ほのかな香りが窓のない部屋に漂う中、部屋の主であるレミリアは思わず眉を潜めていた。彼女にそんな顔をさせたのは、何気ない一言。
「小悪魔とお呼びください♪」
対面にすわるパチュリーの横。笑顔が素敵な、見知らぬ悪魔の言葉だった。
「……わかった、少し早口過ぎたのね。もう一度言うからしっかり聞きなさい」
「あ、はい」
「あなたの名を聞かせて欲しいのだけれど? わっちゅあねーむ?」
レミリアは思わず問い返していた。パチュリーという魔法使いと出会った日、一緒にいた使い魔らしき少女に何気なく問い掛けた。同じ闇の眷属であることから親近感も多少あったから、友好を深めようと何気なく問い掛けたというのに。
「小悪魔です。まい ねーむ いず こあくま」
「え、えーっと? フルネームで分けて言うと?」
「こ=あくま、です」
「種族は?」
「悪魔です」
「名前は?」
「小悪魔です」
「ええい、ふざけるなっ!」
「ぱ、パチュリー様! なんか怒られましたよ!」
すると、その横にいたパチュリーが紅茶をテーブルに置きながら、困惑する使い魔に救いの手を差し伸べた。
「違うでしょう? 名前の分け方は、こあ=くま、でしょう? だから怒られるのよ」
「あ、そうでした! 英語で言うと、コア=ベアー!」
「いやいやいや、そうじゃないだろうお前たち」
本当に喜劇の一場面かと疑いたくなるほど、疑問に満ちたやり取り。それが親友のパチュリーが契約していた使い魔、どこか抜けた風に見える『小悪魔』とのファーストコンタクトだった。
「ぴゃあああああああっ」
その第一印象の期待を裏切らず、今日も館のどこかで小悪魔の悲鳴が上がる。本日の第一発声は彼女の職場。
「おはよう、パチェ。今日も騒々しい図書館ね」
「最高の誉め言葉をありがとう」
理由は一つ、こけたのである。階段でも、倉庫でも、図書館でも、何も障害物のない廊下でも、気がついたら地面に顔面から倒れこんでいる。スカートが長いわけでも床がすべるわけでもないのに器用に転がるのだ。しかし悪魔の身体能力を持つ彼女はすぐさま復活を遂げるので、レミリアとパチュリーは叫び声など気にせずに普段どおりの挨拶を交わす。そして何事もなかったかのように足取り軽くテーブルに近付いたレミリアは、欠伸を噛み殺しながら大きくひと伸び。眠気を振り払うと、テーブルを挟んでパチュリーの対面の位置にある椅子に飛び乗った。
直後、躊躇なく羽をバサバサとはばたかせ……
「うわっぷ! わかりやすい妨害だな、おい!」
いきなり太ももの上に少女を乗せることになったのは、白黒の魔法使い。口元に羽の先端をぺしぺしと当てられながらも、本でなんとかその攻撃を防ぐ。
「あら? いたの? 椅子のデザインが変わったのかと思った」
「あー、なるほどな、とんがり帽子が斬新な椅子っ……って、ノってやると思ったのか? さっさと足の上からどいてくれよ。本が読めないじゃないか」
「これは失礼。でもね、この椅子は私専用なの。そちらがどいてくださらない?」
「一応、客と扱ってほしいんだが?」
「咲夜を通して私の入館許可を得ない者を客扱いする必要はないでしょう? 追い出されないだけ感謝して欲しいものね。ほら、どいたどいた」
「わかったよ、どくからその羽の動きを止めろって」
すっかり図書館の常連となりつつある不法侵入上等の魔理沙を無理やり追い払い、座り慣れた椅子を堂々と占拠。他と何も変わらない、木製の端正な作りの椅子にどんな違いがあるのかは不明であるが、上機嫌に鼻歌を響かせて昨日読みかけの本を手に取る。
「いっそのことレミィ専用に赤く塗ってしまってはどう?」
「何を言うかと思ったら。絶妙な木目のラインが消えては、この椅子の意味がなくなってしまうじゃない」
「じゃあ名札をつけておいてくれよ。レミリア専用椅子って」
「そうね、なら、ブラッディスカーレットチェアと名づけよう」
「呪われた家具を図書館に配置しないで」
テーブルの上に落としていた視線を上げて、目を擦りながら軽い抗議の声を漏らす。いつ眠っているのか疑問に思うほど読書や研究に時間を費やすのだから、目が疲れて当然。むしろ疲れない方がおかしい。
「こぁ~、レミィには紅茶を、私には濃厚なコーヒーを」
「おっと、私を忘れてもらっちゃ困るな」
「……そうね、なら咲夜の特製ブレンド。レミィが臭いを嗅いだだけで拒否反応を示した紅茶の残りを出しましょう」
「それは人間が飲める代物なのか?」
「試しに一口飲ませた妖精メイドは犠牲になったわ。すぐ再生して逃げたけど」
「自然体の妖精を一口で仕留める危険物は捨てろよ……、あ、そうだ小悪魔、私にも紅茶を頼むっ! って、あれ?」
本棚のほうに体を向けつつ、手を上げて自己主張をする。だが、何故か反応がない。つーかーの仲のパチュリーならいざ知らず、魔理沙が声を掛ければ何かしら反応があって然るべき。
その原因が先ほどの悲鳴にあるのではないかと考えた魔理沙は席を立ち、声がしたと思われる通路を覗く。彼女の身長の3倍はありそうなほど高い本棚の間でいつも忙しそうに動き回る小悪魔の姿。それを頭の中で思い浮かべて通路の中を捜しても、薄暗いランプの頼りない明かりの下にはいつもの彼女の姿はない。
いつもの姿は、ない。
現在の状況を黙視で把握した限り、小悪魔の固体と照合できるモノは存在せず。しかしちょっとした異常を発見した魔理沙は、振り返らずに尋ねる。
「なあ、本棚って本をしまう場所だよな?」
「ええ、私の知識ではそうね」
「本を押しのけて、上半身を突き刺す場所ではないよな?」
「そんなアクロバティックさを求める家具ではない気がするわ」
「それを実際に体現しているヤツが、尻だけをこっちにむけているんだが?」
「上半身は?」
「すっぽりと」
下から数えて二段目。
上半身を棚の間に差し込み、腰から下と羽の一部しか見えない何か。それが膝を突き、必死に体を引き抜こうともがいていた。つま先をガンガン床に打ち付ける姿からしてかなり本気に近い。そうやって足を大きく動かすたびにロングスカートが捲れ上がり、太ももくらいまであらわになってしまう。しかし当の本人からは見えるはずもなく。まず脱出が優先されているようだ。
「あー、あー、館長、館長。目標はどうやら本の運搬中に転び、棚と本の間に体や羽が引っかかっているもよう、指示求む、どうぞ」
「ひとまず放置で」
「物理的なダメージなら問題ないね、悪魔なら」
「いえす、まむ」
がたんっ! がたたたんっ がたんっ
「館長、目標が反抗的に暴れ始めたんだが?」
「本を少しでも破損させたら覚えておきなさいと伝えて」
ぴたっ
「目標沈黙っ!」
「そう、それじゃあ悪いけど救出作業をお願いできるかしら?」
「ええー、なんでだよ。お前の使い魔なんだからそっちで対処するべきじゃないか? 大切な紅魔館の一員なんだろう?」
にょきっと。
いきなり小悪魔のスカートの中から黒く尻尾が伸びてきて、激しく上下する。その動く速度と振り方からして魔理沙の意見に同意しているに違いない。かけがえのない仲間だと自己主張を繰り返す。
が――
「私、そんなに力ないもの。助けるのに時間かかるわよ? 面倒になったら魔法使うかもしれないし危険が伴うわね」
「パチェが駄目なら私がやってもいいけれど、力加減次第で羽と胴体がさよならするかもしれないよ?」
現実は非情である。
尻尾がビクリっと跳ねた直後、内心の戸惑いを示すように尻尾の先の矢印が震え始める。
「あー、家族愛と不安がせめぎ合っているみたいだぞ?」
「仕方ない。じゃあ、選びなさいね。一番、魔法の危険があるパチェ。二番、他の種族より比較的力の強い私。3番、その辺にいる吸血鬼の食料」
「おい、こらまてゐ」
「好きな番号で足か尻尾を振りなさい。私からじゃそこは見えないから、判定は魔理沙に任せるよ」
魔理沙が思わず声を挟むが、テーブルに頬杖を付くレミリアはまるで気にも止めない。くすくすと新しいおもちゃを見つけた子供の笑みを浮かべ。順々に指を立て始めた。
「はい、一番。パチェ」
プルプルと尻尾は震えるが、はっきりとは動かない。
「次、二番、私」
まったく動かない。
「最後、三番。そこの泥棒」
ゆら、ゆら、と。
躊躇いがちに尻尾が大きく揺れ動く。どうやら不安が勝ったようだ。
「結局私かよ……」
「はい、決定ね。パチェが言ったとおりになった」
「運命操ってないだろうな?」
「こんなことで能力を使っていたら末代までの恥よ」
気楽に読書を続ける二人の恨めしそうな視線を向けてから、魔理沙は散乱した本の中へと足を進める。
「か、勘違いしないでください! わ、私は痛いのが嫌だったからあなたを選択しただけで、特別な感情を抱いてるわけじゃありませんから! 絶対に違いますから! あなたのような汚らしい人間に、しかも本泥棒なんかに感謝などするものですか!」
「うわぁ……」
魔理沙は引いた。
怒鳴り散らす小悪魔の態度に、思わず引いた。
目を鋭く尖らせ、眉尻を高くし、感謝の意思すら感じさせない。そんな恩知らずな態度に不満を憶え、声を漏らしたわけではない。
何せ魔理沙の視線はすでに小悪魔から外れており。
彼女の目の前にある物質へと意識が注がれていた。
ハート形に塗りたくられたのイチゴ味らしきピンクのクリーム。
さらに、その上に乗せられた生クリームが、『ありがとうございました♪』と感謝の気持ちを激しく主張する。
好意と嫌がらせが混濁する、明らかに糖分過多の未知の物体。
ツンデレ成分を一気に粉砕する異物に戦慄し、ごくりと大きく喉を鳴らす。
「こんなとき、どんな顔をすればいいのかわからないな……」
「どうした? 笑えよ魔理沙」
「うるさい、黙ってろノンカリスマ」
「おやおや、負け犬の遠吠えは涼しいな。頬を撫でるそよ風にも劣るよ」
気晴らしに読んでいた推理小説から一旦目を外し、頬杖を付き直して紅茶を一杯。余裕の笑みを浮かべて魔理沙の捨て台詞を聞き流す。その表情と高めの声音からは悪意は感じられない。親友のパチュリーが読書に集中してしまっているから、読書の合間の気分転換に魔理沙を利用しただけなのだろう。
「さっさと食べてくださいよ、テーブルの上が片付かないじゃないですか」
「普通のホットケーキならとっくの昔になくなってると思うぞ? 絶対味くどいだろこれ」
「はは~ん、そういうことですか。甘いですね、激甘ですね。見た目は確かに口にするのを躊躇う姿をしているかもしれませんが。その桃色クリームには甘さを緩和する隠し味が含まれているんです」
「酸味か?」
「いえいえ、そうではありません」
魔理沙の後ろに立つ小悪魔は、顔の横で右手の人差し指を立てて胸を張る。自慢気な仕草の中で、魔理沙やレミリアにはない別な部分が強く存在感をアピールし無駄に敵意を集めてしまうが、特に気にする様子もない。
「咲夜さんも最近健康に気を使っていらっしゃいますし、私もそれに習ってブレンドしてみました」
「赤っぽい色で甘さ控えめ、なんだそれ? 食べ物にしては珍しい匂いなんだが――」
「血です♪ 人間の」
「食えるかぁぁっっ! どおりで鉄錆っぽい匂いがしたわけか」
絶叫して振り返ると、きょとんっとした顔でパチパチと瞬きを繰り返す。まるで信じられないものを見るかの如く。
「え? でも、出血したものを直接口から補えば、素晴らしい循環型食卓が」
「どんな吸血鬼的理想論だよ、レミリアくらいしか通用しないじゃないか」
人間には少々厳しい食材を含有するホットケーキをレミリアの方へと押し退ける。すると待ってましたと言わんばかりにナイフとフォークを持ち、ティータイムのスィーツ(?)を堪能し始めた。食料は無駄にはならなかったようである。
しかし、人間に対し、その人間の一部を使った料理を出すなど……
「こう言っちゃ悪いかもしれないが、どこか抜けてるよな、やっぱり」
「ええっ!? そんなことありませんよ、妖精メイドたちからは『私たちよりしっかりしている』と評判ですし!」
「比較対照間違ってないか?」
「む、むむぅ……、さ、咲夜さんからも『あなた天才的な転び方をするわね』と誉められること多数!」
「誉められてるのか、それ?」
「誉められてます! べた褒めです!」
「そのプラス思考は天才的だな、そういえば名前のセンスも天才的だよな? レミリアが付けたのか?」
すると、口元に桃色のクリームを付けたレミリアがテーブルの上に肘を付き、呆れるようにフォークの先を魔理沙に向けた。
「あなた魔法使いなのに使い魔の特性のことを知らないの?」
「はん、馬鹿にするなよ。召還したヤツじゃないとこっち側の世界の名前をつけられないくらい知ってるさ。その場に居合わせて、パチュリーにお願いした可能性があると思っただけだ」
口を尖らせて魔理沙が反論する。しかしそれにレミリアが反応するより早く、本を読み終えたパチュリーが冷静に一言。
「それはありえないわね、レミィが今の地味な名前で満足すると思う? 間違いなく、初めて聞いたら頬が熱くなる名前になるわ」
「悲劇だな……」
「そうかしら? 今の名前よりは素敵になると思うよ? ほら、こっちにいらっしゃい小悪魔」
口元のクリームを指で拭い取りつつ、手招き。主の誘いを断るわけにはいかず、魔理沙の後ろから離れてそちらに歩みを進め、耳を貸す。
するとレミリアの唇がわずかに動き。
その直後、耳を貸した小悪魔の体が蝋人形に見えるほど血の気が引き、その後頬が赤くなる。
「……ぇぇっと、小悪魔で……いいです」
「えーっ! なんでよっ!」
「まあ、結果はわかってたけれど。レミィだからね」
「だな」
まったく同じタイミングで首を縦に振る残り二人を怪訝な瞳で見つめ返し、ふんっと、鼻息荒く腕を組む。
「パチェだって、悪魔に小悪魔だなんて。適当につけただけでしょう?」
「あら、失礼ね。偶然が偶然を呼び、奇跡的についたすばらしい名前よ」
「はい、私もパチュリー様が付けていただいた名前、気に入っていますから」
対面に座るレミリアの後ろから視線を通わせる二人。その間には言葉だけでは表現しきれない何か。清水の如く澄んだ絆が窺い知れる。
「贔屓過ぎる。これじゃあ最初から私の勝ち目なんてないじゃない。うん、だから私のセンスの問題じゃないね、絶対そうだ」
「レミリアのセンスは置いておくとしてだ、私としてはその偶然ってやつが気になるな」
「ふん、これだから人間という奴は無粋ね。そういった情報には立ち入らないのが常識だという――」
デリカシーのない客人をせせら笑い、パチュリーへと視線を流す。それに気付いたのか、コーヒーを持ち上げようとしていた手を止め、表情をほとんど変えないまま小首を傾げた。
「いいわよ別に?」
「えぇ~~っ!? パチェ! どういうことよ!」
「どういうことって、レミィが聞かなかったから今まで答えなかっただけよ?」
「……いや、あのね。そういうこともあるんだけど。身も蓋もないというか。こ、こほんっ! ちょっとは館の主としての威厳を前面に押し出すサポートをだね。この図書館を与えた恩義を感じて多少空気を読んでもいいと思う、って笑うな!」
パチュリーが平然と許可したときの、レミリアの驚きよう。口元に手を持ってきて目を大きく開け、翼もぴんっと突っ張る姿を直視した結果。
魔理沙は、椅子に座りながら体を曲げ、腹を抱えて大笑い。
小悪魔の方はというと、表情だけはなんとか抑えているが、肩と羽が小刻みに震え。何かに耐えているのがあからさまに見え隠れする。
「お、おまっ、ぷぷっ、カリスマ溢れすぎだろ? はははっ!」
「黙りなさい……噛むわよ」
「ま、まり、ささん。お嬢様に無礼な言葉遣いをする、のは、やめ、くふっ」
「黙りなさい……槍、刺すわよ」
「500歳でその反応は……正直引くわね」
「お願い、黙ってぷりーず」
牙を剥いたり、槍を刺したりするどころか、親友にトドメを刺されそうになる。レミリアは心の汗で瞳を僅かに潤ませつつ、テーブルを叩くと椅子の上に立ち上がる。何をするのかと思い、パチュリーが反対側から見守る中。レミリアは半ば自棄な口調でびしっと指差し。
「もう、そういうことならさっさと真相を話せばいいだろう! フランと咲夜、それに美鈴も呼んで、事の次第を大々的に!」
「え、3人?」
「お呼び出しですか?」
「そうよ、話題性のためにね。館の従者に新しい娯楽を与えるのも私の役目でしょう? 噂話程度に楽しめるはず。それともそこの魔法使いに話せることが、二人には聞かせられないと?」
「いや、そうではなくて、ですね」
「何よ、やっぱり話しにくいの?」
すると、話を促された小悪魔は、すーっと手の先を椅子の上で仁王立ちするレミリアの方へ向けて。
「さっきからずっと、後ろに咲夜さんが……」
「へっ?」
油断しきっていたとはいえ、なんの気配も感じなかった背後。そちらに振り返った直後。
「……とても凛々しいお姿でしたわ、お嬢様」
「その感想で何故鼻を押さえているのかしら?」
「いえ、メイドとしての心構え、忠誠心からくる興奮によるものでして」
「……わかったから、顔を近づけるな。血液臭い」
椅子の背もたれに密着するほどの距離で、ハンカチで顔を押さえるメイドがいた。
「やはり力のある男性タイプね、ムキムキのマッチョ。これは外せない」
コトコト……
と、魔法薬の詰まった鍋を掻き回しながら、とある小さな魔女は呟く。魔女という種族に生まれながらも、先天的に体が弱く、強大な魔法を使おうとすると喘息の発作を引き起こす。
「本当は可愛らしい妖精タイプがいいのだけれど……」
そんな虚弱体質な彼女は、魔法使いとして使い魔を欲した。
いや、それよりも、一人の女性として純粋に仲間を求めた。
なぜなら――
「さすがにこれは、ねぇ?」
魔法使いの研究施設の特性上、日を重ねるごとに荷物が増える。
どうしても大量に必要となるマジックアイテム、さらに、知識の集大成である山のような資料。そして資料の元になる書物。本棚に収まりきらなくなったそれらが、床から高く詰まれ、まるで柱や壁にも見える状況だ。
魔女だから別にいいか、と。根拠のない自信で放置した結果。汚い研究室から、単なる汚い倉庫に格上げされそうになっている。
『部屋が汚いだけで何が問題なのか?』
そう思う魔法使いもいるだろうから、彼女の特性を再度思い出していただきたい。彼女は喘息持ちなのである。
部屋の埃を吸い込んだだけで咳き込む彼女が、汚い部屋で危険物を調合するのだ。魔法を構成したりするのだ。どれほどの危険性があるかは推して知るべし。
ただ、今まではなんとか上手くやり過ごしてきたのも事実であり、そのせいで楽観していたのも事実。
「さて、たまには掃除でもしましょうか」
なんとかなるだろう、そう思っていた。
マスクを付け気軽にハタキを装備し、本棚の掃除を開始して、わずか数十秒後に視界を覆うような埃で呼吸困難に陥るまでは。
『掃除=死』
悲しい等式すぎる。
そんな式が成り立ってしまうほど危険性を帯びた部屋をなんとかするには、ここは使い魔に頼るほかない。他の魔女を下手に部屋へ招き入れたら、賢者の石の研究成果が奪われる恐れすらあるのだから。
「やっぱり外見より、実用性重視にしましょうか」
結果、彼女が辿り着いたのは、愛らしさではなく。この部屋を何とかしてくれそうな従者(仲間)であった。
その下準備ももうすぐ終わる。
三日掛けて置かれていた荷物を命懸けでどかし、なんとか床にスペースをつくった。それから白いチョークで綺麗に魔法陣を描き、呼び出す場を確保した。
そして使い魔への最高の餌として……
家畜の血でも、人間の生き血でもなく――『賢者の石』
それを融解させた物質を料理と合成した。魔力に満ちた餌。それも今、手鍋の中で完成しつつある。
後は、これを魔法陣の中心に置き。魔法を唱えるだけ。
この世ならざる法則に基づき、手順を間違えなければ、筋骨隆々の執事のような使い魔が現れるはず。
「これで、すべての準備は整った」
手鍋を中心に置いた彼女は、思い描いた机上の空論を現実のものに再現する。
両手から魔力を放出させ、薄暗い部屋の中を蛍の如く彷徨わせた。淡く発行する両手が動く度、光の残滓は帯となって空間を彩る。
赤、青、緑、黄、茶。パチュリーが舞う度に透明の帯の色は変質し、五色の輝きを残して消えていく。消えた帯は粒子となって、白線の中へと吸い込まれる。
その雪のような真っ白な粒子が干渉し魔法陣が輝き始めてから、やっと魔法使いは術式を紡ぐ。
外見、特性、性格、精神レベル――
それを魔術として組み上げ使い魔の情報を狭めていく。世界と接続し、条件にあった種族を選択するのだ。細かいにこしたことはない。
と、最後に種族をイメージしたときに、やはり下級魔族がいいかと、手を動かしたとき。
不測の事態が起きた。
それは生きる者に突如襲い掛かってくる衝動。
生の三大欲求すら凌駕する、防ぎようもない行動。彼女はそれに抗おうと必死で口を真一文字に結ぶ。
詠唱を中断してまで、耐えようとする。
だが――
それを嘲笑うように、彼女の肉体は勝手に反り返り。
「へぷしっ! ……あっ!」
今度は逆に体を曲げる。
その拍子に、魔力を帯びた両手が予期せぬ動きを見せ、組み上げた検索条件が一部反転して――
「あら?」
「あら?」
そして反転とほぼ同時に発動した召還魔法は、条件とは掛け離れた悪魔を呼び出した。
「以上、終わり」
「…………え?」
しんっと静まりかえった静寂を切り裂いたのは、誰の声だったか。一人だったかも知れないし、その場の二人を除く全員だったかも知れない。ただ、その声の後になんだか微妙な、“これからどうしよう?”なんて空気が流れた。素面のパチュリーと苦笑を浮かべる小悪魔以外が、視線を合わせだし……誰が最初の一言を口にするべきか牽制し合う。
そんな中、最終的に視線が集中したのは……
「……でしょうね、予想は付いてました」
ほとんど何もわからないまま、咲夜に無理矢理連れて来られた門番の美鈴だった。眉を“ハ”の字型にして視線を何度か宙へと彷徨わせて。
結局諦め、大きく息を吐いた。
その息の直後に、ほぼ同時と言っても良いくらいのタイミングで。
「えっと、本当にたったそれだけ?」
関係者以外、全員の内心を示す疑問の声を上げた。
しかし、それを受けたパチュリーはやはり平然と唇を動かすだけ。
「ええ、それだけ」
「……何よそれ、確かに面白いけど。全然大きな事件でも何でもないじゃない。やっぱりお姉様は大袈裟ね」
四角いテーブルの一画、レミリアの横に座っていたフランドールは期待外れと言わんばかりに瞳を細め、“小悪魔に関係した凄い新事実”の内容に落胆の色を濃くする。妖精メイドとの弾幕ごっこを途中で切り上げたことによる不機嫌さも付与され、気分は最悪と言ったところか。
「大袈裟ではないわ、フラン。名は体を示すという故人の言葉があるように、個体の持つ名前はとても大切なのよ。きっと続きの話でそれが大々的に語られるはず。パチェだって、奇跡的についたすばらしい名前って言ってたし」
「あんたに言われても説得力ない」
「どういう意味よ」
「センスないし」
「センスの問題だぜ」
「何度言わせるのよ、レミィ」
「何なのよ、この集中砲火っ!」
フランばかりか、その他二名も一秒経たずに首を縦に振る。しかし捨てる神有れば、拾う神有り。人数が増えたおかげで援軍もしっかり確保している。
「お、お嬢様は感性が特殊なだけですわ」
「で、ですよね、咲夜さん!」
「いっそのこと貶してくれた方が気が楽なんだけど?」
優しい言葉のはずなのに、今回ばかりは役に立たない。フォローにすらなってない。
「しかし、別に今のはレミリアが悪い訳じゃないと思うが。私だってもうちょっとスリルとか感動溢れる裏話を期待したんだ。あまりに期待外れ過ぎるだろう? せめてさっきの続き、名付けたときのエピソードはもっと楽しみたいぜ」
「勝手に過ぎ去った思い出のハードルを上げないで欲しいのですが……」
「くしゃみで間違って召還、よりもくだらなかったりするのか?」
「……えっとぉ」
紅茶を配り終えた後も席に付かず立っていた小悪魔は、魔理沙の問いにどう答えるべきか思案する。しかしどうしても最良の答えが思いつかず、助けてほしいとパチュリーに訴える。
すると、視線を受けた頼もしい主が、びっと親指を立てた。
そして珍しくその顔に笑みを作り、
「なにか知らないけど、よくわからない間についてた」
「えーっ!?」
あまりの一言に、小悪魔すら驚愕の声を上げる。
「え、あ、あの、あのときはそんなこと一言も……」
「だって、あなた感動してたし」
「えぇぇ、だってっ! えぇえぇっ!?」
あまりにも呆気ない言い方に、小悪魔は困惑の色を強くする。その様子を咲夜がじっと探り、レミリアに耳打ち。
「なるほど、特に仕草に違和感はなし、か」
演技や虚言。それを疑ったレミリアが密かに探らせていたのだが、屋敷の住人をよく見ている咲夜からしても、不自然なところはないという。あの驚きも、本物だという。それでも納得しきれないレミリアは、腕を組んで背もたれに上半身を預ける。
「言葉ではわかりにくいから、そのときの場面を再現してくれない?」
「動きを付けろということ?」
「ええ、そうよ。奇跡的についた名前と、自分で公言していたのに……真相を聞けば、いつのまにかだなんて、疑問に思わないほうがおかしいでしょう?」
くだらない結論が出たと知り、美鈴にちょっかいを出し始めた妹を視界の隅に捉えながらレミリアは訴える。
紅魔館の主要構成員を集めたのだから、それなりに納得いく答えを聞かせろ、と。
その問いに呼応するかの如く、ランプの光が急に揺れ始めパチュリーの横顔を照らす。と、一瞬の静寂の後に、視線を集める図書館の主はゆっくりとその身を持ち上げた。
「仕方ないわね、じゃあ再現してみるから」
そして小悪魔に何かを耳打ちし、二人揃ってテーブルから離れる。五歩ほど進んだところで向き合い、小悪魔が膝をついてパチュリーに傅いた。
しかしパチュリーは少し落胆した様子でそれを見下ろす。
きっと、ムキムキの悪魔を想像して、そのギャップから落ち込んでいる表情を表現しているのだろう。さすがパチュリーと言ったところ――
「おお、小悪魔よ。 召還されてしまうとは情けない……」
「すとぉぉっぷっ!」
「何よ? これからもう少し続くのに」
「不自然でしょう? 絶対違うでしょう? 妙なネタ織り込んでるでしょう?」
「あら、そう見えた?」
「それ以外の何に見えるというのか」
「じゃあ次ね」
次とか何さ、って突っ込むより早く。
今度は小悪魔がどさりっと床に倒れ伏してしまう。それを心配してか、パチュリーがその体を優しく揺する。
ゆさゆさ……
もしかすると、召還された直後はかなり弱っていたということなのだろうか。筋骨隆々という検索が反転したのなら、それもありえる。
ゆさゆさ……
つまり、元気のいい悪魔が反転して、瀕死状態の悪魔を召還してもなんの違和感も――
そんなことをレミリアが思考していたとき、パチュリーの口が小さく開き。
「返事がない……ただの小悪魔のようだ……」
「ちがぁぁぁうっ!」
またしてもレミリアの叫びが図書館に響き渡る。
「なんで全部“小悪魔”前提で話が進んでるのよ!」
「そこに気付くとは……やはり天才……」
「ああ、もう、そういう妙な冗談はいらないと言っているの! 真実を見せなさい真実を」
「わかったわ、真実でいいのね?」
「ええ、そうよ!」
ふぅっと、小さく息を吐きパチュリーは床に座る小悪魔に目配せし、お互いコクリと頷く。どうやら本気で演技する気になったようである。
パチュリーは普段使わない光を発するだけの魔法球を手の中に作り出し、それを軽く床に投げる。
すると目が眩むような光が、図書館を包み。
光が晴れた後、不思議そうに顔を合わせるパチュリーと小悪魔が。
「あら?」
「あら?」
同時に首を傾げていた。
おそらく、さっきの光は召還時の魔法効果を擬似的に表現したもの。だからすでに二人は過去を思い出しながら、演技を続けているわけだ。
その過去のパチュリーは、恐れることもなく悪魔に手を差し出す。
「妙にイメージが違うのが出てきた。男でもなんでもない。小悪魔みたいな女性なんて」
「……私が、小悪魔?」
「そうね、そのスタイルと、その赤い瞳。十分魅力的な小悪魔だと思うわ」
「小悪魔、魅力的な小悪魔……」
「そう、その言葉が気に入った?」
「はい、矮小な存在を表現しながらも、どこか他の者を嘲るような意味を含んでいる言葉ですね。素敵だと思います」
「ええ、そうね。そういうことよ」
「わかりました、では、私の名前は今から“小悪魔”です」
「……え?」
「なにか?」
「いや、私は別にそんなつもりで……」
「ありがとうございます、素敵な名前をこんな私にいただけるなんて」
「……え、あ、うん、じゃあそれで」
「はい、了解しました!」
そして、小悪魔は満面の笑みを浮かべ。
パチュリーはどこか遠い目をして、小悪魔から視線を逃がす。
「はい、これで終わりです! どうです! 素敵なお話でしょう? やっぱりさっきのは嘘ですよ。パチュリー様は私のことを考えて、裏の意味すら込めた、単純でありながら深いお名前を私に授けてくださったんです!」
演技も終わり、興奮覚めやらぬ様子で声を高く、翼なんてこれ以上ないくらいに大きく広げる。感極まり、過去の思い出の中で喜びを感じ、全身でそれを表現する。そんな小悪魔に対し……
「アア、スゴイカンドウシタゼ」
「ソウネ、サスガパチェネ」
「ソ、ソウ、デスネ! ワタシモ ナミダガ デソウデス。ネエ、サクヤサン」
「ドウカンネ、ワタシモソウオモウ」
奇跡的についた名前の本当の意味を理解し、平坦すぎる口調で二人を褒め称える。
しかし忘れてはいけない。
紅魔館の恐怖を……
「ねえ、それって。小悪魔が勘違いして。自分で変な名前選んだだけだよね?」
「ふ、ふらぁぁぁぁぁぁんっ!?」
ありとあらゆるものを破壊する程度の能力は、穏やかな空気すら破壊したのだった。
「運動音痴だし」
「はぅ!?」
「能力も対した事ないし」
「げふっ!」
「やっぱり小悪魔は悪魔に劣るって意味じゃない?」
ぐさり……
そんな生々しい音が聞こえそうなほど、鋭い言葉で胸を貫かれた小悪魔は、図書館の隅で、“の”の字を書き始めたのだった。
「く、ふふ、今のは効きました……危うく心が折れそうでした」
「今、折れてたよね?」
「し、しかぁしっ! この小悪魔、パチュリー様のためなら火の中、水の中、どんなところでもくじけません!」
「しっかり、くじけてただろう?」
「雨が降ろうとも、槍が降ろうとも……この忠誠心を砕くことは出来――」
「話を聞かない子にはグングニル」
「勘弁して下さいっ」
あっさり槍で砕ける忠誠心。
言葉を無視したことを謝罪し、全身全霊を持ってレミリアの椅子の横で土下座する。
「あら、小悪魔って土下座の風習知ってるのね」
「ええ、私が仕込んだの、えっへん」
「それを自慢げに言うのもどうかと思うわよ、パチェ?」
最上級の謝罪、土下座というものを見たことがないフランドールは、小悪魔が何をしているかいまいち理解していないのだろう。椅子から降りて、興味津々に小悪魔の脇腹をつんつんっと突く。
それを見た咲夜がゆっくりとフランドールの背中へと回り込み、脇を抱えて持ち上げる。まだ悪戯したりなかったのか、不満そうに頬を膨らませるのを微笑みで返し、美鈴の膝の上へと乗せた。
すると、美鈴は一度咲夜と顔を見合わせ、準備していた本をテーブルの上に立てる。
「さあ、妹様。ご本でも読みましょうか」
「うん、いいよ♪」
なんとか小悪魔から注意を外す。これ以上精神的ダメージを与えると危険だと、瀟洒なメイドは判断したわけである。
その一通りの行動を確認したレミリアは小悪魔に顔を上げるよう指示し、これからは気を付けなさいと注意を促した。
「それにしても、今思えば小悪魔の能力って何かしらね? フランも言葉にしていたけれど、悪魔にしては……スペルカードもないし」
「な、なにをおっしゃいますやら、吸血蝙蝠さん」
「後でシバく」
「ひ、ひぃっ!」
「妙なところで悪戯心を発揮しないようにね、こぁ」
「う、しかし、私はパチュリー様の従者として最高の能力を持った司書だと思うわけで、それには立派なプライドがあります! そこを貶されたら対抗意識がこうメラメラと!」
「ふーん、どんな能力があるんだ? わかりやすいものがあれば見せてくれよ」
咲夜が準備したクッキーをぽりぽり囓りつつ、すっかりくつろいでいた魔理沙が本から目を上げる。悪魔の能力、つまり魔法と構成が同じ力の活用法を見学できる良い機会だと判断したのだろう。
「ふふーん、ならば目に物見せて差し上げます。この私が寝る間も惜しんで、っていうか仕事の途中で睡魔に襲われて気持ちよくうたた寝してたら、アグニシャインで無理矢理たたき起こされながら本を整理した。その経過で組み上げた最高の技術を、睡眠時間を得るために組み上げた術式を!」
「なんだろうな、もの凄くお前を応援したくなったぜ……」
「やはり頑張れば報われる。パチュリー様の言うとおりですね!」
「えっと、パチェ?」
「本人が幸せそうならいいじゃない?」
涼しげな顔でカップを傾ける魔女を見て、レミリアは思った。
こっそり思った。
友達間違えたかな、と。
口に出せない後悔を心に抱えながらも、レミリアは自慢げに小悪魔の様子を見る。
「いきますよ……術式1から3強制解放、魔法陣、全・力・展・開っ!」
魔法には全く必要のないかけ声でやる気を高め、ぱんっと手を合わせる。すると両手を合わせた部分から魔法の光が漏れ出す。その光は小悪魔の手を覆い、手首の当たりまで白い光珠に飲み込まれる。それを確認すると同時に小悪魔が両手を左右に素早く開いた。
その手が、光の奇跡が通り過ぎた直後、手を包んでいた光は細い糸状の生き物の様相で空中を漂い、文字に、図形に、形を変えていく。
その完成系を予測した魔理沙は、椅子を大袈裟に背後に弾き飛ばして立ち上がった。
「探査、変化、固定……、三つの魔法陣を同時ってお前っ……」
「おや? どうしたのかね人間。悪魔はその名の通り魔法を司る生き物だよ。この世ならざる法の扱い方なら、低俗な者でも賢者と呼ばれる人間達と同等かそれ以上。何を驚くことがある?」
運命を操ったわけではない。レミリアは魔理沙の態度を事前に予想しただけ。事前に深く椅子に座り直したのも、腕を組んだのも、彼女が驚くとわかっていたから。
「魔理沙は攻撃魔法以外不得意だからね。こぁのあの展開術はかなり高度ではあるけれど、魔法使いなら知識さえあればできるはずよ」
「研究はしてるんだがな、ああいうのはまだ苦手だぜ……」
パチュリーのフォローを受けても魔理沙は複雑な表情を返すばかり。人間と先天的な魔法使いや、悪魔の差。それをまざまざと見せつけられてしまったせいかもしれない。
三人が会話を進める中、小悪魔の魔法陣はあっさりと完成し。三つの中心に指で触れていくと白い光が一瞬のうちに着色されていく。
探索は青、変化は赤、固定は黄、変動しなくなり、空中に浮かぶだけとなった、小悪魔の前の鮮やかな三つの円。
すでに安定したのだろう、小悪魔は足取り軽くパチュリーの側へとかけ寄り。
「はぅあっ!」
綺麗にすっころんだ。
しかし、それを予想していた咲夜が時を止めて支える。
「しまらないわね、主の前ではもう少ししっかりしないと」
「あはは、どうもすみません」
照れ笑いに舌をぺろっと出す仕草を加え、今度は転ばないように空を飛んでパチュリーの後ろに着地。わずかな距離であったが念には念を込めて。そうやって目的の場所に到着するや否や、小悪魔はふふんっと鼻を鳴らした。
「どうです、綺麗でしょう。芸術的でしょう。しかも機能的という画期的な魔法ですよ」
「機能的って、私はどんな機能かすら聞かされていないんだが?」
「そうね、私も初見だわ。小悪魔、簡潔に説明しなさい」
「はい、わかりました、まず、魔法陣が何に干渉しているかなのですが――」
「3文字以内で」
「ええっ!?」
出鼻を挫かれ、困惑する小悪魔を余所に、レミリアは楽しそうに笑う。幼き紅き月の無邪気な悪意の犠牲になった従者を。
「えと、えーっと。三文字、三文字……あ、本検索です!」
「本を探す魔法ってことか?」
「はい、そのとおり。この三つの魔法陣が三角形型で並んでいるでしょう?この真ん中に手を触れて探したい本のキーワードを思い浮かべると、その本を探す手助けになるわけです」
「なんだ、持ってきてくれる訳じゃないのか。結局自分であるかないといけないっていうなら、仕事量は変わらないんじゃないか? パチュリーなんて動かないだろうし」
「まあまあ、ものは試し。魔理沙さん、何か単語を一つお願いします」
「単語か、じゃあ“魔法”だな」
捻りがない、と即座にレミリアに指摘されたが思いつかなかったのだからしょうがない。ただ別に考えもなしにその単語を口にしたわけではない。
「ふむ、きっと沢山ありますね。表拍子に魔法という単語が含まれる形でいいですか?」
「ああ、構わないぜ」
探査がどの程度の情報量を処理できるのか。その限界を知る意味もあった。しかし小悪魔は特に焦ることなく魔法陣に手を触れて。
「検索、“魔法”頻度別」
言葉を魔法陣に乗せた。
すると、いきなり薄暗かった図書館が、明るい光に包まれた。日光でもないし、攻撃魔法の光でもない。もちろん、ランプが増えたわけでもない。
「……なんだこれ?」
光を生んでいるのは、本。
本棚の中のある一画であったり、離れて数冊であったり。あちこちの本が発光しているのだ。試しに魔理沙は箒を手に天井まで飛び上がってみたら、目に見える範囲全ての棚で同じ現象が起きていた。
「探査で魔法という単語が表紙に混ざっている本を探し、変化で発光。そして、最後の魔法陣で発光時間を延長させているんです。今は魔法だけですので大量に引っかかりましたが、魔法薬とか、初級魔法とか、そういう変化を持たせると大分しぼられますし、探すのが楽ですね」
「へぇ、なかなか面白いじゃない。光っているのは手に持っても平気なのかしら?」
その珍しい光景に惹かれ、続いて行動を示したのはフランドール。美鈴の静止の声を聞かずにぴょんっと膝の上から降りた。そしてどれがいいかなと指で発光箇所をなぞり。
「あら? あんな離れた場所に」
魔法関係の本が比較的固まっている場所とは二つほど棚の違う。部屋の隅で光る本を発見し、嬉しそうにそれを持ち帰ってきた。
「美鈴、これ読んで」
「魔法のお話ですか? もし知識の本だと私にはどうしようもありませんよ?」
「いいからいいから、なんだか面白そうじゃない? 1巻って書いてあるから続き物だと思うけど」
本の背表紙、や裏表紙は真っ黒。そしてタイトルに照らされる表拍子も、やはり黒。確かに怪しい。本でも多少飾りは施されていてもおかしくはないというのに。美鈴は戻ってきたフランドールを膝の上に乗せて、その本のタイトルをゆっくりと瞳でなぞった。
「少女を大人に変える“魔法”のテクニック、1巻。今日はもう寝かせな……ふら、ふらんどぉぉるおじょぉさまぁっ!」
「読むなよ? 死んでも読むなよ?」
「レミィ、つまりそれは読めと言うこと?」
「曲解しないで、なんであんなものを図書館に置くのよ」
「情操教育には必要でしょう?」
「レベルが高すぎるのよ」
「いいじゃない、スライムの横にキラーマシンがいても」
「なんの話? とにかく、咲夜。あの本は返してくるように、それに検索で情報を絞り込めるなら、ああいう系統の本を外すことも出来たはずだろう?」
「悪戯心は何事にも必要ですよ、お嬢様。それが心に余裕をもたらすのです」
「なら、あなたの胸の中に大穴が空いたら、その分余裕が出来るわね」
「ははは、またまたご冗談を」
「こぁ、私の背中で姿を隠さずに言いなさいね」
主の椅子に隠れ、唯一確認できるのは震える頭の翼だけ。そんな親友と従者間のやりとりを眺めていた魔理沙は、ふと魔法陣と本を見て小さく、あっ、と声を上げた。
「なあ、いつもあの魔法使ってるんだよな? なら、なんでいつも本が光ってないんだ?」
「あ、簡単ですよ。あの魔法陣の変化の部分をいじって自分にしか見えなくしてやればいいんです。それだけでいつも迷わず本を持ってくる優秀な使い魔。そう映るというわけなんですよ、えっへん!」
「ふーん、やってることは凄いんだろうが、やっぱり地味なんだよなぁ」
「地味ってなんですか、地味って。もう、魔理沙さんは」
さっき怒られていたのを忘れたのか、魔理沙の言葉に乗り姿を見せる小悪魔。
「もしかして私が本当に本を探すだけにいるとお思いで?」
「……違うのか?」
「あったりまえですっ、私こそパチュリー様にふさわしい完全無欠使い魔ですよ。洗濯、掃除、お料理、その全てにおいて他の悪魔の追随を許さない。魔法使いの従者を希望する大半の悪魔の羨望の的に違いありません」
「同じ悪魔に分類をされかねない私としては、力一杯否定したいのだけれど」
どうやら珍しく姉妹同意見のようで、フランドールも首を縦に振る。事実、悪魔が多く住む魔界が、フリフリのメイド衣装だけだったとしたら、実に恐ろしい世界である。むしろ滅亡しろ、そんな魔界。
「まあ、個体差はあるからその辺はこだわりませんが……、何はともあれ、私は従者としてお客様を招き入れたりお見送りするのが得意なんですよ」
出入りを示す言葉が出た瞬間、視線が星のついた帽子を被る妖怪に集中した。
「あ、あはは、私も得意~、なんちゃって……」
「スルーするのが得意よね、お客様を」
「そこに居座る魔法使いの来訪にも気がつかなかったんだろう?」
「そういうとこ美鈴らしいね♪」
キジも鳴かずば打たれまい。
無言の視線に耐えられなかった結果、余計に墓穴を掘る結果となる。
「そうですね、美鈴さんと似た仕事になりますね。ある意味門を守るお仕事ですし、でも、どちらかといえば出迎えるより帰って貰うのが主な業務になりますが」
「本を奪う魔法使いから全力で図書館を防衛するということ?」
「違いますよ咲夜さん、本当はそっちも頑張らないといけないんですけど、もうちょっと違う対応が必要なお客様です。ちょっと別な世界の。例を挙げるなら私の元居た世界でしょうか」
別な世界。小悪魔が居た世界。それを総じて、彼女たちはこう表現する。
『異世界』、と。その世界からのお客など、紅魔館にやってくるはずがない。その世界は幻想郷とは比較にならない広さを持った、人間とは異なる者が主役の舞台。人間なんて気を抜いただけでその辺の動植物の餌食になる。まるで蟻同等の存在に成り下がる世界。
外の世界に城を構えていた過去ならともかく、現状でレミリアと有効な間柄にある魔界の生命体などいない。
「ほぅ……」
もし、それが事実だとすれば。紅魔館の主を差し置いて、魔界の住人と交渉をしていたパチュリーに対し、どう行った行動を取るべきか。レミリアは瞬時に判断し、紅い瞳を燃え上がらせる。
「そんな怖い顔をしないで。私だって別な世界からの召還を故意でやったわけではないの。攻撃魔法や精霊魔法を使う際に魔力を媒体に力の道を繋ぐわけだけれど、それが不安定になってしまうと不特定な場所に力が繋がってしまってね。それを餌に魔物や悪魔がやってきたりするわけ」
「ふふ、悪かったね、パチェ。私が親友を疑うわけがないだろう?」
「……その割には目が怖かったわ」
「吸血鬼の瞳はそんなものだよ。美味しそうな魔女が居たらついつい目が細くなるのは仕方あるまい」
「肝に銘じておくわ、吸わせる気はないけれど」
精霊魔法は使い勝手がいい部類の魔法に違いない。それでも研究によって新しい術式を構築する研究熱心な魔法使いには、いつも暴走という危険が伴い。その危険の一つが、世界に大きく干渉しすぎることで発生する世界の境界の歪み。
いわゆる、簡易な召還。
複雑な主従関係の術式が組み込まれていない、世界と世界を繋ぐだけ。もし、その開いた穴の側にとんでもない魔物がいたら……、世界を簡単にひっくり返すほどの力を持ったクセッ毛の強い魔界の女王なんて居た日には、様々な意味で両方の世界が危ない。
書物で魔界の生き物について多少知識のある魔理沙は、その危険性と小悪魔を頭の中で天秤に掛けてみる。
「それをお前が追い払うんだよな?」
「はい、話を聞いて貰って見えない穴が開いている間に帰ってもらうわけです。魔界の動物はほとんど意思疎通できますし」
「武闘派でも?」
「交渉次第では誰だって仲良しです。何せこの私がお相手するわけですから」
自信満々の笑顔と不安という重りのおかげで、頭の中の天秤が粉砕された。どう考えても小悪魔にそんな大事を任せられない気がする。
「試しにやってみせましょうか? 幸い今ここにはレミリアお嬢様も、フランドールお嬢様もいらっしゃいますし」
失敗したら武力行使。
確かにこの館の吸血鬼姉妹が力を合わせれば、大抵の魔物は一瞬で葬り去ることが出来る。しかし……
「お、お゛おねえさま゛、ここは姉として、一歩、引くところではなくて?」
「ふ、ふふふ、わ、私が引く? ありえない、我が覇道、阻む者は実妹でも容赦はしないっ」
さきほどと打って変わった子供っぽさ。
咲夜が紅茶と一緒に出したクッキーの残り一つ。それを手を絡めて奪い合う“覇道”に忙しい姉妹を見ていると、危険性しか感じない。この状況でなんだかやばい魔物を引き当てた場合。
間違いなく、詰む。
「そうね、まあ、境界の妖怪もうるさいからあまり危険な場所に道は空けられないとして、下級の魔物がいそうな平原にでも繋ぎましょうか。それで意思疎通している姿を見て貰えれば、こぁも納得するでしょうし」
「ふふん、アークデーモンでも、デーモンでもなんでもどうぞっ」
「はいはい、わかったから。じゃあ、そこの魔法陣に入って頂戴。わざと魔法を失敗させるわ。たぶん、人間が言う野犬みたいのが出てくるはずよ」
「はぁ~い♪」
軽い足取りで図書館の一画。半径5メートルはありそうな巨大な研究用の魔法陣に入った小悪魔は、手をパタパタ振って応じる。
ケンカに集中していた吸血鬼姉妹も、それをなんとか収めようとしてた美鈴もパチュリーが詠唱を始めた頃には、手の動きを止め。白く光り出す魔法陣に目を奪われる。
そんな緩やかな光が、世界を裂き別の世界へと通じる道を生み出し――
一体の魔物を呼び込んだ。
間違いなく、どこか犬に近い姿の。
けろちゃん。
そう呼ぶと皆さんはどんなものを想像するだろう。
可愛らしいカエル? 山の祟り神様?
しかし、一部の魔法使いでは、この生物も『けろちゃん』という愛称で呼ぶことがある。凶暴な三つの頭がとってもぷりちーなっ
『……地獄門を守る我を呼び出したのは貴様か?』
「ぱ、ぱちゅるぃぃぃぃぃぃさまぁぁぁっ!?」
「見事な巻き舌だわ、小悪魔」
ぐっと親指を立てるパチュリーの目の前にいる生命体は、まちがいなく、けろちゃん。
三つの頭を持つ、地獄の番犬。種族名『ケルベロス』である。
四本足で立っているだけで体高は軽く小悪魔の4倍、体の長さに至ってはもう比べるまでもなく魔法陣の中で窮屈そうに尾を曲げ、背を曲げていた。その体勢は明らかに目の前の小悪魔へと襲いかかろうとするかの如く。
「なんで、魔界と繋ぐって言ったのにそれをスルーして地獄なんですか! ああ、生暖かい息が、息がっ!」
『小娘、話を聞いているのか?』
「そのはずなのだけれど、犬というキーワードが強く引っかかったかしら……、というわけで、さあ、交渉人こぁ。見事ケルベロスを追い返して見せなさい」
『ほほぅ、我を追い返すと?』
「刺激しないでください、パチュリー様! それに私の担当は魔界で!」
「はい、音遮断しとくからね。がんばってー」
「――――――ーっ!」
召還魔法が起動してから黄色の壁となった魔法陣の外周、それを口を大きく開けて叩く。半透明のおかげでその必死さが伝わってくるが、まるで声は伝わってこない。
「性格は狡猾で、獰猛、プライドも高く簡単には引き下がらない」
おもむろにミニ八卦炉を取り出した魔理沙は、ケルベロスの特徴を口にしながら帽子の鍔を指で掴み、顔を上げた。
「交渉には向かない種族だな、しかも魔界の生き物じゃないんだろう?」
「そうでもないわね、魔界在住のケルベロスが地獄門に派遣されることもあるって、こぁが言ってた。だから十分交渉は可能なんじゃない?」
「それならいいんだけどな……」
魔法陣の近く、パチュリーの横に移動しつつぼやいた。
何故テーブルから動いたかと言えば、ケルベロスという種族を近くで確認するためでも小悪魔を救うためでもなく。
「あ、あの、お二人ともどうしたのです?」
頭の中で何かが切り替わったのか、圧倒的な魔力を放出し始めたレミリアとフランドールの側に居たら危険だと本能が感じたから。無言で椅子から飛び降り、紅い瞳をケルベロスへ向ける吸血鬼姉妹の側では美鈴がおろおろと手を彷徨わせている。
「遊んでたあの二人が、ああなるってことは……やばいタイプなんじゃないか?」
「そうでもないわ、地獄門を破ろうとしなければ本気で襲ってこないし。どちらかというと、異世界との出入り口見付けてちょっとテンションが上がってるだけなんじゃない? 間違えて穴開けちゃいました、ごめんなさいって言えば素直に帰ってくれる部類だし、私も交渉したことあるし。それでも単体で門を任されているレベルだから、本気でぶつかろうとすれば相当な被害が出るでしょうね」
「ふーん、手順さえ間違えなければ平気なんだな、って……お前もあるのかよ、交渉経験」
「ええ、魔法を失敗したときに何度かね。こぁはあのタイプ初めてかも」
「それで、音を聞こえなくしたのは?」
「あちらからの声を聞こえなくするというよりも、こちらからのヤジを防ぐ意味合いの方が強いわ。外から気に障る言葉が聞こえたりして、いきなり暴れたら危ないでしょう? それに……」
すっと右手に賢者の石を掲げ、体の周囲に漂わせ始める。これこそ動かない大図書館の戦闘の前準備。
「今なら、相手にこちらの詠唱を悟られることもない。この空間に魔法の罠を仕掛け放題。あなたは私と談笑する振りをしていればいいのよ。八卦炉を持ったままでね」
「そういうことか、やることがえげつないなお前……」
「何はともあれ、がんばってこぁがケルベロスを追い払うのを期待しましょう」
「ま、私はそれしかできないからな」
半透明の黄色の壁。その向こう側で逃げるのを諦めた小悪魔が身振り手振りで何やら話を続けていた。それを嘲るように、口元を笑みの形にした三つの犬の頭がゆっくりと小悪魔に近付いていき。
つんつんっと、鼻の頭で悪戯される。
しかし、大型の獣に顔を近づけられた小悪魔はもう興奮状態で、ぶんぶんと手を振り回しながら今にも泣きそうだ。
と、そんなとき。
「あ、躓いたな」
「転ぶわね、アレ」
少しでも体を離そうとした瞬間、床に足を取られ前のめりに地面へと倒れていく。しかしその倒れる方向には、三つの顔のうちの一つがあって。思わず小悪魔はそれを引き離そうと手を前に出す。
倒れる、バランスを取ろうと腰を捻り、手を前に出す。
その一連の動作が、驚くほど綺麗に重なって。
「おい、なんか綺麗な打撃が生まれたんだが?」
「“しょうてい”ってやつかしら。見事だわ、こぁ」
「いや、そうじゃないだろ」
全体重がのった掌が、犬の弱点の一つ。しめった鼻の頭に叩き込まれた。これにはたまらず顔を引くケルベロス。
なんとか顔の圧力から解放された小悪魔だったが、状況は最悪と言っていい。
「なんかびっくりした顔ね」
「そりゃあな、いきなり攻撃されたらそうなるだろ」
交渉をしている中で、事故ながら急所に打撃を打ち込んだのだ。今は静かに小悪魔を見下ろしているが、攻撃を返されても――
「あっ!」
思わず、声が出ていた。
魔理沙とパチュリーの視界の中で、ケルベロスの右前足が地面から浮き。正面にあるものを薙ぎ払ったのだ。
もちろん、そこには小悪魔が居て……
大木のような腕の一撃を真横から受けたのだからひとたまりもない。華奢な体は木の葉のように打ち上げられ、壁に叩き付けられ――
――るようなことはなく。
ぺしっと。
ほのぼのとした効果音が聞こえそうなほど、軽く。ケルベロスは小悪魔の頭頂部に打撃を加える。初速がかなりのものだったため、血に染まった爪を想像してしまったが、魔理沙が気づいたときには薙ぎ払いの攻撃は途中で向きを変えていた。
些細な事故で目くじらを立てる必要もない、と。ケルベロスが判断したに違いない。威圧感が溢れていた瞳も、どこか慈しみを感じさせるものに変貌していた。
「意外とフェミニストなのかしら?」
「どこか抜けてる感じが好みだったんじゃないか? 娘を見守る父親的感覚とか」
「母性ならぬ、親心を刺激されるタイプかもしれないわね。普段の行動は」
二人が冷静に状況を判断していく中で、頭の上に大きな前足を置かれたままの小悪魔の様子が変わる。
口を半開きにして、瞳を閉じた。その直後。
「……号泣だな」
「顔がぐしゃぐしゃね」
「素直に怖かったんでしょうね。あっちは悪戯のつもりだったんだろうけど」
ぺたんっと座り込んで顔を押さえ、人目をはばからずに泣く。それを目の前にしてケルベロスは狼狽し、せわしなく周囲を見渡し始める。
「めちゃくちゃ焦ってるな」
「あそこまで本気泣きすると思わなかったのね」
「ちょっとした遊び、甘噛みとか、そんなつもりだったか」
「私、あの口でそれをやられたら死後の世界に旅立てる自信があるわ」
「同感だぜ」
鼻の頭でもう一度突付いてみたり、前足をどかしてみたり。
魔方陣の中でケルベロスがなんとか泣き止ませようと努力をしているが、小悪魔は一向に泣き止まず……
結果、ケルベロスが選んだ行動は。
『あ、逃げた』
その場から消え去ることだった。
「ど……どぉですっ……ひっくっ……わた、私の、こう、しょう、じゅつっ」
「あ、うん、わかったから……ハンカチ持っとけ」
「ぁぃ……」
どこが交渉?
と、問い返したくなる衝動を我慢して、魔理沙は無事に戻ってきた小悪魔の頭をパチュリーと一緒に撫でてやった。
まだ涙が乾ききっていない顔を自分のハンカチで拭き、肩や頭を不定期に上下させ嗚咽に耐える姿はか弱い少女にしか見えない。
「さすが私の使い魔ね、涙を武器に使うのは良い事――、痛いじゃないの」
「お前もあんまり無茶させるなよ」
「あら、信頼していると受け取ってほしかったのだけれど」
額を指で弾かれて眉を潜めるパチュリーを気にせず、魔理沙は腰に手を当てて息を吐く。仁王立ちになって子供を叱り付けるように、少しだけ背伸びしてパチュリーを見下ろした。するとその横に、同じく腰に手を当てたレミリアが加わる。
「従者を信頼するのはいいが、あんなものを呼び出すなら事前に教えてくれないと」
「んー、でも、ちょっと弾幕ごっこしたかったなぁ、あのワンちゃんと一緒に」
「フラン。屋敷が壊れて、家の中でも傘が必要な生活がしたい?」
「大丈夫だよ、危なそうだったらぎゅっ、てするから」
「私を注意するより先に武闘派の妹をなんとかしなさいな」
「耳が痛いことを……」
横からぴょんっと飛び跳ねて話題に入ってきたフランドール。レミリアはその仕草を目で追い腕を組んだ。姉の視線を気にしながらも、それ以上面白そうな話がないと判断した少女は、テーブル近くの美鈴の側に戻り本を指差す。続きを読めということなんだろう。テーブルの本の間を掃除していた咲夜は読みかけの本を美鈴に手渡し、目配せをしてから文字通り姿を消す。新しいお菓子と、お茶を準備するために。
「可哀想だから小悪魔も多少は使えると評価してあげるけれど、咲夜には劣るわね。家事だけでなく弾幕戦でも大きな戦力だし、気が利くし」
「私はそれよりも不確定要素があった方が楽しめると思うわ。それにこの子に戦力がないと思っているようだけれど……」
「それが間違いだと?」
「いえ、今の状態で単騎として扱うのなら、他の妖怪に見劣りするのは確かよ」
うんうん、と。ハンカチで目を押さえる小悪魔が自ら肯定する。ただ、言葉の端に何かを含んでいるのは間違いない。
「つまり何かの要素があれば化けるということかしら?」
「ええ、そういうことよ。それを知りたいというのなら、見せてあげても良いわよ。切り札と言っても過言ではない。小悪魔の能力を」
切り札。
あ、なんかそれいい、かっこいい。
そう心の中でつぶやきながら、平静を装い。パチュリーに続きを促す。
つまり、そんなものがあるなら見せてみろと。
「ぐすっ、切り札……ですか?」
「そうよ、こぁできるわね」
涙目の小悪魔がポケットの中にハンカチを片付け、右腕を前に。
本を左脇に抱えたパチュリーも、体面に立ち、右腕を前に。
そして、がしっと腕を交差させ。
二つの声を高らかに、図書館の中に響かせた。
「パチュリー様、あれをやりますよ!」
「ええ、よくってよっ」
「はああああああああああ」
腕を離し、叫び声を上げながら飛び上がる小悪魔。
魔力を全身に付加し、淡い光に包まれたパチュリーが弧を描くように小悪魔を追いかけた。空中で停止した小悪魔は、両手を開き。闇色の魔力を放出させ主を待つ。その姿はまるで闇色の十字架に貼り付けられた、無力な悪魔。
その小悪魔の上に、5色の魔力を帯びたパチュリーが重なり。
「合体よ!」
「はい、パチュリー様!」
闇と、複雑な色の太陽。
その二つが融合し、新たな力を生み出す。
空中に誕生したいくつもの色彩の光塊は、まるで新しい生命の息吹そのもの。
「これが合体っ! ……おお、おおおおおおっ!」
「……お姉様、私、絶対嫌だからね」
なんだか目をキラキラさせるレミリアの反応で何かを察知したのか。フランドールは素早く釘を打つ。しかしレミリアの視線はもう、光と闇を放つ一点を見つめることに夢中。
そしてとうとう、その視界を閃光が覆い尽くし。
『これが、私達の最強の力よ!』
光の渦を切り裂くが如く。
一つの影が、図書館に降り立った。
その姿こそ――
――あれ? 何コレ?
それが、目の前で全てを見せつけられたレミリアの素直な感想だった。
「ふふふ、これこそ。人魔一体!」
「パチュリー、それ単なる“おんぶ”だよな?」
「悪魔の機動力、そして、魔法使いの魔力と攻撃力その二つが重なり合った今、私とこぁを止められるものなど皆無!」
「でも“おんぶ”だよな?」
「我らを阻む者なし! ですよ、パチュリー様!」
「…………必殺、ひざかっくん!」
「はぅあっ!?」
ぺたんっ。
会話の途中で素早く後ろに回り込んだ魔理沙は、しゃがむと同時にえいっと両手を小悪魔の膝の裏に押し込む。
すると、あっさり阻まれた小悪魔、パチュリーペアが、おんぶ状態のまま。真横に床へ倒れ込んでしまう。一度後ろに倒れそうなのを耐えたのは、忠誠心の賜物か。
「く、唯一の弱点である足を攻めるとは……魔法悪魔パチュクマンZがこうも簡単に……」
「よくそれで人のネーミングセンスを疑えたものね」
「っと、遊びはここまでにしておいて。起こしてくれる?」
「世話の係る魔法使いだな、本当に」
レミリアは二人の服を掴むと、吸血鬼の膂力で一気に持ち上げその場に立たせる。もちろん、おんぶ状態を解除させて。
「二人が一人になって頭から角が生えたりするのかと期待したのに、興醒めもいいところじゃない」
「期待に添えなくてもうしわけないのだけれど、でも、こぁと私を一組にすることで普段の何倍も戦略の幅が広がるのは間違いないわ」
「当然だ。一人と二人では取れる行動の種類が違う。組み合わせによって広がるのは特別でもなんでもない」
「そうかしら、なら、一度だけ。その特別を見せてあげるわ、レミィ。それと庭、少し借りるわよ」
「移動するの?」
「ええ、広い場所に行かないと証明しようがないもの」
「ふーん……」
パチュリー自ら外に出る発言をするのがなんだか新鮮で、レミリアは庭を使うことを快諾し皆を引き連れて図書館を出る。玄関まで出るとどこで話を聞いたのか、咲夜がレミリアとフランドール用の日傘を準備して待ちかまえていた。
さらに、テラスにあったはずの大きな傘付のテーブルや椅子まで庭に移動済みである。その上にはしっかりと新しいクッキーも。
「ふむ、太陽が溢れる悪い天気だけど、咲夜のおかげで楽しい時間が過ごせるよ」
「いえ、お嬢様のためでしたらこの程度のこと、ささ、お二人ともどうぞお席へ」
スカーレット姉妹がテーブルについた後、ちゃっかりと魔理沙も客人として席を確保。美鈴は紅茶入りのカップだけ持って門のところへ移動。仕事をしながら見学という形になった。フランドールは美鈴と離れて不機嫌そうにしているものの、それよりもパチュリーと小悪魔の方に興味が移っているようで、大人しく座っていた。
その全員の視線の先には、庭に立つパチュリー講師。
ご丁寧に伊達眼鏡まで準備済みである。
「さて、私の魔法はスペルカードなら即時発動するわけだけれど。本気で何かを破壊しようとした場合、必ず詠唱というものが付いてくる。それは世界に溢れる力の流れを一瞬だけ狂わせる行為に他ならず、魔力を乗せた声。“言霊”による自然界との会話で……」
「パチェ……お願いだから、簡潔に」
「……そうね、私は最高のコンディションでも魔法の半分の性能しか引き出せない。それが何故か、というところかしら」
「喘息による詠唱妨害と、干渉力の不足だろ? 散々愚痴を言ってるからな、覚えたぜ」
「そう、そこなのよ。私は完全な不老の魔法使いになることを急ぎすぎて、体調が不完全なときに体を定着させてしまった。おかげでどんな薬を使っても一時的にしか喘息を緩和できない。つまり、第一の問題点、不完全な詠唱状態で魔法を完成させなければいけない」
そこまで説明してから、パチュリーは小悪魔を側に寄せ背中を向かせると。ぽんっと小悪魔の右肩に自身の左手を乗せた。
『接続(コネクト)』
小悪魔の反応を確認せずに小さく呟いて、瞳を閉じる。
するとパチュリーの足下にあった小石や草が、彼女を中心として螺旋を描き、揺れ始める。
「本来、使い魔は魔法使いの詠唱補助として魔力のタンクの扱いになることもある。このとき、当然魔力の流れは使い魔から、主人への一方通行となるわけ。でも私の場合この行為はまったく意味をなさない。何せ、半分だけの威力で良いなら自分の魔力だけでなんとかなるのだから」
魔力を高めながら、会話を継続する。なんて離れ業をやってのけるのも、生まれながらにして魔法使いという種族だからか。
「でも、今の短い魔法は使い魔との魔力的な繋がりを作るモノだろう? パチェがさっき意味を成さないと言った」
「そうよ、繋がりを作るのは間違いない」
「魔法を連続で使うのなら多少意味はあるが……ふむ」
紅茶を傾け、難しい顔をするレミリアの横で。フランドールが「はいっ!」と挙手。まるで寺子屋に通う生徒のように元気に声を上げた。
「じゃあ、逆になっちゃえばいいのよね?」
「逆? パチェが魔力の供給係をするということ?」
「そうよ、それなら完璧!」
そう、単純な結論だ。
役割を交代すればいい。それなら魔法は問題なく発動する。
しかし――
「そうなると、魔法の主導権は使い魔に移ってしまうことになる。術式の展開速度から、使用するタイミングまで、すべて従者任せになるし。呪文のイメージを頭の中で思い浮かべることも従者の側でやらなくてはいけない。パチェが長年掛けて完成させた代物と同じ術のイメージを思考の中で作り出すなんて、できるはず……」
「そうだ、レミリア。普通ならできない。普通の魔法使いの私も断言するぜ。でもな、パチュリーはさっき、繋いだんだ。小悪魔と……」
「だから魔力の供給として繋いだところで、意味がな……っ! まさか、さっきの魔法は……」
レミリアは気付く。
やっと、違和感に気付く。
今まで、騒いでいた小悪魔が、パチュリーの横に立った瞬間。会話にまったく加わらなくなったことに。
さきほどからしきりに……、無言で腕を動かし続けていることに。
「ええ、私の使い魔との接続には、意識の強制的な搾取。悪い言い方をすると“乗っ取り”が作用するのよ。もちろん、解除すれば元に戻るけれど、外の世界では禁忌の術法ね」
その意識の占有により、小悪魔の思考の中に一時的にパチュリーの魔法理論を組み込み、完全な術式を再現する。
「そして詠唱は生きている者に聞こえなくても良いの。自然界に問いかけられればいい。だから声ではなく、悪魔の干渉力を活用して直接魔力を収束させることが可能なの」
パチュリーがもう一度小悪魔の肩を叩く。
たったそれだけで、小悪魔の周囲に紅い、紅い魔法陣が何重にも浮かび上がり。自然界を浸食し、明滅する度に力を無理矢理かき集めた。
パチュリーの周囲にわずかに渦巻いていた魔力は、可視できるほどに凝縮され。薄い紅色の、半透明な柱がパチュリーを包み込む。
おそらく、この柱こそが。
いまから放たれる一発の魔法のためだけに集められた。自然界の魔力。
「さて、準備はできたけれど。使っても良い?」
パチュリーと小悪魔、媒体と術式、という二つの歯車が噛み合った瞬間。
彼女の言う本当の“切り札”が発動する。
魔力を吸い尽くした魔法陣は、深紅に染まり。魔法陣の上で稲光に似た力の放出を繰り返す。発動の瞬間を今か今かと待ち望んでいるよう。
「ふふ、愚問ね。パチェ。小悪魔の有用性を証明することが目的ならもう十分だよ。使うべきではない。いざというときに戦局を変える力、それがこの館にあるとわかっただけで十分だ。それに少なからず小悪魔の体にも副作用があっては困る。優秀な部下を無駄な場面で傷つけることを望まないもの」
しかし、レミリアはそれを拒否した。
だって、パチュリーが微笑すら浮かべていなかったから。真剣な眼差しで見つめていたから、迷わず首を横に振る。
「そう、残念ね」
親友の拒絶の言葉。
それを受けたパチュリーは悔しそうな顔一つせず淡々と周囲に魔力を拡散させていき、小悪魔との接続を解除する瞬間に、少しだけ笑った。
「あ、あれ? わ、私は今まで何を?」
急に意識が戻って、あたふたとし始める小悪魔を前に、楽しそうに笑う。
「私の小さな使い魔は最高って証明してあげただけよ」
「え、ええええええええっ! あ、ありがとうございますっ! で、でも私そのときの記憶まったくないんですけどっ!」
「あら、困った。その年でもう物忘れが……」
「そ、そんなことありません。記憶力ばっちりですし!」
「じゃあ、昨日の朝食は?」
「……えっと、すくらんぶるえっぐとパン?」
「ハムトースト」
「あれ? じゃあ、すくらんぶるえっぐは……一昨日?」
「4日前よ」
「…………ち、違いますからね! いや、パチュリー様の顔を立てるためにわざと間違えただけで!」
「はいはい」
「あ、ちょっと、なんですその返事! 皆さんまでそんな笑って! だから違うんですってばぁ~~!」
小悪魔が必死で訂正を繰り返す中、穏やかに太陽は傾き。影を長くする。
その伸びた漆黒を見つめ、ふふ、とレミリアは楽しそうに口元を歪め。
「咲夜」
「はい、今日は年代物の赤ワインと、それに劣らない料理を振る舞ってご覧に入れます」
「感謝する」
名前を呼ぶだけで察してくれる。
自らの従者へと、ぶっきらぼうに礼を告げた。
なんとなく“ありがとう”を伝えたい気分だったから。
文句なしです。
素敵な物語をどうもありがとうございました。
(私がけろちゃんに萌えたのは秘密です)
このケルベロスはなかなかお茶目でよろしいですね。
ケルベロスは関西弁ですね、判ります。
そしてケロちゃんは友達のナイスガイな父さんに違いない。
しかし誤字
表拍子に魔法という単語→表表紙に魔法という単語