「にゃっ」
――えっ。
そう呟こうとしたのだけど、猫語になった。猫語なんてものがあるのかわからない。でも、どうにも人の言葉が話せない。手をひっくり返してみる。肉球発見。足元を見てみる。尻尾発見。顔に手を当ててみる。驚いた。顔の隅から隅まで毛むくじゃら。
「にゃにゃにゃ」
ねこだ。そう言おうと思った。やっぱり言えなかった。
起きたら猫になっていた。毒虫ではなくて、猫に。
いやいやいや待って、少し落ち着こう。冷静になろう。
私は確か古明地さとりという名前で、覚り妖怪で、あの子は心が読めるから困るのよね、と周りから煙たがられていたりしたはずで、地霊殿の主とかもやっていたはずで、猫ではない妹が一人いて、食べ物は辛くても甘くても大丈夫だけれど酸っぱいものは少し苦手で、要するに少なくとも猫ではなかった。今、起きるまで。
どうやら今はベッドの上にいるようだった。見渡せる限りの部屋の様子は、昨日眠りについた時と変わりないように思える。すとん、と飛び降りると一気に世界が低くなって吃驚した。視界の高さが一つ変わるだけで世界はここまで様子を変えてしまうらしい。そこそこ長生きはしてきたけれど、これはなかなか新鮮な驚きだ。
……夢にしては、少し、現実味がありすぎる。
頬でも引っ張ってみようかと思ったけれど私は猫で、手にぐっと力を入れてみると、にゅにゅにゅっと長い爪が出てきた。すごいわ、と思わず普通に感動してしまう。目の前のカーペットに爪を立ててみると、ざりざりっと爪の本数分だけの傷がついた。勢いでまずいことをしてしまった。私の部屋になんてことをするのだろう、私。
ひとまず外に出てみようと思ったのだけれど、困ったことに手なのか足なのかはともかく、ドアノブにまるで届かない。飛ぶこともできなかった。本格的にただの猫のようだ。
うーん、と背を伸ばしてみる。
「にゃーん」と鳴き声が伸びた。
その時ちょうどよく、すたすたと廊下を歩いてくる音がした。
「さとり様ー、起きてらっしゃいますかー?」
こんこんこん、と馴染み深いリズムで部屋がノックされる。お燐だった。
「さとり様?」
カチャカチャとドアノブを動かす音が数回して、そこでお燐は鍵のかかっていないことに気がついたらしい。そもそも部屋に訪ねてくる人などまずいないので、鍵をかけることなんて滅多にないのだけれど。
入りますよぅ、という控えめなお燐の声がして、ドアがゆっくりと開く。
「……あれ? いない?」
ベッドの上にも、机の前の椅子にも、私の姿は見つからないことだろう。だって私は今あなたの足下にいるのだもの、お燐。
「って、あれれ。猫? あんたどうやって入ったのさ?」
お燐がようやく私に気がつき、肩の力の抜けた気さくな足取りで近づいてくる。視線の低いせいなのだろうけれど、スカートから勢いよく露わになる脚が、太ももが、妙に艶めかしい。お燐がドロワーズなのかショーツなのかわからないけれど、伏せれば見えてしまいそうだ。
……自分のペットを相手に何を考えているのか。
ぐったりと頭を垂れた私の前足の間に手を入れて、お燐がひょいと顔の高さまで私を持ち上げる。
「こら。勝手にさとり様の部屋に入ったらだめだろ。それにお前さん、今日の仕事はどうしたんだい?」
怒るというほど厳しい言葉ではなく、柔らかに諫めるような声音でお燐は言う。私は答えて、にゃーにゃー鳴いてみた。実際は「お燐! 私よ! さとりなのよ私が!」と叫んだつもりだった。
「……おかしいね。お前さんが何を言ってるのか、さっぱりわからない」
あれ、あたい猫と話せたはずだよね? とお燐は自問自答する。
「お前さん、名前を教えてくれるかな」
「にゃにゃんにゃ、にゃにゃにゃ」
古明地さとり、と諦め気味に呟いた。お燐はやはり、私の猫としての言葉もわからないようだった。
「困ったねぇ……どこか特別な猫なんだろうかね。だからあんた、さとり様の部屋にいたのかい?」
そんなことは全然なく、自分の部屋にいただけだ。
ふと、お燐は私の瞳をじいっと猫目でのぞき込んだ。離してみたり、近づけてみたりして、どうやら観察しているらしい。よく見たら見覚えのない猫だなあ、こんな子が地霊殿にいたかしらん? というような表情をしている。
――そこで、あっ、と私も一つの事実に気がついた。
心を読むことが、できていない。
私としてはこれはかなり驚嘆したのだけれど、お燐がそれ以上に吃驚な呟きを放ったので、意識は自然とそちらに向いてしまった。
「なんだか、さとり様みたいだね、あんた。どこがどう、とは言えないんだけど……」
その通りなのよ! と私は鳴いた。
「まさかお前さんは、さとり様?」
なぁん、と撫で声を出して私は喜んだ。嗚呼、なんて素晴らしい子だろうかお燐は。主人が猫の姿になっているなんて想像できるはずもないことなのに、こんなに早く気がつくだなんて。
「……ま、んなわけないさね。朝起きたら猫でした、なんて、そんなギャグはさとり様には似合わないしねえ。同じくらいどこかに出かけるはずもないんだけど……そんなことがあっても、いいね」
きっと、朝から外に出かけたんだろう。最近は地上とも近くなったし、とお燐は速やかに納得してしまう。
おーりーんー、と内心で私は泣いた。
私が地上に行くことなんてまずあり得ないということを、お燐はしっかりとわかっているはずだ。そんなことをするはずもない。私が外へと出て行くには、地霊殿の扉は少し、重すぎる。地上と近くなろうと天界と近くなろうと、地霊殿の扉は開かない。この部屋で椅子に座って、机に向かって、舞い込んでくる雑務を片付けて、たまにペットたちの相手をして。
それが、私の毎日だ。
「でも、本当に似ているね」
お燐はきょろきょろと辺りを見回したかと思うと、私を思い切り抱き寄せて、顔を身体にうずめてくる。くすぐったくて仕方がないのだけれど、お燐の力の方がずっと強いので逃げることなんてできるはずもない。「さとり様の匂いがする……さてはお前さん、さとり様のベッドで寝てたね!」と今度は怒ったように私を離したが、しばらくして鼻をひくつかせながら頬を緩まし、赤く顔を染めて、「許す!」と言ってまた顔をうずめた。
「さとり様を、抱きしめてあげてるみたい……」
私のお腹に顔を寄せたまま言ったその呟きが、どうしてか淋しげな声に聞こえて、私は少しだけ「にゃん」と鳴いた。
○
「お燐?」
私を抱えたまま、お燐は廊下を歩いていた。話しかけてきたのはお燐と同じ火焔猫で、尾もお燐と同じように二本で、どうやら一仕事終えて休憩中といった様子だった。
「ありり、もしかしてあんた、もう仕事終わった?」
「もしかしなくても。疲れたわー、また増えてた気がする」
「最近は地上からの動物も来るからねえ。地上と繋がるようになって、噂でも広まったのかね」
「さとり様は人気者だから仕方ないわよ」
「あたいたちみたいなのには、ね」
その一言でどうにも気まずい雰囲気になってしまい、何とかならないものかと私は一鳴き二鳴きにゃーにゃー言ってみた。私のせいで、私を慕ってくれる彼女たちが落ち込むのは忍びない。
「あれ?」と彼女が私を見る。どうやら作戦成功のようだった。人差し指でくりくりと、私の眉間の辺りをかき混ぜてくる。まだ残っていたのね……。そんなことを呟いた。
「……お燐、まかせた!」
「あ、こら、ちょっと!」
笑い声を残して、彼女はお燐の後ろへと走り去ってゆく。やれやれといった具合にお燐は首を振り、ため息をついた。「いや、あいつも大雑把過ぎるだけで根は真面目なんですよ……って、なんであたいはあんたに説明してるんだろうね」
調子狂うなあ、と言ったようにお燐は尻尾をくるりと回す。
お燐が根は真面目というのならば、彼女は確かに根は真面目なのだろう。お燐は明るく、飼い主の贔屓目抜きに見てもとても気だてがいい。地霊殿のペットたちからも高く信頼されているようで、最近ではペットたちの総指令官といった感じだ。
実際こうして猫になってわかったが、お燐には妙に柔らかな雰囲気がある。抱かれているといつの間にやら安心してしまう。真っ先にお燐に発見されなかったなら、私は慣れない(慣れたくもない)猫姿でどうなっていたことだろう。……いや、別にどうってことはなく、地霊殿を歩いていた気もする。
外からの地霊殿の評判は、近付き難く、灼熱地獄跡に蓋をしている場所であり、なおかつ覚り妖怪の住む気味の悪いお屋敷、といったところだろう。けれど、中に入ればそこら中から猫やら烏やらの鳴き声が聞こえてくる、完膚無きまでのほんわか空間だ。殺伐としているのは、まあ、ご飯のときくらいだろう。動物たちのおやつの取り合いは非常に激しい。
「さあ着いた」
そういってお燐が到着したのは、地霊殿が自慢できる設備の一つである、地下温水から直接引いた室内温泉だ。簡単に言えば、お風呂である。
からからと引き戸を閉めて、脱衣所には私とお燐だけの気配が満ちる。お燐は私を床に降ろして、「ちょいと待っててね」と声をかけて自分の衣服に手をかける。
何の躊躇いもなくお燐は服を脱ぎ去って、肌着だけの姿を露わにする。胸は滑らかに微かな膨らみを帯びていて、そのままきゅっと締まった腰のくびれに流線が流れ着く。足はしなやかに、けれど躍動感があって、どこか猫的だと思わせる魅力に満ちている。肌は過度に白過ぎず、湯上がりの肌は薄らに朱を差して、桜の花のように色づくのだろうのだろうと思った。
結びを解かれた赤毛が絹の川のように背中に流れて、二本の尻尾がしなりと垂れている。
お燐は私が見とれている間にぱぱっと肌着も脱ぎ去って、私を再び胸に抱えた。奥深い柔らかさと温かさが直接伝わってくる。ちなみに、お燐はドロワーズではなく、黒いショーツを穿いていた。
以前見た時はドロワーズを穿いていたはずだから、その時々の都合に合わせて、ということなのかもしれない。お風呂なんて随分昔に一緒に入ったきりで、大人っぽくなったなあと感心してしまった。
「よーし、入ろうか」
お燐は桶に湯を張り、ゆっくりと私をそこに浸からせた。
そういえば今日は、人の姿をとることができない動物たちが、こんなふうにお風呂に入れてもらう日だったかもしれない。
「あんたと喋れたらいいんだけど……怖くないから暴れないでおくれよ」
「にゃっ」
ちょ、ちょっと待ってお燐――などという声が聞こえるはずもないようだった。お燐は緩やかな手つきで私の体に石鹸をつけて、わしゃわしゃと泡立てる。反抗しようにもどうにもならず、そのまま、為されるがままに全身をお燐の手が通り過ぎてゆく。まさぐられる。恥ずかしさを通り越して、どうしようもなくなってしまった。猫でなくて人型だったならば、顔が真っ赤になる程度では済まなかったかもしれない。
「お前さん、落ち着いてるねー。慣れてるのかい?」
まあ何にせよいい子だ、とお燐気持ちのよい笑顔で私の頭を撫でた。私は気恥ずかしさの宇宙で放心していただけだったけれど、小さな視界いっぱいにお燐の表情が飛び込んで、不覚にもドキリとしてしまった。心が読めないと、こうも不意の動作が印象的になってしまうらしい。
「って、うわー。あんた爪伸びてるね」
私の右前足を持ちながら、お燐はそんな声を上げる。「やっぱり最近来たのかねえ」
うちにいる子はみんな、カーペットとか傷つけないように爪は短いから、とお燐はどんどんと呟き続ける。きっとこの猫(私)を怯えさせることのないように、と気を配っているのだろう。
「柔らかい、いい尻尾だねえ」
「ふぅ、にゃあ」
「なんだい、弱いのかい、尻尾」
「にゃ、うにゃ、にゃあんっ」
「ほれほれ、ほれ」
お、り……んっ、と私が猫撫で声になったり途切れたり叫んだりしている内に、お燐は私を洗い終えたようだった。あと数秒で身も心も猫になってしまうところだった。
「お湯かけるよー」
小さな手桶に汲まれたお湯が体にかけられて、石鹸が流れ落ちていく。正直、高さのあるところから水を落とされるのはかなり怖かったが、驚くのもなんだか沽券に関わる。今、私はただの猫だけど。猫だからこそ誇り高くあるべきな気もする。
「はい、終わった終わった。好きにしていいよ」
お燐はそう言うと、足下に残った石鹸を綺麗に洗い流してから、湯船の方へと足を向けた。ちゃぽん、と小気味のよい音が響き渡る。波紋が静かに広がっていく。
「いやー、あたいも少し入りたくってね」
ぺたりぺたりと私が近づいていくと、決まり悪そうにお燐は舌を出した。なるほど、洗うだけならば服を脱ぐ必要はない。はじめからそのつもりだったらしい。
「……全く」と苦笑いしたつもりだったけれど、やはりにゃーとしかならない。にゃんともならない。
湯にうっすらと私の姿が映っている。本当に猫だ。毛色は普段の髪の色と変わらなかった。
「お前さんも来るかい?」
鳴き声をどう勘違いしたのか、お燐は湯の端に立っていた私を抱えて、湯船にまた浸かった。この上なく温かかったが、足がまるで底につきそうもなく、妙な恐ろしさがあった。この姿では果たして泳げるかもわからない。
結果的に、お燐の胸元へとひたすら抱き寄せられる形になってしまった。お燐も、私が怖がったことを察したらしかった。
「……ああ、ちょっと、懐かしいね」
天井を見つめるようにしてから、お燐は私へと視線を降ろす。
「まだ人間に化けれなかった頃のことだけれどね、私もあんたと同じようにお風呂に入れてもらったんだよ。……さとり様にね。どうだい。羨ましいだろ?」
本当に誇らしげな笑みを浮かべて、お燐は私との思い出を語る。私の記憶の中にもしっかりと、その情景は残っている。お燐が地霊殿にやってきたばかりの、そんな頃のことだった。
「今のあんたと同じように、私もさとり様に抱えてもらってさ。……動物の心がわかるだけで慕われているんじゃなくて、この人は本当に優しい人なんだな、だから好かれてるんだなって。あのとき、本当にそう思ったよ」
私もさとり様みたいになれてるかねえ、とお燐は湯気に投げるように、私に囁いた。
○
「それじゃあ、あたいは下に降りて怨霊の相手をしてこないといけないから。さとり様がどこにいるのかわからないし、あんたは好きに動いてるといいよ」
そんじゃね、と私に言い含めて、お燐は灼熱地獄跡へと赴いていった。
どこかに行こうという考えがあったわけではなく、平素通りに地霊殿の中を歩いていると、見慣れない後ろ姿を廊下の先に見つけた。日傘を差しているようだ。遠すぎてよく見えず、地霊殿が無駄に広すぎることを実感した。曲がっていった先へ追いかけても姿はなく、近くを歩き回っても見つからなかった。
そのまま姿を探しながら、適当にとことこと四足歩行で進んでいると、気がつくと自分の部屋の前に戻ってきてしまった。習慣が怖い。そして何だか情けなくもある。
もちろん、部屋のドアは閉まっている。
試しにカリカリと爪を出して引っかいてみたけれど、ドアは表情一つ変わらずびくともしない。それでもカリカリ引っかいた。簡単に諦めてはいけない――というのは建前で、爪を出すのは楽しい、という事実に気づいてしまった。うちの猫たちが爪を研ぎたがる気持ちがわかった気がする。
心だけ読んでも、わからないことはあるものだ。かりかり。
何度も何度も意味もなく繰り返していると「コラー!」という、大きな声が後ろからぶつけられた。
足音がなくて驚いてしまったが、飛んでいたならなるほど仕方がない。
「さとり様の部屋、傷つけちゃだめでしょ」
お空は宙に浮いたまま、ひょいと私を持ち上げる。家の中だというのに何故この子は飛んでいるのだろう。楽しいのだろうか。
猫の爪と同じく、これも、鳥になってみなければわからないのかもしれない。
「ううん?」まじまじとお空は見つめてくる。「もしかして、あなたがお燐の言ってた、さとり様っぽい猫?」
お燐に限って、そんな馬鹿げた特徴の教え方はするわけもない。一応今の私の外見を伝えた上で、最後に「さとり様っぽい」と付け加えたのだろう。そしてお空は見事に最後だけを覚えた。
お空もお燐と同じく、私を思い切り抱きしめた。「いやいや、確かに似てるね。何となく、だけど。……うにゅ、ちょっと恥ずかしい気がする」
そんなふうに恥ずかしがるのならやらなければいいのに。こちらだって全身を体温で包まれればドキドキする。
「あなた、名前は?」
またこれか。そう思いながらも私は「にゃにゃんにゃ、にゃにゃにゃ」とお燐の時と同じように、名乗った。
「うにゅんにゅ、うにゅにゅ?」
「にゃにゃんにゃ、にゃにゃにゃ」
「うにゅうにゅんにゅ、にゅにゅにゅにゅにゅ?」
「……にゃん」
「うにゅうにゅ」
こくこくと、お空は頷く。
なんだろう、これ。
「さっぱりわからないね!」
……飼い主である、私の責任なのかしら。
乗ってしまった私も悪いのだけど、この子は一体何をしたかったのだろう。お燐とは普段こんな会話でもしているのだろうか。
想像したら小さな額が痛くなってしまった。猫も楽じゃない。
「さて、行こっか」
何処へ? と私は思わず尋ねた。タイミングがよかったので今度はそのまま意味が通ったらしい。
「ん? 外だよ、外。……あれ? 何で外に行くんだっけ?」
ま、行けば思い出すよねー、とお空は私を頭の上に乗せて、ぱたぱたと地霊殿の中を駆け抜け、地霊殿を飛び出し、旧都の方へと向かって行く。
「困るよね、ほんとさ。こう忘れっぽいと。鳥頭鳥頭」
自虐を披露した挙げ句、そんなことを猫の私に相談されても、ぺしぺしと頭を叩いてやることくらいしかできない。ぺしぺし、べし。
「あたたた。大丈夫大丈夫、一応は詰まってるから、中身。お燐にはよく馬鹿だ馬鹿だと言われちゃうけどね。この間も言われたばっかり……いんや、違うか。この間のは、さとり様にも迷惑かけちゃったから、本当に『馬鹿』って言われたんだ」
お空の翼の羽ばたきが、どこか弱々しくなってしまった気がした。ばさばさ、ぱさり。
間欠泉騒ぎのことはもちろん私は叱ったけれど、お燐もしっかりとお空に言い含めていてくれたらしい。この二人は古くからの親友だ。それこそ地底が地獄ではなくなった、そんな頃からの友人の言葉である。私の言葉とは違う、確かな重さがこもるのだろう。
「あなたに聞いてもらうのも変だけどさ、でもあなた、さとり様みたいだし」
乗ってるだけじゃ暇でしょ、とお空は頭を左右に揺らす。「うにゃっ」と、何とか私はしがみついた。「あはは」とお空が笑うが、こっちは笑えたものではない。
「……こんな感じでさ、私は笑いをつくれればいいと思うのよ。私が馬鹿なのは私が一番わかってるからね。馬鹿には馬鹿なりに考えてることもあるんだけど、でもやっぱり馬鹿だから馬鹿なことしか思いつかなくて、馬鹿なことやらかして……迷惑かけて、でも、それでもやっぱり馬鹿には馬鹿なりに――ってよくわからなくなってきたわ」
ともかく、とお空は頷く。
「うちにはさとり様と、私にとってはお燐もそうだけど、頭がいい人は揃ってるんだから、私はそういう方向で頑張るべきではないと思ってるのよ。べきではないというか、してもどうなのかなっていうか、ね」
どうかな、とお空が私に尋ねる。己が今、猫であることが酷く口惜しい。
普段この子の心を読むときには、こんなにも深い考えを読みとることはできていなかった。この前の異変で叱った時のお空の頭は「ごめんなさい」で一杯で、私も早々に事態を終わらせてしまった。それにその時は、「誰がお空にこんな力を与えたのか」を探りだそうとするだけで必死だった。誰が私の可愛いペットにこんなことしてくれたのかこんちくしょう、という感じだったのだ。仕方がない。やんごとなき事情というやつだった。
「だからね、私はさとり様とかこいし様とかお燐とか、こう、誰でもそうなんだけれど誰でもいいってわけじゃなくて……ええっと、うん、そう。何か頼まれちゃうと、嬉しいのよ。うん。嬉しい。私馬鹿だけど一緒にいられるんだな、みたいなね。だからさとり様に火焔地獄跡の管理を頼まれた時なんてすごく嬉しかったし……これはうまく利用されただけの気もするけれど、さっきもあなたのことを、お燐は私に『頼む』って言っていったしさ。私がそう言われると、やってやろうじゃない! ってなるの、お燐はわかってるんだろうね」
そうでしょうね、と頷くつもりで私はにゃんと鳴いた。
逆に私は、お燐やお空に知らなかった面ばかり見せられて、なんだか複雑だった。二人が成長しているのだなとも思うし、私はなにをやってきたのだろうとも思うし、困ってしまう。二人を、今の二人を、私はどれくらい知っているのだろう。
心はいつでも読める。
でも、そういうことではない。
「お燐は私のことわかってくれるし、私もお燐のことはわかるつもりだけど……さとり様は、どうなんだろうね。心が読めるからわかることはできるけど、わかってくれる人はいるのかな、とか思っちゃうよ。同じ立場のはずのこいし様は、ちょっと、難しいしさ。……嗚呼、馬鹿には難しいよ」
それに悔しい、とお空は呟いた。
旧都の明かりが近くなっていた。最近は地上への道も開き、地底から地上へ、地上から地底へと来る者たちも少なくない。以前は地上の妖怪を踏み込ませないことが約束となっていたのだが、この前の間欠泉で地上に温泉ができて以来、その約束は半ば無効に近くなっていた。
地下と地上が入り交じり、旧都はここのところずっと夏祭りのような状態だ。言うまでもなく地霊殿は、ぽつりとその熱気からは取り残されている。地霊殿には私がいる。混ざりに行くわけにもいかないし、仕方がない。それに地底ではずっとこうだ。今さらという所もあるだろう。私自身、そう思う。
「この前に私がやっちゃった騒ぎも……ああ、そっか。あなたは知らないかな? 私、地上を征服しようとしたのよ」
あとちょっとだったんだけど、とお空は言う。
「もうやるつもりはないけど、もしあれが成功してたとして、ああして私が地上を征服したらさ、そしたらみんながさとり様のペットでしょ? そうなれば、すぐにわかるはずなのよ。さとり様は心を読んで……確かに時々それで意地悪してくるし、心なんて見えちゃうから目つきもちょっと冷めてるときもあるけれど、それでも、すごい優しいって。少なくとも今みたいに会う前から毛嫌いされて、それでさとり様の方から地霊殿の中にこもってるなんてことには、ならないはずだもの」
お空が飛行の速度を上げて、風を切る音が強く耳に入ってくる。
みんなさとり様のペット、というのはさすがに無理だし、嫌だけれど。
どう答えようかと考えようとも、私は猫で、猫にはせいぜい鳴くことしかできない。私はにゃーにゃー鳴いた。
ぺしりとお空の頭を叩いた。ははは、と笑い声が返ってきた。
もし猫でないときに言われたのなら、私はどう答えたのだろう。
○
「お空、こっちだこっち!」
旧都に入り、どうやら宴会の会場となっているらしい広場へと、私たちはたどり着いた。声をかけてきたのは星熊勇儀で、鬼で、地霊殿とはそれなりにつき合いのある妖怪だった。
「あれ、さとりのやつはどうしたんだい?」
「なんだか朝からいないみたい」
「いないみたいって……それは結構、大変なことなんじゃないのかい? もう探したのか?」
お空は私を頭の上から地面に降ろし、しばらく阿呆な表情でぽかんと首を傾げてから、わらわらわらと一気に焦りを表情に浮かばせた。
「た、大変かも!」
「え、あ、え? いや、そらそうだろうさね」
「私お燐のところに行ってくるから、えっと、その子のことお願い!」
お燐たいへーんたいへぇぇぇん、と声を木霊させながら、お空は地霊殿の方へと飛び去ってゆく。
ため息をつくより他なかった。
「……余計なこと、言っちまったかねえ」
全く以てその通りだ。腹が立ったので、不意にこちらへ伸ばしてきた手に猫ぱんちを食らわせる。避けられた。
「元気のいい奴だ。……ん?」
なんだかもう慣れてきてしまったけれど、勇儀も私の顔をのぞき込み、「さとりみたいな気がするな」と言った。みんなこれくらいまでは気づくのに、何故本気で疑ってくれないのか。
「お前さん、実はさとりだったりしないかい?」
「その通りですよ」と答えても、「にゃー、じゃわからないなあ、私には」と酔っぱらいは苦笑いする。まあお空が慌てたってことは違うんだろう、と勇儀は勝手に納得してしまう。当然ではあるけれど。
「今日はさとりのやつを呼ぶ予定だったんだけれど、困ったね。いや、別に宴会的には困らないんだが……あいつ、もしかして逃げたか」
逃げるもなにも、こんな宴会に呼ばれていた覚えもない。手を叩いて抗議したら「すまんすまん、お前さんとこの主人を悪く言うつもりはないんだ」と勇儀は素直に謝った。
「そもそも、言ったらどうせ来ないだろうから、お空に黙ったまま問答無用に空を飛んで引っ張ってこいと言ったんだしなあ」
うちの子に何をやらせようとしているのか。
「睨むなって、猫助。さとりに……そうだね、たまには一緒に酒を飲むのもいいと思わせたかっただけなんだが。ほら、お前も地獄の猫なら、さとりのやつが地底で一等嫌われているのは知っているだろう。地上で嫌われた連中の集まる地底で、あいつはさらに嫌われてるんだ。当人も自分からどんどん家の中に引きこもる。困ったもんだ。私は鬼だからね。楽しくないのは、困ったもんだ。おまけにお前のとこの主人は打たれ弱い。まあ、だからあいつも地霊殿になるべくいるんだろうけど」
酔っぱらいの大抵がそうであるように、すでにできあがっている勇儀はがんがんと口を開く。喋りまくる。それ自体は宴会も盛り上がるから構わないのだろうが、話題選びが頗る悪い。私の話なんてしているせいだろう。周りから相づちに乗ってくれる人もいない。猫に向けてひたすら独り言を言っているだけだ。
「お前の主人はね、嫌われ者には嫌われ者の哲学があるんです、なんてすかしたことを言ってたかなあ」
そんなこと言っただろうか。……言った気もする。
「妹がスペルカードで真似してるって、知ってるんだろうかな、あいつは」
え、それはどういうことかしらん。さすがに恥ずかしくなってきた。というか、私はこいしの前でも同じことを言ってしまったのだろうか。いや、そんなはずはない。そんなことを言うはずは、ないのだけれど。
「まあ、私が教えたんだが」
「にゃー!」
この鬼!
「あはは、力比べするかい、猫助?」
私は尻尾を畳んだ。誰がするかそんなことを。
「……あいつ一人、嫌われる必要はないんだけどねえ。ほら、見たことないかい? さとりのやつは酒を飲むとそりゃまあ可愛い酔い方をするだろう。あれはほとほと可愛い。下戸だからと控えてはいるんだが、それでも足りないくらいに下戸だ。いやあ、可愛い。私が鬼だからかもしれないが、いっそさらっていきたくなる。定期的にさとりのあの顔を補給しないと、地底にいる気がしないくらいさ」
いつも唐突にうちに酒を飲みにくると思ったら、そんなことを考えていたらしい。確かに私は酒に弱い。嗜むこと自体は嫌いではないのだけれど。
「あいつもこういう大勢のところで飲めば、私みたいな知り合いが増えると思うんだがね。誰が言ったか知らないが、なんたって可愛いことは正義だ。それに地底は広い。いや、広くなった。今はもう地上のやつだってやってくる。そりゃあ心を読まれるのは好かないが、それ以上に、あいつを気に入るやつもいるはずさ。酒の力ってもんさね。……一番の問題として、当人はまるでそんなことを思っていないみたいだが」
いやはやそれが一番の問題だ、と言って、ぐい飲みを一気にあおる。
勇儀のその思考は、すでに私は知っていた。しつこくしつこく地霊殿にやってきては、ああだこうだと理由をつけて、私たちを外に誘い出そうとする。そのときに心を読んだら、今言っていることと全く同じことを垂れ流しにしていた。鬼の種族が、というよりは、彼女本人の性根なのだろう。裏表がなさすぎる。そんなふうにしてくれて、はいそうですか、とついていけると、この鬼は思っているのだろうか。
……思っているのだろう。きっと。
「なあ、猫助。お前にだけ教えてやろう」
私の頭に手を乗せる。勇儀の手は大きくてごつごつとしていて、けれどなんだか心地よい。力強い、とでもいえばいいのだろうか。
「実はな、そうは言っても、私個人としては今のままでもいい気がしてるんだ。ほら、今のままなら、酔っぱらっても酔っぱらわずとも可愛いあいつを、私が独り占めしてられるだろう?」
唐突になんてことを言ってくれるのか、この鬼は。これが天然ジゴロとかいうものの見本なのだろうか。
「まあ、そういうわけにもいかないし、そういかせたくないから私も誘ってるんだけどね。……それに、地上には、この幻想郷ならば地底でも何処でも愛しまくって、幸せな楽園にしてやろう、とかなんとか考えている馬鹿強い妖怪もいるみたいだし、さとりもずっとは逃げられやしないだろ。地底と地上はもう、別々とは言えないからね。あいつは妹のことを考えすぎて自分を棚に上げてる節があるから、いい薬になるかもしれない」
自分自身をまずどうにかした方が、こいしのことも近道だとは思うんだけどねえ。
新しく注いだ酒の水面に視線を落とし、勇儀はぐい飲みをまた一気に飲み干して、私の頭から手をどけた。
○
勇儀が他の鬼に呼ばれた隙に旧都の宴会から抜け出し、お空が戻ってくるよりも先に姿をくらませて、私は地上へと続く道を歩いていた。勇儀の話に出てきた「地上」という言葉のお陰で、この間の騒ぎの時にやってきた紅白な巫女の姿を思い出したのだ。
異変――といえるのかは、わからないけれど。
私にとっては、結構な問題だ。解決できるかはともかく、訪ねて損をするわけでもない。
自分が今は飛ぶことができないということをすっかり忘れていた私は、地上と地底を結ぶ縦穴の出口でその穴を見上げ、ようやくその事実を思い出した。猫流ジャンプで飛び上がれるような深さではない。
未練がましく「にゃあ」と一つ鳴いたところで、私は珍しい顔と少しばかり知っている顔、そのどちらも発見した。私のいる場所よりも深く、旧都に近い地点で四人は向かい合っている。
縦穴から彼女が旧都へと侵入するのを防ぐように、三人が立って(一人は桶の中にいるため、もしかしたら座っているかもしれない)横に並んでいた。金髪が二人に、桶の中の彼女は緑の髪を結んでいる。
「通して、いただけないかしら? あなた、縦穴の案内役でしょう?」
「どうして通りたいのかしら」と緑の瞳でパルスィは彼女を睨む。「あなたには、この前の騒ぎの時の恨みもあるのだけど?」
「別に通さない理由があるわけじゃないんだけど、通す理由もないんだよね。というか、あなたは誰?」
「すきま妖怪の八雲紫、と言いますわ」
「なんだか、胡散臭い人ね」
ねー、とヤマメは隣に置かれた桶の中のキスメをうかがう。こくりこくりと、キスメは頷く。彼女はあまり話すことはない。気がつくと無言のまま頭上にいて、えへへと笑う。気がつかないとキスメが落ちてきて、こちらが気を失う――らしい。お燐から、そう聞いていた。
「まあ、私も、無理に通してもらう必要はないのですけれど」
そう言って八雲紫は――私を見た。鋭さと怪しさと危うさを見せつけるように一瞥して、何事もなかったかのように三人へ視線を戻す。腹の内に一つも二つも黒さを抱えていそうな雰囲気だ。妖怪の賢者とも言われているらしいが、心を読むことができたらどんな光景を見ることになったのだろうか。想像したくもない。
「それなら、幾つかお話を聞かせてもらっていいかしら」
「私たちに?」
「ええ、あなたたちに」
パルスィはやはり胡散臭そうに目を細めて、ヤマメとキスメは顔を見合わせ、同じように首を傾げる。姉妹のような仕草だ。「仲がよろしいのね」と八雲紫が言った。私も同じ事を思っていた。
「別にいいよ、話くらいなら」
「ちょっと、ヤマメ。もう少し考えなさいよ」
「いいのいいの、さっさと旧都の宴会に行きたいもの」
ねー、と二人でまた頷き合う。
「それでは」と八雲紫はパルスィを見る。「まず一つ」
「……なんで、私を見るのよ」
「あなた、隣で二人がいちゃついてるのを見て妬ましくはないの?」
嫉妬妖怪なのでしょう? と八雲紫はいやらしく笑う。
「喧嘩を売っているのかしら?」
「いえいえ、一人だけ仏頂面でいらっしゃること、と思っただけですわ」
「え、パルスィ妬ましいの?」
ぱるぱるー、と桶の中からも声が聞こえる。
「私が何でもかんでも妬むと思ったら大間違いよ? それとキスメ、その呼び方やめて」
「こらパルパル、キスメいじめると風邪にするわよ」
「……ふうん」どこからともなく取り出した扇子を口に当て、笑みを隠す。「ま、面白半分で聞いただけですわ、ぱるぱる」
この女……! とパルスィは妬むこともなく普通に怒っていた。それだけでも珍しいことらしく、ヤマメとキスメが「おおー」と声を揃えていた。
「冗談はこれくらいに、それでは質問を少しばかり」
「早くしてねー」
「ええ、一つだけですわ」
思案を少しも挟まず、八雲紫は言う。「あなたたちから見て、で構いませんわ。この地底は今、どういう場所になっているのかしら」
「……要領を得ないけれど、そんな事を聞いてどうするつもりなわけ?」
「先日の異変から地底と地上はずいぶん近くなりましたわ。折角近くなったのですもの、地上の風を、地下にも通そうかと。風通しはよい方がいいでしょう? それに、一応私は地上の重役ですから。地下のことも知っておかなければ、ね」
どうかしら? というふうに八雲紫は三人を見回して、ヤマメに視線を止めた。
「どうもこうも、悪くないところだと思うけど」
「悪くない」
「そう、悪くない。いいのかはわかんないけど、最近は地上の連中のお陰で活気もあるし。地底はいいとこよ。そう宣伝しといて、地上の重役さん」
八雲紫はまたそこで、私へと視線を投げた。今度は三人も気がついたらしい。猫、と誰かが呟く。
「地底のどこでも、全てが悪くなく、むしろいい場所なのかしら?」
その質問の矛先は、まるで私に向けているようにも思えた。私がさとりであることに気がついているようにすらみえる。あり得ない話ではあるけれど、そうだとしたらこの妖怪、質問に性格の悪さが見えすぎている。
「……地霊殿だけは、別。そう、言ってほしいのかしら?」
睨みつけたまま、パルスィは続ける。「あそこは確かに、地底でも違う場所だわ。こっちも向こうも、お互いに避け合っているしね」
「覚り妖怪がいるからかしら?」
「それもあるし、向こうからも交流しようとはしてこないし。あそこのお屋敷に乗り込んで行くのはせいぜい、どこぞの鬼くらいね。地霊殿から外に引っ張り出したいみたいだけど、来るのは猫と烏ばかりね」
「そう、主人は動かないのね」
「そうみたいよ」
「仲間はずれ、ってことかしら」
「さあ、ね。私もそうだけど」そっちの二人も、とパルスィはキスメとヤマメを指さす。「別に来ても構わないって連中もいるから……解釈の複雑な暗黙の了解よ。あっちの方から地霊殿の中にいるわけでもあるし、どうなのかしらね」
聞きたいのはそれだけ? とパルスィは片方の眉をつり上げて、八雲紫に暗に尋ね返す。ぱちん、と扇子の閉じられる音がした。
「ええ、もう十分」
――でしょう? と耳元で声が聞こえた気がして、私は後ろを振り返る。剥き出しになった地底の壁と地面が広がるばかりで、誰の姿もない。耳の後ろまでしっかりと顔洗いして、もう一度耳を澄ませる。何も聞こえない。
「あらあら、猫が顔洗いをするなんて。雨になるのかしら」
「にあっ!」
背後からいきなり八雲紫に持ち上げられ、驚きすぎて尻尾が固まるかと思ってしまった。
「あなたからも、お話を聞こうかしら」
「にゃー」
「うふふ、猫語は無理みたいだわ。残念ね」
本当に残念、と八雲紫は繰り返した。
○
地上の太陽は酷く眩しかった。
木陰の中に入り込み、高く、広く、大きくなった空を見上げる。地上に来ても私は猫で、覚りの力もなくて、来る途中でもう一度だけ試してみたけれど飛ぶこともできない。その代わりというように、走ってもほとんど疲れることはなかった。猫はすごい。
八雲紫は何を思ったのか私を抱えたまま地上に戻り、縦穴の入り口に私を放置した。「帰るときは飛び込めばいいわ」などと無茶な言葉を残し、薄気味悪いスキマの中に身体を埋没させて、消えた。
ともあれ、地上に来る術がなかったのだから、ちょうどよかったとも言えるのかもしれない。
博麗神社を目指して歩みを進めてから、目的地にたどり着くのにはそう時間はかからなかった。季節は梅雨と夏の境目といった具合で、私は日陰を選びながらとことこと気ままに歩いた。
気ままに歩く、ただそれだけのことが、私にとっては新鮮だった。出歩ければ妖精すら困惑した視線を向けるのが常だというのに、今は真下をくぐり抜けても気にされず、むしろ「猫だー」と絡んでこられるくらいだ。
道のりに時間がかからなかった、というよりは、私が時間の経過をあまり気にしていなかっただけなのかもしれない。
大きな赤い鳥居をくぐり、閑散とした境内を抜けて、神社の母屋の方へと足を向ける。つい玄関の方に行ってしまったけれど、猫では礼儀正しい訪問などということはできそうにない。ぴろりと尻尾を玄関に向けて、縁側へと移動した。
随分のんびりとした人だと聞いていたから、てっきり縁側辺りで涼んでいるのではと思ったけれど、霊夢の姿は影も見あたらなかった。縁側には麦茶と羊羹が放置されていて、地面には水の張った桶が置かれている。
涼んでいた、というのは確かなようだ。
ぴょんと軽く跳んで、家の中に入り込む。猫なりの身体の使い方にももう慣れた。
「にゃーん」と呼びかけてみても返事はない。
おそらくはどこかにいるだろう。床の木目に沿って廊下を進んで行くと、台所らしい場所に出た。水の気配がひんやりと漂っている。風の通る日陰に、縄で縛られた西瓜が氷水に浸けて冷やされていた。ぽんぽん叩いてみると、気持ちのいい音が肉球を通して返ってくる。みっちりと実が詰まっているようだった。
「こら」
「にぁっ」
急に背後から首根っこを捕まれた。鳴くほどびっくりした。
「どっから入ってきたんだか……どっからでも入れるか、うちは」
食べてないでしょうねえ、と疑ってから、私を掴み上げたまま歩いていく。私が来た道をそのまま逆走していて、縁側に戻るようだった。
「あっ」
霊夢は足を外に放り投げて座る。ぶら下がった足が、水に浸かる音がする。そして置かれていた羊羹を皿ごと持ち上げる。
「羊羹が少し減ってる……! ん、いや、あれ? 私食べたんだっけ?」そこでふいと私を見る。「あんた、もしかして」
濡れ衣にもほどがある。だいたい、猫がそんなものを食べると思っているのだろうか。……猫は食べるのだろうか、羊羹。
お燐は食べていた気がする、などと私が考えているうちに霊夢はどうでもよくなったらしく、羊羹と麦茶を交互に口に含んだ。これがまたこの巫女、心底幸せそうに羊羹を頬張るのだ。ぷるりとした一切れを細かく細かく味わって、至福そうに片手を頬に当てる。
見てるだけでお腹が空いてきた。よく考えれば起きてから何も食べておらず、くるるるる、と我が事ながら可愛らしくお腹が鳴ってしまった。猫もお腹が鳴るのだ。
「にあにあ」
「何よ」
「にゃーん」お燐の真似。
「……あげないわよ?」
「うにゅ」お空の真似。
左隣に座る私を、霊夢はなんだか呆れたような目つきで見下ろして、深く重くため息をついた。
「私もつくづく甘いわ……」
ひとかけらの羊羹が霊夢の右手に乗せられて、私の目の前にやってくる。「あんた、羊羹食べれるの?」私もそれは少し不安だったりする。「橙は食べてたみたいだけど」誰のことだかしらないが、猫のことらしい。
「まあ、ほら」
「にゃにゃん」こいしの真似……というには少し無理があった。
霊夢の手のひらに口を近づけて、ぺろりとその表面を舐めてみる。ぷりぷりと震えて、冷えていて、甘くて、おいしい。食べれそうだったので、一思いに丸ごと口に含んだ。
普段は餌を上げる側だというのに、今日はもらう側になってしまった。何だか猫であることに慣れてきてしまっていてまずいなと思うけれど、それよりこの羊羹、すごくおいしい。
「……紫のやつ、いい羊羹持ってきたのね」
霊夢は食べ終わり、ぼんやりとしばらく視線を外に向けた。私もつられて外を見やる。霊夢の近くに飛んできた蚊を、私は右手で叩き落とした。猫ぱんち。
「やるじゃない」
羊羹のお礼、というのはいささか無理があるだろうか。元の体に戻ったら、いつかきっと、お礼を持ってこよう。いや、お燐に持っていってもらえばいいだろうか。
元の体――と反芻して、私は自分がここに来た理由を今になって思い出した。餌付けされてどうする、猫の私。
霊夢の膝の上にぴょんと飛び乗り、にゃーにゃーうるさく喚いてみる。……今までの時点でただの野良猫のように思われていたみたいだから、あまり期待はしていなかった。
「何よ急に」
「にー」
「あんた、珍しく妖怪の猫じゃないわね。尻尾、一本だし」
一応、元というか正体は妖怪なのだけれど。
「野良にしてはきれいな毛並みね」
それはお燐がお風呂に入れてくれたお陰だろう。私の体からは微かな石鹸の匂いが香っている。もっとも猫の嗅覚での話だから、果たして霊夢に嗅げるかはわからない。
「……でも、何でこんなところに一匹でいるのかしら。人里からは結構離れてるし、この辺りで猫なんて全然見ないけど。村で仲間外れにでもされたの?」
「にゃぁ……」
「そんな切なげに鳴かんでも」
何となく鳴いてみただけだったのだけれど、そんなふうに聞こえてしまったらしい。
「ほら、ぐっと丸まんなさいな。ぐっと」
霊夢は私を膝の上に乗せて、ぎゅうぎゅうと両手で押し込むように丸めようとする。納得のいく形に私が丸くなり、尻尾をうねうねとさせると、霊夢は遠くの景色を見つめるような、驚くほど朧気な瞳を見せた。
「人間やら妖怪やらには肩入れしないことにしてるんだけど……あんたは普通の猫みたいだし。博麗の看板も休憩でいいでしょ」
普段はごくごく普通に覚り妖怪なのだけど、と精一杯の「にゃー」に言葉を込めてみる。霊夢は私の催促と勘違いしたらしくて、喉のあたりをわさわさと撫でてきた。ごろごろと鳴いてしまった。不覚。私の膝で丸まるお燐の気持ちがよくわかる。
いけない。眠ってしまいそうだ。
そういえば――と思いだしたのは数日前に猫の姿をとっていたお燐のことで、お燐はもちろん火焔猫で、牝猫で、赤と黒の混ざった毛並みで、尾は二股に分かれていた。見慣れた姿だ。その時のお燐は今の私と同じような姿で――ええい、ややこしい――私の膝の上に座っていた。私は言うまでもなく猫ではなくて、人の姿でお燐を抱えて撫でていた。
お燐は言っていた。心の中で。私はそれを読んで、お燐に返した。
「地上のあの巫女、さとり様もお会いになったんですか?」
「ええ、会ったわ」
「どうでしたか?」
「……どう、というのは?」
「なにか、思われませんでしたか?」
ふむ、と私が紅白の彼女の姿を思い出している間に、お燐はさらに私に語りかけた。
「似て、いませんか?」
「似てる?」
「あたいの勘違いではないと思うんです」
さとり様のことは誰よりもわかっているつもりですから、とお燐は思う。私は心を読めてしまうから、誰よりも(わかっていたい)という本音すらも見えてしまって、思わず撫でる手に力が入った。
「さとり様は、霊夢と一度会ってみるといいと思いますよ。この間のような喧嘩腰ではなくて」
「博麗の巫女と会う、ね」
「いえ」とお燐は尻尾をねりねり振った。
「霊夢と、です」
似ている。
そう、お燐は言った。
その意味がふと、今こうして(さとりではなく猫としてだけれど)霊夢と会って、お燐の伝えたかったことを少しだけ理解できたような気がした。
似ている、とまで言えるかはわからない。
ただ彼女は、博麗の巫女としての平等を貫いているのだろう。肩入れはしない。人にも、妖にも。その天秤を傾けることはなく、この世界の、幻想郷の、真ん中の一本の支柱であろうとする。
――彼女は人だけれど。
――それでも博麗の巫女だから。
博麗の巫女の存在は、地底にいても伝わってきていた。
これでも私は地霊殿の主だから、一応は地底であればそれなりの力は持っている。嫌われてもいる。というか、嫌われてしかいない。忌避されている。嫌悪していないのは奇特な数人ばかりで、地底の諸々の棘は私に向けられている。
霊夢がどのように思考して、どのように覚悟して、どのように諦観して、誰にも肩入れせず、一人であろうとするのかはわからない。一人であるから異変の際には誰とでも繋がり、終わればまた切れて神社に戻る。
勘違いされることが多いが、私が一人でいるのは、嫌われたからという理由だけではない。嫌われて、嫌われて、嫌われて――なお嫌われても、それでも心は閉じずに生きていられる。現に、今も生きている。生き続ける姿を見せ続けて、見られ続けたいと思うだけだ。願うだけだ。それをあの子がどう思っているのかは、閉ざされた心から読むことは、できないけれど。
霊夢のような大規模ではないが、私も一つの柱でありたいのかもしれない。柱というよりは、盾や、壁だろうか。たった二人でできる世界の、同じ能力を持っていた妹の為の壁になって、あの子の分まで、こいしの分まで、背負っていてしまいたい。
「あう……」
ふと見上げると、霊夢は私の体に手を当てたまま、こくりこくりと船を漕いでいた。うたた寝の海でどんなことを見ているのか、鼻がぴすぴすと鳴いて、眉が少しだけ寄っていた。苦しそうにも幸せそうにも見える、不思議な表情だ。
こうしてみる限り、ただの人間の、ただの少女にしか見えない。
博麗の巫女は妖怪を退治する者だ。妖怪からは好かれると同時に嫌われてもいるだろう。私も妖怪には嫌われている。
人から巫女がどう思われているのか、私の想像にすぎないが、そう好かれてはいないだろう。嫌われてもいないかもしれない。けれど、きっと、同じ人でもその距離は限りなく遠い。私も人間とは距離がある。そして確実に嫌われている。人の友なんてできた試しはない。
霊夢に直接聞けたならば、どのように思うかはわからない。
でも私は今は猫で、心も読めなくて、何だか、眠い。
ただ――似てはいないな、とそんなことは思った。似ているなどということは、私の口から言うことは許されない気がした。
「にー」
「うむぅ……」
霊夢は気持ちよさげに眠っていて、私も眠ろうと、そう思った。
○
地震で目が覚めた。
「まーりーさー?」
「落ち着け霊夢。私はまだ何もしてない。それでもって猫が痛そうだ」
「なに誤魔化してるのよ――って、そうだった」
どうやら地震ではなく、霊夢が跳び起きて(いたずらでも仕掛けようとしたのだろう)黒白の魔法使いを取って捕まえたために、私は霊夢の膝から転げ落ち、でんぐり返し半回転の状態になってしまったらしい。自分の尻尾がよく見える。猫の体はとても柔らかい。
「猫なんて飼ってたっけか?」
「飼ってないわよ。……私が居眠りしてる間に、膝の上に転がり込んできたんでしょ」
「そりゃまたなつきやすい猫だ」
どれ――と魔理沙が手を伸ばそうとしたところで、私も、霊夢も、魔理沙も、心底驚いた。
「お姉ちゃん!?」
魔理沙の後ろから声がして、全員が一気にそちらに視線を向ける。こいしは無意識で移動する。無意識で移動して、無意識を操って、自分から主張しない限り見つけられもしない。誰からも。
覚りの私でも、もちろんそうだ。今なんて驚きすぎて爪が出てしまった。にゅっとしまう。
「び……びっくりするぜ」
「あ、えと、ごめんなさい」
魔理沙のほぼ右後ろ、靴一つ分も離れていない場所にこいしは立っている。そんな至近距離から声が出たのだからそれは驚くだろう。
「お前、今までどこにいたんだ?」
「……私、こいし。さっき、あなたの箒の後ろに乗ってきたの?」
「疑問形で返されてもな」
「乗ってみたかったんだもの……って、それはあとで。そうじゃなくて、何でお姉ちゃんがそこにいるの?」
「お姉ちゃん?」と霊夢が首を傾げる。「それって、なんだっけ、えーっと……さとり? だっけ? のことかしら」
「そう!」
「いや、いないけど」と霊夢。
「うむ、いないな」と魔理沙。
「その猫のことよ!」とこいし。
霊夢と魔理沙の視線が同じタイミングで私に注がれて、ため息をつかれて、呆れたように首を横に振られて、霊夢は立ち上がってこいしの側に行き、魔理沙もその場で振り返る。
ぽん、ぽん、と二人の手がこいしの帽子の上に乗せられていた。
「今日は暑いものね。しかたないわ」
「ああ、しかたない。しかたないぜ」
「違うわよ!」駄々をこねるようにこいしは叫ぶ。「その猫、お姉ちゃんなのよ! ……え? でもなんでお姉ちゃん猫になってるの?」
「いや、本当なんだとしたら、それは私たちが聞きたいんだけどねえ」
私も聞きたい。
しかも二つ。
なんで私は猫になっているのか?
なんでこいしは私が猫になっていると、そんなにすぐにわかったのだろうか?
――はい、そこまで。
そんな声が、聞こえた。
○
聞こえる? と聞いてくる声が聞こえる。ややこしい。
「ここが夢だとわかるかしら。ここは夢よ。夢で、ユメで、ゆめで、夢。もうちょっと格好つけて幻想と書いてもいいけれど、少し野暮ったいからよしましょう」
あるいは現実でもいいのだけど、と彼女はまくし立てた。
「口の多い人ですね」
よくわからない空間だった。私は瞑目したまま彼女と対峙していて――嗚呼、だからよくわからないのか。目を瞑っていてわかるはずもない。けれど、彼女の姿はわかる。フリルのついた日傘を差して、身体の線を強調したドレスを身にまとっている。見えないはずなのに見える。夢、なのだろう。差している日傘は、地霊殿で見かけたものと同じだった。
いつぞやの間欠泉騒ぎの時にも、つい先程も、聞いた声。騒ぎの時は姿はなかった。
「……八雲、紫」
「いいところで夢は終わるもの、などという決まりがあるわけではないけれど。あまりにもあなたが勝手に霊夢のことを解釈してくれるものだから、意地悪してさしあげたくなってしまったわ」
「それはどうも、ご丁寧に」
「あら、随分と落ち着いてるのね」
「ええ、まあ」驚いていても、表に出さないことくらいはできる。「私を猫にしたのは、あなたですか?」
「その通り。あなたの妹さんにだけ、あなたをあなたと見えるようにしたのもね」
さっき不思議に思っていたでしょう? と八雲紫は首を傾げる。「妹だけにわかる。そこに変な希望を抱かせてしまったかしら?」
最悪な笑みだった。私は答えず、手を握った。手を、握れる。どうやら今は人の身体の感覚に戻っているようだ。
「まあ、それはともかく。逃げも隠れもしない、黒幕でございますわ」
小物であるよりは随分ましなのだろうが、それにしても不遜に過ぎる。
「いったい、どういった目的で?」
「さて、何でしょう?」
聞いているのはこっちだ。
「目的と言われても困るのだけれど……」本当に困ったように彼女は言う。けれどどこかその「困り」も、演技じみている。
「少し、自覚してもらおうと思っただけよ。あなたって弱虫でしょう、ってね。あなたの妹よりも、よっぽど」
「何故、ろくに面識もなかったあなたからそんなことを?」
「自分が嫌われて嫌われて嫌われて、なお嫌われて、そしてその嫌悪を自分だけが受けて、妹を保護しているつもりになって、二人の世界の柱で、盾で、壁でいたい? ……阿呆でございますの? 寝言は夢で言いなさい。あなたはただ弱いだけでしょう。ずうっと昔にその能力を通して知った、自分自身が覚りとして嫌われることの深さに怯えて、そして地霊殿にこもった。妹は同じ事で心を閉ざしたようだけれど、あなたも大して違ったものではないわ。おまけにその停滞の理由が、自分が嫌われることで妹への視線を和らげる? そんな言い回しで自分を正当化するなんて、卑怯にもほどがあるのではないかしら」
「よろしければ……黙って、くれませんか」
「自分の飼っているペットにすら常に心配させて。どんなふうに心配していたかは、今まで見てきた記憶があるから大丈夫よね?」
記憶、というのは今までの猫の私を指すのだろう。お燐とお空の姿が、閉じた瞼に映った。
「そんなあなたが霊夢と似ている? あのペットの猫ちゃんが本気でそんなことを言ったと思っているのかしら」
「似ているだなんて、私も思ってはいないわ」
「それは当たり前ですわ。わかっていなかったならば、ただのお馬鹿さん。あなただって、あの猫がどういうつもりでああ言ったのかくらいわかるでしょう? 違うのに、似てなんかいないのに、どうしてあなたの興味をそそるような言い方をしたのか。あの飲んべえな鬼だって、似たような心配をしていたじゃない」
「もう、黙って」
なんでそんなことを、この女が言うのか。
「一つ言っておくけれど、霊夢は嫌われてなんていないわ。あなたとは違う。似ているかもしれないけど、違うわ。覚りのあなたとだって、霊夢は訪ねてさえくれば普通に対応したはずよ? それがあの子の魅力ですもの。そしてそれが、あなたのペットの猫が望んだこと。……ただ、怖いだけでしょう、あなたは。今さらに他者と触れ合うことが。嫌なのでも気持ち悪いのでもなくて、ただ怖いだけでしょう?」
くつくつと彼女は笑った。そして私をねめつける。
「そんな姉を見て、妹が心を開くはずがないじゃない」
「黙れ!」
「黙らないわ」
「心の見えないあなたに……何がわかるというんです」
「わかりませんわ。けれど、今までの景色を見せたのは私。口ぐらい挟んでもいいでしょう」
妖怪どころか怨霊にさえ恐れられ、逃げられた。誰かと触れ合おうとも五分後には目の前から去っている。道を歩けば人混みが消える。賑やかな妖精も声を潜める。言葉を持たない動物たちだけが、彼女たちだけが、側へと集まってきた。
そんな世界だけに生きてきて、嫌にならないはずが、怖くならないはずがないじゃない。
「全く以て、その通り。それを、否定するつもりはないわ。……ねえ、ここまで説教臭くなってしまってなんだけれど、私は別にあなたを叱る心づもりだったわけではないのよ」
いまさらこの女は何を言っているのか。説教でなければ喧嘩だろうか。
「たぶん、あなたの取った策はそこまで踏み外れてはいなかったわ。――今までは、だけれど。今までの地底ならば、あなたが嫌われているだけで一つの形になっていた地底ならば、それでよかったかもしれないわ。ねえ、さっきの黒白の魔法使いに、あなたの妹がひっついて回ってどんな顔をみせているか、あなたは知っているのかしら?」
知るはずもない。私は地霊殿にばかりいたのだから。こいしがどこに行き、何をしているのかも。あまつさえ、いつ地霊殿から外に出ていくのかも、わかることはない。
「めっちゃ、笑ってますわよ」
急に柔らかく軽い口調になって、八雲紫はそう言った。
「風を通す、と言ったでしょう。魔理沙と、霊夢が、今まで蓋のされていた場所に風穴を開けた、といってもおかしくはないのでしょうね。でもその発端は、あなたのペット。あなたのペットが、完結してしまっていたあなたたちのところへ、ようやく鍵を持ってきてくれたのよ。そうは思えないかしら」
お空は地上を征服しようとした。――みんなさとり様のペットに。そんな、理由にしなくてもいい、理由のために。
「何をそのような都合のいいことをベラベラと」
「都合よくて結構。夢はご都合主義であるべきですわ」
ぱちん、と彼女は意味もなく扇子を出して開き、すぐに閉じた。
「……そう。そもそも、これはあなたが見せた夢なのでしょう」
今まで見てきたことは全て、この妖怪の言葉を借りるなら、夢で、ゆめで、ユメで、夢だ。現実などという文字は、どこにも顔を出す余地はない。
「夢を甘くみてはいけませんわ。今回私がいじったのはその境界。夢と現の、その境界を」
そこで私の目が見えるようになった。閉じている時にはいたくせに、開けると八雲紫の姿はどこにもなく、目の前には三つの、大きなスキマが存在していた。
「どの扉をくぐるのか、それはあなたが決めなさい。現を夢に、夢を現にするのかしないのか、ね」
「……あなた、どうしてこんな面倒なことをしているの?」
私やこいし、ましてやお燐やお空と関係があるようには思えない。いや、実際についこの間まで関係などまるでない。そうやって、私は生きてきた。
「それはそれは、決まっていますわ」大げさに驚いた声で、彼女は言った。「私は幻想郷を、心から愛していますもの。幻想郷のためならば、何でも、何処でも……ね?」
本当に胡散臭い、言葉だった。
それきり、八雲紫の声は聞こえなくなった。
この世界には私と、三つの扉であるスキマだけが残された。音もない。景色もない。身体も見えず、見えるのは三つの出口か、あるいは入口だった。
何となくではあるけれど、感覚でわかっていた。だから、八雲紫も大した説明をしなかったのだろう。この扉のどれを選んでも、扉自体には違いがあるわけではない。ただ、私の心の持ちようが試されているのだ。どうして、何故、そこを行くのか。ただ、それだけを試して、その結果が扉に、扉の先に繋がるだけなのだろう。
私は何一つ、迷うことはなかった。
――さとり様? と、一匹と一羽の声が聞こえて。
――お姉ちゃん? と、妹の声が聞こえたから。
早く、返事をしたくて。
私は一番近くにあった真正面の扉を、真っ直ぐに走り抜けた。
○
それでいいのよ。
そんな声が、聞こえた。
○
柔らかなものが頭の後ろに触れていた。瞼をゆっくりと押し上げる。額をくっつけるようにしてのぞき込んでいる、三人の顔が視界に飛び込んでくる。
地霊殿の一室だった。そのソファの上で、私はお燐に膝枕をされているらしい。
「さとり様があたいを撫でてくれていたんですけれど、私が一眠りして目を覚ますと今度はさとり様が眠っていて、それで今度はあたいが膝枕を」
普段の恩返しとまではいきませんけど、と少し照れたように、私の問いにお燐は答えてくれた。
「私のこと、呼んだかしら?」
「お姉ちゃんが呼んだんでしょう?」
寝言で、とこいしが言うと、くすくす笑ってお燐とお空も頷いた。
「変な夢でも見てたの?」
その言葉で私はお燐の膝から跳ね起きた。夢。私の豹変ぶりに目を丸くする三人をおいて、部屋を出て廊下を走り、私の部屋へとたどり着く。部屋に入り、すぐのところで膝を床につけた。
右手の指先で、その傷跡をなぞる。
私が――猫の私が、つけた傷跡が確かにあった。
「ど、どうしたんですかさとり様?」
空を飛んできたらしいお空が一番に、続いてお燐とこいしが並んでお空の翼をくぐり抜けて、同じようにどうしたのか、と尋ねてくる。
「お姉ちゃん、そんなになるくらい変な夢を見たの?」
「夢は見たけれど」
見た、けれど。「決して、変なものではなかったわ」
「さ、さとり様?」
「……どうかしたの、お燐?」
そこまで変なことを言っただろうか。
「お姉ちゃんが、そんな笑顔するから。……驚いただけだよ」
そう言ったこいしの声も驚きに満ちていて、お燐とお空もどうやら同じ反応のようだった。
笑顔一つでこの反応だ。……どうやら本当に、私はこの三人へ、数え切れないほどの不安を与えていたらしい。
「ごめんなさい」
「どうして、謝るの?」
その問いには答えなかった。「本当、変なお姉ちゃん」とこいしは呟いてから、覚悟するように私の前へ一歩踏み出した。私も立ち上がって、そんなこいしとちょうどよく対峙する。
「あの、お姉ちゃん。ちょっと、お願いがあるんだけれど」
「お願い?」
「さとり様、あたいたちも一緒のお願いなんです。聞いて、いただけませんか」
「え、ええ。聞かないわけはないけれど」
三人はそれぞれを一度見あってから、こいしが口を開いた。
「地霊殿で、宴会をしようと思うの」
「宴会?」
「え、えと、パーティみたいなものでいいと思うんだけど。その、この間の黒白の魔法使いがね、やるならみんなを呼んでくるぜ、っていうから。ほ、ほら、うちなら広いし、料理できる場所もあるから便利でしょ」
「地上への、この間の騒ぎのお詫びにもなると思うんです。どうでしょうか、さとり様」
二人の言葉にうにゅうにゅ、うにゅうにゅとお空は頷いて、三人は同じような不安げな瞳を私に向けた。
「さとり様は、やっぱり、嫌ですか?」
そう、お空が消え入るような声で言った。いつもの元気ばかりに満ちた声が嘘のようだ。
……困った。
どうしよう。
この三人が可愛くて、愛しくて、仕方がない。
――まだ心配させるのかしら? とあの妖怪の声が聞こえてくるようだった。
もう、そんなわけがない。そんなことを選んでいられる、わけがない。この三人を、前にして。どの口が、どの心が、そんなことを選んでいられるだろう。
私はちょいちょいっと三人を手招きした。怪訝そうにしながら近づいてきた三人を、本当に近くの近くまで近づけて、両腕を目一杯に広げて、私は三人をまとめて思い切り抱きしめた。
猫の時の私が、そうされたように。
決して私の身体は大きくないけれど、そんなことは言ってられない。精一杯、最大限で、抱きしめた。
「さ、さとり様?」
「うにゅ?」
「お姉ちゃん?」
耳元で聞こえる三人の声に、やっと、私は答える。やっと、答えてあげられる。
「やりましょう。精一杯、盛大にやってやりましょう。地底はこんなに良いところだと思わせてやれるくらいの、気前のいい宴会をやりましょう。勇儀にも頼んで、地底の方からももちろん人を呼びましょう」
それから、それから、それから、と考えているうちに、なんだ考えが回らなくなってしまって、声が出なくなって、それならばせめてと三人を力一杯にまた引き寄せた。何かまだ言うことがあって、言わなくてはいけなくて。三人の体温が、とても温かい。
「お、お姉ちゃん泣いてるの? どうしたの?」
「ど、どうしたんですか、さとり様?」
「さとり様!? お燐、爪立ててない!?」
「そ、そんなことするもんか! し、してないよね、あたい?」
そうじゃないのよ、何でもないのよ、と言って誤魔化すのはとてもできそうになくて、かといってごめんなさいと謝るのも違う気がして、私は何とか「ありがとう」と、かすれかすれだったけれど振り絞って言うことができた。勇儀にだって、そう言わなければいけない。酔った顔ぐらい幾らでも見せてあげないといけない。
「頑張りましょう」という私の言葉に、三人の笑顔が返ってくる。
扉を開けよう。開けてやろう。
重く、重くしてきた、地霊殿の扉を。そうすれば、また、風が入ってくる。
全てはきっと、それからでいいはずだ。
古明地姉妹、ペット達の家族愛も綺麗でした。
確かに霊夢とさとりは似て非なるトコロがあるのかもしれませんね
久々に新鮮な気持ちで古明地ものを読むことができました。
いろんなキャラの本人を前にしては、考えることもしないような奥底にある本心を
見ることができてよかったです。さとりん愛されてるなぁ。
地底に新たなる風が入ってくると信じて満点入れちゃう。
紫は性格悪いな!
描写の一つ一つが丁寧で、いつも以上に読み耽ってしまいました。
地底にはきっと良い風が吹くことになりそうです。
良い地霊殿でした。
話はありがちだけど、ここが良いと思った。
みんな非常にらしくていいですね
紫の性格の悪さもいいですね
誤字報告
全く持って→全くを以てor全く以て
紫さんかっこいい・・・