんじゃないかね? 」
「いいえ、偉大なる神の前で我々のような者が姿を晒すなど……」
ふん、と神奈子は鼻を鳴らす。神に対してこんなかしこまった態度を取る妖怪など、幻想郷にはもはやこいつら以外居ないんじゃないだろうか? 丁寧な態度を装った明らかな警戒が不快だった。やはり気に食わない連中である。
「おまえ達の長に会いたいのだけれど」
今度は明確に彼女らに緊張が走った。
「龍宮の使い」のトップがどこまでの権限を持つのか、神奈子は知らない。ただの探りだった。龍宮の使いは聡いというから、今の言葉だけで用件を察知したかもしれないが。
しかし声の主は決して動じない。巧みに感情を押し殺しているようだった。
「申し訳ありませんが、ただいま長は少々遠方の天に居りまして。数日の猶予を頂ければ呼び寄せますが」
「いまは一刻とて惜しいんだよ」
「……では、わたくしがこの場を代表して伺いましょう。御用向きによっては長と急ぎ連絡を取ります。如何でしょうか? 」
「ああ、それでいい」
頷く。ただし、と条件を一つ加える。
声の主には姿を現すよう告げた。
やはり隠れられたままではあまりいい気分はしない。
稲妻がまた一つ。雲の中から龍宮の使いが現れる。
空中のことではあるが、彼女は帽子を取り膝を折って控えていた。このあたりの作法も、神奈子はよく分からない。
顔を伏せている為、その表情は伺えなかった。
彼女は一言で表せば「無」そのものだった。まるで感情が見えてこない。なるほど、荒ぶる神の相手にはこういう者が宛がわれるのか。
「別に普通にしてくれればいいよ。話辛くてかなわない」
その姿一つ捉えるのに、いちいちこうして姿勢を解いていかなきゃならない。面倒だった。それでも女はようやく顔を上げ、神奈子の正面に立った。
緋色の淵を持った優美な羽衣は龍宮の使いの象徴である。同じ桃色と緋色のブラウスに黒いロングスカート。一見天女めいた佇まいではある。が、絡みつくようなねっとりとした濃厚な気は、彼女が妖怪に他ならないことを示している。肩口で切り揃えられた髪は瑠璃色。蒼い髪も空に住まう妖怪によく見られるものだ。
熟した果実のような深紅の瞳が、穏やかに微笑みかける。
気持ち悪い。
神奈子は直感的にそう思った。
彼女が偽りの気持ちで笑顔を見せているのが容易く分かったし、なによりも背後の荒れ狂う天候との兼ね合いが酷いものだった。 雷雲の中で優雅に靡く羽衣だけが浮付いた色彩で映る。
「龍宮の使い、永江衣玖と申します」
「君は彼女らの上役? 」
彼女ら、というのは未だ雲の合間に控えている他の使い達の事だった。衣玖と名乗った使いは淡々とした口調で応じる。
「いいえ、ですがこの中ではわたくしが一番の古株ですので」
なるほど、と神奈子は納得する。確かに姿を現した衣玖と比べてみると、姿を隠しているにも関わらず、緊張や畏れといった感情を覗かせる程度の使いはまだ未熟……といったところか。
もっとも、これだけの殺気を浴びせてみても、取り乱したり逃げ出さないだけでも流石は龍神に仕えている者達だ。
神の正面に無防備で立っているというのに眉一つ動かさない衣玖に至っては、度胸の据わり方が違う。
神奈子はニヤリと笑った。彼女らの微細なところを観察するうちに、少しばかり気持ちに余裕が生まれたように思う。
「じゃあ、君以外は下がっていいよ」
「……宜しいので? 」
衣玖の顔色は変わらなかったが、そんな風に確認してきた。自分達が無礼を働いたという自覚はあるのか。
怒れる神がみすみす味方を逃がすとは思っていなかったのだろう。
「私みたいなのを相手させるのは可哀想だと思ってね」
衣玖が無言で合図をすると、煙のように使い達の気配が消えた。己の殺気に充てられて随分と参っている個体も居たようだったから、使い達にとっては渡りに船だった筈だ。
もっとも、そんなことで衣玖自身が恩義を感じてくれるということはないだろう。
噂に聞く通り天の住人に近しい者たちは一筋縄ではいかないようだ。
浴びせる殺気は緩めない。
「随分可愛いのが居たね。新入りかい 」
「ええ、些か未熟なようです」
「君は平気? 」
「慣れておりますので」
衣玖は平然と言い放った。初めて彼女自身の感情を覗いた気がした。
最初の応対は儀礼的なものでしかない。
この女にはこちらが「神」であるという畏れも、気負いも、ありはしない。
慣れているか。面白い。この場に残った以上、交渉はきちんとしてもらわねばならない。
「じゃあ本題に入ろうか。――一体どういうつもりだ? 」
風がゴウ、と巻き起こる。
それは降りしきる雨の軌道を歪め、彼女へと襲いかかる。衣玖は動かない。長い羽衣とスカートだけがばさばさと音を立てて荒れ狂う風を受け止めていた。
「何のことでしょう?」
「これだけの被害が出ているというのに何故龍宮は動かなかった! 」
怒声が空気を震わす。
神奈子の怒りは頂点に達していた。
雨はもはや自然現象だからと片付けられない領域に達している。これを事前に把握していた筈の龍宮の使いは、何故か今回の件に関して何の警告も人里に行わなかった。
それによってどれだけ被害が拡大したか。
これは「龍神の意思」なのか、あるいは「龍宮の思惑」か。まずは確かめる必要がある。
「そう仰られましても……我々に何の御言葉もございませんでしたし」
龍宮の使いは心外とばかりに言う。
これが彼女らの見解か。
実に分かりやすい怠慢である。
「いいや、龍神の言葉が無くともおまえ達には分かっていただろう。今度の雨が幻想郷にどれだけの打撃を与えるのか」
神奈子はそれが許せなかった。確かに龍神の言葉を伝える事のみが龍宮の使いの役割なのだろう。だがそれが杓子定規に過ぎるのだ。地上の事などまるで関係ないとばかりの態度はあのいけ好かない天人どもと一緒ではないか。
龍宮の使いはあくまで緩やかな笑みを絶やさない。
「我々に龍神の御言葉なく警告をせよ、と? 面白い事を仰る」
「おまえ達の本分は幻想郷の被害を少しでも抑えることではないのか」
「ふふふ、それは違いますよ神奈子様。我々は龍神を見守ることのみが使命。地上への警告はあくまで余禄に過ぎないのです」
それに、と衣玖は涼しい口調で続けた。
「わたくし達が警告をしたとて……どれだけの人妖がわたくし達の言葉を間に受けましょう。地震・火事・動乱や内紛……何度警告したとてヒトは全く学習しませんからね」
龍宮の使いの本性見たり。
これが彼女の紛れもない気持ちなのだろう。
衣玖の言うことも一理あった。龍宮の使いなど人里では「災いの前兆」として忌むべきものとされていたし、そもそも「神への畏怖」という概念がヒトの世界から薄れて久しい。 それは神奈子が外の世界で身をもって知ったことだった。
そんな中、見返りもなく人々に警告していくことは確かに過酷だろう。彼女らは聖者ではないのだ。
しかし、衣玖の考えはただの開き直りに過ぎないのではないか。状況を変える力を持って尚、動かない怠惰など神奈子は許せなかった。
心の信仰が失われ、儀礼的な信仰だけが残る。するとどうなるか。
「中身」の伴わない神ほど、馬鹿らしい存在はない。そうなればもう害を撒き散らすだけ、人々に疎まれるばかりだ。もはや神ではないモノに成り果ててしまう。龍神とて、例外ではない。
「ふん……貴様らの認識など、その程度か。何の力も無いくせに龍神の癇癪に便乗して高みの見物など。恥を知れ」
「どのみち龍宮の使いに出来ることなど何もございません。どうとでも仰って下さいな」
「だから天人などに下る羽目になる」
「それは実に耳に痛い御言葉。……事実ですので尚更、堪えます」
衣玖は苦笑するのみだった。言葉とは裏腹、神奈子の言うことなどまるで堪えていない。
龍宮の使い達は自らの存在を冷徹なまでに客観視している。
けれども彼女らは、まるで主体性を持たない。龍神に仕える身でありながら天人の権力に付き従うのもそれゆえだ。
流されるまま、役目を機械的にこなすだけ……それが龍宮の使いという種族だった。
あまりにも遠い存在である。
神奈子には到底、彼女らが理解出来そうになかった。
「今度の龍神のお戯れ……あと三日もすれば収まりましょう。神奈子様のご心配には及びません」
暫くの沈黙の後、衣玖は淡々と告げた。
彼女の表情から、もはや何の色も見出せない。衣玖はこれで終いにしたいといった口調だった。
「三日だと?! 何を悠長な事を! あと半日でも続けば川が氾濫する……ッ」
反射的に神奈子は声を荒げていた。
幻想郷で一番の大河が氾濫する。
それが今日、上空から神奈子が見極めた結果だった。そうなれば人里の被害はより深刻なものとなるだろう。ここで龍神を何とかしなければ死者の数は二倍にも三倍にもなってしまう。
だが、龍宮の使いは――
「それがどうしたっていうんです? 」
衣玖は笑った。状況にそぐわない、幼い少女のような笑い方だった。
神奈子はゾッとした。神の身ながらに畏れた。「天」が「地」に抱く、あまりに愚かな優越感を。
「お優しい神奈子様。神奈子様は人間がお好きですか? この幻想郷では非力な人間など一々救いきれたものではありませんよ」
「貴様ッ」
思わず衣玖の襟首に掴み掛っていた。
感情の制御が出来ないのは、事実を言い当てられたからか。確かに人間は弱い。それに彼女を責めてもこの状況は変わらない。
どこかで冷静な己も居たが、もはや、眼前の女は怒りをぶつける矛先でしかなかった。
衣玖は抵抗もせず静かにこちらを見やり、耳元で囁いた。
「人身御供」
「な、」
彼女の宣告は忌まわしいものだった。そんなものは時代錯誤も甚だしい、大昔の悪習だ。しかし。
(神ならば誰しも知っている……)
それが最も確実、かつ効果的な方法であるということは!
衣玖の口元から笑みが消えない。まるで彼女自身が生贄を所望する神の如く。歌うように告げる。
「もちろん未通の女でないと駄目ですよ。川に投げ入れなさい。風の神の元で儀式を行うのでしたら、たちどころに雨は止むでしょう」
(だが、そんなこと)
多数を助ける為に犠牲を出す?
出来るわけがない。出来るわけがない!
曇天を見上げる。降りしきる雨は相変わらず神の身を避けて落ちてくる。
ああいっそ、雨に打たれてしまいたかった。
痛みを感じない筈の胸がちくりと疼く。
無力感に苛まされているのは、外でも幻想郷でも同じことだった。風の神であるこの身を持ってすら、信仰を維持することも出来ず、そればかりか災害を抑える術もない。
一体なんの為の神か。今の自分の存在こそ恥ずべきではないのか。
間近にある衣玖の表情に憐れみめいたものが浮かんだ。あるいは諦めのようなものだろうか。
「出来ないでしょう、神奈子様。それが普通です。通常の感覚です。誰しもそんな方法は望みません。ですが、事実、これを為せば多くの人命は救われるでしょうね」
「……誇りばかりでは…誰も救えないということか……」
神は万能であるべきだと思っていた。不可能なことなど何一つないと、本気でそう信じていた時期もあった。
外の世界で打ち砕かれ、ここ幻想郷でも尚。
己はどうしようもなく非力な神だった。
間違いなく、私という神は存在している。
一体何の為に?
私に出来ることとは、なんなのだろう。
「驕っていたのは龍神ではなく、私の方だったか……」
衣玖の襟首を掴んでいた掌はとうに力が抜けていた。今は彼女の胸元にただ拳を当てているのみだ。衣玖はその拳にそっと己の掌を重ねる。彼女の繊細な手は意外なほどに温かかった。
「申し訳ございません、出過ぎた真似を」
「いや、いい」
衣玖の言葉は熱くなった頭を冷やしてくれた。自分が何に対して怒りを感じていたのか。認めたくはなかったけれど、それが今、はっきりと分かった。
理由なく荒ぶる龍神にではなく。
怠惰な龍神の使いにではなく。
己自身の無力さに憤っていたのだ。
衣玖がためらいがちに言う。
「ですが……わたくしが申し上げたのは…」
「ぜんぶ、君の本音なんだろう?分かるよ」
衣玖の言葉は全て彼女自身の偽らざる気持ちだったと思う。嘘であるならば、ここまで心を揺らされる事はなかった。その真の感情は彼女の偽りの微笑みよりも、ずっとずっと真っ直ぐに響いた。
彼女の鼓動とぬくもりを感じる。
神は弱音を吐かない。神は何者にも縋らない。
けれど、今は沈黙を守る彼女の優しさが身に染みた。
美しい羽衣がふわりと肩に掛けられる。
気付けばゆっくりと抱き寄せられていた。
衣玖は母を思わせる仕草で神奈子の頬をそっと撫ぜていく。
優しい手だ。水の底に落ちてゆくような感覚をおぼえる。
何も考えずに絶望に浸るのは心地良かった。
衣玖の瞳は澄んだ硝子細工のような綺麗な緋色で……
「ッ!? 」
瞬間、猛烈な違和感が神奈子を襲った。
「澄んだ紅い瞳」? 馬鹿な、はじめに見た時、彼女の瞳は深く沈んだ色彩だった筈だ――まさか!
衣玖の細い首を片手で無造作に掴む。
「っ……神奈子様、何を…!」
衣玖は初めて動揺を見せた。構わず首を絞めていけば、衣玖は恐怖に身を竦ませた。瞳が驚愕に見開かれる。
(気のせい? でも今確かに……)
バチンッ
手に衝撃が走った。衣玖が無意識に放電したのだろう。大した抵抗にもなっていないが。
妖怪は肉体よりも精神に依存する。それに衣玖は強妖の部類だろう。神の手を持ってしても、これくらいで消滅することはない。
「う、くぅ、いや…いや…あぁ」
衣玖の頬に涙が伝う。手は緩めない。
パリパリと乾いた音を立て周りは帯電し始める。神奈子にも幾度も電撃は襲いかかるがそれには無言で堪える。
「はぁっ……くぅぅ……」
途切れ途切れに声を上げる衣玖は、発熱に喘ぐ幼子のようだった。髪は乱れ、美しい背が弓なりに反らされる。あの澄ました顔は見る影もない。弱い者に手を掛ける背徳感が神奈子の背をじわじわと這い上る。それは何処か甘美な感覚を伴っていた。壊れてしまうかもしれない。しかし不思議と確信めいたものがあった。もう、すぐそこまで来ている。
覗きこむ己の瞳は「蛇」。
そして――
衣玖の見開かれた瞳に「龍」が降りる。
『やめよ、八坂神奈子』
声と同時、それまでとは比べ物にならない強い電撃が神奈子を襲う。力に弾き飛ばされ、それでも何とか身を翻し体勢を立て直した。
衣玖を見やる。彼女は喉を押さえ、こちらを恨めしそうに見ていた。
紅い瞳が爛々と輝く。声は彼女自身のものであるというのに、纏う気がまるで変わっている。一帯の雨も、雷も、すべてが彼女の操るものになる。
やはりそうだ。龍神は衣玖の身体を借りて、こちらの様子を伺っていたのだ。
『馬鹿力が。殺す気か』
「ふん……眷属の命が脅かされれば出てくるだろうと思ったさ」
『この娘はわたしの所有物なのでね』
龍神は衣玖の帽子をもの珍しそうに弄び、被り直した。それからスカートを持ちあげて揺らめかせてみたり、自らの胸に触れてみたりしている。よほど感触が気にいったのか。揉みしだき始める。
阿呆である。
だが、これでようやく自分と同じ次元に龍神が居る。
神といっても、所詮実体はこんなものだ。人々に尊敬され畏れられ……馬鹿馬鹿しい。
それでも自分達は「神」であり続ける。
すぅ、と息を吸う。
神奈子は幻想郷の最高神に吐き捨てた。
「この…大馬鹿者ッ……周りをよく見ろ、あんまり調子に乗ってるとブッ飛ばすよ! 」
編み込んだ風の力を弾幕として頭の中で思い描く。相手が誰であろうと関係ない。龍神といえど力づくで捩じ伏せてやる。
「大体梅雨はとうに終わったと…! 」
『まぁ聞け』
龍神は顎に手をやり髭を撫でるような仕草をする。龍神は男神なのか女神なのか……その動作の一つ一つが衣玖の身体によってなされている。どうにも違和感があった。
『最初は外の世界の人間への制裁として豪雨を起こしたのだ。ところがどんなに降らせても大して水も流れない。人間が堪えた様子もまったくない。おかしいと思ってわたしはじゃんじゃん降らせた。すると』
龍神は言葉を区切って、こちらを伺うように見てくる。負けじと睨み返せば、龍神はため息を吐いた。
『なんと豪雨の大半が幻想郷に及んでいたのだ。つい先程気付いた事だが。どうやら大結界の歪みは相当おかしな事になっているようだ。だからこれ以上の文句は結界の管理者に言え』
「なっ?!」
『こちらの雨が止み、あちらからの雨の流失が止まり、隙間妖怪とその式の手により結界が完全修復される。それに費やされる日数の予測はおおよそ三日だ』
そこまで一気に言い、龍神は自信満々に胸を反らす。龍宮の使いが「あと三日」と告げたのはこのことだったのだ。
とにかく、真実はそんなものだった。
「じゃあ雨は、止むんだね」
『じきにな。生贄を所望するまでもない。惜しいことだが』
「そうかい――なら、いいんだ」
神奈子は静かに言った。一気に力が抜けるのを自覚する。
もやもやしたものは残るが、大事にならないのならそれに越したことはない。
藁をも掴む思いだったとはいえ、衣玖には悪いことをしてしまった。
彼女があえて煽るような態度を取ったのは恐らく、己に冷静さを取り戻させるためだろう。
(風の神を鎮める為か……完敗だよ、衣玖)
龍神はいたずらめいた表情を浮かべ人差し指を立て真っ直ぐに天を示した。
緋色の衣がふわりと空を舞う。
『折角の龍宮の使いの身体だ。お前に一つ警告してやろう』
雨は徐々に小降りに変化していく。重苦しい雷雲こそそのままだが、視界がだんだんと開けてきていた。
龍神は語る。
『永江衣玖は真実を話さなかった』
『龍神は雨を降らせるだけ、気紛れに独り言を呟くだけ。その中で何を人間達に警告するかは龍宮の使い自身が決める』
『そう……神の行為すら人妖は都合の良いように解釈し利用するのだ……なんと愚かな』
龍神は自嘲の笑みを浮かべた。
愚かと断じて、それでも龍神は自らの身体――衣玖の身体――を抱き締め、愛おしげに撫ぜる。
『八坂神奈子。風の神、我が同胞よ。お前も気をつけることだ。身近な者に、裏切られぬよう』
一度は殆どの力を失った自分。
諏訪子の顔が、そして早苗の顔が思い浮かんだ。
二人との絆は、そんなにやわなものではない筈だ。神奈子はそう信じていた。
信仰は何の為に?
神は誰の為に在る?
その言葉を残し、龍神の意識は不意に消えた。
崩れ落ちる龍宮の使いを神奈子は慌てて抱きとめる。
衣玖から龍神の気配は消え去っていた。
何も言うことが出来なかった。幻想郷の最高神の問い掛けはあまりに重く、神奈子の心を掻き乱していた。
「ひどい御方です……神奈子様…」
暫くすると胸の中で衣玖が目を醒ました。声に力はなかったが、無事のようだ。身体を助け起こすと、彼女は自分の力で宙に立った。
彼女は、今の会話を聞いていたのだろうか?
「すまない、痕が残っただろう」
つい誤魔化すようなことを言ってしまった。
衣玖の頤を掴み上向かせて確かめる。けれども白い首筋には何の痕跡も残っていなかった。
「おそらく、龍神が癒して下さったのでしょう」
「……優しいんだね。龍神は」
そう言うと、衣玖は頷いて曖昧な微笑みを見せた。恥じらったのか彼女の頬が僅かに桃色に染まる。
可愛いな、と初めて思った。
この娘は間違いなく龍神を想っている。龍神もまたそうであろう。
なのに、どうして。
「こういうことは、よくあるのかい」
「龍神はときにわたくし達の眼を使い、世界を観察することがあります。身体全部を使役されるのは稀な事ですが」
「今の会話は聞こえていた? 」
衣玖は首を振る。
「いいえ。残念ながら」
「そう」
(龍宮の使いは龍神の言葉を利用している……例えば天人に優先的に預言することで?)
それが彼女らの生き残る為の術か。龍神にとっては彼女らの行為が許し難い裏切りと感じるのだろう。それでも現状は黙認せざるを得ない。
あの龍神でさえ、どうにもならない事があるのだ。
「直接交渉は上手くいったご様子ですね」
「う……ん」
衣玖は空を見上げて言う。当然、歯切れの悪い返事しか出来なかった。
雷雨は完全に収まっている。あとには一面の重い雲ばかりが残った。
「好き勝手な事散々言われたけれど」
「そうなのですか?」
「とりあえず、帰る」
衣玖から背を向けると、彼女は不思議そうな視線を向けてきた。
また会えるといいね、そう告げると衣玖は最初と同じく綺麗な仕草で一礼してみせるのだった。
「私には龍神みたいな力はないけどさ」
一人きりになって、ぽつりと呟いた。
先程、頭の中で構成した弾幕をもう一度想い浮かべてみる。
神奈子は思い切りそれを上空へ向け解き放った。
縦横無尽に風が舞い、分厚い雲を花の様に散らしてゆく。
暴風はやがて収まり、その余韻は穏やかに空を撫でていく。
雨雲は裂けて、七日ぶりの青い空が現れた。
「それでも、何かやれることあるって、思いたいじゃないか」
幻想郷に陽が差す。それは地に落ちた雫に反射してきらきらと光る。
久しぶりの晴天はひどく眩しく感じた。あらゆる生き物が動き出す本当の朝を迎える。
風がまた吹きはじめた。
風の音は次第に大きくなる。それはやがて己の鼓動と同化し、心地良く拍子を刻む。
胸の中に大切な者達の姿が浮かぶ。
護りたい。その気持ちはいつだって変わらなかった。
(信仰があるから神が在るんじゃない、逆だ。ヒトを信じているから、神でいられるんだよ……)
衣と注連縄が強い風を受けてはためく。
積乱雲がゆっくりと泳いでいく。
八坂神奈子は雲間から覗く大空を見上げて飛んだ。在るべきところへと。
初・・・投稿だと・・・?
後は点数が饒舌に語ります。
タイトルに惹かれ、読ませて頂きました。カミが先かヒトが先か。ヒトのために在るカミとして悩む八坂神奈子の姿に共感を覚えました。ある意味ではよくまとまっている、簡潔で読みやすい作品でした。しかし、作品の尺に対して内容が重すぎる嫌いがあるかと思います。もうちょっと内容を減らすか、ないしは永江衣玖と八坂神奈子が対峙する場面を熱く書いてみると、なおよかったかも知れません。
とまれ、素晴らしい作品でした。では。
幻想郷に住まう人々のために駆けずり回り、単独で龍神に喧嘩を売りに行く神奈子様に
神の真髄を見ました。
こんなに徳の高そうな描写をされる神奈子様はあまり見かけないので、神奈子スキーには嬉しかったです。
初投稿とは!これからの活躍を期待しています。
非常に興味深い作品でした。
その信頼に応えられるよう精進していきたいものです。